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敗戦後の日中関係と中国語教育(報告ノート)-香川大学学術情報リポジトリ

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敗戦後の日中関係と中国語教育 (報告ノート)

小 林

立 はしがき 卜)日本の政敵岬脱亜入欧路線の挫折W 臼 戦後の中国語教育一伽中国侵略の反省紅たって−一 日 戦後の日中関係一脱亜入米路線の上で一 囲 米国の戦略転換劇ヰ国の国連復帰と日中国交正常化− ㈲ むすび一日本人と外国・外国語教育− は し が き 戦後の日中関係のなかで、中国語に関係して来た戦後世■代の−・員として、日 中国交樹立という歴史的転換を眼のあたりに見た現在、自分白身もその中で過 して来た戦後の日中関係の下での中国語教育について勉強して見ることは必要 なことであろう。戦後二十余年払わたる国交断絶の後紅実現した日中国交正常 化が持っているであろう巨大な歴史的意義を認識し理解すること紅通ずるであ ろうと思うからである。 この「■報告ノ−ト」はへ しかしながら、私の知識不足とカ品不足の故に.『敗 戦後の日中関係と中国語教育』という表題を内容的紅住いうる資格ほもってい ない。今後の前進のための−・階程としての意味しかないことを不満でほあるが 認めるはかはない。 田中内閣の登場と共に.、中国側の対日姿勢ほ−・段と積極さを増した。そして 田中内閣も中国側の働らきかけ紅積極的に応じて、遂に日中国交正常化という 日本と中国の近現代史を画する事態を創り出した。 だが、この歴史の急転回には、放戦後二十数年来の日中関係をふり返る時、 懸案の解決という印象と同時紅−・種のと女どいすら感ずるのほ、恐らく私一人

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の感想ではあるまい。中国の国連復帰を阻止するため日本政府が全力を傾注し たのほ、つい最近までのことでほなかったか。今からこ年はど前には、佐藤首 相は国会で次のような答弁をしていたのである。「私ほ中国が、大陸がいかに 大きくとも、やほり小さい中撃属国を代表として選んだ以上、これはやほり守 っていくことが国際信用を高めるゆえんでほないだろうか、かように私は思っ ております……」(脚註) 日本はいま、やほり保守党内閣の手紅よって国連中心外交という名のもとに、 米国を出し抜いて日中国交正常化を実現してしまう変り身の鮮やかさである。 日中国交正常化が現実のものとなり、中国プ・−ム、中国語ブームとか言われる昨 今、われわれ日本人ほ中国を敵視し、中国の国際社会への後帰を阻止し続けて 克た戦後二十余年間の日本政府の政治外交政策について勉強して見ることも決 して無駄なことでほないと思われる。それなくして\日中国交回復の真の意義 も理解することはできないであろうし、子々孫々紅わたる日中友好の促進もう まれ得ないのではないだろうか。 近頃のように中国ブーム、中国語プ・−ムという言葉を見たり聞いたりするに. つけても、日中友好と日中国交回復のために理想紅燃えて中国語を専攻しなが ら生計の途を他紅求めざるを得なかった数多くの同学諸兄姉のこ.とを想い起さ ざるを得ない。私には表題について全体的に扱うことほ.とても出来ない相談で ほあるが、専攻した中国語を生計の手段とする機会に.恵まれた数少ない戦後世 代の一・員として−自分なりに学んで整理して見る義務ほあるのではないかと思 う。 この「報告ノート」ほ下記にかかげる参考文献によって得られた知識を粗雑 にまとめたもの紅すぎない。(’7210.1)

参 考 文 献

は)『中国』19占8年8月号、中国の会編集、徳間書店発行。 (2)『中国研究月扱』19る9年10月号、中国研究所発行。 (3)『中研談話会報』第20号、1971年占月、大阪市立大学文学部中国語中国文 (脚注)『資料・日本と中国’45−’71』117貢、朝日新聞社刊。

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学研究室。 (4)論文「中国語教育の歴史と課題」安藤彦太郎、『中国研究月報』19る8年

9月号、所載。

(5)『日中関係とは何か』<日本と中国>2、朝日新聞社、昭和舶年11月刊。 (6)『中国語五十年』倉石武四郎、岩波新書、1975年1月20日刊。 用仁『日中間魔人門』高市患之助、富山栄吉、岩波新書、19占2年18月刊。 倦)『日本人の中国観』安藤彦太郎、勒草書房、昭和舶年5月刊。 (9)『近代日本の中国語教育』六角恒広、淡路書房、19占1年12月刊。 ㈹ 「大学紅おける外国語教育に、ついて」(香川大学『−−・般教育研究』欝4号 所載1975.7) (11)「大学改革に関する調査研究報告番(案)」国立大学協会大学運営協議 会、昭和48年8月。

(−) 日 本の敗戦

鵬脱亜入欧路線の挫折一

中国語は「実用性」を失った./ 日本の中国便略は、昭和20年8月、敗北を以って終った。満州事変から数えて 15年、慮溝橋事変から数えて8年の轟きにわたる中国への武力侵略は、個々の戦 斗の勝利に.もかかわらず、遂にその戦争目的を、実現することはできなかった。 敗戦当時の日本の人口ほ、7220万といわれ、その中、百人のうち7人が、中 国大陸、台湾、朝鮮半島紅いた。417万人紅のぼ■5日本人が台湾を含む中国全 土紅いた。そのうち、204万人が陸海軍部隊であったが、主力をなす陸軍の兵 力は当時の日本の陸軍総兵力の約5分の1、≒外征軍≒の約5分の2を占めて いた。残りの215万人は、官公吏、国策会社社員、開拓農民、商人、宗教家、 教育者、大陸浪人など、要する紅大日本帝国の中国便略戦争に奉仕した人びと とその家族だった。政戦当時のこれらの数字は日本人の中国への関わりの探さ を端的に表わしている。侵略戦争のために中国へわたった日本人と「銃後」から それを支援した日永人のエネルギ・−の巨大さを伺わせるに.充分である。(脚注) (脚注)光岡玄j ̄戦後日中関係と日中友好の原点」r中国研究月報』19る9年10月号P.5参照

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敗戦前の中国語はこのような日本と中国との関係の中で必要とされ学ばれて 来た。従ってそれほ「実用性」が極めて高い外国語であったといえよう。 虚構椿事変(1957年)にほじまる日本の中国侵略戦争は、中国に対してほ 1,DOO万人の人的損害と50D億ドルにのぼる物的損害を蒙むらせたという(郭泳 若)。もし満州事変(1951年)から計算すれぼその数字ほ更に増えることにな る。・そ・れだけの犠牲を中国人に強いるために.ほ、日本人自体もまた戦争による 30ロガ人の死者、1,500万人が家屋を失い、200万人の戦争孤児をうみ、180万人 の戦争未亡人をうみ出した(前掲光岡玄論文参周)。これらの日本と中国の双 方における貴い犠牲はへ毛沢東が『論持久戦』(1958年)の中で指摘していた 如く、中国を変革し、日本をも大きく変革する原動力として働いている。 しかし日本人は15年戦争(満州事変より敗戦まで)払おいて中国に散れたと いう意識ほ稀薄であり、米軍に敗れたという意識の方が−・般的である。「外 地」の日本人の数が417万人に.ものぼり、全人口の7%に.相当したとしても、 「内地」に.おける米軍の空襲や原爆投下、南太平洋、東南アジアに.おける戦斗 などから、米軍に.放れたという意識が先にたって∴ 日本人にとって戦争とは、 外地へ軍隊を派遣して、そこで斗うことであるという常識がある。日本本土へ 外国の軍隊が侵入して、それを追い出すために斗うという意識は乏しい。要する にわざわざ外国へ軍隊を派遣することがすなわち侵略戦争なのだという意識が 稀薄である。(脚注) 日本が英、米諸国と戦争に突入することになったのは、中国における利権を めぐって把他ならない。そして第二次世界大戦における大日本帝国の欺北は、 日滑戦争以降昭和二十年まで日本が一貫してかかげた大方針の崩壊だった。朝 鮮半島から中国大陸への侵出という大方針が破産したことを意味する。かくて 日本は明治以降一層してかかげた脱亜入欧路線の破たんによって旧植民地から も全面的に撤退することになり、民族としてほ大収縮を行なったのである。即 ら、日本が明治以降推進した大方針は、第二次世界大戦の敗北によって崩壌し たのである。 敗戦後の混乱は、その「脱亜入欧」路線についての深刻な反省も行われない (脚注)『日中関係とは何か』P.101∼105参照、朝日新聞社。

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まま、米軍の占領下のもとで、米国との戦争に敗れたという被害者意識のみが・ 強調されて来たのでほなかった。世界で最初の被爆体験国であるとか、沖絶の 返還、北方領土の返還など。しかし15年戦争は中国を舞台に.して行われていた ということが忘れられている。 敗戦は明治以降のモ富国強兵§政策の破産であるが、朝鮮、中国など近隣諸 国への侵略戦争の挫折ほ、「支部語」教育にも挫折をもたらした。敗戦までの 中国語にほ、「外交」「商用」「軍用」といった実用性があった。大日本帝国

の崩壊ほ、中国侵出を前提としで教授、学習された「支那語」をして、その実

用の場を失わせた。ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏ほ、旧櫨属地、 旧占領地区をことごとく手放すことになったからである。

それ故、敗戦後の中国語教育は、「外交」「商用」「軍用」など、いずれの

「実用性」も低下した状況のもとで行ゎれなければならなかった。だから、中 国語ほ「死語」に近い存在であった。 戦前の「支那語」は、中国侵略という ≒有利な環境≒のなかで実用語学とし て迎えられた体制語学だった。ところが戦後の中国語は「支那語」への反省と 同時紅.中国語を語学として確立する必要が強く叫ばれた。中国語ほ「実用」云吾 学として−活きてゆく途を失った「死語」紅なったため、「教養」語学、「文法」 語学への脱皮が要請されたのである。中国語ほ.戦前の「会話」主義から、欧米 語学のように.「教養」語学に適わしい内容を持つことを求められたし、「文化J 語学へ脱皮することなくして存在できなくなった。 「明治以後、−・般に外国語ほ文化輸入の手段としてまなばれた。しかも、それ は単把.手段たる把とどまらず、人間の形成期紅まなんだ語学がその人の知的風 格をある程度決定する役わりを果した。……そこで、ドイツ語インテリヤフテ ンス語インテリが日本にをま生まれたが、中国語インテリというのは生まれにく かったのである。」(安藤彦太郎『日本人の中国観』180貰、勤草書房、昭和 4る年5月刊。) 「日本人は明治以来、西欧紅.対して深い関心をはらってきた。若い学徒は特に. 西欧の諸文化紅対して清新はつらったる関心を寄せ、そこから養われた物の見 方、考え方が、学生各個人の世界観、人生観の形成把多大の影響を及ぼしたと

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考えられる」(「大学における外国観教育について」香川大学『−・般教育研 究』第4号2貴所戟)。それ故、中国の国連復帰により「中国プ−ム」、「中国語 プL−・ム.」などの現象も見られるが、わずか1∼2年前までは、「中国語」は依然 としてモ日陰の語学、≒裏通り語学≒ として存在し続けた。そして大学におけ る中国語教育の地位を高めるにはどうすべきかが関係者の間では死活の問題と して−論議されて来たのである。 日本が最も長期にわたり被害を与えて来た中国との国交回復を真剣にとりあ げることを避けて−、戦後の米ソ両大国の冷戦体制の中に組み込まれていったと いう経過が最大の原因となっている。第二次大戦後における政治の構造を究明

することなく、単に中国語を語学として採りあげ、論議しているとしたら、そ

のこと自体が自分自身の視野の狭さと認識不足の表明であった。 そこに.は、また日本に.おける「語学」に.ついて−の姿勢が、極めて.−狭い視野を もった技術主義的なものとして扱おうとしているこ・とも災いしている。

臼 戦後の中国語教育

一中国便略の反省にたって+−一 敗戦前まで、「支那語」「華語」と呼ばれた中国語は、敗戦後ほイ中国語」 と名称を変えた。いつ誰が提唱して:「中語国」と称するようなったのか知らな

いが、「支那」「支那語」紅は、中国、中国人蔑視のニュアンスがあり、中国

人が最も嫌うことばである。日本人が無意識に使う「支那語」という言葉に. ほ、中国人にとっては汚辱と苦難の歴史が含まれていることを我々日本人ほ自 覚すべきである。「支那」「支那語」という言葉は、我々日本人の過去の対中 国侵略への反省が欠落していることを端的に表明しているのである。

敗戦後、安倍能成文部大臣の時、旧制第一高等学校と旧制山口高等学校紅

r中国語」が設置された(倉石武四郎『中国語五十年』P.75∼る、岩波新書)。 日本でいわゆる外国語というのほ先進国の言語のことで、日本語以外の外国 語−・般を指するものでほない。中国語は、これまで学ぶに僧する外国語に仲間 入りできなかった、もしくは仲間入りすることを許されなかった外国語なので ある。 こ.れまで「商用」を主たる目的として旧制高等商業学校紅設置されていた中国

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語にとって、これは破格の昇格と言わねばなるまい。エリ岬卜・コースに初め て中国語は橋頭隻を築いたのである。それには、倉石武四郎博士の長年にわた る尽力と存在が大きく作用している。 そしで倉石武四郎博士を中心に中国語の学習の正しい在り方や目的を求め て、昭和二十一・年十月(194占年)に.、「中国語学研究会」が発足し、日本の中 国語研究者、教育者の勢力を結集した学会活動と研究活動がほ.じめられた。・そ れ以後、二十数年来、関東と関西をはじめ日本各地で全国大会が毎年開催され て来ている。このことほ日本の中国語学、また中国語教育において画期的な意 義をもつ事柄である。 中国言吾ほ実用性の故に、学問、文化の世界とほあまり関わりをもつこ.となく 存在し得たのだが、敗戦は実用性の乏しい環境を創造し、そこ把学問、文化と の関わりにおいて、中国語の存在が考えられ、新しい性格をもつことが志向さ れた。 昭和二十四年(1949年)、新制大学の発足にともなって、従来旧制高商に.設 置されていた「中国語」が大学教育の中に位置づけられた。昭和二十四年とい えば、その年の十月−・日にほ月コ撃人民共和国が樹立された年である。アへソ戦 争以来、欧米列強と日本の侵略と圧迫を受けた中国が長くて苦しい戦いの末、 .民族の独立と解放を達成した記念すべき年である。 夢二次世界大戦に.おいて日本は敗戦国であり、中国は連合国の−・員として抗 日戦争を戦った戦勝国である。従って中国ほ日本に占領軍として上陸する資格

があった。それが実現しなかったのは、抗日戦争勝利の後、間もなく始った四

年にわたる国共内戦のために他ならない(蒋経国「ヰ華民国断腸の記」『文芸

春秋』昭和四十七年十月号参偲)。国共内戦は、抗日戦争の勝利の後、どうい

う中国を創ってゆくかをめぐる戦争だった。そして毛沢東の指導する中国共産 党と人民解放軍が中国民衆の支持を得て、蒋介石政権を台湾に亡命させたので ある。こうして、中国大陸にほ中華人民共和国が樹立され、中国に.返還された 台湾紅ほ中撃民国が存在する状況がうまれた。 日本の敗戦が「中国語」を新制大学の外国語科目の申紅位置づけた。かって 高等商業学校において「商用」「軍用」のために学ばれた中国語が西欧語学と同

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等の制度的地位を占めた。これは日本近代史の皮肉である。しかし日本人紅

は中国に敗れたという自覚が乏しく、米国に・放れたという意識が強い。それに は敗戦後、米軍が占領軍として主力を成したことも原因の一つほ求められるだ ろう。満州事変以後15年の長い間、戦争を続けて釆た中国が日本へ占領軍として 進駐していたら、日本人の意識紅も変化がみられたかもしれない。それはとも かく、日本人には満州事変から始まる十五年戦争に日本が放れたのだという歴 史的視点が欠けている。それほまた戦後の日本の中学、高校における歴史教育 において教科番の朝鮮、中国に対する侵略の記述があいまいに・されていること とも関係する。 日中国交正常化を契機に、教科書に.おける中国との戦争に・ついての記述に・つ いて改訂を要求する動きが現代中国学会などで起されているのは当然であろ う(米田伸次「教科書に.おける中国像」『中国研究月報』1975年4月号)0 それ故に、中国をはじめアジアの諸国に対する茸視観は戦後も依然ぬぐい去 れないし、そういう教育を受けて∵来た大学生に.とっては、新制大学の中国語はい わゆる教養語学としての魅力に欠けると見えてもやむを得ない。学校教育にお ける外国語の学習はいわゆる先進諸国のそれに限られるとする伝統的意識から・ すれば、それまで実用語学の性格を強く持ってきた中国語ほ、教養語学の資格紅 乏しいと映らざるを得まい。それ故日本の大学生の−・般的意識としてほ、やは り英、独、仏をほじめとする欧米語学が優先し、中国語は特殊語学であるとい う認識が濃厚だったといえよう。とりわけ台湾省の蒋介石政権を政治、経済の・ 交渉相手として選択した日本においては、中国語はその「実用性」から言って も、その活用の舞台を大きく制限されている。「中国語ほ国連公用語の−でつで ある」といった権威を借用して苦しい宣伝をせねばならない状況に・おかれてい たのである。外国語とは日本人にとって・ユ・一−トピアたる資格をもった外国の言 語であるという先入観かがある。それ故に、中国語はT・般学生にとってほ第二 外国語の単位をそろえるためだけの格好の語学として映ったと言えるだろう。 戦後、中国語を社会教育として採り上げたのほ、NHKのラジオ講座だっ

た。昭和二十八年八月一十月の放送が最初のもので、講師ほ.倉石武四郎に

よって担当された。その後、ラジオ講座は、断続的に放送されたが、鐘ガ江信

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光(現東京外国語大学学長)、そして現在の金丸邦三氏へと引き継がれて来て いる。 更にまた、NHKは教育テレビ紅おいて中国語講座を放映して釆ているが、 これほ昭和四十二年四月(19占7年)から、相浦呆、望月八十吉の両講師と中国 人ゲストに.金硫本、高維先、王事茹、適否蔵の四名を迎えて二三年間、NHK京 都放.送局より全国に.放映された。その間、197□年にほ、テレビ中国語講座のテ キストについてNHKから原稿書き替えの要求があって、中国語学研究会にお いて「■二つの中国」と「ニつの中国語_jが問題提起され、明解な政治的選択を 迫まられる状況があったりした。その後中撃人民共和国の「普通話」を中国語 として認めるというNHKの公式見解が発表されて、「ニつの中国」「ユつの 中国語」問題の結論が出たのである。そして、テレビ中国語講座の放映は東京 に移って、昭和四十大年四月から九月まで、講師ほ小峰王親紅バトンタッチさ れた。そして−その年の十月から藤堂明保講師に引き継がれ、翌昭和四十七年四 月からは、藤堂明保、香坂順一・の雨読師の他、中国人ゲストに.よりテレビ中国 語講座は担当され、現在に至っている。 NHKテレビ中国語講座の原稿書き替え要求があった頃の国際的環境は、19 70年秋の国連総会において「中国招請、台湾追放」のアルバニア等の決議案が過 半数を穫得した事情があり、それに対して日本への国府からの強い働きかけが あったから紅他ならない(『中国語学』208号参照、1971.4ヰ国語学研究会 発行)。ところが1971年の国連総会では「中国招請、台湾追放」というアルバ ニア等の決議案が、米国、日本などが提出した「逆重要事項指定」「■二重代表

制」の決議案を破って、圧勝した。これ紅よって、国連中心主義を唱えで来た

日本ほ中華人民共和国を選択しない理由が完全紅なくなった。そして今年の夏 軋は中国から二百八名にのぼる大型の上海舞劇団が訪日して日中国交正常化の 機運を盛りあげる大きな働きをした。上演した「自宅女」(革命的現代バレー 劇)をNHKが録画して放映するまでになった。わずか二年前、原稿書き替え の内容に「自宅女」という作品名を架空名に層き替えることをNHKが要求し ていたことを想うとき、正に隔他の観があると言わざるを得ない。 語学ほ、それが外国語である故に正に・国家の政治外交方針に大きく影響さ

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れ、単なる言葉の技術に帰しえない重大な問題を含んでいる。太平洋戦争中に おけるが如く英語を敵性外国語として扱うようなケチな了見では、先進国たる と後進国たるとを問わず、外国を相手にすることほ所詮無理ではあるまいか。 (.三)戦後の日中関係 (脚注) −脱雷入米路線の下で一

夢二次世界大戦後、米・ソニ大国の冷戦体制のもとで、日本ほソ連、中国を

除いた国々と多数講和の途を選択した。日米安保条約・日華平和条約を締結し て、米国の極東戦略体制に.組み込まれた。かくて日本は政治外交路線を米国の それに従属させることになった。 富田内閣がやがて改訂される時を期待してグレス国務長官に調印させられた r ̄日華平和条約」の対中国政策を戦後の日本の歴代内閣ほ、反共主義と対米追 従の姿勢を強めることによって引き継ぐことしかしなかった。 戦後の歴代保守党内隊のもとでこの従属路線から脱脚しようとする努力は、 鳩山内閣による「日ソ平和宣言」だけであった。こうして二日中国交回復の仕事 ほベトナ・ム戦争にゆきずまり、ニクソン大統領による米国の世界政策の転換を まって、外的条件がうまれた。中国の国連復帰、ニクソン米大統債の中国訪問等 をまって、日本政府は初めて自己の課題としようとしている。それ故、19占4年の フランスの中国承認、19占9年のカナ・ダの中国承認、といった自主独立の政治外 交活動の展開ほ、遂に月本政府ほ実行しなかったと言えよう。1971年のニクソ ン米大統領の訪中声明、新経済政策、中国の国連復帰など、−・連の世界史的転 換によって、日本政府ほ眠りから呼びさまされたといってもよいのである0 敗戦後、日本ほ米軍を主力とする連合軍の占領下におかれた。そのような状 況のなかでの日本と中国との関係の樹立ほ、まず貿易の面から始まった。中撃 人民共和国が誕生する直前の1949年5月にほ、日本でほ.既に「中日貿易促進 会」と「中日賢易促進議員連盟」の二つの促進団体が結成された。さらに新中 国の建国記念日である1949年10月1日を期して、「日本中国友好協会準備会」 が成立し、翌年の10月1日に正式に成立大会を挙行し、それ以後、日本におけ 冨 山栄吉、岩波新富参照。 (脚注)『日中問題入門』高市患之助、

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る日中友好運動の中心の一つとなった。 ところが、195口年る日に勃発した朝鮮戦争ほ、日本に.おける中国との友好運 動に有形無形の迫圧をもたらした。朝鮮戦争によって、戦後の中国と米国との 関係は最悪の状態になった。しかし台湾へ・逃れた中華民国紅とっては、朝鮮戦 争紅よって米国が中華人民共和国を承認するという事儀を免がれ、しかも米国 からの経済的、軍事的援助をひき出す契機となった。しかも朝鮮戦争は日本に 対して中華民国を政治外交の対象として選択することを「独立国」となること と引き替え紀要求し、その路嫁が二十余年紅わたっで堅持されて来たわけであ る。おまけに朝鮮戦争ほ戦争放棄を唱った日本紅再び軍備をそなえさせる契機 となり、特需景気によって軍需産業が復活し立ち直る機会となった。かくて日 本の非軍事化という連合軍の占領目的ほ、米国紅よって転換され、極東に.おけ る米国の最前線基地としての役割をもたせられることになってしまった。警察 予備隊がうまれ、保安隊になり、更に自衛隊へと日本の軍事力が整備されて釆 たこ.とほ周知の通りである。しかも、なしくずしに」既成事実が次々と創り出さ れて来たやり方ほ、戦前の中国侵略のそれと全く同じものである。中国は既に 1950年代の初めから一周して日本のこのような軍国主義復活に.対して反対の主. 張をくり返して来ている。中国の日本軍国主義復活論は、最近になって唱えら れたものでほない。日本が中国の警鐘を無視していただけのことである。 日本は朝鮮戦争によって中国大陸の中華人民共和国政府ではなくて、台湾省 の中華民国政府を政治外交の相手に選択させられたのだが、ここに.その後の日 本の政治外交路線が敷かれたのである。この政治外交路線の選択こそが、日中 国交回復運動の厚い障壁として働らいて■来たのである。 日中国交関係の回後ほへ貿易の促進から始められたが、第一・次日中貿易協定 の調印に.みられる如く非常手段によって実現されねばならな…かった。1952年4 月、国際経済会議がモスクワで開催されたが、その帰途、高点とみ、帆足計、 官脇音助議員らが旅券なしで中国へ入って、占月に第一・次日中貿易協定が調印 されたのである。第一・次日中貿易協定の調印の例に見るように日本政府ほ中国 への渡航希望者のすべてに旅券の発給を拒否してし、た。 翌1955年5月にほ在輩邦人の日本帰国援助の協定が調印され、同年10月まで

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に2万占千人の在華邦人が日本へ帰国した。この在撃邦人の帰国援助にほへ中国 政府、日本政府とも費用を出して援助した。そして日本政府は帰国援助に当っ た日中友好協会、平和連絡会日赤代表からなる連合代表団に・対して初めて公用 旅券を発給した。この荏撃邦人の帰国援助は、中国便略戦争を無視してサン:7 ラン1/スコ体制紅調印した吉田内閣に対する批判であり、日中、日ソ国交正常 化への出発点でもあった。 こうして1954年18月から1カ月間、帰国援助に.当った日本側の上記三団体は

中国紅十字会代表団を日本に招待し、東京、大阪、京都において熱烈に歓迎

した。同年にほ久野房之助、風見章らによって−「日中、日ソ国交調整国民会

議」が創られた。日中友好運動に.も経済、文化の交流を拡大しながら、それを

土台に.して国交正常化の遊動を展開しようとする気運が盛り上って釆た。日中 両国人民の相互\理解を深めることを基礎にして、単独講和体制と日米安保体制 への批判としての意味をもって日中友好運動は出発した。 1954年12月、鳩山内閣が成立して、日中関係ほ前進を示した。米国山辺倒政 策をとった吉田内閣に代って、中国、ソ連との国交正常化を求める国民の声を 反映して鳩山内閣が誕生した。吉田内閣の末期から鳩山内閣の時期にかけて日 中関係は、「積み上げ」方式によって日中貿易も大きく進展した0 かくして第三次貿易協定により、1955年秋にほ、中国見本市が戦後初めて東 京と大阪で開催され、翌195占年欣に.ほ、日本見本市が北京と上海において開催 されたのである。 しかし、日中貿易の拡大発展に.対してほへ鳩山内閣の第四次貿易協定成立後 まもなく中華民国政府から横槍が出て、中華人民共和国と貿易をおこなう日本 商社とは取引を停止するという言明がなされた。このことほ、政府外交路線を 不問にしたまま経済文化の拡大促進を積み重ねること紅よって日中国交正常化 が開けると考えたゆき方に対する警鐘でもあった0 日中貿易は195占年・には戦後最高の1億5千万ドル紅蓮したが、翌1957年2月、 岸内閣の誕生と共に減少し、中断へと導かれていった。それは貿易盈の拡大が やがて国交の回復へつながると見た「積み上げ」方式が、岸内閣の登場によっ て厚い政治外交路線の壁に.ぶちあたって中断へと突き進んだことによく示され

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て−いる。 岸首相は第四次貿易協定のための訪中代表団の中国ゆきを押え、自分は5月、 東南アジア諸国歴訪の旅に出発した。そして現職の総理大臣.としてほ初めで台 湾を訪れ、蒋介石政権の「大陸反攻」を支持する旨表明した。最後に米大統領 アイゼンノ、クアーのもとへ訪問した。岸内閣のこのような政治姿勢は中国側を しで1蟄祝させ、中国敵視政策の露骨な表現として受けとらせた。岸内閣のそう いう中国敵視政策のもとでは、第四次日中貿易協定も、貿易代表部員の人数制 限、指紋問題等−・連の日本側の提案は、絶対飲めない内容のものであり、日中 鉄鋼五カ年バータ一協定も実行不可能に.なるのは必至であった。1958年5月、 長崎に.おける中国国旗侮辱事件をきっかけにして、遂に.日中貿易は中断した。 それほ岸内閣の中国敵視政策が中国にとって、もほや我慢ならない所まで達し ていたことを示すものであった。長崎の国旗侮辱事件は単に日中貿易中断の製 織でしかなかった。それ故、日中貿易再開の動きは、岸内閣の中国敵視政策にト 対する反対運動が日太国内において盛り上ることによって、はじめて可能とな る佐賀のものであり、事実そうであった。 岸内閣ほ19占0年占月、安保反対斗争によって退陣し、池田内閣が誕生した。 池田内閣ほ、19る1年の罪十六回国連総会において、中国の国連復帰を阻止す るため「重要事項指定決議案」を打ち出した。 これほアフリカ諸国の国連加盟把.よって、それまでの中国代表権「棚上げ」 方式が通らなくなった情勢の変化に対応するものであった。 池田内閣が成立して間もなく、日中貿易は松村謙三が訪中して周恩来総理と 会談して岸内閲登場後二年有余に.わたって中断した日中貿易の糸を結びあわせ た。 日中貿易ほ周恩来総理の提示した「貿易三原則」にのっとって「友好商社」 方式紅よって再開された。周恩来の提示した貿易≡原則とは、(1)中国敵視政策を とらない。(2につの中国をつくる陰謀に加わらない。(3)日中両国の国交正常化 を妨げないという内容のものであった。これは既に1958年る月中国漁業協会よ り、協定更新拒否の書簡に明らかにされていた内容であって、従来の「積み上 げ方式」にかわり、対日政治三原則を日中関係正常化の基本原則とすることか

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述べられていた。それは岸内閣の登場に.よって、政治と経済が密接不可分であ ることを表明す・る必要性を痛感した所に.生れた中国側の新しい方針だったと言 えよう。「目撃平和条約」に.よる日本と台湾との政治外交関係が日中貿易に.対 して大きな障壁としてたちほだかっていることを確認し、単に貿易のみを追求 して甘い汁を吸わんとする貿易団体を締め出すばかりでなく、明確に「日撃平 和条約」破棄の政治姿勢を日本の貿易関係者に.要求したものと言えよう。 日中関係の打開ほ民間べ−・スの「鏡み上げ方式」が盛り上がると、常に政府 ペ−スの「日撃平和条約」によって阻止されるという事態を繰り返して来てい る。それ散、日中国交正常化には当然「日華平和条約」の廃棄がなければ、日 本と中撃人民共和国との政治外交関係は一歩も前進しないことがほっきりして 来た。こうして周恩来の貿易三原則にのっとった「友好商社方式」の日中貿易 が再開される−・方、19占2年9月、松村謙三が訪中し、 日中国交関係正常化の歴 史に.大きな道標を打ちたてた。岸内閣の時期に途切れた日中交流の糸は松村謙 三らの努力によって−一層太さをまして結び合わされたのである。同年11月、い まっゆる「L・T貿易協定」が、1958年の長崎国旗侮辱事件を契機紅起った断絶 から四年半ぶりに成立した。「日中総合貿易に関する覚書」ほ、それまでの民 間貿易協定にくらべはるかに.永続性を帯びていた。その後、19占5年、’占4年、 1占5年と口中交流は活発になって行ったが、同時忙中華民国や米国からの圧力 も強まった。 19占5年10月に起った「周鳴慶事件」は、当初日本への亡命を希望していたが

結局、翌年の1月、中国へ帰国した。池田内閣のこの措置に対して国府は経済

断交を持ち出して強い抗議を行った。そして自民党内の親国府グルL−ブもそれ に呼応して圧力をかけた。 こうして池田内閣は国府との和解を求めて、吉田茂元首相を台湾に/泥道して 説得紅当らせ、婦国後、いわゆる「吉田書簡」によって輪銀資金による対中国 延払い輸出を認めないこ.とを中撃属国政府に誓約した。そしてる月には大平外 相が台湾を訪問して、私信の形をとった「吉田書簡」に対し、池田内閣の政府 による裏付けを行ったのである。池田内閣のもとにおいてほ、政治外交路線の 上では「日華平和条約」を基盤としながら、政経分離による民間ベースによる

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日中貿易を推進するという経済実利主義のアダ花が咲いたのである。 日本政府によるこの政経分離方式は、佐藤内閣へと継承されてゆくのであ る。 池田内閣の後を継いだ佐藤内閣は、中国をめぐる虚構をさら軋強化する方針

がとられた。日韓条約を締結し、国府に対して円借款を行うなど、国府、韓国

への経済侵出の歩を進め、中国封じ込め政策を強化すべく努力した。19朗年のフ ランスの中国承認、19占9年のカナ・ダの中国承認も日本にショックを与えはした が、対米国追従姿勢と台湾への政治外交路線について日本ほ自主的に.は新しい 政治外交路線を打ち出すことはできなかった。かくして1971年秋の国連総会に 向ってほ「■逆重要事項指定方式」と「二重代表制」といった中国国連復帰阻止 の政策しか持ち合わせがなかった。 日中関係ほ吉田内閣が台湾の蒋介石政権を選択させられて以後、多数講和が 残した外交課題として中国、ソ連との国交回復があった。鳩山内閣ほその外交 課題に.取り組んで、日ソ国交回復の樹立を実現したが、台湾問題のからむ複雑

な日中国交は後廻しに.された。石橋内閣が短期で退陣し、その後、岸内閣が、

鳩山、石橋内閣の姿勢を正して、l]台関係を締め直した。池田内閣ほ.高度成長 経済政策をかかげて、政経分離による1∃中経済交流の促進を企てて、岸内閣が 締めすぎた日中関係にゆとりをもたせた。佐藤内閣ほ再び池田内閣に・よってゆ

るんだ日台関係を強化すべく、日韓、日台関係の促進を行った。しかし、日本

の高度成長経済政策に.よる生産力の飛躍ほ、その商品市場を要求しており、ま たニクソンの新経済政策の打撃から立ち直るためにも、日中関係の打開ほ至上 命令となって来ている。かくて、佐藤内閣の次の内閣ほ政治外交方針として日 中国交回復の実現を任務として負わされている。米国のアジア、極東戦略の転 換と中国の国連復帰という外的条件の好転が、日本の政治外交の方向を改正す るチャンスを与えている。 かくて1972年7月7日、田中内閣の登場と同時に、中国側は上海舞劇団の日 本公演を通じて、日本国交正常化の気運を盛り上げると共に、田中内閣も政財 界と1]本国戌の与望をに.なって積極的に中国側の働きかけに応じて、遂に九月 下旬紅は、田中首相の中国訪問が実現し、日中共同声明が発表されるはこぴと

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なったのである。 (四)中国の国連復帰と日中国交正常化

一米国の戦略転換−

アへン戦争以来、欧米列強と日本の侵略と圧迫に対する百十年の歳月払わた る斗争の後に.、中撃人民共和国がうちたてられた。日本は明治以降、「−脱亜入 欧」路線を遜進して二朝鮮、中国を侵略した来た。そして日本は昭和六年の満州 事変から数えても十五年の間、中国紅直接武力侵略を行い、昭和二十年八月に は放戦を迎えた。これほ明治以来、日凍が歩んで来た「脱亜入欧」路線の挫折 であった。この「福沢」方式の路線について日本人ほ深刻な反省を欠いたまま、 戦後も依然として「先」進国の後塵を拝して−、アジア諸国を「後」進国として 侮蔑のまなざしを以って見て来ている。 戦後の日本ほサンフラン1ンスコ体制の下に米国追従路線を歩んで来た。第二 次世界大戦の結果ほ中国が戦勝国であり、日本ほ敗戦国であった。ところが日 本が最も長期に.わたり被害を加えて来た中国が参加していないサンフランシス コ講和会議に日本は出席して、独立国となったのである。これは依然「脱亜入 欧」意識の反映である。しかも中国大陸を統治する中撃人民共和国を外交交渉 の相手として選択するのではなしに、台湾省へ亡命した中撃民国を、欺戦国の 日本が政治外交の相手紅選択することにより、日本は独立国となるための保障 を確実なものにしたのである。これはまったく戦勝国と敗戦国との立場が転倒 しており、日本は敗戦前に中国を侵略していたばかりでなく、敗戦後も中国を 二重に侮辱しているのである。

地理的にも近く、日本が近現代史の大部分を政治的、軍事的、経済的軋侵略

して.■釆た中国と、日本がかくも疎遠な、というよりは敵視政策を採りつづけるこ. とになったのは、正に、日本がサンフランシスコ講和条約を締結し、中華民国 政府と「平和条約」を結んだからに他ならない。日本ほ.米国の中国封じ込め政 策に追従し、米国の被護の下に経済「大国」として成長して来た。日本が中華人 民共和国ではなく、中華民国を選択したのは米国の圧力によるものであった。 日本が経済的紅また米国の被護を必要とする間は、日本の政治外交路線も米国、

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のそれに追従しておりさ.えすればそれでよかった。だから、日本の外務省は米

国の東京出張所であるといった皮肉をいわれたりしたのである。

日本はその後、米国の圧力に/抵抗して脱脚しようとしたのか否か?何奴に

歴代の保守党内閣ほ米国に追従することに・甘じ、自主独立の路線へ踏み出す努

力をしようとはしなかったのだろうか。ところがベトナム戦争の泥沼から脚を

洗うために.米国の対中国姿勢が封じ込め政策から接近政策へと大きく転換し

た。そこで現在、日本ほ.米国の対中国接近におくれをとるまいとして、またチ

ャンス到来とばかり、中国へ急速に.接近しようと外交政策の転換をはかってい

る。それは戦後、−−・賢して堅持された対米追従外交への深刻なる反省の上にた

つものとほ言えまい。高度成長経済政策が創り上げた巨大な生産力のはけ口と

して、八億の人口をもつ中国を格好の輸出確場として見徹しているにすぎない。

経済「大国」の行動原理が買いているだけで政治外交路線の自主独立に・よって

中国接近が急速に.進められているわけではない。そこには中国への最期侵略と

圧迫についての反省が、日本国民全体として欠如している。中国侵略への反省

を欠いた表面的な友好ムード紅より、「中国ブーム」、「中国語ブー・ム」が進

行している気配が十二分にある。日本の眼は米国の動きを警戒しながら、米国

の動きに遅れをとるまいとしているだけのように見える。 19占4年自主独立の立場からフランスのドゴーール大統領が中国と国交を樹立し

たことほ、日本にもショックと激励を与えたが、佐藤内閣の対米追従路線はい

ささかも揺ぐことはなかった。日本は政経分離に・よってなしくずし的に・中国と

経済交流を発展させ、大国日本の経済市場として過し続けて来た。それ放に日

本のとる政経分離分式と中国の政経不可分方式とが、中華民国を中にして事あ

るごとに衝突をくり返して来たのである。日本は日撃平和条約のために、中国

とは経済主義紅終始し、政治外交的にも中国を選択するのに・ほ、米国の政策転

換をまたねばならなかった。1971年一7月の米国大統領ニクソンの訪中声明、翌

8月の新経済政策、10月の中国道復帰の可決など、第二次世界大戦後の冷戦

体制を否定する一層の画期的な大転換が続いて、日本も中国に・対する姿勢を改

めざるを得なくなった。それ故、日本の対中国接近への政策転換も米国の外交

政策転換に沿ったものであり、その意味においては、依然として対米追従路線

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の延長でしかないとも言える。 このような米国の動きが日本に.も反映して中国語が「ブーム」を迎えている と言われる。戦後の対中国封じ込め政策が中国語から「実用語学」として役 に立つ機会と場所を奪い取って■来た。そういう状況の申で中国語は活き続けな ければならなかった。1949年10月に.ほ.中華人民共和国が樹立された。しかし朝 .鮮戦争ほかって対日戦争において連合国として共同行動をとった米国と中国が 真向うから炬火を交え.ることとなった。米国ほ第五回国連総会において「中国 ほ侵略者である」という決議案を提出して可決させた。そして日本は米国務長官 グレスの強制によって中華民国を選択した。かくして「日撃平和条約」として存 在した国民政府と日本との政治外交関係が崩れ去る条件を得るに.は、1971年の 算二十六回国連総会までの二十余年の歳月を待たねばならなかったのである。 このような政治外交的環境におかれた日本の中国語教育は、戦後新制大学に 設置され制度としては充実したけれども、大学生の魅力ある外国語とは映らな かった。中国語は「同文同種」の語学と見徹され、旧中国への蔑視のイメ−ジ とが喜なって、−・般学生が真剣に学習するだけの価値ある外国語とは考えられ なかった。それ故、1954年10月の中国語学研究会第五回全国大会(於金沢大 学)に.おいて「中国語は外国語である」という認識が、日本の中国語教育関係 者の集まる共通討論会に.おいて満場儀一・致で確認されなければならないはど、中 国と中国語に対する蔑視と認識の低さが−・般的だった。 まして:中華民国と平和条約を結んでいる日本でほ、中国語のもつ「実用」的 側面を発揮する場すら、敗戦前とほ比較にならないはど狭院なものになって しまった。中華民国との貿易の主なるものは、バナナであり、台湾が千二百万 の人口をかかえるとしても、経済市場としてほへ六億の中華人民共和国とほ、 全く比較にならない。それ敏、日本の中国語教育ほ公的制度の上から見れば、 確かに∴充実したといえるが、中国語がその実用性を発揮する場としてほ、台 湾の千二百万の中国人と東南アジア各国の華僑を対象とするしかなかったとい える。いわば中国大陸は、日本の政治外交関係から見ると地球儀の上に.は存在 しなかったのである。 その上、中華人民共和国ほ「赤い中国」だったから、戦前からの共産主義に.

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対する恐怖意識が、新中国紅ついて関心をもつことほ叫・般的には危険思想の持 ち主として映った。米国のいわゆる自由主義陣営に属する日本としてほ、朝鮮 戦争における米国と中国との正面衝突が、共産主義の侵略として−、反共意識と 恐怖心をあおる上で格好の宣伝材料とされたのである。 「赤い中国」への恐怖心、警戒心を表わす呼び名として−「中共」という名詞 がある。「中共」というのは、中国では「中国共産党」の略称なのであるが、 日本では「中共」という名称が中華人民共和国の略称として長く使われて来 た。日本は自由主義陣営の一・員として「中共」の侵略から国を守るために、朝 」鮮戦争を契機に.して再軍備の途を歩んで来て)、るのだが、この共産主義の侵略 把対する恐怖と警戒の対象とされた「中共」が「中国」と呼ばれるようになっ たのほつい最近のことである。「中国」という名称をマスコミが初めて使いほ じめたのほいつだったか記憶にはっきりしないが、佐藤内閣も遂に.最終的には 「中国」と呼ぶようになった。戦後の日中関係の歴史と、世界史における中国 の地位の向上が表示されていたのである。 日本と中国は戦後二十余年の問、たんに国交断絶の状態にあっただけでな く、戦争状態が続いていた。 朝鮮戦争勃発の翌年1951年(昭和二十六年)日本ほ独立国になり、国連加盟 を承認された。そして日本ほ中国代表権問題に関しては、棚上げ案に・賛成して いる。その後、10年の歳月はアジア、アフリカ新興国の国連加盟をもたらし、 米国の中国代表権問題棚上げ案は過単数の賛成が得られなくなった。 こうして19占1年(昭和三十六年)から10年間、日本は米国といわゆる重要事 項指定方式なる決議案を掟出して中国の国連復帰を阻止してせた。1970年(昭 和四十五年)にほ、アルバニア等の提出している「中国招請、国府追放」の決 議案が過半数をかく得した。そこで日本と米国は、蔓1971年の国連総会に対し て今度ほ「逆重要事項指定方式」と「復合二重代表制」の決議案を提出して、 中国の国連復帰を妨害し、国府の追放を阻止しようと尽力したが、投票に敗北 したのである。 1970年と1971年の第二十五回、二十六回国連総会ほ、世界の歴史の転換点で あった。

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昭和四十五年(1970年)の秋の第二十五回国連総会紅おいても日本ほ「重要 事項指定方式」を以って中国の国連後帰阻止に尽力した。しかし同総会におい ては「中国招請、国府追放」というアルバニア案が過半数の賛成を得ていた。 このような情勢の変化を反映して、台湾省の中聾民国政府からの日本への政拾 的働きかけも強まった。日華協力委員会においては日本の中国語教育は偏向し てこいると批判がおこなわれた。そういう国際状況を背景に.してNHKテレビ中 国語講座の教材内容についても中華人民共和国に関係するような語彙ほ架空の ものに書き改めるよう注文がついたりした。日本の中国語教育と研究に・たずさ わる者に対して∴改めて「ニつの中国」「二つの中国語」についての自己の 姿勢を検討することが要請されたのである。しかし、昭和四十六年春の中国の ピンポン外交、同年七月のニクソン訪中声明、そして夢二十六回国蓮総会に.お ける国府の国連脱退と中国の国連復帰によって、「一つの中国、一つの台湾」 という「二つの中国」論にもとずく「二つの中国語」の問題も影をうすくして しまった。まことに外国語教育の問題は日本の政治外交力針によって重大な影 響をうけていることの証明でもある。 日本の対米国追従の姿勢は、第二十大回国連総会において、中国の国連復帰 が可決するまで、少しも動揺しないという一層性があった。昭和四十六年七月 のニクソン米大統領訪中声明が発表された後も、佐藤内閣は八月九口、台湾の 中華民国政府との間紅第二次円借款の第一・陣として総額二千二百万ドルを供与 するという書簡をとりかわしている。そして八月十六日、佐藤首相は国府擁護 の方針を継続する旨を明らかにし、更に秋の第二十六回国連総会対策として、 国府の議席擁護のために、「逆重要事項指定」と「複合二重代表制」の両決議 案の共同提案国となる道を選択したのである。佐藤内閣の決定ほ、第二十六回 国連総会において敗れた。かぐて日本は米国の中匝卜接近政策から置き去りにさ れ.対米追従外交は行き詰りをはっきりと示した。 戦後二∴卜余年の閤、日本ほ「日華平和条約」の専守という国際信義の錦の御旗 をかかげることにより、日中関係を正常化するための努力をサボタ・−汐,ユしな がら次々と阻止して来たと言ってもよい。いわゆる経済先行の「積み上げ方式」 が挫折し、それに代る「政治三原則」が登場し、政治姿勢の整理が提起され、

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さらに「留易四条件」が提出され、韓国、台湾、南ベトナムへの日本の深入り を阻止しようとする中国の対日政治外交の変遷を経過して来ている。そして中 国の国連復帰という世界史的な大転換を契機に.して、やっと日本政府は重い腰 をあげて日中国交正常化を最重要課題として採り上げようとしているかに見え る。Ⅲ中内閣は正紅そ・のような歴史の曲り角紅誕生し、政財界と日本国民の中 国接近の期待を荷なって登場しているのである。 米ソ冷戦体制の下で、朝鮮戦争において、米国と中国が衝突して∴以後、ニクソ ン訪中声明と中国の国連復帰までの二十余年紅わたる日本と中国との関係は、 正しく米国の傘の下での交流であったといえよう。日中国交回復ほ幾度となく 話題にのぼっては消え、話題に.のぼっては消えて政治的に.ほ少しも前進しな かった。それが話題になりうるために.ほ、米国自身がベトナ・ム戦争の行き語 りを打開するために第二次大戦後の冷戦体制を自ら軌道修正.して、中国、ソ連 と接近政策をとるまでは、日本としても全く動きがとれなかったとも言える。

日清戦争以後、数十年にわたる朝鮮、中国への侵略の方針ほ、昭和二十年八

月、日本の敗北によって挫折した。日本は朝鮮、中国から敗退し、米占領軍の

下におかれ民主主義を与えられたが、朝鮮、中国という旧植民地をことごとく 失った日本ほ米国に大きく依存せざるを得ないように.なった。米国の中国封じ 込め政策は、対共産圏輸出の制限をもたらし、日本に.とって中国との貿易が披 少すれば、米国への貿易依存度は必然的紅高まらざるを得なかった。それだけ に、ニクソン訪中声明が発表され、ニ・クソソの新経済政策が打ち出された時、 即ち米国が政治的経済的に日本の頭越し紅アジア政策の転換を実行したとき 佐藤内閣ほ.日中関係において新しい選択の可能性を与えられたとも言える。佐 藤内閣は、米国の頭越しの中国接近というやり方への抗議の意志を含めたのか もしれないが、中華民国政府との国際信義を守り抜くということで、国府擁護と 中国の国連復帰粗止のため最後の努力を傾けた。佐藤内閣の判断と決定とほ、 国際信義の尊重は勿論のことながら、沖縄返還に対するニクソン政権への義理 だてと、日本の政府財界が台湾省の中撃民国政府とどれだけ深い関わりをもっ ているかという現実の反映であったといえるだろう。 日本の財界ほ、国連総会での外交的敗北、ニクソン訪中が実現されると、栂

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ついでいわゆる周四条件を受け入れ、中国市場へ方向転換をはじめた。日本の 独占企業は中国市場への進出を期待して、既軋政治的選択を完了している。そ れ故、佐藤内閣の後を継ぐ日本の内閣が政治外交的に中撃人民共和国を選択す

れば、日中国交正常化の仕上げは実現する。しかし、国交正常化の実をあげる

には、まだまだ長い歳月が要求されるに・らがいない。 明治以来の日本の方針は、「富国強兵」だった。だが敗戦後の日本の方針も 欣然当時のそれと同じである。GNP第一主義ほ、昭和の「富国」政策の再版 であり、日本ほ経済大国として世界第三位にのしあがることができた。新患法 は軍備をもたぬことを宣言しているにもかかわらず、答察予備隊がつくられ、 それは保安隊紅成長し、さらに自衛隊になった。高度成長経済による巨大な生 産力を背景に、日本ほ中国を日本の経済貿易市場として見直さねばならなくな った。共産主義という「恐怖」や、国府との国際信義もさることながら、日本 はその経済的構造が世界に市場の拡大を探し求めさせ、中国との国交正常化を 促進させているのである。 それ故に、「政治ほ経済の集中的表現である」ならば、佐藤内閣の八年に㌧及 ぶ長期政権の後を引き継いだ新内閣ほへ 日本の財界が要望する日中国交正常化 を成し遂げねばならない歴史的任務を背負わされていると言えよう。日本が唱 えて来た国連主義は、中国が国連に復帰した現在、いやでも外交課題として中 国との国交樹立に.取り組まなければならない。佐藤内閣以後の内閣首班に誰が 指名されようとも、日中国交正常化ほ最大の外交課題となっており、取り組め るだけの間際的、国内的条件が整備されていると言えるのである。 日中国交回復という歴史的任務を背負って田中内閣が誕生したのが、七月七 日であったことは、象徴的である。七月七日は日中戦争が本格化する契機とな った慮藩橋事件勃発の記念すべき甘である。「決断と実行」を旗印に・して、登 .場した餌一事内聞の精力的活動と、訪日中の上海舞劇団の日本公演とは両者相ま って日本と中国との政治的接触を急速に促進している。そして遂に・田中首相の 九月下旬訪中決定が発表された。 日本と中国ほ.隣l卦であり、その地理的な近さをまざまざと日本人に・示したの ほ、八月十二日に.行われた東京∼上海間のテスト飛行だった。中国の首都北京

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へゆくのに.、香港を経由してゆかねばならないという政治的障壁がいまようや く乗り越えられようとしている。かって.吉田茂首相が言ったように.、長期的に. ほ中国大陸は地理的な近さと経済交流の必要性によって、【 ̄日華平和条約」ほ 空文化するであろうことを予測していた事態が、ニ十年後の硯在ようやく現実 のものになろうとしているのである。 1972年9月25日、田中首相ほ大平外相、二階堂官房長官らを率いて、日本政 府代表団として、空路上海経由北京へ向けて出発した。・そ・して九月二十九日、 日中国交正常化を唱った歴史的な日中共同声明が発表された。アへン戦争以 来、欧米列強と東方の島国日本にまで侵略された中国が、今、日本と日清戦争 以来の戦争の歴史紅終止符を打ち、子々孫々にわたって共存共栄の友好関係を 打ち樹てることに.合志したの1である。これは正しく日本と中国の現代史の大 転換であり、新たな歴史を切り拓く出発点である。アジアの歴史に新しい貞が 開かれた。この新しい常にどのような歴史を書き入れてゆくかは、日中両国人 民の努力の如何にかかっており、とりわけ日本人が明治.以降の侵略の歴史をど れだけ深刻に反省し学びとるかにかかっている。それだけに、日本人に探せら れた口中友好と日中不再戦の基本姿勢樹立の貴任ほ重いのである。 む す び 一日本人と外国・外国語教育一 地球上の人間が全て日本語で話したり番いたりすれば、いわゆる外国語lは存 在しないから、外国語の学習も要らない。だから日本人が外国語を学ぶのは日 本語で考え、 日本語で話したり書いたりしない人間社会が、この地球上紅存在 しているためである。(脚注) しかもそういう外国と日本が交流しているからである。 敗戦後の二十余年の間、日本の中国語教育に.とって決定的な条件ほ、中国と 国交がなかったことである。中華人民共和国ほ日本にとってこれまで地球上に おいて最も遠隔地紅位する国だった。日本と中国の国交が正常化すること紅よ って、やっと新中国は日本の近隣に位する国家として現われた。戦後の日本製 ・(脚注)「大学に.おける外国語教育について」1頁参照、r香川大学一般教育研究」第4号所載

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の世界地図から抹殺されていた中国が、中国の国連復帰と日中国交回復によっ て一日本製の世界地図の上にやっとその存在を表示す・る時代に.なったのである。 外国語ほ外国との外交関係が実在することによって外国語となる。地球上に 存在しない外国の言語ほ、「死語」でほあっても、活きた言語ではないから、 その外国語の必要性は低下せざるを得ない。日中国交正常化は中国語を「死 語」から活きた言語によみがえらせる決定的条件である。中国語教育をとりま ぐ日本の政治外交の環境が今や決定的に転換したのである。 日中共同声明が発表され、日本と中国ほ子々孫々にわたって−友好関係を樹立 してゆくことを唱った。 しかし日本人ほアジア蔑視の姿勢を是正するこ.とから始めることがまず必要 である。かって日中戦争の間、日本は「同文同種」という安直な蔑視観にたっ て中国を扱おうとしたが、中華人民共和国の樹立は事態を−・変させている。新 中国誕生以後、漢字ほ簡体化され、語菜も目覚しく発展する中国の現実を反映 する新しい語菜が創造され、文章も言文−・致体となり、書き方も横書き紅変化 している。しかしこれら現象の変化の根底を流れる思想的な変化をこそ、日本

人ほ把握しなければならないのでほ.あるまいか。従って、中国の新聞、書籍

に、漠字を通して日本人が視覚的に理解できる箇所があっても、全体を貰ぬい ている人間変革を知ることなしに.ほ、本当の理解とは言えないし、理解するこ ともできない。日本人の常識が通用しないのである。正しく中国は近隣に.位す る外国に.なっているのである。 それ故に「中国語は外国語である」という常識が受け入れられるに.ほ、なに.よ りも中国は外国であるという自覚が日本人になければならない。茂視観を以っ て中国を距離感ゼロの意識で扱うのでほ、中国語を日中友好の為の手段として まじめ紅学ぼうとする姿勢もとれようほずがないからである。率いなこ.と紅日 本人にとって、中国ほ外国であり、中国語を外国語として学習しうる状況が、15 年にわたる日中戦争と戦後二十余年に.わたる国交断絶の成果として創り出され ている。 日本と中国との国交正常化は中国語教育の政治的環境を決定的に好転させ た。従って、日本と中国との「一・衣帯水」といわれるはどの地理的な近さは、

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人と物の往来にとって旛めて有利な要件として:働きうる。こうして中国語教育 にほ形式の上では「会話」主義が再来しうる情況がうまれつつある。しかし、 その「会話」主義ほもはや中国籍視の立場にある「会話」主義でほあり得な いし、あってはならない。敗戦までの中国語教育は「会話」主義がその中心だ った。それほ丁度、西欧語学が訳読主義を中心に.していたのと全く対照的なゆ き方であった。 中国語教育における「会話」主義は、中国からは何も学ぶべきものはないと いう中国籍視観を前提として.おり、「会話」主義紅応えられる実用的能力をも った人材が多数求められていたと言える。 敗戦は日本に中国からの全面撤退をよぎなくさせ、日本の独立以後、二十余 年の間、中国とほ国交回復はおろか戦争状態のままの関係を続けさせた。かく して、この二十余年の間、中国語教育における「会話」主義ほ、冬日民した状況 にあった。実用の場を失った中国語の「会話」主義は冬眠する外紅仕方がなか ったとも言える。 その代りに、この国交断絶状態の中で、新制大学の「教養」語学に適わしい

中国語の授業を志向して釆たのだが、それほ.、西欧語学が従来まで採って来

ていた訳読主義の授業に他ならぬ方向だった。これまで中国語は学問研究とは 無縁の存在として考えられて米た。それが中華人民共和国の樹立と発展紅とも ない年を逐って日本人にとって研究対象たるく資格>を備えて来た。こうして 中国語関係者の中からよりは、むしろ欧米諸国の学問分野に従わる人々の問紅 おいて、中国が研究対象に選ばれる傾向もみられるようになった。これまで西 欧、米国の学問研究の成果に冒を向けていた日本の研究者の中から、中国へ関 心を向ける人々が出現するよう把なった。 中国語ほ中国自体の発展により、国交断絶の状況紅もかかわらず「会話」主 義から「訳読」主義の授業へ移行してゆける条件を備えて来ていた。大学院の 入試の外国語科目に中国語が数ほ少ないが課せられる大学が存在し、中国語と 学問との関係がうまれたといえる。 それと共に日本と中国との国交断絶は、「会話」主義から「訳読」主義の方 向へと進むことを要求していた。中国封じ込め政策が、中国語教育をして「会

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語」主義から「訳読」主義の授業へと方向転換させたといえる。 日中国交正常化が現実のものとなった現在、人と物の往来が中国語教育に対 して再び「会話」主義の側面を復活させるに違いない。それほ形は、同じであ って−も、戦前のそれとは質的に.異った姿勢と段階に.おける「会話.」主義であ る。中国蔑視と中国侵略のための「会話」主義ではなく、日中友好と日中不再 戦の姿勢をもった「会話」主義とならねばなるまい。 日本の敗戦に.ともない中国語教育から「会話」主義ほ衰退して、「訳読」主

義の側面が採り入れられ、拡大して来た。これとは逆に.、西欧語学では「訳

読」主義に「会話」主義の側面がつけ加えられ、LLに.代表される聞き、話す 側面が重視されるように.なった。米軍に.よる占領下におかれたことや、交通、 通信の発展によって−地球が狭小になったこと、そ・れに「殖産興業」政策の現代 版ともいえるGNP第一・主義に支えられて、日本人バイヤーと日本人セ−ルス マンが世界中に送り出され活躍していること、等々に.よって日本の欧米語学に おける「会話」主義の必要性が高まったからに違いない。 日本の経済的発展がその外国語教育に・対して、「役にたつ」ことの意味内容 に.も変化をもたらした。かくして西欧文化を吸収することを至上命令とした文 献解読の外国語教育にも、日本の経済的地位が高まり、国際的交流が相互的に なるにつれて−、「会話」主義の側面を導入した語学教育の体制を確立するよう に求められている。正に「国際交流が頻繁かつ緊密化するのにともなって国際 的なコミ.ユニケ一−ションの手段としての語学力の必要性が社会の各方面に.おい て痛感されつつあるからである。」(脚注)視聴覚の設備やLLの活用が外国 語の教育体制にとり入れられる現実的な根拠もそこにある。 日本の外国語教育はミ先≒進国指向型である。明治以前ほ中国の文献を学 び、明治以後は欧米の文献を学ぷ方針をとっている。明治以前においては中国 との往来ほ交通機関の未発達のために、また明治以後ほ欧米との往来は地理的 な距離の隔たりのために、「聞き」「話す」ことより「読み」「書く」ことの 方面に.重点があった。しかも日本の外国語教育は、いわゆる ≒先、進国の言語 (脚注)「大学改革に関する調査研究報告書(案)」44京、国立大学協会 大学運営協議会 昭和48年8月刊。

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