北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察 ─ 尚書
令廃止とその意図 ─
著者
清水 浩一郎
雑誌名
集刊東洋学
巻
116
ページ
25-49
発行年
2017-01-25
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129924
25 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水)
北宋宗朝の﹁公相制﹂についての一考察
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尚書令廃止とその意図
│
清
水
浩一郎
はじめに 本稿の目的は、北宋末宗朝の﹁公相制﹂について制度 的側面から考察を加え、その構造と特性を明らかにするこ とにある。 ﹁ 公 相 制 ﹂ と は、 北 宋 宗 朝︵ 一 一 〇 〇 −一 一 二 五 ︶ の 政和二年︵一一一二︶から、宣和七年︵一一二五︶まで施 行された制度である。神宗朝の元豊官制改革以降、宋朝で も 門 下 省 ︵ 侍 中 ・ 門 下 侍 郎 ︶・ 中 書 省 ︵ 中 書 令 ・ 中 書 侍 郎 ︶・ 尚書省︵尚書令 ・ 尚書左右僕射 ・ 尚書左右丞︶の三省が置 かれた。公相制ではこの三省所属の侍中 ・ 中書令 ・ 左右僕 射をそれぞれ左輔 ・ 右弼 ・ 太宰 ・ 少宰と改名し、尚書令を 廃止した。また、職事官とは別に、三師︵太師 ・ 太傅 ・ 太 保 ︶ ・ 三 公︵ 太 尉 ・ 司 徒 ・ 司 空 ︶ を 廃 止 し、 こ れ に 代 え て 三 公︵ 太 師 ・ 太 傅 ・ 太 保 ︶ ・ 三 少︵ 少 師 ・ 少 傅 ・ 少 保 ︶ を 新設している。そして、新設した三公であり尚且つ特定の 条 件 を 満 た す 者 を﹁ 公 相 ﹂ と し た。 こ れ ら 諸 変 更 に よ り、 公相たる太師蔡京は旧来の宰相の上位に位置付けられるこ ととなった。 近年の宗朝の研究動向として、宗を昏君とする固定 化した見解の再検討を試みようとするなど、この時代に新 たな価値を見出すべく、多角的な観点から研究が行われる 傾向にあ る ︶1 ︵ 。ただこのような全体の傾向に対して、宗朝 の政治制度史研究の分野は、史料的制約もあって比較的低 調である。特に公相制に関していえば、これに論及する研 究は散見されるものの、該制度を主たる検討課題として取 り扱ったものはあまりみられな い ︶2 ︵ 。 そ の な か で も、 比 較 的 ま と ま っ た 記 述 の あ る 先 行 研 究 として、元豊官制以降の政治制度を包括的に論じた張復華 氏の研究があ る ︶3 ︵ 。張氏は、先述した公相制に関する諸要素 集刊東洋学 第一一六号 平成二十九年一月 二五 −四九頁26 を列挙したうえで、公相の﹁権位﹂を一般の宰相とは比べ ものにならないものとする。 しかし、 機構面にまで立ち入っ た検証をしていないため、公相がどのようにしてそうなり えたのか、説得力に欠ける感は否めない。また、近年刊行 された哲宗 ・ 宗朝両朝を通観した方誠峰氏の研究にも公 相制に論及した部分がある。方氏によると、公相は実質的 に元豊官制以後の次相である尚書右僕射兼中書侍郎に相当 すると述べているが、その根拠となる史料が公相制施行以 前のものであることに加えて、公相を次相相当とする事自 体に再検証の余地があ る ︶4 ︵ 。 宗朝の専論ではないが、元豊官制改革以降を通貫する 研究として、熊本崇氏による一連の成果がある。熊本氏の 三省制下における宰相とその他執政に関する研究の大略を 示せば以下のようになる。まず神宗主導で断行された元豊 官制改革によって、宰相である左僕射兼門下侍郎 ・ 右僕射 兼中書侍郎が、尚書省に加えて門下省 ・ 中書省の何れか一 省に渉る権限を有するようになる。これに対して、門下侍 郎 ・ 中書侍郎 ・ 尚書左右丞は、各々所轄の一省に権限を限 定させられており、これが宰相とその他執政とのあいだに 格差を生む一因となっていた。元豊官制以降の宰執は、宰 相とその他執政が時と場合によっては同等の存在ともなり 得る元豊官制以前の同中書門下平章事と参知政事の関係と は異なり、制度によって意図的に序列化 ・ 階層分化されて いたことになる。この他にも、宰執が参加する都堂聚議の 形骸化、 中書省の進擬権開放とこれに伴う該省の地位低下、 門下省の遊休機関化、尚書省の相対的突出など、施行当初 の三省制から様々な状況変化がみられるが、主に進擬権が 開放されたことにより、首相︵左僕射兼門下侍郞︶は事実 上三省に渉る権限を所有することとなった。 そのため爾後、 首相の権限が宰執集団内で突出する結果を招来し、特に次 相︵右僕射兼中書侍郎︶不在の場合、その他執政は首相に 対抗することが困難となっ た ︶5 ︵ 。 このように、北宋三省制からは首相の擅権を招来する要 素を看取できるわけであるが、これらを踏まえた上で熊本 氏 は、 ﹁ 宗 朝 の 宰 相 蔡 京 は、 元 祐 の 呂 大 防︵ 首 相 ︶ に 等 しい制度的権力基盤を保有﹂したとし、また﹁宗朝の公 相制に至り首相の独員は制度化された。 ︵呂︶ 大防にすら ﹁専 制 ﹂ せ し め え た 元 祐 三 省 制 は そ の 先 駆 形 態 で も あ る ﹂︵ 括 弧内筆者注記︶と述べて、公相制が元祐以降の三省制の延 長線上にあるとの見通しを示してい る ︶6 ︵ 。元祐から公相制ま でが右の如く予見されている以上、これに続く公相制と南 宋三省制の関係性についても、元祐以降の経緯を踏まえて 研究を進める必要があるだろう。 筆 者 は 以 前 南 宋 告 身 の 書 式 復 元 を 通 じ て、 高 宗 朝 の 宰
27 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) 相 ・ 執政の職域について考察を加えたことがある。その結 果、文書行政において三省所属の宰執が共に三省に渉る権 限を獲得したことにより、宰相は長期独員状態を許容する 制度的基盤を獲得したと結論し、その上で、南宋における 宰相擅権の制度的先駆形態として公相制を想定し た ︶7 ︵ 。しか し、公相制と南宋三省制は宰相擅権という共通点を有して いることから、蔡京を南宋における擅権宰相秦檜の前例の ひとつと看做し得る一方 で ︶8 ︵ 、両者を直接的に接続し難い制 度上の差異が存在する。よって、南宋の三省制がどのよう な経緯で成立したのか、特に北宋からの連続性 ・ 非連続性 を考察するためには、元祐三省制と南宋三省制のあいだで 施行された公相制について、その具体像を明らかにしてお く必要がある。 そ こ で 本 稿 で は、 南 宋 が 北 宋 の 政 治 制 度 を い か に 受 け 継いだのか、或いはいかに受け継がなかったのか、その関 係性を明らかにする試みの一端として、公相制の構造とそ の制度的特性について検討を加える。まず第一節で公相制 導入によって制度がどのような変容を被ったのか、政和二 年九月二十九日詔をもとに検証する。次いで第二節で、公 相制施行下における公相の職権について、尚書左丞李邦彦 の上言をもとにして検討を加え、第三節で、この制度改変 の焦点とも看做し得る尚書令の廃止について考察する。そ して最後に第四節で、以上の検証結果を踏まえて、公相制 と南宋三省制の連続性と非連続性について卑見を提示する こととしたい。 一、 ﹁公相制﹂の形態︵一︶
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その機構と制度改変の要点│
本節では、政和二年九月二十九日に下された詔を手がか り に、 公 相 制 の 導 入 に よ っ て 三 省 制 が ど の よ う な 改 変 を 被ったのか検討を加え、公相制の機構及びその要件につい て明らかにすることとしたい。 次に引用した二つの詔は、公相制導入に伴う諸変更を指 示した政和二年九月二十九日詔である︵以下これを政和二 年詔① ・ ②と略称︶ 。 政和二年詔① 九 月 二 十 九 日、 詔 以 太 師 ・ 太 傅 ・ 太 保 爲 三 公、 少 師 ・ 少 傅 ・ 少 保 爲 三 孤 ︵ 1︶。 以 左 輔 ・ 右 弼 ・ 太 宰 ・ 少 宰 易 侍 中 ・ 中 書 令 ・ 左 右 僕 射 之 名、 舊 以 太 尉 ・ 司 徒 ・ 司空爲三公及尚書置令、並罷 ︵ 2︶。 ︵﹃宋会要輯稿﹄ ︵以下﹃会要﹄ ︶職官 1/ 31︶28 政和二年詔② 又 詔﹁ 新 官 公 少、 若 除 三 公、 即 爲 宰 相、 合 不 帯 太 宰 ・ 少 宰 ・ 左 輔 ・ 右 弼 之 任。 三 少 ・ 特 進 以 下、 即 帯 太 宰 等 官 稱 治 省 事 ︵ 1︶。 新 官 三 公 舊 爲 三 師、 新 官 太 師 舊 亦 爲 太 師、 新 官 太 傅 舊 亦 爲 太 傅、 新 官 太 保 舊 亦 爲 太 保 ︵ 2︶。 此 古 三 公 之 官、 爲 宰 相 之 任、 今 爲 三 師、 古 無 三 師 之 稱、 合 依 三 代 爲 三 公。 論 道 經 邦、 燮 理 陰 陽、 官 不 必 備、 惟 其 人、 爲 眞 相 之 任 ︵ 3︶。 新 官 三 少 舊 爲 三 公、 新 官 少 師 舊 爲 太 尉、 新 官 少 傅 舊 爲 司 徒、 新 官 少 保 舊 爲 司 空 ︵ 4︶。 ⋮⋮。 太 尉 ・ 司 徒 ・ 司 空 合 罷、 並 依 周 制、 立 三 孤 之 官、 乃 次 補 之 位。 三 孤 貳 公 洪 化、 寅 亮 天 地、 或 稱 爲 三 少、 爲 次 相 之 任 ︵ 5︶。 尚 書 省 令 太 宗 曾 任 ︶9 ︵ 、 今 宰 相 之 官 已 多、 不 須 置。 新 官 太 宰 舊 爲 左 僕 射、 新 官 少 宰 舊 爲 右 僕 射。 門 下 省 新 官 左 輔、 舊 爲侍中、中書省新官右弼、舊爲令 ︵ 6︶。﹂ ︵﹃会要﹄職官 56/ 34︶ 政和二年詔① ・ ②から看取できる事柄は、おおよそ以下 の如くである。 第一に、三省長官の改廃と左右僕射の改称について。元 豊 官 制 施 行 以 後、 門 下 省 ・ 中 書 省 ・ 尚 書 省 の 長 官 と し て、 それぞれ侍中 ・ 中書令 ・ 尚書令が置かれていたが、これら 三者は虚設とされていた。それにかわって、尚書省は相職 である左右僕射が、 門下省は左僕射兼門下侍郎︵首相︶が、 中書省は右僕射兼中書侍郎︵次相︶がその職を代行する規 定 で あ っ た ︶10 ︵ 。 そ れ が 政 和 二 年 詔 ① −︵ 2︶・ ② −︵ 6︶ に あ るように、三省の職事官は各々改廃を被る。まず侍中を左 輔、中書令を右弼、左右僕射をそれぞれ太宰 ・ 少宰と改称 し、尚書令が廃止される。またこれと同時に宰相であった 左僕射兼門下侍郎と右僕射兼中書侍郎の官称は、それぞれ 太宰兼門下侍郎 ・ 少宰兼中書侍郎へと変更されている。以 上のように、門下省は侍中 ・ 中書省は中書令 ・ 尚書省は尚 書令と左右僕射が職事官改廃の対象とされており、門下侍 郎 ・ 中書侍郎 ・ 尚書左右丞以下の職事官には改廃が及んで いないことを確認できよう。 第二に、旧制三師 ・ 三公の廃止と、三公 ・ 三少の新設に ついて。公相制では、旧制三師 ・ 三公を廃止し、これに代 えて周制を模した三公 ・ 三少が新設されている。このこと に つ い て は、 政 和 二 年 詔 ① −︵ 1︶・ ② −︵ 2︶ を み る と、 新制三公は旧制三師であった太師 ・ 太傅 ・ 太保の官名をそ のまま用いて新設されていることがわかる。一方旧制三公 は、 政 和 二 年 詔 ① −︵ 1︶・ ② −︵ 4︶ に あ る よ う に 、 太 尉 ・ 司 徒 ・ 司 空 を 用 い ず、 少 師 ・ 少 傅 ・ 少 保 を 置 い て 三 少 を 新 設している。
29 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) なお、新設された三公と三少の昇進ルートについてであ るが、これについては如何なる規定があったのか、明確に 示す史料は管見の限り見当たらない。例えば旧制三師 ・ 三 公の場合、 ﹁国朝之制﹂では、 ﹁司徒↓太保↓太傅↓太尉↓ 太師﹂の順で、旧制三師と旧制三公の間を斜行するように し て 階 位 が 上 昇 す る 規 定 で あ っ た ︶11 ︵ 。 こ れ に 対 し て 新 制 三 公 ・ 三少の場合は、具体例に徴する限り、 ﹁少保↓少傅↓少師﹂ と順繰りに新制三少を遷転し、そののち太保 ・ 太傅 ・ 太師 の何れかに遷る事例は確認できるが、先述の旧制三師 ・ 三 公のように、新制三公 ・ 三少間を斜行して昇進する事例は みあたらな い ︶12 ︵ 。おそらく、旧制三師と旧制三公の間には上 下関係が設けられていなかったため、旧制三師 ・ 三公双方 を斜行して昇進することもあったのであろう。一方新制三 公 ・ 三少が﹁少保↓少傅↓少師﹂と遷転し、少師から新制 三公のうち何れかに進むのは、三公と三少との間に格差が 設定されたことに起因するものと推測される。 第三に、 ﹁真相之任﹂ ・ ﹁次相之任﹂について。三公 ・ 三 少の新設は、ただ単に名称のみを改めたのではない。政和 二年詔② −︵ 1︶をみると、 ﹁若し三公に除されれば、即ち 宰相たり、合に太宰 ・ 少宰 ・ 左輔 ・ 右弼の任を帯すべから ず﹂とあって、新制三公は﹁宰相﹂と位置付けられている ことがわかる。また、新制三少以下については﹁三少 ・ 特 進以下なれば、即ち太宰等の官称を帯し、省事を治﹂すこ ととされている。このように、公相制において新制三公は ﹁宰相﹂と看做されるわけであるが、② −︵ 3︶ではこれが ﹁真相之任﹂とされ、更に② −︵ 5︶では新制三少を﹁次相 之任﹂としている。これにより﹁真相之任﹂たる太師蔡京 と、 ﹁ 次 相 之 任 ﹂ た る 三 少 の 間 に 差 等 が 設 け ら れ た こ と に な る。 こ れ ら 政 和 二 年 詔 ② −︵ 1︶・︵ 3︶・︵ 5︶ か ら 看 取 できる事柄を総合すると、新制三公であり尚且つ特定の職 事官をもたない者は﹁宰相﹂ ・﹁真相之任﹂ 、新制三少は﹁次 相之任﹂と規定され、太宰兼門下侍郎・少宰兼中書侍郎等 に就くよう定められたことがわかる。 以 上 述 べ て き た 政 和 二 年 詔 に よ る 諸 変 更 を ま と め る と、 おおよそ以下のようになる。 まず三省の職事官については、 門下省の長官が侍中から左輔に、中書省長官は中書令から 右弼と改名された。また、尚書省は長官である尚書令が廃 止され、左僕射を太宰、右僕射を少宰と改称している。 そ し て、 新 制 三 公 は﹁ 宰 相 ﹂ で あ り﹁ 真 相 之 任 ﹂、 新 制 三少は﹁次相之任﹂と位置付けられるようになる。元豊官 制以後の宰執は、各職事官が序列化され、宰相とその他執 政の二階層に分化していたわけであるが、公相制では、新 制三公と新制三少以下を差別化することにより、 ﹁宰相︵公 相 新 制 三 公 真 相 之 任 ︶ ・ 旧 宰 相 ︵ 新 制 三 少 以 下 太 宰 ・
30 少宰 次相之任︶ ・ 執政﹂の三階層になったと考えられる。 最後に、公相制の始期と終期について述べておく。該制 度の始期について、その導入を指示した詔それ自体は、政 和二年九月二十九日に下されているが、直ちにこれが実行 されたのではなく、政和二年十一月二十八日辛巳に新制三 公 ・ 三少の実施と職事官名改変を行い、翌年正月朔日より 新体制が始動したようであ る ︶13 ︵ 。以後、公相制は約十三年間 存続するが、その間公相の地位に在った者は、蔡京及び王 黼 の 二 名 で あ る ︶14 ︵ 。 な お、 蔡 京 は 老 疾 の た め、 政 和 六 年 四 月 二 十 七 日 に 三 日 一 朝 ︵ 翌 月 一 日 に は 朔 望 も 追 加 ︶ ・ 七 年 十一月六日に五日一朝を許され、恒常的に出仕していたわ けではない︵ ﹃会要﹄職官 1/ 31・ 33︶。この点を踏まえれ ば、 公相制の恩恵を十全に受けたのは、 蔡京よりもむしろ、 加太傅された後の王黼であろうと推測される。 そ の 後、 宣 和 七 年 四 月 二 十 七 日 手 詔 に よ り 公 相 制 は 廃 止される。この際、新制三公の階官化と三省総領廃止、尚 書 令 の 復 置 と 虚 設 化 が 行 わ れ た ︶15 ︵ 。 そ の 他 の、 左 輔 ・ 右 弼 ・ 太 宰 ・ 少 宰 の 職 事 官 名 に つ い て は 靖 康 元 年︵ 一 一 二 六 ︶ 十一月二十九日に﹁並て元豊官制に依るべし﹂との聖旨が 下るまでのあいだ、 復旧されぬまま放置される ︵﹃靖康要録﹄ 巻 13︶。 ま た、 新 制 三 公 ・ 三 少 は 階 官 化 さ れ た の ち、 旧 制 三師・三公に改称されることなく、三公・三少の名称は南 宋 で も 継 続 し て 用 い ら れ て い た︵ ﹃ 宰 輔 編 年 録 ﹄ 巻 17乾 道 八年二月十二日辛亥条所引詳定一司敕令所所奏︶ 。 つまり、公相制を維持する上で重要な要素は、三公 ・ 三 少 の 新 設 に 伴 っ て 導 入 さ れ た 諸 規 定 と 尚 書 令 の 廃 止 で あ り、その他の左輔 ・ 右弼 ・ 太宰 ・ 少宰等の職事官名改変等 は、特段重要な条件とは看做し得ない、といえるだろう。 二、 ﹁公相制﹂の形態︵二︶
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李邦彦上言をてがかりに│
本節では、宣和五年︵一一二三︶二月から宣和六年九月 まで尚書左丞だった李邦彦の上奏をてがかりに、公相の治 所、職域に加え、元祐の平章軍国重事等と公相の差異につ いて考察を加える。 史料の検証を始める前に、李邦彦上言の時期について述 べておきたい。李邦彦の上奏は、公相制廃止を指示した宣 和 七 年 四 月 二 十 七 日 手 詔 の 直 後 に 繋 け ら れ、 ﹁ 左 丞 た り し 日に言うならく﹂とあるものの、これがいつのことなのか 正確な時期は不明である︵ ﹃会要﹄職官 1/ 42︶。邦彦は宣 和五年二月乙酉朔に尚書左丞に任ぜられ、途中宣和六年二 月二十八日丙午から四月十日丁巳までの服喪期間をはさん で、 六 年 九 月 二 日 乙 亥 に は 少 宰 兼 中 書 侍 郎 に 遷 っ て い る ︶16 ︵ 。31 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) また、上奏中に含まれている王黼に対する批判からも、黼 が 太 傅 と な っ た 宣 和 五 年 五 月 九 日 以 後 の 上 疏 で あ る こ と は、ほぼ誤りない。よって、詳細な日付を割り出すには至 らないが、宣和五年五月九日から宣和六年二月二十八日丙 午若しくは、宣和六年四月十日丁巳から六年九月二日乙亥 の、 何れかの期間内になされた上奏であることは判明する。 それでは以下、李邦彦の上奏を掲げ検討を加える。 先是、李邦彦爲左丞日言﹁⋮⋮元祐初、起文彦博平章 軍 國 重 事、 已 非 故 事。 繼 呂 公 著 司 空 ・ 平 章 軍 國 事、 ⋮⋮、 名 曰 下 彦 博 一 等、 而 實 兼 三 省 之 權 、 事 無 輕 重、 無不與之。侵紊先烈、莫大於此。然但 增 平章之名、猶 未改官制也② 。 政和初、蔡京自杭州還朝、何執中已任 左 僕 射、 難 以 去 之、 遂 改 令 ・ 僕 之 名、 冠 以 公 相 之 號、 總 領 三 省。 廢 尚 書 令、 自 治 令 廳。 從 此 尚 書 遂 無 長 官、 其侵紊又過︵呂︶公著矣① 。蔡京致仕、王黼奏改公相 廳 爲 都 廳、 既 遷 太 傅、 則 自 領 三 省、 不 避 其 鈐 制 人 主、 抑塞士大夫、每以元豐爲言、至自領三省、則不復以元 豐爲法。蓋蔡京唱之、 王黼因之、 元祐大臣所不敢爲者、 而安爲之。⋮⋮ 乞復尚書令之名、今後三公不許統領三 省、並依元 豐 法③ 。﹂至是京罷、故有是詔。 ︵﹃会要﹄職官 1/ 42 − 44︶ ま ず 傍 線 部 ① に つ い て。 蔡 京 は、 大 観 三 年︵ 一 一 〇 九 ︶ 六月八日辛巳に左僕射兼門下侍郎を罷免され、同年十一月 二十九日己巳に致仕とされる。 その後、 政和二年 ︵一一一二︶ 五月十三日己巳に現役復帰するが、当時は何執中が首相と して在任中であった︵大観三年六月八日辛巳∼政和六年四 月八日辛未 ﹃宋史﹄宰輔表︶ 。李邦彦の見解に依拠すれば、 何執中を排除し難かったことへの対応策として、傍線部① のような措置を講じたことになる。またこの部分から、公 相の治所が尚書令庁であったことも判明す る ︶17 ︵ 。 公相の職域については、傍線部①に﹁三省を総領﹂した とあり、また公相制廃止を命じた宣和七年四月二十七日手 詔にも﹁三公は止だ階官に係るのみにして、更に三省を総 治 せ し め ざ れ︵ 三 公 止 係 階 官、 更 不 總 治 三 省 ︶18 ︵ ︶﹂ と あ る。 このことからして、新制三公︵公相︶が三省に渉る権限を 所有していたこと自体は了解され る ︶19 ︵ 。これについての傍証 として、政和六年四月二十七日御筆手詔には以下のように ある。 六年四月二十七日、御筆手詔﹁太師︵蔡︶京、近三上 章 乞 致 仕、 詔 書 不 允 所 請、 仍 止 來 章、 意 確 未 回。 京 位 三 公、 然 三 省 機 政、 事 無 巨 細、 自 合 總 治 外、 可 從 其 優 佚 之 意。 自 今 特 許 三 日 一 造 朝、 仍 赴 都 堂 及 輪 往
32 逐省、 通治三省事、 以正公相之任、 事畢、 從便歸第。 ﹂ ︵﹃会要﹄職官 1/ 31︶ これによると﹁都堂に赴き及び逐省に輪往し三省の事を 通 治 ﹂ す れ ば、 ﹁ 以 て 公 相 の 任 を 正 す ﹂ こ と に な る と 認 識 されていたようである。各省に出向いて ﹁三省の事を通治﹂ するのが﹁以て公相の任を正す﹂ことになるのならば、公 相たる蔡京は職責として都堂での聚議に加え、門下省 ・ 中 書省 ・ 尚書省に直接出向いて執務する必要があったことに な る。 だ と す れ ば こ の 御 筆 手 詔 に お け る﹁ 三 省 の 機 政 は、 事 の 巨 細 な く、 自 ら 合 に 治 す べ き の 外 ﹂ ・ ﹁ 三 省 の 事 を 通治﹂という文言は、例えば、都堂において三省の政務に ついて報告を受け必要に応じて決裁するなどといった、包 括的或いは曖昧なものではあり得ない。時期までは確定で きないが、公相制施行下では、公相が自ら各省に出向いて 政務を執る必要があった、との理解は成立するであろう。 さて、傍線部①に示される如く、公相制が導入された結 果、 ﹁ こ れ よ り 尚 書 遂 て 長 官 な く、 そ の 侵 紊 又 た︵ 呂 ︶ 公 著に過ぐ﹂ と李邦彦は言う。ここでいう ﹁公著云々﹂ とは、 哲宗朝元祐年間の文彦博 ・ 呂公著の平章軍国重事 ・ 平章軍 国事在任のことを指す。文彦博は元祐元年︵一〇八六︶五 月丁巳朔に致仕を落とされ、同五年二月十五日庚戌に再度 致仕とされるまでのあいだ、 太師 ・ 平章軍国重事であった。 また呂公著は、元祐三年四月五日辛巳に右僕射兼中書侍郎 から司空 ・ 平章軍国事とされ、四年二月三日甲辰に死去す るまで該位に在った︵ ﹃長編﹄巻 377・ 409・ 422・ 438︶。 この文彦博の平章軍国重事と呂公著の平章軍国事には不 明 な 点 も 多 く、 両 者 の 職 掌 に つ い て 厳 密 を 期 し が た い が、 可能な範囲でこれを示せば以下の如くである。まず前者に つ い て で あ る が、 五 日 に 一 度 入 朝 し、 ﹁ 重 事 ︶20 ︵ ﹂ を 門 下 省 ・ 中書省乃至は都堂において宰執と商量し、常程文書につい て は 僕 射 以 下 に 決 裁 を 委 ね て い た よ う で あ る︵ ﹃ 長 編 ﹄ 巻 376元祐元年四月是月条 ・ ﹃建炎以来朝野雑記﹄ 乙集巻 13﹁平 章軍国事﹂ ︶。後者は、一月に三度経筵にあがり、二日に一 度入朝し、都堂において宰執と議事する。また、常行文字 への簽書については免除されるが、三省 ・ 枢密院が呂公著 に 知 ら せ る べ き 事 目 と し て、 ﹁ お よ そ 三 省 と 同 に 施 行 せ し むるもの﹂ ︵十二項目︶ ・ ﹁その逐省と同に施行せしむるも の ﹂︵ 十 三 項 目 ︶ ・ ﹁ そ の 枢 密 院 と 同 に 施 行 せ し む る も の ﹂ ︵十四項目︶ 、合計三十九項目が設定されており、更に﹁軍 国のこと及び常程に非ざること并びに臨時に合に三省と同 議 し て 取 旨 す べ き こ と、 並 て 関 預 簽 書 せ し む ﹂ よ う 詔 下 さ れ て い る ︵﹃ 長 編 ﹄ 巻 409元 祐 三 年 四 月 五 日 辛 巳 ・ 巻 410元 祐 三年五月四日己酉 条 ︶21 ︵ ︶。
33 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) このような官制の﹁侵紊﹂について、傍線部②は﹁而れ ども実に三省の権を兼ね、事の軽重なくこれに与らざるな く、先烈を侵紊することこれより大なるはなし﹂としなが ら、 ﹁ 然 れ ど も た だ 平 章 の 名 を 増 す の み に し て、 な お 未 だ 官 制 を 改 め ざ る な り ﹂ と も 言 う。 李 邦 彦 の 認 識 と し て は、 文彦博 ・ 呂公著共に三省に渉る権限を所有していたが、た だ、それは神宗所定の官制そのものに何らかの改変を加え たわけではない、ということになろう。平章軍国重事 ・ 平 章軍国事は三省に渉る権限を有するとは言え、宰相ではな い。そのため、その職権に関する事項についても、その都 度 規 定 す る 必 要 が あ っ た ︶22 ︵ 。 こ れ に 対 し て 公 相 制 の 場 合 は、 傍 線 部 ① に あ る よ う に、 ﹁ 冠 す る に 公 相 の 号 を 以 て 三 省 を 総領﹂していることについては、平章軍国重事 ・ 平章軍国 事と似通った状態であるとしても、公相が﹁宰相﹂と規定 さ れ る こ と に 加 え、 尚 書 省 長 官 の 廃 止 ・ 尚 書 僕 射 の 改 称 ・ 令庁を公相の治所とする等、制度そのものに手を加えてい る点は、平章軍国重事 ・ 平章軍国事と異なっている。その た め、 同 じ く 傍 線 部 ①﹁ そ の 侵 紊 ま た︵ 呂 ︶ 公 著 に 過 ぐ ﹂ と李邦彦が認識するように、 元豊官制に対する﹁侵紊﹂は、 公相制の方がより重度であると看做し得る。 李邦彦は本上奏において最終的に、傍線部③の如く尚書 令 の 復 置 及 び 新 制 三 公 に よ る 三 省 総 領 の 禁 止 を 要 求 す る。 これは公相制を廃止した宣和七年︵一一二五︶四月二十七 日手詔にも反映されており、該手詔では尚書省に尚書令を 復置し虚設化すること、及び三公を階官とし三省を総治さ せないことが命ぜられてい る ︶23 ︵ 。 ここで改めて注目したいのは、この時点において、公相 制導入に伴う諸改変が、 全て復旧されていないことである。 前 節 で 述 べ た 如 く、 左 輔 ・ 右 弼 ・ 太 宰 ・ 少 宰 に つ い て は、 靖康元年︵一一二六︶十一月を待たねばならないし、新設 された三公 ・ 三少に至っては、南宋において引き続き使用 されている。だとすれば、尚書令の復置及び新制三公によ る三省総領の禁止以外の改変は、単に名称の変更と看做さ れるべき事柄であり、政治制度の根本に影響を与えるよう なものではない可能性が高い。宣和七年四月二十七日手詔 による公相制の廃止は、李邦彦上奏の要求を允可したもの と 解 し て よ い で あ ろ う か ら、 邦 彦 の 求 め る 二 項 目 こ そ が、 公相制の要件であると認識して瑕疵無いであろう。 以上李邦彦の上奏を手掛かりとして、公相制における公 相の治所 ・ 職域等に加え、平章軍国重事 ・ 平章軍国事と公 相制の差異について論じてきた。 李邦彦は平章軍国重事 ・ 平章軍国事も公相と同じく、三 省に渉る権限を有する存在としつつも、公相制はこれをし のぐ元豊官制への侵紊を行っていると認識する。公相制施
34 行時の三公についてその規定を再度述べれば、新制三公就 任者であり、かつ具体的な職事官に就いていない者が﹁宰 相 ﹂ ・ ﹁ 真 相 之 任 ﹂ と さ れ る
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例 え ば、 宣 和 五 年 五 月 八 日 庚 申 に 少 師 ・ 領 枢 密 院 事 に 太 保 を 加 え ら れ た 鄭 居 中 が、 宰相とみなされることはない︵ ﹃宋史﹄宰輔表︶│
。この 規定により公相は宰相として旧宰相の上位に位置すること が可能となった。ただ、これのみでは旧宰相の上位者とし ての名目を獲得し得たとしても、その優位を実質的な側面 で保証するまでには至らない可能性がある。おそらく公相 制 の 特 異 性 を 示 す 鍵 と な る の は、 ﹁ 其 の 侵 紊 ま た 公 著 に 過 ぐ﹂状態を招来した要因、つまり尚書令の廃止である。門 下 省 に お け る 侍 中 ・ 中 書 省 に お け る 中 書 令 は そ れ ぞ れ 左 輔 ・ 右弼と改称されるにとどまったのに対し、尚書令のみ廃止 を被っているのはいかにも不自然である。ただ単に廃止さ れたと考えるよりは、むしろ何かしらの意図があったとみ るべきであろう。 三、尚書令廃止についての考察 本節では尚書令廃止の意義について、行政文書をてがか り に 解 明 を 試 み る 。 こ れ に 先 立 っ て 、 ま ず は 元 豊 官 制 に お け る 侍 中 ・ 中 書 令 ・尚 書 令 の 制 度 上 の 位 置 づ け を 再 確 認 し ておく。 元豊官制施行以後、三省各省には侍中 ・ 中書令 ・ 尚書令 が置かれていたが、これらは全て虚設とされていた。その ため、門下省においては首相である左僕射兼門下侍郎が侍 中の職務を代行し、中書省においては、次相である右僕射 兼中書侍郎が中書令の職務を代行する。尚書省でも尚書令 は虚設とされており、相職たる左右僕射が尚書省の実質的 長官であっ た ︶24 ︵ 。 先にみた如く、公相制導入により尚書令は廃止されたわ けであるが、それによって行政文書の書式上どのような変 化がみられるのか、熊象階﹃濬県金石録﹄巻上﹁豐澤廟封 康顕侯敕并記﹂ ︵表 1以下﹁豐澤廟﹂と略称。 ﹃石刻史料 新 編 ﹄ 第 二 輯 14、 一 〇 二 六 七 頁 ︶ 及 び﹃ 俄 蔵 黒 水 城 文 献 ﹄ 第 六 册 所 収﹁ 政 和 八 年 張 勳 等 奏 状 ﹂︵ 表 2 以 下﹁ 張 勳 等 奏状﹂と略称。 212頁、 Инв. 211 213︶の尚書省の部分を抽出し て検討してみよう。 まず﹁豐澤廟﹂の場合について。元豊官制改革以降 ・ 公 相制以前の文書︵敕︶の場合、尚書省の部分には基本的に ﹁ 尚 書 令 闕 ↓ 左 僕 射 ↓ 右 僕 射 ↓ 尚 書 左 丞 ↓ 尚 書 右 丞 ↓ 六 部 尚書↓六部侍郎﹂の順に名銜が記入される。元豊官制以降 の敕の事例として、元祐三年正月二日に行下された﹁又敕 王伯虎等﹂を参照すると、 ﹁尚書令 闕↓左僕射 闕↓右僕射35 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) ︵ 呂 ︶ 公 著 ↓ 尚 書 左 丞︵ 劉 ︶ 摯 ↓ 尚 書 右 丞︵ 王 ︶ 存 ↓ 吏 部 尚書︵蘇︶頌↓吏部侍郎︵孫︶覺﹂の順に繋銜されている ︵﹃ 式 古 堂 書 画 彙 考 ﹄ 巻 9︶。 こ れ に 対 し て 公 相 制 施 行 下 の 敕 で あ る﹁ 豐 澤 廟 ﹂ の 場 合 に は、 ﹁ 太 師 ・ 魯 国 公︵ 蔡 ︶ 京 免 書 ↓ 太 宰 闕 ↓ 少 宰 押︵ 余 深 ︶ ↓ 尚 書 左 丞︵ 馮 ︶ 煕 載 ↓ 尚書右丞︵范︶致虚↓吏部尚書猷↓吏部侍郎米■﹂の順序 で 名 銜 が 記 入 さ れ、 従 来﹁ 尚 書 令 闕 ﹂ と 書 か れ て い た 部 分には、太師蔡京の名銜及び﹁免書﹂と記される。 次に﹁張勳等奏状﹂の場合について。吏部の擬注により 給告される﹁奏授告身﹂は、吏部↓尚書省↓門下省↓皇帝 ﹁得聞﹂↓都省↓吏部、の順に文書が送られて施行され る ︶25 ︵ 。 こ の 書 式 に 関 す る 元 豊 官 制 以 後 の 事 例 と し て、 元 符 二 年 ︵ 一 〇 九 九 ︶ 閏 九 月 十 一 日 に 行 下 さ れ た﹁ 宣 聖 子 孫 若 谷 授 官録黄﹂ がある。これによると、 尚書省の部分には ﹁︵尚書︶ 令 闕 ↓ 左 僕 射 臣︵ 章 ︶ 惇 ↓ 右 僕 射 闕 ↓ 左 丞 臣︵ 蔡 ︶ 卞 ↓ 右丞臣︵黄︶履↓尚書︵葉︶祖洽↓侍郎︵徐︶鐸﹂の順序 で 職 事 官 名 と 名 が 記 さ れ て い る︵ ﹃ 新 安 文 献 志 ﹄ 巻 93﹁ 孔 右 司 端 木 伝 ﹂ 附 ︶。 こ れ に 対 し て 公 相 制 施 行 以 後 の 奏 授 と 思 し い﹁ 張 勳 等 奏 状 ﹂ は、 尚 書 省 の 部 分 に﹁ 太 師 ・ 魯 国 公臣 ︵蔡︶ 京 不書↓ 起 復 ・ 太宰臣 ︵鄭︶ 居中↓ 少 宰 臣 ︵ 余 ︶ 深↓ 起 復 ・ 左丞臣 ︵王︶ 黼↓ 右 丞 闕↓ 尚 書 臣 ︵ 許 ︶ 光 疑 ﹂ の順序で名銜が記入され る ︶26 ︵ 。 これら両文書から看取できる尚書省の部分の特徴は、従 来﹁ 尚 書 令 闕 ﹂ と 書 か れ て い た 部 分 に、 公 相 制 施 行 以 後 は太師蔡京の名銜が記入されること。そして、太師蔡京の 名銜の下部に﹁免書﹂或いは﹁不書﹂と記入されることで ある。 ま ず﹁ 豐 澤 廟 ﹂ の﹁ 免 書 ﹂ と﹁ 張 勳 等 奏 状 ﹂ の﹁ 不 書 ﹂ についてであるが、これらがいつ頃から記入されるように な っ た の か、 今 の と こ ろ 明 確 な 時 期 は 特 定 で き て い な い。 蔡京に対する免書規定を公相制導入以前から追跡していく と、致仕を落とされてから三日後の政和二年五月十六日壬 申に、門下省の文書に関して免書を請うており、これが聴 許されてい る ︶27 ︵ 。ただ、これはあくまでも公相制以前の規定 であるため、これがそのまま公相制以後も用いられたか否 か、詳らかにし得な い ︶28 ︵ 。管見の限り、公相制導入以後蔡京 が 一 定 の 事 務 を 免 除 さ れ た こ と を 直 接 記 し た 事 例 と し て は、政和六年五月一日条に、 太師蔡京令遇朔望許朝、 三日一知印 ・ 當筆。不赴朝日、 許府第書押、不押敕 劄 、不書鈔。 ︵﹃会要﹄職官 1/ 31︶ とあるのがもっとも時期が早い。これに依れば、出勤日以
36 外 は 府 第 で 書 押 を す る こ と、 そ の 際 敕 劄 に﹁ 不 押 ﹂、 奏 鈔 に﹁不書﹂とすることが許さ れ ︶29 ︵ 、更に政和七年十一月六日 に 下 さ れ た 御 筆 手 詔 で、 ﹁ 細 務 ﹂ に つ い て 簽 書 を 免 除 す る こととされてい る ︶30 ︵ 。そして更には宣和元年四月九日に下さ れた詔によって、 蔡京が簽書を免ぜられた文書については、 京の名銜自体が記されなくなる ︵﹃会要﹄ 職官 1/ 34︶。﹁豐 澤廟﹂ も ﹁張勳等奏状﹂ も共に政和八年の文書であるため、 政和六年五月一日 ・ 同七年十一月六日の両規定が適用され ﹁免書﹂等と記入されているのだろう。 では、簽書を免除された﹁細務﹂とは何か。例えば、宣 和 元 年 四 月 九 日 の 蔡 京 上 言 を う け て 下 さ れ た 詔 に 依 れ ば、 三省が共同で進擬して録黄を作成すべき案件で皇帝の裁可 を得たもの、文書で上呈した案件、六部が一定の判断を下 した上で進擬した案件が裁可され敕を用いて命令をくだす ものについては、少なくとも﹁細務﹂に含まれ、蔡京が実 際に決裁していない案件であっても、 ﹁不押﹂ ・ ﹁免書﹂と 記入されていたようであ る ︶31 ︵ 。 元豊五年二月癸丑朔の規定に依拠すれば、中書省が皇帝 から直接指示をうける案件については ﹁畫黄﹂ が作成され、 ﹁ 録 黄 ﹂ は 間 接 的 に 指 示 を う け た 場 合 に 作 成 さ れ る ︶32 ︵ 。 よ っ て 蔡 京 が 免 除 さ れ た﹁ 細 務 ﹂ と は、 ﹁ 録 黄 ﹂ を 作 成 す る よ うな類のものであって、皇帝と直接合議の上で決定される ような案件ではない。先の例に依れば、この﹁細務﹂には 差除に関わる案件等も含まれるわけであるが、それについ ても蔡京の承認を得ることなく、太宰等によって随時進擬 可能だったことになる。一方、例えば﹁畫黄﹂を作成する ような相対的に重要な案件については、蔡京が直接決裁に 与る必要があり、その文書には蔡京の名銜が記入されてい たのであろう。 次いで尚書省における太師蔡京の署名位置について。本 節冒頭で述べたように、元豊官制以降、尚書省には長官と して尚書令が置かれていたものの、実際には虚設とされて いた。公相制施行以後、侍中と中書令はそれぞれ左輔と右 弼に名称を変更され、 従来通り虚設が徹底された。 ﹁豐澤廟﹂ の左輔 ・ 右弼の下部に﹁闕﹂と記入されるのは、そのため で あ る。 残 る 尚 書 令 に つ い て は、 政 和 二 年 詔 ② −︵ 6︶ に あ る よ う に、 ﹁ 太 宗 ﹂ が 尚 書 令 で あ っ た こ と ︶33 ︵ 、 相 職 が 既 に 多数あることを理由に廃止を被った。このように公相制の 施行により、三省の長官について如上の変更がなされたわ けであるが、では、その変更がどのような意味を有してい たのであろうか。この点について﹁豐澤廟﹂の門下省の部 分と尚書省の部分を比較することで、文書形式の側面から 考察を加えてみた い ︶34 ︵ 。 ﹁ 豐 澤 廟 ﹂ 尚 書 省 の 部 分 に は、 ﹁ 太 師 ・ 魯 国 公︵ 蔡 ︶ 京
37 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) 免 書 ↓ 太 宰 闕 ↓ 少 宰 押︵ 余 深 ︶ ↓ 尚 書 左 丞︵ 馮 ︶ 煕 載 ↓ 尚書右丞︵范︶致虚↓吏部尚書猷↓吏部侍郎米■﹂といっ た順序で列銜されている。 これに対して門下省の部分には、 ﹁太師 ・ 魯国公 ︵蔡︶ 京 免書↓左輔 闕↓門下侍郎 ︵白︶ 時 中↓給事中︵趙︶野﹂の順で名銜が記入されている。 元豊官制改革以降の文書︵敕︶の場合、門下省の部分は ﹁ 侍 中 闕 ↓ 左 僕 射 兼 門 下 侍 郎 ↓ 門 下 侍 郎 ↓ 給 事 中 ﹂ の 順 に 繋銜され、 闕員がある場合には職事官ごと省略され る ︶35 ︵ 。﹁豐 澤廟﹂所載の文書が作成された政和八年閏九月当時、太宰 兼門下侍郎は不在であった。そのため、門下省では太宰兼 門下侍郎が官銜ごと省かれているのであろう。 傍証として、 形 式 が 異 な る 文 書 で は あ る が、 ﹁ 張 勳 等 奏 状 ﹂ の 門 下 省 を み る と、 ﹁ 給 事 中 臣 王 覿 讀 ↓ 門 下 侍 郎 臣 薛 昂 省 ↓ 起 復 ・ 少 保 ・ 太 宰 兼門下侍郎臣 ︵ 鄭 ︶ 居 中 審 ﹂ と あ っ て、 在 任 中であれば門下省の部分には太宰兼門下侍郎も繋銜される ことがわかる。 さ て、 ﹁ 豐 澤 廟 ﹂ 所 載 の 門 下 省 の 部 分 に つ い て い え ば、 最 も 大 き な 特 徴 は、 ﹁ 左 輔 闕 ﹂ の 前 に 太 師 蔡 京 の 名 銜 が 記 入されることであろう。繋銜順からすると、公相は左輔の 上位にあることになるため、門下省の最上位は左輔ではな く、 公相である太師蔡京だということになる。そして更に、 ﹁ 張 勲 等 奏 状 ﹂ の 門 下 省 の 部 分 と 併 せ て 考 え れ ば、 公 相 は 門下省の最上位にあるが、 虚設とされている左輔︵旧侍中︶ の職を代行しているわけではないこともわかる。 なぜなら、 ﹁ 張 勳 等 奏 状 ﹂ で は 太 宰 兼 門 下 侍 郎 ・ 門 下 侍 郎 ・ 給 事 中 が ﹁ 審 ﹂ ・ ﹁ 省 ﹂ ・ ﹁ 讀 ﹂ し て い る こ と か ら、 門 下 省 に お け る 文書決裁に必要な手続きを上記の三者で完了させていると 了解されるからであ る ︶36 ︵ 。 こ の よ う に、 公 相 を 省 庁 の 最 上 位 者 と 位 置 付 け る だ け ならば、例えば門下省のように、左輔の前に太師蔡京の名 銜を繋け、太宰兼門下侍郎以下に所定の手続きを行わせれ ば事足りる。にもかかわらず、尚書令に限っては敢えて廃 止を断行しているのである。両令 ・ 侍中のうち、尚書令の み廃止した意図をどのように解釈すべきであろうか。 李邦彦の証言に依れば、公相制の導入要因は、蔡京復帰 当 時 首 相 で あ っ た 左 僕 射 兼 門 下 侍 郎 何 執 中 を 排 除 し が た かったためであるという。進擬権が中書省の専決事項では なくなった元祐以降の三省制下では、首相の権限が、実質 的に門下 ・ 尚書両省の総和にとどまらないことは、既に熊 本崇氏の研究によって明らかにされてい る ︶37 ︵ 。そのため何執 中は、名目的には門下 ・ 尚書両省の長でありながら、実質 的には三省に渉る権限を有していたことになる。蔡京は新 制三公の地位にあることにより、 公相制施行後 ﹁宰相﹂ ・ ﹁真 相之任﹂と規定され、三省に渉る権限を所有しえた。しか
38 し﹁次相之任﹂である太宰兼門下侍郎何執中もまた、三省 に渉る権限を所有していたとするならば、同等の職域をも つ 両 者 を そ れ ぞ れ﹁ 真 相 之 任 ﹂ ・ ﹁ 次 相 之 任 ﹂ と 規 定 し た としても、権限の上で直ちに蔡京が旧首相である何執中の 上位にたてる保証はない。公相と旧首相の職域が重複して い る 状 態 で 前 者 を 後 者 の 上 位 に 位 置 付 け よ う と す る な ら ば、名目だけでなく、より具体的に制度面からこれを裏付 ける必要があったのだろう。 各省を比較すれば、既に進擬権を開放した中書省 ・ 遊休 機関化傾向のみられる門下省は、尚書省に比して、相対的 にその地位を低下させている。そのため、公相を旧首相の 上位とするために制度改変を行うのだとすれば、元豊官制 以降の相職である左右僕射が属する尚書省にその焦点をあ てるのは自然なことである。おそらくはこれが、侍中でも 中書令でもなく尚書令を廃止した理由であろう。 従 来、 左 僕 射 兼 門 下 侍 郎 が 首 相、 右 僕 射 兼 中 書 侍 郎 が 次相とされていたが、公相制の導入によって、両者は太宰 兼門下侍郎・少宰兼中書侍郎へと改称され、加えて尚書令 は、侍中 ・ 中書令とは異なり廃止を被った。李邦彦は前引 史料において、 公相制によって尚書令が廃された結果、 ﹁こ れ よ り 尚 書 遂 て 長 官 な し ﹂ と い う が、 ﹁ 豐 澤 廟 ﹂ 及 び﹁ 張 勳等奏状﹂ で確認したように、 公相制施行以前であれば ﹁尚 書 令 闕 ﹂ と 書 か れ る べ き 箇 所 に、 ﹁ 真 相 之 任 ﹂ で あ る 太 師 蔡京の名銜が記入されることになっている。そのため書式 上、尚書省の部分は、まず﹁真相之任﹂に当たる者の名銜 が記され、次いで太宰 ・ 少宰︵三少が就任すれば﹁次相之 任 ﹂︶ の 順 に 繋 銜 さ れ る よ う に な っ た の で あ る 。 よ っ て 、 少 な く と も 書 式 か ら み る 限 り 、 太 宰 ・ 少 宰にと って 公相 は、 尚書省における直上の上司と位置付けられる。このような 文書形式上の特徴に加え、蔡京が尚書令庁を治所としてい たことを併せて考えれば︵ ﹁廢尚書令、自治令廳﹂ ﹃会要﹄ 職 官 1/ 43︶、 一 旦 廃 止 さ れ た 尚 書 令 は、 公 相 に よ っ て 具 象化されたものと看做し得る。 た だ し、 こ の 具 象 化 さ れ た﹁ 尚 書 令 ﹂ の 職 権 は、 尚 書 省一省にとどまらない。公相である蔡京の職権は三省に渉 るため、 公相制において具象化された﹁尚書令﹂の職権は、 三省全体に拡大されたものと推定される。よって、公相と は﹁権限を三省に拡大された尚書令﹂と言い換えることが できるのではなかろうか。 ではなぜ公相制において、三公 ・ 三少の新設と尚書令廃 止を含む職事官の改廃が必要だったのであろうか。 尚 書 令 を 廃 止 し た 上 で こ れ を 具 象 化 す る こ と は、 或 い は迂遠な措置ともみなしうる。だが尚書令を廃止せず、侍 中 ・ 中書令と同じく名称の改変のみを行ってこれを存続さ
39 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) せた場合、太師蔡京は尚書令に除されてもはばかりがあっ てこれを拝命しないか、仮に拝命したとしてもその職権を 尚書省のみに固定される状況を招来しかねな い ︶38 ︵ 。故に、ま ず 尚 書 令 を 一 旦 廃 止 し た う え で こ れ を 具 象 化 し た 背 景 に は、太師蔡京の職域を特定一省に制限させないという意図 があったと推測できる。また公相制では、三公を﹁真相之 任 ﹂、 三 少 を﹁ 次 相 之 任 ﹂ と 位 置 付 け る。 こ の よ う な 規 定 上の上下関係だけではなく、元豊官制改革以後の相職であ る左右僕射の、尚書省における上長として太師蔡京を位置 付けることが、公相を宰執集団内における最上位者とする 上での要件だったのであろう。 如 上 の 考 察 を ふ ま え る と、 公 相 制 に お け る 制 度 改 変 の 重点が尚書省にあることはあきらかであり、元祐以降の尚 書省の相対的偏重傾向をここでも見て取れる。また、公相 制の導入以後の宰執集団は、旧来の宰相とその他執政によ る 二 階 層 か ら、 宰 相︵ 公 相 ︶ ・ 旧 宰 相 ・ そ の 他 執 政 の 三 階 層に区分されるようになったものと思しい。これに加えて 公相は、三省に渉る権限を所有し、更に尚書省においては 旧宰相の上司となることで、これと同等の職権を所有する 者が存在しない状況を作り出し得たのであろう。このよう に公相制では、階層化と職権の両面から公相と他者の差別 化を図ることで、公相による宰相独員体制を構築したもの と見なし得 る ︶39 ︵ 。 四、公相制と南宋三省制 既 述 の よ う に 公 相 制 は、 宗 朝 最 末 年 の 宣 和 七 年 ︵ 一 一 二 五 年 ︶ 四 月 に 尚 書 令 復 置 ・ 三 公 の 階 官 化 と 三 省 総 領を禁ずることで廃止された。このように、南宋の直近ま で施行されていた公相制と南宋高宗朝の三省制から、いか なる連続性 ・ 非連続性が看取できるであろうか。 南宋高宗朝の建炎三年︵一一二九︶四月十三日庚申、門 下省廃止論である司馬光の﹁乞合両省爲一 劄 子﹂ ︵﹃温国文 正司馬公集﹄巻 55︶に仮託して、門下省と中書省は併合さ れ、中書門下省が置かれた。これに伴って宰執の職事官も 改変され、宰相である左僕射兼門下侍郎と右僕射兼中書侍 郎は、それぞれ尚書左僕射 ・ 同中書門下平章事と尚書右僕 射 ・ 同中書門下平章事とされ、執政である門下侍郎 ・ 中書 侍郎 ・ 尚書左右丞のうち、左右丞は廃止とされ、門下 ・ 中 書両省侍郎に代えて参知政事が復置される。 この制度改変では、その根拠として援用された﹁乞合両 省爲一 劄 子﹂の門下省廃止論を容れて、実際に中書門下省 が設置されてはいる。ただ、この制度改変は門下省の廃止 にとどまらず、 ﹁始めて三省を合して一と為﹂ すことにより、
40 結果、宰相の三省に渉る権限所有が制度によって保証 ・ 明 確化されるようになった︵ ﹃建炎以来繋年要録﹄巻 22︶。つ まり、司馬光 劄 子は制度改変を正当化するための方便とし て 引 き 合 い に 出 さ れ た に 過 ぎ ず、 実 際 に 招 来 さ れ た の は、 ﹁ 三 省 合 一 ﹂ と い う 施 行 当 初 の 三 省 制 と は 懸 隔 し た も の で あったと考えられよ う ︶40 ︵ 。 特に宰相についていえば、 建炎三年四月の制度改変以降、 そ の 職 域 は 中 書 門 下 省 と 尚 書 省 に ま で 及 ぶ よ う に な っ た。 これは北宋の元豊末元祐初から続く経緯を受け継いだもの であるとも理解できるが、その一方で、制度に手を加える ことで宰相の職域と職事官名を一致させたことは、あくま でも名目的には宰執が各々二省若しくは一省を所轄した従 来の三省制よりはむしろ、発想においては公相制と通底す る如くである。四十年近く前の元祐期の制度的潮流にまで 遡ってそれを継承したと考えるよりは、直近の事例である 公相制に倣ったと考える方が自然であろう。 さ ら に 南 宋 二 代 目 の 孝 宗 朝 で、 再 び 制 度 改 変 が 行 わ れ、 虚設であった両令 ・ 侍中を廃止した上で、左僕射 ・ 同中書 門下平章事を左丞相、右僕射 ・ 同中書門下平章事を右丞相 と し て、 宰 相 は 名 実 共 に 三 省 の 長 官 と な る︵ ﹃ 皇 宋 中 興 両 朝 聖 政 ﹄ 巻 51乾 道 八 年 二 月 六 日 乙 巳 条 ︶。 こ の よ う に、 虚 設の廃止、宰相が三省各省の最上位者となることや、宰相 が三省に渉る権限を所有する等の発想は、公相制から南宋 初代の高宗朝にのみ受け継がれたわけではなく、孝宗朝以 降南宋を通じて用いられた﹁丞相制﹂にまで影響している と考えられる。 以上述べてきたように、公相制と南宋三省制には、制度 自体を改変することによって、宰相の三省に渉る権限所有 を制度化した、という共通性を看取できる。 またその一方で、両者には差異もみられる。建炎三年の 制 度 改 変 以 降 首 相 と 次 相 の 職 域 が 同 一 と な っ た こ と か ら、 宰 相 独 員 体 制 は 解 消 さ れ た と い う の が ま ず ひ と つ で あ る。 これにより首相の次相に対する優位は緩和され、次相の首 相 に 対 す る 抑 止 力 は 相 対 的 に 向 上 し た と 思 わ れ る。 更 に、 宰相だけでなく建炎三年四月当初は中書門下省に職域を限 定されていた参知政事も、建炎三年八月十日に官告の尚書 省の部分へ簽書するよう要請されたことにより、おそらく それ以降、参知政事は両省侍郎及び尚書左右丞の代替物に なったものと考えられ る ︶41 ︵ 。 このように、公相制と南宋三省制では、共通性をもつ一 方で、南宋では次相も参知政事も首相と同様の職域を得て いる、という差異を看取できる。これは、公相制が太師蔡 京を宰執集団の最上位にまで押し上げるための制度改変で あったのに対して、南宋の制度改変は、宰執の職域を均質
41 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) 化することで、相互抑止力の強化や、宰執集団を少人数化 しても運営可能な状態を目指したためであろう。であるな らば、南宋において宰相の擅権が出来するためには、宰執 間の職域の均質化があってなお、宰相と参知政事を差別化 する、何らかの要因があったのだと考えられる。 例 え ば 差 除 に つ い て 言 え ば、 先 述 し た よ う に、 公 相 制 施行下では、差除を含め蔡京が決裁に関わっていない﹁細 務﹂を、 太宰 ・ 少宰等が随時進擬可能だったものと思しい。 政和七年十一月六日御筆手詔は、蔡京に対する﹁細務﹂へ の免書を許可したものであって、太宰以下に何らかの制約 を課すような性質のものではないため、おそらく、公相不 在 の 場 合 に は、 ﹁ 細 務 ﹂ で あ る か 否 か を 問 わ ず、 案 件 の 進 擬に関して太宰 ・ 少宰への制約はなかったはずである。 これに対して南宋では、宰相謁告中に参知政事は差除を 進擬することができず、宰相の死去或いは罷免によって生 ずる後任が決定するまでの空白期間に限ってのみ、宰相不 在時であっても差除に関する案件を進擬しえる規定であっ た︵ ﹃ 建 炎 以 来 朝 野 雑 記 ﹄ 甲 集 巻 10﹁ 参 知 政 事 ﹂︶ 。 こ の こ とから、南宋の参知政事は宰相と同等の職域を所有すると はいえ、宰相不在の場合差除の進擬に関して制約を受けて いたことがわかる。建炎三年四月の制度改変以降、宰執の 各省への分属状態が解消されはした。しかし例えば差除の 事例の如く、宰相と参知政事の間には差等が設定されてい ることも確かである。 また前述したように、公相制は太師蔡京が三省に渉る職 権を有する一方、少なくとも形式的に旧宰相以下は、二省 若しくは一省にその職掌を限定された状況に置かれたまま であった。そのため公相制において、元豊官制施行前後に 定められた、宰執の﹁階層秩序﹂までもが否定されたとは 看做し難い。差除における差等に加え、北宋で受け継がれ てきた宰相と執政間の階層意識 ・ 序列意識を南宋でも継承 し て い た と す る な ら ば、 宰 執 の 職 域 が 均 質 化 し た 状 況 に あってもなお、宰相の擅権が出来する余地はあるだろ う ︶42 ︵ 。 おわりに 本稿では公相制について、その機構面を中心に考察を加 えた。その結果導き出された制度的特徴は以下の通りであ る。 まず、 三公 ・ 三少の新設により太師蔡京は、 ﹁宰相﹂ ・ ﹁真 相之任﹂と規定される。これは﹁真相之任﹂である公相に 対 し て、 ﹁ 次 相 之 任 ﹂ に 該 当 す る 旧 宰 相 と の 序 列 化 を 企 図 したものと理解できる。 同時に、各省長官及び尚書左右僕射の職事官名改廃がお
42 こなわれた。侍中は左輔 ・ 中書令は右弼とされ、左右僕射 は太宰 ・ 少宰と改称される。これら左輔 ・ 右弼 ・ 太宰 ・ 少 宰 に つ い て は、 表 1 ・ 2に み ら れ る よ う に、 旧 職 と 同 様 に 扱われていることからもこれら四者は、職事官名が改称さ れるのみにとどまったものと考えられる。 一方、 尚書令について言えば、 これはただ単に廃止を被っ ただけとは考えがたい。表 1及び表 2を手がかりに考察し た結果、尚書令は一旦廃止されてはいるものの、実際には 公相によって﹁権限を三省に拡大された尚書令﹂として具 象化されている。特に、尚書省において公相が太宰 ・ 少宰 の上長となったことは重要で、これによって実質的に公相 と旧宰相の差別化が図られた。更に、右に述べた事柄をふ まえると、三省に渉る権限を所有していた哲宗朝の平章軍 国重事 ・ 平章軍国事と公相は同一視できるものではないこ ともわかる。以上のように公相制の具体像を明らかにした こ と で、 ﹁ は じ め に ﹂ で 示 し た 張 復 華 氏・ 方 誠 峰 氏 ら の 研 究を補填・修正できたのではなかろうか。 元 豊 官 制 改 革 以 後 三 省 所 属 の 宰 執 は、 大 ま か に 言 っ て、 宰相︵左僕射兼門下侍郎 ・ 右僕射兼中書侍郎︶と執政︵門 下侍郎 ・ 中書侍郎 ・ 尚書左右丞︶の二階層で構成されてい た。それが公相制の導入によって、宰執の構成は新たに宰 相︵ 公 相 / 新 制 三 公 / 真 相 之 任 ︶ ・ 旧 宰 相︵ 新 制 三 少 / 次 相 之 任 ︶ ・ 執 政 の 三 階 層 へ と 分 化 し た こ と に な る。 こ の よ うに階層を変化させたことの主眼は、政和二年詔②にみら れ る 如 く、 ﹁ 真 相 之 任 ﹂ た る 公 相 に 対 し、 従 来 の 首 相 と 次 相を﹁次相之任﹂とすることで、旧宰相を序列の上で相対 的 に 一 段 階 繰 り 下 げ る こ と に あ っ た と 考 え ら れ る。 な お、 執 政 で あ る 門 下 侍 郎 ・ 中 書 侍 郎 ・ 尚 書 左 右 丞 に つ い て は、 政和二年詔① ・ ②で言及されていないことからもわかるよ うに、旧来のままとされ、何らの改変も被っていない。こ のことから推しても、公相制導入の標的は旧宰相と尚書省 にあったことが了解されるだろう。 そして最後に、公相制と南宋三省制の異同について考察 したところ、宰相の三省に渉る権限を制度によって保証し ていることが両者の共通点であった。その一方、公相制と 南宋の制度を直結しがたい点として、南宋では宰相独員体 制の制度化は解消されたこと、及び首相 ・ 次相と参知政事 が同様の職域を有するようになっていることを挙げた。以 上の考察を通じて、先行研究のうち、熊本崇氏の諸研究に よって示された元祐三省制と公相制の継承関係、及び筆者 が前稿で仮定した公相制から南宋三省制への連続性につい て、 こ れ を あ る 程 度 は 具 体 的 に 提 示 し え た も の と 思 し い。 また他方で、本稿で論じた公相制と南宋三省制の相違点に 関していえば、筆者が前稿においてたてた見通しのみでは
43 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) 説明し得ない差異が存在することも指摘できた、といえる であろう。 特に公相制と南宋三省制の相違点に関わる問題について は爾後、宰相は参知政事に対する優位を確保し得たか、或 いは確保できなかったのか。また、元豊官制に見られる宰 執の階層化や階層意識はどのように継承されたのか、或い は継承されていないのか。 如上のような問題意識に基づき、 宰相と参知政事の差等の有無や序列意識について研究を進 めることで、政治制度史の視点から北宋と南宋の関係性を いま一歩明らかにしたい。 注 ︵ 1︶ 宗 朝 を 多 角 的 視 点 か ら 検 証 し よ う と し た 編 著 に、 ﹃ ア ジ ア 遊 学 64 宗 と そ の 時 代 ﹄︵ 勉 誠 出 版、 二 〇 〇 四 年 ︶、 伊 原 弘 編 ﹃﹁ 清 明 上 河 図 ﹂ と 宗 の 時 代 ﹄︵ 勉 誠 出 版 、 二 〇 一 二 年 ︶、 Pa tric ia Bu ck ley Ebr ey an d Maggie Bic kfor d ︵ eds. ︶ “Emper or Huizon g and la te Nor ther n Son g Chin a : the poli -tics of cultur
e and the cultur
e of politics ” ︵ Har var d East Asian monographs, 266.Har var
d University Asia Center
, 2006. ︶ 等 が あ る。 後 者 に つ い て は 包 偉 民﹁ 宋 宗〝昏 庸 之 君 〟与 他 的 时 代 ﹂︵ ﹃ 北 京 大 学 学 報︵ 哲 学 社 会 科 学 版 ︶﹄ 二 〇 〇 九 − 02、 115 − 120頁 ︶ も 併 せ て 参 照 さ れ た い。 蔡 京 に 関 連 す る 事 項 を 網 羅 的 に 研 究 し た 著 書 と し て、 楊 小 敏﹃ 蔡 京 ・ 蔡 卞 与 北 宋 晩 期 政 局 研 究 ﹄︵ 中 国 社 会 科 学 出 版 社、 二 〇 一 二 年 ︶、 政 治 史 の 分 野 で 宗 朝 を 研 究 し た 著 書 に、 藤 本 猛﹃ 風 流 天 子 と ﹁ 君 主 独 裁 制 ﹂
│
北 宋 宗 朝 政 治 史 の 研 究 ﹄︵ 京 都 大 学 出 版会、二〇一四年︶がある。 ︵ 2︶ 例えば、 宮崎聖明 ﹁北宋宗朝の官制改革について﹂ ︵﹃宋 代 官 僚 制 度 の 研 究 ﹄ 北 海 道 大 学 出 版 会、 二 〇 一 〇 年、 211 − 244頁。初出は﹃史朋﹄ 41、 二〇〇八年︶ 、 龔延明﹁ 〝三公官〟 从相之 别 称到正官考 识 ﹂︵﹃浙江大学学報 ︵人文社会科学版︶ ﹄ 預印本、二〇〇九年 02期︶などがある。 ︵ 3︶ 張 復 華﹃ 北 宋 中 期 以 後 之 官 制 改 革 ﹄、 第 三 章﹁ 宗 朝 之 官制改革﹂ ︵文史哲出版社、一九九一年、 89 − 130頁︶ 。 ︵ 4︶ 方 誠 峰﹃ 北 宋 晩 期 的 政 治 体 制 与 政 治 文 化 ﹄ 第 四 章 第 一 節 ﹁〝公相〟 蔡京﹂ ︵北京大学出版社、二〇一五年、 147 − 164頁︶ 。 ︵ 5︶ 熊本崇 ﹁宋元祐三省攷│
﹁調停﹂ と聚議をめぐって﹂ ︵﹃東 北 大 学 東 洋 史 論 集 ﹄ 9、 二 〇 〇 三 年 ︶ 396 − 399頁、 ﹁ 宋 神 宗 官 制 改 革 試 論│
そ の 職 事 官 を め ぐ っ て ﹂︵ ﹃ 東 北 大 学 東 洋 史 論 集 ﹄ 10、 二 〇 〇 五 年 ︶ 257 − 258頁、 ﹁ 宋 執 政 考│
元 豊 以 前 と 以 後 ﹂︵ ﹃ 東 北 大 学 東 洋 史 論 集 ﹄ 11、 二 〇 〇 七 年 ︶ 180 − 181頁 参 照。 そ の 他 参 照 す べ き 研 究 と し て、 ﹁ 宋 元 祐 の 吏 額 房│
三省制の一検討﹂ ︵﹃東洋史研究﹄ 69 − 1、二〇一〇年︶ がある。 ︵ 6︶ 注 5熊 本 崇 二 〇 〇 五、 258頁 及 び 熊 本 崇 二 〇 一 〇、 55頁 参 照。 た だ、 首 相 が 独 員 で あ る こ と は あ る 種 自 明 で あ る と 思 し い た め、 こ の﹁ 首 相 の 独 員 が 制 度 化 さ れ た ﹂ と い う 状 態 をどのように解すべきか悩ましいところではある。44 ︵ 7︶ 清 水 浩 一 郎﹁ 南 宋 告 身 の 文 書 形 式 に つ い て ﹂︵ ﹃ 歴 史 ﹄ 第 109輯、二〇〇七年︶ 。 ︵ 8︶ 例 え ば﹃ 朱 子 語 類 ﹄ 巻 112朱 子 九﹁ 論 官 ﹂︵ 中 華 書 局 点 校 本 二 七 二 六 頁 ︶ に は 以 下 の よ う に あ る。 ﹁ ⋮⋮。 又 曰﹃ 本 朝 太 宗 嘗 以 中 書 令 爲 開 封 尹、 由 開 封 尹 入 襌 大 統。 故 後 來 不 除中書令。尹開封者亦不敢正除、 必加 〝權〟 字。蔡京改官制、 遂 除 中 書 令、 當 除 底 不 除︵ 謂 尚 書 令 ︶、 不 當 除 底 却 除、 又 尹 開 封 者 更 不 帯〝權 〟字。 其 悖 亂 無 知、 皆 此 類 也。 又 京 以 三 公 爲 宰 相、 令 人 以〝公 相 〟呼 己、 而 不 得 呼〝相 公 〟。 後 來 秦 檜 亦 如 此、 蓋 倣 此 也。 ﹄﹂ 。 ま た 平 田 茂 樹 氏 も 北 宋 末 以 降 の 趨 勢 が 南 宋 の 宰 相 擅 権 出 来 の 要 因 で あ る こ と に つ い て、 ﹃ 宋 代 政 治 構 造 研 究 ﹄︵ 汲 古 書 院、 二 〇 一 二 年 ︶ 247頁 注 25な ど で述べている。 ︵ 9︶ ﹃ 通 鑑 長 編 紀 事 本 末 ﹄︵ 以 下﹃ 紀 事 本 末 ﹄︶ 巻 125﹁ 官 制 ﹂、 政 和 二 年 九 月 二 十 九 日 癸 未 条 に 附 さ れ た 注 に、 ﹁﹃ 實 録 ﹄ 有 此、 但 略 加 刪 潤、 令 以 詔 旨 別 修 爲 尚 書 令 者、 唐 太 宗 也。 当 時 有 失 稽 考、 今 但 存 本 文。 蔡 絛 亦 同 此 誤。 ﹂ と あ る。 類 似 の指摘は ﹃宋宰輔編年録校補﹄ ︵以下 ﹃宰輔編年録﹄ と略称︶ 巻 12政 和 三 年 五 月 辛 巳 条 所 引 の 蔡 絛﹃ 国 史 後 補 ﹄、 ﹃ 朱 子 語 類﹄ 巻 112朱子九 ﹁論官﹂ ︵二七二五 −二七二六頁︶ にもある。 宋 太 宗 の 官 歴 を 追 跡 し た と こ ろ、 ﹃ 続 資 治 通 鑑 長 編 ﹄︵ 以 下 ﹃ 長 編 ﹄ と 略 称 ︶ 巻 5 乾 徳 二 年 六 月 己 酉 に ﹁ 以 皇 弟 開 封 尹 ・ 同 平 章 事 光 義 兼 中 書 令 ﹂、 ﹃ 宋 史 ﹄ 巻 3 開 宝 六 年 九 月 己 巳 に﹁ 封 光 義 爲 晋 王 兼 侍 中 ﹂ と あ る の を 確 認 で き る が、 管 見 の限り太宗が尚書令となった記事は確認できなかった。 ︵ 10︶ ﹃ 長 編 ﹄ 巻 327元 豊 五 年 六 月 乙 卯 条、 ﹃ 宰 輔 編 年 録 ﹄ 巻 8元 豊 五 年 四 月 癸 酉 条 注 引﹃ 官 制 旧 典 ﹄、 ﹃ 文 献 通 考 ﹄ 巻 49職 官 三﹁宰相﹂参照。 ︵ 11︶ ﹃ 会 要 ﹄ 職 官 1/ 1元 豊 三 年 九 月 十 七 日 の 記 事 に よ れ ば、 旧 制 三 師 ・ 三 公 は﹁ 司 徒 ↓ 太 保 ↓ 太 傅 ↓ 太 尉 ↓ 太 師 ﹂ の 順 序で除授されるようである。 梅原郁 ﹃宋代官僚制度研究﹄ ︵同 朋 舎、 一 九 八 五 年 ︶ 七 一 頁 所 載 の 第 十 一 表﹁ 給 舎 以 上 遷 官 略 表 ﹂ に よ る と、 旧 制 三 師 ・三 公 の 遷 転 順 は﹁ 司 徒 ↓ 司 空 ↓ 太 保 ↓ 太 傅 ↓ 太 尉 ﹂ と な っ て い る。 ﹃ 同 書 ﹄ 七 二 頁 に は、 ﹁ た だ 実 例 で 検 討 す る 限 り、 そ の 過 程 は ま ち ま ち で、 表 の 線はあまり参考にならない﹂とする。 ︵ 12︶ 公 相 制 施 行 以 後、 新 制 三 少 か ら 新 制 三 公 に 昇 っ た 者 の 具 体 例 と し て、 王 黼 ・ 鄭 居 中 ・蔡 攸 の 三 名 を 挙 げ る。 王 黼 は 宣 和 二 年 十 一 月 庚 戌 に 少 保 と な り、 以 後 同 三 年 九 月 丙 寅 に 少 傅、 四 年 六 月 丙 午 に 少 師、 五 年 五 月 九 日 か ら 六 年 十 一 月 丙 子 に 致 仕 と さ れ る ま で の 間、 太 傅 で あ っ た。 鄭 居 中 は、 政 和 六 年 五 月 庚 子 に 少 保、 同 八 年 七 月 壬 午 に 少 傅、 宣 和 三 年 九 月 五 日 に 少 師、 同 五 年 五 月 九 日 に 太 保 を 授 け ら れ て い る。 蔡 攸 は 宣 和 四 年 正 月 七 日 に 少 保、 同 年 十 二 月 十 八 日 に 少 傅、 翌 五 年 五 月 十 一 日 に 少 師 と さ れ、 同 七 年 六 月 十 九 日 に 太 師 を 与 え ら れ た。 こ れ ら 三 例 に 依 れ ば、 何 れ も 少 師 に 至 っ た 後、 新 制 三 公 の 何 れ か へ と 昇 進 し て い る こ と が わ か る。 例 え ば 童 貫 は 政 和 八 年 八 月 四 日、 新 除 検 校 太 保 か ら 太 保 を 与 え ら れ て い る が、 こ れ は 例 外 に 属 す る と 看 做 し て よ いだろう︵ ﹃宋史﹄宰輔表、 ﹃会要﹄職官 1/ 2 − 3︶。
45 北宋徽宗朝の「公相制」についての一考察(清水) ︵ 13︶ 職 事 官 名 変 更 の 期 日 に つ い て。 ﹃ 会 要 ﹄ 職 官 1/ 2に 依 れ ば、 何 執 中 の 太 宰 就 任 は 政 和 二 年 十 一 月 二 十 八 日 の こ と の よ う で あ る。 ま た、 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄ 巻 125﹁ 官 制 ﹂ 政 和 二 年 九 月 二 十 九 日 癸 未 に は、 公 相 制 関 連 の 諸 改 変 は、 政 和 三 年 正 月 一 日 よ り 施 行 す る と さ れ て い る。 よ っ て、 公 相 制 は 政 和 二 年 九 月 詔 に よ っ て 発 布 さ れ、 同 年 十 一 月 二 十 八 日 を 経 て、 政和三年正月一日に本格的始動を迎えたと考えられる。 ︵ 14︶ 例 え ば 龔 延 明 氏 は、 蔡 京 の み を 公 相 と し 王 黼 を そ れ と 看 做 し て い な い︵ 注 2龔 延 明 二 〇 〇 九、 一 一 九 頁、 ﹁ 以 三 公 官 爲 実 職 宰 相、 在 宋 代 僅 蔡 京 一 人 ﹂︶ 。 こ れ に つ い て は、 ﹃ 宰 輔 編 年 録 ﹄ 巻 12宣 和 六 年 十 一 月 丙 子 に﹁ 太 宰 王 黼 致 仕︵ 自 太 宰 兼 門 下 侍 郎 ・楚 国 公 授 太 傅 致 仕 ︶﹂ と あ り、 ﹃ 宋 史 ﹄ 宰 輔 表 に も﹁ ︵ 宣 和 六 年 ︶ 十 一 月 丙 子、 太 宰 兼 門 下 侍 郎 ・楚 国 公 王 黼、 以 太 傅 致 仕。 ﹂ と あ る た め、 致 仕 に 至 る ま で 王 黼 が 太 宰 兼 門 下 侍 郎 で あ り 続 け た 可 能 性 も あ る。 し か し、 宣 和 五 年 五 月 九 日 に﹁ 少 師 ・太 宰 兼 門 下 侍 郎 ・ 慶 国 公 王 黼 以 撫 定 燕 雲、 除 太 傅、 進 封 楚 国 公、 其 治 事 恩 數、 並 依 蔡 京 昨 任 太 師 體 例。 ﹂ と あ る こ と︵ ﹃ 会 要 ﹄ 職 官 1/ 3︶、 宣 和 六 年 九 月 乙 亥 に 白 時 中 が 門 下 侍 郎 か ら 太 宰 兼 門 下 侍 郎 へ 昇 進 し て い る こ と を 考 え れ ば、 時 中 の 太 宰 兼 門 侍 就 任 後、 王 黼 は 特 定 の 職 事 官 を 帯 び て い な い 可 能 性 が 高 い の で は な い か︵ ﹃宰輔編年録﹄巻 12︶。なお、 王瑞来﹃宋史宰輔表考証﹄ ︵ 中 華 書 局、 二 〇 一 二 年 ︶ 43頁 に 宣 和 六 年 十 一 月 丙 子 条 の 考 察 が な さ れ て い る。 太 宰 を﹁ 首 相 之 任 ﹂ と す る な ど、 制 度 面 の 記 述 に 首 肯 し が た い 点 が 幾 つ か あ る が、 王 氏 も 王 黼 が太宰兼門侍ではなかった時期の存在を想定している。 ︵ 15︶ ︵ 宣 和 ︶ 七 年 四 月 二 十 七 日、 手 詔﹁ ⋮⋮。 朕 嗣 承 丕 業、 率 循 舊 章、 夙 夜 於 茲、 大 懼 弗 克 祗 紹。 嘗 謂 坐 而 論 道 於 燕 間 者 三 公 之 事、 作 而 相 與 推 行 者 宰 輔 丞 弼 之 職。 今 居 三 公 論 道 之 位、 而 總 領 三 省 衆 務、 使 宰 輔 丞 弼、 殆 成 備 員、 殊 失 所 以 紹 述 憲 章 之 意。 可 於 尚 書 省 復 置 尚 書 令、 虛 而 不 除。 三 公 止 係 階 官、 更 不 總 領 三 省。 若 曰 佐 王 論 道、 經 緯 國 事、 則 三 公 其任焉。 三省並依元豐成憲、 毋復侵紊。 敢輒議者、 以入 ︵大?︶ 不 恭 論。 若 昔 大 猷、 是 正 邦 典、 朕 庶 幾 無 媿 於 前 人。 播 告 中 外、咸知朕意、仍揭榜朝堂。 ﹂︵ ﹃会要﹄職官 1/ 42︶。 ︵ 16︶ 李 邦 彦 は、 宣 和 五 年 二 月 乙 酉 朔 に 尚 書 右 丞 か ら 尚 書 左 丞 と な り、 翌 年 二 月 丙 午 か ら 四 月 丁 巳 ま で の あ い だ、 父 浦 の 喪に服していた ︵﹃通鑑続編﹄ 巻 12宣和六年二月条 ・ ﹃宋史﹄ 巻 22宣 和 六 年 二 月 丙 午 条 ︶。 六 年 四 月 丁 巳 の 起 復 後、 同 年 九 月 乙 亥 に 左 丞 か ら 少 宰 兼 中 書 侍 郎 に 昇 進 し て い る︵ ﹃ 十 朝綱要﹄巻 18・ ﹃宋史﹄宰輔表 ・ ﹃宰輔編年録﹄巻 12︶。 ︵ 17︶ 政和二年五月十三日己巳に致仕を落とされた蔡京は、 ﹁太 師 ・ 楚 國 公 ﹂ と し て、 特 定 の 職 事 官 に 任 命 さ れ ぬ ま ま、 三 日 に 一 度 都 堂 で の 治 事 を 命 ぜ ら れ、 ﹁ 毎 日 朝 参 に 赴 き、 退 き て 都 堂 に 至 り 聚 議 し、 中 書 省 前 庁 直 舎 に お い て 治 事 し 畢 れば、 ただちに尚書令庁を以て治所となし、 仍て敕 劄 に押﹂ す こ と と さ れ た。 こ の こ と か ら、 お そ ら く、 蔡 京 復 帰 後 の 措 置 を 公 相 制 で も そ の ま ま 継 続 さ せ、 尚 書 令 庁 を 治 所 と し たと推測される︵ ﹃紀事本末﹄巻 131﹁蔡京事迹﹂ ︶。 ︵ 18︶ 注 15参照。