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大航海時代におけるポルトガル「インド航路」の海上保険と日本の投銀の接点

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■アブストラクト 本稿はヨーロッパの商人たちが活躍した大航海時代の遠隔地交易において, 海上危険の⽛リスク対策⽜の一手段となった海上保険の取引実態を,ポルト ガルとスペイン両国の一次史料を使い,インド航路ではそれがどのように活 用されていたのか,また同航路の延長線上にあった我が国との交易の中で活 用されていた⽛投銀(抛銀)⽜との接点について,一人の冒険商人の貿易活 動の軌跡を追い検証を試みたものである。同航路で活躍したこの改宗ユダヤ 人商人の一族は,強い親族関係の絆で結ばれたグローバルなネットワークを 活用し,東アジアだけでなくブラジルなど中南米で得られた産品を,メキシ コから太平洋航路を経てマニラの市場に齎す広範な国際貿易を行っていたこ とが判明した。更にインド航路と日本航路では,海上保険と投銀を彼らのニ ーズに合わせ夫々をうまく使い分けていた実態も明らかにした。 ■キーワード 改宗ユダヤ人商人,異端審問所,投銀(抛銀) ⚑.はじめに 今回のテーマに関連するこの時代のポルトガル商業は,イタリアのジェノ バ,フィレンツェやスペインのバルセロナ,セビーリャ及び北部のブルゴス *平成30年⚒月10日の日本保険学会九州部会報告による。 / 平成30年⚖月25日原稿受領。

大航海時代におけるポルトガル⽛インド

航路⽜の海上保険と日本の投銀の接点

若 土 正 史

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といった当時の有力な商業都市の影響を強く受け,海運・航海術・造船そし て金融について多くを学んでいる。特に今日の銀行業務に相当する⽛信用制 度⽜や⽛為替制度⽜といった金融システムは,地中海の貿易取引では既に手 広く利用され海運業と関わりの深い制度であり,ポルトガル商業にも強い刺 激を与えた。この動きを推進したのは単に有力商人たちだけでなく,同国国 王自らも積極的に関与し独自の海事制度も生み出していた1)。こうした活発 な海運事業を支えた金融制度のなかで当初利用されたのは,⽛冒険(海上) 貸借⽜であった。しかし大航海時代になるとヨーロッパ地域では広く海上保 険が定着し,有力な商業都市では海上保険市場も育ち始めていた。冒険貸借 も並行して利用されていたが金利が極めて高く,⽛徴利禁止の勅令2)⽜にも 強く影響を受け次第に衰退していった。一方17世紀の日本では,博多・長崎 の有力商人たちが中心となりポルトガル商人や中国商人に対しこの⽛冒険貸 借⽜制度 日本ではこれを⽛投なげ銀がね(抛銀)⽜と呼んだ を行っていた。ポル トガル商人たちは本国からの資金調達が次第に困難となった3)ことも重なり かなり手広くこの投銀を利用していたことが,日本とポルトガルに残る関連 1) 1293年デニス国王は内外の港湾都市間の航海上で起きた損失を組合員同士で 負担し合う⽛相互救済扶助制度⽜を,また1375年頃フェルナンド国王は国内の 50トン以上の全船舶所有者を⽛海事取引所組合⽜に加入させ,船価の⚒%を支 払い海難事故の際はこの基金から支払う制度を創設している。A. N. T. T. : Gaveta3, maço. n.佟5, doc. 5 他。

2) 1230年代グレゴリウス⚙世による教皇令。⽛高利の貸付け行為や冒険貸借は, キリスト教の⽝兄弟愛⽞に反するため禁ずる⽜という趣旨だが,国際的取引の 海上リスク対策として既に定着していた⽛冒険貸借⽜は,隠れみのとして⽛仮 装売買契約⽜や⽛無利息貸借売買契約⽜などに形を変え,最終的には今日の ⽛(真正)海上保険⽜へと変化している。 3) その原因は諸説がある。同航路の制海権は17世紀にオランダ・イギリスに奪 われ両国の海賊行為によりポルトガルの船舶が襲撃され,現地への毎年の資金 送金が著しく困難になったためというのが一般的である。なお同航路の往路の 海難事故発生率は[1551 1600年]:5.1%から[1601 1650年]:15.9%と⚓ 倍以上に急増している。拙稿(2016)⽛大航海時代におけるポルトガル⽝イン ド航路⽞の海上保険の活用について⽜pp. 79-82。

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史料で既に確認されている。今回インド航路の海上保険に関連する一次史料 の検証過程において,その海上保険契約者の一人が日本で取引された投銀の 契約者(=債務者)と同一人物と思われる事象を偶然発見した。また17世紀 初頭の東西の一次史料を重ね対比させ検証した結果,17世紀のポルトガルの インド航路における海上リスク対策では,一部を選択しながらも王室関連の 積荷は⽛海上保険⽜が付保され,一方日本航路(マカオ=長崎間)では資金 調達の必要性から⽛投銀⽜を利用しており,航路によって夫々が選択されて いたことも確認できた。 ⚒.ポルトガル⽛インド航路⽜について ポルトガルは1415年ジブラルタル海峡の南にあるセウタを攻略した後,エ ンリケ航海王子は西アフリカ航路を次々に開拓していった。この間彼は航海 学校を建設し高度な航海者を養成して,ポルトガルを第一級の海運国に育て ようと努力した。1482年には⽛エル・ミナ⽜の城塞4)を建設し,ここを奴隷 貿易の拠点にして,多数のアフリカ人を奴隷として本国に送り莫大な収益を 上げて海運国家の基盤を築いていった。この頃クリストファー・コロンブス はポルトガル国王に書翰を送り,大西洋経由によるインドと日本への航海計 画の財政的支援を申し出たが断られ,この計画案をスペインに持ち込んでい る。その結果スペイン王室とジェノバ商人から資金支援を得て,1492年⚘月 スペイン南部パロス港を出航し遂にアメリカ航路を発見している。 このスペインの動きに強く刺激され危機感を持ったポルトガルは,1498年 バスコ・ダ・ガマの第⚑回の航海によって東周りの⽛インド航路⽜を発見し 4) この機関は当初アフリカ黄金海岸に設置され,その後リスボンの Casa da Índia(インディア商務院)へと発展し,大航海時代のポルトガル領の貿易を 統括する王室直属の機関となっている。1755年のリスボン大地震(地震規模は M8.5-9.0で東日本大震災並みだったと言われる)の際,保存されていた商業 関連の史料の大半が消失し,当時のインディア商務院での貿易活動ぶりを窺い 知ることは極めて困難となった。高瀬弘一郎(2006)⽝モンスーン文書と日本 17世紀ポルトガル古文書集 ⽞八木書店 pp. 198-199。

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た。こうしてイベリア半島両国による海上進出争いが激化し,本格的な⽛大 航海時代⽜が始まっていくのである。 ⑴ インド航路の派遣実績 1497年ガマによる最初のインド派遣以来,ポルトガルは毎年ナウ船による 商船隊(Armada da Índia)を組み,当初は各年度の派遣船舶数は大きく変 化するが,16世紀半ばから17世紀半ばにかけての約100年間では,この航路 に毎年⚕隻前後の船団を定期的にインドに派遣していた5)。その船舶数は最 盛期の16世紀から17世紀半ばまでの約150年間には,合計1100隻を超える船 舶がこの航路を往来していた。同航路は1503年には胡椒取引の代価商品に当 る銅を扱う南ドイツの Welser 家や Fugger 家の商人たちも自己所有の船舶 で参加していたが,翌年外国人の参加を禁じたため南ドイツ産の銅はそれ以 降アウトウェルペンの国際市場で取引されている6)。しかし1570年代になる とセバスティアン国王は国家の命運をかけモロッコ進出を図ったが,その莫 大な軍事費捻出のためにこれまで王室独占事業であったインド航路の胡椒交 易の扱いを,内外の民間人商人たちに開放する政策を取ることとなり彼らと 取引の契約を結んでいる7) 5) 同航路の商船はナウ船と呼ばれ通常は4-500トン規模の帆船であったが1000 トンを超えるものも珍しくなかった。毎年⚓~⚔月にリスボンを出航し,イン ド洋ではモンスーンの風を利用して大体⚙月ごろインドに到着していた。高瀬 弘一郎(2006)前掲書 pp. 11-15及び p. 410。 6) 諸田實(1998)⽝フッカー家の時代⽞有斐閣 pp. 72-74。 7) 南ドイツ・アウクスブルグの有力商人コンラッド・ロト(Konrad Rott)が 代表となり,ポルトガル人・イタリア人各商人たちと商人団体を組み,1575年 から⚕年間同航路の胡椒貿易を扱う契約を獲得している。その後ロトは破産し, 1580年の更新時はミラノ商人ロバレスカ(Giovanni Battista Rovalesca)と Welser 家がこの契約を引き継ぎ,これ以降同航路は事実上民間人主導で運営 された。Boyajian, J. C. (1993) Portuguese Trade in Asia under the Habsburgs 1580 -1640, Johns Hopkins University Press, Baltimore pp. 19-21。

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⑵ 同航路の海難事故原因の変化 この航路では前期の50年間における最大の海難事故原因は,下表⚑のよう に⽛航海技術の力不足⽜と⽛暴風雨・荒天など悪天候⽜であったが,海図や 羅針盤が急速に進歩し航海にも利用され始めると航海技術や知識も向上し, 経験を積んだ高い航海術を身に着けた乗組員が着実に増えてきたために,中 期以降はこうした原因による事故は逓減している8) 中期では⽛積載不良⽜によるものも一時急増するが,同航路の復路便でゴ アや寄港地のモザンビークで過積載し,走航中に荷崩れし難破したものが大 半である。その後積載方法も,現地の運営管理と労働者たちの熟練技量の向 上とが相まって急激に改善している。一方中期以降で顕著となった海難事故 の原因は⽛海賊⽜と⽛敵国攻撃⽜によるものである。16世紀半ばから17世紀 にかけて,海賊やオランダ,イギリスなど敵国(私掠船も含む)の攻撃によ る海難事故が急増している。特に復路の積荷は香辛料など王室関連の高価商 品が満載され,海賊や敵国が真っ先に狙うだけにリスクもそれだけ高かった。 また下表⚒は,オランダとイギリスがアジア交易に進出した16世紀後半以降 で1587 1621年の同航路の海難事故の中から,海賊・敵国攻撃による主な事 表⚑ インド航路 海難事故原因(1497-1650年)上段:件数 下段:% 8) 拙稿(2015)⽛大航海時代におけるポルトガルの海上保険の活用状況⽜⽝保険 学雑誌⽞第628号 pp. 117-137。

出典)Guinote, P. et al. (1998) Naufrágios e Outras Perdas da “CARREIRA da ÍNDIA” Séclos XVI e XVII Grupo de Trabalho do Ministério da Educação p. 116 から作成。

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故例を取り上げたものである9) この時期では,東アフリカのモザンビークとポルトガル近くのアゾーレス 諸島の⚒地域で発生した事故が特に目立っている。この両地区は同航路など 長距離航海において,水や食糧の補給基地として寄港する非常に重要な拠点 であった。モザンビーク10)は特に復路で現地産の宝石・貴金属類など高額商 表⚒ 商船隊への海賊ないし敵国攻撃による海難事故例(1587-1641年)

出典)Guinote, P. et al. (1998) Naufrágios e Outras Perdas da “CARREIRA da ÍNDIA” Séclos XVI e XVII Grupo de Trabalho do Ministério da Educação p. 121とpp. 222-244及び同 (2002) As Armadas da Índia 1497-1835 Comissão Nacional para as Comemorações dos Descobrimentos Portugueses pp. 139-161から作成。 9) 例えば表⚒の1587年の事例は有名なドレーク船長が率いる英国(イングラン ド)の私掠船で,インド・ゴアから帰国の途にあった⽛サン・フェリペ(São Filipe)号⽜(1500トン)を襲い積載された香料,絹織物,陶磁器などアジアの 産品合計11万4000ポンドもの財宝を奪ったといわれている。杉浦昭典(2010) ⽝海賊キャプテン・ドレーク⽞講談社 p. 188。 10) 同地は1506年以降ポルトガル領となり,食糧などの補給上重要な拠点であっ

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品を大量に積み込むため積荷価値が上昇し,そのためブルゴス古文書館で発 見した保険契約の事例の中にも同地を始期とする海上保険契約が存在してい た。またアゾーレス諸島も寄港する機会が多い場所で,ヨーロッパ市場で高 価値の砂糖や塩の産地でもあった。モザンビークはオランダの,アゾーレス 諸島はイギリスの攻撃を受けることが多かった。 ⚓.インド航路における海上保険の実態 14世紀後半のヨーロッパでは今日の海上保険にほぼ近い形で保険制度が定 着し,ヨーロッパ各地で新たに保険条例も制定され同域内ではいくつかの海 上保険市場が形成され育ち始めている。その中にリスボンやスペインのバル セロナ,セビリアそして北部のブルゴスにも有力な海上保険市場ができ,今 回の史料検証では,リスボンのアジュダ古文書館,トーレ・ド・トンボ古文 書館に加えブルゴス古文書館に保存されている一次史料も同時に利用してい る。 ⑴ 何故スペインの史料を使うのか? 本稿ではポルトガルの一次史料だけでなく何故スペインの古文書館の史料 にも頼ったかは,脚注⚔の通り1755年のリスボン大震災によって同航路に関 する有力な商業史料が,ポルトガルには殆ど保存されていないからである。 一方当時ヨーロッパの羊毛取引の有力な商業都市で海上保険市場としても栄 えていた隣国のブルゴスにおいて,ポルトガル全盛期のインド航路の海上保 険契約の一部が保存されていることが判った。同古文書館の同航路の海上保 険証券の契約件数は,判明しているもので32件と同館が所蔵するといわれる 全保険証券数約⚑万件に占める割合からすると少ないが,ポルトガルでは同 航路の海上保険関連の史料が極めて乏しいなか非常に貴重な史料だといえる。 この当時リスボンにはポルトガル人だけでなくスペイン・イタリア・ドイツ た。またアフリカ産品の主要な取引市場でもあり,更に航路航海上必要なモン スーン風の待機場所にもなっていた。高瀬弘一郎(2006)前掲書 pp. 12-18。

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の有力商人たちも多数集まり,海上保険市場も形成されていたことが他の史 料から確認されている11)。インド航路の運航・管理はポルトガル王室管轄下 に置かれていたため,恐らく⽛同航路の海上保険のメイン契約は先ずはリス ボンの保険市場で行われた⽜と筆者は見ている。また全盛期の16世紀中旬に なると船舶も大型化して積荷が増大し,契約すべき保険金額が非常に高額化 (特に復路便の積荷)したため,リスボンの海上保険市場の引き受けだけで は不十分となり,溢れた不足分はリスボン在住の商人ネットワークを使い, 近隣のブルゴスの海上保険市場で新たに増額の保険手当てを行っていたもの と推定する。 ⑵ 海上保険の事例 スペイン・ポルトガルの古文書館の一次史料から ブルゴス古文書館所蔵の史料を使った先行研究では,スペインによる地中 海航路やインディア航路(アメリカ航路)に関する海上保険証券の分析は既 に行われているが,ポルトガル・インド航路に関する研究はこれまでほとん ど実施されてこなかった12)。そこでこれまで筆者が取り組んできた同館のイ ンド航路の契約事例の検証と分析から得られた情報について,その代表的な ものを以下に取り挙げ先ず共有しておきたい。ブルゴスで契約されたインド 航路の海上保険の平均保険料率は,表⚓の通り8.98%と当時のヨーロッパ域 内航路の平均保険料率の水準とほぼ同じであるが,最も高い契約では12%と

11) トーレ・ド・トンボ古文書館(Arquivo Nacional da Tôrre do Tombo 以下 A.N.T.T.)に1573年⚘月29日付の海難事故に関する公証人証書の史料が残され ている。その文面には⽛(リスボン中心地にあった)⽝保険取引所(Casa dos Seguros)⽞でジェノバ人など14名の商人はイタリア向けの積荷が非常に高額 なため共同で保険を引き受けた⽜という保険書記官による手書きの記録が見つ かっている。拙稿(2016)前掲論文 pp. 59-64。 12) ⽛ブルゴス条例⽜に関する先行研究では,近見正彦一橋大学名誉教授が論 文・書籍で多数発表されている。また同館館長によると,⽛バリャドリッド大 学 Hilario Casado Alonso 教授が本館の史料を使い検証・分析した数少ない研 究者の一人である。ポルトガル人と日本人の研究者は自分の知る限りこれまで 誰もここを訪れていない⽜という。

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いう保険料率も見られた13)

ブルゴス古文書館で現在判明しているこの航路の引受件数は前述の通り全 部で32件と少ないが,注目したいのはその契約が圧倒的に復路便(Calicut ⇒ Lisboa 及び La India ⇒ Lisboa の合計29件)に偏っていることである。こ れは復路便の積荷はヨーロッパでの市場価値が極めて高く,その分保険価額 も大きい。そこを狙ってオランダやイギリスが攻撃を仕掛けてくるため海難 リスクが高まり,追加保険のニーズも一層強まる14)。またこうした積荷の多 くが王室管轄下のものであったため王室から海上保険の付保を命じる勅令が この頃何度も出され,ポルトガル史料にも下記事例②の契約が見られた。 a.事例① この事例はブルゴス古文書館で収集したインド航路に関する一次史料の筆 者による日本語訳である。 表⚓ インド航路の付保件数と保険金額の実績(内訳 1565 1589年)

出典)Alonso, H. C. (1999) “El Mercado Internacional de Seguros de Burgos en el Siglo XVI” pp. 302~304等から作成。 13) top rate の12%による契約は1570年⚕月モザンビークが始期の追加契約であ る。拙稿(2016)前掲論文 pp. 49-52 なお後記事例②で検証したポルトガル 史料によると,1638年契約の同航路の保険料率では更に18%にまで上昇してい る。 14) ブルゴス古文書館で検証した保険証券の中にも,モザンビークで新たに積み 込んだ貨物に対する増額分の追加契約も数件発見している。

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この史料から得られた当時の海上保険に関する重要な情報は a.保険料前 払いの緩和 b.他人のための契約 c.遡及契約(lost or not lost)の⚓点で ある。上記はポルトガル・インド航路の艦隊で,リスボンを1563年出航した 商船隊のうちの⚑隻の復路便に積載された積荷の貨物保険の契約である。そ の契約内容について少し解説しておきたい。 ①は当時近隣のメディナ・デル・カンポで⽛大市⽜が年⚒回(⚕月と10 月)開催され,その取引に関係する海上保険は大半がブルゴスの海上保険市 場で契約されていた。保険料の支払いはこうした移動する商人たちに配慮し, 通常次回の開催時までに支払うことを容認しておりこの支払時期の表示であ る15) 1565年10月定期市(にて精算)…① ファイル No. 107rº( 表おもて面) 1565年⚕月30日ブルゴスにおいて住民ジェロニモ・パドレ(保険代理人)…②はリスボンに住む ジュアン・クリエルとアロンソ・トーレスの委託を受け,インド・カルカッタ港からリスボンま で全ての積荷の保険契約を引き受けた。…③ なお,それら商品(積荷)は当地商人組合(Consulado)の規約除外で引き受けているが,アロ ンソ・トーレスとグレゴリオ・サントイスそしてリスボン在住の権利者たちのものである。…④ この契約は1565年10月に保険料代金を支払う予定で,保険料率は⚘%で引き受けられている。積 載船舶名は La Gracia 号で船長はディエゴ・ロペスである。…⑤ この証券は以下の⚒名の人物(省略)によって保険を引き受け署名した。 (省略) 本保険証券は私ことメルコール・ムシカ(保険書記官)が署名(承認)した[下記にサイン] CCL 合計 250

出典)Archivo de la Diputación Provincial de Burgos Libro de Pólizas de seguro 文献 No : 95 file No : 107rº。

15) ブルゴス保険条例53条であり,最も特徴的な⽛保険料前払いの緩和規定⽜で ある。レアッツ 加藤由作訳(1944)⽝歐州海上保険法史⽞巖松堂書店 pp. 376-379。

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②の保険契約者はブルゴス在住の商人で,③のリスボン在住の積荷所有者 の委託を受け,ブルゴスのコンスラード(Consulado)16)所属の保険者たち と料率面など引受け条件の交渉を行い,②のジェロニモ・パドレが代理人と して契約したいわば⽛他人のための契約⽜の実態を示している。ブルゴスの 海上保険市場でのインド航路に関する契約では荷主は原則リスボンに在住し ていたため,恐らく大半はこのような取引形態を取っていたものと思われ る17) ④は地中海を横断する航路やインド航路のような遠距離航海に見られた当 時の特殊な契約形態であり,⑤に積載する船舶名と船長名のみが記載され積 荷の種類は省略し明記する条件の緩和規定を示したものである。大航海時代 の交通・通信手段の不備や未発達を反映したものであろう。また同保険契約 が成立に至るまでをポルトガルの史料と重ね時系列に整理し検証してみると, 表⚔のとおり本契約は明らかに⽛遡及契約(lost or not lost18))⽜が行われて

いたことが判明する。 16)ブルゴス商人とフランドル商人とで羊毛取引の独占を主な目的に,1494年ブ ルゴスに設立された商人ギルド組織である。以降ビルバオ(1511年)セビーリ ャ(1539年)マドリッド(1632年)と主要都市に順次設立された。同機関は商 取引の統制,組合員の相互扶助,港湾の管理,航海者の育成などを行ったほか, 所属組合員による海上保険の契約取引もここで行われ,契約成立の業務と事故 処理の権限を保有していたといわれる。 17) レアッツ 加藤由作訳(1944)前掲書 pp. 334-335。 18) 直訳すれば⽛滅失したと否とにかかわらず⽜となるが,具体的には⽛保険の 目的(付保対象物)が保険契約の締結前に滅失していた場合でも,その時点で 被保険者が滅失を知っていたのに保険者は知らなかったのでなければ,付保さ れたリスクは担保される⽜というものである。中世の通信手段が未発達の時代 には,こうした契約も起こりうるものとして条例上の規約で具体的な表示が無 くとも実際の運用で⽛善意の契約⽜としてカバー(担保)されていたという。 Bennett, C. (1992) Dictionary of Insurance, Pitman, London. 邦語版 木村栄一 監訳(1996)⽝保険辞典⽞(財)損害保険事業総合研究所 p. 273。

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この当時スペイン・ポルトガル両国の海上保険では契約者が事故既発生を 知らぬまま契約が行われ,運用で保険金処理が行われていたと推定される実 態が本事例によって明らかになった。表⚔の通り,1564年⚑月インド・ゴア を出航した La Gracia 号は,恐らくモザンビークに立ち寄り1565年⚓月15日 喜望峰付近で行方不明となり保険金請求事案となった。しかしその事実を知 らぬまま同年⚕月30日ブルゴスで契約が行われ,ブルゴス条例の緩和規定通 り同年10月の定期市まで保険料の支払いが猶予されていたものである。 b.事例② この事例はポルトガルのアジュダ古文書館に保存されている一次史料であ る。ポルトガルの古文書館ではこの当時の商業取引に関する史料は珍しく, 特にインド航路の海上保険に関連する情報は極めて少なく貴重である。1600 年代になるとインド航路の制海権は完全にオランダに奪われ,前述の通り同 航路ではオランダやイギリスの敵国攻撃による海難事故が頻発した。このた めポルトガルは本国から現地への資金送金が滞りがちとなり,商品の買い付 けが年々非常に厳しくなってきていた。また王室も国内外の有力商人たちか ら多額の融資を受けて船団を派遣しており,東アジアで仕入れた商品をヨー ロッパ市場に持ち込み巨額の利益を得た中から返済するシステムが段々難し くなっていた。そのためこの史料にあるように積荷に海上保険を付保(特に 表⚔ La Gracia 号の保険契約に至る経緯(史料は Portugal/Burgos を示す)

出典)Archivo de la Diputación Provincial de Burgos Libro de Pólizas de seguro 文献 No : 95 file No : 107rº とインド航路の⽛艦隊年度別編成⽜史料 Guinote, P. et al. (1998) 前掲書 p. 216及び (2002) As Armadas da Índia 1497-1835 Comissão Nacional p. 126を対比させ作成。

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復路便)し,リスク分散を図ることが王室にとって喫緊の課題でもあった。 本史料で注目したいのは,その際の保険料率が前述の表⚓で示した料率よ りも更に高くなり下表⚕の通り18%の交渉となっていたことである。 そのため⚓人の付保希望者のうち⚑人の有力商人は,提示された保険料率 (18%)が余りにも高率なため付保を断念していることである。また本報告 で最も重要なポイントはその保険契約者リスト名であり,特にそこに登場す 1638 年 ⚗ 月 12 日 こ の 街( リ ス ボ ン )に 住 む 商 人 マ ニ ュ エ ル・デ ィ ア ス・ダ・シ ル ヴ ァ (Manuel Dias da Sylva)は,1637年商船隊の⽛オリヴェイラ号⽜(の積荷)に1000クルザドの海

上保険を,保険料率18%でニコラオ・ヴェロッソ(Nicolao Velozo)と契約した…契約 No. 1 一方⚘月17日この街の住民ドゥアルテ・デ・ソウザ(Duarte de Souza)は,ゴアからリスボ ンに向かう両船(の積荷)に15000クルザドを掛けようとしたが,提示された保険料率18%は高 すぎるという人がいたので,その交渉協定書は帳簿に記載されたものの(最終的に)契約には至 らなかった…契約 No. 2

更に⚘月⚕日アントニオ・リベイロ・カルヴァリョ(Antonio Ribeiro de Carvalho)はマドリ ッドに住む義兄のフランシスコ(Francisco Tinoco de Carvalho)と他の一人と,1636年商船隊 の⽛ジョアン・デ・デウス号⽜と⽛オリヴェイラ号⽜(の積荷)に保険料率18%で7000クルザド を等分して保険を掛けた…契約 No. 3

出典)Biblioteca da Ajuda JA51-V-21 fl.147v-149v。

表⚕ 検討された1638年の海上保険契約(積荷)の内容

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る一人の人物の名前(Francisco Tinoco de Carvalho)に注目したい。表⚕ によると,契約に至った No. 1 の保険契約者の一人である Manuel Dias da Silva は,ゴア在住の商人たちと共に日本航路に何度も投資を行った人物19)

である。また No. 3 の Francisco Tinoco de Carvalho はゴアとマカオを拠点 にした有力商人20)の一人で,数隻のガレオン船を保有し1630年代頃から両拠 点を行き来していたことも判明している21)。特にこの Carvalho と António Ribeiro de Carvalho22)の⚒人の契約者は,後ほど論ずる日本の⽛投銀(抛 銀)⽜の事例②に登場する債務者と保証人の一人ではないかと考えられる人 物たちである。またこの史料では本契約が行われた1638年の時点で, Carvalho は既にマドリッドに住居を移していることも伝えている。 ⚔.日本の投銀(抛銀)について 投銀はギリシャ・ローマ時代からヨーロッパの海運業と深く関わっていた 海上リスク対策の一手段である⽛冒険貸借⽜の制度を,ポルトガル商人によ って日本に持ち込まれたいわばその日本版だと言われている。投銀の証文を 初めて紹介したのは川島元次郎23)である。日本において17世紀前後ごろから 博多・長崎の商人たちによって,主にポルトガルや明の商人たちとの貿易取 引のなかでこの投銀が使われていた。現在投銀証文に関する古文書は国内に 19) 彼は1639年の⽛ポルトガル船来航禁止令⽜発布以降も,1645年に明の商人を 通じ日本との交易に7500クルザドを投資し続けていたという。Boyajian (1993)前掲書 p. 236。 20) 1625年の⽛マカオ在住者リスト⽜によると聖ロレンソ教会所属のポルトガル 人商人で,マカオに拠点を置きゴアや長崎との交易を積極的に行っていた Carvalho 一族の有力商人である。後記投銀事例②で論ずるが,彼は日本人商 人の投銀を利用し多重債務者となっている。岡美穂子(2010)⽝商人と宣教師 南蛮貿易の世界⽞東京大学出版会 pp. 179-182。 21) Boyajian(1993)前掲書 p. 233。 22) 彼はインド航路に加えメキシコ経由のマニラ交易にも参加し投資している。 Boyajian(1993)前掲書 p. 133及び p. 238 後記資料⚓の家系図 No. 12。 23) 川島元次郎(1921)⽝朱印船貿易史⽞内外出版 pp. 148-167。

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37点保存され24),ポルトガルにも関連する古文書が幾つか保存されている。 本稿ではその機能についての説明は省略するが,日本における投銀の主たる 利用目的は海上保険に当る海上リスク機能よりも,むしろ本国からの送金が 難しくなったポルトガル商人に対する資金調達の一手段として活用されてい た。 ⑴ 投銀(抛銀)の利用実態 投銀を利用したのは朱印船派遣の日本人を始めポルトガル人や明の商人た ちである。オランダ人については,ポルトガル船の来航禁止(1639年)以降 日本との交易をリードしてきたため,末次平蔵以下の有力商人たちはしきり に投銀の利用を促したが,その利率の高さから採算に合わないとして拒否さ れ,単なる融資としてのみ彼らの資金を利用していた25)といわれる。本報告 のテーマであるポルトガル商人との主な投銀取引の事例は⽛補足資料 表 B⽜ のとおりである。この表からもポルトガル商人(あるいはマカオ市当局自 体)が日本人商人から投銀で融資を受けていたのは,特に寛永年間の約10年 間に集中していたことが分かる。この制度をいつから利用し始めていたのか は正確には不明であるが,Boxer によると⽛1617年(元和⚓年)が最も古 い⽜と結論付けている26)ので,僅か30年間の短期間の経済行為であったとい えよう。ここではポルトガルの古文書館と日本の博物館夫々に保存されてい る投銀の一次史料の事例を二つ取り挙げ,当時の投銀に関する様相を検証し いかなる人物たちがこの投銀取引に関わっていたかを分析していきたい。 24) 和文14点 漢文15点 欧文⚘点で,補足資料 表Bの通り元和・寛永年間に集 中しておりこれらは⽛島(嶋)井文書⽜や⽛末次文書⽜と言われ,前者は福岡 市博物館,後者は東京大学史料編纂所に保存されている。 25) 永積洋子(1977)⽛オランダ貿易の投銀と借入金⽜⽝日本歴史⽞第351号 p. 80。 26) Boxer, C. R. (1933) “Notes on the Portuguese trade in Japan during the

kwanei period (1624-1643)” Keio University pp. 1-32. 邦語版 吉田小五郎訳 (1933)⽛寛永時代葡人の日本貿易に就いて⽜⽝史学⽞12巻 第⚓号 p. 111。

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a.事例① 下記史料は1626年長崎を中心とした日本人有力商人⚗名の連名による,投 銀利用の制限政策の緩和をマカオ市当局に求めた⽛抗議兼嘆願書27)⽜であり, このオリジナル史料は現在ポルトガル・エボラ古文書館に保存されている。 仮に上記⽛1617年投銀制度の導入⽜の Boxer 説だとみれば,この史料はポ ルトガル商人が日本人商人から投銀を利用し始めてから10年近く経過してい たことになる。既にこの時点で本国から貿易取引用の送金が恒常的に厳しく なり,同時に投銀の債務返済が滞りがちとなっていたことを裏付けている。 こうして個人やマカオ市が窓口になり日本人商人たちから融資を受けたポル トガル側の返済総残額は,1635年で個人の負債⚕万2000タエルとマカオ市名 義の負債⚙万タエルの合計15万タエル近くにも上る28)多額の借金を背負って いたという。こうしたポルトガル商人たちの窮乏状況をみても,日本での商 取引において日本人商人たちの投銀に頼り多額の借金を利用せざるを得ない 厳しい資金繰り状況に直面していたことが想像できる。 27) 1623年初代マカオ総司令官に着任したフランシスコ・マスカレーニャスは, マカオの有力商人たちが持つ経済・政治的な影響力を弱めるため,日本人商人 からの投銀による投資を禁じる政策を取ったことへの抗議書である。岡美穂子 (2010)前掲書 pp. 166-167。 28) 岡美穂子(2010)前掲書 pp. 175-176 一方 Boxer は⽛60万クルザド(=タ エル)の借金が残り,日本=ポルトガル断交時の1639年には70万クルザドに上 った⽜と紹介している。Boxer, C. R. (1963) The Great Ship From Amacon, CENTRO DE ESTUDOS HISTÓRICOS ULTRAMARINOS, Lisboa p. 170。

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b.事例②

下記史料は,投銀の債務者であるフランシスコ・カルバリョ・オ・ペリョ (Francisco Carvalho o velho)というマカオ市在住の老商人が約束の返済が できず,債権者である島井権平宛てに⚓人の保証人を立て返済方法を記した 1633年10月16日付の⽛確認書兼誓約書⽜(抜粋)である。

図⚑ 博多・長崎の有力商人たちの⽛抗議兼嘆願書⽜

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この誓約書では債務者フランシスコ・カルバリョが,⽛弱々しいぶるぶる 震える手で署名する姿に哀れを誘う⽜と Boxer は論文の中で紹介してい る32)。このカルバリョの名は先のポルトガル史料の事例②では,1638年⚘月 予,フランシスコ・カルバリョ・オ・ペリョ(借主)は,島井権平(貸主)から⚗貫(700両) を負っていることの事実を言明する。 然るに余は老衰し破産して,これを弁済することができない。(契約の)⚒年間に弁済できか ね,予は女婿セバスチャン・デ・アルメイダよりタバレス29),ネレチ及び島屋(井)権平にこ の書を送る。⚓年以内に余は自らこれを返済すべく,若し不可能なるときは女婿が全額返済する ことの承諾を受けた。 (途中略) この約束を果たすため,保証人アントニョ・カルバリオ30),アントニョ・ネレチ,及びペロ・ ロドリゲスの面前において署名し,保証人も余とともに連署せり。このくにしめんと31)は余並 びにセバスチャン・デ・アルメイダ名義にて候。 1633年10月16日(寛永10年⚙月14日)長崎に於いて ・フランシスコ・カルバリョ 署名 (以下に保証人⚓名の名と署名 裏面に和文で⽛⚗貫目,島井権平⽜の文字が記載) 出典)島井文書 福岡市博物館収蔵 参考文献:川島元次郎(1923)前掲書 pp. 166-167 Boxer (1933) 前掲書 pp. 133-134の他に多数あり。 29) タバレスとは長崎奉行所の南蛮通詞ルイス・タバレスの兄弟で,母親が日本 人のクレオールと見られている。岡美穂子(2010)前掲書 pp. 168-169。 30) 岡によると彼は長崎奉行所の日本人通詞の可能性が高いと見ている。岡美穂 子(2010)前掲書 PP.182-183 ただこの誓約書の原史料では本人サインはフ ルネームではなく単に “Antonio Carvalho” と略されている為確証はないが, 事例②で取り上げた保険契約者 António Ribeiro de Carvalho(脚注22)は Paz の従兄弟に当り,しかも Carvalho らと同時代にインド航路やマニラの交易で 活躍した身近な親族(補足資料 図Aの家系図12)の一人であった為,この人 物が保証人だった可能性も捨てきれないのではと筆者は考える。

31) ポルトガル語の “conhecimento” は⽛承知,船荷証券⽜などと訳され,ここ では投銀証文を意味する。松竹秀雄(1990)⽝海の長崎学⽞くさの書店 p. 65。 32) “in a feeble and shaky hand” と描いている。なお冒頭の名前の一部に⽛ペリ

ョ⽜と表示されているが,恐らくポルトガル語の⽛年老いた⽜を意味する “velho” のことであろうと推察する。Boxer(1933)前掲書 p. 17及び松竹秀雄 (1990)前掲書 p. 69。

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⚕日付で成立した保険契約者の一人として登場している。また1636年11月13 日付⽛マカオ市議会文書⽜の中でも⽛対日本人への負債総額約⚒万両(タエ ル)を肩代わりした者に,彼が持っていた(財産で)⚑万4300両(タエル) を返済した⽜とその名が記されている33)。この⚒万両と⚑万4300両の差額 5700両は,⚑万4300両の約⚔割に相当し,⚒万両を受け取った債権者(島井 権平)は,元の投銀証文の利率⚓割(推定)にこの⽛かこい34)⽜の⚑割を加 え,⚔割を本契約の利息として計算し返済を求めていたのではないかと考え られている35)。彼はマカオとゴアに永く在住した有力商人であったことは間 違いなく,やがて資金繰りに窮し投銀を頻繁に利用した結果,多重債務者に なってしまったことがこれらの史料から確認できた。今回ポルトガルと日本 双方の史料を対比させたことで偶然見つかったこの人物のアジアでの商業活 動に注目し,改めて内外の史料や文献を使い追跡を試みてみた。当時のイベ リア半島の両国は⽛補足資料 表A⽜に見られる如く政治・経済・宗教の各 分野で大きく揺れ動き激動の真っただ中にあった。彼は本国に帰国後もアジ アだけでなく世界に張り巡らされた親族間のネットワークを使ってグローバ ルな取引にも参加し,ポルトガルとスペインの広範な貿易に深く関わってい た強かな⽛冒険商人⽜の一人であったと考えられる姿が浮かび上がってくる。 次項ではこの地域の政治・経済環境や社会状況の変化にも目を向け,この人 物が活躍した商業活動の実像を追いつつ同航路の貿易取引について更に論じ ていきたい。 33) Boxer(1933)前掲論文の吉田小五郎訳⽛寛永時代葡人の日本貿易に就い て⽜p. 134 また岡もこのことを同様に取り上げている。岡美穂子(2010)前 掲書 p. 179。 34) 安全保護の⽛囲かこい⽜が原義で,出航や寄港の遅延等で当初約束した期限まで に返済されなかった場合,今日の⽛遅延損害金⽜に相当する一種の違約金であ る。松竹秀雄(1989)⽝海運経営実態論Ⅲ 投銀(冒険貸借)と海事金融⽞成山 堂書店 pp. 34-35。 35) 松竹秀雄(1990)前掲書 p. 69。

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⑵ ポルトガル商人と日本の海上リスク対策上の接点 前述のポルトガルの海上保険の事例②と日本の投銀の事例②の双方に契約 者として登場していた人物 ポルトガルの有力商人 Francisco Tinoco de Carvalho36) に関する史料や情報を集め,改めて照合し整理してみると次の ような大変興味深い事実が次々と判明する。 彼は1580年にリスボンで生まれているが,彼の親族で長年共にアジアで活 躍した有力商人 Manuel de Paz37)も偶然この年に生まれている。またこの二 人のユダヤ系商人は17才の頃一緒にインド・ゴアに渡っている。当時インド 航路で活躍する有力商人たちは,莫大な利益を齎す成長著しい有力市場とな ったインドに親族の若者たちを積極的に送り込み,有能な商人として育成を 図ったといわれている。 彼らは1610 20年代にアジア域内やリスボンの親族たちとも緊密な連携を 取りつつ,この航路を支配していたことが表⚖からも窺うことができる。こ の表では Paz とその異母兄弟である Fernando Tinoco38)は,この年の同航路

に⚔万クルザドの資金を共同で投入している。また叔父の Simão Rodriges do Brasil39)と従兄弟である Carvalho と Manuel Fernandes Tinoco40)も夫々⚑ 36) 補足資料 図 A の家系図 No. 1 この家系図から活躍した時期や地域も読み取 れる。 37) 補足資料 図 A の家系図 No. 4。 38) 補足資料 図 A の家系図 No. 6。 39) 補足資料 図 A の家系図 No. 10。 表⚖ インド航路の商人別投資額(1615 1616年) 出典)Boyajian (1993) 前掲書 pp. 119-120から作成。

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万⚕千クルザドを投入し,Tinoco 家親族は総勢12人の主力メンバーたちで 合計40万クルザドもの資金を同航路の貿易取引に投入していたといわれてい る。

また Boxer は Lopo Sarmento de Carvalho を取り挙げている。彼は1610年 代中頃東アジア地域の交易に登場し,四半世紀後に日葡貿易が断絶するまで 同地域の貿易を支配した最も重要なポルトガル人の一人として紹介してい る41)。彼はカピタン・モールとして⚒度来日(1617年と1621年)し将軍徳川 秀忠にも拝謁している。彼の出身地はポルトガル北部でスペイン国境近くの ブラガンサであるがこの地はユダヤ人が占める割合が高く,また東アジアの 貿易で活躍した彼の商才振りから見て,彼もユダヤ人の血統を持つだろうと 見られている。また Carvalho も彼の日本航海の貿易取引に投資した商人の 一人として名を連ねている42)ので,血縁関係は不明であるものの少なくとも ビジネス上では深い関わりがあったことは間違いなかろう。Carvalho は前 述の通り小型で快速のガレオン船を数隻保有し,40年間近くゴアとマカオを 頻繁に往来しつつ,インド航路や日本航路を使ってダイヤモンド,絹織物, 陶磁器などアジアの高級産品を扱う貿易取引で,莫大な利益を挙げ同航路に おける最有力商人の一人となっている。またこの間1628年から33年までイン ド副王の任命により初代⽛東インド会社(Companhia do commércio da Índia)⽜の現地責任者という重要なポストにも就いている43)。しかしその彼 も次第にリスクが高まるこの航路の投資に絡み投銀による多額の債務を抱え ることになったものの,事例②で検証した通りほぼ返済の目途を付けたあと 40) 補足資料 図 A の家系図 No. 11。 41) Boxer (1963) 前掲書 pp. 90-91 及び高瀬弘一郎(2006)前掲書 pp. 426-429。 42) Boyajian (1993) 前掲書 p. 157及び p. 233。 43) 同社はオランダ・イギリスに倣って1628年創設されたが,商人や投資家には 受け入れられず1633年清算された。ただこの組織の加入者に与えられた特権の 一つに,異端審問所で有罪となった者の保護があったといわれる。Boyajian (1993) 前掲書 pp. 192-194及び Disney, A. R. (2010) Twilight of the Pepper Empire Manohar PP. 98-99。

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1636年にゴアを離れ急遽リスボンに戻っている。この背景には恐らくゴアの 異端審問所の自分への追及の危険を察知し,より安全な地を求めリスボンか ら更に王室庇護の厚いマドリッドに逃れたものと思われる44)。彼の弟

António Tinoco de Carvalho は当時セビリアに居住し,スペイン領新大陸 (アメリカ)との交易に深く関わり,メキシコ・アカプルコから太平洋経由 でマニラなど東アジア地域への交易活動に関与していたと見られている45)

一方 Paz の父 Diogo Fernandes do Brasil46)は若くしてブラジル東岸の街

Olinda に居住し,砂糖・綿布・コーヒーの農園を経営しつつ奴隷交易の取 引にも初期の頃から関与していたといわれている。また Paz も恐らく異端 審問所の追及で身辺の危険を感じ47),1615年 Carvalho より一足先にリスボ ンに戻り,更にマドリッドに移ってその地から Tinoco 家と手を組み,イン ド航路との交易に加え祖父や父が開拓した成長著しいアフリカやブラジルな ど新たなマーケットの貿易に多額の投資を行っている。また彼の異母兄弟で ある Fernando Tinoco48)も Paz や Carvalho と同時代にリスボンでインド航

路の貿易取引に関わり,メキシコやマニラ交易にも積極的に投資をした有力 商人の一人であった49)といわれている。

44) 1644年ゴアの異端審問所に逮捕された改宗ユダヤ人商人の Baltasar da Veiga は厳しい審問にあい,Francisco Tinoco de Carvalho の名を挙げ⽛仲間 である⽜と証言している。もしこの告白記録がマドリッドに届いておれば,既 に死亡していたカルバリョにも大きなダメージがあったことは間違いなかろう。 Boyajian (1993) 前掲書 pp. 181-182。

45) Boyajian, J. C. (1983) Portuguese Bankers at the Court of Spain 1626-1680 Rutgers University Press p. 47。

46) 補足資料 図 A の家系図 No. 3。 47) ゴアには1560年に異端審問所が設置され,補足資料 表Aのように17世紀に 入るとその追求が一段と激化している。Carvalho はインド副王と親密な関係 にあったため異端審問所の追及範囲外にいたといわれている。しかし1632-36 年にかけ更に弾圧が強まり,Carvalho も Paz に続き1636年ゴアを後にしてい る。Boyajian(1993)前掲書 p. 178。 48) 補足資料 図 A の家系図 No. 6。 49) Boyajian (1993) 前掲書 pp. 238。

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当時マニラ市場には太平洋経由で銀など南米の産品が大量に持ち込まれ, 中国・ポルトガル・スペインそして日本の商人たちが多数集まるアジア地域 における一大拠点の一つとなっていた。同国王室からはポルトガル商人によ る同航路への貿易を禁じる勅令を何度も出されていた50)が,表⚗の通り当時 のマカオのポルトガル商人にとってマカオ=マニラ間の貿易は,対日貿易と 共に非常に重要な投資先であり収入源になっていた。Carvalho はこの航路 で既に強い基盤を築いていた⽛補足資料 図A⽜の家系図に登場する親族ネ ットワークを最大限活用し投資を行っていたことはほぼ間違いなかろう。 ところで17世紀初頭の海上保険では大西洋航路の砂糖や奴隷などの積荷に 対する保険料率は 6 16% だったのに対し,同時期のインド航路の料率は 15 25%とより高率となっている。これは前述の通りインド航路の制海権が 既にオランダに奪われ海難リスクが更に高まったことによるものである。ヨ ーロッパにおける海上保険の取引は主にリスボン,アントワープ,アムステ ルダムの保険市場で契約されていたが,より高利率であった冒険貸借は余り 50) ⽛トルデシリャス条約⽜と⽛サラゴサ条約⽜による世界領土の⚒分割による 区分けに基づく処置である。こうした勅令を受けインド副王もこの航路の交易 取引を公式には⽛非公認⽜とするも,王室所有の艦船を護衛につけていたとい われる。またその取引もポルトガル商人自ら行うものだけでなく華人商人への 投資を通じて行ったものも多く見られたという。高瀬弘一郎(2006)前掲書 pp. 491-492。 表⚗ ポルトガル商人の東アジアの主な航路別の投資額概算(1610年) 出典)Boyajian (1993) 前掲書 p 155から作成。

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普及しなくなっていたといわれている51)。一方インド航路ではオランダなど による度重なる敵国攻撃に遭い,本国からの資金送金が難しくなったポルト ガル商人たちはいよいよ商品買い付けの資金に窮したため,博多や長崎の日 本人商人の投銀(冒険貸借)取引に頼ることで多額の融資を受けることにな った。その結果前述の投銀の事例②のようにやがてマカオのポルトガル商人 は多重債務を抱えることになっていったのである。 Carvalho はゴアやマカオの財産を放棄し1636年に故国リスボンへ戻って い る52)が,ゴ ア に 残 っ た Tinoco 家 最 後 の 現 地 代 理 人 の Jorge Ribeiro

Coresma からインド航路で海送されるダイヤモンドや絹織物の積荷の受渡 し業務をリスボンで行っていた53)。丁度1638年の海上保険の事例②で保険契 約者として登場した頃であろう。また同地では Paz の異母妹である Isabel Tinoco54)と遅い結婚をしている。その後王室直々の加護を求めマドリッドに 居を移し,そこで先に帰国していた Paz たちのブラジルや新大陸向けの ⽛奴隷貿易(asientos)⽜にも投資者集団15名の一人として参加している55) Carvalho が本国に戻った1636年頃からポルトガルの有力商人たちは東アジ アから新興のブラジルやスペイン領新大陸との貿易,特に奴隷貿易に投資を 徐々にシフトしていった。この奴隷貿易が全盛期であった25年間の投資額の 変化を見たのが表⚘である。奴隷貿易では王室と緊密に親交を深め,その見 返りに様々な特権を手に入れ親族のみならずスペイン併合中のポルトガル本 51) Boyajian(1993)前掲書 pp. 120-122。 52) Boyajian(1983)前掲書 p. 47。

53) 1636年 Carvalho 宛のダイヤモンド13箱をナウ船 Nossa Senhora da Sáude 号 でゴアから送った記録がリスボンの古文書館に残っている。Boyajian(1983) 前掲書 p. 232。

54) 補足資料 図 A の家系図 No. 0。

55) スペイン・フィリップ⚔世はオランダ戦争の軍資金を捻出するため奴隷貿 易の収益から融資を行うことを条件に,1626年 Manuel de Paz や Duarte Fernandes らと同取引を容認する契約を結んだ。その結果財政赤字は1631 40 年の10年間で大幅に改善している。Boyajian (1983) 前掲書 p. 42及び p. 207 Appendix D。

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国にも莫大な利益を齎し大航海時代を支えていた。

また上記表⚘からは Paz,Duarte Fernandesó Jorge de Paz そして Simão Soares といった Carvalho の親族有力⚔商人のグループ合計で,奴隷貿易の 全投資額の約⚗割を占めていた実態も把握できた。Carvalho は1641年頃に マドリッドで亡くなり,彼の大邸宅や資産は従兄弟たちに譲渡されている56) 彼のこうした行動を改めて振り返ってみると,その晩年は投銀証文の中にあ る⽛老衰し破産した⽜マイナスイメージは全くなく,むしろ母国に戻っても なおインド航路の交易に情熱を燃やし,加えて世界中の貿易にも積極的に関 わり続けていたことが今回の分析で解明できたと考える。 ⚕.むすび 一人の改宗ユダヤ人商人の生涯をこうして検証し直してみると,この航路 の交易がやはり非常にリスクの高い⽛冒険的な商売⽜であったことは,当時 のこの航路の海上保険料率を見るまでもなく,彼の波乱に富む貿易活動の足 跡を辿れば容易に理解できるものである。更にインド航路と日本航路とでは 56) Boyajian (1983) 前掲書 p. 48。 表⚘ ポルトガル奴隷交易の投資に占める⚔商人のウエート(1626 1650年)

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貿易取引における歴史的な経緯や資金調達のニーズの違いから,海上リスク 対策として海上保険と投銀の両制度をうまく使い分けていたことも明確とな った。ヨーロッパ最西端のポルトガルと日本とは長く遠い距離の交易航路で あったにも拘わらず,商人たちや海事関係者が利用した海上リスク対策手段 では一本の太い繋がりが存在していたことが今回の検証から見えてきたので ある。 バスコ・ダ・ガマのインド航路発見によって始まった大航海時代のポルト ガルのアジア地域での貿易取引は,⽛補足資料 表A⽜の通り特に1580年から 1640年にかけての60年間が激動の時代で最も目まぐるしく変化している。一 方同国の政治・経済においても①この交易で最も深く関わった改宗ユダヤ人 商人たちへの異端審問所による激しい弾圧,②スペインのポルトガル併合に よる政治的な強い影響,更に③スペインから独立したオランダのアジア地域 での攻撃激化 などが次々と起こり同国にとっての重要な時代変化の一時期 とも見事に重なり合っている。またこの期間が波瀾万丈の Carvalho の生涯 とも奇しくも一致していたことは驚きであり実に興味深いことでもあった。 本稿ではポルトガルとアジアの商取引が単にヨーロッパ=アジア間だけの限 られた地域に止まらず,アジア,西アフリカ,更にはブラジル,スペイン領 新大陸(アメリカ)にまで広がり,太平洋経由でその延長にあるマニラにま で及ぶ全地球を包含したグローバルなネットワークを見事に実現させた⽛国 際貿易取引⽜そのものであったという事実を,激動の時代を生きた一人の冒 険商人の軌跡を通じて示すことができたと考える。 この分野の研究はまだ未解明な部分や検討すべき部分が非常に多く残され ていると思われるが,今後の課題としたい57) (筆者は神戸大学海事科学部非常勤講師兼同大学院経済学研究科研究員) 57) 本稿は平成28年度⽛山縣記念財団研究助成⽜における補助金を受け作成され たものである。

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補足資料 表 A フランシスコ・ティノコ・カルバリョの活動履歴と政情の変化 出 典 ) B ib lio te ca da A ju da , JA 51 -V -2 1 fl. 14 7v -1 49 v A .N .T .T .,I nq ui si çã o de Li sb on ,n o. 31 0, m aç o 35 ,n o. 9, M an ue lD ia s da Si lv a (1 65 2) ,f ol .9 2 ( 以 上 一 次 史 料 )。 B ox er ,C .R .( 19 63 ) T he G re at Sh ip Fr om A m ac on ,C E N T R O D E E ST U D O S H IS T Ó R IC O S U LT R A M A R IN O S, Li sb oa .P P. 90 -9 5, (1 93 3) “N ot es on th e Po rt ug ue se tr ad e in Ja pa n du ri ng th e kw an ei pe ri od 16 24 -1 64 3” K ei o U ni ve rs ity pp .1 -3 2. 邦 語 版 吉 田 小 五 郎 訳 ( 19 33 )⽛ 寛 永 時 代 葡 人 の 日 本 貿 易 に 就 い て ⽜⽝ 史 学 ⽞ 12 巻 第 ⚓ 号 pp .1 09 -1 54 。 B oy aj ia n, J. C .( 19 83 ) P or tu gu es e B an ke rs at th e C ou rt of Sp ai n 16 26 ~ 16 50 ,T he St at e U ni ve rs ity ,( 19 93 ) P or tu gu es e T ra de in A si a un de r th e H ab sb ur gs 15 80 -1 64 0, Jo hn s H op ki ns U ni ve rs ity Pr es s, B al tim or e PP .2 14 -2 15 他 So uz a, G .B .( 19 86 ) T he Su rv iv al of E m pi re -P or tu gu es e T ra de an d So ci et y in C hi na an d So ut h C hi na Se a 16 30 -1 75 4 (R ep ri nt ), C am br id ge U ni ve rs ity Pr es s 20 04 ,P P. 39 -4 5 高 瀬 弘 一 郎 ( 20 06 )⽝ モ ン ス ー ン 文 書 と 日 本 17 世 紀 ポ ル ト ガ ル 古 文 書 集 ⽞ 八 木 書 店 PP .4 89 -4 93 岡 美 穂 子 ( 20 10 )⽝ 商 人 と 宣 教 師 南 蛮 貿 易 の 世 界 ⽞ 東 京 大 学 出 版 会 PP .1 29 -他 松 竹 秀 雄 ( 19 90 )⽝ 海 の 長 崎 学 ⽞ く さ の 書 店 PP .6 8-69 Su br ah m an ya m ,S .( 20 01 ) E xp lo ra tio ns in C on ne ct ed H is to ry ,O xf or d U ni ve rs ity Pr es s 邦 語 版 三 田 昌 彦 ⽝ 接 続 さ れ た 歴 史 イ ン ド と ヨ ー ロ ッ パ ⽞ 名 古 屋 大 学 出 版 会 PP .9 9-10 1 武 野 要 子 ( 19 79 )⽝ 藩 貿 易 史 の 研 究 ⽞ ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 PP .2 23 -2 39 ル シ オ ・ デ ・ ソ ウ ザ ( 20 13 )⽛ 16 17 世 紀 の ポ ル ト ガ ル 人 に よ る ア ジ ア 奴 隷 貿 易 ⽜ 中 島 楽 章 編 ⽝ 南 蛮 ・ 紅 毛 ・ 唐 人 16 ・ 17 世 紀 の 東 ア ジ ア 海 域 ⽞ pp .2 55 -2 61 思 文 閣 出 版 そ の 他 多 数 の 文 献 ・ 資 料 か ら 作 成 。

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表 B ポルトガル人向けの⽛投銀⽜の主な欧文証文・誓約書 出典)川島元次郎(1923)⽝朱印船貿易史⽞内外出版 松竹秀雄(1989)⽝投銀 (冒険貸借)と海事金融⽞成山堂書店 松竹秀雄(1990)⽝海の長崎学⽞く さの書店 岡美穂子(2010)⽝商人と宣教師 南蛮貿易の世界⽞東京大学出 版会 (財)西日本文化協会(1987)⽝福岡県史 近世資料編福岡藩町方 ㈠⽞ (財)西日本文化協会 その他多数の史料・文献から作成。

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図 A Tinoco 家と Paz 家の家系図(16 17世紀)

出典)Boyajian, J. C. (1983) Portuguese Bankers at the Court of Spain 1626-1650 Rutgers University Press Appendix A-⚑をもとに加筆。

表 B ポルトガル人向けの⽛投銀⽜の主な欧文証文・誓約書 出典)川島元次郎(1923)⽝朱印船貿易史⽞内外出版 松竹秀雄(1989)⽝投銀 (冒険貸借)と海事金融⽞成山堂書店 松竹秀雄(1990)⽝海の長崎学⽞く さの書店 岡美穂子(2010)⽝商人と宣教師 南蛮貿易の世界⽞東京大学出 版会 (財)西日本文化協会(1987)⽝福岡県史 近世資料編福岡藩町方 ㈠⽞ (財)西日本文化協会 その他多数の史料・文献から作成。
図 A Tinoco 家と Paz 家の家系図(16 17世紀)

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