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重商主義と近世國家の成立 : 歴史派的重商主義観の批判(開學記念)

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重商主義ご近世國家の成立

歴更派的重商主義観の批勃

      ↓          、  重商主義とは、近世の西ヨーロッパにおける本源的資本蓄積期一生産方法からいえば所謂本來的マニユアクチユア時 代一の維濟政策体系であり、これを基礎づける思想体系であった。本源的資本蓄積期は、いうまでもなく、経濟的には 近世資本主義の・政治的には近世護憲の成立期にほかならない。したがって重商主義は、靴會的には、近世資本主義の成 立期に支配的であった商業資本iくわしくいえばマニユフアクチユア的産業資本を生産的基礎とした商業資本1の政 策であり、これを基礎づける思想体系であったが、それを途冷した政策主体の側から見れば歴史學派風に西ヨーロッパの 近世國家が成立するためにとられた経濟政策体系であり、これを基礎づける思想体系であっ九ともいえる。以下、私は、 このような歴史學派風の規定を手がかりとして、西ヨーロッパにおける近世資本主義焚芽の政治的表現であると同時に、 その生成の前提であった・近世國家と重商主義との關係を老察してみたいと思う。  ドイツ歴史笹書の重商主義観は、リスト︵喝・=ωrU霧葛臨。冨冨QD︽。・笛ヨ自霞噂呂器9gO①ぎ質。邑⑦弘Q。霞●︶を先駆 者とし、奮歴史學派をへて、ヘルト︵♪.頃①昇O鷺①団ωQ◎o風舘鼠ωωo口ωo冨津q民夕霧︼≦Φ碁四茸一房ヨ属q。uμQ。①①,︶・ビーダ    雷 商主義と近世丁字の成立      一七       一 ﹂

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㌧    重商主義と近世國家の成立      一入 ーマン︵︸︷。一・ 口d凶血O﹃コロ帥踵P暫︻同σ①﹁ 畠①5 竃O﹁一︵国昌回帰昌ωヨニの一一Qo刈O・︶・ハイキング︵国γ勾・缶。鴇閃凶昌9亀︾N留目Q⑦ωoず凶。ずけ⑦ユ。﹃一四偶昌ー ユ。冨ぴ一望ロN昏ooユρHQ。Q。9︶等によって成形され、新歴史學派の代表者シユモラー︵O・曽ずヨ9冨き∪自尊①島叢誌嵐。摩ヨ薩ω 貯ωo田口Φ居露ωけ。ユωo犀①口切①α①舞ロ短。同”ゴ﹁ぴqoずh自﹃Ωoωo冒頴。σ口日日く①﹃ξ堅田属昌箔ロロ碧く。涛ω霜露什gず9自説貯Uo信け8げ㊦旨 菊。凶。﹃H。。Q。餅︶によっていわば定式化されたが、彼等は、アダム・スミスの重商主義批製以來一とくにイギリスにおいて はi重商主義の政治的側面がほとんど無説されてきたのに謝し、全くその反動として、ひたすら近世國家の成立に封ず る重商主義の黒皮的意義を張冒してやまなかった。しかし政治的側面を維濟的側面から引離して考えるのは、いうまでも なく下書であって、重商主義は國家的側面とならんで同時に市民的・なかんづく商業市民的側面をもつていた。そして第 二の側面から見れば、重商主義は商業資本の政策であり思想であったのであって、アダム・ス、、スの重商主義批判は漆業 資本の商業資本に封ずる闘争という意味をもつていたのである。しかし、ここではこの側面はおいて、歴史學派の重商主 義観のいま一つの難詰に注意を集中したい。というのは、歴史學派が重商主義を近世國家の成立に關連させて理解しよう       ね  も  セ とし紅のは正しかったが、しかし嚴密な意味における重商主義がかかわりをもったのは、歴史學派の老えたごとく軍なる ミ セ も や も      も セ も し む へ も も も も ロ へ ち もれり 民族國家ではなくて、むしろ﹁民族管玉を中核とする植民帝國﹂であったと考えらるべきではないかという顯である。 ︵註1︶拙錆桐﹃トーマス・マンの財幽賀弧柵﹄、経濟論響取.昭和十八年三月、 六・言下貝。 二 、  シユモラーは、蝋八八四年﹃ドイツ叢叢立法・行政・難民即急年報﹄に獲表した﹃フリードリッヒ大王の三三政策に關 する研究﹄の第二節において、﹃重商主義の魅史的意義﹄に論及して蓮べている。﹁重商主義の眞髄は、國家形成︵も089甲 σ圃 ・§ぬ︶⋮−、しかも軍なる國家ではなくて同時に藁家および直叙維濟の形成︵QQ鼓舞ω−口&<o涛ω乱撃ω07舞3ぴ躍α§騎︶、 9

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, 、 すなわち國家的共同杜會へ。。富麟二醐9①O①ヨ①ぎωoげ飴津︶を同時に國民経濟的共同就魯たらしめ、そうすることによって生家 的共同職愈の意味を高めんとする近代的意義における出家形成にほかならない。この主義の本質は輩に貨幣の塘殖だとか 貿易差額に關する与論にあるのでもなければ、關税線や保護關税や航海比例にあるのでもなくて、はろかそれ以上のもの である。すなわち、顧會や就會組織ならびに國家や隣家施設の全体的攣革、地方的にして領域経濟的な純濟政策の國家的 にして國民的な経濟政策への輔換にあるのであるQ﹂と︵上描﹃年報﹄四三−四四頁︶。       も  セ  し  カ       ね  カ  カ  ここで、ます注意されるのは、シユモラーが肛商主義をもつばら近代的な民族三家の形成期における内部的巴瓦政策と       の       ち  あ  し して理解している瓢である。勿論、彼も重商主義の墾外的絆濟政策・なかんづく植民政策的活動の側面を見おとしてしま っているわけではない。すなわち、彼は正しくも、﹁インドやアメリカにおいて世界商業に絶し無限の地.牛線が開かれた、 香料植民地や新しい金銀國の所有は薗獲品にあすかることのできる國家に翻して無限の富を約束した。しかし強力な艦隊 や大會融や國家的組織のみが、あきらかに、それを可能ならしめたのである。﹂といい︵同四一頁︶、たとえばオランダにつ いて蓮べている。 ﹁ますポルトガル人が東洋口開すなわち實石や香料の古くかφの仕入干たるインドへ暴力的に閲苦しし未 聞の獣行をもつてアラビア入の貿易を破壊し、アジアの一切の種・族や國家に自分江ちとだけ貿易すろという法則をおしつ けたごとく、後から行ったオランダ人はポルトガル人を駆逐し、同様の方法によって香判貿易を猫長し、狡計や商才・f しかしまた事情によっては営為な暴行や皆具によって他のすべてのヨーロッパ人を遠ざけ、東洋諸民族の貿易を拘束し た。スペインの醸絆を脱せんとするネーデルラント入の英雄的宗教的な濁立予土は、仔細に観察するならば、東インザに おける・ほとんど百年間にわ仁る植民地侵略載爾であり、おなじく百年間になんなんとする・スペインの銀積載船やスペ インーーアメリヵ貿易に封ずる海賊職筆である。ネーデルラント人は、重商主義の意味における・歴史上もつとも頑強にし て好職的な濁占主義者であっtのである。﹂と︵桐五副一五ご頁︶。

   重商主義と毬世家の威立      一九

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       一       ワ

   窺商轟と猛國家の成立       ・二〇

 いうまでもなく、イギリスやフランスの重商主義政策もまた、ほぼ同様の傾向をもつた。しかし、それにもかかわら        もロ  も      む  カ  へ す、シユモラーは重商主義の本質を、植民帝國の建設にかかわらせることなく、どこまでも軍なる民族國家の形成にかか わらせている。彼の見るところによれば、﹁重商主義の理想﹂はあくまでも﹁健全な國家、と三民維濟の形成︵oぢ。箔Φω蝿ロ血。 ω欝彗ω¢Pα<O涛ω≦葺。。o豊津ωσま信心7Q︶のための、地方的慰霊制度の克服のための精力的な斎言﹂、にあったのである。        め  も   む  も  も ︹同五八頁︶。彼は、重商主義政策の代表者コルベールの施政についても、ほとんどもつばらフランス國民の統一という下 鮎から、これを評塗するにとどめている。植民政策的活動はそれ自体が目的ではなくて、民族國家形成の必要から派生し てき仁にすぎな,いと見るもののごとくである。彼はまたこうも書いている。 ﹁十七・八世紀においては立家相互の關係、 とくに維濟厨女はことのほか敵勝心にして苛烈であった、けだしほかならぬ新しく形成された國民纏濟や嫡家がはじめて阜 その力を試練したからであり、適當に使用されさえするならば各國家に無限の富を約束するように思われた張大な政治的 車力が、商業や交易および農業や工業上の目的のためにはじめて行使されたからである。⋮⋮商業上の競争は準時におい てすでに臓覆面態に堕落し、諸國民をつぎつぎと新しい仁恵にまきこみ、かつ一切の職孚に商業や工業や植民利得への方 向をあたえたのである﹂と︵同五一頁︶。彼の見るところによれば、重商主義時代を特色づける國際闘孚は、植民帝國建設の 欲求と努力によって必然化されたものではなくて、民族國家形成の結果にほかならなかったのである。        ’       三       も  も  も  も  も  も  シユモラーの重商主恩観はさきに一言したごとく歴史學派のそれを定式化したものと見てよく、ビユッヒャーあたりも これを支持して、ほぼ同様の解澤をくだしている。いわく。 ﹁君主心身封主義の完成にみちびいた運動の最奥の根抵には 入類の新しい︸暦大きな文化譲題は杢民族の統︸的組織すなわち生卵ある﹁大利往共同体を要求する・そしてこれは共同

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﹁  経濟を基礎としてはじめて生長しうるという世界史的思想が、伏在していた。國土の各部分・佳民の各集團は、全体のた  めに、文化と素質に銘じて最もよく遂行しうる課題を引受けねばならなかった。このことは有効な機能分割と全住民を包  括する職業組織とを必要とし、後者はさらに十分に獲饗した交通制度と佳客のあいだにおける活磯な財貨の交換とを前提  とした。古代においては︸切の経書的努力は家の自律的な欲望充足という一目標に専念し、中世後期においては都市の給  養に専念し江が、今やすこぶる複雑にして精巧な難民的欲望充足の体系が形成されたのである。この休系の完成は、十六  世紀から十八世紀にいたるまで、一切の進歩したヨーロッパ諸國家の維濟政策の自標であった。この目標の達成のために  適用された諸方策は、その細目にいたるまで、ほとんど全く中世の都市的維濟政策の模倣であった、ただ異るのは今や  ﹃國父﹄が市参事會にかわり、﹃國子﹄の全体に封ずる配慮が大局をを度外堕した経濟政策にかわった鮎である。これらの         セ  も  も  も  諸方策は通常、重商主義の名のもとに抱括される。これ︹重商主義︺は長いあい.π、一碧の富はその國境内に存在する正  賀額にほかならないという原則を頂黙とする理論的學詮と見られてきた。⋮⋮しかし重商主義は死んだ教義ではなくて、       ロ      も し も し も  カール五世よリフリードリツヒ大王にいたる︼切の大政治家の生きた實践であった。それはコルベールの経界政策にその  典型的刻印を見出してき仁。國内輪視や通行鐘の魔止もしくは輕減、続一的な國境關税制度の採用、輸出阻止および自然 、  資源の王有化による必要原料ならびに食料の國内供給の確保,新工業部門の移植、それの國家的保護ならびに技術的取締.  による大工業の助成、人工道路や運河や海港の築造、度量衡制度統一の努力、商法および商業的・通信事務の統制、技術  や立証および科學の猫自の國家的施設による奨働、國家ならびに自治体財政の秩序化、課視における不雫等の除去、一1        も  も  も  し  も  し  た  も  も  これらはすべて外に封して閉鎖された豪家鰹濟を創造せんとする︸目的に役立つたのであって、この國家経済は國民の︸  切の欲望を國民胆心働によって充足することができ、かつ國内における活濃な交易によって國土の一切の自然富源と國民  の一切の個人的諸島とを全体に奉仕せしめるにいたった。人は﹃コルベール主義﹄に特有な外國貿易や海軍や植民制度の     電商.主義と近世國家の成立     、      一一一    ・

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   重商主義と近世國家の成立       ご二     “ 保護助長に賞して、あまりにもしばしば、これらの方策がまた國内富源を補強したことを看過してきたのである。﹂と       セ ︵国P二︼W離OずΦきUδ国葺の盆甥¢旨槻畠Φ﹃<O涛ω≦冒窃。ず9畠津”一uω,Hω①IHωQ◎●︶o  重商主義政策の封外的側面に目をうばわれて國内的側面を看過するのは、あきらかに、あやまりである。しかし、重商 主義がかかわりをもったのは、箪なる﹁移民的統一母家﹂の創造ではなかった。ビユツヒヤーのいうごとく、ドイツとは 異って、 ﹁スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス:不ーデルラントのごとき西ヨー”ツパ諸國家は十六世紀以來、 すでに封外的にも、強力な植民政策を展開して新しく開かれた海外諸領域の富源を利用することにより、統︷的経濟領域 としてあらわれた﹂のであるが︵同一三五⊥二六頁︶、しかしその﹁統一的脛濟領域﹂はけっして軍に﹁國民の一切の欲望を 國民同勢働によって充尽することができ・かつ週内における活濃な交易によって國土の︸切の自然富源と里民の一切の個        サ       カ  も  も  た  も  へ  も  ぬ  も 人的諸力とを全体に奉仕せしめる・外に冒して閉鎖された國家脛濟︵①貯①嵩9。9⇔轟ωωo旨勢σぬ08三〇圏。昌oQり寅餌冨惹昌ωoゴー ㌶侍︶﹂といったものではなかったのである。  も  も  む  カ      も  む  へ  も  も  マックス・ウエーバーあたりになると、重商主義をもつて﹁國家と資本主義的利害との同盟﹂と見ているばかりでなく ︵冨・ 旨くΦσ①同層 ぐく日計けのOず口h梓のぴqΦωOず一〇ゴけ①︾ω・ bo⑩Q◎.︶、﹁重商主義は近世の樺力負家形成︵ヨ。山。ヨ①竃嚢。o穿。。冨讐ωσ繭嵐ロロ7q︶を意       も  も  も 味するとなしているが︵同二九六一九七頁︶、ヨーロッパにおける典型的な近世の重力國家が軍なる民族國家ではなくて、そ れを中核とする植民帝國であり、重商主義はこの植民帝國の形成と不可分であったことを、はっきb認識していたかどう か擬わしいと思う。現に彼は重商主義を主として内から捉えて、 ﹁重商主義政策の前提は、自國におけるできるだけ多く の貨幣獲得資源の閑螢であった。﹂となし、その最初の痕跡を大桜見にさきだつ十四世紀に求めている︵同二九七頁︶。  さらに、彼は重商主義を﹁身分階級的・猫占的重商主義﹂︵①ヨω盛塩9g亨ヨ。コ80密けδo冨﹃竃①鱒造語房ヨ易︶と﹁國 民的重商主義﹂︵”野鼠9巴手薄⑦鍔碧艶一Φ§場︶との二つの型に分けているが、この匿別の規準をかたちづくっているの ρ

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も、全く國内的孟子である。いわく。[身分階級的・蜀占的重商主義はスチュアート王朝およびイギリス國教會とく臆ロ       ジステロム ード僧正︵切一ωずO℃ ド帥賃血︶の政策に典型的形態をとってあらわれている。この体系は、キリスト教的・肚愈的な愛の制度 ︵紆ω魯ユω慈9あoN剛巴。ζoσΦ。。望ω審B︶をふたたび實行ずるために、キリスト教的・耐會的な意味における全人口の身 分階級的編成の創造、すなわち諸身分の固定を意欲した。あら一9る貧者を怠惰者もしくは犯罪者と見た濤敏主義と全然こ となり、それは貧困に棄して親切な態度をとった。實際、スチュアート王朝の重商主義は、主として國庫財政上の意味を 有し、すべての新奇の産業は國王の猫占特許によってのみ楡心することを許され、またつねに煎豆の管理ならびに國庫財 政的諜求の下にのみ存立せしめられることとした。それほど首尾一貫していたわけではないが、フランスにおけるコルベ ールの政策も同様であった。彼は、産業の人爲的な・濁吉によって保護された・奨働を意欲した。⋮⋮重商主義の第二の    へ  あ  も 形態は夏雲的重商主義であって、これは事實上存在する・猫占によって創造されたのではない・國民的産業を体系的に保 護することを目的とするものであった。しとへ同二九八一九 頁︶。  見られるごとく、いつれの場合においても、植民帝國は重商主義の本質的契機とはなされていないのである。その槻勲 からして、なかんづく特徴的なのは、イギリス國教倉の政策をさえ、﹁身分階級的﹂と限定するにせよ、重商主義の範疇を もつて把握していることである。もっともウエーバーも、﹁身分階級的・猫占的重商主義﹂のなかに一括したスチュアート 王朝の猫占主義的・國庫財政的政策においては、植民地が日定の役割をは忙したことを認めている。しかし、その場合で も.、重商主義を植民帝國建設の経濟過程として把握しようとするのではない。いわゆる國民的重商主義になると、それ どころか、あたかもこれは植民地に封ずる關心に売立しながら成立してくるかのごとく読かれている。すなわち彼は、 ﹁軍商主義の猫車主義的・國華車取的政策﹂と國民的重商主義とを、﹁非合理的資本主義と合理的資本主義﹂、いいかえる と﹁國庫財政的ならびに植民地的機會︵h凶ω犀薗嵩ω6ずO旨 ωO小一〇 犀O一コ口凶9Ω一〇口 Oず90”O①コ︶と國家猫占とをめぎす費本主義と、    重商主義と近世自家の成立      二三 、

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   .重商主義と近世三家の成立 ‘4      二四  自動的に内部から・自己の商人谷行爲によって求められる市場倉掛︵三舞葬。び亜目oo口︶をめざす資本主義﹂とに諭旨させ  ているのである︵同六九頁︶。      一        .一

・      四

       ︵       む  も  セ  も   おもうに、ヨーロッパにおけσる典型的な近世國家は密なる民族並家ではなくて、それを中核とする植民帝國であり、重        も  も  セ  も  へ  む      も  し  も  も  も  も  も  商生玉はこの植民帝國の創造主であったのである。そして、そこに嚴密な憲味の重商主義が、ドイツのカメラリスムス        リ  ︵一︵国ヨ①﹃掌虚自ωヨ仁の︶などと匿別さるべき理由があると考えられる・重商主義をひろく解し、その本質は書家的経濟統一に .あると考えるならば、ヵメラリスムスなども重商主義に包揖されるであらう。そして、重商主義とは、ヨーロッパ諸國は         、  いうまでもなく、ヨーロッパ外の聖心においても、資本主義の成立期には程度の差こそあれ必牽おこなわれる経濟政策お  よびそれに關蒸する維濟思想ということになるであろう。勿論、このように包括的な重商主義の概念を作り上げることが        ね  も  可能でないなどと、私はいうつもりはない。しかし、このような普遍的な歴史的事實に關する概念としては、血塊主義と        ’        、、   σ  いうよりは、むしろたとえば統一主義とでもいうやうな概念の方がふさわしいであろう・と同時に、このように普逓的な        カ  む  セ  も  も  セ   し  も  た  も  も  ね  概念をもつてしては、いわば歴史的個体としての・いわゆる重商主義の理解ば不十分たるをまぬがれないであろう、とい  うことに注意しなければならない。西敵とくにイギリスやフランスにおける重商主義の本質は、直なる経濟統一ないし統       の 制にあったのではない・そこでは、重商主義がかかわりをもったのは、寒雲生活の軍なる民族國家的統唱ではなくて、そ         も  も  セ  ね  も  カ  も  セ  も  も  セ  カ  ね  し  も  も  も  ち  も  れを中核として商業資本を題詠ないし紐帯とする植民帝國を建設することであった。無論、民族國家の形成は、植民帝國  建設の前提ではあった。しかし、重商主義が問題となる西歌の近世富家は重なる民族國家ではなくて、それを中核とする  植民帝國であった。したがって、そこでは、民族画家の形威は重商主義の實践的目的の一部にすぎなかったといってよ

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’       ‘ い。ス、、、スの述べているごと∼、風害主義者が富の本質を貨幣と合え、その源泉を外國貿易と見て、これによって金銀を 獲得しようと努力したのも、軍なる民族國家建設の要求からではなくて、植民帝國建設の要求からであった。けだし、西 隊における近世墨家が軍なる民族國家ではなくて、それを中核とする植民帝國であったがゆえに、そこでは心際闘争は哺 麿激烈たらざるをえす、いわば一種の國防國家形成の必要がそれを積粁とする本源的蓄積のための金銀の熱狂的追求に拍 車することとなったのである。        も  ね  し  これらの鮎は、重商主義を極手ラリスムスと同一視し、カメラリスムスから重商主義の本質を引き出そうとし江ドイツ        防 のシユモラーなどの十分に理解しえなかったところである。重商主義はドイツと異り、輩なる民族皇家ではなくて、それ       ハ を中核とする植民帝國をめざした西欧虚血の近代的形成のための政策体系であり思想体系であったのである。そして、こ       も  も  も  へ  も  カ  も のような嚴密な意味における重商主義の帝國主義的側面をいわば極小にしたものが、rイツのカメラリスムスにほかなら なかった。事實、カメラリスムスをもつて特徴づけられるドイツの経濟政策ならびに経濟思想も、植民的磯豆を志向する 云々主義的側面を全然献如していたわけではなかった。たとえば、ドイツにおける重商主義政策の代表者とされるフリー ドリッヒ大王のごときも、植民的磯豆の意欲を全然敏いていたわけではなかったσいな、その意欲には、かなり旺盛なも のがありさえした。しかしながら、ドイツの政治的・経濟的磯展がおくれていたために、わすかの植民地も西面諸國に掠 奪されて、その意欲を實現することができなかったのである。以後、ドイツの努力は、ビスマルク時代のおわるまで、も つばら︵ヨーロッパ︶大陸政策に局限される。そして、ドイツが西欧なみの植民帝國たらんと努力しはじめたのは、周知 のごとく、やっと十九世紀末からであったのである。  要するに、ヨーロッパの近代國家の特徴は軍なる民族國家ではなくて、民族精選を建設した後のドイツもやがてめざさ ざるをえなかったような西敏流の植民帝國にあっ・たと見なければならない。しかも、その際、銘記さるべきは、西欧の植    重商主義と近世國家の成立       二五

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   重商主義と近世並家の成立       二六       も  セ  も 民謡國が民族國家建設の結果であったというよりは、むしろ民族國家の建設過程が同時に植民帝國の建設過程であった、 ということである。かくして私は、重商主義が近代國家の成立過程における経濟政策ないし思想であるといわれる場合、 いうところの近代國家は軍なる民族國家ではなくて、民族燈影を中核とする植民帝國であったと解さるべきであり、した        も  も  も  も  も がって重商主義政策は民族主義的経濟政策体系ではなくて、帝國主義的経濟政策体系であったと解さるべきである、と考  ㊦ える。近世初期の−iマニユフアクチユア的産業資本を基礎とし江・特権的猫占的な一⋮商業資本を支柱とした底意主義 それが重商主義の正体であったのである。      カ  も  も  し  も  ︵註1︶ ヘクシヤーもいっている。﹁ロ慶。ξα曇霞︵あるいは訟。︸肖α隻霞︶および彼の直接の先行者たる⇔σ露7霞と国∼ぞ”上げへ自霞岳αqぎ 寓。量①卑︶とのこ人を例外として、ドイツのカメラリストたちは、爆撃家的国画生活の現實を問題とし・かづまたときおり診こなわれた ごとくそれとならんで一暦ふかい三里の解明に手をつける場合にはム日量心をこの望事に向けた西ヨー・ツ。ハの著述家たちとは、全く異っ た精紳にとらわれていた。それゆえ、これら二三の著述家たちを同一の範躊にはあこもうとするならば、現計を彊制することとなる。加 うるに、カメラリスムスは、一般ヨーロッパ思想史の難点から見れば、一度潜えうせ、あるいは精々のところ地方にもぐり、後にいたつ ではじめて、すなわち十九早縄のおわりごろ自由主義に署する反動を機曾として、ふたたび表面にあらわれてきたのである。自由室嚢以 前の叢展にとってはカメラリストたちはなんら大きな意義をもたなかった、糎濟思想の適業に正するその意義はおそらくなお一思小さか った。﹂と︵邑・国①。冨。げ①胃L︶㊦同寓。井9葺♂實5史・H.ロ。。碧9︶。      し セ も も  ︵註2︶ オンケンは童言呉音を﹁君主的輻利警察の謹系﹂︵コ陰器8琶︵ざ旧悪寒空︷二邑8蓄昌≦.〇三。。梓9︹言。甥鵠且︶と現介しているが︵﹀・ ○暑弄。どQ$o謡。犀。焦魯宕二塁。ロ旦α犀80冨凶孕㏄﹂ムNhh・︶、この規定は全くドイツ風であって、﹁ドイツ軍商主義女監の特殊形熊としてのカ  メラルウイセンシヤフト︵内騨ヨ霞島乱。。。・Φ塁。ず無げ”ヨぞ。臥︷嵐。サ①閃O旨 島。琵琶①鼻騎暮一身。・けジ。﹃㊦昌5嵩①蜀官含b230ず冨三帰︶﹂︵同ニニ七頁︶ から引き出された軍器主義の規定であることは明瞭である。本文に⋮遮べたごとく、カメラリスムスを重商主治の特殊ドイツ的形態と解す       も も  るのは、かならずしも誤りとはいえない。しかし、特殊ドイツ的形態としてのカメラリスムスから重商主嚢一般の本質的規定を導き出そ 匂

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「 うとする場合には、国大な欠隆を暴露せざるをえない。重商主養の本質的規定を極小にしたものが、カメラリスムスにほかならないとい うところがあったからである。このことを理解しなかったオンヶンが、西鰍諸國の重商抽象を問題にするにおよんで示している錯倒は、     ワ 實に特徴的である。いわく。 ﹁電商主義潮流がフランスにおいてはマニユ7アクチ昌アに、スペインとポルトガルにおい丁、は植民地貿易 に、ネーデルラントにおいては呉羅と中縫貿易に頂点したとすれば、イギリスにおいてはこの蓮動は農業をもその圏内にひきいれること       へ  も  も  も  む  も によってさらに一渉前進した。すなわち農業重商宅義︵卜﹂q樫舘冒‘・ .冨コ葺凶訟⋮μの︶なるものもあるのである。﹂と︵同一九七頁︶。なかんず く、﹁農業重商宅嚢﹂!この奇妙というよりは不細工な用語に注意されたい。iついでながら、竹内謙二氏︵﹃軍商政策叢蓮史﹄・昭和七        も  し  も 年、九七・一〇一頁︶もフランスについて﹁農業的マーカンチリスト﹂という表現を適用している。1ヘネーあたりも、カメラリスム スをもつてドイツ電商主義としているが︵ピ・寓σ口解芦。ざ瓢一二O円轡。︷邑Oo50ぎげ目70算Jq7f一ゆNU讐弔。一ωひ瞭・︶bさすがアメリカ人だけあ ってオンケン的錯倒だけはまぬがれている。        ダ       も た し も も も  ︵註3︶ シユモラ﹁とならんで新歴史學派を代表するブレンターノは、ある個所で、イギリスの﹁重商主義時代における絶封主義政府﹂ の﹁帝國主嚢﹂という交字を使用しているが︵ごヒQ同。再遷9崖 茄Oo。・〇三︹⋮︼み①年尾宅冒ヨ。ゴε。h什ご島2嘗昏三〇露⊆轟邑員ぴq宣a3ヒ⇔畠・い 砕一一辞NOひ・︶、重商主義の幽界を植民帝國との關係において愚妻主義とげて把握するというような立場からは、はるかに遠いところに立       ︵ つている。現に彼は、 ﹁十八世紀とともに、櫃民地がイギリスの経濟政策およびそれとともに覇外政策を支配するような役割を演じはじ める時代が、はじまる。⋮⋮それ︹植民地︺は唖イギリスの経濟的稜展の蟹行に謝し+六・七匿紀においてはまだな6らの影響をももたな かった、﹂といっている︵塩鱒〇〇頁︶。このような麿史解羅は、さしあたっては、彼の植民堪概念の里言に由來する。たとえば、彼はイ ンドがイギリスの植民地であるかどうかと問題として、書いてい協。﹁以前はインドもイギリスの植民地にかぞえられた、ドイツでは今 日︹一九二七年︺でもなおイギリスの植民地について語る場合、インドをもふくめるのが普通である。問題は結局、植民地とは何であるか に飾齎する。その際、自己とその子孫のために亙る他國に霊草的にとどまらんとする意圖をもつ雨風者の定住を考えるならば、インドは けっしてイギリス人の植民地ではなかった。インドへ行ったイギリス人は、該地における滞在をつねに隔ただ一時的であって、そこで一            軍商主義と近世國家の成立       −     ご七

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   重商主義志近世國家の成立      二八      響        財産をこしらえた後ふたたび故國へ蹄ってゆくためだと考えてき忙。インド人がイギリス人のごとぐ考え感ずるように彼等を同化するこ とに、イギリス人が成功るすにいたった後にはじめて、インドはイギリス入の植民地と考えてよいことになるであろうコそれまでは、イ ンドはブリテン人によって支配される帝國である。﹂と︵同三三七頁︶。纏濟更家ブレンタマノの非経連蕃土張辮は、問題にするだけの慣       し も ね 値をもつまい。ただ私は、資本制植民地に噛するこのような無理解に立脚するかぎり、イギリス経濟史一いなヨーロッパ近世史−上 における植民地の意義が輕硯されるのは必然だということだけを、一言しτおく。纏じて、近世ヨーロッパ史上における植民地とそれを       ノ めぐる帝國主義との意義の無視ないし輕硯は、資本制生藍方法の本質に毒する理解の不足に由來するといってよいのである。      も め も も  ︵註4︶ ムイアーはイギリス帝國を典型とする植民帝号をもつて正しくも﹁西洋の腹芸世家を核心として多くの異つ尤型の人民を包括 する世界言書﹂︵90毛。匡早。・3け^、︾o菖享三宅騎嵩。互。。・亀目=9曳缶崇。ち葛紙莞皿u三碧騨ぞ・。・三具弓自。ロー津簿。塁搾鵬鐸蓼ざ蕩︶となして いるが︵切.罫島5日忌門図℃9臥。昌oh鼻≒o葛”目る〇三賦二一.葛寓9戸。︷蜜。含=”頃禦亀ざω匡①︹r6認二︾●図罫・︶しおしむらくは三民國家 の形成と世界國家の形成とを同時的なものとして把握するにいたっていない。彼は一方的に國民國家から植民帝國を、國民主嚢から帝國 主義を導き出している。すなわち、彼は、近世初頭以來のヨーロッパ人の﹁帝國活動﹂︵ぎ巻㊦体配琴鉱く一該霧︶の第一の・そしておそらく は最も張力な動機は、﹁高級な組織をもつことの少い人民に鍬する支配の確立に自己を表現せんとつとめる國民的自負の精紳︵夢㊦・・豆目謬 。点差露。愚息噂匡自。︶﹂であったとして、いっている。﹁國民的統一の達成につすく雀躍において民族皇家のおのおのは順番に、もし事情が すこしでも有利であるならば、その力を影響に押しつけたり、すすんでは世界の支配を求めたりするよう、そそのかされてきた。ヨーロ ッパ諸職孚の最も大きなものは、これらの試みからおこってきた。ヨーロッパ諸國家のすべての植民帝國もまた、それからおこってき       電      も た。すべτの大植罠國が統一された民族國家であったということと、その帝二七.動が最も胚盛であったのは、それらのあいだに國民感情 が最も強力であったときであったということとは、軍なる暗合ではない。スペインやポルトガルやイギリスやフランスやオランダやロシ ア、これらは大帝國︵け︸μ①αq鳳$二三︾巴$。︼で。♂曇日︶であるが、それらは大國民國[家︵夢①﹂qお箕峯鉱。月雪感け$︶でもある。デンマークとス ウェーデンは、ヨーロッパのことがらにおけるとおなじくヨーロッパ外のことがらに關しても、比較的ひかえ目の役割を演じてきた。ド

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イツとイタリアは、十九世紀におけるおくればせの統一の後にやっと膏國的野心をいだきはじめたにすざない。かつて國昆國家であった ことのないオーストリアは、けっして植民強國とはならなかった。してみれば、支配に封ずる執⋮望をともなった國民主義︵園る餓。誉崔。・旨層 三下一貫ω潔・・ヨ需。・ho目窪。∋ぎ一〇口︶は、帝國主義の主要源泉とみなしてよかろう。しと︵同四−五頁︶。たしかに、蛋民國家のないところに 植民帝國の形成はなかった、そしてその側面から見れば國民主義は︵重商主義的︶帝國主翼の源泉であった。しかし・私が強調したいの        た  も  た  も  も  た  も は、士民國家は一すくなくともその確立は一大想見以來の新しい近世的世界中立の一所産にほかならなかった、したがってこの世界 的連關から坂残された地域においτは國民國家の形威そのものがおギれざるをえなかった、そしてその側面から見れば國民主義が軍に一 方的に︵軍商主義的︶帝國主義を喚起したのではなくで、同時に後者が前者を喚起するという側面もあった、という点なのである。      へ  も  も  へ  も       む  し  や  も  ︵註5︶ ヘクシや書は、一方では、重商屯義を規定するに暴民宅義をもつてしょうとする見解を肯定して、書いている。、﹁重商主義を 國民主義の纏濟豊系︵^︻畠鼠旨。・・.篤葺。︸ち砕q・8冨9・。・渚9。けぎ墨ヨ亀嵩︶と考えるのは無理ではない。⋮⋮そしア、電商主義が自警t關係をも たぬことがらについては何であれ無關心であったかぎりにおいて、この見解は正答である。原理上も實践的も・それは、教會や帝國のご とき申世の肚曾生活にその特徴をあたえていた一切の世鼻乱心的契機︵賃罫ぞ母養昌霧凶①・﹂お一戸国餐。客。話昌︶を否定した。重商主義者たちが自 國生産物が外論において販費され消費されることに多大の關心を示した場合にも・彼等はすこしも外國浩費者の編祉を考えていたのでは ないのであつで、先入見にとらわれることのない翻察者には不患議に思われるかもしれないけれども・彼等はそれに自認の利釜を見た。 このかぎり、重商主義を國民的盟系︵學戸墨匡。墨ヨけぎ7詔訟三智ヨ︶と考えて全く正しい。﹂と︵邑.勾・国①o霧卑㊦5b農蜜賃吋牌艮農。。日器鳩 頃自・﹃融・口︶。しかるに彼は、そのすぐあとで、このような見解に疑をさしはさんで、いっている。﹁しかし・それにもかかわらす、國        の 民主義︵三主一。葛ヨ巨岳︶だどか事理的考慮︵墨鉱。ロ箪①下切9奮ざ﹃け①︼戸︶だとかいう表現は、即智主義には不適當であるように私には思わ       ﹁ れる。國民主義という表現には、.私の意見では、重商主義よりももっと後のあるものが含まれている。國民主義は心入世紀および十九世 紀のロマンテイークの子供、すなわち個々の諸民族の宮然的に規定された特色や猫特の蓮命に封ずる信念の一所塵︵①ぼ国贔。げ包。・伽房 O冨百び。易茸髭貫号①。・口雑具㊥自貫㊦温再訴畳注質屋︵︸ざ冨二二葭①冨寄る昼く。罫母︶である。かかる思想は、十六・七世紀の百々にはほ    軍商主義と近世上家の成立      一一九

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重商主嚢と近世國家の成立 三〇 とんど全く無縁であった。彼等は集合的統一盟へ象㊦犀。[冨騨署。国白鷺。淳︶を共通の種族や言語や脅慣によつで統↓された民族︵㊥言置母鋳 切曽器㊦・ロ慶で峯島ρロ監己慶津け①。ぼ轄三一畠$<o島︶とは考えなかったのであって、唯一の決定的な要因は彼等にとっては風筑︵二〇月 のけ節曽”︶ であった。たいτいの場合、問題の國家は多くの異った民族的墨壷︵く9富9①菖①暮。︶をふくんでいた。漁民的ならびに言語上の差異が 國家の利釜と衝突しないかぎりb躊躇することなく、また困難もなした、これを寛大に取扱うことができた。⋮⋮軍塾主養が念頭におい たのは、國家であって國民︵蝕①冒暮ざロ︶ではなかったのである。﹂と︵同四一五頁︶。  おもうに、たとえ國民主嚢という語が十八。九世紀のロマンティークパ由灯するにしたところで、重商主義の根本思想がその本質からし てこれに連績するところをもつならば、それにその概念を適用して一向さしっかえないであろう。ヘクシヤーの疑問は、軍商主義の根本 關心が民族1あるいは國家的に統︸された民族・すなわち平民iではなくて國家にあったという点に向けられているが、しかし電商    も  も      も  も 主義の國家的關心が當時の民族的封立と無縁であったなどとは、けっしていえないであろう。無論、十八・九世紀のロマンテイτクが民 族概念を純化したことは事實である。しかし・そのことだけからならばbなにも重商主義を規定するに國民主嚢をもつてすることを不適 當とするほどの理由は出てこないであろう・重耳語嚢の風壕轟的理解の難点は・實はそこにあるげではない・すなわち・このような解 繹の難点は、それをもつτしては重商主義の主要關心となっていた﹁昏怠﹂が﹁民族﹂に⋮棄してもっていた距離が測走されがたいといっ た点にあるのではない。そうではなくて、このような解羅をもつア、すれば、問題の出家が箪なる民族養家ではなくτbこれを中核とする 植民帝國であったという側面が一したがって重闇主嚢の帝國主義的本質が一罪過されるという点にあるのでなければならない。しか し、歴史派的重商主義翻の批劃をここまで徹底することは、所詮、ヘクシや二流の折衷主義的⋮糊点をもつザ、しては不可能であったのであ る。  以上、私は歴史學派の代表的な璽商主義観を論評し、いわば重商主義11帝國主義論を提唱してきた。ひきつづき私は、 シユモラーあたりとはいくぶん異った覗角から重商主義を考察しようとしたイギリスのカンニンガムおよびその後昆子た ちにおいても、さらには最近の重商主義史家ヘクシヤーあたりにおいても、私が問題としてきた歴史派的重商主義観の難 黙は超克されるにいたっていないということを論激したいと豫定していたが、紙数の都合で別の機倉にゆする。 ノ

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