第
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回─過去と現在を相対化させること 聞き手=小巻哲 ─2013
年度の『CASABELLA JAPAN
』では、3
回に 渡って「建築家が歴史から学ぶこと」の意味や意義を 語っていただきました。過去を過去として捉えるのではな く、現代を生きる建築家にとって過去の建築/建築家の 存在意義が浮かび上がる重要な話だったと思います。そ こではパッラーディオ、ピラネージといった「射程が十分に 長い」過去に属する建築家たちをとりあげていただきまし た。そのほうが現在との対比が明らに示せると思ったか らです。 それを今回は、近代から現代という時間的な距離を さらに縮めた論考へと進めてみたいと思っています。 『CASABELLA
』本誌でも、この2 -3
年は「建築とは何 か」というテーマを掲げ、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・ コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトたちの50
年も昔のイ ンタビューを紹介するなど、近代・現代建築の再読を促 しているように思います[編注1]。まだまだ読み直す価値 はあるということですよね。その意図を『CASABELLA
JAPAN
』でも打ち出したい。 歴史家ではなく建築家の岡田さんに語っていただこう とした理由は、じつは磯崎新さんの発言に多くを負ってい るのです。「……確かフランチェスコ・ダルコ[の見解]だっ たと思いますが、建築理論は、もともとドグマティックである 建築家によるものなのだ。そこには論証などが先にある 必要はない。建築家が自分でやったこと、その事実で正 当化される。実現する。スケッチされる。これは客観的な 理論化でもあります。建築家本人の理論でもある。それ が建築論だ、と……」。そして歴史家は、「歴史的事実 の間でクリティックすることによって問題を見つけていく ……」と続けます[編注2]。ただし不十分な知識や思い つきでは駄目なんですね。その点において、岡田さんはイ タリアを中心として古典主義建築を研究されてきた実績 があり、実務者としても国内はもとより『CASABELLA
』を はじめ海外メディアにも作品が紹介されている建築家で すから、まさに適任ではないかと。そうした私の目論見は、 さらに話を進めるうちに鮮明になってくると思います。つま り私は、歴史を現代に相対化して捉え、かつ建築空間を 義建築を扱ったこれまでの3
回分は、自分の研究領域 だったこともあり一次的史料をもとに話を展開させました が、今後もそれが手に入るかぎり、そして時間が許すかぎ りそうしたいと思っています。 さらに今回のシリーズでは、近代の巨匠たちの教科書 的な知識を反芻するのではなく、彼らが目指そうとしてい た空間性にまで踏み込みたいと思っています。そこでは、 さまざまな建築家に横断的に見られるなにか共通のエッ センスがあるのではないかという仮定を持って探れると 面白いのですが。 空間を語る ─歴史家の仕事が「歴史的事実の間でのクリティッ ク」だとすると、空間把握は建築家の仕事の範疇にある のだろうと思います。それを言葉で表現するのは、大変に 困難な作業ではありますけどね。ただ、駄目もとでもやっ てみる価値は十分にあると踏んでいるのです。 岡田─「空間」は、いまや日常的に使われる便利な語 彙ですが、定義するとなるととても難しい。でもそこでフ リーズしていても事態は進展しないので、とにかく少し過 去に遡った地点から建築家に語らせてみようということ ですね。20
世紀に入ってからも「空間」を厳密に定義す る試行は繰り返し行われていましたが、結局のところ人 間のパーセプションあるいは感性にかかわる部分が未 解決のままオープンエンドです。考えてみれば、現代の最 先端の脳科学でさえそれは解明されていないし、おそら くは人類永遠の謎でしょうから、その解明は当面のところ 諦めざるをえないとして、ここでも認識として大切なのは、 厄介な問題は建築サイドにあるのではなく、人間サイドに あるということです。ところが、人間サイドにある不可視の 無限のパラメータを横目に、身体の寸法そのものは古代 以降それほど大きくは変わっていませんから、その条件 を前提として、ヒューマンスケールをせめてもの指標に建 築空間を語ることは依然として有効です。 では、建築空間とはいったい何なのか。厳密な言語 化が不可能であることを承知の上で、ここではそれを 「人間の行動や感覚に影響を与える、建築の構成要素 るであろう建築/建築家をいくつか例に引きつつ、連続レ クチャーの前説としてお話しいただきたいと思います。で は岡田さん、よろしくお願いします。 岡田─前回のシリーズでは、19
世紀までの古典主義 時代の建築について本質的と思われるところを、かいつ まんでお話しました。その中では、例えば16
世紀のパッ ラーディオと関係させながら20
世紀のミースの話を挟み 込んだりもしました。歴史とは時代を超越して常に現世を 生きる私たちの中で生き続けているものです。私の中に はいまでもピラネージをはじめボッロミーニやブラマンテな ど、自分の中で自分なりに生き続けています。彼らが建築 の実践をとおしてチャレンジしようと試みたこと、そして実 際の建物において表現したディテールやプロポーション など、それらは歴史というカプセルに詰め込んで過去に 置き去りにしておしまいというのではなく、いまなお学ぶべ き対象ですし、多くの示唆を与えてくれます。いくつもの時 代を経てそこに存在する建物は変わらないのに、建築家 として人間として経験を積んでくると、その分だけそれを 見る眼が変わってくるから面白い。訪れるたびに新しい 発見があるということは、過去の自分では捉えきれなかっ た何かがそこにはあったにもかかわらず、それを見落とし ていたということですね。単純に人生経験という点からし ても、いまを生きる、つまり人生途半ばの私たちが、おそら くは幾多の困難を乗り越えて人生を全うした先達にかな うはずもなく、したがって彼らが遺した作品をちょっとや そっとでわかるはずもない。だから過去の優れた建築家 たちが遺した秀作はいつまで経っても勉強の対象として 生き続けることになるし、おそらくは自分が一生を終えるま で謎は解明されないままでしょう。まさにアキレスとカメ ……ですね。歴史を通り一遍の教科書的な知識で終 わらせるのはもったいないのです。 ところで、パッラーディオとミースを同じ土俵に乗せるこ とができる理由は、彼らが「建築家」であるよりも先に、所 詮「人間」だからです。このことは両者間に否が応でも横 たわる時代性や文化性などの差異を超越しています。そ れは建築家が各々の時代において表現するデザインの 表象そのものを問題としているのではなく、人間社会の 中で生きることの根底に潜ませている考え方そのものをによって規定された三次元の領域」と定義するとしましょ う。あらためて言うまでもないことですが、その構成要素に 「装飾」は含まれません。コンポジションという概念が要請 されるのはここからです。特殊性を可能なかぎり薄めて バイアスのかかりにくい状態にし、建築をなるべく単純な 構成要素に還元することにより、空間のかたちを捉まえ たいのです。 さて、古典主義建築からの脱出を図るという点で建築 空間にひとつのターニングポイントを与えた建築家とは、 いったい誰だったでしょうか?見方によってさまざまな意 見があるとは思いますが、私はフランク・ロイド・ライトでは なかったかと考えます。本場ヨーロッパの建築家ではな かったという点も注目したいところです。ライトが空間につ いて語るとき、彼がその言葉をどこまで厳密に定義して いたかは、さしあたっての問題ではありません。ここでは 彼が古典から近代へと向かう時代の分水嶺に立ち、万 人に対して比較的わかりやすい変革を空間にもたらした という事実、そのことが重要なのです。 ライトは
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世紀末からシカゴ郊外のオークパークで住 宅の設計に従事しはじめ、破竹の勢いで実現させていき ました。20
世紀に入って最初の10
年のあいだに、いわゆ る「プレイリー・スタイル」と呼ばれる住宅群、つまり大草原 で這いつくばうように広がる平べったい建物のプロトタイ プをこしらえます。そこでライトは箱を壊したのです。そのと き彼の頭の中にあったのは、天井/壁/床のリジッドな面 によって囲われた古典主義建築由来の空間でした。ライ トはそのアンチテーゼとして箱を壊し、空間を自由化する なかったのです。なぜか?[Fig.3] ライトはちょうどその当時、入れ替わるようにして渡欧中 でした。ことの真相は駆け落ち旅行。クライアントの奥方 (チェニー夫人)とともにアメリカから一時逃避をしていたの です。ところがそんな不埒なライトに対しても“捨てる神あ れば拾う神あり”で、1908
年以降懸案とされていた(しかし 忙しさにかまけて延び延びになっていた)モノグラフの編纂作業 に集中できる絶好のチャンスが到来した。ベルリンのヴァ スムート社から1910
年に出版された『フランク・ロイド・ライ ト作品集』がそれです。20
世紀初頭、建築空間を古典主義の呪縛から解放し ようと試みていたのはライトだけでなくて、ヨーロッパにも同 じような動きはあった。ベルラーヘの後進たち、例えばデ・ スティルの名を掲げて革新的な創作活動を仕掛けたテ オ・ファン・ドゥースブルフなどはその代表ですが、古い箱 を壊そうと躍起になっていた。そこで彼らの背中を後押し したのがライトのモノグラフだったというわけです。もちろ んアムステルダムに帰ってからもベルラーヘはライトを絶 賛していました。それから、たしかそのモノグラフを当時の ドイツ社会に向けて新聞記事のかたちで最初に紹介し た人物はミース・ファン・デル・ローエでした。[Figs.4 -5] そんなわけで、もし当時アメリカにライトがいなかったら、 もしあのときライトがヴァスムート社からモノグラフを出版し ていなかったら、そしてもしライトがチェニー夫人と駆け落 ちをしていなかったとしたら、ヨーロッパのアヴァンギャルド たちの近代化運動はもっと足踏みを余儀なくされていた かもしれない。ヨーロッパの前衛がまだ曖昧模糊として描 ことを試みたわけです。いまや定説になっていますが、そ の空間の自由化にヒントを与えたのが1893
年にシカゴで 開催されたコロンビア博覧会でした。その会場の片隅に 日本館の象徴的存在として建設展示された鳳凰殿との 出会いが、ライトの空間に対する考え方を変えたと言わ れています。西洋古典主義建築の「ルーム」は、彼が見た 日本建築には存在しなかった。その衝撃がライトの建築 空間に従来とは異なった方向を示唆した、その可能性を もたらしたというわけです。[Figs.1-2] では、それを実現させたのが、なぜ他のアメリカ人建築 家ではなく、ライトその人だったのでしょうか?当時のアメリ カにはボザール留学を終えて帰国し、建築設計事務所 を開設したいわゆるエリート建築家は少しずつその数を 増していたし、彼らにもライトと同じだけのチャンスはあっ たはずです。この疑問はあまりに素朴すぎるように思えま すが、ライトを考察していく上で重要な鍵を握っているの ではなかろうかと思います。 ところで、もしアメリカにライトがいなかったとしたら、ヨー ロッパ建築のモダニズムはどのように展開していただろう か。こんな疑問を持たれたことはありませんか?20
世紀 初期の近代建築の聖地といえばオランダですが、その土 台を形成した立役者はベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage,1856 -1934)でした。オランダ近代建築の父の異名をもつ ベルラーヘはライトに大きな関心を寄せていたのです。実 際に彼はサリヴァン事務所に勤務していた知人を頼って
1911
年に渡米します。そしてその滞在中にライトの実作 に触れ魅せられてしまった。ところがライト本人には会えC A S A B E L L A J A P A N
レ ク チ ャ ー
Fig.1:コロンビア博覧会、シカゴ、1893 Fig.2:鳳凰殿、コロンビア博覧会、シカゴ、1893 Fig.3:ヘンドリック・ペトルス・ ベルラーヘ、1856 -1934 Fig.4:テオ・ファン・ ドゥースブルフ、 1883 -1931 Fig.5:若き日の ミース・ファン・デル・ローエ
ライトの先進性はオランダ建築界にとっても度肝を抜 かれるほどショッキングだったはずです。前衛デ・スティル の実験は、彼らの思想的裏付けがどうであれ、理想とし て目指したイメージは「単純平面によって非相称的に構 成された建築」に集約されます。それを建築単体のス ケールというより、むしろ内装デザインかせいぜいそれに 毛の生えた程度のスケールで実験を繰り返していたわけ ですが、その理想が、例えばライトのゲイル邸(1909)です でに“イメージとして”出来上がっていたわけです。ここで あえて「イメージとして」と言ったのは、当時のオランダ建 築界で、渡米してライトの実作を見た建築家がほとんど いなかったからであり、作品集といった紙媒体のなかの 限定的なイメージは受け手の錯覚をも増幅させ自らを先 鋭化してしまうものだからです。いずれにしても、デ・スティ ルで実験的に提案されていたコンセプチュアルな建築= 彫刻=芸術が、アメリカではもはや実験どころか、すでに現 実の住居として建設されていたという事実。その差は歴 然です。[Fig.6] デ・スティルでそのイメージが建築のかたちをもって顕 われた最初の例がリートフェルトのシュレーダー邸(1924) でした。レッド
&
ブルー・チェア(無地のプロトタイプは1918年) に見られるような明解な「プレーン」によるコンポジションが 建築に応用された事例です。とは言えリートフェルトは、そ のイメージを合理化すること、つまりイメージの辻褄合わ せに相当苦労していましたね。彼は当初のスキームでは 単純な箱型の建物を設計していましたが、やがて庇やバ ルコニーや壁面をわずかに突出させることで滑らかなア ウトラインを壊します。隣接する壁面を異なる色で塗り分 けることにより、それらがあたかも接続していないように見 せかける操作も敢行しています。シュレーダー邸で「プ レーン」が純粋な形態をもって“見かけ”顕在化したことは 画期的なことなのですが、それにしてもライトのゲイル邸 から十数年も後のことです。いずれにせよ、依然としてそ れは「イメージとして」の水準にとどまっていたわけで、構 造合理性の観点からすれば決して洗練されたものでは なかった。[Fig.7] Fig.7:リートフェルト|シュレーダー邸、1924 Fig.6:ライト|ゲイル邸、1909─ミース・ファン・デル・ローエもまた、ベーレンス→ベル ラーへ→ライトという影響の流れを語っていますね。つま り、古典主義→素材・構造→空間の自由という学び。 岡田─ミースについてですが、フランク・ロイド・ライトが いなければ、
1920
年代前半期に提案したコンクリートや 煉瓦の田園住宅などのプロジェクトはなかった。そう断言 してもよいと思います。ドイツ時代のミースの作品を巡るさ まざまな議論の中で、モンドリアンの前衛絵画、すなわち 水平と垂直の要素だけで構成された抽象絵画に触発さ れたミースが、例えば「煉瓦の田園住宅」(1924)を提案し たという論考もありますが、それはあまりに短絡的です。 確かにミースの平面図には、人間臭さというか、人間のた めの建築空間のありさまがまったく感じられないので、当 時の社会では到底受け入れられそうもない前衛建築を 確信犯的に提案していたという読みは誤りではないし、 そもそもミースの仲間たちが仕掛けた機関誌『G
』(1923 年に創刊)は前衛デザインを披露する場でしたから、当然 とみることも可能です。しかし私には、その背後にライトの 影がちらついてしかたないのです。なにせライトはすでに 実際に人が住むための家をひとつの建築として完成さ せていましたからね。それが大きな担保というか精神的 支柱となって、若いミースを前向きに走らせていたのでは ないかと想像するのです。そのほうが、むしろ自然だと思 います。[Fig.8] ところで、ヴァスムート版のライト作品集にはモンドリアン の絵画に似た平面形をもつ建物は皆無です。1910
年頃 までのライトの作品にはまだ、左右相称の平面計画が残 照のように散在しています。しかし平面図の構成要素の 中でもっとも強烈に存在する黒く塗りつぶされた壁がシン メトリーの構成を破るべく胎動を始めていたことは、例え ばウィリッツ邸を一瞥するだけで容易に確認できます。もっ とわかりやすいのは建物の外観で、地面に這いつくばうラ イトの住宅から傾斜屋根をすべて引っ剥がせばミースの 「コンクリートの田園住宅」(1923)の、さらに開口部を全面 ガラス張りにすれば「煉瓦の田園住宅」の原風景が浮か び上がる。極めつけは1925
年にミースが描いたとされる エリアット邸計画案のスケッチで、果たしてスケッチの描き 手はシンドラー(Rudolf Schindler, 1887-1953)かと錯覚して しまうほどです。ミースの中に〈ライト〉は染み付いていた のでしょうね。そういえばミースは回顧録で「ライトは天才 だ」と語っていましたが、このことからもライトを抜きにミー スを語ることはできないのです。[Figs.9 -10] ─ライトから受けたミースへの影響は、ヴァスムート版 作品集に限定されている感があります。その後のライトの 傑作からは何も影響されていないようです。「個人的であ る」とさえ言っています。 岡田─ヴァスムート版に限定されていた最大の理由 は、当時ライトの作品に関する情報は作品集から得る以 外、手がなかったからですね。他方、「その後のライトの 傑作からは影響を受けていなかった」と推断するのは早 計ではなかろうかと思うのです。詳しい議論は別途行うと して、本質的には、ミースがライトの作品を「個人的であ る」と批判して、自らをライトから遠ざけようとしていたこと、 その事実こそがライトの影響なのです。作品集というメ ディアの中では、建築作品はいかようにでも美化できます ね。例えば、女優のポートレイト編集作業と同じで、建物 の写真や透視図ひとつとっても一番美しく見えるアングル を限定して掲載するものです。ところがアメリカ亡命後の ミースは、シカゴやその周辺でライトの作品の現実を自分 の五感をとおして確認することができた。実物の何もかも を見ようと思えば見ることができたのです。この差は実に 大きい。 ミースのいう「個人的」というライト批判は、簡潔に表現 すれば、「一般性が希薄である」と読み替えることができ ます。実はこの“気づき”こそ、ライトから教わったというか、 ライトの実作を経験して最終的に確信に至ったというか、 ミースはライトから離反していくための最強の戦略である と同定したに違いない、と私は考えるのです。その決定的 な理由は、ミースの初期の住宅、つまり1920
年頃までの 作品は(リウル邸、ペルルス邸、ヴェルナー邸、ウルピク邸、アイクス テッド邸)、ドイツの伝統的な寄棟あるいは切妻屋根をもつ いわば民家で、どれもこれも“「個人的」であった”からで す。アメリカ亡命後の作品を知った後それらを振り返ると、 同じ人間が設計したとは思えないほど土着的で古典的 です。おなじ屋根を冠する住宅でも、ライトのそれと比べ れば、明らかに垢抜けていなかったし、どんなに贔屓目に みても美しいとはいえません(牧歌的には美しいという表現は あてはまるかもしれませんが……)。[Fig.11]C A S A B E L L A J A P A N
レ ク チ ャ ー
Fig.8:ミース|煉瓦の田園住宅、1924 Fig.9:ライト|ウィリッツ邸、1901 Fig.10:ミース|エリアット邸、1925 ●図版番号 写真キャプション ★優先図版は、Fig.6 Fig.7 Fig.11★Fig.1とFig.2は絵柄周辺の余白をカットしてください。 01 Fig.1:コロンビア博覧会、シカゴ、1893 02 Fig.2:鳳凰殿、コロンビア博覧会、シカゴ、1893 03 Fig.3:ヘンドリック・ペトルス・ベルラーヘ、1856 -1934 04 Fig.4:テオ・ファン・ドゥースブルフ、1883 -1931 05 Fig.5:若き日のミース・ファン・デル・ローエ 06 Fig.6:ライト|ゲイル邸、1909 07 Fig.7:リートフェルト|シュレーダー邸、1924 08 Fig.8:ミース|煉瓦の田園住宅、1924 09 Fig.9:ライト|ウィリッツ邸、1901 10 Fig.10:ミース|エリアット邸、1925 11 Fig.11:ミース|ヴェルナー邸、、1913 12 Fig.12:ミース|バルセロナ・チェア、1929 13 Fig.13:ル・コルビュジエ|サヴォア邸、1931
い』」と[編注3]。シーグラムも同様ですが、マリオンを付け るほうが建物が正しく見えるのだと言っています。そうし た言葉には興味をひかれます。 岡田─私もその着眼はとても大切だと思います。確か にボックスやフラットバーでも代用できたはずだとすれば、 残された決め手はデザインを裏付けるセンスですね。極 言すれば、モノの美しさは理屈ではないと主張していると もとれるわけです。こうしたミースのデザインに対する姿勢 を象徴しているのがバルセロナ・チェアではなかろうかと 思うのです。少なくとも回顧録(1955)の中では、ミースはこ の椅子の構造体の骨組み(の明快さ)を自負しています。し かし興味深いのは,彼はその構造が合理的であるとは一 言も発していなかった。このあたりに着眼して議論を深め ていくうちにミースの「正しい」を明らかにすることができ るのではなかろうかと予感していますが、今回はイントロ の回ですから、詳しくはこのあと続く各論で検討していき ましょう。[Fig.12] ─ル・コルビュジエにしても、合理性だけでは説明しき れない建物は多いですからね。 岡田─定量的にも定性的にも測れないから面白い。サ ヴォア邸も、よく見ると変でしょ……。合理というよりも支離 滅裂に近い。それでも「傑作」と言わせてしまうのはなぜな のか?そのあたりを探るのも今後の各論のテーマになりそ うです。サヴォア邸が建った当時にそれを狂気の沙汰と非 難した人々のことを想像してみましょう。もし私がいま、ル・コ ルビュジエ=巨匠という物指を持っていなかったとしたら、 つまりル・コルビュジエの業績を過去の偉大な出来事とし て対象化できないでいたとしたら、私は当時のパリ市民と どれほどの違いがあるだろうか。
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世紀あたりを研究して くると敏感にならざるをえないことなのですが、権威は往々 にして私たちの眼を曇らせてしまうものなのです。[Fig.13] ─どうも謎めいた複雑な人ばかりが登場してきそう ても解き明かせない対象……。以前にもお話しましたが、 カントが最後まで美について定義できなかったのと同様 に、人間の世界では、分かろうとしても分かり得ないもの は繰り返し問い返される。その先にあるものこそ一般性 のある何か、もっと言えば、普遍的なるものと言えるのでは ないか。これから始める議論は、それを追い続けてきた 建築家たち、結果的にそれに触れてしまった建築家たち をいま一度解剖してみよう、ということになるのでしょうか。 ─それらを、時代を超えた眼差しを持って考えていくと ですね。 岡田─多重人格とまでは言わないにしても、建築家は クライアントや社会からさまざまな影響を受けながら、ひと つの建物を長い時間かけて造りますからね。建築家は、 たしかペーター・ツムトーが語っていたと記憶しています が、砲台の車輪を四角く描いて戦争批判とする画家のよ うにはいかないのです。 つまるところ、「いつまで経っても語り継がれるものは、ど こかしら謎めいている」ということでしょうか。いつまで経っ Fig.11:ミース|ヴェルナー邸、1913 Fig.13:ル・コルビュジエ|サヴォア邸、1931 Fig.12:ミース|バルセロナ・チェア、1929いうことでしょうか。 岡田─そうですね。建築を統辞論的に考える方法は これまでも歴史学の分野で採用されてきました。そうした 方法で対象を分析したり、それをもとに理屈を捏ねること は実はそれほど難しくないのです。一方、建築を現実につ くるという営みには、理屈では決めきれない、理論では解 き明かせない、どうにもこうにもわからない不確定要素が 実に多く含まれます。それを実際に経験している建築家 の視点から歴史を問い直すというのが今回の企画では なかろうかと理解しています。 ─いまの段階で理解不能な部分は、そのまま「分から ない」と投げかけておいていいような気がしますね。その うち分かるかもしれないし。 岡田─いつまで経っても解き明かせない謎をここで解 き明かせるはずもないわけですが、それをこれまでにない 視点を探りながら繰り返し問い返すことは意義のある試 みですね。ようやく諸般がわかりはじめてきたばかりの一 個の建築家が多くの先人たちについて語るというのは 結構しんどいことなのですが、とりあえずは少しでも新し い視点を提供できればと考えています。 ─まあ、ぼちぼち進めていきましょう。 まず始めは、今日の話の中心でもあったフランク・ロイド・ ライトからでしょうかね。起点としてのライトを。 [2013年8月16日] [編注] 1─『CASABELLA JAPAN』「建築とは何か」|ル・コルビュジエ/ 814 -816号、ミース・ファン・デル・ローエ/809-810号、フランク・ロイド・ ライト/805- 806号 2─『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』、TOTO出版、 2010年 3─『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』フランツ・シュルツ、澤村明訳、 鹿島出版会、2006年 [岡田哲史] 1962年、兵庫県生まれ。建築家、千葉大学大学院准教授。コロンビ ア大学大学院修了後、早稲田大学大学院博士課程修了。日本学 術振興会特別研究員、文化庁芸術家在外研修員、コロンビア大学 大学院客員研究員を経て、1995年、岡田哲史建築設計事務所設 立。デダロ・ミノッセ国際建築賞グランプリほか、受賞多数。ヴェネツィア 建築大学(IUAV)、デルフト工科大学など、海外の主要大学でも建築 デザイン教育に携わっている。主要著書:『ピラネージと「カンプス・マル ティウス」』(桐敷真次郎/岡田哲史、本の友社、1993)、『建築巡礼32 ピラ ネージの世界』(丸善、1993)、『廃墟大全』(共著、トレヴィル、1997)、『ピラネー ジ建築論対話』(G・B・ピラネージ著、岡田哲史校閲、アセテート、2004)など。 2009年には、ミラノのエレクタ社より作品集『SATOSHI OKADA(序』 文:フランチェスコ・ダルコ)が刊行されている。 [図版提供] 岡田哲史建築設計事務所