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カロリーネ ─ その書簡集が問いかけるもの

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全文

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著者

畠中 美菜子

雑誌名

東北ドイツ文学研究

53

ページ

87-105

発行年

2010-10-30

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127121

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カロリーネ ── その書簡集が問いかけるもの

畠中 美菜子

カロリーネ Caroline,ドロテーア Dorothea,ラーエル Rahel,ベッティーナ Bettina, ドイツロマン派に関わりのあるこれらの女性たちが,姓を伴わず,名前だけで呼ば れることが多いのは,やはり理由があると思われる。カロリーネやドロテーアのよ うに,幾度かの結婚によって姓が変わったので煩わしいということもあるだろう。 ラーエルやベッティーナのように,結婚前の名前での活動がすでに知られていた場 合もある。あるいは,この女性たちに愛すべきものを感じる後世の人々の気持ちも そこに多少はたらいているかもしれない。しかしこれら個性的な生き方をした女性 たちには,ニュアンスの違いはあっても,何といっても自立を強く志向し,それが ある程度実現した人間性に特徴がある。今から 200 年も前,18 世紀後半から 19 世 紀前半にかけて生きた彼女たちは,当時のドイツの一般的な女性が因習や「常識」 などに縛られていた社会的な制約を考えると,知的・経済的環境に恵まれていたと はいえ,やはり特別な存在だったと言うことができる。そのような彼女たちには, 結婚したパートナーの姓をつけて呼ばれなければならない必然性はほとんどないの だ。現代ならばこれは「別姓問題」と重なる面があるかもしれない。個としての存 在で十分に文学史にたしかな痕跡を残した女性たちと言っていいだろう。 ここでは,リカルダ・フーフがあの『ロマン派』(第 1 部 1899 年,第 2 部 1902 年)1)の冒頭に,「シュレーゲル兄弟」に続いて一章を割き,作家らしい直感と鋭い 洞察力をもってオマージュを書いたカロリーネを取り上げたい。フーフのカロリー ネ観の中で目立つのは,純潔感の強調である。嵐のような人生経験の中で一本通っ て揺るがないのは,自分自身への信頼と自覚,「夢遊病者のようにたしかな」幸福 感だとする。すぐれた文学者マルガレーテ・ズースマンの『ロマン派の女性たち』 (初版 1929 年)2)は,このテーマを中心にすえて論じた嚆矢と言うことができる。 ここでもカロリーネは最初に取り上げられ,「ロマン派とは何か,フリードリヒ・ シュレーゲルの苦闘する奥深い定義や,ノヴァーリスの讃歌,小説,メールヘンに

1) Huch, Ricarda: Die Romantik. Ausbreitung, Blütezeit und Verfall. Tübingen 1951 2) Susman, Margarete: Frauen der Romantik. Jena 1929

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劣らず明瞭にそれを私たちに語るのは,カロリーネの生の姿である。」3)とまで言い 切っている。カロリーネがその生でもって直接的に明らかにしたものを,彼らは後 から形象や象徴で書きつけただけだというのである。ズースマンの文章にはフーフ の影響も垣間見られるが,彼女が大きな共感をこめて描き出しているのは,愛娘ア ウグステの死からシェリングとの結婚にいたるまでのカロリーネの痛ましい苦しみ と再生である。 ドイツロマン派の女性たちに関する書物や論文は,最近に至るまで多数出版され ていて,枚挙にいとまがない。2009 年 7 月にも 350 ページを越えるカロリーネの伝 記が出たばかりである4)。1970 年代,80 年代に書かれたものが近年になってリメイ クされ新たに市場に出ている例も一書にとどまらない。カロリーネの波乱に富んだ 生涯は,小説に仕立て上げる格好の素材を提供してもいる。最近注目されたサフラ ンスキーの広汎な著作『ロマン主義。ドイツの一事件』(2007 年)5)の中では,イェー ナのロマン派の集いを記述した箇所で,「忘れてならないのは背景にあった聡明な 女性たちである。モーゼス・メンデルスゾーンの娘でフリードリヒ・シュレーゲル の生涯の伴侶,ドロテーア・ファイトや,この時期シェリングに惹かれるのを感じ ていたカロリーネ・シュレーゲル」6)と数行で片付けられているが,彼女たちに, いわゆる作品と呼ぶことのできるものがほとんどないのだから,その観点からすれ ばこの扱いは当然かもしれない。 1 カロリーネ自身の残したものと言えば,まず何といっても書簡集である。最後の 夫シェリングの娘婿にあたる歴史学者ゲオルク・ヴァイツGeorg Waitz が収集し1870 年にはじめて世に出した貴重な書簡集をベースとして,1913 年エーリヒ・シュミッ トが新たに編集し,インゼル書店から出版した増補版が『カロリーネ。初期ロマン 派の書簡集』全 2 巻7)である。そのシュミットの序説と詳細な注が,数多くのカロ リーネ本の出発点になっているのは疑いない。この書簡集が読書人の間に少なから ぬ興味と関心を呼び起こしたことは,たとえばリルケの読書メモ Lese-Blätter(1914 年)8)からも知ることができる。またホフマンスタールは自ら編集した『ドイツ読 本』Deutsches Lesebuch(初版 1922 年,増補再版 1926 年)にカロリーネのゲーテあ て書簡を取り上げているが,その「銘板」Gedenktafel と名づけた収録作家解説の中 3) Susman, S. 29

4) Roßbeck, Brigitte: Zum Trotz glücklich. Caroline Schlegel-Schelling. Biographie. Pantheon 2009

5) Safranski, Rüdiger: Romantik. Eine deutsche Affäre. Hanser 2007 6) Safranski, S. 84f.

7) Caroline. Briefe aus der Frühromantik. Nach Georg Waitz vermehrt und hrsg. von Erich Schmidt. 2 Bde. Insel 1913. 以下 Bd. 1 を CI, Bd. 2 を CII と記す。数字はページを表す。 8) Rilke, R. M.: Sämtliche Werke, Insel, Bd. 6. S. 1056-1059

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で,「比類なき手紙の書き手」カロリーネを「イェーナ・ロマン派の誇り Zierde」9) と紹介している。 この書簡集はカロリーネが書き送ったものが大半をなしてはいるが,そればかり でなく,フリードリヒ・シュレーゲルや A. W. シュレーゲル,ノヴァーリス,娘の アウグステなどから彼女にあてた手紙も収録されている。 さて,この書簡集に即してカロリーネの生涯の足跡をたどる前に,彼女がこれ以 外に残したものを点検・確認しておくことにしたい。このことについて詳細に調べ 上げた研究として,私たちは幸いエラース Oellers の地道な調査に拠ることができ る10)。まずイェーナ時代の夫 A. W. シュレーゲルのシェイクスピア翻訳にカロリー ネが大きく貢献したことは,シュレーゲル自身の証言から分かっている。とりわけ 明らかなのは,「ロミオとジュリエット」訳へのカロリーネの全面的な協力である。 またこの戯曲を論じた論文は Die Horen 誌に採択することをゲーテが支持し,それ はシュレーゲルの名で現れた。シュレーゲルはカロリーネの意見につねに全幅の信 頼を置いていて,二人の共同作業の中で決定を下すのはいつもカロリーネだったと いうティークの証言もある。イェーナ時代,1796 年から 99 年にかけて,A. W. シュ レーゲルは 300 にも及ぶ書評,劇評を発表したが,そのうち 50 以上はカロリーネ との共同作業ではないかと言われる。シュレーゲルの,そしてのちにはシェリング の文学批評の仕事にカロリーネが関与していたことも分かってきた11)。 さらに興味深いことに,カロリーネは小説の構想を書き残している。わずか 2 ペー ジほどの明らかに自伝的な内容のもので,E. シュミット編の書簡集第 1 巻の補遺 Anhang の中で公にされた12)。編者注によると,イェーナ時代,1798 年から 99 年に かけてのものと推測される。というのもこの頃,フリードリヒ・シュレーゲルやノ ヴァーリスがカロリーネにあてた手紙の中で,しきりに小説を書くように勧めてい るからである。フリードリヒは「ちょっとした小説 Romänchen を書いては」と促し (1798 年 10 月,1799 年 3 月)13),ノヴァーリスは「どうぞ小説に手を伸ばしてく ださい。ヴィルヘルムがそれに詩をつけてくれるでしょう。そうしたらすばらしい 二重作品 Doppelwerk になることでしょう。」(1799 年 2 月)14)と書いている。この小 説の見取り図であるが,カロリーネを思わせる主人公の性格がまず記述される。「自 立した,同時に愛すべき人間」であり,誘惑的な面をもっているが,それは軽はず みな気持ちからというより楽しい気分から彼女自身よしとするのである。しかし心

9) Deutsches Lesebuch, hrsg. v. Hugo von Hofmannsthal. Fischer 1952. S. 340

10) Oellers, Norbert: Caroline Schelling, in: Deutsche Dichter der Romantik, hrsg. v. Benno von Wiese, 2. überarbeitete und vermehrte Aufl., Erich Schmidt 1983. S. 168-196. 1971 年の初版 にはこの論文は含まれていなかった。

11) この項については,Vgl. Oellers, S. 183ff. 12) CI 662ff.

13) CI 465, 470, 516 14) CI 511

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の中には「品位,気高さ,うるわしい心情のきわめて神聖なまじめさがやどってい る。彼女の精神は明晰で,もって生まれたものだが,養われたものでもあるに違い ない。あまりに活発な感受性がときに精神を混乱させることがあるかもしれない。」 などとその性格がまず提示されている。「彼女の青年期はたいして意味深いもので はない」と記し,学者の父,早世した夫など自伝的な素描があり,ガブリエーレと 名づけた主人公が 20 歳のところでプランは中断されている。いわばカロリーネの 自画像ともいうべき性格規定がたいへん興味深い。とくに注目されるのが「自立し ている selbständig が同時に愛すべき liebenswürdig」という記述である。やはり自ら その自覚があったことがわかる。「識見と趣味をもっていた」カロリーネがその小 説を完成していたなら「ロマン派の小説の中でもっともまとまったgeschlossenst もっ ともいきいきとした lebendigst ものになっていただろう」と述べているのはリカル ダ・フーフである15)。 2 カロリーネ自身が「危険にみちた生 gefahrvolles Leben」16)と呼んだ彼女の生涯の 輪郭を,書簡集にもとづいて重点的に押さえておこう。 1763 年カロリーネは東洋学教授ミヒャエリス Michaelis の長女としてゲッティン ゲンに生まれた。母親との関係はあまり良いものではなかったらしい。ミヒャエリ ス教授宅には学者・知識人の来客も多く,ゲーテが 1783 年ゲッティンゲンに滞在 したときには来訪を受け,カロリーネは「ヴェールターの作者」との出会いを興奮 気味にルイーゼ・ゴッターLuise Gotter に報告している。生涯の友となり,数多くの 手紙をカロリーネが書いたこのルイーゼとは,12 歳から 2 年間教育のため送られた ゴータ Gotha で知り合った。(カロリーネの死後,ルイーゼの末娘パウリーネがシェ リングの夫人となる。)図書館司書 L. W. マイヤーMeyer に,友人テレーゼ・ハイネ Therese Heyne(言語学者ハイネ教授の娘で,のちゲオルク・フォルスターGeorg Forster と結婚−離婚)と同時に恋におちる。カロリーネはのちにこのマイヤーにあてて興 味深い手紙を多数書くことになる。 1784 年 6 月,隣家の息子ベーマーBöhmer と結婚。鉱山医 Bergmedikus として赴 任する夫とともにクラウスタール Clausthal へ移住。夫が急死するまでの 4 年間,こ の小さなハルツ山中の町で,退屈をかこちつつ家事と育児にたずさわる。一方で, 妹に頼んでたびたびゲッティンゲンから本を取り寄せ,知的欲求をみたしている。 1785 年に生まれた長女アウグステ Auguste は,15 歳で病死するまで,波乱多い母 親の大きな支えとなる。 最初の夫の死後,カロリーネはいったんゲッティンゲンの実家に帰る。2 人の小 15) Huch, S. 280 16) CII 62

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さい娘と生まれたばかりの男の子(下の 2 人は幼児のうちに亡くなる)を連れての 里帰りは,母親と衝突することが多かった。息苦しさから逃れるように,以前から 付き合いのあったマイヤーや「レノーレ Lenore」の詩人 G. A. ビュルガーBürger と 交流したほかに,サセックス公の王子たちの家庭教師で一時ゲッティンゲンに滞在 していたゲオルク・タッターGeorg Tatter という人物がカロリーネの心を奪った。彼 については非常に親しい関係だったということ以外,詳しいことはほとんど分かっ ていない。二人の間で交わされたという多くの手紙はすべて破棄されて残っていな いからだ。タッターもマイヤー同様,カロリーネにたいしては優柔不断な態度に終 始したように見える。このような時期,21 歳のA. W. シュレーゲルが学生としてゲッ ティンゲンに現れる。端正で何ごとにも几帳面で勉強家の青年は,ハイネ教授や詩 人ビュルガーに愛されたが,崇拝する 4 歳年上のカロリーネからは冷たくあしらわ れたようだ。もっとも,よく引用される「シュレーゲルと私なんて!書きながら笑っ てしまうわ。いいえ,これは確かよ──私たちには何も起こらないってこと。」17) は,妹ロッテに宛てた手紙の中に書かれているので,額面どおりに受け取ることを 控える評者もいる。 自由な空気を求めていたカロリーネは,ひとまず仲のいい異母兄フリッツのいる マールブルクに逃れる。ここからマイヤーに宛てて書いた長い手紙の中にこんな文 章が見られる。「神々や人々に逆らってでも私は幸福になりたいのです──つまり 私を苦しめるどんな辛さにも負けることなく──その中にただ私の力だけを感じて いたいのです。」18)自由と幸福への欲求が,この頃からカロリーネを突き動かして いた。 カロリーネの生涯にとって大きな意味を持つ最初のできごとは,フランス革命の 空気がもちこまれていた激動期のマインツに滞在したことだろう。ゲオルク・フォ ルスターと結婚してかの地に住んでいた友人テレーゼの招きでカロリーネが小さな 娘を連れてマインツへ赴いたのは,1792 年 2 月のことだった。後から見ると,これ は一つの大きな決断だった。その 2 年前,つまりバスティーユ襲撃の翌年にも,カ ロリーネはマインツを訪問し,旅行の多いフォルスターの不在中に 4 週間逗留した ことがあった。旅行記作家,自然科学者,民族学者として大きな仕事を残したゲオ ルク・フォルスターは,カロリーネが親しく接していた 1792−93 年には政治的志 向を強め,マインツ共和国のリーダーであり,マインツ・ジャコバンクラブの会長 となって,同志たちの精神的支柱であった。マインツはフランスのキュスティーヌ 将軍の下,占領されていたのである。フォルスター家のすぐ近くに住んだ(同居し ていた時期もあるらしい)カロリーネは,そのお茶の席などでたくさんの革命にま つわる話を聞いて刺激を受け共感し,ミラボーやコンドルセなど「革命文学」を読 む。彼らはともにエロイーズのアベラールあて書簡を読み,ゲーテの喜劇「大コフ 17) CI 191 18) CI 220

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タ」に失望の声を上げる。このようにして充実した濃密な時間を過ごした。フォル スターたちの話から「多くの考えることを与えられました。」「私たちは今何と言っ ても,最高に興味深い政治的な時期にあるのです。」19)とルイーゼ・ゴッターに書 き送る。フォルスターの強力な人間性や思想との出会いと親交が,カロリーネに影 響を与えたことは確かで,イェーナ初期ロマン派の中で果たす創造的な役割へと繋 がっていくことになる。カロリーネはハンブルクにいる妹ルイーゼに「革命的な」 手紙を送ったとされるが,すべて破棄されたらしく,のちにシェリングが返還を求 めてもかなわなかった。(ちょうどこの 1792 年には,若き友人グループ,ヘーゲル, ヘルダーリーン,シェリングが,テュービンゲンの神学校でつくられた政治クラブ の会員となっている。)一方でフォルスターの妻テレーゼは子どもを連れて家を出 てしまい,後に結婚するフーバーL. F. Huber のもとへ走った。カロリーネはフォル スターの家事の世話をすることになる。 やがてプロイセン軍にマインツは奪還され,厳しい統制が始まった。国外追放さ れたフォルスターは,翌 1794 年パリで不遇のうちに亡くなる。1793 年 3 月末,カ ロリーネは娘アウグステを伴ってひそかにマインツを脱出するが途中で捕らえられ, ケーニヒシュタイン Königstein の監獄へ送られる。ここで彼女は予期していなかっ た現実に愕然とする。新たに母となろうとしていることが分かったのである。子ど もの父親は,マインツを領有して喜びに湧くフランス兵士たちのある夜の舞踏会で, 熱狂のうちに身をまかせた 19 歳の若いフランス士官だった。助けを求める手紙を 送った友人たちがみなそっぽを向く中,一時は自殺も考えた彼女を窮地から救った のは,ほかならぬ A. W. シュレーゲルだった。7 月,実弟の尽力でとらわれの身か ら解放されたカロリーネを,シュレーゲルはライプツィヒの出版者ゲッシェン Göschen の好意で,ライプツィヒの南 3 マイルのひっそりとした小都市ルッカ Lucka に移し た。彼自身はアムステルダムで家庭教師の仕事をしていたため長く任地を留守にで きず,カロリーネの世話を,当時ライプツィヒで学んでいた 21 歳の弟フリードリ ヒにゆだねた。このようにして,初期ロマン派形成の大きな要素となるカロリーネ とフリードリヒの出会いが生まれる。フリードリヒ・シュレーゲルは以前,ヴィル ヘルムとともに,法学の勉強のためゲッティンゲンに滞在したことがあるが,その 当時カロリーネとの接触はほとんどなかったらしい。マインツの地でフランス革命 のいわば反映を身をもって体験し,人間的にも成熟した女性と,フォルスターの思 想や革命の成果を大きな関心をもって見守り,やがて新しい文学運動のリーダーに なろうとしているフィロロギー専攻の学生との友情は,たいへん意味深い20)。 二人は 1793 年 8 月 2 日,ゲッシェン家で会った。カロリーネがルッカに移って からは,フリードリヒは定期的に彼女を訪れた。この時期のカロリーネの影響は, 19) CI 250

20) この部分はとくに次の書に多くを負っている。Caroline Schlegel-Schelling. Die Kunst zu leben. Mit einem Essay hrsg. v. Sigrid Damm, Insel Taschenbuch 2005

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フリードリヒの若き日の論文,ギリシア文学の女性像について,あるいはカロリー ネに直接勧められて読んだコンドルセについての評論,共和主義についての研究, ゲオルク・フォルスター論などに表れ,そして何よりもロマン派の形成にとって重 要なものとなる。これまで会ったことのないような自立した女性,はっきりした判 断力をもって文学や思想,政治を語り,しかも女性としての魅力にあふれた人物は, フリードリヒにとってまさに衝撃だった。兄ヴィルヘルムへの書簡が雄弁にそれを 伝えている。はじめて会った翌日,兄に宛てた手紙の中でこう書いている。「彼女 が私に与えた印象は,余りに並外れて viel zu ausserordentlich いるので,自分でもはっ きり見極められないし,伝えることもできないくらいです。」21)そしてまもなく構 想が生まれる小説『ルツィンデ Lucinde』(出版は 1799 年)の中のあの告白となっ て表現されるのである。「彼のこれまでのあらゆる病は,この唯一無二の女性を一 見して治癒し完全に無くなってしまった。この人に彼の精神ははじめて全的に,そ してど真ん中を打ち抜かれた。」(… und die seinen Geist zum erstenmal ganz und in der

Mitte traf.)22)「人並みすぐれた女友だちへの崇拝が,彼の精神にとって,新しい世

界の確乎とした中心,そして大地となった。」(… ein fester Mittelpunkt und Boden einer neuen Welt.)23) さらに 8 月 21 日には「彼女の知力が私に勝っていることをとても早くから感じ ていました。でも,一人の女がその率直さ,気取りのなさを固く信じさせうるとい うことが,私にはまだあまりになじめず zu fremd,あまりに不可解なのです。」24) と兄に報告している。文学談義も二人の間でずいぶん交わされたことが分かる。「ポ エジーに関する彼女の判断力は,私にとってとても新鮮で快いものです。心のうち に深く入ってきます。彼女の朗読からもそのことが聞きとれます。たとえば『イフィ ゲーニエ』をすばらしく読んでみせます。」25) この年の 11 月 3 日,カロリーネは男の子を出産する。フリードリヒは洗礼の代 父の一人をつとめた。この子はルッカで養父母に預けられたが,1 年 5 ヶ月の短い 命だった。なお,この 1793 年はパリでルイ 16 世やマリー・アントワネットが処刑 された年にあたる。 翌 1794 年 1 月,フリードリヒはドレスデンに居を移し,ギリシア文学・芸術の 研究に没頭する。このテーマはルッカでカロリーネとの間でも話題になったものだっ た。1796 年夏までの約 2 年半のドレスデン滞在は,彼のロマン主義文学の理論がつ くられていく重要な時期ともなる。ノヴァーリスとの友人関係は 1792 年ライプツィ ヒで始まっている。

21) Kritische Friedrich-Schlegel Ausgabe, (以下に KFSA と略す) Bd. XXIII, S. 111 22) KFSA, Bd.V, S. 47

23) Ebd. S. 47

24) KFSA Bd.XXIII, S. 121 25) Ebd. S. 137

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カロリーネは 2 月,親友ルイーゼ・ゴッター一家に招かれてゴータへ移転する。 古い友人たちは好意的に迎えてくれたものの,周囲の人々の目は彼女に対して厳し かった。ことにマインツ時代の政治的立場が知られるようになると,この地も住み にくくなる。友人たちに迷惑をかけることを恐れ,翌年カロリーネは母のいるブラ ウンシュヴァイクへ行く。 アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルの変わらぬ求婚にカロリーネはおおい に悩むが,娘と自分の生活の安定を考え,母の強い勧めもあって,ついに承諾を決 意する。1796 年 7 月 1 日二人はブラウンシュヴァイクで結婚し,1 週間後イェーナ に到着,シラー家を訪問。シラーの仲介で,A. W. シュレーゲルはイェーナ大学で 教壇に立つことになる。ブラウンシュヴァイクからシュレーゲルはカロリーネと共 同で作成したシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の翻訳をシラーに送ってあっ た。 3 イェーナのシュレーゲル家は次第に,親近感を感じあう青年たちが集う中心となっ ていく。ドレスデンからフリードリヒが来る。それはゲーテとシラーの交流が深ま る時期と重なっている。イェーナのシラーのもとへヴァイマルからゲーテが「ヴィ ルヘルム・マイスター」について話しに来ることもあり,二人の「クセーニエン Xenien」が生まれさかんに形作られていくのもこの時期である。シラーの雑誌「ディ・ ホーレン」のライヴァルたちがはじめ槍玉にあがった。一方,シュレーゲル兄弟と シラーの関係は徐々に変化していく。兄はホーレン誌への協力を要請され,論文, 翻訳,書評,劇評などを寄稿していたが,もともとシラーに対して距離を置いてい たフリードリヒが「ホーレン」を批判したことなどから,シラーを怒らせ,両者の 関係は険悪になる。ゲーテが仲介の労をとろうとしたが断絶は決定的となった。こ れにはカロリーネの考え方が影響しているのではないか,という見方がある26)。カ ロリーネに対してシラーのほうでも初めから懐疑的な印象をもっていたようだ。こ の点についてはシラーの女性観との関係で次章でとりあげる。フリードリヒはたび たびヴァイマルにヴィーラント,ヘルダー,ゲーテを訪れるようになり,カロリー ネもゲーテとの交流のことをしばしば友人に書いているが,これについても後述す ることにする。 1797 年フリードリヒはベルリンに移り住み,ここで多くの出会いと友情が生まれ る。有名なヘンリエッテ・ヘルツやラーエル・レーヴィンのサロンに出入りし,後 の妻ドロテーア・ファイトと知り合う。シュライアーマッハーとは同居するほどの 固い友人関係を結び,同年代のルートヴィヒ・ティークと会ったのも当時のベルリ ンである。一方フリードリヒとノヴァーリスの往復書簡が示すように,この二人の

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文学・哲学を中心とした青年らしい友情も深まっている。ノヴァーリスは 1797 年 夏,イェーナでカロリーネ,A. W. シュレーゲルと知り合い,すぐに親和感をいだ く。同じ年 12 月,彼は旅の途上,ライプツィヒでシェリングと知り合う。それま でその著書に少し疑問をいだいていたことを率直に話し合ってすぐに友人となった。 ノヴァーリスはフリードリヒにこう報告している。「彼がとても気に入りました。 彼の中には本当の普遍傾向があります。―真の放射力です―ある一点から無限へ と。」27) 1798 年 5 月,シュレーゲル兄弟念願の評論雑誌「アテネーウム Athenäum」が創 刊され,自分たちの仕事を発表する場を得て,二人を中心とする,いわゆる初期ロ マン派の拠点ができた。ノヴァーリスはこの雑誌刊行に大きな称讃と期待を寄せて こう書いた。「文学の新しい時代がこれをもって始まるかもしれない。」シラーとゲー テの「アテネーウム」に対する反応は異なっている。シラーは評価せず,ゲーテは この刊行に機嫌よく,1 号に載ったフリードリヒの「マイスター論」をシャルマン とほめ,きちんと読んだ感想をカロリーネに語った28)。年 2 回のこの雑誌は 1800 年まで刊行されることになる。これまでにフリードリヒは「共和主義の概念につい て」(1796 年),「ゲオルク・フォルスター」(1797 年),「レッシング論」(同)など を発表して注目されるようになっていた。一方,A. W. シュレーゲルの名でホーレ ン誌に掲載された「ロミオとジュリエット論」は好評だった29)。 1798 年夏,ドレスデンでシュレーゲル兄弟,カロリーネ,イェーナ大学で哲学を 講じていたフィヒテ,ノヴァーリス,そしてシェリングが落ち合う。共同の一体感 が確認され,新しい運動の気運がいよいよ高まる。このドレスデンでの集まりをイェー ナ・ロマン派の基点とみなす人は多い。シェリングはこの年 7 月 30 日,ゲーテの 仲介でイェーナ大学に招聘された。1798 年,99 年をイェーナ・ロマン派の絶頂期と みなすのは異論のないところだろう。シュレーゲル家がその集いの場となり,次々 と仲間たちがやってきては食事をしながら自由な雰囲気の中で語り合い,泊まって いく者もある。クレメンス・ブレンターノがのちに夫人となるゾフィー・メローSophie Mereau と知り合ったのもシュレーゲル家である。カロリーネは一切のきりもりに多 忙をきわめた。ほとんど毎日昼時には客が来て,時には 15−18 人分の食事を用意 しなければならなかった,とルイーゼ・ゴッターに書いている30)。家事の世話だけ でなく,彼女はサロン的な会話の中心でもあり,しっかりした考えに基づく的確な 判断で,若い男性たちの導き手となり,シュレーゲル兄弟やノヴァーリスからはグ ループの重要な基準点と呼ばれた。「アテネーウム」創刊に熱心だったフリードリ 27) KFSA Bd. XXIV, S. 70 28) CI 455f. 29) エラースなどは,これをカロリーネの筆になるものとして扱っている。確かに 1797 年,A. W. シュレーゲルに宛てた 2 通の手紙は「ロミオとジュリエット」を論じてい る。CI 426-432 30) CI 561

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ヒを強く支持したのは兄よりもむしろカロリーネのほうだった31)。フリードリヒも 彼女に新しい雑誌への協力を繰り返し要請した。 フリードリヒ・シュレーゲルやノヴァーリスは,自分の仕事について,また他の 文学評論について,しばしばカロリーネに意見を求めている。たとえばフリードリ ヒは自分の「ディオティーマ論」をもう一度読んで,小さな変更が必要な箇所に印 をつけてほしいと頼んでいる。(1796 年 8 月 2 日)32)特に 1798 年 10 月からの数ヶ 月は,ベルリンのフリードリヒとカロリーネの間でかなり頻繁に手紙がやりとりさ れている。ベルリンの文学界,出版界の事情,交友関係,出版をまぢかに控えてい た『ルツィンデ』のこと,その頃恋愛関係にあったドロテーアのこと等々,自分の 仕事について,個人的な問題について報告し,理解と助言を求めている。夫のヴィ ルヘルムは教授職で忙しかったらしい。私は何をしたらいいかしら,とカロリーネ から聞かれて,「小説をお書きなさい」と義弟が勧めたのもこの時期である。ノヴァー リスとの間でも 1799 年初めには度々手紙が交換され,彼は私的な近況報告をしつ つ,母親のような友人カロリーネをいたわる気遣いもみせている。このような往復 書簡は,カロリーネが彼らから信頼され,頼りにされる相談相手だったことを示し ている。 カロリーネの意見は手厳しい場合も少なくない。一例を挙げると,ティークの「シュ テルンバルト Sternbald」の第二部を評して,そこには断固とした力が欠けていて, 好ましい日の出や春があり,月や星が昇り小鳥は歌い,すべては感じがいいが空虚 だ。情緒や感情のこまごました変化が描かれるがこまごまとしすぎる,というふう にである33)。仲間の一人であるフィヒテの「知識学」をもじって皮肉った辛辣なパ ロディ34)は,温かい冗談ととる人もいるが,これが作られたのはフィヒテとシェリ ングの論争が激しくなった時期だという指摘もある。いずれにしても,いかにも知 識,理論に偏りすぎることを嫌うカロリーネらしい。 シェリングの名がカロリーネの手紙の中に現れ始めるのに,1798 年夏ドレスデン での出会いからそう長くはかからなかった。この年 10 月にフリードリヒにあてて 「彼はあなたが思っている以上に人間として面白い人です。鉱物として見るなら本 物の花崗岩 Granit です。」35)と書き,フリードリヒは「でもシェリングはどこにお相 手 Granitin を見つけるのでしょう?」36)と冗談めかして返している。じつはまさに その Granitin に書いていることになるのだが。11 月にもノヴァーリス宛の手紙の中 で,「頑固なシェリングがさっきまでここに来ていました。」37)と告げ,翌年 2 月に

31) Vgl. Dischner, Giesela: Caroline und der Jenaer Kreis, Klaus Wagenbach 1979, S. 91 32) CI 395 33) CI 459f. 34) Vgl. Oellers, S. 188f. 35) CI 459 36) CI 471 37) CI 474

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は,シェリングとはすぐ口論になるけど,広い世間の中でも私が知っているもっと も興味あるものです。彼にもっと度々,もっと親しく会えたらいいのに,と書く。 しかし 1798 年 10 月からシェリングはほとんど毎日カロリーネ宅を訪れている。こ うしてやがて二人の急速な接近と熱愛は,誰の目も欺くことができなくなる。 1799 年 9 月,フリードリヒがドロテーアを伴ってイェーナのシュレーゲル家に同 居するあたりから,初期ロマン派の親しい集いは次第に解消への道を進むことにな る。そこにはもちろんカロリーネとシェリングの新しい関係も影響を与えていただ ろう。1800 年 8 月には「アテネーウム」の最終号が刊行され,グループの拠点とし ての役目を終える。 1800 年夏,カロリーネを思いがけない悲劇が襲う。最愛の娘アウグステが,療養 のため滞在していたボクレット Bocklet で赤痢のため急死したのである。アウグス テはまだ 15 歳だったが,グループの誰からも愛されたマスコット的な存在だった ことが,フリードリヒやヴィルヘルム,そしてシェリングの嘆きからも知られる。 フリードリヒからアウグステにあてた手紙も多数残っている。カロリーネの悲しみ はたいへんなものだった。アウグステは彼女にとって最良の友人であり,どんな時 も心の拠りどころだった。母娘の間で交わされた手紙がその自由で友だちのような 雰囲気を伝えている。その上さらに,彼女の治療に関してシェリングが医師に誤っ た指示を出したという噂が立ち,彼はますます苦しい立場に追い込まれ自殺も考え る。二人の間の愛が強いだけ,そのさなかに娘を喪ったことで,二人の自責の思い は測り知れないものがある。シェリングより 12 歳年長のカロリーネは,娘を彼の 結婚相手として考えたこともあった。彼女は彼との接触を自分に禁じ,一人ブラウ ンシュヴァイクへ移り住み,そしてハンブルクでも暮す。しかし二人の間で手紙は 頻繁に交わされ,シェリングからのものは破棄されたのか残っていないが,カロリー ネの返事から,彼がいかに激しく苦悩していたかが,容易に推測できる。見かねた カロリーネは,1800 年 11 月 26 日,ゲーテに救いを求める手紙を書く。これはホフ マンスタールが『ドイツ読本』に取り上げたものだが,まさに渾身の思いをこめた, 心の底からの叫びとなっている。「彼を助けることの出来る人をあなたの他誰も存 じません。」「彼の心の重荷と,たとえ運命がよりによってこれほど残酷でありましょ うとも,彼にふさわしからぬ彼の中の錯乱を,あなたがお気づきだということを, どうぞ彼に知らせてあげてくださいませ。」「私の眼は曇っております。ただ私に見 えますのは,彼が生きて,これまで彼が考えてきたあらゆるすばらしいことを遂行 しなければならないということだけです。もしお願いを申し上げることを許してい ただけるなら,どうぞクリスマスの頃に彼をその孤独から誘い出して,あなたのお 傍に招待してくださいませんでしょうか。」38)ゲーテは実際カロリーネの願いを聞 き入れて,シェリングを 12 月 26 日ヴァイマルへ招き,彼はそこに 1 月 4 日まで滞 38) CII 19f.

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在した。 同じ年のクリスマス前に,カロリーネがシェリングに「私のお友達を暖める大き な英国式外套」を贈る際に添えた手紙は感動的である。初めはそのコートのために 上着に毛がつくかもしれないけれど,「恋人を抱きしめるためにコートの腕はゆっ たりとなっています,この青いコートがあなたをエグモント伯のように包んでくれ るでしょう。ああ,私があなたのクレールヒェンになれたらいいのですけど。でも 私はあなたのカロリーネにすぎないのです。」39) この頃はもうヴィルヘルムのほうも,ベルリンのティークの妹ゾフィー・ベルン ハルディ Sophie Bernhardi と恋仲になっていて,シュレーゲル夫妻は正式の離婚の 手続きをしなければならなくなっていた。ヴァイマル公に提出する離婚の請願書の 点検,助言,推敲を夫妻が懇請したのは,またしてもゲーテだった。こうして 1803 年 5 月 17 日離婚が正式に成立し,その約 1 ヶ月後の 6 月 26 日シェリングとカロリー ネは結婚する。 シェリングはヴュルツブルク大学に招聘され,カロリーネを伴って赴任する。こ こでの生活は二人にとって居心地のいいものではなかった。カトリック色の強いこ の地は,シェリングの思想的な立場を非難し,カロリーネも教授夫人たちの悪意に さらされたようだ。二人がさらにミュンヘンに移るのは,1806 年のことである。 A. W. シュレーゲルはスタール夫人に付き添ってスイスへ行く旅の途上,ミュンヘ ンのシェリング宅を訪れたりしている。 1809 年 9 月 7 日,シェリングの両親を訪ねていたマウルブロン Maulbronn で,カ ロリーネは娘アウグステと同じ赤痢で死亡する。夫は墓碑銘に「かつてこの上なく 高貴な心と,この上なく美しい精神を包んでいた亡き骸がまどろむここに……」40) と刻んだ。シェリングが彼女をどんなふうに思っていたかは,2 ヶ月後に彼女の実 弟フィリップ・ミヒャエリスに送った長い手紙に詳しく述べられている。「心の真 ん中に響くあの力を,彼女は最後まで持ち続けていました。」「たとえ彼女が私にとっ てのあのような人でなかったとしても,私は人間として彼女を喪ったことを嘆き悲 しむに違いありません。さまざまな精神のこの傑作がもういないということ,男性 的なたましいの偉大さをもったこの稀なる女性,きわめて鋭敏な精神が,この上な く女性的で繊細で愛にあふれた心のやわらかさと一つになったこの女性が,もはや 存在しないということを悲しむに違いありません。」41) 4 ここで改めてシラーとゲーテのカロリーネに対する関係を整理しておこう。まず 39) CII 21 40) CII 583 41) CII 577f.

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シラーについて,彼の女性観との関連の中で見てみたい。このことについて語ると ききまって持ち出されるのは,シラーがカロリーネを „Dame Luzifer“(マダム堕天 使)と評したとされることである。エラースによれば,この呼び名はもともとフラ ンスのオルレアン公が奥方を呼んだ愛称で,そう呼ばれた本人も気に入らなかった わけではないという42)。カロリーネを嫌っていたシラー夫人のシャルロッテが,友 人の間に「悪魔,サタン」のような悪い意味で広めたというのが真相らしい。

シラーの理想的な女性像は,その詩「女性の品位」Würde der Frauen(1796 年)43)

に詠われている。そこでは,けっして癒されることなく夢のすがたを追って休みな く遠くへ出て行く男性の荒々しい力に比して,女性は「優美のしとやかなベールを まとい」「敬虔な自然の貞淑な娘たちは恥らう礼節をもって母のつつましい庵にと どまった」のである。男性と女性のはっきりした役割分担と,永遠に変わらぬ両性 の姿が理想とされている。おそらくこれはカロリーネの自立的な基本態度,シェリ ングのいう男性的なたましいの偉大さと女性らしいやさしさの融合とは相容れない ものだろう。フリードリヒ・シュレーゲルはこの詩についてこう書いた。シラーの 表現はさかさまの方向に理想化されている。「上方へではなく下方へ。真実の下か なり深くまで。」44)シラーは,はじめてイェーナにシュレーゲル夫妻を迎えたとき の印象を,友人のヴィルヘルム・フォン・フンボルトに書き送っている。「2 週間前 からシュレーゲルがその妻とともにここに来ています。この女性は,会話の才を大 いに持ち合わせているし,彼女とは暮らしやすいでしょう。ただ少し長く知るよう になり,とりわけ親しくでもなったら,何らかのとげを発見することにならないと も限りません。」(1796 年 7 月 22 日)45)イェーナに到着するとすぐ,シュレーゲル 夫妻はシラー家を表敬訪問するが,カロリーネのシラーに対するスタンスはどんど ん変化していく。シラーの有名な長詩「鐘の歌」46)(1800 年の年刊詩集 Musenalmanach に発表)を読んだときのことをカロリーネはこう書いている。「あるすてきな昼,私 たちは笑いこけてほとんどテーブルの下に転げ落ちそうになりました。あれからは すばらしいパロディができそうです。」47)一方,シラーが「アテネーウム」創刊に 際してゲーテに書いた手紙は,彼のロマン派評を端的に言い表している。「新しい シュレーゲルのアテネーウム,とりわけフラグメンテをどうお考えですか。この小 生意気な,断定的な,痛烈な,そして一面的なやり方は,私には肉体的に苦痛です。」48) それに対してゲーテは「あのフラグメンテのようなスズメバチの巣 Wespenneste」 と表現しながらも,「あなたのお気に召さぬのはもっともですが,でもやはりあの 42) Vgl. Oellers, S. 178

43) Schiller, Friedrich: Sämtliche Werke, Hanser 1980. Bd.1, S. 218ff. 44) Vgl. KFSA Bd. V, S. XXVIII

45) Zitiert nach Oellers, S. 177 46) Schiller, Bd. 1, S. 429ff.

47) CI 592(an Gries) 他にも同様の内容の手紙がある。CI 570(an Auguste) 48) Der Briefwechsel zwischen Schiller und Goethe, München 1984, Bd. 2, S. 122

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筆者たちにある種のまじめさ,ある一定の深さ,そして他方リベラルさを否定する ことはできません。」49)と,当時のドイツ・ジャーナリズムの「空虚さと麻痺」に与 えた「アテネーウム」の効果を認めている。 次に,ゲーテとイェーナ・ロマン派,そしてカロリーネとの関係であるが,これ まで見てきた中でおおよそ示唆できたと思う。 1783 年 9 月,20 歳のカロリーネはゲッティンゲンの生家で客としてのゲーテに 会った。クラウスタールをゲーテは 3 度訪れているが,84 年にも 8 月 10 日から 15 日まで逗留している50)。この小さな鉱山の町でカロリーネと会った可能性が高いが, 実証的なデータは存在しない。次はマインツである。前述のように,カロリーネは 1792 年 2 月からマインツに滞在していたが,ゲーテは同年フランス遠征に参加する 旅の途中,8 月 20 日から 22 日までマインツに立ち寄り,20 日と 21 日,フォルス ター宅でシラーの友人 L.F.フーバーらとともにカロリーネと再会し,「愉快な 2 晩 zwei muntre Abende」51)を過ごした。(約 30 年後に書かれたゲーテの「フランス遠征

Campagne in Frankreich」の中の日付は誤りという52) カロリーネがイェーナに住んでからは,ヴァイマルと近いこともあり,ゲーテは たびたびイェーナを訪れ,シラー家ばかりでなく,関心をもっていたロマン派のサー クルとも少なからぬ交流があった。シュレーゲル家をとつぜん訪ねてカロリーネを 驚かせたこともある53)。カロリーネのほうでも,夫や仲間たちとヴァイマルの劇場 へ通ったり,ゲーテ邸を訪れたりしている。ヴィルヘルムは 1 週間毎朝 3 時間ゲー テと散歩するほどのつき合いがあった54)。 書簡集からはっきり読み取ることができるように,カロリーネは生涯ゲーテの作 品と人間性に対して崇拝と信頼を,ゲーテは彼女に対して好意と友情をいだいてい たと言うことができる。そのことを決定的に示すのは,もっとも苦しんでいたとき のシェリングの救いと庇護をカロリーネから懇請されたゲーテが,それに快く応え た事実と,シュレーゲルとの離婚の際に懇切な仲介の労をとってくれたことであろ う。 5 カロリーネは十分の才能を持ってシュレーゲルやシェリングを仕事の面でも助け たが,なぜ自分の名前で書評や劇評,翻訳などを発表しようとしなかったのだろう か。それを探る手がかりとしてフリードリヒ・シュレーゲルのカロリーネに対する 49) Ebd. S. 123

50) Wilpert, Gero von: Goethe-Lexikon, Kröner, 1998. S. 186 51) Goethes Werke, Hamburger Ausgabe, Bd. 10, S. 189 52) Ebd. S. 670(編者注)

53) CI 391 54) CI 557

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態度をもう一度見直してみたい。1793 年夏のルッカでの出会いからイェーナ時代の 終わりまで,彼の考え方に変化はなかっただろうか。キーワードは「女性らしさ Weiblichkeit」である。 フリードリヒの,当時としては画期的な小説『ルツィンデ』においては,男性と 女性の平等性がひとつのテーマとしてうち出されていた。カロリーネとの出会いの 衝撃が刺激となって,この小説で,いわば教養と女性らしさの両立,あるいはその 兼ね合いを描くことを彼は考えていた。『ルツィンデ』の中では「彼女の存在の中 にはあらゆる気高さ,そして女性らしい性質に特有でありうるあらゆる優美さがあっ た。……しかしすべてが繊細で教養があり女性らしかった。」あるいは「彼はまこ とに,母親のような力強い大地の鮮やかな緑の上に立っていた。」55)というように, weiblich とか mütterlich という言葉が目立っている。フリードリヒの初期の 2 つの論 文,「ギリシア詩人たちにおける女性の性格について」(1794 年)「ディオティーマ 論」(1795 年)は,カロリーネ讃美の間接的な表現であるばかりでなく,女性解放 の歴史の上で画期的なできごとだ,とフリードリヒ・シュレーゲル批判版全集の解 説者は述べている56)。たしかに,「ディオティーマ論」の中の「女性らしさは男性 らしさと同じく,より高い人間性へと浄化されなければならない。」57)という主張は, 当時の一般的な女性観からはかけ離れたものだった。たとえばシラーは W. フォン・ フンボルトに宛てた手紙の中で書いている。「自立あるところ,そこには女性らし さはないのです。少なくとも美しい女性らしさは。」(1795 年 12 月 17 日)58)フンボ ルトはまさに 1795 年のホーレン誌に「両性の違いとその有機的自然への影響につ いて」「男性的および女性的な形式」を発表したところだった59)。このように当時 は,いわゆる性差についての議論の中で,「女らしさ」「男らしさ」という言葉が飛 び交っていたのが分かる。 先に見たとおり,「アテネーウム」創刊の準備からその実現の年,1797−98 年に は,フリードリヒはカロリーネにたびたび執筆活動を促す手紙を送っている。とく に具体的に協力を要請しているのは 1797 年 12 月 12 日付けにおいてである。「あな たが雑誌のためにしようと考えていることを全部私に書いてください。そうしたら, 私にできるだけのことをあなたに助言します。あなたのほうでも私に助言してくだ さい。そして私の仕事や計画について私がお伝えするすべてのことを,ほんとうに 批判的に徹底的に考えてください。……ヴィルヘルムの活動やあなたが仕事をため らう気持ち Arbeitsscheu のために,ご自身執筆なさるという考えを台なしにしない 55) KFSA, Bd. V, S. 48f. 56) KFSA, Bd. V, S. XXVIII 57) KFSA, Bd. I, S. 92

58) Zitiert n. d. Einleitung zu „Über die Diotima“, KFSA, Bd. I, S, CXLVIII

59) カロリーネが友人ルイーゼにあてた手紙(1796 年 2 月 10 日)の中の「フンボルト のいう女らしさを詩にしたシラーは,例の理想にすっかり追随しています。」の箇所 に付された編者シュミットの注釈による。Vgl. CI 711

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でください。でもこのことがすぐできなかったり,するつもりがないときでも,あ なたにはまだすることがたくさん残っています。参加し助言することで,私たちの 熱意を倍に強め,正して下さることになるのです。……常々思ってきたことですが, あなたの自然の形式 Naturform はラプソディ Rhapsodie ではないかと思うのです。 これは最も自然な固有の形ということで,ヴィルヘルムなら堅実なかっちりした明 晰なたくさんの作品でしょうし,私なら断章 Fragmente でしょう。」60)「形式を選ぶ 際には注意をはらってください。手紙と書評・劇評は,あなたがすっかり意のまま にできる形式だということを考えてください。……あなたの手紙から哲学的な一大 ラプソディを編集して作り上げるのが私にできなくはないだろうと思うのです。」61) このような提案をしているが,カロリーネはこれに応じることはなかった。「ラプ ソディ」がどのようなものを意味しているか詳細は不明だが,ここでは書簡からな る相互の関連が自由な一つの作品ということかと推察される。かつてヴィルヘルム が「ルツィンデ」を「おろかなラプソディ törichte Rhapsodie」と呼んだ62)が,この 言葉が兄弟の間で話題になっていたのかもしれない。「哲学的な一大ラプソディ」 という形式は,今日的な観点からしても新しい文学の試みになりうるだろう。 ここでフリードリヒが書いた手紙の中の 2 箇所に注目したい。その 1 つは 1798 年 7 月中旬に友人シュライアーマッハーにあてたものに含まれる一節である。「と ころで彼女[カロリーネ]は,私たちがみな望んでいること,つまり小説を書くこ とが確かにできるんだよ。女性らしさ Weiblichkeit はそうなるとやはり,おしまい にvorbei なるだろうね。何しろ,文学の世界に入ってしまったことになるのだから。」63) これは親しい間柄だからこそ言えたことと思われるが,あの「ディオティーマ論」 や「ルツィンデ」の理念とのこの距離はいったいなんだろうか。 2 つ目は 1798 年 10 月 20 日,カロリーネにあてた手紙の中に見いだされる。ギリ シア人についてもう一度読み直して,厳しい批判を書いてもらえたらどんなにすば らしいだろう,と勧めた上でこう続けている。「けれどももっと重要なのは,あな たがカロリーネという名で発表するつもりか,それとも他の名前にするのか,私に 知らせてくださることです。」64)ここで思い出されるのは,ドロテーア・ファイト の小説『フロレンティーン Florentin』が,フリードリヒ・シュレーゲルの編集とし て,いわば匿名で出版されたことである。(1801 年)65)「女らしさ」云々の風評と それは連動しているものなのだろうか。カロリーネに作家として世に出る野心がほ とんどなかったという事実はあるにしても,時代の空気と周囲の男性たちの意識が 60) KFSA, Bd. XXIV, S. 59f. 61) Ebd.

62) Behrens, Katja: „Alles aus Liebe, sonst geht die Welt unter“. Sechs Romantikerinnen und ihre Lebensgeschichte. S. 147

63) KFSA, Bd. XXIV, S. 150 64) CI 463

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やはりここにはたらいていて,カロリーネも,無意識にであれ,その影響を受けて いたと見るべきであろう。 最後にカロリーネにとって書簡という形式は何だったのかを考えてみたい。18 世紀の西欧文学において,書簡小説が占める意味の大きさは言うまでもない。しか しそれと次元は違うが,カロリーネの書簡集のように,個人的なことがら(生活− 生)だけではなく,あるいはそれとともに,文学史の一面をなすような事柄,一つ の文学運動の成り立ちと展開,その背景という重い内容を含むものを,どのように 位置づけるべきか,それが私たちに問われるところである。これこそフリードリヒ・ シュレーゲルのいう「ラプソディ」であるだろうし,それを彼が自分の編集で,た とえば「アテネーウム」に発表したい,あるいは発表する価値のあるものと考えた, ということであろう。ドキュメントとしての性格と個人の生きた生とが分かちがた く絡み合って一体となっているものが,カロリーネの書簡集全 2 巻であると捉える ことができる。さらにこれを価値あるものにしているのは,その文章の魅力である。 はたしてこれは作品 Werk と呼ぶことができるだろうか。その位置づけについて示 唆に富む考察を提出しているのはクリスタ・ビュルガーの論文である66)。そこでは

これを作品 Werk と生 Leben の中間領域をなす Schriften(書かれたもの)としてい る。彼女の著書は,カロリーネのほかに,ベッティーナ,シャルロッテ・フォン・ カルプ,ゾフィー・メロー,ヨハンナ・ショーペンハウアー,そしてラーエルを扱っ ているが,全体に付された書名 „Leben Schreiben“ が意味するものは,序文から推 察すると,『生を書くこと』ではないかと思われる。残された厖大な書簡は,カロ リーネが周辺の友人,知人らと活発な交流の中にあったことを示すと同時に,彼女 が他の誰でもない,内なる自分自身を信頼しそれに支えられて生きた女性,いや人 間であったことを語っている。

66) Bürger, Christa: Leben Schreiben. Die Klassik, die Romantik und der Ort der Frauen. Ulrike Hellmer, Königstein 2001

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Caroline ―Was uns ihre Briefe beleuchten

Minako Hatanaka

In der vorliegenden Arbeit werden die nachgelassenen Briefe von Caroline Schlegel-Schelling, einer zentralen Person im Jenaer Romantik-Kreis genau untersucht und anhand der Briefe festgestellt, welche Stellung sie in der Entstehung und Entwicklung der Frühromantik einnimmt.

Bekannterweise nahm Caroline als Mitarbeiterin des Lebensgefährten A. W. Schlegel, und dann F. W. J. Schelling an den zahlreichen Beiträgen der Rezensionen teil. Außerdem ließ sie Entwürfe eines autobiographischen Romans nach. Aber vor allem beleuchten uns ihre 2-bändigen Briefe zweifellos bedeutungsvolle und interessante Seiten einer Literaturbewegung von innen her.

Das erste große Ereignis in ihrem Leben ist wohl ihr Aufenthalt im politisch bewegten Mainz. Der vertraute Umgang mit Georg Forster, der damals als eine führende Person der Mainzer Republik wirkte, übte auf Caroline einen unvermeidlichen Einfluss aus. Dieses Erlebnis würde später ein wichtiges Element für den Grundgedanken der Frühromantiker.

Wegen eines notgedrungenen Umstandes musste Caroline in einem Städtchen bei Leipzig heimlich eine Zeit verbringen. Hier entstand eine enge Freundschaft zwischen ihr und dem jungen Friedrich Schlegel, einem der späteren Führer der neuen Bewegung. Diese Begegnung mit der selbständigen Frau, die bald seine Schwägerin werden sollte, bereitete dem 21-jährigen Philologiestudenten eine Richtung des Gedankens, und wurde auch zum Anlass für seinen epochalen Romanversuch „Lucinde“.

Caroline siedelte mit ihrem zur Universität berufenen Mann August Wilhelm nach Jena über, und das Haus der Schlegels wurde zum Ort des Treffens der jungen Leute, die sich miteinander verwandt fühlten: die Entstehung des Jenaer Romantikerkreises. Die Hausherrin war der Mittelpunkt der geselligen Gespräche und Diskussionen. Aus den gewechselten Briefen zwischen ihr und Friedrich Schlegel oder Novalis ergibt sich, dass Caroline von ihnen für ihre wichtige Mitarbeiterin und Ratgeberin angesehen wurde.

Die Einschätzung für die Zeitschrift „Athenäum“, die von Brüdern Schlegel gegründet wurde, war verschieden zwischen den beiden bedeutenden

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Persönlichkeiten. Schiller, der in Jena von Einfluss war und seine Zeitschrift „Die Horen“ herausgab, gefielen nicht die Fragmente von Friedrich. Goethe, der in dieser Zeit mit Schiller Freundschaft vertiefte und „Xenien“ zusammengestaltete, las Friedrichs „Über Wilhelm Meister“ wohlwollend. Er sprach von einer Art des Ernstes und einer bestimmten Tiefe der jungen Romantiker. Die Distanz zwischen Schiller und den Schlegels wurde mit der Zeit größer. Besonders Caroline gegenüber hielt sich Schiller von Anfang an skeptisch. Sein ideales Frauenbild, wie es in seinem Gedicht „Würde der Frauen“ besungen ist, widerspricht offenbar Carolines selbständiger Grundhaltung. Andererseits ist aus ihren gesammelten Briefen leicht abzulesen, dass Caroline zeitlebens zu Weimarer Meister Verehrung und Vertrauen hatte und er auch seinerseits ihr Freundlichkeit und Wohlwollen zeigte. Das beweisen vor allem zwei Tatsachen: Goethe, den Caroline dringend bat, den im härtesten Zustand befindlichen Freund Schelling zu Weihnachten zu ihm einzuladen und ihn aus der Einsamkeit zu retten, entsprach gern ihrer Bitte. Und als Caroline und August Wilhelm schließlich dem damaligen Gesetz gemäß das Gesuch der Scheidung zum Weimarer Großherzog einreichen mussten, gab er ihnen freundlicherweise Räte, und scheute keine Mühe, die Gesuchsschrift zu überlesen und zu korrigieren.

Der Einzug Friedrichs mit Dorothea Veit ins Haus der Schlegels in Jena und das Näherkommen zwischen Caroline und Schelling führten nach und nach zur Auflösung des geselligen Kreises. „Athenäum“ beendete im Sommer 1800 die Rolle als seinen Stützpunkt.

Friedrichs Haltung Caroline gegenüber veränderte sich mit der Zeit. Angeregt von der ersten Begegnung mit Caroline wollte der junge Friedrich im Romanversuch und in den Aufsätzen die Gleichheit der beiden Geschlechter und die Vereinbarung von Bildung und Weiblichkeit in der Frau behaupten. Eine Briefstelle besagt jedoch, dass er nun von dieser Idee distanziert stand. Mitte Juli 1798 schrieb er an seinen Freund Schleiermacher über Caroline. Sie könne einen Roman schreiben. Mit der Weiblichkeit sei es nun doch vorbei, und in die literarische Welt sei sie einmal eingeführt. Außerdem ist noch eine Briefstelle zu finden, in der Friedrich Caroline selber fragt, ob sie ihre Beiträge mit dem eigenen Namen veröffentlichen wolle. Er scheint hier zu empfehlen, dass sie eher einen anderen Namen benutzen solle.

Die sämtlichen Briefe von Caroline nannte Friedrich einmal „eine große philosophische Rhapsodie“ und wollte sie wohl mit seinem Namen herausgeben. Aber Caroline stimmte dem nicht zu.

Ihre Briefe sind sicherlich ein gut dargestelltes Dokument eines persönlichen Lebens, zugleich aber dokumentieren sie die Ereignisse, die eine wertvolle Seite der Literaturgeschichte, ihre Hintergründe ausmachen.

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