「知」の収奪―
世界初の英文日本ガイドブック
(1)
住
すみ谷
たに裕
ひろ文
ぶみ 欧米言語文化講座 (平成20年9月16日 受付) 昨年リヨンで1867年に刊行された英語による中国と日本のガイドブックのコピーを入手した。1867 年というと日本は江戸時代もまさに終わろうとする時期で,この年の11月9日大政奉還が行われ,翌年 1月3日には王政復古が宣言される。この中国と日本の案内書はアヘン戦争後の中国―その隣国の屈 辱にまみれた敗北を前に,開国を迫られ,主権が将軍から天皇に移行する激変を前にした日本を扱っ ている。本論稿はとりあえずはこのガイドブックの日本案内の部分の邦訳紹介と,その歴史的意義の 分析がテーマである。 ところで筆者がリヨン滞在時,当地では「世紀の精神―リヨン1800-1914」という企画展が市内の博 物館,図書館,教育研究機関を網羅して開催されていた。このガイドブックを出版したイギリスで行 われたわけではないが,いわゆる植民地帝国時代のヨーロッパの生活をつかむのにはまたとない機会 であった。 しかも近年日本では東南アジア・東アジア史(東インド会社史も含め)の研究がいよいよさかんに なり,この時期の日本の鎖国開国の経緯がこれらの地域の国々と比較検討できる状況になってきた。 また岩波書店の『大航海時代叢書』をはじめさまざまな旅行記がすでに翻訳され閲読可能な状態であ り,キリスト教伝道と欧米諸国の海外進出の関係についても先鋭な研究が蓄積されつつあるように思 われる。 また欧米における18世紀以降における旅行ブームと旅行案内書の研究も見られるようになった。 こうした中で今回,1867年刊行の中国・日本案内の紹介をなしうることは筆者にとり望外のよろこ びである。 今回は翻訳紹介する資料の概要についてまず述べると同時に,ガイドブックそのものの誕生の背景 と本書の性格について,現在までに気づいた点を指摘したい。 Ⅰ 世界最初の英文日本ガイドブック Ⅱ 本書の対象とする国と都市 Ⅲ 『米欧回覧実記』との対比 Ⅳ 刊行当時の世界とガイドブック―なぜ「『知』の収奪」か? キーワード:英文日本ガイドブック 文明 植民地主義 知 開国 東アジア イギリス 蒸気船 Ⅰ 世界最初の英文日本ガイドブック 最近日本でも旅行や旅行案内(ガイドブック)にかかわる研究や出版があいついでいる が,日本についての外国語,とりわけ英語による案内書ということになると明治に入るま で出版されていないとの認識が流布しているのではないかと思われる。じつは筆者もそう思っていたのであるが,下記の書を目にして驚いた。
まず,最初に,コピーを入手したガイドブックの扉の記載を一瞥しよう。
「中国と日本の条約港――両国の開港場および北京・江戸・香港・澳門マ カ オの完全ガイドブ ックにして 旅行者・商人・一般在住者向け必携案内書 地図・図版29枚載録 ウィリア
ム=フレッド・メイヤーズ,王立地理学会会員・英国領事,N.B.デニス,前英国領事 なら びにチャールズ・キング 中尉 英国陸軍士官学校 著 / N.B.デニス校訂編集 / ロン ドン: トリューブナー商会 / 香港: A.ショートリード商会 / 1867」 出版年の1867年は明治改元の前年である。しかも序文には邦訳すると以下のようなこと が書かれている[既述したように本稿は,とりあえずは上記のガイドブックの日本案内の 部分のみを対象としているが,中国に多くの頁が割かれているとはいえ,序文は中国・日 本両方に関わっているのであるから,性質上やはり全文を紹介すべきであろう]。 「読者にこの著作を呈するにあたり,著者には唯一の目的―この書が扱う二カ国に旅 行することを,またそこに居住することを希望する人々に,広く一般に利用される本を執 筆するということ―しか念頭になかった。これまで出版された中国と日本に関するあま たの著作に散見される重要で多様な細かな事実を,包括的で利用しやすいかたちにまとめ た最初の試みとして,読者におかれてはおそらく一程度の配慮をお許しいただけよう。両 国むけの「東方政策」の研究者を満足させるような,十分完璧な著作をものするに必要な, 各港についての歴史上の細かな事実に立ち入るならば,明らかに一巻の書物に収まりきら ないであろうし,またそれは本書の目的でもなかった。揚言するものではないが,望むら くは多くの一般読者には新しい未知の事柄が多く見出されるよう。地図に関してもまった く独自のものが多く,たとえより完璧な図面がこの後出るとしても,少なくともなにがし かの価値はあるであろう。/ この著作の仕上がりについては誤植等につき数言述べなけ ればならない。しかし正誤表の必要なほど重大なものとは思われなかった。活字は大部分 中国人植字工によって組まれたが,地図についてはすべて本国人により製版された。本書 編集にあたって乗り越えるべき困難は,したがって,ヨーロッパの職工を雇った場合に比 べれば,はるかに大きかった。そしてこの点に関しての不備は寛恕願わなければならない。 / 付録のさまざまな蒸気船会社の(時刻・料金)表は入手可能なもっとも最近の情報に より編まれたものである。「太平洋郵船航路」と「アルフレッド・ホールト汽船航路」の 二社にかんしては,いまだ管理部からいっさい利用案内が出されていないことから不完全 である。しかしながら,一般目的のためには掲載した情報で十分であろうし,将来の版で 遺漏は補われることと期待される。中国と日本に関するしかも両国において出版された著 作等のリストは,これまで発表されたこの種のカタログとしては,最初のものと思われる。 その書名数は440を超え,より完璧なリスト作成に向け,かつまた情報収集のために文献 の選択を望む人々に,有益なヒントを提供するものとして,大いに役立つであろう。 結論として,著者一同この書の編纂にあたり,多くの友人ならびに寄稿者の助力に謝意 を表さなければならない。中国についてすでに著作を出版している幾人かは,彼らの労作 を,望みのままどのように使用してもよいとの許諾をくれたし,他の人々はさまざまな仕 方で援助してくれた。このことを詳述することは,しかしながら,彼らが中国全土で享受 している知遇の,その相手の名を逐一挙げることになろうので,そのおびただしい友人た ちには提供してくれたその援助に,このような一般的な謝意で済ませてもらわなければな るまい。 香港 1867年3月31日」 ところでこの序文にはいくつか留意すべき言及が見られる。その第一は著者自身が「こ
れまで出版された中国と日本に関するあまたの著作に散見される重要で多様な細かな事実 を,包括的で利用しやすいかたちにまとめた最初の試み」であると意義づけていることで ある。ちなみにこの書の末尾,付録の直前の一節にも 以上の記載をもって中国と日本の条約港の説明の結びとする。この説明は多くの点で 不完全であろうが,ヨーロッパ人が頻繁に訪ねた,それぞれの土地に関するもっとも重 要な事実を,一冊にまとめようとした最初の努力である。この書が江湖の好評を得て, 同じ目標に向けさらにまたより包括的なこころみがなされる機縁となることを願うもの である。1)[太字,下線ともに住谷] とあり,ふたたび「一冊にまとめようとした最初の努力」と強調されている。 第二の注目すべき点は出版にかかわる事実が述べられていることである。「活字は大部 分中国人植字工によって組まれたが,地図についてはすべて本国人により製版」されたと 書かれている。香港で印刷される苦労のほどがしのばれる記述である。 最後に留意すべきは「中国と日本に関するしかも両国において出版された著作等のリス トは,これまで発表されたこの種のカタログとしては,最初のものと思われる。その書名 数は440を超え,より完璧なリスト作成に向け,そしてまた情報収集のために文献の選択 を望む人々に,有益なヒントを提供するものとして,大いに役立つであろう。」という指 摘である。おそらく一般のガイドブックで文献リストがこのように膨大な数記載されてい るものはまれであろう。2)しかもこの序文の冒頭で,この書は中国日本への旅行者在住者 向けの一般の使用をめざした案内書であると断っているのであれば,やや意外な感じさえ されるかもしれないが,学術的な気負いが期せずしてあふれ出たと言うべきであろうか。 あるいはこうした姿勢にこそ,日本で一般に「旅行案内」と言ったときに思い浮かべられ るレヴェルとは異なる,欧米のそれの質的な,学問的な高さをのぞかせるものと理解すべ きであろうか。もちろん,我々は後者であることを認めないわけにいかないであろう。近 年の東京のレストラン,料亭にかんするガイドブック,ミシュラン・ルージュの与えた脅 威は,その徹底した調査ぶりがどれほどのものかを示すものである。このガイドブックの 与える評価の厳しさから本国フランスで自殺者も出ているほどであるから。これが一般旅 行者向けガイドブックになるとき,それはその本が扱う国や地域の,もっとも信頼のおけ る情報源のひとつになるのであり,精選された情報の結晶というべきものになる。「『知』 の収奪」と本論稿を銘打つ理由のひとつがここにある。 それにしても以上の点は,いずれもこの日中のガイドブックは英語で書かれた史上はじ めての出版であることを明言し,あるいは興味深く傍証するものである。しかしもちろん これだけで本書を世界初の中国・日本案内と断定することはできない。この方面でのガイ ドブック史研究者の見解を待たなければならないが,これまで日本で出版されている研究 書によれば,明治に入ってからのガイドブックは紹介されているが,それ以前のものは指 摘が見られない。 たとえば中川浩一著『旅の文化誌』(伝統と現代社)には「日本を外国に紹介したガイ ドブック」というので一章がもうけられ,この方面の歴史が簡単にまとめられている。そ の中に, 英文による日本旅行案内書を最初に書いたと判断される人物は,アーネスト・メーソ
ン・サトウ(1843-1929)である。スウェーデンの貿易商人を父とし,イギリス婦人と の間に生まれた子どもであるアーネストは十八歳のときにイギリス外務省の通訳生試験 に合格し,1861年にイギリスをはなれ,翌年9月に横浜に到着した。彼の来日の動機に なったのは,ローレンス・オリファントが記した『エルギン卿のシナ,日本への使節記』 によってかきたてられた,東洋の国への幻想とされている。/明治維新の影の舞台で活 躍し,根回し役をつとめたアーネスト・サトウは,公務執行のためにも,また余暇の活 用の方途としても,日本の各地をたびたび旅行した。1868年(慶応4年)には,富士登山を 行っている。/1875年(明治8年)に,彼は『日光旅行案内』A Guide-book to Nikkoを出版 した。刊行地は横浜とされているから,版元はケリー・アンド・ウオルシュ商会ではな かろうか。それから六年をへて,彼は退役海軍士官A.G.S.ハウスと共編して,『中央・ 北日本旅行案内』A Handbook for Travelers in Central and Northern Japanを,ケリー・ アンド・ウオルシュ商会から刊行することになる。3)[太字−住谷] と書かれている。そして上記の旅行案内をもとに,1891年(明治24年) A Handbook for Travelers in Japan(『日本旅行案内』)がイギリスを代表するジョン・マレー社から刊行さ れた。編者はバジル・ホール・チェンバレン,ウィレム・ベンジャミン・メーソンでケリ ー・アンド・ウオルシュ商会の横浜店と共同で刊行した。寄稿者の中にはラフカディオ・ ハーン(小泉八雲),『日本アルプスの登山と探検』の著作で有名な宣教師ウォルター・ウェ ストンらがいた。この『マレーの日本旅行案内』は1913年(大正2年)の第九版まで刊行さ れ広く利用された。この案内書とサトウの上記案内書について,『旅の文化誌』はつぎの ように述べている。 『中央・北日本旅行案内』は,1884年(明治17年)に第二版を刊行したが,編者の一人 であるサトウは,1884年にシャム総領事としてバンコクにおもむき,ハウスも日本を去 っている。このような事情によるために,第三版は版権をチェンバレンとメーソンにゆ ずり渡し,大改訂を加えたうえで,日本全域をカバーする案内書となって登場するので あろう。4) このような経緯でアーネスト・サトウを目して「英文による日本旅行案内書を最初に書 いたと判断される」と『旅の文化誌』は指摘しているわけである。 ところで出版年からして本論稿が紹介しているガイドブックが,当時の事情からして条 約港に限定されたものであるにしろ,これらサトウのかかわった旅行案内よりも古いこと は明らかである。ただ,今「サトウのかかわった旅行案内」と書いたが,この1867年出版 の中国日本案内にも,サトウがかかわっている可能性はありうる。名前が明記されていな いが,序文に多くの協力者のあったことが書かれており,サトウは1862年の9月から日本 に滞在していたのだからである。また編者のふたりが領事部にかかわり,他のひとりも関 係の深かったことが推測されるからである。中国日本に赴任した領事館関係者のネットワ ークはおそらく緊密なものがあったであろう。しかしこのあたりのことはさらに精査が必 要であろう。 さて,『マレーの日本旅行案内』のあと,つぎはアメリカ人のT.フィリップ・テリーに よる『テリーの日本帝国案内』が,有名なドイツのベデガーの案内書を範に1914年初版, 1926年には第三版を刊行したが,『旅の文化誌』は地図の点では正確詳細を誇るベデガー
に相当遅れをとっていると記している。
さらに英文の日本案内ということでは,日本の鉄道院でも世界的に高い評価を受けた案 内書が刊行されている。それは『東亜旅行案内』An Official Guide to Eastern Asiaと題さ れ,1913年(大正2年)10月に第一巻「満洲朝鮮案内」を出版,1914年(大正3年)7月には第 二巻「西南日本案内」と第三巻「東北日本案内」が同時刊行,1915年(大正4年)4月に第 四巻「支那案内」,1917年(大正6年)4月に最終巻の第五巻「東インド諸島案内」が出され 完結している。しかし二版三版と行われた改訂はそのじつ改悪であったと言われる。 ちなみにこの第一巻を圧縮邦訳したもの(1919年[大正8年]9月刊行)にはつぎのような 緒言が記されている。5) 欧米の旅行にはベデカー社,マドロール社等発行の較(ほぼ)完全なる旅行案内書あり て,英仏独語版等任意の選択に依り各地到處の国状風物を探究するの方便備はれるも東 洋の旅行には曾て這種の案内書に乏しかりしを遺憾とし輓近十数年来我鉄道院は” Official Guide to Eastern Asia”と題する英文東亜案内書の出版を企て,第一巻より(…) 第五巻に至る初版全部の刊行を了し,茲に始めて東洋観光指針の完成を見たるより外来 旅客並欧米に於ける東洋研究家の賞讃を博し其の需要日に多きを加へ将に重版の必要に 迫るの盛況に在り。 『旅の文化誌』はこれをしのぐ水準の英文ガイドブックはいまだ出現していないと述ベ ている。 さらに付け加えれば和文で書かれた戦前の日本案内では,学問的にも最高水準を示した のは,鉄道省旅客課が総力をかけて編纂した八巻からなる『日本案内記』であると言われ ている。 以上駆け足で英文日本旅行案内の歴史を概観したが,本論稿の紹介するガイドブックが 英文で書かれた最初の日本ガイドであることはほぼ間違いなかろうと思われる。ただ,日 本ガイドと言うとき,限られた条約港と江戸を扱ったものが,真正の日本ガイドの名に値 いするのか,という問題は残っている。本論稿の最終回に触れたいと考えているが,この ガイドブックには,日本全体に関する総説が置かれている。また,すでに述べたように中 国と日本に関する詳細な文献目録が載せられており,やがて国内を自由に旅行できる将来 を念頭に,学術的な成果にもとづく,さらに充実した案内書が期せられていたことは確か で,その先駆的業績としての自負があったのは事実である。 ところで本書が出版された1867年時点までに,欧米の日本にかんする情報はどこまで精 緻なものとなっていたのだろうか。本ガイドブックが依拠しえた文献としては,どんなも のがありえたのだろうか。この当時までの日本研究としてはイエズス会士による膨大な報 告書を除けば,まず第一にヴォルテールふくめ多くの啓蒙思想家に影響を与えたケンペル (1651-1716)の『日本誌』(英語版1727)と,日本人の弟子たちの協力によってなしとげられ た浩瀚なシーボルトの『日本』(1832-1852) を挙げなければならない。とくに日本に来航 したペリーも大いに参照した後者は,その第一分冊が1832年刊行されると,『チャイニー ズ・レポジトリー』誌(アメリカ人が経営編集していた)は1834年8月号はこれを主な資料と して英文による日本紹介の論文「日本―その地理,起源,古代史および国民性」を掲載し, その後オランダ,ポルトガル,イギリスの対日関係と鎖国までの経緯を号を分かち紹介し た。また1840年からはロンドンで刊行されていた『アジアティク・ジャーナル』に発表さ
れた『日本』の抄訳をさらに転載し10回に分け紹介した。これらオランダ人を中心とした 日本情報が多大の影響を与えたことは間違いない。6)しかし研究は日進月歩の状況であり, 今回のガイドブックにもつぎのように記されている。 きわめて奇妙な光景に満ちた国―そしてそのあまりにも信じがたい風俗習慣は二十年 前に知られたのだが―この国に行けるようになって以来,大変な注目を浴びてきた。そ して1858年の条約以来,多くの書籍とパンフレット―この排他的な人種の新たな細か な事実をどれもが具体的に表現しているゆえに,すべて貴重である―が刊行され,ケン ペルやツンベルグ7)の古く鮮明な色彩の絵よりも,この国民について,より理解しや すいイメエジを与えてくれている。もっとも簡にして要を得,そしてもっとも全般的に して網羅的な著書は,ラザフォード・オールコック卿のそれであり,これ以降フォーチ ューンとヴィクトリア主教の著作がつづくが,これらの人々はこのテーマについての現 代のすぐれた権威と見なせよう。8)[太字−住谷] このように,この英文ガイドブックが著されたときには,オランダ人経由の情報ではな い,イギリス人自身の観察と分析によるそれが次第に蓄積されつつあった。本ガイドブッ クも,これまでの日本に関する研究と比較し,どこに独自性があるのか,分析する必要が あろう。 Ⅱ 本書の対象とする国と都市 本論稿では,このガイドブックの日本部分のみの紹介をとりあえず目的とすることは, すでに述べたが,この本そのものは中国も扱っているので,それらのことに関わって,ま ず一言しておかなければならない。この本を中国日本一体の案内書と考えると,つぎのよ うな疑問が湧かざるを得ない―なぜ朝鮮が扱われていないのか。中国と日本との間に朝鮮 が存在し,これら三国のあいだには欧米との交流をはるかに超えた親密な関係がつづいて きたからである。したがって東アジアを対象とするのであれば,当然朝鮮も扱われなけれ ばならないのだが,その朝鮮の案内がないのである。 無論これには当時の朝鮮がなお鎖国状態にあったことを想起する必要がある。今年出版 された姜在彦(カン・ジェオン)著『西洋と朝鮮』(朝日選書)は中国日本もふくめ東アジア 三国を視野に入れながら,朝鮮と西洋の「出会い」,すなわち西洋の学術(西学)と宗教(西 教=カトリック)を漢訳書を通じどのように受容していったか,17・18・19世紀の順に三部 に分け扱っている。とりわけ儒教とカトリックの対立は鮮明に捉えられ,この書の核心部 分をなしている。 それによれば,歴史的には朝鮮とキリスト教の関係は,日本のそれがザヴィエル来日の 1549年から始まるのにたいし,それより230年以上たった1784年の李承薫の北京における 受洗に始まるとされる。しかし外圧のあるたび報復としてカトリックにたいする弾圧が加 えられ,中国日本ガイドブックが刊行される1年前の1866年にもフランスとアメリカの江 華島侵入があり,このときも朝鮮のカトリック教徒たちに激しい弾圧が加えられた。こう した弾圧は1871年のアメリカ艦隊の江華島侵入までつづいた。 こうして朝鮮はいわば「洋夷」にたいし,世界で一番最後まで門戸を鎖した国であった。 朝鮮の「開国」は1876年2月の日朝修好条規(日本が欧米と結んだ不平等条約以上に朝鮮
には苛酷な内容であった)締結後の,1882年5月21日の朝米修好通商条約を待たなければ ならない。イギリスとの同種の条約は翌年締結されている。この案内書出版当時,朝鮮は なお鎖国状態で「開国」していない。通商条約の結ばれていない国についてのガイドブッ クは意味を持たない。 それではつぎに中国について見てみよう。このガイドブックで扱っている都市を眺める ためには第一次第二次アヘン戦争のあと中国と欧米の間に結ばれた条約に注意しておく必 要がある。 1840.6.∼1842.8.アヘン戦争 1842.8.29.南京条約により,清の鎖国崩れる 香港割譲 また上海など5港開港 1848.このころから上海の居留地が繁栄し,上海は中国最大の貿易港となる 1850.∼1864太平天国清朝を脅かす 1856.∼1860.アロー戦争(第二次アヘン戦争) 1860北京条約(清が英・仏・露と締結―英仏とは1850年の天津条約にもとづきその修正 追加を含み,外交使節の北京常駐権,天津の開港,賠償金増額を承認させ,英国は九 竜半島の一部を割譲させた) 1864英米からの武器援助と外人部隊により清朝,太平天国の農民戦争鎮圧 イギリスと中国の交易は1636年,日本とのそれはこれより先の1613年に始まっていたが, イギリスはこの後1623年平戸の商館を閉鎖,日本を引き払うことになる。したがってイギ リスは対日貿易の廃止後,中国と貿易を始めたことになるが,イギリスには初めから中国 との貿易に対する強い希望があったので,「日本貿易を止めた結果,それによって失った 利益を補わんがために対支貿易の希望を起こしたわけではない。」9)と矢野仁一著『アヘン 戦争と香港』は述べている。この希望はやがて,1776年のマレー半島西側のペナンの買収, 1819年のシンガポール租借そして24年のその買収という具合に,イギリスがインド以東に 着実に進出することで実現されてゆく。 ここにイギリスにとって中国の持っていた意味を分かりやすく述べた言葉がある。「イ ギリスという頭脳が植民地インドという胴体をもち,そこから東へ伸びた腕のヒジの関節 にあたるのがシンガポール,手首にあたるのが香港,さらにそこから五本の指が伸びて五 港の開港場を押さえる」10)という比喩である。ちなみにこの引用の「五本の指」とは年表 の南京条約で締結された開港された五港で,開かれた順に挙げれば,広東,厦門(アモイ), 上海,寧波(ニンポー),福州である。 香港についてはアヘン戦争最中の1841年1月に占領,香港政府の樹立を宣言した。この ときは永久居留地の位置づけであり,南京条約により正式割譲が合意されたことで,1843 年6月香港植民地となった。 さらに本ガイドブックは1867年の出版であり,1860年の北京条約後の展開も反映し,澳 門(マカオ)11)汕頭(スワトウ)台湾,高雄,台湾府(台南),淡水廳, ,揚子江お よびその河港,鎮江,南京,九江,漢口,芝罘(煙台),大沽,天津,北京,牛荘(営口) などについても記載がある。 ところで,これらの都市の中でももっとも記載の詳しいのは香港であり116頁におよび, ついで広東が86頁,北京については48頁割かれている。日本の場合,全体でもわずか70頁 にすぎないことを考えると,イギリスにとり日本がどれほどの存在であったか,容易に推
測しえよう。 ちなみにこれまで日本の幕末開国の歴史を,日本,アジアことに中国,そして欧米との 関係で先鋭に研究したのは,管見によれば加藤祐三氏であろうと思う。彼は当時の歴史的 状況を明快に分析し,アメリカがイギリスの先を越して日本と条約を結ぶにいたった理由, そして中国やシャムの開国と日本のそれとの関係を指摘している。今回のガイドブックも その歴史的状況を把握するために,その著書『黒船前後の世界』を頻繁に援用するであろ う。とりわけアヘン戦争,香港,上海などを無視して日本の幕末維新は語れないのであり, このガイドブックの日本部分もその状況を無視して考察できないからである。 最後に日本を見てみよう。幕府独断による「開国」と天皇の攘夷思想により,主権の将 軍から天皇への移譲という激変を経験したわが国の場合,開港場はこのガイドブックはい かなる都市を扱っているのか。それを確認するために,ガイドブック刊行をはさんで,重 要な歴史事項をまとめておこう。 1854.3.31.(3.3.)日米和親条約調印(下田即時・函館翌年開港) 11.(8.23.)日英和親条約 1858.7.29.(6.19.)日米修好通商条約 8.26.(7.18.)エルギンと日英修好通商条約 (この条約で 神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市が設定)12.21.広東駐在総領 事オールコック,日本駐在総領事(1858-1865)に任命される(のち1865-1871駐清公使) 1859.6.28.(5.28.)条約締結5ヶ国に長崎・函館・横浜にて自由貿易を許可 1860.3.24.(3.3.)桜田門外の変 1864.5.25.(4.20.)孝明天皇,横浜鎖港を条件に幕府に庶政委任 1865.7.8.(閏5.16.)英公使パークス横浜赴任11.4.(9.16.)4ヶ国艦隊,条約勅許を求め,兵庫沖 に結集11.22.(10.7.)条約勅許,ただし兵庫開港不可 1866.3.16.英外交官サトウ「英国策論」発表 1867.1.10.(1866.12.5.)徳川慶喜将軍に 11.9.(10.14.)大政奉還 1868.1.3.(1867.12.9.)明治維新(王政復古) 4.6.(3.34.)五箇条の誓文 9.3.江戸を東京と改称 このガイドブックが扱うことになる条約港の四つと,開市場である江戸については,な ぜ通商条約においてこれらが選択されたか,知るためにはタウンセンド・ハリスの残した 『日記』にまさる資料はない。以下おもに岩波文庫版『ハリス 日本滞在記』(坂田精一訳) によりその経緯をたどっておこう。このガイドブックの刊行されるちょうど10年前の1857 年12月12日,ハリスは外国掛の堀田正睦と二度目の会見を行い,「一,江戸に外国の公使 を迎えて居住させること。二,幕府の役人の仲介なしに,自由に日本人と貿易させること。 三,開港場の数を増加すること」を提案している。そして同月16日に会ったときには数本 の酒とともに「ブラント著『沿海水先案内コ ー ス ト ・ パ イ ロ ッ ト』一部」を贈り,手紙でこの書についてつぎの ように注意をうながした。 それ(=案内書)には合衆国,西インド諸島,南アメリカ諸国の各港の精密な説明がの っているが,このような書物は個人によって私的に印刷され,欲しい者には誰にでも自 由に頒売されている。我が政府は,この種の刊行物を,自国の繁栄の一大要素である外 国貿易の便宜を増すために奨励しており,この案内書こそ,日本の外国事務相の手許に 所蔵さるべき最も恰好な書籍と考えると認めた。12)
そしてこれはその見返りであろうか,翌18日他人に与えたり複写させたりしに条件で 「江戸の地図を一枚」13)入手した。 交渉の進展せぬのに苛立つハリスに翌年1月16日ようやく「大君陛下」からのつぎのよ うな回答があった。江戸における公使駐箚,自由貿易の件は認められたが,上記三つ目の 要求は,すでに下田,函館,長崎の三港が開港されており,小国日本にはこれ以上の開港 は不可能である(ただし下田は港として適当でないので他港を代わりとする)という理由で 拒否された。 これにたいしハリスは函館から長崎までは400里あるがこの間にひとつの港も開かれて いない。アメリカの捕鯨船には適当な港のあることは緊要である。他国と比べ日本の海岸 線の長さは突出している,と述べた。こうして彼は1月18日条約草案の中で日本側に,函 館,品川,大坂,長崎,九州の炭鉱付近の一港,平戸,そして日本西岸の二港の都合八港 の開港と,江戸と「ミアコ(京都)」の開市を求めた。 幕府側からの回答のあったのは1月28日である。交渉冒頭に,まず幕府は,重大事件に かんしては諸大名に諮らなければならないということ,また「商人や一般庶民が開国に賛 成していることは疑いを容れないが,しかし,大名や武士階級がそれに反対している」こ と,また幕府上層の文官連はこれらの問題を理解し,日本を繁栄させ,幕府を富強にする と思われる条約に賛成していることを述べた。そして本題に入り,石炭は長崎から三里以 内の地に発見されているので,九州の炭鉱付近の港は不要であり,平戸は貧困な小さな島 だからこれも不要。また京都は人口が25万もなく,「僧侶と寺の市」にすぎず大きな製造 業もない「割に貧弱な場所」である。品川は「大船がその二里半以内に入ってくることが でき」ず,港ではない。神奈川はすでにアメリカに開くことになっている等々述べた。そ して最後に西海岸には函館,長崎,神奈川などのような良港はなく,新潟をあげたが, 「もし新潟より良い港が発見されるなら,新潟とそれを取り換える」約束になった。 また京都については2月2日の会見で日本委員から,つぎのような発言があったと記さ れている。 京都をアメリカ人に居住地として開くことには,何ともし難い反対がある。それは日 本人の宗教と結びついている。それは至難であるだけなら兎に角,貴下の要求するとこ ろのものは実際上不可能である。それは商用の場所ではない。そのことは,アメリカの 公使がその市を訪問すれば,いつでも納得のできるものだ。その土地を外国人の居住地 として開こうとすれば,謀反をひき起こすことになろう。貴下がこの事を大統領に報告 する場合,大統領は日本に対して極めて親切な友人であるから,実際上の価値がなくて, 同時に日本に無秩序と流血とをもたらす事柄を主張するはずのないことを我々日本人は 確信すると。14) また大坂についても,「居住地として外国人に開かれたことはない。京都に接近してい るので,それをアメリカ人に開くことに日本人は大いに反対している」と述べ,大坂から わずか陸上三里の距離にある,そして同じ摂津湾に面する堺はどうか,それを好まないな ら,同じ摂津湾にのぞむ兵庫を提供してもいいと語っている。こうして若干のやりとりの あったあと,2月8日大坂江戸両市をアメリカ人に居住と貿易のため開くことに結着した。 また堺と兵庫についてハリスはこの両方の開港を求めたが,最終的に兵庫のみに落ち着い た。
ところがこの後,諸大名間の議論,勅許問題,将軍継嗣問題と重なり,条約交渉の立役 者たちの地位も危うくなる中,7月23日下田に入港した米国汽船ミシシッピー号から,つ ぎのような情報がもたらされた。インドの反乱を制圧したイギリスはフランスと連合して 中国を破り,その余勢を駆って大連合艦隊を編成し,日本に向かいつつある,そしてロシ ア艦隊もそれに続くであろうというのであった。ハリスはこの機会を巧みにとらえ条約の 調印に持ち込んだ。こうして1858年7月29日,ポーハタン号上で日米修好通商条約が調印 された。その第三条につぎのように書かれている。 下田函館の外,次にいふ所の場所を,左の期限より開くべし。 神奈川 西洋紀元1859年7月4日 長崎 同断 新潟 1860年1月1日 兵庫 1863年1月1日 若し新潟港を開き難き事あらば,其代りとして,同所前後に於て,一港を別に撰ぶべ し。 神奈川港を開く後六ケ月にして,下田港は鎖すべし。(…) 江戸 1862年1月1日 大坂 1863年1月1日 右二ケ所は,亜墨利加人,唯商売を為す間にのみ,逗留する事を得べし(…) 15) 通商条約締結(1858.7.29.日米修好通商条約,同年8.26.日英修好通商条約)後に,国内がそ の主権,統治の権限をめぐって分裂する中,1865年11月22日これら欧米諸国と結んだ条約 が勅許され,国内でも正当性を得るにいたった。このようにして日本では長崎,横浜,函 館が開港し,兵庫については1868年1月をもって開港の約束になっていた。そして新潟に ついてはこれに代わる良港も見つからずついに開かれなかった。こうした事情を今回紹介 のガイドブックは反映し,これに開市の江戸大坂の記述(大坂については兵庫の項に若干 の説明がある)が加わって日本部分の案内の全体を構成している。 Ⅲ 『米欧回覧実記』との対比 さて,この新しく発見されたガイドブックへの興味はさまざまな分野にわたるのである が,その特徴をつかむには,どのような工夫が必要であろうか。―この書はすでに述べた ように条約港と江戸に限った案内書で,日本全体からすればごく一部の都市が扱われてい るにすぎない。そこには都として長い歴史を誇る京都もそれよりもさらに古い都である奈 良も,イギリスと砲火を交えた鹿児島も下関も現れない。アーネスト・サトウらによって 賛美されるであろう日本の自然についてもごく限られた記述を見るのみである。富士山も, 琵琶湖も,熊野も顔を見せない,わびしい中身と言ってよいこの世界初の英文ガイドブッ クに多様な日本の姿の十分反映していないのはもちろんである。 にもかかわらず独自の観察や指摘が,案内書特有の簡潔な記述を通してうかがえること も事実である。それに長崎への船旅の描写,長崎の自然への賛美だけを見ても,未知の神 秘の国にたいする好奇心と愛着とが感じられ,現代の我々日本人自身,この「忘れられた 日本人」と彼らの国を異国の民族と世界のように眺め始める。―厚い雲と霧におおわれ
た世界が,そのとばりを少しづつ外し,手足と頭の先だけがのぞいている。この世界はあ と一年か二年も経てば,激変し始めるであろう。彼らの衣装も,頭髪も,履物もすっかり 変わるであろう。あの「武士」と呼ばれる人たちの運命はどうなるのだろう。彼らが腰に さしていた刀は,そしていわゆる「やまとごころ」―あの「朝日ににほふ山ざくらばな」 はどうなるのであろう。否,そもそも日本人の魂という言葉でまとめられるような精神が, 日本にかつて存在したのだろうか。支配者の交替とかかわりなく存在する民衆は,どうな るというのか。そんな疑問がつぎつぎ浮かんでこよう。 そしてそれが多くの日本人が我々の紹介する案内書に抱く関心であろう。しかし欧米人 の目に映った日本,青いひとみに映った自分の国の姿に見入るのは,文化的ナルシスムで ある。我々が忘れてならないのは,一体このひとみ,この目はなぜ日本を見つめるのか, ということである。―世界の知識の欠けた部分を埋めなければ済まない飽くなき探求心。 それに13世紀マルコ・ポーロによって「黄金と真珠の国」として紹介されて以来,コロン ブスはじめ多くの西洋人がジパングを目指した17)。そしてまた日本は殉教の地でもあった。 1605年当時,日本には75万のキリシタンがいたとされる。その中で殉教した者の数を, 「カルディムは1646年正確な記録にのったもの1450人をあげ,姉崎博士は1930年3792名を, ラウレス博士は1956年4045人としたが,この人数は新史料が現れるにつれて増加しつつあ る」16)と片岡弥吉は述べている。しかしまた日本人は,啓蒙主義を代表する思想家ヴォル テールによって「全人類中もっとも寛容な国民」18)と評されてもいた。 こうした関心は日本の開国以降,英米に限ってみても,イギリスはサトウ(Ernest Satow1843-1929)やハーン(Lafcadio Hearn1850-1904)に代表されるような日本文化の深い理 解者を生み,アメリカもヴァーベック(通称フルベッキGuido Fridolin Verbeck1830-1898) やグリフィス(William Elliot Griffis1843-1928),そしてヘボン(James Curtis Hepburn1815-1911),駐日大使Edwin O.ライシャワーの父A.K.ライシャワーら明治学院にかかわる宣教 師たちの日本研究の系譜がある。これらの中で少なくともハーンやグリフィスに限っても, 近代の欧米文明の基本的前提――個性の十全な発展のみが社会の実りある進展をもたらす という信念を無視しえない。これはギゾー(François Pierre Guizot1787-1874)が『ヨーロッ パ文明史』(1828)の第一講の中で明確化しているものである。彼はこの図式をさらに,ヨ ーロッパ世界とそれに属する諸国の関係にあてはめ,そのダイナミックな歴史を描出した。 日本に讃嘆の目をむけた欧米人たちも,彼らが目にする光景をあくまでもこのような窓枠 の中でとらえていたのであり,それがなければ『日本―一つの試論』や『ミカド』の名著 19)も存立しえない。本ガイドブックがイギリス人の観察の独自性に力点を置いているよう に見えるのもこうした認識から来るものであろう。 ところで,本書についてはもちろん日本案内の歴史の中に,そして英文案内書の冒頭を 飾るものとして,ペンギン書店から刊行されている“Eyewitnesse Travel JAPAN”の 2007年版にいたるまでのガイドブックの歴史の中に置いて眺めることが出来よう。とりわ け後者と比べるとき読者は隔世の感に打たれるであろう。カラー写真がふんだんに盛り込 まれ,神社仏閣城郭そして民家の外部内部の構造が瞬時につかめるヴィジュアルな図解, それぞれの都市の観光上見逃せぬ通りや区域の分かりやすい立体的な俯瞰図,はしの使い 方,弁当の中身や寿司ネタの名前の入った写真図版,男女の和服や履物が七五三・結婚式 の写真も入れて詳しく図解されている。 純然たる案内書というのではなくとも,紀行も含めた,地誌的研究の歴史の中の位置づ けを問題にすることもできるであろう。そして日本文化の特質について,その見方の変遷
をたどることもできよう。しかしもし逆に日本は欧米をどう見るかを問題にしない限り, 欧米側からの一方的な視点ではすでに各国の競合する世界大の文明の中で,双方向の交信 を失い,受動化した日本が孤立し自閉するのは明らかであろう。これは新たな鎖国と呼ば れて仕方あるまい。その意味で日本は欧米をどう見るか,このことが問題とならなければ なるまい。そして欧米についての正確な認識は本来は,民間の,自由な探訪と研究によっ て築かれるべきものであったろうが,当時の日本には短期間で大きな文明の落差を埋める 必要があった。しかもこれはあるアメリカ人の提案を生かしたものであった。 1871年(明治4年)12月23日から翌々年の9月14日にかけて,日本は米欧に使節団を送った。 この使節団はこれを率いた特命全権大使岩倉具視の名を取り,一般に岩倉使節団と称され, その公的報告書として『特命全権大使米欧回覧実記』(以下『米欧回覧実記』と略す)が刊 行された。この米欧12ヵ国歴訪は英文初の日本案内書が出てからわずか4年後の出来事で あった。『米欧回覧実記』は全百巻からなり,大使に随行した久米邦武が権少史として編 集,その彼が少書記官のときに明治11年12月太政官記録掛から刊行されたものである。20) 岩倉使節団の使命は三つあったとされている。第一は条約締結国への「聘問の礼」第二 は条約改正の予備交渉,そして欧米の制度文物の調査研究であった。『米欧回覧実記』は この明治初期の日本政府あげての新国家建設のための調査見学の成果であり,この米欧歴 訪による西欧文明にたいする認識は,帰国後の日本の将来の青写真の構成につながるはず のものであった。 ところで,この使節団派遣計画の背景にはフルベッキが大隈重信に送った通称Brief Sketchと呼ばれる意見書があった。その中に次のような見解が示されている。すなわち 欧米では, およそ考え得る限りの統治形態,あらゆる種類の法律,国家財政にすべて可能な管理 方法,教育のあらゆる仕組みが数百年にわたって実験されてきており,今日,ヨーロッ パやアメリカに現存する国家体系は,これら実験の結果である。こうした多種多様を極 めている中に,認識されて避けられるべき欠陥のみならず,また研究し模倣さるべき秀 れたものもあるのである。21) このような欧米の文明をイギリスやフランス,ドイツなどの一国に限らず全体として捉え 今後の新国家の体制づくりに生かそうとするもので,フルベッキの助言が大きな役割を果 たしたことは否定できない。そしてここでは,上に述べたように,この進言の中にフルベ ッキの欧米世界についての歴史的理解が明瞭に現われていることを強調しておかなければ ならない。 さて,この使節団は既述したように右大臣岩倉具視を特命全権大使とし,副使に参議木 戸孝允,大蔵卿大久保利通,工部大輔伊藤博文,外務少輔山口尚芳を擁し,総勢約五十名。 田中彰氏によれば平均年齢はほぼ三十歳。これにさらに五十九名の留学生をともなってい た。上記の意見書には,その使節代表には「天皇および国民が,その知性,活動力,高い 人格に十分の信頼がおける人物」をあてるべきことが書かれていた。 ところで,『米欧回覧実記』はいわゆるガイドブックではない。太政官少書記官久米邦 武編修の「各国で国民の代表として迎えられた使節団の,日本国民に対する公的な実況報 告書」である。しかしその報告書は日付の入っていることをのぞけば,ほとんどガイドブ ックの中身に等しいものを有している。この出版を行った博文社の広告趣意書にもつぎの
ような記述がある。 (…)書中ノ記スル所ハ国毎ニ前ニ総説ヲアケテ後ニ実見ヲ詳録ス,政俗ヲ観レハ人種ニ 遡リ,地理ヲ観レハ運漕ニ及ホシ,野ニ農牧,山ニ礦坑,都邑ニ製作商売ノ景況ヲ采訪シ, 其他人民ノ居所生計教育ノ模様スベテ我士農工商ノ生業ニ注意スヘキコトハ懇ニ記載シ, 併セテ各都官衙ニツキ文治武備ノ制度ヲ察シ,緊要ノ所ニハ政治,法律,統計,歴史及ヒ 理学,化学,重学諸書参考シ,実際ト理論トヲ兼ネ,之ヲ東洋西洋ノ異同ニ稽ヘ,一一ニ 論辯ヲ加ヘタリ,而テ巡回ノ途上ニテ山水原野名園勝地ノ風景ヲ記スルニハ,文章ノ精義 ヲ発揮シ,宛然トシテ目ニアル想ヒヲナサシム,加之ニ銅版ニテ各地ノ写真三百余種ヲ彫 リテ挿入シタレハ,居ナカラ米欧各国ヲ巡ルカ如シ(…) 22) これはまさにガイドブックの目指すものと同一ではなかろうか。長年の日本研究の成果 を踏まえ1867年英文で書かれた最初の日本ガイドと,1871-73年にかけて行われた欧米視 察にもとづき,1878年(明治11年)に刊行された日本のいわば総力をあげた欧米文明の調査 の成果,この格調高い日本語で著された欧米案内書を並べるとき,当時の欧米と日本の姿 が鮮明に浮かんでくるのではなかろうか。そしてこの『米欧回覧実記』という国家あげて の事業の壮麗な記念碑も,フルベッキ自身により報告書作成要領が意見書にして出されて おり,これが執筆の方針として示唆を与えたろうことが推定されている。23) Ⅳ 刊行当時の世界とガイドブック―なぜ「『知』の収奪」か? しかしながら『米欧回覧実記』を正真正銘のガイドブックと同列に扱うわけにはゆかな い。というのはガイドブックはまず何よりも簡便である必要があるからである。それは現 地に赴くための手引きであって,実際的な情報を正確に手短かに提供するのでなければな らない。名所旧跡の要領のよい案内はもちろん,交通・食事・宿泊・両替・土産物等,旅 行者の満足できる旅を目指さなければならない。あえて言えば,『米欧回覧実記』はそこ に盛り込まれた欧米についての学術的な情報の質は高く,文学的にも評価すべきものがあ るが,この実際性と簡便さを欠いている。ギッド・ヴェール等欧米の案内書は,必要なふ たつの要素a)実際性と簡便さb)学術性の高い情報提供 を兼備している。 ところで残念ながら,今日にいたるまで日本では,欧米に関する日本語によるすぐれた 案内書は出ていないように思われる。フランスのミシュランから翻訳したものは除いてで あるが24)。『米欧回覧実記』,あるいはたとえばフランスに限って見ても,滝沢敬一著『フ ランス通信』(全10巻 岩波書店)などといったフランス人の生活と一生について万般にわ たる,歴史的にも貴重な記録はあるが,いわゆるガイドブックはない。逆に『地球の歩き 方』のような,実際性と簡便さにすぐれた案内書は出ている,しかしそれは学術的な堅固 さを欠いている。これは昨年のミシュラン旋風の問題ともかかわるが,非常に根の深い文 明現象である。司馬遼太郎の『街道を行く』のようなシリーズが盛況を見た背景には,良 質の案内書の欠落があり,その渇望が出版を支えたのであろう。こうした例はおいても, 近代文学からガイドブック的要素を除いたとき,どれほどの芸術的実質が残るものであろ うか。ともかく欧米に関し―否,このことは日本をふくめ,欧米以外の国々の案内書につ いても敷衍できるであろう―日本語で書かれ現在も使用されうる,良質の旅行案内書の欠 落している事実は,その近代化を考える場合,見落とすことのできない問題をのぞかせる。 このことをさらに考察するために,欧米における近代的ガイドブック誕生の歴史をなぞる
必要がある。 さて,地理書,紀行文,案内書等を包括的に対象としうる地誌学の立場からすると,欧 米には紀元前後に活躍したストラボンの『地理書』,紀元2世紀のパウサニアスの『ギリ シア案内記』などがすでにあり,日本でも8世紀の『風土記』の例もあるが,近代的なガ イドブックということになると,明確な性格上の相違がある。では,どこが違うのであろ うか。それはおそらく大きく言って三つあるであろう。ひとつはその基盤となる学術性(a) からくるものであり,もうひとつは交通機関の発達・行楽地の発見等による旅行の大衆化 (b)そして複数のガイドブックの競合(c)である。 (a)高い学術性 ガイドブックの刊行はおそらく博物館の出現と緊密な関係にある。ギッド・ヴェールの パリ案内を見ると,そのほとんどが博物館・美術館の記述に費やされている。したがって これらがなければガイドブックの中身はすっかり失われる。近代的な博物館の誕生は一般 にルネサンスに始まるとされ,18世紀半ばには大英博物館,また1793年にはルーヴル美術 館が公開されている。それではmuseum, muséeとは何であろうか。現在ユネスコの専門機 関であるイコム(ICOM),国際博物館会議の定義によれば,「非営利目的の,社会と社会の 発展のための,一般に公開された常設の機関であり,人間とその環境の物的資料にかんす る研究を行い,それらを入手,保管し,伝え,そしてとりわけ研究・教育・鑑賞を目的に 展示する機関」25)である。ここに謳われているのは「知」の無償性と社会性,公開性,そ してその「知」が具体的な資料による実証をともなっているということである。すなわち 博物館とは世界の断片を特定の場所に集めて,社会の進歩のために,万人の検証に供する 機関である。これは人間の自由と民主主義の基盤を,精神の,認識の面から支えるもので あり,居ながらにして世界を俯瞰させ,世界についての十全の理解をはかろうとするもの である。 それではこうした開かれた精神はどこに始まるのであろう。それをもし近代に限定する とすれば,フランスの場合は1635年のアカデミー・フランセーズ,イギリスにおいては 1660年の王立協会創設に求めるべきであろう。王立協会はその正式名称を〈The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge〉といい,新しい研究成果を機関誌に 掲載し,知識の公開という学会システムの先駆となった26)とされている。そしてこうした 学術的な組織は博物館創設の原動力となったばかりではなく,ガイドブックの誕生におい てもその支えとなっていることは当然で,我々が扱っている1867年版の中国日本ガイドの 著者の肩書を見ても,十分推測されるであろう。 ところでそれでは博物館とガイドブックの性格は同じであろうか。世界についてのより 正確な認識をめざすという点では共通しているが,その方法は正反対である。すなわち博 物館は世界の断片を一ヵ所に集中させることで成立しているのに対し,ガイドブックの場 合は世界そのものへ直接導くことを使命としている。世界の断片ではなく,世界を生きて あるままに認識するための手引きである。こういう表現が許されるとすれば,「生きた博 物館」への導き手なのである。しかしこの贅沢は,この余裕はいかにして可能になったの であろう。 (b)旅行の大衆化―蒸気機関の発明・行楽地の発見・万国博覧会 それを探るためには,18世紀の貴族たちのいわゆるグランド・ツアー隆盛ののち,19世
紀に入り,旅行が科学技術の進展のおかげで大衆化した事実に注目しなければならない。 科学技術の進展とは蒸気機関車・蒸気船に結晶される一連の成果である。産業革命が世界 で最初に侵攻したイギリスにおいて,ワット(1736-1819)が1774年実用的な蒸気機関の発明 に成功したあと,スティーブンソン(1781-1848)により1825年9月英国のストックトンとダ ーリントン間に世界最初の旅客用蒸気機関車ロコモーション号が走った。1830年にはリヴ ァプールとマンチェスター間の鉄道が開通,その後2,30年間にイギリスの国内鉄道網は完 成した。また蒸気船も1807年のアメリカ人フルトンによる蒸気船の営業的成功ののち,や がて大西洋を蒸気船が蒸気力だけで航行するにいたり,それが定期航路として定着したの は1840年前後。当初郵便物輸送として利用されていた蒸気船によって,1853年にはイギリ ス帝国は香港まで,その世界的規模の新しいコミュニケーション・システムを延ばしてい た。27)いわゆる「交通革命」が起こったのである。 また18世紀は内陸の温泉保養地が人気を博していたが,旅行の大衆化にともない海岸保 養地が脚光をあびるようになった。それは収容力が無限であり,かつまた当時海水には温 泉水と同様の効果があるとする学説がひろく信仰されたことが背景にあった。 そ してとくに海外に対する関心の拡大には,蒸気船等の発明による遠方世界への距離が 短縮されたという意識もさることながら,植民地帝国として世界への文明の伝播と表裏を なす未知の世界への好奇心の刺激があったことも見逃せない。これは19世紀,欧米で開か れた国際博覧会,いわゆる万博の開催に顕著にうかがえる。1851年ロンドンのクリスタ ル・パレスで開かれたのを嚆矢として,53年ニューヨーク,55年パリ(第1回),62年ロンド ン(第2回),67年パリ(第2回),73年ウィーン,76年フィラデルフィア,78年パリ(第3回), 80年メルボルン,88年バルセロナ,89年パリ(第4回),93年シカゴ,97年ブリュッセル, 1900年パリ(第5回)とつづき,膨大な見学者があったことを考えると,この開催じたい が欧米諸国の国威発揚につながるばかりでなく,植民地諸国およびそれ以外の未知の世界 への広範な関心を煽ったことは間違いない。28) そして最後に,これらの要素を巧みに組み合わせ,人々のあいだに旅行に対する情熱を そそったのが「近代ツーリズムの父」と称されるトマス・クック(1808-1892)であった。 1841年創業のクック社は40年代をつうじて国内団体観光旅行を軌道に乗せたあと,1851年 世界最初の万国博覧会,「ヴィクトリア朝最大の国家的イヴェント」とされるロンドン万 博を利用し,5月1日の開幕から10月15日の閉幕までの入場者600万のうち16万5千人を 運んだとされている。29)この成功の後,クックは海外観光旅行に手を伸ばしていった。 1860年彼はある文章の中でつぎのように述べている。 旅をつづけながら,快かったことといえば,偏見の壁が取りのぞかれ,邪悪な感情と気 分が一掃され,知性が広がり,知識が身につき,読書欲が起こり,同胞のおかれた境遇 や苦しみが以前にまして理解でき,いたわりの共感が生まれ,労苦に耐え,困難にめげ ず(…)あわせてもろもろの名状しがたい有益な感化を体験するのを目の当たりにするこ とだった。30) もとバプテスト派福音主義の伝道師だったクックの面影が,この旅の効用を説く文章に うかがえる。彼はやがて1872年には世界一周旅行を企画するまでになる。 このような歴史的状況の中でガイドブックの必要性が生じていたのであり,旅行はその 企画からはじまり,その成果の確認にいたるまで案内書ぬきに考えられない時代が到来す
るのである。 (c)ガイドブック競合 では,こうした旅行業の繁栄の中でそれと緊密に結びながら,ガイドブックはどのよう に誕生したのであろう。―近代的な旅行案内書の出現については,英国ではジョン・マレ ー社が最初とされている。これは創業1768年のロンドンの文芸専門の出版社で,創業者二 代目のジョン・マレー(1778-1843)がマリアーナ・スターク著『大陸旅行者のための情報』 (1820)を刊行し,「現地取材にもとづいた旅情報として,信頼できる案内書の評価をえ」 たと言われる。そのあと三代目ジョン・マレー(1808-1892)が旅行案内書の双書『マレ ーのガイドブック』を創刊した。これらの出版の背景には,従来の案内書は「大抵が実際 に土地を識らない者による当たり障りのない記事で,それゆえ不完全で間違っていること もあった。あるいはある場所の地誌・歴史にしても,その土地ならではのものと観光に値 しないものとの区別が十分つかない地域住人が書いた内容」であるとの認識があった。31) こうして1836年,オランダ,ベルギー,北ドイツを扱った『大陸旅行者のためのハンド ブック』,1838年には『マレーのガイドブック・スイス』『マレーのガイドブック・南ドイ ツ』,1843年には「マレーのガイドブック・フランス』が出版された。これらの案内書は, 縦7インチ横4 5/8インチの携帯版で,良質の薄紙を用い,赤表紙の装丁で,『レッドガイ ド』と愛称された。 国内版は1851年の『デヴォンとコーンウォル』を手始めに1899年までに60余点を刊行し た。外国版は『マレーのガイドブック・スイス』が20世紀初頭までに19版を重ね約5万部 が売れた。また1859年初版の『マレーのガイドブック・インド』も改訂を重ね,対象地域 をセイロン,ビルマにも広げ,20版を数えた。 フランスでも,アシェット社が1841年『スイス案内』を皮切りにギッドブルーと呼ばれ る双書を刊行しており,またタイヤの会社ミシュランが出しているギッド・ヴェールは現 在世界的に有名であるが,もともとはアンドレ(1853-1931)とエドワール(1859-1940)二人の ミシュラン兄弟が,自動車旅行者に無料配布したパンフレットが始まりだとされる。1900 年には『赤のミシュラン』と呼ばれる五段階に格付けのされたホテル,レストランの案内 書が創刊され現在に至っている。 また,ドイツでも『ベデガー』という案内書が一世を風靡した。書籍業を営んでいたカ ール・ベデガー(1801-1859)はコブレンツの小さな印刷所の営業権を買い取り,ここを根城 に当時ベストセラーだったある教授の『マインツからコブレンツへのライン川案内』とい う案内書を1828年改訂・増補し,乗り物宿泊施設の情報を充実させ創刊,1861年『ライン 川案内』,1863年には『スイス案内』,1865年『パリ案内』,1869年『ベルギー・オランダ 案内』,やがて『マレー』と競合する英語版,1878年の『ロンドン案内』1887年の『イギ リス案内』を出版,やがてヨーロッパ,北アフリカ,近東以外にロシア,アメリカ合衆国, カナダにも及んだ。 しかし第二次世界大戦後,旅行者数の激減とともにベデガー社は退潮し,英語版共同編 集長フィンドレー・ミュアヘッドが離脱,アシェット社と提携し,ロンドンでミュアヘッ ド社を設立し,1918年ブルーガイドのシリーズを刊行し始めた。二次大戦後はこのシリー ズはアーネスト・ベン社,そして現在はイギリスのブラック社とアメリカのノートン社に 引き継がれている。 こう見てくると,1867年の中国・日本ガイドは,ヨーロッパの有名出版社が鎬を削って
つぎつぎヒット案内書を打ち出す中で,おそらく待望の一書であったろうと思われる。そ してその案内書は当時の外交上の状況からして,領事部に深い関係を有する著者にしか書 き得なかったものと思われる。中国にしても日本にしても(たとえば兵庫開港をめぐる交 渉経過を見るとよい),英国の外交政策は当時の両国に敏感に反映する政治状況であり, その案内書はしたがってきわめてデリケートな扱いを必要としただろうから。 * さて,旅行案内書は平和時には,人間の知見を広げ,人類のさまざまな文化に対する理 解を深める,この上ない手引きである。しかし戦時には,たちまち戦略立案のための重要 情報として利用されうるものであり,第二次世界大戦のときのナチによる「ベデガー爆撃」, さらには米軍のノルマンディー上陸作戦敢行の際のフランスのギッド・ヴェールの活用を 例に引くまでもない。知はそれ自体中性であっても,その知をそなえればそなえるほど他 者にたいし優位に立ち,状況の巧みな操作を可能にする。そればかりではない,こうした 知識・情報が共有されるシステムも,その知識・情報の威力を構成する。19世紀,文明に おごるヨーロッパ列強はアジアにおいて,フランスはインドシナを,イギリスは中国香港 を植民地化した。中国の場合,第一次大戦終了までアヘンづけにされた。32)こうした歴史 を振り返るときガイドブックを「『知』の収奪」と呼ぶことは許されるであろう。「『知』 の収奪」とは「知」そのものを対象とするあくなき探求であると同時に,その成果を巧み に利用することによって得られる収奪でもある。文明の落差が大きいとき,知の水準の隔 たりは,見えざる巨大な搾取に結びつく。 幕末この不安を抱いた武士がいた。渡辺崋山(1793-1841)である。彼と同年の生まれに大 塩平八郎がいる。かつて大坂町奉行所の与力であり,高名な陽明学者であった大塩は,天 保の飢饉に苦しむ貧民を救済しようとして1836年奉行所に直訴したが聞き入れられなかっ た。彼は蔵書を売却し人々の救済に充てるとともに,翌年仲間をつのり挙兵したが志なら ず,一時潜伏ののち放火自刃した。これは渡辺崋山(1793-1841)のような人格には,大きな 衝撃であった。国内の困窮ばかりでなく,崋山は当時の一級の蘭学者たちとの交流をつう じ,日本がいかなる国際情勢のもとに置かれているか知悉していた。『鴃 げき 舌 ぜつ 或 わく 問 もん 』(1838)に はあきらかに彼が「蒸気船」の存在を知っていたことを示す「自行火船」という言葉を用 いており,しかもこの船は当初そうであったように「郵便船」として使用すべきで荷物を 積む船ではないことまでも正確に知っていた。33)また彼は西洋の科学技術が進展した理由 を明らかに掌握していた。「欧羅巴洲中,何等の事によらず,一の発明あれば,速に一洲 の惣法となる」(『再稿西洋事情書』)と述べている。34)その彼は当時の日本を指して「途上 の遺肉」(『慎機論』)と述べている。我々のガイドブックを「『知』の収奪」と呼ぶのは, この19世紀のすぐれた人物の抱いた不安にも沿うものであろう。 最近の幕末維新研究の成果である園田英弘著『西洋化の構造―黒船・武士・国家』(思 文閣出版)は,蒸気船の発明が世界にもたらした激変と,それによって米国が抱くにいた った対日外交の基本精神をあざやかな手際で分析している。その第一部「西洋化の外部環 境」で,19世紀前半の日本を取り巻く文明の状況を扱い,「19世紀の50年代以降になって, 地球は初めて球形の実質を獲得し」たが,それには蒸気船の実用化とこれに伴う世界のコ ミュニケーションの大変化が背景にある。19世紀の工業化が生み出した蒸気船という「文 明ノ利器」は,「地球の縮小化や情報の従来にない高密度で自由な流通」をもたらした。 日本の開国はまさに十九世紀の工業化・情報化そして国際化をもたらした歴史的変動によ
る必然である,と述べている。35)
ちなみに帆船の時代,西洋から東洋へは半年余りかかったが,1867年当時では蒸気船の 導入によって50日あまりに短縮された。この幕末当時,江戸から長崎までの旅程には約40 日を要したと言われる。こうして帆船から蒸気船への転換によって,世界の距離はますま すちぢまったが,通信の方でも1871年(明治4年)デンマークの大北電信株式会社(The Great Northern Telegraph Co.)が長崎・上海間,また長崎・ウラジオストック間に電信ケーブル を敷設。網の目のように世界に張りめぐらされつつあった通信網は,日本をまさに取り込 めんとしつつあった。 さらに我々は1867年版案内書が刊行されたころ,欧米の知的世界には文明を揺るがす学 説が王立協会(Royal society)の会員であったチャールズ=ロバート・ダーウィン(1809-1882) によって提唱されていたことを忘れてはなるまい。彼は1859年『種の起原』によって近代 的進化論を確立したとされるが,この本の基礎は1832‐36年にかけ英国軍艦ビーグル号に 乗船し,南アメリカ大陸,南太平洋を巡り,ことにガラパゴス諸島において行った観察で あった。日本とは何のかかわりもなかったこの博物誌家の学説はやがて日本にも導入され, 大きな反響を呼ぶことになるが,自然科学における学説は従来のキリスト教による自然観 人間観におおきな変更を求めるものであった。 そして我々の案内書にはまだ使用されていないが,やがて来るべきガイドブックの誌面 を飾ることとなる写真36)が欧米では広く普及し,日本でも1848年にこのタイプのカメラ を薩摩藩御用商人上野俊之丞(1790-1851)が島津斉興に献呈,撮影実験が行われたことが知 られている。また1862年には俊之丞の子上野彦馬(1838-1904)が長崎中島川河畔に,そして 下岡蓮杖(1823-1914)が横浜に写真館を開いている。こうして地誌的博物誌的関心はこうし た具体的な鮮明な画像によってさらに刺激されてゆくことになる。 さて,浩瀚の書,膨大な研究,とくに散漫にも陥りがちな紀行文などではなく,携帯し つねに参照しうる簡潔な記載を特色とするガイドブックを我々が所持することの利点はど こにあろうか。それは文献の洪水の中におぼれるのではなく,自らの文明もしくは異文明 へもっとも効率的に案内されることであり,それを通して未知の事物に実地に自分の五感 で触れうることであろう。また目にする風物や遺跡の価値を,その時点での学術の成果に もとづいて,迅速に学習しうることである。この1867年の日本案内書も当時の欧米からの 来訪者を生きた日本の条約港へ巧みに誘ったのであり,その意味で江戸から明治への時代 の転換を,その夜明けを待ちつつ証言する貴重な資料であると言ってよかろう。 これで本ガイドブックの簡単な紹介は終え,いよいよ邦訳に入りたい。日本についての 総説部分は本論稿の最終回に扱うとして,これより回を追って長崎,横浜,江戸,函館兵 庫と訳出しながら,その説明の問題点を見てゆくことにする。 注
1)上掲 THE TREATY PORTS OF CHINA AND SADAN p.618
2)ツンベルグ(1743-1828スウェーデンの植物学者・医学者で、リンネに学ぶ。シーボ ルト以前の日本研究の第一人者でオランダ東インド会社に入り、1775年長崎オランダ 商館医として来日。)