Title
ネルヴァルの幻想とディオラマ : ディオラマに関する記事
Author(s)
Sakaguchi, Katsuhiro, 阪口, 勝弘
Citation
年報・フランス研究, 32: 43-53
Issue Date
1998-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9394
Right
Kwansei Gakuin University Repository
ネル ヴ ァル の幻想 とデ ィオ ラマ
ディオラマに関する記事
阪 ‖ 勝 弘I序
19障紀はパ ノラマ、デ ィオラマをは じめ、視覚 に対す る効果をね らった見世 物が 人いに活況 を呈す る(D。 新 しい照明の発明な どによ り市井の人々の11活が、 大きな影響を受けていた時代に必然的に生まれた娯楽 といえるだろう。ネルヴ ァルは1844年
9月 15日 付けの『アルチス ト』誌で、デ ィオラマによるIH約聖 書に題材をとった『 太洪水』のL演について報 じている。 これを単なる演劇時 評 として捉 える向きもあるが、 この記事の後に発表 される彼の代表的作品のい くつかのものか ら翻ってみると、作家の創作の本質に触れる主題が認められ る。 デ ィオラマはネルヴ ァルにとって単なる流行現象を超えて、内面世界に深 く根 付 いていた と思われ る。 しか しネルヴ ァル と演劇 との関係が論 じられ る際、劇 作家 としてみるにせよ、劇評記事作者としてみるにせよ、ほとんどがオペラ、 あるいはオペラ=コ
ミックに限 られていた。小論ではデ ィオラマな どのスペク タクル も同様に作家の霊感の源泉になっているという点 を確かめていきたい。 まず問題の記事を具体的に検討 し、次に彼の代表的な作湿:との関わ りをたど っていくことに したい。 」 「デ ィオラマ、オデオン座」 (『アルチス ト』誌1844年
9月 15日) デ ィオラマは横20メ
ー トル縦 10メ ー トル程度の半透明の布に特殊な絵の具 で絵を描 き、それに照明を表か ら当てた り、裏か ら`%て た り、また光の角度や 強度 を変えた りすることで、同 一の絵か ら、さまざまな幻想的 イメージを連続して浮かびllがらせていく。観客は この絵の 手前 15メ ー トルほどのところにあ る縦4メー トル、横 7メ ー トルの開日部か らこの光景を覗みるという仕組みに なっている。いわば・IIからくりの原理である0。 『アルチ ス ト』誌の記事で ネルヴァルはデ ィオラマ特イ「の光の躍動が生み出 す 「なかば空想的な自然情 景をllF現しているにもかかわ らず、驚 くべき真実味 を備えている」情景を活写 している。 少しずつ、地 平線が暗 くな り、雲が 重オ´l込め、赤 い│【(り返 しを帯び、弱 まる太陽の最後の光を背景に、海が輝いている。壁には水が流オl、 広場 も 通 りも嵐 に吹かれ湧き 立つ水で浸 さオ1て いく。水浸 しになった町の外壁は 水のあふれ る瓶のように、1壁の11から水があふオl出 している。 人々は、屋 根へ、塔へ、さらに山の11へと逃げ延びるが、ついにはすべては分厚い雲 と、轟音をたててそオ1を貫きとおっていく不,lFな水柱の中に消える。 (3ёrard de NERVAL.θ 'ハ リマS(レ滋鴫ρ彙ンピ∫,Biblioth(詢 ue de la Pldaden GALLIMARD,tome I,1989 pp.840‐
843
以 ドブ レイ ア ッ ド版 全集 第 ^巻か ら第 二巻 に つ いて はそ れ ぞ れPL l,PL.且 ,PL Шっと略 記。) デ ィオ ラマ を映 画のFi接の先 ‖Lと考え る妥Чl性が 大いに領 ける迫 力あ る場mi。 「驚 きや感動 、興味深 い展 開 を もつ 真の劇的 スペ クタクル」 と記 事のデ ィオ ラ マ に関す る部分 は締 め くくられ て いる。 このデ ィオ ラマの持 つ鮮 烈な印象 につ いて は・1時多 くの 人々は賛辞 を情 しまな い。 ヴ ァルター・ ベ ンヤ ミンは 、作家 た ちがデ ィオ ラマにつ いて もら した感慨 を引用 して い る(詢 。 1822句lにバル ザ ックはデ ィオ ラマを訪オ´lて感激 し 「││ヒ紀 の 奇蹟 の 。つ」 と漏 らし、時 代は 少 し ドるが ボー ドレールは 「 (こんな絵 を 見る くらいな ら)荒
々 しくて│二人な魔術 で私にイJ・益な錯 覚 を否応 な く起 こさせ るデ ィオ ラマに も う ^度連れ て いって も らった ほ うが い い (…)」 と,上べ る。 このi:己事で取 りllげらオ1ている『 人洪 水』 に限 ってみて も巷で話題 を引 き起ネル ヴ ァルの幻想 とデ イオ ラマ 45 こしていたようである。この記事が掲載された六 日後、『イリュス トラシオ ン』 誌 も同 じ演 目について報fliしているcL.I pp.1816‐1817)。 ネルヴ ァルの記 事 同様、 ここで も舞台 となるエ ノクの町の描写に続 いて、来るべき大洪水を引き 起 こす嵐の 予兆である、空の模様 、雨、風、逃げまどう人 々の様Fが描かれて いる。ただ大筋ではネルヴァルの記事と変わ らないが、『イリュス トラシオン』 誌 の記 事の方がいっそ う迫真的で、読者を実際のデ ィオラマをみているかのよ うな気分にさせる工人が成されている。 「ll砂降 りの雨があなた方には聞 こえ るだろう、見えるだろう、 (… )」 「あなた方 (vous)」 という主語で書 く こ とで読者は観客席に座っているよ うな感覚に近づ くことができる。風景の細部 について もよ り詳 しく解説が成 さオ1て お り、情景描写については明 らかにネル ヴ ァルの記事よ りもよ く書けている。 しか し、ここか らネルヴァルの ジャーナ リス トとしての力量をあげつ らうのはいささか早計であろう。た しかに『イ リ ュス トラシオン』誌の記事と比べ るとやや物足りなさを感 じるが、その程度に しか書けなかった、あるいは書かなかった理由がほかにあるのではないか。具 体的にデ ィオラマの画面を筆に写す こと以外に彼の主眼があったとは考え られ ないであろうか。記事の全体 を概観すると確かに別の意図が汲み取れ る。 『アルチス ト』誌の記事はタイ トルが示 しているようにそのL割か ら八割が デ ィオラマの記述に当て られてお り、残 りの 1割程度はオデオン座で、夏休み が明け、『アンティゴネー』力`地方巡 業か ら戻つてきた ことを告げている。た だ奇妙な ことに、問題のディオラマに関する記事の内、半分以上は大洪水の舞 台であるエ ノクの町に住むカイ ンの種族に関す る神学の議論に終始 している。 旧約聖 言での`11該筒所について、 フィロン、 グノーシス派の人々、あるいはカ バラ学 者達の名を列挙 し、さらに彼 らの解釈を示 し、またその他の様 々な異説 について も検討を加えている。表題 として掲げている以ll、 見世物 としてのデ ィオラマに関 して書 くとい うのが記事のli眼であるな らば、かな りの逸脱であ り、違和感はいなめない。 この記事についてのいくつかある先行研究は、もっ ば ら神学議論の部分だけを取 りllげ、この迂回のは らむ矛盾は不間にふ された
ままである。雑誌記事を単なる売文と軽視す るところか ら来るお ぎな りな執筆 態度が原因なのか。あるいは他に動機があるのだろうか。 ここで取 り11げられている人物の内、ファープル・ ドリベ、クール・ ド・ ジ ェプラン、キル ヒャー神父はネルヴァルの他の作品で もたびたび取 り上げられ る。 とすると、もともと彼の持 つていた興味 とこの『大洪水』がテーマを共有 す ると考えることができる。また これに先 立つ数力月前よ り『アルチス ト』誌 に寄せ られた記事、あるいは書簡か らも同時期に彼が神学論争に関わ つていた ことが分かる。1844年 5月 13日 か ら 16日 の間に書かれた と推定され る手紙で 「慮1評記 事の中で これ以 L長 きにわた り宗教について語 るのはため らわれるが
(・・・)」 eL.1,P i414.ズ
Mル
〕″″ ″′′″ル ね じ餞et″ぬゞハ″′聾動と断っているところか らも自分 自身
.宗
教の話題に入れあげていることを意識 していた こと が うかがえる。 要するに、デ ィオラマ『人洪水』について 書く機会を利用 して。 その頃 専心 していた宗教的話題をまた してもつづった とみることができるだろ う。そ うす るとネルヴァルにとってディオラマ自体はさ して重要ではな く、そ の『人洪水』 という11題の持つ宗教性がむ しろ問題だった ということになる。 しか し逆に、デ ィオラマを中心に据えて、デ ィオラマが彼の中でかな りの比重 を開めていた宗教的な関心 を刺激 したと考えることはできないだろうか。作家 の内奥でデ ィオラマの持つ迫 力に満ちたイメージが′いの琴縁にふれ、それゆえ、 先行す るいくつかの記事と同様、また してもこの記事で も、意識 しなが らもあ えて宗教の議論についての長い脱線 を自身に許 したのではないだろうか。実際 デ ィオラマがネルヴァルの深層に影響を与えた ことは、彼の代表作:il:のいくつ かに日を移す と顕になって くる。以下に実際に作中に現れたデ ィオラマの跡 を た どることで この関わ りの浅か らぬ事を確かめてゆきた い。 Ⅲ 作品にみ られ るデ ィオラマの影響 デ ィオラマを特徴づけるのは何よ りもまず 「光」の持つ力であろう。静lLし た絵が光によってエネルギーを与え られ、影像の世界が遭、づきも動き始める。ネルヴァルの幻想 とデ イオラマ 47 筆者は以前『オー レリア』における「光」をテーマに論 じた ことがある(0。 そ こで明 らかになったのは、 「光」が 人物や 事物 を 「動かす」あるいは 「生命」 を吹き込む力を持つということであった。 「光」に生命の源をなぞ らえるとい うのは、 「元型」 といった概念 を持ち出すまで もな く一般的な象徴化であると 思える。そ う考 えるとネルヴァルの 「光」が とりわけデ ィオラマと結びつく根 拠は希薄なようにも思える。 ところが『オー レリア』に限 らず、 しば しばネル ヴァルの作品では 「光」は、一般的な概念としての 「光」に加えて、演劇や芝 居の照明 としての趣が強い。 『 シルヴ ィ』ではロモ1ての女優の登場をひたす ら待ちこがれている 「私」の 印象が語 られている。ついに彼女が舞台に現れた ときの情景はある意味で「光」 の奏でる楽曲にもた とえ られるよ うな光景である。 フッ トライ トで下か ら照 らされると真昼のように美 しく、フッ トライ トが 消 され シャンデ リアの光だけが上か ら照 らし、彼女をよ り自然にみせる時 には夜のよ うに青白く暗い舞台で自ずか らの美 しさで輝 く様は、(0・・) あの額に星をいただいた 「時間」の女神達のよ うだった。
FL.Ⅲ
p.537) 舞台照明によって浮かび11がる女優は、神話的なイメー ジに昇華されるまで に。 「私」の内面に深 く入 り込んで、息づいている。そ して この心象は幼年時 代に見てか ら終始主人公の脳裏にある。理想の女性の登場す る場面にも再来す る。 彼女の歌が進むにつれて、 大きな木 々か ら闇が降 りてきた。そ して差 し初 めた月の光は、 じつと聞き入 つている私たちの輪の中央に、 。人離れて 立 つ彼女だけを照 らした。eL.Ⅲ
p.541) 子供達が遊ぶ、城館の近 くの芝41の広場は瞬 く間に 「闇」の暗幕がひかれ、中央に立つ 「ベア トリーチェか と思わオ´lた」歌姫にスホ ッ トライ トがあた り、 彼女のア リアが空間全体をふ るわせ満た していく。ドミニク・ タイユーはいみ じくもこの場面の光を 「スッボ トライ トの光」と表現 しているように0、 劇の 照明の効果が用 いられているのは明 らかである。 ネルヴァルにとって 「光」はわかちがた く「劇」における照明と結びついて いるのだ。 ここではまだ舞台のLの現実の人間を照 らすオベ ラやオペラ・ コミ ックの照明であるが、全 くの幻想の 性界を作 り出すにはデ ィオラマの光が必要 になる。次に明瞭 にデ ィオラマとの関係を示唆す る箇所 をみていきたい。 今なお玄J想作家 としてのネルヴ ァルの評価 を不動の ものに している『オー レ リア』の 「夢は第 1の人生である。」 という冒頭はあま りに有名である。 これ に続いて眠 りに落ちていく様rは、死のイメー ジとが重ね合わせ られ る。それ は 「精霊の 陛界」のイメー ジである。 それは茫漠 とした地 ドで、少 しずつ明るさが増 し、影 と闇の中か ら占聖 所に住む、重々しく動かぬぼんや りとした形態が浮かび 上が って くる。次 に場面が形作 られ新 しい光が射 し、これ らの奇妙な幻影を動かす。
cL.Ⅲ
p.695) これはスウェーデ ンボルグが 「メモ ラビリア」 と呼ぶ情景と同 じである、と語 られ る。 ここで 'li日 したいのは 「場面」と訳 している筒所であるが、 これは原 文では<tableau>と
いう語 で表現 されている。<tableau>は
「場面、情景」 であると同時に 「絵、絵山i」 も表す。徐 々に暗闇の中か ら照明によって浮かび あっがて来る 。枚の 「絵」、その 「絵」の中で 「光Jが
幻影に生命を吹 き込む。 デ ィオラマの 「絵」と全く同 じ原理である。執筆時にネルヴァルの頭の中にデ ィオ ラマが明確 にイ メージされていたか どうかは推測の域 をでないが、この類 似は明 らかであるよ うに思える。 さらにもう 。つ 「絵」の登場す る場籠io li人公である 「私」が 「叔父」にあネルヴ ァルの幻 想 とデ イオ ラマ 49 たる人物に精霊の世界についての真理を教え られる場面であるが、 「私」 と伯 父の間の意志疎通は:†葉では成されず、 ‐種の以心伝´心による対話が行われ る。 そ してl二人公は伯父のいう真理を理解 した と思 うのであるが、その時の描写に 「生きた絵 (pehtures anim6es)」 という表現が使われる。 その説明は私にす く゛に明瞭 とな り、そのイメージは私の日の前で生きた 絵のよ うにはっき りとした形をとった。
(PL.皿
p.704) 「明瞭」と訳 した部分は原文では<daire>と
表されているが、「明るい」とい う具体的な意味が原義である。 「明るくな り」、真実がイメー ジとして生きた 「絵」のように 「眼のまえに」表される。さらに、この箇所では<pehture>
という語が使われ ている。先に見た 冒頭部分の<tableau>よ
りもいっそ う具 体的な 「絵」 を意味す る語である。 ここで 「生きた絵」 という表現 をつづった とき、ネルヴ ァルの心象のひとつに、照明によって動きを与えられたデ ィオ ラ マの 「絵」が浮かんでいたであろうと想像するの も、 もはや飛躍ではあるまい。 ネルヴ ァルが幻想に彩 られた世界を作 り上げる際、かつてみたデイオラマの イ メー ジが色濃 くその影 を落としていた といえるだろう。 Ⅳ 「光」の果たす意味 ネルヴ ァル とデ ィオラマ、ひいては 「光」 との関係は彼独 自のものというわ けではない。 「光」 とそれに付随す る文化状況の変化 とは、当時すでに、よ り 長 く深 い展開を経て、時代精神を象徴す るものになっている。そ して当然他の 多 くの作家達がそれを証言する。 マ ックス・ ミル ネー ルはその著書『ファンタスマゴ リア』で、ゲーテが光に ついて しる した文章を引用 している。 「光とは 一個 の原理であつてそれがあれ ば こそ 自然は人間の前に統 `体としての姿 を現 し、かつ人間精神に宿 る統 一性 への欲求にこたえることができる。」ゲーテはイタリア旅行で受けたまばゆいいばか りの光に対する体験か ら、色彩研究に没頭 したがそれは11述のよ うな確 信に導かれての ものであった とミル ネールは言 う。 ネルヴ ァルが問題の記 事を 書いたのは
1
・年にわたる東方旅行から帰ってか ら半年ほど後の、『東方紀行』 として まとめ られ ることになる断片を雑誌に掲載 していた頃である。偶然の一 致 をあげつ らうつ もりはないが、少な くともこの時期、東方の 「光」にネルヴ ァルが強 い印象を受けそれ を筆に写そ うと考えていたのは事実である。 また ミル ネールは│。し障紀中葉以降の光学理論の脅威的な発展についてふれ、 それがルネサ ンス以来の人間中心の 世界認識のあ り方に 「風穴をあけ」、もう ・つの:可視 世界、すなわち幻想 ‖t界が現れるのを容易に したと解説 している。 そ してその路線で発明 された ものの内もっとも瞳 目すべ きものとしてアタナ シ ウス 0キ ル ヒャー神父の発明 した、魔術ランタンを挙げている。 これはガラス 片に描 いた絵 に光を通 し、それ を レンズで拡 大 しス クリー ンに映 し出す という ものであった。 これがやがてファンタスマゴ リアとな リデ ィオラマにまで発展 す るであろうというのはすでにみたベルナール・ コマ ンが『 パ ノラマの世紀』 で示 した説である0。 ネルヴ ァル もディオラマにもう 。つの世界、彼岸の世界 の存在のII能性 をみたのであろう。 隠 された世界の真実 を顕 にする 「光」、それ を 一枚の 「絵」にまとめて示 し て くれ る 「光」、その機能 を半ば戯画化 された形ではあるが、迫真性 を持 って 示 して くれ るデ ィオラマか ら彼の受けた感動は想像に難 くない。 この時代が生 んだ新 しいスペクタクルに.彼
は、例えばダンテの『神曲』やアプレイウスの 『黄金のろば』にもなぞ らえる、自分が実現すべき「冥界 くだ りの物語」(『オ ー レリア』)の
端緒 をつかんだのではないだろうか。線状につなぎあわせてい くがゆえに必然的に論理の整合性が求め られ るF言語の世 界の秩序に忠実である よ りも、すべての現在 も過去 も、また真実 も幻想 も、矛盾 を超越 して、 しか も それ を我々の[]の前で現実に動か してみせる、 ハ挙に現象させる 「11きた絵」、 デ ィオラマの世界で こそ、 しば しば脈絡の錯乱す る自身の求める幻想 世界は息 づ くことができるということに彼はきずいたのではないだろうか。ネル ヴ ァルの幻想 とデ イオラマ
V
おわ りに ブ レイアッ ド版『全集』は この『アルチス ト』誌の記事に,いて、 「ネル ヴ ァルが『オー レリア』においてこの 「すば らしいスヘクタクル」を想起 してい た 可能性 はかな り高い。」 と『オー レリア』 との関連 を注 記 して いるCL.I
p.1816.p.840に
ついての注2)。 また ジャン・ リシェも同様の指摘 を行ってい る0。 しか しここでは主題 としての「大洪水」に と眼があ り、媒体であるデ ィ オラマ自体は問題にされていない。 しか し、すでに舞台に理想の女優が現れ る 場面でみたよ うにネルヴァル と「光」の関係は具体的な舞台照明を通 して象徴 的な次元にまで達 していた。デ ィオラマとの関係 も単にその時ll演されていた のが 「大洪水」であったか ら、似通った洪水を描いた場面ではその影響が認め られ るだろうといった主題内容についての皮相な意味にとどまるのではな く。 デ ィオラマの光は現実の にt界では不│∫能な幻想 を無か ら作 り11げ、生命を与え るという役割を担 っているのである。その意味でボウマンの指摘は副日に値す る。 「デ ィオラマの技術 自体が彼 (ネルヴァル)に
感動 を 与え、とりわけ『オ ー レリア』において、イメージの変貌を行う際に、有用だったであろう。0」 表現 しようとする内容がそれを表象する形式を選択するであろうし、またそ の形式が内容を制限す る。 この相互作用の最良の均衡 を作品に結晶させるとい う、内容 と表現形式についての 。般論はネルヴ ァルにも当然あてはまる。 しか し、従来 この形式面か らの考察が不十分なままにおかれている。オペラやオペ ラ・ コミックに加えて、全 く新 しいコンセプ トに支え られた新興の芸術が当時 の多 くの作家達の創作に影響を与えた。そ こにネルヴ ァルがどのよ うな ‖∫能性 をみ。期待 を抱いたのか。月ヽ論ではデ ィオラマの方法 とネルヴァルの作品 ‖L界 との関係が本質に関わるものであることを指摘す るにとどめたが、よ り精緻 に 検討 して いくことで、彼の創作の新 しい一面を見いだす ことができるであろう。本文中の引用については拙訳を基本 と したが、適宜以 ドの『全集』 を参考 さ せていただいた。 「ディオラマ」の記事については『ネルヴァル全集皿』のpp.282¨290. 『シルヴィ』『オー レリア』については『ネルヴ ァル全集 Ⅱ』『ネルヴ ァル 全集Ⅲ』の`11該簡所。 (Dパノラマとデ ィオラマは当時の視覚重視のスペクタクルの代表的な もので あった。そ して この二者がよく並ダ1されて取 りLげられ るが、ベルナール・ コ マ ンも指摘するように、 「∼ラマ」 という語尾の類似か ら両者の内容 も似通っ た ものであるという誤解が しば しばみ られ る。パ ノラマは
360度
にわたって張 り巡 らされた静止 した絵 を観客はみるのだがぃデ ィオラマでは枠 によって限 ら れた平面の絵の中で光によって動 く映像を限にするのであ りも本質的に両者は 別の ものであるという点は留意 され るべ きである。それゆえコマ ンはデ ィオラ マを「幻燈」 (ファンタスマゴ リア)の
流れ をくむ ものと して位置づけている。(Bemard coMMENT,
ιgノ鍵"gsた
ル」Fs ParD“
s,1993,Sociaё NouvelleAdam BIo。 邦訳『パ ノラマの世紀』、筑摩書房、1996.pp.58‐ 60)
0デ
ィオラマについては上述の『パ ノラマの世紀』以外 にも多数の参考文献が ある。以 下に邦訳のある代表的な もののみを挙げる。 マ ックス・ ミルネール『ファンタスマゴリア』 あ りな書房1994年
ヴォル フガ ング 0シ ヴェルプシュ『闇を開 く光』 法政 大学出版局1988年
なお、国内で も少なか らず関係す る著作がある。 伊藤俊治『デ ィオ ラマ論』 筑摩学芸文庫1996年
高山 宏『日の中の劇場』 青上社1995年
0ヴ
ァルター 0ベ ンヤ ミン 『パサージュ論皿』 ガl波書店1994年
pp.254‐2560「
ネルヴ ァル、『オー レリア』における<光 >と <叫
び>」 、『人文論究』 関西学院 大学 人文学会 平成3年
1月 発行ネルヴァルの幻想 とデ イオラマ
O Domidque TALLEUX二
"Nepalien,Nizet,1975,pp.6566.
タイユーは「シルヴィ』の中の 1光」を │ボーダー 。ライ トの光 (un∝ldrage
de herse)」 と │スホ ツ ト・ ライ トの光 (une lumittre de pr●ecteur)」 の
2種
に分けて説明 している。
0奇
しくも彼はネルヴ ァルが『アルチス ト』誌の問題の記事で引用 している人 物 と同 。である。ただそ こでは神学の論争に関す る文脈で引き合いに出_されているのであ り、ディオラマと ・脈通 じる魔術 ランタンの作者として意識 してい たか どうかは不明である。 これは興味深いテーマであ り、稿を改めて論 じたい。 「)Jean RICHER,ル ″lη′ビ雫rig′r″″′Gra7′′
`″′っ2輛e ed.1970っHacktte O Frank PaulBOWMAN,(J″ “ α′ヴ″ ルn4′ ――肋 ω η′′θ′ピ凛rsο′ρ″・ノ錢71irrrrg,1997っ Paradigme,Orians.p.92. (文学部非常勤講師)