崩壊寸前のリウ、、アプール市財政
一一一最近のイギリス地方行財政(1
)一一
西 山 一 郎
I は じ め に 文部省の在外研究員として 1983年9月から9カ月間イギリスに滞在したが, 8カ月間はロンドンであった。私は,ロンドンでの主要な研究テー?を 19世 紀 の イ ギ リ ス の 大 蔵 省 統 制 と 決 め て い た の で , 当 初 は イ ギ リ ス の 地 方 行 財 政 の 研 究は私の念頭にはなかった。ただ, 1984年 の 春 頃 に は 曽 遊 の 地 で あ る ヨ ー ク シ ャ ー を 訪 れ そ こ の 地 方 行 財 政 の 実 態 調 査 を お こ な い た い と 漠 然 と は 考 え て い た。ところが, ロンドンでの生活を開始してみると,イギリスの地方行財政の 変革が急速なテンポで進行しているのを肌で感じる仕儀となった。 そのことを私が明確に意識したのは, 1984年1月17日 の 庶 民 院 に お い て 元 首 相 の ヒ ー ス が サyチ ャ 一 政 府 の レ ー ト 課 税 規 制 法 案 に 反 対 票 を 投 じ た 時 で あった。彼は,保守党の元閣僚4人 を 含 む24人の議員を率いて野党と行動を之 もにしたのである。そして,このような保守党内の反乱は, 1979年にサグチャー が 政 権 の 座 に つ い て は じ め て で あ っ た 。 同 年3
月下旬になると, リヴ7プール 市 財 政 の 破 産 が 間 近 い と 新 聞 に 報 じ ら れ る よ う に な っ た 。 わ が 国 に お い て は 1975年のニューヨーク市の財政危機が有名であるが,イギリスの地方自治体の 財政危機は初耳であった。 3月29日には,レート課税を規制しGLCならびに (I) 私の趣味からいって rヒース氏」と敬称をつけて呼びたいところだが,氏も客観的研究 対象の1つであるので呼びすてにすることにした。他の人物も以下同様に扱う。 (2) The Times, January 18, 1984;民 間ncialTimes, January 18, 1984. (3) The Times, March 26, 1984-2ー 第59巻 第4号 498 6つ の 大 都 市 県 を 廃 止 し よ う と す る サ ッ チ ャ 一 政 府 の 地 方 行 財 政 政 策 に 反 対 す る と と も に , あ わ せ て 炭 労 ス ト を 支 援 す る 大 デ モ ン ス ト レ ー シ ョ ン が ロ ン ド ン で お こ な わ れ た が , そ れ を 私 は ロ ン ド ン 大 学 付 属 図 書 館 で 仕 事 を し て い て 目 撃 することができた。 4月11日の庶民院においてヒースは, G L Cならびに6つ の大都市県を廃止する法案に反対票を再び投じた。
4
月2
2
日の日曜日には,パタシー・パークでおこなわれるイースター・パレー ドを家族をつれて見物に出かけた。これはG L C主 催 の 恒 例 の 春 の 行 事 で あ る が , 入 口 に はG L C廃 止 反 対 と そ の 署 名 を 訴 え る 横 断 幕 が か か げ ら れ , 公 園 内 lこはG L C廃 止 反 対 の 宣 伝 カ ー が 陣 取 っ て い た 。 わ が 家 の 子 供 た ち は そ の 車 に 入 札 ‘Keep/GLC/Workingfor London'と書かれたワ yベンやパンフレ y トを山ほどもらってきた。子供たちは,それらを日本、へのお士産にするのだと し、う。 このように1984年 前 半 に 私 の 眼 前 で 一 気 に 噴 出 す る か の よ う に 生 起 し た イ ギリスの地方行財政の諸問題をみて,鈍感な私も大いに興味をかきたてられ, 新 聞 の 切 り ぬ き を 作 っ た り , ハ イ ・ ホ ウ ル ボ ー ン の 官 報 販 売 所 ( HMS0)
に 行 っ て 関 係 す る ハ ン サ ー ド を 購 入 し た り し た 。 し か し , 正 直 に 言 う と , 当 時 の 私は, 1983年 8月に公刊された白書の『レート』も,同年 10月に刊行された同 じく白書の r都市地域における地方制度の簡素化』も知らなかった。 (4) 英語では‘MetropolitanCounty' と這〉。正確に邦訳すれは,それは「大都市殴城県」 となろ〉がそれでは長すぎるL
,縮めて「大都市閤県」とナれは読み方が奇妙になるため, とりあえず「大都市県」と呼ぶ。 ([)) デモの詳しい模様については ,The Guardian, March 30, 1984 をなよ。当日の参加者 ItJ催荷の発表で6JJ人(警察の推測でl万人〕で,行進はブノレームズベリーからサウス・ パンク主で4-"イノレに達したという。私は,ロントン大学のセネノ .1.,、ウス前で,“Maggie, go !'とい'):/ュプレヒ・コーノレをt
m
¥
、たり,炭労の結1A-t
-iが逗4しくかかげる綴帳のよ 3 な m 介旗をみたりした。参加者は様々なスローガンを~~;, ~, 、たプラカードを持っていたが, ry也城氏iート義(localdemocracy)を守れ」とい〉のが多かった上 Jに思う。 (6) The Tlme~.. April 12c1984 (7) Rales ProJうosalsル
rrale limitation and reform of Ilze rai1ng‘;ystemAugust 1983 Cmnd.9008(8) Stream1z月ingtheCltie~ Government Proþosal~ for Reorganising Lowl Gouernment
4
9
9
崩 壊 寸 前 の リ ヴ ァ ブ ー ル 市 財 政-3-1
9
8
4
年7
月に帰国した私は,ロンドンでおこなった新聞の切りぬきを整理L
たり,最近のイギリスの地方行財政に関するイギリスやわが国の研究者の研究 を読みはじめた。そして,私のささやかな現地での体験を手掛りに, レート規 制, リヴァプーノレ市の財政危機, GLC等の廃止の3つに,問題を限定して若干 の整理をしておきたいと考えるようになった。しかし,私の体験といっても, それはl年足らずであり,特記すべき内容をもつわけでばない。たかだか当時 のイギリスの人々と同じ空気を吸っただけというにすぎない。 そこで, とりあえず私の滞英期間の前後を若干補うため,本学部の山下研究 室で購読している『タイムズ』に日を通して,渡英以前は1
9
8
3
年3
月までさか のぼり,帰国後は1
9
8
5
年1
2
月まで下った。したがってタイムズ』を閲覧し た期聞は通算すれば2
年と1
0
カ月ということになるが,社会現象を観察する期 間としてはそれが決して長いとはいえないことを十分承知している。しかも, これら3つの事件はあまりに最近時のことであり,研究対象として十分に成熟 しているとはいえないことも知っている。したがって,小稿は, これら3つの 事件に関する私の第1
次報告であることを最初にお断りしておく。 II 事件の発端 まず最初にリヴァプール市の財政危機をとりあげる。しかし,それは小稿作・ 成上の都合にもとづくものであり,重要性ないし論理的体系性にもとづくもの ではない。なお,この事件に関しては,言うまでもなく現地を訪れ,予算書やi 決算書等を分析し,市議会の財政担当者から事情を聴取すべきであろうと思わ れるが,今回はいずれをもおこないえなかった。したがって,それらは今後の 課題として残し,小稿はロンドンと高松でおこなった新聞の切りぬきを主要な 材料として作成される。 さて,リヴァプールの財政危機の発端は,一見奇妙にみえるかもしれないが,1
9
8
3
年5
月におこなわれた地方選挙であった。リヴァブール市議会の定員は9
9
名であるが,この選挙において3
6
議席が改選され,労働党は2
4
議席を獲得し たのである。改選前の議席は,自由党3
6
,保守党2
1
,労働党4
2
であったが,-4- 第59巻 第4号 500 5月に成立した新しい市議会では労働党が51議席となって,第 1党となったの であるO そして,自由党は 30議席,保守党は18議席となり, 10年間,時には 保守党と連立をくんで政権の座にあった自由党が野党に転落したのであった。 もっとも労働党が第 1党といっても,野党との議席の差はわずか3つにすぎな いことを記憶しておいてほしい。 ところで,第 1党 の 労 働 党 の リ ー ダ ー は 穏 健 派 の ハ ミ ル ト ン(Hamilton, John)であったが,同党には 7名とも10名ともいわれる戦闘派(Militant ten -dency)の支持者を含んでおり,その1人と目されるハ y トン (Hatton,Derek)
は副リーダーの地位をしめていた。彼は,当時35才の若手であったが,財政危 機をめぐる政府との駆け引き等において大活躍をする。また,戦闘派ではない ようであるが,政府との交渉において強硬な主張をおこなう労働党議員のノミー ン(Byrne,Tony)は,市議会の財政委員会(financecommittee)委員長である。 では,市議会の労働党を牛耳る戦闘派とはなにか。それは,イギリス労働党 内の派閥の1つであるが,第4イ ン タ ー の 流 れ を く み , マ ル ク ス エ レ ー ニ ン = トロ Yキーの革命思想、を信俸するグループであり,端的にいえばトロ Yキスト たちが組織する革命政党であるO 戦闘派は, 1956年に結成され,独自の綱領と 組 織 を も ち 戦 闘 派(Militant)]という新聞を発行している。そして,彼らの 主要な活動拠点はロンドンとリヴァプールで、あるが,特にリヴァプールは同派 の発祥の地であった。 なぜ、リヴァプールが戦闘派の有力な拠点となったのか。クリ yク氏によれば, その理由の
1
つは, リヴァプール労働党の体質,すなわち長い間のボス支配に (9) 彼は, 63才の元学校教師でクエイカ一信徒である。「ボス」というよりは「まとめ役」と いわれる。 TheTzmes, June 12, 1984; September 25, 1985,をみよ。 (10) The Sunday Times, 25 March, 1984
(II) The Times, May 7, 1983なお,余談ながら,イギリスの新聞記事中の数字も,新聞の 種類がちがえばもちろん,同じ新聞でも日がちがえばことなる場合があり,どれが真実の数 字かは4慎重な判断を要するように思った。 ( 12) 戦闘派については,小稿では,全面的につぎのクリグク氏の書物による。 MichaelCrick, Militant, London, 1984なお,戦闘派とは世間が呼ぶ名称であり,正式には苓命的社会主義 同盟(RevolutionarySocialist League)とし、う。
501 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -5-より党組織が腐敗,空洞化し,少数の戦闘派党員によって牛耳られやすかった ということであぷそして,戦闘派がリヴアプールの地方政治において影響力 を行使しはじめるのは,
7
名の戦闘派が市議会議員に選出された1
9
7
8
年ないし7
9
年頃であっT
;
;
しかし,もう1
つの有力な理由は,言うまでもないが,リヴア プール経済の悪、化であった。すなわち ,-政治的立場がどうであろうとも,リヴ7 プールの労働党の政治に関心をもっているほとんどの人が意見の一致をみる点 は,戦闘派の成功がマージーサイドの驚くべき経済状態によってある程度は説 明できるということである乙すなわち,リヴアプールの失業率の激増が過激派 の活動を促進する刺激剤になっているということである。そして,1
9
8
3
年5
月 の市議会議員選挙で労働党が第 1党になったのも,経済的に打壌をうけている 岡市の住民の中央政府にたいする批判票(
a
n
t
i
-
g
o
v
e
r
n
m
e
n
tv
o
t
e
)
の表われで あったようであよハミルトンは,政権の座についた直後に,-社会主義的改革 こそは,この病魔におかされている都市に再び繁栄をもたらすであろう。と‘れ ほど経費がかかろうとも,それはリヴアプールの繁栄と若返りによって十分に つぐなえるであろうL
と言った。しかし,これは言一うは易く行うは難い目標で あり,ハミルトンの率いるリヴァプール労働党の行く手には大きな壁が幾重に も立ち塞がっていたのである。 ここで, リヴァプールの地方政治に影響をあたえるとともに,岡市の財政危 機の大きな原因をもなしていると思われる経済的困窮についてすこし見てお く。 マージー河(
t
h
eM
e
r
s
e
y
)
北岸に位置するイギリス第2
の港湾都市, リヴァ プールの歴史をたどることは小稿の範囲外であるが,かつてイギリス綿業の中 心地マンチェスターを背後にもった岡市は,原料,特に原綿を搬入し,製品 一ーその中心は綿製品一ーを輸出する重要な港湾として,1
9
世紀中葉にはロン ( 1)3Ibid, pp.146-147 ( 1 I4) bid, p 152 (15) Ibid, p..145 (1日 TheTimes, May 7, 1983 ( 1司 Ibid-6ー 第59巻 第4号 502 ドン,ニュー・ヨークとならぶ3大国際貿易港であった。 Lかし,岡市の衰退 は第 l次世界大戦後にはじまった。イギリス綿業の没落やリヴァプール海運業 の地盤沈下, コンテナ革命といわれる荷役作業の変革,造船業および船舶修理 業の長期にわたる不況等によって,今日, リヴ7プール市は, ヨーロ yパの大 都市のなかでもっとも貧しい都市の 1つといわれる。大量失業,貧困,劣悪な 住宅環境等が原因で, リヴァプール市民の平均寿命は全国平均よりも 76才も 短い。また,市営住宅の入居者の男性の場合5人に4人は失業者であり,若年 層の失業率は 90ノミーセントに達するという。 近年のリヴァプールの失業率の推移をみれば,第
1
表の通りである。周知の ように, 1981年 7月にはトクステス (Toxteth)地区を中心に大暴動が発生し, 政府は数百万ポンドの財政資金を岡市に投入したが,失業は一向に減少せず, 1984年にはついに 20ノξ一セントをこえてしまった。そして, 1985年 7月現在, 139,357人が失業中である(なお,岡市の人口は, 1981年の国勢調査によれば, 510,030人である)。今日,第二世代失業 (secondgener ation unemployment) , すなわち父親も失業中であるが,その息子も学校を卒業して以来就職したこと がないというケースが珍しくなL。、 1981年の国勢調査によってリヴァプールの失業の特徴をみると,第 1は,第 2表に示されるように若年層,特に 16才一24才の失業率がかなり高いという ことである。第2は,地域的にみると第 3表のように,市の中心部の失業率が これまたかなり高いということである。その原因は,私の推測であるが,若年 (]8) リヴァプーノレの経済史とその経済構造については,つぎの文献をみよ。 FrancisE..Hyde,Livertool and the Mersey an Ewnomic History
0
/
Port 1700-1970, Devon, 1971; Sheila Maniner, The Ewnomic and Social Development0
/
Mersのside,London, 1982; P J M.Stoney‘,The Port of Liverpool and the regional economy in the twentieth century,'in B.. L Anderson and P J M..Stoney eds, Commerce, Jndustry, and Tran -spor.t Studies in ewnomic change on Merseyside, Liverpool, 1983(]9) The limes, March 29 and May 10, 1984
ω
1) Jbid, April 4, 1984。1) Jbid, March 25, 1984 (22) Jbid, August 14, 1985.
503 崩 壊 寸 前 の リ ヴ7プーノレ市財政 -7-第l表 リヴァプーノLの 失 業 率 の 推 移 (単位 ノ之一セント〕 年 リヴァプーノレ(A) 全 国(B) (A)/(B) 1979 115 5 1 2 3 1980 14 95 6 1 2 5 1981 18 15 9 5 1 9 1982 18 7 110 1 7 1983 18 8 12 1 1 6 1984 20 8 12 6 1 7 1985 21 O'} 13 1 1 6 註1) 1985年7月の数値である。
〔出所〕 リヴァプ ノしの失業率は ,The Times, August 14, 1985,全国のそ れは, Iエ コ ノ ミ ス リ ( 毎 日 新 聞 社λ第64巻 第19号, 1986年5月611, による。 第2表 リ ヴ プ プ ー ノ レ の 若 年 層 の 失 業 率 ( 1981年〕 (単位 パーセント〕 男 女 16才 一64才 24 4 142') 16才 一19才 371 31 2 20才 一24才 321 21 9 註1) 女性は16才一59才である。
〔出所JCensus 1981 Key statistiωfor lowl autho円tie.sG問atB円tazn
第3表 マージーサイト,リヴフプーノレ,リウアブーノレrb 中 心 部 の 失 業 率 0981年 ) (単位 人 ・ パ ー セ ン ↑ ) 就業者仏) 失 業 者(B) 倒 /(A) マ ー ジ ー サ イ ト 59,072 11,405 19 3 リ ヴ ァ プ ー ノ レ 19,024 4,680 24 6 リヴ、アブ〉ーノレ 市 中 心 部 140 55 393 lU常{t人iJを対象にした10パーセン f ・サンフ。ノレ調主主てUある。 [111所 Census1981Ewnomic aιtivity Merseyside, 層が市の中心部により多く住んで、いることであろう。 さて,リヴァプール市の財政危機自体の話に入ることにしよう。
1
9
8
3
年5
月 に労働党が市議会の第l
党になったが.1
9
8
3
年度の予算は自由党によって作成-8- 第59巻 第4号 504 されたものであった。それは,歳出が2億3200万ポンドにたいして歳入が2億 1900万ポンドであり,その差額は経費を600万ポンド削減し,市の最後の予備 金(financialreserves)を700万ポンド引き出して帳尻を合わせるというもの であった。しかし,この予算を引きついだ労働党は,市営住宅の補修費として l戸当り 16ポ ン ド を 支 給 す る 等 を お こ な っ て , 結 局 年 度 末 に は 歳 出 予 算 を 1890万ポンド超過する見込みとなった(したがって, 1983年 度 の 歳 出 は2億 3790万ポンドとなる)0
w
サンデー・タイムズ』は,-これこそが問題のそもそも の発端である。」という。 与党となった労働党は,早速1984年度の予算を編成しなければならなかった が,そのさい近年においては政府の設定する経費目標(target)が基準となる。 ところが, 1983年 12月にジェンキン環境相が発表した経費目標は,リヴァプー ル市議会の場合,緊縮財政をとってきた自由党の歳入規模を300万ポンドも下 回る2億1600万ポンドとしづ低額であった。しかも,国庫補助金は, 1984年度 には前年度に比較して500万ポンド減額され1億1400万ポンドになるであろ うとし、う。したがって,歳出を経費目標にあわせるとすれば, 1984年度は前年 度の歳出を約2200万ポンド削減する一方,国庫補助金の減額を補填するために レートを500万ポンド増税しなければならない。しかし,そうすると, 5,000人 の職員の解雇と 70ノミーセントのレートの増税をおこなわなければならなくな る。パーンは,-社会主義的地方議会(socialistcouncil)はそのようなことはで きなし、。リヴァプールはすで:,~::,6万人一一人口 5人につき l人一ーの失業者を かかえ,若者の90ノミ一セントが失業している。リヴァプールには,周知のよう にヨーロァパ最悪の住宅状況が存在し,それこそ市議会が1,000車干の新しい住 宅を建設する特別の資金を必要としている理由である。」と言う。。
4) ‘Rebellion at City Hall', The Sunday Times, 25 March, 1984リヴァプーノレ市の財政 危機の発端に関しては,管見の限りではこの解説記事がもっとも詳しし、。 (25) Ibid. 側 イギリスの地方自治体の予算編成については,拙稿「イギリス地方自治体の予算循環J, 『香川│大学経済学部研究年報J25, 1986年3月,をみよ。 仰 TheSunday Times, 26 February, 1984505 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -9-ところで,労働党が考えている新年度の歳出は 2億6200万ポンドであり,こ れは経費目標を4600万ポントも上回る。そのさい,目標を1ポンドこえるごと に国庫補助金が
2
ポンド削減されるという罰則があるため,帳尻をあわすため にレートは 180ノミーセントも増税されなければならなくなる。しかし,伺故そ れほどのレートの増税が必要となるのか。それは, 1967年一般レート法によっ て,国庫補助金と使用料・手数料によって補填されない歳出はすべてレ-f収 入によって埋め合わされなければならないからである。言い換えると,地方自 治体が赤字予算を編成するのは法律に違反することになるのである。 また, レート決定の期限は法律によって明示されてはいないが,通常は前年 度末である。というのは, レートの決定が新年度の開始までにおこなわれない と,それは,後に若干詳しくのべるように,地方自治体財政に不足金額を発生 させることになり, 1982年地方財政法にいう「故意の違法行為(wilfu lmiscon-duct)Jに該当するおそれがあるからである。 III 破産の危機とその回避 リヴァプール市財政の破産は,二三の新聞に目を通した範囲でいえば, 1984 年2月 20臼頃になると報じられるようになった。たとえば 2月 21日の「タ イムズ』は,つぎのように言う。 「市議会は3
月 29日に総会を聞いて,サーヒスを低下させ, 5,000人 の 職 員を解雇し, レートを一一一多分200パーセントほど一一ー増税するか,あるい は帳尻のあわない 1984年 度 予 算 を 承 認 し て 違 法 行 為 を あ え て す る か を 決 定 しなければならない。 側 Ibid, 1 April, 1984歳出額は新聞によって区々であるが2億5000万ポンドというのが 一番多いように思う。 TheTimes, February 21, 1984;The Sunday Times, 26 February, 1984,をみよ。 側 The General Rate Act 1967, subsection(1)of section 2,をみよ。 側 TheTimes, September 10, 1985 。]) Local Government Finance Act 1982, section 20.-10ー 第59巻 第4号 506 市議会議員の代表団は,明日,環境相のパトリ yク・ジェンキン氏と会見 するであろうO 一予測では,市議会は,
3
0
0
0
万ポンドの赤字を出す予算を編成し,秋には財 政資金が枯渇して3万 人 の 職 員 に 給 与 を 支 払 え な い 危 機 に お ち い る で あ ろ う。」 この記事が報じているように, リヴァブール市議会の労働党代表団は2
月2
2
日にロンドンでジェンキンに会い,経費目標を3
0
0
0
万ポンド引き上げると ともに,マージーサイド救援のために4
億ポンドの特別融資をおこなうように 陳情した。ジェンキンは,代表団にたいしてまず「政府は, リヴァプールの社 会 経 済 的 諸 問 題 〔 の 深 刻 さ 〕 に 同 情 し て お り , 近 年 に お い て は 都 市 開 発 計 画(Urban Programme)と人的資源活用委員会(Manpower Services Commis-sion)を通じてその地域を支援してきた。」とのベた。しかL,彼は,市議会が公 営住宅の屈子に16ポンドの特別手当を支給したことを非難し iリヴァプール だけが困難な政治的選択に直面しているのではない。」として,支援を拒否した。 労働党代表団は, 3月19日には,庶民院で労働党党首のキノック (Kinnock, Neil)に会い,財政危機打開に関するリヴァプール労働党の方針を支援してく れるように要請した。しかし,キノックは i要するに,現行法がありそれを施 行する権限を政府がもっている以上, リヴァプールの市議会議員による反抗も 失業を防ぎ,追加の財源を確保する効果はない。」とのベて, リヴァプール労働 党の予算案の支持を拒否した。そして,キノククは,これ以降も一貫して, リ ヴァプール労働党の違法行為を批判し,合法的予算(legalbudget)を編成する
(32) The Times, February21, 1984なお,The Sunday Times, 19February, 1984, .Vこすで に同趣旨の記事がある。
側 それは,リーダーのハミノレトン,副リーダーのハットン,財政委員会委員長のパーン,フッ ド(Hood,Tony),そしてミノレズ(Mills,Frak)の5名から編成されていた。
(34) The Times, February23, 1984 間 lbid,March 20, 1984
507 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -11-ように要求しつづけるのである。したがって,リヴァプール市議会の労働党は, 党中央の支援を全面的にはうけずに,独力で財政危機の打闘をはからなければ ならなかったのである。 リヴァプール市議会の予算委員会
(
b
u
d
g
e
tc
o
m
m
i
t
t
e
e
)
は3
月2
6
日に開催 されたが,労働党議員が多数をしめているので, 1984年度のレートの引き上げ を,労働党のかねてからの方針通り 5-10ノf一セント程度とした。したがっ て, 1984年度の歳入は1億900万ポンドとなるのにたいして,歳出は2
億7000 万ポンドとし、う大幅な赤字予算が3
月2
9
日の本会議(
f
u
日c
o
u
n
c
i
l
)
に提案され ることになった。 1984年度の予算案は,当日の本会議で8時間にわたる審議のあと採決に付さ れたが6
名の労働党議員が3
0
名の自由党議員と 18名の保守党議員と行動を (38) ともにして違法な予算に反対票を投じたため,予算案は成立しなかった。その 結果, リヴァプール市は新年度に入ると,数週間で財政資金が枯渇して破産す るという前例のない事態に直面したのである。シティの金融筋も,ただちにリ ヴァプール市への貸付けと同市の市債の取扱いを拒否した。もっとも,岡市は, l週間あたり 800万ポンド程度の資金を必要とするが,暫時は,それを市営住 宅の家賃収入とレート援助補助金の分割交付によりまかなうことができたので、 ある。 予算案を審議する第2回目の本会議が4月25日に開催されたが, 3月末と同 様に6名の労働党議員が反対して,結局予算案は成立しなかった。そして, リ ヴァプーノレ市は, レート徴税令書を納税者に送付できないブリテンで唯一つの 自治体となったのである。自由 The Sunday Ti例 記s,25 March, 1984;The Times, March 31, May 5, and 10, 1984
(
め The Times, March 26, 1984ただし,この記事は当日の予定を報じたものであり,結果 は私の推測である。
側 Ibid,March 30, 1984
側 Ibid,March 31, 1984 H叫 Ibid,April 26, 1984
-12- 第59巻 第4号 508 5月に入ると第l木曜日の3日に統一地方選挙がおこなわれた。リヴァプー ル市で、は99議席のうち34議席が改選されたが,労働党は7議席を増やして 58 議席となった。その結果,労働党は,
2
8
議席の自由党とl3議席の保守党からな る野党にたいして 17議席の大差をつけることになり,多少の反乱議員が出ても 違法な予算を成立させることができるようになったのである。ハァトンは, ,(選 挙の〕結果が示すように,市民は充分な〔議席〕数を手にした。彼らは,われ われが過大な支出をしているのではなく,ホワイトホール〔政府〕が過少な支 出を〔強要〕していることを承知しているのである::と言った。 リヴァプール市議会の労働党代表団は,地方選挙の勝利をひっさげ, 5月17 日に,ジェンキンに面会し,財政危機打開の方策をさぐった。会談の雰囲気は 明るくw
カ、、ーディアン』は,希望の光り」がみえてきたとい2
?
会談後,ジエ ンキンは,財政年度は4月にはじまったが,市議会はそれ以降レート収入をあ げておらず,借り入れでしのいでいる。この状況は明らかに長続きしない。わ れわれすべては,もし均衡予算とレート〔の徴収〕が実現しないならば, リヴア プールの人々と市議会の職員には驚くべき結果がおとず、れることを承知してい る。」と言った。また,ハットンは,われわれは正しい道筋に歩みはじめたこ とを確信している。ジェンキン氏は,われわれが今週の本会議に違法な予算を 提案しないということを確認し,われわれも,われわれがとってきた方針を今 日の会談が裏付けるものであると思っている。」と言う。つまり,ジェンキンは, 今日の異常は事態に終止符をうつ必要があることを示唆し,ハグトンは,その ために合法的な予算を提案することを約束したのである。そして,政府と市議 会の首脳は,予算案を洗い直す合同作業班を発足させることに合意し芯 6月7日に, ジェンキンは,住宅状況の視察という名目で, リヴァプーノレ市 を訪問した。彼は,パスでリヴァプールの貧困地域を視察し,あまりにも劣悪 な住宅事情に肝をつぶした。彼は,状況はたしかに悲惨である。帰京早々,緊 (42) The Guardian, May 5, 1984 附 Ibid,May 18, 1984 臼4) Ibid5
0
9
崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -13ー 急事態として対策をたてなければならない。まったく嘆かわしい住宅状況が存 在することが視察によって分カミった。」とのべた。もっともジェンキンは,今回 の視察と財政危機の打開とはなんの関係もないことを強調したが,結果的には ジ ェ ン キ ン の リ ヴ ァ プ ー ル 視 察 が 財 政 危 機 打 開 の 大 き な 転 機 に な っ た の で あ る。 ジェンキンは 7月9日に, ロンドンでリヴァプール市議会の労働党の指導 者たちと会い,リヴァプールに1
5
0
0
万ポントの特別融資をおこなうことを提案 し,解決の方向へ大きく踏み出した。リヴァプール市議会は, 7月11日に,レー ト税率の17ノfーセy
ト引き上げを含む1984年 度 予 算 を 賛 成57反対38で可決 した。これは,合法予算を編成するために3カ月前に想定された 167パーセン トのレート税率の引き上げと比較すると,大幅な軽減であり, リヴァプール労 働党市議会はサッチャ一政府から大きな譲歩を勝ちとったのである。 そ こ で タ イ ム ズ 』 は 7月11日の「リヴァプールにおけるデーン干見 (Dane-geld)Jという皮肉な表題の社説で,ジェンキンが戦闘派のハ y トンに大幅な譲 歩をしたと批判した。「三流の田舎政治家,自称革命家気どりの男がし、て,彼の 部隊は『マージーサイト史上最大の労働者階級の勢力を示すもの』といわれた が,それがアンフィールド〔リヴァプール・フ y トポール・クラブの根拠地〕 の士曜日の入場料の半分をすこし下まわる金額をもたらした。デリグ・ハy ト ン氏は政府を屈服させたのである。ハ yトン氏とその一味は決裂をも辞さない とし、う態度をとって脅迫した。彼らが手中にしたものは,4
0
0
の地方自治体には 変更できないと言われた経費目標を御破産にしたことだった。」そして r政 府 は, リヴァプールが目標以上の経費を支出できるようにして,過去4年 間 に わ たる全地方自治体の財政政策をくつがえしているのである。それは,帽子があ わないからかぶりたくないと地方議会が大っぴらに言えるようにすることであ (45) lbid, June8, 1984 (46) The Time" July 9 and10, 1984 (47) lbid, July 12, 1984 ( 1田 lbid,July 11, 1984-14- 第59巻 第4号 510 る。」このような痛烈な『タイムズ』の社説の批判にたいして,ジェンキンは, 翌 日 , 編 集 者 へ 手 紙 を 出 し て 反 論 し た 。 ま ず , 政 府 は , 地 方 自 治 体 に た い す る 原則を全然くずしていないという。「政府は,追加援助制最 (cashlimits)
C
の 実施〕を中断してはいない。政府は特別の基金に手をつけたわけで、はない。政 府は,経費目標を撤廃してはいない。政府は,罰則を免除したわけではない。 その逆に,首相も昨日庶民院で明らかにしたように, リヴァプールは,イング ラ ン ド の 他 の す べ て の 自 治 体 に た い す る と 同 様 な 規 則 に 厳 密 に 服 し て い る の で ある。」では,政府は,リヴァブール市の財政危機の打開にあたってなにをおこ なったのか。「政府の提示したことは,リヴァプールにおける特に深刻な都市部 の荒廃を考慮するとともに,適正なレートと予算が決定されることを条件に, 都市開発計画資金を,あまり多くはないが2
5
0
万ポンド増加することであった。 問 題 を か か え る 都 心 部 を も っ 自 治 体 (innercity authority)の 割 当 が 削 減 さ れ たわけではない。それは,わが省の予算から充当されたものである。」したがっ て I政 府 と 特 定 の 自 治 体 と の 間 の 通 常 の 日 常 的 関 係 か ら 考 え ら れ な い も の を リ ヴァブールが獲得したということは一切ない。」このように,ジェンキンは,リ ヴ ァ プ ー ル に 特 別 の 融 資 を し た の で も , 戦 闘 派 の 要 求 に 屈 服 し た の で も な い こ とを強調したのである。 (19) Ibid (同) これは, 1977年に地方自治体の歳出を抑制lするために滋人されたもので,物価,給与等の 上昇にたいする政府の追加の補助金のし限 (maximumsupplement)を示す。たとえば,イ ンフレ率が 20〆ぐ一セントとなり,迫力1f援助制限が 15ノミーセントとすれば,地方自治体a
, その差額を閉めるため追加の財源を自分でみつけるか経費を削減しなければならない。 Tony Byrne, Lowl GOl'erm刊entin Britazn, Third ed London, 1985, pp. 9, 214, .and 339, fn. 40; Noel HepVvorth, The Finanw0
/
Loζal Governrnent, Seventh ed, London, 1984, pp. 28-30,をみよ。 日I) サ yチ ャ は,庶民院の質問時間 (guestiontime)にすれ、て rリヴププーノレの経質1]t¥'! や,補助金関連経費,包括補助金,除去項目 (disregards)につLての議歩はまったくおこ なってし、な¥、。諸規則a
,イングラン卜の他のすべての臼治体と同様にリウァプーノレにも適 用される。j(刀1eT irnes, J uly 11, 1984)と符介した。 (52) Ibzd.July 12, 1984 (53) Ibzd (51) Ibid511 崩壊寸前のリヴァフーノレ市財政 第4表 リヴァプーノレ市の歳出内訳(1984年度) (単{Iz 1,000ポント・パーセント) 費 日 金 額 構 成 比 教育費 150 735 55 7 図書館・博物館・美術館費 5,115 1 9 社会サーヒス費 36.478 13 5 司法費 1,828
o
7 運輸費 626o
2 住宅費1) 14,547 5 4 こみ収集費 6,299 2 3 環境衛生費 12,985 4 8 リクレエ一、/ヨン費 4,094 1 5 公園費 6,522 2 4 都市計画費 5,374 2 0 火葬場・墓地費 984o
4 レート徴税費 2,213o
8 雑費 605o
2 その他のサーヒス 22,300 8 2 Z口L ~t 270,705 100 0 注1) 住宅経常勘定を除く。 [t臼所Jcipfa, Finanζe and General 5tatistiLs 1984-85 5uρ,'plementary Report, September 1984 -15-このようにして,第1
年自のリヴァプール市の財政危機は回避されたが,そ れを計数的に確認すればつぎのようになろう(もっとも,予算書をみたわけで はないので,十分な自信をもって言うわけではない〉。歳出(多分,経常勘定で あろう〕の内訳は,第4
表の通りである。歳出の5
6
ノf一セントは教育費であり, ついで大きいのは社会サービス費の 14ノミ一セントである。住宅費は,住宅経常 勘定を除外しているため歳出の5..4パーセントしか占めていない。注目すべき はその他のサービスであり,ここには1
2
0
0
万ポンドに達する緊急対策のための 支出が含まれている。この中に,多分,2
5
0
万ポンドとジェンキンが言う政府の 特別融資も含まれているのであろう。 歳 入 の 内 訳 は , 第5表 の 通 り で あ る ( 但 し , 合 計 金 額 が 第4表と若干くいち がう〉。包括補助金の減額は, 319万8千ポンドとごく小さい。なお, 1984年 度-16- 第59巻 第4号 512 第5表 リウプブーノレ市の歳入内訳 (1984年度) L 単位 1,000ポ ン ト ・ パ ー セ ン ト ) 項 日 金 額 構 成 tt 特 定 補 助 金 39 973 14 7 包 括 補 助 金 交 付 見 込 額 111 816 41 0 レ ト収入 115,963 42 6 余剰費 4,700 1 7 /I
、
i 272,452 100 0 [lil所 Ibid の同補助金交付見込額は,減額後の金額である。レート税率は,郡 (district)が 181 76ペンス,マージーサイド大都市県の委任課税が650
0
ペンスで,両者あ わせて 246,76ペンスであり,前年度比15 5パーセントの増加である。 さて, このようにして落着したリヴァプール市の財政危機はこれで解消した のであろうか。否である。ウオーカ一氏は iリヴァプールーーまだ,レート規 制をうけていなしーーにおいては何も変わっていない。予算七のやりくりも議 会の党派構成も変わっていない。今年のような公然たる反抗の再演を防ぐ手だ てはまったくない。」と言う。しかも,政府にとって悪いことにはリヴァプール の先例にならう地方自治体があらわれ出したことである。早くも 1984年7月中 旬に,北部ロンドンのキャムデン都区が1985年度のレートの決定を当面おこな わないことを明らかにしたのを皮切りに,ハ yクニー都区,イズリントン都区 も1986年3月末までレートの決定を延期するとしたのである。したがって,自 治体の財政危機は,イングランドの他の自治体に飛び火をする気配をみせるの である。同 DavidW alker‘What n, ext after Liverpool,'?The Times, November 20, 1984 6日 Ibid,July 18, 1984,
513 崩壊寸前のリヴプブーノレ市財政
-17-I
V
破産の危機の再燃 『タイムズ』にリヴ7プール市財政のニュースが再び登場するのは, 1985年 6月中旬である。 1985年度の予算は,前年度と同様に, 1985年3月末までに成 立していなければならないはずであるが,3
月4
月のリヴァプール市議会に おける予算編成をめぐる論議はどういう訳か報道されていない。 さて, リヴァブール市議会は, 1985年6月14日に,今年度の歳出2億3600 万ポンドをまかなう「合法的レート (legalrate)Jを,賛成49反 対42で可決し た。それは, レート税率を9パーセント引き上げるものであった。ところが, 予算書が手許にないので詳しい事情は不明であるが9
パーセントのレートの 増税では,年度末にl億ポンド以上もの赤字が出ると予想され,その予算は「違 法な予算」であったのである。 1985年度のレートが決定されたことによって直ちに行動をおこしたのは,監 査委員会であった。同委員会は,地区監査人にたいして,南部ロンドンのラン ベス都区とリヴァプーノレ市の財政の特別監査を命じたのである。そして 6月 26日 に , ラ ン ベ ス と リ ヴ ァ プ ー ル の 両 議 会 の 議 員 に た い し て 加 重 罰 金(sur -charge)に関する告知書が送付された。 6月27日の『タイムズ』は r監 査 委 員 会 の 告 知 書 は , 両 議 会 が 結 果 的 に 負 う 負 債(debts)を ま か な う レ ー ト の 決 定 を 遅らせた議員にたいしておこなわれる法的手続きの第l歩である。手紙は,書 留便で送られ,今朝到着するであろう。」としづ。 なぜ、こうし、う事態になったのか。それは,地方自治体財政にたいする独特の 監査制度に原因がある。イギリスの自治体財政の監査は,外部監査と内部監査 (58)Ibid, J une15, 1984 (59) なお,赤字額は,1984年 9月の『タイムズ』によれば,8000万ポンドという (ibid,Septem -ber17and23, 1985)0 8000万ポンドとレうより新しい数字が正しいかもしれなレ。 自由 Ibid, J une22, 1985 相]) 正式には,‘AuditCommission for Local Authorities in England and Wales'と言う。 側 TheTimes, June15, 1985 曲部 Ibid, June27, 1985-18ー 第59巻 第4号 514 に分かれるが,この事件に関係する前者について言えば,それは 1982年の地方 財政法により設置された監査委員会が任命する地区監査人によっておこなわれ る。そして,その結果, 自治体議員が「故意、の違法行為」により自治体に金銭 的損害をあたえたと地区監査人が判定すると,彼は,議員にたいして金銭の弁 済を命じたり,議員の資格を一定期間停止させることができるのである。 1985年 9月9日,マージーサイドとロソドンの地区監査人は, リヴァブール とランベスの労働党地方議員 80名たいして, 1985年度のレートの決定を遅ら せたことが「故意の違法行為」に該当するとして総額 233,000ポンドの賠償金 の支払い誇求を送達した。リヴァプールの場合,賠償金の額は 106,000ポンド であり,それを負担する議員 49名で割れば 1人当り 2,162ポンドとなる。も し彼らが地区監査人の訴えにたいする上告 (appeals)に 敗 れ れ ば 5年 間 地 方 議員になれない。また,賠償金の支払いにより本人が破産すれば,国会議員に も立候補できないという。なお, 80名のうち 10名は失業中であり 4名はリ ヴァプーノレ労働党のリーダーのノ、ミルトンのように定年で退職した者である。 その他の者の職業をあげれば,それらは,地方公務員,ジャーナリスト,パス の 車 掌 , 八 百 屋 等 で あ る 。 こ の よ う な 加 重 罰 金 の 請 求 は , 1972年 に ダ ー ビ シャーの小さな炭鉱の町,クレイ・クロスの労働党議員11名が前年に施行され た保守党の住宅財政法にもとづく公営住宅の家賃の値上げに反対して, 63,000 制) これは,ハノレス、ペリーの解説によれば r当人が不法に (wrongfulJy)行動したり,行動す ることを怠ったりして,しかもそれによって生じる結果を無視して行動したり,行動するこ とを怠ったりし,あるいはそれによって生じる帰結に無分別かっ無関心に行動したり,行動 することを怠ることを当事者が認識することJ(Halsbury~s Statutes
0
/
England, 3rd ed, London, 1983, vol 52, p..969)という。そして,十分な税収をあげるだけのレートの賦課を しないことは r故意の違法行為」とみなされると,ヘップワース氏はいう (Noel Hepworth, op..at, p, 311)。 附 Local Govemment Finance Act 1982, section 20,をみよ。 1983年1月から施行された 新しい監査制度の概要については,つぎの文献をみよ。木寺 久「イギリス地方自治事情 (]I)J, r地方自治』第 439号, 1984年6月。 (関;) The Times, September 10, 1985515 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -19-ポンドの加重罰金を課せられたグレイ・グロス事件以来のことであった。 10月 11日に,高等法院 (HighCourt)は, ロンドンとリヴァプールの地区監 査人の請求(application)にもとづき,加重罰金と議員の資格停止に反対するヲ ンベスとリヴァプールの労働党議員の上告が 1986年l月13日に行なわれるこ とを決定した。しかし, これは, もうすこし遅い時期に上告の提起がおこなわ れることを希望していた労働党議員にとっては1つの敗北であった。なお, リ ヴァプールの労働党議員は,上告をおこなう者のうち何名かは失業中であり, ロンドンまで行く旅費を支弁できないため,上告をリヴァプールでおこないた い旨を上申したが,マン判事は,それは伝統的にロンドンの女王座部合議法廷 (Queen's Bench Divisional Court)でしかおこなえないとして労働党議員の上 申を却下した。 さて,リヴァプール市議会の編成した 1985年度予算に話をかえそう。先にみ たように,市議会は6月中旬に9パーセントのレート税率の引き上げを可決し たが,それでは歳出をまかなえないことが明らかであった。そこで,
9
月に入 ると,再びリヴァプール市の財政の破産が報じられるようになった。 9月 6日 の『タイムズ』は,つぎのように言う。 「リヴァプール市議会のリーダーたちは,昨日,市は 12月には財政資金が 底をつき,緊急で不可欠なサービスを提供するには無給で働く保安職員 (key employees)にたよらなければならないと言った。/市議会の 30,000人 の 職 員にたいしては, リヴァプール市と政府との長期にわたる対立によって生み 出された財政危機の結果, 90日閣の一時解雇の通知 (90-days redundancy notices)が『近日中に』に送付されるであろうと伝達された。」 信7) 前年度もすでにみたように,リヴァプーノレ市議会のレートの決定は7月にずれ込み,その ため地区監査人が調査を開始したものの,それは「故意の違法行為」とはみなされなかった ようである。 Ibid,April 14 and May 19, 1984,をみよ。 朗自 Ibid, October 12, 1985 側 Ibid, September 6, 1985なお,市の職員数は,その後, '31,000人」と称される場合 が多い。 Ibid,September 26, October 3 and 18, 1985,をみよ。-20- 第59巻 第4号 516 9月13日になると,リヴァプール市議会は,財政資金が枯海するという理由 で12月 18日以降職員との雇用契約は遵守できないと Lたぷ)解雇通知は, リ ヴァプール労働党が案出したーか八かの戦術であった。その意図は, 3万人余 の職員を3カ月間一時解雇して賃金に充当すべき資金をうかして,なんとか年 度末まで食いつなごうということであった。ハ y トンは rすべての緊急なサー ビスは提供されるであろう。われわれの意図は,資金がたまれば労働者を再雇 用するということである。」と言う。 もっとも
3
万人余の市職員を 4時解雇するという事態に立ち至るまでリ ヴアプール労働党の首脳部は手をこまねいていた訳ではない。ハミノレトンは, 9月6日に,新しく環境相となったベーカー(Baker, Kenneth)に面会して,2
5
0
0
万ポンドの借り入れを要求すると発表した。ハミルトンは rこれは,昨年 未解決で残り,それ以降のいわば継続事項である財政危機に関して,政府がわ れわれの要求に対応しなかった明らかな結果である。われわれは,われわれが 解決できない危機の渦中にいる。リウ、アプールが自分では解決で、きなじ;
1
と 言った。これにたいして,ベーカーは r同市はこの事態を自分で招いたのであ る。市の行政を運営する責任の所在は明らかである。当局はその責任を放棄す る方途をえらんだのであるから,市全体でその結果を受けるべきであろう。」と 反論した。ベーカーは,2
5
0
0
万ポンドの融資については考慮するとしながらも, 「そのような借り入れは将来の歳入から返済されなければならない。行政の運営 に失敗したからといって,そのような〔特別融資の〕要請をする地方議会 (coun-c
i
l
)
は他にはない。」と言って,結局,2
5
0
0
万ポンドの融資を拒否した。彼は, 前年のリヴァプールの財政危機にたいするジェンキンの対応を失敗と考え,本 年は政府としては傍観者的態度をとることにしたようである。ジェンキンは, かつてマージーサイドにたいして前任者のへセルタイン(Heseltine,Michael) (0) Ibid, September 13, 1985 ( 71) Ibid, September 27, 1985 (72) Ibid, September 6, 1985 (73) Ibid517 崩壊寸前のリヴァプール市財政 -21ー 環境相より冷淡だといわれたが,ベーカーはジェンキンより更に冷淡であった といえるかもしれなし、。 ところで,何故リヴァプールは環境相に特別融資を直接要請しなければなら なかったのかといえば,それはつぎのような事情が存在していたからであろう。 今日,イギリスの地方自治体にたし、して資本勘定の資金の過半を融資している 中央政府の機関は,公共事業融資委員会(PublicW orks Loan Board)である が,同委員会は, リヴァプール市議会が6月に赤字予算を承認して以来一切の 貸し付けを拒否していた。そして,フリート氏は,-岡市の総額約7億ポンドに 達する未償還公債のうち
7
6
0
0
万ポンドが今日(10
月2
日〕から1
2
月末までに 満期になるため,事態は危機的である。 リヴァプールは,現状では,元金のか なりの額の返済の手段をまったくもっていないのである。」という。つまり,当 時リヴァプール市議会は,財政資金の借り入れ先をどこにも持っていなかった のである。 さて,先の一時解雇の通告に話をもどせば,それは,資金的な目途がつけば 再雇用してくれるといっても,市の職員にとってはまったく無茶な話であった。 そこで,市の職員労働組合は9
月2
3
日以降無期限のゼネ・ストを行うことを 組合員に呼びかけた。また,全国教員組合(National Union of Teachers)に所 属する教員はリヴァプールには2,5
0
0
人いたが,同組合は,解雇通告が不当で あるとして高等法院に提訴した。高等法院は,1
0
月2
日,同組合がリヴァプー ル市議会を相手に一時解雇の不当性について争うことを認めた。ヒリアー (Hi -llier, Andrew)は,マン判事にたいして,-市議会の行動は,岡市の生徒に教育 をすることを否定することにより,1
9
4
4
年教育法に違反している。」とのベた。。
4) 以下, PWLBと略称する。なお,同委員会については, Sir Harry Page, Local Authoritiy Borrowing Past, Pres仰 tand Future, London, 1985, pp 298-314,をみよ。高橋誠『現 代イギリス地方行財政論』有斐閣, 1978年, 259-261ベージ,にもごく簡単な解説がある。 (75)Kenneth Fleet,‘Make or break time on Merseyside,'The Times, October2, 1985 ( 7回 Ibid,September17, 1985。
7)Ibid, October3, 1985,によれば, NUTに所属するリヴァプーノレの教員は5,000人で あると言う。 (78) Ibid-22ー 第59巻 第4号 518 この事件の審聞は速やかにすすめられたらしく,
1
0
月1
7
日に,3
人 の 高 等 法 院 判事は, リヴァプール市議会の一時解雇の通告が無効であることを裁定した。 そ し て , そ の 裁 定 が 出 る 直 前 に , ハ ミ ル ト ン は3
万1
千 人 の 職 員 に た い す る 一時解雇の通知書を撤回することを約束したのである。 V 合 法 的 予 算 の 成 立 を め ざ し て 目前にせまった破産を回避するため3
万 人 余 の 職 員 を 一 時 解 雇 し な け れ ば な ら な い ほ ど に 追 い つ め ら れ た リ ヴ ァ プ ー ル 市 議 会 に 救 援 の 手 を さ し の べ た の は , シ ェ フ ィ ー ル ド 市 議 会 の 盲 目 の リ ー ダ ー で 労 働 党 中 央 執 行 委 員 会 委 員 のl 人のブランケット (Blunkett,David)であった。彼は,ボーンマスの労働党大会 において, リ ヴ ァ プ ー ル の 財 政 危 機 を 回 避 す る た め に 岡 市 の 会 計 帳 簿 を 労 働 党 執 行 部 に 公 開 す る よ う に 要 請 し た 。 こ れ を , ハ ッ ト ン が 受 け 入 れ4
人の地方 財政専門家からなる調査団が編成された。そして,1
0
月末に,ストーンフロス トらの調査団は, リヴァプーノレ市の破産を回避するための解決策をもりこんだ 報 告 書 を 発 表 し た 。 そ れ は , ま ず , 第1に , マ ー ジ ー サ イ ド の 委 任 課 税 を 含 む 一 般 レ ー ト 税 率 を 約11パーセント, リヴァプール市のレート税率を 15パーセ ント引き上げることを勧告した。これは, 6月に承認された9パ ー セ ン ト の レ ー ト 税 率 の 引 き 上 げ に 上 積 み す る 分 で あ る 。 そ し て , こ の 追 加 の レ ー ト の 増 税 に (79) Ibid, October 18, 1985 ワトキンス判事 (LordJustice Watkins)は r教員を解雇する 決定は,違法なレートの設定から発生したもので,越権行為(ultravi res )にあたり,したがっ て市議会の行動は違法であると宣言するりとのベた (ibid)。 極的 プランケットの経歴については,ごく簡単ではあるがつぎをみよo'The Times Profile/ David Blunkett', ibid, April5, 1984彼は, 1944年生まれで,シェフィーノレト大学の卒業 生。 22才でシェフィーノレド市の市議会議員に当選。労働党地方自治委員会 (committeeon local government)の初代委員長をつとめ,地方行財政に精通。 (81) Ibid, October 3, 1985 ω) 彼らは,大ロンドン議会の前事務総長(director-general)のストーンフロスト (Ston -efrost, Maurice),大都市自治体協会 (Associationof Metropolitan Authorities)の財務部 長(financialsecretary)のヒ。ノレグリム (Pilgrim,Martin),そして, シェフィーノレドとキャ ムデンの財政部長(treasurer)のフォウノレウエノレ (Folwell,Grenville)とマーロウ (Mar -low, John)であった。519 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -23-よって 1900万ポンドの増収がもたらされる。また,住宅修繕維持勘定 (housing repairs and maintenance account)の一部資本化 (capitalization)により 1200 万ポンド,非住宅修繕維持勘定の資本化により 700万ポンド,そして,若干の 暖房設備を賃借りすることにより 250万ポンドの経費の節約がそれぞれおこな われる。報告書は iこれらすべての経費節約は,今年度中におこなわれ,その 結果,政府に圧力をかけて追加の資金を入手しようとして指導的な戦闘派の支 持者たちによって計画された,市議会の 31,000人の労働者の一時解雇の必要性 はなくなる。」とした。 このようなストーンフロスト報告を, リヴァプール市の労働組合の指導者た ちは支持しそれをハミルトンやハソトンたちに呑ませようとしたが,失敗し た。他方,労働党が支配する大都市自治体協会は,労働党が与党である
4
6
の地 方自治体に呼びかけて,各自がもっている借り入れ枠の余分(spareborrowing powers)をリヴァプール市に譲るように要請した。しかし,それに応じた自治体 はわずか4団体で借り入れ枠も90万ポンドと予想した金額の 10分のlにすぎ なかった。そうこうしているうちに, リヴ7プール市の財政の窮迫はますます 進行していった。 11月14臼の『タイムズ』は i市議会の職員でさえ,戦闘派 によって予告されてはいたが市が難渋しているようにみせかける策略によって たびたび延期されてきた財政危機の土壇場(financialcrunch)が今やきたと昨 夜認めた。」と言う。そして,同月 22日の『タイムズ』は i今日から3万l千 人の職員の給与はまったく支給できないであろう」と報じたのである。 さてここで,今回の財政危機についての労働党党首キノ yクの見解をみてお こう。彼は, 1985年 10月 1日の労働党大会においてリヴァプーノレ市議会の戦闘 派議員を激しく非難し,その追放(purge)をはじめて支持した。そして,彼は, i1983年のこの大会ですでに申し上げたようにわれわれは勝利しなければなら 信)3Ibi.,d October 30, 1985 また, ibid, N ovember 2, 1985,もみよ。 極的 Ibi.,d N ovember 18, 1985 相自 Ibid, November 21, 1985 (86) Ibid, N ovember 14, 1985 (81) Ibid, November 22, 1985-24- 第59巻 第4号 520 ない。われわれは,労働党を凌ぐどのようなもくろみをも許してはならない。 私はそのことを信じ,われわれが勝利を獲得するまでそれを言いつづけるであ りましょう。」と言い,-われわれは勝利しなければならなし、。それは,われわ れのためにではなく, イギリス国民を実際,現実に悪魔から救い出すためにで町 あります。それをやりぬこう。」と訴えた。キノソクの目標はサッチャ一政府を 倒して政権の座につくことであり,そのためには国民の広範な支持をうる必要 があった。そこで,彼は,教条主義を振りかざして格好(gestures)ばかりをつけ, 一時解雇の通知を出して住民のサービスと職員の働き口をもてあそぶようにみ える,戦闘派が牛耳るリヴァプーノレ市議会にはがまんがならなかったのである。 そこで, 1985年 11月下旬にリヴァプーノレ市が破産寸前の状態、に再び陥っても, キノックの態度はかわらず,依然として冷淡であった。彼は, 11月21日の夜, ストーンフロスト調査団の勧告を拒否したリヴァプール市議会の首脳部の態度 を「恥さらし」と非難し,-労働党の地方自治体,国会そして労働組合にいる同 志たちと私は,
3
1
,0
0
0
人の勤労者と身障者を人質として使うような人達とは金 輪際縁を切るりと言った。そして,労働党の首脳たちは,保守党と密接な連絡 をとり,土壇場に追いこまれたリヴァプール市財政をどう救済するかを,破産 管財委員(commissioners)の派遣をも含めて検討していたので、ある。 他方,ベーカ一環境相も最後の手段としてキノックの同意をとりつけ,戦闘 派が牛耳る労働党市議会を排除して破産管財委員による財政の立直しを考えて し 、t,こ。 このようなサッチャ一政府ならびに労働党指導部の共同歩調を見てとったの であろうか,ハットンは, 11月21日に,-大都市自治体協会(AMA)による勧 曲目 Ibid, October 2, 1985 仰)社説,‘Exita Man of the Left,'zbid, October 2, 1985,をみよ。 曲目 Ibid, N ovember 22、
1985 制) Ibid, N ovember 20 and 22, 1985 但し,破産管財委員の派遣は, 1979年に,当時社会 保障相であったジェンキンがランベス等の広域保健局(areahealth authority)にたいして おこなったが,高等法院において違法と裁定された。リヴププーノレ市のような都市自治体に たいする破産管財委員の派遣は先例がなし、。521 崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -25ー 告は拒否したわけでも受、け入れたわけで引もない。金曜日 (11月22日〕の夜の地 区労働党の集会で解決策を検討し
1
つの決断がなされるであろう。」と言っ た。これこそ翌日の地区労働党集会における合法的予算承認の決定を示唆する ものであったのである。 11月23日の『タイムズ』は一面トップで, リヴァプール市議会がついに敗北 をみとめて,破産を回避したとつぎのように報じた。「リヴァプールの戦闘派が 牛耳る労働党市議会は,ついに昨夜,政府との財政をめぐるにらみ合いにおい て敗北を認め,市を破産の測から引きもどした。」リヴァプールの地区労働党集 会は, 22日の夜,約 500人の党員が出席して聞かれ, 2時間にわたる討論の後, 合法的予算を承認する方向を決定したようである。同夜採択された決議は rリ ヴァプール市議会にたし、するさまざまな圧力とわれわれの立場を支援する勢力 が不足している現状に鑑み,われわれは別の予算 (alternativebudget)を考慮 せざるをえないと判断する。わが党は,この妥協がリヴァプール勤労人民にとっ て取り返しのつかない敗北ではなく lつの後退(asetback)であると認識して いる。」とのベた。 このようにして, リヴァプール市議会は破産をその寸前で再び回避したので ある。労働党党首のキノックは, 22日夜 rリヴァプール市議会は今やこの週末 に全速力で行動し,その〔ストーンフロスト調査団の〕提案が実行され,雇用 とサービスにたいする脅威が直ちにとりのぞかれることを確認しなければなら ない。いかなる言い訳も遅延も許されない。」というコメントを発表した。ベー カ一環境相も,同夜「このニュースが本当ならば,われわれはその詳細を注意 ぶかく検討する必要があろう。これでリヴァプーノレの人々の肩の荷は大分軽く なるにちがいなしご1
とのべ,半信半疑ながらもその解決を喜んでいるようにみ えた。労働党の影の内閣の環境相であるカニンガム (Cunningham,DrJ
ohn) 相) I2 bid, November 22, 1985.. 側 Ibid,N ovember 23, 1985 0唱 Ibid ( 95) Ibid 世田 Ibid-26ー 第59巻 第4号 522 は,同夜,
BBC
のテレビで「労働党が真に希望していることは,このような パカバカしい失態が来年はおこらないことである。」とのベた。このような政 府ならびに労働党指導部の態度にたいして,ハy トンは,労働党中央や労働組 合の首脳たちが支援しなかったことを非難し r彼らはわれわれとサ yチャーお よびベーカーの間に立って邪魔をした。われわれは政府と取り引きをするチャ ンスを失ってしまった。彼らは笑いがとまらないにちがし、ない。新聞はこれを 降伏と呼ぶであろうが,私は一時的な後退(temporarysetback)であると思っ ているoJといい,なお意気軒高であった。 11月25日の財政委員会は,具体的な予算案を決定した。それは,まず,住宅 修繕維持基金から2340万ポンドを資本化するとともに,スイスの諸銀行から構 成される借款団 (consortium)から 3000万ポンドの借り入れをおこなうことで あった。そして,その借款は,3
つの条件,すなわち,市議会は今後法律に則っ た行動をとること,ストーンフロスト報告にそって収支を一致させること,そ して成立する予算に関して環境省の同意を得ることを条件に合意された。さら に,予算案には,労働党が与党である地方自治体の未使用の借り入れ枠から300 万ポンドを融通してもらうとともにリヴァプール市の歳出を300万ポンド削減 することも含まれていた。財政委員会委員長のパーンは,環境省に出向いてこ のような内容の予算案を直ちに承認してくれるように要請した。 リヴァプール市議会の本会議は, 11月29日に開催され,上記の 1985年度の予 川 算案を賛成44反 対 33で可決した。なお, 3000万ポンドの借款とは r据置き買 付け協定(deferredpurchase agreement) Jなるものである。それによれば, リヴァプール市の資本支出の一部が信用供与銀行 (creditorbanks)によって直 接支払われ,資金はリヴァプール市には入らない。返済は借り手の一挙の資金。
7) Ibidまた, ibid, November 25, 1985,もみよ。 師団 Ibid, November 23, 1985 また ,ibid, N ovember26, 1985,もみよ。 納)1 Ibid (jω) 11月30日の『タイムズ』では,それは, フィリップス・ドゥノレ一社(Phillipsand Drew) とその他の株式仲買人によって手配され,シティの諸銀行によって資金が提供されるとい う。そうすると,スイスの諸銀行はどうし、う役割をはたすのであろうか。5
2
3
崩壊寸前のリヴァプーノレ市財政 -27-流出を防ぐために一定期間一一一この場合は2
年間一一一据置かれる。そして,借 り入れの満期は7年である。PWLB
もリヴァプール市への貸付けを1
1
月2
9
日に再開することに合意し た。直ちに認可された金額は3000万ポンドであった。それは市の職員の給与と 年度末までに満期となる 5000万ポンドの公債の利払いにあてられる。 このようにしてリヴァプール市議会の今回の財政危機も,結局は,銀行やP
WLB
からの借り入れによって回避されたのである。そして言うまでもないが, これは将来の市財政にたいする重い負担となる。ベーカーは,1
9
8
5
年1
2
月の庶 民院において,-これは決算日を延期しただけで、ありますから,地方財政にたい するきわめて不完全な,私が思うに基本的には誤った解決方法 (wrongapproa-(103J ch)であります。」と言ったが,けだし至言であろう。というのは,今回もリヴア プール市財政の危機の諸原因にはすこしも手がつけられなかったからである。V
I
むすび1
9
8
3
年5
月に労働党が政権をとったリヴァプール市議会の財政危機を,1
9
8
4
年と1
9
8
5
年の2
年間にわたって主として『タイムズ』等の新聞記事を材料にみ てきたが, ここで財政危機の諸原因について若干まとめておく。 まず第u
こ指摘できるのは,政治的な原因である。すなわち, リヴァプール 市議会の財政危機の発端は市議会の政権交替であったが,その収拾の過程にお いても市議会の戦闘派, リヴァプーノレ地区労働党,サッチャ一政府,労働党中 央などの政治諸勢力が複雑にからみあっていたということである。 第2
に,財政制度上の大きな原因として経費目標やレート援助補助金制度に 組みこまれた罰則があげられる。前者については,カニンガムが1
9
8
5
年1
2
月2
日の庶民院において,-リヴァプール市の財政問題の根本原因は,ストーンフ ロスト報告によって強調されたように,歴史的にみても低い経費呂標(lowtar -ー (01) The Times, November 30, 1985 (02) lbid (03) lbid, December 3, 1985-28- 第59巻 第4号 524 get)にある。」と指摘しているところである。また,現行のレート援助補助金制 度が内包する問題の
1
つには,ヘザリントン氏が指摘するように,-政府は一方 の手で『与えた』が,他方の手で取りあげた。政府は,今日までリヴァプール 地域に都市援助(urbanaid)と波止場地域の再開発援助という形で約 1億 3000 万ポンドを注ぎこんだが, リヴァプールが計算したところでは, レート援助補 助金と住宅補助金(housingsubsidies)の削減によって中央政府の援助を 2倍、 (J出) ポンド『失っている ~oJ ということがある。 第3に,社会経済的原因が指摘できるであろう。すなわち, リヴァプール市 の産業構造の転換に伴う都市の衰退とし、う問題であり,これは短時日の聞に解 決されるものではないであろう。 したがって,今回のリヴァプール市議会の財政危機はこれらの諸原因が複雑 に絡みあって発生したものであり,一過性のものではない。そこで,われわれ は今後の事態の推移に注目しなければならないが 1つ指摘すれば, 1985年11 月の財政危機が回避された直後にキノックが戦闘派を「労働党の体内にやどる (¥lffiJ ウジ虫」と呼び,それを追放するためにリヴァプール地区労働党にたいする調 査団を発足させたということである。この調査団の報告は, 1986年 1月に労働 党執行部に提出されたはずであるが,その結果はどのようになったであろうか。 (それはすでに判明していると思うが,私は未確認という意味である。) 最後に一言。リヴァプールは2
つの大聖堂を擁する宗教都市としても有名で あるが,今回の財政危機の回避にさいしても,その効果のほどは疑問であるが, 僧侶たちが活躍しているということである。すなわち, 1984年5月にはリヴァ プール英国国教会主教シェパード(Sheppard,David)とリヴァプーノレ・ローマ カトリ yク教会大司教ワーロック (Worlock, Derek)がジェンキン環境相とキ ノグク労働党党首に面会し,財政危機回避の方策をさぐったし, 1985年10月o
似) lbid (05) Peter Hetherington,‘A legacy to Liverpool that ran into the sand,'The Guardian, Apri113, 1984 (06) The Times, November 28, 1985525 崩嬢寸前のリヴァブーノレ市財政
-29-(]08)
には,-リヴァプールの戦闘派に立ちむかえ」という論文を 2人の連名で『タ
イムズ』に寄喝したりしたのである。