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岡本韋庵のメッセージ

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Academic year: 2021

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目 次 は じ め に 第 1 章主要刊本の紹介 篇 2 章岡本の危後感

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明治という時代 第 3 章著作に髭されたメッセージ 第 4 章岡本理解へのこつの頂 お わ り に は じ め に 機太・千島探検で知られる岡本家庵(一八三九

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一 九

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四 ) は 一 方で生涯を通して三九種の著書(現在確認済みのもの}を出版した 当時を代表する文人の一人でもあった。加えて出版に至らなかった 草稿も数多く、これらは現在徳島県立図書館に収蔵されている。 岡本は当時の人々に何を訴えたかったのか、何を著作に託したの か。本稿は岡本が著作に託したメッセージを整理し、概括すること によって岡本の思想の一端を明らかにし、加えて岡本理解のための 問 題 点 を 提 示 し よ う と い う も の で あ る ( 註 土 。

鏡 1 寧主要刊本の紹介 まず岡本が生涯を過して出版した金三九種である ( ( V 内は岡本 の 年 齢 ) 。 慶応三年(二九)・:﹃北蝦夷新誌﹄ 明 治 四 年 ( 三 三 ) : ・ ﹃ 鋳 北 日 誌 ﹄ ﹃ 北 門 急 務 ﹄ 明 治 九 年 ( 三 八 ) : ・ ﹃ 東 洋 新 報 ﹄ 明治一二年(四乙:・﹃万国史記﹄﹃要言類圭 明 治 一 三 年 ( 四 二 ) ・ : ﹃ 小 学 読 本 農 学 入 門 ﹄ 明 治 一 五 年 ( 四 四 } : ・ ﹃ 小 学 新 編 ﹄ 明 治 一 六 年 ( 四 五 ) : ・ ﹃ 小 学 修 身 新 官 官 ﹄ 明 治 一 七 年 { 四 六 ) : ・ ﹃ 万 国 通 典 ﹄ 明 治 一 人 年 ( 四 七 } : ・ ﹃ 古 今 文 髄 ﹄ ﹃ 義 勇 芳 軌 ﹄ ﹃ 国 史 紀 要 ﹄ 明 治 一 九 年 ( 四 八 ) ・ : ﹃ 励 業 新 書 ﹄ 明治二一年{五

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・ : ﹃ 儒 学

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孔 孟 学 ・ 老 在 学 ﹄ { 註 2 } 明 治 二 二 年 ( 五 一 ) : ・ ﹃ 岡 本 子 ﹄ 明 治 二 三 年 ( 五 二 ) : ・ ﹃ 祖 志 ﹄ 明 治 二 四 年 ( 五 三 ) ・ : ﹃ 儒 学 精 彩 ﹄ ﹃ 神 道 発 車

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-19-明 治 二 五 年 ( 五 四 ) : ・ ﹃ 千 島 見 聞 録 ﹄ 明 治 二 六 年 ( 五 五 ) : ・ ﹃ 開 国 富 致 要 覧 ﹄ ﹃ 耶 蘇 新 総 ﹄ 明 治 二 七 年 ( 五 六 } : ・ ﹃ 支 那 学 │ 経 学 ﹄ ( 註 3 ) 明 治 二 八 年 ( 五 七 } ・ : ﹃ 皇 道 鼓 吹 ﹄ ﹃ 名 神 序 煩 ﹄ ﹃ 万 民 宝 典 ﹄ ﹃ 掌 庵 小 詩 ﹄ 明 治 二 九 年 ( 五 八 ) : ・ ﹃ 越 山 先 生 伝 ﹄ 明 治 コ 一

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年 ( 五 九 ) ・ : ﹃ 論 語 正 本 ﹄ 明 治 三 二 年 ( 六 二 : ・ ﹃ 教 育 勅 語 正 解 ﹄ 明 治 三 三 年 ( 六 一 己 ・ : ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄ ﹃ 国 文 之 梁 ﹄ 明 治 三 四 年 ( 六 三 ) ・ : ﹃ 孝 経 領 解 ﹄ ﹃ 鉄 鞭 ﹄ ﹃ 西 学 探 源 ﹄ ﹃ 大 日 本 中 興 先 覚 志 ﹄ 明 治 三 五 年 ( 六 回 ) ・ : ﹃ 知 新 学 源 ﹄ 明 治 三 六 年 ( 六 五 ) : ・ ﹃ 日 本 維 新 人 物 志 ﹄ 刊 年 末 鋒 : ・ ﹃ 教 育 勅 語 講 談 ﹄ 筆者はこのうち三

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種 ( 註 4 ) を入手し、現在一つ一つ読み進めて いるが、これらは一見雑多なようでも一本の線で結ぼれているとの 考えに至っている。以下簡単にこれらの著作を紹介してみたい。 まず機太・千島関係の著作。慶応三年の﹃北蝦夷新誌﹄、明治四年 の ﹃ 窮 北 日 誌 ﹄ と ﹃ 北 円 急 務 ﹄ 、 そ し て 明 治 二 五 年 の ﹃ 千 島 見 聞 録 ﹄ がこれにあたる。これらはいずれも対露政策としての北方領土開発 の必要性を主張したもので、単なる樺太・千島の探検報告にとどま ら な い 。 たとえば、樺太{北蝦夷)について言えば、慶応二年、函館奉行 杉浦兵庫守に提出した﹁北島の急務を論ずるの香﹂(往互に見える ﹁露人の北蝦夷島に来るもの年を逐て漸く多し。痛憤の至に稽へ ず ﹂ ( ﹃ 岡 本 氏 自 伝 ﹄ タ b v a ナ イ マ マ ﹁久春内滞在の魯人ども巴に二百余人に及び、奥地本所には三 百 人 も あ る べ し ﹂ ( ﹃ 岡 本 氏 自 伝 ﹄ ﹁務めて多人数を移して、地利を輿し、鉱人の我に害を加ふるを 見れば、車野手もて拝禦し大義を万国に貫徹せしむるやうあらまほ し き 事 な り ﹄ ( ﹃ 岡 本 氏 自 伝 ﹄ といった記述から推しても単なる探検報告に止まらない事は明かで あろう。そして実際、上記の著作には ﹃余の柿太に赴くや、将に全島の形勢を探りて、国家の大併を陳 べ ん と す る な り ﹂ ( ﹃ 窮 北 日 誌 ﹄ ﹁今や皇還復古、業、前世を趨ゆるに、何太未だ開けず。堂に国 家 の 一 大 関 典 位 非 ず や ﹂ ( ﹃ 鱒 北 日 誌 ﹄ ﹃ 北 島 な け れ ば 是 れ 南 島 な く 、 南 島 な け れ ば 是 れ 中 国 な き な り ﹂ ( ﹃ 開 拓 事 宜 ﹄ { 往 日 ) ) ﹁底、何太を開く。其の志、機太に止まらず﹂(寝室﹄ といった文が見え、岡本が日本経営・対露政策という視点に立った 上で樺太開発を鎗じていることがわかる。これに次に示す甫摩綱紀 { 註 7 ) の 序 文 を 併 せ 考 え れ ば 、 よ り 明 確 に 理 解 さ れ よ う 。 いやし ﹁国家方今焦眉の急は北蝦に在り。有も北蝦を失はば、則ち北 ~20 ・

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海道以南は保つあたはず。真に歯寒の憂なり。若し廟堂の此舎を 観、若人{岡本)に任じて開拓撫御の術を尽すを得しめば、則も 降 L い a a 広彊雄視の業、魯・英・普・仏諸国をして独り其の盛を植に せしめざるなり﹄(商摩綱紀﹃鱒北日誌﹄序) また千島についてもそれは同様であり、明治二四年一一月に岡本 が提示した﹃千島を開拓するの告文﹂(註旦には ﹃千島の我に於て経棄すべからざるは、人身に足膝あるが如し。 か る が る 病ありとして軽しく断たほ、忽ち全身に禍せん。生等、近来 隠しい a a 千島の長︿無人の地となり、外人出没して漁猟を撞にする状 を 聞 き 長 大 息 の 至 り に 纏 へ ず ﹄ ( ﹁ 千 島 を 開 妬 す る の 告 文 ﹄ ) ﹁千島の利源は真に測るべからざるものあるに似たり。方今諸国 震災の首ふに忍びざる惨状あり。他領に暇あらざるが如しといえ ど、千島の事情は全国間胞一般の上に闘し、震災等を数済すべき 緊 急 の 要 務 た り ﹂ ( 2 1 島 を 開 拓 す る の 告 文 ﹂ ) とあって、日本領でありながら多大なる利益をもたらす千島を手っ かずの状態に放置し、しかも﹁外人﹄がわがもの顔で漁を行ってい るという現状を訴えている。かかる思想の結実が﹃千島見聞録﹄で あ っ た 。 このほか後の日露戦争の際、千島に居住し、そこが日本領である ことを身を以て主張した郡司成忠{往 9 } の﹃千島拓殖演鋭筆記﹄寵 担にも岡本の名が見える。その記述によれば、郡司は新聞に掲載 された岡本の千島義会の記事を過して岡本を知ったようであり、岡 本がかなり活動的に仕事をしていたことが捻定できる。 察側本の思想の基層を為す中国思想関係、明治二一年の語学匂 明治二四年の﹃儒学精彩同明治二七年の﹃支那学﹄、明治三

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年 の ﹃鎗儀正本旬明治三四年の﹃孝経鎖解﹄である。ただしこれらも中 国古典に注釈を加えるような、いわゆる捌鈷学や考証学の類の書で はなく、岡本自身が中国思想を消化し、みずからの血肉となった成 果と言え、そういった意味で、次の岡本自身の思想を述べるグルー プ と 非 常 に 線 引 き が 簸 し い 部 分 が あ る 。 ではその岡本の思想が述べられている著作群。明治一二年の﹃要 言類纂﹄、明治一五年の﹃小学新編匂明治二二年の﹃岡本子﹄、明治 三 四 年 の ﹃ 鉄 線 ﹄ と ﹃ 西 学 探 源 ﹄ 1 明 治 三 五 年 の ﹃ 知 新 学 源 ﹄ で あ る 。 これらの著作はいずれも、たとえば志を立てることや徳を養うこと の意義、家庭の在るべき姿、祖先を敬うことといった倫理的問題か ら、政治や経済、軍事といった社会的国家的問題を、テーマ別に古 典や歴史などに例を取りつつ論じたものである。﹃裏言類纂﹄がその 基本にあり、それを子供たちの教育という視点から再編した﹃小学 新編﹄、完成型としての﹃岡本子同また﹃鉄鞭﹄と﹃西学探源﹄は 上海商務書館で発行された中国肉けのもので、﹃鉄線﹄は中国の古典 と 歴 史 が ベ 1 ス 、 ﹃ 商 学 探 源 ﹄ は 西 洋 の 古 典 と 歴 史 が ベ

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ス と な っ て いる。以下に掲げる各著作の目次を見れば、これらが閥系統の著作 で あ る こ と が 理 解 で き よ う 。 ﹃要言類纂﹄│巻一:・事天第て立志第二、蓄徳第三。巻二:・明倫 -21~

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第四、居家第五、処世第六。巻三・:知人第七、在官第八、為政 第 九 、 司 憲 第 十 。 巻 四 ・ ・ ・ 議 兵 第 十 一 。 巻 五 : ・ 衛 生 第 十 二 。 巻 六 ・ ・ ・ 励 業 第 十 三 。 ﹃ 小 学 新 編 ﹄

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巻 上 ・ : 孝 弟 第 一 ・ 忠 誠 第 二 ・ 敬 和 第 三 ・ 償 譲 第 四 。 巻 中 ・ ・ ・ 苦 学 第 五 ・ 自 立 第 六 ・ 操 行 第 七 ・ 言 語 第 八 ・ 威 儀 第 九 ・ 掻生第十・節用第十つ巻下・:酒養第十二・省克第十三・度量 第十四・慈仁第十五・教育第十六 ﹃ 岡 本 子 ﹄ │ 第 一 巻 : ・ 儀 範 第 一 ・ 盛 業 第 二 ・ 学 統 第 三 。 第 二 巻

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カ 行 第 四 ・ 体 仁 第 五 ・ 一 貫 第 六 ・ 万 物 第 七 。 第 三 巻 ・ : 飴 心 第 八 ・ 論 性 第 九 ・ 天 説 第 十 。 第 四 巻 : ・ 道 風 曲 第 十 一 ・ 陰 陽 第 十 二 ・ 鬼 神 第 十 三 。 第 五 巻 : ・ 政 法 第 十 四 ・ 君 道 第 十 五 ﹃ 鉄 鞭 ﹄

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巻 一 ・ : 生 編 上 ( 綜 学 ・ 馴 曲 家 ・ 学 戒 ・ 教 弊 ) 、 生 編 下 ( 文 則 -学 制 ・ 実 業 ・ 至 誠 ・ 一 仁 ) 。 巻 二 : ・ 長 編 上 ( 父 子 ・ 尊 卑 ・ 君 臣 ・ 忠 純 ・ 宏 毅 ・ 夫 婦 ) 、 長 編 下 ( 性 徳 ・ 道 権 ・ 物 心 ・ 礼 穣 ・ 義 命 ・ 側 節 ) 。 巻 三 : ・ 牧 編 上 ( 君 長 ・ 侍 御 ・ 宰 相 ・ 議 員 ・ 法 官 } 、 牧 編 下 ( 諸 食 ・ 商 買 ・ 農 工 ・ 山 林 ・ 池 溝 ) 。 巻 四 : ・ 蔵 編 上 ( 武 技 ・ 壮胆・死節・禦侮)、蔵編下(聖徳・雄図・天討・史徴・祖怠) ﹃ 西 学 探 源 ﹄ l 巻 一 ・ : 学 習 第 一 ・ 教 育 第 二 ・ 倫 理 第 一 ? 事 業 第 因 。 巻 二 ・ : 省 克 第 五 ・ 宏 毅 第 六 ・ 仁 倹 第 七 ・ 康 信 第 八 。 巻 三 ・ ・ ・ 報 圏 第 九 ・ 講 武 第 十 ・ 経 済 第 十 一 ・ 法 律 第 十 二 。 巻 四 ・ : 言 越 第 十 三 . 殺 事 第 十 四 ・ 君 道 第 十 五 ・ 外 交 第 十 六 ・ 五 穏 の 著 作 に 於 て 共 通 す る 項 目 が 多 い こ と が 認 め ら れ よ う 。 次 に 岡 本 に よ る 啓 曲 家 的 著 作 、 と り わ け 日 本 理 解 ・ 西 洋 理 解 に 関 連 するものを挙げてみる。明治一二年の﹃万国史記﹄と明治一七年の ﹃ 万 国 道 典 ﹄ 、 明 治 一 八 年 の ﹃ 古 今 文 髄 ﹄ ﹃ 義 勇 芳 軌 ﹄ ﹃ 国 史 紀 要 ﹄ 、 明治二三年の﹃祖震明治二四年の﹃神道発歪-明治二六年の﹃耶 慾 新 飴 ﹄ 、 明 治 二 八 年 の ﹃ 皇 道 鼓 吹 ﹄ ﹃ 名 神 序 煩 ﹄ ( 註 U } 、明治三三年 の﹃亜細亜之存亡﹄、明治三四年の﹃大日本中興先覚志匂明治三六 年の﹃日本維新人物志﹄がこれにあたり、岡本の著作の中でもこの グ ル ー プ が 一 番 数 が 多 い 。 その当時の日本の歴史は、もちろん天照大神から始まる国史であ った。この神代史から始まる日本の歴史を学べば、つまり神話を史 実として学ペば、当然国家観・世界観も大きく異なってくる。その よ う な 意 味 で 岡 本 が 著 し た 小 学 生 向 け の 国 史 教 科 書 ﹃ 国 史 紀 要 ﹄ は 、 岡本の日本理解の援本を知る上で重要な一番であろう。また国史の 中から、天皇の系絡を中心として叙述したものが﹃祖志﹄である。 巻 一 の 神 代 志 か ら 巻 一

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皇代志まで、天地開閥から応神天皇に至る っ と までの叙述となっている。さらに﹁夙に支那に行はる﹂(住

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と 評 された﹃万国史記﹄と﹃万国通典﹄(鐙担は岡本の初期代表作と言 っ て よ く 、 ﹃ 史 記 ﹄ が 日 本 を 含 む 世 界 各 国 の 歴 史 を 、 ﹃ 通 典 ﹄ が 世 界 各国の制度や政治を記したものである。ちなみに岡本自身が中国に 於てこの同書がよく読まれたことを知ったのは明治三

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年 代 に 入 っ てからのことで、﹃鉄線﹄に寄せられた牧放浪{位当の序文に ﹃ 傘 庵 岡 本 先 生 、 : : : 嘗 て ﹃ 万 国 史 記 ﹄ を 著 は し 、 漢 土 に 行 は る

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-22-ること、年あり。先生、未だ之を知らざるなり e 今に至りて之を 知りて歎じて日く﹁烏呼、我が帝国の我を知る占有甚だ少し。而る に 漢 土 の 人 、 乃 ち 我 を 知 る 者 あ る か 。 何 ぞ 其 れ 異 な ら ん や 。 : : : ﹂ と ﹂ ( ﹃ 鉄 鞭 ﹄ 牧 放 浪 序 ) と あ る 。 さらに中国と日本の名文を集めた﹃古今文髄旬日本と中国の義勇 の 士 を 列 伝 形 式 で 集 め た ﹃ 義 勇 芳 軌 ﹄ { 往 時 } 、 そ の 明 治 維 新 版 と も 言 うべき﹃大日本中興先覚志﹄(陸路)と﹃日本維新人物志﹄註立。そ して当時アジアを侵食していた西洋の危険性をキリスト教批判とい う形で説いた﹃耶蘇新論﹄と、より直接的に日本の現状にはそぐわ ないと岡本が考えた西洋的平等輸の惑しき日本的展開を説く﹃亜細 亜之存亡句こういった著作鮮がこのグループとなる。 こ の 他 、 明 治 一

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年 四 月 か ら 翌 年 一 一 一 月 に か け て 五

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回近く発行 された﹃東洋新報匂実学方面の著作である明治一三年の﹃小学続本 農学入門﹄と明治一九年の﹃励業新書同特に﹃農学入門﹄には西洋 の最新の研究の引用が随所に見える。また岡本と同郷同門で東京府 知事や文部・通信・法務などの大臣職を歴任した芳川顕正の半生記 である明治二九年の﹃越山先生伝匂そのほか、もともとは出征兵士 のために書き記していた様々な知恵を一般舎として書き直した明治 二八年の﹃万民宝典﹄註担、国語の乱れを嘆き正しい国語表記の在 り方を記した明治三三年の﹃国文之梁﹄(住虫、教育勅語の解釈を論 じた明治三二年の﹃教育勅語正解﹄及び刊年未鮮の﹃教育勅語議後﹄ な ど 、 多 彩 な 内 容 の 著 作 群 が あ る 。 これらの著作、先ほど一本の線でつながると述べたが、簡単にま と め る と 次 の よ う に な ろ う 。 すなわち、アジアを侵食する西洋列強、とりわけ北方{樽太・千 島}より侵入しつつあるロシアに対し、抽骨太・千島経営の必要性を 主張しつつ、国民が国家に誇りを持つ、そして神代史より始まる国 史に誇りを持つ、強い日本・強いアジアを求めていた、そしてその 強さとは義勇という精神的なものと、殖産興業に基づく経済的国カ を意味していた。これが岡本の思慰の基盤であり。彼の著作鮮を過 賞 す る 信 念 で あ っ た 。 では次により具体的に岡本はどういった問題意識に基づいてこれ らの著作を世に問うたのか。以下、これらの著作の記述をいくつか 紹介しながら岡本の問題意識・危機意識、そして彼にそういった意 織 を も た ら し た 明 治 と い う 時 代 に つ い て も う 少 し 詳 し く 述 べ て み る 。 -23-第 2 章岡本の危鎗感

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明治という時代 少なくとも岡本は明治という時代に、あるいはその前の幕末とい う時代から、常に不満を抱いていたように思われる。とりわけ明治 以降、その不満の対象は国家或いは国民のありように向けられてい た 。 た と え ば 次 の よ う な 文 が あ る 。 ﹃ 今 日 我 国 人 心 の 浮 薄 に し て 品 行 の 堕 落 せ る は : : : ﹂ ( ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄

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﹃ 其 の 中 寿 を 保 た し め ば 、 : : : 決 し て 今 日 の 如 く 人 心 腐 植 樹 し 、 君 父 を 侮 り 滅 す る に は 致 ら ざ ら ん ﹂ 円 ﹃ 大 日 本 中 奥 先 覚 志 ﹄ 高 杉 晋 作 ) ﹁ 我 が 部 ん 艇 な る 徳 化 の 如 き は 、 乃 ち 衰 領 す る の 傾 あ る を 覚 ゆ ﹄ { ﹃ 勅 語 演 説 ﹄ こ こ に は 当 時 の 人 々 が 、 ﹃ 人 心 浮 薄 ﹄ ﹁ 回 同 行 堕 務 ﹂ ﹃ 人 心 腐 援 ﹂ 、 そ して﹁君父を侮り滅する﹂者として痛罵され、日本人が本来有して いた徳は衰頒してしまったと嘆いている。二番目は高杉晋作の伝記 の末尾に添えられた文章で、もし高杉晋作が明治以悔も生き続けて いたならば、日本もここまで腐敗はしなかっただろうという心情が 述べられている部分である。また三番目の﹃勤務演説﹄(往

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は 、 岡本が徳島中学校長だった時に学生に向けて教育助穏について講演 したものである e 岡本のこういった記述は枚挙に暇がないが、ではこのように当時 の日本人が﹁人心浮薄﹂﹁品行堕落﹂といった状餓に陥ってしまった 原因はどこにあると岡本は考えていたのであろうか。その一つを岡 本は日本にはそぐわない西洋の学問や宗教、いわゆる洋学の蛍視に じ ゅ ん す い あったと考えていた。﹃勅舗演説﹄にも﹃我が醇粋なる徳化の如 きは、乃ち衰額するの傾あるを覚ゆ﹂とあったが、これに次のニ文 を 合 わ せ 考 え れ ば 理 解 で き よ う 。 ﹁亜細直の存亡は、今日に在り。我が大日本国の存亡も、今日に 在らんとす。何もて然りといふや。其説は一にして足らざあも、 社 会 平 檎 ・ 人 身 同 等 の 説 よ り 醤 し き は な し 。 是 は 君 父 を , 島 ぅ 艇 七 、 忠 孝 を 抹 殺 す る も の た り ﹂ ( ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄ k み ﹃維新以来、外交頓に開け、天下皆富国強兵を期し、各国と敵対 角立す。而して従前の教育は、専ら道徳を主とし、往々にして固 いと 隠迂怪、時情に通ぜず、世人之を厭ふ。西学を言ふ者は、皆知育 e智脊を尚び、哲学教法、先を争ひ競進し、適従する所なく、之を 久しくして老成ぷ町離し、殆ど道徳を絞ずる者なし。調ふ﹁忠孝 a H M 倫 m , ‘ , & " H b -F a, は人道の先んずる所に非ず﹂と。飽弁縦横に議張し、甚だし きは父母を孝養するは人子の義務たるや否やを疑ふに至る﹂(﹃越 山 先 生 伝 ﹄ 現代的観点からすれば社会平等・人身同等の説は問題ないように 思われるが、当時の天皇を中心とした、そして先に言及した神話か ら始まる国史を学んだ人々の明治であることを思いおこすべきであ ろ う e 先 の ﹃ 勅 語 演 説 同 そ し て こ の ﹃ 麗 細 亜 之 存 亡 ﹄ に 見 え る ﹃ 君 ﹄ と は も ち ろ ん 天 皇 を さ す 。 さで、明治八年に洋学者によって、欧米の学制を参考に起草され た実学重視の学制が頒布される。これは儒教的教育の理念を否定し たものであった。これは明治一

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年代には一つの反省となってあら われ、たとえば明治一二年に発布された﹃数学聖旨﹂には ﹃数学の襲、仁義忠孝を明かにして、智識才芸を掠め以て人道を 尽 ず は 、 我 祖 捌 国 典 の 大 旨 、 上 下 一 般 の が へ と す る な り 、 然 る に 城

. 回

ι 則 合 向 。 近一専ら智識才芸のみを尚とぴ、文明開化の末に馳せ、品行を破 り 、 風 俗 を 損 ふ 者 少 な か ら ず ﹄

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-24-といったような一文が見える。もともと日本に於ける教育の要は仁 義忠孝にあり、その上で知織や技術を学ぶべきであるのに、今の日 本は知搬や技術が先行して仁義忠孝がないがしろにされ、品行・風 俗ともにすたれきっているといったものであろう。先の岡本の指繍 と ほ ぼ 同 質 の も の と 言 え よ う 。 で は ど う い う 形 で 、 ど う い う ふ う に 、 この現状を打開すればよいのか。﹁数学聖旨﹄にもあったように、仁 義忠孝の教えを改めて最も大切なものとして考え直すというのが明 治政府の考えであり、それは岡本の考えでもあった。次の資料がそ の 例 で あ る 。 ﹃掌庵日く﹃方今天下、西学に心酔し、東洋に孔孟聖人の教へあ る を 知 ら ず 。 余 、 之 に 忠 告 し 、 世 還 を 挽 回 せ ん と 欲 す 。 : : : ﹂ と ﹂ ( ﹃ 耶 蘇 新 邑 太 田 代 恒 徳 序 { 住 幻 ) ) こ の ﹃ 耶 蘇 新 論 ﹄ は 岡 本 が キ リ ス ト 教 倫 理 と 儒 教 倫 理 を 比 較 し て 、 当時の日本には思想的にも政治的にもキリスト教倫理がそぐわない と位置づけたもので、その意味からも西洋倫理に対する儒教倫理と い う 岡 本 の 思 想 が は っ き り と 読 み 取 れ る も の と な っ て い る 。 最 後 に 岡 本 の 実 感 と し て 述 べ ら れ た 一 文 を 紹 介 し て み る 。 ﹁子弟を教授すること数千万に及ぶ。其の人、往往にして青紫を a と せ ん て ん 好ひ、余が上に坐し、倍倣鮮腕{註

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、 努 ら に 人 な き が ご と し 。 余、深く其の教養の効なく、道義の地に酔つるを悲しむ﹂{﹃越山 先 生 伝 ﹄ 明治二九年に書かれた﹃越山先生伝﹄に見える岡本の自らの現状 に 対 す る 述 懐 で あ る 。 第 3 寧著作に挺されたメッセージ では次により具体的に彼の主張を読み取っていきたい。先の﹃耶 蘇新論﹄に岡本の儒教倫理の主張、孔子や孟子の教えを重視すべき だという考え方が見えたが、それは既に日本にち古来存するもので あり、綿々と続いてきた歴代天皇の治世にそれは明らかであると考 え て い た 。 た と え ば 次 の 記 述 で あ る 。 神 " “ r 向 i ν ﹁我が天祖蓋盛の明徳、之を支部の陶発虞舜に比して蓋過ぐる あ る も 、 及 ば ざ る こ と 無 き な り ﹂ ( ﹃ 勅 鯖 演 説 ﹄ 岡本は自分が生まれ育った日本という国家に誇りをもっていた。 それは明治六七年に中国の山東省や阿南省を巡った際の日記にもは っきりあらわれており、中国人の日本という国家に対する質問に対 し て 、 日 本 は 天 皇 が 一 一 役 綿 々 と し て 統 治 す る 何 者 に も 侵 さ れ な い 独 立(厳立不腐の)国家であると明言している。以下の如くである。 ﹁ 慶 鍵 ( 註 問 。 、 余 に 凋 ひ て 日 く 、 ﹃ 貧 困 の 王 は 云 々 ﹂ と 。 余 日 く ﹁ 我 が邦の皇統、一姓綿々として変はることなし。然れどち中国は古 よ り 栓 を 易 ふ る こ と 多 し 。 是 れ 霊 人 の 欲 す る 所 に 非 ず 。 : : : ﹂ し と ﹂ ( ﹃ 支 那 遊 記 ﹄ ( 銭 M C 明 治 六 年 一

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月 二 九 日 ) ﹃ 積 善 日 ︿ ﹃ 日 本 人 洋 服 を 服 す 。 自 豆 笑 b ι 戦 ひ 敗 れ て 英 に 降 る か 。 美固となるか。﹄余日く﹁大日本天皇、善を四方に取る。ただ其長 ずる所を察するのみ。佑あるに非ず。我大日本開闘以来、鍛立不 -25

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-属 の 国 に し て 、 武 く ん ぞ 英 美 諸 国 に 降 る 理 あ ら ん や 。 : : : ﹂ ( ﹃ 姻 台 日 誌 ﹄ ( 註 き 明 治 七 年 一

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月 二 八 日 ) いづれ ﹁其人の日く﹁国王の冊封(註きは何の代より始まるや。圏中 に 孔 子 を 貸 ぶ こ と を 知 る や ﹂ 。 余 乃 ち 大 書 し て 日 く ﹃ 大 日 本 天 皇 、 関閥より今に至るまで、一姓綿々として俵立不績なり。本是自由 ・自主・独裁無外の大君主。関閥以来、未だ嘗て人の封冊を受く る こ と あ ら ず 。 : : : ﹂ ( ﹃ 姻 台 日 誌 ﹄ 明 治 七 年 一

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月 三

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日 } これら文を見れば、岡本の国家に対する、また日本における天皇 に対する意織をある程度うかがい知ることができよう。これはたと ぬ い ぜ ん え ば 、 他 者 に 対 し て は 、 ﹃ 務 然 忠 愛 の 心 を 振 起 せ し む ﹂ ( ﹃ 国 史 紀 要 ﹄ 例言)という形で、小学生たちへの国史の教科書の巻頭言として提 示されることになる。ここに﹃忠愛の心を振起せしむ﹂と岡本が明 言しているということは、逆に考えれば当時の日本において、国に 対 す る 4 忠 愛 の 心 ﹂ が 希 薄 に な っ て い た 証 拠 で も あ ろ う 。 ま た 次 の 様 な 記 述 も あ る 。 a m V 曾 h v . . , 、 ﹁忠勇義烈の行は、人の情の巳むべからざるに発す。綱常を扶植 ' n ・ 4 F A a , . ﹄ し、国基を牽固にする:::区区たる報国の志、自ら巳むあたは ざ る の み ﹂ ( ﹃ 義 勇 芳 軌 ﹄ 自 序 ) ﹃報国の二字は、吾が兄の本領にして、平生の著作は、皆此より 出 づ ﹂ ( ﹃ 一 義 勇 芳 軌 ﹄ 中 村 敬 字 序 ) ともに﹁報国﹂という言葉が見え、とりわけ後者では中村敏字(正 直)が、岡本の著作はすべてこの﹁報国﹂の心からでたものである と評している。とすれば、岡本が抱いていた明治という国家への不 満、ひいては明治という国家の病巣がここから明らかになってくる のではないか。特に時の明治一

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年代は最も欧化政策はなやかなり し時代であった。まさに日本の伝統的なよさも西洋文明の前では日 本古来のものだからというだけで否定され、その存在価値を認めら れない風潮があったことは周知の事実である。これは当時の幾多の 知識人たちがその危険性を声高に主張していた。そういった運動の 中 の 一 人 と し て 岡 本 を 位 置 づ け る こ と が で き よ う 。 ま た 次 の よ う に 日 本 は 君 主 と 臣 民 が 、 君 臣 関 係 の 徳 目 で あ る 忠 と 、 父 子 関 係 の 徳 目 で あ る 孝 を 兼 ね る の だ と い う 記 述 も あ る 。 ﹃園より我が国の臣民は君臣の義にして、父子の貌を兼ぬるもの と す ﹂ ( ﹃ 勅 語 演 説 ﹄ この場合、君主に対する忠、親に対する孝を区別し、王朝が変わ るごとに血を流しつづけてきた中国批判でもあり、そういう意味で も先の日本の皇室の皇統がご姓綿々として﹂という部分や、日本 が中国から仁義忠孝という思慰を輸入する前からその実質は存在し て い た の だ と い う 言 葉 の 裏 付 け と な る 。 そしてこれは次のような主張に当然のごとく行き着え う ら や ﹁ 外 美 を 羨 み て 国 粋 を 忘 る る こ と な か れ ﹂ ( ﹃ 勅 語 大 意 ﹄ { 陸 幻 ) } ただでさえ欧米諸国がアジアを侵食している当時、その欧米をう らやむことばかりをして日本本来のよさ、或いは日本国民であるこ との跨りを失ってどうするのかという主張である。この思いに歪つ -26・

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た岡本が国民に求めたのは日本人としての跨りであると同時に、か つ て の 日 本 人 が 持 っ て い た ﹁ 義 勇 ﹂ の 精 神 で あ っ た 。 よ す す ﹁ 義 勇 と は 義 に 伎 り 勇 を 鼓 す る な り 。 公 に 奉 ず と は 園 の 鋳 に 省 ひ 前 むなり。奉とは是れ鯵献の義なり。其の身を致して仁を成すを調 ふ 。 園 家 の 命 除 の 係 る 所 は 、 唯 だ 人 民 の 精 神 に 在 る の み 。 人 民 に し て 義 勇 な き は 、 猶 ほ 繍 木 の 本 根 な き が ご と し ﹂ ( ﹃ 勅 語 大 意 ﹄ こ こ に 日 本 と い う 国 家 に 対 す る 岡 本 の 危 機 意 識 を 見 て 取 る ど こ が で る 。 とすれば、先に述べた人心浮薄、品行堕落、人心腐壊、そして﹃君父 を侮り滅する﹂という当時の日本の風潮が、いかに岡本にとって嘆 くべき現状であったかということは想像に難くない。次がそれにあ た る 。 た 勺 と ﹁万園、往来親睦し、長を取り短を補ふを之れ崇ぶ。切に祖徳を妄 量 。 碕 d a n F A , 却し、外美の牢飽する所と為るを恐る。国家の盛衰強弱は、必ず道 徳 の 汚 隆 に 従 ふ ﹄ A ﹃ 勅 語 大 意 ﹄ ここで﹁国家の盛衰強弱は必ず道徳の汚隆に従ふ﹂と明言してい るように‘岡本の額廃した道徳へのいらだちは、それが国家の行く 末 に 直 結 す る と 考 え て い た か ら に 他 な ら な い 。 第 4 寧岡本理解へのニつの頂 岡本理解のためには二つの巨大な頂を越えねばならないと考える。 ひ と つ は 教 育 勅 語 の 問 題 で あ り 、 今 一 つ は ア ジ ア 主 義 の 問 題 で あ る 。 筆者はこの二つの問題に対し未だ明砲な解答を持ち得ないが、本音中 で は 現 段 階 に 於 て 筆 者 が 言 及 可 能 な こ と の み 述 べ て お き た い 。 一教育勅語問題 先に言及した明治六年の学紛を踏まえた﹃数学聖旨﹂を前史とす る教育勅語が発布された明治二三年、首相は山県有朋であり、文部 大臣は芳川顕正であった。ともに悶本の知音と言ってよく、岡本は 特 別 な 感 慨 を 以 て こ の 教 育 勅 舗 を 見 て い た に 相 違 な い 。 さて、教育勤時成立に至るまでの趨緯について今一度簡単に触れ ておこう。明治五年八月、日本最初の近代的学校制度を定めた法規 学制が頒布される。これは仏学者繁作腕梓らを中心とした津学者に よって欧米の学制を参考に起掌されたもので、従来の儒教的教育理 念を否定し、個人主義・実学主義を原謹として全国民に自立自営の 能力を養う実学教育を学校教育の目的とした。しかし経済的な問題 (学校経営は授業料と学区住民の負担を原則とした}に加えて、授 業内容が欧米の翻訳が中心で欧米模倣の教科書を用いた結果、民衆 の実際にそぐわず‘加えて新教科を教え得る教員も少なく、学校教 育は著しく形式化して民阜県の反感を買った。この経線については岡 本も﹃維新以来、文部省はし配留学制を猪し、変更一ならず。彼此 の 矛 盾 し て 、 復 た 統 紀 な し 。 t : : 此の時小学教師、後往にして其の 人を得ず。蓋し維新前に在りでは、専ら徳育を主とし、自余の銭飽 を要せず。故に父子相承け弟子と為る者多し。其の教師に推服する も 亦 蛍 な り 。 市 る に 線 新 後 、 多 く は 智 宥 を 主 と し 、 智 機 大 い に 進 み 、 前 日 単 純 の 教 に 服 せ ず 。 是 に 於 て 従 前 の 教 師 は 皆 無 用 の 長 物 に 属 し 、

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-27-始 め て 少 年 教 師 を 用 う ﹂ ( ﹃ 越 山 先 生 伝 ﹄ と 述 べ て い る 。 この反省を受けて成立したのが先にも少しく言及した明治一二年 八月の教学聖旨であり、それをうけて翌九月に学制が廃止され、教 育令が制定される。さらに翌一三年二月には教育令が改正され、一 九年三月には学校令と、試行錯誤が続く。そして明治二三年一

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月 の 教 育 勅 語 発 布 へ と 至 る 。 岡本の﹃鎗山先生伝﹄の言を借りて勅語成立時の状況を示すなら ば、第 2 章でも提示した﹁西学を言ふ者は、皆知育智育を尚び、・: ・:低吟ど道徳を談ずる者なし。爾ふ﹁忠孝は人道の先んずる所に非 ち 暢 う ち ょ う ず﹂と。挽弁縦横に議張し、甚だしきは父母を孝養するは人子 の 義 務 た る や 否 や を 疑 ふ に 至 る ﹂ ( ﹃ 越 山 先 生 伝 ﹄ の ほ か 、 ひ そ か お も ﹁先生、恐憧して命を奉ず。退きて窃に間ふ﹃吾が国は自ら忠 孝仁義の道あり、人心に存す。他に求めを待たず。知り易く行ひ 易く、至公一金正なり。之を万世に伝へて弊なし。紙を万国に施し て 通 ぜ ざ る な し 。 安 ぞ 彼 の 耶 蘇 を 待 た ん や 。 が 九 ぞ 彼 の 仏 教 を 待 た ほ る か 怠 こ と んや。其の道隻に孔孟に直に過ぐ。孔子の道徳、固に間然す るなし。而るに其の学を為す者は、往々にして一偏の弊あり。是 れ知らざるべからざるなり。今、我が国の震に教へを設くるに、 宜 し く 我 が 邦 固 有 の 道 に 従 ふ ベ し ﹂ と ﹂ ( ﹃ 越 山 先 生 伝 ﹄ と い う こ と に な ろ う 。 教 育 勅 踏 の 成 立 や 内 容 に つ い て の 細 か な 鎗 簡 は 他 稿 に 綴 る と し て 、 ここではその基本精神について簡単に述べておきたい。それは、天 皇の有徳と臣民の忠誠を基本として、一四の徳目を録示し、これら は永遠に遵守されるべき普遍妥当性を持っと述べたものであった。 こ の 教 育 勅 騒 が 示 す 方 向 性 は 、 ま さ に 岡 本 が 著 作 を 通 し て 輯 貯 え て い た 主 張 と 一 致 す る 。 岡本が上梓した勅語関係の書籍に明治三二年刊の﹃教育勅語正解 ( 註 却 ) ﹄ と 刊 年 未 詳 の ﹃ 教 育 勅 語 講 談 ﹄ が あ っ た 。 こ れ に 加 え て 未 刊行の﹃勅語演説﹄及び﹃勅語大意﹄がある。彼は計四種の勅語関 係の著述を準備していた。今後、同時期に刊行された移しい勅語解 説書と岡本の勅語理解を対照検討することによって、岡本の思想の 独 自 性 を 明 確 化 し た い と 考 え る 。 ニアジア主義の問題 次にアジア主義に関する問題であるが、これについては明治三

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年代に入ってからの著作に十分の注意を払わねばなるまい。すなわ ち日清戦争と日霞験争の閑に書かれた著作群である。当時、対清・ 対 露 政 策 に 対 し て 議 多 の 著 作 が 世 に 関 わ れ た 。 たとえばその最も尖鋭化した主張の代表例として明治三六年の七 博士建白事件で知られる戸水寛人 A 註 m g が 残 し た ﹃ 文 明 時 代 之 道 徳 ﹄ ﹃ 新 国 民 ﹄ ﹃ 亜 細 亜 東 部 ノ 覇 権 ﹄ 等 の 著 作 の ほ か 、 福 本 日 南 ( 往 m g の﹃愛国主義﹄などは、岡本の位置づけを行う上で軍要な手がかり となろう。では岡本の著作の中から、この問題に関連する記述をい くつか追ってみたい。まず﹃犬日本中興先覚志﹄に寄せられた林琴 南{註邑の序文を見てみる。

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-28-J z a , 品 目 TA , ﹃掌庵先生:::其の舎を挟んで東南に滋遊して武林に及び、余 を林伯頴大令家に訪ぬ。二舎を袖出す。一に日く﹃鉄線﹄、一位日 Ltwh ル く ﹃ 日 本 先 覚 志 ﹄ 1 ﹃ 鉄 線 ﹄ は 世 士 を 針 一 段 ( 往 路 } す る を 主 と し 、 ﹃志﹄は則ち其の本国の先覚を伝ふ。鳴呼、先生の志、偉なり。 夫 れ 日 本 の カ め て 幕 府 の 旧 轍 に 反 し 、 : : : 遂 に 日 々 文 明 に 蹴 る 。 此 れ 蓋 し 東 亜 の 治 に 肉 ふ の 先 声 に し て 、 黄 種 復 古 の 上 烈 な り ﹂ ( ﹃ 大 日 本 中 奥 先 覚 志 ﹄ 林 琴 南 序 ) ここに見える﹃東亜の治に肉ふ﹂﹁黄種復古﹂などの諸に、林琴南 の ﹃ 大 日 本 中 興 先 覚 志 ﹄ に 対 す る 位 置 づ け を 読 み 取 る 事 が で き よ う 。 これが伊藤賢道の段文になると、日本の中国に対する当時の意識が よ り 明 磁 化 し て い る 。 ﹃其{中国)の国を新たにせんと欲すれば、吾が日本の当に易易 たるを視よ。而れども反って未だ日本のごとく更始(魅

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す る あ 0 ・ b たはざるは、堂に国体の未だ一ならざるに、人智の未だ閥けざる を抑へんや。象庵翁、既に﹃西学探源﹄﹃鉄鞭﹄等の舎の刻するあ m w 停泊 V り 。 開 導 社 、 又 其 れ 是 の 香 を 刻 す 。 : : : 凡 そ 広 く 支 那 人 の 智 を 一 周 ﹄ a 則 v u ' き 、 今 慈 ( 註 M C にして更始して、必ずしも日本向菅の難を為さぎ ざ ら し め ん と 欲 す 。 此 れ 則 ち 掌 庵 翁 の 心 に し て 、 亦 賢 道 の 心 な り ﹂ 南 大 日 本 中 興 先 覚 志 ﹄ 伊 藤 賢 道 政 ) ことには﹁吾が日本の当に易易たるを視よ﹂或いは﹁支郷人の智 ひ ら を閥く﹂といった言が見え、当時の日本のアジアの先駆者・主導者 としての自意識がはっきりと表れている。そして少なくとも伊藤は そ れ が ﹁ 掌 庵 翁 の 心 ﹂ と 明 示 し て い る 。 岡本のアジア構想に対する誇細な蛤究は今後の課題であるが、ひ とつ象徴的な例を次に提示しておきたい。﹃大日本中興先覚志﹄の西 郷隆盛の項の末尾部に付された岡本のコメントである。ここには岡 本 の 朝 鮮 ・ 清 ・ 露 三 国 に 対 す る 立 場 が 明 織 に 示 さ れ て い る 。 省かん ﹃明治二年、余、開拓に官たり。盛に北征の説を陳ぶ。僚属(往 担堀基をして隆盛に見え余の志を言はしむ。基は薩人なり。余の 推薦せし者なり。隣盛謂ふ﹁身、北海に赴きて、万里の長城と為 らん﹂と。余、之を聞きて喜ぶ。往きて筋ぬるも、其のかきに遇 ひ、未だ再訪するに畷あらずして去る。其の兵を挙げ態に抗する (健ぎに方り、余、兵事新聞(鐙

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に主筆たりて、為に三策を 陳 べ て 紙 上 に 登 録 す 。 謂 ふ ﹁ 上 策 は 須 ら く 部 下 の 壮 士 を 山 崎 い て た 時 に 朝 鮮 に 航 し 、 八 道 ( 註 犯 ) を 席 巻 し 、 其 の 民 を 乱 す を 鎌 し 、 主 に 我 と 連 合 し て 一 と 為 ら ん こ と を 勧 め 、 清 人 と 提 携 し て 兄 弟 と 為 り 、 進みて東北に蝶りて俄人註翌を機太より酔ひ、黒飽(往 M w z a h 勺 り て 鍍 行 { 能 川 と し て 西 せ ん 。 : : : ﹂ と 。 以 て 隆 盛 に 示 し て 図 を 改 めしめんと欲するも、遂に逮するあたはず。今に至りて遺憾と為 す 。 : : : 今 者 、 俄 人 南 進 す る こ と 、 火 の 原 を 焚 く が 如 し 。 而 れ ど あゐ も我と清国と一人も長織と為る者なし。堂に悲しからずや。憶﹂ ( ﹃ 大 日 本 中 興 先 覚 志 ﹄ 西 郷 隆 盛 ) ここには、明確に日・棒・清の連合を以てロシアの南下政策に対 抗すべきことが鋭かれている。また欧米に対する意織についても二

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-29-つ ほ ど 紹 介 し て み よ う 。 ‘ , R U 品 切 r ﹁泰西に僅々たる大小国の平権制あるを羨みて、比隣なる鍵西 亜の独断政制を聞はざるが如くは何様の大変を醗さんも測りがた し。震留が政教を一致にし、自ら政教の主権者と称し、虚無党の 毒穫を顧みざるは、国威を宣揚するに於て不便なるがためならず や 。 今 日 に 在 り て 、 此 に 遠 慮 す る 所 な く 、 妄 想 の 説 を 佐 宿 す る は 、 いかで 鯵人の奴隷となるを促すものなり。争か大日本国独立の一丈夫 と称することを得ん。今日外人の我を侮弄する状あるものは億人 に 止 ま ら ず ﹂ ( ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄ ﹃鍵人は文明の公敵にして、平和の深仇と称する所なれば、万国 のカを合して温絡すべきものなるべけれど、平檎同等の説を持し て、君父を経蔵し、釈都島一百年来の習慣をう幹やみ、祖宗数千年 来の大典を侮り、人心の決して和すべからざるを問はずとせ降、 一家も和せず、一村も和せず、一郡一県も和せず、総には全国を 挙りて和せざるに歪らん。此理は火を観るよりも明白なるものた り 。 果 し て 然 ら ん に は 、 ぃ ザ 叫 ん ぞ 国 人 の カ を 合 せ て 外 国 に 当 る こ と を 得 ん ﹂ ( ﹃ 亜 細 亜 之 存 亡 ﹄ 日本という国家は﹃今日外人の我を侮弄する﹂状態にある。とり わけ﹁文明の公敵﹂﹁平和の深仇﹄とも首うべきロシアは最も脅威と 言ってよい。かかる状惣にあって、日本は﹁独立の一丈夫﹄となる べ く ﹁ 国 人 の カ を 合 せ て 外 国 に 当 ﹄ ら ね ば な ら な い と の 主 演 で あ る 。 日 露 関 戦 四 年 前 の 記 述 で あ る 。 お わ り に 以上の点を踏まえて、岡本書庵の一⋮捕を踏じるならば、岡本は西 洋 の 案 内 主 H H 一 闘 の 文 明 を 受 け 入 れ る 点 、 日 本 の 宗 教 や 文 化 の 独 自 伎 を 主張する点、ロシアの南下政策に対する危険性を主張する点、中国 ・ 朝 鮮 の 教 導 を 唱 え る 点 ( 陵

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などから、たとえば福沢諭吉や岡倉 天心といったよく知られる所の明治の文化人、また先にも触れた戸 水 寛 人 ・ 都 司 成 忠 ・ 福 本 日 南 の ほ か 、 樽 井 藤 吉 ( 笹 川 相 ) ・ 関 岡 積 雲 雀

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らとも微妙に具なる思想を有していた。新たな座標軸として一 考するに足る人物であると同時に、明治という時代を再考するため の 修 好 の 対 象 と 言 え よ う 。 最後に、明治三七年に岡本が没した後、﹃太陽(註ぎ﹄﹄三人号に 岸上質軒の筆による﹁周本意庵(樺太最近探索者どというタイトル の 追 悼 文 が 明 治 三 八 年 に 掲 載 さ れ て い る 。 そ れ を 紹 介 し た い 。 た 怠 た ﹃三十六年二月、偶ま脳溢血の症に宿り、ロ首ふこと億はず、 双手自由を失し、医治遂に効なし。然るに三十七年征露の役起る を聞くや‘欣然病病の身に在るを忘るる如く、日に戦線を聞きて 以て快とせり。同年十一月九日、特旨を以て正五位に叙せられし が、同日終に小石川探訪町の寓に率す。事年六十有六、趨て十三 日 、 麻 布 弊 町 長 谷 寺 に 旗 葬 せ り 。 翁 平 生 島 町 材 を 有 し 奇 志 を 抱 き 、 而 し て 締 靭 { 能 組 制 } 不 過 を 以 て 終 る。亦哀むべし。然れども玉師既に樺太全島を平定して、翁の宿 -30・

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志今や貫徹せり。況んや翁の名は其等身の著書と共に永︿不朽な るをや。耶勝、翁以て隠すべきなり﹄ 岡本理解のためには教育動緩の問題とアジア主舗の問題というこ つの巨大な頂を越えねばならないことは先に述べた。本織ではこの 問題に詳細に触れることはしなかったが、この二つの問題に真正面 から取り組まねば、真正な岡本理解に至り得まい。そしてこの真正 なる岡本理解は明治維新から現代へと至る日本という国家の真正理 解へもつながり得ると考える。

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( 1 ) 筆 者 が 今 ま で に 提 出 し た 岡 本 掌 庵 関 係 の 拙 飴 は 以 下 の 通 り 。 ﹁ 岡 本 怠 庵 ﹃ 支 郷 遊 記 ﹄ 翻 刻 ・ 駅 往 2 1 三 ) ﹂ ( 徳 島 大 学 園 鰭 国 文 学 八 1 九 ) ﹁ 岡 本 傘 庵 ﹃ 支 部 遊 館 ﹄ 翻 刻 ( 一 3 三 } ﹄ ( 徳 島 大 学 総 合 科 学 部 紀 要 言 搭 文 化 一 一 1 四 }

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要 緒 言 文 鰐 化 文 四 化 } 六 ) ﹁ 岡 本 象 庵 ﹃ 動 路 演 説 ﹄ 翻 刻 ・ 際 陸 ﹂ { 徳 島 大 学 園 鱈 国 文 学 二 ハ ︺ ﹃ 岡 本 章 庵 ﹃ 館 山 先 生 伝 ﹄ 翻 刻 訳 注 ﹂ ( 四 国 大 学 凌 雰 -一 } ﹁ 岡 本 傘 庵 覚 書 ﹂ ( 徳 島 大 学 園 鰭 国 文 学 一 一 一 ) ﹁ 投 稿 者 東 洋 航 客 ﹄ ( 徳 島 大 学 園 勝 国 文 学 一 三 ) ﹁ 岡 本 掌 庵 の 著 作 ﹄ ( 徳 島 大 学 総 合 科 学 部 ・ 総 合 科 学 型 プ ロ ジ ェ ク ト ﹃ 近 世 か ら 近 代 に 至 る ﹄ E │第三章) ︻ 2 } 出版年は宋鮮。明治二一年刊は国立国会図書館の強定による。本容は内 田 周 平 と の 共 著 で あ り 、 後 半 の 老 経 学 は 内 因 が 執 筆 し て い る 。 { 3 ) 出 版 年 は 来 鮮 。 明 治 二 七 年 刊 は 国 立 国 会 図 書 館 の 捻 定 に よ る 。 ( 4 } 以 下 の = 一 O 種 。 ( } 内 は 出 版 元 。 ﹃ 北 蝦 夷 新 窓 ﹄ ( 朱 鮮 で ﹃ 縞 北 日 総 ﹄ ( 北 内 社 曲 刷 版 } ・ ﹃ 北 円 急 務 ﹄ ( 北 同 社 蔵 版 } ・ ﹃ 東 洋 新 銀

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号 ) ﹄ { 兵 事 務 関 仮 本 局 ) ・ ﹃ 万 国 史 記 ﹄ ( 岡 本 氏 織 版 ) ・ ﹃ 要 曾 類 世 帯 ﹄ ( 岡 本 氏 蔵 版 ) ・ ﹃ 小 学 院 本 農 学 入 門 ﹄ ( 蓄 積 機 蔵 版 ) ・ ﹃ 小 学 新 編 ﹄ { 岡 本 蔵 版 ・ 内 外 兵 事 新 聞 局 } ・ ﹃ 万 国 通 典 ﹄ ( 集 義 館 蔵 版 ) ・ ﹃ 古 今 文 髄 ﹄ ( 岡 本 氏 蔵 版 } ・ ﹃ 義 勇 芳 軌 ﹄ ( 岡 本 鹿 嶋 出 版 } ・ ﹃ 国 史 紀 要 ﹄ ( 大 野 一 発 還 要 行 } ・ 高 学 1 孔 孟 学 ・ 老 在 学 ﹄ ( 留 学 館 ) ・ ﹃ 岡 本 子 ﹄ ( 岡 本 監 崎 ) ・ ﹃ 組 志 ﹄ ( 留 学 骨 冒 険 了 ﹃ 千 島 見 聞 録 ﹄ ( 来 降 ・ 非 宛 品 ) ・ ﹃ 耶 蘇 新 愉 ﹄ ( 哲 学 書 院 で ﹃ 支 郷 学 j 経 学 ﹄ { 省 学 館 ) ・ ﹃ 名 神 序 頒 ﹄ ( 岡 本 監 輸 発 行 了 ﹃ 万 民 宝 典 ﹄ ( 鈴 江 彦 太 郎 鎗 行 ) ・ ﹃ 越 山 先 生 伝 ﹄ ( 岡 本 監 輸 苑 行 ) ・ ﹃ 教 育 勅 賂 正 解 ﹄ ( 吉 田 倉 五 郎 臨 調 行 ) ・ ﹃ 盛 細 霊 之 存 亡 ﹄ ( 哲 学 書 院 で ﹃ 国 文 之 采 ﹄ ( 東 京 日 新 舎 で ﹃ 孝 経 編 曲 腸 ﹄ ( 上 海 商 務 印 書 館 了 ﹃ 鉄 線 ﹄ { 上 海 商 務 書 館 で ﹃ 商 学 探 源 ﹄ ( 上 海 商 務 書 館 ) ・ ﹃ 大 日 本 中 興 先 覚 怠 ﹄ ( 開 導 社 } ・ ﹃ 日 本 維 新 人 物 志 ﹄ ( 金 治 堂 プ ﹃ 教 育 勅 悟 機 敏 ﹄ ( 大 日 本 中 学 会 ) ( 5 } 徳島県教育委員会編﹃岡本氏自伝・淘北日総﹄(徳島県教育委員会・昭 和 三 九 年 ) 。 一 四 一 一 具 。 -31 -{ 6 ) ﹃ 開 拓 事 宣 ﹄ は ﹃ 窮 北 日 誌 ﹄ の 宋 尾 に 附 録 と し て 掲 載 さ れ た も の で あ る 。 { 7 } 漢学者。会律務出有渚校日新館を経て昌平債に学び、また沖学にも精 通していた。務命により樽太を守り、また蝦夷に六年の間留まった。幕末期

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は奥羽鎗列稽同盟の一員として官憲に鍾抗。総新後は太政官、文郁省を歴任 し た 後 、 東 京 大 学 教 授 と な る 。 ま た 斯 文 会 の 篤 師 も 務 め て い た 。 ( 8 } 徳島県立図書館岡本傘庵先生殿舎目録 2 ・2 ・ 揃 { 5 4 4 ) ( 9 ) 明治後期の軍人で、千島開発者。明治二六年にロシアに対する北方書偽 シムシユ を説き報効畠開会を股立し、仲間とともに占守由聞に上陸。同二九年に拝上 臨 し 開 盟 国 を 行 っ た 。

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安井秀直出版、明治二六年。二五 1 二 七 頁 、 = 一 六 5 三 八 頁 に 岡 本 と 郡 司 の関わりが詳細に寵されている。またこの外に﹃束縛エ対スル震国之実際経 給 ﹄ { 線 効 畿 会 東 京 支 部 、 明 治 三 四 } な ど の 著 作 が あ る 。 ( U ) ﹃ 延 書 式 ﹄ に 記 述 の 見 え る 徳 島 県 内 の 神 社 を 一 つ 一 つ 紹 介 し た も の 。 (刊 M ) 岸 上 質 解 ﹁ 岡 本 傘 庵 ( 織 太 最 近 探 検 者 ご 円 ﹃ 太 陽 ﹄ 一 -号 ・ 明 治 三 八 年 ) 。 { 四 目 次 は 以 下 の 湿 り 。 第 一 巻 : ・ 国 本 ・ 内 廷 ・ 宗 室 ・ 氏 族 。 第 二 巻 ・ : 制 用 ・ 政 要 。 第 三 巻 : ・ 学 制 ・ 賞 品 帯 。 第 四 巻 : ・ 官 制 ・ 考 録 。 第 五 巻 ・ : 秩 禄 -a 即 位 ・ ' 器 般 ・ 邦 制 。 第 六 巻 : ・ 税 法 ・ 職 役 ・ 貨 幣 ・ 国 針 。 第 七 巻 : ・ 農 政 ' 水 利 ・ 道 路 ・ 工 作 。 第 八 巻 ・ ・ ・ 商 務 ・ 警 保 ・ 般 貸 ・ 衛 生 。 第 九 巻 : ・ 婚 姻 ・ 獄 除 ・ 刑 法 。 第 十 巻 : ・ 兵 制 。 第 十 一 巻 : ・ 民 会 。 第 十 二 巻 ・ : 祭 泥 ・ 喪 第 ・ 験 問 。 (MH) 号は放浪。関谷畿で学んだ後、早稲田東京専門学校勺関谷鍵敏授を経 て 上 海 東 亜 時 報 へ 。 後 大 阪 剖 朝 日 新 聞 に 入 り 上 海 特 派 員 と な る 。 当 時 の 中 国 問 題 に 関 わ り 調 査 研 究 を 行 っ た 。 岡 本 の ﹃ 清 国 遊 記 ﹄ 明 治 三 三 年 一 一 月 三 O 目 、 一 二 月 二 目 、 五 日 、 七 日 、 九 日 、 一 七 日 、 明 治 三 四 年 二 月 三 日 、 四 月 四 回 、 五 月 一 旬 、 二 七 日 、 三 一 日 、 六 月 二 四 日 、 二 八 日 、 二 九 日 に 名 前 が 見 え る 巴 ( 日 } 採 録 さ れ た 人 物 は 以 下 の 通 り 。 上 巻 : ・ 日 下 部 香 田 彦 ・ 物 節 目 逮 筑 一 時 開 物 郁 大斧手・筑鎌田造・大伴部惇麻・和気清麻呂・源義家・三浦畿明・杵測量光 . 源 畿 仲 妾 鰯 絵 ・ 村 上 義 光 ・ 僧 百 民 忠 ・ 補 正 成 ・ 宇 佐 美 定 満 ・ 立 入 宗 継 ・ 大 河 内政房・清水高治・毛利家照・加藤溝正・真鍋徐重・前回利家夫人高畠氏・ 山口右京亮繍弘乳母・尼妙林・細川忠典夫人明智氏・富田知信妻浮田氏・山 由 長 正 ・ 浜 岡 弥 兵 衛 ・ 宗 五 郎 ・ 甲 賀 線 兵 衛 ・ 強 蘭 生 秀 実 ・ 平 山 潜 ・ 梅 谷 平 織 兵 衛・訟本重信・普治・渡辺定静・佐久間啓・月照・吉田銀方・額醇。下巻・: 簡 相 知 ・ 公 子 無 忌 ・ 餐 噌 ・ 蔵 品 世 ・ 劉 敏 元 ・ 街 綴 小 女 融 情 ・ 顔 真 卿 ・ 張 巡 ・ 彦 寧 . 項 徳 ・ 窮 ・ 欧 陽 殉 ・ 岳 飛 ・ 曇 氏 ・ 密 祐 ・ 文 天 枠 ・ 郷 成 功 ( M 叩 ) 採 録 さ れ た 人 物 は 以 下 の 通 り 。 上 巻 ・ : 徳 川 公 斉 昭 ・ 藤 田 東 湖 ・ 梁 川 星 厳 .藤森天山・佐久間象山・楓田正鴎・島治公斉彬・西郷路盛・僧月照・僧月 性・織田雲漬・額三樹三郎・織本左内・吉田松陰・金子孫三郎・大櫛鮪繕・ 堀 利 照 。 下 巻 ・ : 宮 部 県 滋 ・ 真 木 和 泉 ・ 平 野 二 郎 ・ 有 馬 新 七 ・ 中 山 公 子 忠 光 ・ 川 上 弥 -・ 清 水 精 一 削 除 ・ 武 田 耕 雲 斎 ・ 久 悠 玄 瑞 ・ 高 杉 晋 作 ・ 月 形 洗 蔵 ・ 野 村 望東・駒井関庵・武市瑞山・復本館馬・大村益次郎・治山公具視・三条公実 -32-曲 毘 ( げ ) 本 舎 で は 新 た に 百 名 近 く が 採 録 さ れ て い る 。 こ こ で そ の す べ て を 提 示 す ることはしないが、主だった所を猶げれば、館前の松平春緑、騒患の大久保 利通・川路利良、土佐の岩崎弥太郎・後藤象次郎、肥後の横井小楠、長門の 木戸孝允、武蔵の窓谷宕陰・中村敏字、日向の安井忠呪備中の山田方谷・ 緒方決議、態織の平山省資などが加えられている。なお本書には清水精一隠 は 採 録 さ れ て い な い 。 { 間 同 } 内 骨 骨 は 金 二 O 六 条 よ り な る が 、 た と え ば ﹃ 走 る 時 に 息 の 絶 へ ざ る 訟 ﹄ ﹁ 園 地

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の 疲 れ を 艦 く す る 法 ﹄ ﹃ 水 を 世 す 法 ﹄ ﹃ 山 林 に 入 る と き の 心 得 ﹄ ﹁ 暑 さ に 吋 り た る と き の 治 方 ﹂ と い っ た 、 出 征 時 を 想 定 し た も の が 多 数 見 ら れ る 。 ( m m ) こ れ と 同 旨 の も の と し て 、 自 治 抽 聞 編 輯 局 編 ﹃ 明 治 文 豪 硯 海 保 ﹄ A 治 三 五 年 } 所 収 の 岡 本 傘 庵 の 文 章 も あ る 。 { m 叫 } 徳 島 県 立 図 書 館 岡 本 傘 庵 先 生 蔵 書 目 録 1 ・ 8 ・ m ( 1 3 1 ) 、 下 容 草 稿 1 ・ 3 ・ M W { 1 3 2 Y

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傷者。南部藩出身で、若くして盛岡の薄授の教官となり、後江戸の海保 漁村に従い、昌平袋へ。総務後も盛岡・東京・京阪・高野山など各地で儒学 を 稼 じ た 。 二 人 の 交 際 は こ の 後 も 続 き 、 ﹃ 清 国 遊 記 ﹄ { 徳 島 県 立 図 書 館 岡 本 傘 庵先生蔵書目録 2 ・ 4 ・ m ( 6 0 7 } ) の明治三三年一一月一五日に岡本の中国 渡 航 に 際 し 、 太 間 代 が 二 円 を 晶 画 別 と し て つ つ ん で い る 包 述 が 見 え る 。

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跨 型 高 ぶ る こ と 。

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孔慶時曲阜在住の孔子の末商{ただし街蛮公(宋のに宗の時代に、孔 子 の 子 孫 に 賜 っ た 世 畿 の 称 号 ) で は な い ) @ ( 鈍 ) 徳 島 県 立 図 書 館 岡 本 傘 廃 先 生 蔵 書 目 録 F 4 ・ m { 6 0 4 ) 及 び F 4 ・ m 吉 1 1 ) {怨徳島県立図書館岡本掌庵先生簾書目録 2 ・ 4 ・ m { 6 1 4 ) { お ) 中 国 の 皇 帝 が 、 周 辺 諸 国 の 君 主 に 玉 ・ 侯 の 爵 位 を 与 え て 君 匡 関 係 と な り 、 こ れ を 縫 固 と す る 体 制 の こ と 固 ( 幻 } 徳 島 県 立 図 書 館 岡 本 傘 庵 先 生 臓 書 目 録 1 ・ 3 ・ U ( 1 2 9 ) 、 下 容 草 稿 含 む 。 { 却 ) 明 治 三 二 年 ・ 吉 田 章 五 郎 猪 行 。 日 本 大 学 精 神 文 化 研 究 所 ・ 同 教 育 制 度 研 究 所 ﹃ 教 育 勅 語 関 係 資 料 ( 議 六 集 } ﹄ { 昭 和 五 三 年 ・ 創 文 社 ) 所 収 。 { m 岬 } 東 京 智 大 法 学 敏 授 で 、 対 館 強 硬 外 交 ・ 即 時 開 戦 飴 を 主 援 し 、 日 露 関 織 の 世 飴 喚 起 を 行 っ た 。

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明 治 ・ 大 正 期 の 新 聞 記 者 、 史 飴 家 。 玄 洋 祉 の 前 身 向 陽 麓 骨 密 で 学 ん だ 後 、 陸 溺 南 の ﹃ 日 本 ﹄ の 編 集 幹 部 と し て 活 闘 し た 。 商 用 進 拾 を 主 張 し 、 東 邦 協 会 を 設 立 し た 。 A 引 む 清 、 福 建 の 人 。 名 は 待 。 後 の 北 京 大 学 敏 授 。 ﹃ 清 国 描 暗 記 ﹄ の 明 治 三 四 年 の 三 月 二 回 目 、 三 月 二 七 日 、 六 月 二 八 日 に そ の 名 が 見 え 、 岡 本 は 古 臨 時 を 贈 ら れ て い る 。 { 絡 } 戒 め る こ と 。 h m 剖 } 古 い も の が 改 ま り 、 新 し い も の が 始 ま る こ と 。 ( 鈍 ) 今 年 の こ と 。 ( 間 四 ) 同 じ 役 職 の 仲 間 . 同 僚 の こ と 。 .33. ( M g 明 治 一 O 年 の 高 官 欄 戦 争 を さ す 。 ( 幻 } 明 治 一 O 年 よ り 発 行 さ れ た 東 洋 新 報 の こ と 。 当 柑 間 部 分 に つ い て は 未 見 。 ( 犯 ) 海 林 八 道 の こ と 。 鶏 林 は 一 元 h v 新 婦 の 国 の 別 称 で 、 後 に 朝 鮮 全 体 を 称 す る よ う に な っ た 。 ( 却 ) 笥 凪 駒 蜘 の 俄 で 、 ロ シ ア 人 を さ す 。 (MW} 黒 竜 江 を さ す 。 ( 川 引 ) 鼓 を な ら し て 進 軍 す る こ と 。 ( 必 ) た と え ば 措 置 隣 協 会 { 後 に 普 隣 訳 書 館 ) な ど が こ れ に あ た る 。 こ の 問 題 に つ い て は 、 狭 間 直 樹 氏 の ﹃ 初 期 ア ジ ア 主 義 に つ い て の 史 的 考 宙 開 ﹂ ︹ ﹃ 東 亜 ﹄ ニ 00 一 年 八 月 号 5 ニ OO 二 年 三 月 号 ) の 第 六 章 ・ 第 七 輩 、 及 び ﹃ 韓 首 隣 協 会 ・

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善隣訳書館関係資料│徳島県立図書館蔵﹃岡本意磨先生文書﹄所収

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﹂ A 京 都大学人文科学研究所漢字情報研究センター東方学資料叢刊第十冊、ニ OO -) に 詳 し い 。 ( 必 ) ア ジ ア 主 畿 者 。 明 治 一 O 年には西郷軍について策動した。明治一七年に 中 江 兆 民 ら と 上 海 に 東 律 学 館 を 股 立 。 明 治 二 六 年 に ﹃ 大 東 合 邦 飴 ﹄ を 著 し 、 日嶋両国が合邦して清国と逮合し、西滞列強に対抗すべきことを瞬いた。 ( 川 明 ) 僻 飴 家 、 中 国 文 学 者 。 高 知 に 生 ま れ 、 帝 国 大 学 の 文 科 大 学 漢 学 科 に 選 科 生 と な っ た 。 本 業 後 は 絡 能 ﹃ 車 同 年 文 ﹄ に 文 芸 評 飴 な ど を 書 き 、 明 治 体 制 批 判 な ど を 行 っ た 。 (必)明治二八年に博文館から創刊された維総で、昭和三年まで発行。日銭戦 争 時 は 国 家 膨 張 主 践 に 迎 合 し て い た 。 ( 組 閣 ) 事 が 思 う よ う に 還 ば な い さ ま 。

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主な参考文献

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司 成 忠 ﹃ 千 島 妬 磁 波 鋭 筆 記 ﹄ ︻ 安 井 秀 直 出 版 、 明 治 二 六 }

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司 成 忠 ﹃ 東 洋 エ 対 ス ル 館 圏 之 実 際 鰻 鎗 ﹄ { 報 効 品 開 会 東 京 支 部 、 明 治 三 回 } ・ 戸 水 寛 人 ﹃ 文 明 時 代 之 道 徳 ﹄ A 斐 閥 、 明 治 三 四 ︺ ・ 戸 水 寛 人 ﹃ 新 国 民 ﹄ ( 有 斐 閥 、 明 治 三 六 ) ・ 戸 水 寛 人 ﹃ 亜 細 亜 東 部 ノ 覇 権 ﹄ ( 有 斐 閣 ‘ 明 治 三 八 ) ・ 成 田 与 作 ﹃ 踏 家 対 外 意 見 筆 記 ﹄ ( 非 売 品 、 明 治 三 三 年 ) ・ 福 本 日 商 ﹃ 鐙 国 本 鶴 ﹄ { 金 港 堂 、 明 治 三 七 年 ) 好﹃現代日本思想大系 9 ア ジ ア 主 第 ﹄ { 筑 摩 書 房 、 一 九 六 三 } 竹 内 昇﹃明治

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年代前半期の徳育強策と梅沢諭吉の徳脊飴﹂︻愛緩大学教 育学郁紀喪二一、-九七五} 昇 ﹃ 地 方 巡 宰 と 明 治 天 皇 の 学 校 観 祭 ﹂ ( 愛 媛 大 学 教 育 学 郁 紀 要 二 六 、 -影 山 影 山 一 九 入 O } 昇 ﹃ 敏 育 齢 制 絡 の 由 開 発 と 芳 川 原 正 ﹂ ( 愛 媛 大 学 教 育 学 部 紀 安 三 O 、 一 九 p 影山 八 四 } ・ 伊 東 昭 縁 ﹃ 思 想 の 海 へ A U V ア ジ ア と 近 代 日 本 │ 反 侵 略 の 恩 娼 運 動 ﹄ ( 社 会 解 晶 聞 社 、 一 九 九 。 ) ・平石直昭﹃近代日本の﹃アジア主鎗﹂│明治期の館理念を中心に﹄{東京大 学出版会﹃アジアから考える ( S } 近 代 化 像 ﹄ 所 収 、 一 九 九 四 } ・長山矯生﹃日露機争﹄(新湖新資ニ OO 四 ) *本績は平成“年 3 月 7 日徳島県立幻世紀舘イベントホ

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ルにて開 催された阿波学会知周年豪華業﹃徳島出身岡本章庵の生きた道﹂ に於ける口頭諸表﹁岡本掌庵のメッセージ﹄に加筆修正したもの で あ る 。

参照

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