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信州問屋の紙・白木荷物と信濃・三河・東美濃の荷主と馬稼ぎ -天保期の運上差上帳の検討から-

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Academic year: 2021

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はじめに  筆者は以前、名古屋の内陸物資流通における信州問屋の役割に注目して、その業務内容 や輸送機関、取扱荷物や産地商人との関係などについて検討したことがある(1)。信州問屋 は特権的荷物問屋であり、名古屋と信濃及び周辺地域との間の独占的な荷物取扱を認めら れていた。その業務は大きく分けて、①信濃及び隣接する三河・東美濃から名古屋に送ら れる株附荷物(麻・紙・煙草・薬種・白木・果物干物など)の入荷と仲買・小座への販売、 ②株附荷物の西国などへの取次と西国や名古屋から信濃に送られる下り荷物の取次、③荷 物輸送にあたる信濃・三河・東美濃の牛馬宿の 3 点である。また荷主から株附荷物の運上 金を徴収することも重要な役割である。株附荷物は商品によっては飛騨・越前・甲斐など の産物にも及んでおり、信州問屋は西国と中部内陸地域との物流センターの役割を果たし ていた。  上記のように信州問屋の業務や役割などの検討は行ったが、出入荷商品の特徴や仕入れ 地域および取引相手、また輸送機関などの具体的な在り方については検討ができていない。 信三東濃の株附荷物については、名古屋に入荷する麻や煙草などの商品や、中馬などの馬 稼ぎによる輸送が自治体史などで取り上げられてはいるが、これらの商品の流通や輸送に 関するまとまった研究はみあたらず、馬稼ぎについても荷物輸送をめぐる争論が中心であ る(2) 。  本稿で取り上げる塩屋菅井孫右衛門家は、1836 年(天保 7)6 月に塩屋甚八郎から信州問 屋株を譲り受けて翌年正月から営業を開始している。信州問屋は時期により変化があるが、 1837 年(天保 8)からは白木屋徳右衛門・白木屋甚右衛門・白木屋伝右衛門と塩屋孫右衛 門の 4 家になり、この体制が明治初年まで続いている。菅井家の資料には 1837 年(天保 8) 正月から 1842 年(天保 13)2 月までの運上差上帳が残されている。そこには 1 か月ごとに 入荷荷物と荷主が記録してあり、塩屋の商品と仕入先を知ることができる。そこで本稿は、 この運上差上帳と他の関連史料とを併せて分析することにより、塩屋に入荷する商品と産 地の特徴や、仕入先の荷主と馬稼ぎの在り方を明らかにすることを課題とする。  なお塩屋の荷主は信濃・三河・東美濃の広範囲にわたるために、筆者の調査は十分には 及んでいない。そのため本稿は、今後の研究のための覚書であることをあらかじめお断り しておきたい。  本稿で使用する史料は、信州問屋にかかわるものは名古屋市政資料館所蔵の新修名古屋 市史資料菅井家資料(複製本)を利用し、東美濃の紙漉業にかかわるものは恵那市教育委 研究論文 【歴史・民俗】

信州問屋の紙・白木荷物と信濃・三河・東美濃の荷主と馬稼ぎ

−天保期の運上差上帳の検討から− 元愛知県史特別調査執筆委員 林 淳一

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員会所蔵の恵那市串原閑羅瀬堀家文書を利用した。また名古屋市鶴舞中央図書館所蔵史料 も一部利用した。史料の閲覧と利用を許可して頂いた、名古屋市政資料館ならびに恵那市 教育委員会と名古屋市鶴舞中央図書館および愛知県公文書館のご厚意に感謝の意を表した い。また史料所蔵者の菅井家と、堀家文書の閲覧・利用に便宜を図っていただいた恵那市 教育委員会の三宅唯美氏と塚本恵伍氏に深く感謝申し上げたい。 1 塩屋孫右衛門家の運上差上帳と入荷商品 (1)塩屋孫右衛門家の信州問屋経営  はじめに塩屋の信州問屋経営について確認しておきたい。【史料 1】は、1872 年(明治 5) 6 月に菅井孫右衛門が戸籍会所に提出した渡世願である(3)。   【史料 1】        渡世願 関鍛冶町     菅井孫右衛門印 一 信州産物    取扱候品左之通 信州并同国国境三州東美濃産 一 紙 白木 干物 蕨粉 果物 諸雑物 右同産 天保八酉年 明治三午年迄休業 一 麻苧布 薬種 莨 塩硝 硫黄     但シ此品丈ケ御運上上納不仕訳ニ御座候 一 諸国登り下り諸荷物取次并牛馬止宿 飛州産 一 小白木 但シ此品ハ下駄木取柄杓曲輪類之品ニ御座候 右之通取扱申候内、前条之通休業仕居候品も有之候付御運上暫く減少仕、壱ヶ年分三 拾七両弐分、拾壱ヶ年分四百拾弐両弐分、慶応三卯年一時先納仕置候、附而ハ近年前 顕之通諸品不揃取扱申候  但シ紙類御締御解中ニテ、前顕金高之内百廿五両相減シ上納仕候、追而締被仰付次    第上納可仕筈ニ御座候      (後略)   壬申六月     戸籍会所へ  信三東濃の特定荷物の取扱、通り荷物の取次、牛馬宿という信州問屋の業務と、当時の 運上金の上納事情を記している。塩屋は開業時の信州問屋仲間との規定により、株附荷物 の麻・薬種・煙草などは扱わず、飯田以北の馬稼ぎの牛馬宿も行っていない(4)。「天保八酉

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年 明治三午年迄休業」とは、そのことを指している。そのため信州問屋 4 家のなかで商 い高は最も少ないが、飛騨産を含む白木の取扱量は信州問屋の全取扱量の大半を占めてお り、紙と干物・果物の商い高も他と遜色はない(5)。なお 1869 年(明治 2)の信州問屋の上 申書によれば、松本・飯田行きの下り荷物は、西国産の「西国紙・蝋・鉄・宇治茶・江州茶・ 阿州藍・京都呉服・小間物等」と、当地産の「生鯖物・縞・綿・砂唐・塩・味噌等」である(6)。  塩屋は 1867 年(慶応 3)に他の信州問屋とともに運上金を先納しており、1 年間の運上 額を 37 両 2 分と見積もっている。なお信州問屋の株附荷物は、尾張藩による株仲間解散 により 1842 年(天保 13)3月に独占を解かれて直取引になる。1844 年(弘化元)の一時的 復活を経て 1847 年(弘化 4)から事実上の株仲間が復活するが、直取引はそのまま継続さ れており、以前通りの株附荷物の独占を認められるのは 1856 年(安政 3)12 月からである。 しかし 1864 年(元治元)に、価格高騰を理由に株附荷物のうち紙だけが直取引に戻されて いる(7) 。渡世願の「紙類御締御解中」とはそのことを指している。なお株仲間復活後の信 州問屋は信州産物世話方肝煎と称するが、本稿では混乱を避けるために信州問屋の名称で 統一した。 (2)塩屋の運上差上帳と株附商品の売上高  ここで開業当初の塩屋の株附商品について、その売上高と入荷量の推移をみておきた い。尾張藩は、1682 年(天和 2)から他所荷物に対して 1 両につき銀 1 匁の運上金を徴収 するようになり、荷物問屋は入荷する荷物の運上金を徴収して、1 か月分をまとめて藩に 納めた。前に述べたように菅井家資料には、開業直後の 1837 年(天保 8)正月から株仲間 解散直前の 1842 年(天保 13)2 月まで、毎月の運上金上納を記録した「御運上差上帳」(以下、 運上帳と略す)の写しが残されている。【史料 2】はその冒頭部分である(8)。 【史料 2】       覚        信州知久平村 一 紙 拾弐箇       荷主藤左衛門   売代金 弐拾五両ト     七郎左衛門         銀六匁     勘治        同飯田       久四郎        同下条       熊吉 此御運上         三州足助   金壱分ト      庄八    銀拾匁一分        信州大野村

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一 立石柿 四拾三箇    荷主源吉   売代金 拾九両弐分     文五郎        銀拾弐匁  同浪合村       平兵衛 此御運上金壱分ト      銀四匁七分  売代金    〆四拾四両三分ト        銀三匁 御運上〆金弐分ト       銀拾四匁八分 右者正月分御運上金銀也、帳面之通相改差上申処相違無御座候、以上  (朱書)  「天保八年」   酉二月四日       問屋孫右衛門 印 右之通問屋孫右衛門相改差上申処相違無御座候、以上       丁代       同断  入荷した紙と立石柿のそれぞれ 1 か月分の入荷量と売上高そして運上高を記載し、その 【表 1】塩屋の株附商品の売上高(単位:両)・入荷量と運上高(単位:両)(1837 年(天保 8)1 月∼ 1842 年(同    13)2 月) 「御運上差上帳」(菅井家資料(複製本))より作成 各項目の売上高は金 1 両銀 60 匁で換算して合計し、合計額は 1 両以下切り捨てで表示した。年間売上高 と年間運上高は同様にして合計し、匁以下切り捨てで表示した。このため各項目の金額合計と年間売上高 の金額には違いがある。 1837年(天保8) 1838年(天保9) 1839年(天保10) 1840年(天保11) 1841年(天保12) 1842年(天保13) 売上高 入荷量 売上高 入荷量 売上高 入荷量 売上高 入荷量 売上高 入荷量 売上高 入荷量 紙 438 139箇 194 73箇 215 70箇 722 265箇3束 1034 255箇半 104 24箇 白木・小白木 118 555束52箇 45 292束 114 458束 355 1398束511箇 307 1610束165箇 56 246束 立石柿・柿 190 290箇 70 114箇 64 131箇 56 236箇 129 445箇半 47 90箇半 実胡桃・胡桃 35 18箱 76 39箱12櫃 9 14櫃 40 1櫃23箱 勝栗・搗栗 30 28俵 4 2俵 46 89俵 20 21俵 16 11俵4叺 塩硝 15 4箱 玉子 8 10箱 蒟蒻芋 3 12俵 年間売上高 814.2 391.2.3 441.1 1191.2 1527 208.3 年間運上高 13.1 6.2 7 19.3 25.1 3.1

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下にそれぞれの荷主の国名村名と名前を列記し、末尾に売上高と運上高の合計を記してい る。この運上帳の記載内容から、塩屋の株附荷物の商品ごとの入荷量や売上高の推移を知 ることができる。また荷主の所在地が判明し、1 か月ごとの合計であるために荷主の実際 の出荷量はわからないが、各自の出荷商品とおよその出荷回数を知ることができる(9)。  【表 1】は、運上帳から塩屋の毎年の売上高と入荷量を商品別にまとめたものである。下 段には年間の売上高と運上金高を示した。開業時に 800 両余であった売上高は翌年には半 減するが、4 年目からは軌道に乗り 5 年目には開業時の倍近い 1527 両なっている。  商品のなかでは紙の売上高が全体の 5 割以上を占めており、その割合は次第に増加して いる。塩屋の主要商品が紙であることを示している。白木類の割合は 3 年目に増加して全 体の 2 割から 3 割を維持し、一方で立石柿はその割合を低下させて 1 割以下になっている。 また胡桃は年による増減が大きいが、これは豊作年と不作年の反映とも思え、立石柿や栗 にもその傾向がみられる。  次に株仲間解散後の塩屋の株附荷物の売上高の推移についてみておく。【表 2】は、1855 年(安政 2)、1860 年(万延元)、1864 年(元治元)の塩屋の紙・白木・干物果物の売上高を 示したものである。塩屋が売上高を藩に報告するために準備した覚書から作成した(10) こ れによれば、1855 年(安政2)は 3219 両であり、株仲間解散後も売上高を伸ばしているこ とがうかがえる。1864 年(元治元)には 7238 両に達し、特に紙の売上高は 5384 両と高い 伸びを示している。ただし 1859 年(安政 6)の開港以後には物価が高騰したといわれ、特 に 1864 年(元治元)は、3 月に尾張藩が「万物高直ニ付、諸色世話方肝煎等へ不拘、在中并ニ 他所 直買勝手次第」と触れ出している(11)。このため開業初期との単純な比較は避けなけ ればならないが、塩屋の営業規模が開業時よりも拡大していることは間違いないだろう。 塩屋の仕入先も開業当初よりは増加していることが予想される。なお塩屋孫右衛門(2 代 目)は、1868 年(明治元)3 月に町奉行所御用達格次座に任命されている(12) 。  塩屋の経営帳簿は明治初期以後のものしかないが、1869 年(明治 2)7 月の「大々繁昌店 改帳」では差引〆高が 3123 両 2 分余、翌年 7 月の惣差引〆高は 5269 両 2 分余である(13)。 店改帳の内訳は「取次帳」「御客帳」「牛方貸帳」「仲満講金」「端荷預り帳」「紙売帳」「白木売 帳(無し)」「萬入帳」「荷割帳」「大福帳」「白木大入帳」であり、その営業内容の概要を知る ことができる。なお 1873 年(明治 6)1 月に信州問屋が作成した見積書から、信州問屋全 【表 2】安政∼元治期(1854 ∼ 1864 年)の塩屋の紙・白木・干物菓物の年間売上高(単位:両) 「願書・御請書・御達書留帳」(菅井家資料(複製本))より作成 各項目とも金 1 両銀 60 匁で換算して 1 両以下切り捨てで表示した 1855年(安政2) 1860年(万延1) 1864年(元治1) 3年間平均 信州問屋4家合計 紙 2158 2327 5384 3290 11371 白木類 811 1174 1517 1168 1621 干物・果物 249 191 335 258 727 合計 3219 3692 7238 4716 13719

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信三東濃からの入荷荷物 信三東濃へ下り荷物 商品 信州問屋 塩屋分 商品 信州問屋 塩屋分 数量(箇) 売上高(円) 数量(箇) 売上高(円) 数量 数量 麻・苧布 1321 19850 34 600 藍玉 740 箇 700 本 紙 1485 10879 400 2000 砂糖 2408 樽 500 駄 莨 3923 7775 1123 2150 菓子 1220 箱 1100 箱 薬種 1555 3999 215 645 蝋燭 750 箇 450 箇 白木 3800 1520 3800 1520 畳表 350 箇 320 箇 干物・果物 1028 2510 417 1200 生鯖 1470 箇 270 箇 合計 13112 46533 5989 8115 古手 751 箇 300 箇 金物 253 箇 160 箇 綿 6860 箇 2700 箇 紙出 300 箇 茶 22 箇 蝋 290 箇 太物 290 箇 諸雑物 1260 箇 300 箇 合計 19994 箇 駄数 6120 駄 体と塩屋分の 1 年間の入荷商品の入荷量と売上高および下り荷物の出荷量の見積高を【表 3】にまとめた(14)。全体の入荷量は煙草と白木が多く、売上高は麻と紙が多い。また塩屋 は煙草・麻・薬種の仕入れを始めており、特に煙草の入荷量が増えている。本稿では扱わ ないが、信州問屋の下り荷物についても参考にしていただきたい。 (3)塩屋の入荷商品の特徴  ここで塩屋の入荷商品の特徴についてみておきたい。表には示さなかったが、冬期の農 間余業である紙や干物果物類の入荷は冬から春に集中している。紙の入荷量は 5 月から 8 月まではごくわずかであり、11 月から 4 月までが全体の 8 割を超えている。また立石柿 の入荷は 11 月から 1 月までにほぼ限られており、特に 12 月の入荷量が全体の 5 割を超え ている。これは正月用品として使われる立石柿の特徴を示していると思われる。立石柿は、 立石村(長野県飯田市)を中心とする信濃国下伊那地域で生産された串柿であり、17 世紀 末には江戸でも知られる存在になっていたとされる(15)。江戸では甘味食品としてだけで なく、縁起物としても正月飾りや歯固めに欠かせない物であった。また伊勢湾や三河湾で は豊漁や海難除けに漁船の軸に串柿を立てる風習があり、立石柿はこれに用いられたとい う(16) 。運上帳では「柿」の表記は 2 回だけで他はすべて「立石柿」であり、柿の荷主の大多 数は下伊那に限られている(後述)。三河や東美濃でも串柿は生産されているが、塩屋は 【表 3】信州問屋と塩屋の信三東濃の入荷荷物と下り荷物の年間見積高(1873 年(明治 6)1 月) 「信州・三州・東美濃 出候物産荷数并金高壱ヶ年見積り書」 「信州・三州・東美濃江下り荷物見積り書」 (「自明治四年 至明治十六年 願書・御請書・御達書[  ]」菅井 家資料(複製本))より作成 下り荷物の合計箇数は史料の数字を表示した

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世評の高い産地の商品を入荷していたと思われる。塩屋が入荷する胡桃や栗も同様であり、 飯田藩は文化文政期(1804 ∼ 1829 年)に胡桃と搗栗を将軍家への献上品にしている(17)。  信州問屋は入荷する紙の種類について、1867 年(慶応 3)5 月の願書追加で「紙品之義、 信州 出候品者帳紙并元結下地紙、又三州・東美濃 出候分ハ杉原・元結下地紙ニ御座候」 と述べている(18)。信州問屋に入荷する紙は、おもに元結下地紙(信三東濃産)、帳紙(信濃 産)、杉原紙(三河・東美濃産)であった。下伊那地方では、近世前期に質が強靱で帳簿紙 として評判の高い大帳紙などが生産されており、1672 年(寛文 12)に堀親昌が烏山から飯 田に入封すると、元結とその原紙にする晒紙の製造が奨励されて生産が増加したといわれ る(19)。平沢清人氏によれば、1838 年(天保 9)の記録では下伊那に 1500 戸の晒紙漉屋があっ たという(20)。信州問屋に入荷する信濃産の紙はいずれも下伊那の特産物であり、「帳紙」は 大帳紙、「元結下地紙」は晒紙のことである。  名古屋の元結世話方は、1844 年(弘化元)4 月の願書で、「元来元結製作之儀、下地紙大 坂表ニ而買入候外、専信三濃州出之品を以製作仕来り候儀ニ御座候、就而ハ右信三濃州出之 下地紙と申分、何れも白木屋徳右衛門・同甚右衛門・同伝右衛門・塩屋孫右衛門 、例年 正金并米切手添銀付ニ而も買入方仕来候」と記している(21)。元結下地紙は大坂買入分以外は すべて信州問屋の入荷品でまかなうわけであり、名古屋の元結業者にとって信州問屋の存 在は大きかったといえる。次の史料は、信州問屋の下地紙取引の不当性を訴えた元結元締 役の言い分に対して、信州問屋側の反論を記したものである(22)。   【史料3】        乍恐御請旁奉願上候御事 四軒連印  名古屋村美濃屋治兵衛初七人之者共、元結職ニ付元結下地紙私共 売渡来候処、〆 売同様仕候付而ハ元結屋共取続方無御座様申立候得共、私共義前々 元方漉屋共例 年霜月極月ニハ多分先金貸渡、翌春荷物為差出、如何ニも薄利ニ而元結屋江売渡申候儀 ニ御座候、〆売同様と申様成義者存も不寄義ニ御座候       (中略) 一、元結屋共直買之義、私共江追々相頼候由之処、法外成口銭申立取合不申趣奉申上候、 此儀更ニ不相分次第ニ而、去ル子年紙類御解被 仰出候付者、直買勝手次第可仕儀ニ而、 元結屋共元方江注文申遣、又者荷主直々引合随意ニ取計居候訳ニ御座候 一、私共江元方 荷為替致来候節、右金相渡、其荷物元結屋共江現金同様ニ売渡、元 方江ハ数月捨置十分ニ利足を取安直ニ仕切相渡、尤荷主共元結屋共江相越候而者其荷物 一切取扱不申旨申渡候段者、全ク売直段と仕切直段と大相違ニ付相顕候故之始末と 相見、何分私共仕向不宣、荷物相減不繁昌ニ相成候付、元結屋共おゐて直買締筋取 計年々冥加金上納仕度段奉願上候義、以之外之儀ニ御座候、兼而御解ニ相成居候事ニ 付、荷主共 御城中駈廻り直段少シニ而茂高直成方ニ売捌、尤三州東美濃者漸十里余 之道法ニ付、荷主共中馬附ニ者不仕、荷ひ越或者車等ニ而元結屋共江直々買取、私共江更

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ニ不抱荷物多分ニ御座候、然を私共ニ而〆売仕、又者元結屋共江相越候漉屋共荷物不取 扱抔と申立候儀者、当三月元結屋締役被 仰付候付、最早壱株引起可申企ニ而、兼而 申立候条々存も不寄儀ニ御座候、勿論荷為替等之分ハ不引合之時節ニ付相働き利足 等壱厘も受取不申、現金ニ仕切相立遣申候、此儀荷主共元結屋共おゐて弁居申候儀 ニ御座候、付而者七人之内ニハ私共 年々仕送り同様ニ商ひ仕居候、譬者当春五百両之 商ひ仕候、其代金盆迄ニ半金程も相済、盆後又々三四百両も商ひ仕、是又同様極月 迄ニ半金相渡候歟半金迄も不相渡候処、又々正月初売と申而相応売渡申候儀者数十 年来之事ニ御座候、尤前条七人之外ニ右躰之元結屋多分御座候処、法外之無法申立 候段者、右之金恩等忘却仕候哉、元方荷主共江も数十年来多分敷金仕置候付、元結 屋荷主共と申合私共株式押潰、荷主共敷金、元結屋共江仕送り同様売代金等閑ニ可 仕手段者、誠以不人情至極言語ニ絶申候、右様相成候而者私共必至ニ迷惑至極候、付而 者頃日拝見被 仰付候元結屋共書付之内ニも、私共申合自分勝手之直段を相定、喉 首〆候様成非道之取計ニ而利益を貪候様之儀共有之候得共、前条奉申上候通私共不 相応ニ元方江敷金仕、元結屋共江ハ仕送り同様之商ひ仕候者、偏ニ御国繁栄筋専一ニ存 込取計居、実ニ渡世ニ難相成歎息仕候折柄、最前年限継奉願上候付も紙類御締被  仰付度奉願上候儀ニ御座候、右之次第ニ付、治兵衛初之者共願之趣御取揚被下間敷 奉願上候、何卒御早行已前之通紙類御締被仰付被下置候様奉願上候、何分私共株附 信三濃州 出候紙類御解相成居候故、如斯不法申立 御尊労相懸り奉恐入候、先般 奉願上候紙類御締御急卒御済口難被遊御義ニも御座候ハヽ、元結下地紙丈ケ此節御 聞済被成下置候様仕度奉願上候、以上      卯八月   右慶応三年     卯八月御請書之写  元結元締役たちは、信州問屋が元結屋と下地紙荷主の直取引を妨害し、また荷主への下 地紙代金の支払と元結屋への売値段を操作して利益を不当に得ていると主張している。信 州問屋はこれに反論し、あわせて解禁中の紙類のうち元結下地紙の直取引禁止を出願して いるのである。  尾張藩は、1844 年(弘化元)3 月に奈良屋源右衛門・中島屋彦吉・中嶋屋彦三郎・中嶋 屋彦七・藤屋甚助の 5 人を元結世話方に任命している(23)。その後、塩屋孫右衛門の留帳 によれば、1867 年(慶応 3)3 月に、美濃屋治兵衛・中嶋屋彦吉・中嶋屋彦右衛門・蔦屋 喜左衛門・蔦屋理右衛門・笹屋宗助・笹屋幸蔵の 7 人が元結元締役に任命されている(24) 。 これらの世話方や元締役の多くは藩御用達などを務める豪商であり、中嶋屋(加藤)彦三 郎は、1871 年(明治 4)に信州問屋など 7 人で発足した信州産物業社中の社員の一人であ る(25)。彦三郎や笹屋幸蔵は同年の『名越各業独案内』で紙類商売となっており、彼らは信 州問屋とは紙類商売で競合関係にあったと思われる(26) 。信州問屋が「当三月元結屋締役被  仰付候付、最早壱株引起可申企」というように、元結元締役が信州問屋に代わって元結

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下地紙の流通支配を目論み、両者の対立が顕在化したと考えられる。  いまのところ両者の言い分の当否を判断することはできないが、この史料から信州問 屋と元結下地紙の産地や元結屋との関係を知ることができる。信州問屋は、「前々 元方 漉屋共例年霜月極月ニハ多分先金貸渡、翌春荷物為差出」せていると述べており、楮の仕 入時期に前渡金を渡している。「元方荷主共江も数十年来多分敷金仕置候」と述べてもおり、 これが長年にわたり行われていたことがわかる。また元結屋に対しても、「私共 年々仕 送り同様ニ商ひ仕居候」と述べており、毎年の下地紙代金の延納を前提とした取引をして いる。なお三河や東美濃の下地紙荷主が荷担ぎや荷車で元結屋まで直接紙を運び込んでい ることも、尾張周辺地域の紙の輸送事情を知る上で注目される。  元結屋の下地紙の取引額は、春は 500 両、盆後には 300 ∼ 400 両と大きいが、1792 年 (寛政 4)の調査では、名古屋の元結の商い高は 1 万 3000 両(七分他行分)であり、おもな 産業のひとつであった(27) 。  名古屋の元結生産については、名古屋区長吉田禄在が名古屋の諸産業の概況をまとめた 「商工彙況」(1887 年・明治 20)に、「名古屋元結と稱シ一ノ名産ナリ、原料ニ用ユル紙ハ信 州飯田ノ特有産物ナリ、該地方ヨリ輸入ヲ仰キ、而シテ製造方ハ旧藩制ノ頃ノ守門或ハ詰 番等薄給ノ者内職ト唱へ彼輩等の製造ニ係リ、亦精製品トスルハ之レヲ営業トスルモノア リ、維新後ハ内職ニアラス本業トセサルヘカラス、故ニ製造者モ減シ、男子結髪ヲ廃シ、 為メニ需用者モ減シタリ」と、その盛況と衰退の過程が簡潔に記されている(28)。飯田産の 原紙を使用して下級藩士の内職により製造されていたが、明治初頭に散髪が許可されてか ら需要が減少したことがわかる(29) 。  『下伊那の特殊産業』は、明治初年頃の下伊那 郡の紙生産額の 7 割を晒紙が占め、そのうち 6 割 は飯田付近の元結原料、残り 2 割ずつを東京と名 古屋の元結業者に販売したとしている。当時の東 京と名古屋には、元結屋がそれぞれ 10 戸と 6 戸 あったともいう(30)。  1872 年(明治 5)の「府県物産志」は、下伊那郡 飯田は杉原紙と上晒紙、加茂郡足助(愛知県豊田 市)は半切紙・小帳紙・森下紙・三河奉書・杉原紙、 加茂郡は半紙、また恵那郡串原村(岐阜県恵那市) は広紙、中津川(同県中津川市)・阿木(同)・富田 (同県恵那市)・佐々良木村(同)は中折紙の産地 としている(31)。三河国加茂郡・美濃国恵那郡に おける元結下地紙の生産を確認することはできな いが、信州問屋が信三東濃の特産地から紙を入荷 していることがわかる。なお後述するが、串原村 でも杉原紙は生産されている。 【表 4】菅井孫右衛門家入荷の白木類の数量    と売上高(1877 年・明治 10) 「他府縣ヨリ輸入物品表」 (「自明治四年 至明治十六年 願書・御請 書・御達書[ ]」(菅井家資料(複製本))よ り作成 種類 数量 売上高(円) 挽板 1000 束 594 薄板 6000 束 450 下駄木取 400 束 225 免ンパ 7112 211.7 野根板 100 束 150 黒柿 800 貫目 110 曲輪 40 本 60 木地盆 3200 枚 50 柄杓曲輪 60 束 45 枕木取 16 束 8 合計売上高 1903.7

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塩屋に入荷する白木類の種類は、菅井孫右衛門が作成した「明治一○年中 他府縣ヨリ 輸入物品表」の白木類の種類・仕入量・販売額から、幕末期の仕入れ内容を推測すること はできる(32)。これをまとめた【表 4】によれば、売上高では挽板が全体の 3 割を占めてい るが薄板も 2 割を超えており注目できる。また下駄木取・メンパ・野根板・黒柿・曲輪・ 木地盆・柄杓曲輪など、山村で生産される特産物を含むさまざまな白木類が含まれている。 2 塩屋の入荷商品と出荷地域 (1)運上帳からみた入荷商品と出荷地域   【表 5】は、運上帳から毎年の荷主所在地(町村)数・荷主数・入荷回数を、郡ごとにま とめたものである。伊那郡は下伊那(伊那郡南部)と上伊那(伊那郡北部)に分けて集計した。 なお町村数と荷主数の右端欄には全期間を通じた実数を、入荷回数の右端欄には全期間の 合計数を示した。運上帳は 1 か月ごとにまとめているために荷主一人一人の入荷量は不明 であり、村や地域からの入荷量を知ることはできない。そのため荷主の入荷回数から塩屋 の仕入地域や村の出荷傾向を検討することにした。荷主の入荷数は 1 か月に 1 回で計算し ているが実際には複数回の入荷も予想され、また 1 回の入荷量も荷主によって異なるはず だが一応の目安と考えた。  この表によれば、各項目の合計数は、いずれも売上高と同様に 2 年目、3 年目に大きく 落ち込み、4 年目に急増している。5 年余の間に塩屋が取引した荷主は 73 町村の 179 人で ある。ただし約6割は 1 回だけの取引であり、定期的に入荷する安定した取引先と随時入 【表 5】塩屋の荷主の町村数・荷主数・入荷回数(1837 年(天保 8)∼ 1842 年(同 13)2 月) 「御運上差上帳」(菅井家資料(複製本))より作成 国 郡 町村数 荷主数 入荷回数 8年 9年 10年 11年 12年 13年 実数 8年 9年 10年 11年 12年 13年 実人数 8年 9年 10年 11年 12年 13年 合計 信濃 下伊那 13 9 13 15 13 5 23 26 12 20 29 24 7 74 52 51 31 64 50 9 257 上伊那 2 1 2 2 3 2 1 3 3 5 5 2 5 3 15 筑摩 2 1 1 3 2 3 2 1 1 4 2 5 3 2 2 6 3 16 (木曽) 1 1 1 1 1 1 不明 1 1 1 1 1 1 小計 17 11 17 19 17 5 31 30 14 25 34 29 7 86 60 55 39 71 56 9 290 三河 加茂 6 3 2 10 8 5 16 11 5 6 20 13 6 31 13 5 8 30 19 7 82 設楽 1 1 2 1 1 2 1 1 2 不明 1 1 1 1 1 1 小計 6 4 2 11 9 5 19 11 6 6 21 14 6 34 13 6 8 31 20 7 85 美濃 恵那 6 2 4 10 10 5 14 16 4 8 23 25 7 45 23 6 9 46 41 8 133 土岐 3 1 2 1 1 4 3 1 2 1 1 6 3 1 2 1 1 8 不明 1 2 1 2 1 3 1 4 1 4 1 6 小計 9 3 7 13 12 5 20 19 5 11 27 27 7 55 26 7 12 51 43 8 147 尾張 名古屋 1 1 1 1 1 1 春日井 1 1 1 1 1 1 甲斐 八代 1 1 2 2 2 2 合計 34 18 26 43 39 15 73 63 25 42 82 71 20 179 102 68 59 153 120 24 526

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荷する不定期の荷主がいたことがわかる。  地域別にみると、下伊那が町村数で全体の約 3 割、荷主数で約 4 割、出荷回数で約 5 割 を占めており、主要な仕入れ先であることがわかる。また 2 年目(町村・荷主数)と 3 年目(入 荷回数)の大幅な減少以外はおおむね安定している。一方で伊那郡に隣接する三河国加茂 郡と美濃国恵那郡は、町村数でそれぞれ全体の約 2 割を占めて下伊那に次ぐ仕入れ先であ ることがわかる。また両郡ともに 4 年目には各項目で大幅な増加があり、恵那郡では翌年 も大きな変化はない。両郡での荷主の増加は、孫右衛門が積極的に仕入先を開拓した結果 かとも思われる。孫右衛門は 1843 年(天保 14)5 月から伊那中馬の戻り荷物として信州行 き塩荷物を扱うようになり、また 1853 年(嘉永 6)までには飛騨からの小白木類の入荷が みられるようになるなど、積極的な営業姿勢がみられるからである(33)。  【表 6】は地域別に商品ごとの荷主の町村数と入荷回数をまとめたものである。これによ り各地域の入荷商品の特徴がわかる。下伊那からは紙・白木・干物果物のすべてを入荷し ている。紙は最大の仕入先であり、立石柿などの干物果物はほぼ唯一の仕入先である。加 茂郡は紙の入荷回数が多いことが特徴であり、下伊那には及ばないものの塩屋にとって重 要な紙の仕入先であると思われる。また恵那郡は白木の出荷回数が大半を占めており、白 木のおもな仕入先と考えられる。なお回数は少ないが恵那郡からも毎年紙を入荷している。 飯田より奥地の馬宿を行わないとする規定によるためか、下伊那より北の地域の荷主は わずかしかない。そのなかで信濃国筑摩郡の会田村(長野県松本市)と松本町(同)、甲斐 国八代郡市川村(山梨県西八代郡市川三郷町)の紙の荷主は注目される(本稿末尾付表荷主 一覧参照)。会田村は松本藩領の紙漉地域のひとつであり、1763 年(宝暦 13)の松本の中 馬調査では、小杉紙が名古屋行き荷物のなかにみられる(34)。また市川大門村は市川紙の 名で知られる甲斐の代表的な製紙産地であり、甲斐国内をはじめ江戸に多くの販路を持っ 【表 6】塩屋入荷荷物の地域別・商品別の町村数と入荷回数 「御運上差上帳」(菅井家資料(複製本))より作成 右端欄の合計欄は、町村数は実数、入荷回数は合計回数 国 郡 紙 白木・小白木 立石柿・柿 搗栗・勝栗・実胡桃 塩硝・蒟蒻芋・玉子 実町村数 合計 町村数 入荷回数 町村数 入荷回数 町村数 入荷回数 町村数 入荷回数 町村数 入荷回数 入荷回数 信濃 下伊那 12 131 8 33 11 53 7 39 1 1 23 257 上伊那 2 6 2 9 3 15 筑摩・木曽 2 4 2 11 1 1 1 1 4 17 不明 1 1 1 1 三河 加茂 8 61 10 20 1 1 16 82 設楽 2 2 2 2 不明 1 1 1 1 美濃 恵那 4 17 10 113 1 2 1 1 14 133 土岐 4 8 4 8 不明 1 4 1 2 2 6 尾張 名古屋・春日井 1 1 1 1 2 2 甲斐 八代 1 2 1 2 合計 29 220 40 195 16 60 9 48 3 3 73 526

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ていたとされる(35)。さらに松本近郊神林村(長野県松本市)の白木の荷主である野口庄三 郎も注目される(後述)。 (2)下伊那の入荷商品と出荷地域  ここで下伊那の紙と立石柿の出荷地域の特徴についてみておくことにする。【表 7】は、 下伊那の紙と立石柿の荷主および所在地をまとめたものである。紙の出荷地域の多くは飯 田周辺の紙漉き産地にあり、高須藩領(小林・柿野沢・山本・知久平・虎岩(以上長野県 飯田市)・下條郷(同県下伊那郡下條村)の一部)と飯田藩領(飯田・島田村内八幡・三日市 場・大瀬木(以上同県飯田市))に集中している。  下伊那の製紙業は、近世中期に地域的分業化が進み、紙漉は島田・今田(長野県飯田市) や天竜川東岸の知久平・虎岩・南原(同)などの飯田周辺で発達し、原料の楮は南部の下 条・大鹿・遠山・平岡などで生産されたとされる(36) 。天明期(1781 ∼ 1788 年)頃からは 飯田藩領で紙の仲買商人の活動範囲が広がり、次第に紙漉屋に楮買入金を前貸しするよう になったという(37)。  運上帳では、入荷回数が多い地域は下条・小林(柏原村枝郷)・三日市場・柿野沢(知久 平村枝郷)・飯田であり、これらの町村からはほぼ毎年の入荷がある。入荷が数か月間続 く荷主もおり、なかでも小林村の藤左衛門(入荷 30 回)と下條の熊吉(同 22 回)は毎年の 入荷回数が多い(荷主一覧参照)。藤左衛門は 1837 年(天保 8)の 8 月から翌年 3 月までの 8 か月間入荷が続き、それ以後も毎シーズン 5、6 か月間の入荷がある(38)。下條とは下條 郷の村々を指すかと思われるが、熊吉も毎シーズン 3、4 か月間の入荷がある。2 人とも 出荷状況からみて紙の仲買商ではないかと思われる。塩屋は 1853 年(嘉永 6)9 月に「船積 ニ而荷物送り越候趣之荷主」を報告しているが、熊吉はそのなかの一人であり、塩屋とは長 【表 7】下伊那の紙と立石柿の荷主所在地 「御運上差上帳」(菅井家資料(複製本))より作成 紙 柿 町村名 荷主(人) 入荷回数(回) 町村名 荷主(人) 入荷回数(回) 下条 12 42 大野 7 9 小林 1 30 山本 3 8 三日市場 2 15 栗矢 3 8 柿野沢 4 14 大瀬木 3 6 飯田 5 12 向関 4 5 山本 1 5 飯田 3 5 小野川 1 4 浪合 3 3 八幡 1 3 河内 2 3 知久平 2 2 三日市場 1 3 大瀬木 1 2 小野川 1 2 大野 1 1 駒場 1 1 虎岩 1 1 合計 31 53 合計 32 131

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年にわたる取引相手である(39)。なお下條は楮の生産地とされるが、運上帳では熊吉をは じめ 12 人の紙の荷主がいる。下條地域は中馬による商品輸送が盛んな地域であるとされ ており、この地域の紙荷主と同村の商品流通などについては今後検討すべき課題である (40) 。  飯田藩は、1809 年(文化 6)10 月に飯田商人が中心で運営する紙問屋を設置して、領内 だけでなく他領から移入される紙にも運上と口銭を賦課して統制を強化した。同年 12 月 にこれに反発する紙問屋騒動が発生し、1815 年(文化 12)の幕府裁許により、紙問屋によ る飯田藩領以外の紙荷物の取扱は禁止された。このため統制が強化されたままの飯田領内 の紙漉屋は減少し、飯田領以外の村々での紙漉が盛んになったとされる(41)。  1870 年(明治 3)2 月に「飯田荷送惣代」3 人と「同取次人」知久平村松太郎は、名古屋に 設置された高須藩産物会所に対して、飯田藩領と高須藩領の元結と下地紙を取り扱っても らうように願書を提出している。【史料 4】はその一部だが、そこには飯田藩領の出荷統制 が続いていること、対照的に高須藩領では統制が行われていないことが記されている(42)。   【史料 4】        乍恐奉願上候口上書之事 一私共儀、飯田生産元結并ニ下地紙、是迄年来御当地江送り来り候所、今般於御当所  高須様御生産御会所御取立ニ相成候ニ付、別紙名前之者共出荷之分、不残当 御会 所江入荷仕、御支配奉願上度奉存候       (中略) 一飯田藩支配所之者共ハ、生産会所取締り有之、鑑札無之者ハ何国江も出荷不相成候 得共、乍恐 御当藩御支配所ニ者是迄御締り無御座候様奉存候、 御支配所之内知 久平村松太郎義年来多分之荷送り仕候ニ付、私共支配所同様ニ仕来り候ニ付、右竹佐 御支配所之者出荷仕候分、右松太郎江御締り被 仰付候様奉願上候       (後略)  飯田藩と高須藩の紙や元結荷物の出荷に対する統制の有無は、塩屋の荷主や入荷回数に も現れているようにみえる。飯田には 5 人の紙荷主がおり、有力商人と思われる者もいる。 たとえば善治郎は、「天保二年屋並帳」から飯田本町 1 丁目の組頭であると推定されるが、 ほぼ毎年紙を出荷している(43)。しかし荷主と入荷回数の合計は高須藩領が上回り、下條 と天竜川東部の小林・柿野沢・知久平・虎岩にまとまっている。知久平周辺は晒紙生産が 発達した地域のひとつである(44) 。これらの荷主の経営内容や規模は確認できない者が多 いが、柿野沢村の伊三郎は 1844 年(弘化元)の同村の紙漉屋の惣代である(45)。おそらく大 規模な紙渡業者であり、中馬により直接塩屋に出荷していたと考えられる。  塩屋は高須藩産物会所に出願した知久平村の紙中屋松太郎とも取引を行っている。松太 郎は、1867 年(慶応 3)2 月に名古屋町人を相手取り、元結代金の支払いを求める訴状を町 奉行所に提出している(46)。そのなかで松太郎は、「私儀紙類初元結等商ひ仕、数年来御当

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地信三濃州肝煎塩屋孫右衛門方へ荷物指送り、同人方ニ止宿仕所々江商ひ取組仕来申候」と のべている。平沢清人氏によれば、知久平村の山下松太郎は、1864 年(元治元)から江戸 との取引を始め、明治期には丸西商店として下伊那郡下の全生産紙の約 80%を取り扱う までに成長した大手紙仲買商である(47) 。  【史料 4】の出願項目のなかには、松太郎の高須藩領名古屋向け荷物の取締役任命が含ま れている。松太郎は、飯田藩領の元結と紙の出荷の特権を持つ飯田商人と組み、高須藩領 の名古屋向け荷物の支配を目論んでいたと考えられる。「年来多分之荷送り仕候」という記 述や、飯田商人と組んでいることなどからみて、この時期の松太郎は、飯田・高須領内の 紙や元結の集荷や販売について一定の影響力を持っていたと考えられる。信州問屋に晒紙 などを出荷する下伊那の荷主のなかには、松太郎のような飯田やその周辺の大手紙仲買商 たちがいたことが確認できる。  次に立石柿の出荷先についてみておきたい。立石柿の産地と生産量は、『長野縣町村誌』 の 1876 年(明治 9)の各村の産物書上によって、明治初期の状況を知ることができる(48)。 これによれば、塩屋の荷主のいる伍和村(栗矢・河内・向関村(以上、長野県下伊那郡阿智村) など 5 か村)は、串柿 1 万 2000 重(1 重 40 串)を生産しており、串柿は「該地に適す。質尤美、 尾張国へ輸送す」と記されている。伍和村は立石村を含む三綱村(串柿 3000 重)の隣村だが、 立石柿の生産量が下伊那郡では三綱村を抑えて最も多い。塩屋の荷主は、伊賀良村(大瀬木・ 三日市場・北方村(以上、同県飯田市)など、串柿 400 重)や、阿知村(駒場・大野・小野 川村(以上下伊那郡阿智村)など、串乾 30 駄)などにもいる。立石柿は下伊那各地で生産 されているが、塩屋は立石柿の産地から幅広く仕入れていたことがうかがえる。  陽皐村(下条村)は串柿は 1 駄 800 串と記しており、これに従って計算すると伍和村か らは 600 駄の串柿が名古屋方面に出荷されていた計算になる。運上帳で立石柿の入荷量が 最多になる時期は 1840 年(天保 11)11 月から翌年閏正月までの 4 か月間だが、この間の 入荷量は 568 箇である。1763 年(宝暦 13)の飯田町の中馬調査の報告に従って 2 箇付 1 駄 で計算すると 284 駄になる(49)。塩屋の立石柿の取扱量の多さがうかがえる。  江戸に出荷される立石柿は天竜川通船でも運ばれており、仲買人が自ら集荷するととも に各地の世話人からも集荷していたとされる(50)。塩屋の荷主の実体は今のところ不明だ が、『阿智村誌』によれば、向関村では 1838 年(天保 9)に荷主が名古屋商人の近江屋治郎 左衛門に対して、出荷した柿荷物をめぐる訴訟を起こしたとされる。また伊那街道の宿場 である駒場村の柿商人は、相対売りのために串直段が決まらず、名古屋・岡崎(愛知県岡 崎市)・新城(同県新城市)方面に出荷する勘定が遅れるとして、相場を立てる立合会所の 設置を村役人から内々に承諾を得ている。そしてこの時の引請世話人が 6 人いることから、 この地域には多くの仲買人がいたと推定している(51)。  名古屋と下伊那との晒紙や立石柿の流通構造の検討は今後の課題としたいが、塩屋は、 高須藩領や飯田藩領の元結下地紙の産地を中心にして、大手の紙仲買商など多くの荷主か ら名古屋元結の原紙を入荷していた。また正月の縁起物や漁船の豊漁や海難除けにも使わ れた立石柿を、下伊那の産地村々から仲買商などを通じて入荷していたことも推察できる。

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3 出荷地域と中馬街道の牛馬稼ぎ (1)出荷地域と中馬街道  ここで荷主と中馬街道や馬稼ぎとの関係についてみることにする。【史料 5】は、1871 年 (明治 4)9 月に岡田(白木屋)徳右衛門と塩屋孫右衛門が作成した、入荷商品別に三河と東 美濃の出荷地域をまとめた報告書である(52)。   【史料 5】 先達而奉申上候是迄取扱来候品出所別左ニ奉申上候 信州国境 三州閑良瀬・稲橋・足助辺 東美濃串原辺より出候 一 紙 莨 蕨粉 果物 三州津具・新城・足助辺 東美濃岩村・柿野辺より出候 一 白木類 右者信州より中馬共御国江荷物附参候道筋ニ御座候、以上 未九月      岡田徳右衛門(印) 塩屋孫右衛門(印)  これによれば三河と東美濃の出荷地域は中馬街道沿いにあり、その周辺地域の特産物が 出荷されている。飯田から名古屋に向かう中馬街道は、飯田から南下して根羽(長野県下 伊那郡根羽村)を過ぎると、三河ルートと東美濃ルートに分かれる(次頁付図参照 なお 附図には下伊那・三河・美濃・尾張の荷主の所在地を数字の位置で示した。数字は本稿末 尾荷主一覧の町村の番号に対応している)。本稿では混乱を避けるために、三河ルートを 三河中馬街道、東美濃ルートを美濃中馬街道と呼ぶことにするが、前者は稲橋、明川、足 助(以上、愛知県豊田市)などを通り尾張の平針(同県名古屋市)から名古屋城下に至り、 後者は上村(岐阜県恵那市)から明知(同)あるいは岩村(同)を経て水上(同県瑞浪市)、柿 野(同県土岐市)などを通り、尾張の大曽根(愛知県名古屋市)から名古屋城下に至る。こ の他にも小原(愛知県豊田市)から西に向かい今村(同県瀬戸市)で美濃ルートに合流する 小原道など、いくつもの脇道が通っている。  また飯田から三河の新城・吉田(愛知県豊橋市)や岡崎に向かう中馬街道は、前者は根 羽から南下して津具・田口(以上、同県北設楽郡設楽町)を経て豊川沿いに進み、後者は 足助から矢作川支流巴川沿いに南下する。この他にも足助から北上して小渡(愛知県豊田 市)で矢作川を渡り明知・岩村に至る道もある。また中山道から分かれて釜戸(岐阜県瑞 浪市)、土岐(同県土岐市)から内津(愛知県春日井市)を通り大曽根に至る下街道もある。  信州中馬は、1 人で 4、5 頭の牛や馬を追い、荷物を預かる際の荷主への敷金の支払い、 相対駄賃での荷物付通し、通路選択の自由などの慣行をもち、1764 年(明和元)の幕府裁

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許で最終的に公認された。なお、信州問屋によれば、木曽牛(宮越宿(長野県木曽郡木曽町) 外 8 か村)・三州馬(明川村外 14 か村)・濃州馬(水上村外 7 か村)も中馬同様の荷物輸送 を行っていたという(53)。木曽牛は尾張藩領木曽の「尾州岡船」と称した牛稼ぎである。三 州馬は設楽郡の津具村や武節郷馬稼ぎと、加茂郡の明川村などの馬稼ぎがあり、設楽郡の 馬稼ぎと下伊那中馬は、化政天保期(1804 ∼ 1843 年)に付通し荷物をめぐり対立してたび たび訴訟を起こした。このため武節郷馬稼ぎは、1820 年(文政 3)の幕府裁許後から 1842 年(天保 13)11 月まで飯田と名古屋・岡崎の馬稼ぎを差し止められ、中馬に従った加茂郡 馬稼ぎはその間も馬稼ぎを続けた(54) 。塩屋の運上帳はその時期に作成されたものであり、 そのためもあってか武節郷の荷主はほとんど見られない。  美濃中馬街道では、上村方面の馬稼ぎが信濃方面の荷物を明知まで運び、水上方面の牛 稼ぎが名古屋方面からの荷物を柿野まで運び、ここで荷物を積み替えて名古屋と信濃へと 運ばれたとされる(55) 。濃州馬の付通しははっきりしないが、上村は 1870 年(明治 3)4 月 の岩村藩役所宛訴状で「尾州名古屋より信州飯田并ニ松本辺迄諸荷物付届駄賃稼ギ仕」ると 述べ、1877 年(明治 10)の願書では「中馬街道荷物運送之継立場」であり「従前ヨリ信濃馬 ニ属シ」1 人で合計 4 疋を追うと述べている(56)。また後述するように、尾州馬も信州問屋 の近距離の荷主の白木荷物や紙荷物を運んでいる。  【史料5】に記されている稲橋・津具・新城と岩村・柿野は、それぞれ三河と東美濃の 中馬街道の主要な流通拠点であり、また矢作川上流山間部の紙漉地域(加茂郡閑羅瀬と恵 那郡串原)は、小渡を通り足助と明知・岩村を結ぶ道筋にあたっている。そして名古屋・ 飯田・岡崎や小渡・明知・岩村にも通じている足助は、多方面との流通拠点として紙・莨・ 蕨粉・果物・白木の出荷地とされている。  塩屋の荷主の所在地を示す付図によれば、矢作川上流地域には所在地が集中し、恵那郡 では中馬街道とその周辺に広がり、三河では中馬街道の拠点に点在している。また下伊那 でも荷主所在地は飯田から根羽までの中馬街道沿いに連なり、秋葉街道や遠州街道沿いに もまとまってある。すでに述べたように矢作川上流と秋葉街道沿いの知久平周辺は紙漉き 地域、向関・栗矢周辺は立石柿の産地である。付図からは、中馬街道沿いの荷主に各地の 特産物が集荷されて、中馬・三州馬・濃州馬などによって荷物が運ばれる様子がうかがえる。 (2)牛馬稼ぎと荷継問屋  塩屋は毎年正月と 7 月に店卸を行う際に、「荷割方」の者が敷金などの貸し借りを集計し て差引金額を計上している。詳細は今後検討しなければならないが、「荷割方」の名称から みて牛馬士に戻り荷物を割り付ける役割ではないかと考えられる。菅井家資料には、この 「荷割方」が作成した敷金などの貸借を記した覚書があり、年代がわかる 1854 年(安政元) 正月と翌年 7 月の覚書から、牛馬稼ぎと思われる者の所在地をまとめたものが【表 8】であ る(57)。これによれば、牛馬士の所在地は中馬街道沿いの牛馬稼ぎ村であり、塩屋の荷主 所在地とも重なっている。また牛馬士やその所在地は下伊那が多いものの加茂・恵那・土 岐郡にも存在しており、牛馬士の数からは、下伊那では浪合村(長野県下伊那郡阿智村)、

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加茂郡では明川村、恵那郡では水上 村が、有力な牛馬稼ぎ村であること がうかがえる。年代不明の覚書には この他の村もみられるが、この傾向 に大きなかわりはない。木曽牛につ いては確かめられないが、信州問屋 の荷物輸送のおもな担い手が、中馬 街道沿いの信州中馬・三州馬・濃州 馬であったことは確認することがで きる。  塩屋の荷主の家業・生業や村内に おける階層・役職などについては、 少数の者しか確認できていない。そ のため判明した部分だけの検討にな り不十分なものになるが、荷主の中 で牛馬稼ぎは 11 人、牛馬稼ぎも営む荷継問屋は 2 人が確認できる(【表 9】)。山内尚巳氏 によれば、下伊那では明和裁許以後に飯田近在の村は中馬稼ぎから離脱するようになり、 駒場宿以南の山間村での中馬専業村化が進行した。浪合村では本百姓が牛ではなく馬を所 持するようになって輸送力を強め、経済力を蓄えて荷問屋となり小百姓から馬子を雇用す る形の稼ぎをするようになった者がいるとされる(58) 。  信州問屋が 1783 年(天明 3)4 月に作成した口上書(控)は、「伊那仲馬之義ハ其所之産物 自身商ひ荷物附参り、御当地にて売払戻り荷物附帰り候義御座候」と記している(59)。【表 9】 の立石柿の荷主である大野村(駒沢村枝郷)の文五郎は、1823 年(文政 6)12 月に同村の 2 【表 9】牛馬稼ぎ(荷継問屋を含む)の荷主 山内尚巳「伊那街道山間村における中馬稼ぎの展開−伊那郡浪合村を中心に−」(『信濃』第 32 巻第 7 号) 「覚」菅井家資料(複製本)、『津具村誌』資料編Ⅰ 、『根羽村誌』下巻、『中馬制の記録』より作成 【表 8】安政期(1854 ∼ 1859 年)の塩屋の敷金等貸付先牛馬    士の所在地(単位:人) 「覚」(菅井家資料(複製本))より作成 郡 村 1854 年(安政元)正月 1855 年(安政 2)7月 下伊那 浪合 6 10 根羽 1 1 竹佐 1 1 山本 1 大瀬木 1 平沢 1 加茂郡 明川 5 10 大坪 1 1 (中根) 1 恵那郡 水上 8 3 手向 1 土岐郡 坂下 1 1 牛馬稼ぎ 荷継問屋(牛馬稼ぎ) 村 名前 入荷回数 入荷商品 村 名前 入荷回数 入荷商品 浪合 平兵衛 2 白木・立石柿 根羽 喜代三郎 3 白木 浪合 平右衛門 1 立石柿 荷問屋・名主・中牛馬仲間 大野 文五郎 1 立石柿 上津具町 九郎八 白木・椎茸 大瀬木 金太郎 7 紙・立石柿・実胡桃・勝栗 荷問屋・名主・上津具中馬惣代・馬稼本株所持 水上 仲右衛門 8 白木 水上 要右衛門 7 白木・柿 水上 文蔵 2 白木・蒟蒻 水上 十右衛門(重右衛門) 4 白木 水上 升吉(増吉) 6 白木 坂下 源太 3 白木 明川 平蔵 1 白木

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人の馬士とともに串柿の馬附け荷物をつけて、東上(愛知県豊川市)分一番所を無断で通 り抜けた。このために荷物・馬共に差し押さえられて同番所に誤証文を提出している(60)。 この時は新城の問屋などが分一番所に内済を依頼していることから、串柿の送り先は新城 方面であると思われるが、中馬街道沿いの牛馬士が地域の特産物を仲買して各地に運ぶこ とは多かったと思われる。『中馬制の記録』には、明治 10 年代(1877 ∼ 1886 年)に久米(長 野県飯田市)で串柿 100 重を 10 円で仕入れて、中津川で 18 円で売り捌いたという中馬稼 ぎの談話が記録されている(61)。なお 5 人の牛稼ぎの荷主がいる水上村は、前述のように 美濃中馬街道の主要な牛稼ぎ村であり、運上帳でも 18 人の荷主がいる。水上村は美濃中 馬街道の物資流通を考える上で重要な位置にあると思われる。 牛馬稼ぎも行う荷継問屋は、根羽村の喜代三郎と上津具町村の九郎八が確認できる。こ のうち九郎八は、1853 年(嘉永 6)9 月の塩屋の報告書にある、舟運を利用する白木類の荷 主のひとりである。また塩屋の運上覚によれば、1852 年(嘉永 5)8 月に九郎八から椎茸 4 箇(売代金 23 両 3 分銀 3 匁)の入荷もあった(62)。信州問屋は、この時期の椎茸荷物の増加 を次のように述べている【史料 6】(63)。   【史料 6】       乍恐御達奉申上候御事 仲満四軒    連名印 私共株附干物果物之内椎茸之義是迄多分ニ者取扱不申候付、先達而上納仕置候御運上銀 見積之内ニ者相省ケ居申候処、此節ニ至り山方荷主共 椎茸多分送り越度旨申聞候、付 而ハ右荷物御運上銀之儀ハ別段上納仕度、依之御達奉申上候、以上   嘉永五年     子三月  これによれば、近年になって山方荷主から椎茸を大量に出荷したいという希望が信州問 屋に伝えられるようになったという。上津具町村のある設楽郡では、幕末頃には在地有力 者が下請けを使う大規模な椎茸栽培が行われている。信州問屋に入荷する椎茸荷物の増加 は、このような山間地域の椎茸生産の拡大を反映しているように思われる。また設楽郡内 では枌職人によって枌板(屋根板材)の生産が盛んであった(64)。九郎八は、名主を務め荷 継問屋を営んでいることから、設楽郡で栽培されている椎茸や枌板などの白木類を集荷す る仲買を行っていたと考えられる。信州問屋の荷主のなかには、九郎八のような在地の有 力者で山間地域の産物を集荷する山方荷主が各地にいたことが予想できる。 美濃中馬街道の流通拠点である上村でも、荷継問屋や在地有力者が塩屋の荷主になって いる。【史料 7】は、上村の荷継問屋の吉田屋庄次から塩屋に差し出した、飯田行き綿荷物 の行き先違いに関するものであり、美濃中馬街道の荷物輸送の状況がうかがえる史料であ る(65)。

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  【史料 7】          一札之事 一当二月名古屋綿源様方ニ而御世話ニ罷成居候佐吉事、出生者居村隣家之者ニ有之候、同 月私方江参り同人申候ニ者、無印之綿弐駄、名古屋塩屋孫右衛門殿方 飯田表江送り 出し申候引合ニ御座候、尤茂此荷物者私荷物ニ御座候、今般飯田辺江商致し候積りニ御 座候、先方江引合候迄差送り候義見合、此方ニ荷物留置候様ニ申候、其後坂下源太郎 牛荷物附込申候処、無程飯田表 同人罷帰り申候ニ者、清水屋平助殿行荷物商至出 来不申候間、此分近江屋虎之助殿方江売込申候間、荷物送り替ニ致し呉候由ニ申候、 併シ送り状ニ者壱駄者近江屋虎之助殿行、又壱駄者清水屋平助殿行と認メ有之候得共、 荷物無印ニ而参り候事故佐吉荷物と相心得送り状切替、近江屋虎之助行ニ相成申候、 右荷物間違ニ付、今般貴家様御店久蔵様御出被成下荷物御調被下候処、佐吉申候と 者存外之相違ニ相成、下拙茂甚タ当惑仕候、右ニ付隣家佐吉家内之者江掛合申、右荷 物壱駄当月中ニ清水屋平助殿江着可仕候、若荷物吟味致早速出不申候ハヽ代金ニ而急 度御返済可仕候間、当月末迄之処日延御願申上候、早速御承知被下難有奉存候、日 延書附為念差入申候、仍而如件       安政弐年乙卯五月      美濃恵那郡上村    庄次(印)      名古屋鍛冶屋町      引受 清兵衛(印)       塩屋孫右衛門殿  上村の荷継問屋庄次が、名古屋綿源の奉公人佐吉の指示に従って、名古屋から飯田の近 江屋と清水屋に送る塩屋取次の綿荷物 2 駄を、送り状の宛先を変更して 2 駄とも近江屋に 送った。ところが行き先違いであるとして塩屋の手代が調査に入り、月末までに現物か代 金で清水屋に弁済することを約束したという内容である。信州問屋の取次荷物が、美濃中 馬街道の中継場である柿野村の枝郷坂下村(岐阜県土岐市)の牛稼ぎによって上村まで運 ばれ、上村を経て飯田に送られていることが確認できる。さらに佐吉の行動からは、名古 屋と飯田間の頻繁な商取引の様子もうかがえる。  吉田屋庄次は、岩村藩への献金額からみて上村の有力者のひとりと考えられる(66) 。庄 次を含めて上村には 5 人の白木の荷主がいるが、そのひとり五島鹿之右衛門は、村内最大 の地主で酒造業も営み、幕末期には村役人も務めている(67)。鹿之右衛門と同格の大地主 で酒造業者である田中家の宝暦∼寛政期(1751 ∼ 1800 年)の大福帳には、白木(3 両から 6 両)の記載が続いているとされ、同家は 2 疋から 4 疋の馬を所有して、名古屋あたりま で商圏を拡大したと推定されている(68)。また下手向村(岐阜県恵那市)の西尾数右衛門(塩 屋の白木荷主)は、天保年間(1830 ∼ 1843 年)に組頭を務めて窮民救済の穀物を提供した 「有徳之輩」だが、村内の持林から立木を伐採して売却している(69)。田中家は運上帳の荷 主ではないが、吉田屋・五島家・田中家・西尾家のような美濃中馬街道筋の在地有力者た ちが、仲買した山荷物や自ら生産した白木を信州問屋などに出荷していたと考えることが

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できる。 4 白木荷物の荷主と牛馬稼ぎ (1)白木の仕入先と荷主  運上帳の白木荷主の所在地をまとめた【表 10】によれば、信三東濃ともに中馬街道沿い の村が多いことが確認できる。下伊那は北から飯田・佐竹村技郷箱川(長野県飯田市)・浪 合・平谷(同県下伊那郡平谷村)・根羽村、設楽・加茂両郡は東から野入(愛知県豊田市)・ 稲橋・明川・足助村、恵那・土岐両郡は東から上・明知・吉良見(岐阜県恵那市)・水上・ 大川(同県瑞浪市)・細野(同県土岐市)・柿野・坂下村が中馬街道沿いにある。その他の村 も、下街道沿いの土岐郡釜戸村以外は中馬街道の脇道沿いにある。なお三河加茂郡の矢作 川上流地域(月畑・牛地・閑羅瀬・小原・小・三ツ久保・平畑(以上、愛知県豊田市))に も白木荷主が多いことに注意したい。  東美濃の白木のおもな出荷地とされる岩村の史料は少ないが、【史料 8】は岩村から塩屋 に会敷が送られたことを示す史料である(70)。   【史料 8】         借用申金子之事 一、金拾五両也 右者今般会敷差送り候付而者、書面之金子借用申候処実正也、但来ル十月 十二月迄無 相違差送り可申候、且又直段之義ハ其時之相場御引合仕候、尤過不足等之儀ハ板類茂 差送り候間、右ニ而御勘定合可仕候、為後日仍而如件 【表 10】白木荷主の所在地と入荷回数 「御運上差上帳」(菅井家資料(複製本))より作成 郡 町村 荷主 入荷回数 郡 町村 荷主 入荷回数 郡 町村 荷主 入荷回数 下伊那 小野川 2 10 加茂 明川 3 6 恵那 水上 18 67 飯田 1 9 足助 3 4 上 5 14 平谷 4 6 岩神 1 2 下手向 3 6 根羽 1 3 月畑 1 2 吉良見 1 6 浪合 2 2 牛地 1 1 久保原 3 5 箱川 1 1 閑羅瀬 1 1 大円寺 1 5 親田 1 1 小原 1 1 大川 3 5 上野原 1 1 小 1 1 明知 2 2 合計 13 33 三ツ久保 1 1 峯山 1 2 平畑 1 1 門野 1 1 合計 14 20 合計 38 113 設楽 稲橋 1 1 土岐 細野 3 3 野入 1 1 坂下 1 3 合計 2 2 柿野 1 1 釜戸 1 1 合計 6 8

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癸亥九月       美濃岩村本人     現金屋伊兵衛(印) 證人         西村屋久兵衛(印)   塩屋孫右衛門殿  岩村町の現金屋伊兵衛が、1863 年(文久 3 癸亥)に塩屋から注文された会敷(薄板)の前 渡金を受け取った際に出した証文である。入荷時点の相場で決済し、代金の過不足分は板 類で相殺するとしている。会敷は岩村や上村の特産品であったらしい。近代の調査だが 1914 年(大正 3)に岐阜県山林会が調査編纂した『岐阜縣林産物一班』は、上村の経木(会敷) を挙げて、原木は上村や下伊那から入手し、岩村と名古屋を販路として年間 400 ∼ 500 駄 を出荷するとしているからである。また岩村町でも製造していたが当時は中止していると 記している(71)。前述したように、1877 年(明治 10)の塩屋の白木商品のなかでは、薄板は 売上高の 2 割を占める主要商品である。  『林産物一班』に挙げられている恵那郡の産物には、加子母村(岐阜県中津川市)の曲輪・ 挽物、中津町(同)の木紙、付知町(同)の笠、岩村町の屋根板、明智及び遠山村(同県恵那市) の柄杓、恵那郡の下駄などの木製品がある(72)。塩屋がこれと同じ白木商品を入荷してい たとは限らないが、菅井家資料では、明知村の万惣から塩屋孫右衛門に下駄 4 箇が送られ ている(73)。運上帳では 3 人の白木荷主がいる久保原村(同県恵那市)には、1832 年(天保3) に枌師がいたとされている(74) 。また水上村と大川村の者が、1869 年(明治 2)の加茂郡の 大ケ蔵連(愛知県豊田市)御林の立木払下げに際して、棚四分板・棚松姫子板子などの原 材料として、29 両分の立木の払い下げを受けている(75)。恵那郡の山間地域でも設楽郡同 様に各地で白木類の生産が行われており、山方荷主がこれを集荷してその一部は信州問屋 に出荷されていたのである。  なお会敷の取引先の現金屋伊兵衛は、伊兵衛の使用印などから岩村町の問屋職を務める 松田伊兵衛であると推定できる(76)。塩屋が岩村城下の有力商人とも取引をしていたこと を知ることができる。  塩屋の運上帳では少ないが、設楽郡から信州問屋への商品の出荷量も前述の 1871 年(明 治 4)の報告書からみて少なくはなかったと推察される。豊川上流乗本村(愛知県新城市) の河岸問屋菅沼家の商売取引先覚書には、信州柿問屋として信州問屋の白木屋甚右衛門の 名が記されている(77)。上津具町村の九郎八が塩屋への白木輸送に舟運を利用しているよ うに、新城・吉田からの舟運の利用も多かったと思われる。 (2)板類の荷主と牛馬稼ぎ  塩屋に挽板などを出荷する荷主は、大手材木業者から在地の山方荷主まで広い範囲に及 んでいる。板類の取引に関する史料からその内容をまとめたものが【表 11】と【表 12】であ る。【表 11】は信濃・美濃両国の荷主であり、【表 12】はおもに三河国加茂郡の荷主である。

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 【表 11】にある神林村の野口庄三郎は、1844 年(弘化元)の江戸城本丸再建材請負に成功 したのち、全国各地で材木仕出し事業を展開した江戸の大手材木業者として知られている。 上神林村で白木稼ぎから身を起こし、1836 年(天保 7)に江戸で材木仲買商を開業し、そ の後は深川木場材木問屋となり、1861 年(文久元)に名古屋に支店を出している(78)。運上 帳では庄三郎から毎年(合計 10 回)白木の入荷が続いているが、【史料 9】【史料 10】は、塩 屋と野口庄三郎の白木取引に関する史料である(79) 。   【史料 9】         乍恐奉願上候御事 一、桧五分挽板         弐拾六間 一、同四分挽板         四間    牛附       六駄 右者当村八幡宮社内ニ而先般御願済之木品、御間尺等御見分之上御定之御役銀上納仕候 間、今般野口庄三郎殿江売渡シ、右同人 下海道筋名古屋鍛治屋町二丁目塩屋孫右衛 門方江牛附ニ而差送り売払申度奉存候間、右通行筋差支無之様御免被仰付被下置候様 奉願上候、以上 申十二月      千旦林村白木取扱  茄子川       長右衛門(印) 御番所      信州松本      大井       野口庄三郎   御番所       代        甚之丞       【史料 10】    (表書)「 塩屋孫右衛門様   万兵衛        御店中様     」 冷気之節弥御安栄奉賀申上候、然者七月廿五日当所様出し豆レ納板廿弐箇・三六六箇、 【表 11】塩屋の信濃・美濃の白木荷物の取引相手 菅井家資料(複製本)より作成 取引相手 所在地 年月日 内容 野口庄三郎 信濃国筑摩郡神林村 申12月 千旦林村白木取扱より桧四分・五分挽板6駄を塩屋に駄送 9月23日 万兵衛より塩屋へ野口荷物の納豆板24箇の一宮油屋平助への送付と三六板8箇の預り依頼 勘左衛門 信濃国伊那郡清内路村 未9月15日 椹三五板15駄の内金15両借用 扇屋太十郎 美濃国武儀郡上有知村 午10月22日 杉枇板・小柾板木類引当に8両2分と敷駄賃借用 木屋忠兵衛 美濃国恵那郡竹折村 未6月22日 板代先金5両借用 十八屋半兵衛 美濃国恵那郡中津川村 午9月5日 唐桧納豆小白木54箇につき塩屋への附払い済み 新屋与七 名古屋七軒町 安政2年11月 岩村山仕出し板の内に10両借用 伊藤主水 不明 午3月 小白木仕出し入用7両前借り、只今出来の柾六分・姫子四分150束差送り

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水上村仲右衛門牛ニ而差送り申候野口荷物、此節一ノ宮在油屋平助、納豆板廿弐箇御 渡し被下度御引合申上候、且又納豆弐箇・三六弐箇両方ニ而壱駄、近日差送り可申候 間、着荷之上、納豆板ハ同人江御渡可被下候、都合廿四箇油平渡、八箇御預り可被下候、 先ハ右之段御引合申度、早々以上    九月廿三日  【史料 9】は、野口庄三郎が千旦林村で買い付けて塩屋孫右衛門に売り払った桧板六駄を、 名古屋まで牛附けで輸送する許可を願い出たものである。千旦林村(岐阜県中津川市)は 中山道沿いにあり、おそらく牛稼ぎは茄子川村(同)と大井宿(同県恵那市)を過ぎて左に 折れ、下街道を通り名古屋に向かったものと思われる。なお茄子川番所は尾張藩の白木改 め番所、大井番所は同藩の川並番所であり、尾張藩が街道の抜荷取締りと木曽川の流木管 理のために設置したものである。   【史料 10】は、万兵衛から塩屋に対して、野口庄三郎の駄送済みの納豆板 22 箇と、近日 到着する 2 箇を一宮(愛知県一宮市)の油屋平助に送ること、また三六板は近日到着する 分を含めて預かるように依頼した書状である。万兵衛は、封印の印字から中津川宿本町(岐 阜県中津川市)の者であることが確認できる。塩屋を通して野口から送られた恵那郡の白 木が尾張各地に運ばれていることを知ることができる。また水上村の牛稼ぎ仲右衛門が板 を駄送していることから、その活動範囲が中津川を含む下海道筋に及んでいることも知る ことができる。  塩屋との直接の取引を示すものではないが、日吉郷宿村(岐阜県瑞浪市)の村役人と実 相院から野口庄三郎と手代に宛てた、桧山(36 本)売渡し内金請取覚(1853 年(嘉永 6)12 月) や、上村の荷継問屋吉田屋庄次から大舟山職人中と塩屋孫右衛門に宛てた、杉の板子・桶 子 22 駄の預り覚(未年 2 月 18 日)も残されている(80)。日吉郷宿村は下街道と中山道の間 を通る中街道沿いにある。また大船山は上村の隣村横道村(岐阜県恵那市)にあり、22 駄 の荷物は吉田屋と岩村の問屋に預けられている。運上帳や右の証文類からみても、野口庄 三郎は恵那郡各地でたびたび白木の買付けや仕出しを行い、名古屋の塩屋に駄送していた と考えられる(81)。なお庄三郎から入荷する白木は、寺社地の立木から製材したものや桧 材が多いことから上質な高級品であると考えられる。  【表 11】の荷主のなかには、野口庄三郎のほかにも各地の有力商人を確認することがで きる。中津川村の十八屋半兵衛は同村の有力商人であり、1859 年(安政 6)の中津川商人 による横浜生糸貿易に参加している(82)。また名古屋七軒町の新屋与七は、1836 年(天保 7) の黄柳村(愛知県新城市)御林の御油宿(同豊川市)橋代木の請負人であり、名古屋の建築 用材小売業者とされている(83)。なお、野口以外の信濃・美濃の白木の入荷は、塩屋が荷 主に前渡金を渡して買い付けていることも確認できる。  これに対して【表 12】の荷主は、大曽根の荷継問屋である藤屋伝兵衛に入荷した白木の 荷主である。幕末期と思われる戌年春に、信州問屋に送るべき白木を善兵衛が「直落し」(横 取り)することが問題化した(84)。この表は、その際に善兵衛が作成した入荷覚書と、信州

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