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中国映画におけるグローバル化の軌跡

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Academic year: 2021

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近 年、 日 本 で 上 映 さ れ る 中 国 映 画 は、 海 外 資 本 を 導 入 し、国際マーケットを想定して、地域や国境を越えた協力 関係のもとで中国で製作された大作映画が主流となってい る。 そ れ ゆ え、 「中 国 映 画 も グ ロ ー バ ル 化 し て き た」 と い う漠然とした印象を持つ日本の中国映画ファンも少なくな いだろう。しかし、中国映画史を辿ってみると、国際市場 戦略はけっして近年になって突如現れたものではない。例 えば、商業ベースの映画輸出はすでに一九二〇年代の上海 で活発化しており、一九五〇~六〇年代の毛沢東時代でも 文化外交の一環として海外向けの映画製作が政府主導で行 われていた。 本 稿 で は、 中 国 映 画 の グ ロ ー バ ル 化 の ル ー ツ を 辿 り つ つ、 映 画 の 輸 出 入、 製 作、 流 通 な ど の 面 か ら、 「現 存 す る 社会主義国」である中国におけるグローバル化の特性につ いて考えてみたい。

東洋

︱︱二〇世紀前半 の 上海

上海映画

越境

中国で最初の映画上映が行われたのは一八九六年の上海 でのことであり、また、中国初の短編劇映画『 艱難を共に

第Ⅰ部

映画大国

中国映画

軌跡

文兵

す る 夫 婦 』 (一 九 一 三) や 長 編 劇 映 画『閻 瑞 生』 (一 九 二 一) も 上 海 で 製 作 さ れ た。 中 国 で は 一 九 二 〇 年 代 後 半 か ら 映画製作が本格化していくが、二〇〇社近くにのぼる製作 会社の多数が上海に集中していた。 上海は、中国映画の製作拠点のみならず、東南アジアに 向けての映画文化の発信地でもあった。一九二八年の時点 で、評論家の 映 イン 闘 トウ は映画雑誌『銀星』で次のように指摘し ている。 「長 引 く 内 戦 の な か、 中 国 国 民 の 大 半 は 映 画 を 鑑 賞 す る ど こ ろ か 安 定 し た 生 活 さ え 得 ら れ な か っ た。 し た がって、中国映画の主な市場は、帝国主義に何重にも 束縛されている東南アジアにほかならなかった。それ ゆえ、映画をつくる際に、製作側はまず東南アジアに 受け入れられるかどうか配慮せざるを得なかった。こ れ は、 作 品 が 帝 国 主 義 者 (= 植 民 者 側) の 意 に 反 す る ものであってはならないことをも意味しただろう。そ のため、テーマ性と芸術性を合わせもつ新しいタイプ の中国映画を作ることはとうてい不可能だった」 映闘が指摘したような事情から、現実政治における権力 関係とはまったく無縁な娯楽映画は、一九二〇年代後半の 上海で幅を利かせただけでなく、東南アジアでも絶大な人 気を誇るに至った。とりわけ、中国における民間伝承の怪 談やおとぎ話をベースにアクション映画の要素を加味した 怪奇映画やカンフー映画は、その馴染みやすいストーリー 展開が祖国から遠く離れた華僑の郷愁を誘うとともに、当 時はまだ珍しかった特撮の技法も東南アジアの人々を大い に魅了したのである (写真1) 。 一九二〇年代に製作された上海映画で今日まで残されて い る フ ィ ル ム は、 『八 百 屋 の 恋』 (一 九 二 二) 、『真 珠 の 首 飾 り』 (一 九 二 六) 、『赤 い 剣 士』 (一 九 二 九) な ど わ ず か し か ない。しかし、これらの作品ではいずれも字幕に中国語と 英語が併記された形になっている点からみても、一九二〇 写真1 カンフー映画『紅蓮寺の焼き討ち』。 トップ女優胡蝶(フー・ティエ)が扮した女カン フー使い(左)

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年代に中国映画はすでに国際的映画市場を意識していたこ とがわかる。その意味で、当時の中国映画は東南アジア市 場で得られた興行収入のおかげで産業として確立したと言 うこともできるだろう。

映画

絶大

影響

一 九 三 〇 年 代 に 入 る と、 上 海 映 画 は 新 た な 局 面 を 迎 え た。一九三一年二月に国民党政府によって中国初の「映画 検閲法」が制定され、カンフー映画や怪奇映画に適用され て製作・上映が禁止となった。非科学的な迷信を広める恐 れがあることが主な理由だったが、その背景には反共を念 頭に置いたイデオロギー統制の強化という国民党の政治的 意図があったと考えられる。例えば、カンフー映画や怪奇 映画にほぼ共通して見られたような、スーパーマンが暴虐 から弱者を救うという設定、群衆が蜂起する場面、そして なにより生々しい暴力描写が、大衆における共産主義勢力 の浸透という事態を十分に想起させ、国民党の統治に脅威 を与えるものだったことは理解できる。 さらに同年九月一八日に満洲事変が勃発したことを受け て、中国国内でナショナリズムの風潮が一気に高揚した。 そうしたなかで、マルクス・レーニン主義思想やソヴィエ トのモンタージュ理論から影響を受けた左翼映画と、ハリ ウッドの技法に学んだニューウェーブの文芸映画がほぼ同 時に上海映画に出現し、思想的なラディカリズムと技法的 なモダニズムが並存して展開された。 一九三七年七月の日中戦争の全面化によって上海映画は 否応なく沈滞期に陥ったが、一九四五年八月に終戦を迎え ると、重慶や香港に逃れていた映画人たちは再び上海に集 結し、戦時中の苦難を回顧したり戦後の国民党政府の腐敗 を辛辣に批判したりする作品を精力的に製作していった。 戦争による空白を感じさせるどころか、バラエティに富ん だ題材、洗練された技法、巧みな俳優陣の演技といった点 において、この時期の上海映画は同時代の欧米映画と比べ てもまったく見劣りしないものであった。上海が「東洋の ハ リ ウ ッ ド」 と 呼 ば れ る ま で に な っ た 所 以 で あ る。 例 え ば、 一 九 八 二 年 に イ タ リ ア で 開 催 さ れ た「中 国 映 画 回 顧 展」 で は、 『家 々 の 灯』 (一 九 四 八) を は じ め と す る 一 九 四 〇 年 代 後 半 に 製 作 さ れ た 上 海 映 画 が 上 映 さ れ た が、 「イ タ リアのネオリアリズムに先立ってリアリズムのルーツは上 海映画にあったのではないか」と評されるほどきわめて大 きな反響を呼んだ (李 晨声 二〇〇八:八〇) (写真2) 。 上海映画が国際的な製作水準を維持できた理由として、 幾世代にもわたる中国の映画人が外国の技法、とりわけハ リウッド映画のテクニックを吸収しつづけたことが挙げら れる。ハリウッド仕込みのスマートな演出法と垢抜けた人 物像によって注目を集めた一九三〇年代の上海映画の巨匠 孫 ソ ン ・ ユ ー 瑜 監 督 の よ う に、 実 際 に ハ リ ウ ッ ド に 留 学 し、 そ こ で 学んだ知識を上海へ持ち帰って自分の演出のスタイルを作 り上げた映画人もいたが * 1 、大半の映画人はハリウッド映画 をひたすら鑑賞することによって映画作りのノウハウを感 得していた。その背景には、当時の上海映画市場において ハリウッド映画が独占的な位置を占めていたという時代状 況があった。諸外国の「租界」が集中し、外国との接触が 多かった上海では、外国人居留民や高学歴の中国人がハリ ウッド映画の観客層の中心であり、中国におけるハリウッ ド映画の興業収入の半分以上が上海で稼ぎ出されたもので あった。 上 海 に お け る ハ リ ウ ッ ド 映 画 の 上 映 本 数 に つ い て は 汪 ワ ン ・ チ ャ オ 朝 光 クワン 氏 の 研 究 が あ る。 そ れ に よ れ ば、 一 九 三 三 年 に 上海に輸入された四三一本の映画のうち、ハリウッド映画 は三五五本で八二パーセントを占めていた。一九三四年は 輸入四〇七本のうち三四五本で八五パーセント、一九三六 年は輸入三六七本のうち三二八本で八九パーセントを占め ていた。この三年間をピークとして、一九三七年から深刻 に な る 戦 争 の 影 響 も あ り、 そ れ 以 降 毎 年 輸 入 さ れ た ハ リ ウッド映画の平均は二〇〇本となり、一九二〇 ~ 四〇年代 末 期 に か け て の 二 〇 数 年 間、 合 計 四 〇 〇 〇 本 以 上 の ハ リ ウッド映画が上映されたことになる。それに対して、中国 映画が誕生してから一九四〇年代末までの四五年間に作ら れ た 中 国 映 画 の 作 品 は 一 六 〇 〇 本 に す ぎ な か っ た (汪 一 九九八:五七―六四) 。 二〇世紀半ばまで、上海の映画館では、一番館に上映さ れるのはアメリカ映画であり、中国映画はよくて二番館で あった。上海の映画人は三番館から何とか二番館での上映 を目指し、ゆくゆくはハリウッド映画と肩を並べる一番館 での封切りを夢見ていたという。 写真2 上海のアパートに住む庶民の日 常を描いた『家々の灯』のポスター

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中華人民共和国

映画

外国映画受容

一九四九年一〇月一日、中華人民共和国が成立し、中国 は社会主義体制の道を歩むこととなった。新中国建国以降 の、とりわけ朝鮮戦争が勃発した一九五〇年代前半の中国 国内における反米的風潮の高まりによってハリウッド映画 が中国市場から完全に排除された一方で、ソ連映画が大量 に 新 中 国 に 輸 入 さ れ る よ う に な っ た。 例 え ば、 『十 月 の レ ー ニ ン』 (一 九 三 七) や『チ ャ パ ー エ フ』 (一 九 三 四) な どがロングヒットとなった。しかし、周知のように、一九 五〇年代後半から六〇年代前半にかけて中ソ関係は対立を 深め、中国側はソ連がすでにマルクス・レーニン主義思想 から逸脱し、修正主義的・覇権主義的国家に成り下がった と見なすようになった。この中ソ対立によってソ連映画も ほ と ん ど 輸 入 さ れ る こ と が な く な り、 さ ら に 文 革 期 (一 九 六 六 ~ 七 六 年) と な る と、 外 国 映 画 の 輸 入 は 北 朝 鮮、 ベ ト ナム、ルーマニア、アルバニアといった社会主義諸国製作 の作品に限定された。中国国内で資本主義国の映画を鑑賞 できる唯一のルートは「内部上映」と称される政府機関内 の映画試写会のみとなったが、この「内部上映」において も、江青をはじめとした共産党首脳があらかじめ「毒見」 を行うことがしばしばであった。 文革が終焉を迎えると、ユーゴスラヴィアのような非同 盟 主 義 に 立 つ 社 会 主 義 国 の 映 画 の み な ら ず、 ア メ リ カ、 ヨーロッパ、日本、インドなど資本主義諸国の映画が解禁 され、盛んに上映されるようになった。しかし、保有外貨 が 限 ら れ て い る 中 国 の 経 済 事 情 に あ っ て、 「中 国 電 影 公 司」は一九七〇年代後半から九〇年代初頭にかけて年に三 〇本ほど各国の映画を買い付けていたが、わずか一〇〇万 米 ド ル の 予 算 し か な く (李 亦 中 二 〇 〇 八: 五 一 ― 五 二) 、 一本あたり平均三万米ドルの低予算で輸入できた欧米映画 は、おのずとほとんどが低予算で無名な作品となった。象 徴的な例を挙げれば、一九八〇年代の中国でもっとも有名 なアメリカ人女優はデボラ・ラフィンだった。理由は簡単 で、 彼 女 が 出 演 し た『ダ ブ』 (一 九 七 四) 、 テ レ ビ 映 画『女 子 大 生 の 恐 怖 の 体 験 旅 行』 (一 九 七 六) 、 テ レ ビ 映 画『激 走! コ ン ボ イ ウ ー マ ン   ウ イ ラ』 (一 九 七 九) 、『ラ ス ト・ レ タ ー』 (一 九 八 〇) な ど が 立 て 続 け に 公 開 さ れ た か ら で あ る * 2 (写 真 3) 。 一 九 八 〇 年 代 後 半 に『ス ー パ ー マ ン』 (一 九 七 八) な ど の ハ リ ウ ッ ド 大 作 映 画 も わ ず か に 公 開 さ れ た とはいえ、製作されてから中国で上映されるまでには大き なタイムラグがあった。

社会主義的映画撮影所

功罪

一九四九年以降、新中国の国家建設において、映画は単 なる商業娯楽から大衆教育の重要な手段へと位置づけが変 わっていった。上海、北京、長春をはじめとする歴史的に 由緒のある大手撮影所に加え、広州、成都、西安、広西、 雲南、新疆、内モンゴルなど、中国全土に撮影所が設置さ れた。大型スタジオや現像所が整備されただけでなく、ア ニ メ や 吹 き 替 え 専 門 の ス タ ジ オ も 次 々 に 開 設 さ れ て い っ た。こうして、一九五〇年代に確立したソ連モデルに倣っ た新しい中国映画の製作システムは一九八〇年代まで綿々 と続いた。 スタジオと各部門のスタッフを抱えた撮影所は国から割 り当てられた資金によって運営され、製作の本数や題材の 配分はあらかじめ国によって決定されていた。例えば、各 撮影所が企画や予算案を立てる場合、農村映画や児童映画 などは製作コストの回収が困難であることがわかっていな がら製作枠が確保されていた。この背景には、映画という ものに対する政府側の指導や要請があったとみて間違いな い。 一方、監督や技術スタッフは、ほとんどが活躍の場を所 属の撮影所に限られていた。俳優などには撮影所の枠を越 えた人的な交流が若干みられたものの、セクショナリズム に根本的な変わりはなかった。 自己完結的で閉鎖的な撮影所システムの下で製作された 映 画 作 品 は、 各 撮 影 所 の 手 に よ り「中 国 電 影 発 行 放 映 公 司」 に 売 り 渡 さ れ、 「中 国 電 影 発 行 放 映 公 司」 の 子 会 社 を 経由して全国各地方へと配給されるという仕組みが成立し て い た。 「中 国 電 影 発 行 放 映 公 司」 が 平 均 コ ス ト に 見 合 っ た価格を保障し、配給網のピラミッドの頂点に立っていた ためである。 社会主義体制下の計画経済は映画製作に二重の影響をも たらしたといえる。マイナスの影響としては、わずかな製 作本数に比べて従業員が多過ぎる点、勤務状況にかかわり 写真3 中国の映画雑誌に取り上げられ たデボラ・ラフィン(『中国銀幕』1985 年第2号)

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なくスタッフの待遇が一律である点、映画市場のニーズを 無視し、イデオロギー的教育効果ばかり追求した製作方針 になった点などが挙げられる。 しかし、プラスの影響として、映画人が採算を度外視し て映画作りに専念することができた結果、良質な作品が生 ま れ た の も 確 か で あ る。 『黄 色 い 大 地』 (一 九 八 四) や『一 人 と 八 人』 (一 九 八 四) な ど に 見 ら れ る よ う に、 第 五 世 代 監督が初期作品において商業主義にとらわれることなく映 画表現の可能性を探ろうとする試みを可能にしたのも、ほ か な ら ぬ 計 画 経 済 の シ ス テ ム の 恩 恵 に 拠 る と こ ろ が 大 き かったといえる。

一九九〇年代以降

中国映画

らし

一九八〇年代半ばに大衆文化の主流が映画からテレビへ と移っていくなかで、中国の映画産業は斜陽の兆候を示し 始めた。テレビに対抗するため、中国の映画人たちは、娯 楽映画の製作に力を入れたり、撮影所の経営スタイルを改 革したり、映画製作の自由を保障する映画法の制定やレー ティング・システムの導入を求めたり、さまざまな野心的 試みを行っていた。この時期の映画界は活気に満ち溢れて おり、映画製作を取り巻く環境も寛容でリベラルだった。 例えば、第五世代映画人の一人である女性監督 胡 ホウ ・ メイ 玫 が手 が け た『女 児 楼』 (一 九 八 六) は、 人 民 解 放 軍 の 女 性 軍 医 の恋愛体験を軸に、男性集団である軍隊において女性のセ クシュアリティーがいかに抑圧されていたかを問う異色作 だ が、 こ れ を 製 作 し た の は「八 一 電 影 製 片 廠」 (八 一 映 画 撮 影 所) で あ っ た。 八 一 映 画 撮 影 所 は 軍 の 管 轄 下 に 置 か れ た撮影所で、それまでは主に戦意高揚のための戦争映画を 専 門 的 に 製 作 し て い た (撮 影 所 の 名 称 は 中 国 人 民 解 放 軍 の 建 軍 記 念 日 で あ る 八 月 一 日 に 因 ん で 命 名 し た も の で あ る) 。 当時、同作品を観た上海映画撮影所所属の 石 シー ・ シャオホウ 曉 華 監督は、 「『女児楼』が八一映画撮影所の製作なんていまだに信じら れない気持ちだ、よくもこんな大胆な企画が実現できたも のだ!」と感嘆していた (電影芸術 一九八六:二五) 。 しかし、中国映画が新たな展開を見せ始めた矢先、一九 八九年六月に「天安門事件」が起きた。これによって映画 法の制定やレーティング・システムの導入といった試みは 挫 折 し、 映 画 製 作 路 線 は 退 行 的 な 方 向 を 示 す よ う に な っ た。かつて国民党軍や日本軍と戦った歴史や、社会主義時 代の現実のなかに現れた英雄的・模範的人物を主題とする 「主 旋 律 電 影」 (主 旋 律 映 画) が 政 府 の 支 援 の も と で 量 産 さ れていったのはその端的な証左の一つだろう。 「天 安 門 事 件」 後 の 文 化 政 策 の 変 化 に よ り、 中 国 映 画 に 大 き な 断 絶 が 生 じ て き た こ と は 否 め な い。 し か し、 「天 安 門事件があったから時代は変わった」という単純な因果関 係は成立しにくい。テレビ文化の隆盛に伴う映画メディア の衰退や映画人の海外流失といった現象が「天安門事件」 以 前 か ら す で に 表 れ て お り、 「天 安 門 事 件」 発 生 の い か ん にかかわらず、大衆文化の主流が必然的に映画から他のメ ディアへとシフトしていくのは必至であった。 例 え ば、 一 九 八 八 年 の 時 点 で 北 京 映 画 撮 影 所 社 長 の 胡 フ ー ・ チ ー ミ ン 其 明 氏 は 次 の よ う に 予 言 し て い た。 「か つ て 撮 影 所 の 主 な収入源だった映画製作は、近い将来その大黒柱の役割を 果たすことができなくなるに違いない。そのため、映画製 作のみならず関連事業の開発も急務となるだろう。一方、 経営難の苦境を打破するため、従来は映画製作のスタイル に関する改革が重点的に行われてきたが、それだけでは焼 け石に水のようなもので、映画メディアの可能性そのもの を見直し、映画システム全般にわたる改革を行わなければ ならない」 (北影画報 一九八八:八―九) 。 その 一方で 、 政治的 状況の 変化が 結果的 に中 国映画 のグ ローバル化の傾向に拍車をかけたという側面も見逃しては な ら な い 。『 紅 夢 』 ( 一 九 九 一 ) 、『 青 い 凧 』 ( 一 九 九 二 ) 、『 さ ら ば わ が 愛   覇 王 別 姫 』 ( 一 九 九 三 ) 、『 活 き る 』 ( 一 九 九 四 ) など 、九〇 年代に第五 世代監督が海 外資本をもと に手がけ た一連 の歴史ドラマ によって 、西洋 人の視線を意 識しつつ 東洋人自身によるオリエンタリズムを編みだしていくとい う西洋の視線がますます強く意識されるようになった一方 で 、中国の 庶民が置か れている現実 と正面から向 き合おう という 真摯な姿勢が 失われつつあっ たことは否 めない 。か つて中国の映画人たちが社会主義的計画経済のもとで開花 し た 撮 影 所 シ ス テ ム が も た ら し た 潤 沢 な 製 作 環 境 に お い て 、 採 算 を 度 外 視 し 、 政 治 的 要 請 と 戯 れ な が ら 製 作 し た 『 黄 色 い 大 地 』、 『 芙 蓉 鎮 』 ( 一 九 八 六 ) 、『 古 井 戸 』 ( 一 九 八 七 ) 、『 紅 い コ ー リ ャ ン 』 ( 一 九 八 七 ) に 代 表 さ れ る 豊 か な 映 画 文 化 は 、 映 画 の 製 作 体 制 や メ デ ィ ア 環 境 の 変 化 に 伴 い 、 「天安門事件」後にはもはや「歴史」と化したのである。

映画

大変革

︱︱市場原理 と ハ リ ウ ッ ド 映画 の 影響 中国における映画市場の縮小は一九九〇年代に入って急 速に進んだ。とりわけ一九九三年には、興行収入と観客動 員数が前年度と比べて前者が四〇パーセント、後者が六〇 パ ー セ ン ト 減 少 し た (唐 二 〇 〇 八) 。 そ れ を 受 け て 一 九 九 三年に映画配給に重きを置いた改革が再び行われ、国家ラ ジオ・映画・テレビ総局によって頒布された「関於当前電 影 行 業 機 制 改 革 的 若 干 意 見」 (映 画 業 界 の シ ス テ ム 改 革 に 関

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す る 若 干 の 意 見) お よ び「実 施 細 則」 は、 計 画 経 済 時 代 の 映画システムの終結を告げる画期的なものとなった。これ によって、映画撮影所などの製作側は、それまで配給網の ピラミッドの頂点に立っていた「中国電影発行放映公司」 を経由することなく、地方の配給会社に配給権や版権を直 接売り、契約に基づいて興行収入の一部の配分を受けるこ とが可能となった。ただし、外国映画の配給権はそれまで 通 り「中 国 電 影 発 行 放 映 公 司」 が 一 手 に 握 っ て い た。 ま た、従来は国に統制されてきた入場料の上限も解除され、 各 地 方 に 委 ね ら れ る こ と と な っ た (唐 二 〇 〇 八) 。 そ の 結 果、一九九〇年代初頭までは一枚〇・二〇~〇・三五元の 低価格だった入場料は、一九九〇年代後半以降には一枚一 〇~五〇元にまではね上がった。 一九九四年に一〇本のハリウッド大作映画が輸入され、 中 国 の 映 画 市 場 に 新 た な 波 紋 を 投 げ か け た。 そ れ に つ い て、映画研究者の 戴 ダイ ・ チンホウ 錦華 は次のように指摘している。 「一 九 八 〇 年 代 末 か ら 一 九 九 〇 年 代 前 半 に か け て、 映 画館の経営はどん底に陥った。一九九四年になると、 ハリウッドの大作映画が正式に中国に導入されたこと を受けて、寂れていた映画館は再び熱狂的な観客で賑 わうようになった。しかし、それは、中国映画が復興 し て き た こ と を 意 味 す る も の で は な い。 馮 フォン ・ シャオガン 小 剛 監 督 が手がけたコメディ映画といったわずかな例外を除け ば、中国映画はハリウッドの大作映画にまったく太刀 打ちできず、映画市場の周辺へと追いやられてしまっ ている * 3 」 一 九 九 九 年 一 一 月 一 五 日 、 中 国 対 外 経 済 貿 易 部 の 石 シー ・ クワンション 広 生 部 長 と ア メ リ カ 通 商 代 表 部 ( U S T R ) の シ ャ ー リ ー ン ・ バ ー シ ェ フ ス キ ー 代 表 が 「 中 国 の 世 界 貿 易 機 関 ( W T O ) 加 盟 に 関 す る 中 米 二 国 間 協 定 」 に 調 印 し た 。 こ の 協 定 に お い て 、 中 国 の W T O 加 盟 後 、 毎 年 二 〇 本 の ハ リ ウ ッ ド 映 画 の 大 作 が 正 式 に 中 国 市 場 に 輸 入 さ れ 、 そ の 後 は 輸 入 本 数 を 毎 年 拡 大 し て い く 方 針 が 明 記 さ れ た 。 一 方 、 映 画 館 の 建 設 や 映 画 関 連 商 品 の 開 発 に お い て 、 外 国 資 本 の 導 入 が 最 大 四 九 パーセントまで認められるようになった (唐 二〇〇八) 。 さらに、二〇〇一年、中国政府は映画産業を振興するべ く、製作資金があって企画が審査を通れば誰でも映画をつ く れ る と い う 映 画 製 作 の 民 営 化 を 目 指 し た 革 新 的 な 政 策 (電影単片摂制許可証制度) を打ち出した。これを受けて、 従来、映画製作機構の中枢として全国各地に設立されてい た映画撮影所は、二〇〇一年より次々と再編されていき、 製作・配給・上映の各事業が一体化した企業としての「電 影集団公司」に生まれ変わった。同時に、民間資本による 映画製作やインディペンデント映画製作などの多様な製作 スタイルも可能となった。二〇〇三年の時点で民間の映画 製作機構が製作した作品の本数は中国映画の年間製作本数 の六八・五パーセントを占め、年間興行収入の三分の二を 生 み だ す ま で に な っ た。 か つ て の 映 画 撮 影 所 シ ス テ ム に 取って代わり、民営の映画製作会社は中国映画の主要な担 い手となったのである (大衆電影 二〇〇五:四) 。 二〇〇二年より、政府の指導下で、日本の「松竹系列」 や「東宝系列」のような配給・上映が一体化した配給ルー トが数多く作られ、全国を網羅した新たな配給網が編み出 さ れ た。 こ の よ う な 配 給 シ ス テ ム (院 線 制) の 導 入 に よ っ て、配給・上映側は市場のニーズに合った作品の上映権を 中間業者を経由せずに直接購入したり、自由に上映プログ ラムを決めたりすることが可能となった。なにより、それ ぞれの配給系列のあいだに競争原理がはたらくことで、製 作側も自らの作品を理想的な価格で売りだすことができる よ う に な っ た。 ち な み に、 シ ネ コ ン (多 功 能 放 映 庁) の 普 及もこの時期から急激に進んでいる。

大作映画路線

紆余曲折

映画を取り巻くメディア環境も著しく変化した。一九九 〇 年 後 半 よ り、 V C D・ D V D の 時 代 の 到 来 と イ ン タ ー ネットの普及によって、中国国民の映画館離れは更に加速 し た。 V C D と は ビ デ オ・ コ ン パ ク ト・ デ ィ ス ク の 略 称 で、DVDの前身ともいえる。画質、容量、機能がDVD と比べて若干劣るものの、中国においては一九九〇年代後 半 か ら 現 在 に 至 る ま で D V D と 並 ぶ 映 像 ソ フ ト の 主 流 と な っ て き た。 D V D な ど の 映 像 ソ フ ト は 製 作 コ ス ト が 安 く、劇映画のソフトは一本当たり一〇~三〇元であり、海 賊版であれば一〇元以下で手に入れられるため、凄まじい 勢いで流通していった。他方、インターネットの普及に伴 い、ヒット映画が劇場公開されてから一か月も経たないう ちにインターネットにアップされ、無料でダウンロードで きるようになった。 かくして、中国では、映画館へ足を運ばずとも映画をD VDやインターネットで気軽に観ることができるという一 種の「文化」が一九九〇年代後半から根付き始めた。この ような「文化」の定着により、海賊版など深刻な著作権問 題が生じていった一方で、外国映画がそれまでになかった 自由な形で鑑賞できるようになった。その結果、映像ソフ トやインターネットを介してハリウッドの大作映画に通じ た新しい「観客層」が現れた。彼らは従来の中国映画に不 満を抱き、ハリウッド映画のようなアトラクション的な感 動を求めるうちに、皮肉なことに、しだいに画質と音質の 悪い海賊版にも辟易するようになり、充実した設備を持つ 映画館での映画鑑賞を望むようになったのである。そのよ

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映画館に通う習慣を取り戻しつつある。その結果、二〇〇 六年から二〇一一年までの五年間で映画興行収入は五倍に 増加した。二〇一一年の興行収入は前年比二八パーセント 増 の 一 三 一 億 一 五 〇 〇 万 元 (約 一 六 〇 〇 億 円) に 達 し、 ス クリーン数は九二〇〇を超え、前年比で五〇パーセントの 増 加 で あ っ た (日 本 経 済 新 聞 二 〇 一 二 ; 京 晩 報 二 〇 一 一:一二) 。 しかし、二〇一一年度に公開された国内外映画の興行成 績ベストテンではハリウッドの大作映画が五本を占め、一 位 は 一 〇 億 元 (約 一 二 五 億 円) の 興 行 収 入 を 誇 っ た『ト ラ ンスフォーマー/ダークサイド・ムーン』 (二〇一一) だっ た。それまで毎年二〇本に制限されていたハリウッド映画 の輸入枠が拡大されたことで、二〇一二年には中国映画へ の打撃が必至である。 そうしたなか、二〇一一年、低予算のコメディ映画『失 恋の 33日』 (二〇一一) が二億元 (約二五億円) の興行収入 を稼ぎ、数多くの大作映画を制して国内作品年間興行成績 の 第 四 位 に 躍 り 出 た。 同 作 品 の 大 ヒ ッ ト は 中 国 版 ツ イ ッ タ ー ( 微 ウェイ ・ ボ ー 博 ) を 活 用 し た 配 給 側 の 宣 伝 活 動 が 功 を 奏 し た も のと見られているが、ハリウッド映画との熾烈な競争を強 いられている中国の映画人を勇気づけるものとなった。 ま た、 二 〇 一 二 年 五 月 に 3 D 版『タ イ タ ニ ッ ク』 (二 〇 一 二) や『バ ト ル シ ッ プ』 (二 〇 一 二) が 中 国 映 画 市 場 を 席 巻 す る な か で、 寧 ニン ・ ハオ 浩 の『黄 金 略 奪 事 件』 、 楊 ヤン ・ シュポン 樹 鵬 の『匹 夫』 、 管 クワン ・ フー 虎 の『殺 生』 と い う「第 六 世 代 監 督」 の 手 掛 け た 作品が同時に封切られ、二週間でそれぞれ一億四〇〇〇万 元、二五〇〇万元、二〇〇〇万元の興行収入を獲得した。 これらの作品に見られる題材の多様化と中国的な地方色の 前面化は、映画製作に新たな方向性を示したものとして中 国映画界で重視された ( 俞 二〇一二a:一) 。 一 方 、 中 国 の 映 画 産 業 を 保 護 す べ く 、 二 〇 一 二 年 六 月 下 旬 よ り 政 府 主 導 で 「 国 産 映 画 月 間 」 が 実 施 さ れ 、ハ リ ウ ッ ド の 大 作 映 画 を 上 映 プ ロ グ ラ ム か ら 外 し た う え で 、 二 〇 数 本 の 国 産 映 画 が 一 気 に 封 切 ら れ た 。 も っ と も 、 蓋 を 開 け て み る と 、 興 行 収 入 の 三 分 の 二 が 大 作 の ホ ラ ー 時 代 劇 『 画 皮   あ や か し の 恋 Ⅱ 』 ( 二 〇 一 二 ) に よ っ て も た ら さ れ る と い う 結 果 に な っ た ( 信 息 日 報 二 〇 一 二 ) 。『 画 皮   あ や か し の 恋 Ⅱ 』 の 大 ヒ ッ ト も 、 必 ず し も 作 品 自 体 の 力 に よ る も の で は な く 、 政 府 の 保 護政策がなければハリウッドの大作映画に太刀打ちできな かったという見方もある ( 俞 二〇一二b) 。 「 ハ リ ウ ッ ド 映 画 を 羨 ん だ り 憎 ん だ り す る こ と に は 何 の 意味もない 。なぜ私たちが観客のニーズにこたえる作品を 作 れ な い の か を 深 く 反 省 す べ き だ 」 と 陳 チェン ・ カイコー 凱 歌 監 督 が 指 摘 したように 、商業主義に没頭する中国映画はさまざまな問 題 を 抱 え て い る よ う に 思 わ れ る ( 俞 二 〇 一 二 b ) 。 例 え ば 、 近年の中国映画の暴力とエロスの描写は過激になる一方だ うな新手の映画マニアの欲求にタイミングよくこたえるも の と な っ た の が『H E R O』 (二 〇 〇 二) だ っ た。 同 作 品 が中国国内のみならずアメリカでも興行的に大成功をおさ めたことを受けて、中国映画界では、国際市場も視野に入 れつつCG技術を駆使したファンタスティックなカンフー 映画 (『LOVERS』 〈二〇〇四 〉 や『PROMISE   無 極』 〈 二〇〇五 〉)など に代表される大作路線が確立した。 二〇〇四年、中国映画の年間製作本数は一気に二一二本 に 達 し、 興 行 収 入 も 一 五 億 元 (約 一 八 八 億 円) と な り、 中 国 映 画 市 場 に お い て 国 産 映 画 の 興 行 収 入 が は じ め て ハ リ ウッド映画の興行収入を上回った。しかし、中国映画の繁 栄ぶりはアンバランスさを伴うものだった。二一二本のう ちの大半は国内市場のニーズに合わなかったために配給側 に購入してもらえず、テレビの映画専門チャンネルによっ て放送されるのが関の山で、日の目を見ずに終わった作品 も少なくなかった。映画館で実際に上映されたのはおよそ 三〇本しかなく、一五億元の興業収入はもっぱら『 LOV ERS 』などの数少ない娯楽大作によってもたらされたも の で あ っ た * 4 (李 二 〇 〇 五: 一) 。 ま た、 一 九 八 〇 年 代 に は 中国国内の「ヒット作」といえば億単位の観客動員を意味 していたが、二〇〇〇年代になると、例えば日本でも公開 さ れ た チ ャ ン・ ツ ィ イ ー 主 演 の『女 帝』 (二 〇 〇 七) は 一 億四千万元の興行成績を誇り、中国映画の年間興行収入の 一 割 を 成 し た が、 観 客 動 員 数 は 六 〇 〇 万 人 し か な く (陸 二 〇 〇 八: 四 四 ; 谷・ 朱 二 〇 〇 六: 三 七 ; 二 〇 〇 六: 一 〇八) 、「ヒット作」の内実は様変わりしていた。 一方、スター俳優の出演料や製作費の高騰などのコスト 面の問題に加え、内容が中国人の置かれている現実世界か ら完全にかけ離れているという題材の非現実性がしばしば 指摘されるようになり、大作映画路線にも翳りが見え始め た。 こうした流れを受けて、二〇〇〇年代後半より大作映画 は徐々に多様化していった。日本でも公開された『戦場の レ ク イ エ ム』 (二 〇 〇 七) 、『花 の 生 涯 ~ 梅 蘭 芳 ~』 (二 〇 〇 八) 、『さ ら ば 復 讐 の 狼 た ち よ』 (二 〇 一 〇) は そ れ ぞ れ 戦 争、人物伝、ガン・アクションを特色とした作品であり、 ワイヤーアクション時代劇を大勢とした従来の大作映画と は明らかに一線を画していた。

対抗

︱︱望 ま れ る 中国映画市場 の 多元化 二〇〇五年以降、中国映画は好景気を迎えている。海外 資本の誘致などによって膨れ上がった巨大な国内資金は映 画界にも流れ込み、映画製作に活力をもたらしている。加 えて、一九八〇~九〇年代生まれの新しい世代の中国人は

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ならない。 このように、現在の中国映画市場では、興行面における 大黒柱は一握りの大作映画であるというアンバランスな状 況は変わっていない。大作映画以外の作品も鑑賞したいと 思 う 観 客 層 の 開 拓 や ア ー ト シ ア タ ー の 確 立 が 中 国 映 画 に とって急務ではないだろうか。

以上考察してきたように、中国映画は一九世紀末に誕生 して間もないうちに国際性を身にまとうこととなった。東 南アジア諸国で上海映画が絶大な存在感を誇った一方で、 二〇世紀前半の中国国内市場ではハリウッド映画が市場の 支配権を握っていた。そのため、上海映画人たちは常にハ リウッド映画との熾烈な競争を強いられてきた。 かつて上海映画人たちが置かれていた苦況を打開するべ く打ち出されたアトラクション的要素を強調した国際市場 戦略が現在の中国映画で反復されているという経緯は、中 国における資本主義経済モデルの不可逆的な浸透という現 実に鑑みれば、一種の歴史の皮肉であるともいえる。ハリ ウッド映画への対抗を契機とする二〇〇〇年代以降の国産 大作映画の隆盛は、その後の中国がグローバル化を深める 国際経済における「世界の工場」として「勝ち組」にのし 上っていく過程を予兆したものと言えるかもしれない。そ して、近年そうした大作路線が危機に瀕していることは、 二〇〇八年の世界経済危機以降、とりわけ二〇一二年の欧 米における財政危機に端を発した世界的な「二番底」とも いうべき事態に直面して、飛ぶ鳥を落とす勢いであった中 国経済にも若干翳りが見えてきた状況を反映しているので はないだろうか。 ◉注 * 1 孫 瑜 監 督 は、 一 九 二 三 年 に 清 華 大 学 を 卒 業 後、 国 費 留 学 生 と し て ア メ リ カ へ 渡 り、 映 画 演 出 と 撮 影 技 術 を 専 門 的 に 学 ん だ。 一 九 二 六 年 に 上 海 で 映 画 界 入 り を 果 た し、 『古 都 の 春 の 夢』 (一 九 三 〇) 、『お も ち ゃ』 (一 九 三 三) 、『ス ポ ー ツ の 女 王』 (一 九 三 四) 、『大 い な る 路』 (一 九 三 四) を 監 督 し た。 当 時 の ニ ュ ー ウ ェ ー ブ の 代 表 的 な 監 督 と し て の 地 位 を 確 立 す る とともに、 「詩人監督」の名声も博した。 * 2 『ダ ブ』 は 文 革 期 に 輸 入 さ れ、 内 部 上 映 さ れ た の ち、 一 九八〇年に中央テレビによって放映された。 * 3 D V D「百 家 講 壇   中 国 電 影 百 年 紀 念 中 国 電 影 誕 生 一 百 周 年 二」 (中 国 国 際 電 視 総 公 司 出 版、 二 〇 〇 五 年) に お け る 戴錦華の発言。 * 4 中 国 国 内 映 画 市 場 で 流 通 で き な い 作 品 で も、 東 南 ア ジ ア 諸 国 へ の 輸 出 や D V D な ど 映 像 ソ フ ト の 販 売 と い う 形 で の 流 通ルートも存在する。 が 、 中 国 に は ア メ リ カ の よ う な 成 人 向 け 映 画 指 定 の レ ー テ ィ ン グ ・ シ ス テ ム は 存 在 し な い 。 そ の 結 果 、 張 チャン ・ イーモウ 芸 謀 監 督 の 『 王 妃 の 紋 章 』 ( 二 〇 〇 六 ) や 、 南 京 大 虐 殺 に 伴 う 性 的 暴 力 の 問 題 を 扱 う 『 十 三 人 の 南 京 女 性 』 ( 二 〇 一 一 ) は 、 ア メ リ カ で 公 開 さ れ た 際 に 「 成 人 映 画 」 に 指 定 さ れ た に も か か わ ら ず 、 中 国 で は 老 若 男 女 誰 で も 観 る こ と が 可 能 と なっており 、それらの作品で描写された過激なエロスと暴 力による中国の青少年への悪影響が懸念される。 製 作 側 は、 よ り 多 く の 観 客 を 獲 得 す る た め に セ ン セ ー ショナルな内容を取り入れようとする一方で、検閲も意識 せざるを得ないためにいま一歩踏み込んだ映像表現ができ ないというジレンマに陥っている。映画が青少年に及ぼす 影響に配慮するとともに、製作者により大きな表現の自由 を与えるため、今こそ中国映画界におけるレーティング・ システムの導入を検討すべきではないだろうか。 また、低予算のアート系映画は国内で配給されることが ほとんどないという現状も相変わらずである。わずかな例 外 と し て、 中 国 の 一 般 庶 民 の 姿 を 淡 々 と 描 き 出 し た 賈 ジ ャ ・ ジ ャ ン ク ー 樟 柯 監 督 の『長 江 哀 エ レ ジ ー 歌 』 (二 〇 〇 六) は、 そ れ ま で 大 作 や コ メ デ ィ に 独 占 さ れ て い た 年 末 の 映 画 市 場 (「賀 歳 片 檔」 ) に 参 入 す る こ と が で き た。 こ れ は、 同 作 品 が 第 六 三 回ヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲得したことで公 開前から中国社会で話題を呼んでいたことが大きい。しか し、 『長 江 哀 歌』 は 同 時 期 に 公 開 さ れ た『王 妃 の 紋 章』 に 敗れ、興行的に散々の結果に終わった。 ま た、 近 年、 『天 安 門、 恋 人 た ち』 (二 〇 〇 六) や『ス プ リ ン グ・ フ ィ ー バ ー』 (二 〇 〇 九) 、『無 言 歌』 (二 〇 一 〇) などのインディペンデント映画が日本でも話題を呼んでい るが、中国本土ではいまだに一般公開されていない。その 要因として、タブーとされてきた中国近現代史における歴 史 的 事 件 を 正 面 か ら 扱 っ た こ と が 中 国 側 の 検 閲 に 引 っ か かったと日本の映画評論家によってしばしば指摘されてい る。しかし、仮にこれらの作品が中国当局の検閲を通った としても、おそらく中国の観客層のニーズに合わず、国内 映画市場で広く流通するのは困難であるとの見方も強い。 結局、ほとんどのインディペンデント映画は政治的理由よ りもむしろ興行的理由によって企画段階から国内市場への 参 入 を 断 念 し て い る と い う の が 実 状 に 近 い (も っ と も、 外 国 資 本 と の 共 同 製 作 に よ る『ス プ リ ン グ・ フ ィ ー バ ー』 (中 国 と フ ラ ン ス の 合 作) や『無 言 歌』 (香 港・ フ ラ ン ス・ ベ ル ギ ー の 合 作) な ど は、 も は や 中 国 映 画 と は 呼 べ な い か も し れ な い が) 。 そ の た め、 西 洋 人 の 視 線 を 強 く 意 識 し た、 い わ ば 中 国 人 (東 洋 人) 自 身 に よ る オ リ エ ン タ リ ズ ム 趣 向 が インディペンデント映画を特徴づけるものとなっているこ とは否めない。その意味では、現在の中国のインディペン デント映画はグローバリゼーションのひとつの産物にほか

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へ」 (二〇〇一) 。 『紅 ン』 …… ① 紅 高 梁、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) 、 ③ 一 九 八 七 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 八九) 、ビデオ・DVD販売。 『家 灯』 …… ① 万 家 灯 火、 ② シ ェ ン・ フ ー(沈 浮) 、 ③ 一 九 四 八 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン タ ー「中 国 映 画 の 回 顧: 一 九 二 二 ― 一 九 五 二」 (一 九 八 五) 。 『活 る』 …… ① 活 着、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) 、 ③ 一 九 九 四 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 〇 二) 、 D V D販売。 『閻 生』 …… ① 閻 瑞 生、 ② レ ン・ ポ ン ニ ェ ン(任 彭 年) 、 ③ 一 九二一年、④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『黄 件』 …… ① 黄 金 大 劫 案、 ② ニ ン・ ハ オ(寧 浩) 、 ③ 二〇一二年、④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『王妃の紋章』 ……①満城尽帯黄金甲〔満城尽く帯ぶ黄金の甲〕 、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) 、 ③ 二 〇 〇 六 年、 ④ 香 港、 中 国、⑤中国語、⑥劇場公開(二〇〇八) 、DVD販売。 『大 路』 …… ① 大 路、 ② ス ン・ ユ ィ(孫 瑜) 、 ③ 一 九 三 四 年、 ④ 中 国、 ⑤ 無 声、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン ター「中国映画の回顧:一九二二―一九五二」 (一九八五) 。 『お ゃ』 …… ① 小 玩 意、 ② ス ン・ ユ ィ(孫 瑜) 、 ③ 一 九 三 三 年、 ④ 中 国、 ⑤ 無 声、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン ター「中国映画の回顧:一九二二―一九五二」 (一九八五) 。 『画   Ⅱ』 …… ① 画 皮 Ⅱ、 ② ウ ー・ ア ル シ ャ ン (烏 爾 善) 、 ③ 二 〇 一 二 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 二 〇 一 二 東 京・中国映画週間(二〇一二) 。 『艱 婦』 …… ① 難 夫 難 妻、 ② チ ャ ン・ シ ー チ ュ ワ ン(張 石 川) 、 チ ョ ン・ チ ュ ン チ ュ ー(鄭 正 秋) 、 ③ 一 九 一 三 年、④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『黄 地』 …… ① 黄 土 地、 ② チ ェ ン・ カ イ コ ー(陳 凱 歌) 、 ③一九八四年、④中国、⑤中国語、⑥劇場公開(一九八六) 、 DVD販売。 『激走!コンボイウーマン   ウイラ』 ……① Willa 、 ②ジョーン・ ダ ー リ ン グ、 ク ラ ウ デ ィ オ・ ガ ス マ ン、 ③ 一 九 七 九 年、 ④ ア メリカ、⑤英語、⑥ビデオ販売。 『紅 夢』 …… ① 大 紅 灯 籠 高 高 掛〔赤 い 大 灯 籠 を 高 々 と 掛 け よ〕 、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) 、 ③ 一 九 九 一 年、 ④ 中 国、 香 港、⑤中国語、⑥劇場公開(一九九二) 、ビデオ販売。 『紅 ち』 …… ① 火 焼 紅 蓮 寺、 ② チ ャ ン・ シ ー チ ュ ワ ン(張石川) 、③一九二八年、④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『古 夢』 …… ① 故 都 春 夢、 ② ス ン・ ユ ィ(孫 瑜) 、 ③ 一 九三〇年、④中国、⑤無声、⑥未公開。 『さ よ』 …… ① 譲 子 弾 飛〔弾 丸 を 飛 ば せ〕 、 ② チアン・ウェン(姜文) 、③二〇一〇年、④中国、⑤中国語、 ⑥劇場公開(二〇一二) 。 『さ   姫』 …… ① 覇 王 別 姫、 ② チ ェ ン・ カ イ コ ー(陳 凱 歌) 、 ③ 一 九 九 三 年、 ④ 中 国、 香 港、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 際 映 画 祭(一 九 九 三) 、 劇 場 公 開(一 九 九 四) 、 ビ デ オ・DVD販売。 『失 33日』 …… ① 失 恋 三 十 三 天、 ② ト ン・ ホ ワ タ オ(滕 華 涛) 、 ③ 二 〇 一 一 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 沖 縄 国 際 映 画 祭 ◉ 参考文献 【日本語】 ①新聞・雑誌記事 『日 本 経 済 新 聞』 (二 〇 一 二) 「中 国 の 映 画 市 場 急 拡 大」 (一 月 二 一日) 。 【中国語】 ①新聞・雑誌記事 『中国銀幕』 (一九八五) 。 『北 京 晩 報』 (二 〇 一 一) 「広 電 総 局 電 影 局 局 長 呼 吁 降 低 電 影 票 価」 (一月八日) 。 『北 影 画 報』 (一 九 八 八) 「胡 其 明 廠 長 離 任 前 答 本 刊 記 者 問」 一 一月号。 『大衆電影』 (二〇〇五) 「中国民営影視入佳境」第二号。 『電影芸術』 (一九八六) 「『女児楼』対話」第九号。 『信 息 日 報』 (二 〇 一 二) 「娯 評   〝国 産 保 護 月〟 只 保 了 三 部 片」 (七月二五日) 。 ②論説・署名記事 谷 昊・ 朱 玲(二 〇 〇 六) 「院 線 改 革 的 現 状 及 問 題」 『電 影 芸 術』 六月号。 李 晨 声(二 〇 〇 八) 「傑 出 的 電 影 攝 影 師 朱 今 明」 『電 影 芸 術』 第 三号。 李 景 富(二 〇 〇 五) 「振 興 国 産 電 影 必 須 多 出 精 品」 『大 衆 電 影』 第六号。 李亦中(二〇〇八) 「中国電影滄桑録」 『当代電影』第一一号。 林天強(二〇〇六) 「新電影的観点」 『当代電影』第四号。 陸 紹 陽(二 〇 〇 八) 「中 国 電 影 前 面 実 施 産 業 化 政 策 以 来 成 果 研 究」 『当代電影』第一二号。 唐榕(二〇〇八) 「三十年中国電影体制改革歴程回顧(上) 」『中 国電影報』 (一〇月九日) 。 汪 朝 光(一 九 九 八) 「民 国 年 間 美 国 電 影 在 華 市 場 研 究」 『電 影 芸 術』一月号。 俞 剣紅(二〇一二a) 「国産影片〝小聯盟〟――直撃五一長假」 『大衆電影』第一一号。 俞 剣 紅 ( 二 〇 一 二 b )「 国 産 片 保 護 月 : 保 得 了 一 時 、 保 不 了 一 世 」( http://ent.cn.yahoo.com/ypen/20120805/1226731.html )。 ◉映画リスト 『H O』 …… ① 英 雄、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) ③ 二 〇 〇二年、④香港、中国、⑤中国語、⑥劇場公開(二〇〇三) 、 DVD販売。 『LOVERS』 ……①十面埋伏 〔至るところ敵が潜む〕 、 ②チャ ン・イーモウ(張芸謀) 、③二〇〇四年、④中国、⑤中国語、 ⑥劇場公開(二〇〇四) 、DVD販売。 『P   極』 …… ① 無 極、 ② チ ェ ン・ カ イ コ ー(陳 凱 歌) 、 ③ 二 〇 〇 五 年、 ④ 中 国、 日 本、 韓 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇場公開(二〇〇六) 、DVD販売。 『青 凧』 …… ① 藍 風 箏、 ② テ ィ エ ン・ チ ュ ア ン チ ュ ア ン(田 壮 壮) 、 ③ 一 九 九 二 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 際 映 画 祭 (一九九三) 、劇場公開(一九九四) 、ビデオ販売。 『赤 士』 …… ① 紅 侠、 ② ウ ェ ン・ イ ー ミ ン(文 逸 民) 、 ③ 一 九 二 九 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン タ ー「中 国 映 画 史 の 流 れ ―― 無 声 後 期 か ら ト ー キ ー

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『バ プ』 …… ① Battleship 、 ② ピ ー タ ー・ バ ー グ、 ③ 二 〇 一 二 年、 ④ ア メ リ カ、 ⑤ 英 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 一 二) 、 DVD販売。 『花 ~』 …… ① 梅 蘭 芳、 ② チ ェ ン・ カ イ コ ー(陳 凱 歌) 、 ③ 二 〇 〇 八 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇〇九) 、DVD販売。 『匹 夫』 …… ① 匹 夫、 ② ヤ ン・ シ ュ ポ ン(楊 樹 鵬) 、 ③ 二 〇 一 二 年、④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『一 人』 …… ① 一 個 和 八 個、 ② チ ャ ン・ ジ ュ ン チ ャ オ(張 軍釗) 、 ③一九八四年、 ④中国、 ⑤中国語、 ⑥中国映画祭 (一 九八九) 、劇場公開(一九八九) 。 『芙蓉鎮』 ……①芙蓉鎮、②シエ・チン(謝晋) 、③一九八六年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(一 九 八 八) 、 ビ デ オ・ D V D販売。 『古 戸』 …… ① 老 井、 ② ウ ー・ テ ィ エ ン ミ ン(呉 天 明) 、 ③ 一 九 八 七 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 際 映 画 祭(一 九 八 七) 、ビデオ・DVD販売。 『無言歌』 ……①夾辺溝、②ワン・ビン(王兵) 、③二〇一〇年、 ④ 香 港、 フ ラ ン ス、 ベ ル ギ ー、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 一一) 、DVD販売。 『八 恋』 …… ① 労 工 之 愛 情、 ② チ ャ ン・ シ ー チ ュ ワ ン(張 石 川) 、 ③ 一 九 二 二 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン タ ー「中 国 映 画 の 回 顧: 一 九 二 二 ― 一 九 五二」 (一九八五) 。 』… … ① Touched by Love 、 ② ガ ス ・ ト リ コ ニ ス 、 ③一九八〇年、 ④アメリカ、 ⑤英語、 ⑥劇場公開 (一九八五) 。 (二〇一二) 、二〇一二東京・中国映画週間(二〇一二) 。 『十 ン』 …… ① Ле нин в О кт яб ре 、 ② ミ ハ イ ル・ ロ ン ム、 ③ 一 九 三 七 年、 ④ ソ 連、 ⑤ ロ シ ア 語、 ⑥ ロ シ ア・ ソ ビ エト映画祭(二〇〇六) 。 『十 性』 …… ① 金 陵 十 三 釵〔金 陵 の 一 三 の 釵〕 、 ② チ ャ ン・ イ ー モ ウ(張 芸 謀) 、 ③ 二 〇 一 一 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国語、⑥未公開。 『女 行』 …… ① Nightmare in Badham Country 、 ② ジ ョ ン・ リ ュ ウ ェ リ ン・ モ ク シ ー、 ③ 一 九 七 六 年、④アメリカ、⑤英語、⑥テレビ放映。 『女児楼』 ……①女児楼、②ホウ・メイ(胡玫) 、③一九八六年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ テ レ ビ 放 映・ N H K ア ジ ア 映 画 劇 場 (一九九四) 。 『女 帝』 …… ① 夜 宴、 ② フ ォ ン・ シ ャ オ ガ ン(馮 小 剛) 、 ③ 二 〇 〇七年、④中国、香港、⑤中国語、⑥劇場公開(二〇〇七) 、 DVD販売。 『真 り』 …… ① 一 串 珍 珠、 ② ホ ウ・ ヤ ウ(侯 曜) 、 ③ 一 九 二 六 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン タ ー「孫 瑜 監 督 と 上 海 映 画 の 仲 間 た ち   中 国 映 画 の 回 顧」 (一九九二) 。 『ス ン』 …… ① Superman 、 ② リ チ ャ ー ド・ ド ナ、 ③ 一 九七八年、④アメリカ、⑤英語、⑥劇場公開(一九七九) 。 『ス グ・ ー』 …… ① 春 風 沈 酔 的 夜 晩、 ② ロ ウ・ イ エ(婁 燁) 、 ③ 二 〇 〇 九 年、 ④ 中 国、 フ ラ ン ス、 ⑤ 中 国 語、 ⑥劇場公開(二〇一〇) 、DVD販売。 『ス 王』 …… ① 体 育 皇 后、 ② ス ン・ ユ ィ(孫 瑜) 、 ③ 一 九 三 四 年、 ④ 中 国、 ⑤ 無 声、 ⑥ 東 京 国 立 近 代 美 術 館 フ ィ ル ム セ ン タ ー「中 国 映 画 の 回 顧: 一 九 二 二 ― 一 九 五 二」 (一 九 八五) 。 『殺 生』 …… ① 殺 生、 ② ク ワ ン・ フ ー(管 虎) 、 ③ 二 〇 一 二 年、 ④中国、⑤中国語、⑥未公開。 『戦場のレクイエム』 ……①集結号 〔集合合図のラッパ〕 、 ②フォ ン・ シ ャ オ ガ ン(馮 小 剛) 、 ③ 二 〇 〇 七 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、⑥劇場公開(二〇〇九) 。 『タ ク』 …… ① Titanic 、 ② ジ ェ ー ム ズ・ キ ャ メ ロ ン、 ③ 一 九 九 七 年、 ④ ア メ リ カ、 ⑤ 英 語、 ⑥ 東 京 国 際 映 画 祭(一 九九七) 、劇場公開(一九九七) 、DVD販売。 『ダ ブ』 …… ① The Dove 、 ② チ ャ ー ル ズ・ ジ ャ ロ ッ ト、 ③ 一 九 七四年、④アメリカ、⑤英語、⑥劇場公開(一九七五) 。 『チ フ』 …… ① Ча па ев 、 ② セ ル ゲ イ・ ワ シ リ ー エ フ、 ゲ オ ル ギ ー・ ワ シ リ ー エ フ、 ③ 一 九 三 四 年、 ④ ソ 連、 ⑤ ロ シ ア語、⑥劇場公開(一九六六) 。 『長 』…… ① 三 峽 好 人 / Still Life 、 ② ジ ャ・ ジ ャ ン ク ー (賈 樟 柯) 、 ③ 二 〇 〇 六 年、 ④ 中 国、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開 (二〇〇七) 、DVD販売。 『天 門、 ち』 …… ① 頤 和 園、 ② ロ ウ・ イ エ(婁 燁) 、 ③ 二 〇 〇 六 年、 ④ 中 国、 フ ラ ン ス、 ⑤ 中 国 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇〇八) 、DVD販売。 』… … ① Transformers: Dark of the Moon 、 ② マ イ ケ ル・ ベ イ、 ③ 二 〇 一 一 年、 ④ ア メ リ カ、 ⑤ 英 語、 ⑥ 劇 場 公 開(二 〇 一 〇) 、 D V D・ ブ ル ー レイ販売。 ◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 劉文兵 (りゅう・ぶんぺい) 。 ②所属・職名…… 映画専門大学院大学・客員准教授。 ③生年・出身地…… 一九六七年、中国山東省。 ④ 専 門 分 野 ・ 地 域 … … 映 画 論 、表 象 文 化 論 。中 国 と 日 本 と ア メ リ カ 。 ⑤ 学 歴 …… 東 京 大 学 大 学 院 総 合 文 化 研 究 科( 表 象 文 化 論 )博 士 課 程修了、博士 (学術) 。 ⑥ 職 歴 … … 日 本 学 術 振 興 会 特 別 研 究 員 を 経 て 、 映 画 専 門 大 学 院 大 学 客 員 准 教 授 。 東 京 大 学 大 学 院 学 術 研 究 員 。 早 稲 田 大 学 ほ か 非 常 勤 講 師 。著 書 に『 映 画 の な か の 上 海 ― ― 表 象 と し て の 都 市 ・ 女 性 ・ プ ロ パ ガ ン ダ 』( 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 四 年 )、 『 中 国 一 〇 億 人 の 日 本 映 画 熱 愛 史 ― ― 高 倉 健 、 山 口 百 恵 か ら キ ム タ ク 、 ア ニ メ ま で 』( 集 英 社 新 書 、 二 〇 〇 六 年 )、 『 証 言   日 中 映 画 人 交 流 』( 集 英 社 新 書 、 二 〇 一 一 年 )、 『 中 国 映 画 の 熱 狂 的 黄 金 期 ― ― 改 革 開 放 時 代 に お け る 大 衆 文 化 の う ね り 』( 岩 波 書 店 、 二 〇 一 二 年 )、 共 著 に『 表 象 の デ ィ ス ク ー ル   メ デ ィ ア 』( 東 京 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 〇 年 )、 『 日 本 映 画 は 生 き て い る   踏 み 越 え る ド キ ュ メ ン タ リ ー 』( 岩 波 書 店 、 二 〇 一 〇 年 )が あ る 。 ほ かに論文多数。 ⑧ 研 究 手 法 …… 映 画 シ ス テ ム の 全 容 を 検 証 す る と い う 実 証 的 な ア プ ロ ー チ と、 具 体 的 な 映 画 作 品 に 対 す る 表 象 イ メ ー ジ の 歴 史分析のアプローチという二つの手法。 ⑨所属学会…… 日本映像学会、表象文化論学会。 ⑩研究上の画期…… 中国の文化大革命 (一九六六 ~ 七六年) 。 ⑪ 推 薦 図 書 …… 拙 著『 中 国 映 画 の 熱 狂 的 黄 金 期 ―― 改 革 開 放 時 代 における大衆文化のうねり』 (前掲) 。 ⑫ 推 薦 す る 映 画 作 品 …… 『 子 供 た ち の 王 様』 ( 陳 凱 歌 監 督、 一 九 八 八年、中国) 。

参照

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