状況としての先端医療
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(2) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. とは称されなくなる。さらに言えば、現在では通常の医. どのような「先端医療」であれ、いずれは「先端医療」. るからではないだろうか。. 題と重なり合うことには、きわめて重大な意味がある。. 「生命倫理 学() 」(バイオエシックス)の言及する主要な課. そ の 意 味 で は、 今 日 の 先「 端 医 療 と」 し て「 遺 伝 子 治 療」「生殖補助技術」「臓器移植」と並べると、それらが. 射」や「虫垂切除術」がそうであるように、かつては画. 療行為に含まれている医療技術にしても、たとえば「注 期的で刷新的な「先端医療」であったはずで、そのこと. 療」が可能にした事態と密接に関連しているからであ. そ も 生「 命 倫 理 は」、 そ れ が 一 九 六 〇 年 代 以 降 に 生 成 さ れ、一九八〇年代に確立される過程で、今日の「先端医. というのも、今日の先端医療をめぐる議論はそのほとん. れる医療技術・分野を指し示す名称でも概念でもなく、. が意識すらされないで常態的に使用されている医療技術. 特定の医療技術が「それが特定の時点において先進的で. る。つまり、 生「命倫理 は 」今日の「先端医療」の状況性. どが 生「命倫理」において展開されているのだが、そも. ある」という場合に帯びる「状況」であると言えるだろ. によって開かれたのであり、同時に今日の 先「端医療 は 」 その状況が可能にした事態を論じる「場」として 生「命. も少なくない。. う。だとすれば、 先「端医療 に」ついて議論するにあたっ ては、その医療技術が個別に抱える医学・医療的な(あ. すなわち、「先端医療」というのは、個別的に特定さ. るいは技術的な)先進性についての問題と、それが「先. 倫理 を 」生成したのである。いわば 生「命倫理 と 」 先「端医 療 は 」相互依存の関係にあるのであり、この関係性にお. 本稿では、個々の先端的な医療技術が個別に抱える問. いて、今日の 先「端医療 は 」非常に困難で複合的な議論を 引き起こしているのではないだろうか。. 端医療であるという状況」によって主題化させる問題と. ている場合が多いのだが、その議論が複合的に困難な事. 療」をめぐる議論においては、この二つの問題が錯綜し. 題を論じるわけではないし、「生命倫理 (学) 」の思想史. を 区 別 す る 必 要 が あ る。 実 の と こ ろ、 今 日 の「 先 端 医. 態を迎えているのは、そういう理由からではなく、あえ. を概観しようとするものでもない。ここでは、医療技術 0. が「先端医療という状況」にあるとはどういうことなの. 0. て形式的に言えば、「先端医療性」とでも言うべきこの 0. 「状況」が従来のそれとは質的に異なる事態を開いてい. -24-.
(3) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. と い う「 場 」 の 生 成 や 構 造 と 関 連 づ け て 考 察 す る こ と. た「先端医療」である。病理解剖学者R・フィッツは、. 「虫垂切除術」は、一九世の終わり頃に米国で登場し. 盲 腸 の 周 囲 の 炎 症 ( 盲 腸 周 囲 炎 )で 死 亡 し た 五 〇 〇 例 以. か、 そ の こ と に よ っ て 何 が 生 じ る の か を、「 生 命 倫 理 」 で、今日の「先端医療」を検討してみたい。. 上の解剖データをもとに、その炎症がほぼ「虫垂」にあ. る こ と を 指 摘 し、「 虫 垂 炎 」 と い う 病 名 を 設 定 し た。. う。ある意味で、個々の「先端医療の登場」は、近代医. 果 を 得 て き た こ と は、 そ の 歴 史 を 見 れ ば 明 ら か で あ ろ. 近代医学がその時々の「先端医療」によって大きな成. 術」は、発表当初にはほとんど顧みられることはなかっ. されていた。それゆえ、外科的な処置である「虫垂切除. 当時では、「盲腸周囲炎」に対して内科的な治療が確立. ア メ リ カ 医 学 協 会 ( 一 八 八 六 年 )で 報 告 し た の で あ る。. フィッツは、その的確な治療法として「虫垂の切除」を. 学の歴史において重要な「出来事」を構成してきたとさ. た。その後、治療効果 (とりわけ早期切除による)を示す. Ⅱ. え言える。. あるほど、実用的なレベルでの使用に至るまでには、医. に登場するわけではない。その方向性が革新的であれば. 垂 炎 」 と い う 死 亡 率 の 低 い、 軽 度 の 疾 病 に し た の で あ. た。こうして「虫垂切除術」は、「盲腸周囲炎」を「虫. という治療法の根本的な変化が促進されることになっ. 来の内科的療法から「虫垂切除術」という外科的療法へ. 術例が蓄積され、麻酔法や消毒法が進展したことで、従. 学的研究の範疇における経験的 (実証的)なデータの積. もちろん、特定の「先端医療」は、一夜城の如く突然. み上げや新しい医療技術を使用する対象の概念化が必要. る. 医学的研究以外の分野での新しい発見・発明や画期的な進歩が. あれ、隣接する技術の進展も必要とされる (むしろ逆に、. 術がそこで果たした役割はそれまで以上に大きいもので. は、第二次世界大戦以降だとされている。新しい医療技. の 低 下 に お い て、 と り わ け め ざ ま し い 成 果 を あ げ た の. 近 代 医 学 が、 救 命 ( 延 命 ) ・治療効果の向上や死亡率. (2). 。. であるし、それが医学的範疇であれ、それ以外の分野で. そうした典型的な事例である。. 「先端医療」を生み出すケースもあろう) 。「虫垂切除術」は. -25-.
(4) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. 端医療」の導入は、その最たるものであると言われてい. 透析装置) 」、癌治療における「抗がん剤」といった「先. 「抗生物質」、腎臓の疾患に用いられた「人工透析 (血液. あ っ た。 た と え ば、 結 核 な ど の 感 染 症 の 克 服 に お け る. になったのである。そういう意味では、現在でもよく聞. 患 っ て い る 患 者 」 で は な く て、「 患 者 が 患 っ て い る 病 」. となったのである。つまり、医師が診るべきは、「病を. 間」ではなく「病」であることを様式化する要因の一つ. 師 と 患 者 と の 間 に 介 在 す る こ と で、 医 療 の 対 象 が「 人. 聴診器の登場にあると言えるのかもしれない。もう少し. かれる「病を診て人を診ず」という医療批判の遠因は、. る。 こうした治療効果の向上や死亡率の低下といった医療行. しかしながら、先端医療が医学にもたらしたものは、. 詳細に追ってみよう。. よって、患者自体とのいわば「対話」を通じて行われて. 聴 診 器 以 前 の 診 察 は、 打 診 や 触 診、 あ る い は 問 診 に. 為の成果だけではない。先端医療の登場 (導入)は、近 は、医療行為における曖昧な (変化が確定的でない)方向. いた。医師の前には、彼が触れることのできる患者の身. 代医学の様式に構造的な変化をもたらしてきた。あるい 性や態度を顕在化させたり、固定化させたりする役割も. 体全体の表層があり、彼が聞くことのできる患者の語り. いる状況の性質について、もっと正確な情報を医師に与. (自覚症状としての主観的経験と苦痛や苦悩という感情的表出). 担ってきた。こうした事態も、先端医療が近代医学とい. えることができた。よく知られているように、聴診器の. うシステム全体に及ぼした「質的な」影響として、歴史 たとえば、現在において「医師の表象」ともいうべき. 開発者のフランス人医師ラエネクがそのメカニズムを初. があった。しかし、聴診器は、患者の「内部」で生じて. 「聴診器」にしても、それが一九世の初頭に登場したと. めて臨床で応用した時のエピソードは、このことを如実. 的な「出来事」に含めておくべきであろう。. は偶然のきっかけであったが、「聴診器」は近代医学に. き に は「 先 端 医 療 ( 機 具 ) 」 で あ っ た。 そ の 開 発 の 発 端. ていた。しかし、患者が肥満体型であったため、打診や. ラエネクは心臓疾患の疑われる若い女性患者を診察し. に物語っている。. せ、定着させることに、少なからず貢献した。ニール・. おいて潜在的に進行しつつあった様式の変化を顕在化さ )「聴診器」は、医 ポストマンも指摘しているように (3、. -26-.
(5) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 況を再構成することになったのである。. れた音」によってのみ、診断の対象を概念化し、その状. もう一つは、病を身体全体との関係性からとらえるの. 触診では診察効果が見込めず、かといって若い女性であ 彼は、子供が木の棒を耳にあてて遊んでいることを思い. と が 明 確 化 さ れ た こ と で あ る。 こ の こ と は、 た と え ば. ではなく、個別的な身体器官の不具合としてとらえるこ. るため、胸部への直接的な聴診もはばかられた。そこで 起こした。紙を丸めて筒状にして、その一方を患者の胸. ミ ッ シ ェ ル・ フ ー コ ー が「 医 師 の 患 者 へ の 問 い か け が. 部に、他方を自分の耳に当てて、「増幅された」心音を 聞いたのである。ラエネクは、「内臓で生じるあらゆる. 『どうしたのですか?』から『どこが具合が悪いのです. か?』へ変化した」ことに見出していることと同じであ. 音の性質を確かめる手段を得た」と、この瞬間のことを. ) つ ま り、 人 間 の 身 体 は 機 械 の よ う に 様 々 な「 部 る (5。. ) 感動的に回想している (4。. 聴診器が登場して以降、医師は、患者の語りや主観に. 品」から構成されており、病はその部品 身(体器官 の)故. 0. 巻き込まれることなく、聴診器を介して患者の身体器官 0. 障であるとする考え方への移行である。聴診器は、患者. 0. と客観的に向き合うことができるようになった。聴診器. 全 体 を 診 る の で は な く、 特 定 の 器 官 へ の 個 別 的 な ア プ. ローチの可能性を開いたことで、この移行を促進したと. 0. による診察は当初「間接聴診法」と称されていたが、ま さしく患者と医師との関係は「直接性 (患者と直接的に関. 言えるだろう。. 得られた「客観的な情報」であり、逆に言えば、患者の. を顕在化させた。まず、医師が信頼すべきは聴診器から. この変容は、二つの重要な意味で、近代医学のモデル. て、 そ の 逆 で は 決 し て な い ( こ の 点 こ そ が、 先 端 医 療 が. それが依拠する「医学モデル」も影響を被ったのであっ. 者を診る眼差しやスタイル 「(臨床の医療様式」 が)変わり、. 報の性格を規定した。聴診器の登場によって、医師の患. 何かを規定すると同時に、それを分節するのに必要な情. 端的に述べれば、聴診器は医師が対象とすべきものは. わること) 」から「間接性 (「聴診器」がもたらす情報を介し て間接的に関わること) 」へと変容することになったので. 主観性はむしろ診察の「障害」にさえなるということで. 「先端医療という状況」にあることの要点であろう 。 「 ) 聴診. ある。. ある。医師の診断は、聴診器によって得られた「増幅さ. -27-.
(6) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. いが、一つの「先端医療」がそれの属するマトリックス. 器」は、むろんそれが単独でなしえたということではな. 確に分類し、明確に説明できるというわけである。. 表示された検査データから、患者の身体器官の状況を的. り付けられたフィルムやコンピュータのディスプレイに. 具・診断技術、たとえば検視鏡・喉頭鏡といった診察器. た。 実 の と こ ろ、 今 日 で は 常 態 的 に 用 い ら れ る 検 査 器. 続け、技術的にも精度的にも格段に進歩し、向上してき. 「器具」は医師と「人間としての患者」との間に介在し. 響を与える可能性は極めて低いだろう。しかし、いかに. 臨(床的な治療効果 が)なければ、先端医療が医療様式に影. ろ ん、 前 者 と 後 者 の 関 係 は 密 接 で、 そ の 実 践 的 な 効 果. モデル」そのものに大きな影響をもたらしてきた。もち. そうであったように、先行する臨床の医療様式や「医学. を劇的に向上させてきた。同時に、「聴診器」の場合が. その時々の先端医療の多くは、従来の医療の治療効果. をも変質させる可能性を持つことの一例と言えるだろ う。. 具にしろ、レントゲン、CTスキャン、MRIといった. 劇的な向上であろうとも、治療効果があるということだ. 聴 診 器 以 降、 患 者 の 不 可 視 の 内 部 を 診 る「 技 術 」 や. 画像診断システムにしろ、あるいは組織検査にしろ、聴. けでは、そこに生じる事態は単に治療技術が進展したと. は、分類され、蓄積されると、いわば範例を構築するこ. もたらされた患者の身体器官についての客観的な情報. 化されることである。というのも、先行する医療様式を. という状況にあること」というのは、その関係性が主題. デル」との関係性ということになるだろう。「先端医療. 従って、先端医療が 先「端医療であること に」よって主 題化するのは後者、すなわち従来の医療様式や「医学モ. いうことに過ぎない。. 診器が顕在化させた診断の形式の延長線上にあるものに. とになる。患者の病は、その範例に照らして、身体器官. 顕在化させると同時にそれに挑戦する様式を顕在化さ. 過 ぎ な い。 聴 診 器 の 場 合 は「 増 幅 さ れ た 音 」 で あ っ た. の 不 具 合 (過剰、逸脱、欠損、不足)と し て、(もはや医師. せ、医療の在り方に根本的な変質をもたらすことこそ、. が、どのような器具であれ、技術であれ、それによって. の主観的な判断をも排除して)規範的に説明されるのであ. 「先端医療という状況にあること」であるからだ。逆に. 0. る。今日の医者であれば、診察イスに座っている患者の 0. 語りなどうわの空で聞いていても、ライトボックスに貼. -28-.
(7) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 広「範性」や「深度 に」おいても、それ以前の先端医療、 たとえば「虫垂切除術」や「聴診器」とは、かなり異質. 0. なものである。確かに、こうした今日の先端医療は医学. 0. を止めれば、つまり通常の医療行為として定着してしま. の領域の成果だけで誕生したわけではなく、生命科学と. 0. えば、その先端医療は、あるいはそれが開いた可能な状. いう領野と密接に連動したものである。それゆえ、先端. 0. 況にしても、何かを主題化することはなくなる。むしろ、. 0. 主題化されてきた事柄は自明視され、隠蔽されることに. は、生命科学にそうした側面があることからすれば、当. ず、 社 会 的 影 響 に 対 す る 倫 理 的 な 検 討 を 含 ん で い る の. 言えば、先端医療が「先端医療という状況にあること」. なるだろう。そういう意味では、 先「端医療であるとい う状況」がそれが関わる何らかの規範や様式を流動態化. 然のことかもしれない。しかし、今日の先端医療は、そ. 医療に関する議論が、単に医学・医療の範疇にとどまら. させるのだとすれば、先端医療が常態化するプロセスは それらが凝集態化されるプロセスと言い換えることがで. の技術的な 先「進性 及」びそれが生み出す結果の 新「規性 」 のみならず、それによって開かれる事態について交わさ. 医学・医療の外部へと及ぶだけではなく、それを論じる. ある。つまり、今日の先端医療は、それを論じる範疇が. 療はおろか、生命科学の枠組みさえも超え出ているので. れる議論の「広範さ」や「深度」からしても、医学・医. きるかもしれない。常態化してしまうと、 先「端医療で あるという状況 が」主題化したものは沈殿し、あたかも 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 最初からそうであったかのように自明視されてしまうの である。. Ⅲ. のといえば、冒頭においても触れた「遺伝子治療」「生. (先端性から生じる状況) 」 と い う 事 態 の 広「 範 性 」 や 深「. 能にする現象の新規性と、 先「端医療であるという状況. 場「 の」「布置 に」ついてさえ再検討を求めているのであ る。このことは、先端医療の技術的な先進性やそれが可. 殖補助技術」「臓器移植」などであるが、それらが技術. 度 と」をますます交錯させてしまい、先に指摘したよう に、今日の先端医療についての議論を複合的で困難なも. 前世紀後半から今日において、先端医療の代表的なも. 的に可能にする現実の 新「規性」においても、それらが 「先端医療という状況にある」ことで生じている事態の. -29-.
(8) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. のにしているのである。 た と え ば「 生 殖 補 助 技 術 」 と「 家 族 」 概 念 と の 関 係. 遺伝的な繋がりのない父‐子関係が生じるし、体外受精. 人工授精の場合であれば、夫以外の精子を用いると、. みの母親と養育する母親が一致している)が、代理出産の場. 受精の場合には出産するのは妻である (子供からすれば産. 父‐母‐子関係が成立することになる。人工授精と体外. の場合には、妻以外の卵子を用いれば、遺伝的な繋がり. てその力学的な構造は変質してきたし、人類学・民族誌. 近代的な家族概念は、女性や子供の人権の拡張に伴っ. 合では、両親の精子・卵子を用いれば、両親と子供との. を受精させて妻の子宮に戻すと、遺伝的な繋がりのない. 学的な研究の蓄積によってその形態の相対化も促されて. 間に遺伝的関係はあるものの、産みの母親と養育する母. のない母‐子関係、さらに夫以外の精子と妻以外の卵子. きた。しかし、西洋社会では家族概念がその基本的な構. は、技術的な先進性がもたらす現実と 先「端医療である という状況」によってもたらされる事態との複合的な交. 成要素として親‐子関係を遺伝的学的な「血筋」によっ. 親が一致しない関係が生じるし、精子も卵子も第三者の. 錯を示す典型的な事例であろう。. て規定することに変化はなかった。ところが、生殖補助. れば、両親はおろか、産みの母親とさえ遺伝関係のない. ものを用いて、しかも代理母以外の卵子で体外受精をす. を根源的に揺さぶる家族関係を可能にするのである。. 技術はこの本質的とされてきた親‐子関係の「繋がり」. に よ る 出 産 )が あ る が、 い ず れ の 技 術 を 用 い て も、 遺 伝. 管ベビー」と称されている) 、代理出産 (配偶者以外の第三者. 宮に戻す技術で、これによって誕生した子供がいわゆる「試験. る) 、体外受精 (体外で精子と卵子を受精させ、それを妻の子. は、 人 工 授 精 ( 妻 の 体 内 で 人 工 的 に 精 子 を 子 宮 に 受 精 さ せ. 繋がりのある母親と産みの母親となる家族が成立する。. をもう片方の女性の子宮に戻せば、それぞれが遺伝的な. 者の精子と片方の女性の卵子を用いて体外受精し、それ. ることができる。女性同士のカップルの場合なら、第三. もかかわらず、「遺伝的な繋がり」のある子供をもうけ. 族形態が可能になる。たとえば、配偶者が同性であるに. また、生殖補助技術を応用すれば、従来とは異なる家. 子供が誕生することになる。. 的な繋がりがない親‐子関係を生じる組み合わせが成立. 実用化段階に達しているとされる「生殖補助技術」に. ) するケースが生じる (6。. -30-.
(9) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. を含む家族を構成することは可能だし、男性同士のカッ. しても、代理母によって遺伝的な関係にある親‐子関係. 男性同士のカップルでも、「生みの親」にはなれないと. ティ形成に与える影響を考えるにあたって、どのような. 生じてくる。こうした問題が家族や子供のアイデンティ. 在 す る こ と を 知 る ( 出 自 を 知 る )な ど と と い っ た 問 題 が. る、子供が「家族」のどこか外部に遺伝的な「親」が存. 親あるいは母親と似ていないことが明らかになってく. 際に出産した女性と生まれた子供との関係性はどうなる. は有効性を持つだろうか。また、代理母の場合なら、実. 0. プルと女性同士のカップルの間で卵子や精子を提供しあ. のだろうか。たとえば「ベビーM事件」(7)といった判例. 0. えば、子供が遺伝的な親をまったく見知らないという状. 分野であれ、文化や社会が積み上げてきた従来の経験知. 係を介さなくてもシングル・マザーになることを可能に. さらに、生殖補助技術による交配は、煩わしい男女関. の よ う に、 代 理 母 が 依 頼 者 の 夫 婦 に 子 供 を 渡 さ な い と. 0. 態を回避することも可能であろう。. 能になる) 、その果てには生殖行為とエロス (性愛)との. す る し (精子提供者の選択により、子供の遺伝的な選択も可. 0. 0. 0. 0. 補助技術をどこまで許容すべきなのかという根本的な問. いった問題が生じた場合、伝統的な家族観に基づいた社. 0. 分離という現象を促進することになるかもしれない。い. 0. 会的な諸制度は対処できるであろうか。そもそも、生殖. を用いれば死後生殖すらも可能になる。 0. ささか現実離れしているが、冷凍保存された精子や卵子. 0. 題 に い た っ て は、 従 来 の 価 値 観 や 知 の 体 系 (医学・医療. 0. いずれにしても、生殖補助技術という先進的な医療技. 0. の範疇はもちろんのこと、たとえば倫理学、社会学、法学など. 0. 0. に し て も )は 有 効 な 判 断 の 根 拠 を 提 示 で き る だ ろ う か。. 0. 術は、家族の関係性であれ、家族の形態であれ、新しい. 0. 現実を生み出すことになるが、それらが既存の家族概念 0. つまり、家族構成の形態が多様化する可能性、家族概念. 0. 自体が拡散する可能性を前にして、従来の家族概念やそ. 0. やそれに基づいた家族制度が想定しえないものであるた. 0. めに、実際的な問題として論じることが困難になってい. 0. れに依拠する諸制度自体が揺らぎ、その根本的な再検討. 0. こうした問題を論じることが困難なのは、新しい「家. を迫られているのである。. る (生殖補助技術の新規性という問題) 。 りを持たない子供をもうけると、子供の成長につれて父. たとえば、体外受精や人工授精を用いて遺伝的な繋が. -31-.
(10) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. のである以上、それを論じる有効性を失っているからで. でに医学・医療の範疇を超えているし、 家「族 を」扱う従 来の知の枠組みや諸制度にしても、その想定を超えるも. う医療技術であるが、 家「族 の」在り方を論じることはす. 族の関係性や形態」を可能にするのは生殖補助技術とい. いるとか、従来の枠組みや制度が有効性を失うというこ. 端医療であるという状況 に」よって開く事態において重 要なのは、論じられる事象が医学・医療の範疇を超えて. うことになるだろう。実のところ、生殖補助技術が 先「. の枠組み」とを同時に新しく配置し直す必要があるとい. 0. とではなくて、この事態を論じるにあたって新しい知の. 0. ある。つまり、生殖補助技術は新しい現実を可能にする. 0. が (生殖補助技術の新規性) 、それを論じることが不可能. 先端医療が 生命倫理 (学) 」の主要な課題と重なり合っ 「 ているという事実と、 生「命倫理 (学) 」が今日の先端医. の議論の中心が 生「命倫理 (学) に」置かれ、また今日の. 「布置 が」必要とされていることなのではないだろうか。 こうした意味においてこそ、今日の先端医療について. になっているという事態 (生殖補助技術が 先「端医療である という状況 に」よって開く事態)も開いてしまうのである。 しかし、この事態を論じるには、現れた現実は医学・ 医 療 の 範 疇 を 超 え て は い る が、 そ れ が 生 殖 補 助 技 術 に. 0. 0. 0. 療の発展とほぼ同時に生成された 新「しい 領 」野であり、 学際的でメタ倫理学的なディシプリンであるということ 0. よってもたらされているのである以上、逆に医学・医療 の範疇を抜きに議論はできない。そもそも、新しい「家. は、重要な関係を取り結んでいるのである。. 0. 0. Ⅳ. 族の関係性や形態」は、生殖補助技術という医療技術に よって可能になるのであるし、生殖補助技術が行使され. 0. るのは (実験室であれ、臨床であれ)医学・医療という空 0. もちろん、 生「命倫理 (学) 」 の 思 想 史 を 遡 れ ば、 そ の 生成の契機の一つとして、一九四七年の ニ「ュルンベル. 間においてであるからである。 の関係性や形態」を論じるにせよ、生殖補助技術が 先「. ク裁判 (ニュルンベルク綱領) と 」いう歴史的な出来事に たどり着くことになる。この裁判の目的はナチスの非人. だとすれば、生殖補助技術が可能にする新しい「家族 端医療であるという状況 に」よって開く事態を論じるに せよ、 「医学・医療という範疇」と「家族を論じる従来. -32-.
(11) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. と っ て 必 須 で あ る と し て、 人 体 実 験 を 倫 理 的 な 規 則 に. 道 的 な 人 体 実 験 を 裁 く こ と に あ っ た が、 医 学 の 発 展 に. 者関係を域を出るものではなかったし、その関係性にお. いう関係性であり、従来のパターナリズム的な医師‐患. もたらしたに過ぎず、何か重大な倫理的な様相が主題化. いて医師がイニシアティブを握ることの倫理的な問題を. されたわけではない。大きな治療成果をもたらしたとさ. よって防御することにもあった。「綱領」の第一項「被. テス的伝統 (パターナリズム)に基づいた「医療倫理」か. れ る「 抗 生 物 質 」 や「 人 工 透 析 」 に し て も 同 様 で あ ろ. 主題化したわけではなかった。「虫垂切除術」の登場に. らの断絶の宣言でもあった。すなわち、「ニュルンベル. う。従来の先端医療は「先端医療という状況」によって. しても、特定の疾患の治療のアプローチの仕方に変更を. ク 綱 領 」 は「 自 己 決 定 権 」 と そ れ を 原 理 と し た イ ン. 「ヒポクラテスの誓い」に詠われる「医療倫理」を揺さ. 文言は、その絶対的な防御壁であると同時に、ヒポクラ. フォームド・コンセントが最初に明記された出来事であ. 験者の自発的同意は絶対的本質的なものである」という. り、「生命倫理」の起点の一つである。しかし、それは. 今日の先端医療の場合、 聴 「診器 や」 虫「垂切除術 の」場. ぶることはなかったのである。. 理」から「生命倫理」への移行が医学・医療全般、とり. 合とは異なり、それが 先「端医療である状況 に」おいて、 従来の「医療倫理」自体を主題化させる。つまり、今日. 「 人 体 実 験 」 を 対 象 と し た 倫 理 的 原 則 で あ り、「 医 療 倫 わけ臨床にまで浸透するには、さまざまな紆余曲折や批. の先端医療は、それを行使するにあたっての倫理規定そ. 0. 判を経なければならなかった。今日の「先端医療」は、. のものを再検討しなければならない事態、従来の「医療. 0. そ の「 状 況 性 (「 先 端 医 療 で あ る と い う 状 況 」 が 開 く 事 態 ) 」. 倫理」がその限界に直面する事態を顕わにしてしまう。. 0. によって、この経緯と密接に関わることになる。. が 相 対 化・ 多 様 化 さ れ、 医 療 行 為 者 ( と り わ け 医 師 )の. 0. 「聴診器」にしろ、「虫垂切除術」にしろ、そうした過. 権威が解体されてしまい、医療行為者側がパターナリズ. そこでは、自明視されていた生命や健康についての価値. 去の先端医療は、それが 先「端医療である状況 に」おいて 0 0 0 さえ、従来の「医療倫理」に何か根本的な変化を迫った. ム的な従来の「医療倫理」に依拠するだけでは解決でき. 0. わけではなかった。「聴診器」が様式化したのは「診る. 0. ものとしての医師とその対象としての患者 (の身体) 」と. -33-.
(12) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. ある。たとえば、しばしば指摘されているように、医療. ないような倫理的選択を迫る局面が開かれてしまうので. 成であるように見えるかもしれない。 自「己決定権 は 」従 来 の 医「 療 倫 理 の」 限 界 ( そ れ は 先 端 医 療 が そ の「 状 況 性 」. 定権」を編入しただけで、「医療倫理」の拡張的な再編. によって開いた事態でもある)を乗り越える原理としてそ. 行為の方向性をめぐって、生命の尊厳 (SOL)か生活 の質 (QOL)かの選択を迫られた場合、医療行為者側. 0. からの視点しか持たない (患者からの視点が欠如した)医. 0. て、四つの原則は 医「療倫理 と 」は別様の「布置」として. 0. こ へ 導 入 さ れ た も の で あ る が、 自「 己 決 定 権 が」 主 要 な 「原則」の一つとして位置づけられるということによっ. パターナリズム的な医師の判断は患者の判断に対して機. 療倫理に基づくだけでは、その限界が露呈してしまい、 能しなくなってしまう。今日の先端医療では、その様相. 生「命倫理 を 」現前させることになる。それゆえ、 生「命 倫理 は」、しばしば指摘されるように、医療行為者中心. 乗 り 越 え る べ く 生 成 さ れ た の が「 生 命 倫 理 ( 学 ) 」であ. (パターナリズム)から患者中心へと、医療の在り方の再. がより一層に先鋭化されて現れるのである。その限界を り、そこでは、従来の「医療倫理」の臨界点を超える倫. 検討を促してはいるが、 生「命倫理 に」 自「己決定権 が」導 入されるというのは、そうした意味においてではなく、. ゆ る「 患 者 の 自 己 決 定 権 ( 患 者 の 自 律 性 )の 尊 重 」 で あ. も、むしろ患者側の判断が優先されることになる。いわ. て)を根底から問い直すという性質を持つということで. 「生命倫理」が従来の「医療倫理」のすべて (原則も含め. 理的なジレンマの解決には、医療者行為者側の判断より. る。. 倫理 で」あるということからしても、 生「命倫理 に」おける 自「己 0 0 0 決定権 の」特権性は、歴史的なものではあるが、当然そういう. と異なることになるだろう ( 生「命倫理 が」生成された経緯、 つまり「医療倫理 の」限界を乗り越えるための原理として 自「己 決定権 が」導入され、それを含めて現前化される 布「置 が」 生「命. ある。それゆえ、 生「命倫理 に」おける 自「己決定権」の 位置づけは、その地位も重要度も、他の三原則とは自ず. 「生命倫理」に従えば、四つの主要な「原則」があり、 その一つが「患者の自己決定権の尊重 (自律尊重) 」であ ) 他 の 三 つ の「 原 則 」 が「 善 行 原 る と さ れ て い る ( 8。. 理」、「無危害原理」、「公正原理」であって、それらが従 来の 医「療倫理 の」主要な原則でもあるということからす れば、 「生命倫理」の生成とは、そこへ新たに「自己決. -34-.
(13) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. ことになろう) 。. もちろん、「遺伝子治療」であれ、「生殖補助技術」で. 9 (. 、)その生. お い て、 今 日 の 先 端 医 療 に よ っ て も た ら さ れ た 事 態 が. 「生命倫理」の生成の発端の一つであったと. しても、新しいものではなく、J・S・ミル、カント、. 命倫理 (学) 」 が、 あ る い は「 自 己 決 定 権 」 が、 先 端 医. いということを確認しておくことである。つまり、「生. しかし、重要なのは、ここにおいても、その逆ではな. 成の経緯が叙述されていることからしても、順序として. ロック、さらにはアリストテレスにまで遡ることのでき. 療を生み出したわけでは決してない。医療に関する倫理. あれ、「臓器移植」であれ、今日の先端医療の医療技術. る、思想史においてはかなり古い歴史をもった概念であ. 的な原則が変わることで先端医療が生み出されたのでは. は、今日の先端医療が「生命倫理」を生み出したのだと. り、それが「生命倫理」において特権的な地位を占めて. 捉えても、あながち間違いではないだろう。. いるのには、二〇世紀の社会倫理の中で、とりわけアメ. なく、先端医療が登場したことで (正確には先端医療が可. 自体が直接的に「自己決定権」という概念を新たに引き. リカの思想において、再評価 (再発見)され、新たな位. 能にした事態を論じることにおいてであるが)医療に関する. 入れたわけではない。また、「自己決定」という概念に. 置づけを与えられたという経緯とも密接な関連がある。. 0. 0. 0. 倫理的な原則が変わるということは、端的に言ってしま. 0. それゆえ、厳密に述べれば、先端医療の技術的な革新性. えば、倫理が先端医療を規定するのではなく、結果とし 0. や先進性が「生命倫理」を直接的に生み出したわけでは. ては先端医療が倫理を規定するということである。今日. の先端医療の場合なら、それが単なる医療に関する倫理. 0. ない。とはいえ、「生命倫理」が生成されたのは、先端. ではなくて 生「命倫理 で」あるということを考慮すれば、 過去の先端医療が医学モデルや医療様式に変容をもたら. 医療によって開かれた事態が従来の 医「療倫理 の」限界を 露呈させるがゆえに、倫理的な原則の再検討を行う過程 に お い て で あ っ た。 要 す る に、 先 端 医 療 が 開 く 事 態 と. 要するに、今日の先端医療は、その「状況性」によっ. て、 医 療 に お け る 倫 理 に、 あ る い は む し ろ 倫 理 と い う. した事態とは、かなり異質であると言えるだろう。. は、「生命倫理」が 自「己決定権 と」いう原理を導入して 乗り越えようとした「医療倫理」の限界状況でもあった わけである。事実、 生「命倫理 (学) の」概説書の多くに. -35-.
(14) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 今日の先端医療はそれぞれに独自の問題について議論が. 「遺伝子治療」「生殖補助技術」「臓器移植」といった. Ⅴ. 態 と の 決 定 的 な 非 連 続 性 は、 そ れ が 論 じ ら れ る て い る. ろ、それらは相互に関連づいており、共通点を見出すこ. 今日の先端医療が開く事態と従来の先端医療が開いた事. 0. 「場」の「布置」に決定的な変更を迫っているのである。. 場「 」 が 何 か と い う こ と だ け で は な く、 そ れ を 論 じ る 「場」の生成との関係性にもあると言えるだろう。先に. ともそれほど難しくはない。たとえば、今日の先端医療. すという場合、その医療技術は「先端医療であるという. 様式そのものを主題化し、そしてその様式に影響を及ぼ. ら生活習慣病へと変化したという医学的事実があり、技. としているが、その登場の背景には疾病構造が感染症か. は人間の誕生や死に対して人為的に介入することを特徴. 展開されているが、研究レベルにしろ、臨床レベルにし. の医療技術が可能にした事態)が、それが行使される医療. 状況にある」ということになる。しかし、今日の先端医. 術的な背景としては生命工学や生命科学との密接な連携. ろそのことによって生じる事態で通底していることであ. 要ではない。重要なのは、人間の「生」と 死「」へ技術 的に介入することで通底していることではなくて、むし. -36-. も指摘したように、新たに登場した特定の医療技術 (そ. 療が開いた事態は、医学・医療の領域を超えて (あるい. しかし、そうした医学・医療の範疇で主題化可能な共. がある。. れてきた概念や制度が主題化され、社会‐文化的な価値. 通点を指摘することは、 生「命倫理 に」おいて今日の先端 医療が論じられることの意味を問う場合には、さして重. は 医 学・ 医 療 の 手「 前 で」 ) 、これまで当然として自明視さ. 観(あるいは倫理観)に揺さぶりをかける。そして、こ. と今日の先端医療との関係からすれば、今日の先端医療. うした事象を検討する議論の中心が 生「命倫理 (学) に」 置かれていることは、その「生命倫理」という「布置」 が開いた事態と過去のそれとが非連続であることを顕著 に示しているということになるだろう。. る。つまり、今日の先端医療が 生「 と 」 死「 に」介入するこ とで、「これまで問われることのなかった新しい倫理的. 問題に直面すること」 (に)なると同時に、 生「 と 」 死「 と 」 10.
(15) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. ある。. いう概念そのものまでを主題化してしまうという事態で. 疇内の問題として、もう一方では「脳の死」を人の死と. 0. れるべきなのは、 臓「器移植 が」 脳「死 概」念と結びつくこ とで 死「 の」概念が 生「命倫理 の」 深「み で」裁ち直されると. の状況性との関連で言えば、 脳「死 そ」のものをめぐる議 論の内容を再検討することに意味はない。ここで論じら. 誰 も が 知 る と こ ろ と な っ て い る。 し か し、 先「 端 医 療 」. てきたことも、 脳「死 が」いわゆる「脳死問題」として複 合的に困難で膠着した議論になっていることも、もはや. 錯綜して論じられているが、そのためにかえって、 脳「 死 を」めぐって医学的な議論が長年にわたって蓄積され. することに伴う 死「の定義」の変更に関わる問題として、 いわば二層化して主題化されている。今日では、両者が. 生「 命 倫 理 に」 お い て 生「 と 」 死「 が」 主 題 化 さ れ る こ と は、 生「 命 倫 理 ( 学 ) が」 生「 命 に 関 す る 人 間 の 行 為 を 倫. (. 、) 当 然 の こ と か も し れ な. 理的に検討する こ」とであり、その課題が「生命科学・ 医学が扱う細胞・組織・臓器の利用に関するルールの確 立」であることからすれば. 0. い う、 臓「 器 移 植 」 の 帯 び る「 先 端 医 療 と い う 状 況 性 」 がもたらす問題である。. 脳「死問題 を 」めぐる議論において度々指摘されてきた こ と だ が、 脳「 の 死 に」 よ っ て 人 の 死 を 定 義 す る こ と. で は な い。 た と え ば、 フ ラ ン ス の 生 理 学 者 ビ シ ャ は. ( 脳「死 概」念)は 臓 「器移植 に」よって新たに開かれた概念. 一八〇〇年に発表した著作 (『生と死に関する生理学的な研. 究 』)に お い て (、) 生 命 を 有 機 的 生 命 と 動 「 」 「 」 「物的生 命 に」二分し、後者の中心となる器官を 脳「 と 」したうえ. -37-. い。しかし、すでに指摘したように、 生「命倫理 の」生成 と今日の先端医療との関係を考慮すれば、今日の先端医 療が「生命倫理」において「生 と 」 死「 を 」主題化させる ということ (先端医療と「生命倫理(学)」の課題が「性」と 0. 実のところ、この重なりの経緯と関係こそが今日の先端. 0. 「死」において重なり合うこと)に は、 重 要 な 意 味 が あ る。. 医療が「先端医療である状況」という状況性でもあるか らである。 「臓器移植」の場合なら、それが 脳「死」を人の死とす ることで可能となる医療技術であることからして、とり わけ 死「 の」概念と深く関わることになる。 臓「器移植 に」 おける 脳「死」とは、一方では「人の死としての脳の死」 が「脳のどの部位がどのような状態になることなのか」、 「それを判定することは可能か」という医学・医療の範. 12. 11.
(16) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. で、 脳「の死 を 」人の死の過程の一つとみなしている (こ. 義」の問題ということになる。. 多少とも厳密に言えば、蘇生医学の発達によって、とり. また、現在の「脳死問題」における「脳死」にしても、. う前提によってはじめて成立する。つまり、医療行為者. 臓器移植という医療技術は「脳死が人の死である」とい. の死 を」 不「可逆的な死の地点 と」して定義することは極 めて特異な意味を帯びることになる。前述したように、. しかし、 脳「死」概念が 臓「器移植 と 」連接すると、 脳「. わけ「人工呼吸器」の登場によって、たとえ脳が重大な. の 脳 の 死 は 現 在 の 脳 死 概 念 と は 異 な る し、 ビ シ ャ 自 身 は 「 「 」 「 」 脳の死 を」もって人の死を断定することには否定的であった) 。. 損傷を被って機能を停止しても、ある程度の時間バイタ 0. が殺人罪などに問われることなく 脳「の死 段」階で 臓「器 摘出 (」生命を維持するのに必須の臓器を移植のためにドナー. 0. から摘出すること)を可能にするには、 脳 「死 ( 脳「の死 の」. ル・サインを維持することが可能になった状態のことで ある。つまり、本来「脳死」は臓器移植とは別様の出自. 段階) が 」人の死でなければならない. (. 。) そ れ ゆ え、 現. を持った概念なのである。 現在の 脳「死」概念が依拠する医学的な知見において もそうだが、 人「の死 は」瞬間的な出来事ではなく一連の. 在の「脳死問題」において、 脳「死 を 」人の死として定義 す る と い う こ と は、 臓 器 移 植 (臓器摘出)の 正 当 性 の 根. 脳「死 が」人の死であるという定義づけがそのまま臓器. 拠の確立でもあるわけである。 . 移植を行使する根拠となると、 脳「死問題 に」おいて「脳 死」概念が臓器移植と常に一体化されて主題化されるこ. プロセスであり、 脳「の死 も」プロセスの一つの段階であ ると考えられており、こうした考え方はビシャの時代以 を確定するということ (臨床死)は、死に至るプロセス. とになる。というのも、臓器移植は 脳「死(脳の死) に」 ある段階が「不可逆の死の地点 (人の死) 」として確定さ. 前からすでに存在していた。医学的な見地で「人の死」 の ど こ か に 不「 可 逆 的 な 死 の 地 点 を」 決 定 す る こ と で あ り、多くの場合「心臓死」がその地点とされてきた。簡. れてから始まる 医「療行為 で」あるが、同時に「脳死は人 の 死 か 」 と い う 問 題 は 臓 器 移 植 ( 臓 器 の 摘 出 )の 根 拠 を. 問うことによってはじめて主題化されるからである。つ. 単に言ってしまえば、今日の「脳死問題」は、 不「可逆 的な死の地点 が」従来の 心「臓死」の段階から 脳「の死 の」 段階へと移行することをめぐって生じている、「死の定. -38-. 13.
(17) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 態」にあり、かつ「臓器が移植に適した状態を維持して. このことは、それがどの地点なのかについては議論が. いる地点」を特定するということになる。. あるにせよ、「人の死」が「プロセス」から「瞬間的な. は、一方を問うことにおいて片方が必要条件となるよう な、 相 互 補 完 的 な 関 係 性 を 取 り 結 ぶ こ と に な る の で あ. 出来事」へと集約されることを意味すると同時に、その. ま り、 ま っ た く 出 自 の 異 な る「 脳 死 」 概 念 と 臓 器 移 植. という前提が必要であるが、「脳死は人の死か」を問う. ことで医学「以前の (手前の) 」、いわば文化的‐社会的. る。臓器移植が許容されるには「脳死」が人の死である には「臓器移植が許容される前提は何か」という問いが. てしまう。たとえば 人「の死生観に重大な変更をもたら. な、もしくは伝統的な「死」の見解との差異を先鋭化し. 形式的に順序化してしまうと、そもそもは人工呼吸器. す 、「 」( 日 本 で は ) 文 化 的、 伝 統 的 に 馴 染 ま な い 」 と いったような、伝統的な「死」の概念に基づいた、ある. な死の地点」を明確化することが社会的‐文化的に重要. -39-. 先行していなければならないのである。 の登場により、「脳死」という段階がある程度時間維持 できるようになって、臓器移植という先端医療が技術的 に可能になった。しかし、「脳死」概念が臓器移植と一. 種の 臓「器移植・脳死 反 」対論が主張されていることに、 そのことが顕著に見て取れるだろう。実のところ、「脳. 死」が臓器移植と一体化することで帯びるその定義づけ. 体化されてしまうと、この順序が転倒してしまい、「脳. 伝統的な「死」の概念といっても、それは「心臓死」. 死」から臓器移植を問うことよりも、臓器移植から「脳. とそれほど齟齬をきたすことなく、むしろ重なり合って. の特異性は、それと伝統的な「死」の概念との差異につ. 死 の 地 点 」 を 確 定 す る こ と ( 医 学 的 に「 脳 が ど の よ う な 状. いるとさえみなすことができるが、これといった「かた. 死」を問うことの方が重要視されるようになってしま. 態になると人の死として確定できるのか」)だけではなくて、. いての語り口においてよりいっそう明確になる。. ドナーの身体 (臓器)が臓器移植に適切な状態であるこ. ち」や定義があるわけではないし、医学的に「不可逆的. う。そうなると、「脳死」の内容は、単に「不可逆的な. 。)つまり、「脳死」概念. な意味を持つわけでもなかった。それゆえ、「死の定義」. (. と臓器移植の一体化によって、「脳死」を人の死とする. とも必要とされることになる. ことは、形式的に言ってしまえば、「脳が不可逆的な状. 14.
(18) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. こに位置づけるのかについて、 心「臓死 (三徴候死) / 」. の内容をめぐって、つまり「不可逆的な死の地点」をど. して、「脳死」の場合は、医療的に定義された 死「 が」社. ‐社会的な「死のプロセス」に組み込まれていたのに対. いう「根拠性」から、その対象が社会‐文化的な「死の. をもってすぐさま臓器移植(臓器提出)が可能になると. プロセス」に組み込まれることを、一時的にであるにせ. 会‐文化的に構成された伝統的な 死「のプロセス を」切断 してしまうことにある。つまり、「脳死」は、その判定. は な い し、「 心 臓 死 」 に し て も、 臨 床 の 場 に お い て は、. 脳「死 と」いう定義上の対立構造が生じているわけではな いだろう。「死」が「瞬間的な出来事」として決定され. 「死の特定点」であることでは同じである。「脳死」との. よ、 妨 げ て し ま い、 そ の 切 断 面 を「 不 可 逆 的 な 死 の 地. るということは、今日の「脳死」概念に始まったことで. 対比で語られる場合、「心臓死」は二重の意味で曖昧な. だ と す れ ば、「 脳 死 問 題 」 に お い て 交 わ さ れ て い る. 点」として露わにしてしまうのである。. 「心臓死 (伝統的な「死」の概念) 」/「脳死」の対立、あ. 「伝統的な死の概念」の表象であるにすぎない。 それでも、「脳死問題」の論争において 脳「死 概」念と. るいは 不「可逆的な死の地点 が」「心臓死」から「脳死」. 心「臓死 が」あたかも対立しあった定義のように語られる のは、医療関係者以外からすれば、しばしば指摘される ように、「脳死」が不可視であるのに対して (脳死と判定. ル・サインは確認できる) 、「心臓死」は可視的であるとい. 定義」を枠づける配置についての議論であるということ. にある」論争でもある。つまり、 脳「の死 が」人の死であ るかどうかに関する医学的な議論であるよりも、「死の. へと移行することの問題とは、 死「 の」定義をめぐる 配「 置 の」仕方についての、いわば医学・医療の範疇の 手「前. うことに大きな要因がある。しかし、実のところ、ある. に な る だ ろ う。 脳「 死 概」 念 は、 従 来 の「 死 の 定 義 を 」決 定する配置 (あるいはコンテキスト)と断絶しているがゆ. されても、「脳の死」は表面的に見ることができず、生命維持. 種の 臓「器移植・脳死 反」対論の語りにも現れているよう に、「脳死」が「心臓死」と決定的に異なるのは、そう. えに、むしろそのことによって、 死「 の」概念自体を揺さ ぶり、それを裁ち直そうとするのである。そして、この. 装 置 に 繋 が れ て い る に せ よ、 呼 吸 や 脈 拍、 体 温 な ど バ イ タ イ. し た 徴 候 的 な 表 層 で も な け れ ば、 医 学 的 な 事 実 で も な い。そうではなくて、「心臓死」の判定がおおむね文化. -40-.
(19) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 理 的 問 題 に お け る「 生 」 で あ れ、「 生 命 倫 理 ( 学 ) 」で. の差異についての語り口においてであれ、「脳死」が臓. であれ、「脳死」と「心臓死 (伝統的な「死」の概念) 」と. 結局のところ、「脳死とは何か」を問う仕方において. が生じる。その定義の適切さが先端医療の可能性を開く. の技術を行使するのに適切な状態で明確に定義する必要. 新規性は、その新規性ゆえに「生」と「死」を先端医療. る。人為的に生命へ介入するという先端医療の技術的な. が先端医療と一体化されて論じられるということにな. 「死」や「生」が主題化される場合、それらを問う仕方. 器移植と一体化していることで、「人の死」は臓器移植. のであり、定義の明確さこそが先端医療を行使する倫理. 」. に よ っ て「 脳 死 」 と し て 構 成 し 直 さ れ て い る こ と に な. 的な根拠になるからである。しかし、それを問う仕方が. 断絶を生み出しているものこそ、 臓「器移植」と 脳「死 との連接なのである。. る。いささか短絡的ではあるものの、形式的に言ってし. 先端医療と一体化しているのであれば、それを問う場と. 0. まえば、「人の死」は、臓器移植が「脳死」として主題. 0. 化し、臓器移植が許容されるという地勢図に位置づけら. しての「生命倫理」という「布置」は常に先端医療とい. よって生じる事態とは、それを主題化すること自体が先. の 先 端 医 療 が 帯 び る「 先 端 医 療 で あ る と い う 状 況 」 に. -41-. 0. れるということになろうか。 たが、 「生」の概念の場合であれば、ベクトルが逆にな. 端医療という縫い目によって人間の経験的事象を裁ち直. う格子によって構成されることになる。要するに、今日. る だ け で、「 生 」 の 定 義 は 遺 伝 子 治 療 や 生 殖 補 助 技 術. す「布置」としての「生命倫理」を生成するということ. ここでは臓器移植との関連で「死」の概念を取り上げ. まり、遺伝子治療や生殖補助技術が「生」を主題化し、. (あるいは人工中絶)と同様の関係を取り結んでいる。つ. なのである。. 「 生 命 倫 理 」 が 一 貫 し た 体 系 で あ る の な ら、「 死 」 と. 人間の生命が始まる地点を特定し、「人間の尊厳を侵さ ないように」 (、)それを根拠として、いまだ「生」たり. 「生」の定義は論理的にコインの裏表でなくてはならな. を許されなくなる地点から 生「 が」始まり、臓器移植が行. い。だとすれば、遺伝子治療や生殖補助技術がその行使. 得ない胚や幹性細胞の医学的な利用を可能にするのであ る。 つまり、脳死問題における「死」であれ、胚利用の倫. 15.
(20) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. 使 を 許 さ れ る 地 点 で 死「 を」 迎 え る と い う わ け で あ る。 生「 と」 死「 の」定義が議論される場が 生「命倫理 (学) で」 あるのなら、人間の存在様態は今日の先端医療によって 規定されることになるのである。. Ⅵ テクノロジーの発展によって人間の経験世界や知覚様. 0. 0. しかし、今日の先端医療とそれが開いた 生「命倫理 と」 いう場の「布置」との関係性は、その生成の歴史性や問. (. 、). いの仕方の構造的な特異性によって、 生「命倫理 の」課題 に つ い て の 議 論 を あ ら か じ め 枠 づ け て い る。 エ マ ニ エ. ル・ レ ヴ ィ ナ ス の 言 い 回 し を い さ さ か 借 用 す れ ば. ある意味では、 生「命倫理 (学) は 」先端医療を起点とし. て多様な人間的事象や人間的経験を規定する。 生「 で」あ れ、 死「 で」 あ れ、 あ る い は 家「 族 で」 あ れ、 生「 命 倫 理. 0. この規定がなされるその仕方である。それは先端医療に. (学) に 」 お い て 人 間 的 概 念 に つ い て 議 論 す る こ と と は、. 合され、その多様性を失うことになる。その結果、 生「. ば、人間的事象は先端医療の縫い目や目盛りのうちに統. あわせて 生「 や」 死「 を」裁ち直すことであり、人間的事象 を先端医療という尺度で測り直すことである。だとすれ. 0. とは、何も医学・生命科学に限ったことでもなければ、. 式、あるいは人間の在り方そのものが変容するというこ それほど特殊なことでもない。どのような新しい技術で あれ、それが対象とし、あるいは介入する人間的事象は 主題化され、それを論じる場の 布「置 が」再検討されるこ とになる。映像技術の発展、たとえば写真や映画の発明 がわれわれの視覚経験や現実感覚に与えた影響の大き. さらに付言すれば、この位置取りには、先端医療が生. 命倫理 そ」れ自体が、あるいは結果的に先端医療が、人 間的事象や人間的経験のうちにその特権的な位置取りを. も、そのことは明らかであろう。医療技術、とりわけ今. み出される背景的な医療的善意とでもいうべき希求的心. さ、近年なら、IT技術の革新がコミュニケーション行. 日の先端医療によって、その特徴が生命への人為的な介. というのも、この心情は先端医療を行使することの正当. 情が働いているということを指摘しておくべきだろう。. 占めることになってしまうのである。. 入にあるのであれば、われわれの死生観が多大な影響を. 為をその概念構成から再考を迫っていることからして. 被るのは当然のことかもしれない。. -42-. 16.
(21) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. しまい、先端医療の課題とは先端医療の行使を可能にす. る条件や根拠を主題化することになる。今日の先端医療. 性に少なからず根拠を与えているからである。 おそらくは、どのような医学研究者であれ、医療行為. 今 日 の 先 端 医 療 の 場 合 な ら、 先 端 医 療 を 問 う こ と と. の課題が「生命倫理」の主たる課題と重なっているのな. したわけでも、行使しようとしたわけでもなければ、そ. は、 人「為的に生命に介入すること」という新規性の是 非を問うことではなく、臓器移植と脳死の一体化がそう. 者であれ、あるいは患者とその家族であれ、人間の死生. の臨床的実用を期待していたわけでもないだろう。難病. であったように、先端医療と先端医療の根拠とが連接す. ら、このことが持つ意味は軽くはないはずだ。. を克服したり、不妊症など何らかの身体的要因で子供を. ることで、先端医療が可能になる条件の規定を問う場が. の表象的事象でもないという指摘は正しいだろう。. 情的にも (無自覚な医療的善意や希求) 、それを問う仕方に. -43-. 観に変更をもたらそうとして、先端医療を開発しようと. 持てないカップルの願いを叶えたり、先端医療がもたら. 「 布 置 」(「生命倫理」)が 先 端 医 療 に よ っ て 枠 づ け ら れ て 0. す恩恵への希求は、医療行為者側にも、患者の側にも、. 0. あるいは一般的な心情としても偏在していて、それが先. 0. 生成され、そこでの規定の探求がそのまま人間的事象に. ういう意味では、 生「命倫理 が」「技術革新に対応する倫. 0. 端医療の推進力になっていると考えるのが自然なのかも. ついての明確な規定の仕方となってしまうのである。そ. す る こ と 自 体 を 問 う こ と は、 か な り 困 難 に な っ て し ま. 0. しれない。だとすれば、先端医療が人為的に生命へ介入 う。. 理の部分的改修というような小手先の変化 」(で)もなけ れば、人間的事象の医療化 (生と 死「 の」医療化)について. たとえば臓器移植でしか助からない患者に対して、あ. しかし、それゆえに、先端医療が開く状況性には、心. 0. 療技術が生命に介入すること の」是非を問いかけられる だろうか、すでに実用可能な医療技術があるにもかかわ. も、すでに一つの方向性が含まれているのなら、それが. 0. らず、その行使を宙吊りにできるだろうか。先端医療が. 開いた 生「命倫理 (学) と 」いう「布置」においても、そ の規定においても、先端医療の状況性があらかじめ孕ん. まうと、先端医療そのものを問うことが差し控えられて. それがもたらす恩恵への希求とあらかじめ一体化してし. るいは体外受精でしか妊娠できない患者に対して、 医「. 17.
(22) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. でいる方向性が潜んでいることになる。その結果が先端. 倫「 理. 」と い う よ り は、 一 つ の. 政「 治 で 」 あ. 医 療 に よ る 生「 」と 死「 (」 人 間 的 事 象 や 人 間 的 経 験 )の 明 確 化 や 一 元 的 な 規 範 化 で あ る の な ら、 そ れ を 論 じ る 「布置」は. に区別する考え方や制度が確立されておらず、本来なら、. 通常医療の対語は実験的医療という用語であるが、 先「端. 医療 という表現が頻繁に用いられている(橳島次郎『先 」 端医療のルール ― 人体利用はどこまで許されるの. 外科病棟は半ば虫垂炎の患者で占められていたが、現在で. (2 ) 日本では、明治初期において、東京大学医学部附属病院. Postman, Niel, Technopoly: The Surrender of Culture. 一 -三四頁。 (4 ). Foucault, Michel., Naissance de la clinique: Une. ibid訳. 書、一三〇頁。. 神谷美恵子 arch ologie du regard m dical, P.U.F., 1963.. (5 ). 一九九四年、一三〇. ハイテク社会の危険 ―. GS研究会訳『技術 to Technopoly, Alfled A. Knopf, 1992. VS人間 』 新 樹 社、 ―. (3 ). る。大鐘稔彦『外科医と 盲「腸 』」岩波新書、一九九二年。. ば、現在では外科的処置に傾倒しすぎることへの批判もあ. 疾病になったことの証左と言えるだろう。もちろん、 虫「 垂炎」の診断が実のところ極めて難しいという指摘もあれ. れていること、外科医の メ「スおろし」として虫垂切除術 を選択する場合が多いといったことも、 虫「垂炎 が」軽度の. は、大学病院に虫垂炎単独で入院している患者は皆無とさ. 』講談社新書、二〇〇一年、一九頁)。 ―. り、権力である。 生命倫理 (学) がこの事態を主題化 「 」 しないのであれば、「生命倫理 (学) 」は単なる先端医療. 」を 規 定 す る 権 力 装 置 に な っ て し ま う。 そ. か. の可能性を根拠づけるルールかガイドラインでしかない 」と 死「. ばかりか、むしろそもそもが対抗すべきであるはずの、 生「. うなれば、やがて今日の先端医療がその 先「端医療であ る状況 」を失い、通常医療になってしまうと、われわれ 0 0. の 生「 や 」 死「 は 」 、その規定が問われた仕方が隠蔽さ れ、あらかじめそのようなものとして自明視されること になってしまうだろう。 註. 」生「殖. (1 ) 本 稿 で は 先「 端 医 療 と」 い う 用 語 は 臨 床 的 に 実 用 段 階 に 入った先進医療(先進的医療技術)のことを指しており、 具体的には、本文中にもあるように、 遺「伝子治療. 補 助 技 術 」臓「 器 移 植 を」 念 頭 に 置 い て い る。 橳 島 に よ れ ば、日本においては、通常医療と実験段階の医療とを厳密. -44-.
(23) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 訳『 臨 床 医 学 の 誕 生 ― 医学的まなざしの考古学 ― 』. 年、二九二. 審に求めた(『資料集 生命倫理と法』太陽出版、二〇〇四 二 -九三頁)。. みすず書房、一九六九年、一五頁。. 界思想社、一九八九年)やH・T・エンゲルハート、H・. (8 ) 村上善良『基礎から学ぶ生命倫理学』 、一九 二 -六頁。 (9 ) たとえば、塚崎智・加茂直樹編『生命倫理の現在』(世. (6 ) 生殖補助技術の組み合わせについては以下の文献を参照. 樹編『生命倫理の現在』世界思想社、一九八九年。村上善. ヨナスほか/加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの. した。品川哲彦「新しい生殖技術と社会」塚崎智・加茂直. 良『基礎から学ぶ生命倫理学』勁草書房、二〇〇八年。. 一九八八年)の「序論」や「はしがき」、あるいは加藤尚. 欧 米 の「 生 命 倫 理 」 論 』( 東 海 大 学 出 版 会、 ―. をめぐって生じた事件。代理母は一九八六年に子供を出産. 武『 脳 死・ ク ロ ー ン・ 遺 伝 子 治 療. 基礎. し、一旦は契約した夫婦に引き渡したが、数日後契約した. の練習問題. (7 ) アメリカで、契約した夫婦と代理母の間で生まれた子供. 夫 婦 の 家 を 訪 れ、 一 週 間 だ け 子 供 を 連 れ 出 し た い と 求 め. のこと。. 』(PHP新書、一九九九年)などを参照 ―. ( ) 塚 崎 智「 先 端 医 療 技 術 が も た ら し た 倫 理 的 課 題 」 塚 崎. 智・加茂直樹編『生命倫理の現在』世界思想社、一九八九. 二〇〇四年、五〇頁。また、本田裕志「臓器移植法をめぐ. -45-. バイオエシックス ―. た。契約者夫婦はこれを認めたが、代理母は一週間経過し ても子供を手放さなかった。そこで契約者夫婦は保護養育 に関する請願を家庭裁判所に提出した。家庭裁判所は代理. ( ) 橳島次郎『先端医療のルール』、一七頁、二八頁。. 年、三頁。. 護養育権を契約者夫婦に与えた。同時に子供と契約者夫人. ). ( ) 小 松 美 彦『 脳 死・ 臓 器 移 植 の 本 当 の 話 』 P H P 新 書、. 二〇〇〇年)を参照した。. ただし、ミシェル・フーコー『臨床医学 mort, Paris, 1800. の 誕 生 』 お よ び 市 川 容 孝『 身 体 / 生 命 』( 岩 波 書 店、. Bichat (X.), Recherches physiologiques sur la vie et la. (. 止は差し戻し、子供を訪問する期間を決定するよう、下級. の保護養育権は認めたものの、代理母の自然的母の親権停. 違反しているとして、契約者夫婦の夫についての自然的父. る代理母契約を無効とし、養子縁組も成分法や公共行政に. 渡すよう命じた。しかし、州最高裁判所は、金銭が介在す. との養子縁組を許可し、代理母が契約者夫婦に子供を引き. 母契約の有効性を認め、代理母の親権を停止し、子供の保. 10. 12 11. 13.
(24) 文学・芸術・文化 21巻 2 号 2010.3. る諸問題」(加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人 のために』世界思想社、一九九八年)も参照。 ( ) 脳「 の 死 の 」 ど の 段 階 を 人「 の 死 と 」 す る か につ い て は 様々な考え方がある。たとえば、全脳死説、脳幹死説、大 脳死説などであるが、それぞれの医学的な内容はここでは立 ち入らない。また、 「ドナーの身体が臓器移植に適切な状態 であること」については、 脳「死 の」内容においてよりも、臓 器摘出の手続きや脳死判定の基準に反映されていると言え るだろう。村 上善 良『 基礎から学ぶ生命 倫理学 』一〇一 一〇九頁、小 松 美 彦『脳 死・臓器 移 植の本 当の話 』五一 五六頁を参照のこと。 ( )「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」(平成. 頁。. ( ) 谷 田 信 一「 バ イ オ エ シ ッ ク ス の 枠 組 み と 方 法. その ―. 一七年四月一日から施行、文部科学省・厚生労働省・経済. Glissant, Édouard., Po tique de la Relation, Éditions. 死「生学と生命倫理. ―よ「い死 」をめぐる言説を中. 」 島 薗 進・ 竹 内 整 一 編『 死 生 学 』 1、 東 京 大 学 出 ― 版会、二〇〇八年。. 心に. 安藤泰至. 品 川 哲 彦 監 訳『 生 命 倫 理 学 の 基 礎 』 M C メ デ ィ カ Hall, 2003. 出版、二〇〇四年。. Veatch, Robert M., The Basics of Bioethics, 2nd., Prentice. 管 啓 次 郎 訳『 〈関係〉の詩学』インスクリ Gallimard, 1990. プト、二〇〇〇年。. 渡 辺 守 章 訳『 性 の 歴 史 Ⅰ savoir, Éditions Gallimard, 1976. 知への意志』新潮社、一九八六年。. Foucault, Michel., L'Histoire de la sexualit , I, La volont de. Berger, P. L. and Luckmann, Th., The Social Construction of 山 口 節 郎 訳『 日 常 世 界 の 構 成 』 新 Reality, New York, 1966. 曜社、一九七七年。. 参考文献. 歩みと今後の課題 ― 」今井道夫・香川知晶編『バイオエ シックス入門』東信堂、二五六頁。. 17. 産業省)、および「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する 指針 (」平成一三年九月二五日文部科学省告示第一五五号)。 また、橳島次郎『先端医療のルール』(八二頁)を参照の. de Paris, 32, juillet-. Lévinas, Emmanuel., "Résumé de Totalit et infini",. こと。 ( ). dans Annales de l'Universit. 合田正人訳「『全体性と無限』要約 『 septembre, 1961. 」レ ヴィナス・コレクション』筑摩書房、一九九九年、四四六. -46-. 14. 15. 16.
(25) 状 況 と し て の 先 端 医 療 磯. 雨 宮 浩 臓「 器 移 植. 二 」 瓶 健 次 編『 医 療 は ど こ ま で で き る か. 先端医療技術とQOL ― 』アグネ承風社、二〇〇〇 ― 年。 人 体 実 験・ 臓 器 移 植・ 治 療 停 ―. 』勁草書房、二〇〇〇年。 ―. 香 川 知 晶『 生 命 倫 理 の 成 立 止. 日 ―. 社会理論からの接近 ― 』青 ―. 加 藤 秀 一『 〈 個 〉 か ら は じ め る 生 命 論 』 日 本 放 送 出 版 協 会、 二〇〇七年。 澤 井 敦『 死 と 死 別 の 社 会 学 弓社、二〇〇五年。. 』世界思想社、一九九五年。 ―. 村 岡 潔「 先 端 医 療 」 黒 田 浩 一 郎 編『 現 代 医 療 の 社 会 学 本の現状と課題. 会学』東京大学出版会、二〇〇一年。. 田村誠「医療技術と人間社会」山崎喜比古編『健康と医療の社. 前田義郎「医療技術と生命倫理」加藤尚武・加茂直樹編『生命 倫理学を学ぶ人のために』世界思想社、一九九八年。 美馬達哉「『脳死』と臓器移植」佐藤純一・黒田浩一郎編『医 療神話の社会学』世界思想社、一九九八年。 鷲田清一『教養としての 死「 を」考える』洋泉社、二〇〇四年。. -47-.
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