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目が見えなくなって見えたこと

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Academic year: 2021

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発刊にあたって  2012年は、視覚障害者を支援する社会福祉法人日本ライトハウスの創業90周年にあたり ます。私にとっても、17歳で失明してから暦がひとめぐりした60年目、5月には喜寿を迎 えた節目の年です。そこで、これを機に、日頃書きためた随想、対談、取材記事などをまと めて、随筆集を出版しようと思いました。  1951年、山口県立下関東高等学校(現豊浦高校)の1年生のとき、私は結核性眼底出血 のために九州大学医学部附属病院の眼科に入院し、10ヵ月半にわたり入院治療を受けまし た。  翌年の春休み、隣の病室の藤井健児さんが点字の読み書きをしていることを知りました。 藤井さんは東京教育大学附属盲学校の高等部専攻科の学生で、夜は早稲田大学の聴講生をし ていました。私は好奇心から藤井さんに点字を習い、5月から点字で日記をつけはじめまし た。けれど強度の弱視のため、手指ではもとより、目で見て読み返すこともできませんでし た。  その年の7月、完全に見えなくなり、秋から盲学校に入ろうと退院しました。ところがそ の直後、どこに潜んでいたのかわからない結核菌の毒素に冒され、2年間、死と隣り合わせ た寝たきりの自宅療養がつづきました。  快復すると、1954年秋から山口県立盲学校の中学3年の聴講生として、日本語以外の英 語や理数科の点字を学びました。寄宿舎生活にも自信ができたので、あこがれの東京教育大 学附属盲学校の理療科本科に4年遅れで入学。本科3年を終えて専攻科のとき、夜は盲学校 の寄宿舎から早稲田の第2文学部に通い、3年からは早稲田の近くに下宿して、昼は多くの ボランティアに恵まれ、早稲田マンとしての生活を満喫しました。  卒業後、新設の都立久我山盲学校に勤め、10年後に新設の国立特殊教育総合研究所に移 りました。1999年に定年退職したのち、昔なじみの多い日本ライトハウスの理事長を引き 受けました。また、2000年から浜松の静岡文化芸術大学の創立に参加し、4年間、ライト ハウスの職と兼務しました。  入院していた高校生のとき、私は人生の恩師ともいうべきふたりの療友、松浦茂晴さんと 高畠俊久さんに出会いました。目的を決めてひたむきに努力を重ねる松浦さんと、何かのた めではなく、やることをただ淡々と楽しむ高畠さん。おふたりの姿が私の中でひとつに合わ さり、その後の人生の指針となりました。目標を立て、それを達成する過程を楽しもう。学 問とは、「楽問」と書く「楽しむもん」なんだ、と考えたのです。  60年間、この生き方をつらぬき、多くの課題と取り組むなかで、さまざまなことが見え てきました。  本書の1章では、青年時代からの歩みをふりかえってたどりました。一貫しているのは、 問題の本質を見通して目標を決め、その達成過程を仲間とともに楽しむという姿勢です。2 章では、バリアフリー問題や視覚障害者の安全歩行、点字委員会の活動、原子力問題などに 触れ、3章では、日本ライトハウスについてくわしく紹介しました。  私の目標達成、課題解決のプロセスは、これまでも、またこれからも、つねに「楽しむも ん」です。本書を読まれて、そのことを感じていただけましたら幸いです。 日本ライトハウス名誉研究員(前理事長) 木塚泰弘 第1章 目標達成を楽しむ生き方

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第1節 死と隣り合わせて再出発  今までに、死と隣り合わせたことが2度ありました。  1度目は、幼いころから育った満州で経験した敗戦直後の1年間です。当時、私は国民学 校4年生。内戦のさなかの中国で、常に死の危険にさらされた生活を送りました。  2度目は、結核に冒されて自宅療養を強いられた高校生のときです。死を意識しながら過 ごした2年間でしたが、学ぶことの楽しさを知った貴重な日々でもありました。 1.引き揚げ、食料獲得、価値観と意識の改革 敗戦から引き揚げまで――肌で感じた戦争の恐怖  1945(昭和20)年8月、満州国の首都新京(現吉林省長春)で敗戦を迎えました。ソ連 の占領下の中国は内戦の混乱状態にあり、そこで過ごした1年間は、まさに生と死が紙一重 の毎日でした。  ガラス窓に立てかけた2枚の畳のすきまから外をのぞくと、鉄兜に木の枝を取りつけ、生 け垣にそって匍匐(ほふく)前進する兵士たちの姿が見えました。道路に落ちていた手榴弾 を手に戦争ごっこをしていた友だちが亡くなったり、べつの友だちは足を吹き飛ばされたり しました。私自身も、ドアを開けて外に飛び出したとたんに小銃弾が飛んできて、体をかす めたことがありました。ドアをぶち抜いて屋内のガラスを割った弾のあとを見たときは、1 秒の差で命びろいしたのだとわかり、冷や汗をかきました。こうした戦いのあとには、兵士 の死体が累々と横たわっていました。また、町を歩いていた日本人の若い男たちがソ連兵に 捕らえられ、シベリアに送られたりすることも日常茶飯事でした。  こうした暮らしが続いて1年後の1946年8月、両親と私と弟の一家4人は、近所の人た ちとともに日本に引き揚げることになりました。蒋介石軍が南満州鉄道をおさえている間 に、大豆を運ぶ無蓋貨車で錦州(きんしゅう)の兵舎まで行き、葫蘆島(ころとう)からア メリカの貨物船で日本へ向かったのです。黄海はひどいしけで、私たちは一晩中、船底をこ ろがされました。  翌朝、甲板に出ると、青空と青い海、そして五島列島の島の緑と白い燈台が、あざやかに 目にとびこんできました。その故国の美しさに、「国破れて山河あり」という言葉とともに 喜びがわきおこり、船の横を甲板より高く飛んで追いぬいていく飛び魚のように心が躍りま した。  長崎県の佐世保から南風崎(はえのさき)の収容所に向かい、検疫のために1週間のあい だ毎日、身体や衣服、荷物にまでDDTをかけられました。そのあと、私たち家族はめいめ いリュックサックひとつを背負い、貨車で福岡県糸島郡(現糸島市志摩小富士)の祖母の家 にもどりました。弁天橋の上から松浦半島の上に落ちる黄色い夕日を見たとき、“赤い夕日 の満州”と別れて1年ぶりにやっと生きて帰ってきたことをしみじみと実感したものです。  生きて帰ったとはいえ配給は乏しく、弁当はサツマイモばかり。親戚の家の田植えや稲刈 りを手伝って「銀シャリ(白米飯)」を食べるのが楽しみでした。九州大学農学部の講師を していた父は研究室に泊まりこんでいて、週末にしかもどってきません。そこで私が食料調 達係になり、シジミ、アサリ、ハマグリ、カキといった貝類や、ヤマモモやマテジイ(マテ バシイのこと)の実を集めてきました。 価値観の転換を経て、のびのびと過ごした中学時代

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 引き揚げの翌年の1947(昭和22)年、小富士小学校(現糸島市立引津小学校)6年生の とき、『新しい憲法 明るい生活』と『民主主義』という小冊子が各学校に配布されまし た。日本国憲法の施行とともに日本は民主主義国家となり、それまでとは全くちがう道を進 みはじめたのです。予科練、すなわち海軍の少年航空兵にあこがれていた軍国少年の価値観 と意識も、がらりと変わりました。  6年生は2クラス120人、はじめての男女共学で、私たちは男女を「くん」と「さん」で 呼び分け、愛称では男女とも名前に「しゃん」をつけて呼ぶことにしました。 (この学年は絆が強く、後年、皆で集まって旧交を温めました。私が妻と中学生になった息 子を連れて故郷の志摩小富士を訪ねたのをきっかけに、毎年、同窓会を開くことになったの です。集落ごとに交代で幹事を受け持ち、1泊のバス旅行に出かけたりしました。私もほと んど欠かさず参加していましたが、年とともに亡くなる人が増えて生存者が半数になり、体 調をくずして出られない人も出てきました。そこで、皆が喜寿を迎える2012年の3月を境 に、同窓会はひとまず最後とすることになりました。 「木塚しゃん、小富士に帰ってこんね」と、同期生たちは誘ってくれます。「最初は目が見 えんようになって気の毒かと思っていたばって、今はあんたがいちばん元気で若か。帰って きて、俺らを元気づけてほしかとよ」という友人もいます。)  1948年、小富士小学校を卒業して志摩中学校に入学しました。中学時代は、食料の調達 係として奮闘するほか、山頂の村有林の杉の下枝を刈り、自分で作ったそりにのせて運んで 薪集めもしました。大変でしたが、こういった苦労もふくめて、やりたいことを全力でやる ことのできた幸せな時期でもありました。  片道5キロの道を走って通学し、さらに自主トレのため砂浜を走ったり、お宮の石段をか けて上り下りしたりして、私は毎日、合計20キロは走っていました。足腰をきたえたおか げか、平和台から糸島までのマラソンコースを6人で走る駅伝では、折り返し地点の長い上 り坂の区間を割り当てられました。地区大会では、この上り坂にくわえて吹雪の向かい風と いうきびしい条件でしたが、奮闘の甲斐あって区間賞をいただき、県大会でも1位でバトン をわたしました。  県大会の3週間後に高校入試のためのアチーブメントテスト(英語を除く8教科)があっ たので、帰りに参考書を買って帰り、次の日からは自転車通学にして、夜遅くまで詰めこみ 勉強をしました。試験の結果は満点には1点足りなかったものの、糸島郡で1位でした。  ところが、試験の翌日から高熱が出て、ツベルクリン反応は陽転し、レントゲンで肺門に 影が写りました。医者からは、高校に入ったら運動は体育の授業程度にとどめ、運動部での 活動はやめるようにといわれました。肺門リンパ腺結核でした。 2.闘病と失明――療友から生き方を学ぶ 高校1年の充実した半年間、そして目の不調  1951(昭和26)年4月、父の転勤に伴い、勤務先の山口大学農学部のある下関に転居 し、山口県立下関東高等学校(現豊浦高校)に入学しました。  新入生歓迎体育祭で1500mを走り、2年生の模範選手も抜いて1位になると、毎日のよ うに陸上部の勧誘を受けました。けれども毎回、運動部には入れない理由を話してことわり ました。折しも4月のボストンマラソンで広島県出身の田中茂樹選手が優勝し、戦後初の国 際舞台で日本が勝利した快挙に国中がわいていましたが、決意はゆらぎませんでした。  ある日、長府の功山寺にある高杉晋作回天義挙の記念碑の前で、掲示板に張り出された5

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月5日制定の「児童憲章」の条文を手帳に書きとっていました。写し終えてふと横を見ると 「日本美術史講座」のお知らせがあります。さっそく申し込み、毎週日曜日の午後2時間、 7月まで10回通いました。出席者は、郷土史家や美術の先生方で、高校生は私ひとり。講 師は奈良の博物館長だった方で、スライドを見せながらのていねいな解説は興味深く、充実 した時間でした。特に寺院や彫刻に見とれ、薬師如来や法隆寺の玉虫の厨子、唐招提寺の瓦 屋根などは目に焼きつきました。講義は毎回、くわしい内容だったため、時間が足りずに鎌 倉時代の仏像彫刻までで終了となりましたが、とても満足しました。  学校では、毎月1回、実力テストが行われ、学年で30位までの結果が後ろの黒板に張り 出されました。私はいつも数学だけは1位か2位、けれど、英語はもとより国語も張り出さ れたことはありません。英文法はまだいいのですが、英文解釈は難行苦行でした。英文解釈 の先生が、あるとき、1レッスン分を全文暗記してくるようにいい、次の授業でそれを紙に 書かせました。私は未明までかかってやっと半分暗記し、わら半紙1枚に書いたのですが、 先生は、半分以下は点にならない、採点はそれ以上のみで行うというのです。生まれてはじ めて零点をつけられ、くやしさのあまり両手をにぎってぶるぶるとふるえながら、夏休みに 最初からやり直そうと心に決めました。  1学期の期末試験2日目の朝のこと、頭はすっきりしているのにふすまにぶつかり、右目 が真っ赤になって見えないことに気づきました。試験が終わって眼科に行くと、眼底出血だ から安静にしていなさいとのこと。けれど、翌日は試験の最終日だったので、眼帯をかけて 学校へ行きました。国語の答案を提出前に見直すと、縦に書いたはずの文字がななめになっ ていました。帰りに眼科に立ち寄ると、試験より大変な病気なのだから安静にしていなさ い、としかられました。  2週間もすると、血液が吸収されて視力は0.8程度までもどりました。けれど、片目でピ ンポンをして、いつも勝っている友だちに負けてしまい、くやしかったのを覚えています。 入院と、その後の人生をささえる点字との出合い  夏休みが終わると、症状を重くみた父が私を九州大学医学部附属病院の眼科に連れていき ました。最初に出血した右目の視野がせまくなったり、視力が変化したりし、最初なんでも なかった左目も、愛用の小型コンパスの磁針が黄色くかすれてほとんど見えないほどになっ てきたのです。  診察の結果、結核性の眼底出血と診断され、即刻入院となりましたが、私はこれでしばら く英語をしないですむと、内心手をたたいて喜んでいました。  病院には、入院期間が数ヵ月という人や、2、3年も治療中の人など、さまざまな病状の 人たちがいましたが、自分はすぐに退院できるだろうと思っていました。気をまぎらすため に落語や漫才を覚え、昼は眠って、夕食後に病室をいくつかまわって演じてみせたものです から、「梟のふくちゃん」というあだなで呼ばれ、「落語家になったら」とまじめに勧める 人までいました。  同室の国鉄職員、徳永孝さんはギターが上手だったので、秋から冬にかけて陽だまりに数 人が集まっては、ギターを伴奏に歌をうたっていました。おかげで私も、戦前から1951年 までの歌謡曲をほとんど覚えてしまいました。  徳永さんは退院する前の夜、ベッドに並んで寝ころがっていると、しみじみとこう語られ ました。「幸い退院できるけれど、もし見えなくなったら、妻や子を養うために、入院中に 点字を覚え、盲学校ではり・きゅう・あんまを勉強しようと思っていた」  それを聞いて、自分には妻や子はいないけれど、父母兄弟を困らせるといけないから、き

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っと同じことをするだろうと思いました。あとから考えると、この暗示は私にとって、予防 注射のようなものになったのだと思います。  年が明けて1952年の春休み、東京教育大附属盲学校(以後、附属盲)の高等部専攻科の 学生、藤井健児さんが、故郷福岡の九大病院で手術を受けるため、隣の病室に入院してきま した。  点字を使っている方だと聞いて病室をたずねた私は、藤井さんが37マスの点字板にはさ んだ紙に点字を打ち、その紙をはずして読む様子を近くで見せてもらいました。好奇心か ら、さっそく点字の読み書きを教えてもらい、1週間で自分でも書けるようになって喜びま した。  藤井さんには、附属盲の勉強の様子や、寄宿舎の生活などについての話もうかがいまし た。いちばん興味深かったのは、昼は専攻科で学び、夜は近くの早稲田大学の聴講生をして いることでした。ほかにも何人か聴講生がいて、途中で学部に編入した人もいるということ でした。  藤井さんが退院するとき、37マスの点字板セットと、点字用紙100枚の購入を依頼しま した。4月末に荷物が届くと、B5判の白い点字用紙を半分に切って、5月1日から日記を 書きはじめました。最初の文章は「血のメーデー」に関するものです。読み直してみると、 実際は白い紙なのに、黄色い紙に黄色い粒がちらばっているように見えました。手でなでる と、ざらざらと点が並んでいます。標準の点字板は1行32マスですが、附属盲では講義録 をとるのに、1行に37マス書けるものを使っているため、その分、点が小さくなります。 私は、新しい遊び道具を手に入れた子どものように、夢中になって日記を書き続けました。 ふたりの療友の姿を通して新しい生き方を知る  この入院中、忘れられないふたりの人と出会いました。  ひとりは、私より10歳年上の松浦茂晴さんです。お母さんに付き添われて、個室に入院し ていました。私と同じ眼底出血で、旧制の九州大学経済学部の最後の学生でした。  松浦さんの部屋には毎日、授業を終えた数人の友人グループが交代でやってきて、ノート をもとに、その日の講義内容を話して帰ります。さらに、付き添いのお母さんに参考書を読 んでもらって勉強を続けるのです。こうして、試験を受けるときだけ大学へ行くという形 で、全優で卒業した方でした。  私はたびたびたずねていって、いろいろな話を聞かせてもらいました。陸軍中尉だったと きに敗戦を迎え、西日本新聞社の記者になったものの軍関係者のパージ(追放)で退職、九 州大学に入学後すぐ発病したというご自身のこと。そして、経済のことや人生についてな ど、松浦さんは広い視野に立って語ってくれました。 「きみはぼくより10年若いのだから、それだけいろんなことができるよ」  こういって、はげましてくださいました。  もうひとりは、炭鉱で働いていた高畠俊久さんです。私のベッドは8人部屋の右奥でした が、その隣に入院してきた方でした。  佐賀県の多久炭鉱で、鉄柱をハンマーでたたいたときに鉄片が目にささった高畠さんは、 その鉄片を抜きとる手術を受け、絶対安静が続いていました。けれど、安静期間が終わって も寝ているばかりで、口をききません。何かしている気配なので、気になってたびたびたず ねてみるのですが、笑っているばかりです。  やっと「数学を解いているんだよ」と教えてくれたので、「通信教育ですか、大検です か」と聞くと、「いや、おもしろいから解いているんだよ」という答えが返ってきました。

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 炭鉱では3交代で、休みのときはほとんどの人が遊びに行って金を使い果たしてしまう。 それでは親元に仕送りもできないから、なにか暇つぶしはないかなと考えていたら、引き揚 げのために中退した中学生のころ、数学が好きだったことを思い出した。宮崎の親元から教 科書を送ってもらい、それをやり終えたら、本屋に行って数学の本を買う。半年もするとそ の問題も解き終わるから、次の本を買いに行く――というのです。 「きみ、数学ぐらいおもしろくて安い遊びはないよ」といわれました。  それまで、学校の教科は進学の手段とばかり考えていた私は、大きなカルチャーショック を受けました。  全くタイプのちがう松浦さんと高畠さんですが、おふたりの生き方は、その後、私に大き な力を与えてくれることになりました。 何も見えなくなり、泣きつづけた日  6月のある日、担当の医師から「点字の勉強してるんだって、それはいいことだね」とい われて、どきっとしました。 「もっと悪くなるのですか、それとも変わらないのですか」とたずねると、「それはわから ない」と口ごもられました。  いままでは、このぐらいの視力なら牛の放牧でもして暮らしていこうか、などと思ってい ましたし、点字はおもしろいからやっていただけで、盲学校に行くために勉強しているつも りは全くなかったのです。このとき、徳永さんの「見えなくなったら点字を覚えて、盲学校 ではり・きゅう・あんまを勉強しようと思っていた」という言葉や、藤井さんの盲学校の話 が、自分にとって現実味のあるものとして頭に浮かんだのでした。  7月に入ったある朝、朝食をすませて横になっていました。足元の窓のカーテンの間から は、隣の病棟の屋根瓦が見えています。ところが、その瓦が白くなり、カーテンの間も白く なり、やがてすべてが白くおおわれて、ほかは何も見えなくなりました。  急いで担当の医師に見てもらうと、「網膜剥離を起こしているから安静にしていなさい」 とのこと。安静にする以外に何の治療法もないのか、もう治る見込みはないのか……。ベッ ドにもどってそんなことを思ううちに、急に悲しくなって涙がとめどもなくあふれだし、私 は全身をふるわせて泣き続けました。  布団をかぶって泣き声が聞こえないようにしたつもりでしたが、「梟のふくちゃんの一大 事」と、同室の人はもちろん、ほかの病室の人も次々にやってきて、なぐさめたりはげまし たりしてくれました。特に、同じ病気で長いこと入院している人は、自分自身にいって聞か せるように「かならず治るから」とくりかえしながら、そばを離れずにずっと手をにぎって いてくれました。  昼食も夕食も食べられず、しのび泣きを続けていましたが、やがて涙もかれて、頭は冷静 になりました。これまで、担当の医師は、「四百四病というけれど、眼科の病気だけでも相 当あるんだよ」と、いろいろな病気のことを話してくれていました。また、結核性の眼底出 血の患者さんは当時多く、病状が多様で失明の危険があるということも知っていました。客 観的な知識は持っていたわけですが、自分は例外のような気がして、結びつけて考えたこと がなかったのです。  この日はじめて、自分は例外などではない、この病気の最も危険な症状に当てはまるのだ と認識し、私はついに気持ちを切りかえました。ないものねだりをして嘆くよりも、自分の 置かれた状況を勇気を出して受け入れよう。これからは、見えないことを前提として生きて いこう。そう決意したのです。

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 涙を流しつくして悲しみがふっきれたせいでしょうか、急に腹がへっているのに気がつき ました。ちょうど夜の9時ごろでした。昼も夜も食事をとらなかったのを聞いて、松浦さん のお母さんが私の好物のオムライスを作って持ってきてくださいました。それを食べ終わる と、そっと見守ってくれていたらしい同室の人たちが、いっせいに「おやすみなさい」と声 をかけてくれました。私は泣き続けたことが照れくさくて何もいえず、もう大丈夫ですよと いうしるしに、みんなに手をふりました。  その日のことをふりかえり、大勢の人のやさしさを思い出して、自分はひとりぼっちでは ないのだとしみじみ感じながら熟睡しました。 生き方を決めた17歳の夏――「楽しんで目標をめざそう」  見えないことを受け入れ、積極的に生きようと決めた私の指針となったのは、入院中に九 州大学を卒業した松浦さんと、「おもしろいから数学を解くんだ」と語った高畠さんでし た。私は、おふたりに教えられた“生きる姿勢”を組み合わせて、自分のよりどころにしよ うと考えたのです。 「松浦さんのように目標に向かってひとつひとつ積み上げていけば、目が見えなくても相当 なことができるはずだ。その場合、目標はプラスの方向でなければならない。マイナスの方 向では積み上げるほど悪くなってしまう。ベクトル的な積み上げでなければならない。ま た、積み上げていくときに決して無理をしてはいけない。努力とか勉強とか能率を上げるこ とに 々とすると焦りが出る。高畠さんのように、積み上げていくこと自体を楽しくしなけ ればならない。そして、今後はベクトル的な学問を『楽問』と書こう。ベクトル的な積み上 げは、『学ぶもん』ではなく『楽しむもん』だから――。」  これからはこのような生き方をしようと、私は心に決めました。  さっそく2学期から盲学校に行こうと計画を立て、完全に見えなくなった7月に退院し て、下関東高に中途退学届を出しました。1952年、17歳の夏でした。  退院を決めたとき、同じ眼底出血の先輩からは、「きっとよくなるから、退院は早すぎる よ」と止められました。下関東高では、「まだ退学ではなく、休学でいいのだよ」といわれ ました。でも、私の決意は変わりませんでした。  半年前から左目は完全に見えなくなっていましたし、右目は中心部に北海道の形のような 見えない部分があり、そこでは小さい血管が波打つのだけが感じとれるという状態でした。 右目の“北海道”の周囲は、オホーツク海と日本海の方から細く光だけが見えていて、室蘭 あたりの広いくいこみのところは3ヵ月ほどなんとか視力を保っていました。それが一気に 3ヵ所も網膜剥離したのです。当時の治療法では快復は考えられず、期待を抱く余地はあり ませんでした。  見えないことを前提に生きようという決意に迷いはなかったものの、数年の間はごくたま に、はっとするような夢をみることがありました。暗い藪の中を手さぐりで歩いていると、 ふいに目の前がひらけて明るくなり、見えた! と思った瞬間に目が覚めるのです。そのた びに、無意識の部分ではまだ執着をひきずっているのだと苦笑したものでした。 3.2年間の療養は「楽問(楽しむもん)」 結核にたおれ、生きたいと切実にねがう  10ヵ月半の入院中に、わが家は長府の町中に引っ越していました。土塀にかこまれ、屋 根つきの門構えのあるくぐり戸がついた、足軽屋敷の古い家でした。

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1952年7月、退院した私は、はじめてこの自宅に足をふみいれました。ある日、トイレ に行こうとして手あぶり(火鉢)をけとばし、ふすまをたおしてしまいました。幸い夏でし たから、灰が飛び散っただけですみましたが、家族はそれ以後、私の通りそうなところには 物を置かないよう、気をつけてくれました。  ようやく自分の家にもどったものの、8月に入ったころから体調がすぐれなくなりまし た。体全体がだるく、柱にもたれてすわっていても、つらくて30分ともたないのです。一日 中布団の上に寝ていて、食事と入浴、排泄のときだけ起きるような生活になりました。食事 をするにも が重く感じられ、休み休み食べるような状態でした。  内科の医師によれば、結核菌がどこかに潜んでいるようだが場所はわからないとのことで した。中学生のとき、レントゲン写真で肺門に影が写り、肺門リンパ腺結核と診断されまし たが、その後のレントゲン撮影では、どこにも影は見つかっていませんでした。結核性眼底 出血についても、私は結核菌が血管を通して直接網膜をやぶったのだと思っていましたが、 正式には「若年性反復性硝子体混濁」といって、どこかに巣くっている結核菌の病巣から毒 素が出て、細い網膜の血管をたびたびやぶったらしいとわかりました。  当時、結核で死ぬ人は非常に多く、なかでも肺結核で長期療養をしたり亡くなったりする 人が大勢いました。治療法は、きれいな空気のもとで安静にして栄養をとるという「大気安 静栄養療法」、特効薬はアメリカから入手する高価なストレプトマイシンです。この薬には 難聴や腎障害の副作用があるといわれていたので、私は聴覚に影響があると困るから、たと え高価なものを買ってもらっても使いたくはないといって、きっぱりことわりました。  結局、どこに巣くっているのかわからない結核菌に対して、当時、唯一の抗結核薬だった 「パス」と呼ばれる薬を食べるようにたくさん飲んだり、全身が10分ほど熱くなるカルシ ウム注射を打ったりするほかに、治療方法はありませんでした。あとは、食事でできるだけ タンパク質を摂取するくらいです。いつ死んでもおかしくはない、死刑執行猶予中のような 状態でした。  満州での生死の境をくぐりぬける暮らしを経て6年、17歳でふたたび死と隣り合わせた 私は、生きたい、と切実に思いました。  叔母が文語体の『新約聖書』(点字版8巻)を送ってくれましたが、読むだけの体力がな く、疲れるので点字を書くこともできません。そこで、一日中ラジオを聴いていました。N HKの第1放送で定時のニュースと夕方のドラマを聴き、それ以外の時間は第2放送の学校 放送を聴き続けました。不得意だった国語と音楽については、小学校1年生向けから中学生 向けまで通して聴き、小川芳男先生の「基礎英語」と樫村治子さんの「朗読の時間」には特 に熱心に耳をかたむけました。 状況を受け入れ、好奇心のままにすべてを楽しむ  こんな状態が半年ほど続いたころ、近所にはりの先生がいるのを知って治療に通いはじめ ました。その効果は大きく、 怠感がしだいに取れて、点字の『新約聖書』を読むことがで きるようになりました。はりの先生は舵山正邦さんという附属盲出身の方で、のちに私のク ラス担任となる清水友次郎先生の同級生でした。舵山さんは、附属盲のことをいろいろ話し てくれたり、ときどき週刊の点字新聞『点字毎日』(毎日新聞社発行)を貸してくれたりし ました。  また、親友の田中康徳君は、期末試験や中間試験が終わった日に必ず立ち寄って、学校や 友人の様子を教えてくれました。男女共学だった下関東高校は、1953年度から男子は豊浦 高校、女子は長府高校に分かれました。この年、豊浦高校は甲子園に出場し、優勝候補の中

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京商業のエース中山君に3本のホームランを浴びせましたが、1回戦で敗退しました。甲子 園まで行って応援してきた田中君は、そのときのことをくわしく話してくれました。  このころは、療養を始めた前年と同じく寝たきりではありましたが、徐々に気力が充実し てきて、いろいろなことに好奇心がわきはじめ、新しいものを吸収したいという意欲が出て きました。  ちょうど肺結核で休学していた弟に中学の教科書を読んでもらい、その内容を私が教える という形で協力しながら学んだ時間は、私にとっては復習、弟にとっては予習となりまし た。勉強のなかでも文法には特に力を入れ、口語と文語の検定教科書を3種類買ってきて、 その中身を比較し、すべて暗記しました。また、地図には以前から興味があったので、日本 地図と世界地図をひろげて緯度と経度、海岸線と県境や国境などを指でたどらせてもらいな がら、頭の中にイメージをつくりあげていきました。  日本女子大学の英文科出身の母には、英語を基本から教えてもらいました。息子の目が見 えなくなった心労から高血圧になってしまった母ですが、家事や祖母の介護の合間に、高校 の教科書を使って英文法、英文和訳、和文英訳などを教えてくれました。若いころ英語の先 生をしていたとはいえ、結婚してから人に教えるのははじめてで、かなり緊張しているよう でした。  翌年の1954年になると、体力をつけるために、柱を背にしてすわる訓練を始めました。 10分間から始めて毎日10分ずつ時間をのばし、次の週は毎日1時間、翌週は2時間、と1 週間単位で目標を上げていくのです。これをくりかえすうちに、8時間以上すわっていられ るまでになりました。訓練の間も、それまでの勉強を休むことなく続け、積み上げていきま した。  勉強をしていないときも、頭の中はつねに活動していました。未来の宇宙旅行の様子を思 い描いたり、海底トンネルをつくって糸島と大陸をつなげたらどうだろうと夢みたり、気ま まな空想にふけるのも楽しい時間でした。  しばらくすると、父の紳士用の をついて庭から外に出て、裏の路地を歩けるようになり ました。以前は意識していなかった感覚に神経を集中させてみると、体が感じとることので きる情報のなんと豊かなことでしょうか。地面をふみしめる足の裏の感触、顔をなでていく そよ風、生け垣の緑の匂い、木の葉のざわめき……。私は、目で見ていたものを視覚以外の 感覚によってイメージする練習を始めました。その間ずっと、母は後ろから離れて見守って いました。 「もしも自分が65歳まで生きられるなら、21世紀を迎えることができるのにな」  新鮮な空気を吸い、 をついて歩きながら、私は淡い期待を抱きました。19歳、再出発 の一歩を踏み出したときでした。  2年間の療養中、死に対する不安はつねにありましたが、それよりはるかに強かったの は、生きている以上、闘病生活そのものもふくめて、何事もすべて楽しもうという気持ちで した。自分の志した「楽しむもん」の「楽問」をさっそく実践したのです。その原動力とな ったのは、旺盛な好奇心とチャレンジ精神、問題が困難であればあるほど湧きおこる“やる 気”でした。これこそが自分を生の世界へひきもどし、再生させてくれたのだと思います。 第2節 東京教育大学附属盲学校本科理療科へ入学 1.受験準備と入試  1954年の秋、家族の病気を支えてひとりで苦労している父に、来年から東京の附属盲に

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行きたいので、その準備のため山口県立盲学校(現山口県立下関南総合支援学校)に入りた いといいました。父は、「私には遺してやれる財産はないので、その代わり教育費は出して やる。自分のよいと思うところに行きなさい」とはげましてくれました。  10月はじめに、下関にある山口県立盲学校を訪れ、「点字も覚えたし を使ってひとり で歩けるようになったので、入学させてください」と願い出ると、そんなことをいう生徒は 学校始まって以来はじめてだといわれました。高等部2年に編入するということでしたが、 日本語の点字は覚えたけれどほかの教科の点字も学びたいので、中学3年生に聴講生で入れ てほしいと頼み、了承されました。こうして、はじめての寄宿舎生活が始まりました。  そのときの中学3年は優秀な生徒が多く、現在、山口県盲人福祉協会の理事長で日本盲人 社会福祉施設協議会の常務理事でもあり、多くの施設を経営している舛尾政美夫妻もいらし て、舛尾さんはみんなのまとめ役になっていました。楽しいクラスで、私には「おっさん」 というあだ名がつけられました。  やがて寄宿舎生活にも慣れ、健康にも自信がついたので、正月明けに国広万里校長のもと へ行き、附属盲を受験したいと許可を求めました。国広校長は元南京大学の東洋哲学科の教 授で、その後、東洋大学の教授になられた傑物です。私の希望を聞いておおいにけっこうと 賛成され、数学、理科、英語、社会の先生方に、毎週放課後に1時間ずつ、教科で使う点字 を私に教えるようにと命令されました。理由はいわれなかったので、社会の先生は、なんで こんなことをしなくちゃならないのかと不満をもらしておられました。  卒業式のとき、聴講生でありながら中学部卒業証書をわたされました。義務教育である中 学校の卒業証書をふたつ持っているのは、私ぐらいかなと誇りに思っています。  附属盲の入試のため、ともに上京した父は、その朝、附属盲の校舎まで私を連れてくる と、今から仕事に行って帰りには迎えに来るからと、さっさと出かけてしまいました。幸 い、山口盲学校の先輩の原田逸男さんが教員養成部の学生だったので、入試中ずっと付き添 ってくださいました。  入学式のとき、急に新入生代表の挨拶を頼まれましたが、幼小中高の各部の代表としてと いわれたので、だいぶ幼稚な表現をしてしまいました。一方、生徒会長の渡辺勇喜三さんの 歓迎の言葉は格調高く、これは大変な学校に来たなと思ったものです。 2.高校生経済懸賞論文への応募と受賞  高等部本科1年の夏休みに入る前に、「一般社会」の教科担任の大川原潔先生に、「高校 生の経済懸賞論文に応募してみないか。これを夏休みの宿題としておく。強制はしないが挑 戦してみたらどうだ」とすすめられました。  示された課題はふたつあり、どちらかを選んで書いてくるようにといわれたので、私は 「貿易振興と企業合理化」の方を選びました。夏休みに入ると政府の「経済白書」を読み、 点字で論文をまとめて弟に書き取ってもらいました。山口大学農学部の教授だった父はこれ を読んで、「日本の食料品でも工夫次第で輸出できるものがたくさんある。そこを書き直し なさい」といいました。畜産、水産、食品衛生を専門とする立場からの意見です。私はなる ほどと思って素直に訂正し、弟に書き直してもらいました。  9月に大川原先生が送付してくださったところ、受賞したという通知を受け、11月に行 われた授賞式には先生に付き添ってもらって出席しました。  審査委員長を務められた日本経済新聞の編集長は、審査の講評で「木塚君の論文は読み進 めていくにつれて、これはもっともすぐれていると思った。しかし最後になって余分なこと が書かれているので、2等の1席にした」といわれました。当時、第1次産業を縮小して第

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2次産業に労働力を集中しようとする産業構造改革が行われはじめていただけに、審査委員 長の批評は時代を背景にした当時の正論であったと思います。しかし、全農(全国農業協同 組合連合会)は米にこだわり、減反政策で農業・農村の改革が遅れ、今になってTPPであ わてている現状を考えると、当時の産業構造政策に問題があったともいえるのかもしれませ ん。  ともあれ、私にとっては、雑誌に正式に掲載された最初の文章で、自分の主張を論理的に 述べたものです。少々長いのですが、ここに紹介します。 「貿易振興と企業合理化」 東京教育大学附属盲学校 高等部理療科第1学年 木塚泰弘  日本経済を貿易振興と企業合理化の問題を通して一般的に観察すると、次のようなことが いえると思う。  一、日本経済は加工貿易によって支えられている。  一、国民生活を向上させ、増加する労働人口を吸収するには貿易振興を要とする経済規模 の拡大を行わなければならないが、国際市場は狭小である。  一、力強く輸出を増進させるには、値段の安い品質の良い商品を作らねばならない。  一、コストを引き下げ良質の商品を生産するには、企業の合理化を行わなければならな い。  一、企業合理化の前途には困難な問題が横たわっている。  次に、貿易振興と企業合理化にからまる次のようないくつかの問題をあげ、7月15日に 経済企画庁から発表された30年度経済白書を通して具体的に日本経済を観察し、これに対 処する方策を述べてみた。  一、国際収支の実態。  一、輸出振興。  一、企業資本、企業合理化および雇用の現状。  一、資本蓄積と蓄積資本の有効利用。  一、中小企業、農業の合理化。  一、エネルギー資源の検討。  一、産業構造の改革。  最後にこれらの問題を列挙し、これらを処理する態度を述べて結びとした。 (1)  日本の人口は9000万人に近く、しかも年々100万人もの人口増加を見ているので、昭和 45年には1億人を超えるだろうと予想されている。戦争によって戦前の領土の4割以上を 原住民族にお返ししたり、樺太・沖縄・小笠原・千島等をおあずけにされる結果となったの で、国土は狭く、人口密度は世界で第3位であるうえに、耕地面積はこの狭い国土の16% にすぎない。しかも、この人口を養うだけの天然資源には恵まれていないのである。そこ で、自給自足のできない我が国としては、工業原料を輸入して製品を輸出する加工貿易以外 に道はない。  国民生活を向上させ、増加する労働人口を吸収するには、経済規模を拡大しなければなら ないが、貿易振興が伴わなければ輸入超過となり、国際収支に破綻を来す。戦前、輸出入と もに国民所得の2割を超えていた貿易量も、生活水準がほぼ戦前と同様となった29年度で

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は、輸出9.5%、輸入14%という状態である。原因はいろいろとあるが、その主なものを あげると、戦前、全貿易量の4割を占めていた近隣諸国の市場を失って、まだ回復できない こと、戦前、全貿易量の2割を占めていた北米貿易の花形、生糸が、ナイロンの発明により 振るわなくなったこと、やはり2割の貿易量を持ち繊維製品のお得意先であった東南アジア が、戦後、独立とともに工業化が進み、インド等は繊維の輸出国となったことは、最近、重 工業の比重を大きくしたとはいえ、まだ軽工業の比重が大きい日本にとっては痛手であるこ となどがある。特需、内需が貿易機運をそいだことも要因のひとつとしてあげられるが、や はり国際市場の狭小が第一の要因であろう。独立して3年の我が国が、アジア諸国と正常な 国交が開かれていないことが、国際市場が狭小な原因である。また通貨価値が不安定であっ たこと、商品の国際競争力が弱いことも貿易不振の原因である。アジア諸国との国交もだん だん回復されているし、ガットへの正式加入も決定され、貿易自由化の機運も高まった今 日、貿易振興の前途は一見明るい。しかし中国は管理貿易の国であるし、インドは軽工業が 盛んになったし、そのうえイギリス・アメリカ・西ドイツをはじめとする強力な競争国があ る。安易な期待は禁物である。  しかし日本の商品が値段が安く品質が良いならば、いくら狭い国際市場でも売れないはず はない。コストを引き下げ、品質を良くして、国際競争力を強めることがさしせまった問題 となってきた。 (2)  コストを引き下げ、良質の商品を生産するためには、企業合理化を断行しなければならな い。一口に企業合理化といっても、基礎産業の企業合理化、企業資金源泉の68%(29年上 期)を占める銀行借入金の金利の引き下げなどのように、いわゆる企業の原材料費や金利負 担を軽くする外部の問題と、いわゆる企業(鉱工業)の内部の企業合理化があるが、今は企 業内部の問題を、経営管理方式を改める、事務の能率化と社用費の軽減、設備の更新、余剰 人員の整理の順序で述べてみよう。  経営管理の方式を改めるには、摩擦失業も起こるのであろうが、合理的でより良いもので あれば早く実行すべきである。  事務を能率化し、むだな交際費の削減を行うことは、緊縮政策でやらざるを得ないように なったが、今後も自主的にやってもらいたい。また、宣伝費をむやみに使い、無益な競争を 続けることは、商品の値段を高くするばかりである。  生産性を向上させ、良質の製品を作り出すには、機械その他の設備を更新することが先決 問題である。根本的には科学技術の振興が大切であるが、資本蓄積が当面の問題である。日 本企業の自己資本は、減価償却費と社内留保を合わせても、企業資金源泉から先に述べた銀 行借入金を除いた32%を占めるのみである。そのうえ、信用に基づく社債や株式を通ずる 資本も少ないのである。このように少ない自己資本を蓄積するためには、銀行借入金の金利 を引き下げることを一応別とするならば、商品をたくさん売らねばならない。また商品を売 るためには、節約と合理化によってコストを下げなければならない。しかしこの合理化を行 うためには、資本蓄積を行わなければならない。ここに資本蓄積のむずかしさがある。この ような悪循環を断ち切るために、銀行借入金や財政投融資を使って設備を更新すればよさそ うであるが、今でさえ悩んでいる銀行借入金の金利負担を、合理化投資のためさらに増やす ことになるし、また国民貯蓄力をバックにせず市中銀行が日銀からの資金を今までのように 又貸ししたり、財政投融資を今までのように総括的に行うならば、またインフレを引き起こ し、初期の目的である輸出の増産に大きな障害を来すことになるのである。  日本の企業の生産性はどちらかといえば先進諸国に近いのに対して、賃金は後進諸国に近

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い。戦前にはこういう状態でダンピングを行い、国際信用を落とした。国民生活の上からも 賃金は減らしてはならない。むしろ上げるべきである。それなのに労賃が多くかかるのは、 人員が多すぎるためである。余剰人員の整理が必要となってくるが、完全雇用の方策や見通 しがない現在、これを断行することは人道上許されないし、また労働組合の力が強化された 現在、やれるものではない。 (3)  以上、貿易振興と企業合理化の必要性と困難性を述べてきたが、次に、具体的に日本経済 の現状と将来への見通しを観察しよう。  日本の国際収支はどうなっているか。29会計年度の外国為替収支を、28会計年度のそれ と比較しながらながめてみよう。まず受取では、輸出16億200万ドルで前年度より3億 5700万ドルの増加、軍関係消費(広義の特需)は、5億9000万ドルで前年度より1億 7100万ドルの減少、一般貿易外受取は、1億7500万ドルで前年度より1900万ドルの増 加。  一方、支払は、輸入17億6700万ドルで前年度に比べ4億7500万ドル減少、一般貿易外支 払は2億5500万ドルで前年度に比べ2300万ドルの増加である。結局、29年度は3億4400 万ドルの黒字で、28年度に比較して6億5700万ドルの大幅な改善となった。しかし特需を 除き正常な貿易による収支は、逆に2億4500万ドルの赤字となる。  輸出が伸びた原因を、海外要因と国内の要因に分けてみよう。まず海外要因として、自由 諸国の輸入総額が3.7%、金額にして27億ドルも増加するという世界貿易の拡大があったこ と、ポンド地域の輸入制限緩和のために消費材を中心に2億4500万ドル増加したこと、羊 毛・小麦を見返りとするアルゼンチン向けの鉄鋼輸出が伸びたことなどがあげられる。  国内要因としては、緊縮政策の影響で輸出意欲が増大したこと、インフレが収まり物価が 下落したことがあげられる。物価は卸売物価で5%、ことに輸出商品の国内価格は9%、輸 出価格も5%とそれぞれ低落した。世界物価は横ばい状態を続けたので、物価の海外比も著 しく改善された。また輸出商品の国内価格が輸出価格より下がったので、一部に見られた二 重価格もほぼ解消した。外国に比べて繊維製品は割安、金属化学品は割高、全体としてやや 割高である。  輸入が減少した要因としては、輸入価格の下落、28年度にあったような凶作に対処する ための食糧緊急輸入、炭労ストによる石炭不足を埋めるための石炭緊急輸入などがなかった こと、邦船使用により運賃を節約したことなどがあげられる。緊縮政策の効果だけで海外要 因がなければ、輸出入ともにこれほど改善されなかったであろう。  また緊縮政策の結果、輸入原料の在庫が減ったこと、年々100万人の人口増加につれ、ひ とり年30ドルとしても3000万ドルの食料、繊維の輸入が増えること、先にも述べたように 国際収支のバランスは特需によって保たれているが、特需は減少する一方であること、労働 人口の増加に伴って経済規模を拡大するには、どうしても輸入が増えることなどと、表面上 の黒字にもかかわらず先行赤字の可能性を内包している。このように日本の国際収支バラン スは、不安定な要因の上に成り立っている。経済規模が拡大するとき輸出が増加しないなら ば、たちまち国際収支は赤字に悩むであろう。貿易振興を考える場合、輸入の問題も見逃せ ないが、ここではその意味から輸出の振興を中心に述べることにする。  29年度の決済地域別、輸出入の状態を、総額を100%としてその割合を見ると、ドル地域 =輸出34%、輸入59%、ポンド地域=輸出30%、輸入18%、オープン勘定地域=輸出 35%、輸入23%となって、ドル地域輸入、ポンド地域輸出、オープン勘定地域輸出の割合 が高い。ドル不足を解決するためにも、距離の関係からも、また相手国が日本の製品を必要

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とする意味からも、今後の貿易の方向はアジア諸国に向けるべきである。このためにはこれ ら諸国との国交の調整、通商航海条約の締結、相手国の発展段階に応ずる経済提携などを促 進させて対外環境を改善したり、商社の活動力強化、輸出入組合の整備、市場調査の拡充を 図るなど、輸出振興の態勢を整えるべきである。しかし通貨価値の安定、国際競争力の増大 の裏付けが必要である。  インフレは輸出振興の最大の敵である。その意味からも、通貨価値の安定はぜひ必要であ る。緊縮政策によって企業内部の節約、銀行への依存度が減ったなど経営態度が改められ、 家計の節約貯蓄の増大、オーバーローンの解消などインフレ機運は沈静されたが、今後も警 戒しなければならない。そのためには、中央・地方を通ずる財政の均衡を維持しなければな らない。金利体系のゆがみを直すことは、オーバーローンへの逆もどりをさえぎって、イン フレの再燃を防ぐ手段となる。金融の運営が正常化されれば、しだいに金利の機能が復活し て、投資の増減を自動的に調節する道も開けてくる。 (4)  国際競争を強めるには、輸出商品構造を世界市場の趨勢によく適合させること、日本の産 業構造を編成替えさせることなど、日本経済の総合的な問題と、企業の合理化を推進すると いう企業自体の問題がある。  今度は日本の企業、特に鉱工業の現状を見よう。企業は自己蓄積力を低下させたために、 企業資金源泉を見ても、減価償却費、社内留保を合わせても、戦前の45%に対して29年上 期では32%の割合を占めるだけである。しかも借入金の利子率は主要産業で8分9厘5毛 という高率を示している。これが、日銀の金利体系是正とともに市中銀行が7分以上の資金 コストを事務費の節約と預金扱量の増加で低下させ、金利を引き下げることを要求される原 因である。また、売上高に占める総利潤(原価償却費、支払金利、税金、配当および賞与、 社内留保)の割合は、戦前の18.5%に対して、29年上期では総原価(原材料費、労賃、一 般経費)におされて12.8%に減っている。このように日本の企業資本は弱いのである。  これまでに行われた合理化投資の内には、遅れた技術の回復、品質の向上、原単位の改善 などにようやくその効果を現わしはじめたものもある。ただ、さしあたり金利負担や減価償 却費がかさみ、思うようなコストの低下に至っていない。なぜ効果が現れぬかというと、整 備された近代設備が動き出して間がないこと、企業内部の直接部門と間接部門のような設備 相互間の能率のアンバランス、親元と下受けのような企業相互間の合理化のアンバランス、 市場が狭いのに企業間の競争で合理化を行い、かえって産業全体から見ると操業度の低下を 来すことなど、合理化投資に充分な計画性がなく、また優秀設備への生産集中が行われずに 狭い市場の中で過剰競争にひしめきあっていることが大きな障害になっているのである。  雇用の停滞と失業の増大が、緊縮政策をとった29年度の間に表面化し、年度末には84万 人という戦後最高の失業者を出した。また、産業構造の後遺症や社会保障の未発達を背景 に、不完全就業者が多い。失業対策審議会の調べによれば、収入が低すぎると思われる者 が、29年3月現在576万人にのぼっている。ここに完全雇用の必要性がより明確になったわ けだが、雇用の増大を行うにも、国際収支の均衡を保つ意味からも、輸出増進を要とする経 済規模の拡大が必要となってくるわけである。 (5)  インフレにせずに経済規模を拡大する投資をまかなっていくには、資本蓄積の増加を背後 に持たねばならない。家計の貯蓄が増えれば、銀行を通じて間接に、あるいは直接に企業の 投資資金となる。しかし企業としては長期資金の場合、借入金よりも信用をもとにした社債 や株式を通じて自己資本となす方が望ましい。節約と企業の合理化によって企業の収益性を

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向上させることが、資本蓄積の根本である。  限られた蓄積資本を有効に使うことが、発展への第一歩である。それにはまず、これまで の合理化投資の効果をむだにせぬために補足的な投資に注意を向けること、また優秀設備へ 生産を集中することが望ましい。今後の投資の方向も、過剰人口、貧弱な資源、技術条件な どを前提として決定されなければならない。しかも発展性のある方向、長い目で見て望まし い産業構造への編成替えを意味するものでなければならない。国際競争力を育てる立場か ら、いかなる産業が国際的に相対的にコストが安いのか、どのような産業の投資効率が高い のか、海外市場から見てどの産業に輸出の将来性があるのかなどの吟味が、外貨獲得率の検 討とともに必要である。このように、投資対象は輸出振興の立場からよく検討した上で総花 的な二重投資をさけ、投資の計画的運用を図らねばならない。もっとも、これは財政投融資 の運用に強く要求することである。  中小組合の組織化、経営の合理化を通じて金融に対する信用力の増大を図り、市場の拡 大、販売条件の改善を図ること、また農産物も中小企業の製品と同様に輸出有望なものが多 いから、これらの分野でも生産や販売組織を能率化し、発達させる必要がある。 (6)  日本の農業は終戦後に行われた農地改革によって、かえってその零細化の度を増した。な るほど、地主対小作人の関係が自作農対自作農の関係になったことは望ましいことかもしれ ないが、この零細化された農業を放置しておくわけにはいかない。そこでなんらかの意味の 組織化が要求されるわけだが、私としては、10軒ぐらいの自作農が土地、生産資材、労働 力などを提供して共同経営を行うことが望ましいと思う。しかし現実には、開拓地や、農家 を経営参加させる酪農の共同株式会社のように比較的条件が同じものを除けば、成功の可能 性が薄い。その理由としては、分業の難しさ、経営、製造、販売等の技術の未習熟および土 地、生産物、労働力等の価値換算のむずかしさなどがある。しかしながら、畜産や果樹・園 芸などの農産物および水産物の中には、品質も良く、国際比価も安いものがある。それらは 輸出の拡大に貢献し、輸入の縮小につながるとともに、食料の自給自足にも役立つ。そのた め、飼料作物も加えた農地の二毛作や三毛作などの工夫とともに農業の合理化を図る必要が ある。 (7)  次に、エネルギー資源を検討してみよう。  まず、日本のエネルギー資源の中で、諸外国と異なり特徴的に大きい割合を占める水力発 電であるが、水力発電の熱効率が高くなったので経済的開発限界に来ているといわれている が、道路、港湾、土地改良、治山治水とともに国土総合開発の一部として今後も電源開発を 続けるべきである。次に、今社会問題となっている石炭であるが、これは無煙炭など特殊炭 を除けば、ほとんど国内で供給できるエネルギー資源である。しかし有限な天然資源である ので、そのまま燃やしてしまうのはなんとしても惜しい。天然資源に乏しい日本としては、 低品位炭のみならず高品位炭も工業原料として有効に使う工夫をしてもよいのではないか。 幸い、7月18日、通産省のきもいりで石炭化学技術懇談会が発足したので、今後の活躍を 期待しよう。石油は外国ではエネルギー資源に重要な位置を占めているが、日本にはわずか しか産出しないのであまり普及しなかった。しかし高度化が進むにつれ、石油の消費量も増 えてきた。ことに最近、化学工業原料として石炭以上にもてはやされだしたが、日本に原料 がない点から、それほど深入りせぬがよさそうである。  さて、エネルギー資源を転用させることばかり述べたが、この補充に、我が地理的特殊性 から鑑みて、発電を利用すること、放射能の完全処理を終えてから原子力発電を慎重に取り

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付けることなどのような新エネルギー資源開発に、科学技術を動員することが大切である。 原子力発電は、あせると軍事問題とからむので、現段階では技術者の養成と放射能の完全処 理など基礎的な原子力研究を続けるべきである。  国土総合開発、石炭、石油、チタン、マグネシウム、砂鉄など新味を加えて、化学金属機 械工業を中心とする重工業、電力、都市ガスなどを育成強化して産業構造を変えること、住 宅建設など産業関連事業を促進するような総合的長期計画的な政策が、根本的な推進力とし て必要である。  結び  以上述べてきたように、日本経済には、輸出の増進、雇用の拡大、生産性の向上、日銀の 金利体系の整備と、市中銀行の金利引き下げ、企業自己資本の蓄積、基礎産業の合理化、中 小企業、農業の合理化、長期計画的、重点的投資による産業構造の編成替えなどの問題点が 山積している。  この故に、貿易振興と企業合理化の促進を図るとしても、それは単に、直接、貿易に関係 する表面的なものはなく、また、一企業の利潤追求や再編成などにとどまらず、国民経済生 活のあらゆる部面から、これを検討していかなくてはならない。  要は、国民生活の改善向上と安定を目標とし、着実に推進してゆくことが肝要であり、そ の上に立ってこそ初期の目的を期待することもできるのである。以上 〈全国高校第7回「懸賞論文」2等1席入選作〉 (『證券月報』第88号、1955年12月、山一證券株式会社調査部) 3.点字教科書問題改善運動とその成果  当時の附属盲学校の寄宿舎は自治寮で、旧制の一高、二高……のような自由な雰囲気でし た。その中で行われた全国盲学校高等部生徒会による教科書問題は、切実なものでした。運 動の目標はふたつあり、ひとつは点字教科書の価格差補償、ふたつ目は国立点字出版所の設 立でした。第一の要求は1955年11月に解決されました。しかし第二の問題が解決されない ので、運動は継続すべきだと生徒会員は主張し続けました。当時、社会党の統一に続いて自 民党の統一があり、自民党が校長会を通して運動の停止を働きかけてきました。その段階で 運動の本部委員長は下学年に移り、二代目、三代目も校長会と対立して辞めていきました。  四代目は、高校2年になったばかりの私が引き受けました。継続を主張する生徒会員と中 止をせまる校長代理との間に立って、両方の説得に努めたのです。生徒会員に対しては、第 一の問題が解決したことをもって運動は成功したとして収束させたい、第二の国立点字出版 所の設立問題は、大正時代から全国校長会などが運動してきたけれど未だ実現していない、 これは自分たちでは解決できないと思う、と主張し続けました。一方、校長代理には運動を 弾圧しないように説得しました。このとき、犠牲者を出さずに収束させることのむずかしさ を強く感じました。 「日本ライトハウス」の創立80周年の記念誌に、教科書の歴史の課題の中でこの問題を取 り上げることにしました。その文章を次に紹介します。ライトハウスの80周年記念誌は一 般の人にも読んでもらいたいので市販としましたが、そのときの編集長であった大川原先生 が私の主張を裏づけるために、「4.国立点字出版所の歴史」を付記してくださいました。 「高等部生徒による点字教科書問題改善運動とその成果」 1.改善運動の背景ときっかけ

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1955(昭和30)年はいわゆる「自社対決(55年問題)」の始まりの年でもあった。自由 民主党は「憂うべき教科書問題」として検定教科書の「左翼偏重」を非難していた。また、 教科書出版各社は教科書の売り込み競争の激化の中で、汚職問題も発生していた。これらに ついては毎日のようにマスコミで報道されていた。  一方、盲学校高等部の普通教科の点字教科書はほとんどなく、あってもすでに何年も前に 廃刊になっている高校教科書の点訳本であった。いわんや学習参考書の点字出版などは皆無 に近かった。盲学校の寄宿舎ではだれかが墨字原本を買って、有料で点訳してもらった1冊 の点字教科書や学習参考書を借りて、左手でそれを読み、点字板を用いて右手で書き写すと いういわゆる「点写」の点筆の音が、寄宿舎の各室で毎晩聞こえていた。まさに中世の僧院 で向学心に燃える僧侶が「写経」をしているような風景であった。  1955(昭和30)年7月、東京教育大学附属盲学校高等部の生徒会総会で、「一般の教科 書はあり余っているのに点字教科書はあまりにも惨めだ。2学期から全国の盲学校にも呼び かけて文部省やマスコミに訴えようではないか」と専攻科2年の長谷川貞夫が提案し、全員 の賛同を得た。 2.改善運動(全点協)の開始と急速な盛り上がり  1955(昭和30)年の9月、2学期が始まってまもない3日、臨時生徒会総会が開催さ れ、点字教科書問題改善促進の運動を開始することが決議された。その目標となるスローガ ンは、①「せめて一 いの点字教科書を」、②「墨字本との価格差補償を」、③「国立点字 出版所の設立を」の3項目であった。  これらを趣意書にまとめて全国盲学校高等部生徒会に呼びかけ、マスコミに訴えていくこ ととなった。また、運動の中心となる本部委員として、生徒会長の渡辺勇喜三、提案者の長 谷川貞夫、推進役の長谷川義雄、広報担当の竹村実が選ばれて運動が実行された。  9月9日付の『朝日新聞』の夕刊が7段抜きで報じたのをきっかけに、NHKや民放など のマスコミの取材が頻繁になった。なかには、「ただにしてほしいというのではなく、普通 の教科書との差額を補償してほしいという要求は、主体的でいいね」とほめてくれる人もい た。女子高校生が封筒のあて名書きを支援したり、近所の日本女子大学の自治会から、支援 の依頼に応えて当時としては高額な1万数千円をカンパして届けてくれたりもした。  10月1∼2日に附属盲を主会場として行われた全国盲学校生徒点字教科書問題改善促進 協議会(全点協)に、北は山形・宮城、南は高知・愛媛・柳川など全国25校の生徒会代表 が勢い込んで集まった。福岡の柳川盲の代表はたすきがけをしていた。ここで12項目の規 則を決め、国会に向けての請願署名運動を各地で行うことを決議した。  附属盲の有志は、早朝、大八車に机と署名道具を載せて、当時はまだあちこちの路面を走 っていた都電のレールが敷かれた石畳の上を引いて池袋に出かけ、始業前に戻る日々が続い た。放課後は、池袋と目白の駅前で生徒たちは交代で署名活動に熱中した。文部省への陳情 や社会的に影響力のある人々への支援の依頼、近隣の大学や高校への支援の依頼などのた め、授業中に抜け出す者もいたが、教職員の中にも理解者は多かった。大部分の生徒は、授 業はもとより文化祭や体育祭など秋の行事にも例年より積極的に参加していた。生徒たちに は充実した日日であった。こうした東京での動きに呼応して、京都、大阪その他においても 一般市民への運動を展開し、大阪市盲の生徒会では11月3日に梅田、阿倍野、難波の各タ ーミナルで署名運動を実施して社会の関心を高めた。  毎晩、目白の英語塾に通っていた高等部本科1年の木塚泰弘(筆者)は、寄宿舎で同室の 竹村実に相談した。竹村は、勉学は続けるようにと諭し、毎晩その日の状況を知らせてくれ

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