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ブロンテ書簡研究(1)

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(1)

ブロンテ書簡研究

(1) 岩 上 は る 子 (平成 5年 6月30日受理) `よ じめに 39年 の生涯でCharlotte Brontё は

4作

の長編小説

,そ

れを上 回る量の初期作品

,そ

して多 くの手 紙 を書いた。 もしその主な文通相手であった学友 のE■en Nusseyが500通余 りのシャー ロッ トの手 紙 を保存 していなかったなら

,Mrs Gaskenに

よるシャーロッ ト・ ブロンテの伝記 もず っ と貧弱 な ものに終 つていたに違 いない。 さらにブロンテ家 の生活 もいっそ う謎 に包 まれた神秘 的 な もの に なっていた ことであろう。 ブロンテ書簡の大半 はシャーロッ トの手紙である。 それ らの手紙 は筆者 の意外 な素顔 を伝 えてい る。シャーロッ トはエ レン以外 にもうひ とりの学友

Mary Taylorと

も文通 していた。彼女への手紙 はほ とん ど残 されていないが

,そ

の内容 はエ レンヘの もの とは異な り

,文

,政

,思

想 な どを取 り上 げていた ことが

,エ

レンヘの手紙 の文 中か ら推測 される。後 にシャーロッ トは出版者 の

W.S.

Williamsや George Smithな どとも仕事 を越 えて

,文

学か ら家庭問題 にいたるまで様々 な意見 を交 換 している。内気で社交性 に欠 けていたシャー ロッ トが

,手

紙 の中では男性 に対 して さえ極 めて率 直で大胆 な意見 を述べているのである。 政治 に強い関心 をよせ当時のジャーナ リズムに接 していたブロンテ家の人々 は

,ハ

ワースの寒村 に住 んでいたが

,決

して時代 の うね りと無縁 で はなかった。荒野 の向 こうには織物工業 で栄 える リーズやブラッドベ リ

,さ

らに植民地貿易の拠点 リバ プールがあった。ブロンテ姉弟妹 は保守的な 価値観 をもつ牧師の子 どもに生 まれなが らも

,急

速 に発展 し変貌 してい くイギ リス社会 の現実 をど の ように生 き抜 いてい くか を問われ続 けた。 ある意味では野心家であ り強 い上昇志 向の持 主で も あった シャーロッ トは

,そ

の積極的な生 き方 を通 じて新 しい女性の意識 を印象づ けている。以下で は シャーロッ トを中心 に

,彼

女 のその時々の状 況 をた どる上 で必 要 と判 断 した ところで は父親 Patrick Brontё や弟妹たちの手紙や 日記 も取 り上 げた。本稿 は手紙 の翻訳 と注釈 に よってブロン テ家の人々の姿 とその生活

,加

えて背景 となるヴィク トリア朝前期 のイギ リス社会 について も触れ てい くつ もりである。

(2)

書簡の翻訳 にあたっては

T.J.Wise/J.A.Symington, eds.,

勁 ι

B知

%あ

f

帰 っ″ うルs,

Ftt3ηぬ力ゎsα%″ 働 γ%οψοηガι%ει(The shakespeare Head Brontё ,4 vols Oxford,1932)を 使用 した。整理の都合上

,各

手紙 に番号 をぶったが

,参

照 しやすいように

( )に

同書で用いられた番 号を併記 した。

l―1 1829年か ら1832年

現存 す るシャーロッ トの最初 の手紙 は

,1829年

9月一一子供たちが「若者たちの劇」 を書 きはじ

めてか ら半年後――イ白母 の ミス・プランウェル (Miss Bran、 vell)に連 れ られて

,大

イ白父 フェネル牧 師

(Rev.Fennel)を

訪ねた ときに書かれた ものである。子供たちはカウアン・プ リッジ以来 はじめ て家 を離れ

,ハ

ワースか ら12マイルほどの

Todmordenの

牧師館 に滞在 した。 1 (16) クロスス トー ン牧師館

1829年

9月23日 お父 さまヘーー おぼさまにいわれて この手紙 を書いています。「 とくに何 もなければ」金曜 日の夕食 までには帰 ります。お元気の ことと思います。天気が良 くないので

,あ

まり外出で きませ ん。で も 本 を読 んだ り刺繍 をした り,とても楽 しく過 ごしてい ます。フェネルお じさま1)が 毎 日わた したちの 勉強 を見て くだ さいます。 ブランウェルは風景 を二枚写生 しました。わた しもエ ミリやアンといっ しょに,おじさまのウェス トモーラン ドみやげの湖 の絵 を模写 しました。分おじさまはわた したちの 絵 を手元 にお きたいそうです。座席 に余裕がないので

,金

曜 日にハ ワースまで送 っていけないのが 残念だ といっています。みんなか ら愛 をこめて。 シャーロッ ト・ ブロンテ

1)フ

ェネル牧師は母マライア

(Maria)の

伯父で

,彼

女 は当時

Woodhouse Groveに

あった伯父 夫妻の家で

,パ

トリック・ ブロンテ (Patrick BrOntё

)と

知合 い結婚することになった。

2)子

供 たちが模写 した湖 の風景画 は

,1786年

に出版 されたWilliam Gllpin(17241804)の 画集 の なかの作品。彼の風景画 を載せた旅行記 はプームになった。ブロンテ家では絵画への関心が強 く,

牧師館 にはJohn Martin(1789-1854)の版画が飾 られ

,そ

れはグラスタウンの情景描写 の ヒン ト になった。 シャーロッ トの絵画作品`The Cross of Rivaulx'(23.12.1834)はギル ピンをまねた

ものである。他 に

W.Findenな

どの影響が初期作品には見 られ る。

1830年夏

,病

を得たブロンテ牧師はその後 も健康 の衰 えを感 じ

,娘

たちの将来 を案 じた。彼女た ちが将来ガヴァネス として自活で きるためには教育 を受 けさせ る必要があった。だが費用の問題 そ してカウアン・ プ リッジで娘ふた りを喪っていた父には良い方策が見つか らなかった。 この苦境 に

(3)

ブロンテ書簡研究

(1)229

対 して ソーン トン時代か らの牧師イ中間が助力 を申 し出

,15歳

になった シャーロッ トはロウ・ ヘ ッド に入学す ることが決 ま り

,31年

1月 にハ ワ●スを出発 した。

2(17)

ヨークシャー州ブラッドフォー ド近郊ハワース

1831年

4月28日 0 拝啓―一娘 シャーロッ トが格別 の ご配慮 を頂いた由

,一

言御礼 申 し上 げた く筆 をとった次第です。 これ まで もひ と方な らぬお世話 にな りました こと

,我

が家の者たちは忘れ るもので はあ りません。 娘 も心か ら感謝いた してお ります。 あの娘 はキ ッピングでお会い した頃の ことをまだ覚 えています し

,ま

た私たちがあの古 き良 き日を懐か しんで

,あ

なたの ことを時お り話題 にしているのを聞いて お ります。先頃

,わ

れ らが友 ミス・ウースウェイ ト0から便 りが届 き

,少

々懸念 していた ところです。 教会 も国家 も然 るべ き改革が必要であるとい う私の意見が,ひどい誤解 を生んでいるようなのです。 それ も私が尊敬 申し上 げている人たちのあいだで。私 はすべての点で一―政治 に関 して も一― ソー ン トンにいた頃 と

,な

にひ とつ変わってはお りません。教会 と国家 に対 して

,私

ほ ど熱 い真摯な思 いを抱いているものは他 にない といって もよいほ どです。 しか し長年の熟考の末に

,私

は確信す る に到ったのです。我々の優れた制度 を心か ら大切 に思 う人間が現れ

,然

るべ き改革 を提唱 しなけれ ば

,巧

妙 な敵 どもはこの機 に乗 じて国民感情 を一―すでに充分す ぎるほ ど沸騰 しています―一煽 り 立 て

,全

上で暴動 を引 き起 こし

,つ

いには革命 を招来 させ ることは多いにあ りうることなのです。 フランスで何があったか,我々 はよ く見知 っているではあ りませんか。動改革反対 を唱 えたウェ リン トン公爵 は,そ れがために閣僚たち と辞任 に追い込 まれたのです。0この頑迷 さが もた らした失策 は もうひ とつあ ります。愚かにも改革反対者 たちは

,政

府の閣僚たちを孤立 させ

,そ

の結果

,国

王が 議会の解散 を宣言す るとい う状況 に立 ち至 ったのです。おそ ら く早 急 に次 の議会 が召集 され るで しょうが,それはさらに無策で,おそ らく改革 に向かって今度 は行 き過 ぎを演 じることになるで しょ う。 したがって私 は穏 当な

,

というか適度の改革が必要であ リーー そ うす ることによって理性 ある賢 明な人々 を満足 させ

,な

かんず く真の敵である者たちの攻撃の手 を封 じ

,も

って教会 と国会 を破城 の危機か ら救 うことになる一― との考 えか ら,わ た しは選挙法改正案めを支持す るのです。もっとも 議会 はすでに法案 を否決 して しまいましたが。私 に言わせれば

,そ

れ は良心 と決断の問題で

,そ

れ に背 くぐらいな ら

,あ

えて貧困

,投

,死

の危険 をも厭 いません。わた しの友人たち――少 な くと もその何人か―― は

,わ

た しとは行動 の指針 を異 にす るか もしれ ません。 しか し教会 と国家 によせ る志 しと熱意 に変わ りはあ りません。 もっ と身近 なお話 を。病気が癒 えて一年近 くにな りますが

,い

まだ本調子ではあ りません。昨年 の夏 に肺炎 を起 こし

,数

週間

,死

線 をさ迷いました。 それか らこの半年 というもの

,体

力が回復せ ず気力 も戻 ってきませんで した。ひ と月ばか りは

,教

会の務 め も果たせ ない状態で した。

9今

ではど

(4)

うにか執 り行 ってはい ますが

,な

かなか負担です。ずっ と良 くなってはいるものの

,完

治す るのは 難 しい ような気が します。 ときには, この まま死 んでい くのではないか とす ら思い ます。 けれ ど我 身 は主の御手 にあ ります。最後 には種々の問題か ら解 き放たれて

,永

遠 に御国の住人 となることで しょう。あなたが以前 ほ どお元気ではない と聞いて

,心

配 してい ます。主の御加護があ ります よう, またいつ まで もご主人 とお子 さまたちの もとに居 られ ます よう

,心

か ら祈 ってい ます。 あなた と ファース夫人9に最後 にお会 い して以来

,キ

ッピングにはほんの一度 出か けた きりです。みなさま, ご親切 にして下 さいました。 けれ ど私 にはかつての友人たちが忍 ばれて

,も

の悲 しい気分が しまし た。早々にお暇 し

,

もう三度 とこの地 には足 を向けるまい と心 に誓 い ました。 ミス・ ブランウェル はまだ こちらにいて,幼子たちの面倒 をみて くれています。一同 よろし くと申してお ります。ファー ス夫人 にお便 りす るか

,あ

るいはお会いす るようなことが ござい ました ら

,ど

うか くれ ぐれ も宜 し くお伝 え ください。私 どもに代わつて

,娘

シャーロッ トヘの御温情 に御礼 申し上 げて下 さい。 敬具

3)ブ

ロンテ師の手紙。宛名 は

Thorntonの

副牧師時代

(18151820)の

友人 のひ とりMrs Franks (旧姓Elizabeth Firth)。 彼女 はソー ン トンの名家Kipping Houseの一人娘だつた。 ソー ン トン 教会 に赴任 したプロンテー家 は

,同

家 と親交 を結んだ。妻が病死 した後

,パ

トリックはまだ独身 であった ミス・ファースに再婚 を申し込み

,断

わ られている。 その後

,彼

女 は Huddersfieldの 牧 師James Franksと 結婚 した。

4)Miss Outhwaite,Fannie(Frances)ソ

ー ン トン時代の友人。ア ンの名付 け親 にな り

,彼

女に 200ポン ドの遺産 を残 した。 アンはその金 をScarboroughへ の最後 の旅の費用 にあてた。

5)フ

ランスではシャルル10世治下

,旧

貴族 を中心 とす る保守派 とブル ジ ョワジー を基盤 とす る自 由主義派が対立 していた。1830年

,国

王が出版の自由を制限 し選挙法 を改悪 した ことか ら

,パ

リ 市民が蜂起 し市街戦 となった。 この 7月 革命 によってシャルル国王 は亡命 し

,王

政復古い らいの ブルボン王朝 は倒壊 した。

6)対

ナポレオ ン戦争の子旨揮官 として勝利 を収 めたウェ リン トン (Arthur Wellesley Wellilagton,

17691852)は

,1828年

に首相 とな リトー リー党政権 を発足 させた。だが時代 の自由主義的流れに 抗 しきれず

,29年

にカ トリック解放令 を成立 させた。 その後 トー リー党 内の保守派 と進歩派が分 裂 し

,30年

の総選挙ではホィッグ党 に敗れた。

7)選

挙区制度 は16世紀以来 その ままで

,19世

紀 にな り産業革命 によって人 口の大移動が起 こって いたにもかかわ らず

,そ

の議席配分や選挙権 な どは是正 されなかった。改革動議 は1819,21,22, 26年の

4回

にわたって提 出されたが

,議

会で否決 されていた。1830年 に政権 を握 ったホィッグ党 は31年に第一次選挙法改正案 を下院に上提 したが

,上

院の激 しい抵抗 にあって成立 しなかった。 そのため民衆が激昂 し

,ブ

リス トル

,ノ

ッテ ィンガム

,ダ

ー ビーでは暴動が発生 した。

(5)

ブロンテ書簡研究(り

231

8)1830年

に入 ってか らパ トリックはしつ こい咳 に悩 まされ

,肺

の鬱血か ら気管支炎へ と症状が進 み

,初

夏の頃 には起 きられな くなっていた。 6月 の終 り

,主

の御告げを受 けた とい う見知 らぬ老 人が牧師館 に現れ

,間

もな くキ リス トの訪れがあるので御迎 えの準備 をす るように言って姿 を消 した。折 りしも父の病状が重かったため

,そ

れ は不吉 な前兆のように思われ

,シ

ャー ロッ トは泣 きじゃ くった とい う。初期作品`The Following Strange Occurence'(22.6.1830)参 照。

9)Mrs Firth

フランクス夫人 (Mrs Franks,旧姓 Elizabeth Firth)の 継母 (Elizabethの 母 は 1814年に馬車の事故で亡 くな り

,15年

に父が

Miss Anne Greameと

再婚 した。

)ブ

ランウェルの 名付 け親。

3(18)

ロウ・ ヘ ッ ド

1831年

5月1の 親愛 なるフランクス夫人一―先 日

,ハ

ダーズフィール ドか ら小包が届 きました。心 よ り感謝 してお ります。洋月叉とモス リンを本当にあ りが とうございました。 また ご親切 にもシ ョール を送 って くだ さいました ミス・ ウースウェイ トにも

,お

ネしを申 し上 げたい と思います。霜焼 けはす っか り良 くな りました。ア トキンスンさん11)がお見 えになったのに,外出 していて残念で した。ファース夫人 によ ろしくお伝 え ください。心暖 まるお手紙 をいただいた ものですか ら。 ウラー先生たちが くれ ぐれ も よろしくとの ことです。お借 りした「予言 に関す るキースの研究JIりをとて も喜 んでい らっしゃいま す。何 くれ とな くお心遣い頂 き

,お

礼の申 し上 げようもござい ません。 愛 と感謝 をこめて

10)Roe Head

ウラー姉妹 (Miss Woolers)が 経営 していた女子寄宿学校。ハ ワースか ら南東 に

20マイルほ ど離れたMirfield Moor(後 に

Dewsbury Moorに

移転

)に

あ り

,シ

ャーロッ トが入 学 した当時 は10人ほ どの生徒がいた。 ブロンテ師のソー ン トン時代か らの友人たちで

,ハ

ダーズ フィール ドのフランクス家やHart

eadの

ア トキンスン氏の牧師館か らも近かったので,両夫人 がシャーロッ トの様子 をみて くれ るという安心感 もあった。 シャーロッ トは1831年 1月 か ら32年 5月 まで在学 し,そ の後1835年 7月 か ら38年12月 まで教壇 に立 った。なおウラー姉妹 は

Margaret

Wooler(1792-1885)'火 T Catherine, Susana,A/farianne,EIza b9 5ノ (o

ll)Rev.Thomas Atkinson

ソー ン トン教会の前任者で

,シ

ャーロッ トの名付 け親。 ロウ・ ヘ ッ ドでの学資 を援助 して くれた。

12)Alexander Keith(17911880)

予言 に関 して次のような本 を書いている。既 ι″力 げ 肋ι βυゲ冴ι%ει/79物 P鞭クカιり(1832),2υゲあο%ιι 9′ 励 ι

T協

励 げ 滋ιCん7'SttZ%■9ι 'ο

%虎

力υ″

//92

諺ι

L滋

陶 ′」勁 ″ 賜 ι妨 げ P鞭″ ιり(1828) シャーロッ トは毎週

,家

か ら便 りを送 って もらっていた。今ではグラスタウン物語 はブランウェ

(6)

ルが とりしきり

,エ

ミリとアンは独立 してゴングル物語のお」作 をはじめていた。だがシャーロッ ト には創作の時間はなかった。猛勉強の結果

,シ

ャーロッ トは入学時には最下位のクラスであったの が

, 7月

の夏休みに帰省する頃には学校で一番になっていた。

4(19)

ロウ・ ヘ ッ ド

1831年

5月 7日 愛するプランウェルーー週 に一度書 く便 りの宛先 は

,い

つ もの ようにあなたです。いちばん話 した い相手 はあなただか らです。遠 い道の りを

,(さ

ぞか し

)疲

れた ことで しょう。19は た して無事 に家 に帰 りついたか

,ぜ

ひ知 らせてほしいです。 こち らに着いた ときは平気だ と言ってい ましたが

,わ

た しの眼 には疲れ きっているように見 えました。帰 った後で

,あ

なたか らきこうと思っていたあれ これ を思いだ しました。思い もかけず会 えたので嬉 しさが先だって

,つ

い忘れて しまったのです。 わた しはこれ まで政治 にもっていた関心 をすっか りな くして しまった と思っていました。 けれ ども 選挙法改正案が上院で否決 された り

,グ

レイ伯爵が追 い出された

,つ

まり退陣 した ことを聞いて嬉 し くてた まりませんで した。10そ れで 自分が まだ政治への熱意 をな くしていない ことを

,は

っき り 知 らされた というわ けです。伯母 さまがFフレイザーズ・マガジン』10を 購読す ることにしたそ うで, よかったですね。お話では

,雑

誌のなかみはFプラックウッズ・マガジン』10には及 ばないようです が。で も丸一年

,定

期刊行物 をまった く読 めない とい うよりましで しょう。そうな りかね ません。 わた したちの ように人里離れた荒野の寒村 に住 んでいたので は

,巡

回図書館か らその手 の ものを借 りることはままな りませんか ら。1つ この素晴 らしい天気で

,お

父 さまの ぐあいがす っか り良 くな ら れ るといいのですが。 また伯母 さまが故郷 の穏やかな気候 を懐か し く思いだされ ます ように。 あな た とともに祈 ってい ます。 皆 によろしく―一愛 す る姉

,ブ

ランウェルヘ。 シャー ロッ ト

13)ブ

ランウェルはロウ 。ヘ ッ ドまで20マイルの道 の りを徒歩で姉 を訪ねた。 この頃 (31年5月 上 旬

)彼

は`History of the Young Men'を 完成 させ

,続

いでLetters frOm an Elaglishman'に 取 り かかっていた。 シャーロットは学校 にいる間 はほ とん ど創作 していない。だが友人 のメア リ・ テ イラーに自分たちの雑誌の存在 をもらしてい る。

14)1830年

にウェリン トンの トー リー党内閣が瓦解 した後,グレイ伯爵(Charles Grey,17641845) がホイ ッグ党内閣 を組閣 した。首相 グレイは

,第

一次選挙法改正案の上院通過 に必要 な過半数 を 得 るために

,新

貴族の創設 を国工 に奏請 した。だが国王が これに反対 したため

,グ

レイ内閣 は総 辞職 した。

15)F/psι

A Z錮

骸妨ι

(183083)ロ

ン ドンの書店 」

ames Fraserか

ら創刊 された雑誌。William

(7)

ブロンテ書簡研究

(D 233

彼 は初 めはブラ ックウッズの記事 を担当 していたが

,フ

レイザーの誘 いで移籍 した。後 にカーラ イル とラスキンとい う論者 を獲得 し

,さ

らにサ ッカレー

,テ

ニスンな どを寄稿家 に迎 え

,文

芸界 において主導的な立場 を確立 した。

16)B力

紘 糎οプそ フ啄咽館婉ι正 し くは β力誘ωοο″そ 巳敵 ♭%管カ フИ廼防力ι エデ ィンバ ラの出版者

William Blackwood(17761834)に

よって1817年に創刊 された保守派の文芸雑誌。文化的論説, 小説

,エ

ッセイ

,文

芸批評 な どを掲載 した総合雑誌で

,1820年

代 の保守化傾 向のなかで多 くの読 者 を獲得 し

,発

行部数 は

3万

を越 えた。 ブロンテ姉弟妹 は25年 か ら41年頃 まで同誌 を愛読 し

,彼

らの初期作品の題材 として利用 した ことが うかがわれ る。 また1829年1月にはその形式 をまねて,

自分たちの雑誌 `Branwel偽 BIackwoods Magazine'を 発行 した。(詳細 は拙論「 シャーロッ ト・ ブロンテ初期作品研究(1)」 鳥取大学教養部紀要第23巻

,平

成元年10月を参照)

17)ブ

ロンテ師 はLιιゐ 物 形〃葱%ιιγと上ιιゐ ン啄ιπ%っ の

2紙

を近 くのキース リか ら取 り寄せて いた。また1825年か ら数年 にわたって

,地

元の医師 Dr Dr erが BIackwooざ

s Magazineを

回 し て くれていた。(1831年で購読 をやめたので

,伯

母が代わ りにフレイザー誌 を とることにした。) キース リにMechanics lnstitute(理 解 ある資本家の手で工業都市 な どに設 けられた福祉施設で, 集会場や図書室 な どがあ り

,夜

間授業な ども行 なわれ労働者 の教育 に貢献 した)が設立 され ると, ブロンテ師 は33年4月に入会 し

,子

供たちがその図書館 を利用で きるようにした。またハ ワース教 区の有力者 ヒー トン家の邸宅Ponden Hallの図書室 にも1400冊余 りの蔵書があ り

,プ

ロンテ姉弟 妹が利用 した ことがわかっている。 ロウ・ヘ ッドでは

,シ

ャーロッ トは生涯の親友 となるエ レン・ナ ッシとメア リ・テイラーに出会 っ た。ぶた りは ともにヨークシャーの裕福 な家庭 の娘であつたが

,そ

の性格 は対照的だった。エ レン は トー リー派の英国国教会 を信仰す る旧家の出身で

,保

守的で伝統的な価値観 を重ん じた。 それに 対 してメア リの家族 は

,急

進的な非国教徒の新興階級であつた。 メア リ自身 も

,家

庭 の事情 もあっ たが経済的独立 を求 めて海外へ出るな ど

,進

歩的で行動的な女性であつた。ぶた りとの文通 は1831 年に始 まり

,シ

ャーロッ トが亡 くなるまで24年間にわたって続 いたが

,メ

ア リはシャーロッ トのた めを思ってか

,手

紙 を焼却 して しまった。エレンには語 らなかった秘密 を

,シ

ャーロッ トはメア リ には打 ち明 けていた と推測 され る。

5(20)

ハワース 1831年

5月31日

拝啓 ミス・ナ ッシ

18)__で

きるだけ早 い機会 に,先週 いただいたお手紙 のお礼 を申 し上 げたい と思い ます。 こんなに長いあいだ返事 も出さずにいてごめんなさい。 この手紙があなたへの最初 の ものに なるで しょう。

***さ

んの ご親切 なお招 き十一心か ら感謝 しています一― カルヴィン主義 につい

(8)

ての

***氏

の講演 もぜひ聴 きたかったです。面 白 くためになったに違いあ りません もの。 けれ ど 感情 を義務 に従わせねばな らない(先日のウラー先生 のお言葉です)こ ともあ ります。19しか も今年 の半期 は休 日も多 く

,

この うえもう一 日お休みをとい うのはわが ままと思われたか も知れ ません。 それに勉強 も遅れ ることになったで しょう。 あれ これ考 えてみると

,種

々の事情 か ら行 けなかった のはよかったのか も知れ ませ ん。親愛なる友 より。 C・ プロンテ

18)Ellen Nussey(18171897)ヨ

ークシャーの裕福 な地主John Nusseyの未娘。同家 には13人の 子供 が あ り

,Henryは

39年 にシャーロッ トに結婚 を申 し込 んだが

,断

られてい る。他 に John,

Ann,Mercy,Sarah,Georgeな

どが手紙 に登場す る。

Roe Headで

ふた りが友人 となった頃に は父 は亡 く

,一

家 はBirstallに あるRydillgsに住んでいた。その後37年 に

Brookroydに

転居。エ レンは生涯家 を離れ ることもな く

,未

亡人 となった母や病気の姉

,精

神障害 のあった兄の世話 を して独身で過 ごした。

19)ロ ウ・ ヘ ッドでは1773年に出版 された

Mrs Chaponeに

よる古典Lι婉熔 θ

%肋

ι物 紹υι%ι%チ

げ 滋ι″励プを基 にカ リキュラムが組 まれていた。他 にA/fangnall's Questions for History and

Biographyや

Milton,Shakespeareの

作品が読 まれた。『マ ングナルの質問集』│まWakefieldの

Crofton House Schoolの 校長 ミス・マングナルが作成 した もので

,当

時の学校用標準教科書のひ とつであった。新 しい教育方法 によって知 られた彼女の学校 は

,エ

リザベス・ ファースが学んだ 所だった。 シャーロッ トの姉マ リア とエ リザベス も在学 したが

,授

業料が高かつたためかほんの 短期間であった。

6(21)

ハ ワース

1832年

1月13日 親愛なるエレンーー お便 りは嬉 しい驚 きで した。 こんな言い方 をして ごめんなさい。で もお約束の ことは

,あ

まり本気 にしていなかったのです。家 に帰 って しまうと

,学

校の ことを思い出させ るよ うなことには

,み

んな触れたが らない もので しょ。それに家 に帰 ると

,次

か ら次へ といろんな こと に心 を奪われ時間が過 ぎて しまうので

,学

校で約束 した ことを果たす時間なんてないわ と

,思

って しまうものです。けれ どあなた とミス・テイラー19は

,例

外 とわかって とて も嬉 しいのです。

***

さんが病気 との こと

,心

配です。 ウラー先生 も風邪が重いそうですね。 コンラはまだ じわ じわ と広 がっているようです。で もすべか らく神の思 し召 しとお もって

,希

望 を捨 てず にい ましょう。 これ までイギ リスはきわめて好運で した。疫病 は猛威 をふ るうこともな く

,大

陸の国々の ように恐 ろし い勢いで広が るとい うこともあ りませ んで した。

19***さ

んがマーシーの絵 を気 に入 って くれて 良かったです。コベ ッ ト2のの作品がなにか参考 になればよい と思 っているとお伝 え ください。で もど うかわた しに暗唱 して聞かせ るために

,ご

無理 をなさいませんように。せ っか くの努力 も

,ご

期待

(9)

ブロンテ書簡研究

(1)235

に応 えられないで は申 し訳 あ りませんので。あの名士 も信条 も(個人的にせ よ政治的な ものにせ よ), わた しの好みではあ りません。

***さ

んによろしく。 メア リ・ テイラー とお茶 目さんにもよろし

く。 そ してだれ よ りも愛 をこめて

シャーロッ ト・ プロンテ

20)Mtty Taylor(1817-1893)

ヨークシャーの実業家Joshua Taylorの長女。

2歳

下のメア リ もロウヘ ッ ドに在学 していた。他 に

Joshua,John,Josephの

兄たち と末の弟

Waringが

V】た。テ

イラー家 は一族で毛織物工場や銀行 な どを経営 し

Leedsや

Bradfordな どの地域一体 に勢力 をも ち

,Gomersalに Red Houseと

名付 けられた広壮 な屋敷 を構 えていた。後 に父親 の死 により事業 に も行 き詰 り,1845年3月,一家 はニュージーラン ドのウェ リン トンに移住 した。メア リとシャー ロッ トの文通 は続 いたが

,手

紙 は破棄 されほ とんど残 っていない。メア リは1860年 に帰国 し

,90

年 に小説

Miss″

法 を出版 した。

21)コ

レラはもとはイ ン ドのガ ンジス川流域にあった風土病的な性格 をもつ流行病であった。だが 19世紀の近代文明の進歩,と くに交通の活発化 と共 に国際交流の波 に乗 って文明諸国に流行 した。 イギ リスのイン ド経営および東南アジア進出が世界的な流行 の引 き金 になった ことは否定で きな い。第

2次

の世界的流行

(18261837)で

,ロ

シアに進入 した コレラは南下 して ヨーロッパ を襲 い,イギ リスを経 てアメ リカに渡 って太平洋岸 に達 した。イギ リスでは19世紀 のあいだに

3132年

,

4849年

,5354年

,66年

4回

にわたって大流行 し

,そ

の都度

,高

い死亡率 を記録 した。ちなみ にブ リュッセルでは

Heger氏

の最初 の妻 とこどもが,1833年 9月26日にコレラで死亡 している。 またマーサ・ テイラー も

,プ

リュッセル留学中の1842年にコンラで死亡 した。

22)William cObbet(17621835)イ

ギ リスの政治ジャーナ リス ト。1832年の選挙法改正 に伴い下 院議員 とな り

,議

会最左翼の指導者 として議会改革や社会改革 を訴 えた。 1832年 5月 にロウ・ ヘ ッドを卒業 したシャーロッ トはハ ワースに帰 り

,妹

たちの勉強 を見 るかた わ ら教師あるいはガヴァネスの職 を探 していた。 この年の秋

,父

の考 えで牧師館 の隣 に日曜学校が 建て られ

,シ

ャーロッ トが村 の こどもたちを教 えることになった。

7(23)

ハ ワース

1832年

7月21日 愛す るエ レンーー優 し く素敵 なお手紙

,

とて も楽 しく読 ませていただ きました。家 に帰 ってか らと いうもの

,毎

日お便 りを待 ちわびていました。 とうとう諦 めはじめた ところです。学校 を出てか ら の私の生活 について教 えてほしい との ことで したね。簡単です。たった一 日の ことを書 けばよいの ですか ら。残 りの日はどれ も似た ようものです。年前中は

9時

か ら12時半 まで妹たちの勉強 をみた り

,絵

を描 いた りして過 ごします。 こんな ぐあいに楽 しく

,で

も何事 もないままにわた しの人生 は

(10)

過 ぎでい くのです。 こち らに戻 ってか らお茶 に招かれたのは

,ほ

んの二 回 きりです。今 日は年後か ら

,お

客 さまの予定です。来週の火曜 日に

,日

曜学校 の女の先生たちをお茶 に招 くことになってい ます。先 日L・ S・ ブル ックさんか ら手紙が きて驚 きました。 日新 しい ことはなかったのですが, 「学校 を出てか ら

,自

分 の ことがあれ これ峰 されているらしい」 とひ どく怒 っていました。思 うに わた したちが耳 にした例 の噂 を

,あ

の国の軽 いマライアがすっか りしゃべって しまったのではない か しら。

W夫

人 とカ リス氏が亡 くな られた との こと

,気

の毒でな りません。それぞれのご家族 には, かけがえのない人だったで しょうに。イザベ ラ・ サグデンについてあなたの友達ハ リエ ッ ト・ カ リ スが言った ことは

,わ

た しには意外で もなんで もあ りません。彼女の性格 については ミス・ ホール か ら聞いていたので

,あ

まり信用 していませんで したか ら。 ご自分 のためには学校 に戻 られるのが よい と思います。わた しには手紙 をた くさんや りとりで きるので

,家

にいて欲 しい気持 ちはあ りま すが。周 りの方々が学校 に帰 ることに反対 なさるのは

,あ

なたが立派す ぎ向上 しようと頑張 りすぎ るか らなのではないか しら。資質 に恵 まれたあなたですか ら

,然

るべ き有能な方 (周りにた くさん いるで しょう

)の

指導 を受 ければ

,高

尚な文学 そしてそこに含 まれ ますが

,詩

に対 して もしっか り した鑑賞力 を身 につ けられ ることで しょう。髪の毛 を送 って くださ らないので

,が

っか りです。郵 便料金が三倍 になって もか まいません。2oぁ なたが遠慮す るな ら, こち らもおな じ理 由か ら送 らな いことにします。伯母 さまと妹たちがよろしくといっています。お母 さまやお姉 さまたちによろし くお伝 え ください。心か ら愛 をこめて

,真

の友 より。 シャーロッ ト・ プロンテ 追伸 おたがい定期的 に文通す る約束で したね。間違いだ らけの うえに悪筆でごめんなさい。テイラー さんに会 った ら

,よ

ろしくいって。愛 しい愛 しいエ レン

,さ

ような ら。

23)1839年

8月 に1ペニー料金郵便法が成立 し

,翌

40年1月10日か ら実施 されたが

,そ

れ以前 は郵 便料金 は後納制で

,受

取人が手紙 を受領す る際に表示印で示 された額 を配達人 に支払 った。なお 1812年制定のシングル・ レター (手紙 の用紙が一枚だけの もの。19世紀 になって も封筒 は使われ ず

,現

在の郵便書簡や航空書簡 のような形であった

)の

郵便料金 は距離 によって異なっていた。 最低料金 は15マイル以下で4ペンス。ハ ワース とバース トールの距離 は17マイルで

,料

金 は

5ペ

ン スであった。

8(24)

ハ ワース

1832年

9月 5日 親愛なるエ レンー言盛 りだ くさんな とて も素敵 なお手紙 をほん とうにあ りが とう。わた しの貧弱な 手紙 とはなん と対照的なので しょう。 けれ どもニュースが まった くな くて も許 して もらえると思い

(11)

ブロンテ書簡研究

(D 237

ます。わた しが置かれている状況 を考 えて も見て ください。新聞以外 には

,な

に も情報 を得 る手段 がないのですか ら。 それ にあなた は政治や事件 な どにあま り興味 はないで しょうし。 ロバー ソンさ ん20が中風 にな られた と聞いて,父 が,い配 してい ます。ご高齢 なので完全 に回復 す るのは難 しいので はないで しょうか。週 に一度 ロウ・ ヘ ッ ドで講義 を受 けるのは

,と

て もよい と思い ます。 きっ とそ のふたつの重要 な分野で長足の進歩 を遂 げることで しょうもマーサ・ テイラーが病気 にかかった よ うに行儀が よ くなった とい う話

,

とて もおか しかったです。長続 きす るよう願 うばか りです。 とこ ろでポ リー29はこの世 にまだ存在 しているので しょうか。もし生 きているな ら,彼女 に会 った ら手紙 を くれるよう言っていただ けませ んか。 ミス 。

Hが

あなたが考 えていたの とまるで正反対 の人 とわ かって

,残

念でな りません。で もエ レン

,

この世で完璧 な人 を求めるのが まちがいなので はないか しら。 あなたは信 じやすい優 しい性格 ですか ら

,Hさ

んの ことをほ とん ど欠点がない ように思い こ んだので しょう。お手紙 の後半 について。 ご親切 なお招 き

,

とて も感謝 してい ます。お父 さまと伯 母 さまに相談 した ところ

,ふ

た りのお許 しをいただ きました。ですか ら喜んでお受 けす る とお返事 します。エ レン,わた したちは一般 にいわれ る女生徒 どうしの友情の例外 になるので はないか しら。 少 な くともわた しは会 えないか らといって

,あ

なたに対す る姉妹のような気持 ちはす こしも変わ る ものではあ りませ ん。お母 さま

,お

姉 さまたちによろしく。 ことばのかぎ りの愛 をこめて。 追伸 見 るに耐 えない悪筆 を怒 らないで。 それではまた。 シャー ロ ッ ト・ ブロンテ

24)Rev.Roberson,Hammond(1757-1841)ハ

ーツヘ ッ ド教会でのプロンテ師の前任者。

25)Polly

メア リ・ テイラーの愛称 1832年 9月

,シ

ャーロッ トはエ レンの家 を初 めて訪問 した。ハ ワースでたった一台のギグ (一頭 立て三輪軽馬車

)を

借 り切 って

,プ

ランウェルが姉 を送 っていった。 ライディングス (ナッシ家 の 邸宅

)は ,

くるみの木の植わった広々 とした庭や胸壁のある華麗 な建物で姉弟 を圧倒 した。感激 し たプランウェル は帰 り際 に

,姉

をまるで天国においてい くようだ と語 った。帰宅 した シャー ロッ ト は勉強のため

,次

の手紙 はフランス語で書 いた。

9(25)(原

文 は フ ラ ンス語) ハワース

183/千

10月 18日 親愛なる友ヘーー また離れ離れ にな り,わた したちの間には17マイルの距離が横たわ つています。 あなた と一緒 に過 ごした

2週

間 は瞬 く間 に飛びさ り

,今

では過去の楽 しい思い出 として振 り返 るし かあ りません。事故 も災難 もな く

,無

事ハ ワースに帰 り着 きました。妹たちはわた しの乗 った馬車

(12)

が見 えると家か ら飛 び出 して きて

,ま

るで

1年

も会 えなかったかのように喜 んで抱 きつ きました。 父

,伯

,そ

れに弟が話 していた男の方が居間 におそろいで したので

,わ

た しも直 ちにそ こに行 き ました。人 はひ とつの楽 しみを失 って も

,さ

っそ くそれに代わ る楽 しみを与 えられ る とい うのは神 のご意志で しょうか。 そんなわけで

,わ

た しは心優 しい友 と別れ ましたが

,す

ぐに愛す る身内の も とへ帰 り着いたのです。あなた もわた しを失 った後 (わた しの出発があなたに とって悲 しみである と思 って もよければ),わた しと同 じようにお兄 さまやお姉 さまのお帰 りを楽 しみにしていることで しょう。 ご親切 に もお土産 にいただいた りんごを妹たちにや りました。彼女たちはきつ とエ レンは 素敵 な優 しいひ とに違 いない といっています。二人 ともとて もあなたに会いたがってい ます。2, 3カ 月の うちに妹たちがその喜びを得 られ るよう願 っています。 もう時間があ りません。 この辺で ペ ンをお きます。マー シーによろし く。わた しの愛す る大切 な友エ レンヘ。 追伸 どんなに急いで この手紙 を書いたか

,ち

ょっ と想像 もで きないで しょう。 フランス語で書 いてほ しくなかった ら

,そ

う言 つて ください。諦 め ます。で もぜひお返事が世界共通語で書かれているこ とを期待 してい ます。 はじめのうちは少 し くらいの間違 いは気 にしないで。やってみればずっ と上 達す るで しょう。 それでは

,お

便 りください

,す

ぐに。お手紙が届 くのが待 ち切れ ません。

0 1833年

か ら1834年 1832年 5月 にロウ 。ヘ ッドか ら帰宅 した シャーロッ トの生活 に大 きな事件 はない。29年3月に始 められたグラスタウン物語 は

,彼

女の留守 中はブランウェル によって進 められていた。帰宅後 しば らくしてか ら

,シ

ャーロッ トは中断 していた物語 を再開 した。それ までの冒瞼や戦争の物語ではな く

,ロ

マ ンスを主題 としたアング リア伝説である。 シャーロッ トは33年か ら34年にか けて

,創

作 に 熱中 し大量の作品を書 いている。 10 (26) ハワース

1833年

1月 1日 親愛 なるエ レン十一 月に一度お便 りす る約束で した。お手紙 をもらってか らあっ とい う間にひ と月 がたち

,慌

てて返事 を書いているところです。「新年」おめで とう。あ りぶれた文旬ですが

,本

来の 意味で これか らの 日々いっそう精進 されるよう期待 します。毎年

,元

旦 になると厳粛 な気持 ちにさ せ られ

,言

うは易 く行 ない難かつた ことへの反省が胸 をよぎ ります。 自分が旧年 どれほ ど向上 した か

,新

年 をどのような心構 えで迎 えるべ きかな どです。愛す るエ レン

,わ

た したちは (まだ若いけ れ ど

)こ

うした ことをい くら考 えて も考 えす ぎるとい うことはない と思 うのです。 自分 の台ヒカ を過 小評価 しているので しょうか,内 気 なためなのか,フランス語で手紙 を くれないのが残念です。やつ

(13)

ブロンテ書簡研究

(1)239

てみれ ばきっ と上達す るはずなのに。妹たちに対 して責任 を感 じすぎるのではとのご忠告。わざわ ざ

( )を

つ けて気 を悪 くしない ようにと書 き添 えてあ りました。エ レン

,親

切 な助言 にどうして 腹 を立 て られ るで しょうか。心か ら感謝 し,ま す ますあなたの ことが好 きになって しまいそうです。 二週間ほ ど前

,テ

イラー さんか ら手紙 をもらいました。 クラ ッパム夫人が男子 を出産 し

,あ

なたが 一月余 リロウ 。ヘ ッドを休 んでいる

,と

知 らされ ました。欠席の理 由は書かれていませんで した。 お身体 の具合が悪いのでなければよいのですが。『ケエル ワース』 を気 に入 って くれて嬉 しいです。 本当に素晴 らしい作品で しょ。小説 というよリロマ ンスで

,わ

た しの見 るところ偉大 なウォルター 鼻Hの最高傑作ではないか と思い ます。 ヴァーニーの性格が嫌 だ とい うナイーブさがいかにもあなた らしくて

,と

て もおか しかったわ。 あんまりおか しかったので

,お

便 りを読みなが らつい吹 き出 し て しまいました。確かに悪の化身 といった人物ですね。スコッ トは底知れない腹黒 さを描いて

,人

間性 に対す る深い理解 をうかがわせ ます。2oそればか りか,読者 になるほどと思わせ るその力量 には 驚 ろか され ます。何 のニ ュース もない退屈なだけの手紙で

,ご

めんなさい。取 り立 ててお知 らせす るような ことは何 もないのです。お母 さま

,お

姉 さま方 に くれ ぐれ もよろし く。夜 も更 けましたの で

,あ

なたへの変わ ることのない

,変

わるはずのない

,変

わ りようのない愛 を誓 って筆 をお きます。 さような ら

,愛

す るエ レン。 シャーロッ ト

26)シ

ャーロッ トはスコッ トを愛読 し

,そ

の影響 を受 けている。特 にこの時期 の初期作品の中には 人物

,粗

,文

体 にいたるまで強い影響が見 られ るものがある。拙論「 シャーロッ ト・ プロンテ 初期作品研究(2酒 (鳥取大学教養部紀要第24巻

,平

2年

10月

)参

照。 エ レンのハ ワース訪間が実現 したのは約一年後だった。エ レンは牧師館のカーテンのない窓

,石

の床

,染

みの浮 いた壁紙

,家

具 らしい ものがほとん どない質素なたたず まいに胸 を痛 めた。だがブ ロンテ家の人々の風変 りな

,だ

が知的で個性的な印象 を伝 えてい る。2つ親戚以外 ほ とん ど来客 を迎 えることのなかった彼 らは

,エ

レンの滞在 を歓迎 し彼女 に好感 をもった。 11(27) ハ ワース

**33年

6月20日 親愛なるエ レンーー もっ と早 くお便 りせず

,さ

ぞ怒 ってい らっ しゃるで しょうね。 なおざ りにして いた ように見 えるで しょうが

,理

由があっての ことなのです。以前か らお約束 の訪間について

,き

ちん とお招 きで きるとわかってか ら手紙 を書 こうと思 っていたのです。 こちらは山あいなので

,冬

はもちろん春で さえかな り冷 えこみます。それでイ自母が ご招待するのは夏の半 ば過 ぎまで待 つたほ うが よい と言つていたのです。今で は父 も

,お

母 さまがあなたに数週間のハ ワース訪問をお許 し下 されば大変嬉 しい

,

と伝 えて欲 しい との ことです。いつが よいかは

,あ

なたが決めて くだ さい。た

(14)

だしなるべ く早 くしてね。昨 日ポル・ テイラーか ら手紙が来 ました。返事 を出 し忘れていたので, カンカンで した。直 ちに机 に向かい こち らの非 をすなおに認 め

,丁

重な手紙 を書いて許 しを乞いま した。 うまくいけばよいのですが。 あのやっかいな

,通

常 は致命的 とはな らない (と聞いて喜んで いますが

)病

,イ

ンフルエ ンザ はいかがですか。 これ までの ところわた したちは どうや ら無事で すが

,は

た して どれ くらい無事でい られ るものや ら。 ミス・ テイラーによれば

,ハ

ナ・ ヘイグが コ ルン・ ブ リッジのハ ウス・ キーパー に昇格 したそうです。 きつ と御満悦で

,仕

事 にいっそう精 をだ す ことで しょう。ブラッ ドベ リ夫人 は

,ほ

ん とうにいい人 を見つ けた と思いませんか。エ レン

,前

便 にはとて も有益な決意がみ られ ました。お便 りを読 みなが ら

,わ

た しもあなたのような心境 にな れない ものか と願わず にはい られ ません。なのに悲 しい ことに

,わ

た しの心 に浮かぶ善 き考 えは, それを捉 える間 もない うちに消 え失せて しまうのです。正 しい決心 も

,ど

れ もが はかな く脆 くたや す く崩れ去 り

,わ

た しはあるべ き人間 になれないのでは と不安 にな ります。2のぁなた にはそんな こ とのない よう

,頑

張 り通 して欲 しい と思います。愛す るエ レン

,い

つ も変わ らぬ誠実な友 より。 シャーロッ ト・ プロンテ 追伸 す ぐお便 りください

,よ

いお返事であ ります ように。

27)エ

レンはハ ワースを1833年 の夏 に初 めて訪れた。その時の印象 を`Reminiscenses of Chariotte Brontё

'(B℃

η″Sοε力炒 静a%Mじ″θ

%,2(1899)収

)中

の`Chariotte's Early Life at Howorth'

と題 された章 に詳細 に記 している。

28)こ

の時期 シャー ロッ トは `SOmething about Arthur'(5.1833)と `The Foundling'(56.1833) を書いている。主人公 のアーサーは ドゥアロウ侯爵 と名前 を変 え

,華

麗 な恋愛物語 を展開 しよう としている。 12(28) ハ ワース

**33年

9月 ■ 日 愛す るエ レン十一前便 か らみてお留守 なのだ と思 い

,返

事 を出 さず にい ました。「馬車 の こ とで ジョージがブランウェルに気の毒 な ことをした」 と言われ る意味が

,は

じめよ くわか りませんで し た。で もようや く乗物代 を折半 した ことらしい と察 しがつ きました。その ことな ら

,な

にも問題 は あ りません。宿 の経費 をジ ョージお兄 さまが負担分い じょうに払 つて くださったのですか ら

,じ

つ の ところ結果的にはこち らこそ借 りがあ り

,そ

ち らはむ しろ貸 しが ある くらいなのです。29ぉ 出下 さった後で

,エ

ミリが重い病気 にな りました。腕 の丹毒で

,激

しい不快 な発作があ り全身が衰弱 し ました。患部 の炎症部分 を除 くために

,腕

を切開 しなければな りませんで した。幸い今では傷 も目 立たな くな リヴ ほ とん ど以前のように回復 した ようです。 まだす こし吐 き気が残 っているようです

(15)

ブロンテ書簡研究

(1)241

が。3の皆があなたに会 えて どんなに感激 したか,こ とばにした らきっ とお世辞 だ と思 うで しょうね。 父 と伯母 は

,作

法 についてあなた を見習 うようしばしば言います。エ ミリとアンは「 ミス・ ナ ッシ みたいに好感 の もてる人 は初 めてだわ」 と言 つてい ます。タビィときた らもうす っか り夢中で

,あ

なたの淑女ぶ りについて

,ち

ょっ とお聞かせで きないような馬鹿 な ことばか りいってい ます。手紙 の書体 は無視 してほしいわ。薄暗が りのなかで書 いてい ますので。日もすっか り落 ちて

,い

かに「夜 目が効 く」―― ロウ 。ヘ ッ ドのお嬢 さま方の ことば―― という風変 りな特技が あって も

,も

うこれ 以上 は書 けません。お母 さまとお姉 さま方 によろしく。暗 くなる一方なので もう書 けませんが

,

く れ ぐれ もよろし くお伝 え ください。

29)1833年

9月

,ブ

ロンテたち

4人

は軽装 の二輪馬車で

,エ

レンと兄たち(ジョージ とリチ ャー ド)

と数人の友人たち とBolton Bridgeに ある

Devonshire Arms Hotelで

落 ち合 い

,廃

墟 Bolton

Abbeyの

見物 に出かけた。エ レンたち以外 に何人か初対面の人たちがいた こと

,ま

た 自分たちの みすば らしい様子 に気後れ した こともあって

,

この旅行 は惨 めな ものに終 つた。

30)エ

ミリは 8月 の終 りころ腕 に丹毒がで きた。 これは連鎖状球菌が傷 日か ら入 ってお こる

,急

性 の化膿性 の伝染病で

,震

えや寒気 とともに高熱が出て患部が赤 く腫れ激痛 を伴 う。 13 (29) ハ ワース

1834年

2月 ■ 日 親愛 なるエ レンーー郵便料金 に値 す るようなお便 りも書 けないまま

,そ

うこうす るうちに今 日に なって しまい ました。手紙 をもらってか ら2カ 月余 りが過 ぎ

,あ

まりの筆不精 に怒 ってい らっしゃ るのではないか と思い

,気

を とりなお してペ ンを取 った ところです。具合が良 くない との こと

,心

配です。肺疾患の疑いがあるとい うことですが

,き

つ とお医者 さまの見立てちがいだ と思い ます。 エ レン

,も

し本 当な らそれは大変 な ことなのです。肺結核 について

,そ

れ を人 の身 にぶ りかか る最 も油断のな らない死病 として恐れ るだ けの ものを,わた しはこの目でいや とい うほ ど見て きました。 くり返 します。それが杞憂であって欲 しい と願 って

,い

,祈

ってい ます。学校 で よ く言 った こと, 覚 えているか しら。あなた はとて も感 じやすい方なので

,ぶ

さいで欝 にな らない ように気 をつけな ければ。いつ も気持 ちを引 きたて

,運

動 を欠か さず になさい。 そうすれば気分 も晴れ るで しょう。 なん とい うおか しな冬だったので しょう !絶 え間な く雨が降 り風が吹いたのに

,霜

もな く雪 もほ と ん ど降 りませんで した。バース トールの皆 さまのおカロ減がす ぐれなかったの も

,

こうした じめ じめ した天候 のせいだったのではないか しら。 この ところ

,こ

ちらで は例年 にな く多 くの人たちが亡 く な りました。31)ぃっ もなが ら取 りたててお知 らせす るような こともあ りません。 こうしてお便 りす るのは

,峰

話 をするためで も役 に立つ情報 を伝 えるためで もないのです。文通 を続 ける目的 は第一 にあなたの消息 を知 ること

,第

二 にお互 いの存在 を思いだす ことにあるのです。 こうで もしなけれ

(16)

,い

ろいろな方々 に囲 まれてい らっしゃるあなたは

,当

然わた しのような取 るに足 らない人間の ことな ど

,た

ち まち忘れて しまうことで しょう。 ところがわた しはといえば

,こ

の荒涼 とした丘陵 の寒村で

,何

のつなが りもないただ一人 の友

,か

けが えのない学校友だちの ことを来 る日も来 る日 も

,い

え四

,六

時 中思い続 けるのです。 さあ

,エ

レン

,な

に もない ところか らなんて上手 に一通の 手紙 をつ くりだ した と思わない?さような ら

,愛

す る友へ。神 の祝福 を。あなたの変わ らぬ友 よ り。 C・ プロンテ 今す ぐお便 りください。

31)ハ

ワースで は家々 よりも高い所 に墓地が あったため下方の水源 は汚染 されてお り

,衛

生状態 は 劣悪であった。死亡率 はきわめて高 く

,村

で生 まれた子供の半数近 くが

6歳

前 に死 んでいた。当 時の平均死亡年齢 はおよそ30歳であった とい う。ちなみに1848年にPublic Health Act(公 衆衛

生法)が制定 され るまで

,一

般 に排水設備 は完備 されてお らず

,汚

水 は路上 に流 され る状態であっ た。イ ングラン ド北部 の工業都市 (リーズ

,マ

ンチェスター

,

リヴァプールな ど

)は

人 口過密で,

チフス

,コ

ンラ

,結

核 な どによる死亡率 はイ ングラン ド全体 の平均 を上回つていた。

シャーロッ トとブランウェルの物語世界 では,ロン ドンは Great VerdOpolisと 呼 ばれ る活気 に途 れた壮大 な都である。そこは議会が開かれ

,陰

謀が巡 らされ

,上

流の人々が宴 を催す世界 の中心地 である。エ レンに次 の手紙14(30)を出 した頃

,シ

ャーロッ トは`High Life in Verdoplis'(23.1834) において

,

ドゥアロウ侯爵が くり広 げる華麗 な生活ぶ りを描 いていた。 14 (30) ハ ワース

**34年

2月20日 愛す るエ レンーー お便 りほん とうに嬉 しく

,ま

た少なか らず驚 きました。 ロン ドンにい らした こと はすでにメア リー・テイラーか ら聞いてい ましたが,ま さかお手紙 をいただけるなんて。321ョ

_ロ

ッ パの商業の中心地 と呼ばれる大都会 にいるあなたか ら。好奇心をかきたて

,日

を釘づ けにしようと 趣向をこらした街 の真中に

,地

方の少女が はじめて出てきたのです。 しばらくは遠 くの見飽 きた も のな ど忘れて

,眼

の前の光景 にすっか り夢 中になって しまうのが人間 とい うもの

,

とわた しは思 っ ていたのです。 けれ ど心の こもった素晴 らしいお便 りは

,そ

んな推測 をしたわた しの方 こそ間違 っ ていて

,そ

の うえ情 け知 らずな人間であることを教 えて くれ ました。 ロン ドンの様子 を淡々 と記 し てぃてそれほ ど感激 していないようなので

,わ

た しは とて も不思議な気が しました。 セ ン ト・ ポー ル大聖堂やウェス トミンスター寺院 を目の当た りにして

,そ

の壮大な ことに心打たれなかったので しょうか。聖 ジェイムズ宮殿で歴代 の王たちが謁見 を行 なった宮廷やその壁 にか けられた 肖像画な どを見て

,感

激す るとか興味が湧 くとい うことはなかったのか しら。おのば りさん と思われや しな

(17)

ブコンテ書簡研究

(1)243

いか

,な

んて気 にしてはいけません。 ロン ドンの壮麗 な ことは

,世

界 中をめ ぐって各地でり しい も の美 しい ものをさんざん見て きた人たちでさえ

,驚

ろきを隠 さないのですか ら。い まは議会 の会期 中ですか ら

,ロ

ン ドンに滞在 しているお偉方 を見か けることはあ りませんか。 ウェリン トン公爵, ロバー ト・ピール卿

30,グ

レイ伯爵

,ス

タンリィ氏30,ォ コンネル氏30なんて。わた しな ら

,せ

っか く街 に来てい るのに本 な ど読 んで時間 を無駄 にはしない とお もいます。今 は自分 自身の眼で よ く観 察 し

,し

ば らく作家が くれ る色 めがねはしまってお きなさい。健康 を回復 した との こと

,嬉

しくて 何 といった らいいかわか りませ ん。お便 りが届 く一週間 ぐらい前 に

,ま

だい らっしゃるか と思って バース トール に手紙 を出 しました。その手紙が届 けられてはいけない と思い

,で

きるだ け急いで重

ねてこの返事を書いたというわけです。ご指示のとおり

,バ

―ス トール〕のミス 。

M。

ナッシ宛

てにしました。お母さま

,お

姉さま方にくれぐれもよろしくお伝えください。愛する友より

,心

こめて。

C・

B

追伸 王室軍楽隊の人数 をお知 らせ ください。ブランウェルが知 りたい と申 しますので。

32)エ

レンの長兄

John Nusseyは

宮廷医で

,ロ

ン ドンの

Cleveland Rowに

居 を構 えていた。

33)Robert Pcel(1788-1850)イ

ギ リス保守党の創設者。1832年の選挙法改正案 に反対 し

,そ

の後 ホイ ッグ党のグレイ内閣

(183034),メ

ルボー ン内閣 (第一次34年

)が

倒れた後

,保

守党 を率い て ピール内閣 (第一次

3435年

,第

二次

4146年

)を

指揮 した。

34)Edward Stanley(17991869)グ

レイ内閣ではアイル ラン ド担当相

(183033)を

務 めた。

35)Danie1 0'Connor(1775-1847)ア

イルラン ド独立運動の子旨揮者。アイルラン ドは長 らくイギ リ スの植民地支配 の下 にあったが

,1800年

の合同法 によ リイギ リス議会 に議席 を獲得 した。オ コン ネル はクレア洲の選挙 区か ら下院 に当選 したが

,Test Act(審

査法

)に

よって議席 に付 けない事 態 とな り

,ア

イルラン ドで大規模 な抗議運動が発生 した。事態の発展 を恐れた首相 ウェリン トン は妥協 をはか り

,翌

29年 にカ トリック解放令 を制定 した。 これによってカ トリック教徒 に対 す る 差別 は除かれ

,い

ちお うの政治的復権がなされた。オ コンネル は32年 にも下院 に当選 し

,中

産階 級やホイ ッグ党 と提携 した。 15 (31) ハ ワース

1834年

6月19日 愛す るわた しのエ レンーー もうほん とうにそう呼んで もよいか と思い ます。今 ごろはロン ドンか ら 帰 りついたか

,そ

れ ともお帰 りの途中なのですか ら。聖書 に出て くるバ ビロンかエネベか

,そ

れ と も古代 ローマの魔都 のようなロン ドンか ら

,あ

なた は帰 って くるのです。(いわゆる)誘惑の世界か

(18)

ら帰還す るのに

,お

便 りのようすで は出かけた時 と少 しも変わ りな く

,清

らかで素朴 なあなたのま まのように思 い ます。そんな ことはない と言って も

,わ

た しは信 じません。自分の心 は読 めるので, 自分の気持 ちはわか ります。で も他人 の心 は封印 された書物や象形文字 のような もので

,そ

の封 を 解いた り文字 を解読す るのは容易 な ことではあ りません。 けれ ど時間をか けて じっ くりと眺め

,気

長 につ き合 うな らば

,大

方の困難 は克服 されるものです。 そんな努力の結果

,あ

なたの秘 め られた 言葉 に光 をあて

,そ

の輪郭 をつかむ ことがで きた ようです。道 は曲が りくね り平坦でな く

,踏

み跡 も定かでな く

,人

間性 を忠実 に辿 ろうとする旅人 をしぼしば途方 に暮れ させ ましたが。心の書物 の なかに友 とい う文字 を見 いだ した と思いなが ら

,後

になって偽 りの友 を読 んでいた ことに気づか さ れ る人たちがなん と多い ことで しょう!わた しはあなたの心 に

,言

葉 に

,行

動 に

,久

しく「友」の 文字 を見

,そ

してい ま鮮やかに記 された「真」の友の姿 をまざまざ と見 ることがで きるのですIわ た しのようなつ まらない者 の ことを気 にかけていただいて

,ほ

ん とうに感謝 してい ます。 この喜び が独 りよが りでなければ良いのですが。友がわた しが思 っていた以上 に気高 く信念の強い人である ことを知 ったの も

,感

激 した理 由のひ とつです。 あなたの ように振舞 える一―華 やかで 日もくらむ ようなロン ドンの魔力 を前 に

,平

静 さを失わず都会 の悪 に染 まらずにい られ る人なんてめったにい るものではあ りませ ん。お手紙 には気取 った ところは少 しもあ りませんで した。あ りふれた ものを 馬鹿 にした り

,華

やかな人々や物 にたやす く心奪われて しまうような軽薄 さは少 しも見 えません。 けつしてお世辞 ではな く一―心 の底か らそう思っているのです。た とえばA・

W(ア

ミー リア・ウォー カー90)のような子 を同 じ状況 において ごらんなさい。きっ と大違 いだ と思い ます!これ以上 は申し ません。 どうか素敵 なお姉 さまたちによろしくお伝 え ください。お父 さま

,伯

母 さま

,妹

たち

,弟

がみな くれ ぐれ もよろしくといってい ます。暖かな愛情溢れ るあなたの心の片隅に

,真

の友 を住 ま わせて ください。

36)Amelia Walker

シャーロッ トの名付 け親 ア トキンス ン夫人 の姪。彼女がすでにロウ 。ヘ ッド にいた こともあって

,シ

ャーロッ トの同校への入学が決 った。

1834年6月 に リーズで地元 出身 の芸術家 た ち (肖像 画家

William Robinson,彫

亥!家 」oseph

Bentley Leylandな ど

)の

展覧会が開かれた。子供たちを連 れていったブロンテ師 は感銘 し

,プ

ラ ンウェルの絵 の指導 をロビンソンに依頼 した。夏か ら開始 された一回

2ギ

ニーの レッスンは

,ブ

ラ ンウェルが王立美術院 に応募するまでおよそ一年間続 けられた。

16 (32)

(19)

ブロンテ書簡研究

(D 245

か しら。 なのに

,ま

た重ねて ご迷惑 をか けるようになってごめんなさい。素敵 な贈 り物 に

,ど

うし て もお礼 を言わな くては と思 ったのです。愛 らし くて清楚なボンネ ッ ト

,ま

るで贈 って くれた方そ の ままです。色 白の もの静かな面 ざし

,褐

色 の瞳 に黒髪のエ レンの姿が まざまざ と浮かびました。 ことばだ けでな く何か感謝の気持 ちを伝 える術がない もので しょうか。 こんなに親切 にしていただ きなが ら

,わ

た しには何 のお返 しもで きません。前便であなたはわた しに欠点 を指摘 してほしい, お世辞 をいうのはやめにしてほしい と書いてあ りました。エ レンた ら

,お

ばか さんね。 あなたの欠 点 をあげつ らう気なんて

,わ

た しにはあ りません。なぜって知 らないんです もの。大好 きなお友だ ちか ら思いや り途れる優 しいお便 りをもらって

,そ

の後で机 に向かつて返事 に欠点 をず らず ら書 き つ らね る人なんて

,い

ったい どういう人間か しら。 そんなわた しを想像 してみて ください。 はた し て どんな風 に言われるものや ら。 うぬばれ屋

,独

善家

,偽

善者

,ち

びのほ ら吹 き

,こ

んなのはまだ 穏やかな方ではないか しら。ね え

,エ

レン

,こ

んなに遠 く離れていなが ら心慰 め られ るお便 りや贈 り物 をいただいて

,た

だただ美点 ばか りが輝 いて見 えるのです。 あなたの欠点 を思い巡 らす暇 はな いし

,そ

んな気分 になれ るはず もないで しょう。 そんな愉快でない仕事 は

,ま

わ りの老練 な方々 に お任せ しましょう。かれ らの助言の方が きっ と有益で しょう。 どうしてわた しな どが しゃしゃ り出 る必要があ りましょう。助言 に耳 を傾 けるつ もりがあなたにないのな ら

,た

とえ死者が立 ち上がっ て助言 を試みようともそれは無益 とい うものです。わたしの ことを好 いて くだ さるのな ら

,ど

うか お世辞 について これ以上 ばかげた ことをいうのはやめにして ください。 R・ ナ ッシさんが結婚 なさ るのですか。お見かけした ところでは

,ま

たあなたのお話か らす ると

,選

ばれた奥 さまは聡明な愛 らしい方のように思 えます。エ レン

,こ

のお世辞 まじりの文旬の後 に

,彼

女の欠点 について長々 と 述べたてねばな らないので しょうか。 ライディングズを出 られ るとの こと

,残

念でな りません。イ ギ リスの名館のひ とつで

,芝

地や森 に包 まれ古 き良 き時代 を物語 る (少な くともわた しには

)心

安 らぐ素晴 らしい所で したのに。マーサ・ テイラー ときた ら

,あ

なたの ことをす こしも大 き くなって いないなんていったのですね。彼女 らしいわ。わた しもいっこうに背が伸 びず

,相

変わ らずのずん ぐりむっ くりです。最近 メア リに手紙 を出 しましたが

,ま

だ返事 は届いていません。なにか読 むべ き本 を勧 めて欲 しい との ことですので

,で

きるだけ手短かに紹介 します。詩がお好 みな ら

,第

一級 の ところで ミル トン

,シ

ェイクス ピア

,

トム ソン

,ゴ

ール ドス ミス

,ポ

ウプ (私自身 はあま り感心 しませんが

,お

好 きな らば

),そ

れか らスコッ ト

,バ

イロン

,キ

ャンベル

,ワ

ーズワース

,サ

ウジー あた りはいかがか しら。いい ことエ レン,シェイクスピアやバイロンの名前 に驚かないで ください。 ふた りの作品は

,偉

大な作者 その ものです。善なるもの と悪なるもの とを区別す る方法 は

,お

わか りか と思います。優れた文章 はつねに純粋で

,邪

悪なるものはきまって不快 なので三度 と読 みたい 気 は起 こらない ものです。 シェイクスピアの喜劇 と

,バ

イロンの ドン 。ジュア ン

,そ

れか ら素晴 ら しい詩なのですがカイ ンは除いて

,あ

とは恐れず読 んで ください。ヘ ン リ八世

,

リチャー ド三世,

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