﹁安価な政府﹂と植民地財政
1英印財政関係を中心にして一
金
子
勝
は じ め に
︵1︶
本稿は、 ﹁安価な政府﹂とレッセ・フェールを中心とする通説的な﹁自由主義﹂段階の財政論を批判的に再検討することを目的とする。その際、何よりもまず、①産業資本段階のイギリス資本主義が、大植民地帝国として不断に膨
張を繰り広げていたこと、従って、⑧この事実を無視したまま、ただ本国の国家財政の分析のみをもって、 ﹁自由主 義﹂段階の財政を﹁安価な政府﹂ ︵およびレッセ・フェール︶としているだけでは不十分であること、が確認されね ︵2︶ ばならない。即ち、本国の国家財政だけでなく、対外政策︵世界市場創出︶と対内政策︵﹁安価な政府﹂︶の媒介手段となった植民地財政の実態を把握することによって、産業資本段階のイギリス財政を“膨張する大植民地帝国の財
︵3︶ 政”として再構成しなければならないのである。 1安価な政府と植民地財政一 九七1論 文1 九八
ヤ ヤ ヤ ヤより具体的には、ωイギリス国家が、国家経費︵特に軍事費・公債費︶を相対的に低く抑えながら、いかにして膨
大な帝国の費用を賄いつつ、世界的な政治的軍事的優位︵。ハックス・ブリタニカ︶を実現しえたのか、また、のイギリス産業資本は、いかなる政策と負担の下に、非資本主義圏への世界市場創出︵特にイギリス綿業資本のアジア市場
︵4︶ 拡大︶を遂行しえたのか、といった点が明らかにされねばならない。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 大内兵衛・武田隆夫﹃財政学﹄弘文堂、 一九五五年、第四章、武田隆夫・遠藤湘吉・大内力﹃再訂近代財政の理論﹄時潮 社、 一九六三年、第一篇第二章、および井手文雄﹃近代財政学﹄税務経理協会、七二−七頁などを見よ。 島恭彦氏に代表される﹁自由主義﹂財政論批判も、植民地財政、就中インド財政の重要性を見落としており、そのため、 ﹁安価な政府﹂と産業資本の蓄積との関連について+分な論及がなされず、従ってその批判も、国家が無用になるわけでは ないという消極的なものにとどまっているように思われる︵氏は、その例証として資本主義的行政改革と政府部門.地方財 政の役割の増大などをあげている。島恭彦﹃現代の国家と財政の理論﹄三一書房、一九六〇年、第一章︶。 帝国主義段階についてであるが、植民地政府・地方政府を含めた多元的政府構造から経費膨張を見なければならないとい う視角は、既に林健久氏によって示唆されているところである︵林健久﹁経費膨張論ノート F.ニッテイをめぐって﹂武 田隆夫・遠藤湘吉・大内力﹃資本論と帝国主義・下巻﹄東大出版会、 一九七一年、所収、三三一頁︶, 従来、財政学の分野では植民地財政が全く射程外にあったため、関税削減による﹁自由貿易政策﹂のみが過、肢に強調さ れ、非資本主義圏への世界市場創出については、ほとんどふれられてこなかった。本稿は﹁安価な政府﹂論批判を中心とす るが、これに関連するかぎりで﹁通説的﹂な﹁自由貿易政策﹂にも言及せざるをえない。この点で本稿は、インドのナショ ナリスト達の議論に負う所が大きい。その議論に対しては、 竃・U・竃。局量..↓o毛賀房四国。ぎ9﹃℃﹃。けゆ二8亀這9 0雪暮昌ぎ色四P国8ロ。ヨ8=馨自ざ.、、ミ§ミミ肉亀ミ。ミ魯韻詠むq’悼oo︵“yお$︵貿司∼国電伴暴叫︶を一つの契機として、今日まで数多くの批判.再検討が試みられているが、ほとんどイギリス側の文献のみに依拠し、従ってイギリス功 利主義者達の主張を無批判に受け入れてきたイギリス財政史の研究状況を踏まえるならば、植民地側のナショナリスト達の 主張を手掛かりにイギリス財政史を再検討する意義は、今日でも些かも薄れていないと筆者は考える。 1
イギリス植民地財政の急膨張とインドの戦略的地位
”膨張する大植民地帝国の財政”として、産業資本段階のイギリス財政を再構成するという本稿の目的にそって、
まず植民地財政の全体像々一明らかにしなければならない。だが従来の研究では、この膨大な植民地財政が果してどの ハユロ程度の規模であったかについては、ほとんど明らかにされていない。従って、植民地財政がイギリス帝国に対してい
かなる役割を果していたかについて論ずる前に、まず、その財政規模と推移を明らかにしておかねばならない。表
1.表2は、議会青書から作成した植民地財政の規模と推移を表わしている。この表は、なお不完全であるが、今日
ハワじ
手に入いる最も近似的な数字であり、ほぼその全体規模を表わしていると考えてよいであろう。 この表で、まず第一に注目すべきことは、一八四六年から一八七C年まで植民地財政が極めて右.心激に膨張している ことである。即ち、﹁総計﹂でみて、一八四六年の約二、八二六万ポンドから、﹂八五五年の約三、八七七万ポンド、一八六五年の約六、三八八万ポンド、一八七e年の約七、二八八万ポンドと二五年間に約二・五倍に増加しているので
ある。他方、イギリス本国では、周知のようにクリミア戦争期を除いてほぼ停滞的であった。即ち、ミッチェルによ
れば、一八四六年のイギリス園家財政は粗支出額で約五、五四〇万ポンド、一八五五年は約九、三一σ万ポンド、一八六五窪約六、六百奈ンド、欠き年は約六、七八・万委ドと賢んど雛シ﹂搬冤この結果﹄茜
一安価な政府と植民地財政一 九九〔表1〕 イギリス植民地における財政支出 1846年 合 割 、ドる め 占 ンに 中 計 イ総 ︵ ンス港 ヤ 。シ ィリ 一 セモ香 1846年 27,120,630 (94.7%) 498,205 50,598 60,351 (単位:ポンド) 〔出所〕 インドにつV・ては,K・T・Shah’ 、3擁ッy8σrs oゾ∫屈∫βπ月πσ欝θ・ 1921,P.3,他の植民地については tThθR脚・∫s励伽切gT乃εP・sf σ”4Pr8sε”∫Sf6∫80グHεr餌βゴー オニュー・サウス・ 1 ウェールズ ス ヴァン・ダイメンズ・ ト ランド ラ 南オーストラリア リ 西オーストラリア ヤ、ニュージーランド ラ冴=■クランド諸島
イオニア諸島
ケープ植民地
セントヘレナ
黄 金 海 岸 シエラ・レオネ 一一ガ ン■ビ_匠 カ ナ ダ 北 ニュー・ブランズ ア ウイックー ノヴァ・スコーシャ メ プリンス・ リ エドワード島 カ ニュー・ファウン ド7ンドー 一一uバミーヨ∫一ダーホンジュラス
1ジャマイカ
1ノく ノ、 マ酉:バルバドス
iグ レ ナ ダ イ:ト ノミ ゴ セント・ヴィンセント! ンiセント・ルシアアンチグア
ド…セント・キッツ モントセラット諸一ヴァージン諸島島…奪ミヴノ勇
トリニダート 281,164θsげsC・1・吻∫P・ss召ss∫・”s・卿 駈hε齢ε4S∫σ∫θs・グ∫h81・伽 一1∫s1鋼s∫耐hε脚プ1846・1847・ 311翻各巻より抽出・ No.ReportI 7,i781 −1 1量1・得1 4,1271 ア 16,760i No.Repo此 i No.Report i 85,6071 1 一面δπ 12,663i 17136一 ロ19200
コ Report 22,745:171函
, _ 21,942 37,385*: 4,0計 1,865 4,176: 1( 1,207,281ドノレ) 11 112,846
〔注〕 *1846年9月30目までの数字 **総計は報告書を提出していない 植民地及び報告書が提出されて いても,財政支出について触れ られていない植民地を除いてい る。 また,英領ギアナはドル表示な ので,これも総計から除いた。 ナルタ アタ レ ギノル ↓フ 一領u
黄ジマ 28,651,4761 −論 文一 ○○ 総 計**一安価な政府と植民地財政一 ○ 〔表2〕 イギリス植民地に於ける粗財政支出額 (単位’ポンド) 1852年 1855年 1860年 1865年 1870年
.(継占め墓)…2灘1231欄615躍lo141ラ珊151欄6
海峡植民地
(Straits settle− ments) セ イ ロ ンモーリシャス
(Mauritius) ラノミン(Labuan)香 港
I 412・8711 283,0531 6,208 34,765一 ! _I l 405,610− 705,440 317,8301500,854 3,416 8,4091 40,814− 72,391! 375,242−267,617 838・193i1ρ26・871 667,716: 591艶579 ! 7,484: 7,302 195,376 183,596引託》●帯剣
トi南方ースト2リア*一 一i西オーストフリア…フ タスマニア*
1リ1ニュージーランド*一 1ア! クインズランド 1600・3221・675・024i2・047・955、2・314・79413・298・353− 978,9221 Q,612,807:3,315,30712,229,7473,428,382… 140,047 805,418 34,777 49,241 177・4671393・195i _1 _I I i _1 一! 620,602… 809,159 949,592 61,7452 74,985−113,046− 403,1941353,456一 一 一 2,906ア332i2,979,726 180,103…459,026…812,238 フォークランド諸島 (Falkland Isles) ナタール(Natal)* ケープ植民地*セントヘレナ
黄金 海岸
シエラ・レオネ (Sierra Leone) ガ ン ビ ア ﹄ヒiア
メ;
6,102− 31,806 252,495 15,944 6,401 26,430 13,263 5,3541@5,427
33,894 80,385 329,565 729,690− 16,866 22,294… 8,50r 9,5581 32,418 31,136 15,210 15,274 多ナ(甥駕夢)2i ニュー・ブランズ1 ウィック ノヴァ・スコーシャ プリンス・ エドワード島 ニュー・フアウン ドランド (New found land) 英領コ・ンビア*i ヴァンクーパー島*: 129,3561 113,786; 14,8571 99,310 i l _1 8,616169,214 r
870,08gI795,695! 20,603 18,9431 − 35量609 48,490…68,0411 117・15121・937
P
一12,988,5572,685,4821 138,3531 ! 130,193 133,270 1 ﹁ 174,419 116,g91・ 41,196 132,667 47,171 24,054一 189,679II2,988,648…22。,4711/ 1
50,634 70,663 156,454 147,844・1ξ耀い…523
ノく ミ ュー一 ダ* iホンジュラス i
(HgnduraS)1 14,891 1 18・543 15,5991 21,511 1 17,405 30,270一 35,6271 35,614 1 33,202 26,2201 西インド諸島合計**: 548,721 1531・5181750・169 ホ ナルタ アタ レ ギノル ラ 領ブ 一英ジマ 227,070 28β84: 123,086 239,511… 314,858 29,830 29,035 127,003 148,303 ド 950,055i g89,83gl I 一一 1 300,894 3251851 33,810;41;9211 167,818 171,788; 総 計*** 31,437,33938・765,4・7!65・486・3・9…63・875・171172・876・386ii 論 文一 〔出所〕 5∫o∫fs’を4」」4ゐs∫耀。’ノ10”加sε昭ml Co∫o”fα」の:‘10∫舵■Po∬εε・ sfoπs の「ずh8 こ1”με4 κfκgご。加,3プ4 N∫仰めεr,PP,8−9&9醜 A砺〃め8プ,PP.8−9より作成。 〔注〕*公債償還費(Repayment of Loans)を含んでV・る。 **Jamaica,Virgin Islands,Antigua,Montserrat巽Tobago,Trlnidad は公債償還費を含むが,Bahamas,Turk’s Island,St.Christopher, Nevis,Dominica,St.Lucia,St.Vlncent,Barbadoes,Grenada は含まない。 *淋総計はあくまで上記資料に掲載されている植民地に限られている。 また,不明の部分についてはとりあえず除いて総計とした。 なおニュージーランドは1857年,カナダは1867年に自治を付与され ている。
一〇二
六年に本国の約半分であった植民地財政は、一八七〇年には遂に本国の財政規
模を上回った。 つまり、表1・表2によって、本国による経費停滞︵﹁安価な
政府﹂︶と植民地財政の急膨張︵﹁高価な政府﹂︶という対照的な事実が明らか にされているのである。同様のことは、公債についても言える。植民地公債残高について表3を見れ
ば、一八五二年の約六、〇六︵r︶万ポンドから一八七〇年の約一億七、○八五万ポンドと約二〇年間に三倍弱の急膨張を示している。他方、イギリス本国の方
は、一八四六年に七億八、五二〇万ポンドであったのが、一八七〇年には七億
へ ロ
三、八π・方ポンドと、逆に四、七一〇万ポンドの減少を示している。やは
り、ここでも本国の公債停滞・削減と植民地での公債増加という見事な対照を
示しているのである。以上を約言するならば、①イギリス本国では外見上﹁安
価な政府﹂を維持しつつも、吻植民地において、その財政を膨張させ、③ま
た、そのために生ずる財政赤字は、本国から支弁せず、結局、植民地当局の公
債でまかなっていたということである。しかし、表1・表2で見逃してはならないもう一つの事実がある。それは、
植民地の外延的内包的拡大に伴って比重をわずかに落としつつも、全植民地支
パ ロ
出の約七∼八割の圧倒的比重をインド財政が占めていたことである。まさに、一安価た政府と植民地財政一 〔表3〕 イギリス植民地に於ける公債 ド 11852年 1855年 !1860年 (単位:ポンド) 1865年 1870年 、 ︶ 面一 n 型 a 訴 U こ地ンスb港 醐…
ッ乞
も植 ン ト リ濃ゴバ
樹海セモラ香 曳﹄ 一−『’一刀h一■ジ ード ’55,114,49355,531,120198覧107,460987477,555i108・186・338 (総計中に占めた割合1(90.9%) (823%)i(795%) (70,9%)!(63.3%)一 一二一 一 450,000; 700,000− 900,0001,100,000… ! ニュー・サウス・ iオ ウェールズ 肩 ヴィクトリア …ス南オーストラリア* 1ト西オーストラリア1ラタスマニア
リニュージーランド ’ア 1 クィーンズランド 212,0001ρ11,300…3,830,230−5,749,6309,681,13σ 480,0005,118,1008,622,245−U,924,8001 127,000− 870,100 796,200 1,944,600 ド12,939… L750− 1・750i 一
一 一 一 1,268,700 −594ρ44電,368,682醇,841,8911 一 一1,131,5503,509,250, フォークランド諸島 (Falkland Isles) ナタール(Nata1)ケープ植民地
セントヘレナ
黄金海岸
シエラ・レオ不 (Sierra Leone) ガ ン ビ ア 823 1,963 50,000 368,4001 2,571! 110,000…268,0001 851,650 1,106,458! 一 10,000一 ! 1メリカ
☆惣…璽四1遡li號抽i
71,083i 133,797, 5,960 エドワード島プリンス・ ユ ファウンドランド 英領コロンビア ヴτ一と久下づ一島 111,712 8,735 151,805i I −1 }! 41,4201 1 182・139I 5,l18 197,506− 242,2541 ド ラ211翻322,328…
バミューダ
ホンジュラス
酉イ薯ド諸島一合量f英領ギアナ
ジブラルタル
マ ル タ一 一1
_ _1ラ ララド 868,7271,184,552 500 11,710: 28,239 29,591一 1,063,8781,081,102 ドー 4,909i 一
一1 89,690 88,789 974,664 559,5171 582,423_i _
204,114Not statedI ○ 総、 計** ド ラ60・604・766 G67・489・595;123・338闇Oi138ρ6先672i170・85馬838… 〔出所〕表2と同じ,No、3,PP.12−13&No。9,PP.12−13. 〔注〕笹再生産的公共事業の為の公債10ansを除いている。 ●1,851,400ポンドは地方政府債(Debts of Provincial Govemments)◎3,298,575〃は 〃 ( 〃 )
**総計はあくまで上記資料に掲載されている植民地に限られている。一論 文一 6四
インドこそイギリス植民地中、最大で且つ中軸的な植民地だったのであり、従って、イギリス植民地財政.植民地政
策を明らかにするという時、何よりもまずインド財政が分析されねばならないのである。 ︵1︶ イギリスの植民地財政政策については、西山一郎﹁イギリス十九世紀中葉における植民地政策の二側面についてースヵ イラーHボーデルセン説の検討を中心にして一﹂︵香川大学﹃経済論叢﹄第40巻第5号、一九六八年︶、同﹁十九世紀中葉 におけるイギリスの植民地経費政策﹂ ︵香川大学﹃経済論叢﹄第41巻第3号、一九六八年︶があるが、これは対象が、ほぼ 移民植民地だけに限られ、しかも本国側の植民地経費政策であって、植民地財政自体は全く分析されていない。 ︵2︶ 表1・表2の︹注︺参照。なおZ9閑80旨分は、推計しても、その誤差は全体で10%に満たないと考えられるので、原 資料を忠実に再現し、それを単純合計することにした。また人口当たりの財政支出については、各植民地の人口統計の信頼 度が薄く、断片的であるため、ここでは、あえて取り上げなかった。︵3︶軍国。釜。匿辱ダu聾9き論ミ魚聖∼導藻ミ噺“ミ硫ミ蓑h妨﹂。謡﹄・§・
︵4︶等ミ‘℃勺﹂O㌣ω‘ ︵5︶ 一八四六−五五年は、カナダなどのZ9勾80誹で、インド財政の比重は若干高くなっている。但し、カナダの数字の現 われる一八六〇年から推察しても、その比重は大幅に下らないと思われる。なお、 一八五〇年後半以降の植民地公債中のイ ンド公債の比重低下の場合︵表3︶、 インド公債に代わる元利保証付インド鉄道債の急増があることに注意しておかねばな らない︵W︵2︶参照︶。 皿﹁安価な政府﹂を支えたインド財政
(1)イギリスのもう一つの軍事財政・インド
〔表4〕 インド財政の経費構成(純支出) −安価な政府と植民地財政1 (単位:ポンド) 1837−38年 1849−50年 1850−51年
民政蜘
司法警察費… 艦 隊 費陸軍費…
戦 費1公債利子一
1,332,256(9.87%)一2,054・361(10・69%)1 1,604,012(11.89)!1914,334(9。97) 160,524(1・19)i253・363(L32) 6,725,937(49.85)19,406,417(48.g7)一 1778,624(4・05)
1・365・382(10・12)12・050・935(10・68) 1,993,989(10.34%) 2,048,846(10.62) 338,411(1.75) 9,933,545(51.49) 58,313(0.30) 2,201,105(11.41) (小 計) (1L188,111) 1(16,458,034) 本 国 費1 (葛斐ゑ)一 政治的備品1 トのインドヘ・ 1の輸出 2,066,016(15.31) 238,429(1.77) 総 計 13,492,556(100) I i(16・574・209) 2,372,837(12.35) 2,352,800(12・20) 378,100(1.97) 364,386(1.89) I i19・208・971(100) 19,291,395(100) 〔出所〕 Rε伽ψ・雇hθS81e‘∫C伽川’惚・”厩伽丁副’・7’8s・1852・ Appendix No.8. (以下The Report of1852と略す) 〔表5〕 英印陸軍費規模比較 (単位:百万ポンド)ゆイギリ刈②インド
②/① 1837年 1849年 1850年 1855年 1858年 1860年 8.0 8.9 9.0 27.8 12.5 15.0 6.7 9.4 9.9 10.9 15.6 20.9 0.84 1.06 1.10 0.39 1.25 1.39 〇五 〔出所〕 インドについては,丁加Rερσ∫oゾ1852,AppendixNo.8および 3傭s∫加’Tσδ1θr¢10f∫”9孟。≠h8Colo癩1朋40∫ゐ8ゆ。εεεss∫o”s 砺fhε Uπ吻4K初g40摺,part IV (1857),P.6& Part VII (1860),P.3,イギリスについては,B・R・Mitchell&P・Deane・ oゆ.o∫’.,PP.396−7。1論
文1
一〇六 一表4によって、最大かつ中軸的な地位を占めるインド財政の推移をみると、一八五七−八年の大反乱以前のインド
財政の経費構成はほぼ一定しており、約半分が軍事費、これに続いて本国費︵イギリスでの支払︶、利子費、司法警
︵1︶察費で、民政費はわずかに一〇%足らずであった。中でも、軍事費だけで約半分以上︵司法警察費を含めると六〇%
︵2︶ 、、 、、 、、以上︶を占めていることは、特に注意すべきである。即ち、インド財政は常に軍事︵戦争︶財政としての性格を保ち
続けていたのである。しかも、軍事費の大半を占める陸軍費の規模をイギリス本国と比較すると、表5の如く、イン
ド陸軍費は、当初からイギリス本国に匹敵する規模であったばかりか、一八六〇年には本国の約一・四倍に達してい
った。即ち、イギリスは、インド帝国において本国を上回る規模でインド陸軍を絶えず拡張させ、インド財政をイギ
リスのもう一つの軍事財政たらしめていたのである。そして、このインド軍事財政の拡張こそ、先述のイギリス植民
地財政の急膨張を牽引した主要原因であったのである。しかし、これをインド側からみるならば、この事によって、インド人の意志とは無関係に、即ちイギリス人による
︵3︶イギリス帝国建設のための戦争によって、インド財政は振り回されることになった。一七九二年から一八五七−八年
の大反乱までの、イギリスのインド征服戦争とインド財政との関係を示した図1によれば、イギリスのインド征服戦
︵4︶
争と財政赤字は見事に一致しており、しかも度重なる侵略戦争は、インド財政を慢性的赤字状態に附し入れた。そし
て、当然このような慢性的赤字は、公債の累増を誘発した。つまり、﹁あらゆる公債の増加は、イギリス政府による非 ︵5︶常に重要なインドでの諸戦争とともに生じた﹂のである。そして、戦費がインド財政負担であり、本国の納税者に関
与しないかぎり、これらの諸戦争は、本国議会で討論する制度的必要性はなかったのである。イギリス本国の﹁安価
︹図一︺ へ▽てS鄭圧ン ミ旨一一〇〇零岳 ︵洗Yア.︶
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ωOOOq NOOOJ, 一〇〇〇,類 勘岳︵曄︶ ■⋮⋮−■! 勲︾︵茜︶ ㎜劃コ怠昏.、 ︹E螺︺ 閤■↓・ω訂ダ。>良馬‘℃℃●図出汁三音蔦。窯
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卸毒Y曇日刈 湯t臓 E>車てY又一・唆蕾
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夢錘4∼氏 渕麟毒 静河 s「へ洗鳶」 口きrヤ 凶ン叶 > ○ ○ 毘○>・ >1 ○ > 隔諏 ○口>」 》 一 一1 αll>q 出ll> ○匿>1 団Σ> ○出> 凶出> >団> 1安価な政府と植民地財政一 一〇七一論 文− 一〇八 ︵6︶
な政府﹂が、実際は、①資本主義的諸改革によって社会行政費が漸増を続け、働︵議会討論においても事実として
︵7︶も︶その経費削減政策が軍事費・公債費に集中していただけにすぎない、という事実を踏まえるならば、イギリス
は、 ﹁第一、[帝国﹂形成のための必要経費︵軍事費・公債費︶のほとんどを、もう一つの軍事財政・インドに負わせていたのであり、イギリス人が本国で抑制していたものを、全てインドで吐き出していたと言うことができよう。まさ
ヤ ヤ ヤ や に、 ﹁安価な政府﹂およびレッセ・フェール論の一つのからくりが、ここにあったのである。 ︵1︶ しかも、そのわずかの民政費についても、 ﹁民政費増加の重要な原因は、多数の︵イギリス人︶高級官僚の雇用であっ た﹂︵7旨↓﹃o口器、臼誉O、oミ魯&笥ミミミミ§ミ鳴き窒息㊦一〇ωO㌧勺.㎝o。︶。 ︵2︶ 更に本国費中の軍関係支出を加えれば、その額は一層大きくなる︵表n参照︶。 ︵3︶一その過程で果した東インド会社官吏の独自の役割を無視できない︵国ω8ぎ即§偽、ミ旨ミ§ミSぎ毎食S目零oo、℃即 謡山oo︶。なお諸戦争の概略については、山本達郎編﹃インド史﹄山川出版社、一九六〇年、第四章第二節︵松井透氏稿︶を 参照せよ。 ︵4︶ ちなみに﹁一八一三−四年から一八五六−七年の四四年間を考えると、十三年間が黒字で三一年間が赤字であった。黒字 はわずか八八○万ポンドだが、赤字は六、二九〇万ポンドになった﹂︵悼ト↓ゴ。口器、o>含ン℃・㎝oo︶。同様の記述は界 ↓・ω﹃騨F笥騨竜︸、俺亀遷魚㌧ミ靴音ミ、き“醤&、一〇国ど型ω鯉にもある。 ︵5︶ ℃・い↓ぎヨ器㌧号・亀ン閏㎝ρ戦争毎の公債額の伸びについては、同じく界日ω訂Fo§無ン7NOい押ρU葺“ ↓言前亀さミ苛山房ξ遷黒誉ミ“ぎ、ミミ9ミミ醤>題、お困︵一再。阜お8︶㌧℃男曽Orooなどを見よ。 ︵6︶ 島恭彦﹁﹃安価な政府﹄論の再構成﹂︵﹃彦根論叢﹄第46・47号、 一九五八年︶、西山一郎﹁自由主義時代のイギリスにおけ る民事行政費についてし︵﹃経済研究﹄第22巻第3号、 一九七一年︶、岡田与好﹁自由放任主義と社会改革一﹃一九世紀行政革命﹄蓼蛋せて一﹂︵﹃社会科学研究﹄舞舞魯、冗某年︶、吉岡昭彦響﹃イギリス資奎義の豊﹄御
茶の水書房、一九六六年、第二篇第二章などを参照。︵7︶西里郎﹁冒由貿鵠饗﹄肇・図﹂︵香川李﹃経済馨﹄第39拳4号、充六七年︶、五・頁、八。頁.しかし、
西山氏の場合慮民謡政爵選入っていな淀め、軍事費の。削減﹂も、実は.効率化﹂を意味していたす悪いと
いう指適とどまっている愚わ鷲・釜、西山氏は、実際に減少傾向にあ3﹂公債費については、議会謡では余りふ れられていないと述べている。 二では﹄喬姦府﹂隻えたイン蛋事覆が、イギリス帝国内で果した役割とは何であ.た票.この具体的
検討にあたっては・9ンド隠の侵略支配と、響ンド寡の諸地域での侵略差区別して考えねばならないが、
ここでは、まずインド国匹における帝国軍事政策のあり方と、その軍事財政上の特徴を見てゆくことにする。享図2覧てみ考・このグラフから、天五七人年の査乱直前毒のインド軍の兵力構成の特徴は、次の
煮にあるといえ考・享第E、天二七年以降のづティンクとメトカルフの経費削減肇嬰験て、イン
ド兵︵シでヤ︶は青し謡加している竃かかわらず、イギリス兵は、絶対数としても遥かに少ないばかりか
︵大反乱直前でインド兵の約・8︶、養して停漿℃微増に製っていたことである.また第二に、先述の諸
戦争︵図、参照︶の際に、シパーヒーは必ず急増しているにぶかわらず、イギリス兵は必ずしもそう窪っていな
いことである・つ晋図2の示すところは、インド侵略がイギリス兵で難く、インド兵茎力として馨れた善
うこと募り・イギリスは;インド人によるインドの露”という形で、蚕権と魯緯を払うことなく侵略
一〇九 −安価な政府と植民地財政−一論 文1
一一〇 ︹図N︺義▽三“融耳酬湘冴糞韓ミOω1一〇〇㎝O禽 ωOd> N㎝司> NO司> 一㎝d,> 一〇d> ㎝司>AYτ獅
1:;:−田ーロく≧海︵へ弛こメ獅︶ ’‘∼ンξ!;∼︸、t、♪!尭ノー;∼一、、f一︷♂、、∼,、、f,、!!!ノ!
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一安価な政府と植民地財政− 〔表6〕 ヨーロッパ兵とインド兵の経費比較(一年当たり)
(単位:ポンド)
\
管区
\・、人種ベンガル マドラス ボンベイ
騎兵
砲兵(歩兵)歩兵麗筆
\翠ぎインド兵1艮一堂 i艮一業 1
11劉艶111:ll lll累
ll!!3・諭35渤32
〔出所〕 〔備考〕 ハ4∫ππ∫6s q〆E∂f4θ’κ召foたεπδεゾ07β ∫ho38陀。’Co”’”垣κε80π∫乃θ 、4∬雄s oゾEθs渉盈4∫σCo〃」加”ッ,1832,V。Military. 1.将校及び兵,そして他の全ゆる連隊費用を含めて算出している。 2. ヨーロッパ人及びインド人の騎乗砲兵の経費比較は表に独自に 示されていない。 3.また上表2段目の歩砲兵でマドラス・ボンベイがベンガルより高V・のはthegunlascarsの費用が総計に含まれているため
である。 ハ ロを遂行してきたということに他ならない。しかも、このシ
パーヒーを主力とするインド軍は、新興地主層∴高利貸商
人による苛斂誅求やイギリス人による藍強制栽培などによ
って頻発するようになった農民反乱を鎮圧、する治安部隊と レ しても十分に働いたのである。では、インド侵略の主力がイギリス兵でなく、インド兵
であったということは、財政的にみてどのようなことを意
味したであろうか。それは、極めて﹁安あがりな﹂侵略方
法であったということである。下層に薄いイギリス軍の兵
力構成を無視したと思われるイギリス文書の上でさえ、
インド兵の費用はかなり低く現われた。即ち、一八三二年
特別委員会でのミ讐ω9中佐の証言では、インド兵とヨ
︵3︶ ーロッパ兵の経費は、一対三ないし四であり、 Oo罵言ぼ竃2。一8一ヨの作成した表6でも、およそ一対二となって
パ ロいる。まさにインドでは、人的のみならず金銭的負担をも
最小限に押しとどめる政策が貫徹されていたのである。 ︵1︶ この点については、三四8β大尉の証言を見よ。 一一一1論 文1 ■ 一一ニ ミきミ魯魚卑ミ恥ミ偽ミャ§鷺、ミ偽悪輪留、ミ9ミミミミ§慧軸餌§黛遮&き帖問題帖、ミ§9博、愚§専一〇卜轟・ 一〇〇器、ダ目窪9量︵以下ミ隷ミ墨黒南菖籍ミ恥と略すyO■曽oo9 ︵2︶ ω里Bo且大佐の証言︵ミ言ミ塁皇尊、ミ§鼻>署。&粛29ρ型曽N︶、多田博一﹁一九世紀インド農村社会の変容﹂ 岩波講座﹃世界歴史﹄第21巻︵近代8︶、一九七一年、一七九一一八○頁。また﹁会社によるデワニー︵徴税権︶の掌握が、 常備軍を絶対に必要とさせた﹂︵悼い↓ぎヨ器・魯・ミご℃国命,O︶点が重要である。 ︵3︶ミ萄ミ塁皇国ミ恥ミ♪ρ一将伊 ︵4︶ ﹄ミ39000?oo逡・ω接震中佐によれば、この﹁安価な﹂シパーヒーの多用によって、インド軍の全戦闘員の平均費用は 年にわずか三六ポンドにしかならなかったとしている︵﹄ミ3>℃℃窪島×︵切yZ9一9℃‘盆ω︶。また、インド全軍の給与 体系については、きミこ>℃究琶ぼ︵︾yZgOO−8を見よ。
こうしたシパーヒーの多用政策は、インド社会の内部構造に依拠したものであった。カースト・宗教・人種による
︵5︶分断は決して固定的なものではなかったが、民族意識未形成の当時の状況の下では、戦士カーストであるシパーヒー
は、駐屯地住民とは決定的に遊離し、かつ自力で新たな権力を創出する意志や思想も有しない、単に上級権力に雇わ
︵6︶れるだけの﹁傭兵﹂的存在にすぎなかった。しかも、先行するムガル帝国の政治構造も、有力地方勢力との水平的な
個人的ネットワークの上に、上級調停者として係わるだけで、真の垂直的ヒエラルキー構造︵乖一直的軍事命令系統︶ ︵7︶ ・、・・・⋮ を持たないものであった︵従ってイギリスも、その一勢力として地位を高めてゆけた︶。 ︵5︶ この問題は、﹁アジア的停滞性﹂論とも絡んで、私的土地所有権の有無とともに長く論じられてきたが、紙幅の関係上、詳し くふれることはできない。乙こでは、さし当たり、︻ヨユ器>げ日m貸、.O曽ω8寓。σ讐蔓竃。春日oPa山PZ99雪色P.、﹃ミぎ, 叙爵旨問亀さミ苛“識見喚曾蔚∼顛苛き鳶為簿昔ミ ︵以下﹄中頃歳霜と略すy oo︵boy一Sご鼻N巴ざF、.寓魯貰。﹂ロα281︵6︶ ︵7︶ ω冨げ目的昌]≦OぎBO暮ωぎζm﹃国富ω写声㌔こS国防角き圃︵ωy目零OいρK﹂≦ロα巴冨5、軋↓﹃oZO㌣の声げヨぎ]≦O<O目O旨ぎ 閤。ぎ巷賃、.、﹄馬防歳却窃︵H︶﹂零。。などを参照。なお、国oo8ぎωは、近著において、イギリス統治下においても、カー スト制を含む農村社会に十分な構造的変化がもたらされなかった点を強調している︵国ω8κ窃。>亀♪o富℃、一︶。また近 年の文化人類学の成果に対する批判的検討に、 いロ昌O碧﹃oF、、Omω旦ω09筥O鼠昌ロρ雪α浮¢ω09巴ω。幽窪識曾”> Z。38浮。>鼠ω8幕巴︾℃胃臼98冒&彗ω。9帥一=軍。9、.誉ミ醤ミ&合馬§硫ミ無惨翫︵一︶﹂。温がある。 長崎暢子﹁一八五七年の反乱における権力問題の一考察﹂ ︵松井透・山崎利男編﹃インド史における土地制度と権力構 造﹄東大出版会、一九六九年、所収︶、同﹁一八五七年の反乱におけるラクナウ政権の構造﹂︵﹃東洋文化研究所紀要﹄第50 冊、一九七〇年︶、同﹁インドの一八五七年の反乱におけるシャーハーバート政権について﹂︵﹃東洋文化研究所紀要﹄第55 冊、一九七一年︶、同﹁一八五七年の反乱におけるデリー政権の構造︵上︶・︵中︶﹂﹃東洋文化研究所紀要﹄第64冊、 一九七 四年、第69冊、一九七六年︶などを参照。 ≦oωけ03国×冨器δβに対する勾80二〇口の地域比較を行なった共同研究︵円r名窃器一ぢ瞭︵oPy肉a特§亀§魯義義 毎貴息ご3おお︶において、旨◎山8鶉R旨きは、脱植民地過程に至るまでの中国社会の勾雷往。ロのあり方と対比し つつ、その相違の原因を、インド封建社会の﹁構造﹂の違いに求めて、この特徴をあげている︵旨ρ=8曾R目凹P、.毛霧 90冨山口ぎ岳口p男臼。菖op吋魚島叶。︻コ国×℃国拐幽。口ぎH昌住替p勺。﹁聲oo諏<P、、ぎ串﹃白。ωωo=ロに︵oα・︶一〇>亀蛛‘℃コ ω一ふoo︶。彼は、またムガル帝国の権力構造を含め、インド社A、ムの﹁構造﹂的特質について興味深い論点を幾つか提出して いるが、ここでは詳しくふれることができない。なお、ムガル帝国期の権力構造については、松井透・山崎利男編、前掲書 ︵特に松井透・小谷仕之論文︶、佐藤正哲﹁十八世紀ムガル帝国の地方支配と在地役人層﹂︵亜細亜大学﹃経済学紀要﹄第4 巻第1号、 一九七七年︶などを参照。 1安価な政府と植民地財政一 一一三
一一四
−論 文一一八三二年特別委員会証言録は、この社会構造を利用したイギリスの対シパーヒー政策をよく伝えている。イギリ
ハ ロスは、シパーヒーの給与をインド人普通労働者の約二倍にしただけでなく、シパーヒーのカースト・宗教上の特権を
尊重しつつ・その特権意識琵逢利用し悔まず磐とその講達のために諾医療手当鼻準年金の優鐘
ハれロを与m鯉また家族を同じ兵団に置くことを許すとともに、無料で手紙を送る特権を認めた。民事訴訟の優先審理や聖
地巡礼税の免除の特典も与えられた。更にシパーヒー達の個人的自尊心をくすぐる方法として、勲.卓の授与という方 ハロロ法もあることをイギリス人は熟知していた。しかもイギリスは、狡沿にシパーヒー達を分断しイギリス人将校に服さ
るロせる方法を軍隊制度の中に組み入れていた。即ち、インド人将校達に細かな監督をさせながら、配属されたヨーロッ
パ人将便は、戦場指揮のみでなく、シパーヒーの特権意識に最も係わる武装・服装︵しばしばカーストの位を表わ
はマ す︶や兵の給与や勲章の授与などに責任を持つという責任体制を作り上げ、フてのため本来シパーヒーをまとめるはずの﹁土民﹂将校が﹁その兵団にほとんど影響力を持っておらず、兵達はヨー・ッパ人将校に対してのみ昇進を期待す
ハたロ るように教えられている﹂という状態を作り出していたのである。 ︵8︶ ︵9︶ OOぼ円ぎヨ器幻塁器=の証言︵ミ誉ミ翁ミ肉蔑魯ミ♪9お一︶。 この他に、 コ。匡ぎの中佐︵、ミ3ρ温ω︶、ω一尉日 ℃降N巴︵奪、評9=器︶、雪げPζ仁旨。大佐︵き、野9δω卸ρ38︶証言を参照。なお、これに関連して.大反乱に 加わったシパーヒユが給与引上げを要求したことは注目される。もちろん給与が低くなつ忙からといって、カースト制下で シパーヒーが労働者になるわけではない。 カースト制全体についてみれば、むしろ、カースト制を意図的に破壊しないように配慮し忙といった方が正確かもしれな い。例えば、インドヘの法制導入に際しても、刑法及び民事・刑事訴訟法はイギリスのコモン.ローをモデルとして採用したが、民法、特に家族法︵壁Bξξ≦︶では、カースト裁判所︵。器8鼠σ⋮巴ω︶が認められ、カーストの自主性が尊重さ れた。なお、このカースト問題への非干渉政策がもたらした政治的社会的効果とその後の展開については、77↓8ぎび .、句3ヨU富﹃ヨ器訂降冨8勺〇一三島、.讐㌧弗の融き刈︵ω︶、這ざ、前述の注︵5︶及びPO号P、.男5日写象器ω鼠け58 切葺一号Oo旨冨含.、一\国籍・︵曽y這孚、などを参照せよ。 ︵10︶ ω一﹃冒8R蜜8=ωの証言︵㌧黛3ρ一89卜。胡−oo︶。 ︵11︶ ︾鼠⋮8大佐︵きミ,9一800ε、ωマ国oo8け︵﹄黛39るoooo︶、O話。昌三大佐︵﹄ミ野O﹂認O■嶺8︶、U一〇訂9 大佐︵﹄ミヘ“ρ500︶らの証言。 ︵12︶ 固。匹﹃職中佐は、﹁野蛮人﹂を見る目で、インド兵が勲章の栄誉を非常に喜い幽こと、そして世界中でインドの﹁土民兵﹂ より個人的栄誉に影響を受けやすい者はないと証言している︵奪ミ‘900酵︶。 ︵13︶ ω幽﹃一言二賃。の証言︵きミこ9さま︶。 ︵14︶ ω岸一国畠器昌の証言︵h驚異9&ω︶、oo一﹁ト呂8房の証言︵き、5ρH3︶。 ︵15︶ ω3ロコ易大佐の証言︵﹄黛3︾℃℃雪巳区︵国y29一節℃、ミO︶。 ︵拓︶ しかし、シ。ハーヒー達は全く反乱を起こさなかったわけではなく、しばしば小反乱を繰り返してきた。そのため前 述の特権尊重政策駐﹁分断政策﹂だけでなく、シパーヒーに対する﹁力の政策﹂も必要となった。その中では、シパー ︵17︶ ヒー達を牽制するイギリス軍の役割と、シ。ハーヒーに対するイギリス兵の比率・配置が重要た問題であった。イギリ ︵18︶ ス軍をシパーヒーに対する牽制部隊として位置づけることは、イギリス人将校達のかなり一般的な考え方であった。 しかし、一八五七 八年の大反乱前ま噂、は、なおシパーヒーに対する信頼感は決定的に揺らど.﹂おらず、シ。ハーヒi ︵19︶
に対する適切たイギリス軍の比率についても意見は様々で、実際にも図2で見たようにインド兵の人数が一方的に増
1安価な政府と植民地財政− 一一五−論
文1
インド陸軍の兵力構成 注 大反乱以前 大反乱以後 第二アフガニスタン戦争 1885−6年の増強 α9/(B) 〔表7〕 インド陸コ ㈹英国人軍隊i⑧インド人軍隊 年 第一次大戦前 〃 後 12.7 46.4 48.1 48.1 47.0 51.1 45.6 311,038人 140,000 135,000 153,092 157,941 156,650 170.557 39,500人 65,000 65,000 73,602 74,170 80,090 77.751 1856 64 78 87 1903 14(a 22(a C.N.Vaki1,0ρ.6露.,P.111. 文官と随員は除いてある。それは1914年64,762人,1922年61,585人 であった。 〔出所〕 〔注(a)〕 一一六 加する傾向にあった。ハロ
だが大反乱は、インドの軍制、就中イギリス軍とインド兵の関係を
大きく転換させた。その第一は、インド兵に対する﹁力の政策﹂の強
化、即ち、①インド兵からの大砲の回収、吻インド兵に対するイギリ
ス兵の比率の増蓼あった・表7か宅解る考に、反乱直前に八対
一であったインド兵とイギリス兵の比率は、大反乱後には二対一に引
︵22︶ 口き上げられた.第二は、前述の﹁分断政策﹂の徹底化であった。艮
ち・イギリスは、高カーストのシ・ハーヒーの比率を低下させながら、 インド兵士を様々な階級およびカーストから徴募した上で、 ﹁軍組織へおロ
をインド人の社会的区別に応じて振り分け﹂たのである。 ︵16︶ ︵17︶ ︵18︶ 服装、給与、あるいは大反乱の直接因となったエンフィールド銃導 入や、 シパーヒーの海外渡航問題など、軍隊上の能率問題がカースト 上の特権と衝突する場合が多かった。鈴木正四﹁セポイの反乱﹂﹃歴 史学研究﹄第励号、 一九五一年、五一−三頁。 前述の財政支出上の問題と、戦闘能力上の問題とが、 これに絡んで いた。 ω一目一〇ゴロ宝︹巴oO一目讐﹄黛概‘>℃℃O⇒α詩︵ωyZO・ω・℃・ω卜9︵19︶ 一八三二年特別委員会では、基本的にシパーヒーを信頼し、その比率を増加させようとする者と、その危険性を指摘し、 イギリス軍の比率を高めてゆこうとする者に分かれていた。 ︵20︶ 東インド会社廃止に伴い、 一八六一年、会社軍はイギリス陸軍に統合され、陸軍融合計画︵90>﹃日績>日巴思日暮ゆ8 ωo訂ヨ。︶が進められた︵ρZ.<自﹂犀F㍉き“醤乳ミb恥ミご辱ヨ恥ミ妬き§軋異論、醤叙ミ﹄oo亀山臨み一露押型=ら︶。 ︵21︶ い国司三一〇5臼魯鶏肉ミ慧醤鳥緊急∋一〇一ω一︾ooO一・ ︵22︶ ρZ●く男声。>亀計ワ=ピこれは、 ↓ぎ℃oo一〇〇目籠巴。コ9一〇〇紹の勧告に基づいていた。 ︵23︶ 旨甲閃三下50>亀登7ωOゲN但し、 一八八四−五年のアフガニスタンをめぐる英.露の対立の激化に伴なって、イン ド軍総司令官ロバーツによる軍制改革が行なわれ、インド兵は、 ﹁内乱﹂防止から対露戦用へ目的を転換され、再編成を伴 いつつ北西国境に集中配置された ︵歴史学研究会﹃アジア現代史・1﹄青木書店、一九七九年、三五一九頁︵小谷圧之氏 稿︶、O・Oび。弩。ざ﹄ミ、ミ醤ヤミ噛§一〇。O♪3巷■酋<︶。 ところで、先述のインド社会構造に依拠したイギリスの軍事政策において、.、臣≦8弩α国包。..の原則が、一八 ︵24︶
世紀末からのインド侵略過程鴫\ 土侯国︵Z暮ぞの望薄8︶との問に結ばれていった軍事保障条約に、既に現われて
いたことにも注目しておかねばならない。周知のように、これらの条約は、①土侯国と他の西欧諸国との関係を断ち
切るために、ヨーロッパ人の雇用を禁じ、吻土侯国が﹁互いに直接的な政治関係を維持しない﹂ために、第一にイギ
リスが宗主国として、その外交権を握り、また第二に条約の内容について各土侯国毎の法・宗教上の慣習に細心の注
︵25︶意を払い、土侯国が共通の目的の下に連合して反抗しないように各土侯国毎に多様なものにした。そして、個以上の
︵26︶諸目的を遂行するために、イギリスは宗主国として様々な政治使節を派遣するとともに、他の土侯国からの攻撃を共
︵27︶ 同して防衛するという名の下に、各十一侯国に駐留軍を派遣した。こうして、一八五七年までにほとんどの土侯国はイ 一安価な政府と植民地財政一 一一七一論 文一 二八
ギリス権力とだけに直接的に連結させられたのである。だが、この条約が、財政的に見て、極めて﹁安あがりな﹂方
︵28︶ 式であったということを見逃してはならない。この条約は、負担金同盟︵ω=σ。。菖四q巴ぎ目。︶とも呼ばれ、各土侯国はインド政庁に対し、駐留軍︵およびイギリス政治使節︶の費用を、負担金という形で支払わねばならないと規定
していたからである。シャーによれば、この負担金同盟政策こそ﹁軍事費の継続的増大を改善するためになされた唯
︵齢︶ 一の試み﹂であったのである。 ︵24︶ ここでは、紙幅の関係上、その条約の詳細な内容にまで立ち入る乙とはできない。条約文については、﹃ミ留。§賎 お愚ミ、\きミ、ミ硫ミ色竃Ooミミミ需。蓋導恥﹄蚕ミ塗魚、ミ南ゑ、誉ミ“Oミ醤腎“響き緊亀︵以下、 ﹃ミぎ軋痴愚ミ牒と略 す︶︾℃℃窪α訂Zo﹄∵窪を見よ。 ︵25︶ い中国三一R・魯も評℃・謹O、山本達郎編、前掲書、二一七頁。 ︵26︶ インド政庁から直接派遣される駐在官︵器巴骨導︶ないし総督代理︵p﹂口︾鴨旨8浮ΦOo奉旨。学09R巴︶以外に、近 接する管区政府から派遣されている場合があった。 ︵27︶ 他方で土侯国の軍隊に対し、①要塞ないし武器庫の建設を規制し、更に②土侯国はその国民以外からは新兵を補充できな いという制限を課したことにも注目しておく必要がある︵旨甲閃三ざ5曾・良計℃・遭“︶。 ︵28︶ 従来、補助金同盟と直訳されてきたが、その性格から言って負担金同盟と訳した方が適切であると筆者は考える。 ︵29︶ 界日ω言﹃o>亀︾ワ図9なお、イギリスにとって、当初この負担金同盟は収入が支出を上回り、会社領からの収入 を上回るほどであった︵臼書§賊葡母ミさ>毛9象×299︵ゆ︶︶。以上、不十分であるがイギリスの対シパーヒー政策・軍事保障条約を中心に、インド人に対する軍事政策について
関税してきた。そこで次に、イギリス軍自身の問題について検討しなければならないが、ここでは紙幅の関係上、イ
〔表8〕 イギリス人幕僚参謀の人数と経費 1813−30年 (単位:人・ポンド) 1安価な政府と植民地財政1 人 数 …①総 数②幕僚参謀②/①
1
経 費 1
::◎総 計…④幕僚参謀…④/③ !ラ
1813年 201,1221814 1195,472
1815 −228,085
1816 1 231,707ド
1817 1 226,99018181244,064−
1819 246,139−1820 1258・009
1821 1 257,837− 1822 ! 246,137 1823 1 238,6741
1824 i 244,329ト
1825 i277,5391
1826i292,162i
ド1827!274・6431
1828 !260ρ66: ヨ ド1829 1244,5221
ド
1830 224,444・ 4640.23%… 487 0・25 7,578,8811 533− O.23;8,558,990: 4950.21…9,334,557−1
584 0.26 1 8,845ア630 627…0,26110・143・814ヒ 759;・・31…10・638・9911 744 0、29 : 10,000,979i
8170.32 10,469,458 ラ ド 723 0.297600.32!
ミ
811…0.33−9,490,589一1
8480.31…11,308,185 ! i875 0.30 12,919,25811 i
890−032
981i o.38111署1器
7,787,81・□1,・11ゐ33い2.98%:1
846052 11.16!1 1 1
976,762−11・41 1,135,215…12.16 1,173,895−13.27! 1,433,032114.13iI
1,438,947113.53…し
1,207,870! 12.08 1,753,152,16・7511欝訓1幾1…111111
12・022・7541 110,773,966.ド
瓢11潟
…
,342,4171 14、14 il i
,317,520111、651ド ド
ド
・5137137ツ・7㌧
・372・697P1L32
1,547,402114・361ド
1:盤1緊急
〔出所〕 表6と同じ。 ンド駐留のイギリス軍の負担問題に限定 して検討を加えておこう。まず第一に重要なことは、イギリス軍
の全費用を、インド財政が負担したということである。しかも、イギリス兵、就
中その将校は極めて﹁高価な存在﹂であ
った。表8の如く、全軍のわずか○・二
∼○・四%にすぎないイギリス人幕僚参
︵30︶謀が実に全経費の一一∼一五%を費消す
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ う ヤ ヤ ヤ ヤ やるという完全な逆ピラミッド型の軍事支
ヤ ヤ ヤ出構造を作り出していた。第二に、イギ
リス軍のためにインドが負った負担は、実際にインドでかかった費用だけでな
く、イギリスでかかった費用も含まれて おり、毎年相当額を本国費としてイギリスに送金していた。即ち、その費用と
︵31︶ は、 ﹁①休暇および年金手当、ωインド 一一九1論 文i 二一〇 ︵32︶ ︶
駐留の女王軍に対する本国政府への支払、⑬退職金・年金等、㈲軍隊の輸送費、㈲参謀将校の輸送部隊の費用、06
︵33︶ ︵34︶白貰一亀にある徴兵本部の経費、ω>α象ω8昌σoの陸軍学校の支出、そして⑧クライヴ卿基金条令に基づく年金﹂
など、およそ軍隊に必要とされる経費の全てを含んでいた。まさに、イギリス軍は、完全にインド財政に寄生してい
たのである。以上の検討からインド国内における帝国軍事政策および軍事財政上の特徴を要言すると、イギリスは、①インド社
会の内部構造に依拠したシパーヒーの多用、土侯国との軍事保障条約︵負担金同盟︶、ωイギリス軍の全費用のイン
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ゐ ヤド負担、というイギリスにとって徹底的な安上がりの侵略体系によって、恒常的な戦争体制をインドにおいて維持す
ることができたのである。 ︵30︶ これには、実際に軍隊に配属された将校は含まれていないことに注意せよ。 ︵31︶ インドに一〇年居住後、イギリス将校には、有給︵その階級の給与︶で一一、一年間休暇がとれるという特典が一七九六年に与 えられた。そのために兵役期間が二五年まで延長され、しかも退職時にはその時の階級の給与をもとに退職金が与えられる とされたため、多くの将校はこの休暇をとった。この休暇制度が設けられ把理由として、①イギリス人がインドの熱暑など の環境のため、疾病率・死傷率が高かったこと︵ピ。茜鐸9大佐の証言、ミミミ8亀閏覧&§鼻9嵩8﹂ざ♪おoo“︶、② 休暇をとる将校のために、会社はともかくインド手当H&幽き≧δ要砦8の少なくとも三分の二を節約できる乙と、 ︵﹄黛斜>℃℃8α訂︵>︶29譲︶、③イギリス人将校が本国との関係を絶やさないようにできること、等があげられていた。 但し、休暇のために不在の将校が増加し、また部隊毎に将校数の不均等が生じたため、一八二三年一一月、理事会によって 各連隊毎に五人以上の将校の欠員があってはならないと定められた。 ︵32︶ 一七九六年退役規制︵浮。国&ユ£胃£三暮ざ目︶以降、一八三一年までの退職金支給人数と金額については、 ﹄黛斜︵33︶ ︵鍵︶
喜。民具>三。蕊寛よ.套インド駐留の女輩の葛の年金.退職金は、年山ハ棊ンドとイギリ議会髪って
決められた。 クライヴ卿基金は、当初の元金・利子はとっくに費消され、その費用は全てインド財政の負担となっていた︵霞目・蜜。一, ぐ三の証言、﹄鷺罫9曽5︶。その額は一八一四年に一三、四二一ポンドであったのが、一八五〇年には、一〇六、一二二六 ポンドに増加した。なお、その他にも軍人基金、ベンガル孤児基金などがあった。 ℃、冒↓げO目的ω一〇>も篭こ℃勺■㎝O一一・ 三次に・①イギリス帝国の建設、およ葛インド国警の諸戦争におけるイン輩事力.軍事財政の役割穫討され
ねばならない。最初に①の問題からみれば、前項の検討からも類推しうるように、インド以外の諸地域での帝国建設
も、インドの人的費用的負担のもとに行なわれた。しかも、この事と表裏一体となって、イギリスの帝国建設は、イン ロ ドを最大の中心として組み立てられていった。即ち、ナポレオン戦争を起点とするイギリス帝国の建設において、イギリスは・インドに至る航路︵インド・ルート︶に沿って、セイロン︵一七九六︶、マルタ・イオニア諸島︵一八OO一
三︶・ケープ︵天・六︶・モムシャス︵天5︶、シンガポル︵夭死︶、マラッカ︵一八二四︶、アデン︵天三
ロ 八︶、香港︵一八四二︶、などを次々と獲得していった。だが、 ﹁帝国領﹂となったこれらのアジア・アフリカ諸地域 ヨロは、なお海上防衛・石炭補給のための港ないしは貿易拠点にとどまっており、産業資本段階においては、ノールスの
︵4︶ ︵5︶言う﹁笙薗﹂の特徴凸大陸内部の拡大﹂はインドの詮とどまっていた.以上のようなアジア.アフリカ地
域における産業資本段階のイギリス帝国膨張の特徴、就中﹁安あがりな﹂帝国建設という点では、 ロビンソンの
一二一 −安価な政府と植民地財政11論 文一 一二二 ︵6︶ 、 、 、 、 、、8ぎσo惹瓜8.、理論が一定の説明を与えている。だが.、85σo声葺曾.、理一論は、一地域の協調機構︵8蕾σo建− 二話ヨ9訂三ω日︶が、いかにしてその地域におけるイギリス支配のあり方︵﹁公式﹂ ﹁非公式﹂︶を規定していった ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ かを説明する論理であって、軍事力配置のあり方を含めた各地域の有機的連関や帝国の全体構造を説明する論理一では
ない。ここで重要なのは、 ﹁安価な政府﹂のもとで、イギリス帝国主義が、当該地域に現地人の8一一筈9碧9を形
成しようと努めたというだけでなく、アジア人︵インド軍︶をもって、他のアジア人と戦わしめる政策を形成してい
った点である。では、前述の帝国膨張の特徴をもたらしたインドを軸とする帝国体制とは、いかなるものであったの
か。それは、まず、ωインドの大軍事力・財政力をもって、前述のようにインド・ルートにそって一連の港・貿易
︵7︶ ︵8︶拠点を侵略・併合し、次に、ω既存の大海軍を背景とした﹁安あがりな﹂海軍省の郵便補助金制度によって、P&0
の郵便蒸気船︵﹁非公式の帝国艦隊﹂︶を、これらの港・貿易拠点を結ぶ植民地航路網に就航させつつ、その制海権を確保し︵インド中国航路にはインド政庁から補助金が出された︶、更に、㈲そのインド防衛圏にあるペルシャ、セン
︵9︶
トヘレナ、中国、アデンなどのイギリス政治使節の費用をインドが負担するというものであった。まさに、 ﹁安価な政府﹂という財政的制約のもとでは、大軍事力・財政力を常時保有するインドの存在なしに、この段階のイギリス帝
国の膨張はありえなかったのであり、その意味で、インドこそ﹁全帝国体制を建設し展開する旋回軸︵90甘く9︶﹂
︵即︶ であり、 ﹁乳牛﹂だったのである。 ︵1︶ ナポレオン戦争は欧州内の問題であると同時に、世界帝国、就中インドをめぐるフランスとの最終的な対抗という性格を 帯びていた︵矢口孝次郎﹃イギリス帝国主義史論﹄甲文堂、一九四三年、 一八六頁︶。 ︵2︶家国巨8p。&日3四Nぎ軍p切ミミ醤§概言ミ“﹂03℃℃﹄o。−9寓言韓国四ご問還、§軋.防b&こ。㌧ミ登H㊤§9昌﹂ざ︾毛・↓旨ざ切、ミ急穿ミ爲ま8山。。結し2ど切。畠H昌、白杉庄一郎﹃近世西洋経済史研究序説﹄有斐閣、一 九五〇年、四五五頁。 ︵3︶国。邑α=旨βb。ミミ§.ニミミミ9ミミ﹄。。嵩−§へし塞㌔・鐸 ︵4︶い●ρン穿。註。ωる、言騨§ミhb偽ミ魯ミミ&§鱒。<。﹃ω。器罵ミ茎<。二㌔﹂9 ︵5︶ 即ち、インド以外の大部分のアジア・アフリカ地域では、①内陸における徴税権の奪取、②大規模な軍事官僚機構の創 設、③商品経済を内陸に浸透させる鉄道・道路などの公共事業は、まだ行われていない。周知のように、この点は﹁アジ ア的生産様式﹂論争で問題となった点であるが、紙幅の関係上、ここでは詳しくふれることはできない。ただ、①その 幻08該。コのあり方の違いを、当該地域の社会構造の相違に求める比較研究、︵=.r≦8器=口幅︵o阜y。§h糞、℃四HけHH︶、 ②当該地域の協調機構︵8一一筈。冨ユ奉ヨ9冨三ωヨ︶の変化が、ヨー・ッパ帝国主義の支配の変化を引き起こすというロピ ンソンのoo一﹃σo轟ユ。コ理論︵万国。玄温oP、.Zo〒国震。℃窪P8ロP伍碧一〇口Oh国弩。℃9P一日ロ。ユ巴﹃日”の宍。言げh9ゆ 葺8蔓鉱8一冨σo轟戊。ロ”..嘗国●○ミ窪印甲ω暮。ま8︵a卯︶”Goミ息塁欝き恥導S鳶黒馬ミ冨、㌦ミ㌦ωミ㌧ご認︶などに注 目しておきたい。なお、これに関連して、中国・日本にシパーヒーのような層を見出しえなかった事が決定的であったとい う指摘、︵㌧ミ3悼旨O︶や、﹁ミッチェル報告﹂の影響を受けたイギリス外務省が、清朝の政治構造を中央集権的とみて、多 額の費用とエネルギーをつぎ込んで植民地化するに値しないと見なしていたこと︵Z.︾−〇一8菖多OミOミ蓉毎§気晦 §筏、ミ、ミ鳴薗醤O蚤㍉ミ﹂宝oo参照︶、更に、インド統治の経験が、一八八○年代以降のアフリカ支配のモデル︵Z。薫Hロ岳四 の創出︶となつをと︵閑勇。薯ωβ、、善言婁H暑。琶ぎ毘H区奮⋮ω蚕§三・ω尉三ωげ譲。ωけa以一。国・ 一〇〇〇。O山善♪..ぎ=■ダゑ窃深目ぼ閃︵a。︶’o>鼠章句型一亀山$︶などは、重要な指摘であろう。 ︵6︶ ロビンソンは、ヨーロッパ中心的帝国主議論批判という視角をより徹底させつつ、この理論を打ち出した。かつての﹁可 能であれば非公式に必要であれば公式に﹂︵冒O巴寅αq﹃段ゆ界勾。げぎωoF、、司富H目冨ユ巴δ日鑑写8↓目口αρ.、恥偽。挙 −安価な政府と植民地財政一 一二三
一論 文− 一二四 蛍帽塾さ3N&紹ン<〇一。9一綜97お︶といった抽象的膨張連続説と比べた時、①アジア・アフリカ地域では、白 人植民地のように自由貿易と福音によるOo日田R含巴Oo冒σ曾90目を形成できず、Oo<o旨旨。韓巴Oo=呂。雷8﹃の形 成でなければならなかったこと︵政治的統合過程の類型化︶、②一八八○年代以降、アジア・アフリカの非公式帝国 ︵ぼ8貫銭。言口R芭置目︶を、占領と植民地支配に転換させた動因を、ヨーロッパ側の利害でなく、非ヨーロッパ的要素 で構成される協調機構の展開に求めている点などは、特に注目されよう。 ︵7︶ 但し、インド政庁は、インド国内征服戦争も抱えており、その負担にも限度があったこと、従って本国軍隊の増強と負担 増加を回避するために、中東諸国への貿易による同化政策やヨーロッパにおけるバランス・オブ㌔パワー政策がとられたと いう指摘も無視できない︵φ﹃鳴餌P、、口幕国包〇ωo凶夢oO帥日。”>Oo日日9冨曼。昌90U寓880hωユユ昌巨象僧 一おoo占oo卜oO”、、﹃ミ智ミ醤ミ隻﹄ミ讐篭ミ自註織Ooミミ§ミ俺ミ暮靄蹄琶鳶一HH︵卜oy一〇誤︶。 ︵8︶ 郵便補助金は、 一八三七年、キュナードとの間の契約を皮切りに、ロイヤル・メイル、 ℃卿Oなどの大蒸気船会社との 間に、一社一航路の原則に基づいて、植民地航路に与えられ、その契約には、大砲などの軍事的装備が可能なように海軍が建 造を監督し、かつ必要な時に海軍省が買上げまたは傭船しうるという規定が入っていた︵閃●甲日ぎ旨8P切、ミ終恥ミ㌣ 黛識鱗お昭”ぎαo阜⋮劉蜜oo奇き窺§ミ▽蔓恥ミ博覧着付恥ミ寓ミ龍勲ご8︸山田浩之﹁イギリス定期船業の発達と海運政 策︵二︶﹂︵京大﹃経済論叢﹄第87巻第3号、一九六一年︶などを参照せよ︶。詳しくは、別稿﹁イギリスの﹃安価な﹄海運・ 海軍政策﹂ ︵仮題︶でふれる予定である。 ︵9︶ ペルシャ、中国における政治使節についてのイギリスとの経費分担関係については、ピaO讐因島号・無ひ勺勺・一8“を 見よ。 ︵10︶ き蛍”勺型一〇ω−“●