Title
琉球・マラッカ交流史についての予備的調査−マレーシ
ア調査紀行−
Author(s)
真栄平, 房昭; 漢那, 敬子
Citation
史料編集室紀要(28): 119-136
Issue Date
2003-03-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7765
Rights
沖縄県教育委員会
琉球 ・マラッカ交流史についての予備的調査
- マ レー シ ア調 査 紀 行-共 栄 平房 昭 ・漢 那敬 子は じめに
14・5世紀 か ら16世紀 にかけて、琉球国は活発 に東南アジア諸地域 との交易活動 を展開 した。『歴代宝案』 には大交易時代 といわれ るその ころの沖縄 と東南アジア諸 国 との交流 の記録 が残 ってい る。 そのなかで琉球か らの交易船派遣が もっ とも頻繁かつ長期 に及 んだ のが遅羅国 (タイ国)で、派遣回数 は58回を数 える.ついで満刺加国 (現マ レー シア)-20回、1463年か ら1511年まではほ とん ど毎年の よ うに派遣 してい る。 これ ら東 南アジアの 交易相 手国-実際に赴 き、その歴史的景観や現状 を確認す ることは、古琉球時代の東 南ア ジア との交易 ・交流活動 を検討す る上で重要であ り、今後の 「歴代宝案」の編集事業に資 す るところ大 きなものがあるといえよ う。以上のよ うな観点か ら昨年のタイ国調査に続 き、 このたび2002年8月26日か ら31日まで、短期間ではあるが、マ レーシア調査 を行 った。調 査 に赴 いたのは歴代宝案編集委員会委員の真栄平房昭、史料編集室の漢那の二名 である。 以下、 日程 に沿 った調査概要 を漢那が略記 し、その時々に考察 したことどもを真栄平が 記 して、調査報告 としたい。 マ レー シ ア調 査 概 要 8月26日 (月)午前11時20分、那覇空港か ら台北 ・香港経 由でマ レーシアに向か う。 ク ア ラル ンプール国際空港 に着いたのは午後7時過 ぎ。飛行機 か らみえたヤシ林 の風景、高 層 ビルが建 ち並ぶ首都 クアラル ンプール との景観的な落差 が逆 に印象深 かった。 翌27日、高良倉吉氏 (歴代宝案編集委員 ・琉球大学教授)が紹介 して くれ た国際交流基 金 クアラル ンプール支所長の杉原正道氏 を訪問 し、マ レー シアで 日本や東ア ジア交流史をMAEHIRAFusaakiandKANNAKeiko:A Preparatory∫nvestigationontheHistoryofRyukyu-Malacca Relations:AnExploratoryToul'
9-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) 研 究 してい る研 究者 ・研 究機 関についてお話 を伺 ったあ と、市内の歴 史博物館 な どを観 る。 歴 史博物館 では石器時代か らマ ラッカ王国、ジ ョホール王国な どの時代 、 さらにポル ト ガル 、オランダ、イギ リスの植 民地時代、 日本 の占領期の様 子な どが紹介 されている。ベ トナムや 中国の陶磁器 は、首里城 の京 の内か らも発掘 されているベ トナム陶磁器 と同 じよ うにみ え、 「歴代 宝案」 に大音盤 ・小音盤 な どと記 されているのは この よ うな ものなのか と改 めて見入 った。 また近年、刃に うね りのついた刀 (ク リス)が円覚寺跡 か ら発見 され、 東南アジア一帯に同様の刀があることか ら、東 アジア と琉球 との交流 を証左す るもの とし て話題 になった 「ク リス」が何種類 も展示 されていた。 夕方 マ ラ ッカ- 向か う。バ スで約2時間半、 150キロは どの道 の りで あ る。 市内を出る と片道3車線の道路の両側 はほ とん どヤシ林で、パームヤシのプランテーシ ョン農園だ と い う。 ヤ シ林 のなかにポッンポッンと村落が混 じる。 さらにその奥は も うジャングルで、 簡単 には人 を寄せ付 けない緑である。 8月 28日 (水)、 中国人墓地、セ ン ト・ポール教会、サ ン ・フランシス コ ・ザ ビエル敬 会 、三宝事や宝 山事、サ ンチャゴ砦、王宮博物館、マ ラッカ人民博物館 な どを観 る。 中国人墓地 は も ともと明代の1460年頃 にマ ラ ッカ王国に嫁いだ王女 とその従人たちに与 え られ た居住地であるが、今では海外 で最大 ・最古の華人墓だ とい う。通訳のホ- さんに よる とおお よそ1万2500基はある らしい。古い ところでは薙 正年間の もの もあるとい う。 ほ とん ど亀 甲墓で ある。 写 真 1 16世紀 のマ ラッカ
(出典 :GasparCrrea,Lenadasdalndua,1855-64)
三宝事や宝 山事は鄭和 ゆか りの地。鄭和は15世紀に東南アジア、南アジア-大遠征 を し た ことで知 られてい るが、マ ラッカを拠点 としたことか らその後 の中国明朝 とマ ラッカの 朝貢 関係 、 さらに中継地 としてのマ ラッカの繁栄が生まれた とされ、その頃住み着いた中 国人が今 にいた る中国系社会 の礎 といわれ る。 サ ンチ ャゴ砦は、ポル トガルがマラ ッカを占領 した1511年 に建て られ、オ ランダ統治時 代 にも要塞 として使 われた。砦の建造 された1511年は、琉球か らマ ラッカ行 きの船が最後 となった年で もある。 この年以後、琉球はポル トガル に占領 されたマ ラッカ との交易 を断 絶 し、東南アジア交易 はほ とん ど遅薙、パ タニに限 られてい く。砦は18世紀にイギ リス軍 によって破壊 され、現在 は一部の門を残すのみではあるが、往時の面影 を しのばせて くれ る歴史的建造物である。 王宮 博物館 では、いに しえ、マ ラッカ国王 (スル タン)が各国か ら朝貢 を受 けるさまを 描いた等身大の人形模型があった。重臣に囲まれた国王 と謁見 してい る中国、イスラム、 イ ン ドか らの使節 の模型 である。 そのなかで 「歴代宝案」 に出て くる 「楽系麻舎 (ラクサ マナ)」が、国王の一段下ではあるものの、他 の家 臣 とは違 った特別 な位 置づ けにあるこ とが、その模型か らも うかがえた。 8月29日 (木)、オ ランダ広場近 くに今 も残 ってい る18世紀 の乗イ ン ド会社 時代の倉庫 跡 をみた後、 10時頃 にマ ラ ッカ川 の上 り下 り。上流の、 2つの橋 を くぐって中華街の入 り 口付近まで さかのぼ り、ついで川 下 りを して もらった。 写真2 1720年頃のマラッカ
(出典 :K.S.SandhuandP. Wheatleyed.,Melaka, OxfordU.P., 1983)
21-史料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) 18世紀オ ランダ時代 の図をみ ると、浜辺 (沖合 か らみ ると港の右手) には城壁が描かれ てい るが、今 はないo左手は今で も残 る中国人街 である。河 口は埋 め立てが進んでい るが、 旧市街地あた りの古い石垣は昔の、 といって も18世紀頃のままで時が風化 した よ うにみ え る。)タイのチ ャオプラヤ川 に比べ ると川幅は5分 の1くらい と狭 く、港 口も狭かったろ う と思われ るのだが、 この小 さい港が15世紀にもっ とも栄 えた港 とは思えない くらいである。 マ ラッカ海峡 は風 向きが よく変わ る難所 で、マ ラ ッカ港は風待 ちの港で もあった。西か ら の船は 1年近 くも待 ち、東か らの船 (琉球な ど)は 3カ月∼半年 も風待 ちを した とい う。 川下 りの後、 中華街 を歩 き回る。琉球がマ ラッカに初 めて交易 に赴いた1463年、おそ ら くは100人 を超す 琉球人たちは この中国人街 に宿泊 したのだろ うか、 と感慨 を覚 えつつ町 並み を撮影。東 恩納寛惇 「泰 ビルマ印度 」紀行 (昭和8年)では、 「フランソワ ・ザ ビェ - の墓」やマ ラ ッカの表通 り、マ ラッカ王国時代 の船着場の写真が挿入 され ている()今回 ほ とん ど同 じとい っていい場所 に行 ったわけだが、建物 の表面や乗 り物が近代的になった 以外 は雰 匪卜気 はあま り変 わ らないのか も知れ ない。今 で も旧市街 地 「オール ド・チ ャイ ナ ・タウン」 と呼ばれ る地域 は、狭い道沿いに中国系商人の店がひ しめいてい る。 午後 3時過 ぎ、マラ ッカか ら車で約 1時間、タン ピン- 向か う。マ ラ ッカには鉄道駅が な く最寄 りの駅が タンピンである。 タンピンを経 由 してマ レー半島最南端 にあるジ ョホー ル ・バル- と向か う列車は、 タイのバ ンコクを出発 して半島を南下 し、 シンガポール-逮 す る2000klllに及ぶマ レー鉄道である.一般乗客はマ レー人のほか、イ ン ドの タ ミル 系や 中 国系が多い。列車 は夕暮れせ まる熱帯樹林のなかを走 り続 け、ゲマス、スガマ、ラ ピス、 写 真3 現在のマラ ッカ _122_
パ ロ、 クンル ア ンな どの各駅 を過 ぎ、ジ ョホール ・バル まで r突通 な旅 が予想 され た。 とこ ろが、 ラヤ ンニ ラヤ ン駅付近で列車が突然 立 ち止 まった。 大雨の影響 によ り線 路 の情況が 悪 く、運行 不能 だ とい う。 この先 どうなるのか ? 結局2時間近 く待 た され 、鉄道公社 手 配 のバ スに乗 り換 えて ジ ョホール ・バル- 向か うはめ となった。 ホテル にた ど り着いたの は夜10時頃で あ ったo 当然 ホテル の食堂 は閉鎖、 しかたな くロ ビーで軽食 を とるO何 とも 忘れ がたいマ レー鉄道 の旅 であった。 8月30日 (金 )、 ジ ョホール州政庁や 王宮寺院見学。 マ ラ ッカ王国はポル トガル に 占顔 された あ と、そ の末宙 た ちがジ ョホール ・バル に逃れ 、 この地 に王国 を築いたが、イ ギ リ ス の東 アジア進 HIITに よって衰退す る。 わず かに王宮寺院 だけが往 時の面影 を残 してい る と い う。 その後バ スでジ ョホール水道 をは さむ シンガポール -向か う。 ここでの 出入国手続 きは簡 単で、国境 を越 える とい う意識 もな く終わ る. マ レー シアの 子供 たちは シンガポー ル -通学 し、 シ ンガポール のサ ラ リーマ ンた ちはマ レー シア- 買い物や遊び に出か ける と い うふ うに、国境 を越 えるのは 日常茶飯事 で あるよ うだ。 今 回の調査 はマ ラ ッカの琉球 関係 史跡 、歴 史的建造物 の撮影 、なに よ りい に しえのマ ラ ッカの面影 をかす かに しのばせ るマ ラ ッカ川や 旧市街地 の通 り、町並みの撮影 が主だ った。 駆 け足 で回 らざるを得 なかったが、マ ラ ッカ を実見で きた こ とは琉球 とマ ラ ッカの交流 を 考察す る上 で大 きな収穫 が あった よ うに思 う。 かつ て琉球 王国が交易 したマ ラ ッカ、マ レー半島南部 とスマ トラ島北部 を支配 したマ ラ ッカ王国の 中心地でマ ラ ッカは、今 は観 光地 としてにぎわ う海辺 の古都 であ る。 マ レー シ アで最 も古い とされ るモ スク、 ヒン ドゥー系の人々の古墓や寺院 、中国人の廟 、わず かに 残 るポル トガル の城壁跡 、昔 の面影 を残すパパ ・ニ ヨニ ヤの家、一つ一つが過去 を物語 っ てい る。 その風景 の中か ら 「レキオ」 と呼ばれ た琉球人 たちの姿 も立 ち上 って くる。 ー123
-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003)
マ レー シア歴 史調査 の旅か ら
●マラ ッカ海峡 マ レー半島西岸 とスマ トラ島の間に位 置す るマ ラッカ海峡は、古 くはイ ン ドと中国 とい う二つの文 明圏をつなぎ、 さらに西 と東 の2つの世界 をむすぶ幹線航路の役割 を果た した。 全艮約800kmの細 長い海峡沿岸 を支配 したマ ラ ッカ王国は、15世紀 か ら16世紀初 めにかけ て、アジアで も有数 の通商 ・貿易国家 として栄 えた ことで知 られ る。 うず 世界各地 の商人たちが、豊富で多様 な産物 を求めてマ ラ ッカに来航 した。錫、金銀 、銅、 こ しょ う ちlうこ う ぴや くだん サ ンゴ、べ っ甲、真珠貝、胡棟、丁 香 、 白 檀 、象牙 な どが、周辺のスマ トラ島、ジャワ 島、モル ッカ諸島か らマ ラッカに集荷 された。また中国産の生糸や絹織物 、陶磁器 、漢方 薬 な ど、 さらにイ ン ド産の綿織物、ガ ラス、宝石 な ども運 ばれて来た0 16世紀初 め、マ ラ ッカのポル トガル商館 に勤 めた トメ ・ピレスが、その著 『東方諸 国 記』 において、マ ラッカの支配者 となる者 は (イ タ リアの) ヴェネチアの喉元 に手 をかけ ると述べた よ うに、ま さに東西交易の要衝であった。 マ ラ ッカの港 では84種 の言語 が詣 されてい ると、 ピレスが驚 きをもって記述 した よ うに、 多様 な民族 (ヒ ト)、交易 品 (モ ノ)、情報が行 き交 う国際都市であった といえよ う。 ピレ スいわ く、 「マ ラカは商品のために作 られた都 市で、[その点については]世界 中の どの都 市 よ りす ぐれ てい る。そ して一つの季節風の吹 き終わ る所 であ り、また別 の季節風が吹 き 始 める所で ある」 と (生 田滋 ほか訳 『東方諸国記』大航海時代叢書V、岩 波書店、493-94 蛋)。 つ ま り、一年 を通 じて吹 くモ ンスー ンを利用 して、数 多 くの帆船がマ ラ ッカ海峡 を 安全 に航行す るこ とができたのである。 もちろん、琉球船 もマ ラ ッカにや って来た。『歴代宝案』 に よる と、1463(天順 7)午 か ら1511 (正徳 6)年まで、尚徳王か ら尚真王代 にかけて少 な くとも20回の渡航 があった こ とが 明 らかで あ る。 初 回 の船 は 「控 之羅 麻魯 」 (コシ ラマル ) といい 、正使 の名 は グ シ ケ ン 呉賢堅、副使 は那嘉 と明泰 と記録 に見 える。 その とき尚徳王か らマ ラッカ国王 (当時のス ル タン、マ ンス-ル ・シヤー)-贈 られ た 「礼物」は、①色段5匹、②青段20匹、③腰刀 5把 、④扇30把、⑤大音盤20個、⑥小音盤400個、青碗2000個 な どで、 中国産 の絹織物お よび陶磁器類 がその大半 を しめていた。 ●イス ラム文化圏 さて、 (財)沖縄 県文化振興会公文書管理部史料編集 室の 『歴代宝案』編集事業の一環 _124_として、マ レー シア現地調査 に参加す ることになった。 8月26日午後7時過 ぎマ レー シア の首都 クア ラル ンプール 国際空港 に至 る。着陸の直前、視界 に入 るヤ シ林 は、いかに も南 国 を感 じさせ る風景 として印象深 い。 翌 日は午後 か らマ ラ ッカに向か った。 ヤシのプ ランテー シ ョン農 園、緑 ゆたかなカ ンポ ン (村落) の風景 にま じ り、熱帯 の陽光 を浴びたイ スラム寺院 の丸屋根 がひ ときわ輝 いて 見 え る。 それ に して も真 夏の旅 は疲れ る。途 中、休憩地 のサー ビスエ リアの売店 で ココヤ シ ・ジュー スを飲み 、渇 きをいやす。 午後6時40分 、バ スは夕暮れ のマ ラ ッカ市街 に入 る。車窓か ら市役所や州立モスク、商 店街 を眺 めなが ら、ブ ンダハ ラ通 りのホテル に到着o旅装 を解 いた後 、町で夕食 を とる。 明 日はい よい よマ ラ ッカ史跡 め ぐ りの予定 だ。 晴天 に恵 まれ るこ とを願 い、眠 りにつ くO 翌朝 、 コー ランを唱 える荘重 な祈 りの声で、ふ と眼が さめるO眠い眼 を こす りなが ら時 計 を見 る と、 5時半過 ぎ、窓 の外 はまだ薄暗い。祈 りの声 は、モ スクのス ピー カーか ら町 中に流れ てい るよ うだ。 早朝 のモー ニ ング ・コール な らぬ、 この 「モー ニ ング ・コー ラ ン」 に、異教徒 の旅 人で あ る私 は驚 いた。 「や は り、マ ラ ッカ はイ ス ラム文化 圏 に属す る のだ」 と改 めて実感 したので あ る。 ア ダ ット ア ガマ 「慣 習 は山か ら来 るが、宗教 は海 か ら来 る」 と、マ レー の有名 なこ とわ ざもあるよ うに、 イ ス ラム教 は海 上交易 をつ うじて、13世紀 ごろか ら東南アジア各地 に浸透 した。東南アジ ア海域 には古 くか ら中国やイ ン ドに向か うイス ラム商人の船が姿 をあ らわ し、現在マ レー シアや イ ン ドネ シアの住 民の多 くがイ ス ラム教徒 になってい る。 歴 史 をふ りか える と、 「ポル トガル征服 以前 のマ ラ ッカはたんに主要貿易港 で あった ば か りで な く、イ ス ラム神 学研 究 の 中心 地 で もあ った」 とい う (ザイ ナルエア ビデ ィ ン編 『マ レー シアの歴 史』 山川 出版社 、42頁)0 15世紀 に琉球人がマ ラ ッカ を訪れ た当時、す でに多 くのイ スラム教徒 が居住 していた。 いまで もマ ラ ッカの町 を歩 くと、三重 の瓦葺 き 屋根 のカ ンポ ン ・ク リン ・モ スクをは じめ、立派 な寺院が見 うけ られ る。 その よ うな事情 か らすれ ば、早朝の 「モー ニ ング ・コー ラン」 も当然 の ことだ と納得す る。 市内のモ ス クを見学す る。礼拝 堂はイ ス ラム教徒 しか入 るこ とを許 され ないため、外 か ら観 察 した印象 にす ぎないが、 タイル 張 りの床 は風通 しが良 くて涼 しそ うだ。 のんび りと 昼寝 した り、お しゃべ りに興 じる男た ちの姿 も垣 間見 える。 モ スクは 「聖 な る祈 りの場」 で ある と同時 に、心やす らぐコ ミュニケー シ ョン空間なので あろ う。 イス ラム教 は東西交易 を通 じて、中国の広州 、泉州、揚州 とい った海 港都 市に も伝 わっ た。モ ンゴル (元王朝) が西 アジアか ら中国に至 る地域 を統一 した結果 、ムス リムの移住 が空前 の規模 で行 われたので ある。福建 の泉州 に もア ラブ系商人 が多 く居住 した ことは よ -125_
史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) く知 られ てい る (桑原 隠蔵 『宋 末 の提挙 市舶 西 域 人 ・清 書庚 の 事 蹟 』上海 ・東 亜 攻 究 会、 1923 午 )。 そ の結果 、泉 州 は東 南 ア ジア や イ ン ド航 路 と結 ばれ て いた。 14世紀 中 ごろの ア ラ ビア人旅行 家 イ ブ ン ・バ ッ トウ一 夕が泉州 で乗 ったイ ン ド行 きの船 は、 ス マ トラ王 国 のスル タ ンの所 有す る船 で あ り、 乗 組 員 に イ ラ ン 人 、中国人その他 の多様 な出身者 がいた。 当時、 このスル タンは資金 を提供 してジャンク 船 を仕 立て、ベ ンガル地方 、イ ン ド南西海岸や 中国の諸港 に派遣 し、積極 的 に海上交易 を 行 っていた (イブ ン ・バ ッ トウ一 夕著 ・家島彦一駅 『大旅行記 7』平凡社東洋文庫)0 明代初 めまで泉州 には福建市舶提挙 司が置 かれ たため、琉 球 の朝貢船 も当初 、泉州 に入 港 していた。 この町にそび える壮麗 なモ スク (清浄寺) は、おそ らく琉球人 たちの眼に も ふれ たであろ う。 ムス リムの 中国-の流入 は明代前期 まで続 き、各地 に コ ミュニテ ィが形 成 され た。 しか し、琉球ではイ ス ラム教 が一般 に受容 され た形跡 がないo その理 由 と して、 強 固な土着宗教 の ノロ制度 のほかに食文化 の違 い も無視 で きない。 周知 の よ うに、イ ス ラムの戒律 は豚 肉をタブー とし、また飲酒 を戒 め るo 現在 で も厳格 なイス ラム法では禁酒 の淀 を破 った場合、40回の鞭打 ちの刑 が下 され るこ とになってい る。 豚 は主要 な肉の供給源 であ り、祭 りの際 には動物供儀 の中心的要素であった。 そのた め東 南 アジア地域 で も豚 肉- の依存 は、イ ス ラム教改宗 にお け る最大の障害で あった とされて い る (ア ンソニー ・リー ド 『大航海 時代 の東南 アジア Ⅱ』法政大学 出版局)0 この よ うにみ る と、伝 統的 ノロ信仰 が根強い風土に加 え、イ ス ラム教 の禁 じる酒 と豚 肉 を愛好す る琉球社会 で はその教義 は敬遠 され、おそ らく受容 され なか った と考 え られ る。 ●マ ラ ッカにおける中国系文化 15世紀 頃か らマ ラ ッカには中国人 コ ミュニテ ィーが形成 され た。 「ブキ ッ ・チナ」 (マ レ ー語 で 「中国人の丘」 とい う意味) には、異郷 の地 に根 を下 ろ した華僑 の末宙 たちの墓 が 無数 に散在 してい る。 沖縄 の亀 甲墓 と同 じよ うなタイプ も 目に付 いた。,墓 に刻 まれた年号 を見 る と、 18- 19世紀 の晴代 か ら民国期 が とくに多 く、本籍 地名 は広東や福建 が大半 を し -126
-め るo総数1万2500に も及ぶ といわれ るブキ ッ ・チナ の墓群 は、 中国南部 か らマ レー シア に移 り住 んだ華僑 の歴 史 をま さに実感 させ るものだ った。 この丘の上 に立っ と、マ ラ ッカ海峡 が遠望 で きる。 沖合 の小 さな島は、港 に出入 りす る 船 に とって格好 の 目印 となろ う。 かつて、 この海峡 を往 来 したア ジア諸 国の船 にま じって、 琉 球船 がマ ラ ッカの港 に碇 を下 ろす情景が思い浮 かぶ。 ところで、マ レー シアに移 り住 んだ中国人 は現地 に適応 して世代 を重ね、パパ (沓告) とよばれ る独 自の社 会 を築いた。 中国人で もマ レー人で もな く、 この地で生まれ育 った華 人 とい う意 味だ。 男 はパパ 、女 はニ ヨニ ヤ とよばれ 、 「ベ ラナ カ ン」 と総称す る。 言語 の 面 か らみ る と、彼 らは福建語 を多 く含むマ レー語 の一種 (パパ ・マ レー) を使 い、食文化 も中華料理 とマ レー料 理 を ミックス した よ うな 「ニ ヨニ ヤ料理」 を生み 出 したO 多様 なス パ イス とココナ ツがベー スの独特の風味 をもつ料理 で知 られ るo マ ラ ッカ華 人商店街 の 一角 にあ る民俗博物館 、 「パパ ・ニ ヨニ ヤ ・- リティ ジ」 を見学 した。 19世紀末か ら20世紀 にかけて、中国や イ ン ド ・日本 ・イ ギ リス と手広 く商売 したマ レー生 まれ の 中国系 商人 の豪邸 である。 二階建 てで大理石張 りの床 には、黒檀 の家具や陶 磁器 な どの豪華 な調度 品が並び、一族 の写真 を飾 った祭壇 の扇額 に 「追遠 」 と記 され てい たく,さらに、近 くの 「青雲亭」や 「福建会館 」 を見学す る。嫡祖 (天后) を配 った福建会 館 は同郷 出身者 の相 互扶助組織 で、 と りわけ 子弟 の奨学金 な ど教 育支援活動 に力 を入れ て い る らしい。 門前 に線香 の香 りが漂 う青雲亭 (チ ェン ・フ一 ・テ ィン) は、18世紀 に建 立 され た寺院 で あ る (本 尊 は観 世音菩薩)O本 堂の建 築資材や法具類 はすべて 中国か ら運 ば れ た といわれ る。 ●ポル トガルの要塞 マ ラ ッカ には鉄道駅 が無い。 そのためか、首都 クア ラル ンプール に比べ る と商業活動や 近代化 は大幅 に遅れ てい る印象 を うける。 しか しその反 面、イ ス ラム教や ヒン ドゥー教 、 仏教寺院 、 さらにカ トリック教会や ポル トガル 、オ ランダ時代 の要塞 とい った多彩 な歴 史 遺産が残 る静か な町で、重層 的な文化や歴 史が刻 まれ てい る。 セ ン トポール の丘 に痕跡 を とどめるポル トガル の要塞跡 (サ ンチ ャゴ砦) を訪れた。今 わずか に残 る城 門を くぐ り、セ ン トポール の丘-通 じる石段 を登 りつ める と、キ リス ト教 会 の廃塊 がポ ッ ン と残 る、なん ともいえぬ僅 び しい光景 を眼 にす る。 1511年 のポル トガル侵攻 で破壊 されたマ ラ ッカの宮殿やモ ス クな どは跡形 も無い。 それ まで毎年 の よ うにマ ラ ッカ を訪れ た琉球船 も、王国滅 亡後 は姿 を見せ な くなった といわれ る。 がO/レトガル 人 は、破壊 したモ スクの跡地 に教会 と堅固な要塞 を築いた。 マ ラ ッカの要 一12
7-史 料 編 集 室 紀 要 第 28号 (2003) 塞 に関す る史料 に よる と、 「それ は強 固 で 、周 囲 の塔 の 中に二 つ の真 水 の井 戸 が あ り、他 に も 二つ 三 つ あ る。 一方 の 端 で は海 が そ ば まで来 てお り、他 方 は 河 に接 して い る。 要 塞 の壁 は非 常 に厚 い。 見 張 り塔 は 、 それ を見慣 れ てい る 地 域 [ヨー ロ ッパ ]で も この よ うな[立派 な]もの は見 られ な い。 それ は五層 で、 そ こ か ら四 方 に 大 小 の 砲 が 発 射 され 写真5 ポル トガルの要塞跡 (サンチャゴ砦)の入口 る」 と記 され てい る (トメ ・ピレス 『東方諸 国記』 480頁)0 セ ン トポール の丘か ら、マ ラ ッカ海峡 が見 える。 この地 を占領 して軍事 ・通商上の拠 点 を築 いたポル トガル は、海 か らや って くる敵 の艦 隊に向かって大砲 を放 った。 マ ラ ッカ陥 落後 、半島の南端 に逃れ てジ ョホール 王朝 を興 した王国の末宙 た ちは故国 の奪還 をめ ざ し、 何度 かマ ラ ッカ を攻 めたが、堅固なポル トガル の要塞 と大砲 の威力 に阻まれ た。 こ うした 血 なま ぐさい歴 史 がま るで夢 だ ったかの よ うに、ひ っそ り静ま りかえった現在 のマ ラ ッカ の町。 丘 のふ も との住宅街 の向 こ うに レス トランや高層 ホテル が建 ち並び、遠 く水平線 上 にタンカーや 貨物船 な どが行 き交 う。 そ うした海峡都 市の風景が 目の前 に広 がってい る。 ●セ ン トポール教会 のザ ビエル像 丘 の上 のセ ン トポール教会 の廃櫨 の壁 に、 ヨー ロッパ人の墓碑 が並んでい る。 恐 ろ しげ な海 賊 の閣 僚マ ー クが刻 まれ た碑 が 目に付 いたo 「誰 の墓碑 です か ?」 とガイ ド氏 にたず ね る と、オ ランダ海 軍の乗組員 だ とい う。 そ う言 えば、 日本近海 で も17世紀 のオ ランダ艦 隊が、海賊 まがいの掠奪 を平然 とお こなった歴 史が想起 され る。 ポル トガル船や 中国船 を 襲 ったオ ランダ人 の海賊行為 を、徳川幕府 が きび しく非難 した こ とも知 られ てい る。マ ラ ッカに残 る海賊 マー クの墓碑 は、その よ うな荒 々 しい時代 の残影 ではあるまいか。 ところで、 このセ ン トポール教会 はキ リス ト教布教 の拠点 としてポル トガル人 が1521年 に礼 拝 堂 を築 い た のが始 ま りとされ る。今 は廃 嘘 とな った教会 の側 に宣教 師 フ ランシス コ ・ザ ビェル の彫像 が立 ってい るが、その 白い横顔 は どこ とな く悲 しげに見 える。 日本 にキ リス ト教 を伝 えたザ ビエル の足跡 をた どる と、マ ラ ッカの歴 史の一面が見 えて くる。 マ ラ ッカ は 当時、ポル トガル の東洋布教 にお ける重要な拠 点であった。 1549年5月、 イ ン ドの コチ ンか らマ ラ ッカ に寄港 したザ ビェル は、 ポル トガル 要塞 の長 官 ドン ・ペ ド ロ 。シル ヴァ ・ダ ・ガマ と面会 し、 日本布教 の支援 を要請 した。 ちなみ に、長官 はイ ン ド _128 _
航 路 の発 見 で有名 な ヴァス コ ・ダ ・ガ マ の 息子 に あた る。 ポル トガル 国王 ド ン ・ジ ョア ン三世 あての1549年 6月20 目付 マ ラ ッカ発 書簡 で、ザ ビエル は 日 本布 教 の決意 を表 明 してい る。 「私 は、 日本 の 島 々 にい た信 仰 上信 頼 で き る多 くの人び とか ら報告 を得 たの ちに、 日 本 の 島 々が私 達 の聖 な る信仰 を広 め る た め に十分 な状 態 に あ る とい う多 くの 写真6 セン トポール教会 とザビエル像 情報 に よって、 これ らの地方-行 くこ とが、私達 の主である神-の奉仕 です。 (下略)」 と (『イエ ズス会 日本書簡集』)0 日本 に向けてマ ラ ッカを出帆 したザ ビェル らは、1549年8月鹿児 島に上陸 した。その航 海 中、あるいは琉球の島影 を見たか も しれ ない。ザ ビェルが蒔いた布教の種 はやがて 日本 各地で成 長 し、最盛期の信者数 は約75万人に達 したが、やがて1587年 の秀吉に よるバテ レ ン追放令 、 さらに幕府のキ リシタン弾圧 の時代 を迎 える。幕府の禁教令 は琉球 で も厳 しく 施行 され 、1624年 には ドミニ コ会のルエダ神父、石垣永将 らが死罪 に処せ られ た (八重 山 キ リシタン事件)。 その後 もフィ リピンか ら宣教師が琉球経 由で 日本-潜入す る動 きがあ り、 これ に対 し、琉球王府 の海防監視体制が強 め られた。ザ ビエルの布教か ら約百年後、 日本列 島にお けるキ リス ト教は幕藩権力に よって封 じ込 めれたのである。 I)-ンシヤン ザ ビエル 自身 は1552年 に 日本 を離れ、中国布教 に向か う途 中、広東沖の上 川 島で病 に 倒れ、46歳の生涯 を閉 じた。遺体は再びマ ラッカに運 ばれたのち、イ ン ドの ゴアに安置 さ れた。 1506年 ピレネー山麓のスペイ ン ・バスク地方 に生まれ、イ ン ドか らセイ ロン、モル ッカ諸 島、マ ラッカ、 日本 まで広 く布教活動 を行 ったザ ビェルの足跡 は、約7万キロメー トル に も及ぶ。マ ラ ッカの丘に立つザ ビェル像 もまた、その波潤 に富んだアジア布教の歴 史 を物語 ってい る。 ●マラ ッカの酒 と琉球人一異文化交流の視 点-マ ラ ッカの人び とが見た琉球人のイ メー ジについて、 トメ ・ピレス 『東方諸国記』 に、 次 の よ うに記 されてい る。 「マ ラ ヨ人は、マ ラッカの人々に対 し、ポル トガル人 とレキオ (琉球)人 との間には何 の相違 もないが、ポル トガル人は婦人 を買い、 レキオ人はそれ を しないだけであると語 っ てい る。 (中略) われわれ (ヨー ロッパ) の諸王国で ミラン (イ タ リアの ミラノ)につい -1
29-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) て語 るよ うに、中国人や その他 のすべ ての国民は レキオ人 について語 る()かれ らは正直 な 人間で、奴隷 を買 わない し、た とえ全世界 とひ きかえで も 自分 た ちの同胞 を売 るよ うなこ とは しない。 かれ らは これ については死 を賭 ける」 (248貢) と。 つま り、奴隷 的な人身売 買が横行 した 当時、それ を しない琉球人 は 「正直」 とみな され たわけであ る。 ところで、異文化交流 では ヒ トやモ ノの移動 だけでな く、食文化 もまた重要 な要素 とな る。 ここでは酒 について考 えてみたい。琉球人はマ ラ ッカ産 の地酒 がお気 に入 りで、 これ を多量 に輸入 した。 「レケオ人 た ちの間では、マ ラカ産 の酒 がたい- ん珍 重 され る。 かれ らはブ ランデー に似 た ものを多量 に積荷す る
」(
『東方諸 国記』250頁) と注 目されてい るO これ はヤ シ酒 の類 とみ られ る。 シ ャム国王 か ら琉 球 国王- の贈 り物 と して、『歴 代 宝 案』 に も 「種 子香花酒 」 「香花紅酒」 「密林檎香酒 」 といった名称 で登場す る。現代の舶来 ウィス キーや ブ ランデー な どの よ うに、 こ うした南蛮酒 はま さに国境 を超 えた贈答品 とし て珍重 され たのであろ う。 た とえば、琉球 国王か ら朝鮮 国王- の進上品や 、 円覚寺の僧芥 隠か ら京都 の相国寺鹿苑院- 「南蛮酒」 をプ レゼ ン トした例 な どもある(
『蔭涼軒 日録』)。 東南 アジア貿易全体 の 中でみ る と、ヤ シ酒 は種類 が多様 で、贈答 品のほか 一般的な 日用 品 と して も広 く流 通 した。 米や塩 や魚 の漬物 ・干物 とい った食 料 品、そ してヤ シ酒 ・織 物 ・金属工芸 品な どが、ス ンダ海峡 を往 来す る船 の積荷 の多 くを 占めていた とい う指摘 も あ る (ア ン ソニー ・リー ド 『大航海 時代 の東南ア ジアII』p.388)o ●東南ア ジアの宝剣 ク リス 15世紀 に首里城 に隣接 して造営 され た琉球王家 の菩提寺、 円覚寺跡 の発 掘調査 によ り、 ク リス型 の短剣 が 出土 してい る。 ク リス とは、マ レー半島やイ ン ドネ シア地域 に広 くみ ら れ る短剣 の一種 で、古 くは王や貴族 の権威 の象徴物 の 一つ とみ な され た。 今 回のマ レー シア調査 で、 ク リスを実見す る機 会 に恵 まれ た。 クア ラル ンプール駅近 く の国 立歴史博物館(
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の展示室の一角 には、形状 の異 なるク リス が数十点 ほ ど並んでい る。 また。 マ ラ ッカのスル タン ・パ レス(
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で も、 王権 の象徴 にふ さわ しい古風 な ク リスを実見す るこ とがで きた。 と りわ け蛇 の よ うに曲が りくね った形 のク リスが特徴的で、 こ うした蛇行形 ク リスは、ま さしく琉 球の 円党寺跡 か らの出土品 と共通 してい る点 を確認 で きた。鞘 の部分 を細 か く観 察す る と、木彫 りや金属 製 の土台 に象牙や金銀 、宝石 な どの豪華 な装飾 が施 され てい る。 トメ ・ピレス 『東方諸 国記』 に よれ ば、 ジャワの領 主のク リスは黄金 で象巌 された高価 な もので、マ ラ ッカか らベ ンガル-輸 出 され た とい う。 また、ジャワの習慣 では身分 の高 い貴族 は 自殺す る際 にク リスを用 いた。 当時 、ク リスは成人男 了一の携帯 品 と して も一般 的 1130_で、12歳 か ら80歳 ま で の者 は帯 に ク リス を ささな けれ ば外 出で きな か った (p.198,305,308,311)。 な お 、マ ラ ッカ の裁 判 で は犯 罪者 の 死刑 宣告 の際 、近親 者 が 「彼 (犯 罪者) をク リスで刺 し殺す」 (p.45 1)とい う。 ちなみ に、 17世紀 初 めに仙 台藩 主伊 達政 宗 が ロー マ -派 遣 した遣 欧 使 節 ・支 倉 常 長 が フ ィ リ ピ ン (ル ソン)経 由で帰 匡lした 際 、 日 本 に持 ち帰 った と され るク リスが あ る。 ただ し、 これ は直線 型 の刀 身 で あ る。 沖縄 の 円覚 寺跡 の 出 土 ク リスは、 ま ざれ もな く
蛇
行剣 の 特徴 を有 し、全 国 で初 めて の考 古 学 的 な発 掘 事 例 と して 注 目 され る。 これ まで琉 球 と東 南 ア ジア との 交流 を裏付 け る根 拠 は、 もっぱ ら 『歴 代 宝案』 等 の文 献 史料 が 中心 で 、モ ノ-物 質 文 化 の裏付 け とな る資料 は きわ めて少 ない。 コシ ョ ウや 丁字 な どの植 物性 香 料 や織 物 ・フ〟//A/∼./〆d(-),ダル ク.′-JJ/ 写 真 7 ク リ ス の 図 版 William Marsden;ThehistoryQfSumatra 写真8 クリス短剣 と鞘 (蛇行形の刀身に注目) 類 は良い年 月 の問 に朽 ちや す く、 残存す る可能性 が低い。それだけにク リスの発見は貴重な考古学的デー タを提供す ると同 時に、東南アジア交流史の解 明に新たな光 をあて るこ とが期待 され る (なお、詳 しくは拙 クリス 稿 「琉球の円覚寺跡か ら出土 した短剣 一東南アジア交流史の周辺-」 (『沖縄 タイムス』20 02年2月7日朝刊 を参照)0 ●マ レー半島のスズ工芸品 マ レー シアの伝統工芸品 として知 られ るのがスズ製 品で、その製造工場 を見学す る機会-131-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) があった。現場では数十人の職人がテーブル に坐 り、多彩 な製 品をつ くっている。皿や壷、 花瓶、ジ ョッキな どのほか、お土産用のク リス もある。工場 内の一角 にスズ鉱石が展示 さ れてお り、手に持 ってみ るとズシ リと重い感触が伝 わ る。 大まかな製造工程は、まず鉱石 を砕 いて加熱 した溶液 を鋳型 に流 し込み、固まると取 り 出 してヤス リで丁寧 に研磨 を重ねて光沢 を出す。通訳ガイ ドによると、マ レー語でスズを 「テ ィマ」 といい、金属成分は97%のスズ とア ンチモ ン、 3%の銅 を含む とい う。マ レー 半島のスズ鉱脈 は、タイ南部か らジ ョホール に至 る半島の西側沿いに分布す る。銅 よ りず っ と早 くスズを採掘入手できたマ ラッカでは、中国の銅銭が広 く流通す る一方、カイ シャ とよばれ るスズ銭 も、ムザ ッフアル ・シヤー (1446-59)の時代 まで使用 された。 マ ラ ッカのスズ採掘の歴史は古 く、すでに15世紀の鄭和の遠征 の際、重要な輸 出品 とし て記録 され てい る。『海涯勝覧』 によれば、 「花錫 は二 ヶ所 の山か ら掘 り出 され る。王様 は ます 頭 目に命 じて管理 させ、人 を派遣 して精錬 して斗 のよ うな金物 に し、小塊 に して役所 に さ し出 させ る。一塊 の重 さは中国秤 で-斤八両で、十塊 ごとに藤蔓 を用いてノJ、束 に し、四十 塊 を大東 とす る。 市場 の交易 にはみな この錫 を使 うのである」 とい う。 この よ うに、錫 の特産地 として知 られたマ ラッカ王国では、頁納品を交易 にも利用 した のである。 これ に関連 して考 えるべ きは、琉球か ら明-の進貢附搭貨のなか に、南方産の 胡棟 ・蘇木や 「番 錫」が登場す るこ とである
(
『歴代宝案』 )。琉球では錫の鉱石 をまった く産 しないため、 この錫 はマ ラ ッカか ら輸入 したので あろ う。 また、御玉員 (ウタマスキ) と よばれ る錫の容器 が、王国時代 には祭配や贈答儀礼 な どに用い られた。 尚家 の巴紋 をあ し らった御 玉貫の伝 世品が県立博物館 な どに所蔵 されてい る。 これは徳利型の酒器で、表面 に色 と りど りの陶製小玉 をビーズ状 に編んで被せ た ものだ。 なお 『琉球国由来記』 によれ ば、琉球 に渡来 した中国人が銘刈村の女性 との間にも うけた子 に、玉貫の技法 を伝 えた と もい う。 こ うした御 玉貫 は一対 をな し、 「連珠之 瓶 」 ともよばれ た ら しい。 戦 国末期 に島 津義久 の重 臣で あ った宮崎城 主 の上井覚 兼 の 日記 に よれ ば、1575年 に 「金 大 屋 子」 と名 乗 る琉 球 王府 の使 者 が 、 「連珠 瓶 」 一 対 の酒 を携 え て 来 訪 した とい う (『上 井 覚 兼 日記 』 天 正 3年 4月21日 条)。 さ らに同月23日には、 「琉 球客 」が 鹿 児 島 近 郊 の 吉 野 で馬 追 い を 見 物 した 写 真 9 スズ鉱石 132-際、 「連珠之瓶」二対 、食龍 (漆器)二つ を進上 してい る。 時代 が下って17世紀後半、マ ラ ッカ産の錫がオランダ船 を通 じて 日本 に輸入 された。 16 70年 ごろか ら長崎の出島商館 の記録 に 「マ ラ ッカ錫」 とい う銘柄 で登場 し、マ レー半島各 地か らマ ラ ッカに集荷 された (山脇悌二郎 『長崎 のオ ランダ商館』 中公新書、 p.86)0 ●マラッ
カ
川か ら見た風景 今回の現地調査では船 に乗 ってマ ラ ッカ川 を さかのぼ り、河岸や河 口の様子 を観察 した。 ス タダイ ス広場近 くの船着場か ら、まず上流-向か う。河幅は広い ところで20メー トル ほ どで、波 は ごく穏や かだ。両岸 にびっ しりと家屋 が建 ち並んでい る。家の裏手 には河岸 に 降 りる石段 があ り、いつで も小舟 を横づ け して人や荷 を降 ろす こ とがで きるよ うであるO 表通 りは、 ごくふっ うの商店街で 自動車やバイ クが行 き交 うが、裏の川辺では昔なが らの 水上交通 の伝統がひ っそ りと息づいてい るo さて、船 は橋の下 を くぐりなが ら20分 ほ どさかのぼった中洲付近で、下流 に向けて折 り 返 した。河 口の両岸 は埋 め立てが進み、 コンク リー トの巨大な橋 が架かってい る。そのた め古い船着場 の位置 は不明だが、おそ らく現在 の河 口地点 よ りかな り上流 にあった と思わ れ る。川幅50メー トル に満たない河 口付近は小型貨物船や漁船がひ しめきあ う。海峡 の対 岸 はスマ トラ島、小 さな島影が沖合 に見 える。 スマ トラ中部の ドゥマイまで高速 フェ リー だ と、わず か2時間余で行 けるOマ ラ ッカか ら車でクアラル ンプール まで行 くと同 じ時間 でイ ン ドネ シアに着 くとい う。昔か ら海峡 を越 えて ヒ トやモ ノが活発 に往来 したのは、当 然 とい えよ う。 15世紀初 めの 『撮涯勝覧』満刺加 国の条には、マ ラ ッカ国の風土や河 口の市場 にお ける 交易の様子 な どが興味深 く記 されてい る。 「この国は東南 は大海で、西北は岸近 くまで山が続 いてい る。 みな塩気 を含 んだ砂地で、 気候 は朝は暑 く夕方 は寒い。 田はやせ て収穫 は少 な く農耕す る人 もわずかであ る。一筋の 谷川があ り、その下流 は王の居所の前 を過 ぎて海 に入 る。王様 は川 に木橋 を造 り、その上 に二十余間の橋小屋 を造 って、そ こでい ろいろな物 の売買 を している。」 (原漢文) この史料 か ら知 られ るよ うに、マ ラ ッカの河 口に市場があ り、橋の上で交易 がお こなわ れた。海- の出入 り口で もある河 口は、ま さしく人やモ ノが移動 ・流通す る拠 点であった。 港 の周辺 に都市が発 達 し、市場、倉庫、税 関、宗教施設 といった多様 な要素 を生みだ して い く。 その意味で、河川 と港の支配 は国家 と王権 をかたちづ くる重要な要素 といって よい。 マ ラ ッカの河 口もその よ うな歴史的空間であった と考 え られ る。 133-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) ●河川封建制 と領域観念 ところで、国家 の領域支配 と河川 は どの よ うな関係 にあったのだろ う。 トメ ・ピレスに よる と、町 の境 界 の一つ は
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「海 に注 ぐ川 で あ る。 マ ラ ッカの要塞 か らこの河 口まで は約 四 レグ ワあ る。 (中略) 内陸部 に入 る と一方 の境界 か ら他方 の境界 までは 山の麓 に沿 って 境 界 が走 ってい る。 この 山は ゴ ロン ・レイ ダ ン と呼 ばれ ていて、内陸部 の境 界 で あ る」 『東方諸 国記』p.413) と記 され る。 ア ジア的権力 が河川 の治水潅概 を通 じて形成 された こ とを重視す るマ ックス ・ウェーバ ー の理 論 を ヒン トに、矢野暢 『東 南 ア ジア世界 の論理』 (中央公論社 ) は、東 南 アジアの 国家類 型 の特徴 について 「小型 家産制 国家」 と名付 けた。す なわち、 「小型家産制 国家」 とは、河川 の支配 を権力 の基盤 にす る国家で、河川 の分岐点か河 口に点在 す る。河 口や水 路 の分 岐点 をお さえ ることは、国土 と富の支配 を意味 し、河川 の流れ を利 用す る物資 の流 れ を排他 的 に支配す るこ とがで きたのであ る。 マ レー の伝 統社 会 では、 「領 土」 を示す 区分概 念 は一定の拡 が りを持 っ土
地ではな く、 「河川 」である。鶴 見良行 に よれ ば、半島両岸 とスマ トラに発展 した国々は、ほ とん ど例 外 な く河 口に王都 を持 ち、 一つ の河 口と次 の河 口の中間に漠然た る境界が あった とされ る(
『鶴 見 良行著作集 5マ ラ ッカ』みすず書房 、117頁)0 マ ラ ッカ、パ レンバ ン、マカサ ッル な ど東南 アジアの 「港市」は、いずれ も海 上交通 と 河川 交通 の拠 点 に成 立 した。琉球王国の代表 的港 市である那覇 もまた、国場川や久茂地川 の河 口デル タに形成 され 、かつ て 「浮 島」 とよばれ た交通 の拠点であった。 さらに王都 と 港 市をつ な ぐ交通 も重要 なポイ ン トにな る。 14世紀 に築造 された 「長虹堤 」 は、那覇 か ら 首里 に至 る海 中道 路 であ り、そ の完成 に よって政治的拠 点 としての王都 ・首里 は交易港 に リンク されたので あ る。 写真10 マラッカの河岸 写真11 マラッカ河 口の様子 (左手に見える近代的な高架橋は、新時代の象徴) 134-●マ ラ ッカか らジ ョホール ・バル-今 日、マ ラ ッカの町 を歩 くと、ポル トガルや オ ランダ時代 の古い建造物 が意外 に少 ない こ とに気づ くo その理 由の 1つ は、イ ギ リスに よる破壊 工作 であ る。 19世紀初頭 、マ レー 半 島に進 出 したイ ギ リス勢力 は、先人た ちがマ ラ ッカに築 いた要塞や政府公邸 、教会、倉 庫 、監獄 、その他 、公 共施設 の破 壊 を進 めた。 まず 1805年 に要塞 が破壊 され 、1807年 には ロン ドンのイ ギ リス東イ ン ド会社理事会 が、マ ラ ッカの破壊 を正式 に決定 した。+ なわち、 「マ ラ ッカを破壊 してその住 民 を移 し、ペナ ンをマ ラ ッカ海峡 にお ける唯一 の商業セ ンタ ー とす る、そ してマ ラ ッカ を他 の西欧列強 に とって使 い物 にな らない よ うに して ここか ら 撤収す る計画」であった とい う (白石隆 『海 の帝国』 中公新書、35-36頁)0 1819年 ラ ッフル ズの シンガポール領有 を契機 に、ペナ ンや シンガポール を基軸 とす るア ジア交易網 が整備 され る と、マ ラ ッカはます ます凋落の一途 をた どった。 イ ギ リスの覇権 を象徴す るよ うに、 ビク トリア女王即位60周年 を記念 して造 られ た大 きな噴水 がスタダイ ス広場 の中央 に存在 す る。 マ レー 半島の南端 に位置す るジ ョホール ・バル は、人 口約230万人 の商業都 市。 シンガ ポール との経 済交流 が さかんで、州政庁や裁判所 、王宮 寺院 (スル タン ・ア ブ ・バ カー 属す るが、なおスル タンを頂 き、16世紀以来の王国の伝統 を残 してい る。 ここで、ジ ョホール王国の歴 史の一端 にふれ てお こ う。 1511年 ポル トガル のマ ラ ッカ 占 領後、元マ ラ ッカ国王 のマ フムー ドは、マ レー 半島南端 のジ ョホール に移 って新 たな王国 を建 てたO この とき以来 、マ フムー ドは ビンタン島に新た な王都 をかまえ、ポル トガル勢 力 に対抗 した。 その後 、 ジ ョホール王国はマ ラ ッカの故地奪還 をめ ざ し、 スマ トラ島北端 のアチ ェ王国やオ ランダ東イ ン ド会社 と手 を結 んだ。 1641年 には東イ ン ド会社 のマ ラ ッカ 攻 略 を援助 した歴 史 も知 られ てい る。 ところで、ポル トガル のマ ラ ッカ攻略後 、貿易 は衰退 し、琉球船の来航 も途絶 えた。 15 11年以降、『歴代 宝案』 の関係 史料 は無 い。 しか し、マ ラ ッカ王家 は完全 に滅 び去 ったわ けではな く、王族や一一一部 の貴族 た ちがジ ョホール に移 り、新 たにジ ョホール王 国 を興 した (なお詳 しくは、Andaya,Leonard Y.,The Kingdom cZf Johore 1641-1728,Oxford Univel・Sity.Press,1975.参照)。 時 は移 り、19世紀 にイ ギ リスの保護領 となった ジ ョホール は、木材や胡棟 、ガ ン ビール (染料 の一種) な どの海外輸 出に よって栄 えた0 1880年代 に は茶 ・コー ヒー等 のプ ランテー シ ョンも導入 され るな ど、マ レー 半島の農業先進 国 とな り、 19世紀末 には数 あるマ レー諸 国のなかで ジ ョホール のみが、 自らの意志で近代西欧型 の行 政機構 を備 えた国家 を建設す るこ とがで きた (ザイナルエア ビデ ィン編 『マ レー シアの歴 -1
35-史 料 編 集 室 紀 要 第28号 (2003) 史』p.127)。 ●戦争の記憶 と 「ヤ シの実」 さて、私 たちはジ ョホール で王宮寺院 を見学 した後、丘の上か ら対岸 の シンガポール を 遠 くに眺めていた。そ こでマ レー シア人のガイ ドか ら聞いたエ ピソー ドが忘れ られない。 第二次世界大戦 中の ことである。 1941年 (昭和16)12月太平洋戦争が始まると、 日本軍はマ レー半島南部 のパ タこ とシン ゴラに上陸 し、シンガポール をめ ざして南下 した。その 目的は、イ ギ リスの東洋最大の植 民地シンガポールの攻略 と、石油 ・ゴム ・錫な ど軍需物資の確保 であった.翌年1月 クア ラル ンプール を占領 、 さらにジ ョホール ・バル に進 出 し、 2月 8日にシンガポール上陸作 戦が展開 され た。 この とき、 ジ ョホール水道 を泳いで対岸 のシンガポール に上陸 した部隊の兵士たちは、 「ヤシの実」 を浮 き袋代 わ りにい くつ も背負 っていた とい う。 の どかな南 島の風景 を連想 させ る 「ヤシの実」が、意外 にも軍需物資に転用 され、戦争 のイ メー ジ と重 なる。 こ うした 「戦場 の記憶」は、 日本では一部 を除き急速 に風化 しつつ ある一方、アジアで は世代 を越 えて語 り継 がれてい るO ちなみ に、私たちが訪れたクアラル ンプールの歴史博 物館 にも日本 占領期 の展示 コーナーがあった。 なお、マ レー半島での戦争体験 をもつ 日本 人 が詠んだ歌 は、その体験 の一端 を生 々 しく伝 えてい る。『昭和寓菓集』巻六 (講談社) か ら数首を紹介 し、小稿 のむすび としたい。 めこ おもほて ・ジ ョホール の丘に略凝 らす軍司令官の面火照 りしてシンガポール燃 ゆ た た 」 ・ゴム林 に雨 を さけつつ 仔 みて夜襲直前の食事終 りぬ こうそう ・渡河作戦終 りし朝は トラ ックに血まみれの兵 の後送始ま る _136 _