北ドイツの悪魔湿原と釧路湿原の比較文化的考察(第一部)
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第47巻 第1号. 平成8年8月. Journa lo fHokka i i do Un i fEduca ty o Se i t ver s cdon1A)VOL 47 on( .1 , No. Au像j t s , 1996. 北 ドイ ツの悪魔湿原と釧路湿原の比較文化的考察 第一部 大. 木. 文. 雄. Betrachtungen uber die vergleichenden Kulturen zwiSchen dem Teufels]moor in NorddeutSch1and u1 1d dem Kushirosmoor. Der erste Tei I. Fumio OHKI. I. まえがき グリ ム 童 話 「ブ レー メ ン の 音 楽 隊」 (Di ) で有 名 な, あ る い は 中 世 の 自 由ハ ン i kan tmus e Bremer st t ad en ザ同盟 (Fr ) と して 良く 知 ら れて いる 北 ドイ ツ の 大都 市 ブレーメ ン (Br i e Hans e e emen , 人 口56万 人) から, 車 を 北 東 へ25キ ロ, 30分 程 走 らせ た と ころ に広 大 な 悪 魔 湿 原 (Teu f l ) はあ る。 南 はリ ッ タ ー フ ー デ e smoor (Ri ) t t erhude. からリ リ ー エ ン タ ー ル. (Li ) を 通 っ て オ ッ タ ー ス ブ ル ク (ot l i l ) に至る 街道 entha t ersburg ,. 西 は オ ス タ ー ホ ル ツ (ost ) か ら グナ レン ブル ク (Gna erhol z ) ま で, 東 は グナ レン ブルク か ら フィ r r enburg. i ) ま で の そ れ ぞ れ20kmほ どの 三 角 形 の 中 に こ の 悪 魔 湿 原 はあ る だ か ら 昔 か f ッ シ ャ ー フ ー デ (F s cher ude ‐ ( 1 )と 呼 ば れ て き た 「 らここ は 湿 っ た 三角 形」 ( da eck) s nasse Drei . そ の 湿 原 の 中 央 を ドイ ツ の 大 河川 の ひと つ で あ る ヴ ェ ー ザー 川 (We ) の 支 流ハ ンメ 川 (Hamme ), ベ r s e ー ク 川 (Be ) がゆ っ た り と 流 れる. そ れ は悠 久 の 流 れ であ る 湿原 の 南 東 の端 に は 周 囲4 5k の小 高 い ek . ‐ m , 丘, ヴ ァ イ ヤ ー ベ ルク (Weyerbe rg 「森 の 丘」 の 意), ま た の 名 を, ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デ (Wor pswede 「丘. の森」 の意) という村があるのだが, その丘からは悪魔湿原の広大な風景を一望することができる ‐ こう いう 悪 魔 湿原 の位 置 関係 そ れ は北 海道 の釧 路湿 原 の そ れ に似 て いる な ぜ な ら ブレー メ ンと 同 じよ , .. うに, 釧路市から北へ車で30分程のところに釧路湿原もあるからである さらに釧路湿原の中央にも 悪魔 ‐ , 湿原 のハ ンメ 川, や ベー ク 川 と同 じよう に 釧 路川 ある い は そ の 支流 の 温 根 内川 雪裡川 チ ルワ ツ ナイ , , , , 川, 久著 呂川, コ ッ タ ロ川 がゆ っ た り と流 れて いる し そ して北 の 端 には 悪魔 湿原 の ヴ ァ イ ヤ ー ベ ルク と , ,. 同じよう に, 鶴居村があり, 鶴居村の端にある宮島岬 キラコタン岬からは 釧路湿原の広大な風景を一望 , , する こ と ができる か らである‐. しかしそのような二つの湿原 の類似点が このような地理的な位置関係ばかりではなく その他の色々 な , , 点においてもまた見つけだされるという事実 とりわけ芸術的な面 文化的な面において見つけだされると , , いう事実は, 我々 にとっ てきわめて興味をそそられる事柄であるし ドイ ツと日本という空間的に離れたと , ころにあっ て, 全く無関係以外の何ものでもないと思わ れていた その無関係性の背後に 実は遠い二つの , , 地域を結び付 ける 「赤い糸」 があっ たのだ ということを知ることができるとするなら それはきわめて魅 , , 惑的な 事柄 である に違 い な い. その 「赤 い糸」 と は 二つ の地 域 に成 立 した芸術 家 的なあ り よう であ り そ , , 85.
(3) . 大 木 文 雄. れは地下水脈を通っ て, 遠く北 ドイツの悪魔湿原 から北日本の釧路湿原にまで浸透してきた芸術家精神であ っ た‐. こう いう こ と はこ れま でほ と ん ど研 究さ れて こ な か っ た事 柄 であ る‐ 湿原 とい え ば, 自然 科学 的な 面 の み. が問題にされ, その地に根付いた自然と人間との心のありようについては等閑に付されてきたといっ ても過 言ではないであろう‐ なるほど自然は自然, 人間は人間というふうに, それぞれの部分においての研究は行 なわれる‐ しかしその両者を両者の係わりの方から問題化することは行なわれないできた‐ しかもそういう ことが他の湿原との比較から関係づけられる ということはこれまで全く行なわれないできた. だからこれか ら述べようとする ドイツと日本の湿原における比較文化的な研究は, 全く新しい試みといえるであろう‐ それは19世紀末, 悪魔湿原を見下ろす小高い丘ヴォルプスヴェーデに, 数人の芸術家たちが集まっ て芸術 ) を作 っ た こ と か ら端 を発 す る‐ 彼 らは悪魔 湿原 の 「美」 に 魅せ ら れてや っ て きて, 家 村 (Kuns l i l t e erko on. そこに理想の村を作るべく定住したのである. 一方20世紀初頭, 釧路湿原の北に位置する小高い丘鶴居村のチルワツナイという原野に東京出身の一夫婦 が入植する. 彼らは牧場で生活を繋ぎながら, 文学と芸術に没頭する. この夫婦はこの地に理想郷を作るべ く定住したのである. この二つの出来事を簡単に見るならば, 両者とも湿原を舞台にしている という点, それから両者とも芸術 を生活の中心に据えたという点, そして両者とも理想郷を追い求めている という 点で共通している. しかし 共通してはいるが, 一見その共通性の背後には何の関係もないように思われる. それは単なる偶然の出来事 「 のよう に思 わ れる‐ 果 た して そう であ ろう か‐ こ の二つ の 出来 事の 背後 に は どんな 関係, どんな 赤 い糸」 も 見 い だせ な い の であ ろう か‐ そう いう わ けで我々 は こ れか らこの 「赤 い糸」 の 存在 を 明ら か にする べ く 論 を進 め て行 こう と思う. しか. しそれを明らかにする前に我々は, まず二つの湿原の名前の由来, 湿原の歴史的な経過等を論述していかな けれ ばな らな い. な ぜな ら そう する こ と によ っ てそ の 「赤 い糸」 の存在, あ る い は そこ に生ま れた芸 術 家 的. なありようが, より厚みを増し, 明確な輪郭をとってくるように思われるからである‐. ロ. 悪魔湿原の名前の由来 「 悪魔 湿原 ……我々 はこ れ か らこの悪 魔 湿原 につ い て 論 じよう と している の だ が, 我々 はま ず その 悪魔」. という空恐ろしい名前に度肝を抜かれる‐ 日本の北海道にある釧路湿原の 「釧路」 という名前が, アイヌ語 { 2 ) 「 悪魔湿原のそれは空恐 の 「越ゆる道」 , 往来の道」 という意味から来た素朴な名前であるのに比べると, ろ しい. しか しそ れ は同 時 に, き わ め て 人 間臭 さ を 持 っ て いる 名 前 のよう に思 わ れる. なぜ な ら 人 間の側 か. ら, この湿原を考えたり, あるいは生活のために湿原とうまくやっていこう とする場合, 湿原は彼らにとっ て悪魔のように思われたにち がいないし, だからその 「悪魔」 という言葉の背後には人間と湿原との絶えざ る交渉関係が考えられてくるからである. この湿原地帯はその名前が示しているように, 果たしてそれほ ど 人々 に忌 み 嫌 わ れてき た とこ ろ な の であ ろう か. あ る い は “dat duwe Mo ) は 昔 人々 に, ”da or と いう 方 言 で 呼 ば 悪 魔 湿原 (Teuf l t dove Moo e smoor ” 「 )そ れ は ”das taube M or の こ と であ る ” 3 れて い た.( aub と は 「聾 の」 o , と いう 意 味であ , 無 感 覚 の」 ‐ t ” baご 「実 の 結 ばな い」 t ruch る‐ さ ら に そ の “ t auげ は, そ の 「無 感 覚」 と いう 意 味 を 転 じて, unf , と いう 「 「 たの で 意 味を 持 っ た‐ すな わち こ の 湿原 は 人 間に と っ て 「聾 の」 , 実 の結 ばな い」 土 地 であ っ , 無 感 覚の」 “ t あ る‐ と ころ で や がて 時代 が 経る に 従 っ て, ” aub という言葉が, 発音が似ていて, しかも同じような恐 ” ”と いう 言葉 に変 わ っ て い っ た こ と は別 に不 思議 な こ と で は ない な ぜ な ら“Teuf l e l f ろ しい 意 味 を持つ“Teu e . 86.
(4) . 悪魔湿原の芸術家たち. の方が “ t aub” よ り も 人々, ある い は観 光客 に 強烈 な 印 象 を与 え る から である. つ ま り 「ドオ ヴdov」 あ る い は 「ドュ ウ ヴ duw」 と いう 「タ ウ プt aub」 の 方 言 が, 「聾 の」 「無 感 覚 の」 「実 の 結 ばな い と いう 悲 しい 意 味 を 持 ち な が ら 同 時 に 同 じよう な 音 と 意 味を 持 つ 「トイ フ ェ ル Teuf 」 l e ,. 悪魔」 へと転化してきたのである‐ 湿原というものは, どこの湿原でも穀物や野菜の成育を拒むような地質 , 地 形, 環境 か ら でき て いる が, こ の悪魔 湿原 も そ れにも れず 昔 か ら 人 間 が入 っ てい っ て 実 際生 活 を しよ , ,. うとする意志を強烈に拒んできた土地であった‐ たとえばそれはドイツの次のような格言が示す状況であっ た.. dem zwei ten die Not ,. 最初の人には死を, 第二番目の人には苦難を,. ( 4 ) dem dri t ten das Brot ‐. 第三番 目 の 人 に はパ ンを‐. Dem ersten I Tod, r del. 悪魔 湿原 はま さ にこ のよう に人 間 を寄 せ 付 けな い土 地 であ っ た の であ る だか ら 「実 の結 ばな い こ の土 」 ‐ 地 は, 人 間 たち に と っ て は, 暗く, 荒々 しく 不 気 味 な 雰 囲気 を 与 える 土 地 と いう こ と で 「悪 魔 湿 原 と , 」 , 呼 ばれ る よう にな っ た‐. 皿. 悪魔湿原の地質とその歴史 皿-1‐ 高層湿原 ではなぜこの土地はそれほどにも人間を寄せ付けない土地になってきたのであろうか‐ その 「実を結ばな い」 土 地 と は どの よう な土 地 であ っ たの であろう か‐ こ こで悪 魔 湿原 の土 地 の 状 況 ある い はそ の歴 史 につ , い て 説 明 を 加え な けれ ばな ら ない‐. この悪魔湿原の成立は, 凡そ1万2千年前の氷河時代に遡る. 氷河が融解しはじめ 北海沿岸の砂丘の端 , の と ころ に ひとつ の湖 がで き たの が, そ の原 初 形態 であ る. 湿原 のよう な広 大 な 平 坦 地 がな ぜ でき たの か と. いえば, それは氷河がそこに居座り, 幅約20k mにわたっ て平坦な低地を形成したためである‐ その氷河が今 度は融解し始め, 湖となっ たのである‐ そのために湖の底は平坦で やがて湿原になるはずの広大な低地を , す で に備 え て しま っ て い たの である.. やがてまわりの砂が湖の中に流れ込んで, 湖の底が浅くなる‐ そして水底が浅くなったために水は以前よ り も 温く な り, そ こ に初 め て 植物 が生 息 し始 める‐ ス ギ ゴケ 類 ( ) の 植物 であ る‐ そ れらの 植物 Laubmoos e. が堆積すると, ますます水底は浅くなり, ついには底が水面上に顔を出し始める 堆積したス ギ ゴケ類の土 ‐ 壌 は, 外 部 か ら侵 入 す る 水 を 含 ん で いる た め に 富 栄 養 の ( ) 土 壌 であ り, ハ ンノ キ (Er f f i t ) nahr s o l r e ch en の成 長 を促 し, 見 渡 す か ぎり のハ ンノ キ の湿地 を 形成 する 低層 湿原 (Ni ) の成 立 であ る‐ しか し edermoor ‐. 悪魔湿原 の成長はさらに続いた. ハ ンノ キ が成 長 し, そ れが枯 れ死 し 再 びハ ンノ キ が成 長する と いう 繰り 返 しを経る に従 っ て ハ ンノ , , , キ の 堆 積 が 生 じる. しか しハ ンノ キ が堆 積 し始 め る と そ こ は 乾 燥 ( ) し始 め, そ の 下 にあ る 湿 地 の t r ocken. 水にハンノキの根が次第に届かなくなる‐ その結果ハンノキの根が吸い取ることのできる水分はもはや富栄 養的な湿地の水ではなく, 貧栄養的な雨水だけになる‐ 貧栄養的な雨水だけではハンノキの生存は不可能で ある‐ する と そこにハ ンノ キに代わ っ て, 最も貧栄養的な条件 下でも成育が可能な植物 ミ ズ ゴケ類 , (B1 ) が登 場 してく る. こ の ミ ズ ゴケ 類 が堆 積 し始 める と 時 計 の 表 面 ガ ラス の よう に 中心 が i e chmoos e , ,. 盛り上がり, 端が落ち込 んだような形を作り出す. 高層湿原 (Ho ) の成立である‐ 雨水は高層湿原 hmo c r o 87.
(5) . 大 木 文 雄. に蓄えられ, 一定の水を川や沼に提供する ということになる‐ ) である‐ 「高層」 という と 一 般 的 に は 「高 地」 にあ る 湿原 と思 そ れゆ え悪魔 湿原 は高層 湿原 (Hochmoor. ) の言葉を借りれば, 悪魔湿原の高層湿原は 「地 われそうであるが, そうではなくてH‐ シュ トユイク ( k S i t u 下水平面より高いところにあるだけにすぎなくて, だからその湿原は雨水によって供給されている‐ すなわ ちそこでの生物の棲息圏は依然として湿地帯なのだが, 貧栄養の湿地帯であり, 加えて酸性であり, 温度差 が激しいのでそこにはわずかの種類の植物しか生息し得ない. それにもかかわらずこの高層湿原は生きてい 5 )という こ と になる 最初 はこ の 湿原 も 低層 湿原 であ っ て, 毎年 1 か ら10ミリメ ー トル高く 成 長 して いる」( . たのだが 何千年も経つに従って高層湿原へと成長して, 現在は地下水面より9メ ー トル, 高 い とこ ろ で15. ,. メ ー トルほ どにも な っ て いる. つま り こ こで いう 「高層」 と は釧 路湿原 のよう な 「低層」 湿原 に対 して, 高 層 と 呼 ばれ て いる の であ っ て, 精々 地 下 水面 より 何メ ー トル か高 い とこ ろ にある と いう 程 度の も の である‐. ところで釧路湿原は低層湿原である‐ 釧路川から流れる富栄養の水が湿原を形成しているのだが, そこの 最も広 い 地 積 を占める の はヨ シ, ス ゲ原 であ り, 所々 にハ ンノ キ の 林 がある‐ しか しこ のよう な 低層 湿原 を. 代表とする釧路湿原にも, 悪魔湿原と同じような高層湿原が分布している場所がある‐ 釧路湿原の西側温根 内付近, あるいはキラコタン崎先端の湿原域である. そこは河川の流路が安定して, 自然堤防が発達して周 囲の湿地よりも高くなっているために, 海霧や雨水だけにうるおされる湿原であり, 貧栄養のミズゴケ湿原 がそこ に はあ る.. そして釧路湿原の成立も悪魔湿原と同じように氷河時代に遡る‐ 「長い氷河時代が終わると, 気温は徐々 6 ) 海面が上昇し現在の釧路湿原全域を覆っ た かつては一面海であっ たのである しかしやが に回復し一( . . , 次第にそこに湿原が から土砂が運ばれそこに三角州ができ 阿寒川によ て海も浅くなり, 釧路川, って上流 , できていったのである‐ さて再び話を悪魔湿原にも どそう‐ 悪魔湿原のそういった純粋な高層湿原の状態は, 今でも悪魔湿原の中心部分に幾らか残っ ている‐ そしてそこは現在 「自然保護領域」 aturschutzgebiet) i と して 大 切 に 保 護 さ れ て いる が, 他 の 部 分 は12世 紀 の 初 め, ブレー メ ン 大 司 教 区 (Er t zb s um Bremen). が. ) に着 手 して 以 来, そ の様 子 は どん どん 変 わ っ て い っ た‐ と いう の も こ 初 め て 湿 原 の 文 明 化 (Ku l i i t v erung. の悪魔湿原はブレーメン大司教区にとっては, 広大な平坦地であるにしては, じめじめした湿地帯でしかな く, なんとかしてその広大な土地を有益に活用したいという絶えざる願望が司教区にはあったからである‐ そ れ は 当 時 の 中 世 に お い て, 西 と 北 ヨ ー ロ ッ パ で 人 口 が 増 加 し て き た こ と, そ れ に 伴 っ て 耕 地 面 積 ), l twechs (Auf )の拡 大 が必 要 にな っ て き た こ と が, 大き な原 因 にな っ て いる. しかも 輪作(Fruch e bauna chen ), と い っ た 耕 作 方 式 の 改 良, あ る い は 挽 馬 用 の 首 輪 ( da 三 圃 式 農 業 (Dr f i f l derwi t t s Kummet fnr r e e s cha ) の 開 発, ある い はべ とべ と した 水 気 の 多 い 土 を 耕 す こ と を 可 i Pf nr och joch f rn s en erde) 役牛の額革 (St ,. ) の 開発 とい っ たよう な こ と な どが, 悪 魔 湿原 のよう な 耕作 しにく い土 地 能 にす る 車 輪つ き埜 (Raderpnug. をも耕すことを可能にさせ, 文明化を促進させたのであった‐ f(泥炭) 皿-2‐ Tor しかもそのような一見人間にとって有害にしか思われなかっ た湿原自体にも, 人間に役に立つものがあっ た‐ そ れ は Tor f(泥 炭, トル フ) の存 在 で あ る‐ 泥 炭 と は, 湿原 の 植物 が 「水 の 中 で 腐 り, 死 に絶 え た も. のが積み重なり, 他のおおくの植物をも取り込み, ごちゃまぜになったもの」 (Ha ns stuik: Wege l%s Mの質 ) である. だから泥炭, それはすな わち数メートルの高さにまで堆積した高層湿原それ自体と言っ て S .32 も過言ではない. 水気を多く含んだ泥炭を乾燥させればいろいろなものに役立つということが分かっ たので ある. 泥炭は農家の壁に使われたり, 土間の土の上にも, 土の暑さを遮断するために敷かれた‐ あるいは泥 炭 は, ア ンモ ニ ア を 吸 収 す る 作 用 が ある の で, しかも 弾力 性 に富 ん で い る ため に, 特 に 「赤 坊 の ベ ッ ド」 88.
(6) . 悪魔湿原の芸術家たち. (Torfbet ing l t fnr saug. にも 使 わ れ た‐. しかし泥炭が最も多く用いられたのは, 暖房のためであっ た‐ 泥炭を完全に乾燥させ, それを燃やす( br e n -nen ) と, そ の 燃 焼 は長 時 間 続く. 冬 が長 く, と り わ け 寒 い 北 ドイ ツ で は, 室 内 を 暖 める と いう こ と は, 絶対 に必 要 なこ と であ っ た ため に, 泥 炭 が暖房 に非常 に効 果 的 であ る と いう こ と が分 か っ たと き か ら, そ の 需 要 はう な ぎ登り に高 ま っ た の で あ る‐ と り わ け高層 湿 原 の 深 く に 潜 んで いる 黒 泥 炭 ( ) は最 f Schwa t r z or. 高の燃料であっ た‐ 1771年, ハ ノ ヴ ァ ー 王 国議 会 ( i d i ) は 泥 炭 を 採掘 で き る 高層 湿 原, す er i che Kamm‐ e konigl n Ha nnover. なわち悪魔湿原に目をつけ, 湿原の開拓と泥炭採掘の二つを一挙に解決するべく, 湿原の文明化に着手した の であ っ た. 1771年, 湿 原 特 別 委 員 (Moorkommi ) に 任 命 さ れ た J‐ C‐ フ ィ ン ド ル フ ourgen Christ ian s sar Findorf f1720‐1792) は, 早速 湿原 の 開拓 を 断行 した‐ 湿 原 へ の植 民 移住 (KO ) が実施 さ れ, 湿原 1 i i t on sa on. の脱水工事が行なわれ, 盛んに水路が作られた. 泥炭を採掘するという仕事は大変な重労働であっ た‐ 労働者たちは春から晩秋にかけて, 朝早くから夜遅 くまで働いた. 休む時間が惜しいので, しかも貧乏生活であっ たために食事は大抵バターと黒パンだけであ っ た‐ 最も高価な大地の宝, 黒泥炭は高層湿原の下の層にあるため にまずそこまで土を掘返さなければなら な い‐ そ れ か ら 幅 の広 い 木 靴 ( i ) で, そ こ の 泥 炭 が平 に 踏 み 固 め ら れる‐ そ して 糸 d l e breiten Ho chuhe z s 切り機 ( ) で, 縦, 横, 深 さ が手 の大 き さ ぐら いの 正方 形 に切 り 取 ら れ, 転 がさ れて, そ こ schnurma i s ch ne で1, 2 週 間十分 に乾燥 さ せ ら れる‐ そ れでも 完 全 に乾 燥 しな い ため に手 の 大 きさ ぐらい の 泥炭 は ピ ラミ , ッ ドの よう に1, 2メ ー トル の高 さ に置 き換 え ら れ, 並 べ 変 え さ れ, 晩夏 の 太 陽で完 全 に乾 燥さ せ ら れる‐. 泥炭を運ぶ荷車は, どろ どろした地面に食い込んで動かなくなるので, 人間の靴と同じよう に, 車輪にワラ が巻かれた‐ それが終わると今度は, 泥炭の大消費地ブレーメンへの運搬である‐ 乾燥された泥炭は, 泥炭 用 小 舟 (Tor ) に 運 び込 ま れる‐ 小 舟 の 先 に は長 い ロ ー プ が結 び付 け ら れ, そ れ を 一 人 が 陸地 か ら引 f kahn. っ 張り, もう一人は小舟が水路の薮や浅瀬に引っ掛からないように, 長い棒で後ろから小舟を押 し進める‐ 大 き な 運 河 に出る ま で に彼 ら はへ とへ と に疲 れて しまう. や っ と 運 河 に出る と 今度 は黒 い 帆の泥 炭 船 (Tor f , boote mi t schwarzen S ) に泥 炭 を 移 し変 え, 一 路 ブ レーメ ン に 向 けて 出 港 する. 片 道10時 間 往 復 1 l ege n ,. 日の行程. 風が吹かなければ, 棒を操らなければならない‐ 帆は湿気や風から守るために黒いタールが塗込 め ら れて いる‐ 仕 事 は12月 ま で続 い た.. そのようなわけで泥炭を湿原から採掘 し, 乾燥させ, 燃料として大消費地まで運ぶという仕事はすさまじ い重労働であっ た‐ 当時の農民たちの悲惨な状況について, 次のような詳しい, 生々 しい報告が見られる‐ 「すべては極めて簡素なものにされた つまり食事は簡単に そっ けなく 効率的に済された 食事は泥 ‐ , ‐ , 炭の仕事に邪魔になるのですばやく行なわれた‐ 早朝4時に仕事が始まり, 4時間後に朝食‐ 大抵は革のよ う に 硬 い そ ばパ ン (Buchwe i ) と バ ンと チ ー ズ‐ さ ら に4 時 間後, き っ かり12時 に, エ ダ豆 z enpf annkuchen や ソラ 豆 の 煮 込 み どんぶ りス ー プ‐ そ れか ら30分 の 休憩‐ 足を 長く 伸 ば して 服 や 木 靴 を枕 にする そ の 後 ‐ ,. 新たに又仕事‐ 4 時 に バ ンと 生 ベー コ ンとハム で コー ヒータイ ム‐ そ れか ら又 日 没ま で 労働‐ 22時 でや っ と 7 ) 仕 事 が終 わる. 最 後 にか じる パ ンはもう どん な 味も しな い.」(. こ んな 風 な 食 事 はま だ 良い方 であ っ た‐ 普 通 はパ ンの み であ っ た. しか しこう い っ た ひ どい 状況も 湿原 ,. 特別委員 フィンドルフの懸命なる改革的仕事によって, 次第に改良されていった. 泥炭が採掘された跡地 に は, ハノーヴァーから持ち込まれた穀物の種, 野菜や果物の苗木が植えられ, 農業ができるよう にされた. 89.
(7) . 大. 木 文 雄. ) や ジ ャ ガイ i なる ほ ど麦 の よう な 穀 物 は こ の 高層 湿 原 で は な か な か 成 育 しな か っ た が, ソ バ (Buchwe zen モ (Kar ) の よう な 穀物 は 次 第 に 収 穫 で きる よう にな っ て き た. ジ ャ ガイ モ を栽 培 する 農 家 に は 金銭 f f l t e n o. の援助も行なわれた. やわらかい大地には道路を作ることは不可能であったために, 盛んに水路が作られた‐ ) が作 ら れた‐ た だ し運 河 を利用 l 泥 炭 を ブ レーメ ンに運 ぶ た め に, 廷 べ220k t ne z mにも 渡る 大 運 河網 (Kana. する場合, 通行料金を支払わなけれ ばならなかったために, 高価な泥炭をブレーメンに運んで売りさばいた としても, 最終的に農民のふところには猫の額ほ どの金しか残らなかっ た. 働けど, 働けど, 楽にならない と いう 状況 は, しか し徐々 にで はあ る が好 転 に 向か っ てい っ たの であ る‐ フィ ン ドル フ は, 悪魔 湿原 の 文 明. 化のために全力を注いだ‐ 彼の業績は偉大であっ た. しかも彼は農民の生活向上のために, ハノーヴァー王 室に何度となくその予算を計上した‐ 彼は 「湿原農民の父」 (Va t r der Moorbauern) と 呼 ばれ, ヴ ォ ル ブ e ス ヴ ェ ー デに, 彼 の オ ベリ ス ク が建立 さ れ, 現在 は毎 年 1 回フィ ン ドルフ祭り が行 な わ れて いる.. W. 悪魔湿原の芸術家コロニーのはじまり これまで我々は悪魔湿原の成立から始まっ て湿原の地質, そして湿原への移民と泥炭の労働について述べ てきた. それはこれからさらに論述していこうとする湿原の芸術家たちの存在を, 重量あるものに, より明 確なものにするために必要だったからである‐ ところでこのように燃料としての泥炭を採掘し, 農業を営みつつ, ほそぼそと生活していた農民の中に, 突如 と して芸 術家 が入り 込 んで きて, 定住 し始 め た こ と は この 地 域 に と っ て はセ ンセー シ ョ ナ ルな こ と であ っ た. しか しそ れ は単 にそ の地 域 に住 む 人々 に と っ ての みセ ンセー シ ョ ナ ルであ っ た わ けで は勿 論な い‐ そ. れは見も知らぬ外国人がやってきて, 住民を驚かしただけではなく, 彼らはそこで事件を起こし, その土地 とその土地に住む人々を急に, しかも無理矢理に, 歴史の桧舞台に押し上 デたようなものであった. 悪魔湿 原 は, 彼 ら芸 術家 たち によ っ て, 単 にそ の地 域 に しか知 ら れて いな か っ た 存在 か ら, ドイ ツ 全土, いや そ れ どこ ろ か ヨーロ ッ パ 全 体へ 知 れ渡る 存 在 へ と高 め ら れて い っ たの である. しか しそ れはた だ有名 にな っ て,. 歴史の桧舞台に登場させられた, という表現だけでは十分ではない. というのもこの時を境にして, これま で思われていたような悪魔湿原に対する否定的なイメージが, 彼ら芸術家によっ て打ち消され, 逆に湿原に 対する肯定的なイメージが彼らによっ て構築されいっ た, ということをここで特に指摘しておかなけれ ばな らな い か らである. i 数 人 の芸 術 家 た ち と は, フリ ッ ツ .マ ッ ケ ン ゼ ン (Fr t z. Mackensen. ), オ ッ トー ・ モー ダー ゾ 1886‐1953. i ン (ot t z overbeck 1869‐1909), ハ ン ス ・ ア t o Modersohn 1865‐1943), フ リ ッ ツ . オ ー ヴ ァ ー ベ ッ ク (Fr l inr i ム . エ ン デ (Hans am Ende 1864‐1918 ), ハ イ ン リ ヒ ・ フ オ ー ゲ ラ ー (He ch Voge er 1872‐1942), パ f 1878‐1954) の こ と ウ ラ ・ ベ ッ カ ー (Paula Becker 1876 1 ), ク ラ ラ ・ ヴ ェ ス トホ フ (C ‐1907 ara Westhof. である‐ i そ し て 彼 ら の 友 と して, 何 度 も ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デ を 訪 れ た 詩 人 ラ イ ナ ー ・ マ リ ア ・ リ ル ケ (Ra ner Mar ia R ) は, そ の 著 『ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デ』 の 中 で 次 の よう に書 い て いる よう に, 彼 ら 若 i l ke 1785‐1926. ) を 見つ け, そ れ を 「愛 す る こ と に取 り か か っ た」 の で l い芸術家たちはその悪魔湿原の中に謎 ( da t s e s Ra ある‐ 「自 己を見 い だそう と してや っ て来 た若 者 た ち の 眼の 前 に いま や こ の 国土 の 持つ 多く の 謎 がよ こ たわ っ , て い た‐ 白樺 の樹, 湿原 の小 屋, 平 た い 荒野, 人間たち, いく つ かの夕 暮 と, そ して, どの二 つ も 互 い に似 通 っ たも の はなく, とり ち がえよう にも 二つ と 同 じ時 間 をふく まな い 日々. そこ でい まや 彼 ら は, こ れ らの 90.
(8) . 悪魔湿原の芸術家たち. 8 ) 謎 を愛 する こ と に取 り か か っ たの だ っ た‐一(. W -1. フ リ ッ ツ ・マ ツ ケ ン ゼ ン 広 大 な悪魔 湿原 を見 下ろ す ヴォ ル プス ヴ ェ ー デ村 に, 初 め てマ ッ ケ ン ゼ ン が訪 れたの は1884年 の こ とであ ) に通う18才 の 若 き 画 家 志望 の 学生 であ り, f l dor っ た. 彼 は デ ュ ッ セ ル ドル フ 美術 大 学 (Dロs er Akademi e s e 大学 で知 り 合 っ た ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デ出 身 の 女 友 達 エミ リ ー ・ シ ュ トル テ (Emi ) に招 待 さ れ て, l l i t e o e St 9月13日, 夏 休み を利 用 して初 め て この湿原 を訪 れたの で あ っ た‐ 彼 は シ ュ トルテ 家 に宿 泊 し, そ こか ら早. 速彼の母と三人の弟たちに宛てた手紙の中でこの地方のす ばらしさに感激して次のように書く‐ VVorpswede - 1884 , 14- 9. 親愛なる母上と弟たちへ ! 昨 晩9 時 僕 は 無 事 にここ に到着 しま した‐ 僕 は心 か ら 歓迎さ れま した. シ ュ トル テ お じさ ん とお ばさ ん, そ して 家 族 の 皆 さ ん は と て も 好ま しく, 親切 で す‐ こ こ ヴ ォ ル プス ヴェ ー デは と て も 感 じの い い ( ) hubsch. 所です. 遠方ぐるりと絵画にとっ て最高の原野が広がっ ているのが見えます‐ 藁葺き屋根の感じのいい古い 家 を 沢 山見 る こ と ができ ま す. ブ レーメ ンも見 てきま した. あ な た が たの 誠 実な フリ ッ ツ か らの 挨拶 とま だ面 識 の な いエ ミリ ー ・ シ ュ トルテ か らの 心 か らの 挨拶 をも { 9 ) っ て‐一. さ ら に彼 が 晩年 「ヴ ェ ンメ 新 聞」 (Wumme-Ze i ) の 記 事 に 「世 界村 ヴ ォ ル プス ヴ ェ t ung vom 4.11‐1938 ー デ」 (das We l ) と 題 して, 初 め て悪魔 湿原 を訪 れた と き, そ の湿原 の魔 力 的な美 しさ に tdorf Wor pswede. 感動 した こ とを 回想 して, 次 のよう に書 い ている の を, 我々 は見 い だす こ と がで きる. 「そ れは絹 のよう な色 の青 空 と銀色 にほの か に輝く 浮き 雲 のあ る 日 だ た 僕 ら がリ リ ー エ ンタ ー ル村 の近 っ . く にや っ てく る と, 色 彩 の魔 法 はま すま す す ばら しい も の にな っ た. 道 が ヴ ュ ンメ 川 を越 え た とき 水 に空 , がき ら き ら反 射 して いる 姿 が魔 法 の よう であ っ た の で 僕 は驚 嘆 のあま り 動く こ と ができ な か っ た 僕 は こ , 。. れまで決してこれに類似するものを見たことがなかっ た‐ (中略) 白樺の葉の間隙が大きいので景色を自由 に見る こ と がで き た‐ 泥 炭 が何層 にも 積 み 重 な っ た黒 い 湿原, 影 っ ている と こ ろ がと て も深 いよう に思 わ れ る 輝く 水 路, 湿原 耕 作 地 で働 い ている 人たち 赤 い ブラ ウス を 着 て 風 に ひら ひら揺 れ動く 白いス カ ー フの , , 巻 きつ い た 帽子 を かぶ っ ている 女 たち, が現 わ れる‐ そ してつ い に僕 の前 に ヴ ァ イ ヤー ベ ルク が……. この日の夕暮れの空は, 言葉の最も真実な意味において, その不可思議を表出 していた 僕は丘に登った ‐ ‐ その時ヴォ ルプスヴェー デは僕に最高のすばらしさを啓示した‐ 沈みゆく太陽の光を色々に上に重なり合っ た雲 が抱 き 取 っ て いる 姿 を こ れま で見 た こ と があ っ た か どう か僕 は知 らな い 暗 い紫 色 赤銅 色 金色 , ‐ , , ,. 銀色がある‐ 光り輝く大空は緑色 に, しかし銀色の雲のところでは絹のような青色だ 燕麦の束 赤ワイン ‐ , 色のソバの切り株, 掘り返された大地の黒い土くれのある暗い耕地 そして黒い帆の小舟の航跡を残す 形 , , 態豊かな, きらめく水路が, そのような荘厳な夕暮れの下に横たわっていた 牧草地には白黒の乳牛が 地 ‐ , 平線のかなたには, 都市の豊かな輪郭が見える‐」 ⑩ マッケンゼンは悪魔湿原を前にして, 今までに見たこともないような不思議な感覚を体験する それは今 . 学生 生 活 をお く っ て いる 彼 の 大都 市 デ ュ ッ セ ル ドル フで は体 験する こ と の でき な い衝 撃 的なも の であ っ た ‐. 圧倒的な自然‐ 「絹のような青空」 , 水の反射する魔法のような空, 不可思議を表出する夕暮れの空, 白樺の 91.
(9) . 大 木 文 雄. 木, 泥 炭 の黒 い湿原 と い っ た目の前 に開 ける広 大 な自然 が, マ ッ ケ ン ゼ ンを心 の底 か ら感動 させ たの である. マ ッ ケ ンゼ ン は, リ ルケ がいみ じく も 表現 したよう に 「この 土 地 が持つ 多く の謎」 に完 全 に魅惑 さ れて しま つ.. しかも マ ッ ケ ン ゼ ンの 驚く 自然 は, ア ル プス に見 られる よう な切 り た っ た 峻厳 な 山々 でも な け れ ば, 美 し. い森の中を流れる渓谷の景色でもない‐ そうではなくこれまで誰にも注目されず, 旅人にはあくびをもって 通過され, 見過ごされてきた, 退屈極まりない土地, しかも土地の人々からは 「実の結ばない」 という意味 で言われ, 忌み嫌われ続けてきた, 無意味な 「悪魔湿原」 の景色なのである. これまではどんな人たちから も無視されてきた土地, いやそれ どころ か怖がられさえしてきた土地に, マッケンゼンが初めて惹付けられ る-. 大都 会 デ ュ ッ セ ッ ル ドルフで は 体験 した こ と の な い, 湿原 の 謎, ある い は湿原 の 美 の秘 密 を全 身 で感 じ取 っ た とき, 若 いマ ッ ケ ンゼ ンは明確 に自 らの 中 に芸術家 と しての 自 分を認 知 する. こ こで いう ところ の 「謎」 あ る い は 「秘密」 と は, た とえ ばそ の多く の 中の 幾つ かを例 と して 挙 げる な ら ば, 彼 に と っ て は 「不 可思 議」. (Wund ) という秘密を表出する 「夕暮れの空」 ということになろう‐ 太陽の光が広大な湿原の彼方に浮 e r ), ), 赤銅 色 (Kupf かぶ夕 暮 れの雲 海 に射 し込 んで, さま ざま な色 が現 出す る‐ 暗い紫色 (Dunke l i l t t t v e er r o o 金色 (Go ), 銀色 (S ) 等々. そ れはま さ に彼 に と っ て はこ れま で 体 験 した こ と の な い 「色 彩 の魔 法」 i l l d ber ) であ っ た. 彼 はそ の魔 法 を 身体 で感 じ取る こ と ができ たと 同 時 に, その 魔 法 を 自 らの芸 術 (Far benzaube r. のライフワークとして表現していくならば, これまでにどこにも存在しなかった新しい芸術作品を創造して いく こ と がで きる の で はな い か, と いう 芸術 家 と しての 自 らの 未 来像 を直感 する こ と ができ たの であ っ た. そ れはま さ にリ ルケ の いう よう に 「謎 を愛 する こと に取り か かる」 と いう こ とを 意 味 した.. W-2. 「湿原の礼拝」 制作 しか しそ の 数日後, マ ッ ケ ン ゼ ン はさま ざま な 絵 画の モ チー フ を求め て悪 魔 湿原周 辺 を散策 中, こ れま で ) と いう 村 Sch l f よ り さ ら に強烈 な 印象 を与 え ら れる 場 面 に偶 然 に遭 遇する‐ そ れは シ ュ ルス ドルフ ( uBdor. のところで行なわれていた日曜の野外礼拝であった‐ 黒い礼服を着た農家の人々が椅子を野外にしつらえ, 座って静かに伝道者の説教を聴いている‐ 湿原が後方の彼方まで広がり, 高い青い空と雲がその湿原の上に 伸び広がる. 藁葺き屋根の農家が彼らの背後に立ち, やせて, ひょろりと伸びた白樺の木々 が点在する. 湿原の自然風景の中に, 泥炭掘りで主に生計を立てている農家の人たちの野外礼拝の光景が取り込まれる と いう, この二つ の 素材 を 組み 合わせ た構成 は, こ れま で 誰 にも描 かれた こ と のな い 構成 であ り‐ め っ た に 見 ら れな い 光景 で, シ ョ ッ キ ン グなも の であ っ たため に, マ ッ ケ ン ゼン はそ のモ チー フ を是非 とも 絵 に描 い. てみよう という気持ちになっ た‐ それはデュッセル ドルフ美術大学の無味乾燥な授業の中では, 決して芽生 え て来 ない÷ 熱い芸 術 家 意 識であ っ た. そ れはリ ルケ も絶 賛 し, ヴォ ル プス ヴ ェ ー デの芸術 家 たち がこ ぞ っ ) の 次の よう な 文 章 にも あ て はま る て 読 ん だ デ ンマーク の詩 人ヤ コ ブセ ン oens Peter jacobsen 1847‐1885 事態 であ っ た‐. 「ありふれた言葉で 日常世界の中に苦もなく 吐き捨てるわけにはいかないこんな秘密が, 人を芸術家にす , る の です よ!. 1 1 ) しかも 彼 ら には, 言葉 でそ れを言 いあ らわす こ と ができ ない.」{. マ ッ ケ ン ゼ ンは詩 人 で は な い. 画家 である‐ だ か ら彼 はこ の 時の 「秘密」 を 「言葉 で」 で は なく, 絵で 「言 いあ らわ」 そう とす る‐ こ の日 曜 日, だ か ら彼 は そのモ チー フ をス ケ ッ チする ため に, 夕 方 ま で その 場 に居 合わ せ た‐ そ して そ の 時の 体 験を 同 日夜 彼 の友モ ー ダー ゾー ンに次 の よう に 報告 している‐ 92.
(10) . 悪魔湿原の芸術家たち. 「確 か にそ のよう な 人々 に遭 える という こ と はす ば ら しい こ と だ とこ ろ で 君 伝 道 の ため の 祝 日 自 ‐ , , , 由な 空 の 下 で, こ のよう な, と て も 敬 度 な僕 の 心 を惹 付 けて 放 さ な い 人々 の こ と を 考え て み た らい い 今朝 ‐ ,. 僕らは車で近くの村まで行った‐ そして僕は夕方の6時ま で4人の伝道者の説教を聴いてしまった つまり . こ れ らの説 教 が行 な わ れている 間ず っ と 僕 は敬度 な 人たち の こ と をス ケ ッ チ してい た わ けだ 僕 はや がて , . こ のス ケ ッ チ を油 絵 にする こ と がで きる と思 う と こ の上 なく 幸 せ だ 」 ⑩ . かく してマ ッ ケ ンゼ ンに と っ て, こ の悪 魔 湿原 と そこ に住 む農 民 たち は 彼 の芸 術 性 を表 現する ため の 最 , も 重 要 な エ レメ ン ト, いや そ れ どころ か彼 の 全 経験 を統 一す る 理 念そ のも の にな っ ていく 学 生 時代 毎年 ‐ ,. 休暇になるたびに悪魔湿原を訪ねた彼であったが,デュッセル 村レフ美術大学を好成績で卒業するやいなや , 同大学の非常勤講師の職をも 断って, 翌年188 9年, 大学時代の友モーダー ゾーンと二人でヴォルプス ヴェー デに移り住んでしまう‐悪魔湿原とそこに住む農民たちのさま ざまなモチーフを絵画の中に表現するため に ‐ そ し て い よ い よ マ ッ ケ ン ゼ ン は 以 前 か ら 何 枚 に も わ た っ て ス ケ ッ チ し て き て い た あ の 「湿 原 の 礼 拝 」 (Got t esdi enstim. ) を, 油絵に仕上げる作業 に取りかかる‐ その製作には3年を費やした. 彼は大き Mo o r. な ア トリ エ を も っ て い なか っ たの で そ の 巨大 なカ ン ヴ ァ ス は 墓地 の壁 に立 て か けら れた 野 外 での 製作 で , .. ある. 雨や嵐がくると損傷からカンバスを守るために彼は奔走する. 夜中でも神経が休まらない日々が続い た‐ こ の 間の 事情 をリ ルケ は次 のよう に簡潔 に叙述 して いる . 「巨大 なカ ン ヴ ァ ス がたい てい は戸 外 に据 え ら れてい た が ひ どく 天 候 の悪 い 冬 だ けは 農家 のた た きの , , 間に移 さ れ た‐ ア トリ エ の こ とな どは念 頭 にも 浮か ばな か っ た 昼も夜 も その 絵 は教 会 の 囲壁 にも たせ か ‐ , けら れて立 っ てい た‐ 朝 早く, 涼 しい朝 の 日 陰 に立 っ て 彼 は 絵筆 を 運 ん だ や がて 嵐 と とも に秋 が や っ て ‐ , き た‐ 描 く こ と は凍 える こ と だ っ た‐ 描く こ と は ヤ コ ブが主 の天 使 と戦 っ たよ う に 風 と戦う こ と だ っ た , , .. 描くことは, 夜中にとび起きて, 嵐がいまにもそれを覆しそうにする戸外で 何時間ものあいだ絵のそばに , 立 っ て いる こ と だ っ た. 描く こと はこ う いう こ と だっ た こ れま で にこ んな 風 に して 描 い た 人 があ っ た だろ ‐ 1 3 P う か ?」 (. やがてその辛い製作過程を耳にしたベルリン美術大学は, 作品製作のために彼にアトリエを提供する よう ‐ やく完成したのは18 95年‐ 湿原を初めて訪ねてあの場面に感激して以来, 足掛け12年の大作であった .. V. 「ヴオルプスヴエーデ芸術家の会」 成立 1895年 は, 悪魔 湿原 の 画家 たち に と っ て極 め て意 味深 い年 であ る と いう のも こ の年 に 悪 魔 湿原 に魅惑 ‐ , さ れ て 移 住 し て き た 画 家 た ち に よ っ て 「ヴ ォ ル プ ス ヴ ェ ー デ 芸 術 家 の 会 (Wor sweder Knnstler ‐ 」 , p ) が結 成 れ た さ か ら であ る ver emgung . マ ッ ケ ン ゼ ン の熱 い 誘 い で 湿原 を 訪 れ た モ ー ダー ゾー ンと ア ム .. エンデ, 前者は同じ大学の友で, 後者はミュンヘン美術大学の学生時代マッケンゼンと知り合い 二人とも , マ ッ ケ ンゼ ンとと も に ヴォ ル プス ヴ ェ ー デに移 住 して い た さ らに少 し遅 れ て デ ュ ッ セ ル ドルフ美術 大学 の ‐ 学生 であ っ たオ ー ヴ ァ ー ベ ッ ク もま た 先輩 と して大 学 を訪 問 してき た マ ッ ケ ンゼ ンたち に出 会 い 湿原 で , ,. の生活の報告を受け, 多大な影響を与えられ, 大学を卒業後ヴォルプスヴェー デに移住した そして同年そ . の 大学 を卒 業 した フォ ー ゲラー も, オー ヴァ ー ベ ッ ク の強 い誘 い で当 地 に移住 したの である ‐. そんなわけでアム・エンデ以外の4人は, 同じ美術大学の先輩 後輩の間柄であっ た この5人の芸術家 , ‐ たち によ っ て 「ヴ ォ ル ブス ヴ ェ ー デ芸 術 家 の会」 は結成 さ れ 湿原 の 中で 描 か れた さま ざま な作 品 が初 め て , , 93.
(11) . 大 木 文 雄. ) の で あ る‐ な る ほ l l ) で展 示 さ れた ( t t l l ha es e ausg こ の 会 の名 前 で1895年, ブ レーメ ン の 美 術 館 (Kuns t e どブレーメ ンで は酷評 さ れた が, か え っ てその 酷 評 が幸 い した の か, 数 ヶ 月 後, ミ ュ ンヘ ン芸 術家協 会 か ら ) に彼 らの 作 品 を 展 示 したい という 招 待 を受 ける. そ して マ ッ ケ ンゼ ンの l t ミ ュ ンヘ ンの 披 璃宮 (G1 s spa a a ) を 与 え ら れる こ i l l l dmeda e 例 の 作 品 「湿 原 の 礼 拝」 が, ミ ュ ン ヘ ン 芸 術 家 協 会 か ら名 誉 あ る 「金 賞」 (Go S t と に なる. さ ら にモ ー ダー ゾー ンの作 品 「悪 魔 湿 原 の 嵐J ( urm im Teufelsmoor) は, バ イ エ ル ン 州 に よ ) に買 い取 ら れる. しかもや がてベ ルリ ン市 から は, マ ッ ケ ンゼ ンの 「湿原 の 礼拝」 i hek t っ て 絵画 館 (P nako ) も授 与 さ れる という 嬉 しいお ま けま でつ く こ と になる‐ i に対 して3000マ ルク の栄 誉賞 (Ehr e s enpr かく して いま ま で 全く 知 ら れて い な か っ た湿原 の 画家 たち は, 一躍 ドイ ツ, いや そ れ どころ かヨー ロ ッ パ. 95年はだから湿原の画家たちにとって決定的な意味をもつ年で 全土に名を轟かすことになっ たのである‐ 18 ある‐ この年をたとえば, 一般的な人間の生涯に当て骸めて考えてみるならば, 結婚式というものに警えら れるかもしれない‐ 人間の生は結婚式によって絶頂期 を迎える. 親戚, 友人, あるいは彼らを取り囲む人た ちによって, 祝福され, 名前を知られ, 社会の仲間入りをすることを許される からである. やがて子供たち が出来, その絶頂期がしばらく維持されるが, 次第に人間は衰え, いずれは死を迎える. 湿原の画家たちの グルー プの 生もま たこ のよう なも の であ っ た.. 9 従って絶頂期 は18 5年以降しばらく続く‐ 彼らの作品が名誉ある 受賞をかち得たことによっ て, 彼らの湿 原での生活, 作家活動が世間に広く知れ渡ることになる‐ それと同時に彼らのもとに, 若い芸術家の卵たち が彼 らの 生 のあ り よう を学 ぼう と して や っ てくる‐ 女 性の パウ ラ ・ ベ ッ カ ー とク ラ ラ ・ ウ ェ ス トホ フ は, マ ) に, 女 性 的な 華 や い l i l t erko on e ッ ケ ン ゼ ンの と ころ で学 び始 め る‐ 彼 女 たち はこ の 芸術 家 コロ ニー (Kons だ魅力 を付 け加 える こ と になる‐ や がて パ ウラ はモ ー ダー ゾー ンと結 婚 し, ク ラ ラ は詩 人リ ルケ と結 婚 して い く‐. ) にいろ いろ な芸 術 家 たち を招 待 し, f 一方 フ ォ ー ゲラ ー は自 らの家 「バ ルケ ンホー フ」(白樺 の 家 Barkenho. l und r 音楽会や詩の朗読会を開催する‐ たとえば詩人ではハウ プトマン兄弟 (Ca. Gerhart Hauptmann), ム. ), ピ ー ア バ ウ ム (ot t l ), シ ッ ケ レ (Rene schi o l ), デ ー メ ル (Ri cke e ー テ ル (Ri chard Dehme chard Muther ), l l f ), ハ イ メ ル (A1 t er Heyme f A1exander Schr6der red wa ius Bi Jul erbaum), シ ュ レ ー ダ ー (Rudol. ベト. ), i ), 音楽家 で は ピア ニス トのペ トリ (Egon petr ゲ(Hans Bethge), 演 出家 で は ライ ンハ ル ト(Max Reinhardt ), そ し f ), バ イ オ リ ニ ス ト の ク ー レ ン カ ン プ フ (Georg Kul enkampf グ リ ュ ー ン ベ ル ク (Loui s T‐ Grunberg. て最も重要な客, 詩人リルケ. 勿論そこに湿原の画家たちが招待されないことはない. このようにして週末 になる とバ ルケ ンホー フ は祝祭 的サ ロ ンの 場 に変 貌する‐ ま さ に湿原 の芸 術 家 コ ロ ニー は黄 金期 を迎 える こ と になる.. 班. 「自然に帰れ!」 Zuruck zur Natur!) と ) の 「自 然 に帰 れ!」 ( 12‐1778 と こ ろ で あ の ル ソ ー Dean‐Jacques Rousseau 17 いう ス ロー ガンが, こ の湿原 の芸術 家 コ ロニ ー の 興 隆を キ ッ カ ケ の 一つ に して, お よ そ百年 後 の こ の 時 再 び. 流行し始める, という事実は興味深い事柄である. あの当時, つまり百年前の18世紀末, 「自然に帰れ!」 と いう ス ロ ー ガ ン は, ゲー テ の 手 紙 小 説 『若 き ヴ ェ ル テ ル の悩 み』 (Di e Leiden desjungen Werthers) と ) 等 の 中で疾 風怒 溝 (Sturm und i l i ) ある い は 「5月 の 歌」 (Ma ed か彼 の 叙 情詩 「ガニ ュ メ ー ト」 (Ganymed. ) という形をとっ て文学化され, 流行したが, 今度は文明化された大都会の無味乾燥な生活, あるい Dr ang は隣人関係, 共同体関係が崩 壊してしまった大都会の生活, そういった生活を逃れて, 悪魔湿原という自然 の中で生活する画家たちの絵画作品の中に, その流行の火種が隠されていたのであった‐ 火種が燃え上がる 94.
(12) . 悪魔湿原の芸術家たち. の にそう 時 間は か からな か っ た‐ ベ ルリ ンやハ ン ブルク と い っ た北 ドイ ツ で ギム ナ ジ ウム や 大 学 の 学 生 た ,. ちによって, 高度に, 産業化した都市の生活, あるいは伝統に縛られた規律正 しい生活を逃れて 野山を渡 , り歩く と いう ワ ン ダー フォ ー ゲル 運動 (Wande l‐Bewegung ) が一 世 を風摩 した か らであ る‐ た と え ば rvog e この 運動 につ い て 上 山 安敏 はそ の 著 『世紀 末 ドイ ツの 若 者』 の 中 で 次のよう に書 き 始 め ている ‐. 「大ベルリンの郊外から一団の若者たちが 古い街並みから深い森の中へ 湖や川に沿 て農家のある村 っ , , 々 へ, 古 い 民謡 を歌 いな が ら歩く 風景 が見 ら れた‐ ち ょ う ど19世紀 か ら20世 紀 に変 わろう と した時期 である ‐ こ れも19世 紀 の 世紀 末 の 現 象 の一つ と い える だろう 彼 らは ワ ン ダー フ ォ ー ゲル (渡り 鳥) と自称したが .. , その名前が決まる前 に, その風景はすでに周辺の町や村で見られるよう になっ た‐ あっ という間に若者の風 1 4 俗 現 象 と 考 え ら れる ま で ドイ ツの 北 部 で広 がり を見 せ たの であ る 」{ -. ワ ン ダー フ ォ ー ゲル, あ る い は 「自然 に帰 れ!」 と いう 思 想 が 「若 者 の 風 俗現 象」 にま で広 が っ た の には , , ま さ に北 ドイ ツ の悪 魔 湿原 に居住 した芸 術 家 コ ロ ニー の存在 が大 き か っ た と いう の も ワ ン ダー フ ォ ー ゲル . が生ま れ たの は, ホ フマ ン がベ ルリ ンの郊 外 で初 め て生徒 たち と ワ ン デル ンを 敢行 した1896年 であ り 芸 術 , 家 コ ロ ニ ー の 全盛 期 は1895年 で あ る か ら だ‐ しか も正 式 に ワ ン ダー フ ォ ー ゲ ル が 団 体 (Ver i ) とし i e n gung て設 立 さ れ たの は1901年 であ っ た‐. 孤. 悪魔湿原対芸術家 さ て こ れま で 我々 は湿 原 の芸 術 家 コロ ニー が どのよう に して 成 立 して き た か と いう こ と を 特 にマ ッ ケ ン ,. ゼンを代 表者として, 通時的に見てきた‐ それは芸術家コロニーの全体を鳥廠的に考察したかっ たためであ る‐ しかしそれだけでは悪魔湿原の秘密を描いた芸術家たちの姿を解明するには不十分である マッケンゼ ‐ ン以外の芸術家たちの悪魔湿原に対するありようがまだ述べられていないからである 従って それぞれの ‐ , 芸術家が微妙に違っ た立場から悪魔湿原の謎を追い求めたことについて明らかにしていきたいと思う 論述 ‐ さ れる 画 家 は, モー ダー ゾー ン, オー ヴ ァ ー ベ ッ ク アム ・ エ ン デ そ してパ ウラ の 4 人 である 彼 ら の 湿 , , .. 原を見る眼は, それぞれ個性的である. 個性的であればあるほど湿原の姿は多彩 になり 多様になる まさ , ‐ に湿原は彼らによっ て多様なる宇宙に変貌させられる‐ 皿-1. 湿原の文法:オッ トー・モーダーゾーン 「こ の上 なく 力 強 いも の 光り 輝 く も の 欝蒼 たる も も の ま た こ の 上 なく や さ しい も の, な ごや かなも , , , の, 繊細 な もも の, 一 - - 陰欝な も の 深 いも の 飽 満 した も のも 明る いも の 朗 ら かな も の も さ ざめ , , , , , きも, ざわめ きも, 金や 銀 も ビロ ー ドや絹 も す べ て が す べ て が ぼく の心 にか か っ て いる 鰯 , , , ‐一 こ の よう に 書 き な が ら す べ て を 内 包 して いる 不 思 議 な ( ) 悪 魔 湿 原 を 観 察 した の は モ ー ダ l ha f t t ra se , , ー ゾー ン であ っ た‐ Das Kra こ 上 f ( な i の く 力 t 強 も t い ) の d z ( こ s e なく の上 t g や さ しい も の) と t s ar e s e , a. いう風に最上級で言い表されるものを彼はまず観ようとする‐ するとその最上級に連なるよう に比較 妃級, 原 級が観察される‐ そしてさらにそれぞれの階級の間により細かな階級が現われ出る かくして最上階から最 ‐ 下段に至るまでの長い階段が成立する. しかしそれだけで彼の観察は終わらない なぜならば最上級には必 ‐ ずそれと反対の最上級が準備されるからである‐ たとえばda s Kraftigste に 対 立 す る 最 上 級 は das zarteste というように‐ その対立する最上級にも比較級 原級が. そして長い階級階段がこれまた成立する そのよ , ‐ 95.
(13) . 大 木 文 雄. うにして対立する二つの最上級の間には, それぞれ最上階から下りて最下段に至り, その最下段でお互いに 手を結ぶ構造が観察されるようになる‐ それは形態の有機的連鎖の観察なのだが, 絵画にとって重要なのは形態とともに色彩である. 従っ て自ず とモーダーゾーンは形態と同じように, 色彩の有機的連鎖をも解明しようとする. リルケがいみじくも指摘 しているように, 悪魔湿原にある, 白樺の樹々にはそのような 「不可思議な法則によって配列された世界の ありとあらゆる白」 が含まれていたし, あるいは 「月光をうけて光り輝いている百合の白があり, 人間の眼 のなかにあるような影をおびた白があるかと思う と, 多くの書薮の花 びらにみられる赤味をおびた, いわば 興 奮 した白」 も ある. こ のよう に して モー ダー ゾー ンは, 悪魔 湿原 の 中 にある 「不 可思 議な 法則 によ っ て配 l 列 さ れた 世 界」 (We t ch geheimnisvollen ,na. Gesetzen. ) を 観る べ く, 「彼 は 来る 日 も 来る 日 も 自然 t ordne ge. の 中へ 出か けて い っ て は, その 偉 大 な 言葉や, ささや かな, ほ んの さ さや か な言 葉ま で を, 厳密 に, 良心 的 Qの で あ た 従 っ て 彼 の 絵画 制 作 は リ ルケ が言う に, た だ一つ の綴 りす ら ゆる がせ ず に, 書 き 写 した」 Q っ . , Q の 「 ) を発見する こ とであ っ た. i k t よう に, 悪魔 湿原 の秘 密 の美 の 中 に, 文 法」 (Gramma. Wー2. 湿原の大空:フリッツ・オー ヴァーベック 「すべ て の もの 些細 なも のさ え も 高 貴 に し 言葉 で は言 い 尽せ な い色 彩 の 魅力 を付 与 する, こ の よう , , ,. な大空を我々が持っていなかったら, 我々の藁葺き屋根, 白樺の道, 湿原の水路は何の効果があろう. 結局, 大 空 があ っ て初 め て, ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デを そ れがある ところ のも の に している の だ‐ 昨日 の夕 方 僕 は再度 そ の こ と に気 づ い た. 僕 は家 の 庭 に立 っ て い た‐ 僕 のま わり に は煉瓦 が積 み重 ねら れ, 僕 の右側 には新 しく. 切り出された縦材製の板でできた垣根があった. その隣に穴があって, その中で石灰 が消和されていた. し か′ し大 空 に は, 光り輝 く 青 の エー テ ルの 中 で, 高 貴な 壮 麗 さ の 中で荘 厳 に, た っ た 一つ の大き な 雲 が沸 き立 っ てい た.」. ㈱. こ の夕 方の 湿原 の中 で, オ ー ヴ ァ ーベ ッ ク に対 して 最 も 魅力 を 与 えて いる も の は, す ばら しい, 荘 厳な 雲. の形象である. 広大な地平線を有する平らな悪魔湿原にとって, 視界の半分, いやそれ どころかそれ以上の 空 間 が, 大 空 に よ っ て 占め ら れて いる. 従 っ て, オ ー ヴ ァ ー ベ ッ ク の 絵 画 の 中心 と な る も の は, 常 に大 空 ) で あ っ た‐ だ か ら1895年 以 後 有 名 に な り, i l l keng de ), しかも大空 に沸き立つ 雲 の 形 象 (Wo (Himme l eb 世界 中の 人々 から この土 地 が どのよう な土 地 である の か知り た がら れてい た 時, オー ヴ ァ ー ベ ッ ク は悪魔 湿. 原について 『万人のための芸術』. ) ur A I 1 unst f e. 誌の中で次のように記述したのだっ たが, 悪魔湿原を. 「 根底 氏 にお い て支 えて いる もの は, とり わ け彼 に と っ て 大空」 に他 な らな か っ た‐. 「かすかな憂愁の息吹が風景の上に一面にひろがっ ている‐ 広い湿原と湿った草原が真剣に黙々 として村 ・に, ヴァイエルベ をとりまいており, 村はと見ると, 未知の恐怖に対する避難所を求めようとするかのよう ルクと呼ばれる或る古い砂丘のけわしい斜面により集まっている‐ 雑然と不規則にいり乱れて散在する家々 や小屋な どは, 重くのしかかるような, 一面に苔のはえた藁葺き屋根と節くれだった樫の樹々に守られてい て, こ れらの高く 突 き でた 梢 にあ っ て は, どんな 嵐も 気 勢 をそ がれて しまう‐ …… こ の物 寂 しい高 み か ら は,. 遥かに湿原や荒野や田畑や草原 をこえて, この地方一帯を見はるかすことができる. その木陰に農夫たちの つましい家屋敷をかくしている樫の樹に囲まれた地所が, あちらこちらで広大な平野の単調を破っている. あまたの水路や蛇のように曲がりくねったハンメ河の水鏡がきらきらと光り, その上を黒い帆をあげた船が 物静かに神秘的に蛇行しながら, 陸地をよぎっていく. そしてその上には, 大空が張りめぐらされている, ヴ ォ ル プス ヴ ェ ー デの 大 空 が… …」 ⑩ 96.
(14) . 悪魔湿原の芸術家たち. 皿-3. 湿原の陽光:ハンス・アム・エン デ アム ・ エ ン デの 絵 画 は 明る い. 他 の画家 たち の 絵 画 が, メ ラ ンコリ ー 的であ っ たり, 極端 に情 熱 的 であ っ た りする の と対 照 的 である. ヴ ォ ル ト マ ンは そ れを 次 のよう に表現する‐ , 「たと ヘ最 も 暗 い 日 であ っ ても アム ・ エ ン デ は太 陽の光 を 誘 い 出す こ と ができる かのよう に思 わ れる , ‐ 彼 の 冬の 湿原 風 景 でさ えも, 北 ドイ ツ の 風土 の 荒々 しい 厳 しさ をめ っ た に再 現 しない. 彼 の 絵画 構成 が よ ,. く計画された, 有機的全体の印象を伝えてくれるにもかかわらず, 彼の色彩感覚は無意識的 ( )の t s a n pon よう に思 わ れる. 後 にな っ て, ある 新 聞の 論 説の 中で, カ ー ル・ エー ミ ル ・ウ プホ フ が ハ ンス ・ アム ‐エ , ン デは “ま だ損 な わ れて いな い 世 界“ ( l ) を描 い ている, と書 い た.」 幻 i l t e We e ne noch hei アム ・ エ ン デは, そ れ故悪魔 湿原 の 中 に, 都 会 では失 わ れて しま っ た 明る い自 然 を追 い 求め る‐ 明る い 自 然 と は, 別 な 言 い 方 を す れ ば 「陽 光的 な も の」 ( ) と いう こ と に でも なろう. 興 味深 い こ と に, das sonn i e g しか しそ れ はアム ・ エ ン デの性 格的な も の か ら来 て いる こ と が推測 さ れる‐という のも 彼 は 友達 み んな か ら , 「 」[ ・の 暖 か い, 不 平 を 言 わ な い」 (wa ) 人 と思 わ れ, 慕 わ れて い た か ら であ る‐ しか も i i rmher r eden z g ,zuf. 彼 は 「陽 気 な 質 で な い 人 たち」 (wen i i ch ger fr6hl. veranlagte. ) で さ え 快 活 に さ せ る こ と が で きる Mens chen. 能力 を 持ち 備 え て い た. た とへ ば彼 の 女友 達 パ ウラ ・ ベ ッ カ ー は日 記の 中で アム ・ エ ン デの家 を訪 ね た 時 ,. に感じた彼の心の暖かな性格を次のように書いている‐ 「私 はあ る夕 方 ア ム ・エ ン デ家 を 訪 ねた 彼 は暖 かな ぬく い 春 の 雨や 春 の 日差 しの よう に私 の 心情に染 . ,. み込んできました‐ 彼ら夫妻の間にある愛の優しさが, 濃い蓄薮色の光で, 彼らの家庭をくまなく照ら しだ して いる‐ そ して こう い っ た 雰 囲気 を 呼吸する こと が許さ れる 人は 誰 でも 優 しく 温和 になる にち がい な , ,. P い‐ 彼は厳しい, 清い形式美に対する感覚を備えた温和な芸術家精神の持ち主だ‐一吃 W-4. 湿原の聖なるもの:バウラ・ベッカー 「美しい褐色の湿原 見事な褐色 !黒 い 鏡 アス フ ァ ル トのよう な黒 の水 路 黒 っ ぽい 帆船 の浮 かぶハ ン , , ‐ メj=」 ◎. このよう に 日記 を したため な が ら ( 24 ), パ ウラ は悪魔 湿 原 に初 め て 足 を 踏 み 入 れる. ベ ルリ ン .7 . 1897. 美術学校の秋学期が始まる前の数日間の滞在である‐ 夏の湿原‐ ゲーテ詩集を片手に 「信じられないほど , 「 の緑色をしたハンメ牧草地を通って一 湿原の中を歩く 彼女は感激し 酔いしれる ‐ , . 完全な青色をした運 , 河」 を写 生 する. マ ッ ケ ン ゼ ン が金 賞 を 獲得 し モ ー ダー ゾー ンも す ば ら しい評 価 を得 一 躍有名 に な っ て , ,. いた芸術家コロニーに一度は行っ てみたい, 湿原の風景をこの目で見てみたい という願いが適っ たのであ , る‐ 2 年 前 ブ レーメ ン美 術館 で見 たモ ー ダー ゾー ンの いく つ か の風 景 画 を想 い だ しな がら さ ら に 日記 に書 ,. き付 ける. 「あ の 風 景 画 は, な かな か 深 い 深 い 情趣 を 持 っ て い た じり じり と照 りつ ける 秋 の 太 陽 と か秘 , ‐ 密 め い た 甘 い夕 暮 れ. 私 は彼 と知 り 合い にな り た い. あ の モ ー ダー ゾンと 」 残 念 な がら 滞 在期 間 中 に そ れ .. は実現しなかっ た‐ しかしこの夏の湿原は, 彼女に有り余るほどの歓喜を提供した 連日朝早くから スケ ‐ , ) を 持 っ て 外 に 出, 夕 暮 れ, 星 の ま た たく 空 の 下 で 自 然 の 中 に 没 入 する ス ケ St f f l ッ チ ブ ッ ク と画 架 ( i a e e ‐ ッ チ ブ ッ ク は 瞬 間 の 印 象 あ る い は 人 間 や 動 物 の 動 作 の 習 作 で い っ ぱ い に な る‐ 「私 の 胸 は 踊 っ た」 (Mi r ㈱と彼 女 は 日 記 に書く かく して こ の 初 め て の 悪 魔 湿 原 訪 は hnpf ) ( 1 t 8 8 9 7 ) e das He 生 r 問 , 彼女の 涯を z ‐ . 決定 した. 翌年1898年 9月 か ら, パ ウ ラ は芸術 家 コロ ニ ー に住 み始 める‐ 彼 女 は再 び全精 神 を使 っ て 自然 に 97.
(15) . 大. 木 文 雄. 没頭する. 彼女は植物, 動物, 人間, あらゆる生あるものたちが, 湿原の中でそれぞれ自由に成長し, 生活 しているのを見る. そしてそれらが, たえず活動しながら, 成長したり, 死んだり, 新たな生命が誕生した りする, その姿の中に生命の汲み尽くし得ない充溢, 至福なる力を感じ, それをなんとかしてカンヴァスに ) や がて 彼 女 は 日 )」 鍵 ( 18 描 こう とす る‐ そ して 歓 喜 して 叫ぶ. 「私 は生 き て いる ! ( be i e chl . 10 . 1898. 記に次のようなことを書く‐ 「私はかすかな生命の営み 震え 羽ばたき 震えながら休息する姿 息をこらすようなものを体験する . , , , , )㈱ 19 も し他 日油 絵 にする こ と がで きる な ら, そう いう こ とも 描く だ ろう.」 ( .1 . 1899. 湿原の中にう ごめく小さな生物, 鋭い感覚の持ち主でなければ感じ取ることができない生あるもののかす か な 動 き, 呼 吸, 繊 細 な ニ ュ ア ンス, こう い っ た こ と を 「体 感」 ( l n. ) mir f uhl ei ch e s. で き る の は, パ ウ. ラ が芸術 家, 画家 である か らこ そ で ある‐ 興 味 深い こ と に, この 日記 の 内容 は, ゲー テ の あ の 『若 き ヴ ェ ル テ ルの悩 み』 の次 の よう な箇 所 を思 い起 こさ せる‐ 「や がて ぼく は流 れおちる 小 川 の ほとり の 高く伸 びた草 地 に寝 ころ んで 大地 にいつ もよ り近 いせ い か , , ,. 多種多用な草たちをもの珍しく思う. ぼくは茎のあいだの小さな世界のう ごめき, 芋虫や羽虫の数えきれず 究めがたい形態をひとしお近く心に感じる‐ そしてその姿に似せてぼくたちを創った全能者の現前, 永遠の 歓喜のうちに漂う ぼくたちを支え保つ全愛者の呼吸を感じる‐」 ㈱ ゲー テ の こ の作 品 の主 人公 ヴ ェ ルテ ルも ま た画家 であ る‐ パ ウラ も 画家 と して 確 か に彼 の よう に 「全愛 者 ) を感 じて いる‐ パ ウラ は ゲー テ の作 品 を特 に愛 読 した‐ 湿 原 の 生 あ 1 i の 呼吸」 ( da ebenden s Wehen des AI. じ取ること, それを描くことが彼女の課題である‐ 「人間を芸術と自 るもの全てに相通じるもの, それを感・ ) 勧あ る い は 13 然 に結 び付 け て い る も の, 全 て と 親和 性 の あ る も の は, 私 に と っ て神 であ る‐一 ( .1 ‐ 1901. 彼女は言う. 「私の中における神は く彼女〉 です‐ すなわちそれは自然, つまり生命を持ちそして生命を贈 ingend d i っ てく れる と ころ のも た らす も の ( e Br. な の で す‐一 鰯湿 原 の 中 に そう い っ た 「全 て 親矛丑性の あ. ) を 感 じ取る こ と, そ してそ れ をカ ン ヴ ァ ス に 表 現 す る こ と が彼 女 の 使 命 と な る も の」 ( da 1 t verwand e s AI ) と いう の が あ る. 緑 の 湿 原 の 真 ん 中 に水 路 l る. た と ヘ ば彼 女 の油 絵 の 一 つ に 「湿 原 の 水 路」 (Moorkana. がある‐ 青い水面に大空の真白い雲が大胆に浮かんで, 映っている‐ 遠くに赤い屋根の農家が見える‐ 雲, 水路, 大空, 草木, 農家, 全てのものが単純に描かれている. しかしそこにはどっ しりとした安定, , 偉大な ものが感じられる‐ なぜならそれら全てのものは, 堂々と自己を主張しながら, 湿原の中で自らの役割を自 由に演じきっているからである‐ そこには異質なもの, 排他的なものではない‐ それぞれが全てに親矛廿性の ) が 「事物 は見 ら れ Pi あ る も の によ っ て 貫 か れ て い る か ら こ そ, 堂々 と 自 己 を 主 張 で き る‐ ピ カ ソ ( ca ss o. たよう にで はなく, 感 じ取られたように描かれなけれ ばならない」 (Man muB. di e Dinge malen wie man. ) ㈱と言 っ た が, ま さ に パ ウ ラ の 絵 画 は, 湿原 の 中 に 漂う 「全 て と i i i t e man sie s e empf endet cht wi s eh ‐ , ni. 親和性のあるもの」 という 最も内的なものの表現に他ならない‐ 北 ドイ ツの 偉大な芸術家ヘ ッ トガー (Bernhart Ho ) は, 彼 女 の 絵 画 につ い て 次 の よう に 言う‐ 「パ ウ ラ ・ モ ー ダー ゾー ン・ ベ ッ カ ー は 形 t e r ge igen D ) を求めた. そして形は彼女の偉大な母性的で, 独特な世界観 i i の背後に 〈聖なるもの〉 ( d ng e heil e. の 表 現 手 段 に な っ た‐」 ◎こ の よう に して 彼 女 に と っ て, 悪 魔 湿 原 は 「全 て の も の と 親 和 性 の あ る も の」 , 「 「 「 「自 然 」 , 神」 , 聖 なる も の」 が宿る 地 になる‐ , も た らす も の」. 98.
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