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近世瀬戸内の商品流通(1)

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近世瀬戸内の商品流通(1)

上  村  雅  洋

1︸旦皿 讃岐国直島の概況はしがき 商品流通経路と廻船(以上本号) 廻船市場(以下次号) むすび 付表 は し が き  近世商品流通史の研究において,その基礎となる商品流通の実態を把握する  1) 史料としては,従来次のようなものが主として利用されてきた。第1には,幕 府や藩が経済政策や経済統制をより効果的に実施するのに必要な商品流通の動       2) 向を把握するために行なった実態調査史料である。この史料は,調査範囲が広 く,その市場のあらゆる商品を網羅しており,商晶流通の全体を掌握するのに 良好な史料であった。しかし調査史料とはいえ,幕府・藩の役人が直接自らの 手で実施したものは極めて少なく,大部分が商人の仲間組織を通じて書き上げ 1)どのような商品が,どこからどこへ,どれだけ流通しているのか示す史料。 2)著名なものとして,正徳4年(1714)の「従大坂諸国江遣候諸色商売物員数井代銀  寄帳」「従諸国大坂江来ル諸色商売物員数#代銀寄帳」(『大阪商業史資料』第13巻,  大阪商工会議所,1964年),元文元年(1736)の「従諸国大坂江諸色商売物来高井銀  高寄帳」(『大阪市史』第1,大阪市役所,1913年),天保13年(1842)の「諸色取締  方之儀二付奉伺候書付」(同書,第5,1911年)などの史料があり,これらの史料を  用いた研究としては,安岡重明『日本封建経済政策史論』(大阪大学経済学部社会経  済研究室,1959年),のち同『日本封建経済政策史論〔増補版〕』(晃洋書房,1985年),  長野逞「幕藩体制中期の市場構造についての覚書」(宮本又次編『大阪の研究』第3  巻,清文堂,1969年),のち同『幕藩制社会の財政構造』(大原新生社,1980年)に所  収,大石慎三郎『日本近世社会の市場構造』(岩波書店,1975年)などがある。

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させたものであり,その場合領主の政策意図を反映した報告になりやすく,現 実の商品流通とのずれが多少生じていることも十分注意しなければならない。 第2には,商人あるいは生産者の経営史料や仲聞の集荷・出荷・積出等の史料 である。この史料は,ある特定の商品については非常に系統的にその商品流通 経路が把握され,価格変動や経済環境・生産状況の変化に鋭敏に反応する流通 量の変動や流通経路の変化を非常に詳しく生き生きと示してくれる。しかし, この史料は個々の商品の流通経路や流通量などは明らかにしてくれるが,さま ざまな商品間の関係,すなわち果してその商品が全商品流通の中でどのような 役割を担っているのか,他の商晶とどのような競合関係にあるのかというよう な問題については,あまり多く語らない。またそのような史料によって商品流 通の実態を把握したとしても,結局のところ商品流通の出口と入口を捕えたに 過ぎないのであって,実際それがどのようにして運ばれたのかという問題は依 然として残されているのである。これまでの近世商品流通史の研究において, 商品流通の実態を把握する史料としては,主として以上の二つの史料を基礎と して研究がなされてきたと言える。  しかし,近年,近世商品流通史の研究において,大量物資輸送手段である廻 船の研究者から,さまざまな試みが行なわれるようになってきた。すなわち, それは,商品流通経路の結節点である商人を通じて商品流通経路の出口と入口 を掌握するだけでなく,商品輸送そのものを対象とすることによって,より実 態に即した形で商晶流通を把握しようとするものであった。けれども,近世に おいて商品流通はすべて海運あるいは水運を通じて行なわれていたわけではな く,陸運も重要な輸送機関の一翼を担っていたのも事実である。しかしながら, 近世において大量物資の輸送手段である廻船は,量的に全商品流通量の圧倒的 部分を担っていたのである。特に遠距離輸送においては,量的側面からも,費 用・期間の面でも,その経済性・有効性は他の輸送手段の及ぶところではなか った。そして,商品流通量の増加にともない,その輸送手段である廻船も,量 的にも質的にも歩調をあわせるように発展していった。  そこで,廻船研究の側から近世商品流通の実態を把握する次のような史料が

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      近世瀬戸内の商品流通(1) 49 提供されるようになってきた。まず第1には,廻船経営の史料である。これは 個々の廻船の「勘定帳」から,その廻船によって輸送された商品の流通経路お よび内容を把握しようとするものであった。そして,廻船が商人や生産者の手 船である場合には,商家経営の輸送部門としてとらえることになるのだが,そ の場合でも商人や生産者が完全に自己荷物のみを輸送することはあり得ず,他 商品の輸送にも従事して廻船経営を行なっているのであり,単なる商家経営の 分析よりも幅広く商品流通の実態をとらえることができるのである。しかし, 個々の廻船の「勘定帳」は,廻船問屋や商家の輸送部門にあたるところにしか 幽い出されず,しかも恒常的に輸送に従事していた大規模な廻船が中心を占め, 小規模な廻船による単発的な輸送には,元来「勘定帳」のような史料を作成す る必要があったのか疑問であり,むしろその時々の仕切状などの証文で十分で あったように思われる。したがって,そこで取り扱われるのは,比較的大規模 な廻船で,しかもそこに積み込まれる商品は,その廻船に積載可能な大量輸送 品に隈られていたようであり,すべての商品の流通がそれによって明らかにな       お  るとは言えないであろう。  第2には,湊に出入する廻船を記録した「船改帳」・「入船帳」や「客船帳」       の 等の史料である。「入船帳」は,元来船番所で帆別銭等の入津税・通行税を徴 収するために記録された「船改帳」であり,入津順に入津日・船籍・船頭・乗 組人数・纈米・反帆数・積石数・積荷等を記した史料であり,後には廻船問屋 の手を通じて税を徴収する場合も見られるようになった。「客船帳」は,廻船 問屋のところへ入津した廻船を国別・地域別に分類して記録した得意先名簿で, 船印・船名・船籍・船頭・乗組人数・入津出帆日・積荷等を示した史料である。 これらの史料は,あらゆる商品を網羅しており,包括的な商品流通の実態を明 3)そこで取り扱われる商品の特色として,第1にある程度商品の質が一定しているこ  と,第2に一度に積載可能なだけの商品が大量に集荷されるような商品であること,  第3に長距離航行が可能な腐敗・変質しにくい商品であること,第4に大きな容積を  占め比較的重量のある商品であること,第5に他商品との知合も可能な商品であるこ  となどがあげられ,例えば特産物商品などが中心的役割を担う商品として考えられる。 4)柚木学「海運史料としての入船帳と客船帳一廻船の動向と商品流通一」(『交通史研  究』第7号,1982年2月)。

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らかにできるが,史料によって記録に精粗があり,「客船帳」の場合には廻船 問屋の得意先名簿の性格をもつため記録されている商品に偏りが見られたりす る。  従来,廻船研究の側から商品流通の実態を取り扱う場合には,主として以上の 二つの史料によって研究が進められてきたのであるが,本稿では第3の史料と        して海難史料を用いようとするのである。この史料は,従来法制史の研究によ って盛んに用いられ,これによって海難救助制度や共同海損等の研究がおし進 められてきたのであるが,商品流通史の側からはほとんどかえりみられなかっ た史料である。それもそのはずで,ある一つの海難史料からどのような商品が 輸送されてきたのかが判明しても,それは単なる断片的史料,すなわち商品流 通の一こまに過ぎないのであって,商品流通を経常的な流れとして把握するこ とが困難であった。そこで,本稿では海難史料を単発的なものとして取り扱う のではなく,ある地域の多数の海難史料を一括して,実際にそこで輸送されて いる商品を直接把握することによって,二二流通の実態を明らかにしたいと考 えた。しかも多量に海難史料を用いることによって,商品の数量も多く広範囲 にとらえることができるだけでなく,時期的にも長期間継続的に観察すること ができ,そのためそこに商品流通上の変化も把握できることとなった。ここで 用いる海難史料は,いわゆる「浦手形」や「沖上り口⊥書」と呼ばれるもので, 海難事故が真実不可抗力によって生じたことを事故現場近くの庄屋が証明する 書付や事故当事者が救助にあたった村方に対し事故の模様等について記した書 付などからなる。そして,後日事後報告をまとあた冊子ではなく,書付である ことがかえって史料の残存に恣意性をもたせることがなかった。また海難史料 であるため,きわめて自然な形で,無差別に史料の選択がなされることになり, 5) 中田薫「徳川時代の海法」(同『法制史論集』第3巻,岩波書店,1943年),住田正  一『日本海法史』(五月書房,1981年),金指正三『日本海事慣習史』(吉川弘文館,  1967年),同『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館,1968年),岩橋勝「文政期菱  垣廻船の海損清算」(宮本又次編「商品流通の史的研究』ミネルヴァ書房,1967年),  利光三津:夫「徳川時代の浦証文について」(地方史研究所編『熊野』同刊行,1957年)  等の研究がある。

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      近世瀬戸内の商品流通(1) 51 実際の商品流通のあり方をそのまま反映し,その意味でも良好な商品流通史料 であると言える。したがって,この史料を用いて,どのような商品がどのよう な頻度で,どこからどここへ輸送されていたのか,その流通経路に時期的な変 化がみられたのかなどについて明らかにしたい。  また,この史料は単に商品流通だけでなく,その輸送を担っていた廻船につ いても,船籍・船稼形態・船頭・廻船規模等に関する貴重な事実が得られる。 そこで,この史料に基づいて,商品流通量の増大に伴う廻船の発展がどのよう な地域においてみられるようになったのか,次の廻船発展の指標と考えられる 4点に注意しながらみてみることにしたい。すなわち,第1に船数の増加がみ られたのか,第2に他国船依存から領主の手船建造・自国船の育成,さらに他 国船稼が見られるようになったのか,第3に直乗船頭だけでなく,多数廻船所 有者の存在を示す沖船頭もみられるようになったのか,第4に小規模廻船から 中規模廻船,さらに大規模廻船へとの廻船の大規模化がみられるようになった のかの点であり,これらの点に注意を払いながら,商品流通の活発化に伴う廻 船の発展,さらには地域経済の発展をあとづけて行きたい。 1 讃岐国直島の概況  讃岐国直島周辺での海難史料の分析に入る前に,直島の概況について見てお くことにしよう。  直島は,第1図に見られるように備讃瀬戸の備前寄りの海域に位置し,直島 諸島を形成している。現在,主島の直島のほか,向島・家島・屏風島・牛ヶ首 島の有人島と井島・荒神島・雄島・油島・京ノ上繭島・局島・寺島・喜兵衛島 ・尾鷹島・六郎島・杵島・丸山島・中山島・ハタゴ島・安野島・孤疑島・下烏       ラ 島・松島・魚島・牛の子岩・話調・帆掛石の大小27の島々からなる。また,直 島は,直島本島のほか讃岐寄りに位置する男木島・女木島とともに直島三か島 として見なされることもある。それは,直島の支配が男木島・女木島とともに 6)嘉永3年の「讃岐国直嶋明細書上帳」(瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅町文書)  には,「当嶋之内嶋数弐拾七嶋,此内二男木島女木島弐ヶ嶋有之候」とある。

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第1図 直島諸島周辺略図   o @ 響牛ケ鹿島

齧c喜兵鰻

小豆島 宇野 @  風・地京上鵬 井島

 島

シρ局島

豊 島 家島 一     向島 シ  一 荒  一 島  o  一神 @ 島一 一 〇 尾鷹島 柏島 男木島 ______一___9_ 女木島 0 5Km

       一

oシ

近世初頭には旗本高原氏の所領であったのが,寛文11年(1671)には同氏の不 行跡により所領が没収され,以後幕府領として主に倉敷代官所の管轄を受ける ことになったことによるものであろう。  実際,10代以上にわたって直島の庄屋を代々勤めた三宅家には,男木島・女 木島に関する文書も合わせて受け継がれている。例えば天保9年(1838)閏4         つ ,月の「直嶋明細書上」によれば,直島は高539石2斗4升,反別69町4反15歩, 家数197軒,人数961人(男511人,女450人),牛数99疋,乗馬1疋であり,男木 島は高89石4升6合,反別21町5反5畝15歩,家数137軒,人数646人(男320人, 7)瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書。

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      近世瀬戸内の商品流通(1) 53 女326人),戸数75疋で,女木島は高454石8斗,反別35町9反9畝26歩,家数115 軒,人数591人(男278人,女313人),牛数36疋である。そして,それぞれの島に は庄屋・年寄・百姓代の村役人がいるが,3島の中で直島が最も大きな規模を       ヨラ もち,行政面で中核となる島であったことがわかる。  それでは直島の概況を少し遡って,享保5年(1720)9,月の「讃岐国香川郡      ラ 直嶋差出帳」によってみてみよう。直島は「大坂迄海上四拾八里」の距離にあ り,延宝7年(1679)の検地高は524石5斗3升2合であった。家数は220軒, 人数1, 038人(男475人,女563人),牛数61疋であり,前述した天保9年のときと 比べると,118年間に家数では23軒,人数では77人減少し,石高や置数の増加         は見られるものの全体としてやや衰退の傾向がみられる。直島の生業について は,「小高之嶋故,男者廻船之水主働漁猟等仕申候,女者耕作を致渡世申候, (中略)当嶋脇西国北国往行之船路二而御座煙毒,折々湊二掛船等御座候,然 共小高困窮撃壌故,男笹分者大坂へ罷登リ廻船之水主働仕候,田地者妻子共耕 作仕申事二御座候,但王者砂地二足御座候」とあり,直島は西国・北国航路の 通過地点にあたっており,石高が少ない島であるため,男は大坂等の廻船の水 主や漁猟等に従事し,女子供は田畑の耕作に従事することによって生計をたて ていた。       11)  次に幕末期の直島の状況を嘉永3年(1850)の「讃岐国直島明細書上帳」に よって見てみよう。石高は533石3斗7升8合で,反別では67町3反4畝15歩 であり,他に「天保十一子年御馬入新塩浜」として高32石1斗3升9合(反別 3町18歩,取塩2斗5升俵で267俵余),「天保十二丑年御羽入新塩浜」として高 71石7斗9升7合(反別6町6反15歩,取塩477俵余)がある。家数210軒,人数 1,009人(男537人,女472人),牛数103疋,乗馬1疋であり,天保9年と比べて 8) 「讃岐国香川郡御料直島三宅家文書目録』(瀬戸内海歴史民俗資料館,1978年),  『角川地名大辞典』37香川県(角川書店,1985年)。 9)瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書。 10)延宝5年(1677)には,家数229軒,人数1,028人,牛数41疋あり(前掲『角川地名  大辞典』37香川県,1,007頁),享保5年(1720)とほぼ同じ様相を示す。 11)瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書。

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家数で13軒,人数で48人置忌数で4疋とわずかながら増加している。また,漁 船・網・縄等の漁業関係の運上が1貫139匁と米1石2斗あり,漁師の鑑札も 直島で140枚,男木島・女木島で各20枚と定められており,直島には他に鯛網 の仁木L10枚も代官よりもらっている。家数が210軒だから,単純に計算すると 3分の2の家が漁業に従事していたことになる。生業については,「百姓稼者 小高適所ゆへ,編者廻船稼仕候,女者耕作仕事二御座候」とあり,享保5年の 場合とほぼ同様の文言がみられる。  それでは廻船業についてはどうであろうか。次に直島の廻船業についてみて みよう。直島の立地からも,また前述した明細帳の文言からも,直島の人々が       12) 古くから廻船業に深くかかわっていたことは容易に推察できる。直島の廻船業        13) の起源は,讃岐の塩飽廻船と同様に中世の水軍にまで遡るとされるが,明らか でない。しかし,延宝5年(1677)には270∼620石積の当時としては大規模な        14) 廻船が19艘(積石数合計7,700石)あり,他に北国下り中の廻船が5艘旧った。 ところが,塩飽廻船と同様に元禄年閥(1688∼1703)以降急速に衰退しはじめ, その後廻船水主や漁稼に従事するようになっていったようである。そして享保       15) 5年(1720)には,「当所二大船無御座候,小舟者少々在二二」とあるように, もはや大規模な廻船はなく,小規模な廻船がわずかばかり存在していただけで       16) あった。具体的には,享保7年(1722)の「直島人別舟数積石帳」によると, 12)直島の廻船については,柚木学「近世讃州直島の廻船業」(関西学院大学『経済学  論究』第28巻第2号,1974年9月),のち同『近世海運史の研究』(法政大学出版局,  1979年)に所収,丸野昭彦「堺谷家の廻船経営について」(香川歴史学会『香川史学』  第4号,1975年3,月)などの研究がある。 13) 塩飽廻船については,柚木学「幕藩体制の確立と廻米体制一塩飽廻船をめぐる問題  一」(関西学院大学『経済学論究』第26巻第2号,1972年7月),のち同氏前掲書に所  収,拙稿「近世瀬戸内海運機能の一考察一隠州塩飽廻船を中心に一」(『大阪大学経済  学』第33巻第1・2号,1983年12月)などの研究がある。 14)その内訳は,620石積1艘,460石積1艘,450石積3艘,430石積1艘,420石積1  艘,400石積4艘,380石積2艘,370石積3艘,350石積1艘,330石積1艘,270石積  1艘の19艘と500石積1艘,300石積1艘,200石積2艘,100石積1艘の北国下り中の  廻船5艘であった(柚木学氏前掲書304頁)。 15)享保5年「讃岐国香川郡直rl鳥差出帳」(瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書)。 16) 瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書。

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 55 第1表 直島廻船虚数内訳(天保14年∼明治元年)

年代 8石12石15石20石25石30石60石80石150石船最合積石数詞

14

ウ234元23456元23456元元23元元23元

保化   永     政

天弘   嘉     安

延久  治応  治

万文  元慶  明

4446522222222122222222222

 7777777777777777777777773 1111111111111111111111111

艘  艘  艘  艘  艘  艘  艘  艘

11111111111111111111111

1111⊥111

咽⊥11111

−可⊥111

111111111

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−←−﹃← 艘

7457985421000090111111111622222222222222122222222221

649486005555553555555555530461328505777767333333333453344444421111112222222221

石  (註)天保15年8月「船数御吟味書上控帳」,万延元年8月「当申船数小前書上帳」,    文久元年10月「当工船数小前書上帳」 (瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅三文    書)より作成。 40石積5艘,20石積2艘,18石積1艘,17石積2艘,15石積2艘,13石積1艘,

12石積1艘,10石積2艘,8石積9艘,7石積2艘,6石積1艘,4石積5艘

の合計35艘の小規模な廻船が存在していた。船数については,さらに時期が下       17) るが天保ユ5年(1844)の「船謡曲吟味書上控帳」によって,第1表のように天 17)瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書。

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保14年から明治元年まで連続して画数の趨勢と規模が跡づけられる。この表に よれば,直島にはこの時期最大で弘化4年(1847)の29艘,最小で明治6年の 16艘の8∼80石積の小規模な廻船が存在し,傾向としてはしだいに規模でも丁 数でも減少していった。ただ80石積以下の廻船は,「小廻船」と記されている のに対し,嘉永2年(1849)∼同4年に見られた150石積の廻船1艘については, そのような呼称はされず,80石積以下のものとは区別されていたようである。 また積石数でみれば,8石積の廻船が大部分を占め,しかも明治元年の13艘を 除き残りの時期のすべてが17艘であり,固定しているのが注目される。このよ うに小廻船についても,享保7年以降明治元年にいたるまで艘数の減少が引き 続いて見られる。  以上見てきたように,直島は備讃瀬戸に位置するが,主島の直島を中心に27 の島々からなる直島諸島を形成し,男木島・女木島とともに幕府領として倉敷 代官所の管轄下にあった。直島は,高500二二,家数200軒,人数1,000人前後 の規模で,江戸時代を通じてあまり変動がなかった。直島の生業としては,小 高の島であるため耕地も狭く,廻船業が発展した。近世初頭には,近接する塩 飽諸島と同様に活躍したようであり,延宝5年には大規模な廻船が20艘前後存 在していたが,元禄期以降急激に衰退し,享保5年には小規模な廻船しか存在 しなくなった。そのため廻船経営よりもむしろ,男は廻船水主や漁稼等に,女 は耕作に従事するようになっていった。そして,享保7年には80石積以下の小 廻船が35艘あったが,それも天保14年には24艘,明治元年には16艘へとしだい に減少し,廻船業よりもむしろ下等や漁業によって生計を立てる方向に向かっ ていったようである。  さて,周知のように瀬戸内海は,海進によって浸食地形の高所が島として残 存して成立したため,岩礁が散在し,波は比較的静かでも決して航行が容易な 所と言えない。したがって直島周辺でも数多くの海難が発生した。徳山久夫氏   18) の研究によって,海難場所・航路を簡単に見てみよう。この海域には,前掲の 18)徳山久夫「近世讃州直島附近の海難」(香川歴史学会「香川史学」第7号,1978年  3月)。

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 57 第1図のように直島諸島と呼ばれる27の島々が散在し,その問を数多くの廻船 が東西にすり抜けて行くのであるから,海難が発生しないほうが不思議なよう に思われる。そして,直島をめぐる航路としては,井島の北側からきて,局島 と京上繭島の間を通り,直島の北側から荒神島と葛島の間を通って西側に抜け る直島の北側を通過する航路と,直島の南側から直島と柏島の間を通り,尾高 島・向島の東側から井島と豊島の問を通って東側へ抜ける直島の南側を通過す る航路とに分かれる。北側の航路は主として下りの船が,南側の航路は主とし て上りの船が通過したようである。海難の発生した場所は,判明した分のうち 南側航路では,直島の南沖99件,帆掛石14件,姐石37件,荒神島10件,畑島24 件,井島11件等,北側航路では,京上繭島16件,晶出2件,葛島4件,直島大 浦11件等となっている。  次に,次節以下で取り扱う海難史料の時期別海難件数と月別海難件数につい てみてみよう。まず,時期別構成を示したのが,第2表である。ここでの時期 区分は,史料の存在する期聞をほぼ10年ごとに機械的に18期に分けたものであ        ユき  る。この表によれば,全部で334件のうち最大は15期の39件,最小は7期の3 件であるが,全期間にわたって史料が存在する。ただ2期や12期以降にやや集 中する傾向が見られるが,史料の残存状況からやむを得ないし,また時期が下 るにつれてそれだけ商品流通が活発化したとも言える。  ,月別海難件数を第3表によってみると,比較的多い月は9月42件,12月39件, 11月38件で,少ない月は6月13件,5月18件,7月19件であり,台風時期から 冬にかけて多くなっているが,日本海沿岸のように冬期には廻船がほとんど航 行しないというような状況は見られず,全季節にわたって廻船が航行し,商品 流通が活発に行なわれていたようである。  なお,これらの海難史料を用いる場合には,次のような直島周辺の海難史料 であることによる史料的制約があることに注意しなければならない。第1に, 日本海・九州・西瀬戸内と大坂周辺を結ぶ航路は把握できるが,阿波・大坂・ 19)徳山氏は,400件近い海難史料を取り扱っておられるが,本稿では商品流通の実態  がよくわかる334件の史料を厳選して用いた。

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     第2表 時期別海難件数 第3表 月別海難件数 時期 年 代 件数

123456789101112131415161718

貞享4∼元禄13 (1688∼1700) 元禄14∼宝永7 (1701∼1710) 正徳元∼享保5 (1711∼1720) 享保6∼享保15(1721∼1730) 享保16∼元文5 (1731∼1740) 寛保元∼寛延3 (1741∼1750) 宝暦元∼宝暦10 (1751∼1760) 宝暦11∼明和7 (1761∼1770) 明和8∼安永9 (1771∼1780) 天明元∼寛政2 (1781∼1790) 寛政3∼寛政12 (1791∼1800) 享和元∼文化7 (1801∼1810) 文化8∼文政3 (1811∼1820) 文政4∼天保元 (1821∼1830) 天保2∼天保11 (1831∼1840) 天保12∼嘉永3 (1841∼1850) 嘉永4∼万延元 (1851∼1860) 文久元∼明治3 (1861∼1870)

265320343839069137

121111    12233332

合 計 334 ,月

件野比*一

月月月月月月月月月月月削

正23456789101112

21件 27 31 25 18 13 19 30 42 29 38 39 6. 3 0/0 8.1 9. 3 7. 5 5.4 3. 9 5. 7 9. 0 12. 7 8. 7 11. 4 11. 7 合計 332 1 100.0  (註)各「浦手形」(瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵    三宅家文書)より作成。 紀州以東の航路や日本海・九州と西瀬戸内とを結ぶ航路は把握できないこと。 第2に,讃岐周辺の廻船は直島まで近距離なため比較的小規模な廻船まで把握 できるが,遠隔地ほど航行距離が長くなり,小規模な廻船まで把握することが 困難で,遠隔地は大規模廻船,讃岐周辺は小規模廻船が中心となりやすいこと である。これらの点に注意しながら,以下近世の商品流通と廻船についてみて 行くことにしよう。 (註)各「浦手形」 (瀬戸内海  歴史民俗資料館所蔵三宅家  文書)より作成。

  閏3月1件,閏4月1

 件,閏7月1件,閏8月3  件,閏11月1件は,それぞ  れ3,月,4,月,7月,8月,  11月に含めた。 ]1 商品流通経路と廻船  直島の海難史料のうち年代が明らかで,しかも廻送商品の内容がわかるもの を示したのが,第4表である。但し,積合荷物は重複して数えた。この表によ

(13)

      近世瀬戸内の商品流通(1) 59 れば,延べ466件のうち最も多く流通しているのは,米の103件であり,大差で 木材58件,薪54件,海産物39件,炭26件,=F鰯28件,紙17件,大豆・小豆14件, 塩13件,鉄11件,綿10件,苧・縄10件,石炭9件と続き,近世の商品流通にお        の ける米の占める比重の大きさがうかがえる。また瀬戸内の特徴として,漁業・ 塩業に関係する商品の流通も多く見られ,海産物・干鰯・塩や塩田の燃料とし て用いられた薪・石炭等があげられる。散在的であってもほぼ全期間にわたっ て存在する商品は,米・大豆・小豆・海産物・干鰯・綿・紙・木材・薪等であ るが,これらはいずれも比較的多く流通している商品であり,必ずしも時期的 関係と相関するものではないかも知れない。  それでは,これらの商品がどこからどこへどのような廻船によって運送され たのか。御盆晶ごとに時期・積地・行先・積合荷物・船籍・廻船の所属・船頭 ・廻船規模について,その特色を見て行くことにしよう。

 L農産物

        米については,すでに別稿で分析を行なったが,簡単に結果だけをここで述べ ておくことにする。米は城米6件・蔵米79件・商人米18件合わせて103件あり, エ期から18期まで全期間にわたって存在するが,詳細に検討すると城米が元文 2年(1737)以前に集中し,蔵米は全期間存在し,商人米は文化4年(1807)以 降増加する傾向にあった。積地は,城米が日本海側と瀬戸内の西廻り航路圏に ある。蔵米は,東北・北陸・山陰・山陽・九州・北四国であり,宝暦期(1751 ∼1763)頃以降東北・北陸・山陰が見られなくなり,代って瀬戸内・九州の増 加が目立つようになる。商人米は,出羽・筑前・伊予各3件,周防・備前各2 件,石見・長門・備後・肥前各1件であり,文化4年以降瀬戸内を中心に増加 している。行先は,城米が江戸・大坂・伊予各2件であり,蔵米は大坂が69件 で92%を占め,他に兵庫2件,江戸・堺・岡山・高松各1件が見られる。商人 米は,大坂・兵庫各4件となっている。他商品との積合は,城米の場合は見ら 20)米め商品流通に占める比重の大きさについては,拙稿「近世の米穀流通と廻船」   (『大阪大学経済学』第35巻第4号,1986年3月)参照。 21)前掲拙稿「近世の米穀流通と廻船」。

(14)

第4表  商品別

時期

123456789101112131415161718

年 忌 貞享4∼元禄13(1688∼1700) 元禄14∼宝永7(1701∼1710) 正徳元∼享保5(1711∼1720) 享保6∼享保15(1721∼1730) 享保16∼元文5(1731∼1740) 寛保元∼寛延3(1741∼1750) 宝暦元∼宝暦10(1751∼1760) 宝暦11∼明和7(1761∼1770) 明和8∼安永9(1771∼1780) 天明元∼寛政2(1781∼1790) 寛政3∼寛政12(1791∼1800) 享和元∼文化7(1801∼1810) 文化8∼文政3(1811∼1820) 文政4∼天保元(1821∼1830) 天保2∼天保11(1831∼1840) 天保12∼i嘉永3(1841∼1850) 嘉永4∼万延元(1851∼1860) 文久元∼明治3(1861∼1870) 合 計 農  産  物   今一 胡 岬山薩青   豆 米麦・ 糠 茶 菜摩   小      ・   豆種 麻 茸葛判物 3  1

101 2

10 11

5 2

10 2 3 2  1 4

11

3  1 3  1  1  1

5  1 11

4

1111

612 1 11 1

61

8 11 11

9 1  1

10351441134111

138 食協力日コニ・海産物 砂 酒 油醤 海干  酒 油  塩産 糖 粕 軸心 物鰯

−占112

2噌⊥  1

 1

 1

2 −←− 2 1       1        13        21

1 54

       31

      431

11 1441

  12 261

2 1   4

     115

431413133918

86 (註)各「浦手形」(瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書)より作成。 れず,蔵米は蔵屋敷への他商品との合一も多少見られ,17件が何らかの合荷を 積み込んでいた。商入米の場合は,商人荷物であるため蔵米よりもさらに積合 商品が多い。船籍は,城米が大坂2艘,讃岐塩飽・備中・駿河各1艘であり, 時期的にも塩飽廻船が健在であった。蔵米は,周防11艘,大坂・豊後各10艘, 安芸・伊予・讃岐各5艘,摂津・出雲・長門各4艘,紀伊・筑前各3二等であ り,宝暦期までは大坂・摂津と瀬戸内・九州が中心であったが,それ以降にな ると大坂・北陸・山陰の廻船が少なくなり,瀬戸内・九州の廻船が中心となる。

(15)

近世瀬戸内の商品流通(1) 61 件 数 一 覧 特  産  物   多  畳  苧

綿紙葉蝋 莚・竹

  粉  表  縄 1

11

咽⊥2  1 2 1 1 1     1 1  1 1 1 1

11

林産物・鉱産物 木 材 石 石 炭薪  鉄銅鉛  石 炭 灰 1  1  1 6 1 3 2 1 1 1 1 11⊥ −一21   9層    ∩∠12

      19臼ワ臼4

 118811854

  19︼ 62ρ0ハb9側

1 

154671167

   11 

9翻2

     1りOQり

  1  

111←−

      噌■  1

    111⊥  1

 1 

19々1 

1

12  

1Qり14占

1   11←  1    1

10177565107

67 1 ーワ9 582654 9 11 1 1 1 3 164 そ の 他 呉小瀬埴 服 ・間戸 銭馬 古 手物物土 1 2  1

 1

11

計 1 1 1 1 2 5 1 1 1 1 11

565082844176304616

131211   113255553

466 商人米の輸送は,大坂・摂津・播磨・紀伊の大坂周辺地域の廻船より,むしろ 北陸・瀬戸内・北九州・山陰等少数であるが,広範囲な地方廻船の台頭が見ら れるようになる。廻船の所属は,城米がほとんど他国船である。蔵米は,領主 の手船が4艘で,それはすべて寛政4年(1793)以前である。そして,延享2 年(1745)以降自国船の比重が高まり,他国船がやや減少するようになり,地 山の台頭が見られた。商入米は,自国船11艘,他国船6艘であり,自国船が中 心となっている。船頭は,城米が直乗船頭4入,沖船頭1人であり,蔵米は直

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乗船頭37人,沖船頭29人であるが,寛政期(1789∼1800)頃より沖船頭の割合 が増加してくる。商人米は,馬乗船頭7人,沖船頭11人であり,自国船の素船         頭が増加している。廻船規模は,城米が16入乗1艘,14入乗1艘の大規模な廻 船であり,蔵米は中・大規模廻船が中心であったが,文政期(1818∼1829)以 降は特に中・小規模廻船の活躍が目立った。商人米は,比較的小さな中・小規 模廻船によって輸送された。  麦は5件あり,麦には大麦・小麦・麦安が含まれている。時期は,14∼16期 にやや偏在するが,2期・9期もあり,散発的である。積地は,備中・豊後・ 播磨各1件であり,行先は,兵庫・讃岐・伊予各1件で,件数が少ないためか         大坂は見られない。積合は,無1件,合荷3件,添荷1件であり,他の米穀類 との合荷が多い。無1件も麦17俵を積む4人乗の比較的小さな廻船によるもの であった。船籍は,加賀・肥前・豊後・備中・伊予各1艘であり,所属は,豊 後・備中・伊予のいずれもが自国船である。船頭は,直乗船頭3人,沖船頭1 入で,廻船規模は,小規模1艘,中規模3艘(4人乗1,5人乗1,7人乗1)で あった。  大豆・小豆は14件あり,時期は,ほぼ全期間に散在する。積地は,豊後5件, 伊予3件,備中2件,筑前・薩摩・石見各1件で,11期以降は豊後の進出が見 られる。行先は,大坂8件で,すべてが大坂であった。積合は,無2件,合盛 10件,添荷2件で,ほとんどが多葉粉・薪・莚・米・紙等と合荷になっている。 船籍は,豊後5艘,伊予4艘,備中2艘,筑前・日向・石見各1艘である。所 属は,自国船12艘,他国船1艘で,その他国船は享保19年目1784)に薩摩の米 ・大豆を日向穆佐町の廻船が大坂へ輸送している場合であり,それ以外はすべ て自国船によるものであった。船頭は,直乗船頭7人,沖船頭6人で,廻船規 模は,小規模4艘,中規模8艘(4人乗2,5人乗3,6入乗1,7人乗2)であ 22)廻船規模は,積石数によって区分すればよいのであるが,史料が整わないため本稿  では乗組人数を用いた。小規模廻船は1∼3人乗,中規模廻船は4∼9人乗,大規模  廻船は10人乗以上と一応区分した。 23)血合は,単独積載荷物を無,積合荷物のうち比較的積載量の多い場合を合憲,僅少  しか積載されていない場合を添荷として区分した。

(17)

       近世瀬戸内の商品流通(1) 63 る。農産物については,比較的件数が多いのは米・麦・大豆・小豆で,ほかは 4件以下のわずかなものであった。  葉種は4件あり,種子と記されたものも含む。時期は,2・3・17期に存在 する。積地は,備中2件,薩摩1件であり,行先は,大坂2件であった。積合 は,4件とも合荷で,合荷は小麦・綿実・畳表・大豆・黒砂糖等である。船籍 は,備中2艘,肥前・薩摩各1艘であり,備中・薩摩の自国船3艘によって輸 送された。船頭は,直乗船頭3人,沖船頭1人で,廻船規模は,小規模1艘, 中規模2艘(4人乗1,8人乗1)であった。  糠はわずか1回目あり,時期は11期で,積地は大坂,行先は伊予である。積 合荷物はなく,伊予の自国船によって運ばれた。船頭は二乗船頭で,小規模な 廻船であった。  胡麻も1件のみで,時期は15期である。積地は豊後で,行先は不明である。 胡麻20俵は,大豆・安麦・小麦・薪・綿実・米・はぜ等とともに積み込まれ, 豊後の自国船によって輸送された。船頭は二乗船頭で,廻船は中規模(5人乗) であった。  茶は3件あり,時期は,11・12・17期であり,積地は,日向2件,周防1件 で,行先は周防!件であった。積合は,合荷1件,添荷2件で,椎葺・塩魚・ 荒苧・紙・炭・木材等の添荷的存在である。船籍は,日向・淡路・備中各1艘 であり,所属は,自国船1艘,他国船2艘であった。船頭は,二乗船頭2人, 沖船頭1入であり,廻船規模は,小規模2艘,大規模1艘(15人乗)であるが, 大規模廻船は寛政9年(1797)の日向の自国船で,乙部として茶が積み込まれ たようである。  椎茸は4台目り,時期は,12・15・17・18期であり,12期以降に偏る。積地 は,日向3件,薩摩1件で,行先は備後1件である。積合は,単独で積荷たり 得ず,すべて添荷として塩魚・半紙・ちり紙・炭等とともに積み込まれた。船 籍は,淡路・周防・安芸・日向各1艘で,所属は自国船1艘,他国船3艘であ る。船頭は,気乗船頭3人,沖船頭1人で,廻船規模は小規模2艘,中規模2 艘(4入乗1,7人乗1)であったが,いずれも添荷として積み込まれた。

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 山菜・葛粉は15期の1件のみである。豊前から積み込まれ,蔵米900俵の添 荷として大坂へ運ばれた。廻船は,豊前の自国船で,直乗船頭による中規模 (8人乗)なものであった。  薩摩芋も1件あり,時期は18期である。伊予から薩摩芋のみを積み込み,大 坂へ輸送された。廻船は,安芸の他国船で,沖船頭による70石積・3人乗の小 規模なものであったため,積載量が少なく積合荷物もなかったのであろう。  青物も1件あり,時期は15期である。讃岐国庵治浦から同国高松へ青物のみ が積載され,送られた。廻船は,讃岐高松の自国船で,直乗船頭による小規模 な廻船であった。  2。食品加工・海産物  砂糖は4件あり,時期は,12・15期各1件,17期2件であり,12期以降に集 中する。積地は,4件ともすべて薩摩で,そのうち3件が「黒砂糖」と明記さ れているので,砂糖としたが黒砂糖と考えてよい。その行先は,大坂2件,下 関1件(一部のみ)で,下関が含まれているのは幕末期の薩長交易を考える上 でも注目される。大坂行の2件は,いずれも蔵屋敷へ運ばれるもので,国産物 としての性格がよく表われている。積合は,無3件,合荷1件で,合荷は菜種 200石の商人荷物であった。国産物であるため,特に砂糖は多量に積出しが可 能であり,積合荷物が少ないのであろう。廻船は,4件とも薩摩の自国船で, 船頭は,直乗船頭1人,沖船頭3入であった。廻船規模は,中規模3艘(4 人乗1,8人乗2),大規模1艘(20人乗)であり,薩摩から大坂まで登ってくる のだから,当然大規模な廻船となった。  酒は3件あり,時期は,1・2期各1件と15期1件とに分かれる。積地は, 兵庫・日向・大坂各1件で,行先は,長崎・伊予各1件である。日向積1件は, 2斗入10挺の添荷に過ぎず,主として大坂・兵庫の酒造地域から地方へ運ばれ たようである。積合は,無2件,添荷1件で,三三だけで積載に十分な積荷とな るものであった。船籍は,摂津・阿波・伊予各1艘で,伊予は大坂からの返り 荷に酒15挺を積み込んだものと思われる。所属は,自国船1艘,他国船1艘で, 船頭は直乗船頭2人であり,廻船規模は伊予の4人乗の中規模廻船であった。

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 65  酒粕は,16期の1件のみである。安芸から兵庫へ塩145俵と合荷で運ばれた。 廻船は,安芸の自国船で,沖船頭による小規模船(2入乗・90石積)であった。  油は4件あり,時期は,2・16期各2件である。積地は,大坂2件,堺・岡 山各1件で,行先は,讃岐・肥前各1件であり,大坂・堺という畿内地域で加 工された製品が,地方市場へ移出される幕藩制的流通構造の一端を見ることが できる。風合は,無1件,合荷1件で,醤油・畳表・小間物・雑貨・木材等の 商品と積み合わされて運ばれた。船籍は,伊予2艘,備前・肥前各1艘であり, 自国船2艘となっている。船頭は,直乗船頭3人,沖船頭1人で,廻船規模は, 小規模1艘,中規模2艘(4人乗1,6人乗1)であった。  油粕は,17期の1件のみである。油粕は肥料として用いられたため,後述す る干鰯・鱗〆粕等とともに肥料として取り扱った方がよいかも知れないが,件 数も少なく油製造の副産物と考え,ここに掲げた。石見から大坂へ半紙・傘骨 竹島とともに石見の自国船によって輸送された。廻船は,沖船頭による4人乗 の中規模なものであった。  醤油は3件あり,時期は,2・15・18期各1件である。積地は,讃岐2件, 岡山!件で,行先は讃岐1件であった。話合は,無2件,合荷1件で,油・畳 表等を合荷としていた。船籍は,讃岐2艘,備前1艘であるが,いずれも自国 船である。船頭もすべて直読船頭で,廻船規模は,小規模2艘であった。  塩は13件あり,時期は,2・9期各1件,14・15期各4件,16期2件,18期 1件で,14期以降に多く,塩流通の活発化現象が見られる。積地は,讃岐4件, 安芸3件,備前2件,備中・播磨・伊予1件であり,備前の児嶋・赤崎,安芸 の竹原,伊予の三盛など塩田地域から積み込まれ,大坂(2件),尾道・兵庫 (各1件)へ運ばれた。積合は,無8件,合荷2件であり,合荷は,鰯・酒粕 であるが,ほとんどの場合二合荷物はなかった。船籍は,讃岐4艘,備中・尾 張各3艘,播磨・備前・安芸各1艘で,尾張3艘の積地は,安芸の三原・竹原 と伊予の滝浜である。所属は,自国船8艘,他国船4艘で,ほとんどが自国船 であるが,他国船のうち3艘は尾張の廻船によるものであった。船頭は,直乗 船頭9人,沖船頭4人である。廻船規模は,小規模9艘,中規模3艘(8人乗

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 66 彦根論叢第240号 2,9人乗1)で,ほとんどが小規模廻船であり,中規模3艘はすべて尾張の 廻船であった。  海産物は39件あり,干鰯を除く,塩魚・干物・鯛・生禅・海老・鰹節・鮪・ 鰯・鰺・蠣・活字・鮭・数子・昆布・飛魚・鰯・鳥賊・棒鱈等をその内容とす る。時期は,ほぼ全期間に存在するが,12期以降特に多くなる。積地は,日向 ・安芸各5件,伊予・肥前各4件,長門・讃岐・松前各3件,備前・豊後・周 防各2件,備中・壱岐・筑前・対馬・出羽各1件である。松前からは緋・昆布 ・数子,出羽からは棒鱈,対馬からは布海苔・飛魚,日向・肥前からは塩魚・ 干物・鰹節というように遠隔地からはほとんどが保存海産物であり,近接地で ある瀬戸内からは,鯛・蛸・鮪・海老・錫・鳥賊・岬町の活けものの海産物が 輸送の中心となる。行先は,大坂13件,上方2件,播磨室津・堺・尼崎・兵庫 各1件であり,ほとんどが大坂へ運ばれた。積合は,無25件,合荷13件,添荷 1件で,かなりの部分が単独積載であり,合荷商品は,炭・薪・茶・椎茸・木 材・塩・干鰯等であった。船籍は,讃岐6艘,安芸4艘,備中・淡路・伊予・ 長門各3艘,豊後・周防・日向・越中各2艘,摂津・阿波・播磨・越前・備前 ・紀伊・大坂・筑前各1艘であり,瀬戸内地域を中心にかなり広範囲な地域に 分布する。このうち越中の廻船は,積地が松前と出羽であり,越前の廻船は, 積地が松前であった。所属は,自国船20艘,他国船15艘で,自国船の方がやや 多い。船頭は,直乗船頭21人,沖船頭16人である。廻船規模は,小規模19艘, 中規模14艘(4馬乗7,5人乗1,6人乗5,7人乗1),大規模1艘(11人乗)で あるが,大規模廻船は松前から来たものであり,中規模廻船も4人乗が多く, 全体として小規模廻船が多かった。  干鰯は18件あり,ほぼ全期間にわたっている。積地は,肥前・豊後各3件, 対馬・日向・石見・伊予各2件,周防・長門各1件であり,瀬戸内よりむしろ 九州地域が中心となっている。行先は,播磨3件,兵庫2件,和泉佐野・讃岐 各1件であり,大坂は見られず,大坂周辺の商業的農業地域が多い。積合は, 無10件,合筆7件,添荷1件であり,合荷は米・干物・海産物等である。船籍 は,豊後3艘,讃岐・摂津・石見・伊予各2艘,播磨・安芸・和泉・阿波・淡

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 67 路・日向・紀伊各1艘であり,肥前からは讃岐・淡路・紀伊の廻船によって, 対馬からは播磨坂越・和泉佐野の廻船によって輸送されていた。所属は,自国 船8艘,他国船8艘であり,他国船も多く見られる。船頭は,直乗船頭8入, 沖船頭8人であり,沖船頭も多い。廻船規模は,小規模4艘,中規模8艘(4 人乗6,5人乗2)で,中規模廻船が多いとはいえ,海産物の場合と同様やや小 規模な廻船であった。  3。特産物 ここでは特産物を取り扱うが,他に炭・木材のように特産物に含めてもいい商 品があるが,とりあえず綿・紙・多葉粉・蝋・畳表・莚・苧・縄・竹に限った。  綿は10件あり,ほぼ全期間に散在する。その内容は,ほとんど綿実であるが, 繰綿・木綿も1∼2件含まれる。しかし,18期の縞木綿1件を除いて,綿実と の感荷となっている。積地は,備中2件,筑前・備後・安芸・豊後・伊予各1 件であり,行先は,大坂3件,兵庫1件で,大坂方面へ輸送された。積合は, 無2件,出荷4件,感荷2件であり,菜種・畳表・鉄・大豆・小豆・米・薪等 の商品とともに積み込まれ,量的にも少量である。船籍は,備中2艘,筑前・ 備後・安芸・豊後・伊予各1艘であり,7件とも自国船によって運ばれた。船 頭は,宙乗船頭6人,沖船頭2人で,八乗船頭が多く,廻船規模は,小規模3 艘,中規模4艘(4人乗3,5入乗1)であり,比較的小規模な廻船によるもの であった。  紙は17件あり,ほぼ全期間にわたって散在するが,特に15期3件,17期4件 が多い。積地は,安芸5件,周防4件,伊予3件,備後・日向・薩摩・石見・ 大坂各1件であり,大坂1件は,蝋燭・油・古手・砥石・陶器等の諸商品の添 荷として10束が積み込まれたものである。行先は,大坂11件で,すべて大坂へ 運ばれた。積合は,無2件,合荷12件,添荷2件で,苧・鉄・炭・木材・米・ 大豆・小豆・縄等の商品と合荷にして送られた。紙は,重量的にも限られたた めか,積合が多く,国産荷物として蔵屋敷等へ輸送された。船籍は,安芸5艘 周防4艘,伊予3艘,備後・日向・石見・備中・讃岐各1艘であり,所属は, 自国船14艘,他国船2艘で,ほとんどが自国船による。船頭は,直乗船頭8人,

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沖船頭9人である。廻船規模は,小規模5艘,中規模9艘(4人乗6,5人乗1, 6人乗1,7入乗1),大規模1艘(15人乗)であり,比較的大規模な廻船であっ た。15人乗の廻船は,日向延岡の船籍で,沖船頭によるものであった。  笹葉粉は7件あり,時期は,4・11・13期各1件,14期2件,15・17期各1 件で,11期以降にやや集中している。積地は,豊後・備中各3件,伊予1件で 特産物のため豊後・備中に偏っている。行先は,大坂4件,上方2件,讃岐1 件であり,上方方面になる。羽合は,無1件,合理2件,綿綿4件で,大豆・ 小豆・鉄・綿実・炭・麦・薪・子等の商品と積み合わされ,しかも多病粉は量 的に少なく,他商品の添荷程度の量であった。船籍は豊後・備中各3艘,伊予 1艘であり,7件とも自国船である。船頭は,直乗船頭4人,沖船頭3人であ った。廻船規模は,小規模4艘,中規模2月置6人乗)で,中規模廻船はすべ て添荷であり,全体としては小規模な廻船であった。  蝋は5件あり,6・14・15・16・18期各1件で,14期以降に集中する。蝋に は,生蝋・木蝋・はぜを含んでいる。積地は,安芸・出雲・豊後・伊予・日向 各1件であり,特定の地域に集中していない。行先は,大坂2件,江戸1件で ある。積合は,合荷3件,添荷2件であり,合荷商品は,鉄・紙・米・炭・菜 種・鰹節・薪・大豆・綿実等で,国産蔵物とともに積み込まれていた。江戸行 の600俵を除き,量的にはあまり多くない。船籍は,安芸・出雲・豊後・伊予 ・日向各1艘であり,5件ともすべて自国船である。船頭は,直乗船頭2人, 沖船頭3人であり,廻船規模は,小規模1艘,中規模3艘(5人乗1,6人乗1, 7人乗1),大規模1艘(10人乗)で,比較的大規模な廻船によって輸送された ようであるが,早早・添荷として積み込まれたため,廻船規模のわりには蝋の 積載量は少ない。

 畳表は6憾あり,時期は,1期1件,2期2件,5期1件の5期以前と16・

18期各1件の16期以降とに分かれる。積地は,備中2件,備前・備後・大坂各 1件で,備中・備前・備後は特産地からの輸送であるが,大坂はその再輸出分 で量的にも5丸で少量なものであった。行先は,大坂・讃岐(高松1,坂出1) 各2件,下関1件であり,大坂および地方都市へ運ばれた。積合は,無1件,

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       近世瀬戸内の商品流通(1} 69 合荷4件,上荷1件で,合荷商品は,油・醤油・種子・綿実・竹皮・苧等であ り,畳表はほとんどが他商品との二合荷物であった。船籍は,備前2艘,備中 ・備後・長門各!艘と山陽地域を中心としていた。所属は,自国船4艘,他国 船1艘で,ほとんどが自国船である。船頭は,直上船頭2人,沖船頭2人であ り,廻船規模は,小規模2艘,中規模2艘(4人乗1,7人乗1)で,小規模な ものであった。  莚は5件あり,時期は,12・14・15・16・17期各1件で,12期以降に集中す る。莚には,七三表・七二青莚を含めている。積地は,5件ともすべて豊後で, 莚は豊後の特産物であった。行先も3件とも大坂である。鳥合は,無2件,合 荷3件であり,合荷は,竹・炭・大豆・木材等の山産物である。国産品のため 多量に集荷され,単独積載も見られ,いずれも大坂蔵屋敷へ国産品とてして運 び込まれている。船籍は,5件ともすべて豊後の自国船であり,豊後廻船の発 達が注目される。しかも船頭は,直乗船頭2人,沖船頭3人で廻船規模も5件 ともすべて中規模(4人乗2,5人乗2,7人乗1)である。航行距離が長いこと もあり,中規模廻船によるものであった。  苧・縄は10件あり,時期は3・5・6期各1件と15期1件,16期3件,17期 2件,18期1件の15期以降とに分かれる。厳密には,苧6件,縄4件である。 積地は,伊予・安芸・周防各2件,備後・石見・備中・大坂各1件である。大 坂1件は,備後表・小間物・雑貨との合荷で,量的にも極少であり,大坂から の再輸出品と思われる。行先は,大坂5件,下関・讃岐各1件で,ほとんどが 大坂である。鳥合は,合荷8件,三二2件とすべて合荷であり,商品の性格か ら単独積載はなかった。合荷は,紙・米穀・生蝋・炭・鉄・畳表等であった。 船籍は,伊予・安芸各2艘,石見・長門・周防・備中・備前・備後各1艘であ り,所属は,自国船8艘,他国船2艘で,ほとんどが自国船によって運ばれた。 船頭は,二乗船頭5人,沖船頭5入で,沖船頭も多く見られる。廻船規模は, 小規模4艘,中規模8艘(4人乗3,5人乗3,6人乗1,7人乗1)であり,合 荷のため中規模船が多い。  竹は7件あり,時期は,5・13・14期各1件,16・17期各2件で,5期1件

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70 彦根論叢第240号 を除くと13期以降に集中する。これには,竹皮・柄竹・傘骨竹・なよ竹・廉竹 を含む。積地は,豊後3件,備後・伊予・長門・石見各1件で,豊後が中心と なり,莚の場合とよく似ている。行先は,大坂4件で,すべて大坂である。積 合は,無2件,合荷4件,予冷1件であり,合荷が多く,合荷は,畳表・綿実 ・薪・莚・大豆・木材・半紙等であった。船籍は,安芸・豊後各2艘,備後・ 伊予・石見各1艘であり,所属は,自国船5艘,他国船2艘で,自国船が多い。 船頭は,馬乗船頭5人,沖船頭2人であり,廻船規模は,小規模1艘,中規模 6艘(4人乗4,5人乗2)と中規模廻船が多く見られるが, 4下乗が中心でや や小規模なものであった。  4.林産物・鉱産物  木材は58件もあり,米に次いで多く流通した商品である。時期は,ほぼ全期 間にわたるが,12期以降は各期とも4件以上あり,特に増加傾向が見られる。 積地は,伊予19件,日向8件,豊後7件,安芸6件,出羽5件,土佐3件,大 坂・紀伊各2件,備前・和泉各1件であり,出羽は4期までで,それ以降見ら れない。12期以降は,伊予・日向・豊後を中心に多様化する。行先は,大坂24 件,上方・播磨各2件,備後・安芸各ユ件であり,大坂が大部分を占める。積 合は,無34件,合荷16件,添荷8件で,木材の単独積載が多く,合荷は,炭・ 塩・魚・半紙・大豆等であるが,特に炭との丁合が多く16件を数える。船籍は 安芸21艘,伊予17艘,大坂6艘,備前・日向・豊後各2艘,阿波・備後・讃岐 ・周防・播磨・長門・紀伊各1艘であり,安芸・伊予が中心となっている。こ のうち安芸21艘の積地をみれば,安芸6件は自国船によって,ほかに他国稼と して伊予5件,豊後・日向各4件,紀伊・土佐各1件からの積荷を運んでいる。 伊予は,積地の中心となっているため11件は自国船によって輸送された。大坂 の廻船4艘は,出羽よりの積み出しに従事したものである。所属は,自国船26 艘,他国船28艘で,他国船が多い。そのうち,日向6件・土佐3件,出羽5件 分は,他国船によって輸送されたものであり,H向・土佐・出羽の他国船依存 度が注目される。船頭は,三乗船頭33人,沖船頭24人で,沖船頭もかなり見ら れる。廻船規模は,小規模16艘,中規模32艘(4人乗12,5人乗11,6人乗6,7

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 71 人乗2,8配乗1),大規模8艘(10入乗1,11人乗1,12人乗3,13入乗2,15一乗 1)で,小規模な廻船もあるが中規模な廻船によって輸送された。大規模廻船 の船籍は,大坂5艘,周防・日向・不明各1艘である。いずれも11期以前であ り,積石数に比べ乗組人数が多い時期のものである。  炭は26件あり,時期は,2期1件を除くと,残りは11期1件,12期2件,14 期6件,15期2件,16・17期各6件,18期2件で,11期以降に集中している。 積地は,日向・伊予各6件,安芸・豊後各5件,土佐2件,備中・長門各1件 であり,行先は,大坂14件,上方・高松・岸和田各1件で,大坂を中心として いる。積合は,無1件,合荷23件,添荷2件で,一荷が多く,合荷は,薪・塩 魚・木材・麦・莚・紙等であり,特に木材16件,薪4件との積合が多い。船籍 は,安芸10艘,伊予7艘,日向・大坂・豊後各2艘,阿波・備中・長門各1艘で, 安芸・伊予が多い。所属は,自国船13艘,他国船11艘で,他国船が割合多く, 特に安芸の廻船は5艘も他国船として活躍しているのが注目される。また,日 向・土佐・豊後は,他国船に依存している。船頭は,直乗船頭17入,沖船頭9 人であり,廻船規模は,小規模5艘,中規模19艘(4人乗5,5人乗6,6人乗 6,7入乗2),大規模1艘(15人乗)で,中規模廻船によるものであり,木材輸 送と同様の傾向がみられる。大規模廻船1艘は,日向延岡の廻船であった。  薪は,木材に次いで54件もあり,時期は,ほぼ全期聞に存在するが,12期以 降は毎期4件以上と特に増加している。これには,松葉・塩木・雑木・掛三等 が含まれ,家庭用燃料だけでなく,瀬戸内に多い塩田等の産業用燃料としても 用いられた。積地は,伊予16件,土佐8件,安芸6件,讃岐・豊後各5件,日 向4件,長閥2件,備前・備中・大隅・備後・周防各1件で,伊予・土佐が多 い。行先は,大坂8件,上方3件,岡山・赤穂・播磨・御影・堺・岸和田各1 件であり,赤穂・播磨の塩田へも燃料として用いられた。積合は,無40件,合 荷2件,添荷3件で,薪は単独積荷が多い。転読商品は,竹・炭・米・魚・木 材・紙等であるが,特に炭4件との積雨が多かった。船籍は,安芸18艘,伊予 12艘,備前6艘,讃岐4艘,摂津・播磨・長門各2艘,阿波・大隅・土佐・日 向・備後・大坂・周防・豊後各1艘であり,安芸・伊予の廻船が大部分を占め

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 72 彦根論叢第240号 る。所属は,自国船24艘,他国船28艘で,他国船の比重が高い。他国稼の廻船 としては,安芸12艘,備前5艘が多い。船頭は,直乗船頭39人,沖船頭15人で あり,廻船規模は,小規模18艘,中規模29艘(4人乗14,5人乗8,6人乗3,8 人乗2,9人乗1),大規模2艘(10人乗1,16人乗1)である。中規模廻船が中心 であるが,なかには阿波の10人乗廻船や大隅の16人乗廻船等のような大規模な 廻船も見られた。  石炭は9件あり,時期は,15期1件,16・17期各2件,18期4件と15期以降 に集中し,特に18期は4件と多くなっている。これは,石炭が塩田で燃料とし て盛んに用いられるようになるのが,文化期(1804∼1817)以降であることによ        う るものである。積地は,肥前7件,長門2件で,肥前平戸・長門元山の産炭地 に集中する。行先は,阿波2件,播磨・赤穂・備前・上方各1件であり,主と して塩田の燃料に用いられたため瀬戸内の塩田地帯がその中心となっている。 予冷は,無9件で,石炭は量的に多くすべて単独積載荷物であった。船籍は, 伊予3艘,安芸・周防・長門各2艘,肥前1艘であり,肥前は主要な積地であ るのに1艘しかない。したがって,所属は,自国船4艘,他国船6艘で他国船 が多く,他国船としては,伊予3艘,周防2艘が活躍している。船頭は,直乗 船頭5人,沖船頭5人であり,廻船規模は,小規模1艘,中規模9艘(4入乗 1,5人乗2,6人乗2,7人乗4)で,やや規模の大きな廻船であった。  鉄は11件あり,時期は全期間にわたって散在している。積地は,安芸・石見 各3件,備中・大坂・出雲・備後各1件であり,安芸・石見の産地より積み出 されている。行先は,大坂6件,上方1件で,大坂へ輸送された。野合は,無 3件,合荷5件,添荷3件で,合荷が多く,合荷商品は,蝋・紙・平等があげ られる。船籍は,安芸・石見各3艘,伊予・備中・讃岐・出雲・尾張各1艘で あり,所属は,自国船8艘,他国船1艘で,ほとんどが自国船による。船頭は, 直乗船頭6人,沖船頭4人であった。廻船規模は,小規模3艘,中規模6艘 (4人乗2,5人乗2,6人乗1,9人乗1)で,やや規模の大きな廻船が多い。 24)渡辺則文「石炭焚の普及」(『日本塩業大系』近世(稿),日本専売公社,1982年,  490∼507頁)σ

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 73 なかでも9入乗廻船は,尾張の廻船であった。  銅はわずか1件であり,時期は4期である。備中松山から大坂へ蔵米500俵 の上荷の御用銅としてわずか2箇が積み込まれただけである。廻船は,備中の 直乗船頭による自国船であった。  鉛も1件のみであり,時期は4期である。対馬から干鰯とともに積み込まれ たもので,行先は不明である。廻船は,和泉佐野浦船籍の直乗船頭によるもの であった。  石灰も1件あり,時期は15期である。積地は安芸で,行先は不明である。積 合荷物はなく,安芸の自国船によって運ばれた。麺船は,3入乗で,直乗船頭 によるものであった。  石は3件あり,時期は,17期/件,18期2件である。切石・硝石・御台場御 用三二1件からなり,海上防備のために運ばれたようである。積地は,讃岐・ 日向・備中各ユ件であり,行先は不明である。積合は,無2件,添荷1件で, 硝石の場合のみ薬種・鰹節・木蝋等の合荷とともに7樽積み込まれただけであ る。船籍は,讃岐・日向・摂津各1艘であり,所属は,自国船2艘で,すべて 自国船による。船頭は,三乗船頭2人,沖船頭1人であり,廻船規模は,小規 模3艘で,小規模廻船によるものであった。

 5.その他

 呉服・古手は2件あり,時期は,6・7期各1件である。積地は,いずれも 大坂で,行先は備後福山である。積合は,呉服の無1件と古手の添荷1件であ り,雑貨・小聞物とともに運ばれた。船籍は,備後・讃岐各1艘で,所属は自 国船1艘であった。廻船は,備後福山の直乗船頭によるもので,大坂へ行き, 京都呉服を積み込んで福山へ戻った。

 小闇物・雑貨は5件あり,時期は,1期1件,2期2件,7・16期各1件と

全期間に散在する。商品としては,家具・仏具・鍋釜・箱・砥石・笠・障子・ 三等が含まれる。積地は,大坂4件,日向1件で,手工業生産地である大坂が 中心となっている。行先は,長門・下関・肥前・備後福山各1件で,地方都市 が中心である。積合は,5件とも合荷で,他の小問物・雑貨や海産物・油・木

(28)

材・紙・薪等とともに運ばれた。船籍は,摂津・肥前・備後・讃岐・長門各1 艘であり,所属は,自国船3艘で,すべて自国船によって大坂へ積みに出かけ たり,返り荷として積み込んでいた。船頭は,直下船頭3人,沖船頭1人であ り,廻船規模は,小規模1艘,中規模2艘(4人乗1,5人乗1)で,やや小規 模な廻船であった。  瀬戸物は1件あり,時期は16期である。肥前伊万里から単独積載荷物として 220俵が運ばれたが,行先は不明である。廻船は,備後の他国船で,直乗船頭 による4人乗200石積の中規模なものであった。  埴土も1件で,時期は2期である。讃岐から単独積載荷物として運ばれたが, 行先は不明である。廻船は,備前の他国船で,二乗船頭による4人乗の中規模 なものであった。  銭も1件あり,時期は12期である。肥前から50貫文が鮪100本の添荷として 積み込まれたが,行先は:不明である。廻船は,淡路の他国船で,沖船頭による 3人乗の小規模なものであった。  馬も1件あり,時期は16期である。長門から大坂へ運ばれた肥後の「宇土様 早馬二匹」であった。積学荷物もなく,長門の沖船頭による小規模な廻船によ って輸送された。

 6,小聖

 以上さまざまな商品ごとに,その時期・積地・行先・積合・船籍・所属・船 頭・廻船規模の特色についてみてきたのであるが,ここでは逆にそれぞれの特 色をもつ商品はどのようなものがあげられるか,まとめて整理しておくことに する。  まず時期では,比較的多く流通している商品は,当然全期間にわたって散在 することになる。したがって全期間にわたって見られるのは,米(103件)・大 豆・小豆(14件)・海産物(39件)・干鰯(18件)・綿(10件)・紙(17件)・木材 (58件)・薪(54件)・鉄(11件)等である。しかし,米は,城米が5期以前に 集中し,蔵米は全期間にわたり,商入米は12期以降増加する傾向があった。海 産物は,特に12期以降多くなっている。紙も15期と17期が多い。木材・薪も12

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       近世瀬戸内の商品流通(1) 75 期以降増加する。これは,全商品の流通量,ここでは海難件数の増加と照応す る。次に,比較的商品流通量もあるが,時期的に偏りが見られる商品について みてみよう。塩(13件)は,14期以降多くなる。多葉粉(7件)は,11期以降, 蝋(5件)は14期以降に集中する。莚(5件)は,すべて12期以降であり,炭 (26件)も11期以降に偏る。石炭(9件)は,15期以降のみで,しかも18期に多 い。要するに,海産物・紙・木材・薪を含め特産物が,11∼12期以降特に集中 的に多くみられるようになるのである。  積地は,九州および西廻り航路圏であり,特に瀬戸内を中心とした特産地が 中心となるようである。醤油は讃岐,塩は備前児島・安芸竹原・伊予三二,砂 糖は薩摩,酒は兵庫・大坂,油は大坂・堺,干鰯は肥前・豊後・対馬・日向, 紙は安芸・周防・伊予,二葉粉は豊後・備中,畳表は備中・備前・備後,莚は 豊後,竹は豊後,木材は伊予・日向・豊後・安芸・出羽,炭は日向・伊予・安 芸・豊後,薪は伊予・土佐・安芸,石炭は肥前・長門,鉄は安芸・石見という ような地域があげられる。  行先は,大きく分けて次の三つの場合が考えられる。一つは,大坂・上方へ の登せ荷であり,行先はもちろん大坂である。もう一つは,大坂・上方からの 下し荷であり,行先は地方都市となる。さらに,大坂・上方とは無関係な地域 間の輸送がこれに加わる。大坂への輸送がこれらの中で最も多く,かなりの部 分がこの場合と考えてよい。米では,蔵米のほとんどがこれにあたり,城米・ 商入米も半数近くがこれに該当する。他に大豆・小豆・砂糖・海産物・紙・三 葉粉・莚・苧・縄・竹・木材・炭・薪・鉄等もほとんどが大坂へ運ばれている。 これに対し,大坂・上方から地方都市などへ輸送される商品としては,量的に はわずかであるが,糠・酒・酒粕・油・呉服・古手・小間物・雑貨等の食品加 工・手工業製品があげられる。大坂・上方とは無関係な形での流通商品は,干 鰯・石炭があり,干鰯は播磨・兵庫・和泉等の大坂周辺の商業的農業地域への 肥料として,石炭は阿波・播磨・備前等の塩田地域への燃料として,産地から 直接運び込まれたようであった。さらに大坂への比重が比較的低い商品として, 塩・畳表等があげられよう。

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