水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究
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(2) 88. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 被害者に対する救済施策及び,漁業従事者を対象とする失業対策を概観する。な かでも,困窮する漁家および,水俣病被害者を対象とした水俣病対策特別措置法 や,失業対策事業,漁業基本対策を概観することから,地方公共団体の施策がい かに整備され,生活再建に寄与したのかを検討する。 一方,受苦の集中した不知火海沿岸地域に定住する漁家や,水俣病被害者を支 援するために,自力更生的な団体が内発的に結成された。これら,自力更生的か つ内発的に形成された支援団体の実践は,生活の場を奪われた住民の権利を弁護 (代弁)し,雇用,所得,居住,社会サービスからなる生活保障を実質的に支えた。 また,自力更生的かつ内発的に形成された支援団体の実践は,地方公共団体が示 す施策に対抗した支援となり,漁家や水俣病被害者の生活の安定化につながった と考えられる。 以上,本研究は水俣病被害者施策と支援団体の実践を概観しつつ,それらが果 たした役割を検討する。また,支援団体が実践した内発的発展の意義を考究する。. 1.研究の課題と方法 本研究は,水俣病発生地域である水俣市および近隣地域を対象とし,窮乏化す る漁家に対して,地方公共団体が実施した対策を水俣病事件資料集(水俣病研究 会編,1996 年)ならびに水俣市史(1991 年) ,そして,色川(1995 年,2012 年) , 深井(1999 年)などの先行研究を基に概観する。水俣市,熊本県が行った漁家の 転業や就労転換を図るための施策や,漁業補償については,これまでの先行研究 で明らかにされているが,自力更生的な団体が内発的な力によって組織を形成し, 漁家や水俣病被害者の窮乏化をいかに脱出しようとしたのか,という研究は僅少 に留まっている(鶴見 1996 年) 。 本論は水俣病被害者に対して行われた地方公共団体による施策と,福祉的な視 点で水俣病被害者世帯の支援を行ってきた団体の活動を史実より検討する。とり わけ,元水俣市市議会議員,日吉フミ子氏(以下,敬称略す。日吉という。 )を 中心とした水俣病支援者団体の実践をとらえる。日吉らは,地域から疎外された 水俣病被害者や,その世帯を支援するために,相思社を立ち上げ自力更生を目指 す内発的な団体を結成した。日吉らが実施した水俣病被害者支援は,地方公共団 体が立案した都市計画や救済施策に対抗した事業であり,実質的な生活を支える 支援策であったと考えられる。また,日吉らが展開した支援策は,少数派である 当事者の意思を弁護(代弁)するアドボケイトプランニング(Advocacy Planning).
(3) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 89. の活動であったと推察される。 本研究は,環境破壊により身体や生活が破壊されながらも,地域で機能回復を 試みる水俣病被害者世帯や支援者が,近代化とは異なる生活の形と,あらたな人 間関係を模索した参加,協働,自主管理から成る自力更生的な団体を内発的に形 成した過程を検討する。こうした内発的な団体は,窮乏化する水俣病被害者世帯 の貧困をくい止め,生活の安定化に寄与したと考えられる。さらに,内発的発展 によって形成された団体の支援策や実践は,1950 年から 1960 年代にかけて,ア メリカで展開されたアドボケイトプランニングとの接点が多く認められる。 以上のことから,アドボケイトプランニングの概念を基に,内発的発展によっ て形成された団体の支援策や実践を検討する。. 2.アドボケイトプランニングに関する概念 本論を論じる前に,都市計画に対抗した概念であるアドボケイトプランニング を概観しておきたい。 アドボケイトプランニングとは,専門家が少数派を弁護(代弁)する活動のこ とをいい,アメリカ社会では,1950 年代後半から 1960 年代にかけて,テクノクラー ト(技術官僚)による中央集権的な都市計画には限界があるとの見解が,都市計 画家によって指摘されるようになった。それまでの都市計画は,一部の利益集団 を代表する者から推進され,広く市民の声を反映されることはなく,都市開発へ の意義や効果に対する批判が高まっていた。また,アメリカは人種差別の撤廃を 求める公民権運動などの高まりを背景として,これまでの権力構造から排除され てきた利害関係者が,行政の立案する都市計画や目標を中心に,メディアを使い 抗議運動を行い主要な関係団体への働きかけが行われた。こうした利害関係者に よる抗議運動や,関係団体への働きかけは,次第に都市計画を立案する者が意思 決定を下す際に影響を与える運動となった。たとえば,都市計画に基づき住宅整 備を行う場合,立ち退き者に対する代替住宅として,公営住宅政策を提案するが, 貧困層の集積 4)につながるとの批判が生じた。そして,スラム居住者の社会的流 動性を高め,スラムから離脱する機会を広げるための社会運動が発生した。 上記に示す社会運動によって住民を弁護(代弁)する活動をしなければならな いと主張した人物が,都市計画家であったデイビッドフ(Paul Davidoff)である。 デイビッドフは,社会は異なる利害や価値観を持つ多数の集団で構成され,都市 計画を立案するためには多元主義的な価値観が必要であると主張した。そして,.
(4) 90. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 科学的かつ客観性を標榜しつつ,合理的総合計画に基づいて立案される一元的な 公益は,技術官僚主義による専門家の価値基準に基づくものであり,独占的な解 釈の結果に過ぎないと批判を加えた。また,都市計画の立案を都市計画委員とい う独立的な行政委員会に委ね,最善の計画を期待してきたと指摘し,採否を図る 際,二者択一の選択しかなく,その作成および採択には,合理的計画の理論に反 していると論じた。さらに,都市計画家と計画の決定権者が別の主体であるとき, 複数の選択肢を提示する義務があると指摘した。デイビッドフは,合理的計画の 理論そのものに疑問を呈し,特定の計画案が最善と考えられているとき,異なる 代替案を積極的に評価することは無理があるという。むしろ,はじめから多様な 集団が,それぞれの計画案を多元的に提案する仕組みが自然であると論じた5)。 デイビッドフに加えて,フリーデン(Frieden: 1965 年)によると,不利益を受け ている住民の多くは,政治力を持たず専門的知識が不足しており,直接的な計画扶 助が必要であるという。また,政治過程の中で少数派の利益を弁護すべきと考え, 都市計画家が法律家と連携して貧困地域の住民に行政事業に対抗する方法を示し た。そして, 行政が行う事業に対抗する手段を示していくことが必要である論じた6)。 このようにアドボケイトプランニングの提唱者は,専門家の価値中立的という見方 を批判する。加えて,不平等や利害紛争といった社会経済的問題を視野に入れなが ら計画策定や意思決定過程から排除されてきた貧困層や,少数派で社会的に弱い立 場にある者たちの利害を弁護するといった専門的な支援が行われなければならない と考えられた。公的な計画を策定する過程では,多元的価値観の観点から個人や集 団が,各々の立場で計画を提案し,対話を行うことにより政治的議論が活性化する と,結果的には合理性と公共性を高めることができるとされた。このように,アド ボケイトプランニングは,行政当局から提示される公共の利益が唯一であるとの社 会通念を打ち破り,価値中立的な評価や最適化を排除しようとの試みであった。 また,西尾によれば,アドボケイトプランニングの概念は,いかなる特定利益 の擁護にも普遍的に適用されるべきと考えられていたが,現実には貧困層または 少数派集団の利益が追求されていたと指摘する。そして,特定の利益追求に至っ た背景を,都市計画家が貧困との戦いを正当化するためのものであったのではな いかと推察している。 このようにアドボケイトプランニングは,専門家が少数派を弁護(代弁)する 活動のことをいい,テクノクラート(技術官僚)による中央集権的な都市計画 の対抗概念として用いられ,アメリカ社会で展開された。次に,アドボケイト.
(5) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 91. プランニングの概念を踏まえ,水俣病被害者支援施策と支援団体の活動について 概観してみたい。. 3.水俣病被害者施策と支援団体の活動 これにより水俣病被害者に対して行われた地方公共団体による施策と,福祉的な 視点で水俣病被害者支援を行ってきた支援者の活動を概観してみたい。とりわけ, 水俣病被害者を支援してきた元水俣市市議会議員であった日吉が中心となって 設立した相思社創設の経緯を概観する。また,地方公共団体による水俣病対策や, 失業対策事業,漁業基本対策に対抗した実践を検討する。 1957 年,熊本県,水俣市は水俣病問題に関する対策を多面的に検討していた。 水俣病に関する対策のなかで一早く検討し,具体化されたのは,漁業対策の一つ である漁業転換施策であった。漁業転換施策は,水俣病被害者が最も集中した沿 岸零細漁家に代替漁場を提供するための築磯や,浅海増殖事業を整備するという 内容であった。これは熊本県が水俣市における奇病発生に伴う漁業対策として, 1957 年 3 月熊本県知事に宛に要望書 7)を提出したことに端を発している。原因不 明の奇病の発生状況が,1954 年ごろより熊本県南部に位置する水俣市の海の玄 関口百閒港を中心として漁家の間で広がり,確たる予防策も発見されず 1957 年 時点で 54 名が罹患し,そのうち 17 名が死亡した。熊本県は奇病の原因を究明す るとともに,漁業対策や救済策が急務であるとし,漁業に対して,生産形態の転 換と消費者不安の除去が必要であることから,櫻井熊本県知事 8)に以下の要望書 を提出した。その内容は,水俣港より恋路島に渡る海面は,近年回遊魚,根付魚 介類の減少が見られ,また,一般消費者の危惧感から販売不振が続き,また,出 漁も減少してきていることから,同海域での操業を禁止することが望ましいとし た。しかしながら,漁業法の規定や,食品衛生法(昭和 22 年法律 233 号)にお いて,禁止措置を図ることができないことから想定危険海域とし,漁業協同組 合において自主的操業の禁止が図れるよう指導するとした。さらに,汚染海域 における主要漁業は,ボラを対象とする飼付釣りや,籠漁業であり,その海域 では無動力漁船を使う 127 事業者が操業し,346 人の従業者が働いていた9)。当 時,水俣湾の漁家は,生産性を高めるために毎年,船を湾内に沈め漁礁を作りそ の漁獲高の効果を上げてきた。こうした代替漁場を作るために,隣接する津奈木 漁業協同組合との共有漁業権となっている津奈木湾の無害海域とされる場所に, コンクリートブロック漁礁を沈め,漁船単位当たりの生産量を上げるという,.
(6) 92. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 浅海増殖事業を計画し実施した10)。こうした浅海増殖事業を計画する一方で,わ かめ育成漁場の拡大を図るために投石事業を計画して,同地域に投石施設を整備 した。この他,ボラ以外のエビ,コノシロを対象とする刺し網漁や,沖合延縄漁 に対象魚種や漁法の転換を図る整備が進められたほか,鹿児島県海域への入漁計 画を示した。だが,これら漁業転換対策には,多額の資金を必要とすることから, 県単独の財政で対処できないことから国庫補助を要望した。なお,上記事業を実 施するにあたり,熊本県水産試験場は,(1)沿岸定着生物の分布調査, (2)移植 真牡蠣の活力試験,(3)プランクトンの調査 11),(4)海水成分と底質泥土の化学 分析が,1957 年 7 月から同年 9 月に調査が行われた12)。調査項目のうち, (1)沿 岸定着生物の分布調査が 7 月から 8 月 13)にかけて,県境にある神の川から津奈木 湾までの沿岸海域に対して,牡蠣類の斃死率が調べられた。 調査の結果,牡蠣の斃死率は神の川 0%,水俣湾内では 20%から 100%,津奈 木湾は 20%から 30%の斃死率が確認された。また,移植真牡蠣 14)の活力試験は, 神の川沖から丸島までの 11 か所を選定し行われたが,ほとんどの地点で実施後 10 日間以内に斃死が起こっていた。先行研究 15)によると,これら結果は手書きで 水俣地先漁場『牡蠣』斃死状況図としてまとめられ,分析結果を熊本県水産課に 送られたことを指摘している。なお上記に示した調査結果は,調査海域の斃死率 の高さを示すだけではなく,水俣川から北部の津奈木村北端におよぶ地点におい ても斃死率が高く,汚染水の北上を示す結果が記録されている(図 1) 。 そして,1958 年 10 月,前述した諸調査項目と合わせて,熊本県水産試験場は 『水俣市地先漁場における生物・底質等の調査が概報』とした正式な調査結果が まとめられ,厚生省(現,厚生労働省)や,関係機関に配布した。だが,その正 式報告書では,牡蠣の斃死状況図を水俣川河口部以南 50 地点のデータのみを残し, 大崎から北側 18 地点が削除され,また,地点番号まで書き換えられていた(図 1) 。 1957 年 4 月,芦北事務所長 16)は,津奈木湾においても水俣市で報告されていた 症例と類似する点があるとして,汚染水の北上に伴う波及的な漁業被害と,魚介 類の危険性について指摘し,熊本県経済部長宛に状況を報告した17)。芦北事務所 長の報告によると,漁獲した片口小羽いわしはひどく汚れ,極度に鮮度が落ち,ま た,付近の猫は,踊るような格好で足を動かし,発作的に海中または溝に飛び込 み,石垣や壁に激突悶死した数は 15 匹になったという。そして,ボラ,コノロシ, イワシの回遊が減っていると報告した。これらに加えて,現在のところ被害は水 俣市だけであるが,今後,潮流の関係で津奈木村地先海岸にも汚染海水がさらに.
(7) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 93. 袋湾. 凡例:× 調査地点 ●へい死率 10% △へい死率 10%以下. 図 1 牡蠣等斃死率 出典:水俣病研究会(1996) 『水俣病事件資料集上』葦書房 851 頁 筆者一部加筆。. 北上し,被害が拡大する恐れがあり,漁場は狭隘になるとの懸念を示した18)。 ところが,熊本県は水俣湾零細漁家に水俣湾に代わる漁場を提供するため,津 奈木湾などに築磯(わかめ増殖用投石)や,浅海増殖事業と併せて 1957 年 9 月 から 3 年間の間に,毎年総事業費 300 万円超える費用 19)を投じることになる。 他方で,1958 年,12 月,熊本県水産課は,袋湾で長崎県の真珠養殖業者 20)によ る真珠養殖事業の導入を検討し始め,1959 年 4 月,試験養殖が実施された。当初, 真珠 20 万粒規模で 20 人の常用雇用,後に 10 人,臨時で 20 人から 40 人の就業が 可能と予測し,袋湾に面する月浦地区の漁家数 67 人 21)の雇用対策を検討した。 この事業は,漁船・漁具を持たない最下位層の漁家や高齢者など,沖合漁業.
(8) 94. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 転換施策では,救済できない部分を対象とする内容であった。熊本県水産課は 1959 年 5 月,3 万粒の試験養殖を始め,そして,同年 10 月には,1960 年春以降, 20 万粒を養殖する契約を漁家と結んだ。1960 年の事業計画では水俣市 20 筏,天 草の 7 つの漁業協同組合が 280 筏の予算が盛り込まれた。 汚染水の北上が疑われると,先述した調査に遅れて,1959 年 10 月,海流調査 22) が開始され,汚染水の拡大は広範囲に渡っていることが明らかとなり,その海域 は牡蠣斃死率調査箇所すべてが含まれることになった。. 4.水俣病被害者の救済制度と漁業基本対策 チッソによる水俣湾を含む不知火海の環境破壊は,沿岸地域住民の健康被害を もたらしたほか,生活の窮乏化を進めた。とりわけ,水俣湾の環境破壊によって 生産の場を失った漁家の窮乏化は著しい状況にあった。熊本県は,零細漁家の生 活をこのまま放置すれば,被保護世帯に転落する状況にある23)との認識から,先 述した漁業転換施策の他に,法外援護 24)を実施した。また,1957 年,熊本県は水 俣市奇病対策委員会(以下,対策委員会という)で,病原物質の特定には至って いないが,魚介類の採取から濾過性病原体や,細菌などによる伝染疾患の疑いは 極めて低く,むしろ重金属による中毒との疑いが強まったと指摘した。熊本県は 水俣湾の漁獲を禁止する必要性があるとして,食品衛生法第 4 条 2 項 25) (昭和 22 年 12 月 24 日,法律第二 33 号)を適用し,漁業操業の停止を図ることができないか, 厚生省(現,厚生労働省)に打診を行った。しかし,厚生省は「魚介類のすべて が有毒化しているという明らかな根拠が認められない26)」として,上記法律を適 用することはできないとの回答を示した。食品衛生法による漁獲が禁止できない ことから,1958 年,対策委員会は,水俣湾の魚を食べないよう地元に自粛を要望 するとともに,水俣湾内での操業を厳禁とした。 他方,1958 年,熊本大学研究班 27)が「水俣病は現地の魚介類を摂取することに よって引き起こされる神経系疾患であり,魚介類を汚染している毒物としては, 水銀が極めて注目される28)」と公式に発表した。この発表を受け水俣市鮮魚小売 商組合は,水俣市漁業協同組合の獲得した魚介類を一切取扱わないとした不買決 議を採択した。そして,1959 年,水俣市鮮魚小売組合は,地元産魚介類の不買を 決議し,水俣市の近海で獲れた魚介類の流通は市場で停止されることになった。 このようにチッソによる環境破壊と,水俣市鮮魚小売商組合が下した不買決議が, 漁業で生計を立てる漁家や水俣病被害者の窮乏化を進める要因とになった。漁家.
(9) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 95. や水俣病被害者の生活が窮乏化する状況に対して,熊本県は救済制度および失業 対策など,生活再建に関わる施策を講じた。水俣病被害者の救済制度に関する施 策として,1959 年 12 月,チッソと水俣病被害者との契約に基づき,見舞金 29)を 交付するための,水俣病患者診査協議会が発足した。その後,1961 年 9 月,熊本 県に水俣病患者診査会が誕生し,1964 年 3 月には,熊本県条例による「水俣病患 者審査会」が新設された。さらに,1969 年 12 月,公害に係る健康被害の救済に 関する特別措置法(昭和 44 年 12 月 15 日,法律第 90 号)が公布されたのを契機 に,公害被害者認定審査会が開設され,水俣病被害者を救済する認定制度がスター トした。そして,1973 年(昭和 48 年),公害健康被害の補償等に関する法律(昭 和 48 年 10 月 5 日,法律第一 11 号)や,1988 年の同法律の改正に伴って,公害 健康被害補償法(昭和 62 年 11 月 4 日政令第三 68 号,以下,公健法)の施行に より認定業務が行われようになった。 これまで示したように,水俣病被害者の救済制度を整備する一方で,熊本県水 産課は 1959 年,困窮する漁家に対し,水俣病関係漁業基本対策(以下基本対策) を立案した。基本対策の内容は,①近海漁業出漁の指導奨励,②真珠母貝養殖の 指導奨励,③他漁業への就労斡旋,④公共土木の就労斡旋,⑤水俣病原因究明の 対策であった。また,熊本県民生労働部職業安定課は,漁家および水俣病被害者 世帯など関連失業者について,職業相談指導,職業紹介,職業訓練などの諸対策 を計画し,一時応急的に漁家および水俣病被害者世帯を一般失業者へ吸収すると いった対策を施した。 この他,熊本県は漁船の集団利用や,集団操業指導船の建造,近海漁業出漁の 指導を奨励していた。なかでも,水俣湾および不知火海で操業不能となった漁家 に対して,他県海域,とくに鹿児島県海域への入漁の斡旋を奨励した。1959 年, 水俣病緊急対策事業計画(1 次案)として,環境破壊により地元漁場を失った零 細漁家の沖合漁法の指導者養成(沖合進出先達漁船養成)を行った。しかし,熊 本県が漁業指導を委託した漁家に,漁獲高のほとんどを指導料として請求され, 水俣の漁家に残る売上高は僅かであった。そのため,水俣の零細漁家の多くは, 近海漁業での撤退を余儀なくされた。 また,近海漁業を熊本県は奨励していたことから,貯蓄・資産にゆとりのある 漁家は動力漁船を購入し機械化が図られるが,漁船が小さい故に船首が大波に耐 えられず,東シナ海漁場につく頃には,他の大型船に魚(烏賊)を獲られる状況で, 十分な漁獲高を上げることができなかった。このように,地方公共団体は漁家や.
(10) 96. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 水俣病被害者に対して,就労斡旋及び,漁業転業を含む施策を奨励するも,それ らが生活の安定化に寄与するまでには至らなかった。. 5.水俣病被害者の支援活動 水俣病被害者の救済に奔走した一人として,先述した水俣市議会議員であった 日吉が上げられよう。日吉は 1915 年,熊本県菊池郡に生まれ,水俣市の小学校 で女性初の教頭であった。1963 年,水俣市議会議員に当選し,以後,4 期連続当 選を果たすなかで水俣病被害者救済に尽力した。日吉は,水俣市議会に初当選を したころ胎児性水俣病患者と出会い,また,新潟水俣病患者を水俣に迎えたこと を契機として「水俣病市民会議」を発足させた。 日吉の回想録 30) (2006 年)によると,1963 年 3 月,水俣市立病院に入院してい た生徒の通知表をもって見舞に行った際,初めて水俣病被害者を目の当たりにし たという。この時,水俣市立病院の玄関口には北海道北星女学院の生徒が,花束 をもって水俣病被害者を見舞に来ていた。当時,日吉が勤務する小学校では水俣 病の話は一度も聞いたことがなく,学校以外のことは無関心であったという。北 海道北星女学院の生徒と水俣市長の妻の後に続いて,水俣病被害者の部屋を訪れ, A 氏に会うと, 手が曲がった状態でキセルに火をつける場面や, 病室で「ウーウー」 と唸る被害者を目にした。病室にいた水俣病被害者家族が, 「この人はやっとで 生きとらすばってん,長男が一カ月ばかり前に劇症で死んでしもたっですばい31)」 と,途方にくれた状態で泣かれていたといい,胎児性水俣病患者はもっとひどい 状況だと話を聞いたという。また,胎児性水俣病患者の病室は,廊下の隅に作ら れた場所で,窓もなく暗い部屋だっと回想する。病室内は犬の遠吠えのような唸 り声があり,よだれで寝具は汚れ,悪臭を放っていた。水俣市立病院の担当者の 話では,目が見えず歩けず,一人で食べられない子どもが多いとの説明の最中, 日吉はいたたまれず逃げ出したという。その後,日吉は自宅天井に胎児性水俣病 患者の子どもたちの姿が浮かび脳裏から離れず,助けを求めるような錯覚にうな されたと話す。そして,自分の子どもは幸いにも元気だが,胎児性水俣病患者の 母親たちは,どんな気持ちで暮らしているのであろうかと思うようになった。さ らに,教師を辞めて市会議員になれば,何かの役に立てるのではないかと思うよ うになった。その後,日吉に対して市会議員への要望があり,1963 年 4 月 1 日小 学校を退職し,4 月 18 日告示の市会議員に立候補した。同年 4 月 30 日,日吉は 30 名中 7 番目で当選すると,毎月水俣病患者が入院している病院へ訪問するように.
(11) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 97. なり,症状の重く学校へ行くことができない胎児性水俣病患者が地域に存在する ことを知った。 日吉は,胎児性水俣病被害者に対する義務教育の問題や,子どもの可能性を引 き出す特殊学級の整備を図っていかなければならないと考えるようになり,元 チッソ水俣工場長で革新から推薦を受け,水俣市長になった橋本彦七市長に訴え た。しかし,橋本市長は義務教育のことや特殊学級は必要としつつも「お前は水 俣病のことは言うなよ・・・水俣病のことを今言えば水俣が栄えんごつなる。も う一つは,患者は見舞金契約で見舞金をもらって満足しているから誰もどうかし てくれと言うた者はおらん。だから水俣病のことは言うな 32)」と議会で触れては ならないと口止めをされることになった。水俣病入院患者を気に掛けていた時, 日吉の実兄に「横浜に訓盲学院をしている校長がいる。一度, 見に行け」と言われ, 訪問することになる。訓盲学院の子どもたちの器楽合奏の演奏を聴き,楽譜も読 めないのにどうしてあんなに上手に弾けるのかと感心する一方で,家庭的な雰囲 気のなかで暮らしている様子をみて,水俣病の子どもたちにもこうした雰囲気の 中で,発育,発達の可能性を引き出せないかと考えるようになった。その後,日 吉は文教委員の副会長を務めることになり,他の文教委員とともに訓盲学院を訪 問する。各文教委員は「こぎゃん上手になるとは」 「教育の力って偉大なもんじゃ ね。 」と感心し,リハビリ施設 33)を作ることに賛成してくれた。この施設のなか に特殊学級を作ることが水俣市議会 1 期目にできることになった。日吉の回想に よると,当時,病院に入院している人が水俣病であり,家庭には入院している水 俣病被害者以上にひどい方はいないと思っていたという。しかし, 「家庭にはま だ悪か子がどしこんでん(どれだけでも)おるばい34)。 」日吉は月浦(つきのうら) に在住していた B 氏のところへまず訪問し,そして C 氏,次いで湯堂(ゆど)に 在住する D 氏,茂道(もど)の E 氏を訪れ,地域に胎児性水俣病の子どもが多数 存在することを知る。そして,訪問のなかで,漁家の家屋は障子がボロボロに破れ, また,土壁も直すことができないほど崩れた住居で生活する貧しい様子を確認す るとともに,胎児性水俣病患者が他にもいることがわかってきた。 日吉が水俣市議二期目を迎えたころ,水俣病の子どもたちの教育や生活を守ら なければならないとの思いを深めるようになり,1967 年第七回市議会定例会に おいて,水俣病原因究明について水俣市の説明を求めた。日吉が取り上げた内容 は,①水俣病によって入院している患者の現状について,②退院患者の自宅療養, そして③退院患者の自活能力,④水俣病対策費や水俣病患者治療費(補償)に.
(12) 98. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). ついてである。これに対して,水俣市山田優衛生課長は,1967 年時点での水俣病 患者総数 35),自宅療養の状況,退院者の生活の様子 36),そして,水俣病患者治療 予算 37)等詳細に報告した。また,大橋昇病院長は,湯の児リハビリテーションセ ンターが作られ,個人的に差異はあるが,全般的に症状は発病当時と比べ軽快し ていると述べている。しかし,胎児性水俣病に関しては全く動くことができない 症状の重い者もおり,長期のリハビリテーションが必要との見解を示す。そして, 橋本市長は,水俣病被害者への公費負担ができるよう厚生省,大蔵省と折衝する なかで水俣病原因究明の要請を行った。 日吉は市議会活動のなか 1968 年,障害者が共同で生活できる「コロニー」の 構想を考えるようになった 38)。そして,1971 年,水俣市議会の文教厚生委員とと もに,愛媛県身体障害者コロニー,大阪金剛コロニーへ行政視察を行った。また, 視察の帰りには,共同生活を行う山岸会を見学している。山岸会は,身体に障害 のある子どもの親たちが資金を出し合い共同生活を行う団体であった。日吉は水 俣病患者や胎児性水俣病の子どもたちの生活の安定と教育の保障という観点か ら,共同生活の必要性を訴え,1972 年,東京で行われた日教組の大会においてカ ンパを募った。さらに,水俣市でコロニーの話をしていると,1972 年(昭和 47 年) 9 月,浜元フミヨ氏より,「するば作るところはな,うちの先のあそこがよかば い。私の畑じゃなかばってんが,あんまり誰でんつくりよらっさんもんな。だけ ん,もしかしたら売らすかもわからん,そこに見に行こう39)。 」ということになり, 300 坪を超える土地を見ることになった。日吉は土地の取得をどのようにすれば いいのか,当時農業委員をしていた田上信義氏に相談するが,土地は複数の所有 者がいることが判明し,また,土地取得を妨害する者もあらわれ困難を極めた。 土地の購入名義はチッソ第一組合員であった田上氏 40),坂本武義氏,数広氏 41), また,坂本幸氏の名義で購入することになる。しかし,水俣市の農業委員会では 許可をすることができず,熊本県の農業委員会が土地購入に関して来水すること になり,使用目的等を説明することになった。 日吉は回想録のなかで,人生たった一度のウソと振り返っているが,土地を購 入する目的を「秀一 42)が 48 年 3 月で定年退職をするから,ここに土地を買って, この(相思社の下にある)市営住宅 43)の人たちの保育園がないから保育園を作り ます 44)。」といい,熊本県の担当者に許可を迫った。その担当者は, 「日吉先生が 保育所を作りたいというならばそりゃあてっぺんな(ありがたい)45)」許可しな いわけにはいかないといい認可されたという。購入した土地は,特別農振地域 46).
(13) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 99. にしている土地であったため,本来は宅地にはできない土地であったが,日吉の 夫のおかげで建物を建てることができたと回想する。また,土地の購入 47)を進め るにあたって,購入者全員で地域住民にあいさつをしてまわり,協力を依頼した という。 土地の造成を行い 1973 年 12 月,相思社の敷地は完成する48)。そして,相思社 の建築に野角建設が担当し,日吉が描いたコロニーが建設されることになった。 建設の構想では,普通の家ではなくみんながゆったりと風呂に入ったり,リハビ リをしたりする場所をつくらなければならないという意見がだされた。1973 年 6 月,水俣病患者総会 49)が開催され,「そういうものを作ってもらえるのはうれし い 50)。」と水俣病被害者や家族は話したという。 日吉のコロニーの構想には,水俣病被害者や家族が暮らすことのできる居住の 場や,リハビリテーションを行うだけでなく,収入を得て自立した生活が行える よう産業を起こし,就労の場を作るといった生活保障を構想していたと思われる。 相思社が第一に行った産業は,ナバの生産である。ナバとは, キノコのことであり, 開設当時,シメジとエノキだけを栽培しようと考えられていた。ナバの栽培に関 して,阿蘇農業高等学校に勤務していた日吉の長男に意見を求めたところ,水俣 では雑菌が入って栽培は 3 年と持たないと指摘を受けるが,事業を始めることに なる。事業開設当初,金融機関から資金を貸してもらえず,計画は頓挫すると恐 れもあったが,農協が融資に応じた 51)ことから,熊本県で唯一ナバの菌を販売し ていた菊池郡泗水村の工場に菌を買付けに行き,栽培が始められることになる52)。 だが,日吉の長男の指摘にあるように,雑菌の繁殖がひどく事業継続は困難とな り 1981 年閉鎖することになった。その後,相思社は,肥料作りや低農薬甘夏や 柑橘類の栽培を始めるようになるが,日吉は「甘夏問題」を境にすべての事業活 動から退くことになった。なお,上記に示した「甘夏問題」とは,1989 年,甘夏 の生育が悪く,加えて,カイヨウ病が多発したことにより,甘夏の収穫量が激減 した。甘夏の注文不足分に対応するべく,「水俣病患者家庭果樹同志会 53) (以下, 同志会という)」の生産者以外から甘夏を入荷することが決まるが,その一部に, 同志会が基準にしていた農薬使用回数を超えるものが混在し,その伝達が販売先 へ行き届かなかった。これをマスメディアに取り上げられ,水俣病センター相思 社事務局,また支援者であった相思社の責任が問われることになった。そして, この問題を受け,相思社で甘夏の事務を担当していた職員や,理事が辞職する ことになった。日吉はこの問題を契機として,相思社を訪れなくなったという。.
(14) 100. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 日吉の回想録には,相思社の建設理念は,水俣病患者やその家族が相互に関わ り,助け合う場所であるはずが,事業所が出来てから水俣病訴訟を行った訴訟派 の人と,訴訟派でない人が打ち解けることはなかったという。象徴的な出来事と して,水俣病認定をめぐる訴訟派であった F 君と母親,そして,G さんが子ども をつれて,相思社を訪れた際,子どもたちに「こういうところだけん,あんたた ちもいつも遊びにきたりしちゃ良かよ 54)」という話を子どもたちにしていたとき, そこには長屋のようなものが 3 軒くらい出来ていて,建物の中からなんば覗くと な 55)」と言われ,F 君とその母親は「こら大変,こぎゃん人のおらすならばろく なこっじゃなか。とても打合ん 56)」と言って帰って行ったという。また,うちの 中から,訴訟派で補償金を受給した G さん,F さんに対して「ああー羨ましか, 羨ましか」といわれたとき,2 人は「また,ここでもいじめられるのか」と思っ たという。日吉は,事業が拡大するにつれ相思社が両者を分断する場所になって しまったと回想する。. 6.水俣病被害者における自力更生と内発的発展 本項は,水俣病被害者や支援者によって形成された自力更生と内発的な発展を 検討する。 上記に示した,自力更生とは,鶴見(鶴見 1996 年)によると, 「水俣病患者た ちは,現代の医学が水俣病を治癒する能力のないことを知ったとき,自らの創造 性に依拠して,内なる自然の回復を図った 57)。」といい,本研究においては,水 俣病被害者が自立への主体形成の営みを行うために,自身に適した方法を実践し ていくことを自力更生とする。また,内発的発展とは, 「ダグ・ハマーショルド 財団の発展の定義によると,人間集団が自分たちの持つもの―自然環境,文化遺 産,男女メンバーの創造性―に依拠し,他の集団との交流を通して,自分たちの 集団をより豊かにすることであるという。そうすることによって,それぞれの発 展の様式と生活の様式を自律的に創り出すことができる58)。 」といい,さらに, 「発 展の要件は,第一に食物,健康,住居,教育など,人間が生きるための基本的要 求を充足させることである。第二に,それぞれの社会のそれぞれの地域の共同 体の人々の協同によって発展を図ることである。そのことを内発的,自力更生と いう。第三に,地域の自然環境と調和を保つような発展を図ることである。第四 に「もう一つの発展」は,それぞれの社会内部で,構造的変革を必要とする59)。 」 している。自力更生,内発的発展を検討する上で,相思社の活動,ならびに,公害.
(15) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 101. から困窮状態に陥り形成された団体の実践をこれより検討してみたい。 先述したように相思社は 1974 年,水俣市議会議員であった日吉らがカンパと 借入金とによって,仏石部落に敷地を買い入れ設立した。開設当初の理事長は川 本輝夫氏,理事に田中始氏,緒方正人氏,渡辺清氏,監事に佐藤武春氏らの水俣 病被害者で構成し,常勤の職員は 21 名,うち水俣病被害者は 4 名,被害者家族 は 2 名であった。 相思社設立当初の支援者の一人,柳田耕一氏(以下,敬称略す。柳田という。 ) は自主交渉闘争に参加し,大学を退学して水俣に移住した。1979 年当時の相思社 の活動を,鶴見のインタビューより振り返ると次のように記されている。 「セン ター(相思社)で行っているのは,大根漬け,堆肥(牛糞,鶏糞,のこくず,米 糠を混ぜて発酵させたもの)の生産,ミミズの養殖,エノキダケの栽培 60)」など が生産されていた。上記に示したミミズと堆肥は地域住民に好評で「赤軍が堆肥 を作っている61)」といって買い求めていたという。地元の農家によろこんで使っ てもらえるような有機肥料を作ることで,地域に受入れられると考えていた。ま た,相思社は出月地区に鍼,灸,指圧の養生所(出月養生所 62))を開いて水俣病 被害者などの治療を行ったり,民間薬や民間療法の学習会を竹の子塾と称して開 催したりして地域に根差した活動を展開した。 相思社の活動は地域に根差し,水俣病被害者に根差す活動を進めながら,そし て自立することが目標であった。開設当初,相思社では甘夏みかんの栽培は行わ れていなかったが,水俣病患者家庭果樹同志会を団体して,有機農法,低農薬の みかんを栽培することを申し合わせ,生産されたみかんを生協,各種団体,グルー プなど流通ルートを自力で開拓して販売していた。また,1982 年からは,水俣生 活学校を開くという新しい活動を開始した 63)。生活学校は短期の合宿学習ではな く,少なくとも 1 年間,水俣で共に生活し,農業生産をしながら学習する場・機 会を作ろうというものであった。 当時の様子を先に示した柳田は, 「現に農協から年間の栽培管理表というメニュー が出てきます。だれだれの所にみかんが何反あって,何トンあるのかというのが わかってますから,時期に応じて農薬や肥料が自動的に配達されてきます。どん なみかんがいいかということについても,市場メーカーなんかが基準を持ってい ます。農民自信が決めているわけじゃありません。値段についてだってそうです。 市場経済できめている。それをなんとかしようということで 6 年やってきて実際 36 トンから始めて来年だったら 700 トン近い量になります。大沢さん(反農連).
(16) 102. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). たちと合わせたら,もう 900 何十トンです。水俣市農協が 3000 トンですから単 純に考えれば 3 分 1 くらいの量は私たちもやれるところまできました 64)。 」と回 想した。しかしながら,柳田は農協を通じての生産体制を次のように指摘してい る。農協によって管理される農業栽培,販売は,チッソによって管理されてきた 水俣の地域社会の構図と変わりないという。そして,チッソによって管理される 社会を「チッソ型社会」と称し,これに替わる社会構図が必要と考え「相思社型 社会」を提示した。なお,相思社型社会とは,人間を原点として物事を決めてい く社会であると柳田氏は論じた 65)。こうした柳田氏の提案は,チッソ社員であっ た田上義春氏(以下,敬称略す。田上という。)と,農業を行いながら演劇をす る砂田明氏(以下,敬称略す。砂田という。)によって営まれていた乙女塚農園, また大沢忠夫氏(以下敬称略す。大沢という。)がリーダーを務める反農薬生産 者連盟(以下:反農連)においても,共通の目標が掲げられていた。田上夫妻, 砂田夫妻は 1978 年に神ノ川に蜜柑山を購入し,広さ 1 町歩ほどの土地を半分ず つ所有し,農業を経営していた。田上は出月地区で幼いころから農業をしており, 砂田は農業経験はないが荒れ地を開墾した経験をもっていた。二つの世帯は違う 農業のやり方を自由に行い,時に議論を戦わせながら農業を行っていた。先述し た鶴見によれば,このときの 4 人の関係は全く対等な関係であったという。 田上は 1970 年代後半から 1980 年代初頭,肥後牛を 2 頭飼うようになる。飼料 の牧草を年間絶やさないための乾燥場が必要となり,田上は太陽エネルギーとわ ずかな電気で牧草を乾燥させる設備を考案した。また,畑に入れる堆肥も農場で でる牛糞と鶏糞で作っていた。砂田も養鶏の飼育を行っているが,田上との見解 と異なっている。田上は鶏舎の床はコンクリートにし,鶏糞を集めやすく処理し やすい方法を採用し,砂田は半開放的な飼育を行い,鶏が糞をしながら畑を歩き 鶏糞処理を省く方法がとられていた。そして,田上はプリマス・ロック種の鶏 66) の卵をチャボにかえさせ,砂田は名古屋コーチンを飼い卵は親鳥に替えさせてい た。この他に乙女塚の主要な生産物は,キューイを生産していた。キューイの生 産は,田上が前の山の持ち主に勧められ,ニュージーランドから種を取り寄せ,30 本の苗木からはじめた。田上がキューイを始めた理由は,ニュージーランドと日本 の気候が逆であることに注目し,ニュージーランドがキューイを収穫できない時に 日本では収穫でき出荷できると考えたからであった。さらに,輸送する間に熟成 することに利点があることに着目した。この他に,田上は無農薬では蜜柑栽培は やれないといい,無農薬で育つ福原オレンジだけを残し,古木はすべて切って.
(17) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 103. しまった。そうして,そば,麦,栗,大根,ステビア,大豆,とうもろこし,夏ミョ ウガなどを栽培した。米は近くの田んぼを借りて作り,この他に,20 箱のミツバ チを飼った。田上の目標は,自分たちのできる能力の範囲で楽しみながら自給自 足して暮らしていくことであった。田上はチッソの仲間に,会社が無くなった場 合,それぞれ生きていく方法を立てなければならないといい, 「自分のことは自 分で行い他力本願ではだめだ 67)」と周囲に語っていたという。 一方,反農連のリーダー大沢は,1944 年朝鮮で生まれ,父は農林省の役人で終 戦後に福岡に引き上げてきた。大沢は大学卒業後,友禅染の仕事に就いたが,4 年で辞めて人夫仕事などをしていた。1973 年(昭和 48 年)チッソ東京本社前の 座り込みに参加し,それがきっかけで砂田とであった。1977 年砂田の紹介で水俣 市茂道に住み,杉本栄子氏(以下敬称略:杉本)の蜜柑山の援農を行うようにな る。その後,杉本が体調を崩し,蜜柑山の世話ができないため,年間を通してやっ てほしいと大沢に依頼があった。大沢に依頼する際,杉本は「自分たちは水銀の 毒で水俣病になったのだから,他人に食べさせる蜜柑に毒(薬)を使いたくない」 という。大沢はこの考えに共鳴し,無農薬有機農業法の蜜柑を育てながら,他の 生産者と協力し栽培を始めた。反農連に加盟している農家は,夏蜜柑の生産者は 40 世帯,寒付大根,芋などを含めると 60 世帯になった。このうち 8 割が水俣病 の症状を有していたが,認定されていたのは 3 割であったという。反農連は, 「農 薬は毒の認識を生産者の共通の痛みとして,水俣病的状況を告発していく。本来 の人間らしい生活,生産の場を創るため,複合的自給農業 68)を可能な限り目指す。 そして,生産者―消費者として新たな結合,連帯を深める。弱く,切り捨てられ る生産者同士の絆を深め,共同互助的精神を高め,農協や現在の流通機構に拠ら ない自らの生産,加工,販売を考えていく69)」と事業理念を示した。こうした反 農連の理念に賛同できる者は,だれでも加入できるといった緩やかな組合であっ た。大沢は「患者地区の中で甘夏を出荷したりしている人たちは,今までの流 通ルートから落ちこぼれた人たち。漁業でも農業でもやっていかれない。わずか な畑が支えになるような方向でその中で生きがいまで見いだせるような会を作り たい 70)。」という。反農連の参加者の内,杉本の作付面積が 10.3 反(約 1ha)と 最も大きく,他は 1 反(10a)から 2 反(20a)が多く,1 反以下の参加者もあっ た。こうしたことからも指摘できるように,反農連は,相思社よりもさらに底辺 の生産者と深く結びついていたと考えられる。なお,反農連の販売方法は,リヤ カーで行商をしたり,一軒一軒訪問して売ったりする訪問販売であった。さらに,.
(18) 104. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 全国的に販売ルートを開拓していった。このように地道な活動が功を奏し,1977 年に 60 トンの生産から始めたが,1981 年(昭和 56 年)には 190 トンにまで生産 が上昇した。生産した甘夏蜜柑はすべて売り尽くし,足りなくなるほどであった という。また,東京と水俣をつなぐ,合宿交流会を開催し,都会の人々に水俣の 生活と生産の実態を見てもらう活動を実施した。こうして,互いの暮らしのあり 方について考え合う機会が設けられた。 以上,相思社,乙女塚農園,反農連の活動にみる共通性をまとめると,第一に 有機農法,反農薬,または低農薬栽培で農業を行い,なおかつ,生産者と消費者 が事業理念と結合し活動が展開された。第二に,水俣の公害の歴史に照らし合わ せ,さらに,生産者,消費者双方の立場から考えると,高エネルギー,高消費の 生産様式から,低エネルギー,低消費の生活様式へ転換を図ったことである。第 三に,高エネルギー消費と環境破壊につながる近代技術に対して,地域の小生産 者が伝統に基づいた産業が目指されたことである。このように,水俣病被害者や 近代に抵抗する人々は,雇用,所得,居住と人間関係の構築を内発的に志向し, 地域の生活保障を整備した。. 7.水俣病被害者支援におけるアドボケイト機能 これまで,水俣地域で展開された支援団体の実践を概観してきた。先述した日 吉らが構想した水俣病被害者支援は,地方公共団体が立案した都市計画や,救済 施策に対抗した事業であり支援策であったと考えられる。また,漁家や水俣病被 害者の生活再建に関わる施策は,テクノクラート的(技術官僚)な意思決定から, 漁家や水俣病被害者は排除されていたが,日吉らの実践は,先述したデイビッドフ らが提唱した少数派である当事者の意思を弁護(代弁)することを目的とした アドボケイトプランニングととらえることができよう。あらためて,アドボケイト プランニングの概念をもとに,日吉らが行った漁家や水俣病被害者支援策の役割 や意義を検討すると,①生活の安定,②雇用の創出,③権利擁護の 3 つがあった と考えられる。次に,これら 3 つの役割と意義について検討してみたい。 第一に,生活の安定への希求から鑑みると,日吉らの活動は少数派である漁家 や水俣病被害者の生活破壊の状況と水俣市施策の問題点を指摘し,彼らの生活再 建を目指す社会運動であった。なかでも日吉は,胎児性水俣病児童の自宅を訪問 する過程で,荒廃した家屋の状況と劣悪な生活状況を目の当たりにしたことから, 障害児療育と医療施策を重点に法制度を整備しようとした。日吉らの構想には,.
(19) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 105. 漁家や水俣病被害者および家族に対する代替住宅等を整備するという計画は検討 されていないが,差別されることなく余暇を過ごすことができる共同活動の場と して相思社を創設した。相思社は,胎児性水俣病児童の療育や治療,余暇活動に とどまらず,水俣病被害者の就労の場を確保するといった医療,教育,福祉から 構成される複合的な機能を有する事業所を整備しようとした構想であり,水俣病 被害者や家族にとって,生活の安心と安定が得られる場所や機会として期待され た。先述したアドボケイトプランニングの理念をもとに,相思社での共同活動を 検討すると,地域からは,貧困層の集積,または,水俣病に対する差別・偏見を 受ける人々の集合した場所として,位置づけられたとも考えられる71)。また,ア ドボケイトプランニングが展開されたアメリカでは,スラム居住者の社会的流動 性を高めることから,スラム地区を脱出する運動が広がっていたが,日吉の構想 には水俣病被害者救済の施策整備に重点が置かれ,「零落:ナグレ 72)」が集まる 居住地から移住(離脱)を進める支援は検討されていない。 日吉は,水俣病によって家族や地域が激しく断絶・分断されていく様子を目の 当たりにしたことから,人々を結ぶ場所,また,相互に助け合い,関係を構築す る機会を創り出す必要があるとの信念から,相思社設立を目指したと思われる。 第二に,雇用の創出として,日吉は相思社開設当初,ナバ栽培に着目する。ナバ は一つひとつが軽量であることや,長時間の作業を必要としないことから,神経障 害を発症している水俣病被害者の体に負荷がかからない労働であったと考えられ る。また,キノコの胞子を粟や稗に付着させ腐葉土に撒き短期間に収穫が見込める といったことから,事業収入を得やすいと考えたのであろう。しかしながら,温暖 な気候が災いして,キノコ栽培は事業として軌道に乗らなかった。その後,肥料づ くりや温暖な気候とリアス式海岸を利用して柑橘栽培に着手することから安定的な 生産を果たすが,甘夏事件を最後に日吉は相思社の事業から退くことになる。 甘夏栽培の期間までを鑑みると,生産の場を失った漁家や水俣病被害者にとっ て,農業への就労転換は,雇用の創出となるばかりか,収入を得る機会となった。 こうした内発的な力によって生み出された雇用の創出は,困窮する漁家や水俣病 被害者の生活の安定につながったと思われる。また,水俣市や熊本県が行った水 俣病緊急対策事業規模からすると,内発的な取り組みは小さな取り組みと考えら れるが,自力更生的に取り組まれ,困窮する漁家や水俣病被害者の生活を実質的 に支えたという点において,その意義は大きい。このように日吉らが展開した実 践は,近代化に対抗した運動であり,自然生態系と人間社会システムとの調和を.
(20) 106. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 模索した実践とみることができよう。 第三にデイビッドフは,先述したように,社会は異なる利害や価値観を持つ多 数の集団で構成されていることから,都市計画を立案する際は,多元主義的な価 値観が必要であると論じた。そして,科学的,客観的を標榜しつつ,合理的総合 計画に基づいて立案される一元的な公益計画は,技術官僚主義的な専門家の価値 基準に基づくものであり,独占的な解釈の結果に過ぎないと批判を加えた。さら に,都市計画の立案を都市計画委員という独立的な行政委員会に委ね,最善の都 市計画を期待してきたと指摘し,採否を図る際,二者択一の選択しかなく,都市 計画の作成および採択には,合理的計画の理論に反していると論じることに加え, 都市計画家と計画の決定検者が別の主体であるとき,複数の選択肢を提示する義 務があると主張した。なお,先述したように,デイビッドフは,合理的計画の理 論そのものに疑問を呈し,はじめから多元的な集団が,それぞれの計画案を多元 的に提案する仕組みが自然であるとした。水俣市を中心とした漁家や水俣病被害 者救済施策を立案する過程で,多元的に計画を提示できる仕組みや,計画を集約 できる機関が存在しなかった。デイビッドフなどの主張をもとに,日吉らの内発 的発展を鑑みると,地方公共団体が行った水俣病救済施策に対抗する計画案を提 示したと考えられる。また,フリーデン(Frieden: 1965 年)が論じたように,少 数派である者(漁家や水俣病被害者)の利益弁護のための活動であったともいえ よう。さらにフリーデンは,不利益を受けている住民の多くは,政治力を持たず 専門的知識が不足しており,直接的な計画扶助が必要であるという。そして,フ リーデンは,政治過程の中で少数派の利益を弁護すべきと考え,都市計画家が法 律家と連携して,貧困地域の住民に行政事業を活動する方法を示し,それに対抗 する手段を示していく必要があると論じた 73)。日吉らの活動は支援者ならびに専 門家と連携し,水俣病被害者を内発的発展の力によって展開された社会運動とい える。さらに水俣病被害者や受苦を強いられる地域を放置せず,集約的代弁者と して,権利擁護を果たしてきたと思われる。. おわりに 本研究は,不知火海沿岸地域に定住する漁家や,水俣病被害者の生活困窮に対 する地方公共団体が展開した救済や失業施策を概観してきた。なかでも,困窮 する漁家および水俣病被害者を対象とし,失業対策事業や水俣病救済を概観する ことから,地方公共団体の施策がいかに,生活困窮からの脱却に寄与したのかを.
(21) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 107. 検討した。困窮する漁家に対し,熊本県は漁業に関わる基本対策を示し,さらに, 漁家および水俣病被害者世帯など関連失業者について,①職業相談指導,②職業 紹介,③職業訓練などの諸対策を計画し,一般失業者へ吸収するといった対策を 講じた。加えて,集団操業指導船を建造し,集団利用することによって,雇用を 創出し,所得の安定を図ったが,いずれも恒久的な施策とはならなかったと同時 に,生活の安定化をもたらさなかった。 なお,本論において詳しく論じなったが,2012-2015 年に筆者が行った水俣病 被害者世帯の調査においても,漁家や水俣病被害者の生活の厳しい一端を垣間見 ることができる。同調査において,1959 年,先述した地方公共団体の職業紹介を 受け,水俣市内の道路建設業に従事した漁家と遭遇した。夫婦ともに,末梢神経 障害を伴う水俣病を発症するなか,1 日男性 250 円,女性 200 円の日当で土木作 業に従事していた。当時,土木作業での,1 カ月当たりの収入は 5,000 円ほどであり, 漁家世帯収入の半分ほどであったという。また,女性は,乳児を背負った状態で 道路建設業にあたる一方,自宅では家事や家族の介護・育児をしなければならず, 体を休めることが出来なかったと回想する。世帯収入を求め,家族の稼働力を使 い出稼ぎ 74)にでる世帯も多く,困窮する状況からの脱出をはかるため,あらゆる 手段を講じたが,生活再建を果たすことはできなかったという。 一方で,本論では,受苦の集中した不知火海沿岸地域に定住する漁家や,水俣 病被害者を支援するために,内発的な力でもって自力更生的な団体が,生活を再 建する過程を検討してきた。内発的に形成された支援団体による実践は,雇用, 所得,居住,社会サービスから構成される生活保障を求める社会運動であったと いえよう。こうした社会運動を 1950 年代,アメリカで展開された,アドボケイ トプランニングの概念をもとに,その役割や意義を検討してきた。日吉らが展開 してきた実践は,生活の場を奪われた漁家や水俣病被害者の生活保障を弁護(代 弁)し,なおかつ,地方公共団体が示す施策に対抗し得る実質的な支援であった という点において,その意義は大きい。そして,日吉らが展開した実践は,近代 化に対抗した社会運動であり,自然生態系と人間社会システムとの調和を模索し た実践であるといえる。 60 年数年前,南九州の一寒村で発生した未曾有の自然生態系を含む人間破壊は, 2011 年に発生した福島第一原発事故と類似性を感じてならない。これらは「犠牲 のシステム」によって生み出された事件であり,特定の地域や住民に受苦を布き, そして,多数の人々が受益を得ると言った社会構造と類似している。首都圏から.
(22) 108. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 離れた小さな町は,財政の安定化と,物質的な豊かさを求めて企業誘致を行い, 企業は国策に応える形で資本を投じ,地域資源を収奪していった。チッソによる 環境破壊や,福島第一原発事故にみる放射能汚染は, 「犠牲のシステム」の必然 的な結果としてみることができよう。いま,40 年に及ぶ福島第一原発廃炉に向け た作業と,汚染被害の拡散防止に人々の関心は傾注されているが,同時に,被災 者一人ひとりの生活破壊に目を向けなければならない。また,破壊された生活を いかに再建し,そして,地域への愛着精神を持って,どのようにあらたな地域を 創生していくのか,自然生態系と人間社会システムの調和が模索されていると思 われる。水俣で 60 年の月日をかけて育んできた一人ひとりのくらしや,内発的 発展によって形成された団体の実践は,いま,現代社会に多くの教訓を語り掛け ている。 1) 水俣病の公式確認は 1956 年 5 月 1 日。 2) 高橋哲也(2013) 『犠牲性のシステム 福島・沖縄』集英社新書。 3) 梶田孝道(1988) 『テクノクラーシーと社会運動 対抗的相補性の社会学』東京 大学出版,18 頁。 4) 岡本徹太郎は「アメリカにおける住環境の保障と住宅政策」『海外社会保障研究 Autumn 2005 No.152』で,古典的な公共住宅は現在では最も人気のない政策のひと つであり,「連邦のスラム」と揶揄され,貧困の集中する荒廃した場所とみられて いたと指摘する。 5) 西尾勝(1975) 『権力と参加―現代アメリカの都市行政―』東京大学出版会, 129 頁。 6) 西尾勝(1975)前掲書,131-133 頁。 7) 1957 年 3 月 20 日。 8) 櫻井三郎熊本県知事。 9) 水俣病研究会編(1996)前掲書,367 頁参照。 10) 漁礁施設(魚種ボラ)1 か所,年間 1000 貫(1 貫 3.75kg),1 貫あたり 400 円, 年 400,000 円,6 ケ所合計 2,400,000 円を見込んでいた。投石施設は,藻類わかめ 一か所年間 2000 貫,1 貫あたり 80 円,年 60,000 円,3 か所,480,000 円の事業効 果があると予想していた。 11) 1957 年 7 月 31 日 1 回のみ実施。 12) 深井によると漁家からの聞き取りしたボラ魚群の移動想定図と,上記に示した 潮流の北東南西のであることを測量担当者は確認し,汚染海域がすでに拡大して いることを危惧していると指摘している。また,1957 年 4 月には芦北事務所長か ら危険性と対策提起が報告されているという。深井純一「水俣病問題における行 政問題」宮本憲一編(1977) 『公害都市の再生 水俣』筑摩書房,177 頁参照。.
(23) 法政治研究 第 7 号(2021 年 3 月). 109. 13) 1957 年 7 月 29 日,30 日,1958 年 8 月 8 日,10 日に実施した。調査方法は沿岸 線に沿い南側 St.1 から北側 St.40 までの 40 点,恋路島周辺 St.41 から St.50 まで 10 点,合計 50 点地点を調査。各地点の平均生息分布状態を示すと思われる場所を選び, 1 平方米の枠内の生息生物について,へい死しているものと生きているものとを計 数した。なお,生貝については肉質の状態を観察し,あわせて海藻の分布と異常 の有無を観測。 14) 八代郡鏡町地先産。平均殻長 5.0cm。調査の実施時期 1957 年,8 月 13 日から 10 月 10 日。 15) 深井純一「水俣病問題における行政問題」宮本憲一編(1977) 『公害都市の再生 水俣』筑摩書房,146 頁。 16) 昭和 32 年 4 月 4 日,芦北経 417 号。 17) 水俣病研究会編(1996)前掲書,491 頁参照。 18) 芦北事務所長の報告は,前述した熊本県水産試験場の調査よりも 4 カ月も早くに, 漁業被害の状況と環境破壊の変化を的確に指摘していた。 19) 漁礁施設 2,559,600 円(1,706,400 円 2/3 国庫負担,853,200 円地元負担 1/3 負担), 投石施設 540,000(360,000 円 180,000 円 2/3 国庫負担 180,000 円地元負担 1/3 負担) 合計 3,099,600 円を計上。 20) 長崎県長崎市西村真珠養殖場。1959 年(昭和 34 年)袋湾において試験養殖が実 施された。 21) 水俣病研究会(1996)前掲書,367 頁参照。 22) 1959 年 10 月 15 日第一回潮流ビン放流,第二回 1959 年 10 月 28 日,29 日放流。 一般に不知火海は上げ潮の時,北東方向に流れ,下げ潮はこれとは逆に南西方向 に流れる。 23) 熊本県社会課係員派遣実態調査の結果から認識を示す。水俣病研究会編(1996) 前掲書 543 頁。 24) 水俣病研究会編(1996 年)前掲書によると,法外援護は次のように行われてい る。熊本県は 1957 年(昭和 32 年)3 月,見舞金(見舞金は,盆暮れ見舞金として 支給されている。)として 200,000 円,1958 年には 84,000 円,衣類 380 点,累計 284,000 円を支給した。また,水俣市は,公害激甚地域に定住する水俣病被害者ら に対して,1956 年(昭和 31 年)3 月 40,495 円,1957 年 3 月 266,850 円,1958 年(昭 和 33 年)3 月 1,081,704 円,累計,約 1,390,000 円を見舞金として支給した。543 頁。 25) 食品衛生法 第 4 条 2 厚生大臣は一般に飲食に供されることがなかった物で あって人の健康をそこなうおそれがない旨の確証がないもの又はこれを含む物が 新たに食品として販売され,又は販売されることとなった場合において,食品衛 生上の危害の発生を防止するため必要があると認めるときは,薬事・食品衛生審 議会の意見をきて,その物を食品として販売することを禁止することができる。 26) 水俣市立水俣病資料館編(2007) 『水俣病』水俣市,57 頁。.
(24) 110. 水俣病被害者支援施策と内発的発展に関する研究(三好禎之). 27) 1958 年 7 月 22 日,武内忠男教授,徳臣晴比古教授らの研究を基礎として発表。 28) 水俣市立水俣病資料館編(2007)前掲書,58 頁。 29) 死者 30 万円, 生存者年金(成人 10 万円,未成年 3 万円)葬祭料 2 万円と低額であっ た。見舞金契約には,第 4 条「甲(チッソ)は水銀病が甲の工場排水に起因しな いことが決定した場合においては,その月をもって見舞金の交付は打ち切るもの とする」第 5 条「乙(患者)は将来水俣病が甲の工場に起因することが決定した 場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする」という条項が含 まれていた。なお,見舞金契約の効力は 1973 年水水俣病第一次訴訟判決で公序良 俗違反として無効と判断された。 30) 日吉フミコ「教師をやめて市会議員に~水俣病患者救済に奔走して~」『水俣病 を伝える 豊饒の浜辺から 第四集』 (財)水俣病センター相思社,41-59 頁。 31) 水俣病センター相思社(2006) 『水俣病を伝える豊饒の浜辺から第四集』相思社, 46 頁。 32) 水俣病センター相思社(2006)前掲書,47 頁。 33) 1965 年 3 月 7 日水俣市立病院付属湯之児病院,リハビリテーションセンターと して公立のリハビリテーション専門病院としては日本で初めて開院した。2005 年 3 月 24 日施設の老朽化と水俣市天神町にある水俣市総合医療センターのリハビリ 機能充実による統合により閉院した。 34) 水俣病センター相思社(2006)前掲書,48 頁。 35) 1967 年時点での水俣病患者総数 111 名。このうち死亡は 42 名と報告されている。 36) 外来治療 10 名,家庭に帰って治療を受けていない者 43 名と報告されている。 37) 水俣病事件資料集 1296 頁-1297 頁によると,昭和 33 年から昭和 41 年までの 9 年間の間に衛生予算として支出した分は総額,63,903,000 円であり,このうち国の 補助金が 6,560,000 円,熊本県が同様に 6,560,000 円,合計 13,120,000 円であった。 なお,昭和 42 年 4 月から 10 月までの各保険別の支出金額は,医療扶助 268,094 円, 国保 1,454,618 円,厚生医療費 1,094,232 円,自己負担分 1,135,477 円,日雇い健康 保険等その他の保険 268,286 円である。 38) 1969 年 9 月,参議院公害特別委員会が水俣を訪れた際,日吉は水俣病胎児性患 者のためにコロニー建設したいと訴え,協力を要請している。 39) 水俣病センター相思社(2006)前掲書,50 頁。 40) 田上信義氏は養子であることから田上英子氏が名義人となる。 41) 氏名不明。 42) 日吉フミ子氏の夫である日吉秀一氏。 43) 榛原団地。 44) 水俣病センター相思社(2006)前掲書,53 頁。 45) 同書。 46) 農業振興地域は,農業振興地域の整備に関する法律(以下,農振法)に基づき,.
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