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46年度共同研究科目「現代思想と学生」についての総括-香川大学学術情報リポジトリ

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46年度共同研究科目「現代思想

と学生」についての総括

山 内 重 幸 は じ め に 昨年のレポート(本誌創刊号)でほ,本科目に対’して出されている疑問を担 当者として−どう受けとめどう対処したかという実践的側面に重点をおいて,・一 応の総括的な反省を行ない,これに若干の展望を加えた。印刷がねくれた関係 もあって.−,反批判や積極的な提言をきくことができないうちに・もう本年度の授 業を終わることに.なり,したがって−,手続上の問題はともあれ,本科目が,教育 上評価と支持を得たかどうか,若干のあいまいさを残したまま事実上発車し終 点まで来てしまった。私は今,本科目の意義をより強く認めるのであるが,な お研究を要することほいうまでもない。既成事実として容認されるだけでは不 十分でもあり不本意でもある。そこで煩をいとわず,本年度の授業の大筋を若 干の反省を加えながら述べ,学生の現状とのかかわりを頑において理念的な省 察を行ない,最後に.おおまかな改善の方向を提言する。こうした捨石が本科目 に対する理解と取りくみの進むのに役だてば幸である。 Ⅰ 進行の経過 −・若干の反省を加えて− 1第・一・期(4月∼9月) (1)初日,運営委員会(準備)代表が本科目の趣旨,特徴,予定した運営の 大筋等を説明し,承認を得て,クラスを4つの班に分けた。さし当ってほ 発言の機会を多くし相互の接触を密にし教育的な相互関係を見出しやすく するためであるが,また一つには.その関係を私的なものと混同させないた めに,さらに班内の結合が高まったときに予想される班競争を教育的なバ ネにかえる紅ほ条件を整一・にしておくのがよいし,−・般教育の−・般的な趣 旨をも汲んで,どの班も各学部にわたり,上級生と新入生の一・定のバラン

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山 内 議 事 20 スがとれるように.した以外は,まったく機械的に分けた。上級生の(準備) 委員を正規の運営委員として認めてもらった後,各班から新たに班の運営 係を選出し,そ・の係りをクラス全体の運営委員とすることも決定された。 教官は1人づつ分れて各班の指導に当るが,運営委員として全員,運営委 員会に加わりこれを内側から指導することになった。当面,授業時間外の 必読文献としてIDEの「大学の理念」,「思想とはなに.か」(古在由重,岩波 新召)を指定し,前者ほ.直ちに.配布した。こうして−出発のお膳立てほ・一応 整い次週から班別の授業に入ることになった。 (2)班討議の司会ほ.運営係である。はじめに新入生から,大学の印象,遷学 の動機,目的,志望,抱負,自治会をどう思うか,等率直に.出してもらっ た。さまざまな傾向の発言がぽんぽんと飛びだしてなかなか活発である。 班ごとに集約したものを次のクラス全体会で発表しあい,他班の意見やそ の場の所見も参考にし,全体会を承けた形で各班の討議の大枠が次のよう に.設定された。 A班 思想と行動。 B班 大学の自由。 C班 学生運動の 意味。 D班 大学の自給。 この設定の掲示を教務事務室で書いていたとき,ちらっと見られた教官か ら「そんなことで大学の授業になるのですか?」といわれたが,私ほ「だ いじな批判だ」とひそかに頭に刻みつけたものであった。その道りで,討 議テ∵−マとしてほ.焦点がなく水かけ論議に終りそうだし,班によって枠の 文句に違いはあってもどれも抽象的で変りばえのするものとはいえない。 実際,授業の在.過もその傾句の強いものになった。個人個人の発言は.まじ めで活発だがすれちがいが多くて噛みあわない。先に.指定した二つの資料 についてほ,皆読んで来てはいるが読みとってはおらず,ましてやこれを 参考にして自分の意見を再検討↓てせたといえるようなものは全く見当ら ない。いきおい,討議の 流れは退屈で空しくさえなりほ.じめた。 それにもかかわらず,これをすぐに打ちきらなかったの紅は理由があ る。第一・,各人の主体性を引き出すに.はまず自由に発言させてそれを一応

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」に.ついての総括 21 の拠り所にするのが有効と思われること,たとえ結果においてソクラテス 的ないわゆる助産術やアイロユー・になっても,その弊を除く方法ほ十分論 じられる。第二に.,新入生にえてして多い独り合点の主張ほ.とかく−/面的 で,お互いに噛み合わないか,噛み合わせると意外に脆いことを事実で示 したかったこと。第三に,参考文献を読んだつもりでも読みこなせている わけでなく,まだまだ思考の努力が必要なことをさとってほしかったこと, などである。そして教官側から総托的に,自分の意見を固執するのほ主体 性を重んじるゆえんではなく,すなおに事実に即して考えなおすようにと 抑えられた。これは科学的な思考の原則をわかりやすく示したものだが, 説明としては理解できても考え方を変えるのほ容易でないので,今後討議 の過程でくりかえし抑えなおさねばならない。 (3)6月に入ると,各班ともきめられた大枠のなかでではあるが,大学祭の 反省,沖縄問題,中教審答申,教ゼミ問題などが討議の対象になってき た。問題がやや具体的になったことは共通の意識に一歩接近したことを意 味し,一応前進と見られる。ここでの指導の要点は二つ考えられる。−・つ は,意識の共通の点は事実のどの点に照応するのか,なぜ共通になったの か,また臭った意見はどの点で生じてきたのか,なぜそうなったのか,な ど,要するに.最大公約数的な思想の共通化ではなく,源泉へさかのばるこ とによって根拠ある共通性をつかむ思考法を指導すること。いま一つは, 関心対象の同一魔から来る意識のある程度の共通性は,いわば外的規定に よる共通性にすぎない,これを主体的な思想とのかかわり,自分自身の生 き方との風連に.おいてとらえかえす思考法を指導すること。どちらも一一・挙 にできることではない。焦ってはならないが抑えるぺきは抑えておかねば ならない。そこ・で教官側からの指導的な講義を折りこむこ.とにした。指定 文献の.理解を深める意味も併せ含めて,「古在由重・人とその思想」と題し た。特殊なテーマのようであるが,意区lは,およそ歴史的に「思想」と呼 ばれる程のものである以上,時代の諸矛・盾のなかに生きる個人の,強靭な 思考を通して人間と社会の,鼓動を伝える実践的,倫理的脊骨を持たねば ならないこと,同時にそれは検址に堪えうる科学性,良理性の裏づけを持

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山 内 要 事 22 たねばならないこと,を実例をもって示すところ紅あった。実践的主体と 兵理の源泉たる客観的現実との闇を,力動的に媒介転化しあう生きた思想 の実例を提示することほ,そ・れだけとして:も意義ほあろう。 (4)討議の中味は引きつづき前進している。その反面発言のかたよりが目だ ってきた。認識発展の不均等性がおし出してくる問題で,放置すれば班や クラスに溝をつくり,溝は分裂を生む危険をほらんでいる。脱落や欠席と いう無言の行動のうちに.もそ・の徴侯がひそんでいるだろう。また,積極的 に.ほ運営委員のもっと強い指導性を要求する声にもなってせた。運営委員 会の努力にもかかわらず,それに対する正当な認識,すなわち自分たち一 班やクラスーが運委を必要とするのだという意識,信顧感と協力意識ほ, まだ自覚的に板づいていない。認識の発展がおし出した反面にもせよ,こ の段階で運委の指導性を求める声を運委に.対する不満に.変えて−しまっては 面倒に.なる。解決するにも時間が足らない。・−−・方,夏休みほせまってい る。夏休みの自主的な取りくみをどう計画的に組織するかは,自主性尊重 を地でいこうとする本科目にとって,決定的といえるはどの重要さをもっ ている。こ.ういうなかで7月5日クラス全体会が開かれた。各班の報告, 発言,集約一例の如く進んだが,問題点が浮き彫りにされたとはいえな い。つづいて2人の学生の基調報告。1人ほ運営委員,他の1人は教ゼミ 実行委員ではあるが,本科目の運委ではない。運営委員会は予めこの報告 者を承認していたが,原稿作成の関係もあってその内容を事前に.きくこと はできなかった。前者の内容は,はば全学連の報告によりつつ本学の学生 運動の前進方向を提起したものと見られ,後者の内容ほ,教ゼミ運動の発 展史を分析整理し本年の取りくみを提言したものと思われた。いずれも調 子の高いもので,おされ気味なのか学生側の反応は活蘭でない。教官側か らほ,学生運動論としては首肯できるが,学問の内側からの発想が欠落し ていると指摘され,納得されたものの討議は不十分。 最後に,かねて運営委員会で検討しておいた夏休みの課題案が提案,決 定された。内容は.,①図書紹介,(これまでの討議にかかわりがあると考え

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46年度共同研究科目「現代恩恵と学生」に・ついての総括 23 られる本,10冊ばかり一層名省略−)併せて図書館の指定図書の閲読も勧 めた。⑧紹介した図書のうらから必ず一冊以上を学習し,それを参考にし て9月に個人レポートを提出する。⑧400字詰10枚以上。 急ぎ足でどうにか恰好はつけたが,1回の全体会としては荷が嘉すぎて, 討議を通じて重点を抑えるにはいたらなかった。(班独自に夏休み補習を行 ったところもある。) 2 第二戯(9月∼11月初旬) (1)レポートはよかれあしかれ本科日算⊥・期の総結果の現われでi今後の展 開の足がかりとなるものである。運営委員会ほ班どとに検討していくこと に.した。全体を通じておおまか軋言えるととほ,昇一・に,どのレポートも 決定どおり紹介した参考書のうち何閃かを読んでおり,丸写しと見られる ものは一つもなく,多かれ少かれ自分の頭で苦労して考えた跡が見られる ことである。坊やクラスの討議素材に.なるこ.とを前提に.して書いたのであ るから,当然のことかも知れないが,・−・応評価できる傾向といえる。第二 に,学的,思想的水準からみれば概して一助椎で,文献の消化不良のために 論理的な不整合が出ていたり,10枚余の文章で思想の性格がころころ変っ ているのもあるが,それぞれにまじめに取りくんだ様がうかがえること。 例えば,混乱のなかには助推さだけでなく,時代の混迷が二重写し直なっ ていると見られるものもある。また,ともすると挫折しそうな自分を励ま して,何とか自信と展望をつかみたいとの意欲を赤裸に出しているのもあ る。第三に,「現代の疎外」と呼ばれる今日の退廃が,感性や思考法にくい こみ,それなりの抵抗をしているにもかかわらず,「孤独感」や「虚無感」 に引きこまれそうな弱さが感じられることである。俗な言い方になるが−・ 言でいえば,新入生諸君の多くほ,たたかってはいるけれどもやはり時代 の病から解放されて−はいない。そこで,問題はこのレポートの扱い方に・大 きくかかっで来る。 (2)まず,個々のレポ−トを共通の場,共同討議の場におきなおす操作が必 要である。しかし,かつて日本の綴方教師たちが行ったような,素朴で,

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山 内 盛 事 24 やや原始的で,キメこまかいやり方,教師個人の献身的な努力にのみ依拠 したやりカを,そのまま採用するわけにほいかない。できもしない。では どうするか?運営委員会ははっきりした確信に達するまで討議を詰めるこ とはできなかった。(運営委員会は授業時間の外で行っていたので学部の内 外に予想しない多忙なことが起ると,全員の手すきの時間を設定すること ほほとんど不可能・鱒そういう時間的な制約もあった。)しかし,多様なレ ポ一卜のなかから幾つかの共通問題を抽き出して集約し,その柱に向けて の討議を通して認識の深化をはかるという点では,はば−・致していた。 けれどもこの作業も容易でほない。題目や字面が似かよっていても底に・ 異質な思想があれほ見落してほならないし,異った表現のうちから思想の 共通性をひき出す必要もある。要するに,雑多な素材を前にした研究者の 思考過程における諸作業,分類,分析,綜合,抽象,捨象,概括,個別化, 相互連関乳 認識論的過程や論理学的操作のすべてが,心理的な了解とと も紀要求されるわけである。柱として取りあげられる問題の基底にある客 観的・実在的な関係をある程度見とおしておく必要もある。 もう・劇つ,もっとも藍要な問題がある。認識=思想と生き方の関係の問 題である。先にも触れたことであるが,現代の青年にとかく見られがちな 特徴として,思想と生き方との・一層未分化,他面疎外の傾向が指摘できる が,いずれにせよ,そのままでほ思想は科学的になれないし,生き方は自覚 的に高まりえない。自由な生き方ほ「孤独の病」から解放されて普遍的な 思想と認識に媒介されていなくてはならないし,科学的な認識ほ分断され た専門白痴的な「知識」から解放されて,自余の諸認識と接合し,人間と価 値に焦点化されなければならない。生き方(=人間形成)と認識とは区別 されながら相互媒介的に統一Lされるのである。この原則的路線を確認した 上で上記の作業ないし操作を位置づけるのは,学生運営委員の手に余る。 教官集団とて時間に追われて意思統一・が不十分である。率直にいって運営 委員会はその機能を果しえない状態にあった。 (3)学生は敏感である。授業ほ表面さしたる支障もなく,レポーートを素材に

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46年皮共同研究科目「現代思想と学生」紅ついての絵描 25 進められていたのであるが,運営委員会の指導性のよわさを指摘する声が 高まってきた。学生にとって身近な運営委員は教官より上級生なので,突 き上げは上級生に向けられた。上級生はアンケート調査をしたり,拡大会 議をしたり,いろいろ模索したが決め手はつかめなかった。学生運委の− 部に無力感が出ほじめた。学生運委相互の激励や援助ほもう坂紅ついてい るのだが,根拠ある見透しのない激励は効果がうすい。 しかし−・年生の聞から別の動きも出てきた。日常接触しやすい同学部の 学友の間で話しあいを組織し,協力して建設的な提案や助言を行ない,批 判ほしつつも運委を励まし,もり立てていく運動である。何でもないこ.と のようだが,本科目の成功を自分自身の問題ととらえ.る積極的な活動家の 出現を示すもので,注目してよい成長の側面と見ることができる? これまでに述べてきた事情や前期末試験のために,折目ほやや乱れたが, 夏休みレポートの分類から引き出した柱ないし研究分野はほぼ次の4つで あった。(1)人生の問題(2)知識ないし知識人の問題(3)現代社会の特徴を どう見るかの問題(4)大学の自治の問題。分野別に若干の討議はしてきた が,もたもたほ克服できず,討議は深まらない。この状態で継続しても成 果は期待しに・くいので,運営委員会は方向転換をはかり,11月第、事週のク ラス全体会に持ちこんだ。 全体会で次のこ.とが決定された。①研究分野を次の4つ紅分け班の編成 替えを行なう。⑧班腰指定の文献を学習する。⑨各自,第二瀾]の関心にも とづいて希望する班濫所属する。④指定文献を共通の基礎紅して個人学習 と班討議を結びつける。 A班 人生問題,生き方の問題(真下信一・著「時代に生きる思想」) B班 知識観,社会観の問題(島田豊その他著「知識人・文化人論」) C班 現代社会の特徴(森宏一・編著「現代と疎外」) D班 大学の自治の問題(福島要一・,渡辺洋三編「大学の自給」) (カツコ内は班指定文献) (4)以上で第二期ほ終わるのであるが,第三期に入るに先だって,第二期から

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山 内 虫 垂 26 得た教訓を抑えておきたい。 第二戯にほもたつきがあった。その根本原因ほ運営委員会に統一・した根 拠ある方針がなかった点にある。これほ克服されねばならない。教育が高 度の意図的計画的営みである以上,経過において試行錯誤ほあってもよい し,また避けられないこ.とでもあるが,試行錯誤そのものを方針とするこ とは正しくないからである。しかし,集団に.おける認識と相互の人間関係の 錯綜した発展路線ほ単純ではない。前進ほ後退の要因を含み,後退は.前進 の要因を孝み,プラスとマイナスが交錯し,相互に転化しあう場合がある ことほ,経験的に指摘できる。その幾つかはすでに見てきた。して見れば 暗に.個人をその対象として前提してきた近代教育学と教育技術とほ,・そ・の 辺をどう教育的に見透すのであろうか。専門外の私がいうのはおこがまし いかも知れないが,それは近代教育学の枠を越える問題でほ.ないのか。い いかえれば,近代教育学はこのあたりで限界を露呈するのではないだろう か。しかも集団紅媒介されない個人などというものは実在しない。ここで いう集団とは,アプリオリに先在性を前提された個人の Und−Summeの ことではなくて,いわばコレクデイ、−グであり,マルクスが人間の本質と 規定した社会的諸関係の総体の走在形態と見られるもののことである。個 人を媒介するそうした集団の存在は,今日近代思想−■・般に対して:否応なし にその承認をせまっているのではないか。そして承認を与えまいとすれ ば,近代思想自体が・その脊骨として持っているほずの科学性を動揺させら れるのではないだろうか。 もしこういう事態があるとするならば,第二期のわれわれのもたつきも, 単に不手際や偶然の事情に解消するわけにはいかないものがある。それは 今措くとしても,本科日が意図(後述Ⅱ参照)している教育過程の前進路 線は,もっと深く広く,集団的に追求されて−よいであろう。 3 第三期(11月∼3月) (1)生活からおのずと醗酵する直接的な意識は,科学的な認識と思想の出発 点でもあるが,また同時に幻想や虚構の観念形態の真樹にもなるものであ

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」についての総捕 27 る。だから,これを誤りなく蒸溜して認識と思想に高めなぐてほならない。 欝二期においては,レーーポトの集団討議により直接的意識にまつわる主 観主義的な要素をある程度洗いすて,やや本質化したところで班の編成替 えを行ない,併せて文献を学習することになった。したがって,ここでは 次の二つのことが統一・的に行われねばならない。−〟つほ主観的な意識を科 学的な認識の次元へとつなぐこと,他の一つは文献学習を通じで一・応科学 的と認められる認識の中味と思考法を習得し固めること。そのうえで,も う一度クラス全体会議を開いて−,各媒で学びとったものがどれも,もうひ とつ掘り下げた板底的なもの,普遍的なものにつながっているという認識 を,確認しあうのが望ましい。それほ班と限定された文献のなかで培った 限をもっと広く解き放つのに役立つ。また,より根底的なものの共通の自 覚ほ,場合によっては,他姓のものと共同研究を行う条件をもつくり出す。 そこで最終レ好一ト紅とり鵜ますというのが,本期の構想の大筋であった。 (2)しかし,この構想ほ甘く,実際の進行は予想に.比べ程遠いものに・なって しまった。自分の関心を学的に兼溜して研究レポ−卜をつくるということ と,文献の内容・方法を習得することとの統一・ほ,そうかんたんに身につ くものでほない。学生の受けとめ方ほさまざまで,その両極端を挙げてみ ると,「文献ほしよせん著者の考え方で自分にはかかわりない」という姿 勢,他は文献の内容・方法どころか語句にさえ振りまわされて「主体的な 関心どころではない」という有様。もちろん,これほ両極端の特例なのだ が,集団学習,共同研究であるゆえになおさら「’そういうことは第二瀾で すんだはず」とすますわけにはいかない。集団の前進にともなう一・時的な 後退,部分的な曲折,不均等発展は,避けがたいにせよ,それを見越して 欝⊥・期のころから相互の組織化を認識の中味にまで食いこませるような指 導の方法を考えれば,ある程度までほ.改善できよう。それにしても先ばし ったずさんな構想で,学生に無理な要求をすることのないよう考慮しなけ ればならない。 (3)各班とも似たような状態だったので,冬休み前にクラス会体会を開くこ

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28 山 内 悪 事 とほできなかった。文献の総括もできない状態で,全体会を節にもう・一・段 階,認識の深化をはかるなどというのほ,明らかに無理であり,やれば文 献の理解さえいい加減なものに.してしまう。 こうして,結果的にほ班の自主性に任せるというあいまいな形で,冬休 み紅入った。したがって冬休みの課題の出し方もまちまちで,レポートを 課したのは二つの班だけ,それも全員が提出したとはいえない。自余の班 でほ,運重から要求を出し,班で確認ほしたようだが,それが実行された かどうかを点検できる形に.していないので,ほっきりしない。運営委員会 のなかで,集団が決定するということのもつ教育的な意味の重さを,もっ と討議徹底して−おく必塵がある。そして−集団がその意味を自覚するまでは, 実行しきれないようなことほ決定しない,実行したかどうか点検しようの ないような決め方はしない,という程度のことほ考えておくべきである。 自分が決定したことを破るのを容認することは,教育的には,自分自身を 軽視すること,主体の無力さを教えこむことに通じるからである。 冬休み明けには,試験期も近いし,最終のレポートへの取りくみもある ので,認識と組織の質的飛躍にそなえるという意味でのクラス全体会を開 くことはもほやできなくなった。事務的に開く全体会ではない,これに研 究教育の意味をもたせると,事実上第三期に.辿ってきた班学習に内在する 論理をかき乱し,混乱を起させるおそれがある。そのため,班内の学習形態 ほそのまま継続され,各自最終レポ−トを念頭においてまとめてきた小論 ないし問題点を順次発表し,班は文献を参考にすえながらこれを批判検討 するという形で進んだ。従って表面さしたる支障もなく終ったのである。 しかし,最後の第三期がこのような班学習の形態で終り,当初の構想と くいちがったことの,思想的教育的なちがいだけほ,是非ほ別とし七明確 に.しておくべきだろう。 まず,認識論的にみて,認識発展の段階のちがいが挙げられるが,これに ついてはすでに述べて−いるので繰り返さない。つぎに認識の発展に照応す る集団の還泊勺拡大と集団内相互関係の質的高度化の問題であるが,こ.れも

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」についての総括 29 少しづつ触れてきたので,薬理のために再提起するに.とどめたい。だから, 最後の教育的,教育思想的意味合いの相異の点だけをやや立入って明かに・ して,反省点として抑えよう。 運営委員会の度び重なる検討と努力にもかかわらず,算三期が珠学習と いう形態でおわったことの教育的意味の欝−・ほ,多くの班員に,共同研究 科昌とほテキストに従って班学習を行なう科目だ,という印象を残した弱 さの点にある。つまり,班学習を自己目的化するような印象を事実におい て許したことにある。もらろん,班にはそういう性格が全くないわけでは ない。入学当初互に∴名も顔も知らぬ同志の偶然の寄り集まりでしかないと き把ほ,研究教育の目的に.かなうように互いの関係を密にし,発言の機会 を多くするという意味が班分けのなかに多分に含まれているこ.とは,始め 紅述べたとおりである。しかし,班がはかならぬ「自分の班」となること のため紅も,他の班との媒介関係,すなわち他の班との関係における「自 分の班」という自覚ができなければならぬ。学習においてのフェ.アな競争 を組織すれば,これを事実のなかで教育することがもっとも効果的にでき るわけだが,それをつくり出していく場ほ,クラス会休会の討議である。 そしてこのような場は,班の自己意識とともに班を越えた共同の場を透見 させることにもなろう。あるいほ.,そんなことを事新しく言わなぐても大 学生なんだからわかりきっているでほないか,といわれるかも知れない。 だが,何となく当り前のこととしてbekanntであるということや,観念的 紅わかっていると思っていることと,討議の緊張を通し集団の緊迫を媒介 にして碇知する(beg工・ifen)ということとは,同一ノではない。だから,班 とほ,個人にそれを媒介にして自己を,自己の位竃,自己の方向を,自覚 させるところの教育的手段として設定されるもの,また認識と集団が班を 拠りどころにしつつ班を越えて発展することを確知させる,そういう教育 的手段として設定されるもの,それが班の基本的な意味である。つまり, 班ほ自己目的的に置かれるのでなく,否定的媒介の契機として置かれるの である。班を置いた方が効率的で学習に便利だから,というプラグマティ ックな意味でおかれるわけではない。

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山 内 亀 幸 30 けれども算三期がすべて班学習という形に終始したことは,事実上班の意 味を徹底させられなかったこと,そういう教育的弱点を残す結果となっ た。もちろん理窟でほ説明したけれども,理窟の教育力は緊張した運営の 事実の教育力にはとうてい勝てない。 (4)レポ−・ト作成のためにほ,自分の勉強に.沈潜するという過程も要求され るので,終りに近づくにつれて個人発表に崖点がおかれるようになった。 総じて−,46年皮の共同研究科目は,その科目形式がもつ長所を十分生か したとはとうていいえないが,学習畳紅おいて他の形式の授業に比べて下 まわったとは思っていない。自主的に取り組むという姿勢の点でほ評価す べきものもあると考える。学年末の試験終了後,各班とも1日ないし3日 間自主的に補習を行なったのもその表われと見られる。度々触れたよう に,個・種・類の相互媒介に比せられる個人・班・クラスの複雑な媒介関 係を教育的に.組織して,認識と人間の形成に資する点では甚だ不十分であ った。この点ほ威終レポートの質紅も反映されている。もっとも,あって 当然の科目でありながら意識的紅ほあまり実践されて−いない,この実践の 試みがいっきよに成功をおさめうると考えるなら,その方がかえって・ユ・− トピアを措くものといえるかも知れない。批判点ほ.批判点としてきらんと おさえながら,現状での実践の諸困難も考慮し,焦らヂに前向きに可能性 を追求すべきであろう。 ⅠⅠ理念と 運営

1 学 生

学生は研究教育の草体者,大学自治の担い手である。この基本的な性格ほ学 生が被教育者であることと相容れないものでは.ない。矛盾であるとしても,い わゆる悪しき矛盾ではなくて,研究や教育という高次の過程を成立させ,その 内的動因となりうる矛盾,しかし同時に,運用を誤まると悪しき矛盾に転落し, 教育を破壊するおそれもある,そうした矛盾である。教育を受けつつそれを自ら の教育とレて受けとめ鯵棄していく自覚的な主体であってこそ,教育を商異な

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」に.ついての総括 31 歴史的・社会的な事業として.稔りあるものとすることができるのであ芦。学生 がその理念的な本質を実現できるか否かは,多くの条件に規定されるが,なか んづく教師のあり方にかかわるところが大きい。教育という歴史的ないとなみ は個人の主観を越えた社会推転の潮流から出て−来るとほ「いえ,・そ・れを担う人格 と人格との出会い,精神の放電現象ともい.えるものを要しない,ということに はならぬ。歴史の流れをぬきにした出会い論ほ教育の神秘化になろうし,出会 いをぬきにした流れ論は教育の俗流化に.つながるであろう。 こうして教育は・−・方的に.ほ成り立たないのだけれども,今はこれと灯り離し て学生の問題をもう少し考えておこう。しばしば,学生ほ学ぶことを学ぶもの と言われ,一一応の承認を得ている。これを,学生ほ既成の知識体系とともに方 法をも併せ学びとるぺきだとの主張との魂解釈するのは,狭きにすぎると思わ れる。学生に対してほ.,第一・に,既成の知識体系を受動的に受けとるだけでな く,その体系を成り立たせた認識の源泉,内容を,方法を含めて,体系にまで 兼溜してゆく全過程をもこれと結びつけて,集中的に学びとるととが要求され る。学生が研究教育の主体なればこそ,また大きくいえば,学問文化の遺産を 受けつぎより高く発展させるべき社会的責任を負うた主体なればこそ,出され る要求であろう。第二に,研究教育にかかわる自己の組織的位置の自覚が要求 されてよい。学生は孤立したアトム的個人として学習しているのでなく,一億 の集団をなして−一億の社会的関係のなかで学習にとり細んでいるのである。最 終の主体ほなるはど個人紅ちがいないけれども,その個人とほ,観念的に志向 される市民的個である以前紅,外的集団的関係を自己を媒介する内的関係とし てとらえかえし,いわばその関係の担ない手としてあるところの個人である。 この自覚が要求せられるのほ学生が研究教育の主体,自治の担い手なればこそ であろう。第三に,上記の二側面,すなわち,客観化された知的体系を客観的 源泉にかかわる主体的な認識過程と結びつけてわがものに.するという認識論的 自覚と,学習する自己の組織的自覚とは,また相互媒介的に統一・されており, 当然その自覚も要求される。このような自覚においてのみ,専攻知識の断片紅 埋没することなく,専攻分野相互の連関,総合的視野において専攻を位置づけ る知性を身紅つ供そうして社会の負託匡・こたえることができる。「学ぶこと

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山 内 垂 章 32 を学ぶ」ということばの含魂は,今日では,この程度まで立ら入って考えるぺ きであろう。このことは学生が市民的権利として教育を受けるということと矛 盾しないのはいうまでもない。 現存在として−の個々の学生がどうあろうと,この理念像ほ教育を支えるもの として確認されねばならない。理念はもとより遊動論的視点でとらえられ,し たがって教育の動力因でありかつ形相因(目的因)であるようなものと考えら れるべきである。空疎な観念であってはならない。 学生をこういう主体者として確認することほ,教師の側からすれば,社会の 信託に.こたえてこのような主体者紅形成してゆく責任を自ら引き受けることを 意味するのであって,学生の自由紅まかせておけばよい,ということでないの はもちろんである。教師にとってもこ.まかい配慮が要求されるわけだが,その 配慮とは,個人的な善意とか親代り的な心づかいとかでほなくて,教師集団の 殖繊に襲うちされた教育科学的な配慮でなければならない。だから,教育の制 度,体制から内容,方法,授業の形態にいたるまですべて−の局面,分野で,理 念へ向っての変革の動力因となるようなものである。 2 学生の現存在 現にある学生のあり方,とりわけ新入生のそれは,上述の理念像に比べたと き,かなりの距離があることに.ついては,何人も異論のないところである。糖 神のある厚の動揺や不安定ほ青年期の特徴であり,飛躍的成長の前兆でもある わけだが,それが,テスト=受験体制といわれる教育のヒズミや,社会の断絶 とさえいわれる歴史的社会的分裂傾向に触発されて,大きく,しかも不健全に 増幅されがらである。抽象的ないい方だが,いわゆる現代の疎外の状況が新入 生の内面に忍びこんでいる事実は,経験的にも常に感じることだし,−・般論と しても肯づけることである。たとえば,ことさららしくさえ見える強硬な自己 主張とぺったりあなた任せ式の態度の奇妙な共存,そして両極へ・の定めない動 揺。この傾向は道徳的に非難される前に教育的に正しく診断治療されるぺきで ある。そのままでほ研究教育になじむ心術とほいえない。 たてまえとしてほ,大学の門は学問への入口なのだから,入学に先だって学問

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」に.ついての総括 33 への姿勢態度ほ整えられていてよいほずだが,われわれの経験するところでは. 概してそうでほない。新入生のもっている大きな可能性を引き出すためにも, この傾向的事実を教育的に受けとめねばならない。つきつめて−いえば,大学 は,入学以前に整えられているはずの教育的基礎作業を入学後に.引き受けると いう問題を,入学式と同時に.抱えこむといえる。入学式やオリエンテーション のとき,「君たちは今日からりっばな大学生なのだからすべて自主的紅判断し責 任をもってやりたまえ」とカツコよく訓辞しても,それで事態が変わるわけで ほない。しかし,・−\人前の医師ならば,疎外をたんに.疎外として形而上学的に 固定化するような愚かな診断はしないだろう。なぜなら,疎外とほもともと実 現の疎外であり,したがって回復要求をたたえた疎外だからである。疎外とは こうした矛盾と葛藤のなかを運動する連関の否定的な−・断面に.外ならない。正 しい診断ほ治療と回復に.つながる。疎外症といえば,たとえば,孤独,不安, 不信,自閉,そしてこれらを袈がえした空しい自己顕示,ムード主義,ニヒリ ズム等々,のような−・般的徴侯をもちつつなお個人差をともなうものだが,そ れぞれの病状にしたがい,その対極契機をのばし表面の否定契機を転換させる ことによって回復に.向う。治療とほ自力回復への指導の組織化である。 学生の現存在が理念からみて.どれはどずれているように、見えようと,これを 形而上学的に固定化してほならない。ずれはむしろ回復の原動力である。回復 とはこの場合,もとに戻るということでほなくて,理念に添うて,前へ向って, 未来をつくるということである。 3 共同研究科日の理念 本科目が設けられた直接的な動械ほどうあれ,理念としてほ,現状を踏まえ て今まで述べてきたような教育的な配慮を実現するというねらいをもった授業 形態の一・つと考えるぺきである。むろん,この配慮にもとづく方法,手だて, 形態は,いろいろあるであろう。本科冒の形態をとらねばならぬという根拠は ない。そして本科目の形態とても格別変っているわけでなく,ゼミナールなど でほ当り前のこととして採用されてきたものである。しかし,そうした事情 は,担当者として本科日に対し,大学に課せられている当面の課題に答える意

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山 内 重 事 34 図をこめて,あるべき理念を反省的に設定し,実践的に試み,傾向性を分析抽 象し,もって批判に.供することを拒むものでほない。 まず,分析的に二つの側面に.分けて考.えて魂よう。第一・がすべての学問の根 底紅あり,学問に.つながる認識論的側面である。現代の青年学生紅多く見られ る先述の疎外傾向を,認識論の立場でみるならば,無意識な主観主義といえる。 主体性ほ尊重されねばならない,だが主観主義ほ克服されねばならない。経験 が浅く認識論の試練もくぐって几、ない新入生の場合,と.の二つほ未分化でしば しば混同される。認識ほ経験から始まるはかないが,この経験を尿にしですべ ての認識を経験のなかに閉じこめて■しまうか,あるいほとの経験を通路にして 自然や社会という客観的実在にせまるか,この分岐点においてどちらを選択す るかによって,主観主義へ行くか科学的認識へ向うかのちがいが出てくる。引 きか.え.すととなしに途中で道を択びかえることほできない。経験を靡にしてそ・ の中紅とじこもる経験主義は主観主義である。なぜなら,かかる経験は主観な しに.は成立しないからである。新入生の場合,こういう概念や区別がわかって いないのはいうまでもない。ともあれ,主観主義を克服し科学的認識に.近づけ るためには,経験に.おいてしかぶつかれず,しかも経験にとりこめない,そう いう客観的実在−これこそ認識内容の源泉−一にぶつからせるはかない。そ の方法はいろいろあるであろうが,対話と討議を組織するのが有効な方法の・−・ つであることほ,ソクラテス=プラトンの昔以来,公認されている。まだひよ わい主体性を引き出しながらこれを組赦するには発言はもとより提案権をも保 障しておくのがよい。主観主義的な主張ほ,いずれ自己矛盾に陥るし,また, さまざまな反対意見にもぶつかるだろう。それを見透して,お互い紅擦れちが わしたり,見解の相違としてお茶をにごしたり,無原則な妥協であいまいにし たり,しないように.適切な指導がなされねばならない。論点がどこ紅.しぼられ ているか,それが認識の源泉,実在のどの側面,どの部分に照応しているか, そういう点がつねに意識されるように.指導していいけば,実在にぶつからざるを 得ず,したがって実在に照応した共通の認識に達することが期待できる。共通 な認識をさらに普遍的な認識に飛躍させる可能性も,この時線上においてのみ

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46年皮共同研究科目「現代思想と学生」についての総括 35 考えることができる。 このようにして,発言や提案のなかにある積極性,主体性に依拠しながら, くりかえし認識の源泉紅ぶつからせ,それに.もとづいて科学的認識へ近づける という原理的な立場ほ.,はば了解できるのでほないだろうか。 第二は,人間形成につながるおのおのの生き方の組織的側面である。現代の 疎外傾向を生き方の立場でみれば,孤立主義,情緒主義,剃那主義,などのこ とばで現わせよう。マルクスが疎外を多面的に.分析したのち,集約的に,「人間 の人間からの疎外」(経哲手稿)を述べ,ばらばらな平均的個人(ドイツ・イデ オロギー)を挙げたのは,包括的な生き方の観点からと考えられる。情緒は, 社会的関係と理性紅媒介されれほ人間のすぐれた属性であるが,・竿・れと切り離 されたときは人を剃那主義に走らせる。個人は尊重されねばならない,だが孤 立主義とそ・の−・連の傾向は克服されねばならない。孤立した実体としての個と は観念形態に.すぎないこ.と,市民的個とほ人間の存在のし方としででなく別の 視角からみて有意義な概念であること,人間をサルから人間たらしめた労働ほ 初めから組織過程とともにあること,「人は社会的動物」といったアリストテ レスの提言の意味,内容,背景等を説明すること,「人間の本質ほ社会的諸関係 の総体.」であり,・それぞれの生活半径に照応する−・走密度の集団がその定在と 認められること,等々,個人はもともと複雑な相互関係に媒介されており,′こ れを尊重することなくして個を尊重するこ.とはできないことⅦ−−こうしたいく らも挙げられる事実,理論,説明など忙.よ って,個と集団との媒介関係を理解さ せ孤立主義からの解放をはかることは必要である。だが,このような形の説得 ほ.,今問題に.しているこの側面での主要な手だででほない。ここでは実践的に, 教育目的に向っての学生相互の援助,激励批判,納得のいくきまり等を組織し ていくことから始めるぺきである。よそよそしかったお互いの間にただの仲よ しでない合理的な関係が根づき始めたら,一・定の指導に支えられて一発展の速度 は急速になり,内的かかわりの質も高度化してゆく。互いのあいだに「指導≠ 被指導」の関係も生ずるし,脱落の傾向が見えれほその人に対する意図的な取 りくみも組織されよう。もしその放りくみを行わず放置すれば自分の痛みとな

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山 内 壷 幸 36 らて跳ねかえってくる,そんな状態になれほ班集団は挙げて力強く合目的的に 前進するようになる。前進は集団のよろこびであり,停滞ほ集団の悲しみであ る。指導を集団の内にとりこみ自己指導叱かえて,よろこびをもって生き生き と前進する集団の歩み−そこに.集団の生きた規律がある。規律は集団の歩み であり,集団のよろこびであり,集団の自主的とり観み.の総結果である。こう なれば集団のなかに整然とした自主的管理が根づくのも当然である。このよう な集団に支えられ媒介されたとき,個人ほ初めて自己の自由,生きがいを考うる ようになるだろう。こ.うして,個人の自由と規律とは,集団の相互関係の,目的へ むけてのたえ.ざる改善,集団の前進,集団の質的飛躍,といった集団の全発展の なかに位置づけられ,・それと酪一・される。ついでながら,集団の発展に見合っ てこのように発展してゆく規律のみが,真に.規律の名に催いするのであって,い かに善意の指導者意識からであろうと,「始めに.規律あり,始めにルールあり」 式の発想に.よる規律の設定ほ,集団に.とってなじみがたい強制とうつるであろ う。規律は教育のアプリオヅな前提なのではなくて,全教鳶の結果なのである。 当面の課題である生き方の組織論的側面とは,やや本質的単純化の抽象を行 いはしたが,上述の過程を意図的に組織してゆく側面である。孤立紅悩みなが ら孤立主義に沈んでいる椅神を,集団のいのちある結びつきに引き入れ,また 一人一人に集団内における自己の位置,任務等を自覚させる追は,このように. して困難でほあるが開きうるのである。 第三に,第一・の認識論的側面と第二の生き方の組織論的側面との媒介統・一・, ここに本科冒の理念的なねらいがあることほもほや説明を要しない。認識の発 展と人間の形成とほ相対的に区別されねばならないが,基本的には相倹って進 展する。人間ぬきの認識は.空虚であり,認識ぬきの人間は盲目である。エンゲ ルスにとっては必然性の洞察ほ自由の前提条件であった。洞察の主体は.アトム 的な個でほなくて歴史的・社会的に媒介された人間である。ヘーゲルが認識の 究極の主体を世界精神としたのは甚だ神秘的で頂くわけにいかないが,それに しても疎外の結果としての「ヰ均的個」を認識主体だと独り決めしている俗見 に比べたら,1,000倍も高い洞察力を示しているといえる。だが,炎理はその

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46年皮共同研究科目「現代思想と学生」についての総括 37 どちらに.もなく,歴史を受けつぎ個を媒介しつつ,内包的にも外延的にも深化拡 大する現実の生きた集団こそ, 兵の認識主体というぺきである。少くともこの ような主体と切り離されたアトム的な個人の認識では,それがいか紅探い必然 性の洞察である如く見えようとも,生活の解放,自由につながるものとはなり えない。たとえば,民主主義社会の必然的帰結としての人権の自覚,主権者とし ての自覚に∴達したとして.も,彼がアトム的個である限りにおいては,生活の解放 としてこの自由につながるどころか逆に泊らあきらめる「自由.」や,義務と抱き 合わせて自ら帳消し紅する「自由」に萎縮してゆくことは明らかである。生き た集団はこういう萎縮に.甘んじはしない。集団ほわきたつ革びを知るとともに・ 憤赦するこ.とを知っている。しかも理性的な認識に媒介されているので,自爆す るような愚かな憤激のし方はしない。集団は忍耐することを知っている,忍耐し つつ解放の条件をつくり出すこ.とを知っている。こういう集団に.位置づけられ た個が,その集団を自己の内にとらえかえし,それぞれの任意における集団の担 い手としての自覚に達したとき,その個の認識のなかには集団の脈博と鼓動が かよっている。ここに生きた思想がある。思想は認識と生活とを結合させる。 科学的認識ほ思想をとおして生活檻.還流し,生活を変革するちからとなり,生活 は思想をとおして知的認識に昇華され,体系に蓄積される。だから,人は思想に おいて科学性と同時にそのちからを,その性格を,その倫理性を問うのである。

4 道 営

遷宮ほ管理につながる機能であって,理念とは・一応区別できるが,できれば運 営のなかに理念が形象化され,運営において理念の歩みを見る,というように 統一・されるのが理想であろう。しかし,運営は公的に眉任を負うて−封画的紅遂行 されねばならないので,当然管理機能をともない,理想のようにほいかない。 運営を責任をもって遂行する機関として運営委員会が置かれる。運営委員会 の性格は複雑である。第一・に,大学に対し,また直接的には受講学生に・対して, 責任を負いきらねばならない。学生が研究数倍の主体者であるがゆえにこの二 つの責任は鹿本的には一つである。もしこの基本的原理的な一・致がないとする ならば,迷宮委員会は分裂し運営ほ不可能となる。弟二に,運営委員会は管理機

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山 内 盛 事 38 関として管理機能を厳格に果さねばならぬ。管理とほ,あえて冷いことばでい うなら取りしまりであり,容赦なく一元的に貫徹されるものでなければならな い。研究教育の主体者が取りしまられるのであるから,その取りしまりほ自律, 管理は自主管理である。したがって.その構成員たる運営委員は全員,全集団か ら管理権を信託されたもので,クラス全体会の決定による以外ほその意思に反 して解任されないものとみるぺきである。運営という枠のなかに.おいてなら ば,命令とはとんどかわらない断固たる要求を出しても大多数の学生の支持を えることができる。もっとも,これは理論上のこ.とであって実際問題としてそ うなるかどうかほ集団の質,その発展段階に.より相違がある。しかし,そうな らなかったところで,本質上なんら支障ほない。むしろそれこそ集団をより高 く発展させたるための教育のよ.きチャンスなのだから。このようにみてくれ ば,運営委員の個々の交替ほありえて−も,運営委員会という機関は,大多数の 支持をえながら,自主管理機関として管三埋機能を果たすことができるわけであ る。運営委員長には上級の学生が当たるのが適当であろう。新入生同志,四月 の年度初めでは.信任のしようもなく,従って準備段階から参加して−いる教官の 指導を信瀕する外ないからである。教官ほ腰条件で運営委員会の構成メンバ− となるが,運営委員長にはならない方がよい。というのほ.,教育的に形成しよ うとする集団はさし当り学生集団であり,公的に責任の重い機関であり,自主 的な研究教育集周として本質的に.ほ官僚的管理よりももっと厳しい自主的管 理,自律を遂行させねばならず,それらを形象化するには学生の方が望ましい からである。学生が委員長では慣れあいにならないかという懸念ほあろう。だ が,2年間の経験でほその傾向はみられなかった。2年間の経験くらいでは.今 後慣れあいが起らぬという保障にほ.ならないが,かりに起ったとしても,それ を正すのは管理でほなくて指導であり,運営委員会紅ほ指導に責任を負う教官 がついていることであるから,支障には.ならない。 第三紅,こ.れが一・番重要なことであるが,運営委員会ほ指導の機能を負わね ばならない。運営委員は班やクラスの会の司会に当たることが多いのほ当然で あるが,その時の司会ほ,研究教育にかかわる問題なのだから,たんに最大公

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46年度共伺研究科目「現代思想と学生」についての総括 39 約数的な意見をまとめるとか,多数決とかの形式的手段に/たよることはできず, 指導性を発揮しなくてはならない。しかもその指導ほ官僚機構に.おける上司の 「指導.」とは本質的に.異り,相手を変えて−ゆく説得力をもたねばならない。教 育的指導が持つべき要件として望まれることほ,・−・に,それが真理真実に立脚 していること,ニに,相手の発達段階や状態に見合った的確性をもっているこ と,三に,主体的で相手の心に.くい入るような生動性をもつこと,等が考えら れる。でないと相手を動かし変えるちからを持たないからである。しかし,こ の三つの要件をいっきよに充たす指導となると現実にほきわめて困難である。 相互の努力を重ねて.接近してゆくことになろうが,そのために.も指導に対して は相手が拒否する自由を持つということを前提しておかねばならない。三Jつの

要件を具えるのみで−・片の権力的な強制手段にも拠ることなしに,相手を変革

し集団の底の底まで鯵み透ってゆく,これが指導の原理であるから,その過程に おける相手の拒否こそ,指導の不備を反省し再指導濫発展させる契機となるの である。また,原理的に.そうした要件を具えるぺき指導ほその過程において誤 りを犯すことも不可避的である。それほちようど兵理を追求する研究がそ吻‘過 程に.おいてたえず誤まりつつ,誤りの反省を踏まえて夷理にたどりつくのに.比 せられる。その点からは,相手の拒否は指導に対する協力的な援助と魂るぺき である。相手の拒否を拒否するような指導ほ,指導の名に.値いしないばかりで なく、その指導者自身を独善的な無謬の空想家に・転落さぜるであろう。 先に教官は無条件に(選挙をとおさず虹)運営委員会に.参加するといったの は,運営委員会がこうした指導委員会的な性格をもつからである。公的に管理 上の責任があるからというのほ主要な理由ではない。社会的職能的な指導の責 任主体たる教師は,たんに班やクラス全体会において指導するのみならず,鱒 営委員会に入ってその内側から綿密な指導を組織すべきである。研究教育の 主体たる学生が,自己の現存在にからまるさまざまな弱さを−・つ一つ洗い鱒と し,認識のうえでも人格形成のうえでも,相互指導と自主管理を通じてあるべ き理念像へと感動的に発展してゆく,その全過程が教師の綿密な指導の見透し 路線の実現に外ならなかった,という結果になるのが理想である。

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山 内 率 頭 40 さて,運営委員会が上の三つの性格,念のため繰り返えすと,公的貴任機関, 自主的管理機関,指導機関の性格を併せもつとすれば,それにふさわしい構成 を必要とするのみならず,たえず自らの反省,点検,見透しの設定と調整を行

っていなけれほならない。当然,授業時間外に多くの努力を必要とする。それ

は教師が授業のために多くの準備を要するのと同じである。こ・の多くの苦労が 個人的な割りのあわない苦痛としてだけ跳ねかえって来るようであれば,運営 委員会は永続きするはずはない。しかし,理のとおった責任の重さに堪えるこ・ とは自らの重さを自覚することであり,自主管理としての管理を遂行すること は集団の理性をあかしすることであり,指導することほ指導において同時に自 己が指導される喜びと誇りに通じるものである。だから運営委員会の苦労はよ り高次の認識と自覚を扱くために不可欠のものである。事実,運営委員の苦労 はなみたいていではなく,カべにぶつかり見透しを喪って−・時自信喪失に陥っ た例は少くないが,そのために運営委員をやめると言ったものは,少くとも立 候補して運営委員紅なった人のなかに・ほ一一人もいない。全集団が固有の道理と ちからによって彼らを達しく鍛えているのである。 運営委員会は共同研究科目のカナメであり,柱であり,娘目であり,大船であ る。その担い手である個々の運営委員ほ自らの責任をおろそかに・しない。ここ に巨大な集団の教育力がある。そしてまた集団ほ運営委員なしに・はやっていけ

ない。集団ほ運営委員を必要とする,自らの成長発展のために。その成立の現

象的経過はどうあろうと,本質的には集団自らが教育研究の主体者なるが故に・ 自らのうちから析出した機関である。集団は運営委員を批判しつつ守りぬくだ ろう。逆に運営委員は自らの必要によって集団成員のなかから自覚的な協力者 をますます多くつくり出してゆく。この傾向ほ−・定の必然性をもっている。だ とすればこの可能的必然性の見透し路線のうえに,集団を構成する一人一\人 が,集団のカナメ,柱,眼目,大船となりうる可能性,現実性を展望すること ができるほずである。 こうなれば,共同研究科目とその運営は理念の次元においで一応の完結性を もつといえよう。

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」紅ついての総括 41 ⅠⅠⅠ若干の反省 一改善のために−− 展開の過程における個々の局面,部分についての内在的な反省ほ進行経過の なかである程度行ってきたので,こ.こ.でほ超越的といえるような観点から若干 の包括的な問題をあげて一反省を加えるにとどめたい。戟述に・系統嘩が欠けるこ とになるのはやむをえない。 1 専攻学問との取り組みを指向する前段階の,認識論的陶冶と人格の形成訓 練とは,相対的に区別されながらも大局的に.は連関し統一・している。あれとれ の局面でのズレは大局的な連関統一・を獲得してゆくための反省的なバネとし て機能すべきものである。Ⅱの理念の章で述べた精神は,すでにⅠ章の鍍述 のなかで反省したように46年度の授業においてこは,十分生かされていない が,もちろんこれほ前向き紅捉えるぺきである。個々の点はともあれ,全体的 に見て本年ほ人格形成という訓練論的側面にやや比重がかかって,認識的陶 冶の側面がいく分手うすになったのではないかという反省が,運営委員会内 部で行われている。断っておくが,人格形成とか訓練(あるいは訓育)とかい っても,こ.れまでの扱い方で明かなようにわれわれほこれを毛頭道徳主義的 に考えているわけではない。だから問題は本質的な事柄ではなく部分的な手 なおしで足るわけである。たとえば,必読指定図書を再吟味し,より適切妥当 で評価も安定している古典を選ぶ,ということだけでもかなりの改善になる はずである。なお,本科目ほもともと独習を前提としてのみ成り立つのであ るから,授業時間内の学習を通じて独習の仕方を改善するような指導が行わ れれほ,効果はいっそう挙がるであろう。○×の受験塾思考,知らず識らずの うちに身につけてしまった直観から結論へと飛躍しがちなゆがみ,自治的な 集団訓練の場がとかく脆弱であった生育歴に・おいて知らず識らず身につけて きた短絡思考,フィーリングから行動へと飛躍しがちなゆがみ,悟性,理性 の媒介の欠落,この問題は陶冶論的側面からも訓練論的側面からもいか紅取 り組んでも過ぎることはない。陶冶論的側面の弱さが反省されるならただち に改善の手だてが講じられるぺきである。これが改善できれば本年度第一・期 における若干意図的にさえ行った「まわり道.」ほ短縮できるし,第二期ほも

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山 内 盛 事 42 っとすっきりとやれるであろう。 2 運営委員会の負担を軽くすることほ依然考えねばならぬことである。しか し,運営委員会の性格から考えてかんたんな決め手は.ないようである。 すでに見て−きたように.,運営委員会は本科日のカナメであり,と.こで予め 理念の方向での意思統血せしておくことの重要さほ,決定的といってよいは どである。そこ・で予め委員の指導が的確性と生動性をもちうるように詰めて おくことほ,望ましいにしても不可能に近いだろう。だが望ましいとなれば 始めから不可能と投げ出すわけにほいかない。実際,運営委員会といえば, これまで長時間の反省総括と見透しの討議の連続であったが,しかもその 時間を時間割に組みこまれた正規の時間中に見出すことはできない。平常時 でそうだから学内に.本科目外からでも突発事態が生じたような場合紅ほ,物 理的に時間が見出せないということさえ起こりうる。やりがいのある負担は やる気を起させ誇りをもたせるが,限度を越えると挫折感を起させ運営の中 味に好ましくない結果をもたらすこともある。ディレ∵/マである。どうする か?即効薬はなさそうだ。しかし,思うに運営委風のなやみのなかにはいた って原始的で素朴な問題も多分に含まれている。経験を分析し,−・定の傾向 性を抽象し,客観化して,その結果を計画的実践的に適用できるようにすれ ば,負担ほかなり合理的に軽減できるほずである。残念ながら,大学を対象と した教授論,あるいはその実践分析の教育学的道産はわれわれの手のとどく ところにははとんど見当らない。所感や主張めいたものに接する機会ほ少く ないのであるが,それらはいわゆる義務教育を対象としたものに比べその科 学性において雲泥の相異があり,とうてい教育学的批判に耐ええないものが 多いのではないかと思われる。恐らく,研究教育の統一・という大学の大原則 がかえって盲点になり,必ずしも次元が高いとはいいがたい「研究主義」に 走らせ,教育を軽視させる結果を招いたためであろう。もしもしそうだとす れば,その傾向ほ,義務教育学校に‥おいて教師の研究が軽視されるのに劣ら ず危険な傲侯といわねばなるまい。研究教育の統一・ということほ.,教育が個 々の研究に短絡従属するこ.とでないのほ自明の埋である。しかし,それほそ

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46年度共同研究科目「現代思想と学生」に.ついて了の総括 4き れとして,さし当たりわれわれの手近かに運営委員会の負担を軽減する特効 薬がないとあれば,次の項に述べることと相倹ってわれわれ自身が少しずつ でもつくり出してゆく外ないわけである。実さい1∼2年の経験ででも計画 化ほ少しは進み,見透しも立ちやすくなったので,期待が持てないわけでは

ない。しかし,なお年期が必要である。

3 本科目は,考えてみれば大学として当然あってよい科目であり,したがっ て承認もされているのだが,創設の乙ろ特異の形態と思われ批判的な意見が 出されたのは,安定した伝統と実績がなかったためであろう。だから批判も また当然であり,それを一・種の協力のあらわれ方とみてもよい。しかし,手 続上の消極的な容認ほその科目の積極的な存在理由にほならぬ。大学のこと ゆえ目先の成果にほとらわれなくてもよいが,年間の過程を総括し,記録し ,客観化して,自他とも紅納得できる根拠を明かにする必要ほある。そ・して 関連資料,分析される経験素材ほ豊富であればあるはどよい。 ところで,本学には各種サークルのはかに,学生の自主的なゼミブ㌧−ルが置 かれており,教官の援助を求めることもできるたてまえになっている。正規 のカリキュラムには観みこまれず単位も認められないけれども,そういうこ とほ自主ゼミの精神からみてどうでもよいことだろう。乏しいなかでゼミ 重,榛室等不十分ながらも施設の供与を受けていることの意義ほ大きい。ここ を利用して日常的に行われているゼミナ・−ル活動とその組織を,学生は学生 の立場から基礎組織と呼んでいるようであるが,これもきわめて示唆的であ る。研究教育の府たる大学において,サ−クルはその性格上基礎組織たりえ ず,自主ゼミが−・般化していない場合,それに代位する扱いをするにしても, そこにほ.基本的に無理がある。大学という組織的理念態ほこのような組織的 実体的基礎単位に支えられてこそ確かなものとなり,個々の学生が研究教育 の主体というのもこれに媒介されてのみ現実的となるのである。ここを足場 にして行われる研究教育活動の中身ほ,その奥行きの深さ紅おいて教官親 織たる教室のそれとはもとより較ぶべくもないであろうが,内的に連関する 領域へと拡大する関心の広さの点では,学生というあり方から考えて遜色な

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山 内 議 事 44 いかも知れない。大学の自治は大学における研究教育の自由のコロラリーと いわれるよう紅,学生自主ゼミの内的な連関こそが全員参加の学生自治組織 の理念的な根拠と考えねばならない。だから学生自主ゼミ狂おいてほ,研究 教育の論理把.よって,各ゼミ固有の組織化が進むと同時に.,ゼミ相互間の交 流,批判,援助も組織され,そして自治会に集中するという発展方向が考え られる。事実上ほ.,自治会執行部と「学部ゼミ委員会」というように機能を 分化せざるをえないであろうけれども,考え方としては表裏一体である。そ こ紅集中された成果が基礎組織たるそれぞれのゼミにかえされ,この往還二 路の交代連関によって学生の教育研究活動は発展してゆくと考えられる。 そうだとすれば,共同研究科日と学生自主ゼミとのあいだには−・定の近縁 関係があるので,自主ゼミの成果を本科目に反映するようにすれば本科日の 改善はさらに進むであろうし,また逆に本科日の経験を自主ゼミに生かすこ とも考えられよう。それが相倹って発展するためにほ,自主ゼミの日常的な 研究活動が記録,反省,総括され,自治会(あるいほ機能分化した「■ゼミ委員 会」)で検討され,理論化されて積みあげられる必要がある。この動きは部分 的にほみられるが,全体としてはまだ白覚的に.とり組まれていないので,本 科目と自主ゼミ.との相互助長の関係を事実として挙げるのほ困難であるにせ よ,見透しは十分立てられる。この見透しを現実化するまでほ,学生が要望 するよう紅,本科日の役割はある。将来,この見透しが現実のものとなり, 学生ゼミ.が官主的・集団的に科学と自覚的人間へ向けて自己運動をしほじめ た暁紅ほ,本科目は.静かに眠りに.ついてよい。それまで,本科日の可能性を 開花させる努力は学生に.も教官紅も求められているようである。

参照

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