トマス・アクィナスの自然法における不変法則の研究 : 自然法第一原理の近代的解釈「中世法思想および新トマス主義法理論に関する小研究」(17)
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(2) . 20 巻. 第2 号. トマス. 昭和45年1月. 北海道教育大学紀要 (第一部B). o. アクィナスの自然法における不変法則の研 究 -- 自然法第一原理の近代的解釈 --. 「中世法思想 および新 トマ ス主義法理論に関 ずる小研究」17 一. 坂. . 直. 之. 北海道教育大学旭川分校法学・政治学教室. Naoyuki KosA1 {A : A Study on the l 1 1 1 1 nutable PrinCiP1es of Tho1 ic NaturaI Law nist. --. Modern Construction of Pメメク”α P“7 c幼 如 in the NaturaI Law 2. --. 1 “ S乃oγZ S ルo粥〆“Zcノ““sPγ”〆e Z””〆 GB” 7 2 gs o” ル8ば彩堀Z L昭αZ rゐo“g廟 のzd 那加-7 ies Ser , 17. 目. 次. 1 序論 1 , 永久法と自然法の法哲学的関連 2 . トマスの自然法を貫く中庸性 3 , 自然法理論の最後の拠点: スソマ・テ オロジカ--未完による不満と一つの疑 し・. □ 自然法を一般的不変原則のみに限定する. 解釈. 1. 皿 自然法は一般的不変原則と特殊的不変原 則とから成るという解釈 W 理論的および実践的不変原則の検討 V 不変原則に関する一応のトマス的決定 1 , それ自体が明白な不変原則と理性によ って把握される不変原則 2 , 不変原則の種類と数の問題 おわりに. 序. 論. 1 . 永久法と自然法の法哲学的関連 まう大というだけでなく, 自然はまた法則と理性, 自然界はみ ごとな秩序を示している. ただふ ぼこ そ 人 間 の 理 性 が ま 生 れ, 科 代 ギ リ ツ ァ 人 の い わ ゆ る 「ロ ゴ ス」 を も っ て い る, こ れ が あ れ{. が発達したのであろう, 自然が不意にその法則性をなげうち, 気まぐれな無秩序に陥 っ たら, 学が崩壊するばかりでなく, 人間も気が狂うに違いない, 人間の内省的な自己意識が出現した とは確かに驚異であるが, それにもまして最大の奇跡は, この自然界の秩序ないし法則性であ Th A i , 中世 随 一 の 碩 学 と 称 え ら れ た トマ ス ・ ア ク ィ ナ ス ( omas qu nas) は,. こ の 法 則 を 「永. l t e rna) と名 づけた, ほんらい自然は, 人間に対する絶え間ない挑戦によっ て文化 法」( exae の他, 人間の創造性を刺激する効果をもっ ている, われわれがこの刺激にたえ, さらに自然に 令す る た め に は,. 早く か ら ベ ー コ ン (Roger Bacon) が 指 摘 し た よ う に, 自 然 に 従 い, そ の 法. に順応しなけれを ならない. 自然に逆らうことは, あらゆる文化の破壊を意味する, それゆえ -3 9-.
(3) . トマス・アクィナスの自然法における不変法則の研究. 永久法は, いわば万物をその究極の目的に導くための計画, 設計であるといえよう. 理性的存在である人間独特の領域においては, それが愛, 感謝, 誠実, 貞潔, 真実, 正義など の道徳規範として感得されるのである。 それらのなかから中世の学者は, 正義の自然所与的要求 ‐ α 脇) な る 名 称 を満足する淀を取り出して中世独特のア レンジを加え, こオ に自然法 (Z錆 ”の”7 を印した. したがって端的にいえば自然法は, 個人および共 同体に対する自然的正 義の命令にほ かならない。 それは, われわれの素朴な良心の判断のなかに顕現されるものである, 良心の命令 こそ, あらゆる窓意と論弁を排して, われわれに自然法の承認を強要せずにはおかない. そこで トマスは, 自然法の実効性を偶然な外部の圧力からでなく, ありのまま各個人の内心において得 ) られる書かれない法であると認識したi , トマス学徒は, トマスの自然法理論が純粋に法哲学上のものであることを固く信じている, と ころが, われわれのこの確信を誤りであるとして非難する法学者が意外と多い. かれらはその理 由を, 人は哲学以上のある存在から 「影響」 (自然の秩序) を免かれないと教示した トマスの論 説に求めている, では, かれらはその 「影響」 を素直に認めるのかというと, 決してそうではな い。 よ し んを 認めるとしても, かれらは一つの制約を設けたが る. それは将来, 神を哲学的に解 明する可能性について, 絶対的な自信を得た場合においてのみ, これを認めようと条件 づけるこ と で あ る,. 問題は自然法と永久法との関係を, トマスは哲学者として, どのてい どまで確認できるかにあ ると思う。 両者の関係が, いつも神学的基礎の上にのみ考えられるという主張は, 根拠もなく, 決して トマスのものではない。 かれの著書から得られる強烈な印象は, ほかの問題はい ざ知らず 永久法と自然法との関係については, これを純粋な法哲学的基盤において説明していることであ る. もし トマスの自然法に関する教示のなかに, 神学が強く暗示されていると主張する論者がい るなら, かれらは明らかに神を哲学的に解明できると信 じて疑わない非 トマス的法学者, または ) その一派に違いない2 。 「神が存在しなくとも, 自然法はその効力を失わないであろう」 は, いうまでもな G反世の自 ius) の 有 名 な こ と ば で あ る, わ れ わ れ は, い ま 一 然 法 理 論 を 創 設 し た グ ロ テ ィ ウ ス (Hugo Grot. 度これを見直す必要 がありはしないか, もっ とも,すでに多くのスコラ学者によって,自然法は, いかなる上位者か らも独立すると大胆に主張されたことが知られている, ことに17世紀の初め, ) i sco suarez)が, か れ の 『諸 法 に つ い て』3 トミ ズム の 流 れ を 汲 む ス ペ イ ン の 碩 学 ス ァ レス(Franc. のなかで 「自然法は神の意志に依存するものでもなく, また神が人間に命令する優位者であるこ とを自然法に 明示してもいないから, 自然法は立法者としての神から発するものではない」と 述べ た こ と は, 当 時 と し て は,か な り 不 敵 な 表 現 で あ っ た に 違 い な い, グロ テ ィ ウ ス は こ の こ と ば を, 実 に 尊 敬 を こ め て 引 用 し て い る.. われわれは, 神を哲学的に説明するのが全く不可能だとは恩 、わない。 しかしそのことは, 神の 存在について哲学的に可能なすべての証言を是認する理由にはならない。 およそ, あらゆる事物 in r a) によっ て結果づけられたという大前提は, 法 の世界においても妥当す は第一原因 ausa p l ) る, だ が そ れ は す べ て 究 極 の 意 味 に ほ か な ら な い か ら, あ る 学 者 の 推 測 の よ う に4 , トマ ス は 自. 然法を永久法のなかに基礎 づけた際, 他の命題と比較して神の超越性をそれほど強くは意識しな か っ た と 推 定 す る の は, ス ァ レス の 亜 流 と し て 納 得 で きよ う, わ れ わ れ の 考 え は, た だ トマ ス が. 自然法とその周辺を解説するに当っ て, とくに将来の社会科学的研究に道を開くために, この問 題につき純粋な法哲学的考察に堪える配慮がなされたというこことである。 - 40 -.
(4) . 高. 坂. 直. 之. 2 , トマスの自然法を貫く中庸 性 現代の複雑 な社 会関係においては, 人間行為にかかわる偶然的な事象が ますます多くな て , っ くる. そうなれば実践理性によ る判断は, いつも的確であるとはいわれない この不確実性は . , 人びとが一般 的判断から個別的・特殊的な判断に移行すればす るほど 必然性を帯びてゆく傾向 , にある, 個々 の事実について何が正しいかを判断する場合, 誤謬をおかすかもしれない危険は , 理論理性よりも実践理性のほうに, むしろ強く現われるであろう とはいえ 理論理性をことさ . , らに重視するのも, 現実から遊 離する不安がある. つまり何が正しいかは 理論的理性と事物 に , 内在する本質の認識を通じて, 経験的素材から認 識されねばならない それは演輝主義に真向う , から反対する実証主義を指すのではなく, 演輝と帰納との, また分析と綜 合との 「中庸」(n i l ed o- i tas) のう ち に 正 し さ が 看 取 さ れ る と い う 意 味 で あ る5 cr ) トマ ス の 自 然 法 は ま さ に こ の 中 道 を . ,. 揚言する法理にほかならない. よ く い わ れ る よ う に, ア ク ィ ナ ス を 理 解 す る こ と は カ ン トほ どで は な い と し て も 少 な く と , , も ア リス トテ レス を 理 解 す る よ り は 困 難 で あ ろ う . し か し い ず れ に せ よ ア ク ィ ナ ス は, 西 欧 に お. ける法哲学ないし政治哲学を体系づけた有力な貢献者である その体系は 驚くほ ど均衡のとれ , , た, また前に触れたように中道をゆく構成がみられ, 最高に行きとどい た精撒きのなかで人びと に心の安らぎを覚えさせてくれる, もっとも, 奇異を好み, たえず不満に 喝ぐ人たちにと て っ , アク ィナスはおそらく退屈な存在であろう. かれは十字軍 の戦士ではない 皮肉屋でもない さ , . ればといっ て単なる神秘論者ともいい切れ ない むしろかれは まことに円満な常識の持ち主で . , あ っ た と 評 す る ハ ー ヴァ ー ド大 学 の プ リ ン ト ン (C Br . inton) 教 授 の こ と ば に 信 悪 性 が 感 じ ら れ ) る6 ,. 『スソマ・テオロジカ』 の政治に関する部分を通読して確信で きるのは 少なくとも法の世界 , において, かれ は単なる神秘主義者でなかっ たことである どちらかといえばかれの特徴は い . , わゆ る世俗的相続財産 (実証的諸制度) とキリス ト教の神秘主義とを 反論 の余地が ないほど調 和 させたところにある. そしてかれは, その社会的相 続財産を愛し ある意味では それらを完全 , , に 征 服 した 学 者 で あ る と い っ て も よ い,. プ リ ン ト ン 教 授 が トマ ス を, 天 国 に 殺 到 す る こ と を 切 望. する人のための哲学者でなく, 心の平和を求める人たちのための優れた哲 学者であると評価して いるのは, その意味にほかならない。 たしかにその説かれる法理念は 普通人の手のとどかない , 峻厳なも のではなく, 誰にでも融けこめる穏和な弾力性を備えている 18世紀の穏健な 妥協 , , , 中庸を好をイギ リスの政治家が, トマスを 「最初のホイ ッ グ党員」 と称したことは 決して理由 , が な い わ け で な い.. 中世を通じて, 哲学にせよ,法学にせよ, それらは神 学の蝉としてのみ研究されはしなか た っ ,. 中 世 末 期 に おい て は い う ま で も な い が, トマ ス よ り150年 前 の ア ベ ラ ー ル (Pier l re Abg ard) な ど. も, その代表的人物であろう. かれは近代の中世嫌いな 実証主義者 の歓迎は受けても 中世の静 , 謙を好む現代人の纏窪を買う唯名論者である, かれの天賦の才能と 慣例 中庸を忌む烈しい気 , , 性は, 現代において ト ム ・ ペ イ ン (Tom Paine) や パ ー トラ ン ド・ ラ ッ セ ル (Bertrand Russel) に 受 けつ が れ てい る, し か し 中世 の 欄 熟 期 (12~13世 紀) に お け る 中 世 に ふ さ わ し い トマ ス の 法. 哲学は, 中道をゆく, ある意味においては妥協 の教義であ り むしろ中世 を離脱する機運に道を , 開 い た も のと い え な く は な い. 最 近 とく に ア ク ィ ナ ス の 自 然 法 に 対 し 世 人 の 注 目 の 度 が 増 し つ つ. あるのを見ても, 思い半ばに過ぎるものがある , 3 , 自然法理論の最後の拠点ニ スソマ・テオロジカ--未 完による不満と 一つの疑 い - 41 -.
(5) . トマス・アクィナスの自然法における不変法則の研究 自 然 法 理 論 は, も ち ろ ん 中 世 に 始 ま っ た も の で は な い. そ の用 語, 内 容 と も に ア リ ス トテ レス と キ ケ ロ か らの 継 受 で あ る. た だ し ア リ ス トテ レス に し て も, そ の 開 拓 者 で は な く, す で に か れ の 150 年 前 ヘ ラ ク レイ トス は 万 物 を 支 配 す る ロ ゴ ス の 普 遍 法 則 を 説 い た こ と が 知 られ て い る, し. かしqi世は, 相続した自然法理 論に法哲学的な幅と深さを加え, 実証主義ない し相対主 義的法理 の攻撃にたえながら, 人類, 国民そ して個人のために自由と秩序を, 少なくとも理論的に は擁 護 し続けてきた, つまり慣習法にせよ制定法にせよ, 実定法の成立と効力は, 自然法を規準と して 評価しなければならなかっ たし, そうした実例は中世において決して少なくはない. それゆえ自 然法は, いっ, いかなる所でも実現しうる性格を備え, およそ実行不可能な理想的理性法なるも のを想定する世 間知らずな理 想主義者の単なる願望とは, まっ たく違う概念である. この中世 化 さ れ た ア リ ス トテ レス の 自 然 法 理 論 を 科 学 的 完 壁 に ま で お し 上 げ た の は, 実 に トマ ス ・ ア ク ィ ナ ス そ の 人 で あ っ た, ソ フ ィ ス トの 革 命 的, 個 人 主 義 的 自 然 法 に 鋭 く 対 立 す る ア リ ス トテ レス の 法 理 で も,. トマ ス に. と って, それをその まま受け容れるわけにはい かなか った,.奴隷にさえ認められた 人格至上価値 の自然法思想は, 霊魂の絶対的尊 厳を基調とする キリス ト教思想に よる潤色を必要とした からで ある. かれの著書のなかに, それに関 する証跡は 散見されるけれ ども, かれが自然法理として集 ‘ ブ タ例解 大 成 し た 功 績 の 実 証 は,い っ に か か っ て 最 後 の し か も 最 大 の 著 作 『ス ソ マ・テ オ ロ ジ カ』(Sz rあのZ og加α) に あ る と い わ れ て い る, そ の Prima Secundae において, かれの法理論は組 織的展開を見せているが, これを書いた年 ima pars が1226年 か ら1268年 ま で, す な わ ち トマ 代は必ずしも明 らかでない 大方の学者は Pr. , スがイ タリアで最 初に講義した時代に書かれ,. Secunda Pars. は1269年から1272年の間で発表さ. ia Pars は 残 念 な が ら, か れ の 死 が こ れ を 未 完 成 に し て し ま っ た. t れ た こ と に 同 意 し て い る, Ter 72年から翌年にかけて執筆されたに違いない. ただ Prima Secundae だけ した が て それは12. っ , 66年の初期に 始められたらしいと か, いやそれは1271年以後であろうとか, が, 一説によれば12 あるいは中 間をと って1269年に始められ, 多分 トマス がパリに滞 在中の1270年に完成されたに違 ima secundae が 諸 説 紛 紛 で あ る ‐一 つ だ け は っ き り し て い る こ と は, Pr いな い とい う ふうに ,. ,. “ Cの7 Ze sかZ PBかZ乙の”るαγα フ斜叱郷君〆 ’ zおαγ“タ 2メ タ z Q郷α力めγ L樋 川ssの2 2 7 7 28””〃7. の発表後少な. ) ” sz伽””” CD“‘〆” GB期Z Z BS“ の 約 5 年 後 に 書 か れ た と い う こ と で あ る7 .. くとも10年, そ して トマス の自然法思想 (とくに第 一原理と第二規律の差 異) について 発展した跡をた どっ てみれば このてい どの年月経過は妥当とされよう, トマス の自然法理論を理解する ぱあいに, わずかながら感じられる 不満は, 婚姻に関する論文 ia Pars を完成していたな ら, 婚姻理論からさ が 未 完 に 終 っ て い る こ と で あ る. も し か れ が Tert らに 追及して自然法理論の, とくに第一原理と第二規律の究 明にまでおよん だに違いない, 前記 ” Cの7”7 z… … ” の な か に は 一 夫 多 妻, 一 妻 多 夫 を 排 除 す る (婚 姻) 「目 的」 の 概 念 に 基 づ ze“≠”“. 4年あまりもたっ て Tertia Pars いて, 第一原理, 第二規律の区別を 強調しているが, それから1 の著述を始めたとき, (婚姻) 目的の段 階組織を表 現するこの二原則の分け方に, また逆もどり するであろうかどうかを想像するだけでも興味がある, こ の よ う な 未 完 成 に よ る 不 満 は と も か く, か れ が 『ス ソ マ ・ テ オ ロ ジ カ』 に お い て 教 示 し た 自. 然法理論のなかに, 一個所 だけ不審な点 があることを指摘しない わけにはいかない, それはかれ が ウ ル ピ ア ヌ ス の, い ま で は 信 じ ら れ な い こ と ば 「自 然 法 は 自 然 が す べ て の 生 物 に教えたも の ,. ia docu i t ) に従 っ た 節 が ある か らであ ius naturale est, quod natura on・nia animal . であ る」 (. - 42 -.
(6) . 高. 坂. 直. 之. ) る8 .. おもうに人間以外の生物は, 自然傾向に順応しているだけであって 理性的被造物を拘束する , 自然法に関係づけるのは筋違いであろう, トマスがこの法曹家の言に従っ たのは 当時かなりの , 学者によって自然法との区別が暖昧にされて いた万民法 ( ium) と, 広 義 の 自 然 法 と を i usgent 峻別 せんがため の一策であ ったと信ずる, すなわち万民法の根幹をなす 諾成契約 (cont tus ac r ) i io) な ど, いわゆる名誉法 ( や 信 約 (6depron l s s iu iusl l l ) 上 の 諸制 度と 自然 法と のニ ュ ・onorar l アンスを明らかにするための苦肉の策のよう に思えてならない もはや両者が混同さ れるおそれ . などない現在, トマスの自然法三区分に触れないこ との方が, むしろかれ の後継者たるにふさわ しい の で は な か ろ う か。. 註 1) St ; “” rみのめg海α t , Thomas Aqninas , sのれ , la 立ae ,6; la ,91 ,79 ,qu , art ,qu ,13 , ar. jpen 2) W, A. Lui Z 2 8 ogy oヂ ハ超す”〆〆 工餌夕 ’ z o t t v ss sburgh , Pん窃m“ , Duquesne Uni . Pre , , Pi , Pa , PP ,1967 ,. 93( ー94 i 3) Franc s cus sunrez i i b i t sqc Dgo ム恕忍”わγe ed by A,P,DEnt reves , De乙増滴” , n,cap ,v ,l ,1619 ,c , ’ 人肩為‘ H ZL破り i U h t γ” u n ni c n s o s v s , Pres , , London,1951 ,71 , pp i 4) W,A. Lui jpen Z ,c , ,95 ,o力 ,PP 5) Simon Deploige Z 肥れ兜のz 召す屑偏 僻zd s僻め如gy,trans α C伽万化 Z l l tner es C, Mi , TZ ,by Char ,B,Herder Book Co S L i 1 8 9 t 3 s o u P , .334任, , , , , P 6) Crane Br i t i l n on l lnc“ Bng l e SZOγy o/ W 嫌8γ” ?加“g膚, Prent ewood ce‐Ha , 虚数 伽d 賜伽, “′ i”s N,J CI . ,199~200 , pp , ,1962 7) R, A, Arms t rong dqγy P〆e co ’ z cゆZ s”z rルの”婦ノ Z上αz i 〃 丁数c加増, Mar t c Mq畑〆 α nus , P“’湖メタ 鰯” Se Ni jho音 ,86~87 , The 日ague , PP ,1966. 8) トマスは自然法を三段階に分けた, 第一に人間がすべての実体と共通に有するところの本性に基づく欲求 (たとえば生命の保持) , 第二に自然がすべての動物に教えたことがら (たとえば性交, 教育) , 第三に人 固有の理性的本性に基づく善に対する欲求--S 間ィ lae l l i 9 4 D z ’ ’ 2 u ( f e ura e e ) q nat g . rんのん la l , , , l t ar .2 , , conc. 自然法を一般的不変原則のみに限定する解釈 自然法は, 一般的で不変な戒律のみによって構成されるという見解がある. これは歴史上重要 な理論であるばかりでなく, 現代におい てもこれに拠る著名な学者は少なくない そ の傾向の主 . なスコラ的法学者を年代順にみると, 今世紀初期におけるスイスの新 トマ ス 学 者 カ ト ラ イ ン i th (Viktor Ca e r n) が, まずわれわれ の注目をひく, その指摘する唯一の原則なるものは 「神 と同胞とあなた自身の関係において, 理性的存在としてのあなたに適する法令は, これを遵守し なければならない」 であるD. これは実際に トマスの解釈の結果か, あるいはかれ独特の考えによっ たものかは明らかではな いが, いずれにせよ, この原則を分析すれば 「人はい つも理性に従って行動すべきである」 「人 はい つも神の命令に服従すべきである」 および 「人はい つも他人の権利を尊重すべきである」 の 三命題に分けられると思う, ただしこの再公式表示に信憾 性があるかどうか は この際重要な問 , 題でない. 大切なことはカ トライ ンが, 自然法は一般原則 (一つでも, 複数でも) のみで構成さ れると認めた事実である. , かれはこの一般原則が, どんな特殊問題でも解決すると考えたわけではなかろう, もっとも特 殊原則のなかには, あるていど一般規律によって知られるも のが あるかもしれない しかし従来 . このような特 殊規律は, 単に一般規律を熟 考することだけで把握されたことはなか たはずであ っ る. いつも人間行動に含 まれたあらゆる関連事情や境遇を考慮した上でのみ 特殊規律の妥当性 , - 43 -.
(7) . トマス・アクィナスの自然法における不変法則の研究 を 獲 得 し て きた の が, こ れ ま で の常 態 で は な か っ た か. と こ ろ が そ う い っ た 活 動 を, カ トライ ン. ) は自然法の作用とせずに, 実定法の仕事であるとしている2 . つまり 自然法がただ一般原則のみ を包含するかぎり, それは日常生活や政治的行為にと って至大の価 直をおびるには相違ないが, その原則を実定法によ って具体化することが最も重要であり, 国の究極の責務もまたそこにある と い う, i Capi tant)は, 力 トラ イ ン そ れ か ら10数 年 た っ て, フ ラ ンス の 民 法・労 働 法 学 者 カ ピタ ン(Henr. の理論を多少推し進め 「自然法は数個の一般原則から成り, ただ 一個の原則に限る べきでない」 と発表した. だが遺憾なことには, 原則の数と正確な公式化が, どこにも表 示されていない. か i inc r pe directeur) と し て, 一 般 の 関 心 を ひ く こ れはむしろ, それらの原則を 「支配的原則」 (p 8世紀から19 とだけに満足して いるのであろうか. 現にカ ピタンは 「支配的原則」 なるものが, 1 世紀にかけて起きた社会問題の具 体的解決については, 全く無効果であっ たと 主張している, そ してこの場合の 解決は, 行動に含まれたあらゆる事 情や境遇を, つぶさに審 査した後においての み達成せられる ものであると示唆した. こうした場合, 自然法の果しうる最大限の効用は, 特殊 ) 3 な解決その ものでなく, 解決のため の基礎と指針を与えることにほかならない , すなわち自然 法に, 限定された機能のみを認め, 特殊な解決に対しては, その下図を構成することに のみ 責任 があると判 断するのである. ) になると, 自然法を自明な原則である 「善をなせ, 悪 s ens ans と こ いカミジ ャ ン サ ソ (Edgari を避けょ」 と 「自分に 為されることを 望むごとくに, 他人に為せ」 の二原則に限定してい. る4 ) ,こ. トライ ンや れ は 明 ら か に ア ク ィ ナ ス と ア ウ グス テ ィ ヌ ス か ら の 借 用 に す ぎ な い. し か し か れ は カ 5 ) の 原 則 に 限定 し て い る」 カ ピ タ ン よ り も さ ら に 進 ん で 「トマ ス も ま た 自 然 法 を, 自 明 な い く つ か. と断言 したことは, とくに興味をひく, い お もう に ジャ 残 念 な が ら, こ の よ う な 重 大 発 表 に つ い て, そ の 論 拠 を どこ に も 示 し て い な 。. べし ンサ ソは トマスが表現した個々の字句に捕われずに, その全思想体系から推して, かくある 帰結の可 と確信したのであろう, いま一 つの非難は, かれが自然法の第一原理に関連ある特殊な 能性をかなり詳 しく論 じ, それらが自然法の部類 に入らないと しながら, その論拠について全く ジャ ソ サ ンは純 粋 に昇華 され た 自 然 法原 理 の ほか ) 触 れ て い な い こ と で あ る6 . こ れ も お も う に,. 果に違 には, これを 椿称する何物 をも認めない態度こそ, かえって トマスの意に 沿うと考えた結 i t t ) も, かれには自然法から派 i o ac i r dd sub t o ) も 「控除」 ( い な い。 自然法に 対する 「付加」 (a この推論は 生した実証的特殊帰結, いわば実定法原理としての認識にほ かならなかっ たと思う, 自然法を不変原則のみにし ぼる他の学者にも当てはまることである. s G6ny) に 言 及 し な け れ ば な ら な い. l l goi 次 に 今 世 紀 の著 名 な 法 哲 学 者 で あ る ジ ェ ニ ー (Fra ◇“ ノ撚湯ゐod ク z彰γPγ”の〆 e メメ に有名なものは 『私法 の解釈方法と源泉』 (. かれの著書のなかでとく. ,. g i z彫 琢 Zecルクメq“B Zザ,1954) と 『私 法 に お け る 科 学 と 技 術』 (Sc〆 ZP““ POSZ eZ so“〆ces 鋤 〆グoa. であるが, 自然法に関して, とくに興味ある理 論を展開して 場合に応じ, それぞれ いるのは後者 である. そのな かで, 「自然法は非常に 一般的な, しかも各. メ Z 3~24) Z ア z z p“% PO S B“ ”γo ,191. l tnature (Ledroi 違 っ た 態 様 で 解 釈, 適 用 を し な け れ ば な ら な い 原 則 に よ っ て の み 構 成 さ れ る」 i t総 e l i d t b a r es e v iceextremement genきraux etsuscep le1 l lent en principes dejust ・ consiste set. 社 会の変革につれ, たとえ実定法の存在しない 新しい問題が起きても, 自然法の原則は絶対不変であるとい うのが, その理論の骨子をな してい. 7 ) と表明した. i issel l lentsi s ) lpl n6n et αaccon . Z. .. - 44 -.
(8) . 高. 坂. 直. 之. ところがこれも遺憾なことには, 解釈の多元性を許容する自然法の性質と数について詳しい立 論をしていない, ただ明らかなことは, 自然法を少数の一般原則のみに限定したかれの信念であ る, そ し て そ れ が トミ ス トと し て の 一 卓 見 で あ る こ と も, ジ ャ ソ サ ソ の 場 合 と 同 断 で あ ろ う , i負que de i ent ち な み に, か れ の 有 名 な 「法 に 関 す る 自 由 な 科 学 的研 究」 (Libre recherche sc. d i t o ) の力説は, 周知のとおり20世紀初頭の ドイツに, 自由法運動を招来せ しめた. かれは法解 r 釈者が主観的判断に陥らないように解釈の客観的尺度を科学的に究明し, その基底に不変の自然 法を置いたことはいうまでもない. 自由法が単なる啓蒙運動でなく, 科学として 成立するために も, 不変の自然法を必要としたのである, 同 じく 現 代 フ ラ ンス の トマ ス 派 法 哲 学 者 マ ル テ ィ ニ ア ク (C, Martyniak)も,自 然 法 は 極 め て 一 般的な根 に原 則 に 限 ら れ る と 主 張 し て い る8), 惜 し い こ と に は, か れ も カ ピタ ン や ジ ェ ニ ー の 場. 合のように, 一 般原則を構成するものの概念を明らかにせず, またいわゆる自明原理の具体的指 示はどこにも見当らない. (「善をなし, 悪を避けよ」 の原理を除ては) s Le Fur) は マ ル テ ィ ニ ア ク よ り 多 少, フ ラ ンス の 同 じ トマ ス 学 者 で も, ル ・ フ ュ ー ル (Loui. 明示的である, かれは, いかなる論証をも呈示せずに, 自然法は次の三原則に尽きる と 宜 言 し ) す なわち た9 .. 1 ) 決定した合意は, これを十分に守るべきである, ( } 他人に加えた不正な侵害は, これを賠償すべ きである, 2 { (執 権威 (判例) は, これを尊重すべ きである. 以上であるが, われわれにとっ て, この自然法三区分理論は納得できないばかりでなく, 少な 2 )の原則には, その真理性が認 1 )および{ くとも科学的万全を誇るには足りないと思う. なぜなら( められるまえに, かなり理性的な考慮を要する場合があるからである, つまり 園の原則を除いた ほかの原則 が, どうして自明にして不変の原則とみられるのか論拠 がはっ きりしない. その結果 ここに真理性を 把握するのに理性的考慮を必要とする原則と, そうでない原則との差異が問題に な っ て く る,. 註 l i in burgi ktor Cathre au 1) Vi n Bres Gたち Fre , ,132~133 ,S , 1909 , Redば , M解 離redば ”’〆 Po就か鮎 尺8 i 比 1 2 2 t t o ed by R, A, Ar l ns rong c c p p p , . , , dge i iv H d Un ines Zo/ △同友″〆 Lαw cの摺りβ e ss l 2) Char s e Reメジロ 』 Cambr es Gr z ove Ha , . Pr , arvar , TZ ハαas ′ v288 s ,286 . , pp ,1930 ’五 i Cかぎ ′ i eme6d s i i Luc i r 3) Henr t en Cap ant .35 , , PP , ,1923 , Par , Quat , み“剣山郡飾れ々Z 自認g d“ D知立 i gd, Bruxe l i / i es t t ed by Jean Dab ”d 〆o鳶 n, rんe o“8g彰z勿” z ‘ ) C .251~252; , PP , 1953 , Deuxeme . す ご ”” / メメ ご ‘ ie Ray Lou i ′ ず PO Z ′ i f電解,C解かノ加療o“ d rそればg d“ 〆γo! BB l nondi s s‐Mar z et s o” 矛”“遊撃‘ , リブ P 4 4 6 5 i 1 9 4 7 d“ γα” “ 〆e a r s s’ ;声放りde s de rqc窟のz 煽ぎな/飾れe p p , , , , , t i rong i t ed by R,A, Arms n,1926 4 ) EdgarJanssens s dg“7“ばβgああγ”超,七 , .222 C .1 ,PP , Louva , C伽γ 煽 1 2 3 す 力 o, . , ,PP ‘’ ‘ d l li igueur int Thon i l igne る緩. eren r ユas qu 5)ず ・ nent desa , nerange ans a o ,219: Lense , ,A Par ,Pp ’ ’ ’ i i d d d i i i i t de natur eα 】er s prncpes ev ence mme ae e quel es pr , trong 6) R, A, Arms . αん pp .5~6 ,oゑ in i i fr ′塑8 錆 Dr励 Posばザ, t s 7) Franco s G6ny e破プ z , Dab , , n, Par , pp 173;J ,1913~1924 , Sde”” g ines ぞ Z リカ . α乙 .288~293 .c , .251~252; C, G, Ha ,PP ,o力 ,PP ’叫ウメssαあげ rあの加sd’Aq”!” Par i s 8) C. Mar t ”のけ 0る迄防げ ゐ ak 7 ‘ Dγo鳶 d yni .97: ,pp , ,1931 , 乙e Fo“〆e ”Lal i i i t i nature l l sque er s pr en 〔 l entl es pr emi nc r ct comprend seul pes communs e ausens s o , pui “ i l l ementparl ssontco l lnus nature es hommes eux seu , i i ted by LーM, Raymol ・di s 9) L s Gγのzds P知る勘;榔 d” Dメメム Par s .181 ,c , 噂, , pp ,1937 .Le Fur , 乙g ines 〕 dん pp st rong z 〉 ユ , .52 , α者 ,65;( , G, Ha ・297~3OO; R, A, Arn , 1ユ7 ,り ,pp ,oぬ. ばれ ,pp. - 45 -.
(9) . トマス・アクィナスの自然法における不変法則の研究. 皿. 自然法は一般的不変原則と特殊的不 変原則とから成るという解釈. )自然法は 一般的 囚自然法を, 一般 的不変原則と特殊的不変原則とに限定してしまう論者と, 旧 不変原則および特殊的可変原則とから成ると主張する論者とは, 実によい対象をなしている. い うまでもなく, 変化するいかなる態様をも自然法から排除する者は前者に属し, あるていど変異 を認めようとするのが後者に属する. ところで後者を理解する場合注意す べ きは, 自然法の 「変 化」 をその 「発展」 と混同しないことである. 社会的必然性をもつ 「発展」 と, 偶発的可能性を 含む 「変化」 との間に存するニュ アンスの相違を, よく見きわめなければならない, 社会の発達に応じて, 人間行動の道徳的善悪に関す る認識も発 達することは容易に予測できよ うし, またこの認識が発達すれば, 法それ自身もこれに順応する. この発達と順応の概念をフッ l ichke i t) の 作用 と し て 説 い た, そ し て, そ れ は ク ス (J .Fuchs) は 「歴 史 的 確 実 性」 (Geschicht と く に ル ナ ー ル (G, Renard) や ダ バ ソ (j . Dabin) に よ っ て 論 ぜ られ て い る, (後 出) し か し こ. ういっ た歴史的確実性が厳密な意味で, 変異性の例証とは考えられない, われわれは, これらを むしろ前記( 舟グルー プに属するものとみる. 奄 )グルー プは少なくとも自然法のなかに, 第一原理 と同じてい どの服従を強いられない, ある特殊な可変原則の存在を認める論者であるから, 自然 法発展の主張者をすべて懲 )グループに所属させるのは誤りである. 問題を二つにしぼろう, まず トマスが認めた自然法における一般原則と特殊原則の存在を解明 することであ る. 次にこの特殊原則のなかには, 果して本質的な変異性の観念があるかどうかを 論 じなければならない. l さ き に 今 世 紀 初 め の 著 名 な ト マ ス 法 学 者 ル ク レー ル (J ercq) に つ い て 考 え て み よ う. か , Lec inc ipes ) i 『 「 れは1924年に発表した論文 自然法の正確な観念』 のなかで 直接明白な第一原理 (pr iers) は 存 在 す る が, そ の 数 は ま こ と に 徴 々 た る も の で あ る」 と 述 べ, さ らに 「第 一 原 理 に l pren. き t 照して考えられた道徳的経験は, 自然法の 一部である第二規則 (p lds) を わ れ わ れ r c ep e ssecol l l i i t に供給する. しかしその数も非常に少なくあるべきで, それらを<増加する>( r ) 誘惑 1 1 l u e p に 対 し て は, 極 力 抵 抗 し な け れ ば な ら な い」 と い っ て い る.. ) とを比較すれば, まことに興味ある 2 この理論と, 三十数年後の著作である 『法と社会の基礎』 変 遷 が 目 に つく. そ れ は か れ が カ ピ タ ンと ジ ェ ニ ー を 批 判 し た の ち に, い か な る 方 法 に よ れ 自 然. 法そのものを制限すべき先験的 な理由などはありえないと述 べているからである. またルク レー ルは人間の社会的性質を究明し, その性質が人類発展のために必要として課するあらゆる制約は これを自然法 の一 部として受け入れるべ きだというように変 って きた. つまり自然法の重要さが ) かれが自 2カメ7 “”’”) を 不 可 能 に さ せ た わ け で あ る3 自 然 法 に 対 す る 最 小 限 度 の 見 積 り (cul cu1タ フ ,. 然法を第一原理と第二規律とに区分したのは, 以上のことからむしろ当然といわねばならない, そしてかれは後者を, 基本的かつ一般的な前者から派生した, もっ と特殊な不変規 律であると理 ) 解した, これ がいわゆるかれのいうスコラ的見解である4 , ついでながら, かれは道徳に変化性 を認める見解を排斥し, 自然法 (かれによれば, 不変の人間性に基 づく 一連の不変規律) にかん が み, そ の 誤 り を 指 摘 し た こ と で も 知 られ て い る. と も あ れ ル ク レー ル に と っ て, ど の よ う な 種. 類にせよ, 自然法に進展性があること だけは明らかであろう, 次 に 年 代 順 で は, こ れ も フ ラ ンス の 法 哲 学 者 ル ナ ー ル (G. Renard) に 触 れ ね ば な ら な い. か. )のなかで, 自然法は少数の原則のみによっ て構成 5 れは1927年に発表した『法・秩序および理性』 ives) され, それは詳細な規律の集成というよりは, むしろ 「諸指令の中核」(un foyer de direct - 46 -.
(10) . 高. 坂. 直. 之. i による社会 であるとしている, この場合の 「諸指令」 とは結局, 実定法制定 の命令 ox popul 的強制) にほかならない, これによって立法者は, その目指すところへ志向する一 つの理想が与. え られ る, 上 の テ キス トだ け を 考 え る な ら ば, ル ナ ー ル は カ トラ イ ンや カ ピ タ ン と 同 様 に, 自 然 法 を 少 数. の一般原則に限定しているように思われる, ところが同じ書の終りを 見ると, その考えを本質的 に変えねばならないことに気が付く, すなわち不変と思われる (自然法) と, 時, 所によって推 移すべき 「その適用」 との間に生ずる矛盾を, 何とか調和しようと努 力しているからである, こ の 問 題 に つ い て か れ の 最 も レア リ ス テ ィ ッ ク な 態 度 は 自 然 法 の 発 展 的 な 内 容 (dro i t natu- ,. i rel en perpetueld eve r) を認めたことであっ た, l l. つまり自然法 (第一原理) の不変性を支持す. る一方, 自然法の内容が進歩的 であると述べていることである, そしてこの 「進歩」 ないし 「発 展」 を, 二つの経路から追及する, すなわち第一に, 自然法のなかで道徳的なもの (第一原理) は, だれにでも容易に了解されるといい, それから派生する特殊な規律という形をとる諸帰結を 説明していること. 第二に, 自然法は種々の実定 法組織へ向って進展し, 融合し続けると述 べて いることである. 要するに自然法は単に第一原理を かりでなく,もっ と特殊な第二規律をも含み, とくに後者はたえず発展し, 進歩してゆくものと理解すべ きである, しかしこのことは進展する 諸規律が, いっ たん公式表示された場合に も, 可変性をも つことを意味するのではない, ベ ル ギ ー の トマ ス 法 学 者 ダ バ ソ (J in) は, そ の 名 著 『法 の 一 般 理 論』 の な か で 次 の よ う . Dab. にいっ ている, 「自然法の諸性格は人間本性の諸性格から生ずる, 人間本性は本質的にすべて同 一かつ不変であるように, 人間 本性の規律もまた, 個人的条件の差異や文明・文化の歴史的ない し地理的環境の多様性に関せず普遍な, そして変ることのない価値をもっている, また側面から i nous l いえば, 本性はそれ自身もわれわれをも誤らせない ( l ・per n anature ne peut ni se trol t o ) ように, それらの規律も, それが真正なものであるかぎり, 疑問にも, 議論にも悩ま r l l ・ r pe ) l されない確実な価値 (va eurc8γ卿Z〃〃) を も つ も の で あ る」6 こ れ を み る と, か れ は 自 然 法 の 不 変 性 を 強 調 し た よ う に と れ る が, 次 の 項 (ar t .205) に お い て. かれは第一原理, 第二規律および第一原 理に極く近接した特殊な帰結( l i conc ons particulieres us toutes proches des premiers p inc ipes) を 否 定 す る こ と な く r ,. 寛 容 な 態 度 で 紹 介 し て い る, た. だかれは道徳的自然法と政治的自然法は認めるが, 法律的自然法の存在を否定するために7 ) , 異 色ある トミス トというべきであろうか. いずれにせよ自然法の普遍性ないし変異性に関する ダバ ソの見解は, 少なくとも 率直でない. しかし, かれの初期の著である 『私法に関する特に実定 法秩序の哲学』 には, 道徳の第一原理 が こ れまで変らなかっ たように, 自然法の内容も発展 変化するわけがないと説いた8 ) , , たとえ ば 「他人に対して正しくあれ」 とか 「各人を公平に扱う べし」 などは, いつも真実である, そし てこのような不変性は, 第一原理から派生した特殊規律にも現われているという. ところがこの 問 題 に つ い て, ダ バ ソは 首 尾 一 貫 して い な い, す な わ ち 『法 の 一 般 原 理』 (250~251頁) に よ れ. ば第一原理から派生した諸帰結は, すべて発達する実定法の問題としている. それゆえ, 自然法 は発達も変化もないというかれの確信にもかかわらず, 用語の変化は別と して, かれの見解がル ナールのそれ (発展的内容をもつ自然法の観念を表示した) と根本的に どう違うか 理解に困難 で ある. 結局のところ ダバ ソはルナールと同じく, 自然法の本質的な変異性の問題に触れていない と み て よ い,. 一 方, ドイツの法哲学者メ スナー ( J s sne r) はその著 『社会倫理--現代世界の自然法』 . Me - 47 -.
(11) . 1 、マス・アクィナスの自然法における不変法則の研究. において, 自然法は一般原則ばかりでなく, その原則から理性によって引き出されるもっ と特殊 ) な規律をも包含すると考えた9 . さらにかれは同じ章で, こういっ た特殊規律は無数に存在する が, それらは自明ではないから, 文明の進歩にともないますます複 雑になる 「人間関係」 と 「社 会の要求」 に対し自然法の 「一般原則」 を 適用することで, それら特殊規律の存在と内容を推測 o ) し な け れ ば な ら な い と 述 べ て い るi .. メ スナーにとっ て自然法は, いかなる変異の可能性も有しない. あらゆる人間, 階級, 国民に 対して自然法は同一である, つまりかれは トマスのいわゆる 「善の追求と悪の回避」 をもって自 然法のすべてとするから, 変異性の問題など生ずるわけがない, したがっ て, もしある行 為があ る 場 合 に お い て 誤 り な ら ば, そ れ は す べ て の 場 合 に 誤 り と い う こ と に な る”) , フ ラ ンス の 法 哲 学 者 で も オ ー ヴェ ル ベ ッ ク (P. Van overbeke) に な る と, 自 然法 に 一 般 原 理. ばかりで なく, 理性が同意しうるあらゆる規律をも含ませる, しかしかれは結局, 自然法に複雑 な変異性の問題な どありえないという見解に達した. つまり第二規律は第一原理と全く同じてい ) 2 どで人を拘束するというのである1 , かれには自然法諸原則の効力は一 つでなければならない. 段階的効力を認めることは, 実定法原則の効力との境界線を腰昧にするとみて, かれの法感覚が それを許さなかっ たのであろう. in) は 『人間と国 i t j a r 自然法に関して, 近代の最も独創的な学者の一人であるマリタソ ( . Ma 家』 のなかで 「自然法は本来, 道徳規範の全分野と同延である. 第一次の基本的原理ばかりでな 1 3 ) と いっ ている. こ く, 自然倫理から最も関係の薄 い規律でさえ, 自然法との一致を意味する」 の論説から明らかなことは, 理 生によっ て人間性に適合するとみられる規律は, その一般的, 特 殊的を問わず, またその把握が最小の努力で得られるものか, あるいはかなりの考慮を要するも のかを問わず, すべて自然法の内容に属することになる. この 論 述には二っの点を注意しなければならない, まず第一は, かれの用語 「最も関係の薄い ions) の 意 味 で あ る, お そ ら く そ れ は 第 一 の 基 本 的 原 理 に 比 べ て 自 明 規 律」 (remotest regul at. ではない が, 自明な第一原理から引き出さねばならないあらゆる規律の概念を伝えた用語であろ う, し か し マ リ タ ソは どこ に も, こ れ と 第 一 原 理 と の 差 別 に つ い て 力 説 し た 跡 が な い.. 第二の点は, 基本的な第一原理の数に関して, マリタンは どのように考えているかである, か れは 『人権と自然法』 のなかで 「人間が第一原理として共通に, しかも生れな がらに持っている 唯一の実証的知識はく善をなし, 悪を避けよ>である」 といい, それは自然法への 「序言」 では あるが, 厳密にいえば自然法その ものの一部ではないとした, ところが一方では自然法を 「避け が た い 形 で 現 わ れ る 為 す べ き こ と が らと, 為 す べ き で な い こ と が ら と の ア ン サ ン ブ ル で あ る」 と 4 ) も い っ て い る1 .. マリタンはその後 『歴史哲学について』 のなかに, あらゆる人が真理として注意すべ き一般原 理を数個あげ, これらを実証的規律のための動的な基本計画として論 じている. それはあらゆる 道徳的考察の骨組をなす型ともいうべ きもので, 摘記すれば 「たとえば次のような一般的で変異 させられない原則を考慮する必要があろう: 人を殺すことは他の動物を殺すのと同じでない, 家 族団体はいくつか不 動の模範に従わねばならぬ, 性交は一定の制限内に抑えるべ きである, われ i l b thelnvi s e) を注目する義務がある. た がいに一定の規則と禁制のもと われは見えざる もの ( ) 5 がそれであ ばならない る1 に生活しなけれ 」 , かれはこの五原則を法と道徳との根本理念と考え 自 明 の も の と み て い る が, こ こ に 明 ら か に して 欲 し い 問 題 点 が 一 つ あ る. そ れ は, こ の 自 明 な 道. 「善をな し, 悪 徳的原則の正確な数と形の顕示にほかならぬ, 一方の著作で, かかる原則は一 つ ( - 48 -.
(12) . 高. 坂. 直. 之. を避く べし」) といいなが ら, ほかで数原則を列挙しているのは, 不統一のそしりを免かれないと 思う, lhaye) は, か れ の 書 で あ る 『自 然 法 の 不 変 性』 に こ れ も フ ラ ンス の 法 哲 学 者 ドゥ ラ エ (P. De. おいて, 自然法は少数の指 導的原則のみによって構成される (カ ピタン, カ トライ ンその他の支 持) ばかりでなく, 自然理性が表示する規律はすべてこれに含まれると主張している. これは大 体, マリタソと相通ずるが, かれはとくに 「自然法は本質的に正当なあらゆる道徳的原則を包含 する. --たとえそれらが正しく合理的な原則として樹立されるためには, 最も綿密な道徳的審 6 )と 説 明 し た 理 を 要 す る も の で あ っ て も - -」1 .. さらにかれは 「十誠」 の淀と, これに比べて 「関係の薄い結論」 との間の本質的な差異は, 後 者の方が精密さの度合いにおいていく分高いことにあるという, なるほど十誠の淀はまことに一 般的であるから, より精確さを得るためには, それから引き出される他の規律にこれを求 めるほ かない, この追求を繰りかえすことによっ て精密さの度合いがますます濃くなると, かれは強調 する, ともあれ ドゥラエは, マリタンやルク レールと同じ路線をたどり, 一般原理であれ特 殊原 理であれ, 理性が把握しうるものはすべて自然法の範時にあるとみなした, そして, それらは決 して変異することはないと理解したのも同様である. 現在トミズムの流れをくむ著名な学者の自然法不変理論をクロノ ロジカルに概説すれ ば, おお よそ以上のようになる, かれらは, 第一原理から派生した特殊原理である第二規律の認識におい て, 他のトミス トが主張するような時代の変遷に応じた変異性を容れなかっ た. 原理の数も一個 ないし数個と限定し, それを上まわる拡張は極力おさえようという意図が穆みでている, トマス io) 理 論 も, か れ らに と っ て は 特 殊 原 理 に io) な い し 「控 除」 (subt t ract の有名な 「付加」 (addi t のみ適合せられ, それも真の理性 ( r e c aratio) に よ る 極 め て 制 限 さ れ た も の で あ る. し か も そ の一部付加, 控除された原理が, いっ たん公式表示されると, それはもはや動かしえない恒久的 原理になると考えた, したがっ て自然法はたとえ拡張または縮小されることがあっ ても, 決して 変異するものではないと結論したのは当然である, 現在の政治社会において, 限りない改変と定立が要求される雑多な実定法の氾濫と暗騒にいら 立 つ環境のなかに, われわれが痛感するのはアウグスティ ヌスの 「あらゆるもののための平和は l l itas o ・ l rerum tranqui rdini s ) と い う こ と ば で あ る. 法 の 秩序の静けさである」 (pax omniul , 権威のもとに静かな秩序を願うのが, 人間の自然ではないだろうか, 法の便宜性は, 法の権威を 追放するという法実証主義の相対性に徹することで, 法そのものの崩壊を招来しなければ幸いで あ る.. ともあれ法の権威の源泉である自然法も, 永久に不変ではありえない. 社会の本質的機構の変 ) 7 革に応じて自然法の第二規律 が変移するのは, やむをえないことである1 , しかしこの規律がた えず浮動するようでは, これに真の法的権威を認めるわけにはいかない. そこで多くの トミス ト たちは, 自然法の第二規律たる特殊原理でさえ, いったん公式化されたならば不変を誇る安定性 が生ずると考えた, かれらは トマスの全思想体系を推測して, その文献にみられる字句や一部の 矛盾に拘泥せず, あえて不変理論を説いたのは, むしろ トミス トとしての一 見識であると 思う. 自然法の変異性を強調する者のみが トミズムの正統を行くと速断するのは, いささか狭 きに失し よう. 要はトミズムという大きな 「るつぼ」 のなかで, 自然法を科学的に捕える視点を どこにお く か であ る,. - 49 -.
(13) . トマ ス・ ア ク 「ナスの自然法における不変法則の研究. 註 2 ied by 1 夢幻“ めだc! g ゐ‘ 〆知だ “ α如だ Rev,de Saint-Louis s )J, Leclercq, Lα Mo , 24 (1924) pp 3,ct R, A, Arms t r ong .8 . びん PP ,o力 in c形霧,Louva ′ o ”s l z ‘ 〆〆o鳶 桝 dB′ ,58 7 zdの牌“‘ α 2 , ,PP sde dγo“ ””棚デ8 er cq ,1957 )J ,Z , 乙e /o ,Lec , 乙鞄rの2 i 1 0 6 t c ed by 形溺. P P , . 3)J , .c銃,pp ,251n . Dabin,op l 4) i er cq, 噂. α云 , ,59 , Lec ,PP i ご i t rong P i, 1927 t ed by R, A, Arms . , 5) G, Renard, Led知# , ゅ.C ,22 ,c , PP , 物γのβα /α γα卿”, ars ん t ” 力め r s 力 ′ a n s d メメ ‘ o 力 Z α “ 汐 A メ カメ r y 乙 f s o 日 r膨 メ eg” q z so 八若の綿ア y ? , のり , PP , sz タ .9; , A. Rommen , i l by T, R, Han s ey . .229n . Lou ,pp , St in Z 2 5 0 Z 6) i り G P P . , , , Dab , , 〆り PP 7) め′ .263. / s de dγばご 力”滋, e ’ ”e“ず 血”s 超 γα力めo〆Z i ” 8) J o so力膚e de ro〆αγβ 鳶“d q”g 力α就け sPac′ . Dabin , Lα 力膚Z. i i Par t t rong s ed by R, A, Arms ・1 YII , . ”考 ,pp ,oゑ ,PR 289 ,c ,1927 i, t ′ 〆 d お 放 ′ Z ′ lans y E 員 人靭 s ′ Z w Z M B デ oγ 切 8“ ⑦ o ブ ; - 一 γ ” z J “α zc Gα 9) , essner , B. F, Doher , S.Lous ,t , o 1949 5 8 p p , . 10) 〆鰯d .61 , ,PP b id 11) デ .74~75 , ,PP it ! ZC Z Z r力o e z′ ′ *ms e z z zsq 7 e dγo” 7 α赤 彦γe z z煽す”〆e″ee 12) P. M,0verbeke, 乙α 厩. ,57(1957) , Revue Thom s 4 3~7 仏 7 i t rong t ed by R. A. Arms PP . ,474~491 ,o力,c ,PP ,c i.of Chi i in d sねZ cago Press ta e 13)J .81 、1951 ,Pp , Mar ,iMq” のz , Unv 1 LαW,t D. C, Anson, New York i 7 s ル メ Z r M i 霊廟 鮎鵜 a n 霧 t 尺 a n 8 r 沼 .63 14)J f α a 雲 so zq ク ,PP . ,1951 , , d 8 4~8 5 L 1 9 5 9 揺蕩 i 0 M i Z 締めs oγy β PZ 15)j zzz o P毎 o/ , ,PP , on on, , artan, ’ i tr in,1960 s l ong Z !方 細れ‘ t ed by R, A, Arn ・ γe c ed “ のり z 16) P, Delhaye, Peデブ〃””” ’ , , 噂. 粥, ,82 ,c ,PP , レコuva 1 0 6 PP ,51 ,. 68- --高坂 「トマスの自然法における変異性とその根 17) 北海道教育大学紀要 (第一部B) 第19巻第2号, 19 拠に関する一考察」 参照. W. 理論的および実証的不変原 則の検討. トマス・アクイ ナス が説いた不変法則を徹底的に分析するには, かれの自然法第一原理を理解 するだけでは足りない, しかるに現在多くのトマス派自然法の注釈者は, トマス が示した 「善を 行ない, 悪を避けょ」 という原理を呈示することで満足している. トマスにとっ て不変法則の種 類は, 通常示されたものよりはる かに広い範囲の人間行動に及ぶものと理解す べ きであり, 単に 「善を行ない, 悪を避けよ」 「常に理性に従っ て行動せよ」 だけがその総てではない. トマスは この両者をただ例としてあげたにすぎない, とみる べ きであろう, 自然法が不変の原理であると l inat io を究明する必要が l i s inc い う 認 識を も っ と 深 く 掘 り 下 げ る た め に は, か れ の い う natura ) ある1 , (後出) nus) が エ ゼ キ エ ル 書 の 注 釈 で 最 初 に 用 い た こ と ば Synteresis 次 に, ヒ エ ロ ニ ス ム (Hieronyl. 55年まで, すなわち トマスがその年 (良 知良能) に注目しなけれ ばならない. かれの時〉代から12 に. “ Cの”mB“郷γ〆 zるαγメガ” の な か で こ Zのz””〆“粥 崩郷ga sかZ Pのγ〆 Lo“ 7 2 ““⑦ メカ W L樋γos se. の語の意味と性質を論ずるまでは, この根本問題について諸学者の意見が一致しなかった. 本来 is は機能であろうか もしそうならば 理性とは違 った機能における一局面であろうか. synteres , . 2 良 心との関係をどう説明する か. これらはいずれも, 1 , 13世紀に論 争を重ねてきた問題である i t s な る こ とを を用いた ) が2 , これが解明は, トマスが不変の自然法原理に関連 づけて syn ereS かれの著書を検討することによ って端的に得られると思う, 物質の運動を観察するばあい, われわれは必ず不動の客体を考える, それと同じく, 理論の過. 程で生じた 「運動」 に関しては, それを究明するためにも 「不動」 の知識を要求 するのが普通で 0- 一5.
(14) . 高. 坂. 直. 之. あろう. タ紬性に直接感応するものが知識の土台をなし, それがその後のあらゆる知識を可能なら tus の な か に 見 い だ し た. そ し しめる, トマスは理論上この不変の知識を自明な不変法則の habi l inc ipior ectus p て こ れ を intel r Lm と 称 し て い る. わ れ わ れ は 実 際 問 題 に お い て も, 不 変 法 則 を. i tus を トマ ス は synteresis と呼ぶので tus の 存 在 を 否 定 で き な い. こ の hab 知 る ば あ い に habi. ある,. ) t horum quidel i tus est synteresis.)3 n hab. i ic tus の意味であるが, もちろん英語の hab t の訳で十分ではない, ダ ー シィ (Er さ て habi l l(ま た は abi l i l l は同じ行動のく びArcy) は む し ろ ski ty) が 該 当 す る と い うの, な る ほ ど ski. り返しによって体得した巧みさを意味する, 実行と関係のない単なる観念は, 徳行にも悪行にも l 1 とは同じ実証の領域にあっ て密 i ほとんど適用さ れないから論外だが, トマスの habitus と sk k i l l は発 展 を 意 味 す る が, トマ ス は habitus 接な関係があ るとはいえ, 同義語とは思われない, s のばあいに 「発展」 を否定したからである, それが capacity となれば, 問題が違 ってくる. わ れわれは不変の原理原則を知る(「熟練」 よりはむしろ) 「資格」 ないし 「才能」 があるというべ きであろう, 実証的知識の領域においては, この 「資格」 (能力) を. synteresis と よ ん で 差 し. つ か え な い.. 次に トマスが述べた重要事項の一つに, 不変の法則は, 感情と記憶力に基づくという一節があ ) る5 , かれは不変原則のすべてが本有的存在とはみていなか ったらしい, むしろ原理の真理性が 一般に迎えられるまえに, ある経験的要素が現われなければならない, とするのが トマスの真意 であるようにも思われる, しかし理論的知識たると実践的知識たるとを問わず, その真理性を直 ) ちに把握できる基本原則の先天的存在については, トマスは別個にこれを強調した6 , ” “ “ C め D カ す Z も Q 8郷α … … よ ”解s e s の7 7 7 2 メ ”“… り SPZα昭 雄 αa 不変法則については前記 2 ク z ’ において かなり詳細に論じられている それによれば真実の知識は 広い調査によ Vβ“飼お’ , , . i ione) 突 然 あ る 知 識を 獲 t ineinquis s って得られるが普通であるけれども, なんら調査せずに ( ) 得することもよくあり, それがむしろ必要でもある7 . われわれは理論上, 実践上のいずれにか ) の知識をもっ て生ま 8 ぎらず, 先天的に自明な不変原則 (マリタソのいわゆる 「自然法の序言」 ) れた, そして, それによっ て培われた プラクティカルな理性が獲得した不変原則は, 正に自然法 inc ipia) と 名 づ け て ima pr r の自然原則というにふさわしい, かれはこれを自然法の第 一原理 (p い る, し か しこ の 実 践 理 性 に よ る 第 一 原 理 の 適 用 に 当 っ て は, と き に は 誤 る こ と も あ る と い う か れ の. ) 主張を注目しなければなるない9 . トマスは, 人間がこれらの普遍原則を必ずしも常に正しい形 で適用するとはかぎらないために起りうる過誤の可能性を考えたのである, 理 生は熱r階と物欲に よっ て, たまたまその正常な機能遂行を妨げられるからであろう, つまり “Dβ ▽erp では, 理 論の領域と同じく実践の領域においても一般原則を確認し, そしてそれらの原則がいかに本有的 のものであろうとも, 原則に含まれている具体的限界(適用)に関する知識が要求されるとした. さらにこの書は自然法の不変原則につき, 二つの点で重要な貢献をしている. その一は, 実践理 性よっ て知っ た一般原則はすべて自然法の第一原理であると結論したこと, その二は, それらの 原則に対するわれわれの知識は (原則を適用するときの態度と異なり) 決して誤ることがないと し たこ と で あ る, ’ ’ トマ ス は ”S“粥. rルのZ , に お い て,. 不 変 原 則 の 問 題 を 主 に そ の prin・a pars (qu. 79, art,. 12) で論じている, もっ ともそれは霊魂の知的機能に関する一般問題を取り扱う際に述 べられた ものであるが, そこには不変原則についてなんら新味を加える理論の展開がない, ただこの作品 -5 1-.
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