近代短歌における自然主義の影響(I) : その抒情発想における諸相の考察
15
0
0
全文
(2) . 第9巻 第2 号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 3年12月 昭和3. 近代短歌における自然主義の影響 (1) -- その汗情発想における諸相の考察 -- 薄. 井. 忠. 男. 北海道学芸大大学岩見沢分校国文学教室. ism on the luence of Natural Tadao UsU1: 1nf. ) in the Modern Age. Japanese Poems (Tanka. 明治末年から大正初期へかけ ての歌壇の動向をみると, きわだって特異な現象を 認めることがで きる, 明 治 三十年初頭に出発した新派和歌の結実が 『明星』 浪漫主義の高峰 としてみなされると き, それへの顕著な対立を示 したのは大正期の 『アララ ギ』 的リアリ ズムの成立であった, この女 学史的鳥獄に対して両者の間にはさまれた谷間がここにいう明治末年から大正初期へかけての一時 ≦ 廃刊となってあらわれ, あたかも期を同じく して 期 で ある, そ の現 わ れ は ま ず41年11月 の 『明 星』 同 年 の10月 『ア ララ ギ』 創刊 とし・う 事 実 を認 め る の で あ る が, しか し ごア ララ ギF の存在は未だ微 『明星」 の廃刊は, 明治浪漫主義の崩壊を事実上意味するものであっ 々 た るも の で あっ た し, ま た - た, だ か らアラ ラ ギ リ ア リ ズ ム の確 立 前 に 或 る 種 の シュ トル ム ・ ウ ソ ト ・ ドラ ソ グ の 時 期 が考 え ら れ, 明治歌壇と大正歌壇の交替が顕著に認 められるのである, 北原白秋・吉井勇 らの明星脱退事件 はそういう意味で正当に評価されなくてはなるま い, またアララギが歌壇の趨勢を押えた大正 5年 の状態は, その内部における左千夫と茂青や赤彦・千樫らとの間における意見の対立ないしは相池 を経ての結果である ことをも考慮する必要 があるであろう, さらにこの谷間に介在して, 短歌史上 の一時期を劃した若山牧水や前田夕暮の世界の展開は, この期における最も顕著な現象であった, r明 星r 的 浪 漫 主 義 と も 異 り, 『ア ララ ギ』 的 リ ア リ ズ ム と も 異 質 な 一 時 期 は, い わ ば過 こ う した ● 渡 期 的 な現 象と して と らえ る こ と も で き る が, そ れ に も ま して, 彼 ら 新 人 の 若 き ジ[ネ レエショ ン. の明治的浪漫精神に対 する反燐として把握することが必要である. 与謝野寛・晶子にひきいられた 『明星』 の観念的空想的世界は, 明治37 , 8 年戦争後の現実主義的風潮にたえることができず, 特 に西欧自然主義女学の紹介にともなって, 日本自然主義女学の運動は, 当代青年層の精神内部に甚 大な影響を与えていた, 白秋も勇もともに自然主義の牙城である早稲田大学に学んで居り, 当代の 閉塞された 時代の空気を最も敏感に呼吸していた人々であった, 即ち41年の北原白秋・吉井勇・太 「 が4 0年末に反自然主義の旗をはっきりと掲げ 田正雄,秋庭俊彦・ 長田秀雄の連枚脱退は, 「明星- キや感情のもつれも そ た直後のことであった, もちろんその原因には主宰者与謝野寛との性格的な楓申 ズ レであったであろう , あったであろうが, 大きな問題点は, やはり彼等の時代精神と寛との間の 吸し 主義的空気の下で青春を呼 いかえれば自然 た い ることのでき 気に敏感に触れ それは時代の空 , なければならなかった彼 らと寛との対立であった, このことは同時に左千夫対茂古・赤彦の対立に おいても考えられる問題であって, だからその意味では この 一時期を対立と相 旭の中に新しい胎動 を感ずる過渡期と認めることはあながち誤りではなかろう, - 38 -.
(3) . 薄. 井. 忠. 男. 『明星』 からの脱落者や, 『アララギ」 の新傾向, ならびに牧水・夕暮を と ころ で, も ち ろ ん, i 同列に論ずる ことはできない, 自然主義的な時代を背景にはしていたが, 時代への対処の方向にお い て も, そ の空 気 の と り あげ 方 に して も, そ れ ぞ れ に 異つ た も の が あ る か ら で あ る, だ か ら, 短 歌. における自然主義のあり方は, 影 響の方向ないしは位置の上から考察されるべきであろう, 元来, 小説の理論として成立した自然主義が, 短歌という短詩定型の汗情詩の上にそのまま適応せられる ものであり得ないことは当然であるし, 韻律と定型が重要視されるところに, 論理的方法のとり入 れられる余地はあり得ぬであろう, この時期を規定づけている諸氏の態度からみて行くこととすれ ば次の如く である, ド明治大正和歌史』 では, 「自然主義的近代主義的傾向期」 改造社版『短歌講座」 所収の斎藤茂古コ と して, 金子薫園・尾上柴舟・窪田空穂・若山牧水・前田夕暮・土岐哀果・石川啄木・北原白秋・ 吉井勇をあげ, 「スバルの歌は欧羅巴近代主義の輸入を迎えて, 神経質・感覚的の特色を発揮した けれども, その象徴主義というものも鞘軽浮単調となり, 作歌が一種の遊戯に堕せむとしたとき に, これより先き本邦自然主義の運動が, 早稲田大学・女章世界あたりを中心として 勃 興したの に, 歌壇の人々も影響を受けて, スバル一派の歌に向って, 反抗の気焔をあぐるに至った.」 とあ る, スバル一派は即ち白秋・勇をさすのであって, ここでは茂吉は自然主義の影 響とスバルを相対 す るも のと して と り あ げ, 自 然 主 義 の影 響下 に あ る 歌 壇 が ス バ ルに 反 対 した と あ る が, む しろ ス バ. ルが反対 じた立場であったであろう, ちなみに 『まひろ野』 (空穂) は38年, 『収穫』 (夕暮) は 43年 r別離 3年で, 『酒を まがひ』 (勇) r桐の花J : (白秋) は大正2年である, ま … メ (牧水) は4 , た ス バ ルそ の も の は42年 創刊 で あ り, 夕 暮 の 『向 日 葵」 は40年 に 創刊 さ れ て い る, :‘. 台頭」 という項を設け, 傍題に 渡辺順三 「近代短歌史」 (河日 ~書房) では, 「自然主義的歌人の] : 牧水・夕暮時代としている, ここでは柴舟・薫園・空穂は, 信綱・氷穂とともに 明星派時代の圏 外各派として扱い, 柴舟・薫園の二人が, 反ロマンチシズムの旗をかかげた最初の人であり, この 門下から牧水・夕暮・哀果などの自然主義的歌人が育ったとしている, したがって柴舟・薫園は自 然主義的短歌への先駆的存在としてあつかわれているのである. 石山徹郎 『現代短歌』 (日本評論社) では, 「自然主義浸潤期」 として, 空穂・柴舟・薫園・夕 暮・牧水・善麿 (哀果) 啄木・勇・白秋・晶子・信綱・左千夫・節をあげているが, 本書の性質上 内容からおして勇以下はこの期の活動として扱われているに過ぎない. 「これら明星派乃至スバ ル 派傾向の短歌に反抗して起ったものは謂わゆる自然主義的傾向の歌人で, 尾上柴舟の車前草社から :から出て生活派的傾向に転じた石川啄木などが, その代表的な 出た土岐哀巣, 『明星Efスバル」 ものと見られている, 夕暮・牧 水・哀果等を育てた柴舟・薫園の歌は, その意味でこの期において も顧みられなければならない.」 とその概観において言っている, 「日本女学教養講座近代短歌』 において, 「自然主義の影響による歌壇の蕩揺」 木俣修は至女堂 コ という項をたて, 1 , 自然主義の薫染, 2 , 若山牧水, 3 , 窪田空穂, とそれぞれ小項をもうけて 「 おり, 自然主義の洗礼をうけ, またはそれに近寄っていった歌人としては, もとから反 『明星』 派であった尾上柴舟・金子薫園をはじめ, 柴舟門の前田夕暮・若山牧水・蕪園門の土岐哀果, 新詩 社出の石川啄木, それに窪田空穂および門流等であった.」 とし, 若山牧水については, 「人生を 清純に生き, 人生の苦忠を自 然の中に慰めようとするような態度がいる濃くにじみ出している, こ うした匠気のない純情的感傷が, ようやく新詩社の空想的浪漫歌にあきていた人 々の人気を大きく さ ら ったの で あ る, 近 代 人 的 な 悲 愁 をた た え て い る と い う 点 で自 然 主 義 的 な と ころ を も っ て い な い. こともないが, しかし彼の作風の主情的な点などは, 現実観照に徹する自然主義の客観的態度とは う ら は らな も のが あ っ た こ と を 認 め ざる を 得 な い」と言 っ て い る, ま た 前 田 夕 暮 に つ い て は, 「夕 暮 一 39 -.
(4) . 近代短歌における自然主義の影響 (1). のゆき方は牧水とはかなり違っていて, 客観的 である, 自然主義の一面である平面描写を歌の上に 行ったところその特殊性が見られる」 と言 い, 土岐哀果につし・ては, 「東京生れで早稲田大学の英 文科を卒えて長く新聞界に活動した, 彼は藁園の白菊会に加わったけれども, 実はそこから得たも のは稀少であって, む しろその学んだ学校の空気よりうけたものが多かった. その頃の早稲田は自 然主義思潮の送風管のよ うな役割を演じていた場であった から, 彼がその風潮をいち早く身に浴び た こ と は 当 然 で あ っ た.」 と して い る, ま た 「明治 43 年 第一 歌 集 『NAKIWARA工』 を 出 した が,. これはローマ字の三行書きであった, 日常の中から歌材を得たものが多く, 一平 L人 の 生 活 ノ ー ト といった感じのものであった, 彼が生活と歌とを密着させたということ, 表記法に三行書きを試み た と い う こ と は 重 要 な 意 味 を も っ て い る.」 と言 及 して い る,. さ ら に 啄 木 に つ い て は, 『悲 しき 玩. 具』 をとりあげて, 「機械論的宿命観によって人生を解釈することが自然主義の一動向とみるなら ば彼はまさにもっとも忠実な自然主義歌人ということが出来るであろう, その意味で自然主義を代 表する歌人としては牧水 ・夕暮などよりも啄木がすぐれているとい い得る, 彼は歌に関する限り自 然主義歌人の名で呼ばわるべきである.」 と強調している, 空穂については, 「新詩社初期の有力 作家として認められたが, その社の主湖とする奔放な浪漫主義の色調の中ではその作風はやや異色 39 ) は 勿 論その青春のもたらす哀歓に 『まひろ野』 (明治38 ) 『明暗』 ( を帯 びていた.」 「歌集; よって貫かれているが, 彼の歌はその基底にリアルなものをもっている, 農村出身の彼は都会的な 言溺れ るHI 夢 幻に 遊 ぶ に あま り に 質 実 で あっ た と い う こ と が 出 来よ う.」 と い い, ‐ F (大正4年) J 「 的な発想からはすっかり脱 について 「感傷的気分からすっかり離れてはいないが, 前期の 『明星」 け出して身辺の嘱目風景, 日常生活の諸相というようなものを平明素直に歌おうとしている, 明ら かに自然主義的な方向を辿っているのである.」 と, やや微細に入って の分析が行われている, 同じく木俣修の 『近代秀歌』(講談社) では, 「自然主義思潮に洗われた歌人」 として若山牧水・ 前田夕暮をとりあ ず, 石川啄木・土岐哀果は 「生活短歌の開拓者」 として別項にあつかっている, 以上瞥見しただけでも自然主義短歌として明確 に定義 づけたものは見当らず, 自然主義的, 自然 主義浸潤期・自然主義の影響というような受動的表現が用いられていて, 作者についても牧水・夕 暮以外は少なからぬ異同をそ のとりあげ方に認めることができる. 短歌においては散女の場合の如 く自然主義を積極的に名のることは困難であったであろう, もちろん好憎文学としての短歌が, そ の本質からしてことがらの論理的な展開を行う小説の方法論と相容れないのは当然であり, したが って自然主義がそのまま短歌の方法になり得 .ないことも自然なのである, だがしかも自然主義的な 影響が如上の如くに云々される以上, 短歌的立場における自然主義の明らかにされる必要性も考え られなければなるまい, 短歌的立場では, 自然主義の影響という形でとりあげられる ことが正 しい とり上げ方であろうことは右の抜き書きからも知られるところで, 短歌の面でも日本自然主義の追 求した人間の真実が追求 されなかったわけではない, ただ短歌では, その真実が主体的な好憎とし て歌い上げられる, 自然主義が人間と社会との関係交渉す るその座において真実を客観的に追求す るものであったとすれば, これは主観的な一面を強くもちながら伝統的因襲を破壊し, 人間の価値 の確立をめざすという浪漫主義の一面に通ずるものを元来内在せしめていた. ところで, 日本の浪 漫主義が早産に終ってなし得なかったこの浪漫主義の一面を日本自然主義は継承せねばならぬとい う宿命をもって出発したから, そのリアリ ズムには, 権威の否定につらなる要素があり, 牧水・夕 暮を中心として とりあげられる一連の行き方も, まさに 『明星」 コ 派の権威に対する対決という面で とりあげる ことが出来, したがって, 空想的観念的浪漫主義に対 して現 実暴露的傾向をとらざるを 得ない行き方にも, 日本自然主義と軌を一にする点が認められるのである, こう した場にあっては 一切のセンチメ ンタルな幻影は消散して, 観念の王国としての詩の世界は否定され, 現実の人間社.
(5) . 薄. 井. 忠. 男. 会の矛盾・不合理が暴露されるのが当然で, 散文化への 傾向もこの点に庭胎 しているといえよう , ところで未成熟な日本の近代社会にあっては, こう した矛盾不合理の醜さが暴露されたとき その , 根源に深く遡って追求することは遂に行われず, 現実に対する幻滅・悲哀を感じたのであった 前 , 向の姿勢はとられず退嬰的な諦観の境地に入ってしまうのである, この世界観は 散文においては , ;せざるを得なかったのである 日本自然主義の社会的意識に 一種の自照文学としての私小説に移行 , おけるきわめて幼稚なあり方が, 人生の寂事とか無解決の悩みとかいうことを誇張せずにいられな かったとすれば, 諦念的な汗情が身辺の日常嘱目款にうたわれ, 生活瀞 永の風潮を くといわれ, 自然言 も生んだこの期の短歌を 「近代的悲愁r と い う こ と は で き よ う, そ して そ う した 歌 人 の 歌 に 新しきわれを見いでしとある日に覚めたろ歌をうたいっゞくる (金子薫園) とある如く, 自己覚醒の真実の声を表現 しようとする意識に立ったのであり, それは自然主義の波 浪を受けての受動的な自覚であったと言えよう, すでに彼は柴舟と共著で 『叙景詩』 を出 し, そこ で自然詠の試みをしているがいまだ自然主義的な苦悩といえるものではなかった , 尾上柴舟は35年に薫園と共著の 『叙景詩」 で, その巻頭に 「叙景詩とは何ぞや」 を書き, いわゆ る叙景詩運動を起した, その主張するところは, 「ただ自然に従って之を写すに在り, 写して人意 を挿まざるにあり.」 という写実主義であって, 「新進の画家, 筆を深林広野の間に試み, 直に天 真を発揮せんと欲するに比せよ, 其径庭果して如何ぞや」 とあるように, 尤声会の画家達を意識に 置いた論である, この点根 岸派の短歌に近いと言えるが, 安部忠三氏の J歌 壇史稿」 によると, そ の尾上柴舟研究資料中与謝 野寛氏との関連について 「別派ではあったが, その作品を注意 して, 中 には暗記して いたものもあっ, たと書いている, ここに正 岡子規を一言もかいていない点が注意され る」 と記されてある, ともあれ叙景詩運動は,「明星』の浪漫主義に反対して起した運動であって , 自然美への認識という点に主 眼があった, また彼は, 「今日の新派 むしろ今日の歌は, 美を希求 , せずして真を発揮する, 自然の美を鼓吹せずして, 自己の告白を根祇とする, 飽迄も現実に執着し て, 現実の美も醜も悪も残らずこれを歌う, 而も赤裸々に歌う, ここヒーの手段も方法も講 じな い」 (斎藤茂吉 丁明治大正和歌史」 より孫引) と言っているが, 彼の自然主義観の重要な ,発言であ ると 思 われ る,. 前田夕暮は改造杜版 /現代短歌全集』 前田夕暮篇後記で, 「私は39年に創立した白日社という社 名 と い い,. ま た 「向 日 葵」 と い う 雑 誌 の 名称 と い い ,. 自分 の 好 み か ら して 命 名 した に は違 い な い. が, 『明星』 に対する幼い優越感からして白日をえらび , 向日葵を選んだという意識は 働いていた のだ, 『向日葵』 休刊後, 私はパ ンフレット 『哀楽」 を白日社から発行して世に問うた処が 意外 , な反響があったので, 愈々私の行くべき道は決定された, そして隠忍数年の後, 44年4月に雑誌 . 『詩歌』 を発行した, 此頃吾等の自然主義短歌が確立された観があった 」 と言っていて 自ら自 , . 然主義短歌を認めていたことが知られる, 尾山鷺二郎は 『明治歌壇史1 で 「当時余の如きは新詩社の歌よりもこの両者 (註牧水・夕暮) の 歌を愛好したのである, 新詩社の歌は粉黛を擬せしものである, アッと言わす処がある 然し墓も , しみじみした深い処がない, それが余には飽き足らない, 処が尾上柴舟の 「静夜」 及び夕暮・牧水 の歌には, 十分なものではないけれども何かしみじみした処がある , 余は粉黛や星童には飽たし た, 自然で素朴で而も深い処のあるものを欲した, ,恐らく夕暮・牧水の歌が一部の者より認 められ たとすれば, 余が当時思うた考えと殆ど ‐致するものがあったからだと信ずる 今一つは 両者の , , 歌には当時最も滅んであった自然主義文学の影響がある 暫く 以前までは非常にロ マンチックな歌 , を歌っていた夕暮が, 吾は日常生活の些事を歌うと提言し, 牧水は自然を好んで歌った 天地自然 , の哀愁を歌って一家の風を樹てた. 柴舟の縁をひいて, それよりも新 しい思想であった自然主義の - 41 -.
(6) . 近代短歌における自然主義の影響 (1). 影 響を享けていたのである.」 と書いている, このこ 滅ばは当時の短歌享受者の傾向を最も間明に 言 っ て い る と 見て よ い で あ ろ う,. 若山牧水は 『秀歌をおもう心 ・ 』 (牧水全集第8巻) で, 「歌に限らず, 小説でも何でも, 出来得 べくんば何等の助勢をからず, 表はきうとする作品の 真 髄そのものだけを出したいものであるの だ, 然し, 芸術とか何とかなって出る以上, 言語をかり, 言語の連なりかたに由って種々の形を仮 り, つづまリーの形式となって出て来るのである, それは止むを得ないとしても出来るだけはそれ らの仮勢を増長せしめず, 最も都合よく運用して真髄そのものに近いものを出すべきであり, 出し こは粉があると云い無いという, 眼を腹ぢて作 度いものである, 私は作物を鑑賞するに, よくあれを 物に触れて見るに或は指先に粉か 塵か砂ばかりが触れるもあり或は作品の上に 多少のそれらの混ず るを感ずるもあり, 或は微塵の砂なく粉なく玲確たる作品の真髄そのものに触るるもある, 希くむま 我等は常に最後の境地に在り度いものであると念ふ.」と言っている, これは牧水の自然主義的立場 と言うべきであろう, さて こうした態度なり主張は, 『明星』 の浪慢主義に反機して発せられたものであることは以上 の抜書きにおいても明らかであろう, そしてまたそれ が, 自然主義思潮に薫染された新時代の発言 と して あら われ た こ と も ほ ぼ 明 ら か な こ と で あ る, で は そ う した 時 代 思 潮 は 一 体 ど の よ う な形 で 社. 会に, 特に青年層に浸潤して行ったものであろ うか, 2. わが国の自然主義女学が, 特に日本自然主義と冠せられるように, 本来の自然主義といささか軌 :に先行する浪漫主義と を異に した事情は日本の近代社会の未成熟にあったことは疑いないが, 同時 の関連においても考える必要がある, 自然主義作家として立った島崎藤村はかつて浪漫詩人であっ l i i t s c Tendency そ の 大 部 分 は 実 に 先 生 (註 松 浦 辰男) の 歌 た し, 田 山花 袋 は 「私 の 芸 術 の Rea. 『東京の 論から得たと言って差支えない, 私は歌によ って, 芸術の深いところに入って行った」 ( 30年』) と 言 って い る よ う に, 桂 園 派 の 歌 論 か ら示 唆 さ れ る も の が 多 か った,. と い う こ と は, 丹情. 詩的主惰性が彼らの文学に支柱となっていることであり, 彼らの浪漫主義がついに完成を見ずして 現実の障壁につき当った時まさに現実を悲哀として感得した事情を示すものである, その悲哀はも はや高く昂揚せしめられるような理想追求の悲哀ではなく, 現実に深く沈潜して行く態のものであ る, 「幻滅の経験を嘗めたろ後, 残される現実界を観ずれば, 其処に理想的に 判定せられたる価値 を詔 、め ざるべし, 否, 吾人の価値の判断は, 幻影界に執着せる時代とは全然異ることもあるべし.」 ) という悲哀は, 37・8 年以後の自然主義時代のよって立つ時代観 (長谷川天渓「現実暴露の悲哀』 であったであろう, 「幻像的理想は総て滅びて権威なく, 経論の円満完全を 尚ぷは唯これ一種の遊 戯のみ, 幻滅の経験を味いたる者にとりては, ただ有りのままなる現実 の映ずるのみ, 而して現実 界は無辺無蛭なり, 其の 生滅変化の相また無限なり, 時所共に無限の変化ある現実界に向って, 現 想の鎗を振うも, 何の功かあらん, 否, 現実界と没交渉なる幻像を眺めて満足すること能はざるな り, されば吾等は唯吾が観たる現実界を基として人生を説くを以て満足せざるべからず, これ自覚 的現実主義にして, 其の哲学界に頭れたる最近の形式はプラグマティズム (実際主義或は人間本位 主義と訳すべきか) にして, 文芸界に表れたるは自然主義なり.」 (同上) とは, 自然主義女学の背 景をつく論である. 好憎詩特に短歌が, その時イヒに呼吸する人間の感動・思想を 「訴える」 ところのものである, と すれば自然主義の背景をなす時代, 即ち 「幻滅の経験を味いたる」 人々の 「幻像を眺めて満足する こと能はざる」 時代精神こそ短歌上の自然主義であるといえる, したがって短歌の上ではきわめて 一 42 -.
(7) . 薄. 井. 忠. 男. 正直に時代精神がうたわれるから, 同時代のあり方に先に見たようないくつかの相違が認められる のであり,.そうした異つたものを内包 しつつある日本自然主義そのものが西欧自然主義と対比せら れ る所 以 をも っ て い る の で あ ろ う,. 自然主義は, 元来19世紀のフランスを中心として西欧に発達 した女芸思潮であった, それはダー ウィンの進化論や, コントの実証哲学が世に公にされて物質文明が最盛期になろうとする機運に触 発され, 哲学芸術全般にひろい影響を与え, 人生一切の事実を客観的科学的方法によってありのま ま に観 察 し, さ らに 分 析 しよ うと す る現 実 主義 が そ の根 底 をな して い た の で あっ た, バ ル ザ ッ ク ・ フ ロ ー ベ ルな ど自 然 主 義 の 先 駆 者 に つ い で, モ ー パ ッ サン, ゾラ, イ プ セ ン, ゴ ンク ー ル が 出る に. 至って西欧自然主義の全盛期をむかえた, ところでこの西欧自然主義は, それに先行した浪漫主義 女学の人生の一面に対する讃美・億帳に反対する立場から, 一 切の 感情を排除してある がままの人 生や, 科学実験者にも似た態度で社会悪の追求に向ったものである. だからそのためには 一浪漫主 義時代の完全な自我解放が実は基底におかれていて, その上に一切の因襲, 権威から解放されるば かりでなく, 自己の生きている現実社会のなかに多くの考えるべき問題を発見することとなったの である, (河出書房 「現代日本女学辞典」 その項参照) 7・8 年の日清戦争の頃であり, 現実主 日本にこれら自然 主義女学が輸入されたのは, あたかも2 義的な物の考え方がようやく発生しようとする機運が認め られる時期に当っていた, 観念小説・深 刻小説が時流に投じたのもその一つの現われであった, 明治初年の啓蒙運動は, 日本の後進性を克 0年代の欧化主義を現出したが, これはいわば一種の浪漫主義精神であった, だがし 服するために1 0年代の国粋保存 かし, それは外面的な模倣に急であって精神革命がそれに伴 わなかったために, 2 主義が反動的に拾頭すると, 岡倉夫心等がその意図するところに反して国家主義的傾向に走らざる を得ない結果をもた らしめている, だから西欧的女芸観を基盤とした追遥の「 小説神髄」 や二葉亭 0年代を風廃した事情も, こうした時代思 の 『浮雲』 が置き去りにされて, 硯友社の古典派文学が2 潮のあらわれであったのである, だが, 西欧的教養を消化し, 真に近代日本のあり方を苦悩 した先 0年代女学史のもう一面を飾った 『女学界- r の前期浪漫主義がそれであっ 覚もあらわれてはいた, 2 て, だから透谷をはじめとする彼ら一団の青年は, 当然の事ながら旧道徳や旧感情のあり方に対す る積極的な批判と対決を行った, それは硯友社交学のあり方に明示されているように, 時代の先端 を行くものであったにしても, 硯友社の写実の如き妥協はなかったから世間の容れるところとはな ごきをせねばな らなかった 浪漫主義は元来主情 的に全自我 らず, そこに 「早すぎた日醒め」 のなけ , を生きようとするものであって, したがってそれは精神面での内的革命を意味するものであり, 旧 道徳としての封建性, なかんずく 「家」 への対決が表面的にとらえられる目標でもあった, だが日 本の近代は, 資本主義的経済面での改革に急であって内面的改革は等閑視されるよりもむしろ旧道 7・8年の戦争へかり立てる動力の二面性となって働いて 徳温存の方向にあった, こうした傾向は2 い た と い え よう,. さてしかし27・8年の戦争の結果, 資本主義国家としての一応の完成をみると共に, その矛盾は おおうことができず, 現実面に対する批判の眼が否が応でも開眼されなければならなかった, 先に 触れた観念小説・深刻小説・社会小 説等と称せられる一連の傾向女学の現われはこうした時代を背 景として成立する, 泉鏡花・川上層山・広津柳浪というような硯友社出身の作家が, 社会問題を観 念的に提起したり, 社会の深刻面を描き出したりしたのは, 戦後の現実的思潮に迎えられ, その要 請に応えたものであった. だがそれ等は, 浪漫主義の精神革命を経ることなくしてつき当った現実 であったために, 単に問題の提起にと どまって分析解剖の城には到らなかった, ただしかし現実に は, 次の前期自然主義を経て自然主義女学成立への準備をなしていた こ 対する関心が生まれたことむ - 43 -.
(8) . 近代短歌における自然主義の影 響 (1). とにはなった, 37・8年の戦争になると, 戦後の現実主義的思潮はいよいよはげしく, 前期自然主 義が硯友社出身の作家をも含めながら, 国木田独歩のような詩人や, 『女学界』 出身の藤村, およ びやはり詩人として活躍していた花袋らによって西欧自然主義が特に ゾラ やトルストイを介して移 植せられたことは, これまた時代の要請でもあった し, 日本自然主義の特殊性をもたらすこととも なった, このことは解放しきれざ る自我をくすぶらせつつ, 中途半端な精神革命のままで立向った 現実直視という自然主義の方向が, おのずから西欧のそれと異ったものを結果するのであった, 主情的に全きを生きようとする浪漫主義精神と, 科学的主知的に人間・社会の問題を追求しよう とする自然主義的リアリ ズムとが相容れないものであることは論をまたないが, 同時に旧倫理・道 徳観からの解放がないところに科学的因果的探究ができ得ないことも当然である, ところが日本自 然主義では, 未だ解放されざる精神的問題を内蔵したまま, 現実直視の立場に立到ったのである, そこで前期自然主義ではまず ゾライ ズムとして性の解放が永井荷風・小栗風葉らによってとり扱わ れ, 次いで藤村の 『破戒』 においてわずかに社会ならびに階級の問題があつかわれて本格的自然主 義の姿をのぞかせた, だがそれもつかの間で花袋の 『蒲団』 以下, 『生j『縁』 等 藤村の 『家』 , や白鳥の 『何処へ』 などに見られるような自 己と家との対決の問題が追求されなければならなかっ た, いってみれば浪漫主義で行われるべき問題がここにも持ちこされて 主情的面と主知的面との , 二律背反性がもたらされたのであった, しかも, 完全な解放をさえぎられた自我のくすぶり{ は, 北 村透谷の如きはげ しい闘争的対決とはならず, 藤村の退嬰的妥協的な方向へ進展したために, 一種 の諦念的境地が私小説的独白性となって長く日本女学に陰嘘を落すのであった, もっともこれには 日本の近代社会が思想的革命をはばむ政治的弾圧という特殊な 外 的 圧 力のもとに 「時代閉塞の現 状」 を 呈 して い た こ と は 見 の が す こ と は で き な い, と も あ れ こ う した 「時 代 閉 塞 の現 状」 か らの 逃. 避こそ私小説的独白と, 現実を逃避した譜念性が日本自然主義の特殊性をもた らすものとなるので ある,. ながながと見てきた明治文学史の概観は, 日本の自然主義の不徹底さを理解するためには必要で あろう. そしてその特殊性としてとりあげられる 諦念性や独白性 こそは 当時の日本人, 少くとも , イ ンテリ階層の一般的精神現象であったのであって 明治末から大正初期にかけてのジメ ジメ した , や り切 れ な い 社 会 相 を 反 映 して い る も の でも ある, した が っ て そ う Lた陰欝な相は小説面のみなら ず詩壇にも歌壇にも俳壇にも, その例影が色濃く印せられたのである, 正岡子規は既に写生といういわば俳句的発想を短歌に生か して, 客観的短歌をはじめていたが , 子規自身後に坂井九良岐に与えた手翰に告白しているように, 短歌の主観性を認め 主観客観一如 , の世界を目途するようになっている, 汗情詩が主観的 室惰性によるものであることはもはや自明の ことであって, その意味で純客観の歌はあり得ない, しかし子規以後の根岸派系の歌が 他に比 し , て客観的であることは認められるし, 短歌の世界に叙景歌が改めて拓かれ, 人々の人生観が現実主 義的自然主義の影響下にあるとき, 自然その反映が本来車情的である短歌に反映し, ひいては自然 詠としての叙景に人生の詠歎を詠出することも行われる, 特に私小説的な独白性と諦念性とは, 短 歌そのものにも本来的に由来するものであって, この点後の日常茶飯事をも歌い, 手帳書きといわ れる或種の作品への系統を引いて行くことになるし, その出発点が 夕暮や哀果にあることも先に見 て来た通りである, また ゾラ的な肉欲的描写は短歌の上でも行われたがそれは浪漫主義の官能とは 極 を 異に す る も の と して と り あ げ られ る し, さ らに 拘 束 を 排 除 す る こ と を‐一つ の 目 標 と す る 日 本 自. 然主義の立場は, 哀果.啄木の三行書きから口語自由詩への契機をなすし, もう--っの自然主義の 本質の最たる社会意識が生活歌の出発を促すことともなっていると 思われる, こうした反映のあり 方によって自然主義的短歌の内容を整理 してみると次の如きものが抽出されるであろう, - 44 一.
(9) . 薄. 井. 窓 、. 男. 1 :的短歌の復活, 万葉集にすでに見られた高市黒人や山部赤人の叙景歌は, 自然に托して . 叙昇 汗情する態度であったが, 久しい衰亡の後わずかに西行, 実朝の叙景歌を見たのみで明治の正岡子 規らの根岸派歌人によって復活を見た, が一方西欧的教養の洗礼を受けた新鮮な態度で自然を再確 認しようとしたのは尾上柴舟・金子燕園らの 『叙景詩』 であった, その巻頭女は先にも見たが 「ひ そかに語る, 今時の詩に志すもの, ただ浅薄なる理想を詠じ, 卑近なる希望をうたい, 下劣の情を のベ, 狼 難 の 愛を 説き,. つ と め て, 自 然 に遠 ざ か らん と 期 し,. 而 して, 真 正 の詩 以 て 得 べ しと な. す. 」 と言い浪漫主義に反対する立場から自然美の再認識を主張している, 後年現代短歌全集 『尾 上柴舟集』 の後記で 「当時の著しい浪漫主義には随ふことが出来なかった, これは, もとの自由な 気持で, 写実主義と云うべきものに依然と して基礎を置いていたからであった, この故に, 同門で 同傾向で あった金子薫同君と親しくなった, で 微 力ながら浪漫主義に反抗するような気分で 『叙 景詩』 をも一緒に出した」 と言って, この運動が, 新詩社明星の浪漫主義に対する反抗であること を明らかにしている, こうした傾向と意識とのあり方は, いわば藤村が小諸で試みた 『千曲川のス ケッチ』 の意識にある親近性をもっものであろう, 2 . 私小説的な独白性は, 短歌本来の特性とも言 えるが, 柴舟の率いる車前草社から出た前田夕 幕・若山牧水にはその傾向が強く 見られる, 夕暮の処女歌集 『収穫』 は, 自己を主題にして現実生 活の苦悩を歌ったり, 牧水も 『路上』 や 『死か芸術か』 以後, 人生の苦悩や疲労や焦燥を歌って時 流に投じたのであった, 太田水穂が牧水の 『別離』 と 夕暮の 「収穫』 を批評して言った次の言葉 は, 彼らを自然主義的歌人とLてとらえた同時代人の感想である, 若山牧水氏と前 田夕暮氏とを ともに明星派結集の後を受けて今の歌壇に比翼を張った姿を為 している, 二人とも 同じ時代の思想と感情と刺戟とに育てられたのであるから互いに相通じた処 相似た点のあるのは云うまでもないことであるが, しかし, そこに二人の 特 徴が鮮かに読まれ る, 牧水氏には感情の部面が多い, 従って同氏の歌には思想の動揺というよりも先ず 感情の動揺 が眼につく. 首々読 み去って胸に覚ゆるものは哀情と慾思とである, その哀情と愁思の底の方に 一繕自我の驚発が見えるけれども, 氏の 主 情的才分はそれを圧して下の方へとくぐもらせてい る, 此点が同氏の歌に骨立った眼障りな圭角を見せぬと同時に, しめやかな湿ひとふっくらした 柔かさとを支えている, (中略) しかも二氏ともに自己の真実を歌はうとするところに明星派以 後の新たなる出発点を認める, 所詮女壇一帯を 浸して来た両3年以後の傾向が, 歌壇の上にも現 されて来たということに過ぎぬのであろうが, しかし小説な どに比較 して多分に形式上の制約を 受けねばならぬのが歌そのものの性質である, 韻律とか調子とか一見して近時女壇の排主観的傾 向と折り合いがたく見える短歌をして, 此の程度にまで進めて来た努力に 感嘆せざるを得ない , 右の女は牧水・夕暮の自然主義的歌人としてのあり方を考察するのには, 一つのきっかけとなるも の で あろう,. 3 . 社会意識が表面にとりあげられ, 生活派の先駆をな したのは金子薫 園の門から出た土岐哀果 と, 新詩社から出た石川啄木とであった, 自然主義本来の主知的な因果的問題を含むこの種の立場 1文字の定型をもある程度破壊することを余儀なくせしめ 特に啄木は新詩社時代の技巧 は, 遂に3 , の修練を経て, 無技巧ともいう程の平易な表現を発明し, 三行詩型をとって新鮮な表現をした, 日 常生活の些事を感傷的に歌うことも行われ, 社会的関心が色濃く現われていることは著 しい特徴と な った,. 4 , 自然主義が 私小説や心境小説を誘発したと同様に, 歌壇でも, 日常の政事を歌った身辺雛説 く はこの当時から流行した, 私小説をも自然主義の末流と見る考えからすれば, この種の身辺桑 E詠も i ここで問題にされるべきであろう, この傾向は窪田空穂・松村英一・半田良平らに著しい特徴で あ - 45 -.
(10) . 近代短歌における自然主義の影響 (1) る,. 5 . これらの顕著な現象は, い わゆる自然主義歌人のみではなく, 既成歌壇人の間にも多かれ少 3年 なかれ現われて来た時代的現象とも見られるものである, たとえば与謝野鉄幹は 跡目聞』(明治4 3月) に あたたかき飯に目刺の魚添へし親子六人の夕がれひかな 与謝郡温江の村に鍬とりて世の峻ひより逃れなむかも 五人の子等が冬著に縫ひ直しさもあらばあれ親は著ずとも の如き歌を作っているし, 根岸派系アララギの伊藤左千夫は 『馬酔木終刊の消息』(明治41年1月) において, 「子規子の研究態度 は女学は只女学を目的とし, 歌は只歌を目的と為すと云える見地に 立ちたるものと見るべく, 従って其の作物の跡につきて見るも, 自然を親しみ人生を傍観せるの趣 一切の女学美術との関係, 若しくは宗教問題・社会問題・人生問題等の諸問題と女学 あり, 歌と他‐ との関係に就きては, 殆 ど意を注ぐ所なかりしなり, (中略) 子規子の事業を継承して起れる 『馬 酔木』 の活動は, 甚だ遅鈍を免れざりしと難も, 叉窃に自ら安んずるに足るものあり (中略) 趣味 と信仰との関係, 趣味と人生の関係あり, 歌と他の女芸との交渉等に就きて漸く 接触の端緒を開け り」 という反省に立っている, これらの作や立論には明らかに自然主義的な影 響の投影を認めるこ とができると思う, したがって自然主義の影響範囲を確然と明示し規定づけることは困難なことと いわねばならぬが, 既成歌壇を一応除外して上の傾向・意識の下に考えを進めることとしたい. 3. 7・ 8年の戦争 後, い 西欧の自然主義がまず ゾライ ズムとしてわが国に輪フ 、された時, 即ち明治2 わゆる前期自然主義的風潮が流れた, ゾラは, 社会的病源の根本的なものを野獣性または性慾であ るとし, その発現の経路を観察しようとした, 勢い遺伝と境遇を重視した科学的・医学的方 法とな ったのであったが, それの最も強い影響を受けたのは小杉天外・小栗風葉・永井荷風らで, 外面的 な模倣ではあったが, 以後の女壇に影響するものは大きかった, また国木田独歩はワア ヴワースや ツル ゲエネフ の影響を受けた. 多分に浪漫的精神の持ち主であったが, 自ら否定するにもかかわら ずその観照的態度や自由な精神が自然主義女学に影響を与えた ことは否定できない, 次いでフロオ 0年代にかけての自然主義時 ルの感化が女壇に風摩し, 30年末から4 代がおとずれた, 即ち花袋もはじめゾラに親炎 したが, やがて善悪美醜好悪の感情を加えぬ印象的 ド目 覚 め た も の の 悲 し みr を主 D 自然主義に進み, 平面描写それ自体を目的とするに至った, 藤村は i , ベ ル や モ ウノミッ サ ソや ゴ ソ ク. 題とし, 解放的な精神を強く盛ろうした r破戒」 を書いて ゴンクールの印象的な筆致により一期を 画した, この両者の印象主義的行き方は, 当時の自然主義を最も特色づけるものであり, 後の私小 説的独白に連らなるものであったが, 自然主義の浸潤期にその青春を経過した正宗白鳥は, 最初か ド何 処 へ′ は彼の代表作であるが, そこでは在来の道 ら冷厳な自然主義作家として出発している, i 徳や宗教や権威には冷笑の眼をむけながら, これらに代るべきものを見出すことのできぬ, 虚無と. デカダンスに 紡錘する 人物が描かれている. もちろんその主人公は作者の投影であるし, 当時の知 識人の病根が描き出されているわけである, 日本の自然主義がまず ゾラィズムの挫慾的問題から出発し, 印象的自然主義を経過して来る過程 「 の 主 人公はそうし において, 「時代閉塞 日法外面的にも内面的にも深刻化して行った, r何処へ」 た時代に出現した人物であり, 減石の 「それから』 草平の 『煤煙』 の主人公にもその類型は認めら れよう, そ して このような人間像, これらの主人公の精神こそ自然主義に影 響され自然主義時代の 下に成長した人間のこころであったであろう, とすれば, それらの欝屈した精神が一つには反擬し - 46 -.
(11) . 薄. 井. 忠. 男. て社会的関性となって現われ, また一つには諦念・諦観の態度となって自然に逃避し, もしくは日 常茶飯の蹟事にこころを托すことともなろう, 自然主義的詠歎はこのようにしてとらえられるはず である, したがって柴舟・叢園は自然主義短歌の先駆的存在として考えることが出来ないこととな り, 若水・夕暮・啄木・哀果にその中心を しぼることができると思う, まずここでは柴舟・薫園の反浪漫主義の態度から進めてみる, 安部忠三 『歌壇史稿』 では柴舟の 4年) によって分けているとともに, 「一時影をかくしていたわ 前期と後期を 『朝ぐもり」 (大正1 の本質ともいうべきものが たくし , 時々現われて歌の上に動き出したようである」 という 「今のわ 「水窪」 昭和6年2月) の女を引いて, 「僕も亦後期の作品において初めて尾上柴舟の本 たく し」 ( 質 が あ らわ れ て 来 た こ と を 認 め よ う と 思 う.」 と言 っ て い る,. で は そ の 本 質 は どの よ う な も の で あ. ったであろうか, 安部忠三は上掲書で生活歌, 一本調子というもの, 新詩社的影響, 用語の上のロ 語風なもの, 軽妙さ, 哲学歌というような点をあげている, 柴舟は言うまでもなく薫園とともに落 合直交の浅香社出身であり, 鉄幹とも同時に同門である, 直交の幅の広い歌材および歌ロは, それ ぞれの同人に各様にうけつがれたと見られるが, たとえば 1 春のものと恩はれぬまで余りにも寂し静けし白藤の花 2 さわさわと我が釣り上げし小胆の白きあぎとに秋の風吹く 3 霜やけの小さき手して密柑むく我が子しのばゆ風の寒さに 4 原町にめしひふたりが杖とめて秋のゆふべを何かたるらむ の如きを抜いてみても, 1・2の歌には柴舟に継承される自然詠の行き方があるし, 3 には生活歌の 思索的な臭いがただよって柴舟の作品に影響したも 先従と見なされるもの ,がある, 4には何となく, のらしくもある, もちろん鉄幹に継承された丈夫ぶりは, 直交の有名な 「緋繊」 の歌をはじめとし て数多く認められるところである, こうしてみると柴舟が 『叙景詩 において 唱 えた一つの革新 は, 直交のある面の継承であったとも言える, だが最もその典型的な特徴は哲学歌で あるのだが, 彼は学校の教師としての職を奉じ, その上健康もあまりすぐれず生活 は平安であり単調であった, 生活歌をありのままに平面描写することは, あまりにも平凡な作品をなすこととなり, そこに冷く 見つめようとする思索的哲学的色彩が彼の生活歌に粉飾された, それは自然・生活の凝視から懐疑 的な人生態度とな り, 孤独的・厭人的・虚無的・白帆的となり進んで諦念的になる傾向が彼には認 められる, この傾向は自然主義の傾向と一致するものがあるが, さらに牧水・夕暮によって一層進 展されるところのものであった, 柴舟1ましかし歌壇人としてよ りも教師としての生活により忠実で あった, 「自然主義時代において, も し彼に歌壇的な野心があるならば, 歌壇は正しく彼のものと なったであろ う, が, 彼はおのれの門下から出て花々しい活動をつづけているところの若山牧水や ▲究に没頭してゆき, かたはら歌をつ 前田夕暮氏を好きなように活動させ, 自分はしずかに専門 の研 ) ということも言えるのである, だが, 彼が 「短 」 (安部忠 三 「歌壇史稿」 くって来たのであった. 0月) を立言したことは, 当然自然主義的女壇を意識においた歌壇人とし 歌滅亡私論」 (明治43年1 ての重要な発言であった, しかしそれは, 形式の面に傾きすぎて, 当時活発な活動を開始していた 新進の歌人との間には, ちぐはぐなものがあったのであって, 啄木がその翌月の 『創作』 に 「一利 己主義者と友人の対話」 を発表し, 短歌の一首一首について独立性をみとめているのはこの間の事 )とい 『明治短歌史』 所収, 窪田草一郎 「短歌史上の自然主義」P184 情を示すものである, (春秋社 : うことは, 柴舟もまた本質的には直女門から出たロマンチストであった, 明治という時代の革新的 空気に薫染された彼が, 現実主義的風潮に突当った場合の時代意識が, これら諸論にみられるので ある, 即ち鉄幹の浪漫主義に反擬した啄木らの世代にとっては, それはやや異質で, むしろ親近性 のある柴舟の写実的傾向にも反機をおぼえるものであった, いわば, 白秋・勇・啄木をもひつくる - 47 一.
(12) . 近代短歌における自然主義の影響 (1). めた若き世代の明治的なるものへの反抗反橋の形が自然主義以後の歌 壇を形成するともいえるので あろう, 金子薫園も直交の門に出で, 柴舟とは意見をほぼ同じくしていた. したがって 『叙景詩」 運動も むしろ藁園が中心であり理論面を柴舟が担当 したと見られよう, しかし同じく反明星ではあっても 柴舟の思索的冥想的な歌に対して平面描写的であり 「思ったままの歌」 「生地のままの歌」 を目途 としたらしし・ことは認められるが, だが自己を深くつきつめて行こうとするような文学意識には弱 いところがあったと思われる, 彼の組織した白菊会は明治36年の1 0月のことで, 同人の歌を蕪園が 批評添削する会であった, 「白菊会詠草は当時可成りに歌壇の注目を牽めたものである, 新しい歌 壇は与謝野氏等の新詩社と私達の白菊会とで覇権を握っていたと言ってもよかった」 と叢園自身で いって いる. 覇権云, 々はともかくとして, 明星歌壇と雁行した状態は注目すべきであって 明星浪 , 漫主義から自然主義への過渡期的現象を荷っていたとも言えるのである. その門の土岐哀果は37年 に参加して早稲 田大学入学とともに遠ざかっている. さて薫園自身の回顧があながち我田引水でな いことは, 『明星』 が39年8月から10月まで3号にわたって 「金子叢園の歌集 『俗人』 を笑う」 と いう批判をしているのに みてもうなづける, (窪田章一郎・前掲書 P1 79 ) その批判の力の入れ方 から考えても, 明星にとって白菊会の存在は相当な位置を占めていたものであろう だが彼の作品 , . 春草の雨に小さき笛ぬらしわが詩吹く 子もあれなと思ふ日 青潮に白帆あげたろ島の日や鴎とな りていつかへるべき 天の母の足 らし乳なしてくれなゐの蕎蔽のわか芽に春雨のふる の如きがあってひねった技巧が目立ち, 明星派追随の歌風もなお多いのである, 結局彼が至りつい たものは 『覚めたろ歌』(明治4 3年) であって, この時歌壇は既に新しい時代に入ってしまって い た, 即ち牧水・夕暮・啄木・勇・哀果らの処女歌集がそれぞれ出され 世は新人の時代へと移って , い った. む しろ 「覚 め た ろ こ と の 何 ぞ お そ き」 と言 う こ と の い わ れ た よ う に, こ れ は 自 然 主 義 の 新. 風の影 響を受けて到達したのであった, (窪田章一郎・前掲書 P1 81 ) 白菊会は, だからその門人達からも薫園が批判される結果を現出した 「殆んど同じ歩調で進ん , で行った白菊会の歌は, 平井・佐瀬と吉植・土岐と云う風に分れた 互評会の席上 , 激論のはて . は, 面 を赤 め合 う よ う な こ と も あ っ た, … … 中に 立 っ て 私 は 調 停 に 苦 しん だ 」 と 自 ら語 っ て い る .. ことは, それを示唆している, 後の土岐哀果の行き方にみてもわかるように 薫 園の平板な描写で , はもはや明治末の時代に生きる青年には堪えられぬものがあったはずである それはあたかも啄木 , が柴舟に対立したのと同じ次点に立っものであった し 何度も触れるように寛に対立した白秋 や勇 , に通ずるものがあり, 左千夫 に反撤した茂吉・赤彦・憲吉・千樫らのあり方にも一脈通ずるものが あった時代の姿である, 『覚めたろ歌』 は一般に自然主義の洗練を受けて, 自己覚醒の真実の声を表現 しようとしたもの であるといわれている, だが 1 新 しき わ れを 見 い で しと あ る 日 に 覚 め た ろ 歌 を う た ひ つ づく る. 2 無花果の背き 果かめばな ぐさまるものうきことの夕まぐれかな 3 夜 ふ け て 藁 灰 に おく ぬ く も り の 静 か に 消 ゆ る ほ ど を お も ひ ぬ 4. やは ら か に か な しき 春 の お と づ れば かのわか草の青のし,たまL. 5 風落ちし夕野に立てば足もとの草冷やかに露のおきける 1 の如き作品での, ( ) 浪漫的な情趣を内にひそめて叙景に向い, 自己と自然の一如の世界を志し たのである, しかし 「吾ら如何に生くべきか」 の問題を, 人生凝視の態度から解決するためにはあ - 48 -.
(13) . 薄. 忠. 井. 男. まりにもなまぬるいし, 現実暴露無解決の悩 みから, 絶望と虚無の世界に低迷する当時の深刻な現 状に対 してはなおあまいものである, 結局 個人中心の詠歎にと どまって社会・環境の問題と個人の 結びつきの座における詠歎は行われなかったのである, 結局するに柴舟も薫園も自然主義的歌壇の先駆的存在とみられているが, それはむしろ浪漫主義 時代における反 明星派とみるべき存在である, (窪田草一郎・前掲書 P1 81参照) 直女の先鞭につ れて出た寛・柴舟・薫園は, それぞれに教養的・環境的条件に相異があり, したがって個性的な異 0年代 質な点をもち, 直女の諸相面をそれぞれの個性によって継承 したのであったが, 概して明治2 から30年代にかけての浪漫主義的意識をもち, それは同時に同世代の時代精神でもあった, 新派和 歌を直交門の中の諸相面に見, 根岸派の革新運動にみるとき, その態度にあっては相当の運庭をみ とめるとしても, 本質における革新精神は彼らに通ずるロマンチシズムのそれであった, 柴舟・叢 園の存 在は, まさにこの新派和歌の成立と自然主義時代への過渡的現象と見るべきで, 次期の, 即 ち自然主義時代の開拓者と見なすことの出来ぬ点は上述の通りである, 4 前田夕暮や若山牧水が柴舟に対する反機は, 与謝野寛に示した白秋や勇らの場合の如く顕著なも のではなかった, 柴舟◆ま先に見たように 「歌壇的野心」 は少なかった し, 「自分はしずかに専門の 研究に没頭」 するというタイプで, 直交が門弟の自由な発展に任せた如く, 彼も牧水や夕暮の自由 な発展行動に容啄は しなかった, しかし夕暮が17才の当時瓢然として旅に出たり, 1 8才にして自殺 せんと して果さなかったり, 2 0才に再び瓢然として家を出たり (前田夕暮年譜) というような少青 年期の主情的な漠然とした不安や苦悩は柴舟には理解できにくいことであったであろう, だから柴 8年以後にも, 「太平洋上の 一孤島に詩的小社会を建設すべく, 吾等3 人は瓢 舟門下に入った明治3 然として東京 を去る」 という宣言書を下宿の雨戸に貼って, 伊豆八丈島に逃れようとしたりした事 は, 何よりも彼の放浪性を示すものでありその淵源するところは資本主義的社会の圧制と, のがれ 切れぬ現実的周 、潮の下における青春の悲しいまでの抵抗であったのだ, その苦悩の解決は青山教会 F収穫Jz に おけ る キ リ ス ト教 の 洗 礼 を 受 け る に ま で 至 っ て い る 43年 の 処女 歌 集 i こも られた青春の ,. 哀歓はまさにこう した青春放浪の苦悩を背景にしているものである, こうした境におかオむた夕暮の詠歎が, 自然主義的な思潮にたつのは当然で, 白鳥らが呼吸し苦悩 した世界を夕暮もまた呼吸していたと言えるのである, しかし ご収穫・ : の 歌 に対して若山牧水が 「重い, 大きい, 深いという様な所は割に少ない, そして君の常に云って居る現実生活の苦痛と醜 r収穫』 合評のう 悪とを歌うという主張はまだ充分には実際の作には出ていない.」 G牧水歌話」ru ちに」) と言い, 陰影について 「極くあらはに現実を取扱っていた点に於て石川啄木君などが前田 君と同じであった, 而して前田君が多く描写写実 の丁寧な手法に拠るに反し, 石川君はよく空言空 ) と評している, 未だ充分でなか 語になりがちの言い放しの歌を作っていた.」 (牧水 『和歌講話」 ったにしてもその 「苦痛と醜悪とを歌う」 態度は 既に柴舟を一歩出たものであったし, そこに対立 というよりは超越した新しい歌境が展開されたと言うべきであろう, しかもそれは, まさに夕暮の :代というものにおける次元においてはじめて可能であったものである故に, 真正の自然 呼吸した時 主義思潮に全身を洗われたといい得る立場 であったと言えよう, 牧水は夕暮よりもさらに主情的であり, 散女的というよりもより丹精的である, もちろん彼もま た柴舟に対して顕著な対立をみることはなかったが, 「世に調ふ喜怒哀楽, 単 純 な対外的感情生 活, 叉は一種の宗教的臭味を離れた所に氏の歌の権威はある, 少くとも氏以前の日本の短歌にこの 事の無かっただけでもその事業は六である, 唯だ氏の斯の行きかたが甚だ遊離的であることが残念 - 49 -.
(14) . 近代短歌における自然主義の影響 (1). である, 徹底が無い, 甚 だ簡易なあきらめが氏の右の苦悶の起るあとから, あとからと附いて廻っ ている, そ して今一つ飽足らぬのは, 斯の感じ方が多くは単に知識の方面からのみ来ている ことで ある, 直覚的な所がない, それに数年来の氏の苦悶は早くもその思索的な所か ら離れて, 実世間に 於ける日常生活に没頭して了い, 今日は殆んどその影すら認むるに困難である.」 (牧水 『和歌評 ) と批判的な態度に立っている, だが牧水自身の歌は, 思索的なもの 釈』 の中 (尾上柴舟氏の歌」 は なく, い わ ゆる 自 然 主 義 と い う 立 場 か ら は そ のま ま あ て は ま るよ う な も の で は な い, しか し青 年. 期の恋愛の失敗やそれにつれてしましぱ行われた旅行からの自得した自然観照の眼は, 『別離』 か ら 『路上』 に及ぶに至って自愛と目棄・自特と目噸その間の矛盾葛藤にともなう悲痛と 寂 家 が 歌 われるに至り, その傾向は 『死か芸術か』 にうけつがれて 一層自己告白的な色彩をとるに至ってい る,. 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり い ざいざと友にさかづきすすめつつ泣かまほしかり酢はむぞ今夜 わが部屋に っれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ 蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街をわが行く. (以上 r路上』 ・ より). 雨,雨,雨,まこと思ひに労れゐきよくぞ降り来しあはれ闇を打つ (以上 『死か芸術か; より) さらに 『秋風の歌』(大正3年4 月) に至って 「最も自然主義的な色彩の 濃 いもの」 だと石山徹郎 は 『現代短歌』 に言っている, 土岐哀果は先にも見てきた如く, 早稲 田大学に入って薫園の下を遠ざかっているし, 叢園の白菊 会で意見の分裂があった時, 調停に薫園が困ったと言っている, 彼は早稲田ではおもに島村抱月に 師事 したのであったから, 薫園の微温的な平面描写にあきたりなかったのも当然で 「歌というもの に就いての既成の概念を破壊する事, 乃ち歌と日常の行住とを接近せしめるという方面に向ってい る」 「誰でもちょいちょい経験するような感じを, 謎 で も歌ひ得 .るような歌ひ方で歌ってある」 『 「其処に此の作者の勇気と真実とがあると私は思う.」(石川啄木 NAKI WARALF を読む, 岩波 版啄木全集十巻) と言っているように, 哀果のあり方は薫園をはるかに超えて日常生活款の新境地 への進展を試みており, 自然主義の真実を追求する科学的精神が顕著にあらわれて 来ている, しか し 「わが ごと き世 の っ ね び と は, も だ え せず, め と り て, 生 み て, 老 い て, 死 ぬ べ し」 (原 女 ロ ー. マ字3 行書き) の如 き諦念自剛の歌は, 前進的という姿勢とはとれない, やはり自然主義的苦渋に いた敗北の詩であり, 社会面記者という彼の生活背景 みちた世界に対する懐疑と虚無の巣に至りつ・ からも投景される詠歎であったであろう, 石川啄木は, 白秋・勇らと共に新詩社を脱退した一人であった, だが彼らがスバルを浪漫主義の 拠りどころとして創刊したとき, その編輯員となりながら, 彼らとの間にはかなりな意識の上での 運庭があった, 彼は短い生涯において明星風な浪漫主義か ら自然主義に移り, この国の自然主義が 対社会意識を欠く点に不満をもち, 最後に社会主義的思想を抱くに至ったまれに見る 数奇な思想遍 ずるならば, 歴の持ち主である, 彼に関してはもはや言をあまり要さない, が二三の点だけとりあ{ 反明星の立場は啄木を含めてその脱退者すべてに通じている現象として柴舟・薫園のそれとは異っ ている点である. 彼らは寛の反自然主義的態度に反椴したのであった, だから時代の趨勢, いいか えればあの自然主義的時イヒを呼吸した点において タ幕・牧水・哀果らと基盤を同じく していたので あって, 彼ら自身はそれに反対の態度をとるまでには至っていない, ところが白秋や勇には, 本 性的に享楽的浪漫的な要素があり, この時代を結局デカダンスという方向に回避せざるを得なかっ た, パンの会の運動はまさにそれを裏書きするものであったが, 啄 木 のそれは生得的に異ってい た, 漂泊と窮乏との間に自然主義の洗礼を受け, 現実生活に対 して何の力ももたぬ夢をかなぐりす 0- -5.
(15) . 薄. 井. 忠. 男. てるに至った, いわば彼にとって自然主義的意識はきわめて自然に把握されたといえる それが取 , 材を日常実生活にひろげることとなり, 現実の生活 感情を率直に歌い, その必要上口語的発想をも 用いるに至った, さて以上柴舟・叢園をはじめとして牧水・夕暮・寒果・啄木に至るまで その自然主義的時代思 , 潮の受けとめ方およびその発想を見て来た, 自然主義的思潮の影響は当然アララギ派にも 竹柏園 , 系諸歌人にも, あるいは明星派そのものの中にもいろいろな形をとって現われたはずであるが こ , こにはいわゆる自然主義歌人として既に評価されている諸歌人の確認を行って みた そして彼らの , あり方に多かれ少なかれ認められる点は既成歌壇への反機であり それは歌壇の権威の否定につら , なり, さらには短歌定型そのものの否定にまで関るものであった, そしてその反抗的態度は明治と いう一つの共通基盤に対する若き世代の共通の態度でも あった, その点で明治という時代が新 しい 世の草創に関る一種の浪漫主義的傾向あるいは改革主義的時代ということができるとすれば 世 紀 , 末的現象を帯びた明治来年の一時期が, 大正の現実主義的諸相面に応ずる過渡的苦悶であったとい える, 柴舟・燕園門からの自然主義的歌壇の出発にも, 新詩社からの耽美派と自然主義への分裂的 派生も, アララギ内の相勉にみられた問題も, すべてその点で一連の時代的現象ではあった, だが 資質の相違と環境その他の相違が, その各人のあり方をもたらし, しかも大正期にアララギ的リア リズムに統一されるまでの一時期を混沌の状態に置いたということが言えそうである だから一概 , に自然主義的といわれる歌人にも, その発想に各人の諸相面のあることをも認めざるを得ないの で ある,. - 51 -.
(16)
関連したドキュメント
いる.Tim らは 2018 年に MOOCs
リカ民主主義の諸制度を転覆する﹂ために働く党員の除名を定めていた︒かかる共産党に対して︑最高裁判所も一九
治的自由との間の衝突を︑自由主義的・民主主義的基本秩序と国家存立の保持が憲法敵対的勢力および企ての自由
その後、反出生主義を研究しているうちに、世界で反出生主義が流行し始め ていることに気づいた。たとえば『 New Yorker 』誌は「 The Case for Not
また IFRS におけるのれんは、IFRS3 の付録 A で「企業結合で取得した、個別に識別さ
1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における
自然電位測定結果は図-1 に示すとおりである。目視 点検においても全面的に漏水の影響を受けており、打音 異常やコンクリートのはく離が生じている。1-1
我が国では近年,坂下 2) がホームページ上に公表さ れる各航空会社の発着実績データを収集し分析すること