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人道的介入における 違法だが正当 とする概念について On the Concept of Illegal but Legitimate Concerning Humanitarian Intervention 饗場和彦 Kazuhiko AIBA Abstract Given the many ca

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Academic year: 2021

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(1)

Osaka University

Author(s)

饗場, 和彦

Citation

国際公共政策研究. 13(1) P.1-P.13

Issue Date

2008-09

Text Version publisher

URL

http://hdl.handle.net/11094/9721

DOI

(2)



人道的介入における「違法だが正当」とする概念について

On the Concept of “Illegal but Legitimate” Concerning

Humanitarian Intervention

饗場和彦

Kazuhiko AIBA

Abstract

 Given the many cases of humanitarian crises in the post-war era, humanitarian interven-tion has risen as one of means to address such tragedies. Humanitarian interveninterven-tion, how-ever, is controversial. The NATO air strikes in 1999 on Yugoslavia, for example, led to a debate as to its justification. It was asserted at the time that the air strikes might be illegal but they were legitimate. What does this concept of“illegal but legitimate”mean? This article analyses and evaluates the concept, and argues that its logic is unreasonable.

キーワード:人道的介入、合法、正当、保護する責任、正戦論

Keywords: humanitarian intervention,illegal,legitimate,responsibility to protect,just war theory

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1.はじめに  旧ユーゴスラビア連邦(以下、旧ユーゴ)で1991年から発生した武力紛争では、とくにボスニア・ ヘルツェゴビナ(以下、ボスニア)、クロアチアにおける紛争が激化し、あちこちで「民族浄化 (ethnic cleansing)」と呼ばれる非人道的な行為が繰り返された1)。なかでも「スレブレニツァの 虐殺」は単独の戦争犯罪としては、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最悪のものとされた2)。国 際社会はこの紛争を憂慮したものの和平合意まで約 4 年かかり、その間、凄惨な「浄化」により多く の犠牲者が出た。  同じころ、ソマリアでも内戦と飢饉により多くの住民が死の淵に立たされた。米国を中心にした 多国籍軍は人道危機の市民へ物資を提供するため、92年12月、軍事介入を行ったが、93年10月には 米兵18人が殺害され、W・J・クリントン(W. J. Clinton)大統領は撤退を決めた。  また、ルワンダでは94年 4 月からの 3 ヶ月間で80万人が殺されるというジェノサイドが発生し た。米国や国連はその殺戮の実態を認知していながらも対応はほとんど取らず、大量殺害を座視す るだけだった。  さらに、新ユーゴスラビア(当時はセルビア共和国とモンテネグロ共和国で構成。現在は両国は 分離独立)・コソボ自治州でも、S・ミロシェビッチ(S. Milosevic)大統領以下セルビア系住民に よる、アルバニア系住民に対する迫害が起きた。NATO・欧米先進国は、99年 3 月、非人道的な 行為をやめさせるための人道的介入であるとして、新ユーゴスラビアに対して一方的な武力行使に ふみきった。  腰が引けていたボスニア、事実上、敗退した形で手を引いたソマリア、傍観に終始したルワンダ に比べれば、国際社会のコソボへの対応は積極的ではあった。その意味で評価する声もあった。し かし、NATOの空爆によりいっそう難民、避難民が増え、誤爆などで一般市民までもが犠牲になっ た。人道の名の下に人を救おうとして、人を殺すことになる自家撞着の一面は否めなかった。国際 法からみても、武力行使に関する国連安全保障理事会決議がなく、違法性は強いと指摘される。空 爆から 3 か月後に一応紛争は決着したものの、コソボのケースは議論を呼んだ。  その中でも最も注目された争点の一つが、NATOの空爆は「違法だが正当」とする主張の当否 であった。そこで提起されるのは“legality”あるいは“lawfulness”と、“legitimacy”との相違・ 関係性の議論である。一般に“legality”あるいは“lawfulness”は「合法性」と訳され、他方“le-gitimacy”は「正当性」と訳される。NATOによるユーゴ空爆をめぐっては、空爆は国連安保理 決議に則らない武力行使と解しうるものの、人道的介入として肯定できる、とする見解があった。 これは空爆は“illegal”であるが“legitimate”であるという主張であった。合法性の概念は法実 1) ユーゴスラビアはユーゴスラヴィア、ボスニア・ヘルツェゴビナはボスニア・ヘルツェゴヴィナというように、原語の「V」 音を「ヴ」と表記する仕方もあるが、本稿では「ヴ」は使用しない。その理由は、一般的な日本語において「ヴ」は必ずし も使用されないし、また、たとえばKosovoのように「V」であっても現地における音としてはむしろ「B」に近い場合もあ るので、機械的、自動的に「ヴ」とはならないためである(つまり、Kosovoは現地音ではむしろコソボが近い)。 2)Jan W. Honing and Norbert Both, London: Penguin Books, 1996, p.xix.

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について 3 証主義的な立場から、その行動が取られた時点における国際法規範に直接的に基づいて判断され る、純粋に法的な概念であるのに対し、正当性の判断は「合法性の判断を取り込みながらも、より 政治的・道義的・哲学的な要素を反映する」形でなされる3)。つまり「違法である」とする意味は、 現行国際法規範に照らして一般的な判断をする限りにおいて法が許容しないとする考えであるが、 そこを補填する、あるいは相殺する、あるいは凌駕する効果を持つ別種の要素の介在によって「し かし正当である」とする論理構築が可能となりうる。それはたとえば「道義性」という表現もされ る。「違法であっても道義的に正しい、との判断が成り立つ」こともあり、国際法が道義的規範の 実績を重ねて発展する過程を含んでいる以上、「道義性と合法性と正統性の相互関係をよりダイナ ミックに捉えることが必要」であるとも指摘される4)  こうした発想を「道義性」と呼ぶかどうかは別にして、この正当化の論理構成としては、一つは 国際法の柔軟性・発展性を重視する立論がまず前提にあり、加えて主権概念の抜本的転換を図る立 論や、正戦論に依拠した武力行使に対する評価基準をめぐる立論から成ると考えられる。端的に換 言すれば、国際法は柔軟であり、主権概念も転換しているので、正戦論の基準が満たされれば正当 性が確保できるとする論理構成である。本論文ではこうした論理構成で示される「違法だが正当」 とする人道的介入の議論について、その当否を論考する5) 2.国際法の柔軟性・発展性  「違法だが正当である」という命題のまず前提にあるのは、違法とされてしまう現行の国際法規 範自体にそもそも不備があるのであり、そしてその不備に対応する行動は一義的、表面的には違法 と目されるにしても、国際法に本質的に内在する柔軟性、発展性によって許容されうるとする考え 方である。  この立場の考えは、米国の研究者、政治家の間で多く見られる。つまり、ユーゴ空爆について言 うなら、現状の国連の制度、法の下ではNATOの行動は逸脱しているが、それは国連に欠陥があ るからであり、NATOの行動自体は適正であり、したがって国際法はこの欠点を補う方向で改善、 進展すべき、と考える。L・ヘンキン(L. Henkin)は拒否権による国連行動の麻痺がその欠点と 考える。ユーゴ空爆のケースも武力行使を容認する決議の採択まで行けばロシア、中国の拒否権行 使が予想されたのであるから、コソボの場合は拒否権に拘束される安保理の弱点を超えた、「集団 的介入」の発展を志向する一歩であり、それこそあるべき法であると主張する6) 3) 星野俊也「『平和強制』の合法性と正統性-『集団的人間安全保障』の制度化を目指して」『国際法外交雑誌』第101巻第1号、 2002年、89-90頁。 4)星野俊也「米国のコソボ紛争介入-その道義性、合法性、正統性」『国際問題』no.479、2000年、28頁。 5) 本稿においては人道的介入を以下のように定義する:「ある主権国家内で、その国民が大規模かつ深刻な人道危機に瀕して いる状況がある場合、国際連合あるいは国家(群)がその状況に対処しようとして行う、強制的な武力の行使」

6) Louis Henkin, “Editorial Comments: Nato's Kosovo Intervention‐Kosovo and the Law of ‘Humanitarian Intervention'", vol.93, no.4, 1999, p.828.

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 現状の国際法の側に問題があるとする立場の、最たる考え方はたとえばM・グレノン(M. Glen-non)の論評に見られる。「正義を獲得することは困難であるが、正義を反映できるならば国際法 の改定も行われるだろう。正義を行うために力が行使されるなら、法は後ろからついてくるのであ るから」。つまり、アメリカの力の行動が法なのである、という発想である7)  グレノンと対照的に最も消極的にこの立場に立つのは、ドイツの国際法学者、B・ジンマ(B. Simma)であろう。ジンマは、コソボの場合、武力行使に訴えねばならない理由は説得的であっ たし、そのために最後の手段として違法な手段をとることもありうるだろうと、一応理解を示しな がらも、「しかし、そのことと、そうした例外を一般的な規則にまでしてしまうこととは、全く別 物である」として、コソボから一般的な規範を導くことに反対する8)。「人道的な衝撃だけに従っ て従来の法から逸脱してはいけない。一つの事例のみから新しい基準をつくってはいけない。コソ ボ危機によって示された印象的な法的論点は、判断が難しい事例は悪法を作りやすい、ということ だ」と指摘する9)  どの程度までこの正当性の伸縮性を受容すべきかは、グレノンとジンマでは相違があるものの、 いずれにしても法実証主義的な厳格な法理にのみ固執しないという立場は共通している。R・フォー ク(R. Falk)も基本的にこの見解を支持し、ユーゴ空爆が提起した「違法だが正当」という概念は、 純粋な条文分析のみでは距離が埋まらず、唯一“configurative jurisprudence”の発想でしか調整 できないとする10)。“configurative jurisprudence”は過程(process)や状況(context)を重視 した政策志向的な法理(policy-oriented jurisprudence)と解される。フォークは「(国際)法は新 しい必要性が出現するにともない伸長される」と結論づけるが、他方、その伸長が正当化されるに は一定の条件が不可欠であり、それは国連システムの中の規範に沿う範囲内で、事実(factual) と理念(doctorinal)の両面において説得力ある説明ができる場合であると言う11)  こうした国際法学における思考枠組みは、国際政治学の視点から把握しなおせばコンストラク ティビズム(構成主義)の理論と重複しよう。コンストラクティビズムは従来、中心的だったネオ リアリズムの理論とネオリベラリズムの理論に対する対抗軸、あるいは補完軸として注目される、 社会学の発想を基盤にする比較的新しい理論であるが12)、人道的介入の国家行動を説明しうる一 つの分析概念としても注目される。ネオリアリズムやネオリベラリズムが、アナーキーカルな国際 社会においては力の配分によってエージェントの行動が規定される、あるいは利益をめぐる功利

7) Michael Glennon, “The New Interventionism: The Search for a Just International Law", vol.78, no.3, 1999, p.7.

8) Bruno Simma, “NATO, the UN and the Use of Force: Legal Aspects", vol.10, no.1, 1999, p.22.

9) p.14.

10) Richard Falk, “Kosovo, World Order, and the Future of International Law", vol.93, no.4, 1999, p.848.

11) Richard Falk, “What Future for the UN Charter System of War Prevention?", vol.97, no.3, 2003, p.598.

12) Alexander Wendt, “Anarchy is What States Make of It: The Social Construction of Power Politics",

vol.46, no.2, 1992, pp.391-425; Alexander Wendt, Cambridge: Cambridge University Press, 1999.

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について  的・打算的な計算によってエージェントの行動が規定されるというように、物質的(material)な 構造・環境を前提に静態的に因果関係や行動予測を立論するのに対して、コンストラクティビズム では、物質的な要素のみでなく考え方(idea)をめぐるエージェント間の間主観的(inter-subjective) な相互作用に着目し、そうした動態的な認知過程によって内面化される規範(norms)やアイデン ティティがエージェントの行動を決めるとする。  M・フィネモア(M. Finnemore)は規範が利益を生み、その利益によって主体の行動が左右さ れるとして、奴隷制度や奴隷貿易が撤廃されていった過程を説明するが、人道的介入に関しても規 範の変遷が大きいという13)。19世紀における人道的介入では保護の対象は白人のキリスト教徒に 限定されていたが、現在は普遍的な人類全般が対象なのであり、また介入形態も19世紀は一方的・ 単独的な形態が多かったが今は集団的な介入が当然視されている14)。力の行使や利益計算の要素 に加え、ビジョンという要素も包含するコンストラクティビズムは国際法規範の柔軟性・発展性に 対応する、国際政治学のディシプリンにおける合理的な説明概念として一定の存在意義がある。 3.主権概念の抜本的転換  「違法だが合法」という概念の論理的正当性を言うには、主権概念の抜本的な転換が必要となる。 伝統的に主権とは一定の領域に対する包括的、排他的な最上位の支配権限であり、その論理的な帰 結として主権者は主権が及ぶ範囲内のすべての人、物を恣意的に扱えるという理解が定着してき た。主権概念が、そうした主権者の恣意的濫用という負の面も包含する、「消極的主権」としての 本質も含んでいるならば、たとえ一定の領域内で住民が人道危機に陥っていたとしても、不作為も 含めた対応権限はその領域の主権者のみ所持するのであり、したがって領域外から第三者が主権者 の了解なく事態に対応しようとする人道的介入の行動は論理的に正当化の余地がない。よって、こ うした従来の主権概念に依拠する限り、違法だが正当という論理は立論しえない。そこで、こうし た主権概念の転換を図る発想が注目される。  たとえばK・アナン(K. Annan)国連事務総長は、「個人の主権(individual sovereignty)」と いう考え方を提示した。「国家主権はその最も基本的な意味において…再定義されてきている。国 家は国民に対して尽くすための手段なのであり、その逆ではない。…個人の主権-これは国連憲 章やその後の国際条約によって掲げられてきた個人の基本的自由を意味するのだが-という考 え方が、新しい個人の権利を意識する中で強化されてきた。国連の目的は個々の人間を守ることで あり、彼らを虐げる人々を守ることではないと、今日、国連憲章を読んでいっそう気づくのである。」 と述べている15)。そこでは、新たに「個人の主権」という表現によって、従来の消極的主権とし

13) Martha Finnemore,“Constructing Norms of Humanitarian Intervention", Peter J. Katzenstein ed., New York: Columbia University Press, 1996, pp.153-185. 14)

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ての概念を否定し、個人の基本的自由を守るという概念の主権を提起する。主権がそうした概念で あるなら、人道危機の中、生命の自由が保証されていない住民を保護しようとする人道的介入は、 その主権概念と合致する行動として正当化する論理性が確保されうる。

 また、同様に主権概念を転換する発想として、「責任としての主権」という考え方が提起される。 ユーゴ空爆をきっかけにした人道的介入をめぐる議論の流れの中で、「介入と国家主権に関する国 際委員会(International Commission on Intervention and State Sovereignty)」は『保護する責 任(The Responsibility to Protect)』と題した報告書を2001年12月に発表し16)、その中で主権概

念を定義し直した。すなわち、国家主権を「管理としての主権(sovereignty as control)」から、「責 任としての主権(sovereignty as responsibility)」として「とらえ直し(re-characterization)」を 行い17)、国家主権の意味を「避けられる惨害から自国民を保護する責任」と規程した上で18)、当 該国政府がその責任を果たさないなら国際社会が代わって果たすべきとする。  主権の概念は従来、その論理的帰結として主権者による自国民統治の恣意性、外部よりの不可侵 性が導かれるが、同報告書では、主権はそうした人民を管理するための最高位権力ではなく、人民 の生存と生活を保護するための最高位権力なのであるとする見方に、人権概念や人間の安全保障概 念の台頭を受けて、変容しているのだという19)。そうすると、一義的には人道危機にある国民に 対処すべきは当該国の主権者であるが、そうした保護を与えられない、あるいは与えるつもりがな い状況では、その当該国に代わってコミュニタリアン的な国際社会に保護する責任が生じ、した がってそこでは内政不干渉原則が矛盾なく後退すると考えている20)。つまり、従来、二者択一的 に理解されている主権と介入の関係について、両者の「分断を橋渡しする連結概念(a linking concept that bridges the divide)」としての意義があり、それにより国家主権か介入かという人道 的介入の悩ましい議論を克服できるという21)  このように「責任」として主権をとらえ直した上で、国際社会による具体的な責任の果たし方と して報告書は、①人道危機に対して「反応(react)」する責任、②その発生を「予防(prevent)」 する責任、③事後に「再建(rebuild)」する責任という 3 形態を提起する。その中の①のカテゴリー において一つの最終的な選択肢として強制的な軍事介入=人道的介入を扱い、必要な条件を細かに 検討、列挙している。

16) International Commission on Intervention and State Sovereignty, Ottawa: International Development Research Center, 2001.「介入と国家主権に関する国際委員会」はアナン国連事務総長が1999年、2000年の国 連総会で人道目的の軍事介入について問いかけたのを受けて、カナダ政府がバックアップする形で発足、約一年かけて報告 書をまとめた。同報告書は、人道的介入をめぐるこの種のレポート、シンポジウム類の中では充実度の高い成果物。 17) , p.13. 18) , p.VIII. 19) , pp.14-16. 20) , p.17. 21) , pp.16-17.

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について  4.正戦論による正当化  上述した主権概念の変更・転換は、介入行動と内政不干渉原則との衝突・矛盾・ジレンマを回避 あるいは凌駕できる論理的根拠となりうるが、内政不干渉原則と同様に現代国際法規範の基本と なっている武力不行使原則との関係はどうであろうか。一般に国連安保理決議を受けた集団的安全 保障としての武力行使の場合と、自衛の場合しか合法的な武力行使が存在しない現代国際法規範の 中で、NATOのユーゴ空爆のようにこの二つの場合に該当しない武力行使はどういう論理的な根 拠で正当性を模索できるのか。この論拠として援用されるのが正戦論(Just war theory)の概念 である。つまり、現行の国際法上は一般に違法とされる武力行使であっても、正戦論の基準に沿っ ていれば正当性があるとする考え方である。この点は、観点を変えて把握しなおせば、フォークが 先述したように「事実」と「理念」の両面で説得力ある説明ができるか、という発想に還元できる。 つまり「正戦」という「理念」に該当する「事実」があれば正当化されるわけである22)

 この正戦論の概念に依拠して正当な人道的介入を確定しようという試みは、ユーゴ空爆以降、少 なからず試みられている。たとえば、「コソボに関する独立国際委員会(The Independent Inter-national Commission on Kosovo)」は「出発点となる諸原則(Threshold Principles)」として3点、 「状況上の原則(Contextual Principles)」として 8 点を指摘している23)   「出発点となる諸原則(Threshold Principles)」   ( 1 )人権や人道法に対する深刻な侵害、あるいは破綻国家による市民社会の窮状があること   ( 2 )介入の目的は被害者の保護にあること   ( 3 ) 介入の手段は迅速で、市民を守るもので、市民社会への損害も付随せず、同時に当該政 府に対して懲罰的、報復的な手段ではないこと   「状況上の原則(Contextual Principles)」   ( 4 ) 人権侵害が確実に止まるため、あるいは充分な統治が回復するための平和的な解決が志 向されること   ( 5 )拒否権により国連の対応が期待できないこと   ( 6 ) 軍事行動の前に非暴力的な手段が取られ、それが成功せず、かつ遅延すれば被害の増加 が見込めること   ( 7 )軍事力の行使は単独ではなく、集団的な支持があること   ( 8 )国際司法裁判所や安保理による公式の非難がないこと   ( 9 )武力紛争法、人道法に対する厳格な遵法姿勢があること   (10) 領土的、経済的目的は正当な理由に当たらず、人道的目的に照らして不要な場合は即座 22) M・ウォルツァーも正戦論の基準から「隷属や大虐殺が起きた国」への介入を正当化する。Michael Waltzer, 3rd ed., New York: Basic Books, 2002, p.90.

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に撤退すること   (11) 軍事力を使用して目的を達した後、対象となった市民社会が迅速に復旧するため充分な 支援を実行すること  上述の評価枠組みをさらに発展、整理させた形として、「介入と国家主権に関する国際委員会」 は報告書『保護する責任』のなかで、以下のような軍事的介入のための諸原則を提示している24)  

  ( 1 )出発点となる正当な事由(The Just Cause Threshold)

     以下のような、人類に対する深刻で取り返しのつかない危害が生じている、あるいはまさ に生じる状況があること:A.大規模な人命損失の状況、B.大規模な民族浄化の状況

  ( 2 )事前に注意すべき諸原則(The Precautionary Principles)

   A. 正しい意図(Right intention):介入の主要な目的は人間の苦痛の排除にあること、ま たそれは集団的行動によって確保されやすい    B. 最後の手段(Last resort):あらゆる非軍事の選択肢が尽くされ、軍事力以外の手段で は成功しないというもっともな根拠があること    C. 比例した手段(Proportional means):軍事行動の規模や期間、程度は人間の保護に必 要な最小レベルであること    D. 妥当な見込み(Reasonable prospects):作為によって事態が悪化せず、成功するもっ ともな見通しがあること   ( 3 )正しい権威(Right Authority)    A. 軍事介入を許可する最も適切な主体は国連安保理であり、安保理以外の手段を探すので はなく、安保理が機能するよう努力すべき    B.軍事行動の前に国連安保理の許可が求められねばならない    C. 安保理は介入の許可を求める要請に即座に対応し、事実や条件を充分に確認せねばならない    D. 5 常任理事国は、市民保護のための軍事介入が大多数によって支持され、自国の重大な 国益が関係しない場合、決議に拒否権を行使しないよう同意すべき    E. もし安保理が拒否する、あるいは適切な時間内に対応できないとするなら別の選択肢が ある:       a)「平和のための結集」手続きによる国連総会での対応       b) 憲章 8 章下の権能として地域機構が行動し、安保理に事後的に承認を得る対応

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について     F. 良心が痛むような状況下で安保理が人々を保護する責任を果たせない場合、関心ある諸 国がそれに対応しようとするのは止められないが、それは結局国連の信頼を損ないかね ない   ( 4 )実践上の諸原則(Operational Principles)    A.明確な目的と、曖昧でないマンデート、それに合うだけの資源があること    B.当事者間で共通する軍事行動がとられ、指揮命令系統や通信の統合があること    C.軍事力の行使には限界や漸増があり、その目的は国家の打倒ではなく人民の保護にあること    D. 作戦に適合する交戦規定があり、それは明快であり、また均衡性の原則を反映し、国際 人道法に包括的に沿っていること    E.軍隊の防護は主要な目的ではないこと    F.人道支援団体との最大限の調整・協力があること  正戦論の考え方は、当初、絶対的平和主義志向であった原始キリスト教がローマ帝国の治世下で 公認、国教化されていく過程で必然的な変容をきたして概念化された産物であった。ローマ政府が キリスト教の擁護者である以上、そのローマが行う軍事行動は肯定せざるを得ず、神の名の下の武 力行使という、宗教的意義に基づく正義の戦争があるとして、これを正当化する神学的な正戦論が 発展していった。その後、グロティウスが宗教的な立場を離れて、普遍的な観点から正当な武力行 使の可能性を論理化し直した。ウエストファリア体制の確立とともに無差別戦争観が台頭し、一時 期、正戦論は実質的意味が希薄となるが、20世紀に入り、契約上の債務回収のためにする兵力使用 の制限に関する条約(ポーター条約)(1908年)、国際連盟規約(1919年)、戦争放棄に関する一般 条約(ケロッグ・ブリアン条約、不戦条約)(1928年)をはじめ戦争の違法化が進展し始めると、 再び、正戦論の概念が復活的に重要度を増した。すなわち、国際連合憲章下の現代国際法規範にお いては、合法的な武力行使として容認されるのは国連による集団的安全保障としての武力行使と、 自衛としての武力行使しかないのであるから、現代における戦争の違法化の思考はその両ケースを 「正しい」とみなすある種の正戦論の思潮を内包する。  正戦論の概念は一般的にまず二つの枠組みに大別される。①戦争の目的、戦争に対する法、開戦 法規、開戦条件規制であるjus ad bellumと、②戦争の方法、戦争における法、交戦法規、戦闘経 過規制であるjus in belloである。  上で引用した人道的介入を行ううえでの武力行使の諸原則は、基本的に正戦論の諸原則を踏襲し ている。jus ad bellumとして、まず人道危機の状況が発生しているかどうかの判断があり、大規 模な人命損失や民族浄化は正当な理由・目的として正当化される。また、作為の結果、不作為で放 置するよりむしろ状況が悪化しないかとみる判断も、功利的な比較考量をする正戦論の原則に沿っ ている。軍事行動の前に他のあらゆる手段が尽くされたかとする基準、取られる軍事行動は目的達

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成に照らして過剰でも過小でもない合目的的な内実があるかとする基準などもそうであるし、また 行為主体の資格的な正しさとしてあくまで国連安保理の主体性に固執する発想も正戦論の要諦の 一つである。同時に jus in bello としては「実践上の諸原則」で列挙されるが、国際人道法に対す る包括的な準拠という項目によって、ジュネーブ諸条約をはじめ伝統的な正戦論における交戦法規 の諸規定-たとえば戦闘手段の制限、非戦闘員の保護、捕虜の扱いなど-を遵守するという点 を含んでいる。ただ、軍事行動のマンデートの明確化やそのための資源・能力の確保、軍事行動の 統一性や指揮命令系統の統合、他の人道支援団体との調整などは伝統的な正戦論の要諦というより は、むしろ近年の実態を反映した教訓としての意義から提起された項目といえよう。  こうした正戦論上の諸原則・諸基準が満たされた軍事力行使であるなら、それが実定法上は安保 理決議に基づかない違法な武力行使であっても、一定の正当性を主張する合理性は存在しうるであ ろう。したがってその主張の当否は対象となる事例における、正戦論上の諸原則・諸基準の合致性 に左右されることになる。しかし、そこでは少なくとも2点の主要な争点があるだろう。実際上、 この合致性はどの程度まで期待できるのか、そしてその合致性の内容を判断する主体は誰なのかと いう点である。  人道的介入の観点で言及される具体事例を俯瞰すると、介入主体の意図・動機には人道目的以外 の利己的要素が付随し、場合によってはそれが主要な部分を占めうるのがむしろ一般的な態様で あった。多くの研究者は「自国に利益のないときには干渉しないのが一般である」とみる25)。真 正な人道主義に基づくものは極めて稀で、国際法の大家の一人、I・ブラウンリー(I. Brownlie) は唯一、19世紀のシリアのケースのみしかないと言う26)。そうなると、人道目的が100%でなくて も少なくとも主要な部分を占めるべきという、「正当な意図・目的」としての正戦論上の基準は果 たして実際上、満たされうるのであろうか。また、人道的介入という作為の結果が、不作為よりも プラスの効用をもたらすという見込みの判断についても、ソマリア介入が結果的に逆効果で終わっ たように、容易ではない。そもそもの判断である、対象状況の把握と評価についてが難しい。ルワ ンダやコソボでは紛争予防の段階で状況を適切に把握、評価できなかった。加えて、マスメディア や情報技術の発達があるとはいえ、むしろ半面、情報操作の余地が派生し、客観的な判断はいっそ う困難となりうる。ボスニア紛争における広告代理店などによる情報操作や27)、コソボ紛争にお けるラチャク村事件の疑惑などにこの点の問題を見ることができる。  軍事行動を実施した場合と実施しない場合の比較考量による見込みという条件は、換言すれば結 果責任の確保の問題とも言える。つまり軍事介入後、当該地域・国家が安定的なガバナンスを回復 するまでの間、継続的にポストコンフリクトにおける対応を実施せねばならないという責任であ る。正当性が実定法を凌駕した次元での政治的な判断によるものである以上、その結果においても

25) Thomas Franck and Nigel Rodley,“After Bangladesh: The Law of Humanitarian Intervention by Military Force", vol.67, no.2, 1973, p.293.

26)Ian Brownlie, Oxford: Clarendon Press, 1963, p.340.

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について  また、単なる法的な責任以上のもの、つまり政治的責任から逃れられないのである。したがってた とえばコソボ問題では、「NATO構成諸国は現在、そして将来も、コソヴォでの政治的安定を維持 する困難と格闘しなければならない」責任があると言える28)。別言すれば、コソボ問題の決着、 地域の安定化という「結果」に至ったとき初めてNATOの軍事行動は正当化されうるということ になる。しかし、この点も過去の実態を見れば、国際社会、とくに先進国の移り気な関心を反映し て、往々にしてポストコンフリクトの対応には限定的な取り組みしか取られない傾向が強い。  jus in belloにおいても、アフガニスタンやイラクに対する米国の軍事攻撃、あるいはアフリカ などにおける内戦状況での実態を見れば、国際武力紛争法、国際人道法の効力がいかに無力あるい は限定的かわかるように、jus in belloの基準の達成も一般に至難であると得心できよう。  このように考えれば、机上の論理としては、正戦論の思考・基準に合致する武力行使はありうる が、過去の事例、実態から経験的に判断して、実際の場面においては高度な合致性は期待できない のではないかという疑念は否定できない。つまり「机上」では正戦はありえても、「戦場」では正 戦はありえない、とする見方である。高度な合致性がないのであれば、それはもはや「違法である し正当でもない」という武力行使にしか過ぎない。  さらに最も根源的な懐疑は、正戦論の諸原則・諸基準との合致性を判断する主体の限界性である。 当該の軍事介入が正戦論に照らして妥当か、否かの判断をする主体が、介入当事国である単独かあ るいは限定数の国家群である場合、少なくとも国連の枠組みという高度な集団性が存在しないとい う意味での単独性ゆえに、究極のところでその判断の客観的妥当性には限界が生じるという問題で ある。これは、現代国際社会の性質が変容をきたしているとはいえ、主権国家が並存するアナーキ カルなウエストファリア体制が基本構造である以上、主権国家が単独で独立して判断する内容には 「克服し得ない無知」を免れないとする無差別戦争観の論理的帰結でもある。  ただし、この正戦論の諸原則・諸基準との合致性を判断する主体の限界性は、国連の枠組みであ るなら緩和されうる。当然、国連の枠組みを通した集団的なプロセスとはいえ、そこでは安保理常 任理事国による独断的な志向があるし、国連による判断とはいえ決してそれが自動的に内容の妥当 性を担保するものではない。しかし、少なくとも特定の一国家、あるいは限定された国家群が独断 的に行う判断よりは、安保理の構成国をはじめ多くの国家が関与するという集団度の高さゆえ、相 対的に判断の的確度の向上を期待できるのであり、逆に言えば恣意的な判断による不適切な対応を 回避できる可能性を期待できるのである。もっとも、国連憲章第 7 章下の集団的措置として国連の 枠組みで人道的介入が行えるならばそもそも合法であるから、わざわざ本論で見たような正当性の 概念は援用する必要がないともいえよう。 28) 篠田英朗「国際社会における正当性の政治-NATOによるユーゴスラヴィア空爆を事例にして」『国際学論集』第47号、 2000年、17頁。

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5.おわりに  本稿では、人道的介入に関して主張された「違法だが正当」とする概念の当否について考察した。  「違法だが正当」とする論理の構成としては、国際法の柔軟性・発展性を重視する立論、主権概 念の抜本的転換を図る立論、そして正戦論に依拠した武力行使に対する評価基準をめぐる立論から 成ると考えられる。つまり、国際法は柔軟であり、主権概念も転換しているので、正戦論の基準が 満たされれば、その武力行使は現行法規上、違法とされえても正当化できる、とする論理構成である。  国際法の柔軟性・発展性という視点は、原則としては一般的に理解されうる。国際社会における 司法制度が国内社会におけるそれとは根本的に相違する点に照らし、それに由来する国際法規範の 不備・欠点を相殺する趣旨から国際法を柔軟に理解、運用するという発想は一定の合理性がある。 つまりフォークが言うような、過程や状況に即した政策思考的な法理としての立場である。ただ、 争点は柔軟性の幅の問題である。米国の力の行動がすなわち国際法である、という極論から、例外 的・限定的に極小化する見解まであるが、当然前者のような放埓な思考ではそもそも法としての価 値が形骸化する。おのずと一定の領域内に抑制されるべきであろう。こうした法規範をめぐる争点 は、国際政治学の観点から把握すればコンストラクティビズムの理論を通して説明がなされうる。 非物質的な要素にも着目し、間主観的な動態的認識過程を経てエージェントに内面化されるビジョ ンは、国際法規範の生成、変化、発展という形でも表出しうる。  他方、主権概念の抜本的な転換という立論がある。国家主権を従来の概念のまま把握していれば、 人道危機を召致あるいは放置する権限としての消極的主権まで認めざるを得ないが、主権概念を転 換することによって外部介入の正当性を担保する論理が構築しうる。その転換として「介入と国家 主権に関する国際委員会」が提起したのが、国家主権を「管理としての主権」から、「責任として の主権」としてとらえ直し、国家主権の意味を「避けられる惨害から自国民を保護する責任」と規 程する概念であった。そうすると、人道危機にある国民に対処すべきは一義的には当該国の主権者 であるが、そうした保護がない状況では、その当該国に代わって国際社会に保護する責任が生じ、 内政不干渉原則との矛盾も回避して外部介入が正当化されうる。従来、二者択一的に理解されてい る主権と介入の関係について、両者の「分断を橋渡しする連結概念」としての意義が見出せる。  さらに、重要な立論としてあるのが正戦論である。現代国際法規範の中で一般的に許容されてい る自衛の場合、及び国連による集団的措置の場合以外の国家による武力行使は、正戦論の基準に 沿っていれば外形上、違法であっても正当化されうるという論理である。この正戦論の概念に依拠 して正当な人道的介入を確定しようという試みは、「コソボに関する独立国際委員会」や「介入と 国家主権に関する国際委員会」などによって示されているが、それぞれの判断基準はjus ad bel-lum、jus in belloの両面において基本的に合理性はあるとみられよう。しかし、ここで生じる疑問 は実際の運用上、人道的介入の行動と、この正戦論に依拠した原則との合致性はどの程度まで期待 できるのか、そしてその合致性の内容を判断する主体は誰なのかという点である。

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人道的介入における「違法だが正当」とする概念について 3  一般に指摘されるように、介入主体の動機には人道目的以外の利己的要素が共存し、「正当な意 図・目的」としての正戦論上の基準は充足しにくい。人道的介入という作為の結果が、不作為より もプラスの効用があるという見込みの判断もソマリア介入が結果的に逆効果で終わったように容 易ではない。そもそも対象状況の把握と評価が難しい。ルワンダやコソボでは紛争予防の段階で状 況を適切に把握、評価できなかった。加えて情報操作による撹乱もある。また、軍事行動を実施し た場合と実施しない場合の秤量による見込みという条件は、換言すれば結果責任の問題であるが、 ポストコンフリクトの状況に対しどの程度、充足的に関心と関与が継続して投入されているかとい う点も、過去の国家実行を見ると心もとないといえよう。さらに、アフガニスタンやイラクに対す る米国の軍事攻撃、あるいはアフリカなどにおける内戦状況での実態からすれば、国際武力紛争法、 国際人道法の実効的な適用にも大きな疑念が生じる。つまり、このように実態から推して判断する 限り「机上」では正戦はありえても「戦場」では正戦はありえない、とも言えるのであり、事実上、 正戦がありえないならば、もはやその概念を根拠にした正当化の論理も画餅に過ぎず、結果として 「違法であるし正当でもない」という武力行使でしかなくなる。  さらに最も根源的な懐疑は、正戦論の諸原則・諸基準との合致性を判断する主体の限界性である。 当該の軍事介入が正戦論に照らして妥当か否かの判断は、人道的介入を行う単独あるいは限定数の 国家(群)による以上、少なくとも国連の枠組みという高度な集団性を通した判断と比して、判断 の客観的妥当性は低下しよう。そもそも主権国家が並存するアナーキカルなウエストファリア体制 において、主権国家が単独で独立して判断する内容には「克服し得ない無知」を免れないし、また 他のどの主体も誤謬を訂正し得ないのである。  フォークらが参加した民間の研究グループ「コソボ問題に関する独立国際委員会」もlegitimacy とlegalityの用語、概念を使い分けて、NATOの行動はlegalではないがlegitimateであるとするの であるが29)、本稿のように、そのlegitimacy:正当性を立論する論理構成を考察すると、国際法の 柔軟性・発展性、及び主権概念の抜本的転換という次元において立論は可能であっても、正戦論に よる正当化という次元において障害があるといえるだろう。理念的にはありうる「違法だが正当」 とする主張は、実際上ほとんど成立が困難な「正戦論」に依拠する以上、その主張の当否をめぐる 判断としては不適切、すくなくとも応用的、実践的なレベルにおける判断としては説得力が乏しく、 容れがたいと言う外ないだろう。したがってユーゴ空爆についても「違法だが正当」という概念を 適用するのは不適切と言えるのであり、結論としてユーゴ空爆は「違法であり、不当」な武力行使 とされる見方が妥当性を持とう30)

29)Independent International Commission on Kosovo, , pp.185-192.

30) 本稿で検討した主題は、人道的介入の「正当性」をめぐる枠組みにおける争点としてあるのだが、他方、人道的介入におけ る「実効性」という枠組みの争点も多種ある。この「実効性」めぐる分析については以下で詳論している:饗場和彦「人道 的介入-“第二のルワンダ”にどう対応するのか」磯村早苗、山田康博『いま戦争を問う-平和学の安全保障論』法律文化 社、2004年。

参照

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