札幌大学総合論叢 第 42 号(2016 年 10 月)
〈論文〉
道徳教育における「人間の力を超えるもの」の扱い(上)
― 「特別の教科 道徳」における位置づけ ―
高 田 純
はじめに
1 「特別の教科」としての道徳 平成 27 年(2015 年)に小学校・中学校において『学習指導要領』(以下『要領』と略記) の部分的改定によって,それまでの「道徳」(「道徳の時間」)が「特別の教科 道徳」(文 部科学省はこれを「道徳科」と略称している)に変更され,また,内容としても「内容項目」 の部分的変更が行なわれた。本稿においては「道徳科」の4つの「視点」の1つである,「主 として生や自然,崇高なものへの関わりに関すること」に焦点を当て,平成1年版以来の 『要領』の諸問題,および平成 27 年版『要領』におけるそれらの扱いについて,中学校を 基本にして,考察したい。 『学習指導要領』は中学校にかんしては昭和 23 年,昭和 33 年,昭和 44 年,昭和 53 年, 平成 1 年,平成 10 年,平成 20 年とほぼ 10 年をおきに改訂されてきた1)。しかし,平成 27 年に異例の形で部分的に改訂が行なわれ,「道徳」(以下では道徳教育一般から区別さ れた「領域」としての道徳を「道徳」と表現する)は「特別の教科」とされた。昭和 33 年版の『要領』で「道徳」の領域が新たに設けられたが(「道徳の時間」の特設),今回 の改訂はそれに次ぐ大きな変更である。ただし,「道徳」の「内容」は4つの「視点」と, それらに従った「項目」から構成され,基本的に平成1年版以来のものが継承されている。 昭和 33 年に小学校,中学校において「道徳の時間」が特設されたさいの議論のなかで 重要な論点となったのは,第 1 に,「道徳」において扱われる内容をめぐるものである。 復古主義的な内容が児童・生徒に強制されるのではないかという懸念が表明された。第 2 に, 方法にかんする問題として,学校教育全体における道徳教育から区別し,「道徳」を固有 の「領域」として独立させることの是非をめぐるものである。高等学校においては道徳は固有の「領域」とされなかったので(現在に至るまで同様である),なぜ小・中学校にお いてあえて「道徳の時間」を特設する必要があるのかが問題とされた。 今回の『要領』の改訂において道徳が「特別の教科」とされるに至った経緯は錯綜している。 道徳教育を充実し,<強化>するために,これを「教科」に<格上げする>(道徳とは別 な名称の教科を設けることを含め)という方向は,とくに平成 12 年の「教育改革国民会議」 (総理大臣の私的な諮問機関)の報告書(「教育を変える17の提案」)以降強まった。平 成 18 年の教育基本法の改訂を経て,平成 20 年の『要領』改訂に向けた中央教育審議会に おいては道徳の教科化が話題となったが,これは見送られた。そこでの議論において,「道 徳」は教科の要件を満たさないことが明らかになった。この要件となるのは,①教科ごと の教員免許状,②教科書の使用,③数値などによる評価である。今回の改訂によって,② については検定教科書を使用し,③については数値によらず,記述による評価を行なうこ ととされたが,①は非現実的とされた。けっきょく,「道徳」は教科の要件をすべて満た すことはできなかった。このような事情のために道徳は「教科」ではなく,「特別の教科」 とされたと思われる。 このことは道徳の「教科化」を意図した人びとには後退,譲歩と受け取られるかもしれ ない。しかし,「特別の教科 道徳」(「道徳科」と略称される)に「特別の」位置を与え ることによって,たんなる教科化を超える効果をもたらす道が開かれたという解釈もある。 「道徳科」は他の教科と並立するものではなく,学校教育全体の「中核」であり,「特別の」 位置にあるというのである。 2 「道徳」の構造と基本概念 「道徳」にかんしては,その政治的,イデオロギー的な傾向性をめぐる議論が激化した。 本稿ではこのような内容についての評価をひとまず留保し,『要領』とそのための文部省・ 文部科学省の『解説』において示されている内容意味を把握することに力点をおく。『要領』 においてなにが求められているのかをまず理解しなければ,それについての立ち入った評 価も困難であるからである。 哲学,倫理学,教育学の専門的立場から見ると,『要領』と『解説』において使用され る基本的な用語や概念のなかには,意味が不明確なものが少なくない。このことは『要領』 と『解説』の内容構造にも影響を及ぼし,さらに学校現場の実践においても戸惑いや混乱 を引き起こす。今回の『要領』の改訂を方向づけた中央教育審議会答申「道徳に係る教育 課程の改善等について」(平成 26 年 10 月――以下『答申』と略記)においてもいくつか
の用語をめぐる混乱が指摘されている2)。 筆者は勤務先の大学において,「道徳教育の研究」を長年担当しており,そのなかで『要領』 についてかなりの時間を割いて,説明をおこなってきた。また,1990 年代後半から環境 倫理学,またはそれと関連して環境教育を研究のテーマとしてきた。この経験を踏まえて, 『要領』とその『解説』を読み直してみると,とくに,「主として生命や自然,崇高なもの との関わりに関すること」の部分(その基本用語は「生命や自然」,「崇高なもの」,「人間 の力を超えるもの」など)に不明瞭さが目立つ。この部分については,教員,父母,教職 課程履修の学生のあいだで,「哲学的で」難解な表現が多いという感想が聞かれるが,哲 学的に見れば,そこでは断片的に断定的にあいまいなまま主張が行なわれていることが少 なくない。 これまで発行された副読本,読み物資料,文部科学省編集の『心のノート』(平成 14 年, 平成 21 年改訂)や『わたしたちの道徳』(平成 26 年)においても,「崇高なもの」,「人間 の力を超えるもの」の扱いはじつにまちまちであり,また『要領』の項目に必ずしも焦点 が絞られていないものもある。『要領』の改訂にともなって,検定教科書が使用されるこ とになるが,このような問題はどこまで解消されるであろうか3)。 3 本稿の展望 本稿では中学校の学習指導要領の「特別の教科 道徳」(あるいは以前の「道徳」),お よびこれについての文部科学省(旧文部省)の解説書『中学校学習指導要領解説 道徳編』 (旧『中学校道徳指導書』,『中学校指導書 道徳編』――以下,『解説』と略記)を基本的 対象とし,とくに「主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること」の部分に おける基本的諸用語の意味,およびそれらの相互連関について検討する。小学校の『要領』 については,必要に応じて,関連部分を示したい。 Ⅰではまず,学習指導要領の道徳教育――「総則」,および「道徳」(平成 27 年以降は「道 徳科」)の「目標」――で使用される基本用語である「道徳性」,「人格」,「道徳的実践力」, 「道徳的態度」などを哲学的,倫理学的観点から吟味する。 Ⅱでは「道徳」の内容構成を主題とする。平成1年の『要領』以来4つの「視点」のも とにいくつかの「項目」が提示されるが,これらの区分の根拠,それらの相互連関につい て考察する。また,それぞれの「項目」は「基本的な道徳的価値」を表現するとされるが, さまざまな「項目」を示すことは<徳目主義>に,価値の画一化と強制につながらないか どうかを問題にしたい。
Ⅲでは,「主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること」の「視点」の位 置づけを踏まえ,どのような意味で人間が自然に対して道徳的に関わると見なされている かを検討したい(以上は上篇)。 Ⅳではこの「視点」に属す最初の2つの「項目」(「生命の尊さ」,「自然の崇高さ,自然愛護」) を取り上げ,生命の尊厳の理由,自然愛護の道徳的根拠がどのように説明されているかに ついて考察したい(以下は下篇)。 Ⅳでは,最後の2つの「項目」(「美しいもの,気高いものへの感動,人間の力を超える ものへの畏敬の念」,「よりよく生きる喜び」)にかんして,自然の美と崇高がどのように 道徳的に性格づけられているか,また,「人間の力を超えるもの」がどのようなものと見 なされ,さらに,人間の生き方がどのような意味で「気高さ」をもち,「人間の力を超え るもの」に関わると理解されているかについて検討する。
Ⅰ 学習指導要領における諸概念
1 道徳の主体性と共同性 (1)道徳性とはなにか まず,道徳,道徳性とはなにかが問題となる。平成 20 年版『解説』には道徳と道徳教 育との関係についての説明が含まれていた(平成1年,19 年版も同様)が,平成 27 年版 ではこれが削除された。 近代の道徳は個人の主体性(自立性,自発性)を含み,それ以前の道徳(倫理)が個人 を社会や集団に従属させていたのとは異なる。道徳においてその個人性・主体性と共同性・ 社会性とをいかに結合させるかが根本的問題である。しばしば,道徳は社会的規範の形態 であるといわれる。社会規範としての道徳の特徴は,その遵守が個人の主体的判断に基づ き,自発的におこなわれることにある。この点で道徳は法や慣習から区別される。しかし, 道徳の基本的機能を社会的規範に限定するのは一面的である。道徳は,行為者の内面に深 く根ざしながら,その生き方を示すことにある。他人との共同のなかで生きるさいに,社 会的規範にたいする個人の関係が重要となる。 『要領』および『解説』においては「道徳性」という用語がさまざまな文脈で使用され, 基本的定義は与えられていない。平成 27 年版の『要領』の「総則」においては道徳教育(学 校教育全体をつうじておこなわれる広義の道徳教育)の「目標」は,「人間の生き方を考え, 主体的な判断のもとに行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」ことにある。「特別の教科 道徳」の「目標」は,より簡潔に,「よ りよく生きるための基盤としての道徳性を養う」ことにあるとされる。 ここでは,「よりよく生きる」ことの「基盤」が道徳性であると見なされており,「より よく生きる」ことが道徳の基本であるとはいわれておらず,「道徳性」がきわめて抽象的 に理解されている。哲学史においては,ソクラテス以来,「よりよく生きる」ことのなに かについて根本的に考えることとのなかに哲学(倫理学)の基本があると見なされてきた が,『要領』がこのような見解を継承しているかどうかは明確でない。 (2)「人間として生きる」ことの意味 しかし,『要領』が道徳にかんして,「(より)よく生きる」ことを重視していることは 明確である。それはとくに,「人間として」「よく生きる」ことを強調している。「人間と して」は,<人間らしく>を意味するであろう。『解説』には,「人間らしいよさ」が道徳 性であるという記述もある(p.108)1)。さらに,<人間らしさ>はより抽象的には<人 間性>といいえ替えることができるであろう2)。ここでの「人間」(人間性)は,経験を つうじて認識される現実的,記述的側面と,経験から直ちには生じない理念的,規範的な 側面をもつ。また,「人間」は普遍的なものであり,さまざまな個人のあいだで共通のあ り方である。したがって,道徳においては,「人間」とはなにか,「人間らしい」とはなに かが根本的な意味で問題となる3)。しかし,人間を「人間」とする条件はさまざまなもの を含み,その内容は時代や文化によって異なる側面をもつ。これについて多数者の合意が 成立するかどうかが問題となる。しかし,人間らしさは必ずしも確定したものとして与え られてはおらず,むしろ生きることをつうじてたえず探究されるべきものであろう。各人 がめざす人間性と,社会の多数者が承認する人間性とのあいだのにズレが生じることもあ る。 なお,「人間」,「人間らしさ」は道徳以外の生活分野においても問われるのであり,人 間性をもっぱら道徳的なものと見なすのは適切ではない4)。たとえば,今日の格差社会の なかで,「最低の文化的生活を営む」ことは,「人間として(人間らしく)生きる」ための 社会的ミニマムであるが,このことを道徳的(狭い意味で)とはいえない。 (3)「よく生きる」ことと人格の発達 「人間として」「よく生きる」ことは,普遍的,共同的な側面をもつが,「よく生きる」ことは, 「自分らしく」生きることを含む。日本国憲法の第 13 条では,「すべての国民は個人とし て尊重される」といわれ,教育基本法の第1条では「人格の完成」が教育の目標とされて
いる。「人格の完成」は個性の全面的,調和的発達を意味する5)。また,教育基本法の第 2条第2項では,「個人の価値を尊重し,その能力を伸ばし,創造性を培い」(第1条の2) とうたわれている。しかし,『要領』では,「教育基本法……に定められた教育の根本精神 に従い」と一般的にいわれるだけで,上位法規のこの内容は道徳教育の基本として明記さ れていない。「主として自分自身に関すること」の1部(内容項目の1つ)として,「個性 を伸ばして充実した生き方を追求すること」に言及されるにすぎない。「人格の完成」(個 性の発達)は,「よりよく生きる」ことにとって付随的と見なされているような印象を与える。 しかし,「個性を伸ばし,充実した生き方を追求する」ことは,「よく生きる」ことにとっ て不可欠である6)。 人間らしさと自分らしさとは結合されなければならない。一方で,個人が自分らしく生 きることは,他人と無関係に単独に可能なのではなく,他人との共同において「人間とし て」可能である。「人格の完成」(個性の全面発達)は狭く原子論的に理解されるべきでは ない。しかし,他方で,人間性は個々の人格を離れたものではなく,個々の人格に宿るも のである7)。よりよく生きることを,「人間らしく」に生きるという,普遍的,共同的な 生き方に解消することも一面的である。 (4)道徳教育は教育の「中核」か 『解説』では,道徳性は「人格の基盤」,「よりよい生き方の基盤」であるといわれる。 たしかに,「よりよく生きる」ことは道徳において正面から問われ,「道徳性」において明 確にされるが,「よりよく生きる」ことの「基盤」が「道徳性」であるとはいえない。こ のような理解は,「よりよく生きる」ことを道徳性に収斂させることになり,道徳主義(モ ラリズム)への偏向をもたらしかねない。 このような見解は「人格」の理解にも見られる。『解説』では「道徳性」が「人格の特性」 とも見なされている。平成1年版~平成 20 年版の『解説』では,「道徳性」は,「人間と しての本来的なあり方や,よりよい生き方を目指してなされる行為を可能とする人格的特 性であり,人格の基盤をなす」といわれ(平成 20 年版『解説』p.105),また,「道徳性」 は,「人間としてよりよく生きようとする人格的特性」であるといわれる(p.17)。ここで も「基盤」という表現が乱発される。たしかに人格の発達をつうじて道徳性は人格へ統合 され,人格の全体的内部構造において重要な位置を占めるが,道徳性は「人格の基盤」を なすとまではいえない。このように断言することはやはり道徳主義的である。 この点で注意されるべきなのは,平成 27 年版『解説』で,道徳教育が教育全体の「中核」 におかれていることである。「教育基本法をはじめとする我が国の教育の基本に鑑みれば,
道徳教育は教育の中核をなすべきもの」であるといわれる(p.3)。教育基本法の第1条で は,「人格の完成と平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた…… 国民の育成」が教育の目的とされるが,『解説』はこれを,「人格の完成,及び国民の育成 の基盤となるものが道徳性である」と捉え,ここから,このような道徳性の育成をめざす 道徳教育が教育全体の「中核」をなすという結論を引き出す。このような見解は論理的に は飛躍(虚偽)であり,内容的には道徳主義を背景にしている。今回の『要領』の改訂に よって道徳が「特別の教科」とされたことによって,<教科への昇格>が不徹底にされた のではなく,他の教科とは異なる特別の「位置」を獲得したという解釈が,この改定作業 に参加した論者から出されている。戦前には教育勅語の渙発のあと,修身科が教科の筆頭 におかれたが,このような道徳教育の位置づけはこれと親近性をもつという危惧が呼び起 こされるであろう。 (5)道徳的価値とはなにか 『解説』によれば,「道徳性」は,「道徳的な諸価値が一人一人の内面において結合され たもの」である(p.108)。また,道徳的価値は,「よりよく生きるために必要とされるもの」 であり,「人間としてのあり方や生き方の基礎となるもの」(p.14)である。さらに,「生 徒が道徳価値観を形成する上で必要なもの」が「内容項目」として示されると説明される (同)。したがって,内容項目によって示されるものが基本的な道徳的価値であり,道徳性 の基本的内容をなすことになるであろう。 平成 27 年の『要領』では「内容項目」は22になるが,これらを包括すれば,道徳的 価値の基本内容,核心は「主体性ある日本人」にかんする価値になるであろう。平成 10 年版,20 年版の『要領』の「総則」では,道徳教育の目的は,「人間尊重の精神と生命に 対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を 尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとと もに,平和で民主的な国家の形成者として公共の精神を尊び,社会および国家の発展に努 め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性ある日 本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養う」ことにあるとされた。ここでは「豊 かな心をもち」から「未来を拓く」までは全体として「主体性ある日本人」を修飾してお り,けっきょく「主体性ある日本人」の育成が道徳教育の目標と見なされているといえる。 平成 27 年度版の『要領』では表現がやや変更され,道徳教育の目標が,「人間としての生 き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きる ための基盤となる道徳性を養う」こととされたあとで,上述の内容が「道徳教育を進める
に当たって」の留意点として付加される。しかし,このような叙述の変更は,「主体性あ る日本人の育成」を「よりよく生きる」ことよりも従属的と見なすことを意味しないであ ろう8)。 2 道徳的実践力・道徳的実践・道徳的習慣 (1)「道徳的実践力」をめぐる「混乱」 今回の『要領』改定のさいに議論になったのは,「道徳的実践力」の意味とその位置づ けである。『答申』では,これまでの『要領』で「道徳的実践力」という用語が不明確で あるために,指導上の混乱も生じたと指摘されている。「道徳性と道徳的実践力の育成の 方法は全く異なるものである」という「誤解」,指導上の「混乱」が生じた(『答申』,p.7) といわれる。この事態は『要領』における諸概念のあいまいさの結果の典型例であるので, 立ち入って検討したい。 平成 10 年版,20 年版『要領』では,学校教育全体における道徳教育の目標は,「道徳 的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養う」ことにあり,「道徳の時間」の 目標は,「道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育 成する」ことにあるとされていた。しかし,ここでは「道徳性」と「道徳的実践力」が並 列され,両者がどのような関係にあるかが明らかにされていないので,「誤解」や「混乱」 が生じたと,『答申』ではいわれる。 「道徳的実践力」という用語はたしかにあいまいであり,その意味と,それに従った指 導について教育現場に戸惑いを生じさせた。この用語はかなり古く,まず昭和 52 年版『要 領』に登場した。そこではつぎのようにいわれている。「道徳の時間」においては,「道徳 的判断力を高め,道徳的心情を豊かにし,道徳的態度と実践意欲の向上を図ることによって, 人間の生き方についての自覚を高め,道徳的実践力を育成するものとする。」平成1年版 では内容は同様であるが,道徳的心情と道徳的判断力が逆の順序におかれる。平成 10 年 版,20 年版ではこの前半の部分が独立させられて,「道徳性」に関係させられた。平成1年, 10 年,20 年版『解説』ではつぎのようにいわれた。「道徳的実践力」は,「将来出会うよ うな様々な場面,状況においても,人間としての生き方について深く考え,適切な行為を 主体的に選択し,実践することができるような内面的資質を意味している。それは,主と して,道徳的心情,道徳的判断力,道徳的実践意欲と態度を包括するものである」(平成 20 年版『解説』p.32)9)。 理論構造から見れば,「道徳的実践力」は個別的な道徳的実践(行為)のさいに作用す
る基本的能力と理解されていたといえる。それは「道徳性」よりも限定されており,普遍 的な道徳性と個別的な道徳的実践(行為)とを媒介する特殊の位置におかれていたと推測 される(<道徳性-道徳的実践力-道徳的実践>)。しかし,『答申』では,「道徳的実践 力」と「道徳性」とは同義であり,前者の用語は不要とされた。「道徳性と道徳的実践力は, いずれも生徒が今後出会うであろう様々な場面や状況において道徳的行為を主体的に選択 し,実践するための内面的な資質・能力」であり,両者は「基本的に同じ性格のもの」で あるというのである。このような理解は新しい『要領』にも反映された。 しかし,すでに見たように,『要領』ではもともと,道徳性と道徳的実践力とは異なる 次元に属すと考えられていた。「道徳的実践力」を消去することによって,「誤解」,「混乱」 を解消しようとすることは別の「誤解」,「混乱」に基づくといわざるをえない。根本的な 問題は,さきに位置づけられた「道徳的実践力」の内容があいまいであったことにある。「道 徳的実践力」の消去は,つぎに見るような新しい問題を引き起こす。 (2)道徳的実践 『答申』では「道徳的実践力」の理解をめぐる混乱に関連して,「道徳の時間には道徳的 習慣や道徳的行為に関する指導を行ってはならない」という「誤解」,「混乱」が生じている, といわれる。このことの意味は文面からだけは理解しにくいが,問題はおそらく道徳的実 践力と道徳的実践(行為)との関係をめぐるものであろう。「道徳の時間においては道徳 的習慣や道徳的行為に関する指導を行ってはならない」という「誤解」の背景には,道徳 教育は基本的な事柄(「道徳実践力」はこの次元に属す)に限定されるべきであり,個別 的な道徳的行為にまで立ち入るべきではないという理解があったと思われる。 「道徳的実践力」は内的で普遍的なものであるのに対して,「道徳的実践」はその外的発 現であり,個別的なものである。しかし,両者は相互に関連している。この点については 平成1年版『解説』でも指摘されていた。「道徳的実践力が育つことによって,より確か な道徳的実践ができるのであり,そのような道徳的実践を繰り返すことによって,内なる 道徳的実践力も深まる」(平成 10,20 年版もほぼ同一)。また,道徳性の育成のために道 徳的行為の指導が必要であることにも言及されていた10)。このことが理解されるならば, 両者を対立させることは(少くとも理論的には)生じないはずである。 指導上の「混乱」の最大の原因は「道徳的実践力」の意味のあいまいさにあったと思われる。 しかし,今回の『要領』ではこの「混乱」を除去するために,「道徳的実践力」を消去した。 この結果,抽象的な道徳性が個別的,具体的実践へ直接的に(「道徳的実践力」の媒介なしに) 適用されることになる。これがいかに行なわれるかについての説明は『解説』には見られ
ない。「道徳性」は「徐々に,しかも着実に養われる」ことによって,「長期的展望と綿密 計画」に基づいて,「道徳的実践につなげいてく[原文のママ]ことができるようにする」 と一般にいわれるにすぎない(p.18, 平成 20 年版と同様の文面)。このことは,道徳的実 践の問題を「道徳科」においても扱うという『答申』における主旨に照らして,奇妙に思 える11)。 (3)道徳的習慣 『解説』では「道徳的習慣」は具体的次元におけるものとして道徳的行為と並列させら れているが,両者のあいだには区別がある。行為は個別的であるが,習慣は,行為の反復 によって形成される行為の安定的,持続的な様式であり,この点では行為よりも普遍的で ある。習慣は集団や社会においては慣習という形態をとる。しかし,習慣や慣習は固定化 され,惰性化され,他律的なものとなるという問題を含む。習慣は,新たな行為をつうじ て更新されていく。このように行為と習慣とは相互作用するが,両者のあいだには緊張も ある。 これまでの『要領』においては,習慣はとくに「基本的な生活習慣」として扱われてきた。 基本的な生活習慣が重視されたのは平成1年版の『要領』においてである。そこでは,個 別項目(「自分自身に関すること」の一部)とは別に,「総則」において「日常生活におけ る基本的生活習慣」が取り上げられた12)。平成 10,20 年版では「総則」からこの記述は 削除された。ただし,平成 20 年版でも,「基本的な生活習慣」道徳的習慣のなかで「最も 基本となるもの」であるといわれる(平成 20 版『解説』,p.29。平成1年版,10 年版も同様)。 3 道徳的判断力・道徳的心情・実践意欲と態度 (1)道徳的態度をめぐって 平成 27 年版『要領』では,「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため」,「道 徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる」とされ,『解説』では,これら3つは道 徳性の「様相」といわれる。平成 1 年版,10 年版,20 年版の『要領』では,道徳教育の 目標は,「道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこと」に求められ,「道 徳的な心情,判断力,実践意欲と態度」は道徳性の「要素」といわれた13)。 道徳的な判断力,心情,道徳的意欲は,心の3つの基本的機能である知・情・意に一応 対応するといえる。なお,判断は知的なものであるが,知識とは異なる。知を個別的なケー ス(道徳においては行為の状況)に適用するのが判断力である。態度は,行為に踏み出そ
うとする身構えであり,意欲や決意よりも行為に近いが,やはり内面的なものである。態 度の役割を重視したのはデューイである。彼においては態度は知的な判断を含み,意欲と 並列される位置にはない。 態度は一般的には,「その時々の状況の変化に対応する心の動きが言動や表情として表 面化したもの」(心理学的定義)と理解されている。とくに日本においては情意の表現と しての姿勢が問題にされがちである(「態度が悪い」など)。しかし,デューイにおいては 「態度〔attitude〕」は内的なものであり,環境の変化に対応する全体的なものである。こ のように,態度は根本的なものとして知的要素と情意の要素とを含む。『要領』における「判 断力・心情,実践意欲,態度」という区分はデューイの思想とは一致しない。 ところで,態度は内的なものであるので,把握されにくく,ブラックボックスに入れら れがちになる。また,それをあえておこなえば,恣意的になるという危険が生じる。これ を避けるためには,外的な表現をつうじて態度を推定することが必要になり,そのための 諸要素を把握,測定することがめざされてきた。 しかし,学習において態度の形成を知識・技能の習得から切り離して,捉え,評価する ことは適切ではない。態度が意欲と結合されるばあいには,「やる気」が強調され,<態 度主義>として批判される傾向が生じやすい14)。 (2)情緒主義・主意主義への傾斜とそれへの批判 道徳的な判断力,心情,態度の区別は昭和 33 年版の『要領』に登場し,昭和 44 年版で は意欲が付加され,「意欲と態度」とされた。また,平成 1 年版では3者の記述順序が変 更され,道徳的心情が最初におかれた。しかし,今回の改訂で再び判断力が最初におかれ ることになった。 平成 27 年版『解説』では,3者のあいだに「序列」や「段階」があるわけではないと いわれている。また,平成 1 年版『解説』(平成 10 年版,平成 20 年版も同様)では,こ れら 3 つは,「それぞれが独立した特性ではなく,相互に深く関連しながら,全体を構成 している」とされていた。このかぎりでは,道徳的な判断力と心情との記述順序の2度の 変更は表面的,便宜的なものにすぎないかのように思われるが,平成 1 年版であえてこの ように変更されたことの背景には,心情重視(情緒主義)の傾向があったといわざるをえ ない。 この時期には知育偏重への反発から,心情や意欲を重視する傾向が強まった。「人間の 力を超えるものへの畏敬の念」が平成1年版『要領』に加えられたこともこれと関係して いる。しかし,平成 10 年版では,「生きる力」の育成が学校教育の基礎におかれ,これに
伴なって,「自ら学び,考える力」が重視されるようになった。この動向は道徳教育に直 ちに影響を与えなかったように思われる。平成 20 年版『要領』では,「ゆとり教育」によ る学力低下に対する批判が念頭におかれ,「基礎的・基本的な知識および技能を確実に習 得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の 能力をはぐくむ」ことが主張され,そのための「考える力」や「判断力」の重要性が指摘 された(「総則」)。心情主義や主意主義への傾斜は,教育指導上も混乱を生じさせ,『要領』 に従った道徳教育の推進をめざす人びとのあいだでも疑問や批判が強まった15)。新しい『要 領』における記述順序の再変更はこの事情を配慮したものと思われる。 (3)道徳的知識と道徳的判断力 すでに言及したように,判断は知識とは異なり,知と行為とを媒介する位置にある。知 は一般的なものでありうるが,判断力はそれぞれの個別的状況において作用する特殊的な ものである。判断力は適切な行為にとって不可欠である。不適切な行為は不適切な判断に 起因することが多い。 ところで,一部の論者は,「道徳」を「教科」あるいは「特別の教科」とする理由の1 つとして,道徳も知識や技能を含む点で,他の教科と共通性をもつことを挙げている。た しかに,どのような行為も適切におこなわれるためには,適切な知識と技能を必要とする のであり,道徳においても同様である。道徳を「教科」に<格上げ>しようとする人びと は,他の教科との区別を強調して,その実践的,価値的性格を際立たせてきたのであるか ら,上述の主張はこのような傾向と矛盾する16)。「道徳教育」と呼ばれるものと教科にお ける教育との共通性は,いずれも人間教育(「人間らしく,かつ自分らしく生きる」こと を援助するための教育)をめざすことにあるといわなければならない。 (4)能力・資質・コンピテンシーをめぐって 日本の教育界では「○○力」という表現が多用される。それは,<力とその発現>とい うモデルに従ったものと思われるが,意味内容があいまいなばあいが少なくない。文部省・ 文部科学省における最も基本的な「力」概念は,「生きる力」であり,これは平成 10 年版 の『要領』に登場し,現在も維持されている17)。 一方で,「力」概念のインフレーションによって,その意味が拡散し,空虚になる。他 方で,これを回避するために,人間の生活をさまざまな「能力」に分解し,それぞれの能 力の開発(発達)を技術主義的に管理するという方向が生じる。力は潜在的で,内的な段 階では,把握され,測定されることは困難である。たとえば,日本で「学力」と呼ばれる
ものは,欧米では <achievement> であり,これは,「学習によって達成された成果」と いう意味であって,「学習する力」,「学習上の潜在力」という意味合いをもたない。結果 をもたらす過程をも測定と評価の対象にすべきであるという見解も生じたが,それには多 くの難点があった。 近年文部科学省においては,このように意味が不明確な「能力」と並んで,「資質」とい う用語が多用され,むしろ後者の方が好まれる傾向がある18)。しかし,この用語もあいま いである19)。ところで,欧米においても,「能力・資質」に近い概念として,OECD が提唱 した「コンピテンシー〔competency〕」が普及しつつある。OECD は「キー・コンピテンシー」 を示し,これに基づいて 2000 年から国際学力調査(PISA)を実施した20)。ここで問われ る学力は「PISA 型学力」と呼ばれ,文科省は学力低下への対応として,この学力を問う 全国学力調査を開始した。平成 30 年の要領の全面改定においてはこの学力の育成が基本 にすえられようとしている。 「コンピテンシー」については,その諸要素と相互連関,その育成の方法と条件などに ついての分析のほか,その理論枠についての哲学的吟味も必要になる。後者については, 環境への変動への柔軟な適応(知識はそのための道具である)を重視するプラグマテフィ ズムが「コンピテンシー」観の基礎にあり,その長所・短所が問題になる。これらについ ての検討は別の機会に譲らざるをえない。
Ⅱ 道徳教育の内容は「体系化」されたか
1 「道徳」の内容構成 Ⅰでは,改定された『要領』の道徳の部分における基本概念について検討したが,つぎ に,「道徳科」の内容構造について考察したい。 平成 1 年版『要領』の「道徳の時間」の「内容」は4つの「視点」に大別され,そのも とでさまざまな「項目」が示された。平成 27 年の改訂でもやはり4つの「視点」のもと に22の「項目」が配列されている。まず4つの「視点」の相互連関について検討しよう。 改訂された『要領』では,①「主として自分自身に関すること」,②「主として人との 関わりに関すること」,③「主として集団や社会とのかかわりに関すること」,④「主とし て生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること」が区別されている。4つの「視点」 の区分は平成 1 年版から始まったが,平成 20 年版まで③と④が逆の順序とされ,「自然や 崇高なものとのかかわりに関すること」が③におかれた。道徳的行為はその対象との関係でいくつかの側面に区分されるであろう。歴史的にはも ともと道徳は本質的に人間関係や社会関係に関わるものと見なされてきたが,近代以降個 人の自分自身に対する関係も重要な位置を占めるようになった。人間の自然に対する関係 については,それがいかなる点で道徳的性格をもつのかについて現代の環境倫理学のなか で厳しい論争がある。 ところで,ある行為がもっぱら 1 つの種類の関係のみを含むことはほとんどありえず, ある行為が複数の関係を含むことがむしろ一般的であることである。『要領』においても, おそらくこのことが念頭におかれ,「主として○○との関わりに関すること」という表現 がとられているのであろう。今回の改訂に向けた「審議会答申」でも,それぞれの「項目」 のなかには「複数の視点にまたがって捉えられるものは多い」ことが指摘されている(p.9)。 2 4つの「視点」の区別の根拠 新しい『解説』では4つの「視点」の区別の根拠についてどのように説明されているで あろうか。まず常識的にいえることは,他人に関する関係と集団や社会にたいする関係と の区別は相対的であることである。たしかに集団や社会は一定の組織や秩序を含み,この 点では,多数の人間のたんなる集合から区別されるが,他人たちと社会(集団)との区別 は絶対的ではない。ところが,平成1年版,10 年版,20 年版では,「他人とのかかわりに 関すること」の項目と,「主として集団や社会とのかかわりに関すること」の項目とが分 断され,両者の項目のあいだに,「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」 の項目が挿入された。それが今回の改訂で,「他人との関わりに関すること」の項目のあとに, 「主として集団や社会との関わりに関すること」の項目が続けられ,「主として生命や自然, 崇高なものとの関わりに関すること」の項目は最後におかれることになった。 『答申』ではこのような変更の理由として,「児童・生徒にとっての対象の広がりに即し て」整理したことが挙げられている。ここでいわれる児童・生徒の「対象の広がり」はよ り厳密には,児童・生徒の経験の対象の広がりを意味するであろう。身近な環境からより 遠隔の環境へ経験の対象が拡大していくという理解が基礎におかれているのであろう。し かし,この拡大の段階を機械的,図式的に理解すべきではない。人間関係や社会関係にか んしては,身近なものの経験がつねに遠隔のものの経験に先行するとはかぎらない。とく に今日のような情報化社会においては,地域の問題の情報よりも国際社会の問題の情報の 方が先行することがある。また,自然についての経験が他人や社会についての経験よりも 遅れるとはかぎらない。もちろん,人間の自然にたいする関係は直接的であるだけではなく,
社会や文化によって媒介されており,この点ではこの関係は社会関係から独立してはいな い。だが,人間の自然についての経験が社会についての経験に先行することも少なくない。 さらなる問題は,子どもの経験の発展において,人間の自分自身にたいする関係の意識 は他人や社会にたいする関係の意識,また,自然にたいする関係の意識に先行するかどう かである。個人の意識の発達,また人類の意識の歴史的形成においても,自分自身につい ての意識(自己意識)は外界(自然と社会)についての意識よりもあとになる。児童・生 徒にとっての対象についての経験の拡大という点から見ても,今回の4つの「視点」の順 序づけは適切ではない1)。 ところで,人間関係と社会関係との区別は相対的であるにもかかわらず,平成1年版(お おび平成 10 年版,平成 20 年版)であえて,「他人とのかかわりに関すること」と,「主と して集団や社会とのかかわりに関すること」とのあいだに,「主として自然や崇高なもの とのかかわりに関すること」がおかれたことには,それなりの理由があったと推定される。 このことは,「崇高なもの」とのかかわりに関することについて検討することによって明 らかにされるように,生命や崇高を民族に接続させるという隠された背景をもつと思われる。 3 価値の多様化と徳目主義 新しい『要領』では,「道徳科」の「内容」として4つの「視点」のもとに22の「項 目」が配置されるが,これらの項目は「基本的な道徳的価値」を示すとされる(『答申』p.6, 『解説』p.19 参照)。『要領』における「道徳」の「内容」の構成には変遷がある。その大 きな転換は平成1年版『要領』でもたらされた。4つの「視点」はこの『要領』から設け られ,そのもとに合計22の「項目」が配列された。それ以前の昭和 33 年版では,4つ の大区分のもとに(この大区分は平成1年版での視点の区別には対応しない)合計21の 項目が示されが,昭和 44 年版では大区分が廃止され,13の項目に整理された(それぞ れに2点の補足文が付された)。平成 1 年度版を経て平成 10 年版では23の「項目」とな り,字句の一部変更がおこなわれ,平成 20 年版では,「項目」の順序が部分的に変更された。 『答申』においては道徳の「内容」を「児童・生徒の発達段階に応じて体系的なものとする」 ことが求められた。このことは具体的には,「項目」を整理し,児童・生徒の「発達段階 に応じて,体系化する」ことを意味する。この結果,新しい『要領』では「視点」の順序 が一部変更され,「項目」が平成 20 年版の24から22に減少させられ,一部が統合ある いは分離され,それぞれの「項目」に,その内容を端的に示す言葉(キーワード,見出 し)が付記された。それでは,新しい『要領』は基本的な道徳的価値の体系化に成功して
いるであろうか。まず,すでに見たように(Ⅱ.2),4つの「視点」の設定が体系性の 点で問題を残している。つぎに,そのもとに配列された「項目」も依然として羅列的であ り,それらの相互の区別と連関に不明確な面が残っている。 ところで,これらの「項目」で示される道徳的諸価値は諸徳に対応している。『要領』と『解 説』では徳についてとくに言及していないが,「項目」が道徳的価値や徳に対応するとすれば, 『要領』で配列された「項目」は<徳目>を意味するであろう2)。<徳目主義>はさまざ まなタイプを含むが,一般的には,生き方についての原理や方法よりも,人格の卓越した 能力や性格としての徳を重視し,かつ,代表的な諸徳のリストを道徳的評価の基準とする 立場である。道徳教育においてはそれは,徳目を子どもに身に着けさせることを基本とす る立場を意味する。この立場では,生き方についての原理や方法は抽象的であり,とくに 小・中学生には理解されにくいので,代表的な徳を示して,それを身に着けさせることが 必要であると見なされる。しかし,道徳においては,根拠をもって判断し,主体的に行為 することが求められるのであり,原理や方法の考察は低年齢の子どもにおいてもその発達 段階に応じて必要である。この主体的判断がないままに,あれこれの道徳的特質を習得し ても,真に徳を備えたとはいえないであろう3)。 4 価値の強制は排除されるか 基本的諸価値はそれぞれの時代や社会において相対的である。それぞれに価値について 多数者による承認があることもあるが,それを価値をめぐって対立が生じることがあり, また,諸価値のあいだの優先順位をめぐっても対立が生じうる。さらに,相対的に見える 諸価値の背景に共通の価値が隠されていることもある4)。徳目主義においては,徳のリス トアップのさいにそれぞれの時代と社会における有力な価値観が前提されていることが少 なくない。それは今日の「価値の多様化」の趨勢にもそぐわない。 「価値の多様化」の時代においては,価値を自分で選択し,さらに新しい価値を創造す ること,そのための基本的な能力またその方法が重要となる。しかし,このことは,すべ ての価値がまったく相対的であることを意味しない。価値の多様化のなかで共通な価値が 求められなければならない。多様な諸価値が,人間関係や社会関係における敵対を引き起 こさずに,相互に共存可能となるのは,これらの価値が基本的な共通の価値に基づくこと によってであろう。このような価値はあらかじめ与えられるものではなく,多様な価値を つうじてたえず求められるべきものである。道徳教育と呼ばれるものにおいても,この視 点が基本にすえられなければならない。改定された『要領』においてはこのことはどのよ
うに理解されているであろうか。 そこでは,「物事を」「多面的・多角的に考える」ことが繰り返し,主張される。「多様 な価値観の,時には対立のある場合を含めて[原文のママ],誠実にそれらの価値に向き 合い,人間としての問題を考え続ける」ことが重視されている(p.2)。「複数の道徳的価 値が対立する場面」では,「どの価値を優先するかの判断を迫られる」のであり(p.14-15)。 「答えが一つでない道徳的な課題を」「自分自身の問題と捉え」ることが必要とされるとい われ(p.2),ときには相対主義的な傾向さえ表明される。これはいわゆる「モラル・ジレ ンマ」という特殊な場面を念頭においたものであって,多様な価値のあいだの選択を恒常 的に必要とするような状態を想定したものではないのかもしれない。 「項目」に示される諸価値は,児童・生徒が習得する(身に着ける)べきものとされる が,これらの価値のあいだの対立や葛藤は問題とされていないように見える。『解説』では, 各人が行為の場面で直面する多様な諸価値と,「項目」で示される基本的諸価値とは異なっ た次元に属し,基本的諸価値のあいだでは「対立」や「選択の余地」はないと見なされて れているのであろう。 さまざまな「項目」で示された基本的な諸価値を前提にして,それらを児童・生徒に内 面化させることが『要領』における道徳教育の目的であろう。『解説』では,この内面化 が強制されることは戒められるが,それがソフトな心理的操作(マインド・コントロール) によって疑似自発的に行なわれうることについてはどう理解されているであろうか。『解 説』では,「特定の価値観を押し付けたり,主体性をもたずいわれるままに行動するよう指 導したりすることは,道徳教育が目ざす方向の対極にある」といわれる。今日の価値の多 様化の時代に,「主体性をもたずいわれるままに行動するよう指導したりする」ことが困難 なことは教育現場のほとんどの人間が経験していることである。問題は,このことが,自 分の生き方を自分自身で考えるという道徳の本来のあり方に反しているということである。 「道徳は教えられる」のであり,「教えなければならない」と主張する論者が少なくない。 しかし,私見では,生き方はそもそも教えられうる(指導,指示されうる)ものではない。 道徳教育と呼ばれるものにおいておこなうことができるのは,子どもが,「生き方を自分 自身で考える」ことができるよう援助し,導くこと以外にはない。そのさいに,教師や援 助者は,人間としての生き方を追求する 1 人の人間の立場から,子どもとともに生き方や 基本的価値についてともに考えることが重要である5)。 知識・技能のばあいとは異なって,生き方(道徳)には専門家はありえない。しかし, 教師は人生の先輩として,また援助方法に精通した者として子どもの道徳的発達にたいし て固有の役割を果たすことができる。
注 はじめに 1) 昭和 23 年度版は「学習指導要領(試案)」とされ,法的拘束力を与えられていなかった。 2) たとえば,道徳教育の目標にかんして,「文章の構造が複雑で理解しにくい」,「用語の意味の相互連 関が分かりにくい」(p.6)といわれている。今回の改訂によってこの点がどこまで改善されたであろ うか。中教審答申の引用や紹介は,文科省のホームページに掲載されたものに従い,その頁数を示す。 3) 「道徳科」の「教科書」といっても,通常の教科書のように,知識の配列とはなりえない。これまで の副読本,文部科学省(文部省)作成の資料集におけるように,読み物などの資料を『要領』の「項 目」に従って配列したものとなるであろう。これが「主たる教材」とされ,その使用が義務づけられ ることが今回の変化である。しかし,限定された紙幅のなかでそれぞれの項目についてどれだけの多 様な教材を盛り込めるであろうか。これまでも道徳について「魅力ある教材」,「多様な教材」の「開発, 工夫」が強調され,また,今回の『要領』の『解説』においても,児童・生徒が「多面的・多角的に考え, 感動を呼ぶことができるような充実した教材の開発や活用」がやはり依然として必要とされている。 Ⅰ 1) 文部科学省のホームページに掲載されている『解説』の頁を記す(執筆時点で冊子は未発行)。なお, 表現上の問題として,『解説』では,成熟せず不適切な記述が散見され,以前の版よりもいっそう理 解しにくくなっているばあいもある。ホームページで公開されている『解説』には誤植もある。これ には逐一言及することはできないので,必要に応じて指摘するにとどめたい。 2) 『要領』と『解説』においては「人間性」には言及されていない。なお,昭和 44 年版『要領』では,「人 間性についての理解を深める」という表現が見られた。昭和 53 年版からこの部分は,「人間の生き方 についての自覚を深める」というものになった。 3) 『解説』においても,「人間としての生き方についての自覚は,人間とはなにかということについての 探求とともに深めれる」(p .16)といわれる。 4) 「人間性」の規範的性格を強調したカントも,人間性は道徳性を中核としながらも,道徳的側面以外 のさまざまな側面をもつとして包括的に理解している(拙著『カント実践哲学とイギリス道徳哲学』 梓出版社,2012 年,115 頁以下,参照)。 5) 教育基本法(昭和 22 年施行)の制定に向けた議論においては,教育の目的を「人格の完成」に求め る立場と,これを人格主義的,精神主義的であるとして批判し,「人間性の開発」を主張する立場と が対立した。後者が多数意見であったが,国会に法案が提出されたさいに,「人格の完成」とされた。 しかし,昭和 22 年の文部省訓令では,この論争を踏まえ,「人間のあらゆる能力」を「可能な限り調 和的に発展せしむること」が「人格の完成」であるといわれ,これが標準的理解として社会的に受け 入れられるようになった。これは教育についての,「世界人権宣言」(1948 年)における「人格(人間 個性)〔human personality〕の十全な発達」という規定,「人格(人間個性)の十全で調和的な発達」 という規定に先行するものであった(拙論「カントの教育学」,札幌大学外国語学部紀要『言語と文化』 第 67 号,2007 年,参照。) 6) なお,高等学校学習指導要領(平成 21 年)の総則ではつぎのようにいわれる。「学校における道徳教育は, 生徒が自己探求と自己実現に努め国家・社会の一員としての自覚に基づき行為しうる発達の段階にあ ることを考慮し人間としての在り方,生き方に関する教育を学校生活の教育活動全体をつうじて行う ことにより,その充実を図るもの」とする。 7) カントは「人格における人間性」を重視し,尊厳についてもまずこれを人間性に帰属させるが,人格 の尊厳を派生的,従属的なものと見なしているのではない(拙著『相互人格性と実践』,北海道大学 図書刊行会,1997 年,110 頁以下,参照)。
8) このことは,『要領』の記述の変遷をたどれば,いっそう明らかになる。平成1年版ではより簡単に,「個 性豊かな文化の創造と社会および国家の発展に努め,進んで平和な国際社会に貢献できる主体性ある 日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養う」とされていた。平成 20 年版では平成 18 年 の教育基本法の改訂を反映し,伝統,我が国と郷土への愛,公共の精神などが付加され,「主体性あ る日本人」の条件が増加された。 9) 昭和 52 年版『解説』ではつぎのようにいわれた。「道徳性は,道徳的な判断力,心情,態度及び実践 意欲という,いわば内面的なものである。」「それらが生き方についての自覚に深められ,これが道徳 的実践力として身に着くよう」指導することが求められる。また,平成1年版『解説』ではつぎのよ うにいわれた。「道徳的実践力は内的な力として道徳的実践の基礎になければならない。」 10) 平成 20 年版『解説』では,「道徳性の育成においては,道徳的習慣をはじめ道徳的行為の指導も重要 である」といわれた(p.29)。 11) 「審議会答申」では,道徳的な行為や習慣は主として特別活動などにおいて行なわれるべきであるが, 「道徳」においてもそれらが「必要に応じ」「取り入れることがあってよい」といわれ(p.7),さらに より積極的に,「道徳性に係る内面の向上やそれに基づく道徳的実践を求める」ともいわれている(p.8)。 12) 昭和年 52 版『解説』では,「道徳」に内容項目の1つとして「日常生活における基本的生活習慣」が 示されていた。 13) 昭和 52 年版『要領』では,「道徳的態度と実践意欲」といわれたが,平成1年版以降は,「道徳的な 実践意欲および態度」と表記されるようになった。 14) 態度主義への傾斜が問題となった例としては,「指導要録」における「観点別学習状況」の欄の項目 の順序の変更がある。平成1年の『要領』の改訂に対応し,それは①「関心・意欲・態度」,②「思考・ 判断」,③「技能・表現」④「知識・理解」の順序とされた。平成 22 年には,①「知識・理解」,「技能」, ②「思考・判断・表現」,③「関心・意欲・態度」に変更された。 15) 『要領』に従う道徳教育の推進の立場に立つ貝塚茂樹氏も,判断力の心情への「従属」を批判している。 氏は心情主義に対してとともに,「やる気」や「根性」を強調する主意主義に対しても批判的である(『道 徳教育の教科書』学術出版会,2009 年,p.160)。 16) 知識・技能に道徳科と他の教科の共通性を求めるのであれば,道徳科は高等学校の教科「倫理」に近 い性格をもつことになるであろう。「倫理」においては知識がかなりの比重を占めるが,「人間として の生き方」を考えることを基本目標とする点で,他の教科(社会科系統)と比較して,実践的,価値 的性格が強い。しかし,そこでは特定の道徳的諸価値が示されてはいない。 17) 「○○力」という用語は臨時教育審議会(1984-87 年)における議論以降,拡大した。「家庭や地域社 会の教育力」という表現が用いられ,平成 10 年の『要領』では「生きる力」が学校教育の基本とさ れ,近年では,「人間力」(内閣府・経済財政諮問会議)という表現までも登場するようになった。な お,文科省の英訳(試訳)では,「生きる力」は<zest for life>とされているが,<zest>は「情熱」 という限定された意味をもつ。翻訳技術上の問題のほかに,「力」が翻訳困難な用語であることがこ こで示されているであろう。この英訳には他の部分についても類似のズレがかなり見られる。 18) たとえば,教育基本法の改訂によって,第1条の「教育の目的」が,「平和的な国家及び社会の形成 者として」の「国民の育成」から,「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備え た……国民の育成」に変更された。平成 27 年版『解説』においても,「道徳性を養うために重視すべ きより具体的な資質能力とは何かを明確化する」ことが「道徳科」の目標であるといわれる。また, 平成 30 年の『要領』の全面的改訂に向けた議論のなかでも,「育成すべき資質能力を明確化する」こ とが重要な課題とされている。 19) 国語辞書によれば,「資質」は,「生まれながらにもつ性質,能力としての才能」であるが,文部科学 省の用法では,「資質」は生得的なものに限らず,基礎的能力に近い意味で理解されているようである。 このばあいに素質と資質との区別が微妙になるが,前者においては,やがて顕在化する潜在的な性質
や能力がとくに念頭におかれると思われる。能力は「なにかをなしとげる力」であるが,「資質」は「な にかをなしとげるのに資する(それにふさわしい)力」を意味するであろう。
20) <competency (competence)> は <compete>(競争する,匹敵する)に由来し,「資格を満たす能力」 という意味をもつようになった。この言葉が 1970 年代にプラグマティズムの影響のもとに,企業経 営における能力管理のために,専門用語とされた。OECD はこれを教育に転用し,「キー・コンピテ ンシー」を挙げ,それに基づいて,加盟国に学力調査(PISA)を実施した。文科省は「生きる力」は「コ ンピテンシー」を「先取り」したものと見なしたこともある(2008 年中教審答申)。 Ⅱ 1) 道徳を人間の自分自身に対する関係,他人および社会に対する関係,自然に対する関係に区別するば あいに(「崇高なもの」に対する関係はここでは除外する),これらの関係を構造的に理解する必要が ある。筆者は<円錐型>のモデルによってこれらの関係の相互連関をより合理的説明できると考えて きた。このモデルによれば,これらの関係の基底には自然に対する関係がある。自然は人間の生活の 基盤であり,人間は自然によって支えられ,自然から恩恵を受けている。自然の基盤のうえに人間関 係と社会関係(両者の区別は相対的)が成立する。人間の自分自身に対する関係は人間の自然に対す る関係,人間関係および社会関係を基礎として,これらによって媒介されるのであり,その成立は最 終段階であり,また階層関係の最上に属すことになる。このように,道徳関係は,<対自然関係―対 社会関係・対人関係―自己関係>という階層を含む<ピラミッド型>の構造となる。このような階層 構造(縦の断面)を人間の側から見れば(横の断面),<同心円>の構造となる。他人・社会と自然は, 人間を取り巻く「環境」となる。階層構造と同心円構造とを結合し,立体化すれば,<円錐型>の構 造となる。 2) 厳密にいえば,道徳的価値と徳とのあいだには区別がある。徳は,基本的な道徳的価値を実現するさ いの人格の卓越性である。しかし,道徳的諸価値と諸徳とは同一の次元で理解されやすい。例えば, プラトンは勇気,節制,正義,知恵の4つを主要な徳と見なしたが,これらは道徳的価値に対応する であろう。 3) 筆者は道徳的行為における徳の役割を過小評価するつもりはないが,近年アメリカで強まりつつある 「徳倫理学〔ethics of virutue〕」の傾向に対しては批判的である。この傾向は教育における「品性教 育〔character-education〕」と結合した。 4) 価値相対主義も,ある種の共通価値を前提することについての例としてプラグマティズムが挙げられ うる。この流派は明らかな価値相対主義の立場を取るが,アメリカにおける,フロンティア精神,市 場経済と自由競争,アメリカン・ドリームなどの共通の信念(価値観)を背景としている。 5) 平成 10 年版,20 年版『解説』においては,道徳教育に臨む教師の姿勢として,「生徒と共に考え,悩 み,感動を共有していく」ことが求められ,新しい『解説』においてもこれが継承される(p.19)。こ の方向が個々の事柄に限定されずに,基本的諸価値についてもめざされるべきである。