メタフアー
隠 喩へのイニ シエー シ ョン
田 畑 博 敏 (昭和60年5月29日受理) 1. `よ じめに 「それは言葉の彩 にす ぎない」,「たんなる比喩だ」な どの言い廻 しの中に,隠
千蘇をは じめ とす る 比喩や,一
般 にレ トリカルな言葉づかいに対す る,大
いなる軽視・蔑視が見て とれる。「たんなる比 喩だ」 と言われ るとき,そ
こには,確
かめうる事実ではな く言葉の上だけの こと,真
面 目の ことで はな くその場限 りの遊 びに属すること,確
実な ことで はな く不確実で曖昧なごまか しの こと,等
々 が暗 に合意 されている。古代ギ リシアの昔か ら,哲
学者たちの多 くは,比
喩や レ トリカルな言葉の 使用 を軽視 し,む
しろ迫害 して きた。現代の言語哲学 も,基
本的には,言
葉の“字義通 りの"(literal) 用法か ら出発す る伊 (もちろん,言
葉の“字義通 りの"用法 と,レ
トリカル な,な
い し“比 驀静 ま" (figurat e)用法 との間に,明
確 な境界が存在す るか否かは疑間であるが,ひ
とまずその区別 を認 める として)そ
れは,彼
らが,“比 爵V許
用法 を第二義的な用法 としかみなさないか らであ る。 た しかに,哲
学者たちの態度 にも一理 はある。なによ り比喩は曖味であ り,表
現者の意 図を推察 す ることす ら,困
難 な場合が多い。 また,わ
れわれの精神が言葉 によっていかに枠づ けられ,東
縛 されてい るかを痛感す る人 ならば,言葉 に余分 な負担 をかけない,「事実その もの」・「真理 その もの」 にで きるだけ近づ くことを目指す言葉の使用を第一義的 とみなすのは,当
然である。 しか しここに は,言
語 に対す るあ る先入見 が伏在 している。 それ は言語衣装観 とで も称すべ き言語観であ り,そ
れによると,言
葉 は裸の事実を忠実に写すべ き ものであ り,あ
たか も透引な衣装のように「事実そ の もの」が透か してその まま見える言葉ほど,良
い言葉である。だが,わ
れわれの言語 はその よう に簡単で便利 に出来ているのだろうか?その ような言語のみが,は
た して理想的な言語 なのだろう か? 以下 において,わ
れわれは比喩の代表格である隠 喩 ②(以後「メタファー」と記す)を
考察す る。 メタファーは,あ
る意味で最 も不透明な言語使用の一つである。 しか しメタファーは,ゎ
れわれの 項実の言語使用の本質的部分に,深
く組込 まれている。たんに言語のみに限られない。後 に示すよ うに,「こころ」の描写はメタファー として理解するとき最 もよく理解され,そ
してそのようにしか敏 理解できないので はないか と思われ る。 また
,わ
れわれの 日常的概念の多 くが,メ
タファーの構造 を有 している。おそ らく,言
語 をはじめ としてわれわれの思考や行動の多 くが,メ
タファーの構造 を有 してお り,メ
タファー抜 きでは語 り得ないだ ろう。従 って,少
な くとも言語への経験論的アプ ローチをとる限 り,メ タファーの問題 は避 けては通れないだ ろう。(本論 は,そ
の ような意味で,言
語への経験論的アプローチのささやかな第一歩 を踏 み出そ うとする試みである。「イエシエーション」 とす るゆえんであ る。)2.メ
タファーの同定 と構造 メタファー を問題 にする とき最初 に生 じて くる問いは,い
かにしてメタファーを同定す るか,ヤゝ かにして他の表現形態か ら区別す るか,そ
もそ もメタファーを同定す るための必要 にして十分な条 件があるか,
とい う問いである。 この問いは,メ
タファーの構造,
とくに意味論的構造 とも深 く結 びついている。メタフ ァーに比較 してシ ミリ(直喩Simile)ィま,た
いていの場合,半
別の目安 とな る形式を備 えている。“もの ごとの様子 を表現す るために,「Xは
Yの
ようだ」,「Yそ
っ くりのX」 …… とい うぐあいにた とえる形式を 《直喩》と呼ぶ"0の が普通であるか らだ。それに対 して,メ
タ ファーはそうい う形式 をもたない。 そこで多 くの論者が メタファー同定の手がか りとして求 めたの が,文
中での構文論的および意味論的逸脱 (deviancelであ る。ただ しか し,構
文論的逸脱の場合 は,メ
タファーその ものか らも逸脱 して,理
解不能 に陥 る可能性 の方が高い。「男 は狼だ」はメタフ ァーであ りうるが,「だ狼 は男」 は文で さえない。「丸い四角が ワル ツを踊 っている」や「色のない 緑が怒 っている」は,ナ
ンセンス詩のメタファー として理解 される可能性が残 っていようが,「四角 丸いがを踊 ってるい」や「緑のないが色怒 っている」で はそれさえ不可能だ ろう。Johnsonも言 うよ うに甲構文論的逸脱 はお そらくメタファー同定の必要条件 で も十分条件で もない。少な くともメタフ ァーであ るためには,構
文 論的には文法的に適正 な (well formed)文 であるか,ま
たはその一部で なければならない ことは明 らかである。す ると求め られ るのは意味論的逸脱である。 た しかにわれわれ は,隠
喩 的な表現 に接す るとき,あ
る種 の精神的緊張・驚 きを感 じる。 その こ とによって,わ
れわれが その表現 をメタファー として理解す るよう導かれ ることも,し
ば しば生 じ る。それゆえ,そ
のような緊張や驚 きを生 じさせ るもの としての特異な,逸
脱 した意味 を,隠
喩 的 な表現 に求 めることも自然ではある。その場合,し
ばしば説明の手段 とされるのが,い
わゆる選択 制限規則の侵犯 とい うことであ る伊例 えば,表
現“ス ミスは豚だ"(Smith is a pig)の 隠 喩 的な性 格 は,“Smith"に 賦与 される[十twoに
gged]と いう糠象 と,“餌ゴ'に賦与 され る[十 fotlr■etted]という標識 とが
,不
両立であることによって説明 される伊 つ まり,字
義通 りに理解 した ときに生 じ る意味上の不適切 さが,普
通の表現の普通の意味 に課せ られ るある規則性の違反,
として説明 されるわけであ る。 しか し
,意
味論的逸脱 に しろ,選
択制限違反 にしろ,重
視す るあま り,そ
れをメタ フアーであ ることの「必要条件」にまで格上 げすることは,問
題 を残すや り方だ と思われる。 そも そ も「普通の意味」なるものの範囲はきわめて曖味である上,Loewellbergが指摘するように '“ どん な文 に も,それが字義通 りに理解 され る文脈 は与 えられうる"ものだか らであるc例
えば,飼
育 して いる豚 を,“Smith"と ぃ ぅ愛称で呼ぶ ときや,ス ミスが遺伝子操作 によって豚 に変えられて しまうS
Fの
世界では,“Smith is a pig"は れっきとした字義通 りの表現であ り,意
味論的逸脱 や選択制限 違反 はない とみなすべ きであ ろう。た とえ,・ Smith is a pig"が隠 喩 的な意図で発言 された として も,例
えば,ス
ミスが食べ物 もな く深山をさ迷ったあげ く,助
け られて何 日ぶ りかの食事 をむさぼ り喰 う様 はまさにrlaと しか言いようがない という状況では,「選択制限違反」とい う説明 はいか にも 弱 く,ま
た怪 しげな ものに思 えて くる。 そ うす ると,意
味論的逸脱 による説明 はある極端な原則 に訴 えるにいたる。その原則 とは,メ
タ フアーには意味上の対立,あ
るいは論理的対立・論理的矛盾,な
い しは意味のね じれ (tw散)①が伴 つている, というものである。例 えば,「男 は狼 だ」「ス ミスは豚 だ」の ようなメタファー (と解さ れ うる)表
現の もつ く力〉は,人
間の「男」 と「狼」,人
間「ス ミス」 と「豚」 とがおのおのある種 の意味的対立,論
理的対立 にあることか ら得 られている,と
される。 この説明 はある点で は明快で あ り,有
効で もある。元来,標
準的なメタファーの説明で は,「対立」よ り「類似」の方が重要 とさ れ る。 χなる事物 を表現する際の普通の表現手段であるXに
替 えて,通
常 ノなる事物 を表現す る手 段であ るYに
よって表現す るのがメタファーであるとすれば甲χをYと呼べ るためには,χ と夕とが 何 らかの点で類似 していなければな らない。 さもなければ,そ
もそもどうい う事柄 を表現 しようと 意図 して創 られたメタファーなのかわか らない。つまり,メ
タファーの もつ 〈意味〉が理解できな い。 それゆえ,メ
タフ ァーは“類似性 《にもとづ き》,類
似性 《に依存 している》X101といえる。 しか し,逆
に類似性があまりに明白な場合,メ
タファーは単 なる比較 と,も
はや区別がつかな くなる。 そ して,容
易 に理解 され るメタファーは,陳
腐 な決 まり文句 (常套旬・ 慣用旬)と
なって,い
わゅ る死 んだメタファー (dead metaphor)に堕 す る。従 って,「生 きた」メタファー ;1つ出来たてのほや ほやのメタファーであれ ばあるほど,類
似性 を発見す ることがむずか しい とい うことになる。生 き のよいメタファーに遭遇するとき,精
神の緊張・驚 きが生 じるのはそうい う理 由による。 その とき, メタファーはある意味的対立・ 論理的矛盾 を含む という説明は,説
得力 をもって くる。 ただ しか し,「意味的対立」「論理的矛盾」 ということを額面通 りに受 け取 ることも危r_tである。 額面通 りに受 け取 る と,そ
れな らばメタファーは虚偽や嘘 を含むものである,
とい う結論 に導かれ かねないか らであ るP嘘
とメタファー とは明 らかに違 う。メタファーには,人
を欺 こうとす る意図 はない。少な くともメタファーを創 る側 にはない。メタファーに欺かれた というのは不正確な言い 方であって,メ タファー として理解せず,字
義通 りに受 け取 って嘘だ と誤解 したのである。「意味的敏 対立」「論理的矛盾」とい うことも
,言
葉の「意味」の一定の局面 を指定 してはじめていえることで あるが,最
初か らそのような ことをメタファー表現 に対 して前提す ることはで きない。 それゆえこ れらは,メ
タファー同定の,せ
いぜ い暫定的な手がか りとなるにす ぎず,必
要条件 にも十分条件 に もな りえない。 か くして,メ
タファー同定の条件 を与 えることは絶望的 に思 えて くる。考 えてみると,メ
タファ ー としてはた らくその言語使用の現場での く力〉 こそ,メ
タファーの生命力であった。 メタファー 同定の条件やメタファーを創 るための規則 を与 えようとす ることは,メ
タフ ァー を殺 す ことにもつ なが りかねない。 つとにア リス トテ レスが看取 しているように '° メタファーの創作・理解 はある程 度才能の問題であ るといえる。 しか し,単
に個人的能力・ 素質の問題 に閉 じ込 めず,言
語 に普遍的 な問題 として解放するためには,ま
たわれわれの思考のプロセスの基本的枠組 み としてメタファー を理解す るためには,メ
タファー同定の「手がか り」 を求 めることは,決
して無意味な作業で はな い。メタファー同定の手がか りは,言
語の自律的・ 文脈独立的側面によ りはむ しろ,語
用論的 。文 脈依存的側面 に求 められるべきであろう。 メタファーが メタファー として同定 され ることは,メ
タ ファー として使 う意図の もとに創 られ,メ
タファー として理解 された とき,初
めて可能 となるか ら である。メタファーが創 り出す独特 な 。新奇な意味 も,使
用の文脈 を抜 きに しては理解で きないか らである。│
そこで次に,使
用の文脈 をも考慮 に入れなが ら,メ
タファーに課せ られ負わされ る機能の面の考 察 に移 ることにす る。3.メ
タファーの機能―― その1-―
メタファーの機能ないし作用について考 えるとき,基本的な出発点 となるのはM.BlaCkの
“Metaphor"
という論文 であ るよ°“これは今や大西洋の西側では,この分野での古典 となっている"°9も のである か ら,わ
れわれ もこの論文 を足場 にして考察 を進 めることにする。Blackは
この論文で,従
来のメ タファーの機能論 を「代入説」お よび「比較説」 として総括 し,こ
れ らの説 を検 討・ 批判 す るなか か ら,自
らの新機軸 貯目互作用説」を打 ち出す という戦略 をとっている。 そこで まず,「代入説」か ら見てみ よう。BIackに よれば,「代入説」(Substitution
ew of metaphor)と
は,“隠喩的な表現はある同値 な字義通 りの表現の代用物 として使われる"とみなす見解のことであるよ°この「代入説」のポイン トは,(1)メ タファー表現には
,字
義通 りの意味 をもつある同値な表現が存在する,
ということを前提し
,鬱
)その同値な表現が表現 している意味を伝達するためにメタファーが使われる,と
考 えている隠 喩へのイニ シエー シ ョン らない。事物 χを普通あ らわす表現手段
Xの
代わ りにY(普
通 ノを表現する)を
用いる。従 って,Y→
ノの結 びつ きを一旦御破算 にして,Y→
χの結びつきを推理 しな くてはならない。 まさに謎解 きである。で はなぜ代入す るのか,な
ぜわざわ ざ謎 を解かせ るのか ?こ れには二つのタイプの答 え があ る,と Blackは
言 う:°第一のタイプの答 えは,語
彙の もつ事物・世界 とのギ ャップを埋 めるた め,
というものである。すなわち,表
現 されるべ き事物 は存在 しているが表現手段がない とき,古
い酒袋 に新 しい酒 を入れ るように,古い言葉 に新 しい意味 を盛る,というわけである。例 としてBlaCk が挙 げてい るのは,数
学者の言 う角の“脚"(leg),真 っ赤な唇 を表現する“サクランボの唇 "(Cherry lips),オ レンジ「色」 をあ らわす“オ レンジ"(orange),な
どのメタファーであるよ°これ らが メタ ファー と感 じられないのは,使
い慣れて新鮮味が薄れ,辞
書 にも登録 されるようになって,ほ
とん ど字義通 りの意味 と化 したか らである。 しか しこれ らが最初 に上述の意味で使われ初めた ときは, 適切 な字義通 りの表現手段 の欠如 を補 う苦 肉の策・ 臨時の代用物であったはずである。 そして この ような言葉の意味の拡張的使用・ 豊富化は,言
語 に とって ごく自然な現象である。新 しい事物 を表 現す るたびごとに新 しい言葉 を発明 していたので は,伝
達 に支障をきたすであろうし,第
一,覚
え 込 む暇 もな く流通 させ るための時間 も稼 げないだ ろう。また事実,“山のふ もと"(foot of mountain), “三刀流の使 い三',“曲がつた空間",な
どに見 られ るように,英
語 。日本語,日
常語・ 科学用語 を 問わず言語一般 に普遍 的に,こ
の種のメタフ ァーは現在 している。いずれにせ よ,こ
のようなメタ ファーの代入・ 代置の はた らきによって,世
界の新事物の発見が表現・ 語彙へ と持ち込 まれ,そ
の ことによって語彙 (の意味)が
豊かになる といえる。 ところが,そ
うでない代入の場合 もある。それが第二のタイプの答 えである。例 えば“リチャー ド はライオンだ"(Richard is a lion。)の
意味 は,字
義通 りの表現“リチ ャー ドは勇敢だ"(Richard is brave.)に よって表現 され るとする場合である。この とき,メ タファー表現は字義通 りの表現の単な る言 い換 えにす ぎない,
とみられ る。字義通 りの表現手段があるのだか ら,世
界の新事物 の発見が 言語 にもた らされ語彙が豊かになった,
とい う訳で はない。ではなぜ,字
義通 りの表現 を避 けてわ ざわざメタファーを使 ったか?理
由づけはやや弱 くなる。「勇敢」よ り「 ライオ ン」の方が具体性 が あつて,「眼前に街彿 とさせ る」9と弁明で きるか もしれない。あるいは,読
み手 に軽 いシ ョックを与 えるため と応 じるか もしれない。 しか し結局 は,奇
を衡 うものか,せ
いぜい読み手 を喜 ばす装飾的 なもの,と
しかみなされ ない。読み手の楽 しみゃ気晴 らしを目的 とす る言語的工夫がメタファーだということになると
,真
面目な哲学者がメタファーを真面目には取 り上げなかったことも首肯され
る。
(もっとも,言葉の遊びや装飾がなぜいけないのか ?―― これはまた一つの独立した問題である
が。
)いずれにしろ
,「代入説」といえばこの第二のタイプの「代入」力洞
「座に考えられる場合が多いせ
いか
,「代入説」
の評半
Jはすこぶる悪い
Vωそこで次に提出されるの力ヽメタファーの
「
lヒ較説」
(COmpattson敏 博
ew of metaphor)で
ある。 それによると,上
述の例 :“リチャー ドはライオ ンだ"の意味 は,“リ チャー ドはライオ ンに似てい る"(Richard is tike a hon.)の 字義通 りの意味 によって与 えられ る。 従って,「比較説」はメタファーを圧縮 された直喩 とみなす。少な くとも意味の上か らはそう解 され る。する と,ど
うい う点で,ど
ういう観点か ら見て似てい るのか,と いう疑間が生 じるが,「lヒ較説」 はこれに直接 には答 えない。 そこで「比較説」への反論 は,そ
の点 を突 くことになる。つ ま り,ど
の点で類似 してい るか曖昧だ というわけである。 しか し,類
似性 といって も,必
ず しも「客観的」 に与 え られるとはか ぎらない。人間「 リチャー ド」 と野獣の「 ライオ ン」 とでは,あ
る点で は,例
えば姿形の点で は,全
然似 ていない。がある点では,例
えば「勇敢 さ」 とい う点では,似
てい るか もしれない。類似性 は証明され るものではない。 どの観点か ら眺めているのかをはっきりさせない と,類
似 してい るか否か は言 えない。数学的相似 もあれば,家
族的類似(Wittgenstein)も ある。文 化的背景や個人の経験 の差異 にも左右 されよう。従 って,類
似性 は創 られ るものである。読み手 も, 創 り手の意図 している類似性 を発見 し,読
み とらねばならない。「曖昧」なのではな く,類
似性 の創 造的解読が期待 されているのである。 ここにメタフ ァー理解の創造性 とい う側面が浮かび上が る。 伝統的 にも「比較説」 は評判が よい。 おそ らく,大
多数のメタファーが類似性 を基礎 にして創 ら れ,類
似性 によって説明 され,理
解 されるか らであろう。例 えば,“男 は狼 だ"とい うメタファーは, 「男」 と「狼」 とが「狡猾 さ」の点で類似 していると説明 され,“時 は金な り"というメタファーは, 「時間」 と「金」 とが「貴重 さ」の点で似ていると理解 されるか もしれない。 しか し,す
べてのメ タファーが類似性 だけで説明で きるとは思 えない。例 えば,“よ く見 ると,そ
の向 こうの杉林の前 に は,数
知れぬ蜻蛉の群が流れてゐた。"(サII端康成『雪国』)°°という文中の「流れる」というメタフ ァーは,類
似性 だけでは,理
解 も鑑賞 もで きないだろう。また,Searleも 指摘するようにγD類
似性 はメタファーの説明や理解の基礎 とはな りえても,メ
タファーの意味の一部では必ず しもない。 メ タファーが類似性 を基礎 とし,類
似性 に依存 している として も,常
に類似性 を「主張」 してい ると は必ず しも言 えない。 そこで登場 して くるのが,町
目互作用説」である子°4.メ
タファーの機能―― その2-―
メタファーの「相互作用説」(interactionew of metaphor)は
,「代入」 によってで も「類似 性」 によってで もな く,二
つの意味の「相互作用」 によって,メ
タファーが新 しい意味 を創造・生 成す る機能 を,説
明 しようとする。例 えば,“男 は狼だ"とい うメタファーを考 えてみよう。 もちろ んこのメタファーは,前
節で見たように,「狡猾 さ」な どの類似性 に基づ く比較説 によって説明 され るか もしれない。 しか し,そ
れだけに尽 きるのだろうか?別
の角度か ら,
もう少 し含畜のあるメタ隠 喩へのイエシエーション ファー として理解で きないだ ろうか ?こ れに対す る「相互作用説」の答 えは
,以
下の ような もの と なろう。われわれが「男」あるいは「狼」 とい う語 に直面す るとき,こ
れ らの語か ら読 み とる意味 は,必
ずしも一通 りではない。 む しろ,あ
る中核的な部分 を取 り巻 く多様 な意味の層全体 を,想
起 す るので はあるまいか。 中核的部分 には,詳
書 に登録 されているような意味,い
わゆる表示的意味 (denotation)が あるだろう。「男」の場合,「雄性」「成年で女性でない者」等の意味,「狼」の場合, 「食 肉目に属す る犬科の獣」「群れ をなす」等の意味である。 そしてそれ らだけでな く,「男」や「狼」 に関す るさまざまの慣習 。経験 。言い伝 え 。物語 。伝説等,か
ら連想 され暗示 され る意味,い
わゆ る共示的意味 (COnnotation)が 想起 されるだ ろう。前者の中核的意味 も含めて,そ
の ような,意
味 の多様体 をBIackは
,「連想常套旬の体系」(System Of attociated commonplaces)と 呼んだ!0例えば,「男」の場合,《雄性
,力
強 さ,勇
敢,権
威者,威
厳,寛
容,鷹
揚,優
しい,頼
りがいがある, おっ とり,ゆ
った り,家
長,家
父長,髭 ,長
身,理
知的,論
理的,打
算的,乱
暴,荒
々 しい,大
ま か,粗
雑,デ
リカシー を欠 く,…
》な どが,そ
れにあたる。「狼」の場合,《肉食,群
れ,聞
争,旅
, 流浪,狡
猾,ず
る賢い,揮
猛,危
険,人
を踊す,表
面 は優 し く裏で は恐 ろしい,二
重人格,二
重獣(?)格
,牙,裂
けた口,長
くとがった耳,一
》などが,そ
れにあたる。 これ らはもちろん,個
人 によ り,ま
た文化 によ り,異
なるであろう。狼 と身近 に暮 らす文化 においては,狼
への親近感 を示 すような常套旬が結びつ くであろう。狼が悪者の代名詞になる文化 もあれば,そ
うでない文化 もあ ろう。 また,多
くの文化に共通 してみ られ る,「狼」の連想常套旬 もあろう。動物生態学の専門家の 立場か らみるな らば,そ
れ ら常套旬のなかには,あ
るいは間違 った もの も含 まれてい るか もしれな い。 しか しともか く,狼
の もっている性質 として信 じられ,公
認 されている,常
識 の体系,連
想常 套旬の体系 とい うものがある。「男」について も同様である。 そこで,“男 は狼 だ"とい うメタファー に直面す るとき,二
つの語,「男J「狼」の連想常套旬の各体系が,作
用 を及 ぼしあ うことになる。 その相互作用によって,常
套旬の うちどれかの句が とくに注 目され,脚
光 を浴びるが,他
の旬 は背 景に押 しや られ,霞
んで見 えな くなる,と
いうことになるだろう。 どの句が浮 き出,
どの旬が沈む かは文脈 によろうが,また文化の違 いや個人の経験の差異 も,それに甚大 な影響 を及 ぼすであろう。 一方の常套旬の体系が他方のそれの「組織化」・編成替 えを もた らしヤ。また「 フィルター」の役 目を 果す 子0さ
らに,一
方の体 系が,他
方の体系 による「写映」・「舗分 けJ(SCreening)に よって▼D新
しい概念体系 として再生す る。 この相互作用 は,一
方を他方に還元す ることで も,代
置す ることで もない。双方の (字義通 りの)意
味 システムは,な
お共に,有
効 にはた らいてい る。 はた らきなが らしか も,相
互作用 とい う触媒 によって,新
しい意味 を結晶 させ て くるのである。“男 は狼だ"の場 合,「男」の もつ連想常套旬の体系が「狼」の もつそれ と相互作用 を起 こす ことによって,い
ままで 表面 に現れていなか った「男」の共示的意味が「狼」のそれによって呼び覚 まされ,新
たに「男」 の常套旬の体 系に組 み込 まれて編成替 えを誘発 させ る。敏 以上の ような「相互作用説」 は
,
とりわ け,詩
的な生 きたメタファーの機能の説明 に有効 であ る ように思える。前節3で
の,川
端康成 『雪国』 か らの例 :“…蜻蛉の群が流れてゐた。"(こ れは, 「代入」や「類似性」だけで は説明 しきれないメタファーの例であつた)に ,こ
の説 を適用 してみ よう。「蜻蛉の群」 には,《昆虫,虫
,薄
い羽,飛
ぶ,か
細 い,力 羽号い,…・》のような連想常套旬の 体系があ り,「流れ る」 には,《空気・ 水 な どの流体 の物理現象,浮
動,遊
泳,小
川,涙
,血 ,一
》 のような連想常套旬の体系が あろう。 これ らが相互作用 を起 こす とどうなるか?「靖蛉の群」と「流 れる」 という二語 の結合 に,わ
れわれ は最初,違
和感 を持つだろう。蜻蛉 は飛ぶか もしれないが, 果た して「流れ る」か?「
飛ぶ」 ことと「流れ る」 こととは,す
ぐには結びつ きそうにない。 しか し,蜻
蛉が飛ぶ といって も,飛
行機のように堂々 と,あ
るいは鷲のように精憚 に,燕
の ように敏捷 に,飛
ぶわ けで はない。か細 く,か
弱い蜻蛉 は,ふ
わふわ と浮 くように,
もっと頼 りなげに飛ぶだ ろう。 その,ぶ
わふわ と空中を漂い,浮
動す る様 は,空
気の流れに身 を任せて,た
だ流 されている ような もの,な
のか もしれない。,IIや空気の ような無生物の物理現象に普通 は適用 され る「流れ る」 とい う語が,「蜻蛉」 にいわ ば強引に結 びつけられ ることによって,こ
の ような理解が,醸
成 され, 呼び覚 まされて くる。 それによって,蜻
蛉 はただ「飛ぶ」ものだ という形で しか,靖
蛉の「飛び方」 に考 え到 らなかったわれわれの概念体系の,編
成替 えが要求 される。蜻蛉 は,頼
りなげに,ふ
わぶ わ と空気の流れ に身を任せて,流
れ るように飛ぶ,つ
ま り「流れる」のである。 こうしてわれわれ は,蜻
蛉の「飛び方」についての,新
しい概念体系 を得 る。逆 に,「流れ る」の方の体 系 も,川
や空 気のような無生物の無意図的な物理現象 を表すのみな らず,同
時に,蜻
蛉の ような生物 の動 きにも 拡張 して適用 され ることが示 されることによって,
こちらも新 しい概念体系へ と編成 し直 され るこ とになる子0 こうして両方の意味体系が,各
々の元 の意味 を残 しなが ら同時 に,い
わば二重写 しのように,新
しい意味体 系 を現出させる一― 町目互作用説」によれば,メ
タファーはこのような機能 を果たす。 この説は,
これ までの「代入説」「比較説」と比べる と,は
るか に洗練 された,し
か も包括 的な説明 となっている。 というの も,す
でに見た ように,詩
的な含蓄のある生 きたメタファーの もつ新 しい 意味の創造の機能は,「代入説」や「比較説」で はうまく説明で きない場合が多いが,町
目互作用説」 は,そ
の詩性・含意性 また意味の創造性 を,相
当巧みに説明す るように思われるか らである。5.意
味お よび使用の文脈 メタファーにおいて新 しい意味が創造・ 生成 される とき,元
の意味のある変容 が生 じてい る。例 えば,“男 は狼だ"の「狼」 はもはや字義通 りの「狼」ではない。語「男」 との相互作用 によって, 元の狼 の意味 をの こしなが らも,あ
る変容 を被 っている。その変容 した意味が,外
な らぬ隠喩的意隠 喩へのイニ シエー ション
味であ る。つ ま り
,メ
タファーにおいては,字
義通 りの意味か ら変容 した意味一隠喩的意味が生成 され る, ということが 一般 的にいえる。もちろん,このような説明の背後には,字義通 りの意味(literal meaninglと 隠喩的意味 (metaphOrical
meaning)の区別が
,前
提 としてある。ところが,こ の前提 をDavidsonは疑 ってかかるV9Davidson
によれば
,こ
の区別 自体が虚構であって,隠
喩的意味 とい うものは存在 しない。メタファーが もつ 「意味」 は,字
義通 りの意味だけであって,そ
れ以外 の意味ではない。 メタファーは「意味」で は な く,
もっぱ ら「使用」 に関わ る。新 しい意味 を生成 す るためではな く,気
分 を刷新 させた り,励
ました り,感
動 させた りす るために,メ
タファーは使 われ る。使用の文脈での実践的効果 こそが, メタファーの領域であって,意
味の変容 に関わ ることはない。一一 これ はきわ めてラデ ィカルな批判ではある。 しか し同時 に,あ
る意味で振 り出 しに逆戻 りした も ので もあ る。Davidsonは 終始,意
味 と使用 を載然 と分 けている。彼 に とっての「意味」は,あ
くま で真理条件 につながる,客
観的に提示できるものであ る。言葉の意味 は,そ
の言葉が語 られ る言語 共同体 の,任
意の成員 が理解 しうるものでなければな らない。従 って,言
葉の意味 は,誰
がいつ ど のような ときにその言葉 を使 っているか, とい う使用の文脈 か ら独立 した ものである。メタフ ァー も「意味」 にで はな く,
どう使 うか,ど
のような意図の もとにどのような効果 を狙 って使 うか,
と い うことに関わ る。 これ は,メ
タファーが元来,レ
トリックの修辞部門の代表的技巧であった,
と い う歴史的背景 に直結する主張で もある。古典 レ トリックの主要な任務 は,言
葉を用いて人 を説得 す ることであった。そ してメタファー も,そ の ような説得 を もって第一の任務 とされ ることになる。 しか し,使
用の文脈 にお ける効果 と意味の変容 とは,完
全 に切 り離せ るものだろうか?説
得 とい う効果 を考 える ときも,そ
の効果 を最大限に発揮 させ るためには,意
味の変容 は大 きな要因,お
そ らくは最大の要 因 となるはずである。従 って,意
味の変容 と使用の文脈 とは,切
り離 して論 じうる ものではな く,む
しろその緊密な連関を問題 とすべ きであ ろう。Davidsonの批判が振 り出 しに逆戻 りしている,と
いうの はこのような意味 においてであ る。 われわれ としては,メ
タファー使用の効果・ 効力 の問題 に進 むまえに,意
味の変容 ということを もう少 し掘 り下 げてみたい。確かに,意
味の中心的部分 に真理条件 とい うものを考 えることは,正
当な接近法で はある。だがそ うすると,「メタファーの真理条件 は何か?」,「真のメタファー という ものが考 え られ るのか?」 という難間が招来 されて くる。適切なメタファー,効
力 あるメタファー とい うものは考 えやすいが,真
なるメタファー というものがあるのか?そもそ も,真
理 とメタフ ァ ー とはどう結びつ くのか ?こ の難問に対 して,Davidsonの
立場か らは,比
較的単純 に答 え られ るよ うに思われ る。一一例 えば,“男 は狼だ"というメタファーの場合,真
・偽 をDavidsonの いう「意味」 の中心部分 と考 えると,男
が字義通 り狼である ときかつその ときのみ このメタファーは真である, と言 えよう。 しか し,人
間の男が字義通 りに狼である とい うことは,現
実 にはあ りえないことであ敏 博 畑 る。 もし
,
このメタフ ァーが上述の意味で真である世界 を考 えるな らば,そ
の世界 は,現
実世界以 外の世界であろう。 その ような世界 は,あ
りそうにはないが空想可能ではあるか ら,一
つの可能世 界 と呼べ るだろう。 この可能世界 では,人
間の男が,字
義通 り裂 けた口をもち,牙
をむきだ し,長
くとが つた耳 を もつ。男 は「本 当に」狼 なのだ。つ まり,こ
の世界 では字義通 りに男 は狼であって, 隠喩的にそ うなので はない。 しか し,現
実世界では“男 は狼だ"は偽であるか ら,こ
れはメタファー である。 そこが肝心である。メタファー として効力 を もつのは,現
実世界では偽であって も,真
と なる可能世界が空想で きる命題であ る。否む しろ,現
実世界で は偽である方がメタファー としての 効果 を高めるか もしれない。現実世界で生 じていることを云々 して も,説
得・ 感動等のメタファー の実践的効果 は余 り期待で きない。従 って,メ
タファーであ るためには,虚
偽 を含 んでいなければ ならない……。一― しか し, こうなると,(2節
で述べた)虚偽 とメタファーの単純 な同一視 という 的はずれな主張 までは,ほ
んの数歩である。 それで は,真
・ 偽 とメタ ファー との関連 はどのように考 えるべ きか ?こ こで,Fregeの
Simと
Bedeutungの 区別が一 つの手がか りになる。Fregeは,世
界の事物 に直接結びつ く,言
葉の意味 と して Bedeuttlng(名 が名指す対象や文の もつ真理値が これにあた る)を考 え,
これ を言語 によるBe
deuttllag指示の仕方 としての意味―Sinn(これは広いイ ミで言語的な ものであ る)から,区別 した『° メタファーが創造す る新 しい意味 は,Bedeutungと
い うよ りむ しろ Sinnに 近 い。「管の明星」の言 葉の意味 (Sinn):「夕暮れ時 に西の空 に明る く輝 く星」を理解 し,夕
空の金星 を指 さしあれだ と同 定できる(つまりBedeutungを 知 っている)人で,「明 けの明星」を具体的に同定 した ことがない(例 えば朝早 く起 きるのが苦手で見 る機会がなかった)人が いる,と
しよう。(だか ら,明
けの明星が金 星であることも知 らない,
としよう。)日
本語 を解す るか ぎ り,
もちろん彼 も「明 けの明星」の言葉 の意味:「明 け方 に東の空 に明 る く輝 く星」は理解で きる。 そこで,「管の明星 と明 けの明星 は同一 の星,金
星であ る」とい う天文学上の事実を知 らされた とき,彼
は驚 くだ ろう。「明 けの明星」の言 葉の意味,つ
ま り同定の条件 は知 っているとして も,そ
れが その まま,同
定 さるべ き対象の他のあ らゆる性質 をも知 った ことにはな らない。それゆえ,自
分の よ く知 っている夕方輝 くあの星が,明
けの明星で もあ ると知 らされて も,に
わかには信 じがたい。 しか し,天
文学の知識 を授 け られ,
こ れこれの季節 にこれ これの位置 を占める惑星が,天
球の動 きと共 にどう変化す るか を示 されるな ら ば,彼
も納得す るはずである。彼の最初 の驚 きは,メ
タファーに直面す るときの驚 きに似てい る。 “管の明星 は明けの明星である"が,彼
に とってメタファーにな らなかったのは,こ
の文が真である 根拠が即座 に示 されたか らである。字義通 りの「管の明星」が,字
義通 りの「明 けの明星」 と同一 であることが示 されたか らであ る。そうではな くて,
もし彼が天文学の知識 とはず っ と無縁であ り 続 けた とした ら,
この同一性の主張 は,彼
にとってメタファーであったか もしれない。“男 は狼だ" が大抵の人 にとってメタフ ァーであるのは,字
義通 りの「男」が字義通 りの「狼Jで
ある条件・状隠 喩へのイニ シエー ション
1]
況 を,示
せないか らである。 きわめて奇妙なある可能世界では,男
が字義通 りに狼であろう。 しか しその ような世界では,“男 は狼だ"はもはやメタファーで はないはずだ。「事実」をそのまま述べた だけの文 は,ほ
とんどメタ ファーで はあ りえない。 従 って,メ タファーはSinnの領域 に,最
後 まで踏み とどまるものであろう。もちろん,メ タファ ーに対 して も真・偽 を問題 にすることはで きる。重要なことは,メ
タファーであるか ぎ り,真
。偽 が未決定,宙
ぶ らりんの ままである,と
いうことである。字義通 りに解するならば,偽
である場合 が多いか もしれないが,虚
偽 とメタフ ァー とは異 なる。真であると決定 された り,偽
であると断言 された りした とたん,メ
タ ファーはメタフ ァーでな くなる。端的な真理,端
的な虚偽 となる。 そう いう形 でメタフ ァーは真・偽 に関わ るが,真・偽の どちらにも決定で きない。その意味では,Davidson の言 うように,メ
タフ ァーは「夢」なのか もしれない『0 メタファーであるか ぎり真・偽の決定はで きないものの,
しか し,メ
タファーは真 。偽の決定 に 寄与す ること大 である一―丁度,Fregeの
Sinnがそぅでぁったように。次節でその ことを,「方法 としてのメタファー」 という観点か ら見ておきたい。 6。 方法 としてのメタファー さて,メ
タファー はどのような形で真・偽の決定 に寄与で きるか,世
界の事物 の認識 に貢献で き るか?こ こでは,Blackに
従 って,モ
デル とメタファーの類似性 を確認 した うえで,「こころ」ある いは「わか るとい うこと」の描写法 としてのメタファーを考察 してみたい。[1]モ
デル とメタファーBlackは
“MOdels and Archetypes"と いう論文で,あ
る種 のモデル とメタファーが,構
造 と機能 の点で きわめてよ く似ていることを指摘 している『りBIackの分析 によると,一
口にモデル と言われ るものに も,さ
まざまなタイプがある。 ①縮尺モデル(scale mOdels)●0-一
石器時代 の住居モデル,船
や飛行機の ミニチ ュアな どこれに当 たる。 こういうモデルは実物 の模倣 。似像 (イ コン)な
いし等縮約の小型版 として,実
物が現在 入手不可能な場合な どに使 われ るものであって,モ
デル としては最 も素朴 な ものである。 ②類比 モデル (analogue models)。0-―
実物 の構造・関係のみを写すモデルであって,幾
何学的大 きさは問題 にされない。数学 での同型写像(iSOmorphism),っ ま り構造 を保存す る一対一対応(全 単射同型写像)が
あれ ばよい。数学基礎論や論理学でのモデル理論・ 形式的意味論のモデルがそ の例 になる。 ③応用科学等の数学モデル (mathematical models)°9-―
例 えば,経
済現象 を解明す るための数学 的装置。複雑 な現象を単純 で理想的な ものに分割・ 還元 し,そ
の単純 な現象 を厳密 に数学的な方12 田 敏
程式で定式化 して
,そ
こか ら元の複雑 な現象 を類推 しようとするもの。 このモデルの欠点 は,モ
デル を造 ったか らといって
,そ
れが即,元
の現象の「説明」にはな らない ことである。④理論モデル(theoretical models)O° 一一
MaxweHの
電磁場のモデル,あ
るいはかつての光の媒体 モデル としてのエーテルの ような,モ
デル を造 ることその こと自体が,そ
の まま実在世界のあ る 語 り方・ 描写 の仕方 となるようなモデル。 ―― この理論モ デルの はた らきは,メ
タファーのそれにきわめて近い。 メタファー も理論 モデル も 共に発見のための仮構であ り,そ
れ らは,自
らが描写す る (電磁場のような)理
論 的対象があたか も存在 しているかのように語る。事実,Maxwen以
後 の電磁場 は,物
理学者 に とってはほ とん ど完 全 に実在性 (realitylを獲得 している。相対論の「 曲が った空間」 も,素
人 に とってはまだメタフ ァー くさいが,ブ
ラック・ ホール物理で はれっ きとした市民権 を得 ている。 しか し,
これ らの理論 モデル も,初
めて提唱 された ときは,大
多数の物理学者たちに とっては,ほ
とん どメタフ ァーであ ったろう。メタファー としての理論モデルが有効であるためには,そのモデルの もつ含み(impliCation) ない し論理的帰結 (10giCal cOnsequences)を 十分 にコン トロールで き,展
開で きるものでなければ ならない。類比モデル もこの点で は理論 モデル と同 じく,発
見的 (heuristic)機能 と独 自の展開可 能性 を備 えることによって,有
効 なモデルにな りうる。 そして,有
効 なモデルが「説明力」 を も持 った ものであ るためには,モ
デル と実物・実在の間に同型写像一構造 を保存する一対―の対応が な くてはな らない。 従 って,メ
タファーが有効 なモデル としての資格 をもつメタファーであるためには,メ
タフ ァー としての独 自の発展性・展開可能性 を備 えていなければならない解 その ことによって,今
まで知 ら れていなか った,新
しい推論や洞察が得 られ ることになるか らである。 因みに,Blackが
挙 げる最後 のモデル は次の ものである。 ⑤元型 (archetype1 00-一 これは,T,Kuhnの
パ ラダイムに近 い もので,隠
された,
または暗黙の 同意の もとに前提 された メタファーであ る。 これは,い
ろいろな学問・ 慣習の「究極的言及枠」 「究極的前提」であつて甲9通
常,仮
設 としてす ら意識 されず,全
くの前提 。思考の枠組 み となっ ているメタファーである。 しか しこれ も,仮
説 としての性格 を免れない以上,絶
対的な もので は あ りえず,あ
る時代 。あるグループに特徴的なものの見方・ 思考の枠組 みである。 その意味 で, 一種の神話 であ リメタファーである。ただ,わ
れわれの思考の奥深 くにきわめて堅 固に安定 して 居座 り続 けてい るモデルであ るか ら,われわれの思考のあ り方を決定 して しまうほ どの力 をもつ, 決 して軽視で きないメタファーである。(次節で改めて考察す る。) 一― いずれにせ よメタファーは,発
見の便法であ り,描
写の仕方であ り,思
考の枠組 みである。つ まりは思考のモデルである。 しか もそのモデル は,単
に暫定的な 。その場 しの ぎの説明手段である にとどまらず,ゆ
くゆ くは現実の存在性 を獲得す ることを,期
待 し暗示す るものであ る。言い擦 え 博 畑隠 喩へのイニ シエー ション
13
ると,モ
デル としてのメタファーは,《存在の含意》を伴 うとい うことである。 この ことを具体 的に 示す事例 として,「こころ」あるいは「わか るとい うこと」の描写法 としてのメタファーを,考
えて みたい。[2]「
こころ」あるいは「わかるということ」の描写法 としてのメタファー われわれ人間 は,さ
まざまの環境――森林・ 山・川・湖 。海・動物・植物等の自然環境,親
・子・ 兄弟・配偶者・ 隣人・ 同僚・ 友人等の人 的環境,机
・ 椅子・本・万年筆 。ワープロ・ パ ソコン・ 衣 服・ 自動車・ 住居等の道具的環境一― に取 り囲 まれて,そ
れ らと調和 。共存 し,い
わば分 か り合 い 理解 し合 って生活 している。 とくに,「こころ」を持つ他人 と「わか り合い」「理解 し合 う」ことは, 人間の最 も人間 らしい営みの一つである。 しか し,そ
もそ も他人が「 こころ」を持 っていることを, どのように して確かめ うるのか?他
人 も自分 と同 じように日前のコップの色や形 を見,同
じように 腹 をこわ した ら腹痛を感 じるのか,そ
れをどうや って知 ることがで きるのか ?そ んなことは当た り 前だ,
と言われ るか もしれない。生命のない機械 な らいざしらず,生
身の人間 は誰で も「 こころ」 を持 っている,だ
か ら他人 も同 じように見 るし,同
じように腹痛 を感 じるのだ, と。だが,事
はそ れほど簡単で はない。 当た り前だ と思われることで も,開
き直 ってその根拠を尋ね られる と,簡
単 には答 えられない問い とい うものがある。 これ も,そ
の ような難問の一つ一―哲学的には,い
わ ゆ る他我認識の問題,他
人 のこころをどのようにして知 ることがで きるかの問題――である。 虫歯がひ ど くな り,痛
みだす とき,こ
れは端的 に痛 い。 つま り自分の痛みは端的に自分の痛 みで あつて,自
分 にわか る痛みである。だか ら,自
分 の「 こころ」は,自
分 にはよ く「わかる」。 しか し これ とて,そ
れほど明際か どうか疑わ しい。終始私 を踊 し続 けるデカル トのデーモンや,無
意識の 欲求・ 意識下の自我 (フロイ ト)を
持ち出さな くとも,ギ
リシアの昔か ら「 自分 自身 を知 る」 こと の難 しさを,わ
れわれ は痛感 していたはずである。 自分 自身の「 こころ」にしてそのような体た ら くであれば,他
人の「 こころ」 を知 ることはなお さ ら難 しいであろう。仮 に,自
分の痛みは自分が 一番 よく知 っていることを認 めた として も,他
人 の痛みはどのように して知 りうるか?他
人の痛 み は,自
分 には絶対体験 で きない。 これは,事
実的 にで はな く論理的に,で
きない。他人 の痛み を自 ら痛むことは,言
葉の定義上で きない,従
って,論
理的にで きない。 しか し,顔
をしかめ,口
を歪 め,痛
そ うにおなかを押 さえている子供がいた ら,そ
の子 は腹痛 を起 こしてい ると,わ
れわれ は察 す るだろう。 もちろんそれは,単
なる推測にす ぎない,
とも言 える。子供 は,痛
そうなふ りをして いるだけか もしれない。学校 に行 くのが嫌で,仮
病 を使 っているのか もしれない。 しか しわれわれ は,他
人 である子供 に も自分 と同 じような「 こころ」があって,悪
い ものを食べた ときや食べ過 ぎ た ときは自分 と同 じように腹痛 を起 こすだろうと推察 して,対
処するのが普通である。つ ま り,他
人の痛み を自分の痛みの比喩 として,メ
タファー として,理
解 しているのが実状である。博 畑 いや
,そ
れは学問的な語 り方で はない,
と実証的生理学者 は言 うだ ろう。「痛 い」とい うこころの 状態 は,脳
の中でか くか くの化学的・ 電気的変化が生 じてい るという語 り方 をすべ きである,あ
る いは,そ
の ような生理学的変化に平行す るある状態であ る,と
いう語 り方でせいぜい とどめるべ き である,と
。 メタファーで語 ることは,「こころ」や「痛み」を不当に実体化す ることにつなが ると いうことを,彼
は懸念するわ けである。 しか し,
この ような生理学言語で言い直 してみて も,そ
れ は痛い という端 的な事柄 とは全然別物であって,何
の説明 にもな らない し,何
の理解 にも導かない だろう。行動主義者 は,こ
う言 うか もしれない。痛い とい う「 こころ」の状態 は,そ
れの身体的な 現れ―一身振 りや顔 の表情,痛
そうに顔 をしかめた り,日
を歪 めた りす るしぐさ一― に対応 してい る。だか ら,そ
うい う観察可能な行動の束 として,「痛み」を定義で きる。なぜなら,そ
うい う身振 り・ 振 る舞いをす るとき,「こころ」は大抵の場合,「痛い」 という状態 にあ るか らだ。 そう言 うか もしれない。「 こころ」の描写 を,そ
のような観察可能な行動言語 に還元 して行 うことには,し
か し, なにか一つ重要な ことが欠落 してい る感 じを抱かせ る。“本 当に痛 い"とい うことが,そ
れによって 伝 えられ,理
解 され,「わか る」ことになるのか,そ
の ことが心 もとない,も
どか しい という感 じが 残るのである。 あるいは,も
っ と洗練 された行動主義者 は,
こう言 うか もしれない。「痛み」を表現 する身振 りや表情 は,「痛み」の表現手段,「痛み」の身体 言語 (bOdy langtlage)で あると同時 に, 「痛み」の一部 で もあ る。“う―ん,痛
い"と言 っておなか を押 さえるしぐさ,“あちっ/"と言 って 茶わん蒸 しのぶたか ら手 を離す動作,そ
ういう身体言語 自体が「痛み」の一部分 である,「痛み」の 構成要素である,
と言 うか もしれない。なぜな ら,`痛い〃という言葉 を発 して腹 を押 さえた り,手
をひっこめた りす るしぐさは,生
成的に「痛み」の体験 と切 り離せない ものであって,「痛み」の一 部にな りきっている。 もちろん,“auch"で はな く“痛い"とか“あちっ"とい う日本語 を「痛み」 と共 に発 することや,ひ
っこめた手 を鼻の頭 にではな く耳たぶ にもってい く動作 をす ることは,後
天的 に教わ り見習 って以来,身
についた ものである。つ まり,「痛み」の表現 としての言葉や動作 は,「痛 み」に先天的に結びついているのではな く,文
化や慣習や個人の体験の差異 に相対的である。 しか し,一
旦個人が ある文化の中に生 まれ落 ちるや,そ
の文化内で教わ る「痛み」の言葉や動作 は「痛 み」 と不可分 に結びつけてお り,そ
の結びつき方 はほ とん ど先天的・ 絶対的 と言 えるほど強い。 そ の意味で,「痛み」の言葉や動作 は,「痛み」の一部だ と言 ってよい。一― この洗練 された行動主義 者の言い方は,あ
る行動を「 こころ」の状態の 《表現》ではな く 《一部分》であるとした点で,一
歩前進 したものではある。 しかし,な
ぜ他人の「痛み」を「わかろう」 とするのか,な
ぜ理解 し, 同情 し,取
りのぞいてや ろうと努力するのか,と
いう肝心のことが忘れられている。この「なぜ」 の問い,動
機 にかんす る問いは,「こころ」や他人のこころが「わかるということ」の理解にとって, 必須の事柄である。物理現象の説明にとっては,そ
れ らの問いは不要であ り,不
毛であるか もしれ ない。 しかし人間の「こころ」に関わる事柄においては,ま
た人間が他の人間を「わかるというこ隠 喩へのイニ シェー シ ョン と」においては,これ らの問いは避 けては通 れないだろう。子供が“痛い /"と 叫ぶ とき,子供 は自分 の「痛み」を記述 した り表現 した りしているのではな く
,こ
こに有 る「痛み」をなん とか して くれ, 取 りのぞいて くれ と訴 えてい るのである。少 な くとも,そ
の ことがその叫びに含意 されている。そ の子の「痛 み」が「わか るとい うこと」 は,そ
の合意 を了解 して,
しかるべ き処置 を とることであ る。 その合意の了解の出発点 は,そ
の叫びに,「痛み」の 《存在の合意》を読み取 ることである。「痛 み」が本 当にそこに在 る,
と思 うことである。だが,洗
練 された行動主義者の言い方に,「痛み」の 存在が十全に合意 されてい るとは感 じられない。 他人 の「痛み」が「わか り」,他
人 の「痛み」に同情す るとい うことは,他
人 の「痛 み」の 《存在 の合意》 を認 め,も
し自分がその人であればさぞ痛いだろうと,想
像することによって初 めて可能 である。 もとよ り,自
分 は他人 とは違 う。他人 になることはで きない。 自分Aに
はAの
痛み「痛み A」 が有 り,他
人Bに
はBの
痛み「痛みB」 が有 る。 自分Aに
しかわか らない「痛みA」 を表す言 葉「痛 い」 は,実
は「痛いA」 なのであって,他
人Bの
痛みをも便利 に中立 にあ らわすかのような 言葉「痛い」なのではない。Bが
“痛 い/"と叫ぶ ときも,Bに
専有 されている「痛みB」 を専 ら表 す「痛 いB」 を使 っている,つ
まり“痛いB/"と
叫んでいるのだ。Bの
,“痛 ぃB"という叫びを聞 いて,自
分Aが
わが ことのように同情 し,自
分がBで
あればさぞ痛 い (実際 は「痛 いA」)だ
ろうと 想像す ることは,あ
たか も「痛 いB」 という言葉が「痛みA」 を表 しているかの ようにみなす こと であ る。本来,事
物 ノを表すYと
いう言葉が,あ
たか もχを表 しているかのように考 えることであ る。つま り,「痛いB」 とい う言葉 にメタファーの構造 を読み込 む こと,「痛 いB」 を メタファー とみ なす ことである。 これは,一
種の感情移入である。 自分Aか
らは,Bの
痛み「痛みB」 には近づ け ない。「痛みB」 を所有することはで きない,論
理的にで きない。だか ら,Bの
「痛 いB」 とい う言 葉 を聞いて,「痛みA」 が 自分Aに
有 るかの ように想像す ることは,「痛みB」 を自分Aに
持ち込ん だ と想像す ることである。 それ は,あ
くまで想像である。 自分が有 しない「痛み」が,存
在す るか のように想像す るのである。だか ら,他
人の「痛み」の言葉 をメタファー とみなす ことは,感
情移 入であ る。だが,他
人 の「痛み」 を「わか る」には,感
情移入 によるしかないのではないか。他人 の「痛み」を語 るには,メ
タファーによるしかないので はないか。他人 の「 こころ」はわか らない, 他人の「 こころ」の状態 を知 ることはで きない。「 こころ」の状態 は,検
証可能 な事実で はないか ら だ。他人の「 こころ」が「わか る」 ことは,だ
か ら,メ
タファー として「わか る」 とい うわか り方 以外 にはない。他人の「 こころ」が「わか る」ときのわか り方は,メ
タファーの構造 を とっている。 従 って,そ
のわか り方の描写法 もメタファー となる。 身近 な他人か らさ らに拡げて,外
国人や文化 を異 にする人々 を理解 しようとするとき (異文化理 解・異文化間 コミュニケーシ ョン),あ るいは環境 としての動植物や 自然 を理解 しようとす る とき(環 境世界 とのコミュニケーシ ョン),そ こにはた らく感情移入や擬人化 といったわか り方 も,メ タファ16 田 ―の構造 を もつ と見 ることができる。一般 に
,広
く (人間のみな らず動植物や環境 も含 めて)他
者 を理解す る 。「 わか る」構造の中に,メ
タファーの構造が組込 まれているのではないか と思われる。 (こ こで,こ
の主題 を全面的に展開 さす余裕 は現在 ない。示唆に とどめる。)7.概
念枠 としてのメタファー われわれ は日常 生活 において,意
識す ると否 とに拘 らず,
さまざまの概 念 枠・ 概 念 体 系に基づ いて思考 し,行
動 している。例 えば,「時間は貴重な ものである」とい う「時間」に関す る概念枠が ある。約束の時刻 をきちん と守 ることや時間 きっか りに仕事 を始め・ 終わ ることが,社
会生活上の 当然のルール とされ,
また時間によって仕事の量 を計 り(e.g大学の講義の単位時間制)仕事の価値 を判定す る(e.g,時間給)こ とが行われるのは,
この概念枠 に準拠 して時間が捉 え られているか らで ある。 また,「議論 に勝 つ」,「議論 に負 ける」,「論陣 を張 る」,「論点を攻撃す る」,「論拠 を失 う」, 「立場 を防御 す る」,「議論の戦略 を練 る」,「議論 を粉砕す る」,「論敵 との論戦」等々の言い方 は, 「議論 は戦 いである」とい う,「議論」についての概念枠が存在することを示唆 している。 しか し注 意深 く観察 してみると,こ
れ らの概念枠・概念体系が隠 喩 的な もの,メ
タファーに根 ざす ものであ ることに気づ く。時間が「本性上」貴重な ものであるか どうか,こ
れには疑間が残 る。貴重な もの で も重要な もので もない もの として「時間」 を考 えることがで きるし,そ
の ような文化 を生 きてい る人々 もいる。 しか し,わ
れわれの現在の生活様式,生
活習慣―― とくに,西
欧近代文化の直接の 影響下 にあ る都市の生活習慣――,も
っ と広 くわれわれの現在の文化 (と くに都市文化)において, 時間 は貴金属や有限の資源同様,「貴重 な もの」とされ,数
量化 され,価
値計測が なされる。 その よ うな概念枠 に基づいて,わ
れわれは時間に対処す る。従 って,「時間」の概念 を理解す るとき,わ
れ われは,貴
金属や有限の資源 に本来備わ っている (とみなされる)概
念一「貴重 な もの」 を,借
用 して用いることになる。 これは,一
種のメタファーである。「議論 は戦 いである」とい う「議論」の 概念枠 について も,同
様な ことが言 える。「議論」を「平和的」な もの,協
調 と和 のなかで行われる もの とする生活様式 は,十
分想像で きるし,実
際 そうい う文化 を発達 させてい る人々 も多いであろ う。 しか しわれわれの現在の生活習慣で は,「議論 は戦 いである」とい うメタファー を主流の概念枠 として,「議論」 を考 えてい る。「戦 い」の概念 を借 りて「議論」の概念 を理解 してい るわ けである か ら,「議論 は戦 いである」 もメタファーである。Lakoffと Johnsonは,概
念枠・概念体系 として のメタファーに注 目して,興味深い指摘を行っているY°われわれも彼 らの着眼点を参考にしながら, 概念枠 としてのメタファーを瞥見 してみたい。 Lakoffと Johttonに よれば,物
理(身体)的,文
化的,知
的 という大 まかに三つの概念の類型を 考えることができるが,こ
れらが相互に概念の交差・ 貸 し借 りを行っていて,
しか も全体 として一 敏隠 喩へのイニシエー ション
17
つの体系を構成 してい るという子りそこで とくに,物
理的および方位づけの(Orientational)概念が, 文化的概念 を どう枠づ け,構
造づけてい るか,を
見 てみる。方位づ けのメタファーは,上
・下,前
・ 後,内
・ 外,接
・ 離,深
層・表層,中
心 。周縁 (辺)と
いった空間的方位 によって,善
。悪,正
・ 邪,等
の価値・ 文化 的概念や,喜
び・ 悲 しみ等の個人的感情一一 これ らにはもともと空間的方位 は ないが一― を,枠
づ け,構
造づけている。 《上・ 下の概念枠》(以下の例 はLakor&Johnson[1980a]p.462 ff.に
よる。)(1)幸
福 は上,悲
しみは下。――“意気軒昂 に感 じる"(feel up)や“上機嫌である"(be in high splits), “気分が落 ち込む"(feel down),や
“意気消沈 している"(be depressed)と
いう概念 に おいて,幸
福 が上向 きであ り,不
幸や悲 しみが下向 きである,
とい う方位づ けがなされてい る。 こ れは,直
立 の上向 きの姿勢 (一われわれの物理身体 的方位)が,幸
福 で積極的な感情 に伴 うもので あ り,下
向 きの姿勢が,不
幸で消極的な感情 に伴 うものであることに基づ く。(2)意
識 は上,無
意識は下。――“起 きろ"(Get up),“
目覚 めよ"(Wake up),“
私 はもうすで に起 きてい る"(I'm tlp already),“ 彼 は眠 りに落ちた"(He fell asleep),“ 彼 は催眠状態 にあ る"(Hざs under hypn∝is),“彼 は昏睡状態に沈んだ"(He Sank down into a coma)。 人間や多 くの
動物 は
,目
覚 めているときは直立 してお り,眠
る ときは横たわ る,と
いうことに基づ く方位づ けで ある。●
)健
康・ 生命 は上,病
気・死 は下。―一 “健康 の頂点 にいる"(be at the peak of health),“ 最 も好調であ る"(be in top shape),“病気 になる"(fall i11),“彼の健康 は傾 きつつある"(His health is declining),“ ばった り倒 れて息絶 える"(drop dead)。 健康であれ ばわれわれは,直
立 し上向 きでい るが
,重
い病気 になると横たわる,と
いうことに基づ く方位づ けである。は
)支
配 し強制力 を持つことは上,支配され強制 されることは下。一― “人 を監督する"(have COntrol over one),“権力の絶頂にいる"(be atthe height of power),“ 彼の権限 は増大 した"(HiS power
rOSel,“人 の監督下 にあ る"(be undeF One`Control),“彼 は権力の座か ら落 ちた"(He fell frolnpower)。 物理的力 は物理的大 きさに比例 し
,力
による勝利者 は頂点 にいるのが常であ る。(5)高
い地位 は上,低
い地位 は下。―― “彼 は高い地位 を得ている"(He haS a high position), “彼 は生涯の頂点 にいる"(He's atthe peak of his career),“ 彼が昇進す る見込みはほ とん どない"(He has little upward mobility),“ 彼 は低 い地位 にい る"(He has a low position)。 高 い地位 ほ ど社会的階層 としては上 とされ
,社
会的力 も大 きい,つ
ま り上向 きとみなされる。俯
)善
は上,悪
は下。一― “事情 は好転 しつつある"(Things are looking up),“ この ごろ生活の 質は高 くなっている"(The qllality of life is high these days),“ずっ と最低の状況である"(THngs
are at an all― time 10w)。 個人的幸福,(生 命・財産 。健康等の)善 きもの どもは上,その反対物 は下