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P.ウィリスの三つの再生産論(下) : 反学校文化論・文化的生産論・消費文化論

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(1)Title. P.ウィリスの三つの再生産論(下) : 反学校文化論・文化的生産論・消 費文化論. Author(s). 小内, 透. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 44(1): 157-171. Issue Date. 1993-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/5294. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 4巻 第1号 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4 I i 44 i ion(Sec ty ofEducat t onIC) Vol lof Hokkaido Univers Jouma ‐ . , No. 平成 5年7月 ly Ju ,1993. P.ウィ リスの ; つの再 生産論 (下) --反学校文化論・文化的生産論・消費文化論. 小. 内. 透. 序 章 問題の所在 第1章 反学校文化論としての再生産論 第2章 文化的生産論としての再生産論 第1節-文化概念の再定式化 第2節 再生産論に関する諸概念の整理と従来の再生産論の批判 以上, 前号 第3節 新しい概念の提示 第3章. 消費文化論としての再生産論. 終 章 三つの再生産論の関連と問題点 第3節 新しい概念の提示 変革や抵抗に関する展望を強く 主張するためには, すでに述べた再生産論に関わる諸概念を整理 するだけ では不十分である. そこで, ウィ リスはこの論文の最後に, 変革や抵抗に関する展望を示 すため, 「文化的生産」 の支配的な形態と従属 9的な形態の区別の重要性について言及している. ウィ リスによれば, まず 「文化的生産」 の支配的な形態とは, 「伝達された威信に反対する資本 主 1 ) いいかえれば それは 抑圧された 義的な平等」を達成しようとする戦略を生み出すものである( , , . 主義 の約束を実現しようとする戦略である. しかも, 集団も含めて, すべての人にとっ て平等な業績 その戦略の場合,「もし, 教育が階級や文化資本から決して独立していないことが一般に示されうる ならば, その時には, 批判は文化資本の頂点に向けなおされ, 労働者階級の ・隠されたプール″ か ら最大限の才能を解放するという自由で技術的な観念は,労働者階級の真の利益に方向づけられる‐ 生産諸関係と生産力への依存は, 出身階級への依存からの移動と同様に, 労働者階級にとって悪い 2 } ことではない( 」 . したがっ て, ここに支配的な文化的生産から派生する戦略の意義が存在するとい え る. し か し, 同 時 に, 「・成 功″ の結果は労働者階級を自由にはしないという理 由で反対されるで あろう. いくらよく見ても, われわれは完全にうつろいやすい資本主義のシステムを達成すること 3 ) ができるだけかもしれない{ 」からである. それゆえ, ここに, 支配的な文化的生産から派生する戦 略の限界があるといえる. いいかえれば, それはたとえ 社会移動が自由になっ ても支配と抑圧を生 み出す資本主義社会のシステム自体が存続するか ぎり, 問題は解決されないということ であろう. これに対し, 従属的な文化的生産は, 反学校文化も含め「明らかに私的でインフォ ーマルである. しかも決して時代の精神 でなく, 一時的な具体化ということはあっ てもそれ以上生き残ることのほ 4 ) とん どない黙示的な……論理で表現される( 」 . それゆえ, 従属的な文化的生産は様々な弱点を持っ ている. たとえば, それは 「いまだに資本主義的社会構成体の基盤の上にあり, 抑圧された集団の 知識は決して純粋 ではなくいつもあいまいで, それ自体を半分欺いていそう である. さらに, 一野郎 157.

(3) . 小 内. 透. ども″ のような集団は どんな意味でも本質的に社会主義的な文化を享受しないし, それは空想的に 、性差別へ導く要素がたしかにある 決して精 描かれてはいけない. ここにファ シズムや人種差別, . 5 ) 神の自由があるわけではない{ その意味で 従属的な文化的生産は 多くの弱点を持 っている. 」 . , ″ しかし, それが 反支配 文化の原理のいくつかの観念を生み出す可能性を持つという積極的な面 を忘れてはならない. これは, 「たまたまあふれ出し, 過 ぎ去っ た反支配の契機や実践は何であり, それを把握し発展させるにはどう したらいいのかをより正確に知ることである‐ 抵抗が最終的に資 本や他の諸構造の弁証法的な支配における公的な契機以上に大きくなるとき, 発展する運命にある のがその支配の原理, あるいは反対の立場や文化形態の異なる表現の諸原理である. これは知るの 6 ) が難しいが, 失敗をおかし体験する勇気をもっ た実践に理論が真に出会う領域に違いない( 」 . このような形で, ウィ リスは再生産における変化と解放の可能性を取り扱おうとしているのであ ノ・マータウンの野郎 ども』 における再生 る. しかし, ここで注意する必要があるのは, かつての 『 産論の場合にも, 同様な視点が貫かれていたということである. す でにみたごとく, 洞察と制約の 概念によっ て再生産のメカニズムを説明し, 洞察に再生産を克服する可能性が存在することを強調 していた. 再生産の変革の展望を洞察という一つの概念の中にある可能性として解釈的に把握して いたといっ てよい. これに対し, ここでは, それを支配的な文化的生産とは異なる別の概念である 従属 9的な文化的生産という概念に体現されるものとして捉えている. いいかえれば, 文化的生産の 二つのタイ プのうち, 一方のタイ プに展望を見出そうとしているといえる. そこ では, かつて批判された実証の行き過 ぎた解釈を克服するために, かつての洞察と制約の概 念にかえて, 新しい概念が用意されたと考えることができる. 事実, この論文には, 『 ノ・マータウン ′概念がほとん ど登 の野郎 ども』 の段階において再生産論の中心的な概念であっ た洞察や制約という 場しない. しかも, この論文では何も語られていないものの, この論文に続いて再生産論の精微化 ) を課題として執筆された 「文化的生産と再生産理言 論7 1 983年) において,『ノ・マータウンの野郎 」( ども』 の中で再生産論の中心的な概念であっ た洞察や制約は, 一方 で自由主義, 他方でペ シミズム といっ た一面的な誤りを導くとされている. その上で, かつて洞察や制約という概念で取り扱おう 8 ) 明確に 洞察や制 としていた問題は文化的生産の概念によっ て把握される必要があるとしている( , . 約という概念の問題を認めているのである. それは, いうまでもなく, 洞察や制約 いう概念を用 いたかつての再生産論が一面的な理解をもたらすものであり, 不十分な理論枠組みであっ たことを 意味しているといえる. その意味 で, ここからも, ウィ リスが 「文化的生産」 を中心とした新しい 再生産論の構築を試みていることが明らかとなる. それは文化的生産論としての再生産論と呼ぶべ き内容を備えたものである‐ もちろん, 従属 9的な文化的生産という概念自体, あくまでも再生産に対する変革や抵抗を示す可 能性を内包した概念として措定されているにす ぎないという点る こ注意しておく必要がある. なぜな ら, それがただちに再生産を断ち切る動きを示すわけではないからである. それゆえ, そこでは, どのようにしたら再生産に対する変革や抵抗の可能性が現実に転化するのかが明示される必要があ しかし, 残念ながら, この点については, 十分な説明がなされていないのが実状である. その る. ′ 意味で, ここでもまた, 再生産を克服する 割こ関しては, 期待の論理が色濃く反映していることが 浮き彫りになる. したがっ て, 彼自身, これで新しい再生産論が十分に構築されたとは考えていなかっ たよう であ る. それは, ウィ リスが 「文化的生産と再生産理論」 の中で, 文化的生産論の枠内で再生産論を構. 築するため,. l ing), 転 移( ion), 同 形( さ ら に 固 定 化( i t ocking), 脱 緊 張(dest ress ransfomュat somor ‐. 9 ) i sm) という新しい概念を提起している点に端的に示されている( ph . 158.

(4) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). このうち, 固定化は特定の「周囲のシステマティ ッ クな実践ないし存在する制度と関連した意味, 1 0 ) 態度, シンボル( 」 などといういわば文化的内実が一つ の枠組みとして定着することを示し, 脱緊 「 張は いくつかの事柄に反対しう まく 抵抗することは同時に 抑圧 的な他の事柄 を受け 入れる こ 1 1 ) と( 」 につながるという事態を把握しよう とする概念である. さらに,・転移はそう して定着した文 化が別の場や別の時代に同じように再生産される姿をあらわそうとする概念で, その結果, 生み出 2 1 ) される 「現在と未来の関連とそれらを関連させている持 続性( 」 を把握する概念として同形という 概念が提示されていると考えられる. このように, これらの概念は, 主として文化的生産や文化的再生産のメカニ ズムを示そうとして, 提示されたものであると 思われる. それは, 「文化的再生産・社会的再生産・再生産と文化的生産の 相違」 の段階では, 「文化的生産」 や 「文化的再 生産」 という概念が 「再生産」-や 「社会的再生産」 のいわば説明概念として 位置づけられ, それ自体の定義やメカニ ズムが必ずしも厳密な形で定義さ れなかっ たことと関連しているといっ てよい. その意味で, ここで示された新しい概念は逆に文化 的生産と文化的再生産のメカニ ズムのいわば説明概念としての性格を持っ ているといえる. しかし, これらの概念は極めて抽象的であり, 必ずしも十分整理されたものとなっ ていない. 概 念自体が把握しにくく, これらの概念によっ ても, 文化的生産や文化的再生産の ‐メカニ ズムが十分 に理解 できるものになっ ていないと思われるからである. ノ・マータウンの野郎ども』 以後, 自らの再生産論を 「文化的 以上見てきたように, ウィ リスは 『 生産」 という概念を中心とした新たな理論として再編してき た. もちろん, すでに述べたように文 化的生産論としての再生産論として見た場合, 十分に完成されたものにはなっ ていなかっ た. さら に, こうした理論的な営為 が実証と必ず 、れては ,しも結びついた形で展開されていなかっ たことも忘 ならない. その意味では, ここで展開された新しい再 生産論の視点から現実を分析するということ も大きな課題となっ ていたといいうる.. 〔注〕 ” l i lreProduc i lreProduc ioni i f f t IProduct i i f f l ( )Wi l l i twr t 1 tf t a on rom soc a sd erentf s a oni sd eren rom cu t u 「 ,P- Cu 2-3 i f f i i t ( )1981p oげ,lnt erchange sd erentf rom reproduc ‐63 . ,12 ( )lbid 2 .64 ‐ - ,p 3 ↓64 ( )功id . . ,p ( 4 )lbid - ‐65 . ,p ( 5 )工b id p ‐ . , ‐64 id ( 6 )lb . .64 . ,p ” l i io lr,i lker l l i lproduct ionandtheor ton ( 7 }Wi tma t ) eds as s esofreproduc n Bar s ,( . ,L‐ & Wa ,S ,Race ,C1 ,P, Cu i lm)1983 and Educat on . ,Croom He ,(London 8 ( )lbid . .127~128 . ,pp ( 9 )lbid . .131~133 . ,pp の工bid ( 1 - ・131 . ,p ( 1 1 )lbid p ‐ ‐ . , 132 ( }lb 1 2 id . ‐132 . ,p. 159.

(5) . 小 内. 透. 第3章 消費文化論としての再生産論 第1節 若者の失業に関する文化的研究 ウィ リスは, 反学校文化論としての再生産論を再編し, 文化的生産論としての再生産論を構築し ようとした. しかし, 新しい再生産論は必ずしも十分 に完成せず, いくつかの課題が残された. ところが, ここ で重要なことは, こう した課題がのこされていたにもかかわらず, ウィ リスは必 ずしもこうした課題にこたえる形で, 研究を進めて行かなかっ たというこ.とである. むしろ, さら に新しい視点 で, さらに新 しい再生産論の構築ともいうべき方向を自らの研究として 打ち出 して い っ た と い っ て も よ い.. 1 } 1984年) と 「失業:究極 その転機になっ たのは, 「若者の失業:考えられないことを考える( 」( 2 ) 198 の不平等( 6年) という若者の大量の失業現象に関する研究である. 」( 「 このうち, 若者の失業:考えられないことを考える」は,当時イ ギリスにおいて大きな問題になっ ていた若者の大量失業という現象を, どのように理解すべきかという点を問題にした論文 である. つまり, この時期, 若者の大量失業に関して左翼の間では, サッチャ ーの保守的な 「自由主義的」 政策, いわばサッ チャー主義にその元凶を求め, それに対する様々な批判がなされることが一般的 であっ た. しかし, ウィ リスはこの問題を理解するには, サッ チャー主義をイ デオロギー的に批判 したり経済主義的に批判するだけでは不十分 であるとした. むしろ, サッチャー主義を受け入れる. 文化や人々の常識的感覚の検討が必要であ. り, サッチャー主義の結果生まれた若者の失業の分析に 3 ) そう でなければ 失業という事態があるにもかかわら も文化的視点が必要であるとしたの である{ , . ず, それがその根本原因である資本主義的生産様式の克服への動きとして発展していかないのはな ぜかという問題が理解できないと考えたからである. それでは, 失業を文化的視点から分析するというのはどういうことであろうか. 一言でいえば, それは若者の失業が彼らの文化, すなわち日常の生活文化にいかなる影響をもたらすのかというこ とである. この点について, ウィ リスは, 若者の失業は二つの面で文化変動をもたらすとしている. 第一に, 失業は労働者階級の男性の伝統的な男らしさの感覚の危機=希薄化をもたらす. なぜなら, 失業により肉体労働を重視することができず, 労働者文化の一つの特徴であっ た男らしさの客観的 基盤がなくなるからである. したがっ て, 男らしさの感覚の希薄化は, 性別役割分業観を変化させ る可能性をも内包している. 第二に, 失業した若者は公共的な空間, とくにショッ ピン グセンター, h i 本通り ( ) に集まるようになる. これはかつて若者たちが失業した場合, 街角 ( t t t t r ee r ee s gh s ) にたむろしていたことを考えると, 対照的なことである. しかし, この特徴は単純な失業 r come の影響ということではなく, 今日の失業が消費主義という 現代的な文化的特質と結びついて生 じた ものである. つまり, 消費主義とは日々のコマーシャ ル, それを通したイメージの増大, 良い生活 の夢の拡大といっ た事柄の中に示され, その消費主義のメ ッカがショッ ピン グセンターと本通りと なる. しかも, そこでは実際の商品を購入しないウイン ドウ・ショッ ピングという, シンボルとし ての消費が可能となる. したがっ て, 失業した若者たちは, お金がなくても可能な消費をするため 4 ) に そ こ に 集 ま る の であ る( .. こう して, ウィ リスは若者の失業をそれが若者の文化に与える影凋撃という点から分析しようとし たのである. ここで特徴的なことは, 直接失業とは関わらない消費主義の問題を失業の問題と結び 付けて展開しているということである. それは, 失業者の分析に当たっ ては労働現場の文化という 視点では捉えきれないことを示している. したがっ て, 全生活における労働以外の分野の文化に視 160.

(6) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). 点を据える必要があっ たといえる.その際に,浮かび上がっ たのが消費主義という 一つの文化 であっ たと 思われる. 逆にいえば, それだけ消費主義という文化, つま 卿肖費文化の特徴が若者の間に広 く浸透していると考えたのであろう. , 消費主義・消費文化への着目は, 失業の問題だ -その意味で け でなく若者文化そして今日の一般の文化の問題へと視野が拡大される可能性を含ん でいたといえ る.. 一方, 「失業:究極の不平等」では同じく若者の 失業の問題を扱かっ ていながら, 失業が若者に与. える影響がより具体的に描かれ, 同時に失業者が増大する中での労働者階級や抑圧された集団に とっ ての教育改革の視点が提起されている点で違いがみられる. このうち, 失業が若者に与えるインパ クトについては, ①車を持つ余裕がないので移動性が低く なる(近くをぶらつく)こと, ②レジャーができないこと, ③ TV, レコー ドを視聴しながら家の中 で過 ごすことが多くなること, ④しかし, 男女により生活の過 ごし方に違いがみられること等々 が 5 ) これらの特徴は 非常に具体的であると同時に すでに「若者の失業:考えられ 指摘されている( , , . ないことを考える」 の中で指摘されていた若者の文化に与える失 業の影響と結 びつかないものに なっ ている. それだけ, 失業が与える影響を文化論的に捉えることは難しいの であろう. ただし, ここであげられた特徴はすべて労働生活ではなく消費生活に関するものであり, 内容は異なるが, 労働者文化ではなく消費文化への着目という点で, 「若者の失業:考えられないことを考える」の論 文と共通しているといえる. ノ・マータウンの野郎 ども』 と同様に, 男性を中心にしたものになっ てい また, ここでの分析が 『 るという問題があることも忘 、れてはならない. この論文では, たしかに女性についての記述も見ら れるようになっ ているが, その分析の内容自体が女性を周辺的な存在とした視点からのものになっ 6 ) ており, その意味で現実を把握し得ていないことが批判されているのである( . 一方, ウィ リスはこの論文において, 失業問題の増大する今日において必要な教育改革の視点を 提示している‐ 第一に, 生産と経済のための選抜に関連した 一世俗的で″ 避けられない教育機能にかかわる領域 の改革の必要性が指摘されている.「それは教育をエリートに対して保証したり正当化する」機能を,. 「労働者階級と抑圧された集団のための将来の職業的かつ工業的な =場″ のより公平な配分」 のため. 7 } つまり 社会的上昇をもたらす教育の社会的選抜機能を労働者階級 の機能に再編することである{ . , 平に与えるべきであるとする の子弟にもより公 , いわば機会均等原則の一層の徹底という視点であ る-. 第二に, 世界や人間的条件に関する知識の受け継がれた形態と新しい形態を伝達し生き続けてい る n純 粋 な″ 教育機能にかかわる領域に対する視点である. これは, いわば教育の知識伝達機能と. もいうべき領域の問題である. ただし, そこで重要なことは, 単に一般的な教育の知識伝達機能が 十全に発揮されるべきであるということではなく, むしろ労働者階級と抑圧された集団にとっ て解 8 ) 放の武器となる知識の伝達機能が教育によっ て発揮されるべ きであるということである{ . その上で, さらにこれらの視点からの教育改革を達成する上で, 最低限必要なより具体的な政策 を提示している. たとえば, ①熟練や資格等を得るために仕事につく時期を遅らせること, ②就職 や高等教育進学の際の試験の役割を大きく低下させること,③残存している私的な選抜部門の廃止,. ④非伝統的なコースに学ぶ労働者階級, 黒人, 女性を勇気づける全面的な雇用機会均等政策の策定, ⑤エリートや1 8歳以後のフルタイムの勉強から パー トタイムも含めた様々な地域的 パターンへの 決定的な移動, ⑥貧困な人々に対する財政的援助のシステムと関連づけら れた真の 一生涯教育″ の. 採用, ⑦制度的な入口の開放と実験的で渡り歩く教育形態の準備, ⑧伝統的な科目の境界の徹底的 161.

(7) . 小 内. 透. 9 ) な分散と労働者階級, 抑圧された集団の要求に見合っ たカリキュ ラムの開放があげられている( . こ の よう に,. 般的な教育の選抜機能と知識伝達機能を労働者階級や抑圧された人々の視点から. 読み替える方向で, 教育改革をすべ きであるという提案がなされ, より具体的な政策的提言もなさ れている. しかし, 二つの領域における教育改革の視点や上述の具体的政策 で, 若者の大量失業と いう問題が解決するとは到底思えない. また, 具体的な政策のリストはどちらかというと羅列的な 感が否めないし, 二つの問題領域との関連がわからない. これらの視 点や具体的提言では問題を本 質的に根本から解決することは不可能であるといわ ざるをえない. もちろん, そのことは, ウィ リス自身も十分 に理解している. 若者の大量失業をなくすには, 資 本主義的生産様式の根本的な変革こそが必要であるという認識をウィ リスは当然持っ ている. にも かかわらず, こうした提言を行なっているのである. その背後には, まず現在必要な改革の根本的 1 0 ) それは 資本主義社会に な理念は 「教育的封建主義」 の克服 であるという認識があるといえる( . ,. おける教育的封建主義の克服→社会主義段階における真の教育の実現といういわば二段階の教育改 革論を念頭においていると考えられる. その意味で, ここで述べられた教育改革に関する提案は, 教育改革の第一段階に当たるものであり, それ以上のものではないことをおさえる必要がある. しかし, そう した位置づけからこれらの提案を検討してみても, そこには大きな疑問が残る. な ぜなら彼がいう教育的封建主義の克服は, 結局教育における自由主義の徹底ということにしかなら ず, それによっ てたとえ移動自由な社会が生まれたとしても, 逆に不平等の拡大, 教育の競争のた めの手段視, 競争主義の横行という新たな問題が生じてくる可能性が大きいからである. その意味 で, ここでの教育改革に関する提案は必ずしも十分に考慮されて提案されたものとはいいがたい.. 〔注〕 “ ( 1 l l i lh Unempl )Wi inkablざ,You l i 4 th & Po ) s oyment : mi nki ngtheunth cy , ,P, You ,2 ,( ,1984 ”Unem 1 ” Br 2 fE ( )▽V i l l i P 故 f i l i i hJ l fS i l ion 7 21986 i l i d 1 t t t s o o e n : e n a n e a s omn a o c o o o u cat u P y m y g y q - ‐ ‐ . , , ,VO ,No “ i ( 3 )Wi l l l出 Unempl inki i i 4 17~18 ) s oyment :”l ngtheunth nkabだ’ cy . ‐ ,P. You ,Youth & Pol ,2 ,( ,1984Pp. 4 ( )n コ i dつpp‐21~23.. “ ◎ VV i l l i ina li i i i lofSoc io l ion 21986 ty” 7 t s oyment :thef nequal shjouma ogy ofEducat ‐ . ,P. Unempl ,Br ,Vol ,No. 59~162 pp .1 . ‐ ” ’ ( 6 )MCFar l l i i l ? ii l l iざs‘Unempl t and e s如man sHomei sh sCas e :A ResPonsetoPauIV oyment : .& Col ,1 ,M. AぬEng ’ ” Br di i li l fS V N i i i hJ l i l fE i I 21 ty t d 9 9 8 8 t ef na nequa s o uma o o c o o o u c a o n O o g y . , , , . ” ( i l 1 i ina li 7wv i i lofSoc io l ion l 21986 7 ty” ogyofEducat s oyment :thef nequa1 shJourna ・ . ,P・ Unemp1 ,Bdt ,Vo ,No p ‐168 . ( 8 ).bidりp .168 . ( 9 ).bidりpp .168~169 . のn ( 1 > idりp .169 .. 第2節 象徴的労働と消費文化への注目 若者の大量失業に関する研究は, 必ずしも十分に完成したものにはならなかっ たが, とくに消費 文化への注目という, これま での再生産論にはなかっ た方向が打ち出されたという点で重要な意義 を有している. なぜなら, 消費文化への注目は若者の大量失業という現象にとどまらず, 文化一般 の研究にとっ ても一つの重要な視点になるからである. 消費文化に対する重視は, 最近の成果の中でさらに明確に示されるようになっ ている.『平凡な文 162.

(8) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). 1 化{ 1 9 90年) はそれを代表する成果の一つである. 一( 『平凡な文化』 は「芸術的ないし文化的な関心に関連しているのと同程度に 社会的行為の理論や , 集団, 個人のアイ デンティ ティ の形成や再生産に関するかなり適切 な理論に対する関心に関連 し 2 ) て{ 」生み出された成果である. つまり, この著作の問題意識は決して芸術や文化の問題にとどまら ず, 社会的行為の問題や再生産の問題にまで及んでいるということである. それは, いうま でもな く彼の言う文化,-そして平凡な文化が生活様式とほぼ同一 のものであるという立場からくる必然的 な帰結であるといってよい. その点では, 従来の文化的生産論の段階で明示されたウィ リスの文化 観がこの著作においても貫かれていると見ることができる. ところが, この著作ではとくに消費, いいかえれば消費文化への注目が全体的に強く打ち出され ているという点で, 文化的生産論の時点と比べ, 大きく異なっ ている. その場合特徴的なことは, この段階でかつて提示された概念が姿を消し, 再び新たな概念が提起されるようになっ たというこ とである. す でにみたように, 反学校文化論としての再生産論の段階においては, 洞察と制約が中 心的な概念であっ た. しかし, 文化的生産論の段階になると洞察と制約の概念が否定され, あらた. に支配的な文化的生産, 従属 9的な文化的生産や固定化, 脱緊張, 転移, 同形という概念がそれに代 わる概念として登場した. にもかかわらず, さらにこの段階になると, これらの概念も用いられな くなっている‐ 一方, この段階になっ てまっ たく新しい象徴的労働という概念が非常に重要な位置 づけを与えられる形で提起されるようになっ ている. その意味で, 象徴的労働が現段階における再 生産論の中心概念にとっ てかわっ たと見てよい. それでは, 象徴的労働の概念がなぜ提示されたのか, また象徴的労働の概念の意味はいかなるも の な の であ ろ う か. こ の 点 に 関 し て, ウ ィ リ ス は 次 の よ う に 述 べ て い る‐. 「機械生産は職人の手から手工業の道具を取り上げた.これは多かれ少なかれ仕事の創造性の可能 性を破壊した. …… しかし, 人間的に必要なもう一種類の労働 ÷」 しばしば認識されないが等しく必要な -- 象徴 的労働がある‐ これは意味を生産するための象徴的な資源と生の材料 (サイ ンとシン ボルの集合 -- たとえば, テキスト, 歌, フィ ルム, イメージ, あらゆる種類の工芸品と同様にわれわれがそ れを相続するような言語) に人間の能力を適用することである. これは物質的な生産の条件よりひ 3 ) ろく, 論理的に優先するが, その ,必要性″ は忘れられてきた( 」 . り 彼は機械の導入により 非常に単純化され 創造性を失 つま , っ た手工業的な労働, すなわち , , 肉体労働にかわっ て, もう一つの労働 である象徴的労働を重視する必要があるという見方を持っ て いる. 象徴的労働は 「物質的な生産の条件よりひろく, 論理的に優先するが, その 必要性″ は忘 れられてきた」 ので, ここで改めてその重要性を指摘していると考えられる. その上で, ウィ リスは象徴的労働の基礎的要素として4つの要素を明示している. 第一に, 実践 的でシンボリッ クな資源としての言語である.「それは他人との相互作用と連帯を可能にし, 他人へ のわれわれの印象やわれわれへの他人の印象を評価するのに役立つ. それゆえ, それは他人として 4 ) のわれわれ自身を見つめさせる{ 」 . インター・パーソナル・コミュ ニケーショ ンの手段としての言 語 とイ ン ト ラ ・ パ ー ソ ナ ル ・ コ ミ ュ ニ ケー シ ョ ン の 手 段 と し て の 言 語 と い い か え て も よ い.. 第二に, 実践的でシンボリッ クな資源としての活動的な身体である. 「それは生産的でコミュニ 5 } ケーショ ンにとっ ての活動性の源泉である( 」 ‐いうまでもなく,身体がなければ,コミュ ニケーショ ンがなり立たないので,その意味でこれが象徴的労働の基礎的要素としてあげられているといえる. 第 三 に, 実 践 的 で シ ン ボリ ッ ク な 資 源 と して の ドラ マ であ る. な ぜ な ら, 「コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン は. 6 ) われわれが他人とともに生産する役割, 儀式, パフォ ー マンスを通して達成される( 」からである. 163.

(9) . 小 内. 透. このことは, こう した ドラマとしての要素がなければ, コミュ ニケーショ ンや象徴的労働は実現さ れ得ないということを意 味している. 第四に, 象徴的な創造性である. つまり, 「これは感覚, エネルギー, 興奮, 精神的な動きに本来 7 ) 付随している新しい意味である( 」 . それは, 文化的生産論としての再生産論において, 日常の生活 文化のもつ創造性が強調されていたのと共通して いる. こう して, 言語, 身 然 ドラマ~ 象徴的創造性が象徴的労働の基礎的要素と して提示されている. それは, 物質的労働が労働手段, 労働対象を基礎的要素としているのと対照的である. 物質的労働との対照性は, 労働の結果にもあらわれる. もちろん, 象徴的労働も物質的労働と同 様に, その結果として, 独自の生産物を生み出すことも事実である. しかし, それは物質的な生産 物ではない. ウィ リスによれば, 象徴的労働の生産物は, ①個人のアイ デンティ ティ の生産と再生 産, ②より大きな全体 (社会的諸関係) の中へのアイ デンティ ティ の位置づけ, ③われわれ自身の 8 ) いいかえれば 自己の力や社会的位置が自らの象徴的労 生命力や自己の力の積極的な感覚である( , . 働という体験を通して確認され客観的に決定されるということである. その意味で, 象徴的労働の 生産物は社会関係における自己の位置とその力 であるといえる. 象徴的労働と物質的労働の違いは, さらにそれが展開される場にも現われる. 物質的労働は, 基 本的に生産現場において展開される. したがっ て, 資本主義的生産様式の場合には, それは価値増. 殖過程を伴い, 資本主義的生産過程に結実する. 逆にいえば, それは労働の一部が剰余労働に転化 することを意味している‐ これに対し, 象徴的労働は 「生活の全体を通して, また労働と遊びを通 9 } ・それが展開される場は労働現場だけに限らない. ここに象徴 して広げられている{ 」 . したがっ て, 的労働の大きな特徴の一つがあるといえる. ただし, こう した新たな概念が提起されたにもかかわらず, この著作の中で取り組まれている実 証研究は, テレビ, ビデオ, パソコンなどといっ た電子情報機器に対する若者の接触のあり方とそ の影響に関するものに限られて い ・る. その意味では, 象徴的労働の概念のうちほんの一部分 に属す るものだけが取り上 げられているにす ぎず, 実証と理論の間に大きな溝が存在している. 以上のように, 象徴的労働という概念が, この段階において, 初めて提示された. その背後に, 従来の物質的労働の概念のみでは文化的生産や再 生産のあり方, そしてそれを克服する展望を深め ることができないという 認識があっ たことはいうま でもない. それはかつて肉体労働を重視する労 働者文化やそれに対応した反学校文化に問題解決の糸口を見出そうとしていたことと比べ ると, 大 きな隔たりがあることは間違いない. だが, それだけ でなく, 象徴的労働の概念の提示の背後には, 消費への着目という問題意識があっ たことも否定できない. それは, すでにみたように, 象徴的労 働の展開の場は労働現場にのみ限定されないという指摘からもうかがえる. 事実, ウィ リスは象徴的労働の概念を提示した後, それを媒介にして消費の位置づけを明確にす る作業を以下のように行なっ ている. 「われわれの基礎的な観点は人間の消費はたんに生産諸 関係を繰り返すだけにす ぎないもの では ない -- そして皮肉な動機は何でも生産諸関係の背後に横たわっ ている -- ということである.. 解釈, 象徴的行為, 象徴的創造性は消費の部分 である. それらは象徴的必要労働の全体の領域の中 に含まれている. この労働は少なくとももともと商品の中に暗号化されたものと同じくらい 重要で あり, しばしばその対立物を生産することができる. 実際, 商業的な工芸品の中にある ・世俗性″ l o ) のいくつかの側面は自 由で進歩的であり, 新しい可能性と社会的なダイナミ ックスを導入する( 」 . それゆえ消費は象 つまり, 彼は, 第一に, 消費には解釈, 象徴的行為, 象徴的創造性が含まれ, , 徴的必要労働の全体の領域の中に位置づけられるとし, 第二に, 象徴的必要労働に位置づけられる 164.

(10) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). 消費は, 商品に対象化された労働に対立するものを生産する場合もありうるとしている. ここで強 調されていることは, 消費は単に同じことを繰り返すこと, つまり再生産に関連するだけではなく, 新しい可能性や社会的なダイナミッ クスを生み出す側面も持っ ているということである. これは再 生産とそれを克服するメカニ ズムを明らかにするために導入された新しいアイ デアとして受けとめ ることができる. その意味で, 象徴的労働とそれが展開される場としての消費の概念はこの段階に おける再生産論の中心概念として位置づけられているといえる. いいかえれば, かつての反学校文. 化論としての再生産論や文化的生産論としての再生産論とは異なる, 象徴的労働と消費を中心概念 とした消費文化論としての再生産論が展開されているといってもよい. これを別の角度からみると, こう した見方には, 従来の消費の重要性を軽視していたマルクス主 義に対しての批判的再検討の意図が込められていると考えられる. それは, 次の論述からもうかが う こ と が でき る.. 「単純な真実は平凡な文化のなかに生まれつつある結合力とアイ デンティ ティ が 古くさいマルク , ス 主義の清廉さから見れば不道徳 で疎外された驚くべき方法. 労働 でなくレジャーによっ て,政. 党でなく商品を通して,集団的にではなく私的に -- で生じているということがいま認識されなけ 1 1 ) れ ば な ら な い と い う こ と であ る( 」 .. ここには, 社会変革の原動力はいまや平凡な文化, そこから生ずるレジャー, 商品, 私的な領域 1 2 ) そこには 古く といっ た消費文化に見いだされなければならないという考え方が示されている( , . さいマルクス主義のように生産点だけを見ていると, 変革の契機が見出せないという現状認識があ ることは間違いない. それは,「かつてより以上に今では, 社会主義への道は暗雲がたれこめ不確実 1 3 ) になっ ている{ 」という言葉や, 「目に見える社会主義的な別のモデルはあきらかにこれらのものを -- 少なくとも平凡な人々に -- 提供するのに失敗しているだけ でなく, 完全に 限界に達し信用 1 4 ) を失い破産を強いられているように思える{ 」 という論述に端的に示されている. もちろん, 消費文化がそのままで社会変革をもたらす契機になり得ないことも事実である. 消費 文化は社会をそのまま受け入れ, 文化や社会的関係を再生産しがちであるからである. したがっ て, 「あまりにも難解なことであるが 平凡な人々は社会主義を作る前に 自らを文化的に生産された市 , , 民として作り上げなければならない. 一方で, 時期尚早で抽象的でできそこないの理論や計画が抵 1 5 } 抗 を 受 け る と いう こ と は 驚 く こ と で は な い は ず で あ る( 」 と いう こ と に な る. い い か え れ ば, 文 化. 的に生産された市民の形成, すなわち成熟した市民社会の形成が現代的な課題であるということで ある. ここには, 第一段階における平凡な消費文化を通した市民社会の形成とそれを基礎にした第 二段階における社会主義社会の形成という図式がみられる. 若者の大量失業の研究の中でみられた いわば二段階の教育改革と同様の論理 である. したがっ て, ウィ リスは将来の社会主義を展望した, まず第一歩の社会変革をもたらす契機として消費文化に注目・ していると見てよい. しかし, ここでの議論は, 平凡な消費文化に対する大きな期待のみを前提に していることも否定 できない. なぜなら, ウィ リス自身が述べているように, 平凡な消費文化が 「文化的に生産された 市民」 を作り上げることは 「あまりにも難解なこと」 であり, その道筋が描かれていないからであ る.「文化的に生産された市民」を形成する道筋が描かれずに, 平凡な消費文化を高く評価するのは, それに対する大きな期待に依拠するしかないからであると 思われる. それは, 逆にいえば, 再生産 を根本的に打ち破る展望, いいかえれば社会主義への展望が如何に困難であるかということの表わ れであるとみることもできる. それゆえ, ウィ リスの消費文化論としての再生産論を完成させるた めには, この点をさらに明らかにしていくことが不可欠に必要となるといわなければならない. さらに, 指摘しておく必要があるのは, こう した期待の論理に基づく社会変革, いいかえれば, 165.

(11) . 小 内・. 透. 資本主義的生産様式の再生産の克服の展望 が強く議論されているのとは対照的に, その前提となる 再生産や社会的再生産および文化的再生産のメカニ ズムがそれほど議論されなくなっ ているという こと である. 文化的生産論としての再生産論において, 再生産や社会的再生産, 文化的再生産の概 念が吟味されたのと比べ ると大きく異なっている. 現段階においては, それらは自明のことであり, 前提として位置づけられているという印象が強くなり ている. ウィ リスはもはや再生産論として自 らの理論を位置づけていないとさえいっても過言ではない状態になっ ている. したがっ て, 消費文 らに充実したものにするためには, 資本主義的生産様式の社会的再生産 化論としての再生産論をさ, を克服する道筋を明らかにすると同時に, 消費文化を通した再生産や社会的再生産, 文化的再生産 のメカニ ズム自体を明らかにすることも必要となる. その意味で, 消費文化論としての再生産論は 二重の課題を残しているといわなければならない.. 〔注〕 i i { l l i )1990 l l ty Pres 1 )Wi ton Ke ture ver s s s )mes ‐ ,Common Cu ,(Mi ,0pen Un ,P. ( 2 )Ibid 6 p . . . , ー ( 3 )lbidりpp .9~10 . ( 4 )恥id . .11 . ,p ( )lbid 5 . .11 . ,p ( 6 )lbid . . .11 ,p ( 7 )工bid p . . , .11 ( 8 ).bidりpp . n ~12 . ( 9 )lbid p . . . , 14 0 ( 1 )恥id . .21 . ,p ( 1 1 )lbid . .159 . ,p. ( 1 2 )ギルバートも 「若者文化産業は, ほとんどの場合, 記号社会とそのメディ アの諸形態によって広く貫かれている‐ ……何人かの人々にとっては, それはこれらの文化形態それ自体に基礎づけられた政治のための新たな可能性を提 ーfs il l i i i i ionandPos t l be比,R.“Ci tr,Br t tmodemi ‐ 供して い る」 (Gi shJou lna o ocoo zensh きw ofEduca p ,Educat i V l 3 N 11 9 9 2 1 ウ t 6 4 として リスの見方を紹介している ) on o o ィ p . ‐ . , , , . l i i l l i l ( 1 3 }wi ture ton Ke ty Pr )199OP es s ver s s )mes .160 ‐ ,Common Cu ,(Mi ,OPen Un ,P. ( 1 の1bid . .158~159 ・ ,PP ( d 1 91bi ‐160 . . ,P. 終章 三つの再生産論の関連と問題点 ノ・マータウンの野郎 ども』で展開した反学校文化論としての ウィ リスは, 以上見てきたように,.『 再生産論から文化的生産論としての再生産論, さらに消費文化論としての再生産論へと自らの理論 的探究を進めてきた. それは再生産論の再編・探究過程といってもよい. そこで, 最後にこの二つ の再生産論の関連と問題 点を検討し, 本稿のまとめとしたい. まず, この三つの再生産論の関連として検討する 必要があるのは, 三つの再生産論が一つの再生 産論の構築を目指した理論の変化を示すものであるのか, それとも, 再生産論の異なるタイ プを示 すものかという 問題である. たしかに, これらの再生産論が必ずしも同一の対象を問題にしていな いという点を考慮すれば, 異なるタイ プの再生産論を示すものと考えることもできる. 事実,、反学 166.

(12) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). 校文化論としての再生産論は, 反学校文化あるいはその背後にある労働者文化を対象にした再生産 論であり, 文化的生産論としての再生産論は文化一般を対象にした再生産論, 消費文化論としての 再生産論は消費文化を対象とした再生産論である. しかし, 理論的活動の時期の違いに応じて以前 とは異なる概念を用いながら新しい再 生産論が構築されてきたことを考えれば, これらの三つの再 生産論は明らかに一つの再生産論の変化を示すものと受けとめる方が妥当である. 実際, かつて再 生産論の中心概念として位置づけられていた洞察と制約という概念が, それを否定した形で, 文化 的生産とその他の新たな諸概念にとっ てかわられ, さらに象徴的労働と消費の概念によっ てさらに 中心概念が変化してきていた. その意味で, ウィ リスの;つの再生産論は, あくま でも一つの再生 産論の構築を目指した理論の変化の過程を示すものに他ならないといえる. しかし, そこでは, この三つの再生産論の扱っ ている対象が異なっ ていることをどのように理解 するのかという問題が残る‐ この点で, 考慮する必要があるのは, ウィ リスがつねに文化研究とし ノ・マータウンの野郎ども』 の段階 て再生産論を探究してきたということである. それは, す でに 『 において明示され, 文化的生産論としての再生産論でさらに明確にされている. 消費文化論として の再生産論の場合にも, それは共通している. しかし, 具体的に問題にしている文化の領域は, 反 学校文化ないし労働者文化から文化一般そして消費文化へと変化しているのである.rしたがっ て, そこ では文化研究としての再生産論を構築する際に, 自らの理論を説明するのにもっ ともふさわし い対象が選択されていると考えるのが妥当であろう‐ その意味で, 再生産論の変化にともなっ て, 想定する対象が異なるのは必然的なことであっ たと見る必要がある. そこで, 最後に問題になるのは, なぜ再生産論が変化せ ざるを得なかっ たのかという点である. いいかえれば, 反学校文化論としての再生産論ではなぜ不十分であっ たのか, またそれに代わっ て 打ち出された文化的生産論としての再生産論の どこに弱点があっ たのかという問題である‐それは, 一言でいえば, 彼が一貫して主体的な選択の結果として再生産をとらえ, 同時に, 再生産の過程の 中に再生産をくつがえす展望を見出そうとしていたことと関連しているといえる. つまり, 反学校文化論としての再生産論においては, 反学校文化と労働者文化の中に再生産の原 因とそれを克服する展望を見出そうとしていた. それを可能とするために導入されたのが, 洞察と 制約の概念であっ た. しかし, 洞察と制約という概念や反学校文化や労働者文化に注目するだけで は, 再生産とそれを克服するメカニ ズムは十分に明確にならなかっ た. そこで, 彼はもっ とも一般 的な文化そのものを取り上げ, それ自体二つの形態を持つ文化的生産とそれにかかわる固定化, 脱 緊張, 転移, 同形という概念を導入することによっ て, この問題にこたえようとした. それは, た しかに, 一方で, 反学校文化や労働者文化という 限られた領域のみに基づいた再生産論とその克服 のメ力 ニ ズムの解明という 限界を乗り越えることができたが, 他方で, 非常に抽象的な議論に陥り, 同時に再生産の克服の展望を考える際に大きな壁に突き当たっ たと考えられる. そこでは, 幅広い 領域にわたると同時に, 文化という 一般的な対象でなく, 再生産とその克服のメカニズムの解明に ふさわしいより具体的な文化の領域と概念を構築することが求められた. この点で若者の大量失業 の研究は大きな転機になっ たといえる‐ なぜなら, 失業し, 労働者文化を獲得できないにもかかわ らず, そう した事態が資本主義の社会的再生産を克服することにつながらないからである. そこで, ウィ リスがた どりついたのが消費文化 である. 消費文化は彼の定義からいえば, 日常の生活様式に 近い概念である‐ したがっ て, それは, 一方で失業している若者を含めて誰もがそれに関係してい る広い概念であり, 他方で文化一般 という概念よりも具体的なものである. しかも, 消費には象徴 的労働が伴っ ており, 社会関係の再生産という側面だけでなく, 社会変革をもたらす新たな文化を 生産するという大きな可能性の側面があるという形で理解されたの である. いいかえれば, ウィ リ 167.

(13) . 小 内. 透. スが一貫して追究してきた再生産とその克服のメカニ ズムを解明するためにふさわしい対象として 象徴的労働を伴う消費文化が取り上げられたのである. こう して, 一貫して主体的な選択の結果として の再生産とそれを克服する展望を文化の領域の中 に見出そうとしていたため, .それにふさわしい対象を求めて試行錯誤してきたと見ることができる. もちろん, その試行錯誤は, 再生産の過程, とくに資本主義的生産様式の社会的再生産を克服す ることが現実的に大変困難であることに由来している. したがっ て, 彼が現段階において到達して いる消費文化論としての再生産論においても, 結局, 消費文化に対する大きな期待を基底にした理 論を構築せ ざるをえない状況になっ ている. どんなに対象や中心概念をかえても, 資本主義的生産 様式の再生産を克服する過程が目に見える形ではなかなか進展しないという現実をかえることはで きない. より厳密な言い方をすれば, 目に見えない形で進展しているかもしれない, 資本主義的生 産様式の再生産の克服過程を把握する概念や対象を見出すのが大変困難であるということである. このように考えてくると, ウィ リスの再生産論の再編の試みは, 再生産のメカニ ズムを第一に文 化のあり方に注目しながら,第二にその克服の過程をも含めて一貫して明らかにしようとしたこと, 第三にそれを諸個人の主体的な営みとして明らかにしようとしたことに最大の特徴があることが浮 き彫りになる . まさに, それこそがウィ リスの再生産の試みの最大の意義であるといえる. , ところが, ウィ リスの再生産論の試み全体をふまえてみると, そこには大きな問題が含まれてい ることも否定できない. 第一に, 彼の実証的研究と理論との間に大きな溝があり, それが一 貫していることが指摘できる. たしかに,.かれは反学校文化論としての再生産論を 〈野郎ども〉 の実態をふまえて定式化した. し かし, 少なからぬ論者から指摘されたように, 『 ノ・マータウンの野郎 ども』における理論化は限られ た対象にもとづく実証のいきすぎた解釈によっ てもたらされたという性格が強い. その意味で, こ の段階においても実証と理論との間には相当大きな隔たりがみられた. しかし, それ以後, ヒッ ピー や バイク少年の日常生活を描いた実証研究はあっ たものの, 文化的生産論としての再生産論になる と, その裏づけとなる実証研究はほとんど見られなくなる. 本来であれば, 文化的生産論としての 再生産論にふさわしい実証として, 普通の人々の普通の生活の中にある文化一般を対象にした実証 研究が取り組まれる必要があっ たといえる. これに対し, 消費文化への着目の契機になっ た若者の 大量失業に関する研究に関しては, たしかにいくつかの実証研究がなされている. しかも, それを 契機として打ち出された消費文化論としての再生産論も実証部分と理論部分を合わせもっ た著作の 中で展開されている. しかし, そこでも, 実証部分と理論が必ずしもかみ合っ ていない. 実際に実 証の対象となっ ているのは, 消費文化のほんの」部にしかすぎない若者のテレビ, ビデオ, パソコ ン等の電子情報機器への接触のあり方とその影響に限られている. こう して, 実証部分からの解釈 のいきす ぎや, 実証の対象の選択の仕方の問題が原因となっ て理論と実証の爺離が一貫しているの である. 第二に, 理論と実証の垂離は, 再生産の克服の展望に関する期待の論理の導入という事態を伴っ ている. たとえば, 『 ノ・マータウンの野郎 ども』の段階では, 再生産の克服の展望は洞察が全面的に 発展する点に見出されていた. しかし, 現実的には洞察の全面的発展はいくつかの制約によっ て阻 まれ, 部分的な洞察にならざるを得なかっ た. したがって, 再生産の克服の展望は現実的な部分的 洞察が様々 な制約を乗り越え, 全面的な洞察に発展することに期待しなければならなかっ た. その 意味で, 反学校文化論としての再生産論の段階において, すでに再生産の克服の展望に関しては期 待の論理に基づいて理論化されていたといえる.・これと同様な事態は, 文化的生産論としての再生 ノ・マータウンの野郎ども』の段階とは異 産論においても存在していた. たしかに, この段階では, 『 168.

(14) . P‐ウィリスの三つの再生産論 (下). なり, 洞察という概念を否定し 「文化的生産」 の従属 9的な形態という新しい概念によっ て再生産に おける変化や抵抗を描こうとしていた. しかし, 従属的な 「文化的生産」 という概念も再生産を克 服する展望に関しては, あくまで再生産のあり方を変化させ, それに抵抗する可能性をもつものと して措定されていたことも事実である. したがっ て, そこでは再生産の克服は期 待の論理に基づい てのみ説明しうるものである.このことは,消費文化論としての再生産論の段 階になるとさらにいっ そう明確になる. 平凡な消費文化は 「文化的に生産された市民」 を生み出しうるという意味でたし かに再生産を克服する可能性をはらんでいるが, それは 「あまりにも難解なこと」 であるとされる. にもかかわらず, この可能性を重視しているのである. それゆえ, そこではかつて以上に現実と期 .なっ ているといえる. こう して, 再生産の克服の展望に関してはつねに期待の 待の隔たりが大きく 論理を基底にした理論化が進められてきたといわ ざるを得ない. 第三に, 指摘しておく 必要があるのは, こう した問題を抱えた理論化の過程で, 再生産や社会的 再生産, 文化的再生産のメカニ ズムの解明そのものが, 次第に後景に退けられるようになっ てきて いるということである. すなわち, 初期の段階では, 洞察と制約の概念によっ て, 労働者階級の子. 弟自身の選択が再生産の克服の可能性を示しながら現実には再生産の過程を生み出すという論理で 再生産のメカニ ズムが示さ れていた. しかし, 文化的生産論としての再生産論の段階になると, た. しかに再生産や社会的再生産, 文化的再生産という諸概念の整理が行なわれたものの, それぞれの ノ・マータウンの野郎ども』 のように, 実証的研究をふまえた明確な説明と 現実的なメカニ ズムは 『 いう形をとらなくなっ ている‐ むしろ, そこでは, 抽象的な理論化作業が中心になっ ている. しか. も, その理論化の作業の際にも, 力点は どちらかというと再生産の克服のメカニズムを明らかにし ようとする 割こ移行しているといえる. 文化的生産の概念を中心にして再生産論を再編 しているこ とそれ自体がそれを象徴 している. さらに, 消費文化論としての再生産論になると, 消費文化やそ. こで展開される象徴的労働の社会変革の可能性の強調が中心的な論 点になる. そこ では’ 社会的再 生産への消費文化や象徴的労働の寄与のメカニ ズムそれ自体は 必ずしも明確にされず, 前提的な問 『 題として位置づけられているのが現実である. , その意味で, かつて ハマータウンの野郎ども』 で 示されたような主体的な選択による再生産過程のメカニ ズムはその後さ らに深められることなく, 現在においては, 再生産論としてよりもむしろ社会変革論と名 づけた方がふさわしい状況になっ て い る と い っ て よ い.. 第四に, こう した事態が生じているのは, 再生産論の再編過程において, 教育や職業として営ま れる労働そのものの位置 づけが弱くなっ ていることと大きく関わっ ている点を指摘する必要があろ フ. いうまでもなく, 教育のあり方は再生産の過程にとってきわめて重要な意味を持っている. そ れゆえ, アルチュ セー ル, バー ンステイン, ブルデュ ー, ボールズとギンタスといっ た他の再生産 論者も教育の問題を理論の中心に位置づけてきたといえる. ウィ リスもまた 『ハマータウンの野郎 ども』 の段階においては, 反学校文化の問題に限定した形ではあるが, 教育のあり方を再生産論の 中心に措定していた. 一方, 文化を日常の生活様式とほぼ同一のものとして把握するウィ リスの立 場からみれば, 職業としての労働は欠くことの できない重要な意義を有している. 失業者を除いて 職業としての労働は一日の生活のもっ とも大きな部分を占めている場合 が多いから である. した. がって, 反学校文化論としての再生産論のなかで, 反学校文化と労働現場の文化, すなわち労働者 文化の関連をとりあげ, そこから再生産論を構築しようとしたことは, 当然のことであっ たといえ る.もちろん,その場合,一方 で,教育のあり方を反学校文化のみに限定して取り扱い,他方で,日常の 生活文化のうち, 職業としての労働に関わる労働者文化のみを問題の焦点に据えたという 点 で, 日 常の生活文化と教育を媒介にした再生産論は必ずしも十全のものではなかっ たことも事実である. ‐. 169.

(15) . 小 内. 透. その意味で,教育の過程をより幅広く \とらえ,日常の生活文化をより広範囲にわたっ て検討すること が,彼の再生産論の課題であっ たといえる.しかし,実際には,ウィ リスのその後の研究の過程を検討 してみると, 教育の位置づけは反学校文化のあり方を含めて希薄になり, 日常の生活文化のなかで も職業としての労働の位置づけが弱くなっ ていっ た. 現段階においては, むしろ職業としての労働 以外の生活文化すなわち消費文化のみを積極的に取り上げようとしているのである. しかし, 日常 の生活文化を基礎として再生産論を構築するには, やはりその克服のメカニズムの解明を含めて, 教育の過程と職業としての労働の過程を問題にする必要がある. その意味で, 教育と職業としての 労働の位置づけが弱くなっ たことがすでにみた理論的諸問題の大きな要因になゥ ているといえる. ノ・マータウンの野郎 ども』の段階で示された反学校文化と労働者文化の関 こう してみてくると, 『 連から再生産論を構築しようとした反学校文化論としての再生産論と, それ以降の文化的生産論と しての再生産論, そして消費文化論としての再生産論を, 反学校文化だけではない幅広い側面を含 めた教育の過程と職業としての労働過程を軸にした日常の生活文化の全体像を浮き彫りにするとい う視点から統合していくことが重要な意味を持っ ているといえる. いわば, 再生産論の変化として 捉えられる三つの再生産論をむしろ類型としての再生産論として位置づけな おし, その統合を図る ということである. もちろん, その場合には, つねに実証研究をふまえながらそれを進めていくこ とが不可欠に必要となる. そのことによっ て, 従来の再生産論それ自体の修正が余儀なくされるこ とも十分に予想される. しかし, それを含めて三つの再生産論の統合を目指さなければ, ウィ リス の意図した再生産論の構築は成就しえないと思われる. いうまでもなくγ このことはわれわれ自身が再生産論を構築する上においても忘 、れてはならない ことであろう. すなわち, 日常の生活様式全体を文化という概念で把握するか どうかは別にして, 実証研究に立脚しながら, 生産・労働を軸にした生活過程全体のあり方と教育過程の関連をふまえ, 再生産とその克服のメカニズムを明らかにしていくことが求められるということ である. 再生産の 過程, また再生産の克服の過程は諸個人の生産・労働を軸にした生活過程と彼らの子弟の教育を軸 にした生活過程との関連のなかで展開しているからである. それは, 言語や文化資本に立脚して構 築されたこれま での バーンステインや ブルデューの文化的再生産論や生産の社会的関係と教育 の社 会的関係の対応関係に注目す- るボールズとギンタスの再生産論を乗り越えることをも意味してい る. いわば新しい再生産論の構築の視 点がそこに示されているという ことである. その意味では, 日々の日常生活それ自体の中に再生産とその克服のメカ・ ニ ズム を見出そうと したウィ リスの発想 は, まさに卓見であっ たといえる.. 〈参考文献1〉 -- ポー ル・ウィ リスの論文 ・ 著作 ” 1.VV i l l i IStud l i tura s aninthel ron Cagぎ’ ng Paper si n Cu es9 l ゴ ロpora l r y ,P. The M[ ,CenterforConte ,inVVorki Cu l i uturaIStud E 潟 1976 . “ l l i 2.Wi l igr i lcountercu l l turご,i 耳f s ss canceofschoo s ey oods ) as n Hammer eds ‐ ,P. Thec , M. & 汎r ,P‐( ,The Proces o i L d R l & K P l U i B k t d d i 9 7 6 ( t )1 sofSchool ng o n o n e n n n o u e e a a u a e n v e r s o o g g p y . , , l l earn i ingto Labour 3‐Wi dsge t Worki tmead ngC1 s t :How Worki as s Ki ng C1 a ミ滞Jobs es s e . ,P ,L , 耐← ,Saxon Hou l l i l l 77/和訳:(熊沢誠・山田潤訳)『 ノ ・マータウンの野郎ども』筑摩書房, 19 85年‐ orLo )19 ndon e r Macmi an ,Co l l i l 4.Wi l ture )1978 s edge & Kegan Paul ‐ ,P. ,Profane Cu ,(London ,Rout “Sho f ” i l l i P l l l i i h IStud 5‐VV dt f i t t s o ma rc u r e s c u n n a r l n u , ew ge o ,CenterforContempora es utura ya p o ry Cul , . l979 .. 170.

参照

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