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1960年代後半のアメリカ西海岸におけるサイケデリック・ポスターの展開

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(1)1960年代後半のアメリカ西海岸におけるサイケデリック・ポスターの展開 Psychedelic Posters created at the West Coast of the United States in the Second Half of the 1960s 山本政幸 岐阜大学. YAMAMOTO Masayuki Gifu University. 1.はじめに. のロングショアメンズ・ホールで、この「トリップス・フェス. 第二次世界大戦後に目覚ましい経済成長を遂げたアメリカで. ティバル」が開催された。企画は、作家で『全地球カタログ』. は、1960年代に入ると貧困や人種差別、学園紛争といった社. の編集者としても知られるスチュアート・ブランド(Stewart. 会問題が浮上し、さらにベトナム戦争の泥沼化に対する反発か. Brand, 1938-)、ヒッピー・ムーブメントのリーダー的な存在. ら民衆運動が拡大した。「愛と平和」を主張する若者たちは路. だったケン・キージー(Ken Keasey, 1935-2001)と、そこ. 上に溢れ、自由なファッション、音楽、アートで反体制の声を. にショウ・ビジネスの達人グラハムが加わり、カウンター・カ. 表現しながら、「ヒッピー」や「フラワー・チルドレン」と呼. ルチャーの到来を予告する一大イベントとなった。ビラの裏面. ばれるような独特のライフスタイルを形成する。. には「トリップ(電気的パフォーマンス)はコミュニケーショ. こうした揺れる社会情勢の中、敏腕プロモーターとして知ら. ンとエンタテインメントの新しい手段」とある。ドーム型の. れるビル・グラハム(Bill Graham, 1931-1991)は60年代の. ホールにフィルム映画を上映するだけでなく、リキッド・プロ. アメリカ西海岸を舞台に新しいロック文化をつくりあげ、20. ジェクションと呼ばれるカラフルな液体流動の映像を投影、観. 世紀音楽に革命を起こした。グラハムは、サンフランシスコの. 客にリクエストした「エクスタティック(熱狂的)」なドレス. ライブ・ハウス「フィルモア・オーディトリアム」とそれに次. を浮き上がらせるストロボやブラックライトの点滅、サンフラ. ぐ「フィルモア・ウエスト」 、さらにニューヨークの「フィル. ンシスコ・テープミュージック・センター3による実験音楽と、. モア・イースト」を拠点に、数多くのロックバンドを招いてラ. シンセサイザーの源流ともいえる電子楽器コンソール「ブック. イブによる音楽プロモーションを定着させる。告知のためにつ. ラ」が、視覚と聴覚を融合した幻想的異空間をつくりだす。結. くられた色鮮やかなポスターの数々は、ビジュアルと音楽を融. 成されたばかりのグレイトフル・デッド(当時はワーロック. 合した「サイケデリック」と呼ばれる新しいポップカルチャー. ス)がアンプを通した大音量で即興ロックを奏で、キージー率. のムーブメントを巻き起こした。極彩色によるハレーションや. いるヒッピー集団メリー・プランクスターズがパフォーマンス. 幻覚の再現だけでなく、19世紀末のアールヌーヴォー様式の. を上演、アン・ハルプリン・ダンス・カンパニー4が舞踏を披. 引用や実験的なタイポグラフィの試みによって、個性豊かな. 露し、観客のダンスもまたショウの一部となる。1,700人収容. ロック音楽のイメージを見事に視覚化している。. の会場に3,000人が詰めかけたという。その様子はサンフラン. ここでは、66年から71年までの5年半に及ぶ「フィルモア. シスコの FM ラジオ局 KPFA によって中継され、会場の内外に溢. 時代」にグラハムが手掛けた西海岸のポスターに注目し、制作. れる若者たちの意識が文字通りひとつに同調する[図2] 。. に関わったクリエイターたちが文字とイラストレーションを 使ってどのようにロック音楽を表現したかを探る1。. 2.ヒッピー・ムーブメントとロック音楽 ゆるやかに弧を描いた放射状のパターンの中心、奥のまるい 小窓に見えるのは、揺れる脳波を図案化したシンボルである。 人々の解放された意識がひとつにチューン・イン2(同調)す る幻覚体験「トリップ」を象徴したこのデザインは、サイケデ リック・ポスターの先駆者ウェス・ウィルソン(Wes Wilson, 1937-)による[図1]。手のひらほどの小さなビラだが、ウィ ルソンが音楽プロデューサーのグラハムとの出会いを遂げる きっかけとなった、重要な一枚である。 1966年1月21日から23日までの3日間、サンフランシスコ. 26. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 図1. 「トリップス・フェスティバ 図2.ロングショアメンズ・ホール でのフェスティバルの様子(Barry ル1966」のハンドビル Miles, Hippie , Cassell Illustrated, 2003より).

(2) 表1.BG ポスター・シリーズの主なデザイナーが担当した時期。『ロック・ポスターの芸術』(Paul D. Grushkin, The Art of Rock Posters, Abbeville Press, 1987)の巻末リストにもとづき、公演初日の日付にダイヤ印を配置した。. その酩酊状態へのいわば導入剤として配布された(場合に. フランシスコ州立大学で宗教や西洋哲学を学ぶ。グラフィック. よっては飲食物に混入された)のが「サイケデリック」の名の. の専門教育は受けていないが、大学卒業後に印刷所を立ち上げ. 由来である LSD であった。精神療法に効果的で、意識解放と. たばかりの職人ボブ・カーと知り合い、端物印刷を手伝う中で. 自己変革が可能になると信じられた一方、服用中の事故の危険. レイアウトの基礎を学びながら、膨大なレタリングをこなし. 性や粗製乱造の横行といった諸問題から非合法化を目前にして. た。当初はサンフランシスコの音楽シーンに疎かったが、初め. いた。フェスティバルは、65年からキージーらがたびたび開. て手がけた政治ポスターや招待状などの突出した表現力が新人. 催していたアシッド・テスト から、66年以降フィルモアやア. ロックバンドをプロモートしていたファミリー・ドッグの代表. ヴァロンといったライブハウスでの定期的なロック公演へと発. チェット・ヘルムズ(Chet Helms, 1943-2005)に見出ださ. 展する転換点でもあった。奇しくも同じ66年1月の初旬、ロン. れ、ロック音楽の世界に引き込まれる。12点のポスターを担. とジェイのセリン兄弟がヒッピーたちの聖地ヘイト=アシュベ. 当した後にファミリー・ドッグからは距離を置き、同時に進行. リー地区に「サイケデリック・ショップ」をオープンし、東西. していたグラハム率いるフィルモアの仕事に専念した[図3]。. の哲学書、仏教・ヒンズー教などの宗教書、ベルズ & ビーズや. 興行にウィルソンが関わるのは1966年3月、BG ナンバー2. 横笛といったファッションアイテム、そして薬物と巻紙を含め. のポスターからである。グラハムの伝記におけるウィルソンの. 5. た「ヒッピー必需品」に加え、ポスターもまたここで扱われる ようになる。 フィルモア・オーディトリアムとフィルモア・ウエストを 拠点とするグラハム企画公演のポスターには BG ナンバーが付 けられ、その数字は0から287に及ぶ。印刷はオフセット、予 算の関係から色数は制限され、印刷機の都合でその大半が50 から60cm ほどのサイズに限定、小型のビラやチケットが同じ 刷版に面付けされた。注目すべきは、66年2月から71年7月ま での5年半の間に多数のクリエイターが関わっており、それに よってロック音楽のヴィジュアル表現が必ずしも一様ではな かったことである[表1]。. 3.19世紀末のグラフィックと幻覚 そのようなフィルモア初期のポスター様式を方向付けたのが ウィルソンである。カリフォルニア州の自然に囲まれた交易都 市サクラメントに生まれたウィルソンは、幼少期から草木に興 味を持ち、絵を描くことが得意な少年であった。当時流行した 精密メカニック雑誌の影響から高校では機械や建築製図の授業 を履修、短期の兵役を経て地元の短大で園芸を学んだ後、サン. 図3.ウィルソン「Otis Rush & His Chicago Blues Band / Grateful Dead / The Canned Heat Blues Band」(BG51, 1967年2月)(TPC). デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 27.

(3) 図4. 「 ユー ゲントシュ 図5. 「ユーゲントシュティールと表現主義」展 ティールと表現主義」展 カタログに掲載された A・ローラーによる分離 (1965年)目録 派展ポスターの書体(1903年). 回想によると、当初は毎週の公演に向けて制作するポスター 1件あたり500枚の印刷費も含めて75ドルを受け取っていた。 やがて週に2件から3件を請け負う多忙な状態になり、夜中に 妻を起して版下の墨入れを手伝わせたという6。そうして仕上 がったポスターをグラハム自らがアーミーパックに突っ込み、 スクーターに乗って早朝4時からダウンタウンのあちこちに貼 れていた。徐々にポスターの人気が出はじめ、剥がして持ち帰. 図7.マクリーン「Eric Burdon & the Animals / Mother Earth / Hour Glass」(BG89, 1967年10 月)(TPC). る人が続出したことで、グラハムはポスター配布が成功だった. 主義』展のカタログを手にしたことであった[図4]。「ここに. ことを確信したという。ポスター貼り人がやって来るのを並ん. ウイーン分離派のレタリングが掲載されていたのだけれども、. で待ち受けるほどの人気になると、ビジネスに長けたグラハム. それ以降の自分のポスターのほぼすべてに応用した。これはレ. は無料でのポスター配布を廃止し、有料化した。. タリングのイメージが広がるもっとも簡単な方法だった」とし. ウィルソンがポスター制作で試みたのは、文字のかたちや並. ている。ウィーン分離派の画家アルフレッド・ローラーによる. びを柔らかく歪めて空間を埋めてゆくレイアウトである。ロッ. 書体は長方形を基本としており、文字を変形して余白を埋めよ. クに関するグラフィック研究の大著『ロック音楽の芸術』の中. うとするウィルソンの手法に適していた[図5]。67年5月ま. で、ウィルソンは次のように語っている。「私は定規みたいな. でに制作した56点中28点、後半のほぼすべての作品にこの書. ものは使わず、フリーハンドで空間を埋め尽くすやり方が好き. 体が使われている。変形した書体は判読困難な場合もあり、グ. だった。自然な形に沿わせる。もし文字を拡大・変形する必要. ラハムが諭すこともあったようだが、実際にはその読み難さが. があったら、迷わずそうした」と。ファミリー・ドッグ時代か. 逆にポスターへの注目を集め、レタリングの文字を解読するこ. らこの傾向は現れ始めていたが、フィルモアの仕事を通じて世. とが毎週の話題になった。むしろ人々はポスターを自宅へ持っ. 紀末ポスターの影響が強くなる。そのきっかけは、当時カリ. て帰って楽しんだという。. フォルニア大学で開催された『ユーゲントシュティールと表現. そうしたポスター戦略の成功も束の間、ウィルソンはグラ. りまくる。人々が行き交う頃には、街はポスターで埋めつくさ. 7. ハムと金銭問題で仲違いし、フィルモアの仕事からは離れる。 1967年5月 か ら は ボ ニ ー・ マ ク リ ー ン(Bonnie MacLean, 1939-)がフィルモアの毎週のポスター制作を引き継いだ。 フィラデルフィアに生まれ育ったマクリーンは60年にニュー ヨークに移住後、日雇いの仕事をしながら夜間のドローイング の授業を受けるなどしたが、ウィルソンと同様デザイナーとし ての専門教育は受けていない。64年にサンフランシスコに転 居し、就職した機器製造の会社でマネージャーをしていたグラ ハムと出会って結婚、開館したばかりのフィルモア・オーディ トリアムでは当初スタッフとして雇われ、チケット受付、ビラ 図6. フ ィ ル モ ア の 階 段 上 の 黒 板 に レ タ リ ン グ を す る マ ク リ ー ン (Grushkin, The Art of Rock Posters, Abbeville, 1987より). 28. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 配り、レシート集計、帳簿管理など、裏方として働いていた。 とりわけ出演バンドのラインナップを階段上の黒板にチョーク.

(4) ンダストリアルデザインを学び、ヘリコプター技師として働い ていたが、64年にサンフランシスコに転居してマウスに出会 い、ファミリー・ドッグの創立メンバーとなる。リック・グリ フィンから強い影響を受けつつ、フランスの画家アルフォン ス・ミュシャの作風も引用しながら、アンティーク調のイラス ト表現をロック・ポスターに持ち込んだ。バッファロー・スプ リングフィールドの公演ポスターでは、巨大な配管バルブの写 真に木活字を模した古風なレタリングを組み合わせている[図 8]。ケリーはフィルモアのポスター6点を手がけ、うち2点が マウスと、3点はグリフィンとの共同、1点は単独で制作した。 マウス、ケリーと同時期にフィルモアの公演ポスターを担当 図8.マウス & ケリー「Buf-. falo Spring-field / Collectors / Hour Glass」 (BG98, 1967年12月) (TPC). 図9.グリフィン「Jimi Hendrix. Experience / John Mayall and the Blues Breakers / Albert King」 (BG105, 1968年2月) (TPC). していたのがリック・グリフィン(Rick Griffin, 1944-91)で ある。グリフィンの父親はアマチュアの考古学者で、幼少期に はアメリカ先住民の遺跡を巡って神話を求めたり工芸品を収集. でレタリングするのが慣例で、後のポスター制作のためのスキ. するなど、歴史への興味が尽きなかった。他方で、ロサンゼ. ルアップになった[図6]。ウィルソンの柔らかなレタリング. ルス・パロスベルデスの海岸近くで生まれ育ったため、12歳. 表現を継承しながら、アメリカ先住民族のエキゾチックなコス. でサーフィンを始める。高校卒業後はサーフィン専門誌の専. チュームをモチーフに採用し、色調のコントラストと鋭い線画. 属アーティストとして働き、同時に「サーフ・ミュージック」. で人物の妖しい表情をつくり出した[図7]。67年後半の短期. のレコードジャケットを担当した。1964年にロサンゼルスの. 間にフィルモア関連のポスターを31点制作している。. シュイナード美術学校に入学するも、66年秋のヘイト=アシュ ベリーで行われたサイケデリック・ショップでの展示がきっか. 4.超現実主義的イラストレーション. けでポスターをつくり始める。ヘルムズの誘いでファミリー・. ウィルソンが去ったファミリー・ドッグで、専属デザイナー. ドッグの仕事をレギュラーで担当していたが、やがてフィルモ. として人気を得ていたのがマウス & ケリーのコンビだが、二人. アのためにもポスターを手がけるようになり、68年の一年間. もやがてフィルモアの仕事に関わるようになる。彼らの制作ス. に8点を制作した。コミック作家としてのタッチを残しながら、. タイルでは、ウィルソンからマクリーンへと引き継がれた歪ん. 北米先住民や古代エジプトの護符スカラベ、骸骨などをモチー. だレタリングの表現はなくなり、イラストレーションを主体と. フに採用し、強烈な配色で記憶に残る図像をポスターの中央に. したレイアウト構成になってゆく。カリフォルニア州フレズノ. 描いた。ジミ・ヘンドリクス公演の「フライング・アイボー. で生まれたスタンリー・マウス(Stanley Mouse, 1940-)は、. ル」[図9]、ビッグ・ブラザー& ホールディングスの「ハート. アニメーターの父の影響もあって台所のテーブルでイラストを. & トーチ」などは、伝承にもとづくシンボルを改めてデザイン. 描くのが日常であった。デトロイトの美術学校を経て1963年. 化している。ウィルソンとマウス、ケリー、グリフィンの4人に、. に「マウス・スタジオ」を設立、エアブラシによる階調描画に. ヴィクター・モスコソ8(Victor Moscoso, 1936-)を加えて、. 長け、改造車「ホットロッド」関連のイラストレーションを描. サンフランシスコの「ビッグ・ファイブ」 [図10]と呼ばれた。. いた T シャツ、ポスター、デカールでその名が知られていた。 64年にサンフランシスコへ移住後にケリーと意気投合して共 同作業を開始、サンフランシスコ図書館にアール・ヌーヴォー やアール・デコの美術書を借りに連れ立つなどし、また66年 初頭のトリップス・フェスティバルにも観客として参加してい る。ファミリー・ドッグ関連のポスターをすでに30点手がけ ていたマウスがフィルモアの仕事に関わるのは67年12月で、 単独3点とケリーとの共同2点の計5点を残した。一方アルト ン・ケリー(Alton Kelly, 1940-2008)は、航空機会社に勤め ていた父のもとメイン州ホールトンに生まれ育ち、幼少時から 自動車やバイクなどメカニックなものに惹かれた。大学ではイ. 図10.サンフランシスコ「ビッグ・ファイブ」と呼ばれたケリー、モ スコソ、グリフィン、ウィルソン、マウス(1967年)(Grushkin, The Art of Rock Posters, Abbeville, 1987より). デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 29.

(5) 8点を制作、バターフィールド・ブルース・バンドとブルーム スフィールド & フレンズの公演ポスターでは、出演者名の頭文 字「B」をシンメトリーに反転してギターのシルエットをつく り出し、文字と図のダブル・ミーニングを表した[図12]。. 5.日常の象徴化とコラージュ 1968年3月、グラハムはニューヨークにフィルモア・イー ストをオープンする。一方で4月にキング牧師が暗殺され、黒 人街に位置していたため売り上げが落ち込んだフィルモアをや むなくカルーセル・ボールルームに移転して「フィルモア・ウ エスト」に改称、定期的に東西フィルモアの出演者を入れ替え 図11.コン クリン「 C r e e d e n c e 図12.ア イ ロ ン ズ「 B u t t e r f i e l d. た。この年の初頭からマウス、ケリー、グリフィン、コンクリ. Clearwater Revival / Fleetwood Blues Band / Bloomfield & Friends / (BG166, 1969年3月) (TPC) Mac / Albert Collins 」( BG156 , Birth」 1969年1月) (TPC). ン、アイロンズら、イラストレーションやアニメーションに長. 1968年1月から担当したリー・コンクリン(Lee Conklin,. 場面がリアルに描かれた。またバンド名を表すレタリングの種. 1938-)もまた、マウス、ケリー、グリフィンとともにコミッ. 類も豊富になり、一種のロゴタイプのような役割も担うように. クタッチのイラストレーションを展開した。ニュージャージー. なる。ロック音楽のイメージが強い色彩によってより親しみや. 州エンゲルウッドに生まれ、ニューヨークのカルヴァン・カ. すくポップになるとともに、意識の深層に潜んだ奇怪なモチー. レッジに入学、哲学と歴史を学びながら学内誌にイラストを載. フが登場し、ファンの視線を捉え、強く印象付けた。. せ、過激な画風が波紋を呼んだ。19世紀末ドイツの画家ハイ. 1969年1月からフィルモア・ウエスト初の専属デザイナー. ンリッヒ・クレイとルーマニア生まれの漫画家・イラストレー. となったランディ・テューテン(Randy Tuten, 1946-)はサ. ターのソール・スタインバーグのペン画に影響を受ける。65. ンフランシスコに生まれ、家族とともにロサンゼルスへ転居、. 年にロサンゼルスに移住後グラハムに出会い、68年から69年. 高校では広告選択コースを履修した。すでに66年までにはフィ. にかけてフィルモアのためにポスター31点を制作した。幻覚. ルモアとアヴァロンに通い詰める常連となっていた。そこで目. 体験を紙の上に再現することを求めてアシッド・トリップした. にしたマウス、ケリー、グリフィンらのグラフィックに感銘を. 後に仕事をするスタイルで、その余韻の間がもっともクリエイ. 受け、自らもポスターをつくり始める。アヴァロンを主催する. ティブな時間だったという。繊細な描写が幻想的な場面をリア. ヘルムズに何度も不採用となった後、68年末にグラハムを訪. ルに再現し、意識の深層を描出した。変形した人体や動物を部. ねて採用され、専属のデザイナーとなった。アーティストの. 位ごとに分解して合成し、奇怪で超現実主義的なモチーフの表. ポートレート写真をレイアウトしたり、子供の頃から興味を. 現に到達している。レタリングもまた個性的で、動物や人体、. もっていた飛行機や自動車、列車や船といった乗り物、ジュー. 岩石、木の枝や葉をアルファベットの形状に組み立て、文字の. クボックスや時計などの娯楽・日用品、ハンバーガーやアボカ. けたクリエイターの参加によって描写が精密になり、幻想的な. 並びを探りながら読むことができるよう、イラストレーション と文字を一体化した[図11]。 アンダーグラウンド・コミック・ムーブメントのパイオニ アといわれるグレッグ・アイロンズ(Greg Irons, 1947-84) は、ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外に生まれ、幼少時 から絵が得意で学校の新聞づくりに熱中した。風刺コミック雑 誌『MAD』に影響を受けながら独学でイラストレーションを 学び、1967年にサンフランシスコに転居、グラハムのもとに 作品を持ち込んで採用され、69年にかけてフィルモアやファ ミリー・ドッグの仕事を請け負う。この間、68年にはビート ルズのアニメーション映画「イエロー・サブマリン」の仕事も 手がけた。37歳という若さで交通事故に遭って亡くなるまで は挿絵画家、タトゥー彫り師として活躍する。フィルモアでは. 30. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 図13.テューテン「Chuck Berry / 図14.シンガー「John Sebastian / Mike Bloomfield / Initial Shock 」 Buddy Miles / Rig」(BG238, 1970 (BG158, 1969年1月)(TPC) 年6月) (TPC).

(6) 通い、絵を描き続けた。70年、地方のフェアで公演したサン タナのポスターを担当したのをきっかけにグラハムに見出ださ れ、フィルモアのポスターを手がけるようになり、12点を残 した。60年代末に絶滅的危機にあったインディアン部族に対 する人種差別を訴える、陰影を駆使した人物表現と民族装飾が 独特である[図15]。. 6.ショウ・ビジネスとポスター こうした1960年代後半のサイケデリック・ムーブメントは、 反戦や人権運動に賛同する若者の活力を象徴する一方で、放浪 や閉じた共同生活、そして LSD の使用など、反社会的な傾向 を内に抱えていたことも事実であった。まさに理性と感性と が衝突しあう、混沌とした時代の産物であった。トリップス・ フェスティバルが開催された66年10月には、すでにカリフォ ルニア州で LSD の違法化が決定、同月31日にはヘイト・スト 図15.オー「Cold Blood / Boz Scaggs / Vices of East Harlem / Stoneground」 (BG238, 1970 年12月 –71年1月) (TPC). リートで「アシッド・テスト・グラデュエーション」が開催さ れ、キージー自らが「卒業しなければならないもの」といった ように、ロック音楽と LSD は表面上は切り離される方向にあっ. ドといった食物など、日常的なモチーフを象徴的に用いた[図. た。60年代半ばにアメリカ進出を果たし、一時期 LSD の洗礼. 13]。奥深い精神世界を掘り下げるというよりは明るいアメリ. を受けていたビートルズのジョージ・ハリスンが「真のヒッ. カ広告のスタイルをポスターに持ち込み、現代の生活文化を描. ピーとは、そんなものを必要としない者ではないだろうか」と. こうとした。. いい、ポール・マッカートニーもまた「いまわれわれは到達. フィルモア・ウエスト後期でもっとも作品数が多いデイ. するための新しい道を見つけようとしている」と述べたよう. ヴィッド・シンガー(David Singer, 1941-)は、ペンシルバ. に、LSD という化学薬品なしで、意識解放の心理体験を構築. 二ア州クエーカータウンに生まれ、学校でペンシルバニア・. することを目指す。その回答が、瞑想であり、ヨガであり、自. ダッチの民族的な幾何学装飾「ヘックスサイン」を習って以. 然食やエコロジー意識の高まりであり、ロック音楽であった9。. 降、神秘主義に興味を持つ。その一方で何年にもわたって『ナ. 67年1月、ヘイト=アシュベリー地区で開催されたイベント. ショナル・ジオグラフィック』誌や『ライフ』誌などの雑誌の. 「ヒューマン・ビー=イン」には全米、カナダ、ヨーロッパか. 切り抜きを寄せ集めた膨大なスクラップブックをつくってい. ら10万人を超える若者が集結、グレイトフル・デッドなどの. た。高校卒業後は海軍に入り、その後64年にサンフランシス. ロックバンドをはじめリアリーら意識革命を訴える運動家や宗. コに移り住んで広告の仕事を開始、この頃からコラージュの. 教家、バイク集団ヘルズ・エンジェルズなど多様なグループの. 技法を使い始める。69年からグラハムの仕事を請け負い、71. 参加により、反体制の大集会となる。メディアを通じて大々的. 年までの間にフィルモアでもっとも多い66点をデザインした。. に報道され、ヒッピー文化の存在が全米に認知された。このイ. 写真製版を駆使してポスター中央の小窓に幻想的な写真のコ. ベントは後に「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれて大型ロック・. ラージュを試みる一方、その天地にはアール・デコ風や毛筆風. フェスティバルの先駆けとなり、69年夏のウッドストックで. といったさまざまな書体を配置した[図14]。最初はレタリン. は、40万とも50万ともいわれる音楽ファンを動員した。. グに馴染めず苦労したというが、枚数をこなすうちに多くの書. 大型ロック・フェスティバルがピークを迎えた頃、突如とし. 体を考案する結果となり、独特のレイアウト・スタイルを築い. てグラハムはフィルモアの閉鎖を決定、71年6月30日から7月. てゆく。有名なフィルモアの最終週のポスターは、シンガーが. 4日の5夜連続で、フィルモアの最終ライブが開催された。理. 手がけた。. 由は定かでないが、小規模ホールが時代に合わなくなり、理想. サンフランシスコに生まれたノーマン・オー(Norman Orr,. とする良質な音響が提供できなくなったこと、ロックバンドの. 1949-)もまた、高校の時に地元フィルモアのグリフィンや. 利益がライブハウスからアルバムの売り上げに移行したことな. マウス、ケリーらのポスターに影響を受けていた。高校卒業後. ど、自らの成功が導いた幕引きでもあった。公演に不可欠だっ. は、農場で働きつつ週末など時間を見つけてはライブハウスへ. たポスターの数も減り始め、ラジオや新聞広告がこれに取って デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 31.

(7) 図16. 『PLAYBOY』誌(1968年 6月号)特集「ON THE SCENE」 に掲載されたグラハムの仕事場. う短い期間ながら出演バンドにあわせてつくられたポスターの 数々は、熱気あるライブ演奏に劣ることなく、若者の感性を熱 くとらえた。頻繁なクリエイターの入れ替わりもまた、主たる 原因がグラハムとの金銭的トラブルだったとはいえ、結果的に は BG ポスター・シリーズの魅力になっている。むしろ情熱的 に持ち込みを繰り返すような若いクリエイターの試行錯誤に よってロック音楽のイメージが次々に生まれ代わり、次回のス テージへの期待は増幅した。フィルモアに通い詰めるファンの ポスター収集熱をも煽ったことであろう。 個々のクリエイターの表現は異なるが、彼ら自身がライブハ ウスの常連であり、壁に貼られたポスターを目にし、互いの仕 事に影響されていたことも見逃せない。西海岸のライバル興行 であるファミリー・ドッグとの競合も含めて、ロック音楽をど う視覚化するかという共通の使命が、根底ではつながってい. 代わった。. た。それぞれが活躍した期間は短いけれども、グラハムのビジ. フィルモアで生み出されたポスターは、戦前のヨーロッパで. ネスに巻き込まれる時、クリエイターたちの波長はひとつにま. 発達した近代デザインの様式美を引き継ぐものではない。ウィ. とまり、同調していたともいえる。. ルソンやマクリーンが文字で画面全体を埋め尽くしたように、 サイケデリック・ポスターが余白を避けたのは、50年代スイ ス派の「クリーン」なレイアウトに対する反動であったとする 指摘もある 。しかしこれらのポスターは、サンフランシスコ 10. に集まった若者たちの生活の中から湧き上がった視覚文化の一 端であり、当のクリエイターたちにそのような様式対比の意図 はなかった。むしろ叩き上げの彼らにそうした余力や興味があ るはずもなく、予算や期日という制約に縛られ、なによりロッ ク音楽の視覚化という厳命に追われ、ただ感性の趣くまま、ま さに魂を解放するように版下制作に没頭した。世紀末の美意識 を直感的に掘り起こしながら、見たこともない奇妙な生き物を つくり出し、幻想的な光景をコラージュで再構成するなど、ほ ぼ独学で身に付けた体当たりの技法をもって、ロック音楽のイ メージをかたちに描こうとした。 ポスターが必要とされた背景もまた、若者の活力に満ちた時 代の到来を示すものであった。ベトナム反戦や人種差別撤廃、 反権力に熱中したヒッピーたちのコミューンにおいて、ロック 音楽は彼らの抱く共同の意識や感覚を拡大させた。そうした若 者たちを相手にとり、人気ロックバンドに新人バンドを組み合 わせ、ホールに集まった聴衆の耳を開拓するとともに、次世代 のスターを育てる。トリップ体験よりも妄信的なファンの育成 と、最高のロック音楽の提供、そして厳格な集金にこだわる。 出演者への支払いは格によってメリハリをつけ、潤沢な資金で 西海岸一の音響設備を整える。手持ちのレコーダーでの録音を 許し、客同士のテープ交換を推奨してバンドの宣伝に使う。こ うしたグラハムのショウ・ビジネスにとって、ポスター広告は 不可欠な仕組みのひとつになっていった[図16]。5年半とい. 32. デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 【注および参考文献】 1)竹尾ポスターコレクションに BG シリーズ99点が所蔵され 。2015年2月26日か ている(図版引用は「TPC」と表記) ら4月10日まで竹尾見本帖本店にて展示された。本稿は同 展の解説文に加筆・修正を行い、再構成したものである。 2)ハーバード大で LSD 臨床実験に着手して大学を追放され たカウンター・カルチャーの教祖的存在ティモシー・リア リー(Timothy Francis Leary, 1920-96)が唱えた合言葉 は「ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト (覚醒せよ、同調せよ、脱落せよ)」であった。 3)1962年にサンフランシスコで設立された現代音楽の研究 所。電子機材を駆使して実験的な音楽制作に取り組んだ。 4)アメリカの舞踏家アンナ(アン)・ハルプリン(Anna Halprin, 1920-)が率いた先進的な舞踏集団。当時ヘイト・ ストリートのロック・コンサートに参加していた。 5)キージーが実施した LSD の人体への影響を探る観察実験。 被験者には報酬が支払われた。 6)ビル・グレアム他『ビル・グレアム─ロックを創った男』 奥田祐士訳、大栄出版、1994年。グラハムによると1点 あたり5,000枚を刷り、制作費に150ドルから250ドルを 支払ったとしている。 7)Paul D. Grushkin, The Art of Rock Posters , Abbeville Press, 1987. 8)BG シリーズでは共作2点しかないためここでは触れてい ないが、ファミリー・ドッグのポスターを26点制作した 先駆者の一人である。 9)マーティン・A・リー他『アシッド・ドリームズ』越智道 雄訳、第三書館、1992年。 10)Colin Brignall, ʻThe Psychedelic PosterArt of Wes Wilsonʼ, THE LETRASETTYPE GALLERY - WES WILSON.(ウェブ サイト).

(8) 表2.1960年代後半のアメリカ西海岸におけるサイケデリック・ポスターの展開関連年表(山本政幸+佐賀一郎). デザイン学研究特集号 Special Issue of Japanese Society for the Science of Design Vol.23-2 No.90 2016. 33.

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