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卒業おめでとう 医学部長和泉徹 ( 教授 循環器内科学 ) 卒業生の諸君 またご父母の皆様 このたびは医学部ご卒業 大変おめでとうございます 心からお祝い申し上げます ご父母の皆様は今日の良き日をどんなにか待ち望んでおられたことでしょう また 卒業生の諸君は今後に様々な想いと期待を交錯させていること

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Academic year: 2021

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(1)

北里大学医学部ニューズ

2012.3

CONTENTS

■卒業おめでとう………2 ■教授退任挨拶 「出会い、澤の流れのように」………3 ■北里大学に赴任して― 出会い・仕事・感謝 ― ………3

■教授退任挨拶 「Skin is the best dressing; J.Lister」 ……5

■学位記授与式を終えて………6 ■平成24年度北里大学医学部入学試験報告 ………7 ■講師就任挨拶………8,9 ■私は何故この科を選んだか………10,11 ■エッセー ………12 ■2学年解剖学実習を終えて ………13 羊山公園 芝桜の丘

年度末特大号

(2)

 卒業生の諸君、またご父母の皆様、このたびは医学部ご 卒業、大変おめでとうございます。心からお祝い申し上げ ます。ご父母の皆様は今日の良き日をどんなにか待ち望ん でおられたことでしょう。また、卒業生の諸君は今後に様々 な想いと期待を交錯させていることでしょう。この純な気 持ちを大切にして、社会人としての歩みをしっかりと続け てください。  さて、ご承知の通り、2011年は人類にとって長く記憶に 留まる年となりました。3月11日に起こった未曾有の大天 災は、大地震、大津波、そして広範な放射能汚染という大 災害へと展開しました。天災からの復旧・復興、地球の環 境汚染、それにエネルギー問題をこれほどまでに日本人に 突き付け、考えさせたことがかってあったでしょうか。加 えて5月には、ヨーロッパの小国ギリシャから始まった経 済的危機がヨーロッパ全域に広まり、やがて北米を覆い、 そして今アジアを巻き込んでいます。世界経済の不安定さ がついに一気に露呈されたのです。大国は大きな軍事的対 立軸を失いましたが、アフリカや中東紛争に代表されるよ うに部族間の対立軸は一層深刻化し、激しい衝突を頻発さ せています。さながら線香花火を見るようです。価値判断 の分散がグローバルに広がり、無秩序に進行しています。 このような不確実で不透明、無秩序な21世紀において一つ だけ確かなことが展開しています。それは、地球人口が増 え続け70億人を突破したことです。しかもその平均年齢は 徐々に高齢化し、さらに10数%の人々が飢えと貧困に喘い でいます。この豊かな地球の恵を受けられずにいるのです。 このような21世紀冒頭の世界状況の中で、医療人として活 躍する機会を得たのが今春卒業する諸君です。  諸君らは、好む好まざるに関わらず、天命を授かり、第 一歩を踏み出すことになりました。地球規模では、飢えや 貧困に悩む人々を視野に入れながら、これからの人類に貢 献する医師として大成することが求められています。そし て国内においては、大天災に見舞われた東日本500㎞の医 療を見事に復興させなくてはなりません。日本は既に世界 一の長寿国、典型的な少子高齢化社会です。ピラミッド型 の人口構成のもとで培われてきた20世紀型医療は少子・高 齢化社会では不適合を起こしています。経緯がどうであれ、 深刻で膨大な医療負担が地球や次世代に付け回されていま す。これでは21世紀の医療や地球人が悲鳴をあげてしまい ます。Ecoや次世代に過重な負担を強制しない医療内容へ と大きく変遷せねばなりません。この変遷、パラダイムシ フトを担う医師団として諸君らは期待されているのです。 今後活動の主課題はここに集約されるでしょう。どのよう な医療領域を担当するにしろ、単一病巣の根治療法とその 結果にのみ固執することは勧められません。長命を臨床到 達目標とした20世紀型の医療は極めて少数者の医療となる でしょう。多くの人々、特に高齢者が多数を占める多疾患 有病者では関心事は自分の病気よりも日常生活での不都合 です。歩けない、見えない、聞こえない、話せない、食べ られない、交われないなどです。主病変を根治せしめても、 この訴えに真正面から応じられないと患者さんと不具合を 起こします。患者さんは根治よりも不具合の改善を望んで いるのです。まして、この時に大きな医療負担や患者負担 が生じると大事件になりかねません。また、次世代に医療 負担をつけ回すと、社会評価が厳しくなるでしょう。この ように、北500㎞の医療復興は次世代にやさしく、そして 地球人に受け入れ易い医療内容であらねばなりません。  諸君らが切り開く新たな医療は決して平坦なものではな いでしょう。嘗ての開拓者が辿った軌跡をなぞることにな るかも知れません。でも諸君らには4,103人の同窓生がつ いています。先輩が正しく導いてくれることでしょう。そ して、今度は諸君らが築いた医療をたくさんの後輩が辿る ことになります。自らの天命をきちんと理解し、与えられ た役割を果たし、与えられた領域で大成されることを祈っ ています。一日も早い東日本の復興と地球と次世代に優し い医療社会が実現されるよう願望します。  ご卒業を祝し、諸君らに幸多かれと祈念して卒業のお祝 いの言葉といたします。

卒業おめでとう

 医学部長 

和 泉   徹

 (教授・循環器内科学)  

(3)

 昭和55年、34歳で慶應義塾大学医学部内科学(感染・血液・ アレルギー内科)から北里大学医学部衛生学・公衆衛生学に 職場と専門を変えて、足かけ32年になり、今年3月に定年退 職を迎えることになりました。慶應には幼稚舎(小学校)か ら助手まで、計26年間在籍したので、北里にお世話になった 期間が遥かに長くなったことになります。その間お世話にな りました諸先生方、事務職員、技術員の方々に紙面を借りて、 厚く御礼申し上げます。  北里大学に就職した当時は、内科医師として終始一貫(北 里柴三郎先生の人生訓)できなかった無念さ、後ろめたさを 感じる一方、予防医学の分野では臨床医学の経験を生かせれ ばと胸を膨らませていました。恩師の高田勗教授は予防医学 者に臨床経験が必要という信念をお持ちで、筆者のキャリア を評価して頂き、就職当時も実際に大学院生の高橋英尚先生 (2回生)、鈴木浩一先生(3回生)はそれぞれ珪肺労災病院 (現独協医大付属病院)と関東労災病院で臨床研修を行って いました。予防医学者は、産業医としてまた保健所で健康診 断、健康教育を実践する機会も多く、その方針は正しいと思 います。他大学の衛生学・公衆衛生学教室では、医師の教室 員が少ないのですが、その方針を守ってきたためか、幸い本 学では充足しています。  本学に就職して、高田教授から「じん肺研究」を引き継ぎ、 じん肺患者の肺機能追跡調査や全国的な疫学調査を実施しま した。今はこの疾患も専門家が少なくなり、希少価値で診断 や講演を頼まれています。また筆者の留学と同じ頃MITに 留学していた東京電機大学小谷誠教授(後に学長)と共同し て肺と細胞の磁界測定の研究を今まで続け、日本衛生学会賞 まで頂きました。このテーマも小谷教授の勧めによるもので、 始めは半信半疑で始めました。もう一つのライフワークは シックハウス症候群や化学物質過敏症に関する臨床研究です。 これも石川哲名誉教授(当時医学部長)の勧めによるもので、 最初は気が進まなかったテーマでしたが、厚生科学研究費で 班会議を持つに至りました。このように研究課題はすべて他 者の勧めによるもので、断れない性格から開始したものです が、ある期間持続すると社会から認められることが分かりま した。  学祖北里柴三郎博士は、1984年東京帝国大学医学部在学中 から同盟社と称する生徒結社を作り、25歳当時演説された草 稿が「医道論」として残っています。その中で「人民に摂生 保健法を説いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐのが 医道の基本である。」と論じ、この面から当時の医師や医学 生を批判しています。また「保育創生、吾期するところ、成 功一世あに時無からんや、人間窮達君言うを休めよ、苦辛に  北里大学は今年創立50周年を迎え、再来年は北里研究所 創立100周年を迎えます。昨年の大災害、少子高齢化の進行、 世界的な経済状態の激変する中にあり、北里柴三郎先生の生 き方を原型とする北里医学の源流に立ち返って、これから進 むべき道を見つけるべきであると思います。北里先生の基本 的な研究態度は「実学」であり、研究のための研究でなく、 人類と社会に役立つ研究を推進すべきであることだと思いま す。臨床医学的な発想からの基礎研究も非常に重要ですが、 北里医学の伝統と特徴は臨床力であり、豊富な受診患者数を 生かして臨床研究を発展すべきと考えます。これはわが国の 国策とも合致するので、東病院で熊谷雄治教授が展開してき た第1相試験に加えて第3相試験の推進体制整備を今後図る べきと思います。  また明治製菓の寄附講座から始まった外資導入も、来年度 は9つの寄附講座を持つに至ります。学部の収入は学納金が 主であるとは言え、その増額が不可能な現状では、大型研究 費の獲得と寄附講座が研究資金の有力な獲得手段となりま す。これにより優秀な人材を確保し、研究推進のサイクルを 回してゆけば明るい将来が期待できます。人材が豊富になれ ば、臨床医も臨床研究だけでなく、一定期間基礎研究に邁進 することが可能になり、より大きい成果が期待できます。白 金キャンパスにある生命科学研究所の存在はその意味で極め て重要であり、医学部および医療系研究科は、これと連携し て研究を推進すべきであると思います。本学部の益々の発展 を祈って退任挨拶の結びとさせて頂きます。

北里大学に赴任して

― 出会い・仕事・感謝 ―

  

藤 井 清 孝

 (教授・脳神経外科学)    平成24年3月末をもって北里大学医学部脳神経外科学教授 を定年退任いたします。平成7年6月に着任して以来、16年 10か月の教授任期となりました。  私が北里大学に着任した平成7年は1月17日に阪神淡路大 震災が起こり、3月末には首都圏地下鉄に於いてサリン事件 が起こった時であり、今から思い起こすとその後の世界にお ける政治・経済・社会情勢の大きな変革・うねりのほんの序 曲であったような気もします。それまでの主な活動場所で あった九州の福岡から経験の無い関東に移動して、土地勘、 人脈などほとんど最初から創り上げることになりましたが、 幸いに素晴らしい師、先輩、同僚、後輩に恵まれ、新しい職 場にスムーズに溶け込むことができました。私立の大学で働 くことは初めてでしたが、ボトムアップ式の比較的自由な学 風と学祖北里柴三郎博士の伝記やその後の大学設立の経緯な どを学ぶにつれて、自己責任ですべてを取り仕切る私学の厳 しさと将来性への期待に緊張感と共に心躍らせた思いがあり ます。着任の日に先代教授の矢田賢三先生とお会いし、脳神

教授退任挨拶

「出会い、澤の流れのように」

  

相 澤 好 治

 (教授・衛生学)     

(4)

究システムはよく考えてつくり上げられており、全国的にみ ても異色の優れたシステムでした。系別総合カリキュラム、 ベッドサイド教育、系別共同利用研究体制など総合的、実践 的そして効率的に運営されており、現在では当たり前となっ ている教員のFDが盛んに行われていました。夏場の河口湖 に缶詰めで開催された教員教育セミナーなどたくさん思い出 します。卒後臨床研修も大学病院としてよく整備されており、 2年間の初期研修医、4年間の病棟医、その後の研究員と続 き、平成16年からスタートした現在の医師卒後臨床研修シス テムよりも進歩したところが数多くあったように思います。 ただ、研究に関しては、領域別に共同施設利用研究の場が準 備されていましたが、不夜城で研究を推進するというほどの 体制ではありませんでした。  脳神経外科臨床は救命救急センターの脳神経外科グループ と連携して運営され、病棟医は相互ローテイションプログラ ムで研修しており、大変うまくできた教育研修システムでし た。救命救急センターは、初代センター長が脳神経外科出身 の大和田隆教授であり、北里大学病院の地域性もあって脳神 経外科の関与が大変大きく、年間のクモ膜下出血患者が100 例を超える日本でもトップレベルの症例数を誇っていました。  教室員への目標は、①脳神経外科専門医取得、②学位取得、 ③海外・国内留学とし、世界に通用する人材の育成を目指し ました。連携病院を含めた脳神経外科グループにおける毎年 の教育・診療・研究活動を記録した「北里大学脳神経外科年 報」を毎年発刊し、北里大学脳神経外科グループが日本にお いてどの程度のレベルにあるかをデータで示し、明日への目 標としました。また、他大学・施設との交流を増やし、社会 的な役割も自覚してもらうように考えました。  若い教室員の希望もあり、脳神経外科医のマイクロサー ジェリー基本的トレーニングとして「北里脳神経外科微小解 剖セミナー」、「ハンズオンセミナー」を開催しました。解剖 学教室のご支援のもと、山梨医科大学脳神経外科と北里大学 で毎年共同開催し、昨年末で17回を数えました。最近では5 大学病院連携型高度医療人養成事業からもご支援をいただき、 ハンズオンセミナーとしては異例の全国から60名を超える沢 山の脳神経外科医の参加者を数えるまでになりました。また、 首都圏の大学相互交流についても、学術交流・教室員親睦の 目的で慶應義塾大学の河瀬斌教授が声かけされ、慶應義塾大 学、北里大学、日本大学、千葉大学の4校で、Waterfront Neurosurgical Conference(WFNSC)を立ち上げ、第1回 は慶應大の担当で初島において1泊2日の日程で開催されま した。明るい初島の素晴らしい舞台が今でも鮮明に思い出さ れます。第2回は北里大の担当で山中湖、日本大は軽井沢、 千葉大は木更津でそれぞれ開催され、その後横浜市立大学、 日本医科大学を加え、当番校が2巡しました。それぞれに素 晴らしい思い出を作り、当初の目的は十分達成できたと考え ています。   全 国 的 な 学 会 開 催 に も 恵 ま れ、 特 に 第18回Mt. Fuji Workshop on CVD、第35回日本脳卒中の外科学会、第16回 日本脳腫瘍の外科学会等の開催では教室員をはじめ、多くの 皆様のご支援、ご尽力を賜り無事盛会裏に開催することがで きました。改めて厚く御礼申し上げます。このような全国規 模の学会が開催できる最大の理由は、教室員の常日頃の診療・ 研究活動が全国的に高く評価されたからだと考えます。また、 医学部における研究費業績配分で年間の英文論文インパクト ファクターのポイントが基礎・臨床部門を含めて常にトップ クラスにあったことも教室員の活発な臨床・研究活動の成果 として嬉しいことでした。  脳神経外科教室の運営と共に、北里大学病院の運営にも関 わることになりました。平成12年7月より診療担当副院長、 平成15年4月より北里大学病院長職を拝命しました。平成11 年1月の横浜市大患者取り違え事故の発生、新しい医師卒後 臨床研修制度の導入と大学病院における卒後臨床研修医の減 少、地域や診療科偏在による医師不足、女性医師増加による 医師生涯ライフスタイルの変化、病院経営の悪化など医療を 取り巻く環境は激変し、まさに医療バッシングともいうべき 状況が起こりました。そのような状況下で病院の理念である 「患者中心の医療・共に創りだす医療」の実践のため、病院 の基本方針を明確にして事業計画を立てるように心がけまし た。信頼される安全な高品質医療の推進、特定機能病院とし ての高度医療・臨床研究の推進、大学各学部の卒前卒後教育、 地域基幹病院としての地域医療への貢献、国際学術交流の推 進、病院経営基盤の安定化など課題は沢山ありました。ま た、それと共に懸案の課題は老朽化しつつあった北里大学病 院の新病院建設計画でした。病院長に就任して間もなく、病 院長諮問委員会としての「新病院構想策定委員会」を立ち上 げ、医学部皮膚科学教授の勝岡憲生先生に委員長をお願いし ました。委員会はその後、数多くの教職員が参加して討議を 重ね、関係者一同が湘南国際村で1泊2日の泊まりがけ集中 討議を行ったこともありました。職員全員の熱い想いが届き、 ついに柴忠義理事長から新病院計画を北里学園創立50周年記 念事業にすることを決定していただき、法人全体の歴史的な 事業計画として認定されました。その後、新病院計画は学校 法人北里研究所創立100周年・北里大学創立50周年記念事業 として位置づけられ、柴理事長、馬場志郎教授、渋谷明隆教 授などのスタッフを中心に進められ、ついに平成23年9月に は着工式にこぎ着けることができました。本体の完成は平成 25年12月の予定で、開院は26年5月に予定されています。ま た、東病院もその後リニューアルされ、新理念を加えた新た な施設としてスタートする予定です。  医学部学生諸君との付き合いは学生懇話会があり、例年、 会を開いて悩みや意見を聞いたり、先輩としての考えを述べ て交流を図ってきました。このような懇話会の在り方には種々 の意見はありますが、それなりの役割は果たしているものと 思われます。北里大学の学生の気風や考え方のわかる貴重な 機会でした。北里の学生気質は素直ですが、もう少し覇気が あってもよいと思っています。卒業後の進路ももっと開拓者 精神を持って困難な領域に飛び込むことを期待しています。  平成23年3月11日に発生した東日本大震災と原発事故は、 これまで曖昧にして先送りしていた日本の在り方に大きな衝 撃を与えました。真に大切なもの、頼りになるものを浮かび 上がらせてくれました。人の命・絆の大切さ、プロフェッショ ナルの素晴らしさ、安全性の考え方をはじめ、わが国の今後 の在り方を再度考え直す貴重な機会となりました。北里大学 両病院からもDMATや医療チーム派遣、被災患者の受け入 れなど迅速な対応が行われ、病院職員の皆様のプロ意識に病 院長として改めて感銘を受けた次第です。振り返れば短い期 間でしたが、北里大学に赴任して以来、たくさんの人々にめ

(5)

ぐり合い、たくさんの人々に支えられここまでやってくるこ とができました。お世話になった皆様方お一人お一人のお陰 と感謝申し上げます。特に脳神経外科スタッフの皆様、病院 スタッフの皆様には一方ならぬお世話になり心より御礼申し 上げます。  末筆ながら北里大学に働く皆様ならびに関係各位の皆様の ご多幸と益々のご発展を祈念いたします。長い間ありがとう ございました。

教授退任挨拶

「Skin is the best dressing; J.Lister」

  

馬 場 志 郎

 (教授・泌尿器科学)     平成10年9月より小柴健前任教授の後、本学に就任いたし ましてから早いもので14年が経過し、ここに退任のご挨拶を させていただきます。同じ年に本学を卒業して新規に泌尿器 科学研修を開始した石井大輔、田畑健一、藤城貴教君の3名 の新入教室員とともに相模原キャンパスで新人として勤務を 開始しました。ですので、この3名の「若手!?医師が、その 後どのようにしているか???」を見れば、すなわち小生の 指導実績の一端を示すものと考えます。幸いにして3名の現 職は、それぞれ本学の診療講師、専任講師あるいは関連病院 医長指導医として後進の育成に活躍していただいております。 退任にあたり最初に申し述べたい事は、「北里でしか得られ ない教育者としての貴重な経験をさせていただいた」という 一言であります。浅学非才の私を、本学にお招きして下さっ た当時の諸先輩に御礼申し上げます。この間、教室に在籍し ておられた内田豊昭、頴川晋、荒川孝先生(講師)が他大学 に赴任し、教授として活躍しておられます。其々の応募申請 書類の作成時のことなど振り返りますと、それなりに人事面 で「人の出会い」の大切さに改めて深く思いを致す次第です。  腎移植と腎不全治療、経尿道的内視鏡手術、核医学、尿路 性器腫瘍、尿路結石の5分野は、教室の開設時に小柴初代教 授が主に取り組んできた分野でした。私が赴任して来たころ の前後15年を俯瞰いたしますと、最小侵襲治療法、腹腔鏡手 術があらゆる疾患に導入されはじめました上に、進行腎がん、 前立腺がんにおいて遺伝子治療や新規分子標的治療薬が続々 と登場し、腫瘍学でのパラダイムシフトが起きてまいりまし た。また、わが国においても諸外国の様に腫瘍内科医や放射 線腫瘍医との競争的協調時代が到来していることも事実です。 このような変革の時代に私が教室諸氏に求めて参りました事 は、日常診療の標準化、そして低侵襲性治療法の開発と導 入、普及であります。さらに質の高い臨床研究を遂行し、泌 尿器科医自身のエビデンス発信力の向上をはかるということ にも務めて参りました。赴任早期から腹腔鏡手術の導入に努 め、前立腺癌にはさらにBrachytherapyや遺伝子治療の臨床 研究をも実施して参りましたことから、最近の数年間では前 立腺癌の初診患者受診数は大学病院では全国一多い診療科に なりました。教室の泌尿器科専門医のうち2名が日本臨床腫 瘍学会の認定する癌薬物療法専門医の資格を取得しておりま す。岩村正嗣診療准教授のもとで腹腔鏡手術技術認定医も10 名育成いたしました。腹腔鏡下手術症例数は平成20年で1,000 例以上の経験を蓄積するに至っております。  平成10年当時の教員の陣容はすでに本学医学部30周年記念 誌に記してあるところですが、創設期からの着任教員数を除 きますと、平成23年までに126名の卒後研修医を泌尿器科医 として指導してきたことになります。医学部では人事委員長、 第14期総務委員長、平成19年医学科長、平成20年からは第6 代目の大学図書館長として仕事をさせていただきました。相 澤好治前医学部長時代に、「1号、2号、3号教員」の呼称 を廃止させるに至ったことは本当に良かったと思っておりま す。大学病院と医学部とが連携する経営基調がこれからも望 まれます。また、東洋医学研究会の部長をさせていただいた 事も学生諸君との楽しい思い出になっております。前後いた しますが、病院では平成15年に藤井清孝病院長のもとで人事 担当副院長をさせていただき、昇任試験のあり方などで改善 策を提案させていただきました。  平成20年10月から新大学病院プロジェクト本部長を仰せ付 かって参りましたが、平成23年には基礎工事が始まり平成26 年にはいよいよ大学病院が新しい建物になります。この教室 が地域医療施設と連携を密にしながら、これからも北里医学 と泌尿器科学の発展に寄与できる教育診療研究単位であり続 けてほしいと願っております。もとより、諸先輩の築かれた 開拓精神を次世代に繋ぎたいという一念で指導させていただ きましたが、その成果の如何は尚、次世代の評価に待たねば ならないと思います。今日まで大過なく教室を運営してくる ことができましたのも、様々な場面で、教室関係諸氏、関連 診療科、医学部事務、大学院事務、病院看護部、薬剤部、技 術職、病院事務職関係の方々の暖かいご支援をいただいたお 蔭です。皆様に厚く御礼申し上げ、退任のご挨拶とさせてい ただきます。

(6)

 平成23年度医学部卒業生111名の学位記授与式が、平成 24年3月23日金曜日に東京フォーラムで行われた。北里大 学学位記授与式は、ホールBで午前10時より、大学院およ び薬学部、医学部、水産学部、海洋生命科学部、看護学部、 理学部、医療衛生学部の各学部の卒業生に対して行われた。 広いホールは卒業生と父母で全席が埋まり、盛大な学位記 授与式となった。また、この学位記授与式は、北里大学 ホームページで同時放映された。学位記授与式では、開式 の辞に続き最初に、柴忠義学長から大学院および各学部卒 業生代表に学位記が授与された。医学部卒業生を代表して 三井悠さんが、柴学長より学位記を受領した。次に各学部 北里賞受賞者へ賞状と記念品が授与された。柴学長からの 式辞では、卒業生にお祝いの言葉が贈られた。また、今年 の卒業生は、昨年3月の未曾有の大震災と原子力発電所事 故を体験した学生であることに触れられ、科学者としての 専門分野の知識だけでなく、社会人として広い視野を持ち、 叡智を持って社会に貢献するようにとの期待が述べられた。 来賓のお祝いの言葉に続き、在校生の代表の送辞、卒業生 代表からの答辞が述べられた。続いて、卒業生と参会者が、 北里大学合唱団、ハンドベルクワイヤー部と共に北里大学 学生歌を斉唱して、北里大学学位記授与式を終了した。  続いて別室で、医学部卒業生、ご父母、医学部教職員の 出席のもと、医学部学位記授与式が行われた。和泉徹医学 部長から、医学部卒業生一人一人に学位記が手渡され、固 い握手が交わされた。卒業生一人一人が満面に笑みと誇り をたたえて学位記を受領した。続いて、和泉医学部長から 医学部北里賞が野城聡志君、高橋和沙さんに、医学部北里 会功労賞が田澤諒君、松永慶廉さんに、学生医学論文賞が 瀧澤沙耶香さんにそれぞれ授与された。和泉医学部長から の祝辞では、卒業を心からお祝いすると共に、卒業生は自 らの力で未来を開くべく、誇りをもって新たな門出をして 頂きたいとの祝辞が述べられた。藤井清孝病院長から、卒 業生へのお祝いの言葉と、今後の活躍への期待が述べられ、 医学部学位記授与式を修了した。医学部卒業生一人一人が 誇らしげに巣立っていった学位記授与式であった。  今年度の卒業生は、2年前に5年生に進級してきたメン バーのほとんどが卒業に至り、かつ北里大学医学部の歴史 に残る医師国家試験合格率を挙げてくれた。とても喜ばし く、誇りに思える卒業生である。卒業生たちの今後の幸運 を祈ると共に、彼らが社会の中で大きく成長し、次の時代 の担い手になることを期待したい。

学位記授与式を終えて

 第6学年主任 

鎌 田 貢 壽

 (教授・腎臓内科学)   

(7)

 平成24年度北里大学医学部の入学試験は、指定校推薦入 学試験と一般・学士入学試験による例年通りの選抜方法で 実施されました。北里大学では、少子化時代による入学試 験の競争率の低下に伴い、本年度より従来の「選抜」入試 の名称から「一般」入試へと変更されました。しかしなが ら、こと医学部に関しては、本年度もこれまで同様の高い 競争率となりました。この狭き門をくぐり抜けて、新1年 生119名(男性64名、女性55名)、学士入学試験に合格した 新2年生1名が、4月6日(金)にパシフィコ横浜国立大 ホールにおいて、めでたく入学式を迎える運びとなりまし た。以下に平成24年度の医学部入学試験に関してご報告し ます。  まず、指定校入学試験は、平成23年11月13日(土)に医 学部M1号館を会場にして実施されました。医学部独自の 基準で選定された全国の94校の指定校から推薦された高校 3年生が、論文、適性検査、面接試験からなる指定校入学 試験に臨みました。その結果、主に関東地区を中心に東は 青森県、西は佐賀県からの学生36名が合格しました。指定 校入学試験は、医学への強い志を持った伸び代の大きな学 生を、学力試験とは異なる方法で選抜することを目的とし ています。そのため、入学試験では、個別的な科目の学力 試験を行わず、複合的な論述形式の適性検査と課題に対す るグループ討論形式の面接試験からなる本学部独自の特色 ある選抜方法を行っています。受験生には、単に受験知識 の詰め込みではなく、これまでの学生生活のなかで培った 思考力や学習態度が求められます。  一方、一般・学士入学試験は、平成24年1月28日(土) に一次試験が、2月4、5日(土、日)に二次試験が実施 されました。志願者数が昨年度減少したため心配してお りましたが、本年度は昨年度に比べて431名上回る1958名 となり過去4番目に多い志願者数となりました。一次試験 として、英語(150点)、数学(150点)、理科(物理、化学、 生物より2科目選択)(200点)からなる学力試験が、相模 原キャンパス試験会場(L1、2号館)において実施され ました。一次試験当日の朝の午前7時40分頃には、山梨県 東部・富士五湖を震源とする比較的大きな地震が2度発生 し、試験会場の相模原キャンパスでも震度2と3の揺れが ありました。その結果、小田急線の運行が数分間見合わさ れたため、試験実施に対する緊急の対応が迫られました。 東日本大震災以降、入試当日の地震発生の可能性とその対 応を事前に当然想定しておりますが、実際には地震の発生 するタイミングや規模により、その対応は大きく異なりま す。判断基準として最も重要なことは、受験生の安全の確 保と試験の公平性の2つの大局的な観点です。幸いにも小 田急線の運行が直ぐに再開されたこと、また小田急線を利 用する受験生の多くは、試験会場に向かう途中のバスか、 試験会場に既に到着していたことから、試験開始時間は変 更せずに定刻通り試験を開始することができました。また、 遅刻した数名の受験者に対しては30分遅れの開始で別室に おいて受験してもらうことで対応しました。試験中に再び 規模の大きい地震があった場合のため、試験の中断や受験 生の避難などの対応策も検討しましたが、幸いにも試験開 始後は小さな余震が起ったのみで滞りなく試験を実施する ことができました。一次試験の4日後の2月2日(木)に 成績上位者349名の一次試験の合格が発表され、その合格 者を対象に適性検査、論文、面接からなる二次試験が2月 4、5日(土、日)に実施されました。論文には、「原子 力発電などの高度な科学技術を手に入れた現代社会におけ る死生観」に関する学生の考えを問うような非常に時事を 得た問題の内容も含まれていました。その後、一次試験の 成績結果に二次試験の論文や面接の成績などを加算した総 合成績の上位119名が正規合格者として2月8日(水)に 発表されました。合格発表は、医学部前の掲示板への掲示 とともに、携帯電話やパソコンからの合否照会システムで 行われています。二次試験の合格発表の当日午後3時に医 学部掲示板に合格発表を張り出しましたが、わざわざ医学 部まで合否の確認に来られた方はほとんどおられず、春を 告げる大学の風物詩も時代とともに消え行く寂しさを感じ ました。  最後になりましたが、入試に関わる業務内容は決して表 には出てこないのですが、試験問題作成委員や学生課を中 心とする事務系職員、試験問題の印刷業者、そして試験監 督や面接官でお願いする教職員など多くの方々のご協力と ご理解により成り立っております。この場をお借りして、 深く感謝申し上げます。また、入試実行委員長の職業病と も言えますストレス性の上腹部痛の主治医をお願いしてお ります消化器内科学の田邉聡准教授にも、この場をかりて 厚く御礼申し上げます。

平成24年度北里大学医学部

入学試験報告

 入試実行委員長 

阪 上 洋 行

 (教授・解剖学)     

(8)

 このたび、平成23年6月1日付けで医学部講師の職を拝 命致しました。この場を借りてご挨拶と自己紹介をさせて いただきます。私は平成5年に北里大学に入学し、学生時 代はバイト、バイクに恋愛と、人並みの青春を謳歌しつつ、 一時はボクシングの魅力に取りつかれリングなどに上がり ながらも、何とか留年することなく平成11年に卒業いたし ました。現在卒後13年目、夜な夜な自宅近所をランニング して体力維持に勤しむ37歳男性です。  大学卒業後は多くの同級生と同様に、当院での有意義な 初期研修を受けました。ドミトリーと病棟を往復する忙し かった日々、お金が無くて(当時は薄給!)近くのすき屋 で「並盛おしんこセット」ばかり食べていた日々が懐かし く思い出されます。初期研修後の専門科決定に当たって は「楽しかった消化器内科」と随分迷いましたが、最終的 には「感動の多かった循環器内科」に決定し、和泉徹教授 室のドアを恐る恐るノックした日の事を今でも鮮明に覚え ています。循環器疾患はスピーディな治療を必要とされる 場面が多く、加療により病状はダイナミックに変化します。 危篤状態で来院した患者さんが歩いて帰れることには幾度 となく感銘を受け、やりがいのある循環器内科を選んだこ とを後悔したことはありません。  循環器内科へ入局後は、永寿総合病院(東京)と竹田綜 合病院(福島)で1年ずつの臨床研修を積ませていただき、 一般内科医としての基礎を固めることができました。さら に清水市立病院(静岡)(現静岡市立清水病院)では、医 長として責任ある立場から循環器内科医として自立する機 会を与えていたただきました。若いうちに様々な病院で修 業をさせていただいたこと、豊富な経験ができたこと、良 き上司や同僚に恵まれたことは非常に大きな財産となりま した。途中、不整脈が電気焼灼により根治できることに感 動し、大学院へ進学し心臓電気生理を学びました。思い通 りの結果が出ないストレスフルな研究生活の中で、アブ レーション治療に携わることは唯一の楽しみでした。大学 院時代に不整脈疾患を勉強し、僅かながら自信が持てるよ うになったことは、その後の循環器内科医として大きな自 信となっています。  平成21年10月以降は現在まで、当院救命救急センターに て主に心臓救急の診療に携わっています。当院の救命救急 センターは人口70万人を擁する相模原市唯一の3次救急医 療機関として、その果たす役割は絶大です。搬送される患 者数は年間2,000名を下らず、心停止状態の重症患者に至っ ては500名前後にも及びます。心停止後の予後は極めて不 良ですが、積極的に低体温療法や体外循環治療を行い救命 に努めております。体外循環装置から離脱できない救命症 例にもしばしば遭遇しますが、昨今保険償還されるよう になった補助人工心臓(ventricular assist device:VAD) はこの問題を解決する糸口になるかもしれません。今後、 当院での施行が期待されるところです。本邦は世界に先駆 けて未曾有の少子高齢化社会に突入しました。それに伴い 救急搬送患者数は年々増加していますが、人的および経済 的資源は限られ、この不均衡が医療崩壊を引き起こしてい ます。救命センターで多くの患者を診療させていただきな がら、これからは治療の有効性を的確に予測し、積極的治 療に移行する症例を弁別する努力も必要だと常々考えてお ります。  最近、病院駐車場がめっきり遠くなりました。救命セン ターまでの長い道のりを歩きながら、新病院へのカウント ダウンが始まったことを実感しています。今後ますます真 摯に学び、臨床、研究、そして教育に、持てる力を存分に 発揮し気概を持って邁進したいと考えております。どうぞ 宜しくお願い致します。

講師就任挨拶

  

今 木 隆 太

 (講師・救命救急医学)   

(9)

 平成23年8月1日付けで、講師に就任いたしました生化 学の河野俊之です。  1987年に東京大学理学部生物化学科の故宮澤辰雄教授の 研究室を卒業し、そのまま東京大学大学院理学系研究科に 進学後、1992年に横山茂之教授のもとで理学博士の学位を 取得しました。その後、三菱化成生命科学研究所(後の三 菱化学生命科学研究所)の研究員となり、後で述べますよ うに蛋白質解析用のNMR(Nuclear Magnetic Resonance) 装置の立ち上げおよび蛋白質の立体構造解析を中心とした 基礎研究を進めてきました。この研究所に18年お世話にな りましたが、三菱化学生命科学研究所が閉鎖となりました ので、2010年4月より理化学研究所横浜研究所に1年4か 月ほどお世話になりました。このたび高橋正身教授にお声 がけいただきまして、本学に参りました次第です。  私が三菱化成生命科学研究所の構造解析研究室に入った 当時の前田忠計室長が北里大学理学部物理学科の教授(現 在は名誉教授)に移られた関係で、北里大学とは共同研究 などを通じて17年にわたるお付き合いが有ります。また、 三菱化学生命科学研究所のOBで北里大学に移られた先生 や研究者の方もたくさんおられ、医学部にも、9人ほど三 菱化学生命科学研究所の出身の先生がおられます。先日、 研究所のOB会がキャンパス内のバーベキュー場で行われ たのですが、医学部、理学部、医療衛生学部などから20人 ほどもの人数が集まりまして、あらためて、研究所と北里 大学のつながりの強さを感じました。  私の専門は、前にも触れましたが蛋白質のNMR解析 です。NMRというのは、病院で画像診断で使われてい るMRI(Magnetic Resonance Imaging)と根本的な原理 は同じです。ですので、実は、分析用のNMR装置でも、 MRIと同じような画像をとることができます。といっても 直径5mmのものしか見れませんが…。通常の蛋白質解析 用のNMR装置の使い方は、画像を撮るのではなく、主に 水素原子のシグナルを見ます。蛋白質のような大きな分子 になりますと、一つの分子の中に何百、何千もの水素原子 が含まれているのですが、炭素や窒素の安定同位体のシグ ナルなどの助けを借りて、その何百、何千もの水素原子の シグナルのほぼ全てを見ていきます。次に蛋白質の水素原 子間の距離の情報を取得する測定を使って、何千組もの水 素原子間の距離を決定し、コンピュータを使って、立体構 造を計算していきます。また、あらかじめ蛋白質中のそれ ぞれの水素原子から生じるシグナルを解析しておき、その 蛋白質と作用する薬を加えたときに蛋白質中のどの水素原 子のシグナルが変化するかを調べることによって、その蛋 白質のどの部位に薬が結合するかを調べるような方法も あって、これらの方法は、製薬会社の薬の開発にも多く使 われています。  このように蛋白質のNMR解析は、基礎研究だけでなく、 医学にも大きな関わりを持つものと言えます。実際に私 も、病気の原因となる蛋白質にどの部位に薬が結合するか を、簡便に迅速に同定できる方法の開発に長く携わってき ました。また、蛋白質のNMR解析のためには目的蛋白質 をミリグラム単位で高純度に調製しなくてはならないこと から、目的蛋白質を大量にきれいに作るための研究も進め てきました。北里大学においてもこれらの研究をいっそう 進め、病因蛋白質の解析を通して社会還元をはかっていき たいと思っています。  教育についてですが、私は、大学院卒業後、この北里大 学に赴任するまで研究所におりましたので、大学における 教育歴はありません。しかし、研究を進めるに当たって様々 な大学から大学院生を受け入れて、指導・教育・研究を行っ てきました。とはいいましても、学部の学生さんたちの教 育に携わるのは初めての経験ですので、若い人たちと触れ 合う楽しみや期待とともに指導の責任からくる緊張感が入 り交じっているような状況です。基礎医学系の生化学の教 官として、人体の仕組みを生体物質レベルで理解し、様々 な疾患の原因究明や治療法の開発にも寄与できる医師を育 てていくという教育面での使命を肝に銘じながら、これか らの北里生活をすごしていきたいと考えています。これか らどうか皆様よろしくお願い申し上げます。

北里就任挨拶

基礎研究から医学に貢献する

  

河 野 俊 之

 (講師・生化学)      

(10)

◆私は何故この科を選んだか

××中毒の人生で、たまたま辿りついた

中毒中毒の日々

 私は何故この科を選んだのか?この機会にこれまでの人 生を振り返ってみた。“いきあたりばったりに生きてきた 結果として、たまたまここに辿りついたんだなあ” と、すっ かり呆れてしまった。  幼少の頃は「生き物中毒」であった。信州の田舎育ちの 私は、いろんな生き物をつかまえてきては飼育するのが大 好きだった。そういえば、1984年に左手の母指を咬まれた 中学生が凝固障害から脳出血を生じて死亡したのをきっか けに毒蛇と知られるようになったヤマカガシも、当時は毒 蛇とは夢にも思わず、近くの川原で捕まえて、アマガエル を餌に飼育していた。その頃は漠然と「動物学者」になり たいと思っていた。  少年のころは「化学中毒」であった。不可思議な現象を 理論的に解き明かしてくれるこの学問に強く惹かれた。こ の分野に貢献した著明人の伝記や業績に関する本を読み 漁った。化学担当の教師と放課後に一緒に実験した。その 頃は「化学者」になりたいと思っていた。ところが、松本 深志高校時代に母親を肺癌で亡くした。母親の病気に無力 であった自分が悔しかった。東京工業大学の理学部・化学 科を卒業したが、医学にひかれた自分の気持ちを裏切れず に東京医科歯科大学の「医学部」に入り直した。  医学部の学生時代は 「脳中毒」だった。複雑な脳解剖を 洗練されたシェーマ(Schema)でわかりやすく解説して くれた萬年甫教授に親炙して脳解剖学教室に入り浸り、脳 の組織標本をコツコツとスケッチした。体育会系人間で あった私が、いずれは脳外科を選択することを誰も疑わな かったが、卒業間際に精神科を選択して周囲を吃驚させた。 実は、ここで白状できない不純な動機があった。妻にも決 して言えない。  精神科医になって5年目の冬に出向先の某総合病院神経 科に入院中の受け持ち患者さんの自殺を経験した。ERに 運ばれた患者さんを前にして何もできずに呆然としていた 自分が情けなかった。一大決心をして、目の前で自殺企図 されても最低限の救命処置ができるように救命救急セン ターで研修することにした。当時の神経科の部長(恩師) が、北里大学病院救命救急センターの精神科専任スタッフ であった堤邦彦先生(故人)と懇意であった縁で、北里大 学の門を叩いた。6か月の予定であった。ところが、救命 救急センターにきてさまざまな身体処置を体験しているう ちに体育会系の血が騒ぎ出した。しかも、自殺企図患者を はじめとして精神障害を合併している患者が数多く搬送さ れ精神科医としての存在意義もみいだした。恩師の “救急 に骨を埋めてこい” という言葉に背中を押されて北里大学 に籍を移して救命救急医に転身することを決意した。  振り返ってみるとなんといきあたりばったりの人生だっ たろう。母親の死がなければ医者にはなってなかったろ う、???(不純な動機)がなければ精神科を選択しなかっ たろう、受け持ち患者さんの自殺がなかったら救命救急医 に転身しなかったろう。ただ、転機となる決断をしたとき はいずれも熱い気持ちがあったように思う。  ちなみに、救急医となってからは「中毒中毒」であった。 生体試料の分析ばかりでなく、毒性や解毒薬・拮抗薬のメ カニズムを論理的に理解する上で「化学中毒」の頃の知識 や経験は非常に役立った。そしてなにより、ほとんどが自 殺企図による中毒患者の心も体も救うことは、精神科医か ら救命救急医に転身した私のモチベーションを満たしてく れた。救命救急センターに搬送される患者のうち5~10% が中毒患者であるのに、この分野の専門家は少ない。精神 疾患の合併が救命救急医の苦手意識を生んで尻ごみさせ ているのだろう。いつしか専門家にもちあげられた。お かげで、日本中毒学会の理事として認定制度の立ち上げ や、多施設共同研究に関わることができた。「中毒診療ハ ンドブック」(医学書院、2005)や「臨床中毒学」(医学書 院、2009)など、この分野の専門書を単著で出版すること ができた。中毒の専門家としてテレビや新聞にもたびたび 登場させてもらった。中毒がらみの犯罪調査や裁判にもた びたび協力した。週末は、著書で用いる生物毒の写真を撮 影するために、娘たちと山に川に海に毒のある動植物を探 し回り、「生き物中毒」だった頃の自分が蘇えった。いき あたりばったりの人生で、たまたまたどりついた中毒中毒 の日々にときめいている。  

上 條 吉 人

(診療准教授・救命救急医学)

(11)

 私は北里大学を平成9年に卒業しました。整形外科を選 んだのは卒業する直前だったと思います。小さい頃からプ ラモデルや機械工作が好きで、よく自宅の機械を見つける と機械の構造を知りたい衝動にかられてドライバーをもっ てきて機械を分解し、中の仕組みをみてまた組み立てる事 をしていました。(今でも時々やっています。)中高生の時 は好きな科目は数学、物理でばりばりの理系でした。医学 部への進学を考えるときも医師以外の職業なら数学者か機 械の開発エンジニアを考えたこともありました。このよう な背景の中、5年6年の臨床実習で各科をまわり多くの手 術を見学し、外科系への憧れが増しました。特に印象的だっ たのはやはり整形外科で手術野にある機械一つ一つが興味 深く、さらに関節、骨を再建していく様子は衝撃的でした。 その時、講義だったか教科書を読んだのか記憶が定かでは ありませんが、関節軟骨の摩擦係数が小さくどんな人工物 より優れていることを知り、人工関節などはそれに近づけ るために様々な開発と工夫がなされていることに興味をも ちました。国家試験の勉強の合間にあった整形外科の面接 で「人工関節の開発などの医療工学に興味があります」と 話したことを覚えています。  現在とは違い医師国家試験の合格発表があるとすぐに整 形外科に入局しました。治療する範囲は全身であり、一つ の疾患をとっても治療方法は多種多様です。年齢、活動度 に応じて患者に一番適した方法を選択していきます。そん な幅広い整形外科に入局し毎日の仕事に追われていると、 当初の思いはいつの間にか忘れ忙しい日々をこなすことで 精一杯となっていました。大学病院で2年間の研修の後、 北里研究所メディカルセンター病院、聖隷浜松病院へ2年 間出向し、現在勤務する北里大学東病院に戻ってまいりま した。出向していた病院では多くの症例を学ぶことができ、 毎日の仕事をこなすことで精一杯でしたが、手術件数も大 学病院の数倍行うことができました。この臨床経験は自分 自身の経験値があがり自信となりました。出向後は大学病 院病棟チーフとして3年間勤め、この頃よりただがむしゃ らに毎日の仕事をこなすことから一つ一つの症例に対し最 善の治療は何か、どうすれば患者が一番満足してくれるか を常に考えるようになりました。そうすると日々の仕事が より楽しくなり、さらにやりがいを感じることができまし た。とくに整形外科の疾患では外傷は別として変性疾患は 手術の絶対適応は少なく、主治医が患者とのコミュニケー ションで患者の生活習慣、仕事などを把握し、手術のベネ フィットとリスクを十分考慮し手術適応を決定します。す なわち、同じ臨床症状でも手術治療をするか保存治療をす るか患者により違うことが少なくありません。整形外科の どの分野も非常に興味深く、どれも専門として精通したい 思いがありましたが、助教になるにあたり脊椎班を選択し 現在に至っています。  平成23年4月より診療講師にさせて頂きました。大学は 研究と教育の場であり、学生、若手医師への教育をするに はEBMに基づいた裏づけをもって教育することが大事に なります。自信をもって教育できるよう、私自身の知識・ 経験をより深めていかなければなりません。今まで、私は 国内・外の手術見学などへ積極的に参加し、自分の知識が 狭くならないよう努めてきました。さらに、これらの経験 は他大学の先生との交流を深めるものとなりました。これ からも機会があれば意欲的に参加し、北里大学整形外科を 全国・世界へ発信できるようにがんばっていきたいと思い ます。

私は何故この科を選んだか

 

井 村 貴 之

(診療講師・整形外科学) 

(12)

○●○エッセー○●○

医学を学び始めシハンセイキを迎えて

 

宇津木  聡

(講師・脳神経外科学)    私は北里大学医学部に1986年に入学したので、それから 25年の月日が経ちました。今までの人生の中で半分以上の 時間、医学に接している事になります。なぜ医学部を目指 すようになったかというと、祖父の影響が大きかったと思 います。祖父は産婦人科を開業していたのですが、私が生 まれる頃にはすでに廃業しており、両親も医学とは全く関 係のない職業でしたので、実際の仕事場をみたことはあり ませんでした。しかし、両親は共働きであったため、幼少 時は祖父と一緒に過ごすことが多く、医者の仕事の話をよ く聞いていました。それで医者という職業に興味を持つよ うになり、小学生のころには将来は医者になりたい、とい うことを文集に書いていました。祖父も私の父が医療関係 の仕事をしていないことから、孫の誰かに医者になってほ しかったらしく、また、私の兄弟も医療に興味がなかった ことから、私に対する期待は徐々に強まっていったようで す(結果的に11人いる孫の中で医者になったのは私だけで した)。高校時代にはElisabeth Kübler-Rossの『死ぬ瞬間』 を読み、医者は病気を治すことだけが仕事ではないことに 衝撃を受けました。そして “死” というものを意識しなが ら医学部に入学しました。医学部に入学したことは、私以 上に祖父が喜んでくれました。その祖父も、その後しばら くして他界してしまいましたが、できれば、一人の医者と して祖父と語り合いたかったです。  高校生の頃はElisabeth Kübler-Rossの影響もあり、医者 になって癌の医療、特に緩和ケアをやりたいと漠然と思っ ていましたが、医学部入学して免疫学や漢方医学に興味 を持ち、4年生になると、外科医になると決めていまし た。それが、6年の臨床実習が終わった頃には、外科医の 前に脳神経がついていました。今考えてみて、なぜ脳神経 外科を専攻したかは上手く説明できません。いろいろ悩 み、あれこれ比べた結果であることは間違いありません。 年々その理由が変わってきている様な気がします。きっ とmemory reconsolidation(記憶の再固定化)が起こって いるのでしょう。記憶は想起されるたびに変化し、都合の よいように変わってしまうのです。このような不思議のあ る脳の科学を学びたい、というのも脳外科を専攻した理由 の一つだった様な気がします(memory reconsolidationで ないと思いますが)。脳外科医となった私に思いもよらな い出会いがあり、その後の進む方向が大きく変わりました。 良き先輩と治らない患者さんたちとの出会いです。良き先 輩の手ほどきで脳腫瘍を学び、治らない患者さんを診るた びに何とかならないかな、と考えているうちに脳腫瘍を専 門としていました。  医者として身内を診る機会も多くあり、軽症のものでは 頭痛、末梢性顔面神経麻痺、重症のものではくも膜下出血、 脳挫傷、急性硬膜下出血、癌性髄膜炎など、脳外科に関す る疾患も何故か多く、その意味では脳外科を学んでいて助 かっています。しかし脳腫瘍の知識が活かされることはあ りませんでした。そして多くの身内の “死” にも立ち会っ てきました。Elisabeth Kübler-Rossは、死の受容への過程 を否認、怒り、取引、抑鬱、受容という5段階で説明して います。これは、死を受け入れる本人の事ではありますが、 家族としても程度の違いはあれ、同じような経過をたどる ものと思います。ところが医い師しあたま頭となった自分には、前 段階なく受容の状態となっており、いち早く身内の死を受 け入れている自分に、自責の念にさいなまれることがあり ます。同様に、悪性脳腫瘍の患者さんを初めて診察する際 に、頭の隅に死がちらつく自分に倦み果てることがありま す。医学を学び始めて死について考え、反省も多い25年で した。  悪性脳腫瘍の膠芽腫に関しては、私が入局したころは、 初めに入院した季節を2度と迎えることはありませんでし た(あくまでイメージですが)。最近は少しの社会復帰が 出来るようになりましたが、まだ、治るといえる患者さん は少ないのが現状です。あと何年自分が医者ができるかは わかりませんが、悪性脳腫瘍の患者さんが治るように、私 の行っている研究も、将来良い治療法の礎となればよいな と思い日々精進努力をしています。

(13)

 解剖学実習初日は異様な緊張感を感じた。解剖実習室に 入って解剖台の上のご献体を見て、実際これから人間を解 剖するんだと怖くなった。尊い人体を解剖し、人体の構造 を学ばさせていただく機会に改めて感謝を覚え、はじめて メスを手にとった。  この初日から約3か月間にわたる解剖学実習はなかなか ハードであった。毎日2時間半手を動かして集中するし、 人体を解剖させていただいている重みを感じていた。なか なかうまく剖出できないものもあり、先生方に助けていた だいたり、同じ解剖班と図譜や教科書を見ながら、解剖を 進めていった。実際図譜や今まで自分が見てきた図と同じ ものを見ることができたときは感動を覚えた。自分の解剖 しているご献体と他のご献体を比べて見ると様相が異なっ ている部分があるのは興味深かった。しかし、毎日見るも のは違えど、同じことをやっているとついつい人体解剖を するのが当たり前になってきてしまう自分がいた。そんな 時に、解剖させていただいている方のお顔を見ると、私た ちが何も知らないこの人はどういう家族がいて、どういう 仕事をして、何を考えながら人生を送ったのだろうと考え させられた。人体を細かく時間をかけて丁寧に解剖させて いただく機会というのは非常に貴重なものであると改めて 気付かされた。  尊い人体を解剖させていただく経験は自分が医者になる んだという認識をより鮮明にした。実際に目で見て手を動 かして人体の構造を知ることで、ここはどう機能している のだろうと疑問が湧いてきて、今回得た知識を今後の学習 に活かすとともに、医学を勉強するにあたっての原動力に していきたいと思う。解剖学実習を終えるにあたり献体し て下さった方々、そのご遺族の方々、解剖学を教えてくだ さった先生方とともに実習を行った同級生に感謝をしたい。  9月以来連日続いた解剖学実習もほぼ終わりを迎え、今 私はこの大学に入学したときよりもはるかに強く、将来医 師になることへの使命感を感じています。  解剖学実習の初日、シーツにくるまれたご遺体を前にし て、私は緊張と不安を覚えていました。親族の葬式で遠目 には見たことがありましたが、そのご遺体を自分の手で解 剖するというイメージが、まだ付いていませんでした。し かしシーツをめくり、黙祷の後にご遺体にメスを入れさせ て頂いたとき、そうした感情は消え去りました。机の前で ただ教科書を読んでいるだけでは決して感じることのでき ない、本当に形容し難い感情が、私の心を支配しました。 この感情は、きっと私が医師になってからも生涯忘れるこ との無い感情だと思います。  ご遺体の解剖をしていて最も驚いたのは、人体が実に精 巧に作られているということです。例えばあらゆる関節の 滑らかさや、心臓にある弁構造。文献であらかじめ分かっ ていたこととはいえ、自分の目で見るとそうした1つ1つ の構造に感動を覚えました。そうした感動とともに、多く の知識を得ていくことができました。また、人体は必ずし も教科書通りの構造をしていないことも、身をもって知り ました。人間ですから個体差があるのは当然のことではあ るのですが、教科書を使って勉強をしている私たちはどう してもそれを忘れがちです。試験に対する勉強だけでは、 将来とても医師など務まらないと反省しました。  実習には真剣に臨んだつもりではいますが、残念ながら 同定の困難だったものやどうしても見つけることができな かった構造もあり、全ての解剖を満足に終えることができ たとは言い切れません。しかしながら、そうした失敗も今 後勉強していく上での糧にできたらと思っています。  今回の解剖学実習で、私は知識面と精神面の両方で多く のものを得る、貴重な経験をすることができました。それ と同時に、自分はまだまだ未熟であることも痛感しました。 今回の経験は、今後私たちが医学を勉強する上で礎となる でしょう。ご献体くださった方やそのご遺族に恥じること のないよう、これから日々精進していきたいと思います。

第2学年 解剖学実習を終えて

関  紗 也 加

栗 田 悠 輔

(14)

①先生方のお話の感想  今回の講義は、自分の将来を見据える、大変よい機会に なった。  まず、藤田朋恵先生のお話では、今まであまり聞く機会 がなかった、「医師になって辛かったこと」や「医師になっ て失ったもの」について聞くことができた。  医師になって良かったことや得たことなどのプラス面に ついては聞く機会も多いが、マイナス面についてじっくり と聞くことができる機会はあまりなかったので、とても興 味深いものとなった。  研修医時代に、精神的にも体力的にも辛かったこと、給 与が多くはないこと、週休2日の生活や、午前9時から午 後5時といった勤務時間を失ったことなどを聞き、このよ うなことは初めから分かっていて医師を目指しているつも りだったが、改めて先生から聞くと、その大変さがひしひ しと伝わってきた。  また、患者さんの死に対する感受性が変化したと聞き、 少し驚いた。しかし、どんなに多くの死に直面しても、悲 しいという感情に慣れてしまったら患者さんを思いやるこ とができる医師にはなれないと思うので、患者さんの死に は慣れてしまうことのない医師になりたいと思った。  そして、吉田一成先生のお話では、先生の「まだ何科に 行きたいかなんて分からないでしょう。これから決めて いくものですよ。」という言葉が印象に残った。医学部入 試の面接対策などで、「将来、何科へいきたいですか」と いう質問をよく耳にし、私は「大学に行って色々な専門知 識を勉強をしてみなければ決められないのではないか。入 学する前からきちんと目指すものが決まっていなければな らないのだろうか。」と不安に思うことがあった。しかし、 吉田先生の言葉を聞いて、これから勉強しながらじっくり 考えていけば良いのだ、と思えるようになり、勉強しなが らゆっくり考えて自分が一番やりたいことを見つけられた ら良いと思った。  今回お二人の先生の講義を聴いて、医学部に入学してか ら考える機会が減ってしまった自分の将来を、改めて見つ めなおすことができた。辛いことも失うものもたくさんあ ると思うが、医師という職業は、きっとそれ以上に得るも のがたくさんある、やりがいのある仕事だと思う。これか ら大学で学ぶことひとつひとつを大切にし、しっかりと自 分の将来を決めていきたいと思った。 ②あなたの人生にとって医師になる意味  私の人生にとって医師になる意味とは、一人でも多くの 人を幸せにすることである。医師という職業は、患者さん だけでなくその家族や周りの人など、たくさんの人を幸せ にできると思う。病気を完全に治すことができなくても、 痛みを和らげたり、ほんの少しでも長く生きられるように したり、残りの人生を有意義に過ごせるように手伝ったり、 そういったことで患者さんが喜んでくれたら、自分が医師 になれてよかったと思えるだろう。  言葉で言ってしまうとありきたりだが、私はそれが自分 の使命でもあると考えることがある。世の中には医師にな りたくてもなれなかった人がたくさんいる。そのような状 況の中で、医師を目指して学ぶことができているのだから、 私たちには立派な医師になり、人々を救う使命が与えられ ていると思う。そして、医師として使命を果たすことで、 少しでも社会に貢献できれば、自分も幸せだと思う。  医学部におけるキャリアデザインの講義(医学原論:1 年生)も3回目を迎えました。このキャリアデザインの講 義は、さまざまな分野で活躍する先輩の話を聞き、医師と してどのような進路があるのかを考えることを目的として います。今年度は、北里大学卒業生のお二人、泌尿器科学 の吉田一成先生と薬理学の藤田朋恵先生にお話をしていた だきました。  吉田先生は、一度は違う道に進みかけたけれども医学部 に進学した経緯や、泌尿器科を選択し、中でも腎臓移植の 分野に進んだ理由、手術の面白さなどについて熱く語って くださいました。藤田先生は、臨床での経験を経て薬理学 の研究へと方向転換した経緯や研究の面白さなどに加え、 医師になって失ったもの、というなかなか聞くことのでき ない本音を話してくださいました。あらかじめ学生に聞き たいことをアンケートとして調査し、リクエストの多かっ た質問に答える形でのお話は興味深いものでした。学生は、 お二人のお話の内容だけでなく、それぞれの専門家として 話をする態度や雰囲気にもいろいろと感じることがあった ようです。以下に感想レポートの一例をご紹介します。

キャリアデザインの講義について

  

守 屋 利 佳

 (准教授・医学教育研究部門)

キャリアデザインの講義を聴いて

第1学年 

久 代 聖 子

(15)

1.映像の感想  放射線被曝というほとんど例のない状況の中でも、どう にかして患者(大内さん)を助けようというチームの熱い 思いと、それを助けられない葛藤の様子が見てとれて、複 雑な心境となった。  治療方針を決めるのは、確かに医師である。しかし、こ のような危機的状況のときこそチーム医療が必要だと思っ た。患者は大量の被曝により、皮膚が爛れ、真っ赤になっ ていて、常に激痛であったことだろう。それを緩和するの はやはり看護師だろうし、前例のない症例に対応するため に、最新の研究成果を用い(ここでは人工皮膚)、そのた めには研究者の協力も必要である。それに何より、もう助 けることはできないだろうという思いに負けず、治療をあ きらめずに続けることができたのはチーム全体で団結して 頑張れたからだろうと思った。チーム医療の新たな側面を 見ることができた。 2. 医療人として、これから人の死にどのように向き合っ ていきたいか?  私は高校生の時、講演会で、死生学を初めて日本に導入 したアルフォンス・デーケン氏の話を聞き、そこで初めて、 「良き死」というものの概念を知った。死というものは日 本人にとっては負なるもの、敬遠されがちなもので、死と 向き合うということは日常では行われない。よって、どの ような死を本人が迎えたいか、家族が知ることもなく、急 に末期の宣告をされたりすると、動顛したり、後々あれで よかったのだろうかと思い悩んでしまうことも多い。私の 希望は、日本の人々も死を前向きにとらえ、生の最後であ る死を良く迎えるために準備をするようになってほしいと いうことだ。そのためにも、自らこの学校生活の中で色々 なことを経験しながら、考えを深めていきたいと思う。  北里大学は、日本でも数少ない14の医療専門職を育てる 大学である。「チーム医療論」は医療系学部を対象に平成 20年度から始まった。医学部の1年と3年、他学部は、薬 学、看護学、医療衛生学、保健衛生専門学院(新潟)、看 護専門学校(北本)の1年、およそ900名が遠隔中継を通 して15回の共通講義を受ける。14の医療専門職を育ててい る北里らしい授業のひとつである。  2011年12月は「チーム医療の倫理」がテーマであった。 はじめに「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライ ン」(厚労省2007)を紹介し、患者さんの意思の尊重と、医療・ ケアチームで関わることの重要性が説かれていることを解 説した。続いて、2001年放映のNHKスペシャル「被曝治 療83日間の記録:東海村臨界事故」(齋藤所持の映像資料) を上映した。これから医療人となる学生たちが、患者・家 族・医療者、様々な立場に思いをはせ、医療人となる矜持 を自らに問う契機になると考えたからである。授業後の課 題は「①映像の感想、②医療人としてこれから人の死にど のように向きあっていきたいと思うか」。900の若者の思い が集まった。読み進むことは私にとっても学ぶ時間となった。

チーム医療論「倫理」学生レポート

  

齋 藤 有紀子

 (准教授・医学原論研究部門)

被曝医療と終末医療



第3学年 

粕 谷 友 香

参照

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○○でございます。私どもはもともと工場協会という形で活動していたのですけれども、要

○菊地会長 ありがとうござ います。. 私も見ましたけれども、 黒沼先生の感想ど おり、授業科目と してはより分かり

○齋藤部会長 ありがとうございました。..

○齋藤部会長 ありがとうございました。..

〇齋藤会長代理 ありがとうございました。.

○藤本環境政策課長 異議なしということでございますので、交告委員にお願いしたいと思

○片谷審議会会長 ありがとうございました。.

 次号掲載のご希望の 方は 12 月中旬までに NPO法人うりずんまで ご連絡ください。皆様 方のご協賛・ご支援を 宜しくお願い申し上げ