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中世後期ドイツにおけるライン宮中伯の領邦支配とヘゲモニー(2).

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Author(s)

田口, 正樹

Citation

北大法学論集, 64(4): 1-49

Issue Date

2013-11-29

Doc URL

http://hdl.handle.net/2115/53720

Type

bulletin (article)

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(2)

   

中世後期ドイツにおける

   

ライン宮中伯の領邦支配とヘゲモニー(二)

 

 

 

          目    次 はじめに 一.中世後期プファルツ政治史 二.王権および帝国国制との関係

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  (一)帝国国制上の特殊な地位   (二)国王領の質入れとプファルツ領邦の形成 三.君主家門の意義   (一)相続関係の規制(分割相続と長子相続)   (二)婚姻関係   (三)墓所の選択  (以上六四巻三号) 四.領邦支配の諸手段   (一)宮廷    ⒜   宮廷役職    ⒝   書記局    ⒞   顧問    ⒟   宮廷裁判所    ⒠   中央の財務行政  (以上本号)    ⒡   宮廷所在地としてのハイデルベルク    ⒢   文化的中心としての宮廷   (二)ハイデルベルク大学   (三)アムト制と地方行財政   (四)教会政策   (五)軍制   (六)領邦立法   (七)収入と租税 五.領邦諸身分とプファルツ意識 六.地方の秩序とヘゲモニー

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四.領邦支配の諸手段

(一)宮廷   西洋中世の君主統治にとって、宮廷は中心的な意義を持っていた。宮廷は元来、君主の家政の拡大形態であるが、君 主本人の統治行為、 その延長となる各種の統治機能、 そうした活動を支える人員は、 宮廷を焦点として集約されていた。 このような宮廷の決定的重要性は、一九八〇年代以来のドイツ中世史学界において広く認識され、それを反映して近年 まできわめて活発な研究がなされて い ( 1 ) る 。それを承けて、我が国でも具体的な研究が始められているところで あ ( 2 ) る 。   中世の宮廷に対するアプローチとしては、 (特に大規模な集会が開かれる際の) 宮廷に集まる人々の範囲と参集の背景、 特定の宮廷メンバーの思想や行動、宮廷を舞台とする儀礼やコミュニケーションなど、むしろ非制度的ないくつかの切 り口が考えられる。これは、宮廷内の役職や組織が制度として確立していることを前提にできないという、中世宮廷の 特性を考慮する必要があるからである。本稿でもその点を前提としたうえで、しかしまずはさまざまな役割を帯びて比 較的コンスタントに宮廷と関係を持ったと思われる人間たちを、先行研究によりながら把握していくことを主眼とした い。そこにはやはり、ライン宮中伯の狭義の領邦支配の性格と、それを越えるヘゲモニーの広がりが、反映されている と考えられるからである。加えて、次第に分化していく宮廷各部門の展開にも、触れることとするが、部門や役職の具 おわりに

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体的な活動状況には余り立ち入らず、概観にとどめる。   一三世紀の間、宮中伯の側近は、多くバイエルン出身の貴族で固められていたが、それでも後述のようにプファルツ における支配を担当する役職者が散発的に現れており、一四世紀、とりわけ一三二九年のパヴィア協定以降は、主にラ イン地方から集まった人員により、宮廷が構成さ れ ( 3 ) た 。以下、分野ごとに分けて、見ていくこととしよう。 ⒜   宮廷 役 ( 4 ) 職   ま ず、 プ フ ァ ル ツ 宮 廷 に お け る 宮 廷 役 職 Hofämter の 登 場・ 展 開 と そ の 保 持 者 の 変 遷 に つ い て、 研 究 文 献 に よ り つ つ 概要を見ることにしよう。   国王宮廷や他の諸侯宮廷同様、ライン宮中伯の宮廷でも、宮廷における日常的職務活動からは切り離された宮廷名誉 職が存在 し ( 5 ) た 。これらの職は、当初宮廷における実際の勤務と結びついていたものが、その後そうした結合を失って名 誉 職 化 し た も の で あ る。 ヴ ィ ッ テ ル ス バ ッ ハ 家 の も と で の プ フ ァ ル ツ の 宮 廷 役 職 と し て は、 一 二 二 〇 年 代 か ら ト ル ッ フ ゼ ス Truchsess と シ ェ ン ク Schenk が 知 ら れ、 前 者 は ア ル ツ ァ イ Alzey 家、 後 者 は エ ア バ ッ ハ Erbach 家 と い う い ず れ も 家 人 身 分 の 家 系 に よ っ て 占 め ら れ て い ( 6 ) た 。 一 二 三 〇 年 代 以 降、 マ ル シ ャ ル Marschall 職 も 史 料 に 現 れ ( 7 ) る 。 し か し、 既に一三世紀後半には、トルッフゼス職とシェンク職は名誉職化し、宮廷での活動と関係なく、前述の両家系によって 世襲されるようになった。一方マルシャル職は史料から消 え ( 8 ) る 。アルツァイ家は、宮中伯、その支配下のアルツァイの ブ ル ク マ ン た ち お よ び 市 民 た ち と 紛 争 を 起 こ す な ど、 既 に 半 ば 自 立 的 な 動 き を 示 し ( 9 ) た 。 エ ア バ ッ ハ 家 も、 一 四 世 紀 初 め に 宮 中 伯 と の 間 で 激 し い フ ェ ー デ を 繰 り 広 げ、 結 果 と し て オ ー デ ン ヴ ァ ル ト Odenwald に 独 自 の 支 配 圏 を 形 成 し て い っ )(1 ( た 。

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  一 四 世 紀 半 ば 以 降、 ト ル ッ フ ゼ ス の タ イ ト ル は ア ル ツ ァ イ 家 に よ り、 更 に 一 三 六 〇 年 の そ の 断 絶 後 は 女 系 で つ な が る シ ャ ル フ ェ ネ ッ ク Scharfeneck 家 に よ り 保 持 さ れ )(( ( た 。 シ ャ ル フ ェ ネ ッ ク 家 は、 以 前 か ら ヴ ァ イ セ ン ブ ル ク 修 道 院 の マ ル シ ャ ル の タ イ ト ル を 持 っ て い た が、 一 三 六 〇 年 以 降 こ の 家 門 は、 西 南 ド イ ツ の 二 つ の 諸 侯 の 宮 廷 名 誉 職 タ イ ト ル を 保 持 す る こ と に な っ )(1 ( た 。 一 方 シ ェ ン ク の タ イ ト ル は 引 き 続 き エ ア バ ッ ハ 家 に よ っ て 名 乗 ら れ て い る )(1 ( が 、 マ ル シ ャ ル 職 も 一 三 五 一 年 以 来 再 登 場 し、 ヴ ィ ル ト グ ラ ー フ Wildgraf の 家 系 の 者 に よ っ て 占 め ら れ )(1 ( た 。 一 四 世 紀 末 以 降、 ト ル ッ フ ゼ ス の タ イ ト ル は、 シ ャ ル フ ェ ネ ッ ク 家 が 断 絶 し た 後、 一 四 一 三 年 に ヨ ハ ン・ フ ォ ン・ ヒ ル シ ュ ホ ル ン Johann von  Hirschhorn に 授 与 さ れ、 以 後 こ の 家 系 が 一 七 世 紀 ま で タ イ ト ル を 保 持 し た。 一 五 世 紀 の 間、 宮 中 伯 と ヒ ル シ ュ ホ ル ン 家との関係は密接であ っ )(1 ( た 。引き続きシェンクのタイトルを保持したエアバッハ家と宮中伯との関係も、一五世紀を通 じて緊密なものであり、家門のメンバーは宮中伯フリードリヒ一世のもとで、多くの重要な戦争に参加して い )(1 ( る 。一五 世 紀 初 め に、 ヴ ィ ル ト グ ラ ー フ の 所 領 は 婚 姻 関 係 を 通 じ て ラ イ ン グ ラ ー フ Rheingraf に よ り 継 承 さ れ、 以 後 こ の ヴ ィ ル ト・ライングラーフの家系が近世までマルシャルのタイトルを保持していくこととな っ )(1 ( た 。この家系も、みずから中ラ イン地方における小規模な領邦支配者である一方、ライン宮中伯に仕えて、とりわけ宮中伯フリードリヒ一世の軍事行 動には、やはり重要な役割を果たした。   プ フ ァ ル ツ の 宮 廷 名 誉 職 に お い て は、 ケ メ ラ ー Kämmerer 職 が 欠 け て お り、 そ の 限 り で 多 く の 諸 侯 宮 廷 で 見 ら れ る 四つの宮廷役職(トルッフゼス、シェンク、ケメラー、マルシャル)というタイプから逸脱している。役職保持者 に注 目すれば 、ここで概観した宮廷名誉職の歴史は、プファルツといわば衛星的関係にある中小規模の世俗支配の一部を照 らし出すものと言えるであろう。これらの役職を世襲的に保有した家門は、次に述べる「本来の」宮廷役職に就任した 家系と比べればより大きな支配基盤を有し、プファルツに対してもその限りである程度の自立性を持つが、プファルツ

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との関係は密であり、強力な宮中伯とは政治的行動を共にし、宮中伯に奉仕することが多かったのであった。彼らのよ うな中小貴族支配を含んで構築されていたプファルツのヘゲモニーについては、後にいくつかの側面からより詳しく描 写することにしたい。   さ て 宮 廷 の 日 常 的 業 務 に お け る 最 高 役 職 で あ っ た 宮 廷 長 Hofmeister 職 )(1 ( は 、 ル ー プ レ ヒ ト 一 世 の も と で は、 エ ア リ ッ ヒ ハ イ ム Erligheim 、 ク ネ ー ベ ル Knebel 、 ラ ン ト シ ャ ー ト ・ フ ォ ン・ シ ュ タ イ ナ ッ ハ Landschad von Steinach 、 リ ン デンフェルス Lindenfels といった家系出身の下級貴族によって占めら れ )(1 ( た 。ループレヒト二世のもとでも、 ハンス(五 世 )・ フ ォ ン・ ヒ ル シ ュ ホ ル ン が こ の 職 に あ っ )11 ( た 。 そ れ に 対 し て、 国 王 と な っ た ル ー プ レ ヒ ト 三 世 は、 一 四 世 紀 後 半 の ド イ ツ 王 権 の 伝 統 に 従 い、 ま た 領 邦 政 治 上 の 関 係 に も 配 慮 し て、 一 四 〇 〇 年 に ラ イ ニ ン ゲ ン Leiningen 伯 エ ミ ッ ヒ Emich ( 六 世 ) を 宮 廷 長 に 任 命 し )1( ( た 。 し か し 領 邦 政 治 上 の 配 置 の 変 化、 す な わ ち プ フ ァ ル ツ と 他 の 選 挙 侯、 と り わ け マ インツ大司教との対立とともに、 エミッヒは一四〇四年に解任される。 後任は、 シュヴァルツブルク Schwarzburg 伯ギュ ン タ ー Günther ( 二 八 世 ) で、 こ の テ ュ ー リ ン ゲ ン の グ ラ ー フ の 任 命 は、 プ フ ァ ル ツ の 伝 統 と は 関 係 が な く、 も っ ぱ ら ループレヒトの国王としての性格から説明されうるもので あ )11 ( る 。彼の後には、シュヴァーベンからフランケンにかけて 主な根拠地を持つエッティンゲン Oettingen 伯フリードリヒ(五世)が、一四〇六年に宮廷長に任じら れ )11 ( た 。   な お、 以 上 の 宮 廷 長 と は 別 に、 よ り ラ ン ク の 低 い 家 宮 廷 長 Haushofmeister が 一 四 世 紀 後 半 以 来 確 認 さ れ る )11 ( が 、 国 王 ル ー プ レ ヒ ト の も と で、 こ の タ イ ト ル を 帯 び て 現 れ る の は、 ア ル ブ レ ヒ ト・ フ ォ ン・ ベ ル ヴ ァ ン ゲ ン Albrecht  von Berwangen 、 ハ イ ン リ ヒ・ フ ォ ン・ ハ ウ ベ ン Heinrich von Hauben 、 エ ー バ ー ハ ル ト・ フ ォ ン・ ジ ッ キ ン ゲ ン Eberhard von Sickingen 、 ジーモン・フォン・タールハイム Simon von Thalheim といったプファルツと関係の深いラ イン地方の下級貴族たちであ っ )11 ( た 。宮廷長職が王権の伝統に沿って占められたのに対して、 家宮廷長 職では、ループレ

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ヒトの国王登位以前からのプファルツの伝統が継続されたわけである。   ル ー プ レ ヒ ト 一 世 の も と で、 他 に、 シ ェ ン ク Schenk お よ び マ ル シ ャ ル Marschall ( 上 述 の 名 誉 職 化 し た 世 襲 シ ェ ン ク Erbschenk 、 世 襲 マ ル シ ャ ル Erbmarschall と は 別 )、 財 庫 長 Kammermeister 、 調 理 所 長 Küchenmeister の 職 が 確 認 さ れ )11 ( る 。 国 王 ル ー プ レ ヒ ト の も と で、 マ ル シ ャ ル 職 を 占 め た の は、 デ ィ ー タ ー( 四 世 )・ フ ォ ン・ ハ ン ト シ ュ ー ス ハ イ ム Diether IV. von Handschuhsheim 、 タ ム・ ク ネ ー ベ ル・ フ ォ ン・ カ ッ ツ ェ ン エ ル ン ボ ー ゲ ン( 小 ) Tham Knebel  von Katzenelnbogen der Jüngere 、 エーバーハルト・フォン・メンツィンゲン Eberhard von Menzingen であったが、 とりわけ前二者はループレヒトと密接な関係を持ち、政治的にも重要な役割を果た し )11 ( た 。この役職への任命も、完全に プファルツの伝統に沿って行われたのであった。また国王ループレヒトのもとで財庫長のタイトルを帯びたのは、 ルー ドルフ ・ フォン ・ ツァイスカム Rudolf von Zeiskam であり、 プファルツ的伝統はここでも同様であ っ )11 ( た 。先のディーター とともに彼もまた一四〇〇年以前から、プファルツ宮廷で同じ職を占めていたのである。   ルートヴィヒ三世のもとでは、宮廷長、家宮 廷 長、マルシャル、シェンク、調理所長が宮 廷 役職として登場するが、 家 宮 廷 長 以 外 は 具 体 的 な 役 職 特 有 の 任 務 と の 関 係 で 登 場 す る わ け で は な く、 家 宮 廷 長 も 含 め て む し ろ 顧 問 Rat と し て の性格が前面に出て い )11 ( る 。   このように、 一四世紀から一五世紀初めにかけて 名誉職以外の宮廷役職は、国王ループレヒト時代の宮廷長職を別に すれば、ほぼすべて宮中伯と密接な関係を持つライン・ネッカー地方出身の下級貴族によって占められていた。プファ ルツ宮廷におけるこの社会層の存在の重みがそこには示 されているのである 。 ⒝   書記局

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  前述のように制度の存在を前提にできない西洋中世宮廷において、書記局は、それでも一般に最も早く、制度化およ び学識化がすすんだ部門である。書記局研究は、証書研究との関連で研究蓄積の厚い分野であ る )11 ( が 、ライン宮中伯の書 記局についても一連のモノグラフと論文により、一三世紀から一五世紀前半までのその歴史が解明されて い )1( ( る 。ここで は、それらによりながら、プファルツ書記局の発展を、特に人的側面に留意しつつ、見ていこう。   宮中伯ルートヴィヒ一世の時代にバイエルン公と区別された宮中伯の書記がどの程度活動していたのかは、はっきり し な )11 ( い 。その子オットー二世が宮中伯となったがまだバイエルン公とならない時期 (一二二八─一二三一年) について、 バ イ エ ル ン 出 身 の コ ン ラ ー ト・ ロ ー ゼ ナ プ Konrad Losenab を は じ め 何 人 か の 書 記 が、 ル ー ト ヴ ィ ヒ 一 世 に 仕 え る 書 記 とは区別されて、ハイデルベルク等でオットー二世のために働いていたことが知ら れ )11 ( る 。一二三一年にオットー二世が ライン宮中伯とバイエルン公を兼ねるようになった後も、主にライン地方を担当する書記が一人いたかもしれ な )11 ( い 。し かし一三世紀のヴィッテルスバッハ家の君主たちにおいては、 上述のようにバイエルン公としての活動が優越しており、 ルートヴィヒ二世のもとでは、ライン地方に特化した書記の活動はほとんど見られ な )11 ( い 。ルードルフ一世(およびその 弟 ル ー ト ヴ ィ ヒ ) の も と で も 事 態 は 同 様 で、 ラ イ ン の ヴ ィ ッ ツ ト ゥ ー ム Vitztum ( 後 述 の よ う に ラ イ ン 地 方 全 体 に つ い て宮中伯を代理して統治にあたった) のもとで働く書記がいたと考えられる他は、ライン地方に特化した書記の活動は まとまった形では知られてい な )11 ( い 。プファルツ独自の書記局が発達するのは、 一三二九年のパヴィア協定によってプファ ルツ系ヴィッテルスバッハ家の支配範囲が確定した後、特に宮中伯ループレヒト一世のもとでのことになる。   書記局の高級役職として問題となるのは、 書記局長 Kanzl e )11 ( r と上級書記 Protonotar である。書記局長のタイトルは、 プファルツ領邦では一四世紀の間もほとんど現れず、一四〇〇年に宮中伯ループレヒト三世が国王になって、ようやく 書記局長が目立った形で登場する。国王ループレヒトのもとでは、シュパイアー司教ラバン・フォン・ヘルムシュタッ

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ト Raban von Helmstatt が書記局長であったが、 彼の就任はドイツの国王書記局の伝統の延長として理解されるべきも のであった。ラバンは、プファルツと代々密接な関係にあった下級貴族家門の出身で、ハイデルベルク、ヴィーン、ボ ローニャの諸大学で学び、 学位は得なかったが法学の重要性を理解していたと思われる。 彼が一三九六年にシュパイアー 司教位を得たのもライン宮中伯の後援によるものであり、その後ラバンはおそらくループレヒトの王位獲得を背後から 支え、一四〇〇年以後はほぼ常に国王に同行した他、外交使節としても派遣されるなど、国王側近として政治的に極め て重要な役割を果た し )11 ( た 。ラバンは文書作成に関しても、とりわけおそらく彼が書記局に呼び込んだ書記が関わった文 書に、作成委託・指示者として現 れ )11 ( る 。ラバンは、国王の死後、国王宮廷の書記局長職から離れるが、後述のように顧 問として現れるなど、ルートヴィヒ三世下のプファルツとも密接な関係を保 っ )11 ( た 。   その後、ルートヴィヒ三世のもとで、その治世晩年にルートヴィヒ・フォン・アスト Ludwig von Ast が書記局長の タイトルを帯びて現れる。彼は次のルートヴィヒ四世のもとでも同様に書記局長として登場 す )1( ( る 。フリードリヒ一世の も と で は、 学 識 法 曹 ヨ ハ ン・ グ ル デ ン コ プ フ Johann Guldenkopf が 一 四 五 〇 年 に 書 記 局 長 と し て 史 料 に あ ら わ れ、 彼 の 後 は や は り 法 学 を 学 ん だ マ テ ィ ア ス・ ラ ム ン グ Matthias Ramung が 一 四 五 七 年 以 来 書 記 局 長 で あ っ た が、 彼 は 宮 中 伯の後援を得てシュパイアー司教の地位に就いた後も、一四七八年に死ぬまでプファルツの書記局長にとどまった。こ の パ タ ー ン は、 そ の 後 一 四 八 七 年 か ら 一 四 九 七 年 ま で 書 記 局 長 で あ っ た 学 識 法 曹 ヨ ハ ン・ フ ォ ン・ ダ ル ベ ル ク Johann  von Dalberg によっても踏襲され、彼も一四八二年から一五〇四年までヴォルムス司教であ っ )11 ( た 。   このように、書記局長の役職は、ドイツ国王宮廷の伝統に従う形ではじめてプファルツ宮廷に現れ、一五世紀に定着 することになったが、その職に就いたのはすべて学識法曹かそれに近い人物であり、司教職を兼務する例も多く見られ た。 その際、兼務されたのがシュパイアーおよびヴォルムスの司教位であったことは、後述するようなライン宮中伯に

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よる両司教座のコントロールを反映している。書記局長たち は概して、書記局の実際の業務を細かく指揮するというよ りは、君主に最も近い側近の一人として助言活動を行い、また外交など政治的に重要な任務を担ったのであった。   そ れ に 対 し て、 実 際 の 書 記 局 業 務 を 指 揮 し た の は 上 級 書 記 Protonotar, Oberster Schreiber で あ っ た。 ル ー プ レ ヒ ト 一 世 の も と で は、 ニ コ ラ ウ ス・ フ ォ ン・ ヴ ィ ー ス バ ー デ ン Nikolaus von Wiesbaden を は じ め、 他 に ハ イ ン ル ヒ Heinrich 、 ハインリヒ ・ フォン ・ ディーバッハ Heinrich von Diebach 、 オットー ・ リーマン ・ フォム ・ シュタイン Otto  Riemann vom Stein の都合四人の上級書記の名が知ら れ )11 ( る 。ニコラウスは、 一三七五年以降上級書記として史料上確認 されるが、一三八一年にはループレヒトの後援のもと、ローマの教皇ウルバヌス六世によってシュパイアー司教に任命 さ れ )11 ( る 。ニコラウスはプファルツ宮廷に仕える前は、一三六七年にマインツ大司教の書記として登場しており、この点 で彼は、ライン地方の複数の宮廷を移りながら奉仕する下級貴族出身者の一例と言える。   国王ループレヒトのもとでは、 マティアス ・ フォルツ ・ フォン ・ ゾーベルンハイム Mathias Voltz von Sobernheim 、 ヨハネス・サルトリウス・フォン・ヴァインハイム Johannes Sartoris von Weinheim 、ヨブ・フェーナー Job Vener 、 ニ コ ラ ウ ス・ ブ ー マ ン Nikolaus Buman 、 ウ ル リ ヒ・ フ ォ ン・ ア ル ベ ッ ク Ulrich von Albeck ( 後 に 一 四 〇 七 年 に フ ェ ル デ ン 司 教 と な る )、 ヨ ハ ネ ス・ キ ル ヒ ェ ン Johannes Kirchen 、 エ グ ロ ル フ・ フ ォ ン・ ク ネ リ ン ゲ ン Eglolf von  Knöringen 、 フリードリヒ・シャイファルト・フォン・メローデ Friedrich Scheiffarth von Merode 、 アルベルト・フラ イシュマン・フォン・エッゴルスハイム Albert Fleischmann von Eggolsheim の九人の上級書記が知ら れ )11 ( る 。このうち 後の三人は書記局における文書作成に言うに足る規模でかかわった形跡がなく、彼らのタイトルはその意味では名目的 なところがあった。 マティアスとヨハネス・サルトリウス は、ループレヒトの国王即位前から既にプファルツに仕えて おり、一方 ヨハネス・キルヒェン は前任国王ヴェンツェルの宮廷で活動していた。また ヨブ、ニコラウス、ウルリヒ、

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エゴルフ、フリードリヒ・シャイファルトの五人 はイタリアなどの大学で学んだ学識法曹であり、彼らの存在はループ レヒトの国王統治全体にそれまでにない学識法学的特徴を与えるものであった。中でもヨブ・フェーナーは宮廷の学識 法曹として傑出した存在であ っ )11 ( た 。これら上級書記のうち、 マティアス、 ニコラウス、 ヨハネス ・ サルトリウス はプファ ルツ領邦にかかわる「内政」事項を主に担当し、それに対してヨブとウルリヒは教会・対外政策を主に担当し、ヨハネ ス ・ キルヒェンは主として国王宮廷裁判所関係の仕事を受け持 っ )11 ( た 。国王ループレヒトの宮廷では、 おおざっぱに見て、 同 時 期 に 三、 四 人 の 上 級 書 記 が 活 動 し て い た。 彼 ら も 書 記 局 長 と 同 様 に 広 く 政 治 的 な 任 務 に も 投 入 さ れ た。 ま た 彼 ら は すべて聖職者であった。国王ループレヒトの死後、 ヨハネス・キルヒェン は新国王ジギスムントの宮廷へ移り、ヨブと ヨハネス・サルトリウスはプファルツ宮廷での奉仕を続けた。   このように、上級書記の中には、一方で宮廷においてあまり重要な活動を示さなかった者もおれば、他方でキャリア の面でも君主のための活動の面でも、書記局長と遜色ない者もおり、その間にかなり広い幅が存在した。また書記局長 の場合と同様、この職にも、国王ループレヒトのもとでかなりの数の学識法曹が登場するのである。   書記については、ループレヒト一世のために働いた書記として一八人の名が知ら れ )11 ( る 。他に名前の知られていない証 書 の 書 き 手 が 一 二 人 確 認 さ れ て い )11 ( る 。 た だ し 個 々 の 書 記 の 登 場 頻 度 は さ ま ざ ま で あ っ た。 ま た 同 じ 時 期 に は、 三、 四 人 の書記が平行して活動して い )11 ( た 。   国王ループレヒトのもとでは、蓋然性が高いケースも含めると一八人の書記の名が知ら れ )1( ( る 。上級書記同様彼らも、 一部は従来のプファルツ宮廷から、 一部は前任国王ヴェンツェルの宮廷から、 更に一部は書記局長ラバンとの関係から、 国 王 ル ー プ レ ヒ ト へ の 奉 仕 に 入 っ た 。一 四 一 〇 年 以 後 は 、こ の レ ベ ル の 書 記 達 の 大 半 は プ フ ァ ル ツ へ の 奉 仕 に と ど ま っ た 。   ルートヴィヒ三世のもとで活動していた書記としては、一七人が筆跡比較から検出されて い )11 ( る 。そのうち四人の活動

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痕 跡 は 一 〇 年 以 上 に ま た が っ て い た。 同 時 期 に 活 動 し て い る 書 記 の 数 は、 最 大 で 四、 五 人 で あ っ )11 ( た 。 名 を 知 ら れ て い る 書 記 と し て は、 ヨ ハ ネ ス・ エ ル プ シ ュ タ ッ ト・ フ ォ ン・ ヴ ォ ネ ッ ク Johannes Erbstat von Wonneck 、 ヤ ー コ プ・ ハ イ マースハイム ・ フォン ・ アルツァイ Jakob Heimersheim von Alzey 、 アンドレアス ・ コルブラー ・ フォン ・ ヘムバウアー Andreas Korbler von Hembauer 、 ヨハネス・ラーデバウム Johannes Ladebaum 、 ハインリヒ・ミンネキント Heinrich  Minnekind  ( ハ ー ゲ ナ ウ Hagenau の 地 方 書 記 Landschreiber )、 エ メ リ ヒ・ フ ォ ン・ モ ー シ ェ ル ン Emmerich von  Moscheln  ( オ ッ ペ ン ハ イ ム Oppenheim の 地 方 書 記 )、 ヨ ハ ネ ス・ ザ イ フ ェ リ ン・ フ ォ ン・ ラ ー デ ン ブ ル ク Johannes  Syffelin von Ladenburg 、 ハインリヒ・トロスト・フォン・ヴァッヘ Heinrich Trost von Vache が い )11 ( る 。このうち、 ヨ ハネス・エルプシュタット、アンドレアス・コルブラー、ハインリヒ・トロスト の三人は、筆跡比較から判明した書記 と同定されており、 ヨハネス・エルプシュタット、ヤーコプ・ハイマースハイム、アンドレアス・コルブラー、ヨハネ ス・ラーデバウム、ハインリヒ・トロストの五人 は、ハイデルベルクなどの大学で勉学した経験がある。また、 ヨハネ ス・エルプシュタット、ヤーコプ・ハイマースハイム、ヨハネス・ラーデバウム、エメリヒ、ヨハネス・ザイフェリン は既にルートヴィヒの父である国王ループレヒトに仕えていた。   このように、書記局長や上級書記よりも重要度が落ちる一般の書記のレベルでは、国王ループレヒトの統治の前後で の連続性がかなり強くなっている。   以 上 の よ う な 人 的 構 成 の プ フ ァ ル ツ 書 記 局 で は、 一 五 世 紀 に は、 か な り 活 発 に 各 種 の 文 書 が 作 成 さ れ て い た。 ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 の 治 世 か ら は、 全 部 で 約 一 八 〇 〇 の 証 書 と 手 紙 の 存 在 が 知 ら れ る。 も っ と も、 と り わ け 手 紙 に つ い て は 多 く の 喪 失 も 計 算 に 入 れ ら れ な け れ ば な ら な )11 ( い 。 既 に ル ー プ レ ヒ ト 一 世 の も と で、 宮 中 伯 が 発 出 す る 文 書 に 用 い ら れ る言語は、圧倒的にドイツ語となって い )11 ( る 。ルートヴィヒ三世のもとでも、ラテン語文書は例外的で、ほとんど外国の

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受領者や教会関係の受領者に対して発行されたもので あ )11 ( る 。文書素材はループレヒト一世のもとでもなお獣皮紙が主で あったが、一四世紀後半には次第に紙の使用が増加した。ただし、紙は主に手紙に使われ、証書にはまったく使われな か っ )11 ( た 。ルートヴィヒ三世のもとでも、紙に書かれた証書は七例のみで、むしろ例外的なものにとどまって い )11 ( る 。   文書作成の活発化をも背景として、作成手続や保管・整理方法も次第に発達した。   例 え ば、 印 章 の 分 化 が 見 ら れ た。 ル ー ド ル フ 一 世( お よ び そ の 弟 ル ー ト ヴ ィ ヒ ) の も と で は、 大 型 の 騎 士 図 像 印 章 Reitersiegel と 小 型 の 秘 密 印 章 Sekretsiegel が 使 い 分 け ら れ て い )11 ( た 。 ル ー ド ル フ 二 世、 ル ー プ レ ヒ ト 一 世、 ル ー プ レ ヒ ト二世のもとでも、 同様であ っ )1( ( た 。 一三二八年の証書を当時一七歳のループレヒト一世は 秘密印章 を用いて発行したが、 その一方で、後見人であるナッサウ伯ゲアラッハが戻った後に、 騎士図像印章 を用いて同様の証書を出すことを約束し て い )11 ( る 。この例からは、 騎士図像印章 が格の高い印章と見なされていたことがわかる。ルートヴィヒ三世のもとでは、 騎 士 図 像 印 章 、 紋 章 印 章 Wappensiegel 、 秘 密 印 章 、 指 環 印 章 Ringsiegel の 四 種 が 使 わ れ る が、 大 半 の 文 書 は 紋 章 印 章 を付して出さ れ )11 ( た 。 騎士図像印章 は特に重要な文書にのみ使われた。 秘密印章 は主に封緘書状の封印として用いられた。 指環印章 の使用例はルートヴィヒ三世の治世末年からのみ知られる。   ループレヒト一世、二世のもとでは、関係書類をまとめて保管したり、一つに縫い合わせたりするなど、 一件書類作 成 の 萌 芽 が 散 発 的 に 見 受 け ら れ )11 ( る 。 ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 の も と で も、 同 様 に い く つ か 萌 芽 と 見 な し う る も の が 伝 わ っ て い )11 ( る 。   おそらく既に一四世紀半ばには、プファルツの文書は主にハイデルベルクで保管されていたら し )11 ( い 。ハイデルベルク の文書庫の存在がはっきりするのは、一四一〇年の分割相続に際してのことである。もっとも、この時点でも、すべて の 文 書 が 中 央 で 集 中 管 理 さ れ た わ け で は な く、 地 方 の ア ム ト の 地 方 書 記 Landschreiber の も と で 関 係 文 書 が 保 管 さ れ る

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こともあった。ループレヒト一世のもとで、ループレヒト一世あての文書とループレヒト二世あての文書は分けて保管 されていたようである。ルートヴィヒ三世のもとで、ハイデルベルクの文書庫は史料上 しばしば 確認さ れ )11 ( る 。例えば所 領分割や遺言に際して、文書庫はプファルツの支配の構成要素として言及されている。文書庫は、 自由学芸マギステル の タ イ ト ル を 持 っ て い た ウ ル リ ヒ・ ツ ィ ン ゲ ル ル Ulrich Zingerl に よ っ て 管 理 さ れ て い た が、 彼 は 既 に 国 王 ル ー プ レ ヒ トに仕えていた人物であった。   書 記 局 と 宮 中 伯 統 治 の 発 達 を と り わ け よ く 示 す の は、 台 帳 Register と 筆 写 文 書 集 Kopialbücher の 作 成 で あ る。 ル ー プレヒト一世のもとで、一三五〇年代から台帳が運用さ れ )11 ( た 。ループレヒト一世の文書を含むものとしては、現在五つ の台帳が伝わっている。そこに含まれている文書のほとんどは宮中伯が発した文書(主に証書)であり、受け入れた文 書は例外的である。文書を分類して別々の台帳を作ることはなされず、一まとめにして年代順に記載された。ほぼ同内 容の文書については完全な転写を省略するなどの工夫が見られる他は、あまり細かい技術は見られないが、それでもこ のような台帳運用の開始は、書記局の発達を示す一つのメルクマールと言えるであ ろ )11 ( う 。   更 に、 ル ー プ レ ヒ ト 一 世 は 一 三 五 六 年 に、 重 要 な 特 権 状 を ま と め た 筆 写 文 書 集 Kopialbuch を 作 ら せ )11 ( た 。 こ れ は、 宮 中伯が皇帝、国王等から受領した永続的な効力を有する文書を収めるべきものとして作られ、皇帝ルートヴィヒ四世、 カール四世の証書の他、それ以前に出されたプファルツの支配にとって特に重要な証書も筆写・収録さ れ )1( ( た 。これとは 別に、ループレヒト一世一代の間しか効力を持たない文書を収録する 筆写文書集 も伝わって お )11 ( り 、体裁等から見てやは り同じ時期にループレヒトの命で作成されたものと思われる。とりわけ、台帳に比べて系統的に整理した記載がなされ た 筆写文書集 は、プファルツ支配における文書の意義の増大とそれに対する宮中伯ループレヒト一世の高い感度を示す ものと言え よ )11 ( う 。

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  国王ループレヒトのもとでも、複数の台帳が作成された。そこでは、 帝国(ライヒ) 関係の文書とプファルツ関係の 文書が区別され、その上で更に使用言語と使用印章による分類がなさ れ )11 ( た 。すなわち、 帝国 関係のラテン語証書は、 大 権 印 章 Majestätssiegel 使 用 の も の と 秘 密 印 章 使 用 の も の に 分 け ら れ て 現 在 ヴ ィ ー ン に 伝 わ る 台 帳 に 記 載 さ れ、 一 方 帝 国関係のドイツ語証書のうち、 大権印章 によるものは現在ヴィーンに残る別の台帳に、 秘密印章 によるものはカールス ルーエに伝わる台帳に記載された。プファルツ関係の証書は、やはり言語によって分けられた上で、カールスルーエに 残る台帳にまとめられた。その他、国王としてのレーン台帳やその他の台帳も残るほか、国王宮廷裁判所でも台帳が運 用されていたがこれは失われた。こうした、帝国関係と領邦関係、使用された言語や印章による証書の分類は、前任国 王ヴェンツェルのもとでも、従来のプファルツ書記局でも見られないものであり、前述の書記局長ラバン・フォン・ヘ ルムシュタットのイニシアティヴによるものと推測されて い )11 ( る 。   ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 の 書 記 局 か ら は、 三 つ の 台 帳 が 伝 わ )11 ( る 。 そ の う ち 一 つ は 上 プ フ ァ ル ツ Oberpfalz の た め の 特 別 台 帳 で あ )11 ( る 。現在カールスルーエの文書館に伝わる二つの台帳は、宮中伯が関係した質入れなどの証書を含んでいる。その う ち 一 つ は 索 引 Index も 備 え て お り、 検 索 が 容 易 に な っ て い )11 ( る 。 現 在 ヴ ァ テ ィ カ ン に 伝 わ る 役 職 台 帳 Amtsbuch は、 宮中伯が出した文書と受け取った文書の両方を記載して い )11 ( る 。既にループレヒト一世のもとでおそらくそうであったよ うに、また中世後期の多くのドイツ領邦の書記局と同様、ルートヴィヒ三世のもとでも、永続的な効力を有する文書と 一時的な効力しか有しない文書は、別々の台帳に記載さ れ )11 ( た 。前述のカールスルーエの二つの台帳は、いずれも後者の タイプで、ルートヴィヒ三世一代限りの効力しか持たない文書を収めている。この二つの台帳への記載は、印章と同様 の 証 明 力 を 持 つ と さ れ )1( ( た 。 と こ ろ が、 台 帳 へ の 記 載 は 文 書 の 清 書 Reinschrift で は な く、 ま ず 文 案 Konzept の 写 し に 基 づ い て な さ れ て お り、 後 か ら 清 書 に よ っ て 修 正 さ れ た 形 跡 が 数 多 く 残 っ て い る。 台 帳 は 当 座 は 議 事 録 Protokoll の 様 に

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扱われ、現在残る形にとじられたのは、ルートヴィヒ三世死後のことと考えら れ )11 ( る 。レーン台帳は、現在残る形にまと められたのはやはりルートヴィヒ三世の死後だが、彼の生前に運用されており、彼のもとでのレーン授受の記録を含ん で い )11 ( る 。ルートヴィヒ三世のもとで、レーン証書やブルクフリーデ証書の作成には、統一的な書式が用いら れ )11 ( た 。その 他にも、三つの台帳断片が知ら れ )11 ( る 。   このように、一四世紀から一五世紀にかけて、君主の活動と領邦統治における文書の意義の増大を背景として、ライ ン宮中伯の書記局とそこでの文書作成・保管・整理は着実な発展を遂げていった。もっとも、書記局が中世後期の大半 を通じて全体としての宮廷の枠内に組み込まれていたことを考え れ )11 ( ば 、そこでの制度化・官庁化の進展を過大に評価し ないよう、注意が必要であろう。書記局は、人的に以下で述べる顧問とも大きく重なり合っており、その点でも、人員 と権限を明確に画された官庁のごときものを想定するのは妥当でないのである。 ⒞   顧問   中 世 後 期 ド イ ツ の 君 主 統 治 に お け る 顧 問 Rat の 存 在 は、 そ の 政 治 的 重 要 性 に も か か わ ら ず、 書 記 局 と 比 べ て 制 度 的 輪郭の著しく不明瞭なものであ っ )11 ( た 。中世後期ライン宮中伯の顧問については、書記局研究の枠内であわせて研究され てきて い )11 ( る 。ここでは、先行研究によりつつ、ルートヴィヒ三世期までの顧問について、どのような人物が現れるかを 見ておこう。   一三世紀後半には、 ルートヴィヒ二世と下バイエルン公ハインリヒの兄弟の対立などに際して、 特定の側近が、 委員、 仲裁人、保証人などとして繰り返し登場するが、彼らはほとんどバイエルン出身の家人と貴族であ っ )11 ( た 。ルードルフ一 世とその弟ルートヴィヒのもとでも、一定の範囲の顧問が、所領分割などの際に仲裁人や保証人として現れるが、やは

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りほとんどバイエルン出身であ っ )11 ( た 。   一三三〇年頃からルードルフ二世とループレヒト一世のもとでも、顧問が登場 す )1( ( る 。しかし、具体的に誰が顧問であ るかを確認し、顧問グループの範囲を決めるのは、容易ではない。仲裁人として登場することや、裁判と所領分割に関 与することなど、顧問に特徴的な活動を行っていることから、顧問としての地位を類推することが考えられるが、完全 に確実とは言えないであろう。それでも、留保付きでそのような類推を行った結果、ヨアヒム・シュピーゲルは、そう した活動でしばしば姿を見せるループレヒト一世の顧問として、 カッツェンエルンボーゲン Katzenelnbogen 伯 ( ディー ター、 エーバーハルト、 ヨハン、 ヴィルヘルム )、 エーバーシュタイン Eberstein 伯( ヴィルヘルム一世、 二世、 ヴォルフ )、 フ ェ ル デ ン ツ Veldenz 伯( ハ イ ン リ ヒ )、 ラ イ ニ ン ゲ ン Leiningen 伯( エ ミ ッ ヒ、 フ リ ー ド リ ヒ )、 ナ ッ サ ウ Nassau 伯 ( ゲ ア ラ ッ ハ 一 世、 ヨ ハ ン 一 世、 二 世 )、 シ ュ ポ ン ハ イ ム Sponheim 伯( フ ィ リ ッ プ、 ハ イ ン リ ヒ、 ヨ ハ ン 三 世、 四 世、 ヴ ァ ル ラ ム )、 キ ル ベ ル ク の ヴ ィ ル ト グ ラ ー フ Wildgraf von Kirberg ( フ リ ー ド リ ヒ、 ゲ ア ハ ル ト ) と い っ た 中 ラ イ ン 地 方 の 多 く の 伯 た ち や、 エ ッ テ ィ ン ゲ ン Oettingen 伯 ル ー ト ヴ ィ ヒ( 大 )、 ヴ ュ ル テ ン ベ ル ク Württemberg 伯 ウ ル リ ヒ 三 世 と い っ た シ ュ ヴ ァ ー ベ ン 北 部 の 伯 た ち、 お よ び フ ィ リ ッ プ・ フ ォ ン・ ボ ラ ン デ ン Philipp von Bolanden 、 ハ イ ン リ ヒ・ フ ォ ン・ フ レ ッ ケ ン シ ュ タ イ ン Heinrich von Fleckenstein 、 ゲ ア ラ ッ ハ・ フ ォ ン・ ホ ー エ ン ロ ー エ Gerlach von  Hohenlohe と い っ た 中 ラ イ ン、 エ ル ザ ス、 シ ュ ヴ ァ ー ベ ン の フ ラ イ ヘ ル 級 の 貴 族 た ち を あ げ て い )11 ( る 。 ま た 下 級 貴 族 と し て は、 ベ ル ヒ ェ ン ダ ー ル Belchendal ( ハ イ ン リ ヒ、 ヨ ハ ン )、 ケ メ ラ ー( ダ ル ベ ル ク ) Kämmerer von Dalberg ( フ リ ー ド リ ヒ )、 ク ネ ー ベ ル ( フ ォ ン・ カ ッ ツ ェ ン エ ル ン ボ ー ゲ ン ) Knebel von Katzenelnbogen ( コ ン ラ ー ト、 タ ム、 ディーター、 ヴェルナー) 、 エアリッヒハイム Erligheim (アルブレヒト、 ハインリヒ、 ヘンネル Hennel 、 ハインリヒ ・ ホ ル ン バ ッ ハ Heinrich Hornbach )、 フ ェ ニ ン ゲ ン Venningen ( ハ ン ス、 ジ ー ク フ リ ー ト( 大 )) 、 ハ ン ト シ ュ ー ス ハ イ

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ム Handschuhsheim ( デ ィ ー タ ー、 ハ イ ン リ ヒ )、 ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト Helmstadt ( ラ バ ン、 ヴ ィ プ レ ヒ ト Wiprecht )、 ヒ ル シ ュ ホ ル ン Hirschhorn ( エ ン ゲ ル ハ ル ト )、 ラ ン ト シ ャ ー ト Landschad ( ブ リ ッ カ ー Blicker 、 コ ン ラ ー ト )、 シ ュ タ イ ン Stein ( ゲ ア ハ ル ト )、 ジ ッ キ ン ゲ ン Sickingen ( ラ イ ン ハ ル ト ) と い っ た プ フ ァ ル ツ と 関 係 の 深 い 家 門 の 出 身 者 の他、 Wilhelm von Manderscheidt, Eberhard der Mistelbeck, Nikolaus von Wiesbaden, Kuno von Reiffenberg, Johann  von Reiffenberg, Konrad von Rosenberg な ど が 割 り 出 さ れ て く る。 こ れ ら 下 級 貴 族 た ち の 多 く は、 前 述 し た よ う に 宮 廷 長、 財 庫 長 と い っ た 宮 廷 の 役 職 や、 後 述 す る よ う な ヴ ィ ッ ツ ト ゥ ー ム Vitztum 、 フ ォ ー ク ト Vogt 、 ブ ル ク グ ラ ー フ Burggraf 、 地方書記 Landschreiber といった地方の役職を帯びて い )11 ( た 。   ループレヒト二世に仕えた側近としては、一三九八年の彼の遺言に登場する者たちが特に重要であろう。 ヴィプレヒ ト・フォン・ヘルムシュタット Wiprecht von Helmstadt 、 ヨハン・ケメラー・フォン・ダルベルク Johann Kämmerer  von Dalberg 、タム ・ クネーベル Tham Knebel  ( オッペンハイム Oppenheim のシュルトハイス Schultheiß )、 ディーター ・ フ ォ ン・ ハ ン ト シ ュ ー ス ハ イ ム Dieter von Handschusheim の 四 人 が、 遺 言 者 の 息 子 ル ー プ レ ヒ ト 三 世 と と も に 遺 言 執 行人に指名されており、更に ラバン・フォン・ヘルムシュタット Raban von Helmstadt 、 ルードルフ・フォン・ツァイ ス カ ム Rudolf von Zeiskam が 別 に 任 務 を 委 託 さ れ て い )11 ( る 。 す べ て 中 ラ イ ン 地 方 の 下 級 貴 族 家 門 の 出 身 で あ る が、 彼 ら のうち、ダルベルクとツァイスカム以外の四人は、前述のループレヒト一世時代の顧問として既に登場しており、また ハントシュースハイム以外の五人は後述のように、次の国王ループレヒトのもとでも、中心的な顧問として登場するの である。   国王ループレヒト時代の顧問に関しては、ペーター・モーラフの立ち入った研究があるので、以下これに拠りつつ顧 問 の 顔 ぶ れ と 顧 問 集 団 全 体 の 構 成 を 確 認 し よ う。 モ ー ラ フ は、 顧 問 と し て、 七 六 人 の 俗 人 と 三 一 人 の 聖 職 者 を あ げ て

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い )11 ( る 。彼は俗人顧問を、プファルツの領邦的伝統に属する者とそうでない者に分類するが、前者には四七人が属する。 この四七人をモーラフは更に、君主と最も緊密な関係にある者、しばしば君主の周囲に登場するが関係がそれほど密で ない者、ほとんど一回程度しか顧問として登場しない者、に三分するが、人数はそれぞれ八、 一九、 二〇人と な )11 ( る 。   第一グループに属するのは、 ライニンゲン伯エミッヒ六世、ルードルフ ・ フォン ・ ツァイスカム、タム ・ クネーベル、 ハンス(五世) ・ フォン ・ ヒルシュホルン、ヨハン(一〇世) ・ ケメラー ・ フォン ・ ダルベルク、ヴィプレヒト(大) ・ フォン ・ ヘルムシュタット、シュヴァルツ ・ ラインハルト ・ フォン ・ ジッキンゲン Schwarz Reinhard von Sickingen 、 ヘルマン ・ フォン・ローデンシュタイン Hermann von Rodenstein である。このうち前四者は、上述したように宮廷役職の保持者 であり、また ヴィプレヒト は書記局長ラバンの父であった。このうちおそらく最も重要な顧問は、 ハンス・フォン・ヒ ルシュホルン であったが、この家系は、宮廷役職の項でも登場したように、プファルツと密接な関係を持ち続けた下級 貴族であるとともに、豊富な所領と多くの封臣、ルートヴィヒ四世時代以来の王権との直接的関係などで他の下級貴族 家門から傑出した存在でもあった。このような出自をも背景に、ハンスはとりわけ他の宮廷との外交において、著しい 足跡を史料に残して い )11 ( る 。ライニンゲン伯以外、この君主と最も密接なグループはすべて下級貴族で占められており、 この階層の重要性は明らかである。しかし同時に、ライニンゲン伯という、代々のドイツ王権とも直接関係を持ち、み ずから中ライン地方で小規模な領邦支配を建設しつつあった中級貴族が、このカテゴリーで姿を見せることは、プファ ルツ支配のヘゲモニー的性格を反映するものとも言 え )11 ( る 。   第二グループに属する顧問としては、 ヘルムシュタット(ハンス、ヴィプレヒト(小) )、ヒルシュホルン(エーバー ハ ル ト )、 ジ ッ キ ン ゲ ン( ハ ン マ ン Hanman 、 ラ イ ン ハ ル ト( 小 )、 エ ー バ ー ハ ル ト ) と い っ た 第 一 グ ル ー プ と 同 一 家 門 の 出 身 者、 ア ル ブ レ ヒ ト・ フ ォ ン・ ベ ル ヴ ァ ン ゲ ン Albrecht von Berwangen 、 フ リ ー ド リ ヒ・ フ ォ ン・ ハ ウ ベ ン

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Friedrich von Hauben 、ハインリヒ ・ フォン ・ ハウベン、ディーター ・ フォン ・ ハントシュースハイム、ジーモン ・ フォン ・ タールハイム Simon von Thalheim といった宮廷役職保持者とその一族、その他 ラントシャート ・ フォン ・ シュタイナッ ハ Landschad von Steinach ( ク ン ツ 一 〇 世、 ウ ル リ ヒ )、 ハ ン ス( 大 )・ フ ォ ン・ フ ェ ニ ン ゲ ン Hans der Ältere von  Venningen 、 エ ー バ ー ハ ル ト・ フ ォ ン・ メ ン ツ ィ ン ゲ ン Eberhard von Menzingen と い っ た ラ イ ン 地 方 の 下 級 貴 族 が あ げられるのに対して、より大きな支配を背景とする中級貴族としては ライニンゲン伯フリードリヒ八世 と エーバーハル ト一〇世 ・ シェンク ・ フォン ・ エアバッハ を見るのみである。 なお、 上プファルツ関係者として、 アルトマン ・ ケムナーター ・ アウフ・ルッツマンシュタイン Altmann Kemnater auf Lutzmannstein と コンラート・カストナー Konrad Kastner が この集団に属する。これら第二グループは、帝国政治よりも、多くは領邦レベルの政治の場で活動 し )11 ( た 。   第 三 グ ル ー プ に 数 え ら れ る の は 、 Werner von Albig, Eberhard Erlenhaupt von Saulheim, Simon Grans von Rheinberg,  Hanman Schultheiß von Weinheim, Raban von Helmstadt, Gerlach Knebel von Katzenelnbogen, Otto Knebel von  Katzenelnbogen, Werner Knebel von Katzenelnbogen, Kunz Mönch von Rosenberg, Eberhard von Neipperg, Siegfried I.  von Oberstein in Gundheim, Gerhard von Odenbach gen. von Kropsburg, Reinhard von Remchingen, Ulrich Salzkern,  Konrad von Stein, Wilhelm von Waldeck, Henne I. von Werberg, Hennel Wisskreis von Lindenfels であり、ほぼすべ てライン地方のプファルツ勢力圏出身の下級貴族で あ )(11 ( る 。   全体として、これらプファルツ関係の顧問達のレベルでは、ループレヒトの国王在位をはさんだ前後で、連続性が顕 著であり、これら顧問たち、とりわけ多くの重要な顧問を出した ヒルシュホルン、ヘルムシュタット、ジッキンゲン、 ラントシャート・フォン・シュタイナッハ、クネーベル といった家門の出身者たちは、プファルツ領邦内および影響圏 内の下級貴族の利害を代弁したのであ っ )(1( ( た 。

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  プ フ ァ ル ツ の 領 邦 的 伝 統 に 属 さ な い 顧 問 は、 以 上 の 領 邦 的 顧 問 と 比 べ て、 出 身 地・ 身 分・ 活 動 頻 度 な ど の 点 で、 き わ め て バ ラ エ テ ィ に 富 ん で い )(10 ( る 。 カ ラ ー ラ 家 の フ ラ ン チ ェ ス コ 二 世 Franz II. von Carrara 、 ジ ョ ヴ ァ ン ニ・ ア リ プ ラ ン デ ィ Giovanni Aliprandi の よ う な イ タ リ ア 人 か ら、 ニ ュ ル ン ベ ル ク の ブ ル ク グ ラ ー フ・ フ リ ー ド リ ヒ 六 世、 バ イ エ ル ン・ イ ン ゴ ル シ ュ タ ッ ト 公 シ ュ テ フ ァ ン 三 世 お よ び ル ー ト ヴ ィ ヒ 七 世 の よ う な 諸 侯 ク ラ ス の 人 物 た ち、 シ ュ ヴ ァ ル ツ ブ ル ク 伯 ギ ュ ン タ ー、 エ ッ テ ィ ン ゲ ン 伯 フ リ ー ド リ ヒ、 エ ン ゲ ル ハ ル ト・ フ ォ ン・ ヴ ァ イ ン ス ベ ル ク Engelhard  von Weinsberg 、 ヴ ェ ル ト ハ イ ム 伯 ヨ ハ ン Johann von Wertheim ( 前 二 者 は 宮 廷 長、 後 二 者 は 国 王 宮 廷 裁 判 官 の タ イ ト ル を 帯 び た ) と い っ た 宮 廷 役 職 の 保 持 者 た ち の 他、 上 プ フ ァ ル ツ・ フ ラ ン ケ ン 東 部・ バ イ エ ル ン 北 部 の ヴ ィ ッ テ ル スバッハ家勢力圏から、 Heinrich Nothaft von Wernberg, Diether der Jüngere Stauf zu Ehrenfels auf Heimhof, Ulrich  Stauf zu Ehrenfels, Hadmar IV. von Laber, Hans Gewolf von Degenberg auf Weißenstein, Konrad II. von Freyberg  auf Hohenaschau, Hartung IV. von Egloffstein, Hans von Mittelburg といったほとんどが下級貴族家系出身の顧問たち がこの集団に属する。これら下級貴族顧問も上プファルツなどにおけるヴィッテルスバッハ家との関係から、国王の周 囲に登場してきたのであった。一方、同じくこの地方に根拠地を持つ ロイヒテンベルクのラントグラーフ・ヨハン一世 Landgraf Johann I. von Leuchtenberg は、 既にルクセンブルク家の国王たちと密接な関係を有した家門に属して い )(10 ( た 。 こ の 他、 フ ラ ン ケ ン の 下 級 貴 族 と し て Ludwig von Hutten, Hans Truchsess von Baldersheim 、 シ ュ ヴ ァ ー ベ ン の 家 門 か ら の 顧 問 と し て Friecrich II. Schenk von Limpurg 、 中 ラ イ ン 出 身 者 と し て ナ ッ サ ウ・ ザ ー ル ブ リ ュ ッ ケ ン 伯 フ ィ リ ッ プ 一 世、 フ ェ ル デ ン ツ 伯 フ リ ー ド リ ヒ 三 世、 ザ イ ン 伯 ゲ ア ハ ル ト 一 世、 Philipp III. von Falkenstein-Münzenberg,  Konrad Beyer von Boppard が あ げ ら れ る。 こ の う ち 中 ラ イ ン 出 身 者 に お い て は、 プ フ ァ ル ツ と マ イ ン ツ 大 司 教 お よ び ト リ ー ア 大 司 教 と の 関 係 が 彼 ら の 顧 問 と し て の 活 動 に も 決 定 的 な 影 響 を 及 ぼ し た。 上 ラ イ ン・ シ ュ ヴ ァ ー ベ ン 南 部

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出 身 の 顧 問 と し て は、 エ ー バ ー シ ュ タ イ ン 伯 ヴ ィ ル ヘ ル ム 三 世、 Johann III. von Zimmern, Johann II. Truchsess von  Waldburg がいる。   これら顧問たちを、プファルツ領邦と関係した顧問達同様の基準で三つに分類すると、第一グループに属するのは、 シュヴァルツブルク伯ギュンター、エッティンゲン伯フリードリヒ、エンゲルハルト・フォン・ヴァインスベルク であ り、第二グループとしては フリードリヒ・シェンク・フォン・リンプルク Friedrich Schenk von Limpurg,  、ヴェルト ハイム伯ヨハン、ハルトゥング・フォン・エグロフシュタイン Hartung von Egloffstein 、ロイヒテンベルクのラントグ ラーフ・ヨハン があげられ、あとはすべて第三グループと見なされうる。   プファルツの領邦的伝統と関係した顧問たちとの比較では、これらプファルツ外の顧問たちの影響力はより限られて おり、また身分的に前者が基本的に下級貴族で占められていたのに対して、後者で最も重要な顧問たちは多く伯やフラ イヘルなどの中級貴族の出であった。両者はこうした形で身分的に「住み分けて」いたのであ っ )(10 ( た 。また後者で最も重 要な顧問たちは、既に以前からドイツ王権と深い関係を持っていた家門から出ていた。ここには、王家の交代を貫く中 世後期ドイツ王権の国王的伝統を見ることが出来るわけで あ )(10 ( る 。   サ ヴ ォ ー ナ Savona 司 教 ヨ ハ ン・ グ リ マ ル デ ィ Johann Grimaldi 、 ア ン ト ニ ウ ス・ デ・ ネ ル リ ス Antonius de Nerlis という二人のイタリア人を除く聖職者顧問をモーラフは、 書記局の書記局長と上級書記、 ハイデルベルク大学およびヴュ ルツブルク大学の教授たち、その他の宮廷に近い聖職者たちという、やはり三つのグループに分類して い )(10 ( る 。   第一グループで、やはり俗人顧問同様に重要度で三段階に区分した場合の、最重要集団には、書記局長 ラバン・フォ ン ・ ヘルムシュタット、 上級書記 ヨハネス ・ サルトリウス ・ フォン ・ ヴァインハイム、ヨブ ・ フェーナー、ウルリヒ ・ フォ ン・アルベック、ヨハネス・キルヒェン が、中位集団には マティアス・フォルツ・フォン・ゾーベルンハイム、ニコラ

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ウス・ブーマン、エグロルフ・フォン・クネリンゲン、 最も重要度の低い集団には上級書記フリードリヒ・シャイファ ルト・フォン・メローデ、アルベルト・フライシュマン・フォン・エッゴルスハイムが属する。 前述のように このうち ラバンは大学での勉学経験があり、 ヨブ、ウルリヒ、エグロルフ、フリードリヒ・シャイファルト は法学の学位を持っ ていた。出身地の点では、プファルツの影響圏の外から来たものが多か っ )(10 ( た 。   第 二 グ ル ー プ で 最 も 重 要 な 顧 問 と し て は、 神 学 者 マ テ ウ ス・ フ ォ ン・ ク ラ カ ウ Mathäus von Krakau 、 法 学 者 ニ コ ラ ウ ス・ ブ ル ク マ ン Nikolaus Burgmann が お り、 中 位 の 重 要 性 を 示 し た 顧 問 と し て は 神 学 者 コ ン ラ ー ト・ フ ォ ン・ ゾ ル タ ウ Konrad von Soltau 、 神 学 者 ニ コ ラ ウ ス・ プ ロ ヴ ィ ン Nikolaus Prowin 、 神 学 者 コ ン ラ ー ト・ コ ー ラ ー・ フ ォ ン・ゾースト Konrad Coler von Soest が、最も重要度の低い顧問としては神学者 Heilmann Wunneberg von Worms 、 教 会 法 学 者 Johann van der Noyt aus Bruessel 、 神 学 者 Nikolaus Magni von Jauer 、 教 会 法 学 者 Nikolaus Petri von  Bettenberg 、 神 学 者 Johann Lagenator von Dieburg が あ げ ら れ る。 こ れ ら の 学 者 た ち は 出 身 地 の 点 で は き わ め て 広 い 範囲にわたっていたが、他方でとりわけハイデルベルク大学というプファルツの大学を通じてプファルツ領邦と深くか かわっていたのであ っ )(10 ( た 。   第三グループはもっともばらつきが大きいが、これには最も重要度の高い顧問として ヨハン・フォン・ヴァレンロー ト Johann von Wallenrod ( リ ガ 大 司 教 )、 コ ン ラ ー ト 七 世・ フ ォ ン・ エ グ ロ フ シ ュ タ イ ン Konrad VII. von Egloffstein (ドイツ騎士修道会ドイツ地区長 Deuschmeister ) が属し、 最も重要度の低い顧問としては Johann von Egloffstein (ヴュ ル ツ ブ ル ク 司 教 ), Otto von Milz ( ヴ ュ ル ツ ブ ル ク の Domdekan ), ヴ ュ ル ツ ブ ル ク の 教 会 法 学 者 Johannes Ambundii  de Swan, Albrecht IV. von Oetisheim ( マ ウ ル ブ ロ ン Maulbronn 修 道 院 長 ), Tilman von Schmallenberg ( ケ ル ン の St.Marien ad gradus  の Dekan ), Volmar Sack ( フ ェ ル デ ン Verden 司 教 区 の Archidiakon 、 教 会 法 の licentiatus ),

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Hanman(Amandus) zu Rhein (ヨハネ騎士修道会のドイツ地区長 Deutscher Großprior )が属する。 このうち ヨハン ・ フォ ン・ヴァレンロート、コンラート・フォン・エグロフシュタイン、ヨハン・フォン・エグロフシュタイン はフランケン の出身で、この地方とドイツ王権との継続的関係を示すもので あ )(10 ( る 。   これら聖職者顧問は、宮廷における活動では、最も重要な顧問の人数が示すように、俗人顧問とほぼ拮抗しており、 特に他国や他の宮廷との関係では彼らの働きが必要とされた。また彼らの中ではとりわけ法学者が重要であったが、そ れまでのプファルツ宮廷にも、 またそれ以前のドイツ国王宮廷にも、 これほどの数の法学者が活動していたことはなく、 国王ループレヒト治世の特徴を示している。また聖職者顧問においては非領邦的要素が優越していたことも明らかであ る。これら聖職者顧問は、国王ループレヒト死後も、なおプファルツ宮廷とのつながりを保ったのであ っ )((1 ( た 。   ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 の も と で の 顧 問 と し て は、 彼 の 二 人 の 弟( Pfalzgraf Otto von Mosbach, Pfalzgraf Stephan von  Zweibrücken ) の 他、 伯 や フ ラ イ ヘ ル な ど の 中 級 貴 族 で は、 中 ラ イ ン 地 方 の ラ イ ニ ン ゲ ン 伯( エ ミ ッ ヒ 六 世、 フ リ ー ド リヒ八世、 ヘッソ、 ミヒェル )、 カッツェンエルンボーゲン伯( ヨハン、 フィリップ )、 ナッサウ伯(フィリップ) 、 エー バーシュタイン伯( ベルンハルト一世、ヴィルヘルム三世 )、フェルデンツ伯( フリードリヒ二世 )、キルブルクのヴィ ル ト グ ラ ー フ( フ リ ー ド リ ヒ、 ヨ ハ ン 三 世 )、 ザ イ ン 伯( ゲ ア ハ ル ト )、 ヴ ェ ル ト ハ イ ム 伯( イ ェ ル グ、 ヨ ハ ン( 大 )、 ミ ヒ ェ ル 一 世 )、 エ ア バ ッ ハ( エ ー バ ー ハ ル ト 一 〇 世、 ハ ン ス・ コ ン ラ ー ト )、 イ ー ゼ ン ブ ル ク Isenburg ( ゼ ル テ ィ ン Seltin 、 フ ィ リ ッ プ )、 エ ル ザ ス お よ び 帝 国 西 部 境 界 の ザ ー ル ブ リ ュ ッ ケ ン 伯( フ ィ リ ッ プ 一 世 )、 リ ュ ッ ツ ェ ル シ ュ タ イ ン Lützelstein 伯( ブ ル ク ハ ル ト Burckhart )、 ラ ポ ル ト シ ュ タ イ ン Rappoltstein ( ス マ ス マ ン Smassman )、 フ ィ ン スティンゲン Vinstingen ( ハインリヒ二世、 フーゲルマン Hugelmann 四世 )、 シュヴァーベンおよびフランケンのエッ テ ィ ン ゲ ン 伯( フ リ ー ド リ ヒ 三 世 )、 ツ ォ レ ル ン Zollern 伯( ア イ テ ル フ リ ッ ツ Eitelfritz )、 ホ ー エ ン ロ ー エ( ア ル ブ レ

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ヒト )、 リンプルク( フリードリヒ )、 ヴァインスベルク( エンゲルハルト、 コンラート八世 )、 中東ドイツのロイス ・ フォ ン・プラウエン Reuss von Plauen (Herr zu Gera) (ハインリヒ) 、その他 Hadnar (V.) Herr zu Laber, Graf Johann von  Sahnen が あ げ ら れ る。 国 王 ル ー プ レ ヒ ト 時 代 に お け る プ フ ァ ル ツ 領 邦 支 配 の 拡 大 を も 反 映 し て、 地 理 的 に 広 い 範 囲 に わたっているが、このうち比較的多く顧問として登場するのは、 ヴィルトグラーフ・ヨハン三世、エーバーシュタイン 伯ベルンハルト一世、コンラート・シェンク・フォン・エアバッハ、ライニンゲン伯エミッヒ六世、ライニンゲン伯フ リードリヒ八世、フリードリヒ・シェンク・フォン・リンプルク、エンゲルハルト・フォン・ヴァインスベルク、コン ラート八世・フォン・ヴァインスベルク などで あ )((( ( る 。当時におけるプファルツの影響圏の中核を反映するものと言える であろう。   下 級 貴 族 家 系 に 属 す る 俗 人 と し て は、 フ レ ッ ケ ン シ ュ タ イ ン Fleckenstein ( フ リ ー ド リ ヒ、 ハ イ ン リ ヒ( 大 )、 ハ イ ン リ ヒ( 小 )) 、 オ ク セ ン シ ュ タ イ ン Ochsenstein ( ヨ ハ ン )、 ラ ー ト ザ ム ス ハ ウ ゼ ン Rathsamhausen ( エ ゲ ノ ル フ Egenolf 、 ゲ レ ヒ ェ ン ス Gerechens 、 リ ュ ッ テ ル マ ン Lüttelmann ) と い っ た エ ル ザ ス の 家 系 や、 レ ン ゲ ン フ ェ ル ト Lengenfeld ( コ ン ラ ー ト )、 ロ ー ゼ ン ベ ル ク Rosenberg ( コ ン ラ ー ト 六 世、 コ ン ラ ー ト 九 世 ) な ど の 上 プ フ ァ ル ツ の 家 系の名が見える他、 特にバイヤー ・ フォン ・ ボッパルト Bayer von Boppard ( ハインリヒ、 コンラート )、 ケメラー ・ フォ ン・ ダルベルク( ディーター、ヨハン一〇世 )、ハントシュースハイム( ハルトマン、ハインリヒ )、ヘルムシュタット ( ハ ン ス、 ラ バ ン、 ヴ ィ ル ヘ ル ム、 ヴ ィ プ レ ヒ ト 二 世、 ヴ ィ プ レ ヒ ト 四 世、 ヴ ィ プ レ ヒ ト 五 世( オ ッ ペ ン ハ イ ム の シ ュ ル ト ハ イ ス )、 ヴ ィ プ レ ヒ ト( マ ル シ ャ ル )) 、 ヒ ル シ ュ ホ ル ン( エ ー バ ー ハ ル ト 二 世、 ハ ン ス 五 世、 ハ ン ス 六 世、 フ ィ リップ )、クネーベル( タム(小) 、ヴィルヘルム )、ラントシャート ・ フォン ・ シュタイナッハ ( ディーター、クンツ、 ハ ン ス )、 ロ ー デ ン シ ュ タ イ ン Rodenstein ( コ ン ラ ー ト、 ヘ ル マ ン 二 世、 ヘ ル マ ン 四 世 )、 ジ ッ キ ン ゲ ン( エ ー バ ー ハ

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ル ト、 ハ ン マ ン、 ハ ン ス、 ハ イ ン リ ヒ、 ラ イ ン ハ ル ト、 シ ュ ヴ ァ ル ツ・ ラ イ ン ハ ル ト、 ス ヴ ィ ッ カ ー )、 フ ェ ニ ン ゲ ン ( アルブレヒト、 ハンス(大) 、 ハンス(小) 、 ハンス(マルシャル) 、 ハンス(ハイデルベルクのフォークト、 宮廷長) 、 ハンス(ノイシュタットのヴィッツトゥーム) 、 ハンス(シュタインスベルク Steinsberg のフォークト) 、 ジークフリー ト ) と い っ た 中 ラ イ ン、 と り わ け ク ラ イ ヒ ガ ウ の 下 級 貴 族 家 系 が 多 く の 顧 問 を 出 し て い る。 他 に 下 級 貴 族 出 自 の 俗 人 顧問として、ブランデンシュタインは、 Werner von Albig, Albrecht Beger von Geispolsheim, Altmann Bettendorffer  (von Bettendorff), Ulrich Bettendorffer, Johann von Bilenstein, Konrad Bock von Erffenstein (Haushofmeister zu  Heidelberg), Hermann Boos von Waldeck der Junge, Johann VI. und Johann VII. Boos von Waldeck, Henne von  Breydenbronn, Wilhelm von Braubach (genannt von Angelach), Emich von Burncze, Jeronimus de Canali (Hieronymus  da Canale), Hans von Degenberg, Albrecht von Egloffstein, Hartung (IV.) von Egloffstein, Erensauwe, Hans von  Erlickeim  〔 Erligheim 〕, Konrad von Erlickeim  〔 Erligheim 〕, Wilhelm von Falkenstein (Vogt zu Ortenberg), Philipp  Flach von Schwarzenberg, Heinrich von Flegstein, Friedrich von Flörsheim, Albrecht Freudenberger, Heinrich von  Gertringen, Raban Giener, Friedrich von Hauben (Fridericus de Mitra), Heinrich von Hauben, Friedrich von Hattstatt,  Hermann Hirte von Sauwelnheim, Wyrich von Homburg, Konrad von Hutten, Eberhard von Ingelheim, Philipp von  Ingelheim, Dieter Stephan von Inseltheim, Konrad von der Kapellen (Haushofmeister zu Heidelberg), Dieter Kolb von  Boppard, Bernhard Kreis von Lindenfels, Otman von Landsberg, Konrad von Lengenfeld, Johann von Löwenstein der  Ju ng e, E be rh ar d vo n M en zin ge n, H an s M ön ch v on R os en be rg ,R up re ch tM ön ch v on R os en be rg ,M ich ae lM os pa ch , Burckhard von Mulnheim, Eberhard von Neipperg, Heinrich Nothafft von Wernberg der Ältere, Hans von Parsberg,  Dieter (Dietel) Ramung, Wilhelm von Rechberg, Hans von Riecheim (gen. Marschall), Eberhard von Riedern, Arnold 

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Schlieder von Lachen (Küchenmeister), Walrab von Sponheim, Johann von Stein, Siegfried (Syfried) von Stein bzw.  von Oberstein, Wolf von Stein zum Klingenstein, Peter von Stetemberg (Stetemberger), Johann Sturmfeder, Bernold  von Talheim der Alte, Friedrich von Thann, Walther von Thann, Eberhard Vetzner von Geispolsheim, Gilbrecht Wais  von Fauerbach, Dietrich von Wasselnheim, Henne Werberg von Lindenfels, Johann von Wingarten, Werner Winter  von Alzey, Hans Winterbecher, Heinrich Wolf von Sponheim をあげて い )((0 ( る 。   ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 は、 一 四 二 六 年 に 聖 地 巡 礼 を 前 に し て、 留 守 中 の 摂 政 を つ と め る 弟 オ ッ ト ー Otto von Pfalz-Mosbach の 補 佐 役 と し て、 顧 問 会 議 を 設 置 し た が、 そ こ に は 上 述 の 俗 人 顧 問 の う ち、 ナ ッ サ ウ 伯 フ ィ リ ッ プ、 ラ イ ニ ン ゲ ン 伯 エ ミ ッ ヒ、 カ ッ ツ ェ ン エ ル ン ボ ー ゲ ン 伯 ヨ ハ ン、 エ ー バ ー シ ュ タ イ ン 伯 ベ ル ン ハ ル ト、 ヴ ェ ル ト ハ イ ム 伯 イ ェ ル グ、 ア ル ブ レ ヒ ト・ フ ォ ン・ ホ ー エ ン ロ ー エ、 コ ン ラ ー ト・ フ ォ ン・ ヴ ァ イ ン ス ベ ル ク、 ハ ン ス・ フ ォ ン・ ヒ ル シ ュ ホ ル ン、 ラ イ ン ハ ル ト・ フ ォ ン・ ジ ッ キ ン ゲ ン、 タ ム・ ク ネ ー ベ ル、 エ ー バ ー ハ ル ト・ ヴ ェ ッ ツ ナ ー・ フ ォ ン・ ガ イ ス ポ ル ス ハ イ ム Eberhard Vetzner von Geispolsheim 、 ヨ ハ ン・ フ ォ ン・ レ ー ヴ ェ ン シ ュ タ イ ン Johann von  Löwenstein 、 ヴ ェ ル ナ ー・ ヴ ィ ン タ ー・ フ ォ ン・ ア ル ツ ァ イ Werner Winther von Alzey 、 エ ー バ ー ハ ル ト・ フ ォ ン・ ナ イ ペ ル グ Eberhard von Neiperg 、 ハ ン ス・ フ ォ ン・ フ ェ ニ ン ゲ ン、 ア ル ノ ル ト・ シ ュ リ ー ダ ー・ フ ォ ン・ ラ ッ ヘ ン Arnold Schlieder von Lachen が 属 し て い )((0 ( た 。 一 四 三 五 年 に は、 ル ー ト ヴ ィ ヒ 三 世 が 病 気 に よ り 統 治 能 力 を 失 う と い う 状況の中で、妃メヒティルトと弟オットーらが、プファルツの統治について定めているが、その際彼らと行動をともに した貴族たちには、上記の俗人顧問のうち、ライニンゲン伯エミッヒ、カッツェンエルンボーゲン伯フィリップ、ヴェ ルトハイム伯ミヒェル、エーバーシュタイン伯ベルンハルト、ライニンゲン伯ヘッソ、ヴィルトグラーフ・ヨハン、 ハ ンス・フォン・ジッキンゲン、エーバーハルト・フォン・ナイペルグ、ベルンハルト・クライスフォン・リンデンフェ

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ル ス Bernhard Kreis von Lindenfels 、 ヴ ェ ル ナ ー・ ヴ ィ ン タ ー フ ォ ン・ ア ル ツ ァ イ、 ス ヴ ィ ッ カ ー・ フ ォ ン・ ジ ッ キ ンゲン、フリードリヒ ・ フォン ・ フレルスハイム Friödrich von Flörsheim 、 ヴィプレヒト ・ フォン ・ ヘルムシュタット、 エーバーハルト ・ フォン ・ リーデルン Eberhard von Riedern 、 ジークフリート ・ フォン ・ フェニンゲン、ヘンネ ・ ヴェ ルベルク ・ フォン ・ リンデンフェルス Henne Werberg von Lindenfels 、 ディーター ・ ケメラー ・ フォン ・ ダルベルク、 ハインリヒ ・ フォン ・ フレグシュタイン Heinrich von Flegstein 、 フィリップ ・ フォン ・ ヒルシュホルン、ハンス ・ フォ ン・ フ ェ ニ ン ゲ ン、 ハ ル ト マ ン・ フ ォ ン・ ハ ン ト シ ュ ー ス ハ イ ム、 コ ン ラ ー ト・ フ ォ ン・ レ ン ゲ ン フ ェ ル ト Konrad  von Lengenfeld 、 ハン ス・ラント シャー ト・フォン・ シュタ イナッ ハ が含 まれて い )((0 ( た 。事 案の性格 から言 って、彼 らが 特に重要な顧問と見なされていたと思われる。   聖 職 者 顧 問 と し て は、 ウ ル リ ヒ・ フ ォ ン・ ア ル ベ ッ ク ( フ ェ ル デ ン 司 教 ), フ リ ー ド リ ヒ・ フ ォ ン・ ド ー ム ネ ッ ク Friedrich von Domneck ( ヴ ォ ル ム ス 司 教 ), ヨ ハ ン・ フ ォ ン・ フ レ ッ ケ ン シ ュ タ イ ン Johann von Fleckenstein ( ヴ ォ ル ム ス 司 教 ), ラ バ ン・ フ ォ ン・ ヘ ル ム シ ュ タ ッ ト ( シ ュ パ イ ア ー 司 教、 後 に ト リ ー ア 大 司 教 ), エ ー バ ー ハ ル ト・ フ ォ ン・ ザ イ ン ス ハ イ ム Eberhard von Seinsheim ( ド イ ツ 騎 士 修 道 会 ド イ ツ 地 区 長 Deutschmeister ), ム ー ル バ ッ ハ Murbach 修道院長ヴィルヘルム ,Ludwig von Ast, Nikolaus (Petri) von Bettenberg (教会法博士 Doctor decretorum),  G er ha rd B ra nt d e D av an tri a, Jo ha nn es v on F ra nk fu rt (L ag en ato r de D ieb ur g), H ein ric h vo n G ulp en ,B ar th olo m äu s von Herckenrode von St.Trond, Heinrich von Hohenberg, Johannes Kirchen (Kirchheim) der Ältere, Johannes Kirchen  (Kirchheim) der Jüngere, Konrad Coler von Soest, Heyso Krauwel von Dransfeld, Ludwig von Maastricht (Ludwig von  dem Busche), Johannes de Noet, Johannes Risen, Winand von Steeg, Otto von Stein (教会法博士 ),Peter von Stein ( 法博士 Doctor utriusque iuris,  上級書記 ),Dietmar Treyssa von Fritzlar, Job Vener, Reinbold Vener, Wilhelm Pfarrer 

参照

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