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チェコ社会からみた欧州の難民危機-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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本稿は,平成 年 月 日に行った香川大学法学会講演会における日本語による講 演の原稿に加筆したものである。 .は じ め に 現在のヨーロッパは,第二次世界大戦の終結以来,最大の移民危機に直面している。 元々,内乱や民族浄化の状態に陥った地域から逃げ出した難民に何らかの形で支援を提 供しようとする人道的な行為は,大勢のヨーロッパ人の日常生活に深刻な影響をもたら す政治・経済・社会・文化的な重大問題となっていた。 チェコ社会とは,様々な移民の運命の糸を織り合わせてユニークな「織物」であると 言っても決して過言ではない一方,移民の流入を根本的に否定するチェコ人が多い。 ドイツ,イギリスや北欧各国と異なり,チェコで政治亡命者としての身分を目指す移民 数は頗る少なくても,ゼマン大統領やオカムラ・トミオ氏などのポピュリスト政治家は 警鐘を鳴らしていること,外国人警察局は難民を犯罪者として取り扱って拘置所に収容 していること,難民の姿をテレビでしか見なかった大勢のチェコ人は,幼い子や高齢者 連れの難民家族に対する最低の支援を提供することを否定していること。移民の流入は チェコ社会に本当に悪い影響を与えるか,チェコで徐々に広がっている異文化に対する 不信感や難民の恐怖などは何処から発生しているか,チェコ内務省の亡命者・移民政策 の基本方針は一体どういうものか等々の問題が議論されている。 本稿では,これまで発表された研究業績,欧州対外国境管理協力機関及び欧州連合加 盟国に公開されたデータ,各加盟国に行われた世論調査の結果などをふまえて,歴史 学,政治学,社会学,民俗学など,学際的な視点から難民の問題を検討する。まず,難

チェコ社会からみた欧州の難民危機

ヤン・シーコラ

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民・移民の問題を歴史的な背景から概観し,さらに難民流入に苦悩している欧州が陥っ ているジレンマの推移を り,そして欧州連合加盟国の一つであるチェコ社会による難 民に関する基本的なスタンスを検討し,最後に難民の流入によって明確に表面化してい る欧州連合内のアイデンティティの問題について論じていく。 .苦悩する欧州−難民危機の背景 年 月 日には,オーストリア東部の路上に放置された保冷トラックの中で難 民 人の遺体が発見された。また,約 週間後, 月 日には,わずか 歳のクルド 系のシリア人の幼児アラン・クルディ君は地中海を渡る途中で 死し,その遺体はトル コのリゾート地ボドルムのビーチに漂着した。世界に衝撃を与えたそれぞれの写真は, 紛争を逃れて,ヨーロッパに向かう難民が命の危険にさらされている現実を表示して, その難民危機でどれだけ多くの人々が犠牲になっているかを浮き彫りにした。その結 果,欧州各国の首脳が迅速な反応を求めて,積極的な支援を提供して難民の受け入れ対 策を逸早く講じる必要があることを主張した。 ところで,今回の難民危機は前例のない,全く新しい現象ではない。世界史を振り 返ってみれば,古代から現在に至るまで,戦争や内乱などの歴史上の重要な事件が民族 の大移動を起こしたのは当然なことである。 世紀後半から 世紀にかけて,パレスチ ナのユダヤ人がローマ帝国に対して起こしたユダヤ戦争はその一例である。当時のパレ スチナはローマ帝国の属州として支配されていたが,ユダヤ人が激しい反ローマの闘争 を起こした。紀元 年に開始した第一ユダヤ戦争で都市エルサレムがローマ軍によっ

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て陥落し, 年の第二ユダヤ戦争はローマ軍によって鎮圧された。その結果,ユダヤ 人は地中海各地に離散していくこととなった。 もう一つの例は,ヨーロッパにおけるユグノー戦争である。 世紀初頭にはマルティ ン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられたが,ローマ教会がルターを 非難したため, 年以降,プロテスタントの信仰者(いわゆるユグノー)は火あぶ りか亡命か他の道が無かった。また, 世紀後半にはユグノー戦争が発生して, 年 月 日にはカトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起 こった。 年にはナントの勅令によってプロテスタント(改革派)に宗教上の保障 が与えられたが, 年に国王ルイ 世がその勅令を無効にした結果,大勢のユグノ ーがドイツ,オランダ,イングランドやアメリカに亡命した。 近代における大規模な移動の一例としては, 年の二つの革命によって大混乱に 陥ったロシアを挙げよう。十月革命の直後に発生したロシア内戦で資本主義体制を目指 した臨時政府の白軍が敗北した以降(つまり 年以降),白系ロシア人(ロシア民族 だけでなく,ロシア帝国に居住していたウクライナ人,ポーランド人,ユダヤ人などの 異民族も含まれた)の多くが亡命して,その内,知識人,芸術家,技術者,貴族もいた。 難民の数が明白に知られていないが,最低は数十万人で,最高は数百万人に上ったと推 計されている。当時,白軍を支持していたフランス,アメリカ合衆国,英国などの国々 は白系ロシア人の難民向け支援対策を実施し,国際連盟も 年にロシア難民の支援 にあたる「欧州にいるロシア難民の問題に関して連盟を代表する高等弁務官」の地位を 創設した。 さらに, 年代には,ドイツでナチス政権が誕生して以降,ドイツから逃れるユ ダヤ人の難民の数が急増し,多くの国々は積極的な受け入れ政策を講じるようになっ た。その時期に国際的な支援に関する法的な制度も促進され, 年 月 日に締 結された「難民の国際的地位に関する協約」⑴はその一例であるが,残念ながらドイツか らのユダヤ系の難民を対象としなかった⑵。 そして, 年のミュンヘン会談によってズデーテン地方(チェコのドイツ人居住 区域)がドイツへ併合された結果, 万人の難民が併合地域からチェコに逃れたが⑶, 逆に 年のドイツ降伏直後,ベネシュ布告に基づいて 万人に及ぶドイツ人がそ

! Convention Relating to the International Status of Refugees(https://treaties.un.org/doc/publication/unts/lon/ volume% /v .pdf,検索日 年 月 日)

" その問題を部分的に解決したのは, 年 月に新設された「ドイツからの難民のための高等弁務 官」である。その詳細については,川村真理( 年)を参照せよ。

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の地域からドイツに強制的に移送された⑷。 第二次世界大戦後には,冷戦が開始して以降,特に東西両陣営の対立が先鋭化した 年代には東側諸国からの難民(経済的難民を含めて)の数が急増していた一方, フランスやベルギーなどの旧植民地で解放戦争が起こり,植民地体制が崩壊しつつあっ た結果,主にアフリカから西欧に向かっていた難民が一時的に増えた。さらに, 年ベルリンの壁と共に社会主義体制が崩壊して以降, 年に開始して 年まで続 いていたユーゴスラビア紛争は大勢の犠牲者を出した一方,主にイスラム系アルバニア 人の 万人以上の難民が海外に逃れた。 世紀に入って,主にイスラム圏の動揺との関連で欧州を目指すさらなる難民の流 入は活発になり, 年から 年にかけてEU 対外国境の不法越境者数 万人を 超えていた(表 参照)。 EU に流入する難民の出身地域(表 参照)を見てみると,地理的に中近東や中央・ 北アフリカの諸国,宗教的な観点から見ればシリア,アフガニスタンやイラクなどのイ スラム圏の国々が最も多い。その理由を考えるために,アフガニスタンを一例として取 り上げよう。 紀元前 万年まで るアフガニスタンの豊かな歴史を概観すれば,東と西の文化圏 をつないだ渡り橋のような役割を果たした国であったが, 世紀の半ば,戦略的な位 置づけのある地域として,欧州の大国の利害の戦場となった。 年に起きた第二次 アフガン戦争に敗れイギリスの保護国となって以降,イギリスとロシアの緩衝国として コントロールされるようになった。 年には,第三次アフガン戦争でイギリスから 独立を達成して, 年に国名はアフガニスタン王国になった。 年から 年に かけてムハンマド・ザーヒル・シャー国王の政権でアフガニスタンは比較的に安定した ! 谷田部順二( 年), 頁。 西バルカン経路 , , 東地中海経路 , , 中央地中海経路 , , 西地中海経路 , , 合 計 , , , 表 :EU 対外国境の不法越境者数

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発展を経験したが, 年には,クーデターによる共和国制が確立されて, 年に ソ連によって侵攻されるようになった。次の 年間,つまり 年までアメリカ合衆 国は,ソ連に抵抗したムジャーヒディーンに積極的な支援を提供した結果, 年の ソ連軍の撤退後にも,大量の武器が国内に残されて,内戦によって混乱状態・政情不安 定に陥った。 年代後半には無政府状態でイスラム過激派組織「タリバン」が勃興 し,現在に至るまで「アルカイダ」の拠点として活動している。長い戦争状態が続いて いるので,大勢の難民がその地域から逃れている。結局,こうした混乱状態の背景に は,西洋大国,主にアメリカと旧ソ連の利害が働いたことによって引き起こされたこと は明白であり,現在EU で起きている難民問題をアフガニスタンのようなイスラム圏の 諸国における情勢との関連で把握する必要がある。 世紀における欧州のジレンマ(どうしてチェコの事例を?) 世紀における欧州は大きなジレンマに陥っている。ここ数年の急速な少子化と平 均寿命の伸びによる高齢化という現象は,社会経済体制に労働力人口の減少などの極め て深刻な問題を与えている。さらに頭脳流出の結果,若者の一般知識や技術的な対応能 力は昔と比べると格段に落ちて,特定の分野においてアメリカや中国との差が次第に拡 大しつつある。 上述の問題は,高等教育を受けた専門家と知識人,若い難民の流入によって部分的に 解決できるので,人的な行為だけでなく,積極的な支援を提供しながら移民の受け入 れ・社会的融合対策を講じることが必要である。このような考え方は, 年に 万 人以上の難民を積極的に受け入れてドイツ社会に融合するというドイツのアンゲラ・メ 発生国 人 数 シリア , , アフガニスタン , , ソマリア , , 南スーダン , スーダン , コンゴ民主共和国 , 中央アフリカ , エリトリア , 表 : 年における難民の発生国 出典:UNHCR,

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ルケル首相による計画を見れば明らかである。 勿論,難民の問題はイデオロギー,政治的,経済的,社会的な視点から分析できると 思われ,そのような異質な移民群が,憲法上の忠実な市民と納税者に本当に変身するこ とができるかなどの疑惑が生じても⑸,欧州への移民は長期的には欧州の経済発展や人的 資本の展開に肯定的な効果をもたらしていたという事実は否定できない。従って,ドイ ツは,教育を受けて働く意欲のある若者の移民の最初の波を吸い込もうとしていること は明らかである。 他方,難民の大量流入の結果として,難民の優遇対策が各国の社会保障制度に大きな 負担となり,ヨーロッパ人の日常生活に深刻な影響をもたらす政治・経済・社会・文化 の衝突が恐怖感をあおっている。従って,ドイツやハンガリーなどの難民の流入の頗る 多い国々(表 参照)では,難民流入防止対策が講じられ,また移民に対する社会的排 除対策が実施されている。勿論,欧州の中には政治・経済・文化的に主要な役割を果た しているドイツのような大国は,難民の受け入れ対策の利点と欠点の均衡を図る能力が あるが,チェコ共和国のような小国は,どのようなスタンスを取るべきかを議論した い。 チェコは事例として無作為に選ばれていなかった。チェコ共和国は,中・東欧におけ る小規模な先進工業国であり,総人口は約 , 万人で,労働力は約 万人である。 ! Allgemein Zeitung 紙, 年 月 日。 ドイツ , , , , ハンガリー , , , , スウェーデン , , , , オーストリア , , , , イタリア , , , , フランス , , , , オランダ , , , , ブルガリア , , , ポーランド , , , , チェコ共和国 , , 表 :EU における難民申請者の数 出典:Eurostat, 年

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年には, 人当たり GDP は , 米ドル,GDP 伸び率は .%,インフレ率は .%,失業率は .%に抑えられて,政治・経済・社会的に安定した国である。歴史 の視点からみれば,オーストリア・ハンガリー帝国の総工業施設の %がチェコに配 置されて,第二次世界大戦前には,いわゆる「第一共和国」は世界で第 位の先進国 であった。 さらに非常に限られた天然資源のため,国の繁栄は人的資本の質と密接に結びついて いた。ヨーロッパの中心にあるほぼ理想的な位置づけのお陰で,東から西,南から北に つながる主要な交差点にあり,チェコは昔から常に活発な頭脳流入から恩恵を受けた。 実際,移民活動,つまり頭脳流出・流入は,チェコにおける人的資本の形成に不可欠な 役割を果たした。過去には, 世紀後半からチェコの国王に招待されたドイツ人の開 拓者,ルネサンス時代のチェコ貴族に招かれたイタリアの芸術家,ナポレオンの軍から 脱走したフランスの兵士,あるいはソビエト革命後にロシアから逃れたロシアの知識 人,数百年にわたって中央ヨーロッパに共存したユダヤ人は,高い創造性と柔軟性を 特徴とする人口のユニークな組み合わせを形成した。また,世界で有名な知識人や芸術 家の多くは,現在のチェコ共和国(歴史的な国号で言えば,ボヘミア,モラビア及びシ レジア地域)で生まれたか,一時的に居住したことは一般的に知られた事実である。そ の内,遺伝学のヨハネ・グレーゴル・メンデル(Gregor Johann Mendel, − ), 精神分析学のジクムント・フロイト(Sigmund Freud, − ),現象学のエドムンド・ フッサール(Edmund Husserl, − ),実存主義文学のフランツ・カフカ(Franz Kafka, − ),理論経済学のヨセフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter, −

)や数理論理学のクルト・ゲーデル(Kurt Gödel, − )はその最も有名な例 である。 しかし,チェコの戦略的な立地は肯定的な効果だけではなく,否定的なものも多く生 じた。チェコ共和国の現在の領土は,頻繁にチェコのエリートの大部分を追放するドイ ツ,オーストリア,ロシアによる大規模な攻撃や長期的な占領の標的となった。過去 年の間,この国はいくつかの移民の波に直面して,大量の頭脳流出を経験したこと がある。トップ・エリートの知識人(チェコの貴族を含めて)の最初の流出は, 世 紀半ばに開始したハプスブルク統治時代における再カトリック化の対策と密接に関連し ていた。チェコのエリートの一部は殺され,一部はドイツ化され,残りの人たちは海外 に新たな生活を求めて移住した。 第二の移民の波は, 世紀末と 世紀初頭に必死の経済状況によって引き起こされ た。当時は多くの有望な人々が国外に出国し,特に米国に移住することを余儀なくされ た。チェコ生まれのアメリカ政治家で,シカゴ市長をも務めたアントン・チェルマク

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(Anton Cermak, − ),チェコ系の著名なブラジル政治家及びブラジル大統領の ユセリノ・クビチェク(Juscelino Kubitschek, − ),または,現在,原爆ドーム として知られている広島県産業奨励館を含む日本での 軒以上の建物を設計したチェ コの建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzl, − )は,最も有名な例である。 次の つの移民の波は,まずチェコがナチスに侵攻された 年以降に発生したも ので,もう一つは 年の共産主義クーデター以後のものであり,チェコにとって本 当の知的な「災害」であった。マデレーン・オルブライト(Madeleine Albright)元米国 国務長官と彼女の家族の二度の亡命(つまり 年にイギリスに, 年にアメリカ に)についての物語は,ハリウッド映画のように思える。 最後に, 年のソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍による侵攻後,プラ ハの春と呼ばれる民主化運動で重要な役割を果たした多くの主要な人物及び数万人の知 識人と若者が亡命したことは,チェコの頭脳流出という長い演劇の悲しいフィナーレの ように見えた。 .チェコの慎重な態度は何を語っているか 長い歴史で大勢の移民の流出・流入を経験したチェコ人は,難民を受け入れ易い民族 であるように見えるが,しかし現実はその前提と異なっている。 年 月に全国で「難民に対するチェコ人のスタンス」を検討した世論調査が行 われた。その結果,「難民を積極的に受け入れて,チェコ社会に融合させて,永久権を 与えるべき」と回答したチェコ人が %を超えなかった一方,「絶対に受け入れしない」

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と答えた国民の割合は %である。チェコ人が難民を拒否する原因を考えれば,まず チェコ人の国民性を分析する必要ある。 チェコの国民性を形成する様々な要素があり,その中に主に風土と歴史について触れ てみたい。日本の著名な哲学者,倫理学者,日本思想史家である和 哲郎( − ) は,海外旅行の体験を踏まえて, 年に『風土:人間学的考察』という著作を出し た。その中には,自然環境がいかに人間生活を規定するかという問題を掲げて,人間存 在の構造契機としての風土性を明らかにした。 和 哲郎によれば,「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この 特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は 歴史的風土であるゆえに,風土の類型は同時に歴史の類型である。」⑹ さて,こうした和 哲郎のアプローチを借りて,チェコの風土の特殊性を見てみる と,それは,日本と異なって海や活火山などがなく,地震や津波,台風のような気象的 な現象がない大変穏やかな風土である。一般的には,ほとんどの場所まで人間の手が届 き,日本にあるような人気のない荒涼たる山はない。川に沿ってのロマンチックな谷, 牧草地,田畑などが多く,恐ろしい感じがする自然はあまりないのである。要するに, チェコの風景は母性的な感じがするように見える。 国民性を形成するもう一つの要素は,勿論歴史である。それは何かと言うと,通史と いう意味での歴史よりも,むしろ物質的な要素に対して,国民の存在の精神的な側面を 総括しているという意味での歴史の概念である。上述のごとく,チェコの地理的な位置 に触れると,日常生活方式から思想に至るまで幅広い多様な影響,観念,構想などが交 わった結果,依然として,チェコ人には,母国内でも,家主よりもむしろ客の存在があ り,「小国根性」が表面化してきた。昔から典型的なチェコ人は,集団(コミュニティ ー)のメンバーよりもむしろ個人として行動するようになった。従って,個人の生活空 間を守るために保守的な態度をとるようになったのである。こうした国民の特徴は,今 回の難民危機に積極的なスタンスをとるべきである時期に明確に表面化してきた。 EU に難民を申請していた人々の数が急増した 年には,多くのEU 加盟国ではこ のような人々を保護すべきとの意識が広がり,独自の難民対策が講じられたが,難民の 数が多過ぎて充分な対策が出来ない事態に陥った。従って,EU 加盟国は,大多数が流 れ着く南欧諸国の負担を軽減するために財政支援を提供したこと,ホット・スポットと 呼ばれる専門職員からなる難民管理センターを整備したことなどの共同歩調をとってい た。しかしながら,こうした対策のみによって根本的な問題が解決できないので,欧州 ! 和 哲郎( 年), 頁。

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委員会は,難民の庇護申請の処理をどの国が受け持つのかについての規則を定めるダブ リン規約を廃止して新たな対策を発表し, 万人の難民をEU 加盟国に義務的に割り 当てる「クオータ制」を導入することで合意した。チェコは,EU のクオータに基づい て , 人の難民を受け入れなくてはならなかったが,チェコ政府は 年 月に一 方的に , 人を受け入れることを宣言し,ポーランドとハンガリーと共にクオータ制 自体を拒否して,EU を相手取って訴訟を起こす準備を進めていた。ところが, 年 以降,チェコ側は難民の収容所などについての情報を提供する義務を順守しなかったの で, 年 月には,欧州委員会がチェコ共和国に対して訴訟手続きを開始した。ど うしてチェコ政府やチェコ社会が難民に対して否定的なスタンスを取っているか,その 理由がいくつかあるが,ここでは,チェコ政府が指摘している収容能力の限界と政党の 勢力分布及びポピュリストの政治家の登場を挙げよう。 現在,チェコ共和国では難民収容所が ヶ所整備され,年間運営費は , 万コルナ (約 億 , 万円)に上り,収容能力は合計 人であるが,しかし実際には入居難 民数はたった 人で,使用率は .%にしかならない。その内,中央ボヘミアにある Beˆlá-Jezová 収容所は子供連れ家族用の施設で,収容能力は 人であり,残りの北モ ラビアのVyšší Lhoty 収容所と西ボヘミアの Balková 収容所は独身男性用の施設でそれ ぞれの収容能力は 人と 人である。要するに,チェコ共和国は庇護を求める難民 を受け入れできる充分な施設を持っているのである。 もう一つの理由には政治家の利害が働いている。チェコでは, 年 月には総選 挙と 年 月に大統領選挙が行われ,それぞれの選挙の大勝を追求するためにポ ピュリズムの波にのった政治家が難民の受け入れに否定的な態度をとっている。まずそ の一人はゼマン(Milos Zeman)大統領である。彼は 年 月 日に行われたテレ ビの演説で挑発的な態度をとり,「欧州移民危機は巧みに計画された侵略という性格を もっている。それはよく組織され,相当な支払いを受けている。その目的は,欧州構造 を破壊することである」と述べて,欧州共同体が今日直面している脅威は「ナチスの占 領とのみ比較可能なものである」と厳しい批判の声を上げた。また,ゼマン氏によると, 青年移民は臆病者であり,彼らは「内乱や民族浄化の状態に陥った地域から逃げるので なく,手に武器を取り,自国のために戦うべきだ」⑺と単純な解決を提供した。 さらに 年 月の記者会見でゼマン大統領は,「イタリアとギリシャから難民約 , 人を受け入れるチェコ政府案を拒否して,安全への脅威になりうるとしている」 と述べて,「チェコへの難民受け入れは,テロ攻撃で血にまみれる現場を提供するよう ! 「Prima」TV 放送の「Partie」という番組, 年 月 日。

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なものである」⑻とイリ・オブチャーチェク(Jiri Ovcacek)大統領報道官が付け加えた。 また,オブチャーチェク報道官はトランプ氏の難民受け入れ停止措置を高く評価して, 「トランプ米大統領は国を守ろうとしており,国民の安全を懸念している。まさに欧州 連合(EU)のエリートたちが実行しないことだ」とツイッターに投稿した。その上, 「チェコ国民の安全は優先事項で,今や米国にわれわれの味方がいる」と述べた。上述 の言葉は,極端に聞こえるかもしれないが,難民に対する拒否的なスタンスで人気を得 て, 年 月に行われる大統領選挙(直接選挙)で再び大統領に選ばれるチャンス が高くなるのである。 また,『自由と直接民主主義の運動』の党総裁で, 年の上院議員選挙で, 年 の下院議員選挙で当選して,下院副議長をも務める日系チェコ人政治家,実業家オカム ラ・トミオ氏は難民の受け入れ対策を批判するポピュリストの政治家として大変な人気 を得た。 年 月 日にプラハでチェコにおける不法移民に反対して,チェコの EU 脱退を問う国民投票の実施を求める集会が開かれ,そこでオカムラ氏は下記の意見 を明白に述べた。「移民の流入という問題は,民主主義における偽善的ゲームという問 題を暴き出している。(省略)なにか深刻な問題が起きた時に,民主主義は,ブリュッ セルのロビイストらに操られた党オリガルヒの独裁へと,たちどころに変質してしま う。そういう問題だ。」⑼ その上, 年に難民数が急増したとき,彼は「チェコがイスラム過激派から損傷 を受けないように,我々はなんらかの処置を講じなければいけない」として,「イスラ ム教化を守るための ポイント」を発表した。その内容は,モスクの周辺に犬や豚を 連れて散歩に行くこと,ケバブを食べないこと,イスラム教徒が運営する店舗で買い物 をしないことなどなど⑽。建設的な議論よりもむしろ感情論が一般の市民にとって理解し やすく,こうした単純な解決を提供するポピュリストの政治家は相当な人気を得ること が出来るのである。他方,依然としてチェコにも多くの知識人が活動しているが,その 中には,国民に率先垂範するハベル元大統領のようなカリスマ的指導力が頗る少ない。 なお,知識人と一般市民との社会的距離が今もあるし,人道的な行為を強調する知識人 に対して軽 的な表現が多い。 ! 「チェコのゼマン大統領,難民受け入れ案承認せず」,NNA Asia, 年 月 日。 " https://jp. sputniknews.com/europe/ /,検索日 年 月 日。

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.おわりに:難民問題から欧州問題へ 本稿では, 年に発生した欧州における難民危機を歴史的な視点から検討し,欧 州連合加盟国の一つであるチェコ社会には難民の受け入れに対して拒否的なスタンスの 原因がより広い文脈で考慮されていたことを検討した。 難民問題を解決するためには,移民流入のメリットとデメリットを分析して,感情論 よりも建設的なアプローチをとるべきである。具体的には,国民の連帯意識を育成する 公開討論をすること,政治家,経済界,知識人,一般の市民の利害の統合を目指す基本 的な方針,移民の積極的な受け入れ制度を外務省,法務省,内務省,地方自治体のレベ ルで議論すること,移民を社会に融合する制度などの総合対策を厚生労働省や教育省で 考慮することが必要である。 また,難民の流入の根本的な原因を解決できるか否か,EU による難民の受け入れの 限界は乗り越えられるか,イギリスのEU 離脱後,頻発しているイスラム過激派による 多発テロに対するアプローチ,つまり様々な難民・移民に関する諸問題をそれぞれの原 因から解決すべきである。 勿論,チェコ共和国もEU 加盟国としての責任を取り,その他の加盟国における難民 の受け入れ対策を統合して,残された山ほどの問題に積極的に取り組み,いわゆる「二 速度欧州」を避けることが必要である。 参 考 文 献 石川達夫『マサリックとチェコの精神−アイデンティティと自律性を求めて』成文社, 年 シーコラ・ヤン「国民性を反映する食の文化及びその変遷−チェコの食文化を中心に−」,御茶の水女子大 学,大学院教育改革支援プログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」活動報告書,平成 年度学内教育事業編, − 頁。 墓田桂『難民問題』中央公論新社, 年。 摩秀登(編)『チェコとスロヴァキアを知るための 章』明石書店, 年。 摩秀登『図説・チェコとスロヴァキア』河出書房新社, 年。 三井美奈『イスラム化するヨーロッパ』新潮社, 年。 川村真理『難民の国際的保護』現代人分社, 年, 頁。 馬場保夫「離散と抵抗:ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織( )」『東京外国語大学論集』第 号,東 京外国語大学, 年, − 頁。 矢田部順二「「チェコ・ドイツ和解宣言」の調印に見る戦後の清算:ズデーテン・ドイツ人の「追放」をめ ぐって」『修道法学』 ( ),広島修道大学, 年, − 頁。 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』岩波書店, 年。 和 哲郎『風土』,『和 哲郎全集 第八巻』岩波書店, 年, 頁。 小山晶子,武田健「ヨーロッパへの避難民の分担受け入れをめぐる問題:なぜEU 諸国で立場がわかれた のか」『産研論集(関西学院大学)』 号, 年, − 頁。

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「チェコのゼマン大統領,難民受け入れ案承認せず」NNA Asia, 年 月 日。 FRONTEX, Risk Analysis, March 。

(ヤン・シーコラ プラハ・カレル大学教授 東アジア研究所副所長 日本研究科長)

【編集注】

参照

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