第
二
第一
. 勾 ー郁完了、マl
…
、a <"
,
:
畿
げ
議
:
,
;
'
;
戸
:
.
,
.
,
−;:'うh P」.
"
'
<
,
:
:
:
,
三
番
器
量
難
:
.«:;~;'.11~~~;:,·
;r: , こ もら 、是也、 ぷ宗
組
御
入
山
六
百
五
十
年
紀
念
競
目
衣
巻 頭 二 一 一 回 一 本館の賛文年代に就て: jil − − j i− − − 鈴 木 文 亮 : ; 一 一 一 日選聖人門葉の管見 ili − − − E t i − − : : : 太 田 純 士 山 ・ : ・ ・ ・ 九 日蓮型人の宗敬さ債値的批判: j i − − − 結 城 瑞 光 ・ : ・ 一 一 口 信 仰 の す 心 を 改 め よ ・ ・ : : : j i t − − j i− − 志 村 胎 堂 : : ニ 四 念 偽 思 想 史 に 封 す る 余 の 管 見 − j i − − − − 一 珊 島 瑞 岳 : : ニ 七 魂の郷地を索めて t i − − − jil − − − − i t i − − 高 山 恵 忍 : : 一 三 能 化 さ 所 化 ・ z i − − − − − iz − − ・ : : : : i r i − − : ・ ・ : 深 津 雪 堂 : : 一 一 一 五 聖 日 遣 の 奮 闘 ’ z i − − t i z − − − z j i t − − i : 間 宮 観 臆 : : 一 毛 御 草 庵 ︵ 散 文 詩 ︶ : : ii ・ e ・ − j i−−− zi − − − − − 下 回 冷 涙 : : 四 一 月 ゆ 鴫 き ︵ 詩 ﹂ ・ ・ ・ ・ : j i − − − − jit − − − f i − − : 中 林 遺 風 : : 問 ニ 本 化 的 文 化 生 活 : : ・ ・ j i−−−− j i−− j i− − − 岡 鳴 月 : : 四 回 私 の 生 命 観 : ・ ・ i l i t i − − : : : ・ i l i − − : : : 渡 謹 泰 深 : : 四 七 偶 戚 ・ ・ ・ : : : i : z−−−−−− z−−−− − − − z・・ ・ ・ ・ ・ ・ : : : t: ・ ・ ・ ・ ・ 小 坂 田 龍 敬 : : 四 九 抱かれU
本備の懐に i z − − jig − − j i− − 二 宮 龍 股 : : 五 一 平 和 の 建 設 : ・ i j i t − − − − − − − − jit − − z i − − : 堀 内 義 光 : ・ ・ 萱 慈悲に就下 z z i : i z z : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 2 ・ ・ ・ ・ 2 ・ : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 吉 川 啓 善 ・ : ・ 歪 友の霊に手向︵ぺき詩さ文− E ・ E ・ − − z i − − 江 原 白 線 ・ ・ ・ 卓 八 棲 紳 閣 に 詣 で 、 ︵ 詩 , ・ − − i z i − − − E t i − − ・ ・ : 照 月 : : 穴 O 理 智 の 母 ︵ 詩 ︶ ji − − − i l i t i − − − s i t i − − 太 田 亦 童 : ・ 大 一 時乳類のいろf
、 ・ ︵ 詩 ︶ j i − − − − j i− − ・ : 平 地 光 蒲 ・ : 六 一 一 陸 奥 に 咲 け る 百 合 花 − − j i−− E t i − − − z i − − 佐 藤 海 澄 ・ ・ ・ ・ 苔 自 然 ご 人 生 ・ ・ ・ ・ : j i−−: j i z i g − − ji − − − 富 田 海 昔 ・ : ・ 奈 反 省 さ 努 力 − − j i t −− iji − − i z − − − j i− − − 鹿 瀬 潮 憲 : : 宅 夏 の 宵 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : : : : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 本 村 弘 : ・ ・ 交 秋 の 観 喜 − − − i j i t − − − i i j i − − − − − − t i − − − − − − 高 橋 是 明 ・ ・ = 完 魂 の 叫 ザ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : : : : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 中 保 良 腸 ・ ・ ー さ 歩 む ぺ き 道 − − − j i − − − − z i − − : : ・ : ・ − t i t i − − 四 寛 涙 草 : : 七 一 寺院さ酒に就て i t i t t i − − i i j i −− i 秋 永 露 翠 ・ ・ ・ 七 一 一 一 か 細 き 秋 雨 ︵ 散 文 詩 ︶ − z i − −j i t − − j i − − 鍋 谷 寛 明 ・ ・ : 七 五 寂 塞 ︵ 詩 ︶ ・ : : : j i − − : ・ : i i t i l i − − 22 ・ 泰 観 行 ・ ・ ・ 七 六 郊 外 の タ ヘ 民 謡 、 ・ ・ ・ ・ j i−−−− t i z − − z j i − − 秋 永 露 翠 : : 宅 魂 の 行 へ ︵ 民 謡 ︶ : ・ jit − − − − z i l i − − : : : 太 田 赤 童 ・ : 七 八 凋 落 の 初 冬 ︵ 詩 ︶ i z − − i t i z − −f i z z − − ・ : 小 松 観 皐 : ・ ・ 支 一一( 1 )一一合 運 文 議 編 不 轄 持 菊 民 計 動 撃 演 輯 字 盤 行 革 よ 謡 部 部 部 部 雑 ヤ ( ( 机 ー か か か か 記 ; 創 創 愁 語
らららら:哲住空思伺
人
:
i
出の;;草
一 ・~
I
!
倉jl;
;
l
思
l .
,
.
'
作 口'
-
-
'
: 1
然の
:
陸 短立冷赤~~宇高十伊竪語
崎田丹:
一−
ー冷墓:
谷涙童月老ニ涙華
i
光
宝 呂 三g
士金完全主夫
城 ー ︹ 柊 ︺ l 一一( 2 )一一巻
頭
.同・ー圃. 人法相闘の道盟、依正不二の真理に立脚して、自身の不思議なる法事艇の行者なるこさ、身延の山の鷲峰 に等しき霊地なるこさをば、宗粗大師は御遺文に 此蕗は人倫を離れたる山中山也、東西南北を去て里もなし、か、、るいご心細き歯谷なれさも教主秤設の一大 事の秘法を露鷲山にして相惇し日蓮が肉闘の胸中に秘して隠し持てり、きれば日還が胸の問は諸偽入定の 慮也、舌の上は斡法輸の所、喉は誕生の慮、日中は正畳ψ糊なるぺし、か、る不思議なる法華経の行者の 往慮なれは、いかでか霊山博士に劣るぺき、法妙なるが故に入賞し、入賞、きが故に慮寧しご申スは是也至 彼月氏の震鷲山は本朝此身延の嶺也 0 4 ﹂示された、衣食給せす常に飢寒に苦めらる、所謂貧道の身の上に四慮道場を直戚し、山阿渓頭寂奨知人の 僻地に於て事の寂光土を賀現せしめたる大師の信仰世活が知何に崇高偉大でゐるかは一時間直に看取せられる ではないか。又 後みには峨々たる深山聾へて梢に一采の菓を結び、下枝に鳴︵蝉の一昔滋︵、前には湯々たる流水湛へて賞 相異如の月浮び、相川⋮明深重の閣陥れて法性の室に雲もなし至博へ聞︵梓隼の住み給ひけん鷲峰を我朝此糊 に移し置きぬ O さも云はれ、此地の山川草木皆妙法の委であり、事々物々質相異知、其僅でゐるこさを述ぺて鼓即ち霊山静 士なるこごを示された、其高潮せる法悦歓喜の事情は正に葎端に躍動して居るではないか。 同民全体が大仰に軌範を求めて此偉大なる信仰に入り、法悦さ戚謝の事的生活を管み得るならば立正安闘 の素願は詑に満足するのである O それが人類全瞳に行き渡ったならば、則ち閣昨統一、絶待 γ 平和の理想は正 に質現するのである、爾らば此接爾たる身延の山は岡家鎮護の根本霊場、世界平和の接鮮地ではないか、末 法高年の暗黒を照破する大光明の出礎知ではないか、凡そ我岡備数中諸他の宗々仁百一・りて名山大剥は津山ゐ 一−( 1 )一
一
るが彼等は皆霊山霊剥古橋するこさは出来ぬ、汗は﹁法危なるが故に人仲ゃから今、人隼からざる故に慮亦た 貴から令 L の道理で貨質上巳むを得ぬ事である、我大師自ら﹁此山を本として参るぺし L J ﹂劫奨なされたの は強も信徒眼目集の魚ではない、数椛樹立の矯ではない、要は﹁我が型的生活に倣へよ﹂さの垂訓である、他 語以て之を言はい破邪顧正の毒鼓天鼓でゐる、凶民畳醒の暁鐘でゐ
b
、人類救済の踊昔である、必や’f
− 、 井
蛙の見、宵々の情を以て之を付度しではならぬ、立し︿眼孔を踏めて真理の命令 Jる慮、道到の一不す所を大蹴 すぺきである o 本年は此世界的霊地の開創、即ち宗祖大師が文永十一年五月入山せられてより正に六百五十年に相官する 依って本山ざしては相官期間に於て杷念の法合が奉行されるこごでゐるが、朝夕此棲柿の露地に奉仕し夙夜 行皐二道に蹴みつ、ある吾人は、設に雑誌﹁棲紳しを殺行して深︿之を組念し、一は以て大師の恩他に戚謝し 一は以て自身行皐の増進仁資し、夏じ以て天鼓の一撃、暁鐘の一杵に挺するものでゐる O ︵大正十二年一月十 一 日 ︶.
一一(
2トー
~~
o 口 L-5C
ご
ニ
コ
賛
文
年
代
に
就
本
信
号
の
て
鈴
木
文
先 古来日蓮聖人の本隼を研究すゐに際してその是茶羅じ劃する皐者の考察的態度は必やしも−様であったさ は云へないが、併しながら大臨し於てその形式的研究の方面から見るならば蔓茶維の闘式に針して常に三種 の異舶を分判して考察するの風潮が夙くから存したこさは護者の最もよ︿知るご・﹄ろでゐらうo
三種さは即 も文永式、建治式、弘安式 J﹂稿するものであって古来の串者はその多︵が是等三種ω
うちに於て文永建拾の 本隼ご弘安巳後に於ける本隼さの形式的制具やその貸文化十代の不同を比較するこごから直ち仁本象の慣値内 容の優劣にまで論及して是れが校量穿撃に甚だっごめたものである。 今その岡式に卦する形式的研究の偵値批判は且︿措いτ
控はたい賛文年代のそれじ就て少し︿者人の管見 を披極して見たいさ以ふ、 J﹂ 云 ふ の は ζ の問題は単に古来の皐者が悲し︿力を致したご云ふばかりでな︿吾 人を以てするならばか、る形式的研究の偏重からそが伯航問題にまで論及して遂に墓意を端陣するに至った さ云ふこごは、ぞれがたいに戯準的解害のもたらした結果ご考へらる、ばかりでなく﹁本設に迷ふは才能ゐ る畜生なb
﹄ごまで政一誠せられた窓慮に鑑みてま・﹄ごに忍びがたいものがあるからでゐる o 年代計算に劃する日進呈人の見解は、云ふまでもなく体敬大師の著作でゐるごころの寸末法燈明記 L に記 された二説、所謂川異記の説である周の穆玉三年説ご春秋の共王四年説さの中ではその前者生取るものでゐ っ て 、 A 1 この説じ従ふならば 1 憶明記﹂の著作年代即ち延一府二十年は悌滅後一七五O
年に相官するから、日誠一 塁入の誕生は二一七一年に常り建長五年の清液開設は二二O
二年佐渡の流摘は二二二O
年﹁翻心本雰紗 L の 一一( 3ト ー
0 0 0 0 0 遺作並じ本隼昆茶羅の始願は正し︿二二二二年に相常する、従って身延入山は二二二三年弘安五年の鶴林入 凸 合 合 A口 ゐ 減はまた貨に二二一一二年に相常するこご、なる。 然るに今踊って本軍基茶維の公文年代を拝するごさ概して文永建治の比になれるものには昨除後プドニ
r
二十余年︵始附酬は二二二二年︶ご認められてゐ与、その弘安元年巳後のものには備滅後二千二百三十余年︵弘 安四年が二二三O
年 ︶ J ﹂託されてあるご・﹄ろから、愛じ是等雨者の相異が端な︿も皐界に疑念を生み筆者は ために種々の憶誌を立て相争ふ・﹄ご久しきに亘b
遂に今日に至るも向はその蹄趣するごころを見出しがたき に至ったのである。 今これに劃する皐者の見解中その主なるものを列翠すれば次の知くである O 身延日朝師日︵、 文永建治ゆ本軍に廿除年さ云ふは是は未再治の本容なるが故なb
、弘安但繋の時分に品川除年ご云ふは再治 定の本符なるが故なりo
云 々 和語日相師日︵、 建治年中の本管には二千二百二十飴年三云ふぺし、弘安四、五年の本隼には三十傍年ご云ふ勿論なり、然れ 共建治弘安身延住居の時は白行謹併の御本意も正し︿額れたれば、彼の時代の御本傘を手本さし常時の衆 も三十飴年ご書き給ふなり。云々 啓蒙日講師日︵、 或る妙に臼︵、二十飴年まあるぺきを三十除年ご遊ばせる事は甚深の子細有之、叉京都本岡寺弘安元年七 月の本章に二千二百三十飴年さ遊ばし、又下楓峯日排授典の弘安二年四月の大本牲にも二千二百三十飴年 さあり、今云︵、二幅の本軍の授典書に就ては尤も深意ゐるぺき欺、諸山列車別しては平賀代々の本命に多 ︿三十飴年ごあるは、元組自行御所謹の御本意の額はれ畢る時を定規Z
せる意なるぺしo
云 云 扶老日好師日︿、 轍て宗祖の本寧を見るに二百三十除年ご、 一一( 4 )一一 叉二百二十飴年さゐり、唯此の二なるのみじして飴は之なし文永九年壬申は正し︿二千二百二十一年な
b
、故に本章を闘するさきの始めは文永九年以後なるぺし、三十 飴年の語は弘安五年是れ三十一年なれば此年に云ふは然るぺし、自余の年に三十余年ごあるは文字の設り なるぺしo
云 々 小 林 日 董 師 日 ︵ 、 弘安元年以後の本隼は二悌四菩薩のみにして善徳及び分身悌を書し給は今、是の如きは貨に本門正宗の本 隼なるべし、故じ先仰も文永建治のぶ隼ご弘安元年以後の本隼ごを別げ随他意随自意のニごせ h J 、弘安元 年以後の本隼には必十特じ梯滅後二千二百三十齢年さ香し給ふ由一一意思ふぺL
o
云 々 嶋村日正師臼︿、 ﹁l
廿余年l
随他 1 康宣流布|在世i
弘遁の始 賛 文l
一
一 | 品 川 余 年l
随白l
無令断絶l
滅後i
弘遁の後 以上の如︿古来多くの皐者が各自その説を立て設に本尊に劃して、随自随他、末再治再治定、自行所読の本 意不本意、在世滅後等の分別を生今るに至ったのである。今若し本隼の憤値にして果して是の如︿であるごす るならば、文永十年佐憾の連作にか、る﹁.日運が官身一期の大事﹂さ宣ぺられた事人終窮の極説たる﹁如来滅後 五五百歳始親心本零鉢﹂は建じまた未再治随他禾所証の方使説さなり終るの外はないものさ云はねばならな いo
何てなれば同年始願法華純本門の大盛茶羅は貨に親心本意紗の大事たる蒜量品の肝心妙法遵華経そのも のを額接困現せられたものであるが故に、そこには本隼紗を離れて本章があり得ないご同時に、また本軍以外 に本隼捗の生命及び其規模はあ h 得ぺからぎるが魚であるo
従って叉若しも本章秒以外にそれさは杢︷閥係 なしに猫立した本章の生命慣値を確認しゃう J e− − す る 皐 者 が ゐ る 亡 す る な ら ば 、 そ れ は 盟 −h
事意に背戻するの みなら今か、る不合理の見解は吾人の知的要求さは杢然相容れないものさ云はねばならないo
之れに反して 本軍吉本隼鉢ての闘係を上の知︿密接不離のものごして考へやうごする吾人の見解にして果して諜りでない ざするならば、弘安巳前即ち文永十年の始願本命がその弘安元年以後即も弘安式ならざるが潟ご云ふ:或は 又賛文年代が悌滅二千二百二.十余年さ云ふ傭件のもさに末再治樋他意なりご断定する以上、その能詮たる本 一一( 5 )一一隼妙はまた明かに未再治随他意の所設ご認めねばならない
o
その之れに反して本金紗が飽︿まても嬰意から 見て異に﹃日蓮が宮身一期の大事﹄であるさするならば、その所詮でゐ・り所旧制であるさころの﹁本隼﹂はまたそ れ白身絶劃債値の官体であらねばなるまい o 愛に於てか吾人は賛文年代によちて本章そのもの、償航を砥別 し其問に軽重を附せんごするが如き噂者の見解は卑意に背く妄断であるご論難するの外はないのである O 以上の論速にして諜りでないごするならばその日疋れに劃する吾人の見解は次の如︿である、却も吾人を以 てするならば本診に認められた賛文年代は、彼の﹁観心本隼紗﹂に於ける﹁如来滅後五五百歳始﹂の文 J﹂ 其 意杢︿同一でゐって、それは草に本隼固式の整不整や巧拙の如何等に係るさこんのものでないのは勿論、その立
斤
η
存するごころは貨に専ら法華経書量品の肝心たる本門の大本章が、一に末法行者の信行の封象・こして 第五の五百歳即ち末法の始めに於て出現せらるぺ︵、本化附蝿の大白畳に基いて其の内容ご目的ごを限定せ んさした銘言であって、鼓に賛交の賛文たる所以の義叫が存するさ共に、叉貨に末法救梼の本草債値をして 正像の二ぞれご筒別せんが局めであるさ考ふるのでゐる O きれば本掌紗に日︿、 末法に来入して始めて此偽像川現せしむぺき賊o
日 女 妙 に 臼 ︿ 、 正像二千年には未だ本門の本軍 J﹂巾すぺき名だもなし乃至悌滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に川現せ させ給ふ乃至末法二百余年の比o
云 々 亡、車意是の如︿であるならば二十余年さ云ひ三十余年ご云ふも其京に於て何等具ちな︿、只大教に約してか ︿は書せられたものご見るぺ︿、畢一見本章の悌滅後末俳 H 有なるの意義ご末法舟正の深意ごそ悶詮せんごする が正目的であるさ云はねばならないo
詑に於てか吾人は更に進んで翠人一代に於ける年代数字の用語例に就て考鐙を重ね以て其の意の存する蕗 を明確ならしむるのであらうo
法華初心成悌紗︵建治三午︶へ縮遺一六七七︶ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 樟律入滅の後今に二千二百コ一十余年也 o 一 五 々 一一( 6)一一
撰持砂︵建治元年︶︵同一二三五︶ 0 0 0 0 0 0 0 0 悌滅後二千二百三十余年が問。云々 弘安以後に於て三十余年さゐるを以て其の本隼が再治定であ
b
随白意であるさの義を附すぺきでゐるなら 0 0 0 0 は建治年間に於ける上記の諸御書に認められたる三十余年云々の年代用語例は是れを如何仁蕗到すぺきでゐ らうか。云ふ勿れ本隼ご御書ご其意呉るご、慨し前述の如︵本掌紗、日女紗等は共に本隼の顕現に就て云ひ 殊に本’隼問先口妙の如き具に本隼未曾有の義を論十るものあるに於ておやでゐる O 叉暇h
に一歩を典えてたご へ後に具に奉﹁るが如︿弘安元年巳後の御書が多︵の場合三十余年の数を用ひたるニさを容認するも、乙れ さて中には或は正確に年代に介するあb
或はその甚だしきに至つては五百年の敷を用ふるありて一定せ令、 受に於てが既に弘安以前に於て三十余年云々の用語ゐる鮪等を綜合批判するごきそれ等の凡てが大数に約し たものである乙さは愈以て明白な事・寛吉一五はねばならない。 そ−﹄で吾人は更に是等を裏書せんが烏めに重ねて遺文中大教に約して用ひられたる他の諸例を摘録して御 自にかけやう。 妙揖上人御泊息、︵遣一四三O
︶ 二千二円二十余年の時に生れo
云 々 ︵呈人誕生は滅後二千百七十一年な h ︶ 千日尼御前御返事︵弘安元年︶︵滅後二二二七年︶ 怖滅後既に二千二百三十余年になり候o
一 五 々 妙法厄御返事︵同︶ 偽御入滅ゐりでは既に二千二百二十七年。云々 悌滅後任に二千二百二十七年じなり候o
云 々 四保金吾殿御返事︵同︶ 偽減皮後二千二百三十余年になり候。云々 一一( 7 )一一本 命 問 答 妙 ︵ 同 ︶ 二 千 二 r H 三十余年か問一間浮提の内に未た弘めたる人候はもも一再々 九 郎 大 郎 股 御 返 事 ︵ 同 ︶ 偽御入滅ゐりでは二千二百二十余年な
h
o
云 々 賓軽法重事︵弘安二年︶︵滅後二二二八年︶ 例滅後二千二百余年o
云 々 可 延 定 御 舟 日 ︵ 同 ︶ 後五百歳二千五百余年の時。云々 治州大小書︵弘安五年︶︵滅後二二三一年︶ 仰の御入滅よb
今に二千余年が問。云々 以上に於て是れを見るごき、等し︿弘安元年じ於けるもの或は二千二百三十余年、或は二千二百二十七年 或は二千二百余年ご云ひ、叉弘安二年に在ては或は二千二百余年、或は二千五百余年さ一五ひ、更に弘安五年 に於げるが如き単に二千余年ご云へるのみではないかo
是の如く通観し来れば日進聖人の年代用語例に劃する一般を知る乙さが出来るさ共に、其の多々は大教に 約して用ひられた b のであって、弘安元年に於ける寸妙法尼御返事﹂の知︿二千二百二十七年ご正確に引用 せられたものは極めて稀であって寧ろ例外さして見るも可なりであらう o 従って其等の年代は奈︿ぞの引用 の日的生妨げざる範悶に於て最も概算的に使用せられたものであるこごは極めて明確な事貨さなる諜である 然るじ偶々弘安年間に於ける本牲書式にして共賛文の多︿が三十余年さ認めゐる結がら、設に草人の内面生 活にまで臆側を廻らし、且つは本章共ものの憤値内容に劃して種々の匝別軽重を付し、偏執的皮相的批判を 試むるが如きは盛一ゐ瞬時博合も甚だしき沙汰さ云はねばなるまゐ o もさ巳に賛文の意義たる本命の正像未有 を表すご共に、そが末法正依たる所以のものを反照するにあb
さするならば、三十余年ごあるを数字の税り ぎする日好師の読の如きも明かに猫断であってまた吾人の興せぎるごころでゐる O ︵ 完 ︶ 一一( 8 )←ー日
蓮
聖
人
門
葉
之
管
見
来
宅
太
± JC.、
B
J
ム 政 一 語 一 年 貞 癒 一X
A
山 一 一 月 十 六 日 善 日 麿 安房同東懐郷小湊︵元旭化導記略惇︶ 安洲長狭郡市河村小湊浦︵高姐博︶ 安房凶長狭郡東保郷片海市河小湊浦︵詫主讃︶ ︷ 同 一 九 回 見 屋 根 命i
十二代目 i 備 中 守 共 資 ︵ 針 縫 一 腕 時 一 年 中 ︶ | 備 中 大 夫 共 保 ︵ 特 例 純 一 位 凶 任 墜 子 ︶l
十八代目l
四郎政直 ︵融制服話語思想︶i
二十一代目l
次郎重忠|一。
合
i
同
円
十
川
川
山
昭
崎
町
同
一
j r ι
ー
は
凡
い
一
一 ! 藤 太 郎 重 政 停 不 詳一
i
早 世 元 旭 化 理 記 、 略 博一
i
仲 三 重 仲 傍 不 詳 別 頭 統 一 記 、 小 湊 系 閏一
l
薬 王 陛 諸 大 家 系 困 、 長 総 克 正 龍一
l
T
Z
控
司
蹴
球
環
12
詑 名 ︶ 停 不 詳 。能慌帝︵叉云磐武帝︶|四十五代目|三岡氏︵住遠州︶|河内守遁行|十一代目﹂ 一一( 9 )一一﹁貫名次郎重賞
l
重 忠 一 一 時 作 一 時 一 ー 一 ﹁ 藤 太O
道 野 建 右 京 亮 ︵ 北 面 武 士 ﹂ | 大 野 吉 情 ﹂l
一 川 一 l 早死O
天 武 帝 ︵ 臥 柱 枠 内 ︶ l 合人親王|五十代目l
山崎左近粂良 l i l−
−
二
l
仲三 一 | 日 蓮 営家宗旨名目、註主讃 一1
貫名仲太 一 1 二 一 説 一 。畢武帝︵臥百五代︶|河内守通行|十一代目重貨|一l
仲 一 一 一 ﹁仲四l
日蓮O
次郎重忠公蹴妙日正嘉二年春二月十四日八十七歳逝去統紀九、ムハO
栴菊御前山耽妙通文永四年八月十五日逝去歳不明 ム 塩 一 一 誕 十 二 年 天 一 服 五 年 五 月 普 日 一 回 。道善白山︵道益口事人、道幸御房等︶安房凶安房郡天津町清一段寺諸悌居住職建治二年三月十六日蓮化︵統記、 譜孜︶同年六月・逝去︵韓典僻林︶氏族不詳O
滞細房道益田房弟子住=清ぼ寺−父云=清母御房−妙通寺歴代也法語日仲︵或事又中︶杷博寂年不詳︵譜孜︶或説 俗籍貫名氏而日蓮肉見云云是説難信 。義滞︵作械成采︶房道帝官房弟子博不詳︵譜孜︶O
凶畝房︵井ノ森︶博不詳営時前澄ノ末寺住鰍0
・貨仰房︵片海︶体不詳常時清探ノ末寺住賦 。道義房義向道一書房肉凡天諒二円寺住体不詳O
助ノ阿同梨偉不詳O
凶 智 房 ︵ 師 ︶ | 観 知 日 房 ︵ 弟 子 ︶ 聖人御系固書 一一( 10ト ー
雨入共惇不詳O
益一−房常闇房競日在俗名太郎重政日蓮令兄一宮云此説難信安房妙蓮寺歴代也O
青濯、明心、質成、商発、国語、間信、聖密等各停不詳也 ム聖誕十七年暦仁三年是性房準長鎌倉遊串ー
ほ
撚
ハ
暁
川
h峰 崎 湯 悌 海 ∼ 什 一 | 弟 子 六 名 分 = 六 根 −O
﹁然阿良忠、持土宗鎮西減第四姐論競記主蹄師 鎌倉佐介ヶ谷天昭一山光明寺談林能化職︵統和、啓蒙等︶然=此年末 Z レ 有 光 明 寺 − 可 b 諸 陀 悌 ト 一 五 正冶元年七月二十七日石見聞二附症生弘安十年七月六日遷化京O
大阿鎌倉霧グ樫妙見住博紀不詳牲阿揮陀備叉大阿捕陀悌ト云貞永元年頃北傑泰時=献言ジ一プ和賀江島チ築1
0
領家尼︵名越厄︶御研串中宿所安房同長狭郡東住郷傾家日屯上人ト血総有リ︵光日房抄︶ 池 嶋 崎 伸 一1
泰 時 一l
光時︵越後守入選進知被 v流 ヱ 伊 豆 − ︶ 一 一 一 一 一 蹴 吾 一l
朝時蒜慧議官︶し|時章︵明埠頭録九年二月︶|一会時︵桟詩碑︶o r
芸 名 越 尼 右 剤 師 蜘 糊 信 号 司 往 ︶ ︶ 一 念阿、念阿捕念阿捕 一一( ! 1 )ーー0
一新尼御前名越尼御前ト云駿河岡官=大厄同共ス A 事誕二十二年寛一冗元年叡山遊撃 一 | 経 海70l
政海 俊 範 ︵ 恵 心 流 ︶ 桐 生 流 | 一 | 静 明 1 心 賀 | 一 | 心 聴70l
信隼l
釦 一
海
−l
蓮長︵譜、孜、統紀、扶、高姐博、事典鮮林︶ 恵心流l
一 一 | 永 隼 丁 液 異 ︵ 賓 地 房 流 ︶l
一 楠 那 流 | 一 ﹁ 宗 源O
俊範︵作鍵︶山門探題三塔皐頭、大借都、大和症法師︵或坂本法師︶東塔無動寺西ヶ谷南勝房住O
永掌技山事情任借都探題O
静明栗田口法印営時盛=技山=於テ講経手陣久三年任市都O
宗源竹中法印常時事匠被叙法印正元元年四月勅願三十講証義者也O
心賀寛元元年生ル草人整山翌年叡山無動寺常禦院法師也O
掌 海 建 長 五 年 上 総 P 生ル武洲仙波喜多院中興泉繭寺二世永仁四年叙常正 ム事誕二十五年寛元四年京都遊皐O
道元︵曹洞艦︶京都人営時庇深草誰蹴承陽大師寛一五元年永平寺建立建長五年入月二十八日五十四歳寂 。国爾静岡︵臨湾施︶東繭寺第一加型一岡師.稲荷山傍居 z普門寺司建仁五年十月十五日駿何闘薬科生J
弘 安 三 年十月十七日七十九歳寂O
道隆競蘭漢宋岡人鎌倉建長寺姐.大畳蹄師、京都泉揃寺来迎院住弘安元年七月二十四日死 ム墨誕二十七年賀治二年O
江川太郎左衛門吉久競 a日 久 − 在 = 泉 洲 岡 府 − 後 宅 = 手 伊 豆 田 ︵ 統 組 ︶ 或説江川右衛門大郎英親︵是依=家系−︶大和岡字智郡宇野郷住更詳 ム事誕三十年建長三年O
真康法師東寺法華堂嘗別賞職︵今成就山法華寺也 ν 弘 安 四 年 春 身 延 参 拝 接 = 事 化 目O
藤原娼家︵冷泉家定家子︶績経撰集積古−今集撰者建前元年五月朔日夜O
天 王 寺 屋 掲 げ 本 1 弘安三年九月十一日渡 | | ’T
O
l
遁妙︵本蓮寺建立現今妙尭寺也︶ 妻 妙 蓮O
大串三郎能本一比企龍員子︶本巧︵行︶院日串弘安九年八月八十五践卒︵或文臆年中入信云︶ 一一(日)一一ム事誕三十二年建長五年四月 。束保左衛門景信︵蓮如 H ︶ 安 房 聞 東 幌 地 一 肌 念 悌 信 者 也 。一|権顕太郎伊勢人房洲平郡泉保陶無谷住成就山一秒一蹴
O
﹁ 次 郎 三 郎 寺 日 念 上 人 開 基 也0
日照上人大和守枯時養子近衛大臣乗純猶子、印東一柿照第三子嘉踊二年下飽闘能子生玉津法華経寺閉山静 阿閑梨叉山大和阿閑梨ト稿ス山子庇俳税不純院型誕三十三年春正月十四歳入室︵譜巧、各十二月入室︶統紀 元享三年三月二十六日一百三歳寂 新 羅 一 一 一 郎 義 光 : : 印 東 次 郎 左 衛 門 白 川 山 枯 照 ︵ 下 総 海 上 郡 能 子 傾 主 又 云 葛 飾 郡 卒 賀 ︶ | 一四
摩
川
直
山
川
市
川
I
I
l
l −
川
川
川
ハ
川
ハ
ハ
川
ハ
ハ
川
ハ
ハ
川
川
川
口
0
一
ll 日 知 御 前 ︵ 池 上 左 衛 門 大 夫 康 光 妻 ︶ 一 い 綜 一 附 下卯束三郎兵衛尉︵左衛門尉︶耐信!日一柿︵批判砧始隼海弟子也︶ 丁目照O
−
l
妙 一 尼 ︵ 妙 朗 尼 ︶ ハ ハ 什 川 ! 古 群 麿 ︵ 日 間 ︶ 初 嫁 一 楓 有 悶 | | |j
下 経 一 麿 ︵ 日 像 ︶ ・次掠左近勝監忠治||﹁女︵池上兵衛志妻︶ ム塞誕三十三年建長六年 。日朗上人筑後公大関阿関梨下総猿品郡能子源次郎有岡ノ子也平賀本土寺閉山比企、池上雨山玉虫ス元臆二年 正月二十一日喜七十八歳化師孝第一也 桟敷尼︵抄常日柴︶文永十一年十一月十二日八十八歳死桟敷者地名也今鎌倉常築寺所在地也 。妙一尼 一一( 13)一一法 然 ! 九 品 寺 長 西 ︵ 畳 妙 ︶ 受 博 士 宗 ! 一 一忠岡叡隼︵南都西大寺︶受具足戒|一 一
I
I
l
l
i
− − −l
i
l
i
− − !i
I
l
l
i
− − 己 下 浄 光 明 寺 。﹁﹁新善先寺別営道敬︵稗道阿捕陀悌︶|一性仙!蓮謹l
行悟−
同
快
晴
川
崎
ゆ
い
一
。一!大納言貯正隆弊法師競如意寺叉云聖書寺殿鎌倉鶴岡八幡宮別賞寺門流事者也弘安六年八月十五日七十 八歳寂 定 一 恭 ︵ 事 ︶ 居 勝 長 書 院 ︵ 廃 搾 流 ︶ | 一 一一(14)一一
一官賢︵小野三賀院流︶受拠頂l
一O
﹁ 副 即 配 劃 配 向 i 小野流定清方開組O
喜一澗寺悲願房朗巷惇不詳 。一!宮木五郎左衛門尉胤能常忍日常披堂修院下線若宮巴主正安元年三月二十日年八十歳寂中山法華経寺第 一二代也 一 一 | 伊 預 阿 閤 梨 日 頂 ﹁女房御前妙常日妙︶|丁寂仙房日泣 ﹁乙御前 一 | 解 四 郎 左 衛 門 。 一l
合谷二郎兵衛尉入道教信I
l
l
1
一7
山城入道道崇直秀 一 妻 ︵ 下 線 大 野 右 衛 門 大 夫 吉 情 女 ︶ ! 一 一l
日進 一 ﹁ 梅 菊 女 ト 兄 弟 也 一 一 一 | 日 源 下下線東高飾郡曾谷住︵又作蒋谷︶正臆四年五月一日寂 名目躍字法遺伝 T 八十有飴歳O
一 ! 大 準 阿 閣 梨 房O
一i
一 一 一 位 房 日 行 。 一l
持蓮房下線金原大宮別常被銭法橋改名金原法橋︵譜、巧、存 L 疑 ︶ ︵ 組 書 証 議 論 ノ ︶ 三 善 春 康 入 選 善 信l
太田氏部少輔康連l
︵ 別 営 備 姐 統 紀 ︶ 源 三 位 頼 政 ︵ 末 葉 ︶l
01
太田五郎左衛門乗明結城入道父云妙日正中山本抄寺建立弘安六年四月二十六日 H 七十六歳入寂 一ー妻境妙庵目録云道野連右京ノ子大野吉清ノ女也云云又統紀云富木五郎ノ姉也云云字妙蓮名恒女也 戸 | 日 什 ︵ 妙 浦 寺 ︶ 太田乗明ノ子一 。 帥 阿 悶 梨 日 一 品 1 丁 目 親 ︵ 本 法 寺 ︶ ﹁ 日 砧 ︵ 頂 妙 寺 ︶ 稲伊質問閣梨中山第三代正和三年五十六歳蹄寂O
北保相模守執構時頼建長寺建立主 。一|北候重時蓮署極楽寺建立主 一 1 受 法 一 於 熱 原 法 難 宗 祖 − − 一 蹴 ス 落 馬 而 死 云 7 一 一 法然善恵房澄宰!宗観︵又云修硯︶ ム事誕三十五年建長入年︵康元元年︶ 藤原鎌足::中務顧員︵江馬朝時臣事稽頼山建長五年三月二十八日卒︶l
一0
1
四燥左衛門尉金吾頼恭﹂通稽三郎O
一1 月制御前舟=頼道ノ寝−文保元年十二月十五日逝年四十七歳法税法建日妙 。 一i
日若御前上野氏︵市保︶息鰍更考 令室日限女|↑嘉元元年寂 名越家江馬越後入道地時子四郎親時仕事入選牧玄院日顧甲州内般村隠居正安二年三月十五日寂毒七十三議一ー(
15)一一
蹄寂事典酔林一七五二頁 。進士太郎善春江馬家臣惇不詳 工藤氏部大崎小四郎行光子|一 。円到配剖剖耐割問川副剣剛隆︵刑部阿陶梨抄隆寺建立後改銃羽山寺正安元年九月一日蹄寂︶ 室
i
l
l
i
t
− − 1 1 1 1一
姓平氏妙隆院目玉上人文永一克年十一月十一日死 。推地問郎鎌倉武人体不詳夏考 清 和 天 皇 : ・ ・ 南 部 光 行 三 男 一 或 云 六 男 ︶1
一色
判
制
副
司
割
引
っ
l
i
l
i
− − 丁長義︵初切氏租︶遠野城主 下次郎官能護良親王随従元弘二年十二月十三日年五十六歳京都六保河原被切 一 | 祐 光 ︵ 捕 三 郎 ︶ 甲お波木井郷地頭永仁五年九月二十五日年七十六歳蹄寂O
三郎兵衛尉波木井門家一放停不詳 藤原忠卒|九代目l
地土左衛門大夫︵池上藤兵衛尉康充鰍極楽寺良観信者也︶代々住京都大工名匠也建久一冗 年 生 以 長 ︵ 安 y 設 欺 ︶ 二 年 ︵ 或 云 三 年 一 六 月 十 六 日 死i
一 の一仙パ判制倒附刻刻剥剖剛︵捌釧町割弱州副創出副司 一武蔵凶荏原郡千京都池上住弘安六年九月十三日七十一歳寂朗賢院日宗居士O
丁 兵 衛 志 栴 ε藤七郎−永仁元年卒子孫足利氏奉仕 一 i 妻日如御前平賀忠治女云日妙尼O
荏原左衛門義宗︵武州在以郡中延郷住︶|朗慶︵越中阿闘梨朗門九鳳二八幡山法蓮寺岡山︶ 一一(lG)一一。高橋六郎兵衛入道︵事密房︶駿州賀島住寂年未詳
o h
北
嶋
崎
川
ハ
一
一 ! 泰 時l
むl
時 相 ︵ 最 明 寺 入 道 ︶1
時宗 丁 重 時 ︵ 極 集 寺 入 道 観 畳 ︶l
長 時 執 椎 ト ナ W 一i
政 村 連 署 ト ナ U F ム聖誕三十七年正嘉二年 。撫藤捕三郎利安妙究︵叉云法抄︶綾州沼津住人絹松山妙畳寺建立 。山本一揖三郎重安駿州沼津住人入大龍王守護山妙海寺建立︵中老 H 貨 閉 山 ︶O
豊 前 公 ︵ 石 本 日 仲 上 人 ︶l
− 。 円 川 州 制 劃 胤 舵 劇 紅 刷 ︵ 豊 前 公 或 一 五 賢 秀 房 ︶ 岩 本 質 相 寺 町 串 一 回 也 正 和 四 年 九 月 十 一 一 百 寂O
尾 張 阿 閣 梨 法 敵 陣 不 詳 宜 相 寺 住 。院選・究相寺院主也博不詳O
行 智 瀧 泉 寺 主 也 停 不 詳 一 高 橋 入 選 ︵ 駿 易 住 ︶ 1 一 。﹁下野房日秀元瀧泉寺山中頭藻原山第二世常在院︵賜後醍醐帝︶妙踊寺閉山建武年中寂︵或元徳元年版日 興 弟 チ ト 云 ︶O
丹 波 房 中 老 借 上 一 組 ノ 人 初 興 師 資 事 後 向 師 = 就 グ 藻 原 日 宗 ト 同 人 也 ト ︵ 可 疑 夏 詳 ︶O
越後房日排、少輔房日蹄︵後離散︶、三河房頼閤等瀧泉寺住 北保時政::市保新左衛門尉頼員I
一o h
u
島 劃 罰 則 川 割 引 っ 出 且 州 南 保 又 A 駿 州 上 野 − 共 浪O
妻 妙 法 尼 ︵ 松 野 六 郎 女 ︶ll
二年不明文永二年逝去ト頁考 一一( I 7) 一
。 一
i
府保七郎次郎時光 。﹁一一郎五郎法名行忠弘安三年九月五吋十六歳設O
南保九郎太郎上野氏一族惇紀末詳 ム事誕三十九年文膝元年 。秋元︵本︶太郎兵衛尉藤原勝元︵後稿太郎左衛門尉︶下線闘印幡郡白井症富木氏ト逼捌・也正臆四年九月十七 日 寂 法 名 常 法 栗 田 闘 白 遺 品 米 八 世 ノ 孫 | 一 | 泰 網 一 | 勝 元 ︵ 秋 元 太 郎 鰍 ︶ ﹁ 泰 業 ︵ 秋 元 氏 始 稿 ︶ l 一﹁O
へ 今 ノ 秋 元 子 爵 川 也 ︶ 。宿屋︵谷︶左衛門入選光則法名最信北慌時頼、時宗近侍後安岡論取次者後日朗 z 蹄伏光則寺建立 大井荏司入道||一甲州鰍探邑主︵或信州大井領主︶ ︵ 妻 河 合λ
道 女 ︶ | 一 ﹂ : : 妙 一 臓 尼O
一|白運阿闇梨伯者房日興甲斐公寛元四年三月八日生岩本質相寺股器=皐ス正慶二年二月七日年八十八鼠 −寂官土本門寺大石寺閉山也 一l
橘三郎光房 − | 天 折 弟 子 寂 日 房 日 華 ︵ 鰍 禅 蓮 華 寺 山 地 立 ︶ 日 傘 ︵ 三 十 六 寺 改 宗 ︶ 伊 務 削 閥 梨 日 代 、 寂 仙 房 日 澄 ︵ 頂 削 官 弟 ︶ 弊 公 日 選 、 式部会日妙、待従公日去、大迫公日助等有リO
日朗︵前述︶弟子胞 A H 阿閑梨日像、大経阿閤梨日輪、大法阿閤梨日善、大国阿闘梨日体、大善阿閣梨日範 摩詞一阿閤梨日印、大乗阿閥梨日液妙音阿閣梨日行、越中阿閣梨朗慶巳上朗円九鳳 。熊王四郎給仕下人体未詳 法名大行正慶元年五月一日師説 許 嫁 妻 ︵ 石 河 兵 衛 入 道 孫 三 郎 源 能 忠 ノ 女 ︶ 重 須 地 一 以 型 典 林 − 一 五 四 九 一一(18)一一O
首題房日唱宮本氏家臣始滞士宗也競鏡阿摘 。吉田益行武臓川品田ノ紳官O
吉田粂盆京都ノ人常時有名t
紳職也 ム聖誕四十年弘長元年伊豆伊東流難 義時!重時l
一 ︵ 栂 楽 寺 建 立 主 叡 唯 受 戒 栴 観 畳 ︶O
円相側副剛|陸奥ノ四郎法名惑阿文永元年八月寂 北保政村︵連岩︶ト共ュ張本人也 。船守捕三郎栴上以捕四郎伊豆川奈ノ住人也 。伊東八郎︵四郎︶左衛門朝高︵工藤八郎︶遠州油鹿住人建治元年三月十五日本 T 妙法華院日謀、五十一歳寂︵注高 讃宮家宗旨名目、年譜孜異等︶伊豆伊東管理者鰍又祐光ノ後継者鰍更詳 一 | 妙 一 尼 又 排 股 尼 ︵ 日 照 時 ︶ 左大臣武知腔|︵十七代目︶工藤祐経|大和守枯時|一O
﹁
川
引
蹴
耐
劃
川
1
1
1
川
川
ハ
ハ
U
i
l
l
l
i
− − − − 一 | 後 藤 基 綱 | 女 三 川 内 待l
妻
﹁加賀法印定清 従五位下信濃守伊一且地一成也念悌異言信者而後日向岡歪リ金剛山祐光守建立法名道加年五十四歳波去此人蹄 伏 ト ハ 難 信 更 群 。明性房伊一旦住天台一帯借后舟門下停不詳O
但馬公日采朝高ノ胤族也停不詳︵己下次披︶ 文永十年五月一日八十八歳逝去 一一(1 g)一一日蓮聖人の宗教乞一債値的批判
城
瑞
光
時代の進歩は l ︿ 市 吋F
2
2
5
日吉なり、奮套の因襲を破限して人類共存への開放は一耐祉の烏に枇曾闘係の規 律令肝究して健全なる枇合的要素の礎遣を促して居るのである、従来枇合同皐的研究の失敗は科皐の蹄納綜 A 口 なる哲皐的基礎の閑却に因る、劇烈なる生存競争に於て敗残者ごなるのは不徹底な粧台組織に依るのである、 プ y d ジヨアから見た吐舎は吋2
5
r
g
町長︵睡眠時酪町状態︶な戚がゐる事ご思ふ、人生の本質、生活の債値 ・::鳴呼我等は何慮にか安住慮を求めるのであらふ、科皐は賞理哲準へ而して完成せる貫生活の内容に、純 真の生命の焔に燃て微妙のメロデ 4 を聴︿時純にして清高なる世界は創造されるのである O 愚鈍閤冥なb
し原始時代に於て未だ多︿の経験を有せ。さりし人間の頭悩に自然界の現象は恐旧民疑惑の影を 投げた、幼稚ながら世界の原質を哲串的問題さして政究した彼等は戚性より悟性へ、理性の衝動は無限の欲 求に向びて巳性の特徴を接揮して論理的に組織的に統一的性情に原いて之を説明せんごしたのである、換言 すれば枇合的組織の複雑さは部分的及び統一的解稗によって自然的に科串哲皐の殺生ごなり典へられただり の形の上では満足は出来な︿て賞在を認識し、理想を現寅化そうごごした要求は漸次科串哲畢の諸問題を惹 起し字宵寓物の成生を明瞭ならしめんざしたのである O 箇性の接輝が科串的智識 J ﹂なれば吾人の客調的事象ω
部分的研究ごなり其の考察は謹明言なって字哲森羅 三千の本体を A H 理的に説明する事になる、然し乍ら人聞の欲求は真善美の理想境にゐる、本能的満足か充溢 一一{~o )一一するものなれば智識の及ばグる穂合的問題即も経験か超越した根本的の原則を思惟し観察する事が能る其は 哲串の頭分でゐる、慨に科皐者が断えざる批判さ絶えぎる疑問さを以て研究しても材料は無査である、故に 彼等は不断の努力に於てのみ彼自身の生命を見出すのである、然し冷性なる理性にのみ其の生涯を委ぬるな らば余りに寂英であち無趣味ではないか、暖き自然界の微妙なる働を体顕する時宗教的情操の春の芽生えは 訪れる事であらふ、凡て人間ごしては轟く哲串的問題を有する以上詩歌の一音楽に或は又勢働に人間味を味識 する事ができるのである、近世の大科撃者ア 4 ザ 吋 ’ ク 、 二 市 ノ ト ン ︵
H E
N
−F
Z
2
g
= 一 い い 一
Jh 一 ︶ も 宇 宙 を 諮 っ た 神 の 力企讃嘆して居る、若しも科目牢的智識に於げる枇曾槻ならは極めて偏重であり頗る狭義でゐる、ニクトンの 宇宙引力説は敷島 T J ﹂力皐ごを以て天体の複雑な運動を解結し、兆の本性に就ても微粒子説さへも唱えたので あるが、科皐の世界は繊細な散問の寵児を養ひっ、あるから、此のユクトンの設をば根底から改造したアシ ジ ユ タ 4 ・J さ云ふ二十世期の産んだ寵児がある、彼は吾人の認める宇宙の時空は有限であるさし機械的論誼 で宇宙の噴きは直経三鏡光年の範閏を出ないさ断定したのであるo
宇宙は既に相針的であるご接見した彼は 物質のみの串者であるさ見る時は未だ彼の人生観ぞ満足に表現したさは云えないのである‘彼の根本問題は 吾人の認識問題の全線に解れてゐるのである、其れは四次宰問の曲線の交り即も物ご物 J この直接交渉の時其 れ自身絶封であるごし其れは時宰に依るものでない、即ち吾人の直接経験は物理的法則であち絶待の存在で ある、座標の相劃闘係によって消失するもので無いざしたのである、相針性原理の説明は専門家に譲るごし て ア 4 ン ジ ユ タ イ ン の 場 合 、 ﹂ ア カ U F ト のC
− m E 2 m c E E ︵ 五 日 思 故 吾 在 ︶ の 絶 針 の 存 在 は 誰 も 谷 口 定 し 得 ぬ 異 理 ごした如︵アインジユタイシの絶針存在も誰も否定し得ぬ筈である o 然し科皐の使命は何等かの座棋を持っ て居る限り、其れ自身の債値を相劃性の上に所有してゐるのでゐる、今は吾人の直接経験による絶劃其のも のは濁り宗教さ謹術さの世界でなげればならぬ、而込彼自身の内的生活は至ってほ情的生活の基調に立って ゐる事は、希臓の悲劇詩ソプオク V スの詩篇中でアシチゴシ去が叫んだ告白を彼の生活ごしてゐる勤でも解 るのである、彼等科皐者も其の目的は現象界さ本体界さの研究を一括して、債値 J﹂議論的研究さに於て綿合統一し矛盾の無い世界観人生観を作り出さうましたのである、此境涯は宗教事術の舞惑である O 世曾の進歩は科串的分折解剖によりて部分的智識を得るさも、之伝統一的原理によりて一大活力の接現を せねばならぬ、然ば此の一大活力さは何ぞご云ふに、哲場ご科問中ごを抱容して完全せる枇合的生活の所謂文化 的批曾を提出する要素である、此の要素ごは健杢なる宗教の信仰である、何程精密なる科皐研究も、深遠なる 思想哲理でも賓際的に無償値なものが多い、其れは一九日人の生活じ於て無意識的り場合に微妙なる作用で冷細 なる印象或は其れに依って刺戟ぞ受けて働︿戚情、之等は巌正なる智識の所定公肯定しない I 事がある、言は ぱ死者に封する智的解秤は生理的に枯死したもの亡するが、一般戚情の上からは哲皐的見解を超越して蓮減 無常の観念から同情哀愁或は頓悟直畳を体現今る事.かある、人生の複雑なる哲感に於ては到底解決する事が 能ない、従って何物か力強い救済に揖取されねばならぬ、而して自己の安会を保誼する事を熱望するのであ る、此の宗教意識の後現は理想の賀行ご表れ自己¢行路を照すに智識を以てするに到るのでゐる、即も此の 信仰の封照たる抽仰の存在を認識し歎美掲仰する精神が人生の挟陥を厭忌して宇宙の根底蹄趣に組る戚情が宗 教の欲求ごなるのである O 一一(22)一一
日蓮聖への伝仰へ
畏縮!苦悩!の反響は絶封威力に劃する信輔さなh
信頼は歓喜の精紳ごなった小我の自己は大我の生命仁 抱括されて、技に偉大なる債値の生活、換言すれぽ人間が自己生命の源泉に慣れて人性の中に紳性を接揮す る精神蹴態即も霊格的人格ごなる事でゐるo
然し此の宗教意識の定義は従来不同であったが、紳を畏敬し信 順して之に伴ふ道徳を官行する戚情を根本ごした所は同様でゐる、但し此の絶封依岡山に封する方法に主客の 二観である、身膿機制を支配し戚情を養ふ行法ごなって現れる事は一律でゐるが、他力的宗救即ち身醐胞は偲 現でゐる本躍世界の生活こそ瑚想の世界である三枇曾生活の意義を非定する客観的宗教もあれば、冥 A H や神 秘統一の内戚性を自己身膿に賞現する主観的信仰もゐる、要するに宗教心の接現は自己以上の偉大なる力仁よって自己の不滅を如賞にするのが目的である、次に起る問題に必然的仁宗散の選揮で∼ふ事でゐる、思想風 教を呉仁した民裁は都て同一なる信仰を持つ事は困難でゐるが同一宗教仁統一される可能性は確にあるべき である、世界の二大宗教たる偽耶ニ散の比較じ於て既に明かでゐる.基散の本質は紳に絶劃信頼する他力散 でゐる、偶数でも教義が庚汎な魚に他力の義分もゐるが、線じて梓容の究兎誼信即も凡備ア如の意識紋態を 宗教の生命ごするからじは自力数でゐる、然し貨際に於て枇合会館の根本宗激は自他何ぞご云ふ重大問題に 及ぶのである、総忙文化生活の規範を確定する事になる、故に其の信仰の樟解を根本的にする事が必要であ る、信仰の意義は極めて康義であるが、其の本質は宗教上の信仰仁ゐるは言セ侠たぬのである、心理事者の タ エ
1
ム λ は理論的不安の一一切掃蕩された心的猷態ご云ってゐる、猶哲郎 T 軒書じ載せた三義を見れば、 A 賓 在 の 直 接 認 識 B 吾人の認識を超越する絶針若︿は超越世界に闘する直接認識 C 理論的説明の不可能なる原田の直視 此の三義は信仰の定義の諸説でゐるが、之を総合した原則を作れば羽賞を超越した活力のゐる貰在の認識 でゐる、従来信仰の基調は戚情にあb
J
﹂思考されたが完全の信仰は智情意の三要素よら成立されるもので智 情意令躍の合理的活動でゐ φ 、科皐哲皐に劃しては域情が中心ごなるごも宗拭其れ自身じあっては真善美の 一二要素が閤硝に活動して宗教の本義を謹すのでゐる、之等信仰中に於ても前遮の如︿比較的知日的方面が多分 に含蓄される自力教もゐb
、情的方面の勝れた他力敢もゐる、然し自他二教が統一されて矛盾のない世界及 び人生が創造されるならば異の宗教の憤値が定るのでゐる、ォ 4 ケンの宗致に劃する出費描は、人生仁於け る烈しき矛盾の戚三人心の要求、こ現貫ごの衝突の戚ごであるご云ふ見解も此の真理を物語るものである、若 し此の矛盾さ衝突さを避けしめ融和 J﹄光明ごを按︿るものが有るごすれば前述の如︵閤捕なる解結を見るの である、車日運の哲間的宗教の信仰は本位世界を本備の生命全憶さし之を認識し渦仰する時は迷情の凡夫は 既に本備の妙智を膿得して境賞世界は本艦世界さなる之を備陀の究露的誼信たる事の一念三千三橋するので 一一(幻)一一ある、此の超越世界を現質化する信仰は人格完成の活力たる五玄具足の題目に依
b
て貫現されるのでゐる、 此の時主客二観即も自他力の信窓は綜合統一されて現質化し其の繭昔も巳利的に限ら十枇曾的ごなって債値 的生活を賀説し人生本来の欲求たる文化的生活を臨開削されたのが吾日蓮謹人の宗散である O 1 ・ ‘ . . ‘ ... 、 ‘ . ‘ ‘ 司 、 . ‘ 、 ‘ 司 、 . 昌 、 ‘ . . 、 ‘ . 5 E ・ ‘ . 晶 、 ‘ ‘ ‘ 、 , ‘ ・ a ‘e w − ﹃ . 耳 、 、 ‘ 会 室 持 、 . 島 、 . . ‘ . E 司 、 . . . ‘ ‘ ‘ ‘ . ‘ ・ ・ ・ ・ ー信
仰
の
寸
心
セ
改
め
よ
士 山 山村
戸ιE 呈H
告
一一(
24)
一
一
ー
立正安岡論を緒︿時、其の終 h 誘法針治の催促を結する一段に此の語を拝し得らる、。吾人が信仰に生き ねばならぬこさは、古︵して而かも新らしい問題でゐる、何れの困何れの慮に於ても、信仰を無踊して生き んさするものあb
させば、由々敷一大事さ云はねばなら晶、何さなれば宗教は吾人の生活上に於りる闘係が 極めて大であるさ云ふよちも、寧ろ極めて根本的であるからでゐる。此の宗敬は如何なる時代如何なる岡家 にも甚深の影響を輿へて居って、人が散人以上集まって生活を共−ドする其慮には、自然的必然的に宗教は存 荘せねばならぬのである、故に之を無頑せんざしても許きない、さ云ふよりも自ら無視し描棄し得ない先天 的約束そ持も来って来るo
元来吾人は扱々の韓さ共にそれが人でゐる限b
、宗敬心を附典され之を包蔵して居るのでゐるo
寸心の語 は列子の﹁暗吾れ子が心を見る仁方寸の地虚1
央﹂ごゐる此等から出て居るが、此の寸心の中には善、謡、無 記の悉︿が識せられて一つも欠りでは居らぬ、枇曾組織の要素も破壊の素因も、而して世界の耳目を驚かす 何ものをも持って居る、さ問時じ宗敬心を欠いて居るものはない筈である、然るじ此の宗教心が総ての事業 に生命ゐらL
め意義あらしめんざして、心の奥底に躍動して居るに拘ら今、之が吾人生活上仁直接闘係なきものごして、之を疎外し甚しきはは毛視して顧みない﹁人の人格、闘の目的組ての事業の魚には、宗教の必 要を認めない、唯た各自の努力によ
b
てのみ成L
逮げ得らる、﹂さ思惟するこさが、一般的思潮ではあるまし
ヵ
。
此の努力!異撃の態度に於てなす努力日こはそも何ものが費すであら,フ、事業に向って忠賞宅ゐる乙亡は 吾人が先天的に附典された宗教心の接動ではないか、此の信念を欠いた一事業に果して幾千の功果を牧め符 や3
、此人がなす線ては軽薄であb
、姑息であり、偽善であり、浦縫である、斯の知︿信念を欠きて事業を 果さんざする人のみの吐曾は、還に共の向上は阻止され、罪悪のみに充たきれて、信 A γ る慮は唯だ拝金の一 途にして、行ふ慮は唯だ詐識陰謀のみざなり、絡に救ふぺからゴるに至る、枇曾組織の要素は斯の如き人に よりて根底から漬へされるのでゐる、知何に世は漉季さはへ痛嘆の極みではないか。 然るに今設に宗孜心の喚起に目醒るものがあって、心の奥に動︿信念を助長せしめんごしても、吾人の心 霊を戚化する宗教其ものに、正しきものさ然ら。さるものさがあるこ Z に気付かねばならぬ、即も吾人は如何 なる宗教に依って慮世の極致こなす一へきか?此の一事には充分の思考を要す J べきである o 蓋し正しから5
る 宗教に依って信念の輩固を期し、事業に生命あらしめんさするこさは、伶か弘雅致ある盆栽に毒水を摺内、、仁 も似て、註に−大錯誤を来たし、還に防過し難き快陥を生じて、其の完成を期するこごは到底不可能であら う、故に吾人が最も異撃に考究せねばならぬこさは宗教其もの、正否如何である! 個人ごして安心立命をなさんざする上に、若し個人が祉品目を離れたものごする、否な枇曾を離れしむる宗 教ゐb
ごせば、之を以て宗教の正しきものさは云ひ得ない、何さなれと吾人は現貨の人生営章重するもので あり、進んで異の岡家の存立を理想ざするものであるからである O 若し文人生会以て夢幻的に観じて、厭世 悲観主義を鼓吹する宗敢ありさせば、之れ亦た宗教の正しいものではない、現賞を悲観するものは、人生を して意気を鮪沈せしめ、此をして意義ゐるしめ今、矯めに竪買なる岡家枇曾を形成せしなるとご不可能の故 である、或は叉現貨をのみ重視して、永久を説︿に疎き、或は未来にのみ憧れて現賞を軽楓するもの等、亦 一一(25)一一た以て正しさを失ふ宗教であるご云大ょう
o
単なる現貫主義、単なる未来主義は共の是非は暫︷措き、斯る 主義は現質的文明の上に稜達力を減歩るこごは明でゐる、今設に此の雨夫を退りて理想ご現賞 J ﹂ を 調 和 し 、 永久さ人生ごを結合せしめて、適蛍なる信念を奥ふる正しき宗設がゐる、日蓮華人によりて唱導せられた、 法華艇の教がそれでゐる O 事姐の見た法華料の教が、吾人の心底に動きつ、ゐる宗教心を如何に癒動せしめ特らる、か、先右之金純 文の上に見ゃうo
第七巻には人生を笠重して 1 我れ敢て放等金軽しめ十故等皆な賞式、じ作仰すぺきが故に L J ﹂ゐる第六在に は﹁資生産業皆な正法に順守﹂ J﹂其の生活ご法華経の信仰之の一致を説いてある、之れ一切をして現想生活 ならしめたので、此の理想し生き得らる、人生なるが故に隼貴なのである、即も吾人をして一たが高遠の哩 想に上らレめ、而かも立ち飯h
て現賓の人生の怜重すぺき所以を知らしU
. べ ︿ 明 示 さ れ て ゐ るo
出耶の生め る韓迦は生死無常の世に常住不滅を悟りて無始無終の一大生命を特、此の安きこ J ﹂なき三界の火宅に於て、 而かち能︿林野に安慮するこ乏を特られた、如来の安庭の一切の安慮であh
、其の不滅は一切の不滅であら ねはならぬ、即も吾人じ於て安慮せんごし減せぎらんさせば、なし能ふ不可能性ゐるこどを示されたのでゐ る、的陀の一切は吾人の一切である、書人吉備陀 J﹂何れに異りが有らう O 之を型組の垂訓に拝すれば、 遁減無常 ρ 昨日ノ夢菩提の魔悟 ρ 今日ノ癌ナ U F ぺ ジ さ妙旨驚くぺきではなレか、法華経信仰の上に人生を達観すれば、無常は昨日の一夢 J﹂消え、今日は苦提に 夢醒めて、現賓の人生に意義を生じ根底を得て、誌に人格の完成ぞ見、やかでは岡家枇曾の安定さなh
て 、 所説賀士の賓視を見るに至らん乙ごは、然ら十や大地を的であらうo
設 早 グ 改 ザ プ 信 仰 、 寸 心 ↓ 速 一 − 販 一 古 賀 采 ノ 一 善 一 然 ハ 則 チ 三 界 ハ 皆 備 凶 也 悌 闘 其 ノ 表 手 投 十 方 ハ 悉 グ 賀 土 也 賓 土 何d
で ャ
闘 = 無 芝 草 倣 − 土 − − 無 守 破 壊 − 身 内 是 安 杢3
心 内 是 レ 騨 定 ナ ヲ v 此詞此言可 U 信 ス 可 w 崇 ム 央 一一C:
r
n
)一一さ正しからざる宗敢に劃するが故じ一審さ云ふ、一の艶待的なるとごを意義あらしめ、岡家をして傭圃土た らしなるこごはなし得なヤ、五日人か其の目的事業に着賞にして、遺仁一世曾を堅官ならしむるご否ごは、金︿ 之に恒常し此の信念じ住するご否さに存する O 今此ノ裟婆世界 A 離 三 ニ 災 −
m M
ル 四 劫 ↓ 常 住 ノ 津 土 ナ リ 備 舵 = 過 去 − − 三 小 川 減 セ 未 来 コ 宅 不z
z
t
所化以テ同排也 さは法華艇の信奉によ b て、現貰を直らに盟想境たらしめた謹姐の叫びではないか、ご同時に一面に於て此 の生悌一如陣織不二の大理想の貰現は、此の現貨の人生を離れて成立せざるこごを示されたものご奔し得ら る、のである O 今や世は先づ現宜ご開想、この調和ゐる、そして人生に飯着を典ふる法華料に基含、心底の宗教心を躍動せ しめて、現在成仰の平和境に達し、及び未来永誌の一大生命を戚受して、人類の使命を呆すぺ︿、直もに信 仰寸心を改めねばならぬ、これ無からんか現代は絡に亡びるであろう 0 ︵ 絡 ︶念悌思想史
w
h
謝する余の管見
ー←(27 )一一 市品島
瑞
岳
序
=コ i:.:t 欧洲戟守後、線ての諸問題は、世界的ご成って来た o そして、平和の聾は、風の鹿︿様に博へられて来た 突如ごL
て、提唱された、クヱ W ス氏の、陛川介凶の建設論の知きは、買に其の顕著なるものであらうo
然し其の平和の裏而には、何物か精神的に、根底を典へるものがゐる様に忠はれた。ぞれは親鷲上人の思想であった O そして親鷲上人の敬義思想が最も一遍照光明に時代的思潮に散し、 に慰安を典へて宜博されてゐるではないか。 然し自分は如何にしても附に落もない O それは宇宙大平和
ω
質現は悌殺の異随たる法華経主義即ち日連主 義に依らな︵てはならぬご信じたからである O 如説修行勧に。天下高民諸乗一一側提ざなって、妙法調 h J 、繁冒せん時の国民一同に、南無妙法蓮華経さ唱 へ奉らば、吹︵風を意を鳴らさ十、雨っち︿れを砕か歩、世は義農の世 J ﹂ なb
て、今生には不詳の災難を 排ひて長生の術を持、人法共に不老不死の理額れ時を各々御覧守よ、現世安聴の詮文不− v可 レ 有 レ 疑 じ 者 也o
f﹂ 断 壱 ら れ たo
此の現世安揺は、法華経の保誼で、又不老不死も同様法華経の明文でゐるo
即 ち 、 襲王品に日︿ O 此の程は是閲浮提の人の病の薬なり若し人病ゐらんに是の経を聞︿事を待ば、病即ち消滅 して不老不死ならん。 三番かれである、閥伴提は即、世界中の人類の病の良薬であるo
然らば世界最大の卒和的経典は、質に法華 経でゐって、日蓮主義でな︿てはならぬ O 然し是れは井中の蛙の大海を知らないも同様の我田引水論だから、一位親鷲上人の思想を研究しな︿ては な ら ぬ O そしてそれを知るには歴史的根本思想に逝って停統的に其の経路を知らねばならぬ O 根本的印度念偽忠忽の起因
印度に於げる念備思想の起悶は、何蕗から来てゐるかご一五ふさ、在来或人の識に依るご接端は大乗経典、か らださ云ふ。勿論備陀は、博士三部粧を説いて専ら稿名念備に図って安養柑土に牲生する事を敬へられたの であるから、傭説に起因してゐる事は蛍然であるo
然し阿捕陀経は、煩悩の矯めに苦しんでゐる一人の婦人 をして、慰安を典へんが矯めに設かれたのだから、悌陀の金生命ご一五ふ事は出来ない、大乗悌教が、偽陀の 異髄‘こするならば、大乗教典そのものからご云ふ事は出来ないo
何んごなれば、静土三部経は、一部分的の方便説であるからである o 帝土宗の依艇は、観無量毒艇、無量寄艇、二巻、さ阿捕経山巻ごの三部である O 印一以の龍樹菩薩、天親菩薩、支那の話連大帥、曇鷲大師、導辞耐師、善導大師、日本の演信借都、法然上人 親鷲上人等は、皆此の滞土三部経に依って、念働思想史の系統をなしてゐるのである O 一 、 龍 樹 菩 薩 ︵ 諸 峨 ︶ は 、 十 住 毘 婆 一 裟 一 論 を 著 作 さ れ た
o
それは華巌一粧の解轄の潟であったさ一至。そして偶数 を大段二種ごして、一を自力の難行道ごし。一を易行道 J﹂ し たo
前者は人生の貫修苦行の期難なる事は急抵 を歩行する様だご明し o 後者は他力本願にて往生令る事は、丁度一卒海を舶で、彼岸に達するが如きである ご 一 市 さ れ て あ る O 二 、 天 朝 菩 薩 ︵ 叩 一 段 ⋮ ︶ は 、 北 印 度 に て 出 誕 さ れ たo
往生論、持士論、等の小乗の論部を津山著作されたo
﹁ 世 品 川 ザ 我 蹄 = 命 謹 十 方 無 碍 光 如 来 − 願 生 − − 安 難 問 こ ご 菩 薩 自 力 の 信 仰 を 堂 々 ご 告 白 さ れ たo
余今此の二菩薩の思想を考察して見るに此の二菩薩は純念備思想家でゐるかを疑問せg
る を 特 な い 。 安 岡 論 新 詰 = 日 グ 、 常 日 如 グ 天 親 菩 薩 初 メ 依 ゴ 椎 敬 一 − 若 山 唯 識 論 イ 立 ゴ 五 性 各 無 性 不 成 倒 ノ 義 − 明 日 十 界 皆 成 ↓ 又 、 龍 樹 章 者 ハ 初 メ 宜 = 十 住 等 J 込 町 終 − − 若 J 智 度 論 寸 以 テ 判 − − 爾 前 法 華 ノ 優 劣 け 云 云 此の意を以て考へて見るご、二菩薩の思想は、最初は、植敬仁依って、捕陀念偽思想を主張されたが、後に 其の非なる事に気付き、賞数に依って、法華経の思想を取られたこごは、事買である O 然らば、前者の龍樹、天親ご、後者の、龍樹、天親亡、其の人格、精神に於て、益々異なら古るを併ない 内誼の迭に約したならば、津土真宗の正系統ざする事は出来ないさ思ふのである o支那念悌思想の系統
支那念仰の系統は、慧遠、曇鷲、善導等である o 三、話連大師は、道安に師事して、講説を受けた人であるo
雇山で、蓮華を池中に作って、 て同信の借俗さ共に修行された、宮代の名慣で、殊に十八賢ご構せられたのであった o 主夜六時を定めーイ
29トー
四、口増石川六師は、長命を欲して、五基山仁上りて、陶弘景仁就レて、仙艇の術を受り勝仁、荷らんごする途 中菩提流支に逢ふて、長生不死の法中仙経に勝れるものはないかさ問ふた