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もゝんじや ( 猪料理店 )( 墨田区両国 ) 1718( 享保 3) 年創業 ももんじ とは 百獣 のことで 四つ足動物の肉を扱ったことが屋号の由来 正式には もゝんじや豊田屋 という もとは漢方薬を売っていたが 薬として出した猪鍋が人気となり 料理店へ転身した 肉食が禁じられた江戸時

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TCGC 名所旧跡探索(都心・山の手・島嶼)グループ土曜コース

両国界隈の名所旧跡めぐり

―復興と繁栄を体験した町―

■JR 両国駅舎

1929 (昭和 4)年に完成した駅舎は、戦前、東京駅や上野駅と並ぶターミナルステーションで、房総方面 への旅客・物流の拠点となっていた。また両国国技館の場所には水路と広大な貨物駅があり、ここで船 から下した荷を貨物列車に積み替えた。ホーム北側には 1972(昭和 47)年の東京駅地下駅開業まで房総 方面への特急、急行の発着に使用されていたプラットホームが見える。総武線が隅田川を越えたのは 1932(昭和7)年。

■両国国技館(墨田区横網1-3-28)

相撲の街・両国のシンボル「両国国技館」は大相撲の興行のための施設である。正式名称は「國技館」。 収容人数は 11,098 人。旧両国貨物駅跡地に 1984(昭和 59)年 11 月に建設された。地上 2 階、地下 1 階。 総工費 150 億円。翌年 1 月 9 日、盛大に落成式が催された。大相撲の本場所(1、5、9 月場所)、引退相 撲、NHK 福祉大相撲などで相撲協会が使用するほか、プロレスやコンサート会場としても使用される。 2020 年東京オリンピックではボクシング競技会場になる予定。

■百本杭跡(ひゃっぽんぐいあと)

隅田川の総武線鉄橋辺り、隅田川が湾曲した東部分の川中に多くの杭が打ちこまれていた。流れを和ら げて土手を保護する目的で設置され、いつの間にか「百本杭」と呼ばれるようになった。幸田露伴は『水 の東京』の中に「岸を護る杭のいと多ければ百本杭とは云ふなり。此のあたりの川の東の方水深くして、 百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」とある。水中の杭が魚 の棲息に適していたのか釣りの名所でもあった。1930(昭和 5)年に荒川放水路が完成すると護岸の役目 も終わり取り壊された。河竹黙阿弥の芝居『三人吉三廓初買』『十六夜清心』の舞台でもあり、歌川広重 の『東都名所』や井上安治、小林清親の浮世絵にも描かれている。

■陸奥部屋(みちのくべや)

時津風一門

現在の陸奥部屋の創始者は7代陸奥(井筒部屋所属、前頭・星甲)。現在の師匠は9代・陸奥一博(元大 関・霧島)。1996(平成 8)年 3 月場所で引退し、錣山(しころやま)を襲名し、部屋付親方として後進 の指導にあたっていた。1997(平成 9)年 12 月、8 代陸奥から名跡を継ぎ、立田川部屋を吸収合併し、 現在に至る。茶色のポストがある。 ※行司の階級 見習い⇒序の口格⇒序二段格⇒三段目格⇒幕下格(ここまでは木綿の装束に裸足) ⇒十両格(正絹の装束に足袋)⇒三段格(草履)⇒立行司(木村庄之助、式守伊之助)。短刀を差して土 俵に上がる。誤った裁きをしたら腹を切る、という覚悟の表れ。 そして 相撲の町

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■もゝんじや(猪料理店)

(墨田区両国1-10-2)

1718(享保 3)年創業。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足動物の肉を扱ったことが屋号の由来。 正式には「もゝんじや豊田屋」という。もとは漢方薬を売っていたが、薬として出した猪鍋が人気とな り、料理店へ転身した。肉食が禁じられた江戸時代にも「山くじら」と称して食べられていた。明治頃 には周辺に数件あったが、今はここだけ。八丁味噌と味醂で練られたコクのある味付けは昔から人気だ った。鹿、狸、熊などの肉料理も楽しめる。定休日・日曜日(相撲場所中と 12 月は営業)

■両国橋

旧両国橋は現在より下流 50m の辺りに架かっていた。1657(明暦 3)年の明暦の大火以前、幕府は軍事、 防衛の見地から隅田川に橋を架けさせなかった。そのため、川べりや川中で多くの人が亡くなった。1659 (万治 2)年 12 月(1661(寛文元)年説も)、幕府は防災対策として長さ 94 間(171)m、幅 4 間(約 7,3)m(諸説あり)の大橋を架け、西の武蔵、東の下総を結ぶ橋ということで「両国橋」と名付けられ た。橋の両側は火除け地として広小路が設けられ、特に西側は見世物小屋や飲食店が立ち並ぶ江戸有数 の盛り場となった。東側は「むこう両国」と呼ばれた。現在の橋は震災復興橋梁で 1932(昭和 7)年に 架けられた。モチーフは両国に因み花火と相撲。 ○「両国橋三千両」 江戸一番の盛り場となった両国。朝は青物市場で千両の金が動いた。昼は食べ物や日用品などを商う屋 台、水茶屋、芝居や見世物小屋などがぎっしり川岸を埋めて、ここでも売上は千両。夜は橋下のお大尽 の舟遊びでこれまた千両。これで一日に「両国橋三千両」♪ ○隅田川に架かる震災復興橋梁 隅田川の橋梁群は「橋の展覧会」。構造、デザイン、色など変化に富んでいる。タイプの違う橋が誕生し たのは 1923(大正 12)年 9 月 1 日の関東大震災以降。時の内務大臣・後藤新平は直ちに「帝都復興」に 取り掛かり、「橋は不燃性の永久橋に整備すること」とした。隅田川の橋では 9 橋が震災復興橋。上流か ら言問橋(新)、吾妻橋、駒形橋(新)、厩橋、蔵前橋(新)、両国橋、清洲橋(新)、永代橋、分水の相 生橋。この事業の特徴は、外国人に頼らず設計・施工・材料供給などの全てを、太田圓三、田中豊の若 き技術者を中心として、純国産で行ったこと。結果、わが国の橋梁技術が大きく発展した。 ※(新)は復興を機に新たに架けられた橋。他は架け替え。 ○両国花火 第1回目は 1733(享保 18)年の旧暦 5 月 28 日。前年は凶作で約 100 万人の餓死者を出し、さらにコレラ の流行でも多くの人が亡くなった。そこで、将軍・徳川吉宗は死者の慰霊と悪疫退散を祈って、両国橋 付近で水神祭を催した。その際、水茶屋が余興で花火を打ち上げたのが始まりと言われる。その後、江 戸名物となった両国の花火は初日の「川開き」から 3 か月間続き、隅田川には納涼船が行きかい、周辺 も大いににぎわった。幕末と昭和に入ってからの中断はあるものの、1978(昭和 53)年に「隅田川花火 大会」として会場を移して復活!現在も東京の夏の風物詩となっている。

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■石尊垢離場跡(せきそんこりばあと)

石尊とは神奈川県の大山のことで、山頂の阿夫利(あふり)神社は当初は雨乞い、後に商売繁盛と勝負 事にご利益があると言われ、江戸中期、多くの人が講を作り、大山詣でに出かけた。出発前に水垢離を 取る「垢離場」が旧両国橋の東岸にあった。水に浸かり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、 金剛童子・・・」と唱えながら、川を出入りする代わりに屈伸を行い、その度に回数を間違わないよう に藁の「サシ」を流した。1日「千こり」、これを 7 日間続けたので、7 千回も水垢離を取った。

■赤穂浪士休息の地

吉良邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭の仇討を成し遂げた赤穂浪士は、泉岳寺への引き上げ前にこの広 小路で休憩した。その後、無益な衝突を避けるため、両国橋を渡らず、堅川の一之橋、隅田川は永代橋 を経由して吉良上野介の首級を掲げ、11 キロ離れた泉岳寺を目指した。 『日の恩や 忽ち(たちまち)砕く厚氷』 大高源吾 大高源吾は大石良雄の吉良邸討入りに参画、のち切腹。子葉と号し、俳諧、茶事に通じ宝井其角とも親 交があった。また茶人・山田宗匠、国学者・羽倉斎(いつき,荷田春満)を通じて吉良邸の動静を探った。

■駒留橋跡

この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ 2 間半(約 4,5m)幅 3 間(約 5,4m)の小さ な石橋。本所七不思議の「片葉の葦」が生えていた。この堀は別名「片葉堀」と呼ばれた。 ○「本所七不思議」 肥前国平戸藩主・松浦静山の「甲子夜話」(かつしやわ)によれば、成立は寛政年間(1789~1801)頃と いう。実は「十話」存在する。 ※津軽屋敷の太鼓、消えずの行灯、足洗い屋敷、※片葉の葦、送り拍子木,落ち葉なき椎、狸囃子、 送り提灯、置いてけ堀 、灯なしの蕎麦 (※は立ち寄ります)

■与兵衛すし跡

現代に伝わる江戸前の握り鮨ができたのは、約 200 年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したと言われ る。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨だったが、酢で締めた飯の上にわさびを挟んでネタをのせて握ら れたものを屋台で立ち食いする。このスタイルは、江戸っ子たちに大いにウケた。与兵衛は握り鮨を岡 持ちに入れ、盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での店売りを経て 1824(文政 7)年に回向院参 道の近くに「華屋」という店を開いた。大繁盛したが 1932(昭和7)年頃に閉店した。政五寿し(両国 4-27-3) は(株)ミツカン提供の与兵衛鮨の資料により、再現した与兵衛鮨を提供する。1 人前 2500 円(税込)。

■回向院正門跡

かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると、真正面にあり、橋が回向院の参道の一部のよ うであった。参道には多くの店が並び、大変な賑わいだった。1945(昭和 20)年、東京大空襲で伽藍が 焼失。戦後、再建の際、正門は北側の京葉道路沿いに移された。

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■旧国技館

江戸の相撲は寺社の境内で行われていたが、両国・回向院境内での興行が年々増えていく。1833(天保 4)年からは春秋の年 2 回、小屋掛けによる常設の回向院場所となり、80 年間続いた。屋根付常設場所 が開場したのは 1909(明治 42)年 6 月。旧国技館が回向院境内に建設された。設計は辰野金吾と葛西萬治 の「東京駅コンビ」。1 万 3 千人収容。円形ドームの形から「大鉄傘」(だいてっさん)と呼ばれた。建物 の内径は 62m、中央の高さは 25m の 4 階建て。1945(昭和 20)年 3 月の東京大空襲までに 3 度の焼失があ り、その度に再建された。戦後は進駐軍に接収され「メモリアルホール」となった。返還後はローラー スケートリンクを経て、1958(昭和 33)年には「日大講堂」となったが、1983(昭和 58)年、老朽化に より解体された。大相撲は 1950(昭和 25)年以降、蔵前国技館(1950 年~1984 年)での興行となった。

■回向院

1657(明暦 3)年「振袖火事」で知られる明暦の大火が起こり、市街の 6 割以上が焼土と化し、10 万人 以上の人々が亡くなった。多くの遺体の身元や身寄りがわからず、引き取り手がなかった。時の将軍・ 4 代家綱は、こうした無縁の人々の亡骸を手厚く葬るために隅田川の東岸に土地を与え、「万人塚」を築 き、その菩提を弔うように念仏堂が建立された。これが始まりである。 ○明暦の大火供養塔 この供養塔は正式には「石造明暦大火横死者等供養塔」といい、東京都の有形文化財に指定されている。 説明板には 「明暦 3 年(1657)1 月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死 者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立さ れたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置が その後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高 3・05m、 1675(延宝 3)年頃建立された。願主は回向院第 2 世住持信誉貞存」とある。 ○力塚、相撲定場所 石碑群は最も大きい「力塚」と刻まれた石碑を中心に 5 基が立つ。これらを総称して力塚とも呼ぶ。 (1)角力記 1916(大正 5)年〉5 月 相撲記者慰霊のために建てられた碑 (2)法界万霊塔 1916(大正 5)年 5 月 初代梅ヶ谷が建立した (3)力塚 1936(昭和 11)年 1 月 歴代相撲・年寄慰霊のために建てられた碑 (4)回向院相撲記 1939(昭和 14)年 江戸時代からの相撲の歴史を刻んだ石碑 (5)東京相撲記者碑 1963(昭和 38)年 9 月)角力記の続きを記した石碑 墨田区と相撲の関わりは、1768(明和 5 年)9 月の回向院における初の興行に始まる。1833(天保 4)年 から回向院は定場所となり、1909(明治 42)年に国技館が境内に竣工するまで興行が行われた。 ○出開帳 出開帳とは、普段拝することのできない寺院の本尊などを地方に出張し、一定期間、拝むことができる よう祀ること。江戸時代に回向院で行われた出開帳は大変な人気を誇り、太田南畝作『半日閑話』によ れば、特に 1778(安永 7)年の信濃善光寺の出開帳には、60 日で 1,603 万人の参詣があったと書かれて

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いる。夜は高提灯を掲げて大念仏を唱える参詣人が多く、その後、夜の参詣は禁止されるほどであった。 ○鼠小僧次郎吉の墓 市川団升が狂言の大ヒットのお礼に 1876(明治 9)年に供養塔として建てた。鼠小僧は大名屋敷と大金 持ち専門の盗賊で、盗んだ金は博打に消えたという。ところが、盗んだ金を貧しい人々に与えた、とい うエピソードが生まれ、義賊として江戸っ子の人気者になった。墓石を欠いて持ってくると「賭け事に 勝つ」「運がつく」、また受験生は「するりと入れる」といわれるようになり、小さくなる度に何度も作 り変えられた。現在は削り用の石が置かれている。これが固い!! ○山東京伝(1716~1816)、京山(1769~1858)の墓 住まいが江戸城の紅葉山の東、京橋の近くに住む伝蔵なので「山東京伝」と名乗った。通称は京屋伝蔵。 本名は岩瀬醒(さむる)。墓には本名が刻まれている。15 歳頃に、絵師・北尾重政に弟子入りして浮世絵 を学び、北尾政演(まさのぶ)と名乗ったが、後に、戯作者に転身し、黄表紙作家として天明・寛政年 間の中心人物となった。寛政の改革により、作品が風俗を乱したとして手鎖 50 日の刑を受け、その後、 読本に転向した。隣に眠る弟の山東京山(岩瀬百樹)も戯作者として活躍した。 ○鳥居清長供養塔 2013(平成 25)年 4 月建立。 「天明のビーナス」と謳われる長身のスラリとした美人画で有名な鳥居清長は世界的にも高く評価され ている浮世絵師。1815(文化 12)年 5 月 21 日に 64 歳で没し、回向院に葬られた。その後、回向院は地震 や戦災など度重なる災禍にあい、清長の墓碑を失った。清長の没後 200 年にあたり、その歴史的な画業 と人間性を讃える墓碑を再建しよう!という声が上がり、建立することになった。ブロンズプレートは 平木浮世絵美術館蔵「大川端夕涼み」を参考にした。美しい顔、手をなでると「美」の御利益がある?

<参考> 本所の開削と町割り

明暦の大火で、江戸城をはじめ江戸の大半を焼失した幕府は、防火計画を伴う市街地拡張計画の一環と して本所深川の開発を進めた。まず、1659(万治 2)年 12 月に両国橋が完成。1660(万治 3)年に徳山五 兵衛、山崎四郎左衛門の 2 名が本所築地奉行に任命され、本格的に開拓が始まる。まず、竪川、横川の 掘削に取り掛かり、その大掘割の間には六間堀、北十間川、横十間川、南割下水、北割下水などが掘ら れ、水路は四通八達した。開削で出た土で整地し、武家屋敷の区画整理、道路整備も行われ、7 年後には 整然とした碁盤の目状の町割ができた。本所は元来、武家地供給のために開発されたので、大部分は旗 本・御家人の屋敷が占めた。本所築地奉行には 62 年間で 29 名が就任したが、1719(享保 4)に廃止とな り、町奉行支配となった。本所深川が「江戸の町」となった。

■塩原橋

隅田川寄りから数えて2番目に堅川に架かる橋。1928(昭和 3)年に震災復興橋として架橋。近くに塩原 太助(1743~1816)の炭屋があったので名づけられた。塩原太助は上野国出身で裸一貫から身を起こし、 江戸で苦労の末に成功し大商人となった。その一生は落語家・三遊亭円朝の「塩原多助一代記」として 有名。芝居、講談、浪曲など多くの作品の題材となっている。太助は「本所に過ぎたるもの」の一つ。

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■江島杉山神社

鍼術の神様・杉山和一(1610~94)が、5 代将軍・綱吉から、本所一ツ目に約 1 万 2 千㎡の土地を拝領し、 総録屋敷(関東の盲人組織を統制する機関)を建て、その西隣に弁財天社を建てたのが江島杉山神社の 始まり。現在は江ノ島弁財天と杉山和一総検校が祀られている。 ○杉山和一(すぎやまわいち)(1610~1694) 伊勢国安濃津(現在の三重県津市)で生まれた和一は幼い頃に失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島 弁財天の岩屋にこもると「管鍼術」を授かった。その後、京都でも学び、再び江戸に戻ると名人として 活躍した。名声を聞いた将軍・綱吉は和一を召し抱えた。そして施術の褒美として本所一ツ目に屋敷を 拝領した。この屋敷は「総録屋敷」と呼ばれ、和一は鍼、按摩の教育に努めた。また「当道座」という 盲人互助組織の再編にも力を注いだ。検校であることから「杉山検校」とも称される。

■前原伊助宅跡

前原伊助は、赤穂浪人 47 士の1人で浅野家家臣・前原自久の長男として生まれ、1676(延宝 4)年に家督を 継いだ。浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取った。日本橋に住んでいたが、後 に吉良邸裏門近くの本所相生町 2 丁目に移り、「米屋五兵衛」と称して店を開業。吉良邸の動向を探った。

■吉良邸跡

赤穂浪士が討ち入った当時の吉良邸跡は広大で、広さは約 8 千 430 ㎡(約 2550 坪)と記録に残っている。 この屋敷を吉良上野介が拝領したのは 1702(元禄 14)年 9 月 3 日で、討ち入りは 1702(元禄 15)年 12 月 14 日、没収されたのは 1703(元禄 16)年 2 月 4 日。したがって吉良邸としてあった期間は 1 年半に満たない。 吉良邸の一部は現在、本所松坂町公園として維持管理されている。広さは当時の 86 分の 1 しかない。本所 松坂町公園は、1934(昭和 9)年に地元両国 3 丁目町会有志が発起人となって土地を購入、同年 3 月に東京市 に寄付、その後 1950(昭和 25)年 9 月墨田区に移管された。 ○松の廊下の大事件 赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が江戸城・松の廊下で吉良上野介義央(よしひさ・よしなか)を「宿 意あり」と叫んで斬りつけたとされる、ご存知「殿中松の廊下」の刃傷事件が起きたのは 1701(元禄 14)年 の真っ昼間、午前 10 時頃のこと。この日は時の将軍・徳川綱吉にとって特別な日だった。幕府は毎年、正月 に将軍の名代として高家を京都に送り、年頭の祝賀を朝廷に申しのべることを慣例としてきた。 この日は、その答礼として下向してきた朝廷の使者に将軍が面会する日だった。綱吉は将軍の権威を高め、 平和な秩序を保つために、朝廷との関係改善にことのほか力を入れていた。その儀式が始まる直前に起き た大不祥事に、怒りは頂点に。 そこで綱吉が出した裁定は、内匠頭の即日の切腹と赤穂藩 5 万石の召し上げ、赤穂藩浅野家断絶という厳 しいものだった。一方、負傷した吉良上野介に対しては、何の咎めもなく、「よく養生するよう」と声が かけられた。ここから、所謂「忠臣蔵」が展開されることとなる。

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○討ち入り 1702(元禄 15)年 12 月 14 日未明、吉良邸に 47 人の赤穂浪人が討ち入り、1 時間余りの激闘の末、吉良上野 介の首を挙げた。本懐を遂げた浪人たちは高輪の泉岳寺へ引き揚げ、主君、浅野内匠頭の墓前に首級を供 え仇討を報告した。 ○討ち入り後 47 人の浪人達は、処分が出るまで 4 家大名家(熊本藩細川家・松山藩松平家・長府藩毛利家・岡崎藩水野家) に預けられる事がその日のうちに決まった。その後、幕府による評定が行われたが、意見が別れ判断に困 っていた。結局、側用人・柳沢吉保が信頼する儒者・荻生徂徠の「私の論においては義であるが、公の論に おいては重罪人。厳罰に値する。」という意見が採用され、全員の切腹が決まった。 ○吉良家 吉良家は、清和天皇の後裔で祖先は足利左馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得た のは祖父義弥の時。義央は 1641(寛永 18)年生まれで、13 歳で将軍に謁見した。その後、京への使者を任され、 立派にその任を果たしたことから、以後、有職故実の家柄として重用されるようになった。 ○浅野家 浅野内匠頭長矩は家祖・浅野家長政の 3 男長重を始祖とする赤穂浅野家の 3 代目。長重は 1600(慶長 5)年 から徳川秀忠に仕え、同年に下野国真岡藩 2 万石の大名となる。その後、大阪の役に戦功があり、1622(元 和 8)年には常陸国の真壁、笠間領を併せて 5 万 3500 石とステップアップした。1631(寛永 8)年に長子・長 直が跡を継いだが、その後、播州赤穂に転封となった。 赤穂に移った長直の治世は 27 年に及び、赤穂城の築城、塩田の開発などその業績は高く評価される。長直 は赤穂浅野家の名声を上げたが、これを助けたのが大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)の祖父・内蔵 助良勝である。以後、家老職は父・良欽(よしたか)、良雄と続いた。 藩主・長直の跡を継いだ 2 代長友は 5 年の治世で死去し、その嫡子・長矩はわずか 9 歳で藩主を継いだ。 幼い長矩に代わり、大石はじめ藩の重役たちがよく藩政を行った。後に、長矩は、一族の浅野長治の娘・亜 久里と結婚するが、当時の大名としては異例な愛妻家としても有名である。

■勝海舟生誕の地碑(両国 4-25-3 両国公園内)

勝海舟は 1823(文政 6)年、江戸本所亀沢町の父・小吉の実家である男谷家で誕生した。男谷の親類・ 阿茶の局の紹介で 11 代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として 7 歳から 12 歳 まで江戸城へ召された。15 歳の時、初之丞が一橋家を継ぎ一橋慶昌となるにあたり、海舟を家臣に登用 する話もあったが、翌年、慶昌が病死したため、一橋家への出仕は無くなった。12 歳からは従兄にあた る男谷精一郎(おだにせいいちろう)の直心影流の道場で剣術を学び、禅の修行もし、また、西洋兵学、 蘭学にのめり込んだ。佐久間象山らに出会った海舟は、幕臣への道を進み、幕末には江戸城の無血開城 で江戸を守った。晩年には元将軍・徳川慶喜の子供まで迎え、維新やその後の功績で伯爵に上り詰めた。 碑の「法務大臣西郷吉之助書」は西郷隆盛の孫の西郷吉之助である。

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○男谷家 勝海舟の曾祖父にあたる(山上)銀一は、幼いころに盲人になり片貝(現小千谷市)で按摩などを覚え、 越後を後にした。江戸に入り、雪の夜に行き倒れ同様なところを、幕府の某検校(石坂検校との説)に 救われた。女の瞽女には瞽女座の組織があり、男の盲人の自治的互助組織としては当道座があり、長は 惣検校と呼ばれ、全国的な組織を統括した。検校の名を手に入れるには千両が必要とされたというが、 その後は、鍼灸や按摩の労働による収入だけでなく、高位ほど座の分配金なども多く、また幕府公認で 大名や旗本に高利貸しができた。石坂検校の弟子になった銀一は杉山流の灸術を教わり、水戸家等の大 名家に出入りし、莫大な資産を蓄えて検校の官位を買い、故郷の山に因んで「米山検校」を名乗った。 さらに御家人株を入手して男谷家を興し、後に旗本に昇進し「男谷検校」と名乗るようになる。その孫 (男谷平蔵の子供)で知られているのが彦四郎と小吉で、三男の小吉が海舟の父である。検校は子・平 蔵に 30 万両を与えたというから、三男の小吉を小普請組で無役な小身旗本の勝家に養子に出す時、検校 からの財産が使われたと思われる。一方、彦四郎が養子に迎えたのが「幕末の剣聖」と言われ、後に講 武所の剣術師範役も務めた男谷精一郎である。 ※当道座の組織 官位最高位の検校から、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭があり、名前に「イチ」を付ける人 が多い。組織は細分化され 70 余とあり、座頭の下には無官の者も多かった。

■芥川龍之介文学碑(両国小学校)

芥川龍之介は 1892(明治 25)年、京橋区入船町(現・中央区明石町)で、新原敏三の長男として生まれ たが、間もなく母の実家・芥川家の養子になり、江東(えひがし)小学校(現・両国小学校)、府立三中 (現・両国高校)に通い、第一高等学校(現・東大)入学するまでこの地に住んだ。 芥川家は代々、江戸城の御数寄屋衆(おすきやしゅう)(茶道接待担当のお坊主衆)を勤めた旧家で、義 父・道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節(いっちゅうぶし) (浄瑠璃の一種)を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭だった。龍之介は幼い頃から文章を書 くことが得意であり、また本を読むことも好きで、図書館によく通っていた。 ※回向院には江戸浄瑠璃創始者・竹本義太夫供養塔がある 「自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀の多い横網の小路をぬけ ると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業す るまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂洲す な ずと、水の上に生まれて水の上 に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。」 芥川龍之介『大川の水』(冒頭)

■榛稲荷神社(はんのきいなりじんじゃ)(両国 4-34-11)

明治の初めまで、(創建時期不明)このあたりに馬場があった。東西約 185m南北約 22mの広さで馬場を 囲む土手に大きな榛があったため「榛馬場」と呼ばれ、本所に住む武士たちは、ここで弓馬の技を磨い た。馬場の傍らに祀られていたのが「榛稲荷神社」で、1837(天保 8)年に亀沢町の若者が奉納した木造 朱漆の瓶子(徳利)一対が保存されている。江戸時代はこの周辺に葛飾北斎や勝海舟など多くの著名人

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が住んでいた。 北斎は生涯で 90 回以上も転居を繰り返したとされるが、居所のすべてが正確に分かっているわけではな く、榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例である。 勝海舟もこの近くで生まれ育った。海舟の父、勝小吉の自伝『夢酔独言』に榛稲荷神社についての思い 出が記され、芥川龍之介も短編で書いている。

■江戸東京博物館(横網 1-4-1)

現在の横網町公園から江戸東京博物館や国技館までを含む土地は、江戸時代の御竹蔵で、資材の保管場 所として使われていた。初期の御竹蔵は竪川近くの吉良屋敷あたりまであったといわれる。当初建築用 の資材が保管されていたが、今の猿江公園の御材木蔵に資材が移された後は蔵前同様米蔵となり、明治 維新後は陸軍の施設(被服廠)として使われた。 1993(平成 5)年 3 月 28 日江戸東京博物館は、東京の歴史遺産を守るとともに、歴史と文化を振り返り、 未来の東京を考える場として開館。設計は菊竹清訓設計事務所。高床式の倉をイメージし、高さは江戸 城天守閣とほぼ同じ 62.2m。5 階 6 階の常設展示室は現在休館、3 月 28 日リニューアルオープン予定。 ○ロゴマーク 東洲斎写楽の役者絵「市川蝦蔵の竹村定之進」(いちかわえびぞう の たけむらさだのしん)の左目をも とにデザイン。見得をきった瞬間の力のこもった目の表情が、博物館を訪れる人びとの驚きや好奇心を 表現し、また遠い江戸時代からの視線は、現在、そして未来の東京までも見守っているようにもみえる。 (佐藤晃一氏デザイン) ○公式キャラクター ギボちゃん 2003(平成 15)年 3 月江戸東京博物館開館 10 周年事業で公募により選定、日本橋欄干の擬宝珠をいただ いた親柱をイメージしたもの。 ○家康公像(敷地内) 1995(平成 7)年 4 月 25 日江戸東京博物館の開館を記念して江戸消防記念会から寄贈されたもので、製 作者は彫刻、鍛金専門の山下恒雄氏(当時東京芸大名誉教授)。台座は亀に似た幻獣・贔屓(ひき)で、 重き荷を背負うのを好むといわれ、河川が走る江戸の町に因んで「水の神」ともいわれる亀の存在をか けたと思われる。 15 代続いた将軍に因み 15 段の台座を設え、鷹狩り装束で左手には鷹がとまっている。 高さは 3.7m(台座からの高さ 7.76m)、重量 30 トン。かつて東京市役所正面玄関前に渡辺長男(朝倉文 雄実兄で日本橋の獅子と麒麟の原型製作担当)作の徳川家康像(大正 9 年 7 月建設)があったが、1943(昭 和 18)年 3 月金属供出され戻ることはなく、現在都内の家康像はこの一体だけと思われる。

■旧安田庭園(横網 1-12-10)

江戸時代に、本庄因幡守宗資(いなばのかみむねすけ)(桂昌院の異母弟)の下屋敷として造園されたの がはじまり。当時から名園として有名だったこの屋敷は、明治維新後、岡山藩主・池田氏の邸宅となっ た。1891(明治 24)年、安田善次郎氏に買い取られ、以後安田邸となるが、善次郎氏が暗殺された翌年

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の 1922(大正 11)年、遺志により東京市に寄付された。中心にある心字池は、かつては隅田川と繫がる 潮入の池だった。潮の満潮、干潮とともに隅田川の水位も変わり、池の水も増減する。その変化する眺 めを楽しめたが、昭和 30 年代の川の汚染に伴い、水門は閉じられて潮入はなくなった。1971(昭和 46) 年、庭園地下に貯水量 800t の貯水槽を設置、ポンプによる人工的な干満を行い、潮入を再現することで 当時の眺めを生み出している。入園無料。 ○両国公会堂(旧安田庭園内) 設計 森山松之助 安田財閥の寄付金をもとに、東京市政調査会により建設。1926(大正 15)年、震災の記憶も生々しい時 期、隣接の被服廠跡地は震災時の火事で数万人もの人が焼死し、本所一帯が焦土となった 3 年後に竣工 した。太平洋戦争時は食料配給所になり、敗戦後には進駐軍のクラブとして接収された。その後テレビ の公開録画などでもたびたび利用されたが、老朽化により現在は使用されていない。

■東京都横網町公園(横網 2-3-25)

「被服廠跡」とも呼ばれるこの公園は関東大震災と東京大空襲の犠牲者たちの歴史を物語っている。 ○東京都慰霊堂 1923(大正 12)年 9 月 1 日の関東大震災による遭難者(約 58,000 人)の御遺骨を納めるための霊堂とし て、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡に 1930(昭和 5)年に建てられた。設計は伊東忠太。当 初「震災記念堂」と名付けられたが、1945(昭和 20)年 3 月 10 日の東京大空襲などによる犠牲者(約 105,000 人)の御遺骨も合祀したため、1951(昭和 26)年 9 月「東京都慰霊堂」となり、現在約 163,000 体の御遺骨が安置されている。毎年 3 月 10 日と 9 月 1 日に慰霊大法要が行われる。 ○復興記念館 関東大震災の惨事を長く後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念するため、1931(昭和 6) 年に建設された。震災、戦災の記念遺品、当時の状況を伝える絵画、写真、図表などを展示。入館無料。 設計は伊東忠太と門下生の萩原孝一。

■徳之山稲荷神社

明暦の大火後、幕府は本格的な本所開発に乗り出す。1660(万治 3)年、本所築地奉行に任命された一人 が徳山五兵衛(重政)。もう一人は山崎四郎左衛門。仕事は堀割の開拓、湿地の埋め立て、道路整備、市 街地の造成などで、現在の本所の基礎を造り上げた。功績により、現・徳之山稲荷神社の地に屋敷を賜 った。五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀された。 ○日本左衛門首洗いの井戸 五兵衛の孫の徳山五兵衛(秀榮)は火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の「白浪五人男」の一人日本駄衛門 のモデルとなった盗賊・日本左衛門を捕らえた。尾張の出身で本名は浜島庄兵衛と言い、実在した盗賊。 全国手配書(盗賊としては日本初の手配書)を逃亡先で見て、観念し自首した。鈴ヶ森(小伝馬町とい う説も)で処刑され、晒し首にされた。歌舞伎の口上は「問われて名乗るもおこがましいが・・」。

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■南割下水(北斎通り)

南割下水とは、徳川幕府が排水のために本所奉行に命じてつくらせた下水である。用水にも使っていたも ので、水はきれいであり、両岸には八重桜の並木道が植えられ、花咲く季節ともなれば花見客でにぎわう 場所であったという。 墨田区では、南割下水を埋めて造った道路を「北斎通り」と呼び、街路灯などを利用して北斎作品 103 点を 紹介し、北斎とのゆかりを伝えている。さらに国際的にも評価の高い北斎の作品を紹介するために「すみ だ北斎美術館」が現在の緑町公園に設立することが決まった(平成 28 年度オープン予定) ○葛飾北斎(1760(宝暦 10)年 9 月 23 日~1849(嘉永 2)年 4 月 18 日) フランス印象派の画家など、海外の芸術家たちにも多大な影響を与えた浮世絵師・葛飾北斎は、1760(宝暦 10)年、本所南割下水界隈(現在の墨田区亀沢)で生まれた。北斎は 90 年の生涯に 93 回もの引っ越しを重 ねたが、転居先は、本所や向島、浅草など墨田区界隈に集中していた。 浮世絵師の勝川春章に入門したのは 18 歳の時。翌年には勝川春朗(しゅんろう)の名で 3 点の役者絵を 発表している。やがて北斎は独自色を強め、日本画の各流派や西洋画の様式・技術を学びながら才能を磨 き、次々と新生面を切り開いていった。 名作「富嶽三十六景」を描いたのは 1831(天保 2)年。時に北斎 71 歳であった。80 歳を過ぎてからも信州小 布施まで出かけ、天井絵などに腕を振るった。1849(嘉永 2)年、浅草聖天町の仮託で病に伏し、死を迎える。 「あと 10 年・・・・5 年の命があれば、真の画工になれるのに」そう言って息を引き取ったという。

■野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)

1885(明治 18)年、相撲の初代高砂浦五郎が、津軽上屋敷跡に野見宿禰を祀ったもの。境内には歴代横綱の 名前を刻んだ石碑が立つ。横綱に昇進した力士は、最初の東京での本場所前に土俵入りを奉納するならわ しがある。 ○相撲の神様・野見宿禰 日本書記によると、野見宿禰は垂仁 7 年 7 月 7 日、垂仁天皇の御前での力比べで、力自慢の大和の當麻蹶速 (たいまのけはや)を蹴り殺してしまったという。以後、野見宿禰は朝廷に仕え、後に殉死のならわしに代 わる埴輪の制作を始めたとされる。この試合は相撲の起源とも言われることから相撲の神とされている。

■津軽家上屋敷跡

「本所に過ぎたるもの 2 つあり、津軽屋敷と炭屋塩原」と言われた津軽上屋敷がここにあった。江戸時代、南 割下水の両側は主として旗本屋敷であり、比較的小身の屋敷が配置されていた。その中で津軽藩の上屋敷 だけが南割下水での大屋敷であったことから「過ぎたるもの」と言われた。また、本所七不思議の 1 つ「津 軽太鼓」で知られた屋敷である。

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■江川太郎左衛門屋敷跡

伊豆韮山を本拠地とする幕府の世襲代官で、36 代目江川太郎左衛門の江戸屋敷跡。幕末に活躍した江川太 郎左衛門英龍は、ペリー来航の約 20 年前から海防について意見を持ち、大砲を鋳造するための反射炉の建 設や、非常食・兵糧用の乾パン作りに取り組むなど、国防に力を注いだ。この屋敷は、英龍の祖父の時代か らあり、伊豆韮山代官の役所も兼ねていた。また、ペリー来航後、幕府が通訳として重用したジョン万次 郎も敷地内の長屋に住んでいたといわれる。 ☆参考資料 すみだ街歩きガイド 墨田区観光協会 両国歴史散歩:高札めぐり 墨田区観光協会 荷風;2007 年 VOL7、12 日本文芸社 「忠臣蔵と日本人」 徳間書店 「風俗江戸物語」岡本綺堂著 河出文庫 「隅田川を歩く」林順信著 JTB 「江戸東京物語下町編」新潮社 「論考江戸の橋」 松村博 鹿島出版会 「江戸の橋」角川ソフィア文庫 「考証 江戸を歩く」 時事通信社 「江戸名所 隅田川」小学館 「江戸博覧強記」小学館 「その日の吉良邸」 墨田区観光協会 「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」図録 日本経済新聞社

参照

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