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伊藤千代子と現代

No. 4

「伊藤千代子の会」

発行:2008年9月

飛翔を準備した教育環境−中州小の川上茂・尚絅女学校

▲伊藤千代子・平林たい子らが在学した中州小下金子分教場(閉校直前)

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中洲小時代の川上茂

今井清水

高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史

野呂アイ 伊藤千代子時代の尚絅女学校 (「尚絅女学院の 100 年」から)

飛翔を準備した教育環境−中州小の川上茂・尚絅女学校

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中洲小時代の川上茂

今 井 清 水 (諏訪市こころざしの会会員) ◆川上茂と早教育  師範新卒として赴任した川上茂の中洲小時代は、大正五~九年の五年間です が、千代子にとっては、分校から転入した五年生の九月以降、川上の教育を受け た一年七ヶ月の小学校生活と、諏訪高女三年生までの時期に該当します。  この五年間に彼は、(1)二つの教科研究レポートを発表し、(2)理科委員を 務めたほか、(3)諏訪児童学会の会員としても活動したと推測されます。 (1)第一のレポートは「学齢期児童の数概念」で、小学一年生の入学当初二ヶ 月間の実態調査を報告したものです。第二のレポートは、「理科教授の理論 及実際」で、子どもの持つ理科分野の疑問についての実態調査経験を紹介し ています。どちらも大正九年、信濃教育会の会誌『信濃教育』に発表されま した。 (2)第二のレポートは、彼が諏訪教育会理科細目研究委員を務めていたときの ものです。彼は、同会の「理科細目」(教師用指導計画)や「理科筆記帳」(児 童用学習帳)の編纂に関わっています。 (3)大正八年、全県的な児童研究会と密接に関連して生れた諏訪児童学会は、 研究範囲を「児童の身体・精神の全部を含む、教育に直接関係あるもの」と して、会員を募っていました。彼の研究スタイルからみて、二つのレポート は、会員としての活動の中で触発された部分が大きいと思われます。  レポートからもわかるとおり、彼は理数系の教師であり、研究姿勢は実態調査 にもとづく実践的なものでした。理数を軽視したといわれる白樺教師とは、対照 的です。元県教育史編集主任の中村一雄さんは、「論文の大部分は、小学校教科 教育法の裏づけとなる基礎理論を追究した発達心理学的な研究調査の報告であ る」と述べ、①発達心理学を援用した子ども個々の実態調査から、②教え方の基 礎理論を導き出そうとした、と指摘しています。 ◇  中洲小時代の川上茂の教育スタイルについては、〈英才教育〉〈二重教育〉〈個 性的な教育〉〈特殊授業〉〈特別教育〉などと表現されていますが、〈早教育〉と いう言葉に集約できます。今風に言えば〈選抜・エリート教育〉です。  川上茂の早教育への持続した意欲・こだわりを示唆する二つの事例があります。  第一は、中洲小以後に発表したレポートです。松本女子師範付属小へ転じた二

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年目(大正十一年)に、続編「再び学齢期児童の数概念」を発表。翌年、「児童 の語彙」を長期連載(六回)しています。注目したいのは、「数概念」も「語彙」 も、早教育の最重要テーマであったという事実です。  早教育に大きな影響を与えたカール・ヴィッチ(一九世紀のドイツ人法学者) は、著書『カール・ヴィッチの教育』の中で、次の点を強調しています。――就 学前から豊富な知識を獲得させるためには、語彙を増やし、文字を早く覚えさせ ること、数概念を養成し、四則計算を習得させることだ――と。   早教育の文献のほとんどは、新教育運動が日本に紹介された明治末~大正四年 にかけて翻訳され、六年には『早期教育と天才』(木村久一)が出版されています。 〝早教育花盛り〟の中で師範生活を送った川上茂が、これらの文献を読んだ可能 性は大きいと思われます。  彼は〈川上茂流早教育〉の試みにこだわり、「数概念」と「語彙」への関心を、 中洲小以後も持ち続けていたと考えられます。  第二は、川上茂の子息が、「母から聞いた話」として――父は何を考えたのか 教職を離れ、京都大学に籍をおいて、…電気工学の勉強をしていたことがあるそ うです――と書き残しているエピソードです。千代子たちを卒業させた後の、大 正七年か八年のことです。この「事件」の底流には、〈川上茂流早教育〉に対す る教師仲間の冷たい視線や、「女子にばかりひいきしている」と騒ぐ村人の、川 上排斥の動きがあり、地元新聞の投書記事が、油に火を注ぎました。復職を許し てくれた田中一造校長を、彼は「恩人」と語っています。  〈川上茂流早教育〉で使用された教材は、荘子、カント、ヘーゲル、大隈重信(当 時は総理辞任直後)の『小国民読本』や、ルソーの『ざんげ録』、教科書より高 級な国語、理科、哲学、倫理学などのプリントでした。  岩波小辞典『教育』は、――その急速な発達が当人の人間的成長にとっていか なる意味をもつかが問題である――と指摘しています。  新村義広さんは、「特殊な差別教育を受けることには、多少の違和感をいだい た」と述べ、 千代子は、後年、背伸びしていた自分を反省し、「若い時代を若く生きたいと考 えるようになりました」と手紙に書いています。早教育が本来的に孕む矛盾と、 子どもへの違和感・重圧感を読み取ることができます。 ◆川上茂と白樺教育  平林たい子の『春のめざめ』には、〈川上茂流早教育〉への痛烈な批判とも取 れる叙述があります。――(彼の)教育上の興味は、自分の抱負を担う力のある …生徒の上に集っていった。劣等生たちは、絶対に名指しされて本を読ませられ ることはなく、ますます劣等生に落ちていた――と。

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 選ばれなかった「数多い平凡な生徒」たちは、彼の〝白樺教育〟で救われたの だろうか。 注目したいのは、《川上茂=白樺教師・千代子=白樺の子説》は、『イ エローローズ』から始まり、『時代の証言者 伊藤千代子』に引き継がれている という事実です。  『時代の証言者』では、川上茂は「白樺派自由主義教育の熱心な教師」と位置 づけられ、根拠の一つとして、国定教科書にとらわれずに独自のガリ版教材など を使ったことが挙げられています。  この根拠に関連して、村山英治さんは『大草原の夢』で――画一主義の教育を 排する教師は、白樺派だけではなく…広範にいた。ひからびた修身の教科書は全 く使わないとか、補助教材を使うことは、常識になっていた――と述べています。  信州教育界における、中洲小時代の川上茂の座標について、みることにします。  当時、「教師の人間的な覚醒」をめざした信州の教師グループのうち、最大グルー プは人格主義を標榜する東西南北会で、西田哲学の信濃哲学会、鍛錬道を唱える 島木赤彦のアララギ派とともに、信濃教育会のリーダーシップをにぎっていまし た。聖書研究会や信州白樺派などは少数派でした。川上茂は、〈田中一造→藤森 省吾→島木赤彦〉とつながる、反白樺派人脈に位置づく教師でした。  藤森省吾は、〈教育による寒村の更生〉を課題に農村教育に打ち込んだ指導者 です。川上の一年後輩の小口伊乙さんは、「川上君は藤森省吾を師とし、その教 育は、川上君の教育熱意を燃え上がらせた」と記しています。  また、「子どもの個性と自我の発見」を目指した信州の自由教育には、①白樺 教育、②県下教科(児童)研究会、③師範付属小での研究学級、④自由画教育運動、 などの潮流がありました。川上茂は、②③に関心を持ち、〈青木誠四郎→杉崎瑢〉 につながる教師でした。   青木誠四郎は、川上の研究をサポートし、後々まで影響を与えた二年先輩の児 童心理学者です。杉崎瑢は、川上の研究の間接的指導者で実験心理学者です。『信 州の教師像』では――研究の焦点を児童にも向けるべきことを説いて、児童研究 会・研究学級を指導し、信州自由教育のために万丈の気炎を吐いた――と評価さ れています。  良い児童読み物が必要だと感じ、その執筆を島崎藤村に依頼し、『をさなきも のに』を世に送り出した赤羽王郎。野外で砂山作り・水遊びをさせながら、いろ いろな歌を歌い、詩を作ることを体験させた中谷勲。時間割も作らない自由進度 学習。教科書ではなく『ゴッホの生涯』を修身(道徳)学習の教材とした一志茂 樹。――このような教育を川上茂も中洲小でおこなったのだろうか。今、私の手 元にそれを確認できる資料・情報はありません。  川上茂の『遺稿集』や『信州の教師像』(伊藤朝雄)・「上条茂の人と業績」(『信 濃教育』特集)・『長野県教育史』を含め、目を通すことができたおよそ二十点の

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中に、《川上茂=白樺教師説》を示唆・肯定している文献を見つけることはでき ませんでした。  松木ムメヨさん・作家となった平林たい子・新村義広さんなど教え子たちの語 る回想が、早教育に集中し、〈川上白樺教育〉の具体が話されないのも、頷ける 気がします。右手でエリート教育、左手で白樺教育ということが、矛盾なくでき たのか疑問が残ります。  川上茂は大正十年、松本女子付属小へ転任しました。異例の抜擢人事です。他 郡へ不本意に飛ばされたり、教職を辞したりすることの多かった信州白樺派教師 の軌跡とは、大きな違いを見せています。 ◇  千代子について言えば、彼女の諏訪高女四年間は、白樺運動の盛り上がった時 期と重なっています。諏訪高女を会場とした柳兼子音楽会・柳宗悦講演&ブレイ ク展や、上諏訪町での小泉鉄(足尾鉱毒問題)講演会・泰西絵画版画&ロダン展・ 岸田劉生展など、目白押しでした。千代子は、自由と白樺の風の中で成長し、自 分の道を切り拓いていったのだと思います。平林たい子は、『婦人闘士物語』の 中で、「女学校へ入ってからは、…千代子さんは白樺派風に変わって行き」と書 いています。  川上茂は、「九州紀行」(昭和四年)の中で 「千代子氏が死んでしまった事は惜しいことだ」と記しています。千代子への、 あまりにも簡潔な、唯一の言及です。 今井 清水(いまい・きよみ) ◆ 1936 年長野県諏訪市に生まれる ◆信州大学教育学部卒業 ◆在職中、諏訪教育郡史編纂委員、『諏訪の近現代史』刊行に参加 ◆現在、伊藤千代子こころざしの会会員 ◆諏訪市在住

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現在のエラ・オー・パトリックホーム

中州小時代の川上茂(列右端)、その前・五 味(葛城)よ志子さん(千代子の「心の友」)、 後列左・新村みつ江さん

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高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史

野 呂 ア イ (尚絅学院大学名誉教授) はじめに  憲法 9 条をはじめ人権と平和を守る連帯に自分の身をおきながら、いかに次 世代へ戦時下の状況を伝え、活動の輪を広め確かにしていくか―こうした課題の 中で出会った史実は、治安維持法下で若くしてこころざしを絶たれた乙女たちの ことであった。特別に衝撃的だったのは、私の長年の職場であった「尚絅(しょ うけい)女学院」(2003 年度より尚絅学院)の卒業生たちの存在であった。「伊 藤千代子」の名前は聞き知っていたが、高橋とみ子さんについては3年ほど前の 「墓前祭および偲ぶ集い」(2005 年 11 月 17 日)へ参加して以来わかってきた ことである。2002 年 2 月に「尚絅女学院 100 年史」が発行されたが、残念な がらこうした卒業生たちの名前や史実は記載されていない。すでに、治安維持法 国賠同盟宮城県本部並びに「伊藤千代子の会」の皆さんによって研究・報告され ているところによっても、尚絅女学校同窓生の群像が浮かび上がっている。それ らの資料を参考にしながら、尚絅における当時の教育特徴や社会的背景・人的関 連などをたどり高橋とみ子さんを追悼したい。 高橋とみ子の尚絅在学証明   2006 年の夏に学籍簿の保存確認を学内でしたところ、幸いにも「家政科学籍 簿(自大正 12 年 3 月 至昭和 14 年 3 月)尚絅女学院専攻部(高等科家事科)」 の綴りの中から見出すことができた。戸籍名は「高橋とみ」(明治四十二年十一 月二十五日生)、住所・原籍「仙台市東二番丁二十九番地 士族戸主」、職業「会 社員」、父(保証人)高橋勇吉二女、入学前の学歴「宮城県第二高等女学校卒業」、 入学年月日「昭和二年四月」、卒業年月日「昭和五年三月二十二日」、操行「優」、 家事関係科目は八〇点以上、修身・聖書、国語・漢文、哲学、経済学、社会学等 も八〇点以上、体育と音楽が七〇点前後、3 年間の平均成績は七八から八〇点を 示したが、席次は中の下というところである。幸いに、昭和 5 年卒業生の集合 写真(1930 年 3 月 14 日)の中に 20 歳の彼女と出会うことができた。(墓前祭 での遺影はこの写真の顔を引き伸ばしたもの。) 尚絅女学校のあゆみと教育の特徴 (1)創設のころ  1890 年にアメリカの若い女性宣教師たちによる家塾に始まり、「尚絅女学会」

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を経て「私立尚絅女学校」は「高等女学校令」に準拠する「各種学校」として、 1899 年(明治 32 年)11 月 24 日に宮城県知事の認可を得て設立された。初代 校長ミス・A・S・ブゼルの教育は、少数・全寮制度によって「キリスト教の精 神」に立つ建学の精神を基に展開された。校名の「尚絅」(中国の「中庸」の第 33 章の句「衣錦尚絅―身に錦織の着物を着ても絅をくわえて(薄衣の打ち掛け を重ねて)それをつつましくかくす」よりとられた)の意味するように、聖書「ペ テロの手紙1」3 章 3,4 節の内容と重ね、裏打ちされてキリスト教精神に基づ く教育理念が確立されていった。表面は質素で、内面的に豊かな人柄としての装 いを卒業生は一人一人尊ぶようになった。 ブゼルは日本の民情風俗に親しみ、その美しい習慣を強調され、家庭で日本婦道 の長所を発揮することを勧めた。教育とは教えることではなく、共に生活をする こと。卒業生の感想には、信仰でも、義でも、愛でも、概念として頭に注入する ばかりでなく、身をもって当ってみねばならぬ訓練の教育であり、学校は人間を つくる道場であったとある(70 年史 p.93)。聖書の時間は週に 2~ 3 時間、英 語は 7 時間あった。 (2)充実・転換期のころ  10 名前後の生徒と数名の教員たちがエラ・オ・パトリック・ホーム(1896 年落成)で生活を共にしていたが、1903 年に校舎と寄宿舎が増築された。また、 1910 年に高等女学校として上級の「(高等)専門学校(旧制)入学者無試験検定」 資格認定を受け、上級学校への進学の道が広まり、さらに 5 年制の学則変更を して生徒数も増加した。  2代目の校長としてミス・M・D・ジェッシー(30 歳)が 1919 年から 26 年 まで就任した。ミズリー州立大学で歴史、英文学、生物学、地質学を専攻した他、 コロンビア大学では宗教教育学を専攻し、盛岡の幼稚園園長としての 5 年間の 経験がフィールド・ワーク認定によってマスターの学位取得、さらに家政学の単 位も修めた、トップレベルの学歴の持ち主であった。彼女の活動ぶりは尚絅女学 院が女子の高等教育機関へと発展しようとしていた方向と合致したとみられてい る。そこで、早速に取組まれたのは上級コースの「高等科」開設の準備であり、 翌年 1920 年 ( 大正 9 年 ) に高等科が創設された。1922 年(大正 11 年)まで に家政科を廃して家事科へ名称変更すると共に、内容の専門化を図っている。3 ヵ 年の英文・家事・音楽科、1 ヵ年の英文予科・音楽予科と選科(1ヵ年以上)が 認可され、当時の女子の高等専門学校への社会的要請に応えるものであり、戦後 の短期大学開設の前身に当るものであった。  学校はこの時期に大きなステップに入るが、志願者・入学者が増えて寄宿舎や 教室不足をもたらした。ミス・ジェッシーの建築新構想に導かれて、1924 年(大 正 13 年)に寄宿舎が建築され、さらにインディアナ州の信者からの寄付を

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主たる資金として高等科校舎インディアナ・ビルの新築が 1929 年(昭和 4 年) に実現したのであった。しかし、計画の段階では友好的だった日米関係は、世界 的不況と日米の経済摩擦や満洲事変後の反日感情の高まりなどで急速に悪化して いた。ミッション補助金の減額や市内の高等女学校増設に伴う入学者数の減少に よって経営危機という苦難の時期に入った。ミス・ジェッシーは募金活動に奔走 し、心労で倒れて療養を余儀なくされ、尚絅を一時離れた。1924 年 6 月に川口 卯吉が主事に就き、9 月からは校長代理を務め、さらに 1926 年 2 月に校長に就 任した。川口は若い頃に渡米し、1914 年シカゴ大学から哲学博士の学位を受け て帰国、バプテスト神学校の教授を勤めていた。  伊藤千代子が在学した 1924 年から 25 年、高橋とみ子が在学した 1927 年か ら 30 年の時期は、尚絅にとって多難な時期ではあった。しかし、新寮(第二寄 宿舎または広森寮と称した)での生活、新校舎での学びに学内の活気を想像でき る。寮の廊下は広く、洋式の部屋にベッドやテーブル付き、一室に 10 人の他、 応接室や食堂の共用室があったようである。朝 5 時起床、夜 9 時消灯・就寝、 毎朝夕の礼拝、日曜日の教会礼拝と学校教会の生活に、千代子の場合は、進学の 目的を持った受験勉強への集中が難しいと考えたのではないだろうか。11 月か ら石切町の松生義勝先生宅へ寄留となったが、そこでは 1924 年本科卒の斎藤(筒 井)なを子が東京女高師を目指していた。キリスト教教育の実践の場としては寮 生に期待されるところが多く、信者となる率も寮生が高いとみられた。 (3)校長と教育の特徴  ミス・ブゼルの教育が当時の士族と平民との差別感が残っていた時代に応じた 厳格なしつけによるピューリタン的なものであったと卒業生たちの感想がある。 第一次世界大戦後は、時代の風潮の中で民主的な、自由な社会人を育てる教育に 変わった。ミス・ジェッシーの冒険心に富んだ行動力は、未来を展望した学校運 営体制の転換を実現したが、校長としての教育方針の中には「平和教育」が注目 される。第一次大戦の「平和条約」締結(1918 年)を記念して 4 年後の記念日 (1922 年 11 月 11 日)当日に、「平和の意義」について全校生徒に語っている。 100 年史の中(p.203)より次に引用する。  平和という言葉は人の注意をひく美しい言葉であります。その平和の 訪れを聞いたとき、世界の人々は歌いつつ行列をして大喜びをしたので す。それは今より四年前、すなわち 1918 年の今月今日でありました。 ……私共の平和は、キリストの平和、正義、道徳的の平和であります。 猜疑、掠奪、残忍の中の平和ではありません。今日、本当の平和がない のは、我々がキリストの精神を受けていないからであります。……  どこの国も、軍のために莫大な金を使って惜しみませんが、平和のた

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めその百分の一の半分も金を費やしていないのは、本当の平和というも のを考えていない証拠であります。平和はたしかに一つの科学でありま す。しかし、どこの学校でも、また教科書の中でも平和について教えて おりません。今後各国は、挙って研究しなければならぬ「新しい科学」 なのです。いかにしてこれを学ぶべきか、これは皆が考えて行かねばな らぬ問題です。平和の根本問題は兄弟の愛をもって互いに愛する事で、 交際も商事もそれに従属して行はれねばならないものであります。……  80 年以上前の主張は現在も色褪せていない。今日の尚絅の平和教育に連なっ ている。  ミス・ジェッシーの後に着任した川口校長の初仕事は、ミッション・ボードが 減少し続ける中で学校の財政基盤の構築を国内で進めることであったので、同窓 会と父兄会(保護者会)を組織し、修繕費や改築費の寄付金を募った。また、学 友会が設立されて活発な活動をしだした。アメリカン・バプテスト婦人伝道協会 から財政独立が実現したのは 10 年後のことであった。2つ目の問題は、1920 年代に始まり 30 年代に至るまで日本の若者たちを巻き込んだ近代思想の高波で あったといわれる(R・L・スティブンス「根づいた花」p.58~ 59)。当時の学 生たちの動きを伝えている部分を引用する。  それが尚絅だけを迂回するわけはない。川口校長にはこの問題をきわ めて思慮深く取り扱う力量があった。少女たちは新しい社会主義・共産 主義思想を満載した新聞をむさぼり読んだ。キャンパスの至る所で活発 な討論が持たれた。学生ストライキが他校を大きく揺るがせていた時、 川口校長は生徒と教職員の間の交流のパイプを開いておくことに心を配 り、彼女たちがキリストの教えと社会主義・共産主義思想を対比検討す るのを助けることによって、大きな対決を回避した。生徒たちはたちど ころに教会の勇気の欠如に気づき、それは社会体制のあり方への鈍感さ からきているのではないか、と問いかけた。彼女たちは次のような問い を発した。「なぜキリスト者は真実のキリスト教の原理を主張して、社 会主義と対決しないのでしょう」「神様がどうして世界に貧困をもたら すのですか」「どうすればキリスト教社会を実現できるのでしょう」「社 会主義者たちに神の恩寵が与えられるよう、私たちは何をどうすればい いのでしょう」「日本の教会の内部はどうすれば改革できるでしょう」。 彼女たちの自由に考えようとする心を、川口校長は決して上から抑えつ けることをせず、激動の時期をたくみに導いていった。

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 ミス・ジェッシーは学校での生き生きとした宗教生活を可能にする上で、学校 教会、学生 YWCA の力を重視していた。特にミス・ブゼルが 1918 年に始めた YWCA の尚絅支部組織が 1924 年までに 200 人以上の生徒会員を持ち、12 人 の役員の活動が目覚しいと評価していた。それ故、社会主義イデオロギーに向か う青年の運動が全国的に広がり、その影響を避けられなかったにもかかわらず、 尚絅では YWCA が年々大きくなるにつれ、バプテスマを受けた生徒数も増えて いき、「キリストの証し人であり続ける」ことが奨励されたと思われる。 時代的・社会的背景および人的関係の影響 (1)時代・社会の動き   高橋とみ子が在学中の 3 年間には、初の普通選挙実施で労農党の山本宣冶ら が議席獲得、治安維持法の下での3・15 弾圧事件、関東軍による張作霖の爆破、 治安維持法改悪、特高を全県に配置、日本労働組合全国協議会結成(以上 1928 年)、日本プロレタリア美術家同盟・作家同盟・演劇同盟の結成、山本宣冶暗殺、 4・16 事件、そして伊藤千代子 24 歳で死去(以上 1929 年)と、国民層の民主 的な動きとそれを弾圧・抹殺する支配者層の動きが対決した。高橋とみ子が在学 中に社会問題についてどのような関心と学習をしていたのか定かではない。全寮 制を原則としていたが、定員増で自宅通学も一部認めていたようなので家庭の事 情では寮生でなかったかもしれない。しかし、推測するならば、選択履修科目の 中の哲学を 2 学年で、経済学と社会学を 3 学年で履修し成績優秀であることか ら、社会科学への強い関心と意欲が認められよう。「千代子の会」の資料(試論 14 新版 p.26)によれば、1927 年 3 月に全国組織としての女子学生社会科学研 究会第 1 回大会に尚絅女学校から代表が参加している。その代表の佐々木八重 子は本科 5 年生で卒業式前後の参加と思われる。ここで東京女子大社研代表の 伊藤千代子(高等科英文予科卒)との接点がみられるが、高橋とみ子は入学前の ことであった。八重子は 5 年後に「満洲」から同窓会にたよりを寄せているが、 その後の消息は不明である。なお、大原(旧佐々木)梅子さん(日本プロレタリ ア演劇同盟仙台支部)は、尚絅女学校高等科(家事科)でとみ子の 1 年後輩に 当たり、家も近くよく交流しあっていたようである。 (2)活動と人柄  同窓会誌「むつみのくさり」第 23 号の<個人消息>家事科第八回卒業生欄に は、「先年来東京方面にいらっしゃいましたが、近頃は今度花京院に開かれまし たパリー学院にお通ひでいらっしゃいます。パリー式の洋裁を私共にも御教へ下 さいませ。」(昭和7・7・10)の記載がみられる。社会主義運動への関心は画 家の次兄辰雄の影響を受けていたとみられるように、東京の美術展へも兄と連れ 立ったようだ。

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 尚絅を卒業後は片倉製糸工場(東八番丁)で女工たちのサークルに洋裁や生け 花などを教えながら真実のことを語り、全協労働組合の組織拡大活動に参加、プ ロレタリア美術家同盟の仙台支部やエスペラント協会にも参加、1934 年の逮捕 時には共産青年同盟に加盟していたといわれている。在学中も家事関係科目を得 意としたことがわかるが、母親と早く死別していたのでこまめに家事をこなし、 周囲の人に気を配るやさしい人柄が共に活動をした方々から偲ばれた。エスペラ ント語で「紅い」を意味するルージュ色の頬をしていたので、ルーちゃんと呼ば れて親しまれていたこと、旭紡績で働いていた仲間(山本すぎさん)を訪ねて、 おみやげに便箋や封筒、バター 1 箱にお金3円を持ってきてくれたこと、帰り 際に「みんなが心配しているから体に気をつけてね」という言葉を残して去った こと、一方で、取調べでは「一言もしゃべらぬ強情な女」であり、「全協支部に おける最戦闘的女性として重要な役割を占め、旭紡績、片倉製糸仙台工場等を職 場として分会の拡充強化に奔命中一斉検挙にかかり、仙台署から 10 月 29 日夕 刻中新田署に護送留置さるるに至った。──軍職に在る長兄の栄達が自分の連座 に依って障碍となるであろうことをおそれ、──護送後 15 日目の 11 月 21 日 午前 5 時、監視の隙をうかがって腰紐を3つに引き裂いて結び合わせ、これで 己が頚部を締付け、舌を噛んで凄惨ない死を遂げたのであった。──留置場に一 片の遺書もなく散る女闘士“くみ”」(昭和十年三月二日 河北新報)。官憲側の 発表にもとづく新聞記事が報じた最期であった。  しかし、実際のところ 1934 年 9 月から 10 月にかけて宮城県下に「9・11 事件」 と呼ばれる大弾圧が襲い、高橋とみ子は 10 月 20 日仙台市の自宅で逮捕され、 県内の留置場をたらいまわしにされたのち、1 ヶ月後に県北の中新田警察署の裏 口から菰包みの死体となって引き出され、家族のもとへ帰されたのである。遺体 を引き取りに行った父親は、「全身紫色に腫れあがり、首にひもをかけた跡もな かった。拷問のすえ心臓麻痺を起こしたのだろう」と近親者に漏らしている。戦 後になって、当時中新田署の嘱託医であった鈴木ただす医師が同町の佐藤庄七氏 へ告白したところによると、「留置人が自殺したので検視してくれとの事だった が、だが自殺したような所見もなく、全身紫色に腫れていて殺されたのだと直感 した。しかし、当局の態度にやむなく自殺と判定した。──真実を主張する勇気 がなかった」と。とみ子と同日に逮捕され、特高警察の拷問取調べを受けた阿部 和子(1938 年尚絅女学校専攻部保母科卒)さんは、女性としてとても言葉に言 えぬ暴行・拷問を受けたと証言している。治安維持法の傷あとは、正しく「昭和」 史の影である。日本を侵略戦争に駆り立てるために、支配者は戦争に反対する者、 共産主義者やそれに近い考えの者を弾圧した。とみ子も 25 歳の誕生日を目前に、 いのちを絶たれ、こころざしを絶たれた国家権力の犠牲者であった。 (3)若者たちのこころをどう支えるか―大正デモクラシーの光と影

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①バイブル・クラスのこと  ミス・ブゼルには 1893 年から 1919 年までの 27 年にわたって、学外の男子 学生・生徒を対象としたバイブル・クラスを指導する仕事があった。日本語を十 分習得していない段階で、通訳なしのクラス開始であったが、旧制二高生 16,7 名が土曜日の夜に集まって行われた。出席するようになった動機はさまざまで、 英語を学ぶために、西洋文化への憧れ、友人に誘われるままになどあったが、ブ ゼルの人格と宗教的情熱に惹きつけられて熱心に聖書を学ぶ者になっていった。 すでに、東華学校(同志社姉妹校)在学中にミス・ブゼルの感化を受けて受洗(17 歳)していた栗原基は、1895 年旧制第二高等学校に入学すると、同級生や同校 の基督教青年会の会員をバイブル・クラスへ誘った。  メンバーたちは「学力優秀で、学校でも屈指の人々」(栗原)で、学校内でも 影響力をもっていた。小西重直(後に京大総長)、土井亀之助(晩翠の従弟)、吉 野作造(後に東大教授・朝日新聞社勤務)、内ヶ崎作三郎(後に早稲田大学教授・ 衆議院議員)、小山東助(後に関西学院教授・代議士)、島地雷夢(父:仏教界要 職、教員)結城豊太郎(後に日銀総裁・大蔵大臣)、渡辺幸次郎(尚絅の主事に 在職中病死)、飯塚啓(後に学習院教授・東京動物園長)、守屋孝蔵、深田康算、 永井亨、斎藤信策(高山樗牛の弟)ら他が参加して信仰活動を盛り上げ、二高の ルネッサンスといわれた。彼らの多くは東大へ進学し、「東京帝国大学基督教青 年会」のリーダーや中心的メンバーとして活躍した。また、本郷教会(海老名弾 正牧師)の機関誌『新人』や青年会会誌『六合雑誌』誌上への文筆活動を行った。 (尚絅女学院 100 年史 p.77~ 83)  10 代半ばから 20 代初めの若者はこころが揺れる時期である。これまでは宗 教団体に関係する者は学業の優秀ならぬものであると目されていたのに、今やそ れ以外の者までが、進んで参加したことを驚異の目でみる人がいることをブゼル はみていた。若者たちは世の中の矛盾に気づいたとき発展・展望の哲学をどこに 求め、どうするのか? 1 つはキリスト教へ関心を寄せて宗教活動に参加してい く道がある。若者の中には煩わしい社会から逃避して「マニアに罹っている」者 もいる。日露戦争の最中、理性の重荷に耐えかねて東大生は人生問題に思い余っ た末に日光の華厳の滝に身を投じた。2 ヶ月もしない間に警戒をよそに 13 回の 自殺行為が景勝地で行われたほど「感染」している。世のために成すべき仕事が あることを顧みないとブゼルは指摘し、キリスト教青年には当てはまらないとい う(栗原基編「ブゼル先生伝」p.361-2)。しかし、もう 1 つの道は、真実を求 めて社会科学への関心を寄せて世直しの活動へ参加していった若者たちの生き方 である。 ②吉野作造の働きと民本主義  吉野は 1892 年(明治 25 年)古川尋常小学校を卒業し 15 歳で仙台市にある

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宮城尋常中学校(私立東華学校廃校後開校、県立第一高校の前身)へ入学した。 ここでは国語学の泰斗として著名な大槻文彦校長の下で薫陶を受け、東華学校の 校訓「真理を求め善をなせ」と共に教育環境、伝統が継承されていた。「自由」 な校風が高まりをみせていた 3 年生の秋に、大槻校長が病気のため辞職した。 後任の校長は極めて厳格な干渉主義の指導方針で臨んだ。その結果、校長排斥の ストライキが全校生徒参加で発生した。尋中 5 年を卒業後、さらに第二高校の 3 年間を通して「仙台の地で培養された原型質が、吉野作造のその後の人間形成に ふかくかかわっていたことはいうまでもなく、また、この地で結ばれた友人関係 が、大正デモクラシー運動の中核となっていったことも見過ごせない」(西田耕 三「若き日の吉野作造と仙台」p.38)。1900 年(明治 33 年)9 月、東大法科大 学政治学科に入学し、先輩の内ヶ崎や栗原、同期の小山らと東北青年が日本の精 神文明の原動力になるべく東京生活に入った。専門の学問では小野塚喜平次博士 から、人格と思想形成では海老名牧師から大きな影響を受けていった。大学院に 進んだ後、工科大学の講師に、1906 年から 1909 年まで清国直隷総督袁世凱の 長男克定の家庭教師として中国で過した。帰国後東大法科大学助教授に任ぜられ るが、翌 1910 年 3 月から 1913 年 7 月までの 3 ヵ年間はドイツ・イギリス・ アメリカへ政治史および政治学研究のため留学した。留学中には積極的に街へ出 て、事象を肌で感じとる勉強を重ねて、労働・社会・人種・政治の問題に多大な 関心を持つことになった。帰国後、『中央公論』誌上発表の論文が注目され講座 担当教授へ任官、また『東北教会時報』に「戦争と基督教」(小石川教会の伝道 説教要旨)の一文を載せた。宮城県の教育界との結びつきを持ち、教員の研修・ 研究会で講演をしている。教育者たちへの希望として排外思想を改め、世界に通 用する人間、広く世間を見る人間を作ってほしい、そのためには旧来の弊風を脱 し、種々の点において実際生活より築き上げた知識の養成をはからねばならない と訴えている。中国や欧米生活の経験からの世界情勢の内容には説得力があった ようである。  講演・講習会を通して政治教育に乗り出した吉野が痛感したのは、識者層(中 学校長等)の立憲思想に対する理解不足であった。今こそ立憲政治の真義を説く べき時と考えて世に提示したのが民本主義であった。1919 年 5 月の仙台におけ る民本講演会(大学卒業生、学生を中心とする雑誌『我等』の読者による計画) には大山郁夫、長谷川如是閑と吉野作造が参加したが、満員の聴衆が夕方から集 まり夜 10 時近く散会したとのこと。   この状況は第一次世界大戦後の日本の社会背景にあるとみられる。1918 年の 8 月、寺内内閣はロシア革命への干渉戦争に参加するためシベリア出兵を宣言し たが、米価高騰に苦しむ民衆は不満・不安感を強め、米騒動が富山県に始まり全 国的に広がっていた。

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 政府はこの動きを抑えるため米騒動に関する一切の記事の掲載禁止を報道機関 に通達。   新聞社はこれに対し言論擁護、寺内内閣打倒の大会を開いて対決姿勢を強め た。関西記者大会の模様を伝える『大阪朝日』の記事表現が朝憲紊乱に当たると して当局は『大阪朝日』を告発し、政府・検察・右翼が一体となって弾圧に乗り 出した。右翼の襲撃・暴挙、浪人会による非国民呼ばわりのおどしの中で、社長、 編集局長、長谷川社会部長、大山論説委員はじめ主要執筆者が退社。長谷川、大 山の手によって『我等』が創刊され、吉野も応援した。民本講演会はこうした背 景の下で行われたもので、吉野は自由と平等を尊ぶ民本主義の立場から、当時の 朝鮮、中国の問題、さらには社会主義、過激主義について述べたといわれている。 日本の抑圧的な朝鮮政策を批判し、独立を志す朝鮮人学生に理解と援助をおしま ない、また中国の革命勢力を支持し援助・交流を続けていた。(永澤王恭「吉野 作造と宮城のかかわり」p.146- 150)。吉野の関心は国内において政治の民主 化を進めることと同様に、隣国の国民的独自性にも注がれており、そこにも民本 主義が貫かれていたのだろう。  民本主義の学問的根拠には、階級の社会を打破して全人の社会を造るという点 にあるといわれる。その意味は、その国家に属する総ての人をして完全にその能 力を伸張せしむるということである。民本主義は物質、精神両面に於て国民の生 活が維持せられ、発達し得る保障を要求するもので、具体的には 生存権の主張、 民政権の要求、能力の発達を可能ならしむる組織の実現の主張をあげている。社 会主義または過激派の主義と区別されるものであるとして、社会主義過激思想の 欠陥を指摘しつつも、社会組織の欠陥を見出したことについて評価している(講 演会記録:河北新報)。  さらに労働問題および普通選挙論を執筆・講演で取り上げ、問題の原因・根本 を説きつつ労働運動(賃金労働者、農民)の方向づけをした。選挙権拡張も労働 問題解決の同じ基盤にある。婦人参政まで至らぬが、普通選挙制によって選挙界 の腐敗を一掃することを主張した。実際、1924 年(大正 13 年)に東大を辞職 して朝日新聞社の社員となり内ヶ崎と赤松克麿(労農党と社民党の統一候補)の 選挙応援に宮城県入りをした。  吉野の民主主義、自由主義、平等、平和を求める活動は尚絅女学校の学生たち に何らかの影響を与えたであろうと思われる。尚絅が世界に開かれており、アジ アに目を開いた交流として、すでに同窓生の佐藤をとみ(郭安那)と佐藤みさを (陶弥麗)姉妹による中国との交流という事実があった。日本における身をかく すような彼女たち家族の生活の支えに、吉野の存在があったことは否定できない だろう。 ③栗原基による活動の支え

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 栗原の存在は吉野のように目立たないが、バイブル・クラスの活動をはじめ、 常に基督者としての自覚と信仰に貫かれていたことがわかる。吉野の 1 年先輩 として東大文学部(英文学科)へ入学した後も、本郷教会に属し海老名牧師の下 で信仰の道を深められた。大学院卒業後、広島高等師範学校教授として赴任する が、これに先立って結婚されたお相手は大阪マリアで、東京駿台英和女学校付属 小学校卒業し尚絅女学会 2 人目の卒業生である。またエラ・オ・パトリック・ホー ムへ移転後の最初の卒業生である。卒業後はミス・ブゼルのヘルパー(通訳)と して奉仕し女学会で英語と音楽を教えた。上京して女子学院高等科に学び、広島 時代には広島女学院で教鞭をとっていた。   10 年後栗原は京都市 YMCA 主事へ転任、3 年後(1915 年)には第三高等学 校教授に就任。厨川白村の後任として小西重直等の推薦があった。聖書研究会を 主唱指導し「黎明」を発行、キリスト教と民主主義を基調とした論旨は、大正デ モクラシーの先鞭をつけたといわれる。大戦後学生を引率して南洋諸島へ旅行し ているが、この学生の中には山本宣冶がおり、凶弾に斃れるまで基先生に私淑し ていた。18 年より三高基督教青年会付属主事宅に寮監として入居し、以後約 17 年間(昭和 9 年まで)三高 YMCA 寮の学生と親しく接した。1920 年から 1 年 余り欧米に留学、1930 年 9 月に三高教授を退職(講師で継続・55 歳)した。 数年来三高を襲ったストライキ事件の思想的攻撃に堪え、孤軍奮闘されたが、嵐 の過ぎ去るのを待って潔く退いたとみられる。24 年から 8 年間同志社女子専門 学校講師をされたが、教え子の 1 人は「われキリストを説かず、ねがわくば、 キリストを生きん」の言葉を思い出集に寄せられている。ミス・ブゼルの生き方 がそのまま基先生の生き方であったと伝えた(宮下千代「栗原基先生の思い出」 追悼集 p.230- 233)。学生たちにとっての支え手であっただけでなく、父親と して時代の動きに対しての先達でもあったように思われる。1922,3 年ころ学 生連合会が結成されていくが、旧制第二高校では社会思想研究会が鈴木安蔵、栗 原佑ら 20 余名で組織されていたようである。鈴木安蔵は後に日本国憲法の草案 づくりで活躍されたが、彼と連れ添った妻・俊子は基の長女であり、佑の妹であ る。彼らが京都大学生のとき・1926 年に治安維持法初の検挙事件があり逮捕さ れるや、寝食を忘れての救援活動をし、力づけがあったこと、学問的業績の基礎 は岳父の物心両面にわたる支援なくしては不可能であったといわれる(鈴木安蔵 「岳父栗原基をしのぶ」思い出 p.95- 98)。キリスト教が国家権力の側からは 歓迎されない時代に、キリスト教徒となってつねに人々の縁の下の力持ちになる ことをあたりまえのこととしてなされた。「近代的なヒューマニズム、個人の神 との直結という点で、日本の近代化に新鮮な、批判的な思想運動、社会運動を意 味した。」

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おわりに  栗原基や吉野作造は東京の本郷教会活動を通して新渡戸稲造・安井てつという 東京女子大スタッフ、津田梅子らと交流の機会があったと思われる。尚絅女学校 とのつながりも、学生間同士だけでなくスタッフレベルでの人的交流・情報交換 が有効に働いていたのであろう。資料の収集が未だ不十分であることを踏まえつ つ、今後の課題としたい。 《参考文献》 ロバータ・L・スティブンス『根づいた花―メリー・D・ジェッシーと尚絅女学 院短期大学』河内愛子訳(キリスト新聞社)2003 年 100 年史編集委員会編『尚絅女学院 100 年史』2002 年 70 年史編集委員会編『尚絅女学院 70 年史』1962 年 西田耕三・宍戸朗大・永澤王恭・せとかつえ・渋谷和邦・橋本尭夫『吉野作造と 仙台』(宮城地域史学協議会)1993 年 栗原基『ブゼル先生伝』 伝記叢書 109(大空社)1992 年 栗原基先生記念追悼集刊行会『栗原基先生記念追悼集』(昭森社)1980 年 菊沢喜美子『思い出の父 栗原 基』(白羊堂印刷)1969 年      むつみのくさり編集委員会『むつみのくさり』(尚絅学院同窓会)2004 年 治安維持法国賠同盟宮城県本部『こころざしつつたおれし少女よー高橋とみ子・ 伊藤千代子を偲ぶつどい』2006 年 伊藤千代子の会『伊藤千代子と現代 No.2』2007 年 野呂アイ『尚絅女学校同窓生の青春群像―戦時下の生き方をめぐって―高橋とみ 子墓前祭つどい』(レジュメ)2007 年、他 野呂 アイ(のろ・あい) 1936 年 秋田県横手市に生まれる 1960 年 東北大学教育学部(教育心理学専攻)卒業 1962 年 東北大学大学院教育学研究科修士課程修了 栃木県で高校の教員、東北大学教育学部助手を経て 1970 年 尚絅女学院短期大学に勤務 1982 年 同短大教授 2003 年 尚絅学院大学教授(人間心理学科長) 2007 年 同大学定年退職(名誉教授)  現職 社会福祉法人木這子(理事・評議員) 木這子発達心理学研究センター

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伊藤千代子と現在 No.4

伊藤千代子の会

(在京) 〔連絡先〕〒 277-0043 千葉県柏市南逆井 2-24-36 藤田廣登気付 電話 090-2208-6114 郵便振替 00190-7-409200 高等科英文科の授業 伊 (高島小代用教員時代) 藤千代子と高 (仙台二女高時代) 橋とみ子

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伊藤千代子顕彰・研究の発展と会友の交流を深めるための「会誌」

第一部 新しい「動き」の時代−仙台・尚絅女学校にて 第二部 尚絅女学校の級友・活動家群像とその周辺(藤田廣登論稿) 2006.9 発行 特集:伊藤千代子顕彰・研究の新展開 松本善明/松原勝/鈴木楫/畠山忠弘 仙台・尚絅女学校の伊藤千代子と活動家群像を訪ねる 2007.3 発行 特集:追悼・秋元波留夫先生 中澤正夫/藤田廣登/田中康祺/滝川広行 (再録)「伊藤千代子と青春」試論Ⅲ−苦悩に灼かれて(小口廣登) 2007.9 発行 No.1 No.2 No.3

「千代さんの連絡」

−市ヶ谷刑務所にて− 西村櫻東洋  少し落着いて、ふと壁を見ると「ウエルカム・ニシムラ」と鉛筆でうすく書い てある。私は驚いて何度も見直した。「西村がこゝに来ることを歓迎する」誰だ ろう?いつ誰が書いたのだろう。  ぼんやりと、夕食が済んで座っていると、コツコツと壁を叩く音が聞こえて来 る。私は立上がって壁に耳を当てたり、あっちこっち動き廻ってうろたえた。  「壁に立ちなさい」とひくい声が聞こえた。窓は病舎だから密閉されてなく、 鉄の棒が縦に何本かあって、その間から見ると廊下も見えるし、前の広場も、そ の向こうにある作業場も見える。青い着物の既決囚の働く姿も見えた。  私はその窓に立った。声が聞こえる、その声は伊藤千代さんの声である。隣室 には一つ部屋を経て、伊藤千代さんがいた。  「今、見廻りの取締まりが向こうに行ったのよ、だから話をします。おとよさん、 あなたが中々来ないのでとても心配した。殺されたのではないかと思ってね。「ウ エルカム・ニシムラ」とは私が書いたの。あなたの今居る部屋は、手紙を書く部 屋になっていたのでね。では又お話しするわ」と言った。取締まりの足音が聞こ えたらしい。  伊藤千代さんは、こゝの同志のことを一々私に話してくれた。だから私も大体 のことがわかったのである。  新発見の西村櫻東洋(にしむら・おとよ)の遺稿から。西村さんは伊藤千代子と同時代の日 本女子大の社会科学研究会のリーダーで、東京女子大社研の千代子らと協力して活動していた。 メンバーの中で最後の逮捕者であった。(遺族の小川洵氏提供)

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