近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一
『
近 代 経 学 と政 治(近
代 経 学 与 政 治)』
(湯志鈞著)
解題 と訳注 〔1〕
阿
川
修
三
rModern Chinese Classical Learning and
Politicsco (by Tang Zhi —
jun)
Comment and translation
1 )
by Shuzo Agawa
解 題 本 稿 は 湯 志 鈞 著 『近 代 経 学 と政 治 』(中 華 書 局 、1989年)第 入 章 「経 学 の 終 結 」 第 三 節 「五 四運 動 と経 学 の 終 結 」 の 日本 語 訳 で あ る。 湯 志 鈞 氏 は現 代 中 国 の 著 名 な、 中 国近 代 思 想 史 ・近 代 経 学 の研 究 者 で あ り、 そ の 令 名 は 海 外 まで 轟 いて い る が 、 日本 では 一 部 の 中 国近 現 代 の 研 究 者 を除 き、 あ ま 0 り知 られ て い な い の で 、 まず その 経 歴 ・学 問 につ い て ご紹 介 しよ う。 湯 氏 は 、1924年 江 蘇 省 武 進 県(今 の 常 州 市)に 生 まれ た 。 彼 の ご母 堂 は 、 清 末 公 羊 学 派 の 大 儒 、 荘 存 与 の 後 裔 で、 経 学 の 素養 が あ り、 幼 少 か ら氏 は ご母 堂 か ら 『論 語 』 を始 め と して 『四 書 』 を 習 い 、経 学 の 手 解 き を受 け た 。 1937年 、 日 中戦 争 が 勃 発 す る と、 常 州 も 日本 軍 に 占領 さ れ 、 氏 は 当 時 、 中 学 生 で あ った が 奴 隷 化 教 育 を拒 否 し、 中学 に行 か ず 、 家 庭 教 師 に就 い て、 英 語 ・数 学 の 他 、 史記 ・経 書 を学 び、 経 学 の 基礎 を徹 底 的 に鍛 え られ 、 次 第 に 中 国 の伝 統 学 術 で あ る経 学 に 心 ひか れ て い っ た。 そ して 、 当 時 上 海 に 疎 開 して い た 無 錫 国学 専 修 学校(以 後 国専 と略 称 す る)に 入 学 し、 歴 史 を 専 攻 した 。 こ こ で は、 呂 思勉 ・周 予 同 ・周 谷 城 の 三 氏 に影 響 を受 け た。 そ の 中 で も同 郷 で 、 彼 と同様 に今 文 経 学 を学 ん だ 経 験 を持 ち 、 経 学 ・歴 史 に阿 川 修 三 精 通 した 呂 氏 に最 も強 い影 響 を受 け 、 彼 か ら は学 問 の方 法 と して実 事 求 是 (事実 に拠 っ て 真 理 を探 究 す る こ と)を徹 底 的 に た た き込 まれ た。 そ の後 、 1941年 、 上 海 が 日本 軍 に 占領 され る と、 彼 は 主 に経 済 的 理 由 か ら、一 時休 学 し、 常 州 郊 外 の 共 産 党 の遊 撃 地 区 で 中 学教 員 を勤 め た 。 日中戦 争 終 結 後 、 復 旦大 学 で 国 専 の 未修 得 単 位 を 取 り、1947年 、 国専 歴 史 地 理 科 を卒 業 した。 そ の 後 、1950年 まで 復 旦 大 学 に勤 め 、 こ の 頃 、 劉 師 培 の 『経 学教 科 書 』 に 注釈 を付 け た。1951年 か ら56年 ま で、 常 州 市榿 楽 中 学 ・正 衡 中 学 ・第 一 中 学 で 国 語 ・歴 史 を教 え、 こ の 頃 、 湯 氏 は研 究分 野 を 経 学 か ら近 代 思 想 史 に移 した 。 こ れ まで 彼 が 研 究 して き た経 学 は 、新 中国 建 国後 で は 、 古 い物=封 建 的 な もの と され 、 そ れ を研 究 す る こ と も同様 に 保 守 反動 的 で あ る と見 な され 、 彼 は専 門分 野 を移 さ ざ る を え な か った の で あ る。 も ち ろん 、 こ の 変 更 に は、 内発 的 理 由 も容 易 に 想 像 で き る。 日本 占 領 下 の 常 州 で、 新 四 軍(共 産 党 系 抗 日軍)が 、 統 率 が とれ か つ 自由 な精 神 に溢 れ て い たの を見 、 また 戦 後 の上 海 で は 、 国 民 党 の 腐 敗 と暴 虐 を 目の 当 た りに し た、 湯 氏 は 、新 中国 の 成 立 を、 多 くの 同 時代 の 知 識 人 と同様 歓 喜 して迎 え た。 彼 は こ の新 し い時 代 ・国 家 の た め に 、 これ ま で研 鑽 して き た 経 学 を生 か し、 アヘ ン戦 争 以 来 、 伝 統 経 学 が 時代 の 変化 に ど う対 処 し変 遷 し、 終 結 して い っ た か を明 らか に し よ う と して も不 思 議 で は な い 。 彼 が 選 ん だ テ ー マ は戊 戌 変 法 史 で 、 特 に康 有 為 に興 味 を持 った 。 そ れ は これ ま で 学 ん だ 今 文 経 学 の知 識 を生 か せ る と考 え たか らで あ った 。彼 は 昼 間 は授 業 、 夜 間 は 自分 の 研 究 とい う生 活 を堅 持 し、 そ の 中 で 生 まれ た成 果 が 『戊 戌 変 法 史論 』(上 海群 聯 出版 社 、1955)、 『戊 戌 変 法 事 物 伝 稿 』(中 華 書局 、 初 版 1961、 増 訂 版1982)で あ る。 1956年 、 中 国科 学 院 上 海 歴 史研 究 所(後 の上 海社 会科 学 院 歴 史研 究 所) に、 呂思 勉 氏 の推 挽 に よ り勤 務 す る こ と とな り、 主 に 上 海 の近 代 史 関 係 の 史 料 編 纂 に携 っ た。 常 州 時 代 以 来 の 、 夜 間 に 自分 の研 究 をす る とい う習 慣
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 は 続 き、 夜 間 は 自宅 で 、 師 で あ る周 予 同 氏 を助 け るた め に、 『辞 海 』の 経 学 史 関 係 の 項 目 を執 筆 し、 周 氏 と連 名 の 「博 士 制 度 と秦 漢 政 治 」、 「王 莽 改 制 と今 古 文 問題 」 な どの 経 学 史 の論 文 を執 筆 した。 また この 頃 これ まで 学 ん だ 古 文 経 学 を生 かせ る と考 え、 辛 亥 革 命 史 、 特 に章 炳 麟 もテー マ に選 び 、 長 年 収 集 して きた 章 の 佚 文 や 『太 炎 文 録 』 の整 理 ・校 訂 ・標 点(句 読 点 を 付 け 、 固有 名 詞 に傍 線 を付 け る)の 作 業 を行 っ た。 その 成 果 と して 、 『章 太 炎 政論 選 集 』(中 華 書 局 、1977)が 完 成 し、 ま た 『章 太 炎 年 譜長 編 』(中 華 書 局 、1979)の 初 稿 も完 成 した。 と こ ろが 、1966年 、 文 化 大 革 命 が起 こ る と、 周 予 同 と連 名 で書 い た 『博 士 制 度 と秦 漢 政 治 』 な どの 経 学 史 の論 文 が 、 「大毒 草 」 と批 判 され 、五 ・七 幹 部 学 校(知 識 人 の労 働 改 造 の ため の収 容 所)に 送 られ た 。 この よ うな状 況 に お い て も、彼 は 人 目 を盗 ん で は、暇 を見 つ け て は研 究 を継 続 した 。1972 年 、 労 働 改 造 か ら解 放 され て 、 『宋 史 』 の校 訂 ・標 点 の 参 加 した。1978年 、 再 建 さ れ た 上 海 社 会 科 学 院 歴 史 研 究 所 に研 究 員 と して復 帰 し、 以 後 『章 太 炎 政 論 選 集 』(中華 書 局 、1977)・ 『章 太 炎 年 譜 長 編 』(中 華 書 局 、1979)・ 『康 有 為 政 論 選 集 』(中華 書 局 、1981)・ 『戊 戌 変 法 人 物伝 稿 』(中華 書局 、1982)・ 『陶成 章 集 』(中 華 書 局、1986)な どの 近 代 中 国 の伝 記 ・年 譜 ・選 集 な どの 基 礎 資 料 集 、 『戊 戌 変 法 史 』(人 民 出版 社 、1984)・ 『康 有 為 と戊 戌 変 法 』(中 華 書 局 、1985)の 近 代 史 関係 の単 行 本 を 出版 し、康 有為 ・章 太 炎 ・近 代 経 学 関 係 の論 文 も 多数 執 筆 発 表 した 。 ま た、1983年 の 日本 を皮 切 りに 、1985 年 は香 港 ・ア メ リカ合 衆 国へ 行 き、 海 外 で の講 学 ・資料 収 集 ・学 術 交 流 を 精 力 的 に行 った 。 彼 の 学 問 の特 徴 は 、大 き く二 つ あ る。一 つ は 、実 証 主 義 的 方 法 論 で あ り、 一 つ は 反 帝 国 主 義 反 封 建 の政 治 的 立 場 に立 ち 、 思 想 を政 治 の流 れ との 関 連 で考 察 す る 点 で あ る。 前 者 は、 呂 思 勉 氏 か ら学 ん だ もの で 、 広 く資料 を渉 猟 し、 そ れ ら を丹 念 に 検 討 す る とい う、 地 道 な基 礎 作 業 を通 じて、 事 実 を
阿 川 修 三 明 らか に し、 そ して事 実 間 の 関 係 、 全 体 の 流 れ をつ か む と い う もの で 、 派 手 さ は な いが 堅 実 で あ る。この こ とは彼 の 業 績 の 過 半 を 占め る選 集 ・年 譜 ・ 伝 記 に よ っ て も明 らか で あ る。 後 者 は 、 周 予 同 氏 か ら学 ん だ もの で 、 あ る 思 想 、 例 え ば 、康 有為 ・章 太 炎 らの 思 想 を抽 象 的 な もの と見 ず 、 中 国 の 近 現 代 政 治 史 の 中 に 存 在 す る具 体 的 な もの と して捉 え、 そ れ ら と政 治 との 相 関 関 係 を明 らか に す る。 そ の場 合 、 毛 沢 東 の規 定 し た 中 国近 代 史 の 、 反 帝 国 主 義 反封 建 とい う枠 組 み を前 提 とす る。 さ て 、 本 書 『近 代 経 学 と政 治 』 は、 第一 章 導 論 、 第二 章 漢 学 の復 興 、 第 三 章 漢 学 の 遞 変(次 第 に変 化 す る)、 第 四章 経 学 の 錮 蔽(閉 ざ し覆 う)、 第 五 章 経 学 の 改 造 、 第六 章 「旧学 」 と 「新 学 」、 第 七 章 「革 命 、 第 入 章 経 学 の 終 結 、 の 本 文 と、 付 録 の近 代 経 学 年 表 か ら な り、 経 の 定 義 ・今 文 古 文 の相 違 ・経 学 の学 派 分 類 な どの 経 学 の基 礎 知 識 か ら説 き起 こ し、 清 初 の考 証 学 か ら五 四 に お け る経 学 の 終 結 まで の近 代 経 学 の流 れ を政 治 との 関連 を 中心 に概 説 した大 著 で あ る。 これ まで近 代 経 学 を 鳥瞰 した 書 物 は文 献 の 読 み に くさ も あ り、 ほ とん ど見 受 け な い が 、 幼 少 よ り経 学 の 雰 囲 気 に 直 に 接 し、 今 文 経 学 ・古文 経 学 の いず れ に も精 通 し、 か つ そ れ らを 中 国現 代 史 の 激 動 を く ぐ り抜 け る こ とに よ っ て客 観 視 で きた著 者 に して は じめ て この よ うな 書 物 が 可 能 とな っ たの で は な いか と思 う。 そ の 上 、 康 有 為 を扱 っ た、 第 五 章 経 学 の 改 造 、 章 太 炎(炳 麟)を 扱 っ た 、 第 七 章 「革 政 」 と革 命 とは、 著 者 の長 年 の 研 究 成 果 を取 り入 れ 分 量 も全 体 の 四 割 を 占め 、 本 書 の圧 巻 とな っ て い る。 今 日、 日中両 国 の 学 界 で は、 経 学 を た だ単 に封 建 時 代 の遺 物 と 見 るの で は な く、 今 な お我 々 に深 い影 響 力 を持 っ て い る、 経 学 の もた ら し た文 化 意 識 に関 心 が集 ま り、 そ れ に つ い て の 分 析 検 討 が 盛 ん に行 わ れ て い る。 つ ま り、 本 書 は そ の 点 で も興 味 深 い もの の よ うに 思 わ れ る。 今 回 は こ れ まで 取 り上 げ られ る こ との少 な い 、 経 学 が 五 四文 化 運 動 の 中 で 、 どの よ うに して終 結 して い くか を述 べ た 第 入 章 第 三 節 「経 学 の終 結 」を訳 出 した。
近代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与政 治)(湯 志 鈞著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 内容 に つ いて は、 贅 言 す る こ とを控 えた いが 、 最 後 に、 本 翻 訳 の要 点 は 、 康 有 為 ・崔 適 か ら疑 古 惑 経(古 代 を疑 い、 経 書 を怪 しむ)の 啓 発 を受 け た 顧 頡 剛 ら疑 古 派 は、 五 四期 の 新 思 潮 の 影 響 受 けて 、 経 書 の 真 偽 を疑 うだ け で な く、 伝 統 的古 代 史像 を覆 し、 更 に は 儒 家 の道 統 説 を打 破 し、神 聖 に し て侵 す べ か ら ざ る経 書 まで も否 定 し、 経 書 ・孔 子 の権 威 を根 底 か ら揺 さぶ り、 そ の 結 果 、 経 学 の終 結 を促 した とい う点 に あ る こ とだ け述 べ て お く。 訳 文 の 中の 〔 〕 で 囲 ん だ数 字 は 原 注 の番 号 で 、 ○ で 囲 ん だ数 字 は 訳 注 の番 号 で あ る。 な お、 訳 文 に示 した 割 り注 は、()は 著 者 が 〔 〕は 訳 者 が付 け た もの で あ る。 ま た 引用 文 に は 明 らか に誤 植 と思 わ れ る もの が あ る の で 、 それ につ い て は も との 文 献 に従 っ て直 し、 そ の 旨 は一 々 注 記 し なか っ た 。 引 用 文 で翻 訳 の有 る もの は 、 それ らを参 照 した 。 第 三 節 五 四運 動 と経 学 の 終 結 五 四 運 動 は、「徹 底 的 に封 建 文 化 に 反 対 した 運動 で あ り、中 国 の 歴 史 始 ま ユコ っ て 以 来 、 こ の よ うに偉 大 で徹 底 し た文 化 革 命 は まだ な か っ た。」 そ れ は 、 封 建 的社 会 制 度 ・意識 形 態 を全 面 的 に破 壊 し、 そ の汚 泥 ・濁 水 を洗 い清 め 、 二 千余 年 思 想 界 を支 配 し た儒 教 経 学 も、 これ か ら再 起 不 能 とな り、 歴 史 の 舞 台 か ら退 場 した。 経 学 の 終 結 は、孔 子 とい う偶 像 の 動 揺 と経 学 市場 の 消 失②に 現 れ た。か つ ③ て 、 「大 成 至 聖 先 師 」で あ る 孔 子 は 侵 す べ か ら ざ る も の で あ っ た が 、 五 四 以 後 、 孔 子 は 既 に そ の 地 位 を 先 秦 諸 子 と同 列 に 扱 わ れ 、 胡 適 〔1892∼1962〕 の 『中 国 哲 学 史 大 綱 』 は 、 中 国 哲 学 思 想 を 老 子 ・孔 子 か ら 始 め 、 堯 ・舜 ・ 禹 ・湯 か ら 始 め な か っ た 。 老 ・荘 以 前 の 史 料 は 、 『尚 書 』 を 採 用 せ ず 、 『詩 経 』 を 採 用 し た 。 こ の よ う に 、 孔 子 と老 子 と を 同 等 に 扱 う だ け で な く、 儒 家 が 宣 称 し た 堯 ・舜 ・禹 ・湯 の 「至 盛 の 治 」 に 疑 い を 表 明 し、 儒 経 に 記 載 さ れ た 堯 ・舜 ・禹 ・湯 の 事 跡 に も疑 い を 表 明 し た 。 こ れ 以 後 、 疑 古 〔古 代
阿 川 イi多三 を疑 い〕・辨 偽 〔経 書 の真 偽 を辨 別 す る〕の 気 風 が 起 こ り、 地 下 の考 古発 掘 も加 え 、儒 家 経 典 自体 の真 偽 も検 討 しな け れ ば な らず 、聖 人 が こ し ら え た 経 書 ・賢 人 が著 した伝 も昔 日の 権 威 は全 く無 くな っ た 。 当 然 なが ら、何 人 か の 因循 保 守 的 な経 学 者 が お り、 まだ 経 学 とい う世 襲 の 陣 地 に しが み つ き 守 ろ う と したが 、 ほ ん の わ ず か な 範 囲 で 「年 老 い て まで 経 書 の奥 義 を追 究 す る」 だ け で、 そ の影 響 も局 部 的 ・一 時 的 で あ っ た 。 辛 亥 革 命 後 の 尊 孔 読 経 の 喧 騒 の 中 で 、 『孔 教 会 雑 誌 』とい う刊 行 物 は何 と手 が 付 け られ な い ほ ど 荒 れ 狂 っ た こ とか 。 それ は北 京 、 上 海 な どの大 都 市 で 鼓 吹 し発 行 した だ け で は な く、 地 方 の 封 建 勢 力 も甘 ん じて そ の 後 塵 を拝 した。 た とえ ば、 山 西 に コ 省 太 原 で は、 『宗 聖 匯 編 』 を 出 版 し、 年 号 に 孔 子 紀 年 を 用 い、 袁 世 凱 〔1860∼1916、孫 文 か ら 中華 民 国 大 総 統 の職 を奪 い 、専 制 独 裁 政 治 を行 い 、 後 に皇 帝 に な ろ う と した 軍 閥 〕、 黎 元 洪 〔1866∼1928、 袁 世 凱 の 死 後 大 総 統 とな っ た 軍 人 〕らは 自 ら題 字 を書 い た り、 四川 で は 、 『国学 匯 編 』を出 版 し、 第 三 号 か ら廖 平 の 『尊 孔 篇 』 を連 載 した 、 な どが そ れ で あ る。 五 四運 動 以 後 は ど うか 。 こ の た ぐい の 刊 行 物 は だ ん だ ん とその 姿 を消 し て い っ た。 た とえ、 ま ま、 そ の よ うな もの が 刊 行 され て も販 路 は広 くな く、 程 無 く廃 刊 とな っ た。 あ の しば しば その 主 張 を変 え た経 学 「大 師 」 は 、 そ の様 子 も既 に一 変 した。 康 有 為 は保 皇 復 辟 〔帝 制 を復 活 し、 清 の 宣 統 帝 を皇 帝 に 担 ぎ 出 す〕 に よ っ て 罵倒 を浴 び 、 そ の一 生 を終 え、 廖 平 もそ の 主 張 を何 度 と な く変 え 、 牽 強 附会 し、 その 結 果 、 窮 地 に陥 っ た。 経 学 の終 結 は 、 封 建 勢 力 が 再 び 「経 学 」 とい う破 れ 旗 を揚 げ た が 、 そ れ を信 ず る者 は益 々 少 な くな り、 帝 国 主 義 者 も表 立 って 尊 孔 読 経 を行 うこ と は 決 し て な か った こ とに現 れ た 。 民 国 初 年 、 尊 孔 の 濃 霧 が 立 ち 込 め 帝 制 復 0 活 の 陰 謀 が 企 まれ たが 、 ロ シ ア の 封 建 貴 族 カ イ ザ ー リン グ も 「孔 教 は 中 国 の 基礎 で あ る」 とわめ きた て る こ とに追 随 して 、 彼 は 「孔 子 学 説 の 有 利 な 条 件 に 注 目 し」、帝 制 復 活 派 と何 度 も連 絡 を取 り、一 犬 形 に 吠 ゆ れ ば 、百 犬
近代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞著)一 解 題 と 訳注 〔1〕 一 声 に 吠 ゆ る ご と く 〔一 人 が で た らめ を言 う と、 人 はす ぐに これ を事 実 と し て伝 え〕侵 略 活 動 を展 開 した 。 「五 四 」以 後 に は、 こ の よ うな 状 況 は 殆 ど見 られ な くな り、た とえ何 人 か の 清 朝 の遺 老 が 孔 孟 の 道 を宣 伝 した と して も、 そ れ に 賛 同す る者 は 、 その 数 、 寥 寥 た る もの で、 い ず れ も 「む く ろ ・枯 骨 」 の類 で 、 ほ とん ど もの を尋 ね る 人 もい な い とい う状 態 で あ っ た。 経 学 の 終 結 は 、 ま た思 想 界 は二 度 と経 学 を 中心 に展 開せ ず 、 経 学 の 羈 絆 か ら脱 け 出 した こ とに も現 れ た。 「五 四 」以 後 、 マ ル クス 主 義 が 瞬 く間 に伝 わ る と、 進 歩 思 想 を持 っ た知 識 人 は 、 か つ て の よ うに は儒 家 の経 典 の 中 に 自分 の 理 論 の根 拠 を探 す こ と をせ ず 、 儒 経 を研 究 ・整 理 の 対 象 と し た。 か つ て の よ うに 孔 子 に ひれ 伏 し崇 め る こ とはせ ず 、 孔 子 を代 表 とす る儒 家 思 想 を き ち ん と整 理 した。 つ ま り、 一 世 を風 靡 した 乾嘉 時 代 の 漢 学 か ら見 れ ば 、考 証 の 方 法 も範 囲 も既 に全 く違 い、 た だ 経 書 を も とに経 書 を考 証 す る や りか た は で き な くな り、 考 古 発 掘 を重 視 し、 諸 子 の 群 籍 を参 考 と し検 討 し なけ れ ば な ら なか っ た。 かつ て 歴 史 を研 究 し よ うが 、 文 学 を研 究 しよ う が 、 そ の他 の 「国 故 」 〔中 国 の文 化 〕につ い て も、 経 書 を基 準 と し な い こ と は な く、 「子 」・「史」 ・「集 」 を信 用 しな い こ とはか ま わ な い が 、 「経 」 を必 ず信 用 しな け れ ば な らな か っ た 。 そ こ で 、 哲 学 史 を講 ず る場 合 は 、 伏 羲 が 八 卦 を描 い た こ とか ら説 き始 め 、 文 学 史 を講 ず る場合 は 「虞 書 」 〔『尚書 』 の 篇 名 〕を虞 舜 の 時代 の 文 学 と した 。 「五 四 」以 後 、 経 書 は古 代 史 の 資 料 と な り、 審 査 を経 て 、 そ の 中 に孔 子 以 後 の儒 家 の 贋 物 も あれ ば、 歴 代 の 儒 家 が解 釈 した憶 説 もあ るこ と を発 見 し た。 「経 」の 地位 が 動 揺 して、 それ は古 代 史 を講 ず る唯 一 の 「経 典 」 で は な くな り、 二 千 年 来 思 想 界 で支 配 的 地 位 を 占め て きた経 学 は終 結 した。 経 学 が 終 結 し、 経 書 が 古 代 史 の 資 料 とな っ た の に は 、 顧 頡 剛や 彼 を代 表 とす る 「古 史 辨 」 派 ⑥が 大 き な役 割 を果 た した。 そ こ で、 顧 頡 剛 先 生 の経 学 観 か ら 「五 四 」 の社 会 の 動 揺 や そ の 思 想 の変
ド可 川 イi三 化 を見 い 出 す こ とが で き るの で あ る。 顧 頡 剛 は一 九 一 三 年 北 京 大 学 予 科 に 入 学 し、 章 太 炎 〔炳 麟 〕 の 国 学会 で の 講 義 を 聞 い た こ とが あ り、彼 に 大 変 敬 服 した 。「古 文 家 は 理 に 叶 って い る しヨ が 、 今 文 家 は全 くで た らめ な 人 だ と思 った 。」す ぐに 、 彼 は 康 有 為 の 著 作 を 読 み 、 そ こで 、 「今 文 家 に対 して 公 平 に見 られ る よ う に な り」、 上 古 の事 跡 に つ い て は 「茫 昧 無 稽 〔ぼ ん や り と して よ くわか らず 、 根 拠 が な くで た ら め 〕」 と い う考 えに は、 「心 に 叶 い、 理 に 叶 う」 と感 じ、 康 有 為 の 「鋭 敏 な し 観 察 力 に は 充 分 な敬 意 を表 さ な い わ け に は いか な い 」 と思 っ た 。 一 九 一 六 年 、 顧 は 北 京 大 学 文 科 中 国 哲 学 科 に 進 ん だが 、 宋 代 の 理 学 に は 「興 味 を感 じず 、」 胡 適 の 影 響 も受 け た 。 「胡 適 が 『中 国哲 学 史 』 を講 義 し、 唐 、 虞 、 夏 、 商 を捨 て 置 い て 、 直 に周 の 宣 王 か ら説 き始 め た こ と」が 、 「上 古 の 歴 史 は信 頼 で き な い とい う観 念 は、 『改 制 考 』を読 ん だ 後 に、 こ の よ うに して再 し コ び温 め られ た。 更 に進 ん で 、 『偽 経 考 』 に標 点 〔句 読 点 と、 書 名 ・地名 ・人 名 に傍 線 を付 け る こ と〕 を付 し、 『辨 偽 叢刊 』 の編 集 を開 始 し、 一 つ 一 つ 、 偽 史 の 中 の事 実 が ど こか ら起 こ り、 ま た どの よ うに 変 遷 した か を調 べ よ う と した 。」「一 つ 一 つ偽 史 の 中 の事 実 を調 べ 、こ の 人 が どの よ うに 言 っ たか 、 あ の 人 も また どの よ うに 言 っ た か を列 拳 し、 比 較 検 討 し、 ま る で裁 判 をす る よ う に彼 らの で た らめ を言 い 逃 れ る こ との で き な い よ うに した。」あ わせ て 、 「彼 ら の偽 作 の タイ プ を探 し出 し た。」 自 ら、 次 の よ うに 言 っ て い る。 「私 が 旧 来 の 古 代 史 像 を覆 そ う と した動 機 は 、 も ともと、『孔 子改制考』が は っ き りと上 古 の 事 跡 につ い て は 「茫 昧 無 稽 〔ぼ ん や りと して よ くわ か ら ず 、 根 拠 が な くで た らめ〕」で あ る こ と を指 摘 し た こ とに 啓 発 さ れ たか らで あ る。 こ の 頃 に な る と、 更 に 長 素 〔康 有 為 〕 先 生 の卓 識 に傾 倒 した。 しか し、 私 は今 文 学 の 態 度 に は 、全 く敬 服 で きな か っ た 、」 と。 なぜ か 。 彼 は、 康 有 為 は 「歴 史 の 真 偽 を弁 別 す る こ と を手 段 と し、 改制(政 治 制 度 を改 革 す る)を 目的 と し、 そ れ は 、 政 策 を運 用 す る ため で あ って 、 学 問 を研 究 す
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 コ る こ と で は な か っ た 」 と、 考 え た か ら で あ る。 顧 頡 剛 は 、 自分 の 仕 事 は、 「手 段 と 目的 を一 致 」 させ よ う と し た。 これ と同時 に 、 彼 は ま た崔 適 の 講 じた、 今 文 の 陣 営 を厳 守 す る 『史 記 探 源 』、 『春 秋 復 始 』も聞 き、 『春 秋 公 羊 伝 』、 『春 秋繁 露 』を句 読 点 を付 け て読 み 始 め た。 一 九 二 〇 年 、 大 学 卒 業 後 、 銭 玄 同 と知 り合 っ た。 銭 玄 同 は、 章 太 炎 の弟 子 で 、 ま た康 有 為 の 『新 学偽 経 考 』や 崔 適 の影 響 を大 い に 受 け た。 彼 は 「今 文 古 文 いず れ に も通 暁 して い た が 、今 文 古 文 い ず れ に も満 足 して い なか っ た 。」 銭 玄 同 は一 度 な らず 、 次 の よ う に 言 っ た 。 「今 文 学 は孔 子 学 派 を伝 承 し、 展 開 させ た もの だ が 、 長 年 の 堕 落 変 質 を経 て その 本 来 の 姿 を 失 っ た。 古文 とい う新 勢 力 が 突 如 出現 して 、 古 文 家 は、 少 しば か りの 古 代 の 資料 を手 に 入 れ、 そ れ を 自分 た ち の考 えで 整 理 改 造 し、 寄 せ 集 め て そ の 古 文 学 を完 成 した。 か れ ら古 文 学 の 目的 は 、 その 古 文 に よ っ て今 文 家 の 向 こ う を張 る こ とで あ っ た 。 だ か ら、今 文 学 が 古 文 経 は偽 造 で あ る こ と を攻 撃 す る こ と も正 しい し、 古 文 家 が今 文 家 は 孔 子 の 真 意 を伝 え て い な い と攻 撃 す るの も正 しい。 我 々 は今 日、 古文 家 の 主 張 で今 文 家 を批 判 し、 ま た今 文 家 の 主 張 で古 文 家 を批 判 しな け れ ば な らな い。 彼 らの 両 方 の偽 りの 姿 を 一 緒 に 引 き裂 い て 、初 め て彼 らの真の姿が はっ きり現 れ るのだ、」と。 この 議 論 は 、 顧 頡 剛 に 「目の 前 に 入 口が 開 か れ た よ うに 、 我 々 に進 ん で この 二 C7l 千 年 来 の 学 術 史上 の大 案 件 に最 終 的 判 断 を させ た。」 この 後 、 顧 頡 剛 は 大 学 で の 講義 の 中 で、 経 学 中 の今 古 文 問題 に よ り認 識 を深 め る と と もに 、 上 古 史 の材 料 を系 統 的 に収 集 して 、 続 け ざ まに 『古 史 辨 』 を編 集 出版 した 。 顧 頡 剛 の論 文 と彼 が 編 集 した 『古 史 辨 』 で 書 い た 論 文 で 、 どの よ うな点 が今 文 経 学 の影 響 を受 け た の か 。 ま た、 そ の文 章 の 中 に、 今 文 に 敬 服 で き な い どの よ うな 点 が あ り、 今 文 に 比 べ て発 展 した と こ ろ が あ るか 。 顧 頡 剛 が 、 経 籍 の 真 偽 に疑 い を持 ち、 古 代 史 を弁 別分 析 した の は、 康 有
F可 川qi三 為 の 『新 学 偽 経考 』 の啓 発 を受 け たか らで あ る。 康 有 為 は 「初 め て偽 作 を し、 聖 人 の定 め た経 書 を乱 した の は劉 散 か ら始 ま り、偽 経 を普 及 させ 、 孔 子 の 学 統 を簒 奪 し た者 は 鄭 玄 に 完 成 し、」 「劉 散 は王 莽 が 漢 か ら皇 位 を簒 奪 し コ す る こ と を助 け 、 王 莽 も また 劉 音欠が 孔 子 の 学 統 を簒 奪 す る こ と を助 け た 、」 と考 え た。 顧 頡 剛 も 「劉 音欠が 数 種 の 古 文 経 伝 を学 官 に 立 て よ う と争 っ た 。 我 々 は そ の 時 彼 が 善 意 で あ っ た こ とを認 め るが 、 彼 の偽 作 竄 入 は確 実 な 事 C9) 実 で あ る、」 と考 え た 。 「劉 音欠は に せ の骨 董 を偽 造 し新 朝 の 文 化 を 開 き、 そ れ を世 に流 行 させ よ う と した 。 そ れ に は な に が しか の 時代 の 要 請 を入 れ な い 訳 に は い か ず 、 権 勢 者 を鼓 動 す る、 護 法 の 方 術 を作 っ た 。」 だ か ら、 「王 ユ コ 莽 を 助 け 、 漢 か ら 皇 位 を 簒 奪 す る の を 助 け 、」 「国 師 と な っ た 。」 康 有 為 は 、 古 文 経 の 由 来 と い う 問 題 を 提 起 し 、 崔 適 の 『史 記 探 源 』 で は 更 に 次 の よ う に 言 っ た 。 「『史 記 』 は 本 来 、 今 文 学 で あ っ た が 、 劉 款 の 改 竄 に よ っ て 古 文 説 も 混 入 し た 、」 と0顧 頡 剛 は 『史 記 』 「五 宗 世 家 」 と 『漢 書 』 「景 十 三 王 伝 」 と を 比 較 し 、 「そ の 真 偽 を弁 別 し」、 更 に 「『史 記 』 「儒 林 伝 」 「叙 録 」伝 経 系 ロ ユコ 統 異 同 表 」 を著 した。 顧 頡 剛 が 、 経籍 の 真偽 に疑 い を持 ち、 古 代 史 を辨 別 分 析 した の は、 同 時 に康 有 為 『孔 子 改 制 考 』 の啓 発 を受 け たか らで も あ る。 康 有 為 は、 孔 子 以 前 の 歴 史 は 、 孔 子 が 救 世 ・改 制 の 目的 で仮 託 した宣 伝 の た め の 作 品 で あ り、 い ず れ も 「茫 昧 無 稽 」 で、 中 国 の 歴 史 は、 秦 漢 以 来 は そ の真 の 歴 史 を調 べ る こ とが で き る、 と考 え た 。顧 頡 剛 は次 の よ うに 言 っ た。「中 国 の 歴 史 は一 般 に 誰 も五 千 年 あ る こ とを知 っ て い るが 、 偽 史 と、偽 書 を拠 り所 に して 成 り立 って い る偽 史 と を除 く と、実 は 二 千 余 年 あ るだ け で、 半 値 に 値 切 る勘 定 とな る。 こ こに 気 が つ く と、 思 わ ず 私 の 偽 史 を覆 そ う とす る壮 志 を引 き 起 こ し た。 初 め は偽 書 の 中 の偽 史 を覆 そ う とだ け 思 っ たが 、 この 頃 に な る と、 真 書 の 中 の偽 史 まで も覆 そ う と思 うよ うに な った 。 『孔 子 改 制 考 』の 第 一 篇 を読 ん で か ら、 五 、 六 年 温 め て 、 この 頃 に な っ て初 め て 旧 来 の 古代 史
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 像 を覆 そ う とす る 明瞭 な 意 識 と明確 な計 画 を持 っ た、」と。 顧 頡 剛 は 自 ら次 の よ うに 言 っ た 。「私 の、 旧来 の古 代 史 像 を覆 そ う とす る動 機 は、 も と も と 『孔 子 改 制 考 』 が は っ き り と上 古 の 事 跡 に つ い て は 茫 昧 無 稽 で あ る こ と を ユ コ 指 摘 した こ とに 啓 発 さ れ た か らで あ る、」 と。 顧 頡 剛 は今 文 経 学 の 「疑 古 惑 経(古 代 を疑 い 、 経 書 を怪 しむ)」 の啓 発 を 受 け て 、 『辨偽 叢 刊 』の 目録 の 草 案 をつ く り始 め た時 、 そ れ に は 『新 学 偽 経 ユヨ 考 』、 『孔 子 改 制 考 』と 『史 記探 源 』な どの 著 作 が あ っ た。 ま た劉 逢 禄 の 『左 氏 春 秋 考 証 』 つ い て は 、 「し き りに称 賛 して 」、 校 訂 を施 し、 句 読 点 を付 す 作 業 を進 め た。 また 、 彼 は銭 玄 同 の 意 見 に基 づ き、 『新 学 偽 経 考 』 の 「『漢 書 芸 文 志 』 辨 偽 」 の 『左 伝 』 と 『国 語 』 を辨 別 した一 段 、 崔 適 の 『史 記 探 源 』 の 「序 証 」 と 「十 二 諸 侯 年 表 」 との 二 篇 の 中 の 『左 伝 』 を辨 別 した数 段 、 『春 秋 復 始 』 の 「序 証 」の 『左 伝 』 を辨 別 した数 段 を、 そ の全 巻 の 補 篇 と して 付 録 と し た。 『古 史 辨 』 第 三 冊 で は、 更 に 『易 経 』 と 『詩 経 』 とを専 ら検 討 し、 「そ の 中 心 の 思 想 は 、伏 羲 ・神 農 に こ じつ け る 『周 易 』 の聖 経 の 地 位 を破 壊 して 、 そ の本 来 の 占 い の書 として の 姿 に も ど し、 文 王 ・武 王 ・ 周 公 に こ じつ け る 『詩 経 』 の聖 経 の 地 位 を破 壊 して 、 そ の本 来 の 楽 歌 と し ロ て の姿 に も どす こ とで あ っ た。」 しか し、 顧 頡 剛 は康 有 為 の 「卓 識 」に は傾 倒 した が、 「今 文 家 の 態 度 に は 全 く敬 服 しなか っ た 。」 「彼 は今 文 家 が 辨 偽 を手段 と して 、 改制 を 目的 とす る の は 、 政 策 を運 用 す る ため で あ って 、 学 問 を研 究 す る の で は な い と考 え た。 彼 らの 政 策 は 、 先 ず 第 一 歩 で上 古 の歴 史 を覆 し、 そ の 後 、 第 二 歩 で 孔 子 が 古 に 託 し て六 経 を著 し改 制 した こ とを 説 き、 更 に 進 ん で 第三 歩 で 自分 の 改 制 を 孔 子 を そ の先 例 と して 引 き出 し助 け と した。 彼 らの 目的 は ただ 政 策 を運 用 して 自分 た ち の 方 便 にす るに過 ぎ なか っ た。 だ か ら、 非 常 に 浅 薄 な 讖 緯 〔漢代 に 孔 子 に託 して 作 られ た 未 来 予 言 の書 〕 さ え も借 りて 自分 の 武 器 と して放 そ う とは しな か っ た。 彼 ら は政 策 と学 問 と を一 つ に混 ぜ 合 わ
F肩了 丿iiイ[多 三 せ たの で 、 学 問 上 で もい と もや す や す と 自分 の 理 性 を奇 怪 で で た らめ な説 ロ コ の 下 に屈 伏 させ て い くの で あ る。」つ ま り、 顧 頡 剛 は 、康 有 為 は 変 法 改 制 と い う政 治 目的 の た め に 、 「上 古 の事 跡 につ い て は茫 昧 無 稽 で あ る」こ とを宣 伝 し、 そ の 結 果 「政 策 と学 問 と を一 つ に 混ぜ 合 わせ て」、 讖 緯迷 信 の 奇 怪 で で た らめ な説 に こ じつ け て 「理 性 」 を 「屈 伏 させ て い く」 こ とをや め よ う とは しな い、 と考 え た。 こ の よ うに 、 彼 らは、 迷 信 の奇 怪 で で た らめ な 説 を 「怪 しむ べ きだ と し なが ら、 結 局 怪 しい とは し よ う とはせ ず 、」つ い に は ロ 「自分 を欺 き、人 を欺 くこ とに なった。」 顧頡 剛が古経 の真偽 に疑 い を持 っ た の は、 古 代 史 の 「茫 昧 無 稽 」 な 濃霧 を払 い の け 、 古代 史 に つ い て弁 論 し、 真 の歴 史 に も どそ う と し たか らで あ っ た。 彼 は先 人 の 研 究 の 基礎 の 上 に 、 「時 代 が 下 が れ ば 下 が る ほ ど、 伝 説 の古 代 史 の期 間 は長 くな る」とい う 「累 層 的 に 形 成 さ れ た 古代 史 説 」 を提 起 し、更 に劉 款は学者 ではな く、政 客 で あ る こ と を弁 析 し、 「五 徳 終 始 の 下 で の政 治 と歴 史 」 〔『古 史 辨 』第 五 下 編1935年 所 収 〕を著 した 。 当 然 なが ら、 顧 頡 剛 が 劉 音欠を攻 撃 した の は 、 歴 史 を捏 造 し、「王 莽 を助 け、 そ の簒 奪 を助 け た」か ら で あ り、彼 の 方 法 は 、 相 変 わ ら ず今 文 学 派 の それ で あ り、 多か れ少 な か れ 、 過 去 の 方 法 を繰 り返 して い る。 しか し、彼 の 学 問 の 方 法 は た だ 旧説 を踏 襲 して い る の で は な く、 ロ コ 「今 の 仕 事 を清 代 の 今 文 家 よ り、一 歩進め よ うとしか」ので あ る。 彼が「清 代 の今 文 家 よ り一 歩 進 ん だ 」点 は 、 「累 層 的 に 形 成 さ れ た 古 代 史 説 」に発 展 させ た だ け で は な く、 よ り重 要 な の は 、過 去 の 「道 統 説 」 を打 破 した こ と で あ っ た 。彼 は 次 の よ うに 言 っ た 。「これ ま で の 、人 が学 問 をす る最 大 の望 み は道 統 を継 承 す る こ とで あ っ た。 古 文 家 が偽 経 を 捏 造 し た の も この た め ロ コ だ し、 清 代 の 今 文 家 が偽 経 を排 除 した の も この た め で あ っ た 、」 と 。 も と も と、 儒 家 の伝 統 思 想 の下 で は 、 何 々 の 儒 家 の伝 道 の 系列 が あ る と 言 う こ とで あ り、 「五 百 年 の 間 に は、 必 ず 王 者 が 興 り」、 孔 子 の正 統 を継 承 した と 自任 した と言 う こ とで あ る。 唐 の 韓 愈 は 「原 道 」 篇 を 著 し、 仏 教 ・
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 老 荘 思 想 を 斥 け 、 所 謂 「堯 ・舜 ・禹 ・湯 ・文 王 ・武 王 ・周 公 ・孔 子 ・孟 子 」 の 道 の 伝 授 の 系 列 説 を 提 唱 し 、 ま た ど っ し り と 重 々 し く、 孟 子 を 継 承 し た こ と を 自任 し 、 宋 代 道 学 の 先 ぶ れ と な っ た 。 宋 儒 の 朱 熹 は 、 周(敦 頤)、 程 (顎 ・頤)が 孟 子 を 継 承 し た と し 、 自 分 は そ の 周 ・程 に 繋 げ て 、 儒 学 の 正 統 を 主 張 し、 韓 愈 を 打 ち 捨 て 無 視 し た 。 こ の よ う な 「道 統 説 」 は 封 建 支 配 階 級 の お 守 り と な っ た 。康 有 為 は 、 『孔 子 改 制 考 』で 、孔 子 以 前 の 歴 史 は 「茫 昧 無 稽 」 で あ る と 言 っ て い る に も係 わ ら ず 、 ま た 、 「堯 ・舜 は 孔 子 が 仮 託 し た も の で 」、 「経 典 に あ る 、 堯 ・舜 の 大 い な る 徳 ・大 い な る 事 業 は い ず れ も ロ コ 孔 子 の理 想 に よ っ て形 つ くられ た もの で 」、 経 は孔 子 が 著 した もの で あ る と した。 そ し て、 彼 は、 昔 な が ら のや り方 で、 ブ ル ジ ョア 階 級 の 必 要 とす る もの を孔 聖 人 の 看 板 の上 に 掛 け 、 孔 子 を 「神 明 な る聖 王 ・改 制 の教 主 」 と言 い、 変 法 の根 拠 とな る もの を儒 家 の 経籍 の 中 か ら探 し出 し、 孔 子 とい う亡 霊 に お 出 ま し を願 い、 孔 子 を盲 目的 に 崇拝 す る人 に、 衣 装 替 え した 孔 子 とい う神 を信 奉 させ 、 ま だ孔 子 の 真 伝 を受 け 継 ぎ、 孔 子 の 系 統 を継 承 し た こ と を 自任 した 。 顧 頡 剛 は そ うで は な か っ た。彼 は 次 の よ うに言 っ た。「これ ま で の 、人 が 学 問 を治 め る こ との最 大 の望 み は、 道 統 を継 承 す る こ と で あ っ た 。 古 文 家 が 偽 経 を捏 造 した の も この た め だ し、 清 代 の今 文 家 が偽 経 を排 除 し たの も この ため で あ っ た。 しか し、 今 日に な る と、 孔 子 の勢 力 は 以 前 の そ れ に は 遠 く及 ば な くな っ た。 我 々 は この よ うな 「正 統 を求 め る 」 観 念 を打 破 し、 そ の よ うな観 念 を 「真 実 を求 め る」⑦ 観 念 に 替 え るべ き で あ るC20f°〕顧 頡 剛 は た だ伝 統 の 経 籍 に 疑 い を持 っ た だ け で は な く、 「孔 子 は 六 経 を刪 述 〔文 章 の 良 くな い と こ ろ を削 り良 い と ころ を述 べ 伝 え る〕 し た」 とい う こ と を信 奉 しな か っ た。 彼 は 「六 経 は 本 来 周 代 に通 行 した数 部 の 書 物 で あ り、 『論 語 』 に は孔 子 が 六 経 を刪 述 し た とい う記 事 は見 つ け られ ず 、時 代 が 下 っ て、『孟 子 』 〔離 婁 下 」〕 にや っ と孔 子 が 『春 秋 』 を著 した とあ る だ け で あ っ た。 更
阿 川 修 三 に 時 代 が 下 っ て 、 『史 記 』 〔「孔 子 世 家 」〕 に 、 や っ と 孔 子 が 『易 』 に 賛 を書 き、 『書 経 』 に 序 を 書 き 、 『詩 経 』 を 刪 定 〔不 当 の 字 句 を 削 り、 整 理 す る 〕 し た と あ る だ け で 、 更 に 後 の 『尚 書 緯 』 に 、 孔 子 が 『書 経 』 を刪 定 し た と あ る だ け で あ る 。更 に 後 の 清 代 の 今 文 学 に な り、や っ と孔 子 が 『易 経 』 ・『儀 礼 』 を 著 し た と言 っ た 。 つ ま り、 彼 ら は 不 完 全 な も の を 見 て は 、 そ れ を 孔 子 が 刪 定 し た と指 摘 し 、 完 全 な も の を 見 て は 、 そ れ を 孔 子 が 著 し た と指 摘 し た 。 実 際 、 劉 知 幾 〔661∼721〕 の 『史 通 』 の 「惑 経 」 を 読 ま れ よ 。 そ れ に は 、 『春 秋 』 が も し本 当 に 孔 子 が 著 し た も の な ら、 「乱 臣 賊 子 」 を大 い に 恐 れ させ る こ と は で き な い で は な い か と あ る 。 万 斯 同 〔1638∼1702〕 の 「『今 文 尚 書 』 と 『詩 』 三 百 篇 を 疑 う 」 を 読 ま れ よ 。 そ れ に は 、 も し 孔 子 が 刪 定 し た と し た ら 、 彼 は 暴 君 を 奨 励 し 、 淫 乱 を 提 唱 し た こ と に な る と あ る 。 章 学 誠 〔1738∼1801〕 の 『文 史 通 義 』 の 「易 教 」 を 読 ま れ よ 。 そ れ に は 、 『儀 礼 』 が も し孔 子 の 著 し た も の な ら 、 孔 子 も王 者 の 典 章 ・制 度 を 僣 窃 し た こ と を免 れ な く な る と あ る 。 「六 経 は い ず れ も 周 公 の 定 め た 旧 い 典 籍 で あ る 」 と い う 説 は 、す で に 今 文 家 に よ っ て 覆 さ れ た 。 「六 経 は い ず れ も孔 子 の 著 作 ユコ で あ る」 とい う観 念 も い ま反 駁 され 覆 さ れ た 。」この よ うに 、 歴 代 の封 建 支 配 階 級 が 「公 認 し た」 儒 家 経籍 の 地 位 は既 に 動 揺 し、 知 識 分 子 が信 奉 して き た孔 子 とい う偶 像 も動 揺 し た。 こ の 点 か ら言 え ば 、 『古 史 辨 』の 反 封 建 の 意 義 は 明 らか で あ り、 儒 学 経 学 の終 結 を促 す こ とに役 割 を果 た し た。 顧 頡 剛 は大 胆 に 古代 経 書 の 真 偽 に 疑 い を持 ち 、 更 に 伝 統 的 歴 史 観 に疑 い を持 つ こ とに発 展 し、 これ らの神 聖 に して侵 すべ か ら ざ る経 典 を否 定 し、 新 史 学 の 建 立 を促 し、 五 四以 来 の 反 封 建 の 中 で も重 要 な役 割 を果 た した。 顧 頡 剛 は五 四 時 期 、北 京 大 学 に学 び 、新 思 潮 の 影 響 を受 け て、「初 め て 旧 し コ 思 想 を打 破 す る明 確 な意 識 を持 っ た。」 彼 は 今 文 経 学 の 啓 発 を受 け た が 、 二 千 余 年 の 間 支 配 して きた儒 家 経 学 に は 疑 い を生 じた 。 彼 は 長 年 伝 承 され て きた儒 家 の 道 統 説 を既 に 認 め な い だ け で な く、 儒 家 が 宣 伝 した 堯 ・舜 ・
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 禹 ・湯 の 「至 盛 の 治 」 を も認 め なか っ た 。 この よ うに、 儒 家 経典 自身 の 真 偽 は 、検 討 せ ね ば な らず 、 聖 人 が こ し ら え た 「経 」・賢 人 が 著 した 「伝 」の 地 位 も昔 日の勢 い は な か っ た。 か つ て 清 代 の 崔 述 ・姚 際 恒は いず れ も書 物 の真 偽 を辨 別 し、顧 頡 剛 も彼 ら の影 響 を受 け たが 、 彼 自身 次 の よ うに 言 っ た 。 崔 述 の書 物 は私 に 古 書 の伝 ・記 が 信 用 で きな い 点 を啓 発 し、 姚 際 恒 の 書物 は伝 ・記 が信 用 で きな い だ け で は な く、 経 さえ もすべ て は信 用 で きな い 点 を啓 発 した 。 しか し、 崔 述 は伝 ・注 に 対 して 経 と合 致 す る所 は 参 証 し、 合 致 しな い所 は考 辨 を加 え、 依 然 と し て儒 家 経 典 を基 準 と した。 姚 際[亘も 主 と して 『書 経 』 で は梅 蹟 が献 じた 古 文 『尚書 』 が偽 書 で あ るこ とを弁 証 し、 『詩 経 』で は そ の 序 を廃 す る こ とを主 張 した 。顧 頡 剛 は次 の よ うに言 っ た 。 「崔 述 の 『考 信 録 』とい う書 物 は、 も ち ろ ん客 観 的研 究 が 少 な くな い が 、 し ヨコ 主観 の甚 だ しい 、 儒 家 の道 を守 るた め の議 論 も少 な くな い、」 と。 『洙 泗 考 信 録 』 の 「宗 経 」・「考 孔 」 な どが そ の 一 例 で あ る。顧 は 「儒 家 の 道 を守 る ため の議 論 」 に 反 対 し、果 敢 に 封 建 的 伝 統 へ 痛 撃 を加 え よ う と し、 神 聖 に して 侵 す べ か ら ざ る もの と して の 経 典 を否定 し た。 か つ て、 古 文 経 学 家 と今 文 経 学 家 とは 、 孔 子 と六 経 との 関係 に もそ れ ぞ れ 異 な っ た 見解 を持 っ て い た が 、 孔 子 の権 威 ・地位 につ い て は 、 対 立 す る こ と は あ りえ なか っ た 。 これ に 対 して 『古 史 辨 』 は、 こ れ ら古 文 学 ・今 文 学 の 学 派 の 立 場 を超 越 し、 自 己の 見 解 を提 起 し た。 顧 頡 剛 は 次 の よ うに 言 っ た。 「私 は 次 の よ うに考 え る。 孔 子 は 『詩 経 』 とだ け関 係 が あ るが 、 そ れ も た だ人 に 『詩 』 を学 ぶ こ とを勧 め た だ け の こ とで、 『詩 』 を 自 ら決 して 刪 定 し て い な い 。 『易 ガ 『書 』・『礼 』・『春秋 』につ い て は、 彼 とは 関 係 が な い と言 っ て もか ま わ な い 。 た とえ関 係 が あ る こ とを認 め る と して も、 そ れ は し コ 「用 い た 」 と い う 点 に あ り 、 「著 し た 」 と い う 点 に は な い 、」 と。 彼 は 古 文 経 学 家 の 、 孔 子 は 「述 べ て 作 ら ず 」 と 言 う説 を 乗 り越 え 、 今 文 経 学 家 の 、 孔 子 は 「六 経 を 著 し た 」 と い う説 を も 乗 り越 え 、 「大 成 至 聖 先 師 」孔 子 の 権
匹可 川1イi多 三 威 ・地 位 を動揺 させ た。 顧 頡 剛 と 『古 史 辨 』 とが 経 書 の 真 偽 に 疑 い を持 っ た こ とは 、 思 想 界 が 経 書 を 中心 に 二 度 と展 開せ ず 、 経 学 の羈 絆 か ら脱 け 出 す こ とを促 した 。 彼 は 「中 国 史 を再 び 整 理 し、」 「い ま先 ず 先 人 の 、 経 書 の真 偽 に 疑 い を持 っ た著 コ 作 を収 集 し順 に 配 列 し我 々 の 先 導 者 と し」 よ う と し、 更 に 「中 国 の 歴 史 界 し コ に一 大 革 命 を起 こ させ 」 よ う と した こ と を明 示 した。 彼 は 「経 書 は信 用 で き る歴 史 書 に他 な らな い とい う先 入観 」 を否 定 し、 次 の よ うに 言 っ た。 古 書 の真 偽 を調 査 ・弁 別 す る場 合 、 「経 書 は 信 用 で き る歴 史 書 に他 な ら な い と 信 じ、 経 書 の 言 葉 を基準 と し、 合 致 す る もの は真 と し、 そ うで な い もの は し コ 偽 とす るの は、」 「結 局 そ の 足 場 は不 安 定 で 依 拠 す る こ とが で き な い」の だ 。 彼 は儒 家 経 典 は 「信 用 で き る歴 史 書 」 で は な く、経 書 に 対 す る迷 信 か ら脱 して 、 中 国史 を 「再 び整 理 し」 な け れ ば な ら な い こ とを は っ き り と指 摘 し た。 ま さに 以 上 の理 由 か ら、 『古 史 辨 』は 出 版 して す ぐに 、 保 守 因 循 の 学 者 の 反 撃 に 遭 っ た。 こ れ か らの 、経 学 とい う世 襲 の 陣 地 を踞 っ て 守 る人 は、「突 然 盤 古 が 存 在 せ ず 、 三 皇 五 帝 も存 在 し な い とい う こ とを聞 きつ け て、 そ こ で騒 然 とな ら ざ る をzな か っ た 。」顧 頡 剛 は 「物 の 怪 に取 りつ か れ 、 つ い に し コ 聖 廟 を一 撃 して 一 盛 りの 塵 に す るの か 。」 劉 挨 藜 は 経 典 の常 識 に基 づ い て 反駁 し、柳 詒 徴 は皮 肉 げ に 次 の よ うに 言 っ た。「今 の 学 者 が 文 字 に よ っ て古 代 史 を研 究 し よ う とす れ ば、 先 ず 許 書 〔『説 文 解 字 』〕 を熟読 し、 清 代 の儒 し 者 の 著 述 に濳 心 し、 その あ とに 、 再 び疑 古 を議 論 す れ ば よい の だ、」と。 し か し、 『古 史 辨 』 第 一 冊 は 「一 年 の 内 に 、 二 十 版 まで 版 を重 ね 」、 そ れ は伝 統 的 封 建 文 化 の破 壊 に、 広 範 に 影 響 を及 ぼ した 。 『古 史 辨 』に は 「破 壊 が あ るだ け で、 建 設 が な い 」 と考 え る 人 もい るが 、 顧 頡 剛 は そ の よ うな意 見 に この よ うに対 処 した 。 彼 は次 の よ うに 言 っ た 。 「私 は 学 術 界 で は分 業 す べ きだ と思 う。」自分 は 「この方面(破 壊)を 多 く
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 や りた い 、」と。 実 際 の とこ ろ、 旧 い物 を破 壊 しな け れ ば 、 新 しい物 を打 ち 建 て る こ とは難 しい の だ 。 顧 頡 剛 の 「破 壊 」 は、 経 典 に 対 す る否 定 、 孔 子 に 対 す る懐 疑 を意 味 す るだ け で な く、 そ の うえ儒 家 経 学 二 千 余 年 の 伝 統 の 影 響 を そ の輪 郭 を描 き、暴 露 し た。彼 は次 の よ うに 言 っ た。「漢 と い う国家 は 、 封 建 社 会 の 気 風 を脱 す るこ とが で きず、 そ の た め 、 孔 子 の 道 は頓 挫 す るは ず が な か つ た 。漢 以 後 二 千 年 の 間 、社 会 は 一 度 も変 化 せ ず 、そ の た め 、 ヨ コ 孔 子 の 道 もこ の よ うに長 く伝 承 され 広 ま る こ とが で き た。」 孔 子 はす で に 封 建 時 代 の聖 人 な の だ か ら、 二 十世 紀 の 中 国 に お い て なぜ い まだ に こ の よ う な時 代 遅 れ の もの に恋 恋 と して い な け れ ば な ら な い の か。 同 時 に、 顧 頡 剛 が 破 壊 に 注 目 し た の は 、破 壊 が で きた後 に 、 新 しい建 設 が で きる よ うに す る た め で あ っ た。 彼 は 「考 古 学 者 の た め に 、 掃 除 の仕 事 を し、 彼 らの 新 しい系 統 を 旧系 統 に ま とわ りつ くつ か れ な い よ うに させ る ヨ ユコ こ とを願 っ た 。」 彼 は 晩年 、 回顧 録 の 中 で 、 王 国 維 へ の 心服 、 学 問上 受 け た影 響 の深 さ を依 然 と して 追 想 した。 彼 は 王 国 維 が 大 胆 に 書 物 の辨 偽 す る こ とが で きず 、「偽 史 」を用 い た こ とに、不 満 を示 した に もか か わ らず 、「彼 しヨ は博 学 で ま た創 造 力 に最 も富 む と考 え た 。」 顧 頡 剛 は、 王 国 維 が 考 古 発 掘 を利 用 し、 史 学 を 「建 設 」 した こ とに 、 依 然 と して敬 服 して い た こ とが わ か る。 当然 な が ら、 顧 頡 剛 は確 か に 「破 壊 」 に注 目 した が 、 経 学 家 の枠 か ら ま だ完 全 に は 脱 して い な い 場 合 もあ り、そ こに は あ る程 度 の 限 界 が 存 在 した 。 しか し、顧 頡 剛 の伝 統 的 古 代 史 像 へ の 懐 疑 は、 疑 い な く史 学 発 展 の た め の 重 要 な ス テ ップ で あ り、 歴 史 的 に肯 定 しな け れ ば な ら な い。 彼 と『古 史辨 』 とは 、 非 科 学 的 で 非合 理 的 な古 代 史 の 伝 統 を掃 蕩 し、封 建 とい う濃 霧 を き れ い に 振 り払 い、 経 学 の 権 威 を動 揺 させ た点 に お い て 、 不 滅 の 貢 献 が あ っ た。 顧 頡 剛 が 、崔 適 の 講 じた 、今 文 学 の 陣 営 を厳 守 した 、『史 記 探 源 』・『春 秋
F可 川1"多 三 復 活 』 の 影 響 を受 け た こ とが あ る と言 っ た こ とは 既 に述 べ た 。 崔 適 は どの よ うに今 文 学 の 陣 営 を厳 守 した の か 。 彼 の 『史 記 探 源 』・『春 秋 復 始 』 は ま た どの よ うな 書物 か 。 それ らは経 学 が 絶 体 絶 命 の状 況 の下 で 著 され た が、 ま た どの よ うな 問題 を反 映 した か 。 これ らの 問題 に つ い て検 討 探 究 す る こ ヨ ヨ とは、 経 学 の終 結 の 理 解 に助 け とな る で あ ろ う 。 崔 適(1852∼1924)、 字 は 騨甫 、号 は 懐 瑾 、 別 号 は 騨 盧、 浙 江 省 呉 興 の 人 で あ る。 か っ て杭 州 の 詁 経 精 舎 に 学 び 、 兪 越 の 弟 子 で 、 章 太 炎 と同窓 で あ っ た こ とが あ り、 師 兪'lrk古文 経 学 の 薫 陶 を受 け た こ とが あ り、 伝 統 的 な経 籍 に し っか り と した 基礎 が あ る。 後 に 康 有 為 の 『新 学 偽 経 考 』 の 影 響 を愛 け 、 古文 学 か ら転 じて 今 文 学 を治 め た。 1911年 冬 、 浙 江省 で 国 学 会 を組 織 す る こ とに な り、 章 太 炎 に 講 学 を依 頼 した が 、彼 は事 情 に よ り引 き受 け ず 、陽誉 龍 と崔 適 を代 わ りに 推 薦 した が 、 後 に 沙 汰 や み とな っ た 。1914年 、 北 京 大 学 に招 聘 され 、 『春 秋 復 始 』もこ の 年 に完 成 した が、1920年 招 聘 を解 か れ た。1922年 再 び 北 京 大 学 に 職 を得 、 予 科 の 国 文 教 員 とな っ た が 、 吃 音 で 講 義 が 苦 手 だ っ た の で、 専 ら予 科 の 作 文 添 削 を担 当 した。 この 時 、 北 京大 学 で は、 「経 学 通 論 」とい う科 目 を開 設 し よ う と して い た。 そ れ を担 当す る教 員 は、 講 義 が 「今 文 学 古 文 学 の いず れ に も偏 しな い こ と」 を求 め たが 、 崔 適 は今 文 学 を専 ら に頑 な に 尊 ん だ た め 、 結 局 その 選 か ら漏 れ 、 彼 に替 え て 陳 漢 章 を招 聘 し、 崔 適 は また もや 失 職 した。 彼 の 著 作 は 『春 秋 復 始 』の 外 に、 『史 記 探 源 』・『論 語 足証 記 』・『騨 廬 経 説』 ・『五 経 釈 要 』な どが あ る。 学 術 界 に影 響 の 比 較 的大 き な もの は 『史 記 探 源 』 ・『春 秋 復 始 』 で あ る。 崔 適 は 「銭 玄 同 に宛 て た 手 紙 」 の 中 で 、 自分 の思 想 の 演 変 を次 の よ うに 述 べ た。 「康 〔有 為 〕君 の 『偽 経 考 』は 二 十 年 前 に著 され 、 経 学 の 真偽 を専 ら論 じた 。私 は そ れ まで 紀 的 ・阮 元 ・段 玉 裁 ・兪 褪 の 諸 公 の 書 物 を片 時 も 忘 れ ず 諳 ん じて お り、 そ れ らの 書 物 は根 拠 が しっか り して い て 、 清代 の 初
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 期 の 諸儒 よ り優 れ て い る。 しか し、 私 の考 え る と こ ろで は反 駁 す べ き点 も あ る。 とこ ろ が康 の 書 物 に は そ れ が な い。 だ か ら、 彼 の 書 物 は古 今 に 匹敵 す る もの が な い ほ ど優 れて お り、 も しこ の書 物 が な か っ た ら、 私 も今 古 文 学 を兼 ね て宗 と し、今 に到 る まで 夢 の 中 に い るが ご と く、 経 学 に つ い て真 髄 を知 る こ とが な か っ た ろ う。」 ま た、 次 の よ うに言 っ た。 「漢 の 古 文 学 の 偽 りを知 る こ とが康 君 か ら始 ま り、私 の 康 君 との 関係 は 、 ほ ぼ 東 晋 の 『古 文 尚 書 』が偽 書 で あ る こ と を追 究 した 恵棟 と閻 若 醵 との そ れ に 比せ られ る。 「五 徳 」の 説 と 『穀 梁 伝 』 とは い ず れ も古 文 学 で あ り、 「文 王 を王 と称 し」、 「周 公 が 摂 政 とす る」 とい う主 義 は い ず れ も今 文 学 で あ る とい う よ う な こ とは い ず れ も康 〔有 為 〕 が 言 っ て い な い こ とで あ る が、 これ は 言 わ ば 、 秦 か ら燕 に 行 く場 合 、康 氏 とい う船 や 車 に 乗 らな け れ ば途 中の 趙 ま で しか 行 け ず 、 また 徒 歩 で は燕 まで行 け な い よ う な もの で あ る、」と。 彼 が 康 有 為 に 心 服 す る こ とか くの ご と くで あ っ た。 『史 記 探 源 』・『春 秋 復 始dも 康 有 為 の 思 想 的影 響 を受 け た後 の著 作 で あ る。 ヨ 『史 記 探 源 』は 辛亥 革 命 革 命 以 前 に完 成 し、今 文 学 の 観 点 に よ り 『史記 』 の 本 質 問題 を推 論 した もの で あ る。 『史 記 』 と 『漢 書 』 とは 、 史 学 の体 裁 の 上 で は、 い ず れ も紀 伝 体 の歴 史 書 で あ る。 相 違 点 は、 『史 記 』が 黄 帝 か ら漢 の 武 帝 ま で を記 載 し、 「通 史 」 で あ るの に対 し、 『漢 書 』 は 前 漢 一 時 代 の 歴 史 事 跡 を専 ら述 べ 、 「断代 史 」で あ る点 に お いて で あ る。 これ ま で 『史 記 』・ 『漢 書 』に 対 す る評 価 は そ れ らの歴 史 書 の体 裁 に つ い て 専 ら立 論 して き た 。 た とえ ば、 劉知 幾 の 『史 通 』 の 「六 家 」、 鄭 樵 の 『通 志 』 の 「総 序 」 な どが そ れ で あ る。 漢 の 高 祖 か ら武 帝 ま で の歴 史事 跡 に つ いて は、 『漢 書 』は 多 く の場 合 、 『史 記 』 に従 っ て 記 録 し、 『史 記 』 と 『漢 書 』 と の文 句 の 異 同 を専 ら調査 した学 者 もお り、 た とえ ば 、 倪 思 の 『班 馬 異 同 評 』 が そ れ で あ る。 また 、 文 学 史 の視 点 か ら 「散 」・「偶 」 の発 展 を評 論 した もの もあ る。 しか し、 これ ま で 『史 記 』の 内容 の 本 質 に 区分 を加 え た もの は な か っ た。 『史記
阿 川 修 三 探 源 』 は 経 学 の視 点 か ら 『史 記 』・『漢 書 』 に独 自の 見 方 を提 起 した。 崔 適 は 、 『史 記 』 は経 今 文 学 に 属 す 著 作 で あ り、 『漢 書 』 は 経 古 文 学 に属 す 著 者 で あ る と考 えた 。 『史 記 』の 中 に は、 今 文 説 及 び 『史 記 』全 体 とに相 違 す る部 分 、 つ ま り古 文 説 と 『漢 書 』 とに合 致 す る部 分 が あ るが 、 こ れ ら の部 分 は劉 款 の 改 竄 を経 た もの で あ っ た。彼 は次 の よ う に 言 っ た。「『史 記 』 の文 に は、 全 体 と矛 盾 し、 『漢 書 』と合 致 した部 分 が あ り、 そ れ もま た劉 款 しヨ コ が 継 ぎ足 した もの で あ る。」 「劉 は古 文 の経 伝 の 由 来 を 『史 記 』に 仮 託 し、 『尚 書 』 だ け が特 に 詳 しい、」 と。 しか し、 劉 音欠の 「ふ れ文 を 回 して 太常 博 士 を責 め る」に は 、 次 の よ うに あ る。 「あ る者 は 『尚 書 』 を完 備 して い る と して い る」 そ う な らば、 劉 款 以 前 は経 学 者 が伝 え た の は も とよ り孔 子 が 定 め た書 物 で あ り、 伏 生 の 時 に は完 備 して い た の で あ り、 残 缺 の テ キ ス トで は な い。 『史 記』・『漢 書 』で は 欧 陽生 が伏 生 に 事 え、 倪 寛 に 授 け 、 寛 は そ の 『尚書 』 の 学 問 を 孔安 国 か ら受 け、 孔安 国が その学 問 を受 けた学者につ い て 言 わ な い の は、 そ れ が 家 学 で あ る こ とが わ か る。 欧 陽 ・大 小 夏侯 の 学 問 は み な 倪 寛 か ら出 、寛 は 伏 氏 か ら出 、 また 孔 氏 か ら も 出て い るか ら、 孔 氏 ヨ コ の 書 物 は 伏 生 と 同 じ で あ る の だ 。」 『書 』 「序 」 に つ い て は 、 「こ れ も ま た 劉 款 の 偽 作 で あ り、 こ れ を 孔 子 に 仮 託 し、 『史 記 』に も 改 竄 を 加 え 、 そ れ に しヨ コ よ っ て 『史 記 』 を 百 鬼 夜 行 の ご と き 場 所 に 置 く こ と に な っ た 。」 た と え ば 、 「夏 本 紀 」 に は、 「諸 侯 は こ れ に 背 き、」 か ら 「孔 甲 が 崩 ず 」 ま で に つ い て 、 「各 テ キ ス トは 劉 累 が 龍 を 飼 う事 を 叙 し て い る が 、 こ れ は 劉 款 が 『左 伝 』 ヨ コ に 竄 入 し 、 そ れ が ま た こ の 「夏 本 紀 」に 竄 入 し た も の で あ る 。」 「殷 本 紀 」 に は 「「湯 誓 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を 著 し 、」 「「湯 誥 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を 著 し、」 「伊 尹 は 「咸 有 一 徳 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を 著 し、 咎 單 〔湯 の 司 空 〕 は 「明 居 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を 著 し、」 「帝 太 甲 元 年 、 伊 尹 は 「伊 訓 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を著 し 、 「肆 命 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を 著 し 、 「徂 后 〔古 文 『尚 書 』 の 篇 名 〕」 を著 す と あ る が 、 こ れ ら は 『書 』
近代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 「序 」か ら竄 入 し、」 「そ こ で 「太 甲 訓 〔古 文 『尚書 』の 篇 名 〕」三 篇 を著 し」 な ど と言 うの もい ず れ も 「『書 』 「序 」 か ら竄 入 した の で あ る。」 『史 記 』 は も と も と今 文 学 に属 す る著 作 で あ るが 、 劉 款 の 改 竄 を経 て い る。 劉 歃 は なぜ 『史 記 』 を改 竄 しな け れ ば な らな か った か 。 崔 適 は 次 の よ う に 考 え た。 劉 音欠は 「五 経 を さか さ まに した」⑧ 以上 、 そ れ を 『史 記 』 に及 ぼ し それ を左 証 に し、 王 莽 が 漢 の 皇位 を盗 み取 る こ と を助 け な い 訳 に は いか なか っ た。 こ の よ うに 経 伝 を偽 造 し広 範 に証 拠工 作 を行 うの は 、 劉 音欠一 人 の 力 で で き る もの で は な い。崔 適 は 次 の よ うに考 え た 。「王 莽 が 政 権 を握 る と、 天 下 の、 逸 『礼 』・古 『書 〔古 文 『尚 書 』〕』・『毛 詩 』・『周 官 〔『周 礼 』〕』・ 『爾 雅 』・天 文 ・図讖 〔予 言 の 書 〕・鐘 律 〔音 楽 書 〕・月令 〔農 時 暦 〕・兵 法 書 ・史 篇文 字 〔識 字 教 科 書 〕 を所 有 し、 それ に精 通 した 者 を召 し、 公 車 〔天 子 の 上 書 な ど を司 る宮 中 の役 所 〕 に 出頭 させ た 。 や って 来 た 者 が 前 後 して 数 千 人 で、 宮 廷 で そ れ ぞれ の学 説 を記 録 させ 経 書 な どの 書 物 の 誤 りを正 さ せ よ う と した。」 この 「数 千 人 ほ ど」 は、 劉 款 の 意 向 に 基 づ き、 彼 の 偽 経 を 助 け た 人 々 で あ り、 『史 記 』もほ か の 書 物 と一 緒 に 改 竄 を受 け た 。 崔 適 は次 の よ う に言 っ た 。 「劉 歃が 『史 記 』 に付 け 足 し を した の は 、太史公 〔司馬遷 〕 に不満が あ っ た訳 で は な い 。 彼 は五 経 を さか さ まに した の で 、 そ れ を龍 門 〔『史 記 』〕に及 ぼ し、左 証 と し、 そ れ を売 っ て新 王 室 の 制 度 文 物 の 絶 枝 と し た の で あ る。彼 が五 経 を さ か さ ま に した の は 、次 の よ うな事 情 に よ る。 父 劉 向が 成 帝 の御 世 に 『春 秋 』 の 災 異 の 説 を探 し取 り、 『洪 範 五 行 伝 』 を著 した。 端 緒 は 紛 ら わ しい が 、 世 の例 を痛 切 に そ し り皇 帝 の 外 戚 で あ る王 氏 を そ の 同 類 とす る こ と を宗 旨 と した 。 劉 款 は新 王 室 を補 佐 尊 奉 して お り、是 が 非 で も父 劉 向 の 説 に 反 対 した 。 そ こ で 、 彼 は 孔 子 の 『春 秋 』を単 な る魯 の 歴 史書 に 帰 結 させ、 自 ら 『書 』 「序 」百 篇 を著 し、 こ れ を孔 子 に仮 託 し た。 こ の こ とは後 で 詳 し く述 べ る。 この よ う に劉
阿 川 修 三 款 が 『史 記 』・経 書 を 改竄 し た の で、 孔 子 の 宗 旨 は頓 諭 し、 劉 向 の伝 え た 説 は 皆 誤 り とさ れ た 。 ま た、 こ の よ う な改 竄 に は 、 多 く古文 経伝 を 偽 造 し、 広 くそ の た め の 証 拠 工 作 をせ ね ば な らず 、 そ の た め の 文 章 は 膨 大 な量 に な る。 これ は 劉 音欠ひ と りで で き る もの で は な い 。 そ こで 天 下 の 逸 『礼 』・古 『書 〔古 文 『尚書 』〕』・『毛 詩 』・『周 官 〔『周礼 』〕』・『爾 雅 』・天 文 ・図 讖 〔予 言 の 書 〕・鐘 律 〔音 楽 書 〕・月令 〔農 時 暦 〕・兵 法 書 ・史 篇 文 字 〔識 字 教 科 書 〕 を所 有 し、 そ れ に精 通 し た 者 を召 し、 公 車 〔天 子 の上 書 な ど を司 る 宮 中 の 役 所 〕 に 出頭 させ た。 や っ て来 た者 が 前 後 して数 千 人 で、 宮 廷 で そ れ ぞれ の学 説 を記 録 させ 、 経 書 な どの 書 物 の誤 り を正 させ 異 説 を統 一 させ よ う と した と言 う。 この 文 は 〔『漢 書 』 の 〕 「王 莽 伝 」 〔上 〕 に 記 載 され て い る。 私 崔 適 が 考 え ます に、 劉 款 が 言 う、 誤 りを正 す とは 、 つ ま り彼 の 父劉 向 の 誤 り を正 す こ とで あ る。 異 説 を統 一 す る とは 、斉 ・魯 ・韓 の 『詩 』、 欧 陽 ・夏 侯 氏 の 『書 』 を 異 説 と し、 これ を彼 が仮 託 した孔 安 国 の 古 文 『尚 書 』・毛 公 の 『毛 詩 』 に統 一 し た とい うこ とで あ る。 逸 『礼 』 以 下 の 書 名 も ま た劉 音欠が偽 造 し た もの で あ る。 こ の数 千 人 ほ どは、 誰 一 人 と して、 国 師 で あ る嘉 新 公 〔劉 音欠〕 の意 向 を尊 重 し、 妖 誣 〔怪 し く偽 り〕 の 言 を根 拠 もな い の に で っ ち上 げ、 彼 の 意 見 を取 り入 れ な い 者 は い な い。 そ こ で、 群 経 は い ず れ も改 竄 を受 け 、 『史 記 』は経 書 を正 す 入 口 で あ るの で、 これ に も ヨ 改 竄 し な い わ け に は い か なか っ た の で あ る。 崔 適 の 『史 記 探 源 』 は 、康 有 為 の 『新 学偽 経 考 』 の影 響 を深 く受 け た 。 こ の点 につ い て、 彼 は 公 言 して憚 らな か っ た。 既 に掲 げ た 、 彼 が銭 玄 同 に 宛 て た 手 紙 の 中 で 、康 有為 を ひ と きわ称 賛 した。 実 際 、 『新 学偽 経 考 』第 二 巻 「『史 記 』の 経 説 は偽 経 を証 明 す る に 充分 で あ る とい う考 察 」で康 は 既 に 『史 記 』は 「多 く劉 音欠に 改竄 され たが 全 体 的 に 見 れ ば 明 らか で 純 粋 で あ る。 そ の 説 を 『漢 書 』 と比 較 す れ ば そ の 真偽 の ほ どは一 目瞭 然 で あ る、」 と述 べ
近 代 経 学 と政 治(近 代 経 学 与 政 治)(湯 志 鈞 著)一 解 題 と訳 注 〔1〕 一 た 。 こ の よ う に 康 有 為 は 既 に 崔 適 に 啓 示 を 与 え た が 、 『史 記 』の 中 の 、 今 文 説 及 び 『史 記 』 全 体 と に 相 違 す る 部 分 を専 ら 探 究 し た の は 、 他 な ら ず 崔 適 で あ っ た 。 た だ 『史 記 探 源 』 は 文 章 が 簡 単 で 、 言 葉 の 使 い 方 が 質 朴 で 、 根 拠 が 列 挙 で き ず 、 議 論 も 武 断 に 陥 り、 そ の た め 人 を 説 得 し え な か っ た 。 『春 秋 復 始 』 は1914年 に 完 成 し、1918年 北 京 大 学 出 版 部 か ら 活 字 版 で 出 版 さ れ た 。 こ の 本 の 主 な 論 点 は 、 『穀 梁 伝 』も 古 文 学 で あ り、 ま た 劉 音欠の 偽 造 し て 、 そ れ に よ っ て 『左 伝 』 の た め に 『公 羊 伝 』 を 取 り除 く こ と に 役 立 て よ う と し た と い う こ と で あ る 。 彼 は 次 の よ う に 言 っ た 。 「『漢 書 』 「梅 福 伝 」 に、 古 文 の 書 物 の 迹 を推 論 す る と、 『左 氏 』 ・『穀 梁 』 ・『世 本 』 ・『礼 記 』 に よ っ て 明 ら か に な る 、 と あ り、 『後 漢 書 』 「章 帝 紀 」 に 、 群 儒 に 『左 氏 』 ・『穀 梁 』 ・古 文 『尚 書 』 ・『毛 詩 』 を 学 ば せ た 、 と あ り、 こ れ ら の 文 献 は 『穀 梁 』 に つ い て 、 一 つ は 古 文 で あ る こ と を 明 言 し 、 一 つ は 三 つ の 古 文 の 経 典 と並 列 し て 、 こ れ が 古 文 で あ る こ と は 明 ら か で あ る。 古 文 は 劉 音欠が 経 書 の 伝 ・記 を 色 々 と 取 り、 そ れ ら を 材 料 に し て 偽 造 し た も の で あ る か ら 、 武 帝 ・宣 帝 の 御 世 に ど う し て 『穀 梁 』 が 存 在 し得 よ う か 。 … … 劉 款 は 『左 氏 伝 』 を 偽 造 し て 『春 秋 』 の 学 統 を簒 奪 し、 ま た 『穀 梁 伝 』 も偽 造 し て 、 『左 氏 』 の た め に 『公 羊 伝 』 を 取 り除 こ う と し た 。 だ か ら 『春 秋 』 の 三 伝 を 兼 論 す れ ば 、 『左 氏 』 に つ い て 述 べ 、 『公 羊 』 ・『穀 梁 』 を併 論 す れ ば 、 『穀 梁 』 を 尊 ん だ 。 … … 以 上 の こ と か ら、 『儒 林 伝 』 で 『公 羊 』 ・『穀 梁 』 の 二 家 が 武 帝 ・宣 帝 の 御 世 に 論 争 し た と 言 っ て い る の は 、 ち ょ う ど 風 や 影 を つ か む よ う に つ か み ど こ ろ の な い も の で あ る 。 成 帝 が 綏 和 元 年 、 夏 ・殷 の 後 裔 を 王 に 立 て 、 梅 福 が 上 奏 し た 意 見 を 採 用 し た が 、梅 福 は 、 そ の 上 奏 文 の 中 で 、 『春 秋 経 』 の 「宋 は そ の 大 夫 を 殺 し た 〔僖 公 二 十 五 年 〕」 と い う部 分 を 引 用 し、 ま た 、 『穀 梁 』 の そ れ に 対 応 す る 伝 文 、 「そ の 姓 名 を 称 し な い の は 、 そ の 祖 先 の 位 に 免 じ て の こ と で 、 こ れ を 尊 ん だ か ら だ 」 を 引 用
阿 川 修 三 した 。 これ が 『穀 梁 』 を 引 用 し た最 初 で あ る。 河 平 三 年 劉 音欠が 書 物 の 校 訂 を は じめ て か ら十 八 年 後 で あ っ た。 劉 音欠が 偽 造 した 書 物 は既 に 古 エ 文 と し て 登 場 し た の で あ る 。 彼 は 、 『左 伝 』 ・『国 語 』 は 「も と も と周 末 の 異 聞 で あ り、 春 秋 時 代 の 信 用 で き る歴 史 書 で は な く、」 「劉 音欠は こ れ ら を 手 に 入 れ 、 事 実 が 異 な る か ら に は 義 理 と し て 異 を 立 て る こ と が で き る と考 え 、 そ の 上 に 経 書 の 伝 ・記 か ら 色 々 と 取 り、 そ れ に 憶 説 を付 け 足 し て 、 『左 伝 』 ・『穀 梁 』 の 二 伝 を偽 造 し、 ユコ そ れ に よ っ て 『春 秋 』 の 本 来 の 姿 を 破 壊 し た 。」 と考 え た 。 か つ て 、 一 般 に は 、 『公 羊 』 ・『穀 梁 』は 併 称 さ れ 、 今 文 の 書 物 と さ れ て い た が 、 崔 適 の こ の 書 物 が 出 版 さ れ る と、 『穀 梁 伝 』も 問 題 と な っ た の で あ る 。 崔 適 は 、 『穀 梁 』 を劉 款 の 偽 造 と考 え た が 、 も と よ り普 通 の 学 者 に は い ま だ 承 認 さ れ て い な い 。 し か し 、 『穀 梁 』の 作 者 に つ い て は 、 確 か め る べ き 記 録 は な く、 そ れ が 一 人 の 手 に な る か 否 か と い う こ と も 自 ず と 問 題 が あ る。 崔 適 は 、 既 に 『穀 梁 伝 』 を 古 文 で あ る と考 え 、 そ れ は 改 竄 を 経 て 、 左 丘 明 も ま た 『春 秋 』 を 伝 え い な い 」 と し た 。 こ の よ う に 、 「『春 秋 』 を 伝 え る 」 も の は 、 た だ 『公 羊 伝 』 だ け と な っ た 。 そ の で 、 彼 は 「『公 羊 伝 』 は そ の 名 を 正 し 、 『春 秋 伝 』 と 言 うべ き で あ る 」 こ と を 提 起 し た 。 そ れ に は 、 次 の よ う に あ る 。 「前 漢 の 初 め 、 所 謂 『春 秋 』 と は 、 経 と伝 と を 合 わ せ て 名 付 け た も の で あ っ た 。 こ の 伝 と は 、 後 世 の 所 請 『公 羊 伝 』 で あ る 。 そ の 初 め は 、 『公 羊 伝 』と い う名 称 が な い だ け で な くて 、 ま た 伝 と い う名 称 も な く、 ま と め て こ れ を 『春 秋 』 と 言 っ て い た 。 … … つ ま り 『公 羊 伝 』 と い う 名 称 は 劉 款 か ら始 ま っ た の で あ る 。 子 夏 が 『春 秋 』 を 公 羊 高 に 伝 え た と い う 説 は 戴 宏 か ら 始 ま り、 『史 記 』 「十 二 諸 侯 年 表 」 ・「仲 尼 弟 子 列 伝 」 ・「儒 林 伝 」 に は い ず れ も そ の 記 載 が な く、 特 に そ の 文 に は 斉 の 言 が 多 い の は 、 竹 帛 に 文 字 を 記 し た 者 が も と も と斉 の 人 で あ っ た か ら で あ り、そ の 人 の 名 前 に つ い て は い ず れ も調 べ よ うが な い 。今 、『公 羊 伝 』