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〈論文〉ILOにおける国際社会政策の歴史―1919年労働時間条約を巡って―(4)

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(1)

ILO における国際社会政策の歴史

―1

9年労働時間条約を巡って―



井 

要旨 本稿の課題は,国際労働機関(ILO)創設期における国際労働規制の影響力はどの程 度のものであったのかについて,1919年の ILO 第1号条約(「工業的企業に於ける労働時間 を1日8時間且1週48時間に制限する条約」)を事例として検討することにある。  今回は,連載の4回目であり,欧州のうち,第1号条約の批准がならなかったイギリスと, 批准したベルギーを事例として,なぜイギリスは批准ができなかったのか,そしてベルギー はできたのか,1920年代の ILO は各国に対してどのような影響を与えたのかを検討してい る。 キーワード 国際労働機関(ILO),週48時間労働制,イギリス,ベルギー 原稿受理日 2018年10月2日

Abstract The problem presented in this article considers the case of the first Convention of the ILO in 1919( Hours of Work )where a treaty was examined, to what degree international labour standards were influenced.

 This article also consists of a fourth part related to serialization and a part where we consider why Great Britain could not ratify the first Convention but Belgium could, and what kind of influence the ILO had on each country in 1920’s.

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3.欧州における第1号条約の批准経過およびその影響

ILO 百周年プロジェクトにおいて ILO の歴史研究に取り組んでいる研究者たちは, 慎 重に次のように言っている。「第一次世界大戦後の時期における ILO の仕事の効果を,客 観的に推し量るのは容易なことではない」。「国際労働基準設定の仕事が,どの程度実際の 『国際基準』を結果として生んだのかを測ることは難しい」。 「はじめに」で述べたように,加盟国に対する ILO の影響力を考えるさいは,ILO 条約 がその国で批准されているかどうかのみが判断材料とされることが多い。しかし,批准に は至らなくとも,ILO の議論や考え方,ILO 条約の労働条件が,各国の論壇や政策,実態 に影響を与えているケースをしばしば確認することができる。さらに,ILO 条約は国際的 な合意に基づいて決議されたものであるため,それを批准しない国は国際的な信用を失う ことになりかねないという「圧力」を政府にかけるという効果も持つ。ILO の影響力は, 条約の批准のみでなく,条約決議前と後での国内議論の変化や社会政策・労働実態の変容 など,より広い視野から総合的に考察する必要がある。上に引用したように,そうした影 響の度合いを「客観的に推し量る」作業は,もちろん「容易ではない」が,本章以降では, ILO 第1号条約が各国に与えた影響について,より広い視野からの考察を試みたい。対象 として取り上げるのは,8 時間労働制が一般化していながら条約を批准しなかった国(イ ギリス),8 時間労働制が一般化しており条約を批准した国(ベルギー),8 時間労働制の 実施にはほど遠く条約も批准しなかった国(日本)の3ヵ国である。 「すべての社会改革のテーマのなかで,8 時間労働制は労働者にとって最も核心をなす ものであり,必然的に第1号条約は ILO にとって礎石となるもの」であった。それゆえ ILO は,各国によるその批准の重要性を強く自覚していた。批准の広がりは,ILO の有効 性を全世界に示すための象徴となるものと理解された。 逆に, 批准が進展しなければ, ILO に懐疑的な勢力からは批判が高まる一方,労働運動からの支持も失う恐れがあった。 ILO 事務局は,「もっぱらこの条約の批准にのみ注力しているという批判を時として受け

 Rodgers, Gerry, The quality of work, in: Rodgers, G./Lee, E./Swepston, L./Van Daele, J., The International Labour Organization and the quest for social justice, 19192009, Geneva, 2009, pp. 9697; Introduction: in : Van Daele, J./Garcia. M. R./Van Goethem, G./van der Linden, M., (eds), ILO Histories. Essays on the International Labour Organization and Its Impact on the World during

the Twentieth Century, Bern, 2010, p.4.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 11th 1928, p.115.  Alcock, Antony, History of the International Labour Organization, London, 1970, p.56.

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るほど」,第1号条約の批准に向けて努力した。 しかし,批准は,ILO の期待したようには進まなかった。表4を見ると,多くの欧州諸 国が,1917~19年の間(その大部分は19年)に,8 時間労働に関する国内法を導入してい たことが分かる。ところが,同様の規制を内容とする第1号条約に関しては,1931年まで にわずか9ヵ国(非欧州のチリと週60時間という例外規定が設けられ表4には掲載してい ないインドを入れても11ヵ国)しか批准しておらず,とりわけ英・独・仏・伊・スイスと いった主要工業国の批准がなかった。

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 10th 1927, p.101.  ちなみに同じ1919年に決議された失業に関する第2号条約は,31年までに25ヵ国が批准し,そ

こにはベルギーはもちろん,英独仏伊も含まれていた。Summary of Annual Reports uuder Ar- ticle 408, International Labour Conference 1933, p.27. なお31年というのは,世界恐慌によって ILO の労働時間政策が週40時間制の導入へと変化し,第1号条約の批准問題が事実上の終わりを 告げることになる年にあたる。 表4 各国における8時間労働法に関する動向 第1号条約批准日 8時間労働法制定日・内容 8時間労働法(公共サービス部門のみ) 1909.2.26 キューバ 8時間労働法(工業と商業,週48時間規定はなし) 1914.10.29 パナマ 8時間労働法 1915.11.17 ウルグアイ 1917.11.27法(工業・商業1日8時間あるいは2週96時間以内制限) 1917.11.27 フィンランド 臨時政府布告(工業と商業で8時間労働) 1918.11.16 エストニア 工業への8時間労働指令 1918.11.23 ドイツ 8時間労働法令(ほとんどすべての工業,週48時間規定はなし) 1919.1.15 ペルー 1919.2.12法(連続工程で働く成人男性に8時間労働を規定) 1919.2.12 デンマーク 1931.10.1 1919.4.3指令(8時間労働を全工業で確立) 1919.4.3 スペイン 1919.4.23法(工業・商業に1日8時間且週48時間) 1919.4.23 フランス 1928.7.3 1日8時間且週48時間法令(工業と商業) 1919.5.7 ポルトガル 1914.6.18法改正(週48時間のみ規定する連邦法) 1919.6.12 スイス 1922.2.14 1日8時間且週48時間政令 1919.6.24 ブルガリア 1915.9.18法を完全施行(1日8.5時間且週48時間労働を規定) 1919.7.11 ノルウェー 1919.11.1法(1日8時間且週45時間法) 1919.11.1 オランダ 1931.6.19 1日8時間且週48時間法 1919.11.30 リトアニア 1919.12.17法(工業の労働時間制限。1日8時間を週48時間によって置き換えること可) 1919.12.17 オーストリア 1919.12.18法(週46時間労働を規定) 1919.12.18 ポーランド 1921.8.24 8時間労働法 1919.12.19 チェコスロヴァキア 1921.6.13 1919指令ⅩII 1919 ルーマニア 1920.11.19 1920.7.1法 1920.7.1 ギリシャ 1928.4.16 1日8時間週48時間法案を国会に提出(第1号条約に完全に適合するもの) 1920.7.27 ルクセンブルク 1926.9.6 1921.6.14法(ほぼ第1号条約と合致するもの) 1921.6.14 ベルギー 8時間労働法 1922.3.24 ラトビア 1925.9.15 1924.9.8法(通常労働時間を1日8時間週48時間とする) 1924.9.8 チリ

(出所) Special Report on the Situation with regard to Ratification of the Hours Convention, in : Report of the Director to the International Labour Conference 1922, p.9621017; Summary of Annual Reports under Article 408, International Labour Conference 1933, p.5; Martin, P., op. cit, p.10;田中盛枝,前掲論文,98頁。

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このように批准が容易に進まなかったことで,従来の研究は,ILO や第1号条約の役割 を限定的に評価することが多い。しかし,批准の「失敗」のみに目を向けてしまうと, それ以上考察が深まることなく,それらが本来持った意味を見逃してしまうことになりか ねない。本章は,個別各国における批准を巡る具体的な展開を追うことで, 批准の成功 あるいは失敗のみにとどまらない論点を浮かび上がらせることを目標とする。欧州におけ る事例として本章で取り上げるのは,第一に,ILO 創設を主導し,中心的な工業国として 他の国の批准にも大きな影響力を持ったイギリスである。同国の例は,8 時間労働制が一 般化していながら条約を批准しなかったという,欧州の多数派であった国の代表例ともな る。次に,こちらも ILO 創設に尽力し,当時の8大工業国の一角であったベルギーを取り 上げる。少数派であった批准国の代表ということになる。これら2ヵ国において,批准が 進んだ,あるいは進まなかったのはどのような理由あるいは原因からなのか,そして ILO および第1号条約が各国に対して与えた影響としてはどのような点を挙げることができる のかを検討していくこととしたい。分析において依拠するのは,ILO 資料のほかは,イギ

リスについてはロウ(Rodney Lowe),グラップヘル(Stefan Grabherr)の,ベルギーに ついてはヴァン・デーレ(Jasmien Van Daele)の研究である

 たとえば,ILO 史研究の嚆矢といえるアルコックの著作では,「ILO の有効性を外見上示すサ インであり重要」な批准の数が30年代に減少したことを「ILO の発展の退行」とみなしており, また2000年代になってのマリーの研究でも,何の立法権も持たない ILO には,「底辺への競争を 食い止める力は与えられていなかった」とし,第1号条約への評価も厳しい。Alcock, A., op, cit., pp.56, 99; Murray, Jill, Transnational Labour Regulation: the ILO and EC Compared, Kluwer Law International, The Hague, 2001, pp.3747.

 国際連盟の経済金融問題に関する活動を検討した編著で藤瀬浩司氏は,その活動は「大きな成 果を上げたとはいえない」し,それは国際連盟の「失望と敗北の歴史を表現しているといえるか も知れない」としつつも,世界の多数の政府代表が定期的かつ頻繁に会合する機会を持ったこと, それを通じて情報を交換し外交政策・国内政策を改善したこと,そうした経験や諸制度・組織が 第二次世界大戦後の国際連合その他に引き継がれたことなどを,国際連盟の存在意義として挙げ ている。 藤瀬浩司編『世界大不況と国際連盟』名古屋大学出版会,1994年, 1 2頁。国際連盟 とは異なり,第二次大戦後にも存続し得た ILO の戦間期の経験の検討は,当然ながら「失敗」だ けでは語り得ないものである。

 Lowe, Rodney, Hours of Labour: Negotiating Industrial Legislation in Britain, 191939, in: Economic History Review, 35(2), 1982; Grabherr, Stefan, Das Washingtoner Arbeitszeit ber-einkomenn von 1919, Berlin 1992; Van Daele, Jasmien, Industrial States and Transnational Ex-changes of Social Policies: Belgium and the ILO in the Interwar Period, in: Kott/Droux(eds), Globalizing Social Right. The International Labour Organization and Beyonds, Hampshire, 2013. ロ ウ はイギリス戦間期の労使関係を検討するなかで批准問題を扱っており,グラップヘルはドイツの 批准を巡る経緯を見るなかで,イギリスを比較対象としている。ヴァン・デーレはベルギーの批 准経過を正面から取り上げている。なお我が国では,田中盛枝「国際労働問題としての八時間制 」『国家学会雑誌』第38巻12号(1924年)が,1924年までの欧州における批准問題を検討し, 同年のイギリス労働党の政権獲得により,解決が近いと結んでいる。ただ,批准問題は25年以降, さらに紆余曲折を経ることになる。

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 イギリス 

批准を巡る経過

イギリスは,ILO 創設を主導した国であった。これまでの章で見てきたように,議員お

よび官僚の4人による創設原案の提案から,バーンズ(George Nicoll Barnes)を議長と する準備委員会での議論まで, ILO は「イギリス方式」によって設立された国際機関で あった。1919年の第1回ワシントン総会の開催にあたっても,計11万5千ドルの資金を提 供した。イギリスがこのように ILO 創設に中心的な役割を果たした理由としては,以下の ような点が指摘されている。 第一に,革命的な雰囲気がヨーロッパに広がるなかで,もしイギリス政府が国際労働規 制を主導すれば,国内の激しい労働運動への大いなる配慮を示すことになるという政治的 意図, すなわち「予防革命」的な意向が働いたという点である。 次に, 労働条件に関し て最も高い条件を設定しているイギリスは,国際的な規制を導入して各国にも同様の基準 が適用となれば,経済競争上有利になるという考えが,とくに保守党内で広がっていたこ とも作用した。第三には, 終戦頃には国際連盟運動がイギリスで普及して, バルフォア (Arthur James Balfour)やセシル(Robert Cecil)等の影響でそれを支持する議員も増

え,国際連盟や国際的に労働基準を設定する組織(=ILO)の創設を政府に促したが,こ れはロイド=ジョージ(David Lloyd George)首相や自由党の国際主義者の社会的保護に

関する関心とも合致するものであった。最後に,世界における社会的進歩をイギリス政府 が先導することで,国際舞台におけるイギリスとその帝国の地位を強化することを企図し たとする最近の議論もある こうして ILO 創設の主軸となったイギリスが,第1号条約批准へ向けての動きも先導す るようであれば,他国の批准に対して効果的な影響を与えるはずであった。 では,イギリスにおける批准に関する経過は,実際にはどのようなものであったのだろ うか。それを見る前に,まずは,1920年代のイギリスの政治・経済および労働運動の状況 を概観しておこう。政権によって,あるいは時期によって,批准問題への対応は変化した が,それは政権を担う政党や経済状況,労働運動の激しさなどの差に起因するところが  小野塚知二氏は,ILO が当時の労働運動の最大の目標であった8時間労働を第1号条約に取り 上げたことなど,「ILO とは,『革命』の恐怖を未然に回避するための予防革命の手段だった」と する。小野塚知二「第一のグローバル経済における国際労働運動の諸機能」社会政策学会第137 回(2018年秋季)大会自由論題報告フルペーパー,18頁。( https://jasps.org/archives/3788) (最終確認2018年9月9日)。

 Hidalgo-Weber, Olga., Social and Political Networks and the Creation of the ILO: The Role of British Actors, in: Kott/Droux(eds), op. cit., pp.19, 26; Alcock, A., op. cit., p.19.

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あったからである。

第一次世界大戦終了1ヵ月後,1918年12月14日の下院選挙の結果,自由党ロイド=ジョー ジを首相とし保守党・労働党が支える連立政権の維持が決まった。保守党はこの選挙で大

勝したものの,ロイド=ジョージのリーダーシップのもとで戦時から平時への移行を進め る道を選択した。この連立政権は22年10月にボナ・ロー(Andrew Bonar Law)を首相と

する保守党単独政権へと交替し,ボールドウィン( Stanley Baldwin )が引き継いだ保守 党政権は24年1月まで続く。だが,23年12月の下院選挙で保守党が過半数を失い,第2党 の労働党がマクドナルド(Ramsay MacDonald)を首相にたてて初めての政権を獲得した (第3党の自由党との連立政権)。この政権は大した成果も得られないまま24年10月の選挙 に敗れ,その後は29年6月までボールドウィン首相の保守党が単独政権を維持する。初の 男女平等選挙となった29年5月の下院選挙では,得票率では保守党が上回りながらも,労 働党が最多議席を獲得して第一党となった。ここに誕生した労働党単独の第二次マクドナ ルド政権であったが,世界恐慌下での失業者激増という時代の政権として30年代初頭を担 うこととなる イギリス経済は,大戦終了直後には,設備の更新,民間需要の拡大,輸出市場の回復と いった条件が揃い,一時的に景気が上向いた。だが,早くも1920年から景気は後退し,失 業者が増大することとなる。輸出市場では,世界一の工業国となった合衆国や急成長して きた日本との競争に直面し,また戦前の国際収支を支えた貿易外収支も,大戦による海外 資産の喪失,シティの地位の相対的低下などにより強みを失いつつあった。依然として工 業生産の中心であった繊維,石炭,機械といった伝統的輸出産業の不況は続き,新興の自 動車,電機,化学など内需中心産業の成長はそれを埋めることができなかった。状況をさ らに悪化させたのが25年4月,戦前レートに固執してポンドを過大評価した金本位制への 復帰であり,石炭などの輸出競争力をさらに脅かす事態となった。 表5の GDP の推移 は,こうした状況をおおよそ確認できるものである。いずれの数値を見ても,1919年まで は維持していた戦前(1913年)水準を20年には割り込み,21年を底として,23年まではこ の20年水準すらほぼ取り戻すことができていない。24,25年と一旦上向くものの26年には 再び落ち込み,金本位制復帰の影響が出た形となっている。その後は29年をピークとして, 30年以降は世界恐慌に巻き込まれることになる。同じ表5の失業率は,21年に激増し,そ  村岡健次・木畑洋一編『世界歴史大系イギリス史3』山川出版社,1991年,281282,288 291,297頁。  同上書,291293頁,坂本倬志「戦間期のイギリス」湯沢威編『イギリス経済史―盛衰のプロ セス』有斐閣,1996年,145163頁。

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の後も戦前と比べると極めて高い数値を記録しており,慢性的な高失業率は20年代のイギ リス経済の特徴となった。

労働組合ナショナルセンターであった労働組合会議(Trades Union Congress, 以下 TUC) 傘下の労働者数は,第一次大戦中の1914年には414万人であったが,18年には653万人まで 増加した。この増加は,ヨーロッパにおける革命的雰囲気,一時的な景気の回復と相まっ て,大戦直後の労働運動の高揚を招いた。19年2月の賃上げ・労働時間短縮・炭鉱の公有 化を求める全英鉱夫連合のストライキ,同9月の全国鉄道労働組合の賃下げ反対ストライ キが代表的な闘争である。そうしたなか先鋭的労働者たちは,組合幹部の改良主義的な傾 向を批判したが,それに代わりうる影響力までは持ち得ず,19年末には革命的な雰囲気は 後退していった。翌20年の夏以降になると戦後不況が始まって,21年からは失業者が激増 表5 イギリスの GDP 指数と失業率の推移 失業率% 一人当たり GDP 実質 GDP 実質 GDP 年  2.1 100.0 100 100.0 1913  3.3 100.1 102 101.0 1914  1.1 107.5 113 109.1 1915  0.4 109.4 113 111.5 1916  0.6 110.2 115 112.5 1917  0.8 110.9 116 113.2 1918  3.4  99.0 105 100.9 1919  2.0  92.4  88  94.8 1920 11.3  84.2  83  87.1 1921  9.8  88.0  86  91.6 1922  8.1  90.3  89  94.5 1923  7.2  93.4  91  98.4 1924  7.9  97.6  96 103.2 1925  8.8  93.7  91  99.4 1926  6.8 100.9  98 107.4 1927  7.5 101.6 100 108.7 1928  7.3 103.8 102 111.9 1929 11.2 103.2 102 111.1 1930 15.1  97.5  97 105.4 1931  マディソン『世界経済の成長史1820~1992年』281282,297298頁。  ミッチェル編著『ヨーロッパ歴史統計:17501993』909,913頁。  原田聖二『両大戦間イギリス経済史の研究』関西大学出版部,1995年,147頁。

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する。政府・使用者側の攻勢が強まり,組合の交渉力は弱まった。21年4月,戦時期から 続く炭鉱の国家管理と賃下げに抗議した炭鉱夫ストライキの敗北は,大戦後の労働運動の 高揚に終わりを告げるものとなり,この後イギリス労使関係は一時安定する。ところが, 25年の金本位制復帰による国際競争力の低下を補うべく進められた合理化に対して,26年 5月に全英鉱夫組合がゼネラルストライキに打って出る。100万人以上の労働者が9日間 にわたって続けたゼネストは結局労働者側の敗北に終わり,慢性的な高失業も相まって, 労働運動は,これ以降弱体化することとなった。 さて,話を第一次大戦直後に戻そう。1919年の時点では,イギリス政府ないし使用者は, 労働運動の激化と革命的雰囲気,戦後の一時的な景気の回復を背景に,週48時間労働の原 則に少なくとも否定的ではなかった(否定的ではいられなかった)。 それは以下のような 事実から確認できる。

19年2月27日から開催された全国産業会議(National Industrial Conference)は,600

人の労働組合員と300人の使用者の代表, 関係大臣・官僚が出席した「英国最初の真剣な コーポラティズムの経験であった」が,この会議は,週48時間労働の導入を含む勧告を承 認している。その後, 8 月18日に下院に8時間労働法案も提出された。 そもそも同年6 月のヴェルサイユ条約で創設の決まった ILO 自体が,「主として英国の官僚と労働組合員 による創造物」であったが,前章までで検討したワシントン総会での第1号条約の議論 においても,バーンズをはじめとするイギリス政府代表や, 労働時間特別委員会議長の ショー(Tom Shaw)などが特別な役割を果たした。イギリス政府代表団は,ワシントン で,英国政府からの「週48時間原則を無条件に受け容れるべきである」という電報を受け 取っており,条約の最終票決では, 政府代表はもちろん使用者代表も賛成票を投じてい る。 そして実際,1919年は,イギリスにおいて労働時間が劇的に短縮された年であった。こ の年,全工業の平均週労働時間が54時間から48時間へと減少し,48時間ないしはそれ未満 の週労働時間が一般化した。同国で1914~24年に達成された労働時間短縮のうち95%が19  戸塚秀夫「イギリス資本主義と労資関係」戸塚秀夫・徳永重良編『現代労働問題:労資関係の 歴史的動態と構造』有斐閣,1977年,6974頁,小野塚知二「イギリス労使関係の転成」湯沢編, 前掲書,207209頁,『世界歴史大系イギリス史3』285286頁。

 Lowe, Rodney, The Failure of Consensus in Britain: the National Industrial Conference, 191921, in: Historical Journal, 21(1978), pp.649, 653, 674; Report of the Director-General to

the International Labour Conference 3rd 1921, p.106.  Lowe, R., Hours of Labour, p.260.

 House of Commons Hansard archives, Commons Sitting of 1 July 1921, col.2511.(https: //api.parliament.uk/historic-hansard/sittings/1921/jul/01)(最終確認2018年8月24日)

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年(とくにその前半)に起こったものであった。 法規制が存在したのは, 女性・若者・

子供(1901年工場法により土曜を除く平日の労働時間を12時間に規制。ただし,1 時間半 の食事時間を含む), 鉱夫(1908年石炭鉱山規制法 Coal Mines Regulation Act により鉱

内労働を8時間に規制。1919年法で7時間に改正)についてのみであったので,「法規制 もなく,そして労使の深刻な紛争もなく」,労働協約によってこうした時短が達成された のである。5 つの産業部門において,20年12月の週労働時間を13年12月のものと比較した 表6を見ると,いずれの産業でも,48時間以下となっていたことが分かる。24年10月の統 計では,週労働時間が48時間を超える者は,製造業の労働者の7.3%であった。これらか ら,ILO 事務局は,「すべての工業国のなかで8時間労働制が最も普及している国」であ る「イギリスの政府が,第1号条約の批准はできないという意見であることは考えられな いような状況」だと当初は分析していた ところが,革命的雰囲気の後退した1920年になると,19年とは状況が一変する。前年に 週48時間労働を勧告していた全国産業会議は,同じく週48時間労働を原則とする ILO 第1 号条約の批准には強く反対した。条約は,様々な産業実態を持つ国々に対して画一性を求 めるものだと受けとめられた。とくに1日の超過時間労働を最長1時間とし,また年間の 超過時間も制限する点が彼らの懸念となった。それらは, イギリスで慣習的な週5日半

 Hours of Labour and Overtime Rates of Pay in the Principal Industries in Great Britain, in: International Labour Review, Vol.12, No.1, p.76. さらにその9割が7月までに達成されており, 19年前半における労働時間の減少はとりわけ急激なものであった。 Dowie, J., A., 191920 is in Need of Attention, in: Economic History Review, 28(1975), pp.439440; Lowe, R., Hours of Labour, pp.255256.

 International Labour Office, Hours of Labour in Industry, Great Britain, Geneva, 1922, pp.79.

 The Ministry of Labour Gazette, July, 1927, p.251.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 3rd 1921, pp.104 105.  第1号条約の第6条に,「各場合に於ける増加時間の最大限度を定む」とある。労働省編『ILO 条約・勧告集(第7版)』労務行政研究所,2000年,106頁。 表6 イギリス各産業部門における週労働時間 1920年12月 1913年12月 44.0 51.3 建設 42.7 48.5 石炭 48.0 55.5 綿織物 47.0 53.0 機械 48.0 60.0 鉄道

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労働(土曜半休)の実態と合わすことが困難で,また,使用者の経営の自由および超過 労働手当も含めた手取り給与を期待していた労働者の生計の両方を脅かすと理解されたか らである。週48時間労働の実施のほとんどが労働協約による取り決めだったことは,労働 組合ですら法制化の緊要性をそれほど感じない状況につながっていた。 結局, 前年8月 に下院に提出されていた労働時間法案は立法化に至らず,また全国産業会議の勧告もほと んど成果をあげることなく,同会議は,労使の相互不信と戦後不況のどん底のなか,21年 7月19日に解散となる。解散は,「週労働時間問題が明白な要因となって」のことであっ たが,これは以下に見るような,第1号条約批准問題の展開と絡んでいた。 第1号条約批准へ向けての労働時間法制化に強力に反対したのは使用者たち,とくにそ

の組織である全国使用者組織連合(National Confederation of Employer’s Organisations) であった。彼らは,第1号条約の内容の実現可能性を俎上に載せ,諸外国がそれを遵守す る能力と意志を持っているかを疑問視した。また,産業に対するすべての国家干渉への反 対も公言していた。自由な団体交渉こそが,産業独自の必要を満たすための弾力性を保証 してくれる手段であって,労働時間法制などは「労働協約を国家管理に完全に置き換えよ うとするもの」だと主張していた。第1号条約に関しては,その内容の原則は労働協約で ほぼ実現しつつ,かつ弾力性も確保している以上,使用者が協約自治のシステムを,他国 と比較してイギリスの優越する部分だと認識したとしても理解できないことではない。

1921年3月にトーマ(Albert Thomas),フィーラン(Edward J. Phelan)ら ILO 幹部が イギリスを訪問したさい,面会したロンドン・ノースウエスタン鉄道の社長は,鉄道業で

労働時間を法規制することは難しいこと,それは同時にイギリスが第1号条約を批准する のは困難であることを意味すると述べている。

 土曜の半休がいつ始まったかははっきりしないが,19世紀後半には広く普及していたとされる。 浜林正夫『イギリス労働運動史』学習の友社,2009年,104頁。

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 3rd 1921, p.105.  Lowe, R., Hours of Labour, p.257; Lowe, R., The Failure of Consensus in Britain, pp.655

656, 674.

 Lowe, R., Hours of Labour, pp.261262. こうしたイギリス労使関係におけるヴォランタリズ ム,すなわち「労使双方が自発的に形成した団体の任意的な活動と,団体間の自主的な取決めに より,雇用・労働の諸条件(およびそれを決定するための様々な手続き的ルール)は決定される べきであり,かかる労使関係への国家の介入はできるだけ少ないほうが良いとする規範」が,第 二次大戦後に重視され優れたものと認識されたことについては, 小野塚知二「労使関係政策― ヴォランタリズムとその変容―」毛利健三編著『現代イギリス社会政策史1945~1990』ミネル ヴァ書房,1998年,323324頁。

 International Labour Office, Edward Phelan and the ILO : The life and views of an international social actor, Geneva, 2009, p.213. なお同書は,この社長はスタンプ(Josiah Stamp)であると注記して いるが,スタンプが社長を務めたのはロンドン・ノースウエスタン鉄道の後継会社ロンドン・ミッ ドランド・スコティッシュ鉄道であり(1927~41年),このときの社長はクロートン(Gilbert Claugh-ton)ではないかと思われる。

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ロイド=ジョージ連立内閣は,合衆国が非加盟を決め,事務局長・理事会議長の2トッ プをフランス人が占めると,ILO への関心を弱めていったとされる。それでも,11年 3月と7月には,「政府の指示により,ワシントンで政府代表が賛成票を投じたイギリス には,第1号条約を批准する道徳的義務がある」と訴えるバーンズ(1906~22年まで下院 議員であった)の動議もあって,下院が批准に向けた法案に関して審議をした。だが,自 由党の労働大臣マクナマラ(Thomas Macnamara)は,「我々は,法規制の導入によって, 協約のネットワークを無視するよう政府機関に求めることは不得策であると考える。特殊 な条約に従うことと同時に,慣習や工業活動にとっての必要性を満たすような十分な弾力 性を確保することは,容易ではない」と説明し,条約をより弾力性あるものに改正すべき だという提案をした。21年3月に保守党党首に就任していたオースティン・チェンバレン (Austen Chamberlain)も,条約を批准することは,労働組合と使用者が結ぶ自発的な協 約を崩壊させるものであって,政府が冒すことのできないリスクだと発言している。結局, マクナマラの提案が採択され,批准問題は新たな展開に入る イギリス政府は,将来の ILO 総会で第1号条約全体を再審議し,新たな条約を採択する ことを提案する1921年7月22日付けの書簡を国際連盟事務総長に送付した。書簡は,条約 の批准へ向けて,イギリスには2点の障害があると指摘していた。一つは,イギリスの労 働協約システムは,各企業の事情に応じて労働時間を週48時間以上に延長する自由を認め ているが,条約の厳格な規定はその弾力性を許さないものである点,もう一つは,鉄道業 の労働協約は,労働時間の延長に加えて日曜労働も認めているが,それも条約の規定と矛 盾するという点である。そういった事情からイギリスは批准が困難であるし,他国も同じ ような経験をしていると考えられる。ILO 総会で問題全体を再審議して,各国の経験と折 り合うことのできる条項はそのまま残し,各国諸産業の様々な事情にとって弾力性があま りにもなさすぎる条項は削除したり改正したりすることが望ましいというのが提案内容で あった。 ワシントンで第1号条約の採択に中心的な役割を果たしたイギリスは,2年足 らずのうちにその改正が必要だと宣言した。 ILO 事務局は,慎重な対応をせねばならなかった。最重要国イギリスの提案を無下に却 下するわけにはいかないが,他方1921年7月の時点では,各国の情勢が,19年と同じよう

 Lowe, R., Hours of Labour, p.264.

 Great Britain and the Washington Hours Convention, in: International Labour Office, Official Bulletin, Vol.IV, No.5, 1921, pp.89; Report of the Director-General to the International Labour Conference 3rd 1921, pp.106107.

 Special Report on the Situation with Regard to Ratification of the Hours Convention, 4th International Labour Conference, 1922, pp.951952.

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な複雑な交渉を再開するのに適したものではなくなっていたからである。前述したように, すでにイギリスは20年から景気が後退し始め,労働運動は同年夏以降弱化していた。イギ リス以外の国でも,たとえばフランスでは,条約に反対するキャンペーンが展開され,と にかく先にドイツによる批准が必須であると主張されていた。そのドイツは,21年5月に 決まった1,320億金マルクという天文学的な賠償金支払いのため超過時間労働が必要となる ことを見越して,労働時間規制に関して免除や例外を求める態度をとっていた。スイスは きっぱりと批准を拒否しており(後掲表8の通り,スイスは週48時間労働の導入が他の欧 州諸国と比べ進んでいない国だった), ベルギーもイギリスとドイツが批准するまでは批 准しないと宣言していた(次節)。ILO がイギリス政府の提案を受け入れ,条文を改めて 作り直すことになれば,その後もまた同じような事態が起きないという保証はない。とく に労働運動の悲願であった第1号条約において早速譲歩を強いられたとなれば,ILO に対 する労働者の信頼は薄れ,各国政府や使用者が ILO を軽んじる恐れも大きかった。 他方 で,ギリシヤ,ルーマニア,チェコスロヴァキアの3国は21年夏までの時点ですでに条約 を批准しており(前掲表4参照), それら諸国の扱いをどうするかという問題も発生する ことになる トーマら ILO 事務局は,イギリスが批准上の障害とする点は,第1号条約の規定と決し て相容れないものではなく,条約の改正は必要ないという意見だった。21年10月,イギリ スの改正提案後最初の ILO 理事会は,トーマに対して,イギリスをはじめとする各国と話 し合い,批准のためには本当に条約改正が避けられないのかどうかを判断するよう求めた。 トーマは,21年末からオランダやベルギーと会談して批准の可能性はあるという感触を得 たが,22年3月のロンドン訪問では,イギリスの実態は第1号条約と矛盾しないという自 らの意見を同国政府に納得させることができなかった。続く4月の理事会は,条約改正を 総会の議題とすることは時期尚早であるとする一方,トーマと事務局に,さらなる詳細な 関連情報の収集を要求した。それら情報をまとめた特別報告書が提出された同年10月の ILO 総会は,この問題を5日間にわたって議論したが,政労使三者がそれぞれの主張を繰 り返しただけで,何ら具体的な方策を得るには至らなかった。さらに翌23年4月の理事会 が,批准を促進するための方法を探る委員会を立ち上げ,改正に関する各国の考えを把握 することを目指すなど,ILO は改正の可能性も含めて慎重な対応を続けた

 Alcock, A., op, cit., p.56.

 Special Report on the Situation with Regard to Ratification of the Hours Convention, p.951.  Ibid, pp.954959; Report of the Director-General to the International Labour Conference 3rd

1921, p.110; Report of the Director-General to the International Labour Conference 4th 1922, p.755; Report of the Director-General to the International Labour Conference 6th 1924, pp.158161.

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こうした状況を打破するための話し合いの場となったのは,ILO の会議ではなく,1924 年9月にベルンで開催された労働大臣会議であった。その年の1月から,イギリスでは, 労働党が初めて政権を獲得していた。労働大臣に就任したのは,労働時間特別委員会議長 だったあのショーである。彼は,即座に批准を進める意向を表明し,7 月に批准に向けた 法案を下院に提出している。同年6月の ILO 総会の間に開催合意がなったベルン会議に参 加したのは,イギリス,フランス,ドイツ,ベルギーの労働相であった。ILO からもトー マと副事務局長バトラー(Harold Beresford Butler)が出席した。ベルン会議は,ILO の

公式会議ではなく私的な会合の域を出ないものだったが,第1号条約について1条ずつ意 見を交換し,相互の解釈の違いを取り除くことを目指した。会議後,簡単な声明書のみが 発表され,「4ヵ国労働相は, 社会的な理由から,第1号条約に基づいた8時間労働原則 の国際的な適用に賛成し」,「揃って条約を批准することが可能であると満場一致で合意し た」。のちにショーは, ベルン会議の印象について,「ほとんど困難など存在しないこと を知り,各条について最も完璧な解釈がそこにあることを悟った」と語っている。この 合意を受けた形で,フランス下院は,翌25年7月8日に,第1号条約の条件付き批准(ド イツの批准を条件とする)のための法案を可決した。しかし,イギリスでは,24年10月下 院選挙後の労働党下野により,ショーの法案は廃案となった 保守党単独ボールドウィン政権に替わった25年6月17日,新たに就任したスティール=

メイトランド(Arthur Steel-Maitland)労働大臣は,ベルン会議参加政府と ILO に覚書 を配布した。労働大臣自身は批准の達成を望むけれども,すべての国が受容し実施できる 条約案を作成するためには,条文の解釈を統一しておくことが必要であり,さらなる会議 を開催すべきであると提案する内容であった。スティール=メイトランドの目指すところ は,後にも見るように,ドイツとフランスの労働時間をイギリスの高い水準に同化させる こと,つまり競争条件の平等化にあった。この直後にトーマは,スティール=メイトラン ドに対して,ILO 事務局は改正に対して拒絶的な態度を取るわけではないことを通告して いる。

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 7th 1925, pp.197 198; Alcock,A., op, cit., p.58; Grabherr, S., a.a.O., S.426, 430; Lowe, R., Hours of Labour, p.257.  House of Commons Hansard archives, Commons Sitting of 21 March 1929.(https://hansard.

parliament.uk/ Commons/1929-03-21/debates/)(最終確認2018年9月16日)

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 8th 1926, pp.216 217. ロウは, 労働党政府は国際法制に固有の問題も労働協約に与える混乱も理解せず,「あまり

に世間知らずだった」と評価する。Lowe, R., Hours of Labour, p.264. なお,25年2月に,ショー の法案とほぼ同じ内容の法案が提出されたが,これも5月に否決となった。

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翌26年3月15~19日,英首相ボールドウィンがロンドン会議を招集し,ベルン会議4ヵ 国にイタリアを加えた5ヵ国の労働相が参加した。 これも ILO の公式会議ではなかった が,トーマとバトラーも再度出席した。 会議冒頭でスティール=メイトランドは,「英国 政府は,無条件の批准を急いで追求することが道理に適っているとは考えてこなかった。 だがいまや,批准に向け何の行動もとらないことは,国際競争を理由とした後ろ向きの行 動を生んでしまいかねないという危惧を感じるようになっている」と挨拶した。会議は, 第1号条約の各条について意見を調整して,統一された解釈を決議として発表した。決議 は,1 日の労働時間や年間の超過労働に関する法律上の最長限度などについては明記を避 けているが,ILO 事務局は,若干の例外を除くと,事務局がこれまで提示してきた情報や 考え方と概ね合致する内容であるとして,5 ヵ国が批准へ向かうにあたって重要な一歩と なるだろうと評価した。実際に,同年4月にドイツは批准へ向けた労働者保護法案を提出 し,7 月にはベルギーが無条件での批准を決議した ところが,イギリスは,このロンドン会議の1月半後に炭鉱労働者のゼネラルストライ キを迎えるという時期にあたった。ロンドン会議と同じ26年3月に王立委員会がまとめた 報告書は,金本位制復帰後の苦境のなかで石炭業への補助金打ち切りと賃下げを打ち出し ていた。炭鉱労働者は,5 月4日からのゼネストでこれに対抗すると決したが,労働者側 の敗北に終わったことは前述の通りである。 この後,石炭鉱山法が制定され,「使用者の 自由処分権の下で」,採炭切羽鉱夫の労働時間を週48時間以上に延長することが可能となっ た。このような状況下では,批准に向かう動きは当然停滞した。フランスも,フラン危機 のなかで,先に下院で通過した法案の上院での審議が進まなかった これら経緯のなかで,ILO 副事務局長であったバトラーと事務局職員となっていたフィー ランの元英国官僚両名は,ILO の意向をイギリスの政治舞台において広めるべく行動を とっていた。バトラーは,労働時間法案の作成を手伝うために1925年に保守党の閣僚委員 会に参加しており,またフィーランは, TUC の国際委員会に出席して, 政府の内部情報 を伝えてもいる。彼らは,厳格な「英国風」の法施行を提案するのではなく,行動の原則 を設定するために法を利用するという「大陸風」の手法,すなわちトーマ指揮下の ILO 方 式を普及させようとした。その結果,イギリスの政治家や官僚たちが潜在的に持つ「外国

 House of Commons Hansard archives, Commons Sitting of 21 March 1929.

 Alcock, A., op, cit., p.58; Grabherr, S., a.a.O., S.302, 427, 430, 432; Lowe, R., Hours of Labour, p.257; Report of the Director-General to the International Labour Conference 8th 1926, pp.216, 223225.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 10th 1927, p.102; Lowe, R., Hours of Labour, p.257;『世界歴史大系イギリス史3』293294頁。

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嫌い(xenophobia)」の気風をあおることとなり,彼らを批准の方向へ動かすことはでき なかった。とくに労働省官僚は,元同僚であるバトラー,フィーランとは個人的な交友も あり,そもそも ILO 憲章自体が英国労働省を出自とするにもかかわらず,概してかなりの 「外国嫌い」で,協約自治の体制を擁護する傾向が強かったとされる 1926年前半のイギリスとフランスの状況を見て, かねてより ILO の改良主義に批判的 だった共産主義系新聞が,「 ILO は失敗した。 自らの無力を認めねばならない」と痛烈に 論評するなど風当たりは強まった。だが,イギリス政府代表は,同年7月の ILO 理事会に おいて,「英国政府は依然として労働時間問題に関心を持ち続けており, ゼネストによっ て批准について検討することが妨げられているだけである」と説明している。同じ場で労 働者代表たちは,ロンドン会議で解釈に一致をみたはずの国で批准が遅れていることは理 解しがたいと,強い不満を表明した。ILO は,26年11月および27年1月の理事会特別委員 会で批准問題を議論することとした。しかし,そこでも,批准を巡るそれまでの情報を集 めた現状の把握にとどまり,以降の方針について明確な結論は得られなかった。使用者代 表たちは,ほとんどの国の規制は概ね第一号条約の目指すところと合致するとは認めつつ も,超過時間の配分や割増賃金の支払いなど,条約の実際の適用において克服できない困 難が生じてしまうことが問題であるとした

フランス労働代表ジュオー(Leon Jouhaux)は,1927年5月の ILO 総会において,「イ

ギリス政府こそが今後の批准の進展にとっての要の存在」だと強調したが, 与党保守党 の右派は,たとえばジョインソン=ヒックス(William Joynson-Hicks)内相が典型的で あったように, ILO にはすべて反対すべきだと考えていた。「社会主義の発展を目論むフ ランス人」トーマが指揮する事務局はコストがかかりすぎだし,条約はイギリスの産業を 束縛するだけだというのである。 これに対して,スティール=メイトランド労働大臣に 代表される保守党穏健派は,批准のための努力を続けようとした。キャザレット(Victor Cazalet)のように,国際労働条約の批准は,欧州経済の統合をもたらすだけでなく,批准 への一歩一歩が,軍縮よりもいっそう平和を強化することにつながるという主張をする議 員もあった。27年春以降,保守党政府は,批准に向けて,新たな労働時間法案を作成し, 全国使用者組織連合や TUC との交渉を開始した。スティール=メイトランドは,使用者

 Lowe, R., Hours of Labour, pp.260, 265266.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 10th 1927, pp.102 104.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 11th 1928, p.115.  キャザレットは第一次大戦の前線で活躍した陸軍大尉であり,パリ講和会議にも参加している。

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たちの不安をなだめる必要があった。彼は,欧州大陸と英国の労働条件の比較に基づいて 作成された条約が,生産コストや自由な団体交渉を脅かすことはありえないとし,「英国 の使用者たちは,条約の批准によってほとんど失うものはない。すでにイギリスは十分な 労働時間の短縮を経験しているからである。むしろ諸外国の労働条件の向上によって利益 を高めることができるはずだ」と力説した。使用者のなかには, ドイツの機械産業では 週50~52時間労働なのにイギリスでは44時間であるので,批准は英産業にとって大きな利 益となると理解を示した者もあったが,全国使用者組織連合は,従来と変わらぬ理由から 反対を貫いた。「労働時間は, 現在は産業の必要に見合うよう十分な弾力性をもって配分 と調整されているが,もし条約が批准されれば,国による認可と労働組合の態度に依存す るものになってしまうだろう」と。鉄道経営者は,イギリスで実施されている超過時間制 度は条約と矛盾しないとしたロンドン会議の合意にも,懐疑的なままであった。 政府内 部では,法務官僚たちも, ロンドン会議の5ヵ国がそれぞれ条約を独自に解釈し,他の ILO 加盟国がその解釈に拘束されることになりかねないという懸念を呈した。前年9月に ベルギーが条約を批准していたこと,27年2月にフランス上院も英独両国の批准を条件と した批准法案を可決したことも,「外国嫌い」のイギリスにとっては悪い材料となったと される。労働組合は,批准が進まないことへの不満を表明し続けた。 フランス使用者代表ロンベルト=リボー( Alfred Lambert-Ribot )は,1927年10月の ILO 理事会において,条約改正の方法を調査するための特別委員会を,29年の総会で設置 することを検討するよう要求した。これを受けて,28年1月の理事会にて,イギリス政府 代表ベタートン(Henry Betterton)が,ロンドン会議のような限られた国だけではなく, 総会におけるすべての国による強固な国際的合意に基づいた新たな条文によって批准を目 指すべきであると再度改正を提案したことは,大きな物議を醸すこととなった。賛否両論 渦巻くなか,トーマは,5月の総会で次のような見解を表明した。彼は,この状況下では, 現存の条約のまま批准を進めるプロセスは麻痺をしてしまうかもしれないとして,改正に も含みを持たせつつ,改正を提案すること自体,イギリス政府が8時間労働に関する国際 的な合意の必要性を認めていることの表れであるので,批准を悲観してはいけないと述べ た。イギリス政府は,翌29年3月の ILO 理事会前に,各条について改正が必要だと考え

 Lowe, R., Hours of Labour, p.265.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 11th 1928, pp.124 125.

 Lowe, R., Hours of Labour, pp.257258, 264265; Report of the Director-General to the In-ternational Labour Conference 10th 1927, p.105.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 11th 1928, pp.125 127.

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る点をピックアップしたリストを提出し,その理事会にはスティール=メイトランド労働 大臣自らが出席した。英国の法務官僚はロンドン会議で試みた方法で条約を解釈すること は不可能だという意見であること,それでも英国政府は条約の原則自身は尊重しているこ とを明らかにした。使用者のなかからも,新たな自由な視野の下で改正に取り組むべきだ という主張が出たが,労働者グループは改正そのものに反対し続けた。結局,この理事会 でも有効な打開策が打ち出されることはなかった 1929年5月,保守党は下院選挙で敗れ,労働党に政権交替する。労働党は,選挙期間中 から第1号条約の批准を含む労働時間問題を論点としていた。新政府は,即座に批准の準 備を進め,8 時間労働法案作成のための閣僚委員会を設置した。 しかし, すぐに作業を 断念することになる。10月の閣僚委員会報告はその理由を次のように説明している。「使 用者のみならず労働組合からの深刻な反対を起こすことなく,ワシントン労働時間条約を 完全に実施する法案を提案することは現実的ではない」 労働党政府は,法案を準備するなかで,法務官僚や使用者からの異議だけではなく,あ らかじめ一部の労働組合の懸念も考慮に入れていた。それに備えて,法案には,現在の労 働条件や自発的な労働協約には影響を与えないことを指示する条項を設けた。それにもか かわらず,作業断念の最大の要因は,鉄道労働組合の合意が得られなかったことであった。 鉄道労働者は,かねてより第1号条約の批准に危惧を感じ続けていた。なぜなら,鉄道会 社代表と全英鉄道員組合間の1919年の協約は,標準週48時間労働に加え,標準週賃金の保 証と,それとは別に50%の特別超過時間手当が支払われる日曜労働を規定していた。第1 号条約は超過時間への割増を25%と規定しており,鉄道労働者にとっては不利な内容と理 解されていたのである。TUC 内でも発言権の強い鉄道組合の意向は無視し得ないもので, 労働党政府は,労働組合を支持基盤とするからこそ,結局,法案の第2読会を設けること もできなかった。イギリスにおける第1号条約の批准を巡る紆余曲折は,ここに有力労働 組合の懸念によって終結したのであった 1930年代に世界恐慌に入り,世界で大量失業が発生したことで,労働時間問題は新たな 段階に入る。ILO は,ワークシェアリング的意図を念頭に置いた週40時間労働を優先的な 目標に掲げるようになり,35年には週40時間労働を目指す新たな条約(第47号条約)を決

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 12th 1929, pp.137 139.

 Report of the Director-General to the International Labour Conference 14th 1930, p.140.  Lowe, R., Hours of Labour, p.258; Grabherr, S., a.a.O., S.434.

 Ebenda, S.43.

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議する。第1号条約の批准問題は,30年代初頭には,事実上の終わりを告げることとなっ たのである。前掲表4の通り,1930年代初めまでに欧州で第1号条約を批准したのは9ヵ 国にとどまった。ほとんどの欧州諸国が,第1号条約の原則を尊重していると宣言し,批 准へ向けた努力をした。しかし,批准した9ヵ国以外の多くの国は,主要工業国であるイ ギリス, ドイツ, フランスが批准するまでは批准できないという姿勢を貫いた。 それら 3国も,フランス自身が英独の批准を条件としており,ドイツでは労働時間法案の審議が 長期化した。そしてイギリスは,見てきたような紆余曲折の末,結局批准に向けてまとま ることはできなかった。  批准努力を継続させた理由 とはいえ,イギリスにおける批准問題は,政府が最初からその意志がなかったとか,途 中で投げ出してしまったというわけではなく,最後まで試行錯誤したうえでの断念という べき経過をたどった。以下では,成功しなかったとはいえイギリスが批准に向けて努力を 継続させた理由はどのようなものであったのか,次に,それでも批准に成功しなかった原 因は何だったのかについて,これまでの検討内容からまとめておきたい。 批准に向けて努力を継続させた理由としては,まずは,1919年の欧州における革命的雰 囲気と労働運動の激化という時代状況を挙げることができるであろう。それらを抑え込む ために,労働運動の最優先課題であった労働時間に関する第1号条約が決議に向かい,実 際の労働時間も短縮されていった。ワシントンの政府代表団には,48時間労働原則を「無 条件で受け容れるべき」とのロンドンからの指示が届いており,条約の票決には政府代表 も使用者代表も賛成票を投じた。労働時間は「労使の深刻な紛争もなく」短縮されたので あった。これら「予防革命」的理由から,第1号条約が生まれ,批准問題は始まったとい える。ただし,この理由は,大戦直後の特殊条件下でとくに作用した一時的性格の強いも のであって,その後の時期については,以下に挙げる諸理由の方がより重要であった。 第二に,政治家や政権党の方針に左右された面は大きかった。ロイド=ジョージ時代の 1921年に批准に関して審議したのは,「批准は道徳的義務」と訴えるバーンズの存在があっ てこそであった。24年に労働党が初の政権を獲得し,ショーが労働大臣に入閣したことは, 批准に向けた法案の提出やベルン会議の開催をもたらした。労働党は29年に政権に返り咲 いたさいも, 即座に批准の準備を始めた。 その間の保守党政権の時期にも,穏健派のス  Ebenda., S.434.

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ティール=メイトランドが労働大臣であった意味は大きかった。彼自身,国際経済競争上 の視点から批准の達成を望むとしていたが,保守党穏健派には,批准が欧州経済の統合や 平和の強化をもたらすという意見を持つ議員もあった。こうした政治家の存在が,労働運 動が弱体化していた保守党単独政権期においても批准努力を継続させた(ロンドン会議の 開催や再度の改正提案,労働大臣による使用者の説得努力と自身の ILO 理事会出席等)と いうことができよう。30年第14回総会の事務局長報告は,「批准の希望は,政治的出来事 や政権交替によって繰り返し失われてきた」としているが, 少なくとも20年代後半のイ ギリスについては,それはあまり当てはまらないといえる。 第三に,批准によって各国の競争条件が平等化し,それによってイギリスの国際競争力 が上昇するという論法が,批准努力を続ける一つの論拠となっていた。もともと保守党内 に存在した考えを,この時期にはスティール=メイトランドが繰り返し主張した。すでに 十分な時短を経験しているイギリスは,批准に伴う諸外国の労働条件の向上によって利益 が高まるはずだという彼の主張に対しては,使用者のなかにも,ドイツの労働時間との比 較から理解を示した者があった。第一次大戦が契機となって,イギリス政府は強烈な経済 的国際競争意識を持ち始めたとされ, 批准が国際競争力の上昇のためであるという主張 は,批准努力の継続にとって一定の効果を持ち続けた。 最後に,イギリス政府は,いち早くかつ重ねて条約の改正を提案し,最終的には批准も しなかったのではあるが,批准の拒否や条約の廃棄などを申し立てていたわけではないこ とには着目しておく必要がある。 英国政府は,ベルン会議では,「社会的な理由から,第 1号条約に基づいた8時間労働原則の国際的な適用に賛成」しており,またその後の保守 党政権下でも,「英国政府は, 依然として労働時間問題に関心を持ち続けており, ゼネス トによって批准について検討することが妨げられているだけである」とか,「条約の原則 自身は尊重している」といった言い訳めいたとも見える説明を ILO 理事会において繰り返 していた。トーマも「改正を提案すること自体,イギリス政府が8時間労働に関する国際 的な合意の必要性を認めていることの表れ」だという見方をしている。使用者や保守党右 派政治家,官僚らの反対にもかかわらず,イギリス政府がそうした発信を続け,批准努力 を継続したのは,「批准する道徳的義務がある」というバーンズの言葉が言い表している ように,ILO 条約が,政府に対する「国際的な圧力」として働いていたからこそであった。 また,批准が進まないことに対する労働者の不満にも配慮しつつ,社会全体の安定・調和  Ibid., p.149.  坂本,前掲論文,161頁。

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をはからねばならないという政府の役割に対する時代の要請もあってのことだったという 点も押さえておく必要があろう。  批准できなかった原因 まずは,その時々の経済・社会状況が批准への動きを押しとどめた。1919年の週48時間 労働導入へ一気に向かった流れは,20年以降の革命的雰囲気の後退や景気の悪化によって, 急激に弱まっていった。26年5月の鉱山ゼネストの沈静化は,鉱山法の改正による週48時 間以上への労働時間延長を招くこととなり,当然,批准の動きも停滞させた。最終的には 30年代初頭の世界恐慌が,ILO の労働時間問題に対する方針を転換させ,ワークシェアリ ング的な週40時間の追求へと目標が変わった結果,週48時間原則を謳う第1号条約の批准 問題は事実上終結したのであった。 批准の反対派は,使用者,保守党右派政治家,官僚などを主としたが,その反対根拠の うち最も広く主張されたのは,協約自治の体制を守るべきだという意見であった。労働条 件を決めるにあたって,自由な団体交渉こそが,産業独自の必要を満たすための弾力性を 保証してくれる手段であって,労働時間法制は,「労働協約を国家管理に完全に置き換え」, 「様々な産業実態を持つ国々に対して画一性を求めるもの」である。条約の批准は,「国に よる認可と労働組合の態度に依存」する状況を招いて「産業を束縛するだけ」であって, 「工業活動にとっての必要性を満たすような十分な弾力性を確保すること」ができなくなっ てしまう。こうした協約自治による弾力性の確保を第一義とする意見が,様々な場で一貫 して主張された。第1号条約の批准を巡る経験は,イギリスにおいてヴォランタリズムが いかに至上のものとして理解されているかを改めて確認させるものである。 「外国嫌い」の気風も一つの原因となった。 政治家や官僚のなかには, 批准においてベ ルギーやフランスが先行したことを快く思わず,またロンドン会議での他国の解釈に拘束 されることを懸念する向きもあった。厳格な「英国風」法施行ではなく,行動の原則を設 定するために法を利用する「大陸風」の手法,すなわち ILO 方式が好まれなかったのも, その一つの事例であった。イギリス政府は,21年に条約改正を提案するさい,条文の厳格 な施行を念頭に置いて批准上の障害の存在を訴えた。他方でトーマは,イギリスが言う障 害は条約の規定と矛盾しないと説明した。イギリスは,二度の改正提案やベルン会議・ロ ンドン会議の議論でも,条約1条ごとの厳密な解釈の統一に終始こだわりを見せたが,こ うした「英国風」と「大陸風」の差によって生じた両者の理解の溝は,最後まで埋まらな かったように思われる。

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「条約の実際の適用において克服できない困難が生じる」と ILO の使用者グループは批 判していたが,週5日半労働や,鉄道業における日曜労働といった慣行を,条約の規定と どう整合させるかについても疑問が示されていた。労働条件の悪化もありうると考えた鉄 道業労働組合の懸念はこの時期を通じて続き,最終的に批准が頓挫する原因となった。ま た,労働協約が労働時間を決定している環境の下では,労働組合ですら法制化の緊要性を それほど感じていなかったとされる。労働者は条約に賛成,使用者は反対というおおよそ の特徴付けはできるとしても,前述の通り使用者でも競争条件の平等化を考えて批准に賛 成した者があったように,現実は複雑であって,労働者・使用者を単純に色分けして判断 できるものではなかった 最後に,ILO の対応についても触れておかねばならないであろう。イギリスの改正提案 にあたって,トーマをはじめとする ILO 指導部は,第1号条約の規定と決して相容れない ものではないという自身の解釈の方向へイギリスを説得することができなかった。イギリ スとしては,労働協約によって48時間労働をほぼ実現しつつ,かつ弾力性も確保しており, 他国と比較して優越するものと認識している協約自治システムが,国際条約によって拘束 されることをリスクと捉える向きがあった。他方,ILO にとっては,条約に従った法規制 を各国一律に導入することが,組織としての譲れない目標であった。ベルン会議,ロンド ン会議という「私的な会合」が,個別条項に関する解釈を統一するという具体作業に入っ たのとは対照的に, ILO の場では最後までそうした議論をするには至らなかった。 ILO は,妥協を得て条約を作成する能力,また関連する膨大な情報を世界から収集して,いく つもの詳細な報告を作成する能力は十分に示したが(毎年の総会に提出される事務局長報 告は全部で数百頁に及ぶもので, 第1号条約関連の情報だけも例年数十頁が割かれてい た),その実地への適用と関わる批准問題に関して, 国際的に事態を収拾させうるような 打開策を打ち出すことには成功しなかった。  ILO が与えた影響 イギリスでは,ILO 総会が第1号条約を決議するより前の1919年前半に週48時間労働が 急激に広がっており,条約そのものが労働時間の実態に与えた影響は少なかった。また,  ILO の使用者グループも,ILO が「穏当で,整然として,慎重であるべき」と繰り返し釘を刺 すことを心がけていたものの,ILO の仕事に建設的に参加はしていたとロジャース(Gerry Rodgers) は言う。たとえばイタリア使用者代表で,理事会の使用者代表副議長だったオリベッティ(Gino Olivetti)が,「総会の決議,事務局の研究調査,理事会での落ち着いた議論が,社会問題に解決 の光明を投じ,未解決の問題の解決の方法を指し示し,新しい方法や考え方を浮き彫りにしたこ とは確かである」と述べていることもその例として挙げている。Rodgers, G., op, cit., p.96.

参照

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