中村道子の園経営と園長の品格 : 昭和の激動期を愛珠幼稚園と共に生きた中村道子
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(2) 愛珠幼稚園は、園舎そのものが日本の幼稚園. るのを知ると、国に関係なく人の想いが同じで. 史を語る歴史的価値をもっており、所蔵品も数. あることを肌で感じた。そのうち、近隣にC I. 多く保管していた。中村はそれらを守るのが自. E図書館ができるなど、日本の状況は大きく変. 分の使命であると受け止めていた。木造園舎に. わっていった。英語は敵性語ではないと受け止. 対する建物疎開の勧告が繰り返されても、「が. めた中村は、将来を見据えて英語に親しむこと. んこばばあ」と陰口をたたかれても拒み続けた。. を保育に取り入れた。豊かな創造性をはぐくむ. 昭和20(1945)年3月、東京に空襲があってか. 絵画製作指導と共に専門の指導者を招いて、継. らはその思いがなお強くなり、重要な所蔵品の. 続的に実施した。さらに、子どもの発想を受け. 多くは大阪郊外に疎開させていたが、残りも急. 止めて、父の目の行事を新たに始めるなど、精. ぎ運び出した。大阪大空襲で、400m南まで罹. 力的に保育内容の改善を図った。. 災するという危機的状況となったが、幸いにも. 一方で中村は、貴重な園舎ではあるが、半世. 園舎は焼け残った。執拗に繰り返される空襲で. 紀近くを経た傷みが気になり始めた。文部省と. 火の粉が降りかかり、爆弾も落ちたが幸運にも. の交渉ができる全国幼稚園施設協議会の役員. 不発で助かった。. として、園舎改築の予算獲得に奔走した。愛珠. 8月4日、強制力をもつ疎開命令が出され、. 幼稚園にも文部省と大阪市より予算が出ると. いよいよ取り壊しの目を迎えようとした時、雨. 共に、地域や保護者の協力を得て、長期にわた. が降り出し延期となった。そのうちに空襲も激. って園舎の改修・改築工事を行った。. しさを増し、取り壊しどころではなくなった。. 5.退職を前に. 一人幼稚園に泊まり込んでいた中村は、障子が. 子どもたちの生活にふさわしい園内環境が. 吹き飛ぶ爆風にこれで最後かと覚悟もしたが、. 整う中、中村は退職を前に、運動遊具の効果的. 間もなく終戦を迎えた。. 使用と改善についての研究を進めた。一人一人. 4.戦後の幼稚園の環境整備と新たな方針. の遊具の使用状況を細かく記録し、分析してい. 幼稚園は3月の大空襲から休園中であった。. った。必要な活動を補うために吊り環・吊り網. 戦後しばらくは、希望する団体に園舎の使用を. の遊具を発案し、活気溢れる幼稚園づくりとそ. 許可した。疲労感を感じていた中村は、コーラ. の成果発表に適進した。. ス団体が練習する歌に励まされ、園児のいない. さらに職員の協力を得て、愛珠幼稚園の歴史. 幼稚園で事務処理や所蔵品の整理に取り掛か. 的財産を後世に残す取り組みや、楽しい幼稚園. り、元気を取り戻していった。. づくりを記録として残した。園長としての指導. 疎開から帰ってきた保護者の要望もあって. 力・決断力・行動力・人間的魅力は卒園児や保. 10月より園を再開した。異常な状況をくぐり. 育者らのインタビューからも窺われるが、苦難. 抜けてきた子どもたちが歌も忘れて歌えなく. の中であっても屈することなく、病に倒れても. なっていたことに驚いた中村は涙を流しなが. なお凛として記録を残し続けた姿には、変革期. ら「うたをわすれたかなりやは」と、歌った。. の幼稚園園長が学ぶべき品格がある。. やがて、進駐軍の兵士が通りがかりに園内に入. 主任指導教員 襯11喜美代教授. って園児を見て、故国の子どもを懐かしんでい. 指導教員橋川喜美代教授.
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