Title
中世アル・アンダルスにおけるユダヤ系住民の社会的地
位について
Author(s)
上間, 篤
Citation
名桜大学紀要 = THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN(4): 1
-9
Issue Date
1998-12-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/8364
名桜 大学紀要 1998 MeioUniv.,Okinawap1- 9
中世アル ・ア ンダルスにおけるユ ダヤ系住民の
社会的地位 について
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要
約
本小論は、アブデラマン三世 (911年-961年)の寵臣 ≪ハスダイ ・イブン ・サプル)の幾多の卓越 した 功績 と業績 をふ まえて、中世 スペインのイスラム教徒社会におけるユ ダヤ系住民の社会的地位について考 察 し、当時 としては超人的とも言 えるハスデイの働 きも究極的にはアラブ支配体制の障壁 を突 き崩す まで には至 らなかった内実 を考 える。 AbstractThisshortpaperexaminesthe socialstatusoftheJewsin Al-An dalusthrough the life ofa distinguishedJew namedHasdayIbmSaprut,whoseverdin numerousoutstandingwaysinthecourt ofAbderramanIII(911-961).By observing various aspects ofHasdayrs major contributions and achievements,thepaperhastried to revealwhattheJewsofthe time could do and whatthey couldnltin Al-Andalusduetotheirethnicbackground.
は じめに
アラブ ・ベルベル軍は力でスペイン人 を押 え つけるのではなく、シリアやイランなど東方 の諸地域の征服 と同様、周辺の田園部 を含む 都市や砦、有力貴族 を単位 とした各個に条約 (スル フ)を結び、人口に応 じた一括貫納 を 条件に、住民の生命、財産、身分の自由 (舵 隷化 しない)、信仰 を保証 し、事実上の自治 を 与えた。征服の進行中は、アラブの敵 を助け ないことも重要な条件であった。 また r集史Jによると、 トレー ドだけではな く、コル ドバ、セビー リヤなど主要都市で、 ユダヤ教徒は積極的にアラブに協力 し、信用 を得て、アラブ軍が去ったあと、少数の駐留 軍 とともに警備 を任 されたという。ユダヤ教 徒に対す る厚遇のため、マグ リブをはじめ、 地中海全域か ら、非常に多 くのユダヤ教徒が アンダルスに移住 し、 さながらアンダルスは - 1一 かれ らのパ ラダイスのような観 を見せ るよう になった。のち、ユダヤ教徒はアラブ ・イス ラーム文化の強い影響の もとで、聖書解釈、 ヘブライ語学、ヘブライ語の詩、哲学、自然 科学などの研究 をさかんに行い、アラビア語 やヘブライ語で表現するようになる。 I 上述の引用は余部福三が自著の rアラブとしてのス ペイン」の中で述べているくだりである。その歴史的 背景 は、約3世紀の間 (410年∼711年)バ スク地方 を 除 くイベ リア半島全域 を軍事的に掌握 してこの地域に 歴史上は じめて統一王朝 を築いた西ゴー ト王朝末期の 内政事情 と深 く関係する。 この王朝の下ではユダヤ系 住民は久 しく非差別民族 として扱われた経緯があり、 引用の くだ りは711年のイスラム教徒の イベ リア半島 への進攻 に際 して、彼 らが民族 としてどのように振 る 舞い、そ して彼 らがどのような心境で東方か らの進攻 勢力を迎 え入れたのかについて端的に述べている。当 時イベ リア半島への新興 イスラム教徒の進出はかの地 のユダヤ系住民にとっては朗報であった。その ことは上 聞 様 々な研究 が明 らかにす るところで ある。周知 の通 り、アラブ民族 とユダヤ民族 には地誌 も歴史 も宗教 も 共有す る部分が多い。それに もかかわ らず両者 を取 り 巻 く現実 は平穏 な ものばか りではない。昨今は両者の い さかいや不協和音がことのほか 目立つ現状である。 この ような現実 を見据 えなが ら、本論ではアブデ ラマ ン三世の宮廷で医琴、政治 、外交、学術、教育の分野 で並々な らぬ偉才 ・多彩ぶ りを発揮 してユ ダヤ民族の 誇 りを具現 したハ スダイ ・イブン ・サプル (彼がキ リ ス ト教徒の王 に肥満の治療 を施 したことは有名で、著 者はr名桜大学紀要l(1997年 、10月発刊)の投稿論文、 「ロマ ンセ アベナ-マル と中世 スペイン社会」、の中 でその事 に言及 しておいた)の様 々な業績 をひ もとき つつ、アル ・アンダルスにおけるユダヤ人の社会進出 にかかわる処遇について考 える。
Ⅰ.イベ リア半島とユダヤ人
1.ユダヤ人蔑視の背景 10世紀 か ら12世紀のユ ダヤ人を扱 った著書 rコル ド バのユ ダヤ人j(著者 :ヘスス ・ベ ラエス ・デル ・ロサ ル) に次のような記述が見 られ る。Losjudl'osespa元oles medievales forjaron leyendas diversasasegurandoquesosfamiliassehabianasentado enlapem'nsulasiglosantesdeCristo.conlaintenci6n probabtementenos610dedarselustregeneal6glCO,Sino deexonerarasusantepasadosdetodoconsorcioconlo§ asesinosdeJesds,elMesiascristiano.2
紹介 した記述内容 は、不名誉 なキ リス ト殺 しの罪 をめ ぐり、中世の西洋社会 とユ ダヤ人 との関係 に言及 した くだ りである。それによると、キ リス ト教徒か ら突 き 付 けられたやっかいな 「キ リス ト殺 しの罪」 を払いの けなければならない深刻 な現実に直面 したイベ リアの ユダヤ人社会は、その方策 と して半島に居住す るユ ダ ヤ民族 に限定す る独 自の民族史観 を形成す る必要性 に 迫 られた。 このような宗教 をめ ぐる社会背景の もとで イベ リアのユ ダヤ人社会は、保身の術 として、彼 らの 半島での居住の歴史 をキ リス ト生誕のはるか数世紀 に まで潮 って語 る種 々の逸話や伝 説 を生 み 出 して行 っ た。それ らの作品 を媒体 に して彼 らは「キ リス ト殺 し」 の汚名 を返上す ることに努めた。中世のユ ダヤ民族 に とって、キ リス ト教徒 にはび こった 「キ リス トの死」 をめ ぐるこのよ うな信仰感情の実態 は、ほ とほ とやっ かいでいたたまれない ものであったろう。 この間題 を ローマ ・カ トリック教会草創期の出来事 と照 らし合わ せて考 えたとき、イベ リア半島ではこの種の信仰感情 を発端 とす る諸問題 が一層深刻の度合いを深めていた 鳶 のではないか と考 えられ る。身に覚 えのない 「キ リス ト殺 し」の罪 を突 き付 けられたユ ダヤ人はやるせな さ とはがゆ さが複雑 に交錯す るジレンマの渦 中に突 き落 とされたのである。他方 この間題はユ ダヤ人の民族 と しての生存権 を根底 か ら揺 るが しかねない様相 を帯び ていただけに、彼 らが内面的に巌験 した心の葛藤や恐 怖心や強迫観念 などは異民族 には理解 しがたい一面が ある。付言すれば、古代の イベ リア半島 とユ ダヤ民族 の交渉史については、かつて 『旧約聖書』の 「列王記」、 9章26節、「イザヤ書」、23章 1節、その他r新約聖書』 の 「ローマ人への手紙」、15章22節 、の記述 などがユ ダヤ民族 とイベ リア半島の関係 に言及す るものだと見 な されたが、今 日の一般的な認識では旧約聖書の記述 内容 は問題の絡みでは排斥 され る。へスス ・ベ ラエス ・デル ・ロサルの研究 によると、ユ ダヤ人の居住 に関 してスペインに残 る最古の立証可能な物的証拠 はメ リ ダ(Mirida)に保存 された紀元後 2世紀頃の墓碑銘 に確 認 され るとす るが、3 しか しそれ とて も墓碑に記載 さ れた人物 がキ リス ト生誕以前か らイベ リア社会の一員 であったユ ダヤ人の子孫なのか、あるいはキ リス トの 死後に中東か らイベ リアに到着 したユダヤ人の子孫 な のかは特定で きない とい う。
2.
ローマ ・カ トリック教会の成立とイスパ
ノ ・ローマ人
キ リス ト教の西 ヨーロッパ地域への布教の拡大 とそ の影響力はローマ ・カ トリック教会の組織的発展 と表 裏一体の関係 にある。 とりわけローマ ・カ トリック教 会の草創期の重要な節 目では、 ローマ帝国の属州に組 み入れ られた後 にイベ リア半島に開花 した豊鏡な文明 が世 に送 り出 した幾 多の教養人や宗教者が教会の組織 化 と神学の発展 に多いに貢献 した。 この件に関 して筆 頭 に上 げ られ るの がオ シオ(Osio、257年 ?-357年) であろう。 この人物 について フランシスコ ・ウガルテ は次のよ うに述べ る。 西暦323年 には、コンスタンチ ヌス帝 が福 音 に帰依 し、それによってキ リス ト教がロー マ帝国の異教に勝利す ることとなった。皇帝 を歴史 に残 る改心 と決断に導いたのはコル ド バの司教 オシオであった。中略。オ シオはか ってローマの異教権力か ら拷問を受けた経歴 を持つ。彼 は西暦4世紀の聖職者の中では最 も卓越 した人物であ り、ローマ帝国 をくまな く行脚 して福音 を述 べ伝 えた ことで知 られ る。やがてその名声は帝国の権力中枢部に及 び、コンスタンチヌス帝の宮廷 に召 されて皇 帝の聴罪師 と助言役 を拝命す る。彼はまたキ中世アル ・ア ンダルスにおけるユ ダヤ系住民の社会的地位 について リス ト教精神 を反映 させた弱者救済 と奴隷解 放 をうながす帝国 ローマ法典の成立に尽力 を 注いだ一人で もある.彼の数 ある業績の中で 歴 史的に最 も意義深い出来事は彼 がニケアで 開催 された宗教者会議の議長 を努めたことで あるO当時 F新約聖書Jの解釈 には様 々な議 論や疑問が投 げかけ られた。聖書解釈 をめ ぐ るこのような状況 を背景に出現 したのがア リ ウス派のキ リス ト教である。 この宗派の開祖 はアレハ ン ドリアの司祭 ア リオである。 この 一派はキ リス トを単なる予言者の一人 と見な し、キ リス トの神性 を否定 した。新約聖書の 解釈 をめ ぐりさまざまな議論 と疑問の渦 中に あって当時の信徒の心は揺れ動いた。ア リウ ス派の説 くキ リス ト教 はローマ帝国巽下のゲ ルマ ン系種族 に広 く浸透 した。新約聖書の解 釈 をめ ぐるこの様 な危機的状況 を克服す るた めにコンス タンチヌス帝 は
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年 に小 ア ジア のニケアで公会議 を開催す ることを呼びかけ た。公会議での決定事項は後のキ リス ト教会 の歴史 に最 も重要 な意味 を持つ。 会議 を指挿 したオシオは出席者のア リオ と白 熱 した大論議 を交わ した末に三位一体説 を擁 護す る聖書解釈に勝利 をもた らした。後 にア リオは ローマ帝 国の辺境 に蟹居 を命 じられ る。中略。 しか しなが らア リウス派の信仰 は その後 も頑強に継承 され、西暦7世紀 までそ の余命 を保 ち続 ける。テオ ドシウス帝 [イベ リア半島セゴビア出身、ローマ皇帝在位(
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年-3
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年)]の治世3
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年 にはふたたびア リウ ス派キ リス ト教 を異端宗派 と見なす帝国の公 式見解が発令 された。16世紀 にスペインの カ ル ロス5世がプロテスタン トの宗教改革運動 に対抗 してキ リス ト教徒の結束 をうなが した 信仰態度 などはこのようなローマ ・カ トリッ ク教会の歴史的流れに沿 う宗教的立場 を反映 す る。 4 スペ インの視点か ら教会史の内なる歩みを考 えるフラ ンシスコ ・ウガルテの論述の骨子 は草創期の ローマ ・ カ トリック教会の組織的発展 に貢献 したイベ リア半島 の精神文化の重要性 を力説 す る。 イベ リア半島 は西 ローマ帝B)崩壊後 も宗教界の舵取役 として重要 な任務 を遂行す ることになる。その遠因は西 ゴー ト族の西進 にある。なぜ ならばそれによって三位一体説 を唱 える カ トリック教会 と異端の印 を押 されたア リウス派のキ リス ト教がイベ リア半島 を軸 に して対立の構図 を深め ることになるか らである0410年 に東 ローマ帝国の国 政 を無視 して西ゴー ト族の主要部隊 を率いて帝国の首 都 ローマの権威 を失墜 させ たアラリッコは、後 に民族 を率 いて西進 し、ガ リアのアキ タニアで独立王朝 を建 てる。やがて北方の フランク族の勢力に屈 した彼 らは 南へ敗走 し、主力部隊がイベ リア半島に到着す る。 イ ベ リアへの進出を果た した彼 らは しば らく東北部で移 動 を繰 り返すが、6世紀の中頃 に至 って トレ ドに都 を 定めて王朝 を樹立す る. この西 ゴー ト王朝の成立 はイ ベ リア半島史に歴史上初の統一王朝 として名 を残す も ので、半島史に新 たな歴史の幕開けを告げるもの とな る。宗教の側面においては半島における彼 らの存在 は かつてオシオが解決 したはずの宗教問題の再燃 を意味 した。なぜ な らば西 ゴー ト族 は民族 をあげてア リウス 派の信奉者であったか らであるO彼 らが早 くにキ リス ト教 に帰依 したのはウル フィラと称す る人物の働 きに よるO彼 は民族的には西ゴー ト族の出身で、 4世紀 に 聖書 をギ リシャ語か らゴー ト語 に訳 した人物 として知 られている.イベ リアに進出 した西 ゴー ト族 は、圧倒 的に文化的優位 を誇 る半島の ローマ文化に融合 を余儀 な くされ、ほどな くして民族 の吉葉 を喪失 したといわ れ る。 しか し宗教の問題 は容易には解決 されず、カ ト リック教会 との融和 に至 るまでは一連の王朝内での血 なまぐさい争いを経 なければな らなかった。 この経緯 について著者 は 「中世 スペ インにおける拝借詩 と叙事 詩 に関す る一考察」のなかで次のように言及 した。 西ゴー ト族が民族の言語 を喪失 したよ うに、 ア リウス派のキ リス ト教 もやがてはローマ ・ カ トリック教会 にその地位 を譲 り渡す時が来 る。5
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年 に トレ ドに都 が築 かれてか ら約8
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年後の5
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年の ことで ある。 しか しそれ は父 と子の間で争われた陰惨極 まりない権力闘争 を経 て成 し遂 げ られ た改宗劇 で あ った。西 ゴー ト王 、レオ ビヒル ド(在位5
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年∼5
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年)、 はア リウス派の宗教の下で国内をよ り堅固に 統一す るために半島南部でカ トリック教会 と 同盟 を結んでいた ビサ ンチ ン系のイスパ ノ ・ ローマ人の居住地域 に軍事侵攻 を行 った。王 の第一王子であったエル メネヒル ドは妻やセ ビリアのカ トリック大司教聖 レアン ドロ (西 ゴー ト時代第一級の博学者で r言葉の語源』 を著 した聖 イシ ドーロの実弟)の勧めにより カ トリックに改宗 し、南部のカ トリック教徒 が一斉蜂起 したときには抵抗軍の総指揮官 と して父親 (レオ ビヒル ド)の軍事侵攻 に対峠 した。中略。最後にはエル メネヒル ドが逮捕 され るにおよんで終結 を迎 える。後 に彼 は地 中海 に臨む タラゴナに蟹居 を命 じられ、その 地でゴー ト王朝の政争劇の犠牲 に されて抹殺 された。中略。5
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年 に レオ ビヒル ド王 が世 3-上 聞 を去 ると、二番 目の王子 レカレー ドが王位 を 継承する。彼 もカ トリックへの改宗者であっ たが、自分の王位継承が確定す るまではその ことを隠 して周知に事 を進め、王位 を継承す るや否や自分がカ トリック教徒であることを 公然 と表明す るにいたる。5 西ゴー ト王朝の特徴の一つに民族的排他主義がある。 強大なローマ帝国の秩序が崩壊 して西 ヨーロッパが新 たな世界秩序 に向かいつつあった5世紀か ら6世紀 に あっては、民族の生存権 をかけた民族主義の台頭は不 可避的な時代の潮流であった。俗 ラテン語か ら派生 し たロマンス話語の出現 もこのような時代の流れに呼応 する。近年 ソビエ ト連邦崩壊後に噴出 した民族間題に も類似の現象が見て取れる。ただ し西ゴー ト王朝の出 現 が この ような時代背景 を背負 っていたにせ よ、西 ゴー ト族の 「血の純潔」 を重ん じた態度 には宗教 も絡 んだ強い血族意識に根差 した民族的排他主義が潜む。 その一例 が王朝内でのユ ダヤ人排斥政策で ある。西 ゴー ト王朝の宮廷ではユダヤ系住民が役職に登用 され ることはなかった。王朝初期には西ゴー ト族 と先住の イスパ ノ ・ローマ系市民 との婚姻 も法律で禁止 され、 その廃止 には 「ゴー ト法典」- [654年 に発布 され、 ローマ法典 (成文法)とゲルマンの慣習法 (非成文法) が敵合 して成立 した法典 吐ex visigothorum):スペイ ンの歴代の法体系の原典]-の出現 を待 たなければな らなかった。イベ リア出身者でオシオに次 ぐキ リス ト 教界の重鎮はパ ウロ ・オロシオ (390年 ?-418年 ?) であろうO彼はタラゴナ (西ゴー ト王子エルメネヒル ドが恕居を命 じられた町oその植民都市 としての起源 は古 く、かつてはイベ リア半島の領有 をめぐってロー マ軍 とハ ンニバル率いるカル タゴ軍 との軍事衝突の原 因にもなった。)のイスパ ノ .ローマ人の家系に生 まれ た。彼は西 ローマ帝国の崩壊劇 を身をもって体験 した 歴 史家そ して神学者の一人で、同時代の先輩格 、聖ア グスチヌス (356年∼430年)に直接教 えを請い、歴史 や神学の学問を修めた。彼が著 した r異教徒に対抗す る歴史jは教会 を擁護す る思想や歴史観 を展開 させた もので、彼の教護論は数世紀 に渡 り中世 ヨーロッパの 精神活動に多大な影響 を与 えたと言われ る。オロシオ の行動 と功績 についてフランシスコ ・ウガルテは次の ように述べる。 聖 アグスチヌスがローマの崩壊劇 に歴史的解 釈 を与 えるために著 した F神の国』をカル タ ゴ (北アフリカ沿岸)近郊の ヒボナで執筆 し ていた頃、イベ リア半島に到来 したスエヴイ 族 (ゲルマン系)やアラノ族 (イラン系)の 迫害 を逃れて若い司祭オロシオがヒボナを訪 篤 れた。訪問の 目的は帝国崩壊の意味について 聖人に教 えを請い、聖人 と意見を交わすため であった。偉大な師は若い学僧オロシオに普 遍的な歴史について書 くことを勧めるO師の 助言 に従 いオ ロシオは全7巻 に及ぶ歴 史書 r異教徒に対抗す る歴史j(Historiccontr apa-ganos)を書 き上げる。オロシオの著書はその 後数世紀に渡 り中世 ヨーロッパの思想や歴史 の解釈に不可欠な書物 として横われた。 9世 紀 には英国のアル フレッ ド王 [在位 (848年 ∼899年):彼は侵略者デーン人から英語 を守 り、学問を奨励 し、オ ックスフォー ド大学を 創設 した、などの功績 によ り大王 と称 され る]がオロシオの著書 を英語に翻訳 し、また
(
F神曲」の著者)ダンテもオロシオを称賛 し た。 6 賢人オシオとオロシオが活躍 した時代はいずれの場合 もスペインにおける西ゴー ト族の統一王朝の誕生より も年代的には古い。その ことは、今 日の南欧の人々の 心の深層に宿 る宗教的心情がローマ帝国衰退期に台頭 した民族主義 と深い精神的な秤で結ばれていることを 物語 る。 またスペインでは西ゴー ト族の 「血の純潔」
を尊ぶ民族主義が表向 きは宗教 と結び付いてより強力 な政治権力に成長 して行った経緯がある。32代続いた 西ゴー ト王朝はその約三分の一にあたる10人の王が権 力をめぐる政争で暗柔貸されたという。それは西ゴー ト 王朝の王権が世襲制ではなく選挙による集団指導体制 の中で維持 されていたのが原因とされる。この政治体 制 はやがて王朝の弱体化 を招 き、711年の イスラム勢 力のイベ リアへの進出を許す ことになる.西ゴー ト王 朝内で市民 としての地位 を剥奪 されていたユダヤ系住 民は民族の安寧 と他民族 との共存 を願い、新興 イスラ ム勢力 との良縁 を望んで暗躍 した と伝 えられ る。西 ゴー ト王朝末期のユダヤ人社会の動向に関 して筆者は かつて紀要論文 「中世スペインの拝情詩 と叙事詩に関 する一考察」の中で指摘 した。 7Ⅰ.
ハスダイ ・イブン ・サプルについて
1.生い立ちと青年期 ハスダイ ・イブン ・サプルの幼少期 と青年期につい てへスス ・ベラエス ・デル ・ロサルはモイセス ・イブ ン ・エスラが著 した F論評 と思い出』を引用 して次の ように語 る。 ハスダイの正式の命名による名称はアブ ・ ユ ス フ ・ハ ス ダ イ ・ベ ン ・イ シャク ・イブ ン ・サプルで、ハエ ンの生 まれである。彼の中世 アル ・アンダルスにおけるユ ダヤ系住民の社会的地位 について 父 イサク ・ベン ・エスラ ・イブン ・サプルは 富裕で信心深いユダヤ教徒であった。出身地 ハエ ンのユダヤ教会の創建は彼の数ある業績 の一つであるが、ユダヤ法典 「トーラ」の学 徒や文学に身を捧げる者 を庇護 した。 息子ハスデダイは幼少の頃か ら優秀な教師 の もとで聖典に基づ く伝統的な教育 を受けて 成長 した。 しか し彼は民族教育 を具現す る職 業にはあまり興味 を示 さなかった。彼 を引 き つけたのは語学であった。書 き言葉 ・話 し言 葉のアラビア語 を徹底 して学び、ラテン語は キ リス ト教徒やコル ドバのモサラベの僧たち に学び、ロマンス語は日頃の生活の中でその 運用を習得 した。 数ある学問の中でも医学は彼 を最 も魅了 し た。医学の学習には常に意欲的に臨み、医学 の基礎学習は東方から取 り寄せたアラビアの 医学書やギ リシャの医学書 を用いて行 った。 ハスダイは他人 と接する術に長けていた。 その人当たりのよい知性豊かな性格は他人の 信用を得 るのに打 ってつけであった。彼は自 分自身とその未来に確信 を抱いていた。 8 以下においては、上述に述べ られたハスダイの資質 と 職業的知識一語学の才能、医学の知識、人当た りのよ い性格、自分 自身に対する信頼 と自信一を手掛か りに して彼の人生の諸相 を考 えてみる。
2.
薬理学者ハスダイ へスス ・ベラエス ・デル ・ロサルはハスダイの薬理 学者 としての功績 を次のように述べ る。 ほどなくしてハスダイは科学者 として名声 と権威 を自分の ものにする。 とりわけ薬理学 の分野におけるある特殊 な発見が彼 をたちま ち有名にした。発見は 「トウリアッカ」の再 生産 を可能にするものであった。 トウリアッ カは現代のペニシリンに相当する古代の妙薬 である。ハスダイは中世に至 ってこの妙薬の 調合方法 を発見する。 トウリアッカは様々な 病気の治療に用い られたが、とりわけ有毒動 物に噛まれた り刺 されたりしたときの解毒剤 に用いられた。 トウリアッカは紀元前1世紀頃からその存 在が知 られ、 ミトリダッテス ・エウバ トル王 によって発見 されたと伝 えられる。後にそれ はローマ帝国ネロの侍医アン ドロマコ (クレ タ島出身)によって効能が高められ、錠剤に なった完成 品は61の物質 を調合 した もので あった。中略。 トウリアッカは紀元 2世紀頃 にはローマ帝国内で恒常的に生産 されていた が、やがてそれが忘れ去 られ る憂 き目を見 る。 トウリアッカの成分について中世の医者 はアヘ ンやとかげの焼 き肉、その他 に種々の 物質 をあげている。 ハスダイは長期に渡 る研究の末、再度 トウ リアッカの調合方法に道を開 く発見 を成 し遂 げた。その功績が認め られ、彼はアブデラマ ン三世の宮仕 えの侍 医団の一人 に迎 え られ る。ハスダイが30歳の頃のことである。 9 上述の内容はハスダイの宮仕 えのいきさつが単なる外 交術や縁者びいきによるものではなかったことを知 ら しめる。ハスダイは科学者 としての功績が認め られて 侍医に抜擢 されたのである。そのことは当時アル ・ア ンダルスでは一芸に秀でた者には民族の出自に関係な く相当程度の社会進出が認め られたことを物語 る。宮 仕 えの奉職 を通 してアブデラマン三世 と懇親 を深めて 行 ったハスダイは、持ち前の語学力がカ リフに認めら れてカ リフアッ トの外交官、通訳官、外交文書の翻訳 官などの役職に推挙 される。3
,侍医 ・翻訳官ハスダイ アブデラマン三世の宮廷でハスダイは二つの役職 を 拝命する。宮廷医と関税局長 (外国貿易か らもたらさ れる関椀収入を扱 う部局)がそれであった。仕事が ら ハスダイは日常的にアブデラマン三世に謁見する機会 を得 る。両者の緊密な主従関係はこのような関係の中 から生 まれる。やがてハスダイはその卓越 した語学力 でアブデラマン三世の宮廷で徐々に頭角を現す。当時 北方のキ リス ト教世界 との外交交渉ではラテン語の知 識 を有する人材がアル ・アンダルスのカ リフアッ トに は不可欠であった。この時代の要請にイベ リアのイス ラム世界の側 か ら応 えたの がハ スダイで あった。彼 は、通訳官 ・翻訳官 ときには外交官 として、コル ドバ のカ リフアッ トを代表 してキ リス ト教世界 との重要な 外交交渉に臨んだ。へスス ・ベ ラエス ・デル ・ロサル の記述 か らそれ らに関す る事例 を二、三ひ ろってみ る。 ハスダイの翻訳業績のなかでデ ィオスコリ デス (ローマ帝国に仕 えた西暦一世紀のギ リ シャ人医師)の 『薬草書』(DeMateriaMe'dica) の翻訳は異彩 を放つ。貴重な医学文献の翻訳 は次のようになされた。 ビサンチンのコンスタンチヌス上世 (在位 945年∼959年)はエジプ トに出現 したファー テ ィマ朝 の勢 力拡 大 に脅 威 を感 じ、当時 -5-上 聞 ファーテ ィマ朝 といがみ合 っていたアル ・ア ンダルスのカ リファッ トに友好使節団を送 り 事の事態に備 えた。訪朝使節団の 目的はアブ デラマン三世 と友好条約 を交わす ことにあっ た。アブデラマン三世はコンスタンチヌス七 世の意向を受 け入れ、949年 にはキ リス ト教 徒の司祭 イサン ・ベン ・クライブを団長 とす る使節団をコンス タンチ ノープル に派遣 し た。同年春には東方か ら新たな訪朝団が出発 し、同年11月 9日に訪朝団はコル ドバに到着 した。 訪朝団を迎 えてコル ドバでは盛大な歓迎式典 が行われた。訪朝団を率いたのはビサンチン 帝国の条約局局長エステーバ ンであったOア ラビア語による資料にはこの訪朝団に関する 詳細な報告が極端に欠如 しているために、訪 朝団を代表 してエステーバ ンがアブデラマン 三世に口頭で伝 えたメッセージの内容につい ては何 も明 らかでない。またハスダイとこの 訪朝団 との個人的な接触に関 して もアラビア 語の資料は口を閉 ざす。 10 ただ しビサンチ ンの訪朝団か らアブデラマン三世に献 上 された品 目については文書資料による検証が可能の ようである。それによると、献上品 目にはデ ィオスコ リデスの 『薬草書』のギ リシャ語版やオロシオが著 し た r異教徒に対抗す る歴史Jなどの著作物 が含まれて いたという。それについてへスス ・ベラエス ・デル ・ ロサルは自著の中でイブン ・ググルの研究 をスペイン 語に訳 して次のように紹介 している。 Fイスラム暦337年 (西暦948年)にアブデ ラマ ン三世の もとにコンスタンチ ノープルの 皇帝か ら-通の親書 と極めて高価な献上品が 届けられた。送 られて来た品々の中にはギ リ シャ語で書かれた豪華な挿絵入 りのデ ィオス コリデスの 『薬草書J とオロシオが著 した歴 史書が含 まれていた。中略O これ らの書物 に は次のようなメッセージが添 えられていた : 《貴国にこれ らの書物 を記 した言語 に堪能 な 者がおれば辛いである。書物が語 る内容は大 いなる恵 を貴国にもた らす ことになろう)。し か しなが ら往時のコル ドバにはキ リス ト教徒 に も古代 のイオニ ア語 (ギ リシャ語の-方 言)に精通 した者は見当たらず、贈呈 された デ ィオスコ リデスの著書は しば らくアブデラ マ ン三世の私 的 な蔵書 を飾 るだけの もの と なって しまった。その頃アル ・アンダルスで はバグダッ ドか ら取 り寄せた同書のアラビア 篤 語版が出回っていた。アブデラマン三世は返 礼の親書を送 り、当該言語に精通 した人材の 派遣 を皇帝に要請 した。それに応 えて皇帝は 聖職者ニコラスを派遣 した。彼はイスラム暦 340年 (西暦951年)にコル ドバに到着 した。 その頃コル ドバでは幾人かの医師団が r薬草 書』の研究に余念がなかった。それはバグダッ トから取 り寄せた r薬草書」のアラビア語版 が訳本 と しては未完成 の域 をでない もので あったためである。医師たちの作業は主に未 確認の植物や物質をアラビア語で特定するこ とに注がれた。医師団の中で最 も研究意欲に 燃 えていたのがハ スダイ ・ベ ン ・サプルで あった。ニコラスとハスダイがいち早 く親 し くなり、互いに人間的な秤 を深めあったのは 言 うまで もない。 このように してそれまで未 確認であった種々の物資が次々にハスダイに よって特定 され、随時アラビア語に訳 されて 行った。』11 へスス ・ベ ラエス ・デル ・ロサルの解説 によると、 ディオスコリデスが著 した 『薬草書」は古代ギ リシャ の薬学の集大成で、それには約600種類の薬の原料が 記 され、挿絵入 りで薬草や薬木、油脂や鉱物 などが紹 介 されているという。問題の未完成のアラビア語版で あるが、それはギ リシャ人の聖職者エステーバ ンがア ラビア語に翻訳 したもので、その編集者は著名な翻訳 者 フナイン ・イブン ・イシャクであるとい う。12訳本 はかなり不完全なものであったらしく、それにはエス テーバ ンがアラビア語に翻訳で きなかった草木や物質 が原文のままで示 されていた。その不完全な部分を完 壁なアラビア語に仕上げたのがハスダイであった。翻 訳作業にはラテン語に造詣の深い彼の知識が幸い した と伝 えられる。ハスダイの業績は文化交流や語学教育 とい う観点か ら極めて現代性 と普遍性に富む。彼の功 績 を現代の視点で顕彰す ることは有意義であろう。
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外交官ハスダイ ハスダイは有能な外交官で もあった。北方のキ リス ト教世界 との外交交渉では、ラテン語に精通 した彼の 英知がことのほか功を奏 した模様である。10世紀のコ ル ドバのオメイヤ王朝は北方のキ リス ト教世界を相手 に二つの外交問題の処理 を余儀なくされた。その一つ は南方の イスラム教徒側に起因 した事件、他の一つは イベ リア半島の西ゴー ト系キ リス ト教国の権力闘争に 端 を発 した事件の処理であった。これ らの外交問題の 処理にハスダイの手腕が発揮 されることとなった。前 者 と後者の事件の内容 を以下に紹介する。 神聖 ローマ帝国のオ ッ トー一世 (936年∼中世アル ・アンダル スにおけるユダヤ系住民の社会的地位について
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年)は、帝国翼下の フランスや イタ リア の地中海沿岸部の社会不安 を一掃す るために コル ドバ に外交 団 を派遣す ることを決意 し た。ことの背景にはサラセン人 (イスラム教 徒)の海賊行為があった。当時同地域の沿岸 諸都市は波状的に押 し寄せ るサラセン人の奪 略行為に悩 まされていた。オ ッ トー一世は外 交手段に訴えて蛮行 を阻止するためにコル ド バに交渉団を派遣 した。交渉団に託 された外 交文書の存在は知 られていない。従 って交渉 団に託 された使命の全容 を知 ることは不可能 であるが、オ ッ トー一世の外交手段がアブデ ラマン三世に屈辱感 を味わせたのは明 らかで ある。それは対抗処置 として即座 に派遣 され た使節団にイスラム世界か らキ リス ト教 を非 難する文言が託 されたことで もわかる。これ に対 してオ ッ トー一世は態度 を硬化 させ るや 高飛車に出てコル ドバの使節団を数年間人質 に取 る外交手段に出た。その間オ ッ トー一世 は再びコル ドバに交渉団を送 りマホメッ トを 侮辱するメッセージを送 り付けることを画策 した。このような動 きが進行す る中で、コル ドバ政庁 は外交ル ー トを通 じて あ らか じめ メッセージの内容 を事前に知 ることとなる。 アブデラマン三世は事態の深刻 さに素早 く対 処す ることを迫 られた。なぜならば聖典 コー ランの教 えでは、マホメッ トの名 を汚す者は 回教の名において処刑 しなければならず、ま たそれと知 りつつ処刑 を怠 った者 には同 じ科 が課 される習わ しであったか らである。ここ に及んでアブデラマン三世はハスダイを起用 し、悲劇の回避に向けて困難な外交交渉に当 たらせた。ハスダイに課 された差 し迫った任 務は、第一に神聖 ローマ帝国の交渉団に託 さ れた文言の内容 を正確 に把握す ること、第二 にそれが伝 えられ る通 りの内容であれば予想 される事態の深刻 さを交渉団に訴 えて文言の 破棄 を促す ことにあった。ハ スダイは危なげ な く任務 を完遂 し、交渉 団の団長 を努 めた フアン ・デ ・ゴルセと個人的に親交を温める まで に至 った。フ ァン ・デ ・ゴル セはオ ッ トー一世の承諾 を仰 ぎ、それがかなえられる や携 えて来た献上品だけをアブデラマン三世 に進呈 して条約の成立に臨んだ。両者は奪略 行為 を糾弾 し、条約 を締結 した。西暦956年 の出来事である。 13 宗教や芸術の領域において偶像 を廃止 し、抽象的な幾 何学文様 を発達 させたのがイスラム文化の特徴である と言われる。それは一方において言葉に対する深い畏 敬の念 を育む文化を酸成す ることとなった。 イスラム 文化圏での詩文学の発達は一つには回教の教理的本質 と関係 していると見なされよう。 日本語には 「言霊」 とい う言葉が存在す る。言葉 を霊的な存在 と見る古代 の思想である。詩の発達にはつ とに言葉に畏敬の念 を いだくこのような人間の精神が深 く関与 して来 たので ある。中世のコル ドバでは早 くか ら聖典 コーランの読 み書 きを主体 とした初等教育が実施 された。人々の識 字率が飛躍的に向上 したのは言 うまで もない。教育や 文化活動の推進にあたっては当地における中国伝来の 麻布 を原料 とする紙漉 きの技術の貢献 も無視できない と佐藤次高は言 う。14アブデラマ ン三世が神聖 ローマ 帝国の交渉団に託 された文言 にこだわ ったの は聖典 コーランの言葉 を言霊 として とらえる敬慶な信仰心に 突 き動か された結果 と見なされる。 また凄惨 な事態の 回避 を望んだ彼の慈悲深い態度には、詩の心 を尊び学 芸 を庇護 したカ リファッ ト特有の精神的土壌が感 じら れ る。 日本の平安朝は犯罪者 を極力処刑に しなかった ことで歴史上特異な存在であると言 う。10世紀に隆盛 を極めたカ リフアッ トの王侯貴族の文化 と平安朝の公 家文化は、両者 とも学芸の庇護 と詩作す ることを崇高 な教養の証 しとした点で、類似の文化的土壌 を感 じさ せる。 さて考察 を本題にもどし、後者の事件に話題 を 移す。 レオン国の王、サ ンチ ョ ・エル ・クラッソ (クラッソは肥満の意)、はぶよぶよに肥 えた 男 で あった。 この男の肥満 の度合 いは深刻 で、他人の手 を借 りず には歩 くこともで き ず、乗馬などはもっての外、 さらには理性的 な判断す らもままならないほどであった。そ んなわけで彼が世間の物笑いのねたに された のは言 うまで もない。ここに及んで取 り巻 き の貴族たちは謀議 を重ね、無能で役立たずの 王を排斥することに した。 かつて同 じ試みで失敗 したことのあるフェ ルナン ・ゴンサ レスなる人物が再び事の遂行 に乗 り出 し、レオン人の不平分子 をかつ ぎ上 げることに成功す る。958年の春の某 日、つ いに軍隊 を後 ろ盾 に して王 を国外へ追放 し た。王は祖母の トーダと共にナバ ラのバ ンプ ローナヘ逃亡 した。そのあいだ国の不平分子 を扇動 した貴族たちは合議 を重ね、サ ンチ ョ の従兄弟にあたる人物 をかつ ぎ出 し、この男 をオル ド一二 ョ四世の名で王に即位 させたO 歴史家の描写に従 えば、新たな王はせむ し 男で、性格は意地汚 く、他人にへつ らうこと しか知 らない小心者であった。世間はにわか -7-上 聞 づ くりのこの王 をオル ドーニ ョ ・エル ・マ一 口 (マ一口は 「悪い」の意)のあだ名で呼ん だ。この男 を壬に仕立て上げざるを得なかっ たのは、王家の血筋には他 に男性がいなかっ たのが原因であった。 肥満王の祖母 トーダは、追放の直後か ら孫 の王権の回復に乗 り出 した。王権 を奪取する にはや らねばならないことが二つあった。一 つは強力な軍事同盟の確立、二つ 目は孫に肥 満克服のための適切な治療 を施することので きる医者 を捜 し出す ことであった。この二つ の 目的の達成 にはコル ドバの支援 を仰 ぐこと が最良の策であると思われた。中略。 この要請は受け入れ られ、アブデラマン三 世の命によりハスダイがバ ンプローナヘ赴 く ことになった。 目的地でハスダイは依頼者に 次の二つの事 を伝 えた :肥満の治療は最新の 医療技術 を誇 るコル ドバ で行 うのが望 ま し い ;兵力の支援には協力をお しまない。但 し その協議 はコル ドバ で行 うことを条件 とす る。カ リフアッ トの意向は受け入れ られ、肥 満王 と トーダは従者 を従 えて、歴史上キ リス ト教徒の王 としては前例のない、コル ドバ入 京 を敢行 した。ハスダイは交渉の席で依頼者 にカ リフアッ トの支援 と引 き換 えに作戦拠点 となる10の砦 を献上するように授業 し、その 獲得に成功 した
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年、カ リファッ トの イ スラム軍はナバ ラのキ リス ト教徒 と組んで レ オン国 とカステ イリア国を攻め、肥満 を克服 したサンチ ョ一世 を再び王に蘇 らせた。肥満 の治療は幾種類 もの薬草 を用いた食事療法 と 運動 を組み合わせたものであった。ハスダイ はあらか じめ肥満王に、肥満克服の第一歩 と してナバ ラか らコル ドバへは歩いて旅するこ とを勧めた。助言は受け入れ られ、実行 され た模様である。 15 アブデ ラマ ン三世 はハ スダイの偉業 を称 え、カ リ ファッ トのユダヤ人社会のナシー (ユダヤ教徒 を社会 的に統率す る地位)に推挙 した。ユダヤ社会全般 を統 率す る地位 を与 えられたハ スダイは、広 く地 中海世 界、中東、西南アジアに散在 したユダヤ人社会 との交 流 を活発に推進 し,世界に点在す る同朋の精神的安寧 と福祉の向上に努めた。10世紀前半期にイタリア南部 で起 きたユダヤ教徒迫害事件に関 してハスダイがコン スタンチノープルの ビサ ンチ ン帝国の公権力に遺憾の 意 を表明 したのはその一例である。後に迫害事件はハ スダイの外交努力によって解決に向か うが、時の ビサ ンチ ン帝 レカペ ノス (在位9
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年∼9
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年)はキ リス ト 鴇 教徒の宗教的感情に配慮 して、自分の名前が表に出な いことを条件に迫害事件の鎮静化を図った。この事件 の表向 きの処理にはハスダイの名前が使われたとされ る。16ただ し注視 しなければな らないのは、ハスダイ の外交努力の結実は彼の個人的な同胞愛 と尽力だけに 負 うものではない。外交交渉にあたっては、彼が中世 の地 中海世界で 「世界の宝石」 と称 えられたコル ドバ 政庁の権勢 とアブデラマン三世の威光を後ろ盾 として いた、ことを見逃 してはならない。おわ りに
へスス ・ベ ラエス ・デル ・ロサルは、作者不詳の伝 記 を引用 して、アブデラマン三世に授けられた名誉称 号の由来について次のように語る。9
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年、アブデ ラマ ン三世 は、彼の栄誉 を称 えるア)レナシル ・リデ ィン ・アラー (アラー の神に勝利 をもたらす者の意)の称号を、イ ブン ・ハ フスンの乱 を平定 し、キ リス ト教徒 に対する初期の戦いに勝利 したときに拝受 し た。 17 称号の由来が物語 るように、アブデラマン三世は類い 希な名君 として後世に名を残 した人物である。10世紀 の ヨーロッパで繁栄の頂点を極めたコル ドバの名声は 名君 アブデラマン三世の卓越 した政治手腕 を抜 きに し ては語れない。コル ドバ政庁は幾多の困難を克服 して イベ リア半島のほぼ全域 を軍事的に平定 したO平定後 のカ リフアッ トは当時 としては西 ヨーロッパ並びに地 中海地域 における最高の文化水準 を誇 る王国に成長 し、 「世界の宝石」 と詣われた王国の都 コル ドバは憧 れの都 として羨望の眼差 しを独占した。カリファッ ト の想像 を絶す る繁栄はアブデラマン三世の政治手腕に 負 うものであったO彼はカ リファッ トに居住する諸民 族 (イスラム教徒-アラブ ・ベルベル人、モサラベエ イスパ ノ ・ローマ系キ リス ト教徒、ユダヤ教徒)の共 同体 を手厚 く保護 し、それぞれの宗教には寛容な精神 で臨み、民族間の障壁 を排除することに心 をくだいて 人心の融和 を図った。ハスダイはこのような中世の名 君に寵愛 され、自分の資質 と能力を思 う存分に発揮す る機会 を得たのである。ハスダイの晴れがましい活躍 の様が即座 に周辺のユダヤ人共同体に伝 えられたのは 言 うまで もない。やがてあまたの離散地からユダヤ人 が続々とカリフアッ トに移住 して来 るようになった。 本論の冒頭で余部福三が 「ユダヤ教徒に対する厚遇の ため、マグ リブをは じめ、地中海全域から、非常に多 くのユダヤ教徒がアンダルスに移住 し、さなが らアン ダルスはかれ らのパ ラダイスのような観 を見せ るよう中世アル ・アンダルスにおけるユ ダヤ系住民の社会的地位 について になった」 と描写 しているくだ りは、カ リフアッ トで ハ スダイが成 し遂げた数々の金字塔的業績 を無視 して 語れ るものではない。 しか し順風満帆の人生 を歩んだ かにみ えるハ スダイにも出世が際限 な く約束 されたわ けではなか った。ハ スダイがいかに傑 出 した人物 で あったにせ よ、彼がカ リファッ トの権 力機構の頂点に 立つ大臣に推挙 されることはなか った。他の民族の出 身者が大臣の要職に就 くことは厳格 に戒め られ、排除 された。アラブ貴族の団結心に亀裂が生 じてはならな かったのである。中世的精神の限界 を物語 る良 き事例 であろう。 注 1.余部福三 :Fアラブとしてのスペイン』23ページ 2. Pelaez del Rosal ,Jesiis. Los Judlos en C6rdoba.
C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992.p.13. 3.Pelaez delRosal,Jes占S.Los JudJ'os en
C6rdoba.
C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,p.15. 4.Ugarte,Francisco.Panoramade la Cl'V7'h'zacl'6n Espa汚ola. New York:The Odyssey Press,Inc.,1963, pAgs.39-40. 5.上聞篤 :「中世 スペ インにおける拝情詩 と叙事詩 に関す る一考察」 F名桜大学紀要九第2号 、37ページ 6.Ugarte,Francisco.Panoramade Ja CL'V7'JL'zac16n Espaiiola. New York:The Odyssey Press,Inc.,1963, p.42.
7.
上聞篤 :「中世 スペ インにおける拝借 詩 と叙事詩 に関す る一考察」 r名桜大学紀要』、第2号、42ページ8.PeはezdelRosal,Jesds.LosJudl'osen C(∼rdoba. C6rdoba:EdicionesEIAImendro,1992,p.66. 9.Pel孟ezdelRosal,Jesds.LosJudlosen C6rdoba.
C6rdoba:EdicionesElAlmendro,1992,Fags.6 6-67.
10.PeldezdelRosal,Jesds.LPSJudlosen C6rdoba. C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,p.68.
ll.PelaezdelRosal,Jesds.LosJudlosen C(うT・doba. C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992.p.69. 12.PelaezdelRosal,Jesds.LogJudJ'osen C6Tdoba.
C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,p.70. 13.PelaezdelRosal,Jesds.LosJudl'osen C(5rdoba.
C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,p畠gs.7 0-71.
- 9
-14.佐藤次高 :
r
イスラーム世界の興隆j169ページ 15.PelaezdelRosal,Jes血slosJudl'osen C(∼rdoba.C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,pAgs. 71-73.
16,PelaezdelRosal,Jesds.LosJudlosen C(うrdoba. C6rdoba:EdicionesEIAlmendro,1992,pAgs,7 4-75.
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