梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十)
著者
土屋 育子
雑誌名
文化
巻
83
号
1,2
ページ
75-95
発行年
2019-09-28
URL
http://hdl.handle.net/10097/00128843
梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十)
土 屋 育 子
梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十)
土 屋 育 子
本訳注は、『舞台生活四十年』(梅蘭芳述 許姫伝・許源来・朱家溍記 中国 戯劇出版社 1987 年)を底本とする。本文中の注は、原注を〔 〕、訳者注を ( )で示す。脚注はすべて訳者注である。本稿では、第一集第十章八の後半 から第十一章一までを訳出する。 八 「遊園驚夢」(承前) 「杜麗娘と春香の花園でのしぐさと足運びは、離れたりくっついたりしま す。離れる身振りは、すべて対照的な形式となっています。彼らは時に斜めに 向き合い、立ち位置はあまり近くありませんが、また自然で、品良く息がぴっ たり合っていなければなりません。もしもばらばらでそろっていないと、舞台 には二人だけなので、観客は容易に気づき、見た目が悪いと感じます。」 「崑劇の身振りは、すべて歌唱と組み合わされています。歌いながら身振り をつけるのは、歌詞に注釈を付け加えるようなものです。私は朱伝茗1が葆玖2 に南派の身振りの稽古を付けているのを見ましたが、あるところには彼の意図 もあり、歌詞の意味に照らして作ったものでもあるので、採用しない手がある でしょうか?私は演技面では、これまでずっと流派や、門戸の違いも問わずに やってきました。ただ物語の筋に合致し、美しくあれば、北方系でも学び、南 方系でも吸収しました。だから最近私が演じる「游園」は、葆玖に合わせるた めなのに、かえって少し「南北融合」することになりました。」 「「驚夢」といえば、それこそまた表情に重点を置く演目です。私が以前「宇 1 朱伝茗(1909-1974):江蘇太倉の人。崑曲の優れた女役俳優として名を馳せ、ま た上海市戯曲学 等で崑曲の教師として多くの女役俳優を育てた。 2 梅葆玖(1934-2016):梅蘭芳の子息で、京劇の女役俳優として活躍した。宙鋒」について話をしたとき、俳優が舞台で劇中人物の感情を表現すること についてだけではなく、二つの性質があると話しましたよね3。この杜麗娘お 嬢さまは心のうちに「人に言えない隠しごと」を持っています。実際杜麗娘が 口に出せないことというのは、もしこれが現在であれば、まったく問題にもな りません。男は大きくなれば娶り、女は大きくなれば嫁す、これは本来至極公 平、当たり前のことで、遠慮せずに家の人と相談して進めたり、或いはもとも と自分で配偶者を選んだりするものです。人に言えない神秘的なところがある ものでしょうか。しかし中国の古典歌舞劇はその時代の背景を持っています。 『牡丹亭』が作られた時代では、そう簡単なものではありませんでした。女子 はみな、ただ彼女の所謂一生の大事に話が及ぶと、すぐに首まで真っ赤にし て、うつむいて、恥ずかしがって何も言えなくなります。私たちが扮するのは このような時代の一人の女子であり、彼女が結婚適齢期になって、当然意にか なう若者に嫁ぎたいと思います。口で言うことはできませんが、表情に彼女の 心中の要求を表すことができるだけです。これはなんと細かな課題であること でしょう!」 「劇中人物にこのような心情がある以上、古風な身振りでは、南北にかかわ らず、この面の表現に重点を置きます。このようにして心情の表現力が不十分 な俳優たちに、お決まりの身振りによって表現させることができます。だから この【山坡羊】曲には、すべて由緒正しい伝承のよい身振りがあります。」 「杜麗娘は花園を巡りおえると戻って来て腰掛け、“ 驀 地 遊春して転り、小 か宜春(のまげ)の面を試みる。春よ春、你と両びて留連するも、春去らば如 何に遣さんや。咳、怎般なる天気、好に人をして困ましむるなり”と台詞を言 い、すぐに続けて【山坡羊】曲の“没乱里春情遣り難く、驀地人を懐うて幽か に怨む”の両句を唱います。この時杜麗娘はまだ机の側にいて、多くの身振り をすることは出来ず、すべて手のしぐさと表情にのみ頼ります。【山坡羊】曲 をうたう以前に、俳優はまず“静”の秘訣が出来るようになっておかねばなり ません。言い換えれば、事前にできるだけ自分の気を鎮めておくことで、やっ とこの歌詞をうまくうたえるのです。この表情はじつに細やかであり、なんと 3 第一集第十章七で言及。一つは登場人物の心理の喜怒哀楽を表現することであ り、もう一つは、登場人物が心に多くの複雑で矛盾し、人に言えない思いを抱え ていることを表すことであると述べている。
いうこともない間に劇中人物の心理感情をすべて表出しなければなりません。 もしも扮する人が静を演じる技量を持っていなければ、観客はどうしてこの微 妙なところを感じ取ることができるでしょうか。」 「“ただわれ生まれて小若嬋娟なるがため”の一句をうたうところで、彼女はよ仙 女 うやくゆっくりと立ち上がり、うたいながらしぐさをして机から歩き出しま す。この後まもなく身振りを使って彼女の“春の物思い”の心情を強調しま す。“春光と暗かに流転せん”の一句をうたってから、体を机に凭れかけ、机 の短辺から真ん中に移動して、ゆっくりとしゃがんで、しゃがみこんだら立ち 上がり、またしゃがみこみます。このようにしゃがむ動作を二三回するのは、 もっとも尖鋭的に描写する身振りだと言えます。これは南北で同じ古風な身振 りで、以前私も型どおりにやっていました。のちに私はこれについて改めよう と考えたのですが、それは二つの理由からでした。(一)私は日一日と年を取 るのに、ずっとこの身振りをするのは、自分でもひどくやり過ぎだと感じたの です。それでも演じないという選択肢は取るまいと思ったのは、本作がとても 意義のある演目だからです。この作品では、数百年前の旧社会で、ふつうの女 の子が、古い家族と古い礼教の束縛を受けて苦悶するのを表現します。つま り、恋愛において自由を渇望する心情は、今も昔も決して変わらないのです。 また芸術上から言えば、これは当時よくかかった芝居でした。多くの先輩たち が無数の心血をその演技に注ぎ尽くすことで、やっとこのような貴重な名作を 残してきたのです。私もまたこの芝居に多くの工夫をこらしましたが、よりに よって年齢のせいでこれを放棄して演じないというのは、もったいないと思わ ずにはいられませんでした。(二)私の理解では、杜麗娘の身分は、十分に旧 社会の深層の令嬢です。続く場面に柳夢梅と夢の中で出逢うプロットがあり、 さすがに彼女は旧礼教の束縛を受けた少女ですが、このすべてはまた少女の生 理上の自然な欲求です。私たちはただこれが杜麗娘の幻想であると思うだけ で、決して婦女の礼に背く淫蕩な挙動であるとは思いません。これは少女の ‘春の物思い’であって、若い娘の‘恋心’とは相当な隔たりがあるので、そ のように露骨に描写する必要があるとは限らないようです。」 「抗日戦争に勝利したころ、観客は八年間私を見ていなかった4ので、とて 4 抗日戦争の間、梅蘭芳はヒゲを蓄えることで、女役俳優として舞台に立つことを 拒否し、日本帝国主義に対して抵抗の意志を示した。
も私の演技を待ちかねていました。私は長い間観客から離れていたので、舞台 で彼らと会いたいと思っていました。しかし南北の交通はまだ回復しておら ず、私のベテラン団員は遠く北京にいて、上海に来て私と共演することができ ませんでした。徐蘭沅5の胡琴と王少卿6の二胡がなければ、私は京劇を演じ ることができません。ちょうど姜妙香7と兪振飛8のお二人がどちらも上海に いて、加えて仙霓社9の全俳優がいたので、美琪大劇院10で崑曲を上演しまし た。四日間の規定のプログラムは、(一)「刺虎」、(二)「遊園驚夢」、(三)「思凡」 「断橋」、(四)「奇双会」です。代わる代わる数回唱いますが、「遊園驚夢」で はうたう回数が多いのです。私はそのころ新しい理解で初歩的な試みを始めま した。観客の反応を見ると、身振りの一部を省略したから全体のストーリーを ぶち壊したとは思いません。去年になって、上海中国大戯院で上演したとき、 私は伝統的な身振りを、さらにまた少し弱めた感じにしました。この“春の光 をばひそかに流す”の身振りを、机の長辺に回り込み、やや寄りかかりまた物 憂げな様子をし、さらに袖の動きを加えて、この一句の動作を締めくくるよう に改めました。」 「まとめましょう。私が現在「驚夢」を演じるときの身振りでは、以前と比 べれば、減らした部分は比較的少ないのですが、弱めた部分はかなり多くあ ります。同時に、歌詞の意味に照らして、春の物思いを決して強調しない方向 の身振りを少し加えました。このような改善を説明するなら、表情の深みを加 え、身振りの不足を補おうとしたわけです。この業界の若い芸人たちが、もし 5 徐蘭沅(1891-1967):京劇の胡琴奏者。江蘇蘇州の人。譚鑫培らの伴奏を担当し た。梅蘭芳とは、1921 年から共演した。 6 王少卿(1900-1958):京劇の二胡奏者。江蘇塩城の人。役者一家に生まれ、父王 鳳卿は汪桂芬の継承者、伯父王瑤卿は青衣役者、弟王幼卿は京劇の女役の名優で あった。 7 姜妙香(1890-1972):京劇の小生(若い男性役)俳優。 8 兪振飛(1902-1993):京劇、崑曲の小生俳優。父兪栗は崑曲研究家。 9 仙霓社:「訳注九」に既出。上海の崑曲劇団。蘇州の崑劇伝習所で学んだ俳優 が、前身である新楽府を民国 16(1927)年 4 月に設立、民国 20(1931)年 6 月 に解散した。その後、「伝」字の芸名を持つ俳優たちが中心となって同年 10 月に 立ち上げたのが仙霓社である。 10 美琪大劇院:上海の南京西路江寧路口にある、1941 年創建の劇場。
古風なやり方に照らして演じても、私も決して反対をしません。しかし杜麗娘 の身分は、まずはっきりさせなければならず、絶対にやり過ぎてはいけないの です。淫蕩な婦女の恋情を弄ぶなら、彼女の身分と大きくかけ離れてしまい、 しかも原作者湯顕祖11の意図に反することになります。」 「「驚夢」での堆花の形式は、南北でやや異なっています。北方の花神は二人 一組ずつ登場し、一組ごとに出てきて舞いの姿勢を取ります。南方は集団で登 場します。歌唱の曲も、少し違いがあります。」 「1949 年から、私が演じる「驚夢」には、二つの役柄が登場し、部分的な増 減がありました。(一)減らしたのは睡夢神をお役御免にしたことです。この 間の経緯は次のとおりです。上海の中国大戯院で、葆玖が初めて私の脇役を演 じた「遊園驚夢」では兪五爺(兪振飛)さんが柳夢梅を演じました。観客に文 工団の方がいて、芝居を見た後に楽屋へやって来て提案をしてくれました。彼 は、睡夢神が登場しないようにする方法はないですかね、とおっしゃいまし た。私は彼の提案を受け、帰宅して考えてみました。杜麗娘と柳夢梅との夢の 中での出逢いは、杜麗娘の幻想であるとみなすことができますが、もちろん月 下老人12にご足労いただく必要はありません。しかし睡夢神を消そうとする と、すでに登場している私の杜麗娘はあまり関係ないのですが、柳夢梅は睡夢 神に率いられて登場するので、必ず兪五爺さんとよく検討しなくてはなりませ ん。兪五爺さんは崑曲の専門家なので、この問題が、彼を困らせることはない はずです。翌日私はすぐ彼を招いて相談しました。彼は、「家に帰って考えさ せてくれ。睡夢神を削除して、柳夢梅をどう登場させるか、杜麗娘とどう邂逅 するか。自然な形に改めなければなりません。」果たして彼は方法を考案し、 私たちは二回目の「遊園驚夢」で次のように改めました。」 「「驚夢」上演の慣例では、杜麗娘が【山坡羊】曲をうたったあと、楽隊が引 き続き【万年歓】のメロディを演奏し、彼女は夢の中に入っていきます。演奏 が一区切りすると、睡夢神が登場します。手には絹で包んだ鏡を二つ持ち、「睡 11 湯顕祖(1550-1616):字は義仍、号は海若、若士、臨川(今の江西省撫州市)の 人。万暦 11(1583)年の進士。30 歳頃から戯曲を書き始める。役人生活に疑問 を感じて辞職、故郷に引退してからは戯曲執筆に専念し、「玉茗堂四夢」と総称 される 4 つの作品を残す。 12 月下老人:中国の伝説で、恋人を結びつける仙人のこと。
魔や睡魔、紛々馥郁たれ。一夢は悠悠、何ぞ曾て睡熟せんや。わしは睡夢神で ある。いま柳夢梅と杜麗娘とは姻縁があるから、花神の命により、彼らふたり の魂を夢の中に連れていけ。」この数句では、登場口まで歩いて行き、右手で 持った鏡一つを持ち上げて内側を照らすと、柳夢梅が両手をこまねき、目を閉 じて、引き続いて登場します。睡夢神は彼を舞台端までつれて行って立たせて おき、再び左手で鏡一つを持って、机を一度叩くと、通常杜麗娘を机の外から 引き連れてきて舞台袖に立たせます。その後睡夢神は二つの鏡を合わせ、そっ と退場します。彼ら二人は手を離し、目を開け、夢の中での出会いとなりま す。古い演じ方はずっとこのようにしてきました。」 「現在私たちは次のように改めました。杜麗娘がうたい終わり、曲の演奏で 夢の中に入ります。演奏が止まると、柳夢梅が自ら登場します。見得を切った ら、体の向きを変えて顔は内側を向き、背中を外側にして、ゆっくりと舞台端 に退きます。彼の意識ではまるでずっと人を探しているかのようです。同時に 杜麗娘も自分で席を離れ、舞台端を通って机から離れ、柳夢梅に背を向けて、 後退して歩きます。彼らは背中でぶつかると、くるりと向きを変え、まず位置 を交替します〔柳は舞台端側に、杜は舞台袖側に戻ります〕。杜麗娘は左手を 挙げ、顔を覆います。柳夢梅の手が杜麗娘の手を押さえ、夢の中での出逢いと なります。」 「この方法には、無理にこじつけるような欠点が全くありません。かえって 夢の中の淡いかすかな情緒を加えていて、かなり成功したと言えるでしょう。 つまり兪五爺さん自身もこれまで毎回手をこまねいて、杜麗娘を待っていると き、いつも変に堅くなっているように見えましたが、逆に改めた後はずっと生 き生きとした登場になりました。(二)増やしたところはラストの曲の前、春 香がもう一度登場することです。これは弟君〔許源来〕と劉さん〔劉訢万〕の 提案です。この最後の曲は前の【棉搭絮】から続いているのに、間に台詞がな く、杜麗娘が歌いながら退場すると、崑曲を知っている観客ならおのずと分か りますが、知らない人は役者が退場して幕が下りてから、やっと芝居がもう終 わったのだと気付くことになると彼らは感じていました。これでは観客にこの 演目は突如として終わると思わせてしまいやすいので、春香にもう一度登場さ せ、杜麗娘を介添えして退場させるのがよいだろうということになりました。 一つには観客に劇の終わりを暗示するため、二つには介添えする身振りも、か なり生き生きとして見栄えがするからです。もともと原作の「牡丹亭」劇で
は、結末に春香が登場して「晩粧あらたにおしろいを刷き、春に惜しげもなく 香を焚く。お嬢さま、寝床に香を焚きしめましたからお休みください」という 数句を念じます。しかし、ほとんど曲譜ではみな削除されていました。春香の 再登場は、おそらく「驚夢」が上演されるようになって以来の、最初の創意に よる変更例です。私がこの方式を採用して、確かに身振りは喝采を浴びやすく なり、観客も劇の終わりを理解できるようになりました。彼らの提案はそれぞ れよかったのですが、ただ春香が大変になりました。「遊園」の場面を終えて も舞台衣裳を外すことができず、楽屋に座って、「驚夢」が終わるのを待って 登場して三句の台詞を唱えるまで、彼を十分に待たせるのです。このことが、 以前は春香を登場させなかった理由なのかもしれません。」 九 上海を離れる前 「私が初めて上海で公演を行ったとき、公演期間はもともと一ヶ月と決めて いました。ですが、公演が二十数日になっても、劇場の収益は落ちませんでし た。許少卿さんはまた私たちに相談しにきました。彼は、“興行成績がとても いいので、もう半期続けて、私を助けてください。”と言いました。私ははじ め彼に色よい返事をしませんでした。初お目見えの芸人は、うまくやれば収入 が上がるはずですが、演じ続けるとそれが確実でなくなると思ったからです。 鳳二爺さん13の見方では、もう十数日演じても、問題はないとのことでした。 そこで、私たちは半期継続することにしました。」 「その数日の間、許少卿家の人が、私たちにことのほか親切にしてくれまし た。毎朝氷砂糖で柔らかくなるまで煮込んだ白木耳を一碗送ってくれました。 これは精がついて便通をよくする栄養食品で、俳優は舞台の仕事で大変だか ら、食べたら体によいだろうということでした。当時みな西洋の薬を信じてお らず、今のように到るところで“ビタミン”という補助薬を見かけるというこ とはなくて、それで白木耳、燕の巣を唯一の栄養食品としていたのです。実 際、私はまだ二十歳で、若くて体力もある時だったので、食べきっても、体に は全く何の効果もありませんでした。しかし、主人のご厚意は疎かに出来ない ので、毎日平らげていました。」 13 鳳二爺:王鳳卿(1883-1959)のこと。「訳注九」に既出。京劇の老生俳優(男性 役)。名は祥臻、一名奉卿、字は仁斎。北京の人、原籍は江蘇清江。
「ある日の早朝、私は散歩に出かけて戻ってきました。客間に足を踏み入れ ると、一人の女性が福の神を祀った神棚の前に跪いて、敬虔に祈りを捧げてい るのを見かけました。彼女は私が入ってきたのを見て、すぐに起ち上がって私 に挨拶をして言いました。“梅さん、お出掛けが早いですね。”私は“今日は天 気がよいので、ちょっと一回りしてきたのです。私に挨拶はよいので、あなた のおつとめをなさってください、私もお邪魔しませんので。”と言いました。 彼女は、“なんの関係がありましょう、これにただ拝礼しても役に立ちません。 あなた方お二人こそがうちの生きた福の神さまですよ。”と言いました。この ようにまた少し笑い合って、私は休むために部屋に戻りました。これが許少卿 さんの奥さんです。上海っ子の呼び方では“老板娘”と言います。彼女は聡明 でしっかり者の情に厚い一家の女あるじで、夫を大変よく助けて客をもてなし たり、家事を切り盛りしたりしていました。」 「その日の午後、許夫人がまた水ギセルを持ってきて、私の部屋に入ってく ると、満面の笑みで私に言いました。“梅さん、ここ数日大変おつかれさまで した。みんながあなたのお芝居が本当に素晴らしくて、のどにねばりがあっ て、舞台映えがするって言うのを聞きましたよ。不思議と何の非難も無いんで す。舞台では、千人以上の目が、じっと見つめていますよね。みんなに賛成し てもらおうとするのは、本当に簡単なことではありませんね。”彼女の一連の お世辞は、いくらか南方の方言が混じっていましたが、幸い一ヶ月余り滞在し て、彼女たちの会話に慣れ、少しわかるようになっていました。」 「“それは褒めすぎです。”と私は言いました。“私は初めて上海に来て、知り 合いもなく土地もわかりませんでしたが、オーナーさんがお世話してくださっ たおかげです。”」 「“うちのオーナーはあなたを本当に大事にしています。彼はいつも私の前で 梅さんのことを褒めていますよ。あなたは舞台が素晴らしいというだけでな く、性格も好い。お若いとはいえ、非常に穏やかな方だ。将来きっと大スター になる、って。”許夫人は実に口が上手で、どう返事をしたらよいかわからな い気分になり、ただ“あなたがたお二人のお言葉に沿うよう願うばかりです” というお決まりの言葉で、彼女の好意に感謝しました。」 「“梅さん、毎日召し上がっている、くずれるまで煮込んだ白木耳は、私の手 作りなのはご存じですね。ごらんなさい、血色がずっとよいですよ。一ヶ月近 く公演をしたのに、顔がつやつやしているのは、私の功績が小さくないという
ことですね。この点を見ていただいて、私を助けると思って特別にもう二日間 公演をしてください。”許夫人は遠回しに違う話を長いことして、ここにきて やっと本題に入り、彼女の意図を口にしたのです。」 「当時上海の劇場の習慣では、例えば三十日期限で契約すると、必ず数日間 お手伝いをしなければなりませんでした。舞台一日、楽屋一日、座席案内係一 日……オーナーの奥さんもまた単独で一日要求することができました。これら はノルマ外の負担でしたが、のちに通常の規則に変わりました。いわゆる“仕 事の折衝”では〔役者と劇場が出演料や公演期間などの問題を交渉すること を、業界では“談公事”と呼ぶ〕、随時話し合って決めるようにして、直前に 相談して交渉が長引くことがないようにします。その時私たちは初めて上海に 行ったので、これらの事情がわかっていませんでした。私は彼女にどう返事を してよいかわからず、逆にあの白木耳は、気楽な美味い食べ物ではなかったの だと思いました。私は彼女にこう返事をしました。“許奥さま、あなたはわた したちを熱意で細やかにもてなしてくださいましたが、あなたのこのささやか なお願いを、どうしてお断りできるでしょうか。”」 「“梅さんが気持ちのよい方だってことはわかっていましたよ、つまらぬ話を しました。あなたがお手伝いしてくださることに感謝します。”彼女は満足す る答えを得て、その日の会話は終わりました。」 「私たちが許少卿さんとの半期継続の口約束を承諾した、その十数日の営業 状況は、やはり同じように大入りでした。あっという間に十二月十八日〔旧 暦十一月二十一日〕、つまり期限の最終日となり、許少卿さんはまた私たちと 三日間のさよなら記念公演について話し合いました。十六日は「穆家寨」「文 昭関」十七日は一、二本「紅霓関」で、間に「朱砂痣」を挟みます、十八日は 「汾河湾」でした。この三日間私たちの演目の前に、さらに王少卿さんの「魚 蔵剣」、「瓊林宴」と「空城計」を加えました。また「朱砂痣」と「汾河湾」で は王幼卿さんにも子役に扮してもらいました。私たちが連れてきた二人の部将 役でさえも一緒に出馬しました。しかも王さん父子が同じ舞台に立つことに なったので、大変賑やかになりました。」 〔注〕孫玉声さん14は生粋の上海っ子で、以前私にこう話してくれた。「北京 14 孫玉声(1864-1940):名は家振、上海の人。清末から民国にかけて活躍した小説家。
の役者が、初めて上海に来たときの様子、わしは結構見てきたよ。ただ梅さん だけが一回で大成功を収めた。民国二年(1912 年)の盛況は、目の前にありあ りと浮かんでくるよ。私たちははじめ梅蘭芳を知らなかったが、初日のお目見 え公演「彩楼配」を見て、芝居がはねてから、その日一緒に行った友だちと、 それぞれなじみの座席係に次々言いつけて、数日分の座席を確保したよ。当時 梅さんはまだ若く、彼の芸術も後年に比べたら当然まだまだだった。同じよう に、その他の北方から来た青衣役者(令嬢や貞女を演じる役柄)は、民国二年 以前、だいたいがおなかを抱えてぼんやりうたう古くさいやり方をしていた。 だから観客は、身振りや表情について、青衣役者への要求は決して厳しくな かった。だが、出で立ちと歌唱、それが当時青衣役者の最重要の条件だった。 梅さんの出で立ちは、歌唱と登場の際のあの一種の風格は、率直に言おう、過 去に私たちが間違いなく見たことがないものだった。王鳳卿は汪派の老生で、 言うまでも無く、歌唱、しぐさすべてにすぐれた芸を持っている。しかしこれ はふつうの皮黄をとやかく言うのが好きな、フフンとうなる観客に聴かせるも のだ。梅さんの芝居は、万人受けする、老若男女問わず皆が見たくなるものな のだ。だから彼の観客層はかなり広い。あのときは最初から終わりまで、評判 が落ちることはなかった。しばしば遅れてきた観客は、席がとっくに売れてい るので、腰掛けが必要だったが、すぐにはそんなにたくさんの腰掛けを見つけ られず、その上興に乗ってやって来て、興ざめして帰るということはしたくな いので、ボックス席のお金を払って、ボックス席の後ろに立って見ていた。時 にはボックス席の後ろがぎっしりと通路まで人でいっぱいだった。こんな賑や かな様子を、しょっちゅう目にしたよ。どれほどの力量か想像してごらん。」 「王少卿さんの名前は、みなさんよくご存じでしょう。彼はのちに胡琴で名 を成しましたが、おそらく十四歳のときは人の注意を引くようなことはありま せんでした。上海の舞台での三回の出演は、家伝の汪派十八番の演目でなく、 なんと勉強した本場の譚派老生でした。彼は賈麗川15の学生で、賈洪林16、鮑 吉祥17も彼を教えたことがあります。もともと楽器にも興味があって、とりわ 15 賈麗川(1851-1907):京劇の老生俳優。崑曲の小生俳優の賈樹堂の子。 16 賈洪林(1874-1917):京劇の老生俳優。譚鑫培に師事した。 17 鮑吉祥(1883- ?):京劇の老生俳優。
け胡琴は小さい頃から練習していましたから、田宝林を引き継ぎ、彼の父の伴 奏を担当するようになってからは、曹心泉18に師事して、正式に伴奏担当に専 門を変えたのです。〔業界では伴奏と役者の2つの部門は、明確に区別されて いる。もし役者から伴奏担当に変わろうとしたら、ほかの人に師事しなければ ならない。そうしないと、たまたま素人で出演しようにも、安心して舞台に立 つことができないのだ。〕」 「彼はのちに私の伴奏者として二胡を演奏するようになりました。ここ三、 四年おじの徐蘭沅が左耳が遠くなったので、彼が胡琴を弾き、彼の学生倪秋萍 が二胡を弾くことになりました。私の演目には、新たに編成した節回しが多い のですが、それは彼らが私のために考えてくれたものです。」 〔注〕賈麗川は賈洪林の叔父で、当時老生芝居の名教師でもあった。それ以 前の芝居を教える者は何流派なのか標榜していなかった。彼が教えた弟子たち は数えきれないほどだが、陳秀華は譚派、王鳳卿は汪派で、みな彼について学 んだ。また王少卿の師匠の師匠である。 「王幼卿はのちに伯父の王大爺(瑶卿)からの伝授を受けたので、王派直系 の青衣です。彼は当時子役を演じ、わずか十二歳でした。残念なことに彼は早 くに喉を悪くしてしまったので、舞台に出られなくなりました。私は彼を北京 から上海に招いて葆玖の演目を教えてもらうことにしました。葆玖の皮黄は、 手ほどきから今に至るまで、まるまる七年、三十数種の演目を習得しました。 うたと台詞回しの面で、その基礎があるのは、すべて王さんが多くの心血を注 いで、一切を引き受けて教えてくれたおかげです。」 「当時の上海の雰囲気は、北京と同じで、子供役者の芝居を好む人がいまし た。丹桂第一台には八歳紅と小楊月楼がいて、彼らはとても幼いので、私たち のお別れ記念公演では、二人の小さな武将を加えて入れ替わりで登場して新鮮 だったのですが、これも許少卿さんの創意でした。彼は観客の心理に応えるた めに、工夫を凝らしていて、確かに有効で気迫ある劇場経営と言うにふさわし いものでした。彼はさらに俳優の気分を盛り上げることもよくわかっていて、 18 曹心泉(1864-1938):戯曲音楽家。安徽懐寧の人。はじめ崑曲の小生を勉強した が、のちにのどを悪くしてから伴奏楽器について学び、笛や月琴もよくした。
刺激を与えることがありません。彼はずっと劇場を経営してきて、失敗するこ とがありませんでした。惜しいことに賭け事に興味を持ちはじめてから、再起 不能に陥りました。これは後日談で、私の舞台生活とは関係がありませんか ら、詳しく話す必要はないでしょう。」 「最終日の「汾河湾」では、許少卿オーナーは知恵を絞って、パンフレット の「汾河湾」三つの大文字の下に、“特別ボックス席、一等ボックス席のお客 様には、王、梅の「汾河湾」写真一枚を記念にお付けします。半券は不可、今 回の写真はガラス乾板で印刷し、以前プレゼントしたものとは異なります”と 小文字で数行書かれていました。当日劇場で観客に配布されました。事前に送 付すると、だいたい印刷が悪いと言って、観客が不満を持ち、再度配布し直す ことになります。総じて、許少卿さんは手を変え品を変え、観客を惹き付けま した。これは例を一つ挙げたに過ぎません。」 「鳳二爺さんの「汾河湾」は、李五先生〔順亭〕19が教えたものです。彼は 私に言ったことがあるのですが、あるとき乾清宮で公演を行ったとき、西太后 が突然一枚のメモを下し、そこには「王鳳卿は李順亭について芝居を習うよう に」と書かれていました。この命令で、彼は李五先生にこの演目を習うことに なりました。本来李五先生のわざは、本当に言葉では表せないものです。譚鑫 培さん20の「汾河湾」も、李五先生の指導を経ています。私は彼らお二人と共 演したことがありますが、その中の身振りと蓋口〔業界では、対話によるうた と台詞を蓋口という〕は、また鳳二爺さんが細かく検討しています。だから私 は譚鑫培さん、王鳳卿さんそれぞれは流派が違うとはいえ、「汾河湾」の上演 方法は一つの源流から来ていることを知っています。」 「私たちは上海で一気に四十五日間の公演を終え、ちょっと疲れを感じたの で、数日の休みをとってから、北京に戻りました。私は元々衣裳や小道具を ちょっと購入して、それから南方のお土産を買いに行き、舞台用の化粧品、お しろいや頬紅などの品物を、持ち帰って同業者の人それぞれに贈ることができ ると考えました。さらに何カ所か新旧の知り合いの家を訪ねて、それぞれお別 れをし、彼らの私に対する厚情にお礼をするつもりでした。彼らは私がまもな くお別れだと聞くと、日ごとに餞別してくれました。中国料理、西洋料理を続 19 李順亭(1847-1919):北京の人、京劇の老生俳優。 20 譚鑫培(1847-1917):京劇の老生俳優。名は金福。湖北江夏(武昌)の人。
けて食べて、私はおなかをほとんど壊しそうになりました。」 「私は観劇が最も好きだということをお話ししましたよね。公演期間中は、 ずっと時間がありません。いまや公演が終わったので、学生が試験を終えた ときと同じように、なんとも言えない開放感がありました。私はすぐに時間を 作って、各劇場へ代わる代わる出かけて観光してみました。当時上海の舞台す べてが、日進月歩、互いに競い合って新しい芝居を上演していました。彼らが 引きつけるのはふつう賑やかなのが好きな観客で、数量的にも少数派ではあり ませんでした。」 「いくつかの劇場は世の中を風刺する新劇で時事を上演し、民の教化を図っ ていました。これには形式上二つの異なるタイプの劇がありました。一つは夏 氏兄弟(月潤、月珊)21が経営した新舞台で、上演したのは「黒籍冤魂」、「椿 姫」、「黒奴吁天録」といった演目です。なおも京劇の楽隊を残し、通例どおり 胡琴が伴奏して歌唱します。しかし舞台衣裳は、現代化の傾向を持っていまし た。もう一つは欧陽先生(予倩)22が参加した春柳社で、謀得利劇場を借りて 上演していました。「椿姫」、「不如帰」、「陳二奶奶」といった純粋な新劇化し た新しい劇で、京劇の楽隊は使いません。これらの劇場に私はすべて行きまし たが、劇の内容は当然とても意義があり、演出の手法も、かなり現代化してい ました。私はとても深い印象を持ちました。しばらくして、私が北京で同じ趣 旨の啓蒙新劇を上演したとき、確かに一世を風靡しました。このとき上海で彼 らを見学したことによって、かなり影響を受けたことを否定できません。」 [注]謀得利劇場は、当時外国人が音楽会を開くために用いた上等な小型劇 場である。場所は南京路外灘謀得利楽器店の隣、倉庫の上にあった。場内には 五、六百の席が備えられ、土地の権利は謀得利が所有していたので、みな謀得 利劇場と呼んだのである。 21 夏月潤(1878-1932):京劇の武生俳優。夏月珊の弟、譚鑫培の娘婿。夏月珊 (1868-1924)、京劇の老生俳優。安徽懐寧の人。父夏奎章も老生俳優であった。 22 欧陽予倩(1889-1962):劇作家、俳優。湖南瀏陽の人。1902 年来日、明治大学 · 早稲田大学卒業。在日中、現代劇の劇団「春柳社」を設立。帰国後、京劇の女役 俳優としても活躍した。また、演劇の教育者として、多くの人材を育てた。
「舞台化粧では新しい収穫がありました。北京では、所謂照明付き堂会(個 人宅での上演)に偶然出くわしたことを除いて、劇場ではみな日中上演して いました。堂会での照明は、新しい舞台の条件には不十分でした。私は上海の 各舞台にある照明設備を目にして、やっと新しい改革の計画を作るためのヒン トを得たのです。私は戻ってすぐ舞台化粧担当の師匠韓佩亭さんと詳しく検討 しました。一部の上海の俳優の化粧法を取り入れて、少しずつ改良を加えまし た。その目的は新式の舞台照明に合わせるためです。とにかく当時私はわずか 二十歳の青年で、突然多くの新鮮な環境と事物に出会い、吸収したいと、本当 に応接に暇あらずという感じでした。このわずか五十数日の上海滞在が、私の その後の舞台生活に、極めて大きな影響を与えたのです。」 「私たちは許少卿さんの手配で北へ向かう列車に乗り込みました。当時の滬 寧、津浦両路線にはまだ連絡輸送という仕組みがありませんでした。列車が下 関23に着くと、急いでフェリーに乗って長江を渡りました。浦口でまた切符を 買うので、手続きがかなり面倒でした。幸い許少卿さんが見送りに人を差し向 けてくれたので、一切の手続きはすべて彼がやってくれました。私たちが津浦 の列車に乗ったときには、もう空は暗くなっていました。この一連の旅程は、 二日二晩かかりました。私たちは列車に乗ると、すぐにベッドを整え、荷物を 置き、ひとしきり大騒ぎすると、すっかり疲れ果ててしまい、倒れ込むように 眠りにつきました。しかし、私は意外にも寝付けませんでした。コンパートメ ントの中の濃淡のある深い黄色を帯びた灯に向かい合いながら、今回の上海滞 在で見聞きした様々なこと、上演での楽しかったこと苦しかったことを思い出 しはじめました。新式の舞台の装置、照明の配置、化粧方法の改良、付け加え るべき道具類、自分が学んだ刀馬旦24や、人が上演する新作劇など、一幕一幕 がすべて私の脳裏をよぎりました。このように長いこと繰り返し考えていたの で、いつの間にか、うつらうつらとして眠ってしまいました。」 「そとに出たことがなかった青年がしばらく家を離れ、帰り道もう少しで家 に着くという時に、彼の心に格別の不安が押し寄せてきました。ずっと時刻表 を握りしめ、駅を数えて、逆算法で前途を計算するのです。昔の人が言ってい 23 下関:南京市の地名で、長江沿いにある。現在は南京市鼓楼区に属す。かつて下 関駅があり、沪寧線の起点・終点となっていた。 24 刀馬旦:女性役の一つで、女武将に扮する。
ます、「帰心は箭の如し」と。自らその境遇を経験した人でなければ、この言 葉の切実さを理解することはないでしょう。天津駅を出発してから、みなの心 はさらにはやり、静かに座って、口を開いて話すこともしませんでした。遠く に北京の城壁が見えてくると、乗客たちは次々と起ち上がり、細々した物を慌 ただしく片付けました。それから少しすると、もう東駅(正陽門東車站)に滑 り込んでいました。我が家から迎えの人が来ていて、列車を下りて、荷物のチ ケットを付き人に渡し、私は先に伯母に付いて家の車に乗り込み、鞭子巷三条 の旧宅に戻りました。」 第十一章 北京に戻り劇団に参加した経緯 一 鞭子巷三条25 「二ヶ月離れていた家に帰り、私は本当に“祖母が路地の入り口に寄って待 ち、幼子が家の玄関で待つ26”という境地を味わいました。私の帰宅を見たと きの彼らの喜びと安堵は、なんとも形容しがたいものでした。私が玄関に入っ てすぐ、まずは祖母が住む母屋の部屋に挨拶をしました。この慈愛深い温厚な 老人は私を見ると、“いい子や、おつかれさま”と言い、手を伸ばしてきて私 の肩をつかみ、私をきちんと立たせました。窓から射し込む光で、私の顔を じっくりとながめ、“顔は痩せていないようだね”と言いました。私は“おば あさん、あなたのために南方のお土産をたくさん買ってきましたよ。ハムや龍 井茶などの荷物が開いたら、持ってきてお渡しします”と返しました。」 「“慌てなくていいよ”とおばあさんは言って、“早く部屋に戻って休みなさ い。お嫁さんが手伝って、顔を洗ったり、土を落としたり、着替えさせたりし てくれるだろう。しばらくしたら、一緒に食事をしよう。”私ははいはいと返 事をしながら、また彼女と少し話をして、ようやくゆっくりと退去して、そっ と綿のカーテンを開いて、部屋を出て、私の寝室に戻りました。」 「私の前妻王明華が、服を着替えさせ、かまどからやかんを取って、洗顔用に 水を流して顔を洗わせてくれました。長男の子永が私のそばに駆けてきて、飴を 25 鞭子巷:現在の北京市崇文区にあった小路の名。 26 原文「祖母倚閭、稚子候門」:「倚閭」は「門によりかかる」の意、父母が子ども の帰りを待ちわびることを指す。「稚子候門」は、陶淵明(365-427)「帰去来辞」 の「僮僕は歓び迎え、稚子は門に候つ(僮僕歓迎、稚子候門)」に拠る。
食べたいと言いました。私は“あるよ。しばらくしたら聾子27が荷物を運んで くるから、おまえに食べさせてあげよう”。私は子供と話しながら、明華と上海 公演の様子を話しました。彼女はとても興味深そうに聞き、それからこの二ヶ月 間の些細な日常について話してくれました。私は顔を洗い終え、お茶を一杯飲む と、すぐ小走りに鳩小屋へ行き、久方ぶりに再会した小さな友人たちを見て、こ とのほか親しみを覚えました。李さんがまた私をご飯に呼びに来ました。」 「伯父が生きていたころは、彼の部屋で食事をすることがありました。彼が 亡くなってからは、ずっと祖母の部屋に集まって食事をしました。私が祖母の 寝室に再び入ると、テーブルにはすでに鍋が掛けられ、中は豚肉と白菜の団子 でした。そのほかに凍み豆腐、醤油煮込み、からし煮込み〔辛子煮込みの作り 方は白菜を煮込んで、かめで蒸しあげて、食べるときにからしをまぶす〕、戸 部街にある月盛斎28の羊肉の味噌漬けがありました。それからマントウとご飯 です。これらはすべて日常のご飯で、しばらく食べていなかったので、非常に おいしく食欲が出ました。」 「その日食卓を囲んで祖母とともに食事をしたのは、お二人のおば、一人は 秦稚芬に嫁ぎ、もう一人は王懐卿〔王惠芳の父親で、武生俳優、別名王八十と いった〕、それから朱家に嫁いだ従姉〔彼女は梅雨田の次女で、朱霞芬の子息 朱小芬に嫁いだ〕と二人の未婚の従妹〔二人も梅雨田の娘で、一人は徐碧雲、 一人は王惠芳に嫁いだ。惠芳の前妻は王琴儂の妹で、死別後に梅家から後妻 を迎えた。すべて梅先生が仲介して、彼女たちを嫁がせた〕、くわえて伯母と 我々夫婦、全部で八人でした。あまり広くなく、しかもいろいろな物が置かれ てある部屋に集まって、ことのほか黒山のようになって体を動かす余裕もあり ませんでした。」 「私は祖母の横に座り、みなは私に上海の風俗景色を尋ねました。私は口を 休めることと無く彼女たちに話して聞かせました。あのような素朴で単純な北 京の街で育った人にとって、このような租界地の豪奢な繁栄は、本当に珍しい もので、まるで「夢遊上海」という新劇〔「夢遊上海」は玉成劇団が上演した 新劇で、内容が浅薄で物足りない感じがある〕29を見るかのようでした。祖母 27 聾子:梅蘭芳の付き人。第二集第二章「二度目の上海」一に、「(付き人)宋順は 耳が聞こえない」とあるので、「宋順」という名であるとわかる。 28 月盛斎:清の乾隆 40(1775)年創業、牛肉や羊肉の味噌漬け等を扱う老舗。
は私に言いました。」 「“私たちのこの職業は、自分自身の稼ぐ能力にたよって、家業をもり立てる ことができる。他の人が羽振りがよく、衣食の贅沢をしているのをみても、 決してうらやましがってはいけない。ことわざに‘勤勉と倹約であってこそ家 を盛んにできる’というとおり、おじいさんは生涯人助けを一生懸命して、同 業者の世話をして、私たちの職業のために頑張った。でも自分自身はとても倹 約して質素だった、大事なお金を浪費することはなかった。おまえはおじいさ んのお金の使い方を学んで、出費を抑えた倹約の徳を見習わなくては。我々の 業界で役者になったら、お金を稼ぐのは容易なことではない。金遣いが荒けれ ば、体を壊し、徐々に落ちぶれて、飢えと凍えに苦しむことになるのは免れな い。上海のようなにぎやかな所では、多くの役者がそこで身を持ち崩すと聞い ている。お前は初めて行って人気が出たから、これからお前と契約を結ぶ人が 出てくるのは間違いないが、お前は自分自身をしっかりと持って、飲む打つ買 うの悪習に染まってはいけない。これはお前の一生のこと、絶対に私の今日の 話を憶えていておくれ。私は老いてしまった、まるで一本の蝋燭が、芯を残し ているようなもので、あと数年生きられるぐらいだとわかっている。私がまだ しっかりしているうちに、見聞きしてきたことはお前に聞かせてやらなくては と思っているよ。”私は彼女の教えを聞いて、感動のあまり涙がこぼれそうに なりました。このお話を私は頭の中に深く刻みつけ、今日に至るまでずっと処 世の指針としています。」 「鞭子巷三条は、ごく普通の四合院です。母屋は五部屋あり、左側の二間は 祖母の寝室、右の二間は伯父、伯母が未婚の妹たちとともに住んでいました。 中央の部屋には、仏堂を置いていました。私の祖母は看経念仏が好きで、そう やって彼女の晩年の気晴らしとしていました。閑な時は孫たちのために働い て、針仕事をして、老いても彼女の視力はまだ衰えていませんでした。わが家 の古くからの掟では、博打は許されませんでした。私が今日に至るまでトラン プや麻雀ができないというのは、小さい頃から私は家でカルタ賭博を見たこと がなかったからです。私は左側の棟で寝起きしました。向かいが厨房で、厨房 29 玉成班:田際雲(1864-1925)が二十歳のときに結成した河北梆子の劇団で、現 代劇(時装戯)を主に上演した。河北梆子は現在の河北省周辺の地方劇。田際雲 は河北省の生まれ、河北梆子の花旦役者(活発な女性役)。
の隣が鳩小屋でした。外の大門の脇の倒座〔北方の四合院は、母屋に向かい合 う部屋を「倒座」と呼んだ〕は、客室二部屋、書斎一部屋であり、間取りは非 常に狭くなっていました。この小さな二部屋には、むかしいつも芝居好きの友 人たちが、伯父に崑曲や乱弾の音楽上の問題について教えを受けに来ていまし た。これが私の当時住んでいた家のおおよその状況です。伯父は昨年の秋、こ の家で、病気で亡くなりました。」 「もう一つあなたに面白い話をしましょう。伯父が亡くなったとき、辮髪で はなかったのですが、それは私が切ってしまったからです。その仕事は、彼 が亡くなる二ヶ月にもならない前に私がやりました。経緯はこうです。民国が 成立したとき、断髪令が出されました。しかし多くの人はずっと日和見を決め こんで、進んでやろうとはしませんでした。私は民国六年六月に、率先して、 頭の後ろの鬱陶しいものを切り落としました。北京の劇団では、おそらく私が 比較的早く切った者だったでしょう。続いてわたしはまた遊説の方法を使おう と思い、伯父にもそれを切り落とすように勧めました。彼は最初こそぐずぐず して受け入れようとしませんでしたが、私が一日中彼の側で、辮髪を切ったあ との利点を滔々と聞かせました。毎日の朝起きて辮髪を梳かす面倒から解放さ れ、また寝るときも楽で気持ちがよく、さらに服を汚してしまうこともない と。伯父は何度も聞かされたので、少し動揺してきました。私は大事業がまも なく達成できる、機会を逃してはならぬと思いました。ある日、奮起して彼に 言いました。“明日、外国人経営の店に行ってパナマ帽を買ってきます。あな たに代わって私にあなたのこの邪魔な辮髪を切らせてください。パナマ帽をか ぶったら、それはお似合いですよ。”今度は少し見込みがあるようでした。彼 はうなずいて、完全に私の提案に同意しました。次の日の午後、私は本当に帽 子を買い、私自身が彼のために辮髪を切り落としました。彼にはパナマ帽をか ぶってもらい、鏡に映して見せると、彼はとても満足しているようでした。し かしほどなく彼は世を去りました。この生地が細やかでしなやかなパナマ帽 を、彼は何回もかぶることができませんでした。私はそれを茹〔莱卿〕30先生 に差し上げました。」 30 茹莱卿(1864-1923):京劇の武生役者、また胡琴奏者。楊隆寿(1854-1900。梅蘭 芳の母方の祖父)に武生(立ち回りを専門に行う男役)の演技を学んだ。のちに 梅雨田に胡琴を学び、梅蘭芳の琴師もつとめた。
「それから、私の付き人大李さんと聾子さんですが、私が彼らに辮髪を切るよ うに勧めても、どうしても承知しませんでした。ある日彼らがぐっすり眠って いるすきを見計らって、まず聾子さんの辮髪をこっそりはさみで切ってしまい ました。彼は目覚めてから、頭の後ろがすうすうするのを感じて、非常に落胆 して塞ぎ込みました。大李さんは怖れて警戒するようになり、毎晩顔を外側に 向けて眠り、私が手を出せないようにしました。結果、私は彼が熟睡している 隙に、例の如く切ってしまいました。今回は手間がかかったのですが、それは 彼の辮髪が壁に密着していて、取りかかろうにも容易でなかったからです。だ から私は半分だけ切って、その上三、四つに切り分けました。翌日彼は目に涙 を浮かべ、切り取られた半分の辮髪を手にして、母屋へ行って私の祖母に訴え ていました。“ご覧下さい、私の辮髪も旦那さまに切られてしまいました。どう 思われますか?”と言いながら、大声で泣いていました。祖母は慰めて言いま した。“そんなに悲しまないように。旦那さまにおまえのためにパナマ帽を買わ せよう。”大李さんはそれを聞いても、どうして彼の悲しみを消すことができま しょう。しばらく経っても、彼はこのことが彼の身体にとって一大損失であっ たと考えていました。当時は諦めきれない人が本当に多くいたのです。」 「私が二十歳より前、北京で暮らしていた経緯を、ここで順を追って話させ てください。私は李鉄拐斜街の古びた家で生まれました。私の父は私が四歳 の年に、この家で病気で亡くなりました。七歳ごろ、一家で百順胡同に引っ越 しました。私の芝居の手習いと最初に喜連成班に入って演じた時期は、すべて この家に住んでいましたが、これは以前何回かに分けてお話したことです。百 順胡同から最初にまず芦草園に引っ越し、ここはだいたい私が住んだことのあ る中で最も狭く貧相な場所でした。当時経済状況が最も逼迫している時期だっ たのです。私はすでに劇団に入っていましたが、これは実地で練習という性質 で、待遇は俳優養成所よりまだいいけれども限界がありました。毎日ただわず かな給金をもらうことができるだけで、私はすでに満足していました。私が記 憶している最初の舞台では、わずかなお金をもらい、家に帰って両手で捧げ 持って母に差し上げました。私たち母子はひどく興奮しました。母の気持ちと しては、この息子がすでにお金を稼ぐことが出来るようになったのを喜んでい るようでした。私はそのときやっと十四歳になったばかりで、いくら稼ごう が、お金を持ちかえり母に使ってもらえると思いました。子どもの心理とし て、どれほど慰められたことでしょう。憐れなことに、翌年七月十八日、母は
私を残して、この貧相な家で病気で亡くなってしまいました。」 「翌年、私は鞭子巷頭条に引っ越しましたが、そこもまた極めてせまい四合 院でした。家の出費をあまり増やすこともできず、伯父の収入も余裕がありま せんでした。彼の芸術は早くから評価されていましたが、彼の胡琴伴奏の報酬 は、譚先生の晩年になってやっとかなり高くなりました。」 「私は十七歳で声変わりしたので、喜連成養成所を脱退し、舞台に立つのを 停止するしかありませんでした。幸い声変わりの期間は長くなく、一年足ら ずだったので、再び大きな劇団に参加しました。大劇団の規則は小劇団と違 い、主役端役にかかわらず、みなギャラがあります。私はただ冒頭にうたうだ けで、地位も高くなかったのですが、それでも固定給がありました。その時期 に、母の服喪期間が終わるのを待って、前妻の王明華と結婚しました。」 「彼女は頭もよいし仕事もできる奥さんでした。嫁いだばかりのころ、我が 家の状況は、好転の兆しが見えませんでした。些細なことで言えば、私の記憶 では冬に藍緞子の羊皮の上着を着ていたのですが、破れていても本当に気にし なかったのです。その冬じゅう、彼女は何回も繕ってくれました。あるとき祖 母ですら手伝って補修してくれました。もともと我が家は、祖父から始まって ずっと質素倹約で通してきましたが、下賜品の毛皮の上着は、このように何度 も補修して、補修し続けたことからも、当時私の経済力がわかります。本当に 薄弱でした。彼女が永児を生んで、我が家は鞭子巷頭条から三条へ引っ越して から、ある日、伯父が私を呼んで、こう言いました。」 「“おまえはだんだんと自立できるようになってきた。嫁さんの家の切り盛り も、よくできている。私は家の管理をおまえたちに任せるつもりだ。”この話 をしてから半日のうちに、彼は伯母に言ってお金の取引、家計簿を渡して私が 管理するようにしました。そのときから、私の肩にはこの千斤の荷物がかかる ようになりました。今日まで、それを下ろすことはできません。」 「男性の役者は、ある年齢に達すると必ず声変わりを経なくてはなりませ ん。声変わりの期間は短ければ短いほどよいです。二三年で声変わりします が、声変わりしないのは、非常に問題があります。これには二つの要因があり ます。(一)声変わりするより前に、ひどく疲れるまで唱ってしまったこと。 (二)声変わりの後、休息と養生を理解していなかったこと。この二つはいず れも声帯にダメージを与え、喉の回復に影響を与えてしまうのです。」 「私の息子葆玖は昨年声変わりし、私と同じく、数ヶ月かかりました。これ
は遺伝とも関係があるかもしれません。私はここで現代の子ども役者たちに 注意を喚起したいと思います。声変わりの期間は、体にはまず適切な休養と十 分な栄養が必要です。発声練習では高すぎる音は好ましくありません。老生、 花臉、老旦などの役柄は、地声でうたうので、このいくつかの点に注意しなけ ればなりません。うたいすぎると、やはり「左噪子」になってしまいます〔業 界では裏声のことを「左噪子」と呼び、かん高く狭い声になり、地声がだめに なってしまう〕。武生を学ぶ者は、立ち回りの技術にのみ頼ることはできない のに、喉の養生を気にしません。楊〔小楼〕さん31のように舞台で数十年人気 を保つことができるのは、もとより立ち回りの技術がすばらしいこともありま すが、さらに、広く明るい、低く響くよい喉をお持ちだからで、これが大いに 助けとなっているのです。」 〔参考文献〕 『国訳漢文大成』文学部第十巻 1921 年。 『中国劇目辞典』河北教育出版社 1997 年。 『上海昆劇志』上海文化出版社 1998 年。 『中国戯曲志・上海巻』中国 ISBN 中心出版 1999 年。 『中国京劇史』中国戯劇出版社 2005 年。 31 楊小楼(1878-1938):本名は嘉訓。武生の名優。清末の名優楊月楼の子。