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児島 : 藤島武二から児島虎次郎宛書簡にみる師弟の交流 46 (付記)手紙の調査をお許しくださいました児島塊太郎氏 調査に導いてくださった柳沢秀行氏に心より御礼を申し上げます また翻刻に際してご指導をいただきました森登氏にも感謝申し上げます なお調査の時点で印影を発表することに思い至らず 見にくい画

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Academic year: 2021

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(1)

藤 島 武 二( 一 八 六 七 ¦ 九 四 三 ) は 明 治 中 期 か ら 戦 前 ま で 日 本 の 洋 画 界 を 代 表 す る 画 家 で 教 育 者 の 一 人 で あ っ た。 一 八 九 六( 明 治 二 九 ) 年、 東 京 美 術 学 校 に 新 設 さ れ る こ と に な っ た 西 洋 画 科 の 助 教 授 に 任 じ ら れ、 以 後 長 く 美 術 学 校 で 洋 画 教 育 に あ た っ た。 文 部 省 美 術 展 覧 会 で は 八 回 展 か ら 審 査 委 員、 帝 国 美 術 院 発 足 後 は、 帝 国 美 術 院 展 の 重 鎮 と し て 活 躍 し た。 晩 年 に は 帝 国 美 術 院 会 員、 文 化 勲 章 受 章 と い っ た 国 家 的な栄誉に浴した。 児 島 虎 次 郎( 一 八 八 一 ¦ 九 二 九 ) は、 一 九 〇 二( 明 治 三 五 ) 年 九 月 に 東 京 美 術 学 校 西 洋 画 選 科 に 入 学 し、 成 績 優 秀 で あ っ た た め に 二 度 の 飛 び 級 を 経 て 一 九 〇 四( 明 治 三 七 ) 年 七 月 に 卒 業 し て い る。 同 期 の 卒業生には熊谷守一、 和田三造、 青木繁、 山下新太郎らがいた 1 。その後、 倉 敷 の 実 業 家、 大 原 孫 三 郎 の 支 援 を 受 け て ヨ ー ロ ッ パ 留 学 を す る。 児 島 は 画 家 と し て だ け で な く 大 原 に 西 洋 美 術 収 集 を 薦 め、 現 在 の 大 原 美 術 館 の 基 礎 を 作 っ た こ と で 知 ら れ て き た が、 比 較 的 近 年 に な っ て 児 島 に関する研究は大きく進んでいる 2 。 筆 者 は 大 原 美 術 館 柳 沢 秀 行 氏 の ご 教 示 に よ っ て 児 島 が 東 京 美 術 学 校 の 師 の 中 で も 特 に 藤 島 武 二 を 尊 敬 し、 師 弟 の 礼 を 尽 く し な が ら 折 に 触 れ て 手 紙 を 送 っ て い た こ と を 知 り、 そ れ ら の 書 簡 二 三 通 及 び 藤 島 か ら 児 島 の 妻 友 子 宛 の 書 簡 三 通( 個 人 蔵 ) を 調 査 さ せ て い た だ い た。 虎 次 郎 宛 書 簡 の 二 三 通 の う ち 封 筒 と 中 味 が 合 っ て い な い も の が 二 組 あ り、 そ れ を 別 々 に 数 え れ ば 二 五 通 に な る。 年 代 が 判 明 す る も の の 日 付 は 一 九 二 一 年 三 月 二 一 日 か ら 一 九 二 八 年 四 月 二 〇 日 ま で に わ た っ て お り、 筆 者 が 便 宜 上 そ れ ら に 年 代 順 に 番 号 を 振 っ た。 そ の う ち 大 正 期 の 一番から十五番までを 『実践女子大学美學美術史學』 三一号 3 に掲載し、 十 六 番 以 降 の 昭 和 初 期 の 手 紙 と 妻 の 児 島 友 子 宛 の 三 通 を こ こ に 紹 介 す る。 多 忙 な 中 に も 児 島 が 常 に 藤 島 に 対 し て 心 配 り を し、 様 々 な 依 頼 に も応えていた様子をうかがうことができる。

藤島武二から児島虎次郎宛書簡にみる師弟の交流

    

―昭和期を中心に

 

  

(2)

( 付 記 ) 手 紙 の 調 査 を お 許 し く だ さ い ま し た 児 島 塊 太 郎 氏 、 調 査 に 導 い て く だ さ っ た 柳 沢 秀 行 氏 に 心 よ り 御 礼 を 申 し 上 げ ま す 。 ま た 翻 刻 に 際 し て ご 指 導 を い た だ き ま し た 森 登 氏 に も 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 な お 調 査 の 時 点 で 印 影 を 発 表 す る こ と に 思 い 至 ら ず 、 見 に く い 画 像 を 掲 載 い たしますことをお詫び申し上げます。 注 1   東 京 芸 術 大 学 百 年 史 刊 行 委 員 会 編 『 東 京 芸 術 大 学 百 年 史 東 京 美 術 学 校 篇 』 ぎ ょ う せ い 、 一 九 九 二 年 、 『 東 京 芸 術 大 学 百 年 史 東 京 美術学校篇』、一四五頁、二五八頁。 2   児 島 虎 次 郎 に 関 す る 研 究 は 、 『 生 誕 130年 児 島 虎 次 郎 展 ¦ あ な た を 知 り た い 』 展 図 録 、 大 原 美 術 館 、 二 〇 一 一 年 に 詳 し く ま と め ら れ て い る 。 児 島 虎 次 郎 の 未 公 刊 の 日 記 ( 『 児 島 日 記 』 ) は 兒 島 直 平 著 『 兒 島 虎 次 郎 略 伝 』 兒 島 虎 次 郎 伝 記 編 纂 室 、 一 九 六 七 年 、 及 び 松 岡 智 子 ・ 時 任 英 人 編 『 児 島 虎 次 郎 』 山 陽 新 聞 社 、 一 九 九 九 年 、 に 現 代 語 に 抄 訳 し て 紹 介 さ れ て い る が 、 筆 者 も 一 部 原 文 を 調 査 し た 。 ま た 児 島 の 業 績 に つ い て 学 術 研 究 と し て 総 合 的 に ま と め た も の と し て 松 岡 智 子 『 児 島 虎 次 郎 研 究 』 中 央 公 論 美 術 出 版 、 二 〇 〇 四 年 が 重 要 で あ る 。 児 島 虎 次 郎 の 動 静 に つ い て は 、 特 に 言 及 し て い な い 場 合 は 、 吉 川 あ ゆ み 「 児 島 虎 次 郎 略 年 譜 」 『 生 誕 130年 児 島 虎 次 郎 展 ¦ あ な た を 知 り た い 』 展 図 録、大原美術館、二〇一一年、一八八 ¦ 一九二頁、に拠った。 3   実践女子大学美学美術史学科紀要、二〇一七年三月発行予定。 十六、一九二七(昭和二)年二月二十日付書簡

(3)

拝啓 其後絶て御疎情に 打過候處十八日附の 貴簡本日拝誦 貴家益々御清穆 之段奉賀候 扨て例のマヌキヤンの儀ハ 種々御配慮を奉煩 愈々近日到着之趣 不遠落手の日を楽 み居候 門人美術学校卒 業生一木 隩 イク 二郎 君(宮内大臣二男) 來三月初旬に渡佛 の筈に候處   アマジヤン 氏への紹介貴兄に 御依頼致し呉れと の相談有之候   甚だ 御手數相掛け候段 恐入候得共   御名刺 に一筆御書添へ折返し 御送附被下間敷や 右折入て御願申上候 先ハ御機嫌伺を兼 ね以上御依頼まで 匆々   敬具   昭和二年二月廿日      藤島武二 兒島虎二郎兄     台鑑 尚御令室に宜敷御 鳳聲被下度餘寒 未だ厳しき折柄 折角御自愛専一に 祈上候 (封筒表)(消印不鮮明) 岡山縣倉敷町外酒津   兒島虎次郎様     台啓 (封筒裏)     東京市本郷曙町 緘    十五、     藤島武二    二月廿日 ◇ 藤 島 の 依 頼 で 児 島 は 一 九 二 三 年 三 月 に フ ラ ン ス で マ ヌ キ ャ ン ( マ ネ キ ン ) の 注 文 を し た が 、 品 物 が な か な か 届 か ず 藤 島 が も ど か し く し て い た 様 子 が 、 こ れ ま で の 書 簡 か ら 明 ら か に な っ て い る 。 十 八 日 附 の 児 島 か ら の 手 紙 で 、 マ ヌ キ ャ ン の 発 送 と 到 着 予 定 を 知 ら せ て き て い た 様 子 で あ る 。 藤 島 は 御 礼 方 々 、 宮 内 大 臣 一 木 喜 徳 郎 の 次 男 、 隩 二 郎 の た め に 児 島 か ら ア マ ン ・ ジ ャ ン へ の 紹 介 状 を 依 頼 している。

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十七、一九二七(昭和二)年四月一日付書簡 拝啓   貴家益々御清穆奉賀候 扨て 例のマヌキャンの件に付き毎度 一方ならぬ奉煩御高慮何とも 恐縮之至   過日無事到着 御懇情之段深く奉感謝候 就てハ重て御手數恐入候得共 右價額、荷造費、運賃、関税 等一切御知らせ被下度願上候 先ハ以上御禮旁得貴意度候    匆々   敬具   四月一日   藤島武二 兒島虎次郎樣 尚御令室樣に宜敷御鳳聲 願上候 (封筒表)消印   昭和二年四月一日 岡山縣倉敷市外酒津   児島虎次郎樣     台啓 (封筒裏)     東京市本郷 〆    曙町      藤島武二    四月一日 ◇ マ ヌ キ ャ ン が や っ と 届 い た こ と を 知 ら せ る 手 紙 。 費 用 を 問 い 合 わ ているので、児島が立て替えていた様子である。

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十八、一九二七(昭和二)年四月二二日 拝啓   其後益々御清穆奉賀候 扨て此度貴下帝展審査員に 推舉せられしに就而ハ兎も角御 承諾相成候方宜敷からんと愚考 致候   尚詳細之件ハ孰れ拝眉之 節に譲り置候   匆々敬具    昭和二年四月廿二日   武二   兒島雅兄 追伸   例のマヌキヤンの代金等も乍御手數 御知らせ被下度願上候 目下アマンジヤン氏のめいと稱ずる婦人滞京中 にて近日訪問を受けることに相成居候處御 知人にて候や   伺上候 (封筒表)消印   昭和二年四月二二日 岡山縣倉敷市外酒津   兒島虎次郎樣     親展 (封筒裏)     東京市本郷曙町 〆    十五      藤島武二    四月廿二日 ◇ 本 書 簡 は 、 兒 島 直 平 著 『 兒 島 虎 次 郎 略 伝 』 二 一 三 頁 及 び 、 松 岡 智 子 、 時 任 英 人 編 『 児 島 虎 次 郎 』 山 陽 新 聞 社 、 一 九 九 九 年 、 に 「 資 料編」【 37】として紹介済みである。   児 島 は 藤 島 の 強 い 勧 め に よ っ て 前 年 に 帝 展 に 初 め て 出 品 し た ば か り だ っ た が 、 文 面 の 通 り 、 早 く も 審 査 員 に 推 挙 さ れ 、 こ の 秋 八 回 帝 展 の 審 査 員 を 務 め て い る 。 藤 島 が 私 信 で 連 絡 し て い る と こ ろ をみると、審査員についても藤島の関与を思わせる。

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十九、一九二七(昭和二)年六月二七日 拝啓   過日御出京之折にハ毎度 ながら何の風情も無之 欠禮致候    其折御話 有之候唐筆ハ早速御恵 送を辱ふし   いつも御芳志 之段眞に難有候   深く 奉感謝候 折柄揮毫中右御品 落手致し早速試用致 候處 孰れも結構なる 品のみにて老生驚喜 之程御察し被下度く永く 愛用可致候    鶏毫 之方ハ小生   未經験にて 使駆甚だ困難に有之候 緩々研究可致楽み 居候   尚猪毛筆ハ購入後直ニ       一度使用して少し墨氣 を含めて置けば多少蟲害を防くと の事   大事に秘蔵して久しく使用 せぬ程危険の樣なり   無論御承知 とハ存じながら聊か御注意まで 聖像御写真之儀ハいろ〳〵 御面倒相掛け且つ代金 御仕拂ひ置き被下候由恐 縮之至   別紙小為替 封入致置候間御了収 可被下候   尚マヌキヤンの方は 其中送金可致候間今 暫く御猶豫奉願候

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公私多用之為   旅行も 当分見込無之候得共 其中機を得て御訪問 致し御創作の建築 等も拝見致度く候 楽み居居候 尚今秋御出京之節ハ 無御遠慮直に茅屋 に御投宿之程希望 致居候 先ハ不取敢右御禮 まで   匆々   敬具 六月廿七日     藤島武二 児島虎次郎樣        台鑑 尚御令室に宜敷御鳳 聲被下度祈上候 追伸   過日由利子に御恵 與の   貴筆油絵ハ早速先 方に廻送致候處昨日手 紙參り   望外之御贈品にて 非常に喜びの趣御芳志 之段幾重にも御禮申上げ 呉れとの事に有之候   同主人 も大喜にて毎朝寢床より 眺め入りて楽み居り感謝 致居候由に有之候 (封筒表)消印   昭和二年六月二七日 岡山縣   倉敷町外   酒津   兒島虎次郎樣      台啓 (封筒裏)     東京市本郷曙町 緘    十五、     藤島武二    六月廿七日 ◇ 中 国 で 買 っ た の で あ ろ う 珍 し い 唐 筆 を 贈 ら れ た こ と へ の 礼 状 。 鳥 の 羽 で で き た 筆 や 猪 の 毛 で で き た 筆 な ど 、 早 速 試 し て み た 喜 び を 伝 え て い る 。 「 折 柄 揮 毫 中 」 と あ り 、 「 含 兎 」 な ど の 号 で 水 墨 画 も 制 作 し て い た 時 期 の 様 子 を う か が わ せ る 内 容 で あ る 。 ま た 「 聖 像 御 写 真 」 は 天 皇 の 写 真 と み ら れ る が 、 児 島 に 頼 ん で 代 金 を 立 て 替 え て も ら っ た よ う で あ る 。 ま た マ ヌ キ ャ ン の 代 金 は 知 ら せ て も ら っ た も の の 、 支 払 い の 猶 予 を 頼 ん で い る 。 児 島 は 六 月 六 日 に 藤 島 を 訪 問 し 、 長 女 由 利 子 の 結 婚 祝 い に 静 物 画 を 贈 っ た ( 註 1 ) 。 このことへの御礼も述べている。 註1   兒島直平著『兒島虎次郎略伝』二一六頁。

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二十、一九二七(昭和二)年七月十六日 拝啓 当年ハ格別酷暑 難凌候處 高堂   益々御清祥 奉賀候 扨て先般種々御配慮 を煩ハし候マヌキヤンの 儀   製作上最も必 要を感ずるとの事にて 和田英作君より割 愛して呉れとの熱心 なる懇望を受け 小生の方にても差当り 男子の方ハ使用する場合 少く候間此際同君 の に 譲ることに致し候 間 ニ就き右様御了承 願上候   同君より受取 りたる右代金弐百円通 常為替にて御送り致 候間   其値御領収被 下度願入候 小生ハ今朝出發木曽 川方面に出張二十二三日 頃に帰京の豫定に候 先ハ右御通知旁暑 中御機嫌伺まで      匆々敬具 七月十六日      藤島武二 児島虎次郎殿

(9)

   台鑑 追伸   過般由利子へ御祝 品頂戴の御返禮の印 として粗品送呈致置候 乍末筆御令室様に 宜敷御鳳聲願上候 時節柄皆々様折角 御自愛専一ニ祈上候 (封筒表)消印 昭和二年七月十六日 岡山縣   倉敷町外   酒津   児島虎次郎様        親展 (封筒裏)     東京市本郷曙町 緘    十五       藤島武二    七月十六日 ◇ 文 面 よ り 、 フ ラ ン ス か ら 取 り 寄 せ た マ ヌ キ ャ ン が 男 女 一 体 ず つ で あ っ た こ と 、 そ の う ち 男 性 モ デ ル を 和 田 英 作 に 譲 っ た こ と 、 そ の 代 金 が 二 〇 〇 円 で あ っ た こ と が 明 ら か に な る 。 ま た 、 藤 島 が 同 日 ( 七 月 十 六 日 ) か ら 二 十 二 、三 日 頃 ま で 木 曽 川 方 面 に 出 張 し た こ と が わ か る 。 一 九 二 七 年 、 大 阪 毎 日 新 聞 社 、 東 京 日 日 新 聞 社 が 鉄 道 省 の 後 援 の も と に 全 国 か ら 人 気 投 票 を 募 っ て 新 た な 「 日 本 八 景 」 を 選 定 し た 。 そ の 結 果 選 ば れ た 景 勝 地 に 、 文 筆 家 八 人 を 派 遣 し て 文 章 を 依 頼 す る と と も に 、 画 家 八 人 に も 風 景 画 を 委 嘱 し た 。 藤 島 は こ の 八 景 の 一 つ 、 木 曽 川 に 派 遣 さ れ て い る の で 、 こ こ に 記 された木曽川行きはその出張であろう。 二一、一九二八(昭和三)年二月十六日付葉書 (裏) 拝復   斎藤君の在所ハ 伊豆国伊東町暖香園 ニて候 貴兄ハ何時頃まで当地御滞留 ニ候や   尚此次の御出京ハ何時 頃ニ可相成や   右御一報煩 度   匆々   二月十六日   藤島 (表)消印   昭和   年二月十六日 芝区白金猿町   三九、吉田氏方 児島乕次郎殿 ◇ 「 斎 藤 君 」 と 滞 在 先 の 「 吉 田 氏 」 に つ い て は 現 在 の と こ ろ 不 明 。 児 島 は 十 五 日 に 新 橋 に 到 着 し 、 そ の 足 で 上 野 、 東 京 府 美 術 館 に 赴 い て 大 原 家 所 蔵 作 品 に よ る 「 泰 西 美 術 展 覧 会 」 の 準 備 に 着 手 す る 。 東京には二三日まで滞在した(註1)。 註1   兒島直平著『兒島虎次郎略伝』二二五頁。

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二二、一九二八(昭和三)年四月二十日付書簡 十六日附の御手紙十八日拝誦   貴家益々御清福奉賀候 扨て貴重なる拝借物大に延引に打過き 心外の 至に奉存候 御高庇に よつて充分研究   相出來候段深く 奉感謝候 昨十九日一平君に來て 貰ひ都合四箇充分注意之上 荷造致し發送御返戻致置候間 到着次第 御あらため 御領収可 被下願上候 大原氏へハ其内 御禮状可差出 候得共 深謝之意貴兄より宜敷御傳達置 被下度御依頼申上候 先頃 展覧会 關預中は 非常に御繁忙に 御見受け申上閉会後 緩々御目に掛かれる ことゝ楽み居 候處   あの儘 御帰国之趣 遺憾に

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存居候 先ハ御禮旁右御通 知まで    匆々敬具 昭和三年四月二十日        藤島武二   児島雅兄       台鑑 尚御令室に宜敷御鳳 聲願上候 (封筒表)消印   昭和三年四月二十日 岡山縣   倉敷町外酒津   兒島虎次郎樣      台啓 (封筒裏)     東京市本郷曙町十二 緘       藤島武二     四月二十日 ◇ 藤 島 は 児 島 を 介 し て 大 原 コ レ ク シ ョ ン か ら 何 か 美 術 品 四 点 を 借 用 し て 研 究 し た よ う で あ る 。 「 一 平 君 」 は 岡 本 一 平 で あ ろ う 。 「 四 箇 」 と あ る た め 、 絵 画 で は な い よ う で あ る 。 児 島 は 「 泰 西 美 術 展 覧 会 」 ( 主 催 ・ 会 場 、 東 京 府 美 術 館 ) の 実 務 に あ た り 非 常 に 多 忙 で あ っ た が 、 そ の 様 子 を 証 言 す る も の で あ る 。 こ の 後 、 九 月 に 児 島 は 過 労 で 倒 れ て し ま う 。 病 気 の 知 ら せ を 聞 い て 妻 の 友 子 宛 に 送った書簡(五八頁)が残されている。 二三、(年代不明)八月二六日付書簡 先日   貴書を拝し候處   高堂 益々御清穆慶賀此事ニ奉存候 扨てまた昨日ハ錦地名産の白桃 御惠送ニ預り毎度御芳情之段 難有候賞味深く奉感謝候 不取敢右御禮まで   匆々   敬具   八月廿六日       藤島拝 乕次郎兄   小生病気も漸く快愉致候間乍憚御省   處願申上候 ◇ 封 筒 が 失 わ れ て い る た め 年 代 不 明 な が ら 、 病 気 が や っ と 平 癒 し た こ と を 伝 え て い る こ と 、 白 桃 を 初 め て 送 っ て も ら っ た よ う で は な い こ と か ら 、 一 九 二 五 年 以 後 か 。 藤 島 は 昭 和 二 年 十 月 の 松 下 末 三 郎 宛の手紙にも、この黄色の便箋を使用している。

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二四、(年代不明)十月七日付書簡 二五、(年代不明)二月十二日付封筒(下部破れ) 拝啓時下清秋之儀 高堂益々御多祥奉參賀候 扨て過日ハ錦地特産の最も甘味に 富める梨子澤山御惠送を辱ふし いつもながら御芳志之程難有候 深く奉感謝候 不取敢右御禮 まで   匆々   敬具      十月七日    武二 児島雅兄   尚先の乙骨君來訪同君作品に就き今少し研究を   要する点愚見を述べ置き候   小生本年ハ鑑査には欠席致候 *封筒は中の書簡と合っていないため、便宜的に二五番としておく。 (封筒表)消印年不明、二月十二日 岡山縣都窪郡倉敷町          新川 児島乕二郎様    台啓 (封筒裏)     東京市本郷 寿     駒込区曙町十五       藤島武二     二月十二日 ◇ 「 い つ も な が ら 」 と あ る の で 初 め て 梨 を 送 っ て も ら っ た 年 よ り 後 に な 一 九 二 四 年 十 月 八 日 に 二 十 世 紀 梨 の 御 礼 を 送 っ て お り ( 手 紙 八 )、 お ら く そ れ が 最 初 だ っ た よ う で あ る の で 、 こ の 手 紙 は 一 九 二 五 年 、 二 六 ま た は 二 七 年 の 可 能 性 が あ る 。 便 箋 は 、 一 九 二 五 年 三 月 二 八 日 付 の 書 で も 使 用 し て い る も の と 同 じ だ が 、 藤 島 が 「 鑑 査 」 を 欠 席 す る と 伝 え お り 、 こ れ は 帝 展 の 鑑 査 の こ と と 思 わ れ る た め 、 児 島 が 帝 展 審 査 員 を め た 一 九 二 七 年 十 月 の 手 紙 で あ る 可 能 性 も 考 え ら れ る 。

(13)

藤島武二から児島友子宛書簡 一、一九二三(大正一二)年四月二五日付書簡 拝啓 貴家益々御清穆 奉慶賀候 扨て   一両日前 乕次郎君よりの 御消息に接し 候處   益々御雄健 にて五月上旬にハ 愈々御帰朝之 趣皆様   嘸 御待兼の事と 奉察候 先御祝福を 兼ねて御機嫌 伺まで   匆々       敬具   四月廿五日     藤島武二 児島友子様 (封筒表) 備中   倉敷町外酒津   児島友子樣     平信 (封筒裏)     東京市本郷 〆    駒込曙町十五       藤島武二    四月廿五日 ◇ 消 印 は 「 2 . 4 . 2 5 」 と し か 読 み 取 れ ず 左 端 が 欠 け て い る が 、 五 月 上 旬 に 児 島 が 帰 朝 予 定 と あ る こ と か ら 大 正 十 二 年 と 判 断 で き る。

(14)

藤島武二から児島友子宛書簡 二、一九二八(昭和三)年九月二二日付書簡 拝啓 其後御無沙汰ニ 打過候處貴家 御變ハりも無之候也 奉伺候 扨て本日虎次郎君 近頃御不例の趣傳 承致候得共平素 最も御健康之事とて 何かの誤傳かと存じ 候次第に御座候   御近 况御聲辱被下度 奉願候     匆々敬具 昭和三年   九月廿二日      藤島武二 児島友子様 (封筒表)消印   昭和三年九月二二日 岡山県倉敷市外酒津   児島友子様     直展 (封筒裏)     東京市本郷曙町     十二 〆       藤島武二     九月廿二日 ◇ 児 島 が 過 労 で 倒 れ た 後 、 藤 島 が 知 ら せ を 聞 い て 急 い で 事 情 を 確 か ようと送った手紙であり、藤島の驚きが伝わる。

(15)

藤島武二から児島友子宛書簡 三、一九三〇(昭和五)年八月八日付書簡 拝啓 其後ハ絶て御疎情ニ 打過心外に存居候處 貴家御揃ひ益々御清 穆之段奉慶賀候 扨て過日ハ故虎次郎君 の特に結構なる記 念品御直與ニ預り 御芳志之程眞に 難有く深く奉感謝候 右ハ故人の最好の 御遺品として永く 愛蔵可致候 不取敢以上御禮旁 暑中御機嫌伺まで       匆々敬具 昭和五年八月八日       藤島武二 児島友子様 別封佛国勲章ハ 故人の同国より受け られたるものニ有之 候間   記念として進呈 仕候   同品ハ故人の遺作 陳列場に御飾り置き になると □ も其辺大原 様ニ御相談可被下願 上候   尚時下御自愛専一に   願上候 ( 封 筒 表 ) 消 印   ( 年 不 鮮 明 ) 八 月 八 日 岡山縣倉敷市弓場觀龍寺(以下欠損)    児島友子樣 (封筒裏)     東京市本郷曙町 〆    十二       藤島武二     八月八日 ◇ 児 島 が 一 九 二 九 年 三 月 八 日 に 逝 去 し 、 翌 三 〇 年 四 月 に 「 故 児 島 虎 次 郎 画 伯 遺 作 展 覧 会 」 が 開 か れ た 。 そ の 後 、 形 見 分 け の 品 が 藤 島 に 送 ら れ て き た の で あ ろ う 。 こ れ に 対 す る 礼 状 で あ る 。 児 島 は 一 九 二 八 年 に フ ラ ン ス 政 府 か ら オ フ ィ シ エ ・ ド ・ ラ ン ス ト リ ュ ク シ ョ ン ・ ピ ュ ブ リ ッ ク 勲 章 を 贈 ら れ て い た が 、 東 京 美 術 学 校 あ る い は 藤 島 が 代 わ り に 受 け 取 っ て い た 様 子 で あ る 。 「 記 念 と し て 進 呈 仕 候 」 と い う 表 現 に は 違 和 感 が 残 る が 、 こ の 手 紙 と 別 送 で 友 子 に 送 る と い う 内 容 で あ る 。 十 一 月 に 開 館 す る こ と に な る 大 原 美 術 館 に 児 島 の 作 品 が 展 示 さ れ る こ と が 決 ま っ て い た よ う で 、 一 緒 に 展観してはどうかと提案している。

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