• 検索結果がありません。

市場社会主義論序説-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "市場社会主義論序説-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

香 川 大 学 経 済 論 叢 第63巻第 3号 1990年 12月 133-160

研究ノート

市場社会主義論序説

安 井 修 一

1 . 課 題 設 定 1989年の激動をうけて,マルクス経済学のなかからも,ょうやくこれに対するいく つかの発言がみられるようになってきた。私自身にとっては, 1989年の激動はまるで 予想、もできなかった事態であった。もちろん,この急激な変化にはさまざまな政治的・ 社会的な状況が絡んでいるから,経済学を専攻する人聞が予想、できなかったからと いって,特に驚くことはないかもしれない。しかし,政治・社会的上部構造も究極的 には下部構造に規定されるという唯物史観を確信するものにとっては,やはり事態は 深刻である。私は,自分がマルクス経済学を自らの研究・教育の対象として設定した ことがいま改めてしかも根底から問いただされていると考えている。しかし他方では, 社会科学で問題となるのは,予想の当否ではなく,あくまでも予想の根拠となる論理 的な立場であることも厳然たる事実である。その意味では,私は拙著 (15Jで,社会 主義社会に商品・貨幣関係(市場経済)を導入することは資本論』と何ら矛盾する ものではないこと,むしろ『資本論』の価値形態論等こそ,社会主義社会における商 品・貨幣関係の利用の意味を十全に明らかにしたものであることを明らかにしてきた。 更に,商品・貨幣関係の利用は,必然的に宇野理論でいう「資本の三形式」の利用を 伴わざるをえないし,そうしないと商品・貨幣関係の利用自体が中途半端なものとなっ てしまうであろうことを明らかにしてきた。したがって,私にとってはこれほどまで に社会主義で市場経済への傾斜が急速に広まるとは予想できなかったが,しかし,社 会主義での市場機構利用の経済学的意味を明らかにするという学問的立場は一貫して

(2)

134- 香川大学経済論叢 516 堅持してきたつもりである。私にとってむしろ問題となるのは,そのように市場機構 の利用が全面的になされるようになるとすると,はたして資本主義と社会主義を分か つものをどこかに設定することができるのかという疑問である。拙著(1

5

)

では,そ の鍵はとりあえず搾取が成立するかどうかであると考えた。ただ,拙著(15)を執筆 した当時から,現実の社会主義の変化が私の考える境界をはるかに越えて進みそうに みえたので,資本主義と社会主義を分かつものは何かという問題については,どこか に不明確さを残したままご済ませてきたような気がする。しかし,今日の状況を踏ま えると,現実の社会主義の変化がどこまで進もうと r社会主義とはそもそも何か」と いう視点から,論理的に解明できる点はきちんと与えねばならないと考えている。そ してその考祭こそが,自らがマルクス経済学を研究・教育の対象に選んだことへの柏 会的な責任でもあると考えている。本稿は,かかる課題についての私自身のi暫定的な 結論である。 11.新たな収数論 さてで述べた課題を考える前提として,こうした問題についてのいくつかの意 見を紹介しておこう。もちろん,この紹介はこうした論争を全面的にカバーしている ものではない。あくまでも私が最近読んだ限りのものでしかない。くこうした論争は社 会主義研究者や比較体制論研究者にまかせておけばよい〉というのでは,マルクス経 済学の現状は変革できないというのが私の一貫した立場である。(拙著[15]参照)。 まず,社会主義の分析者たちが出している議論をみてみよう。コルナイ(7

J

は, 周知のように社会主義における予算制約のソフト化を厳しく批判した著作であるが, 他方では「ハードな予算制約が『善』でソフトな予算制約が『悪』である」というつ もりはないと主張している(152頁)。むしろ,予算制約のハード化とソフト化は r効 率にたいするインパクト」と「人々における福松と苦痛にたいするインパクト」とい うトレードオフの関係にある二種の帰結を生むのであって,正しくは「許容可能な妥 (1) 更に,描箸(15)では,こうした現代的な問題に積極的に取り組まず,相変わらず訪11詰 学に留まっているとすれば,マルクス経済学の再生など到底おぽっかないと主張してき たつもりである。しかし,現状は「逆転への道」をみいだせないまま,解体に向かつて走っ ているようにみえる。

(3)

5

1

7

市場社会主議論序説

-135

協を探らなければならないJ

(

1

5

3

頁)と主張している。昨年来のハンガリーの激しい 変化(それは,資本主義に限りなく近づこうとする変化であるとしか表現しょうがな い)を考えると,コノレナイ自身が,いまどのように考えているかは興味ある問題であ る。しかし,われわれは,その問題を考える際にも,コノレナイ(7)では既に所有形 態の位置づけが次のように与えていたことを確認しておかねばならない。即ち,そこ ではハンガリーで私的セクターのめざましい拡大があることを指摘し,私的セクター のうち,公式の私的セクターについて次のように主張している。「私見によれば,この 面でもっと先に進んでもよいと思う。総国民産出の

2-3%

が(私的セクターからの 産出であっても一安井 )社会主義と矛盾しないとすれば,

6

-10%

のそれが社会主 義と両立しないといえるのだろうか。また

7

人の雇用が許容されるならば,

1

0

-

2

0

人の雇用が許容できないといえるだろうか。こうした方向での実験にたいして,先験 的に厳しい限界を設定するような自明の公理などは,存在しない。筆者自身の考えで は,これらの実験を判定する主要な規準は,効率性であるj

(

3

0

頁)。同じ様な主張は, 凌[12]にもみられる。そこでも I明らかに資本主義であって,社会主義とはいえ」

(

2

2

頁)ない私的営業の存在を公然と認め私営経済と個体経済を合わせて,

GNP

20%

までいっても差し支えないj

(

3

6

頁一私営経済とは

8

人以上の雇用であり,個 体経済とは7人以下の雇用のことを指すー)と明言している。但し,その結果 I商品 の物神性というものが当然つきまといj,I拝金主義,お金の追求,そういう現象が必 然的に起こりj,I人聞の疎外が起きるj(25頁)とする。そして,これを防ぐには I人 民に奉仕するという社会主義精神,これを堅持すべきj (25頁)であるとしている。こ うしたマイナスを防ぐのに精神規定だけに頼るというのでは,問題の根本的な解決に はならないだろう。もちろん,それは無意味ではないし,それなくしてはやはり社会 主義とはいえなくなるであろうが,それだけでは不十分であり,きちんと制度的に防 ぐものがあって,精神的規定も生きてくるというべきだろう。コlレナイ(7

J

にせよ, 凌(12)にせよ,いずれも私的営業=資本主義的活動を公然と認める立場にたってお り,われわれからいえば労働力商品化に基づく搾取を許容する中身になっている。そ れは,現実の社会主義の改革の一つの方向を先取りしたものであったのであろうが, それを論理的にどう評価するかは別の問題である。

(4)

-136 香川大学経済論議 518 次に,資本主義圏で社会主義を論争する場合はどうであろうか。ここでは,フツレス =ラスキ

C

2 )とグランド=エスツリン編(4) を取り上げよう。前者は,標題『マノレ クスから市場へ』から明らかなように,マルクスの社会主義概念と市場とは両立しな いものであることを明示的に示したものである。他方後者は,社会主義と市場とが決 して両立しないものではないこと,むしろ市場経済を活用して社会主義的な目的を実 現していくことができることを主張したものである。その意味では両者はまったく異 なる主張を展開しているようにみえるが,決してそうではない。マルクス・ルネサン スといっても,たとえば『資本論Jの論理が再生されるわけ、ではないことが欧米の伝 統であったことを考えると,むしろ両者を接合した議論,即ちマルクス主義とは明確 に離れた形で,社会主義の新たな展開=市場社会主義論の展開を考えるのが基本的な 方向というべきであろう。その意味で,むしろ両者を結び付けて読むと,欧米の社会 主義論の方向がみえてくることとなる。そしてそれは,労働力の商品化に基づく搾取 関係には焦点が置かれず,それ故社会主義的な目的(平等性とか,福祉とか,自由と か,効率性とか)はマルクス主義的な考えとは全く異質な手段によって達成されるべ きものとなる。 (2 ) もっとも,くマルクスの立場では,社会主義は市場と結び付かない〉とするかれらの立 場が誤りであるというわけではない。むしろその通りであろう。われわれは,マルクス的 な立場から市場社会主義論を提起する。しかしそれは資本論』が社会科学的な舎であ る限り,正しく読めば,市場機構自体は資本主義でも社会主義でも共通に利用できるもの となると主張しているのであって,決してそのような考えがマルクス自体に明示的にあ るというのではない。('資本論」を科学的に位置づけるという議論は, (宇野理論が広め た)特殊日本的現象であろうが,それがここで役立つというわけである)。更に重要な点 は,単に『資本論」がそのようにも読めるというだけではない。むしろ,そのように読ん でみたら,市場のもつ窓味について極めて有効な分析(近代経済学にない分析)を提供し てくれるというところにある。たとえばセルツキー(l3)は,もっとマルクス主義に近い 立場から,マルクスのく社会主義における市場否定〉を批判し,市場は,希少性・社会的 分業・自立的生産者の三つの条件があればどこでも成立するとしている。その通りであ る。『資本論』を正しく読めばまさにそのようになるのであって,だからこそ,その三つ の条件を前提にして分析されたマルクスの〈商品・貨幣論〉は,市場社会主義論でも役立 つのである。 なお,プルス=ラスキ(2 )第1主主では,マルクスにとって社会主義が資本主義より優 位にたつのは,倫理的優位性と経済的優位性が相互関連にあるからであるとし,それだか らこそ(たとえ市場がいかに経済合理性をもっているとしても),マルクスの社会主義世 界に市場が登場する余地はないとしている。後に述べるように,社会主義に市場を導入す るといっても,われわれの考えは,それだけを社会主義の唯一の編成原理とするものでは

(5)

519 市場社会主議論序説 -137 社会主義研究者が,社会主義に市場機構を導入するだけでなく,資本主義そのもの を導入する議論を展開するとすれば,他方で,資本主義圏で市場社会主義を提起する 論者は, マルクス主義とは分離したところで市場社会主義論を展開している。そうな れば,後者が前者を (マルクス主義的な立場から)批判するということは成立しよう がないこととなる。それは,いまではほとんど抗しがたい程の「時代の流れ」である が,私は,あくまでもマルクス主義的な立場(といっても,それは私が勝手に考える マルクスの立場であるが)から市場社会主議論を提起したいと考えている。

I

I

I

.

資本の定式化 資本主義と社会主義を分かつものは何かという点を解明する鍵は資本論』第一巻 「第二篇 貨幣の資本への転イ七」にある。拙著Cl5)でも,かかる観点、から「貨幣の 資本への転化」論について取り扱っているが,本稿では,祇会主義の新たな変化を踏 まえて, もう一度取り上げることとしたい。『資本論』の「貨幣の資本への転化」は, 大きくいってこつのことを解明している。第ーは,資本とは何かを,それ放資本の定 式化を与えることであり,第二は,労働力とは何かを与えることである。このうち, この III では,前者の問題を取り扱い,続く IV~VII では,後者の問題を取り扱うことと する。あらかじめ, この

I

I

I

の概略を示しておこう。まず, マルクスの「資本の定式化」 の特徴一産業資本の運動から抽象化したものを定式化しているーを与える。続いて, 宇野の「資本の三形式論」を活用して, マルクスの定式を修正し, もっと一般的な「資 本の定式化」を与えたい。そうした上で,現在の社会主義経済改革で利用されている 「資本の形式」は,資本主義的なものでもなければ,本来の社会主義的なものでもな いことを明らかにする。最後に, もし現在の経済改革で利用されている「資本の形式」 ない。たとえ市場機構がいかにすぐれた経済合理性をもっていたとしても,その役割が, 社会主義の倫理性から制約を受ける局面は当然存在する。社会主義に市場が積極的に導 入されるべきではあるが,決して市場の導入は万能薬ではない。 (3 ) なお,第二篤第四主主では資本の一般的定式Jが第一節であり r労働力の売買」が第 三節である。したがって,この他に第二節があって,そこでは r資本の一般的定式の矛 盾」が扱われている。拙著(15)でも述べたように,この矛盾設定の仕方には疑問がある。 但し,われわれは現在では,矛盾の設定の仕方より,むしろ矛盾の設定自体が,それ故第 二節自体が不要ではないかと考えている。

(6)

138 香川大学経済論叢 520 が資本主義的なものに転化するなら,資本主義的な搾取を容認することとなり, それ は社会主義の資本主義化を意味することを明らかにする。逆にいえば, ここに,資本 主義と社会主義を分かつ第一の分岐点が設定されることとなる。 さて, マルクスの「資本の定式化」の場合は,第二篇が「第三篇 絶対的剰余価値 の生産」に先立つところに置かれていること,正確にいえば「第三篇 第五章 第二 節 価値増殖過程」に先立つところに置かれていることが大きな意味をもっている。 マルクスは価値増殖の中身として,当然のように他人の労働の搾取に基づく価値増殖 を前提としている。だからこそ, マルクスは第二篇で「労働力とは何か」を与えてい るのであり, それ故マルクスが第二篇で「資本とは何か」を与える場合も,産業資本 の運動を流通商から抽象化して与えようとしているのである。 もし, マルクスのよう に産業資本の運動を明らかにする前提条件として貨幣の資本への転化」を位置づけ るなら,私はマルクスの規定で充分であると考える。 したがってそこでは,理想的平 均的な状態(等価交換) を前提にして, それで、も,他人の労働の搾取に基づく価値増 殖が成立することを明らかにすればよいのである。不等価交換(価格差) を前提にし て成立する商人資本的活動などは,論点を不純化するだけであるから,言及しない方 がよいに決まっている。 しかし,価値増殖は他人の労働の搾取に基づかなければ成立しないというものでは ない。価値増殖が,投下した貨幣 (G)が増殖して戻ってくる (G')という意味であれ ば(それ以外に提起しょうがないが), それは他人の労働の搾取に碁づかなくても成立 しうるのである。このことは, たとえば商人活動が労働者を雇わないで行われた場合 でも,商人資本の運動が価値増殖を実現していくことを考えれば明らかであろう。ま た単純商品生産者でも,獲得したG'から「自己の生活のために必要な部分」を除いて, なおムGが残ることはありうることである。いずれも価値増殖していることは事実で ある。もちろん,価値増殖が無制限に拡大していくためには,他人労働を搾取しなけ ればならない。もし他人を雇用できないとすれば, その関係をそれ以上拡大すること はできないことになる。しかし, それで、もそれは,他人を雇用できなければ価値増殖 に限度があるといっているだけであって,価値増殖自体が否定されることではない。 とすると,マルクスの課題から離れて,一般的に「資本とは何かJr価値増殖とは何か」

(7)

521 市場社会主議論序説 -139 を明らかにする場合には,さまざまな価値増殖の可能性を含みうる形で,その定式が 与えられねばならない。そうした定式は,マルクスのような産業資本的運動を抽象的 には含みうるが,それ以外の価値増殖をも抽象的には含みうるものでなければならな い。われわれは,こうした問題を大胆に提起したのが,宇野理論の資本の三形式論で あると考える。もちろん,宇野理論自体はほとんどそのような位置づけは考えていな いのであって,資本の三形式は産業資本的形式を導くための議論となっている。われ われは,むしろ宇野の資本形式論をより一般的な資本の定式化と理解することによっ て,商品経済システムのワーキングの分析がより完全なものとなると考えている。 但し,そのためには,宇野の「資本の三形式」論を修正しなければならない。即ち, 宇野の「資本形式」論では1.商人資本的形式 (G-W-G'),2.金貨資本的形式 (G.σ), 3.産業資本的形式 (G-W

P

W'-G')が導かれる。問題は,なぜ産 業資本的形式が導かれるかという点である。即ち,商品・貨幣関係では,商品所有者 の欲望(高く売りたい・安く買いたい)を前提にし,この調整過程を問題とした。資 本形式論では,資本所有者の欲望(より高い利潤率一一正確には,利潤率というより 期間利潤率である一一ーを獲得したい)を前提にし,その調整過程が問題とされる。資 本所有者が自らの貨幣を投下できる部門として1.商人的活動 2.金貸的活動,

3

.

商品生産的活動の三つがある。このうち,商品生産的活動は,産業資本の運動を も抽象的には含みうるが,しかしそれ以外の商品生産的活動も含むものとして与えら れるべきであろう。この点から注目すべきは,山口(14)である。そこでは,商品売 買資本の形式,貨幣融通資本の形式,商品生産資本の形式,の三資本形式が与えられ ており,産業資本的形式は導かれていな氏。ただ,山口(14)は商品生産資本の形式 と名付けながら,その中身の説明において,労働者の雇用という観点を明示的に与え ている。これは宇野的な資本形式論を引きず、ったものと考えられるし,これでは産業 資本的形式と同じこととなってしまうし,商品生産資本の形式を提起した効果は半減 (4 ) なお,山口 (14)では,貨幣融通資本の形式を更に二つに分けて,貸付方式と証券投資 方式を区別している。この区別は,現代社会主義で株式会社形態の利用が伝えられること を考慮し,更にわれわれのような位置づけに立っとすると,時代をかなり先取りしたもの であったということができる。

(8)

140 香川大学経済論叢 522 してしまうこととなる。われわれは,商品生産資本の形式が担うべき生産関係はブラッ ク・ボ、ツクスのままにすべきであると考える。 もちろん以上の問題は,商品生産資本の形式と産業資本の形式の問題に限定される ものではない。資本形式論で展開されるすべての資本の運動形式と,資本主義的生産 関係の本質が解明された時,資本がとる運動形式との差という問題でもある。たとえ ば, ここで与えられた商人資本的形式や金貸資本的形式は資本論』で後に展開され る商業資本の運動や貸付資本の運動(それを媒介する銀行資本の運動) の抽象的な規 定を含んで、はいるが, そのものではない。そして更に,次のようにこの関係を発展さ せることができるのではないか。即ち,もし生産活動を担う社会主義的な企業の行動 産去を去

λ

らふら長÷主える

L

すれ

l

i

'

,商品生産資本の形式仏毛の行動様えら抽象 的会規定を含んではふるふ,その行動議式そのものでは去ム, e:。したがって,資本 形式論で与えられる商品生産会未ら岳会主,生産活動を自

3

在会圭義的な企業ゐ行動 と産主全半由形式と止分かれるオリクチノレなものとムぅミと止なるのる危ないだろろ か。ちょうど,人間と猿が共通の祖先を持っているが,共通の祖先は現在の人間とも 猿とも巽質であるということと類似している。 もっとも, こうしたアナロジーは,歴 史=論理説的な理解を生みやすいので注意して使わねばならないが。 ところでわれわれは,社会主義社会で商品・貨幣関係を利用しようとすれば, それ は必然的に資本形式の展開を許容せざるをえないし, さもないと,商品・貨幣関係(市 場機構)の利用自体が中途半端なものに終わってしまうと主張してきた。 しかし以上 の議論を踏まえると, この主張にも若干の修正が必要でトはないかと考える。即ち,現 実の社会主義で,商人的活動や金貸的活動は許容され,最近では, その延長上に株式 資本形式による資金調達も許容され始めている。そして当然のことながら,商品生産 的活動が, たとえば仕事が終了した後に再度働くとか,家庭農園で農産物を作るとか という形(コノレナイ (7)でいえば,非公式の私的セクター)で利用され,更には, サービス業を中心として公式の私的セクターとして利用され,現代主士会主義の活性化 に役立っている。但し,それらはもちろん本来的な社会主義的形態そのものではない。 また(公式の私的セクターで労働者の雇用が展開されている場合を別とすれば),資本 主義的形態そのものでもなしいわゆる単純商品生産者に近いかもしれない。先のア

(9)

523 市場社会主議論序説 -141-ナロジーで、いえば,あくまでも共通の祖先に近いものでしかないのであり,いわば「生 きた化石」が登場してきたとでもいうべきものではないか。 ここからわれわれは,二つの問題を提起したい。第一に,商品生産的活動が,上に 例示したような形(,生きた化石 J) で,社会主義の活性化のために利用されるにして も,それは産業資本的形式とは一線が画されねばならないのではないかということで ある。その一線を越えれば(,生きた化石」を越えて,他人の雇用が容認されるなら), それはやはり社会主義からの逸脱であり,資本主義への道を意味するであろう。われ われが,先に紹介したコJレナイ(7)や凌(1

2

)

の立場に賛成できない理由はここに ある。 7人以下といえども人を雇用して生産活動を行うこととは,規模に関わりなし 質的な相違があることでトはないだろうか。もちろん,ソ連や東欧の人々がそれにもか かわらずあえて資本主義への道を選ぶとすれば,それは彼らの自由である。しかしそ のようなことを論理的に容認、すればーーもちろん現実的な制度としては,さまざまな 修正が必要であろうから,類似した制度が登場することもあるかもしれないが一一, くそこではマルクス的な意味での搾取が成立することになる〉ということは社会科学 的にきちんと与えられねばならない。かくしてわれわれは,社会主義がその活性化の ためにいかなる経済改革を進めようと,資本主義から社会主義を分かつものは,まず 第一に,搾取が否定されているかどうかという形で与えられるべきだと考える。この 点から,われわれは,欧米の市場社会主義論の議論についても疑問を提示しなければ ならない。たとえば,グランド=エスツリン編C

4

)の第

6

章で,ウインターは,マル クスの搾取理論をローマーを援用しつつ批判している。即ち,搾取は労働の異質性か らも発生するとし,たとえば質の高い労働には高い賃金が支払われ,その結果資本家 より高い所得を獲得するかもしれないとする。そしてこのようなマルクスとは反対の 例を取り出し,これを労働者による資本家の搾取としている。またミラー C8 )は, マルクスの搾取理論を紹介した後で,それを資本と労働の聞の移転 (transfer)の差(労 働から資本への移転=労働力の使用価値>資本から労働への移転=労働力の価値)で あるとし,この関係を拡大して,宝くじゃ保険証書の例を出してくる。つまり,宝く じが当たった人は当たらなかった人から金額の移転を受けるが,これを搾取とは考え ないだろうというわけである。ウインターにせよ,ミラーにせよ,まずマルクスの搾

(10)

142 香川大学経済論叢 524 取概念を不十分なものとして批判し,そこからマルクスとは異なる搾取概念を提起し, 最後にその搾取概念を否定するものとして市場社会主義を提起しようとするのであ る。(社会主義である以上,かれらにとっても,搾取は否定されるべきものなのであろ ういわれわれは,かれらのマルクス批判やかれら自身の搾取概念にほとんど意味があ るとも思えないので,ここでは反論をしない。問題は,かれらがなぜこのような批判 をしているのかという点である。これは想像でしかないが,かれらは社会主義に市 場機構を導入すると,マルクス理論に従う限り,それは必然的にマルクス的な意味で の搾取を生むことになる」と考えたからではないか。それ故,市場社会主義を提起し たい(同時に搾取を否定したい)かれらは,マルクス的な意味での搾取という概念を 否定しようとしたのではないだろうか。したがって,われわれのかれらの対する最良 の批判は r社会主義に市場機構を導入しでも,マルクス理論に従う限り,それは必然 的にマルクス的な意味での搾取を生むものではないJ(もちろん,ある一線を越えれば 搾取が成立することになるが,ある範囲内であれば搾取は成立しない)ことを示すこ とである。いうまでもなく,本稿の全体がその答えになっているはずである。 第二に,だからこそいつまでも「生きた化石」を利用するというのではなく,生産 活動を担う社会主義的な企業の行動様式が追究されねばならない。いま社会主義で中 央計画的な指令経済の弊害が噴き出し,まさに崩壊しかかろうとしているが,崩壊の 最大の原因は,中央計画的な指令経済に代わるべき代替案を提起できなかったところ にある。自主管理型社会主義がいまのところそれほどの成果を出しておらず,その意 味で代替案がないのだから,とりあえずは先に例示したような形 (r生きた化石J)の 活用でもよい。しかし,究極的には本来的な魅力ある代替案が提起されねばならない。 社会主義とは,人聞が意識的に理想的な社会を構築しようとする運動そのものである。 この点で,資本主義が, (混合経済下ではある程度社会主義的な要素を取り入れている ことは事実であるが)基本的には自然の法則性に盲目的に従うものであることと根本 的に異なっている。いまのところ理想的社会の構築がうまくいかないし,それどころ か思まわしい数多くの歴史が形成されてきたことも事実であるが,人類がこうした試 みを永久に放棄するとも思えない。振子はまた必ず、逆に戻ってくるのではないだろう か。本稿でも,以下では,労働力の商品化を考えるなかから,その一端を考察するこ

(11)

525 市場社会主議論序説 143 ととなろう。

I

V

.

労働力の商品化一一原論的考察一一 次に,貨幣の資本への転化」のもう一つの論点である「労働力の商品化」について みることとしよう。このなかから,われわれは,労働力の商品化」否定の原論的な意 味を考え,その上で資本主義とは異なる社会主義的なあり方を追究することになるか ら,その考察を通して,資本主義と社会主義を分かつものを最終的に与えることとな るであろう。 さて,この問題を考える際にまず参考とすべきは,ソ連労働市場の詳細な現状分析 を試みた大津(9 )である。そこでは,第一に,労働力の配分には, (1)国家的・指令 的配分, (2)市民的・市場的配分, (3)誘導・動員的配分,の三つがあるが, (,ポリトエ コノミア」ーソ連の通説的経済学ーも,わが国の経済学も承認してこなかったが),ソ 速における労働力配分の圧倒的多数は,実は,市民的・市場的な配分であることが明 らかにされている。第二に,それにもかかわらず,企業の目標は何よりも生産高ノル マの達成であり,そのための生産手段の配分やその結果の生産物の評価は,基本的に は市場経済ではなく,指令経済で動かされている。(したがって,第ーに賃金費用は, 低賃金のため,相対的に安く,コスト意識に響かない。第二に賃金費用を努力して削 減しても,経営指導者の利得にならない。第三に賃金支払いについては,生産計画さ え達成していれば,期首の計画を『超過達成』しでも上級機関は寛大だ?。……」大津 ( 9 ) 105頁)。かくして,企業はたえず過剰雇用を志向し,合理的な根拠をもたない 「完全雇用」が実現することとなる。社会主義が達成したといわれた「失業の撲滅」 も,実はかかる中身をもっていたのである。但し,このような現状分析を踏まえた場 合,ソ連社会では労働力が商品化しているというべきかどうかについては,大津(9 ) は答えを留保しているようにみえる。(大津 (9)7~8 頁)。いうまでもなく,本稿で は , 大 津 (

9

J

が留保した問題について,原論的な立場から解答を与えたいと考えて いる。しかも,それを大津(

9

J

のように,ソ連の状況を前提としてではなく,市場 (5) 社会主義を前提してである。 (5 ) 大津C9 )は,留保しつつも,最終的には社会主義の労働力=商品説にたっているよう

(12)

-144ー 香川大学経済論叢 526 労働力の商品化を原論的な問題として考える場合,われわれはあらかじめ次の二点 を注意しておかねばならない。即ち,まず第一に,われわれは,労働力を提供したい 人聞が,その需要者と出会う場所=労働市場があるということだけで,労働力が商品 化するとは考えていないということである。市場で取引されれば,その取引対象は, すべて商品になるとすれば,労働力も商品となるという以外にないだろう。しかしわ れわれは,もし労働市場のなかで決まる契約のなかで,賃金決定や労働時間決定の一 定部分が市場ではなく,労働者自身に任されるとすれば(実は,こうしたことこそが 社会主義の基本的な特徴であると考えるが),その場合は,労働力は通常の意味での商 (6) 品化からは外れると考えざるをえない。このような考えをあえて主張するために,わ れわれは,マルクスの「二重の意味での自由」という規定に戻ってみることとしよう。 であるが,これに対して岡田 (11)は,ソ連労働市場の状況を十分踏まえながらも,社会 主義の労働力ニ非商品説にたっている。その理由は次のようである。ソ連型の社会主義で は,労働者の人格に工重化が生じ,←方では労働者階級が全体として党=国家に代表 されJ,他方では個々的には労働者が単なる稼得者に転化するJo'このような人格の二 重化は,労働力の商品形態の止揚の後に,あらためて個々の労働者市民と固有企業との聞 に,自由で平等な雇用関係を再現する」。しかし固有企業において生産手段と結合する 労働力は商品ではない。第lに,国有企業は価値の自己増殖運動G-W-G'を展開しな い。国家,固有企業の目的は価値で、あるというよりは国民生活の保障と党=園家のための 経済余剰の吸収である。第 2に,労働者への労貨の分与,価値生産物(純価値)の分割, 国民所得の分割は,労働市場において労働力商品の価値規定に従って,国家の意志から独 立して,行われるのではなく,国家によって集権的に決定される。山 引 J(岡田 (11)の (上)30頁)。われわれも,以下で述べるように,労働市場が成立し,労働力の配分が市 場形態で行われるとしても,それだけで労働力が商品になるとは考えない。その意味で は,岡田 (11)と共通する主張となる。ただ,われわれが問題とするのは,大津(9 )や 岡田 (11Jが問題とするソ連型の指令経済における労働力の問題ではなく,市場社会主義 における労働力の問題である。 (6 ) 凌(12)は,社会主義で,労働力や土地や資本や技術が商品化すべきかどうかを検討し ている際 (33~34 頁),労働市場の形成をもって,労働力の商品化であるといっているよ うにみえる。いうまでもなし一般的な商品だけでなく,労働力の配置や評価づけも,そ の大きな部分を市場に委ねるということがなければ,市場社会主義は成立しえないだろ う。したがって,もし労働力の配霞や評価づけの一部を市場に委ねることが労働力の商品 化であるとすれば,市場社会主義は労働力の商品化を否定できないこととなるし,労働力 の商品化こそが資本主義の根本的な特徴であるとすれば,市場社会主義は実は資本主義 そのものだということになる。いうまでもなく,われわれはこのような立場には立たな い。われわれの市場社会主義論では,資本主義と社会主義とを分かつものは,非常に狭い 境界のなかにしか存在しないが,その境界を探ることが今日的に大きな意味をもってい ると考えるのである。

(13)

527 市場社会主議論序説 145-そのうちの第ーは労働力を自由に処分することができる」という規定である。職業 選択の自由とは,労働者の立場に立てば,この「労働力を自由に処分することができ る」ことと同じであり,社会主義としても本来守るべき自由の一つ,重大な つのは ずである。「労働に応じた分配」が支配する社会主義では,各人は,どこで,どのよう に労働するかに大きな関心をもっており,それ故当然,自分が希望する職業と希望す る条件を申し出る機会が寸分与えられねばならない。もちろん,それは相手があるこ とだから,必ず実現するものではないが。その場合,計画経済的にいえば,中央計画 当局が,一方ではそうした希望を集約し,他方では宅士会主義企業側の希望を集約して, その(需給)情報の相互伝達を通して,最終的に中央計画当局が両者の納得できる形 で配分を決めていくというものであろう。しかしそこには,当然膨大な情報の処理の 困難さが発生するし,その上利害の調整を国家機闘が行うことにはどうしても問題が 残ることとなる。だから,大津 (9) が明らかにしているように,いままででも完全 に計画経済的に行われたことはなかったし,われわれの立場からいえば,当然市場に まかせる以外にないだろうということになる。かくして,社会主義でも維持すべき職 業選択の自由は,労働市場という市場機構を利用して実現していく以外にない。だか らといって,われわれはこれをもって労働力が商品化しているとする必要はないと考 える。労働力の商品化の鍵は,マルクスの規定のうち,むしろ第二の「労働力以外売 るものをもたないJ (あるいは「生産手段からの自由J) という規定にかかっていると 考えるべきではないか。いうまでもなく,労働力商品化にはこつの条件があって,ど ちらか一方でも欠ければそれは成立しないか,たとえ成立するとしても,その商品化 は不十分なものとして留まるということになる。われわれは,市場社会主義では,第 一の条件は成立するけれども,第二の条件が否定されるべきであると考える。もちろ んこの意味も,生産手段を法律的に所有するかどうかに限定されてはならない。生産 (7) r社会主義経済は経済運営における国家の優位の承認から出発するが,ブルジョア社会 が到達した基本的人権を否定するものではない。職業選択の自由は基本的人権の一つで ある。社会主義はこれをより実質化し,労働の権利を保障することは,繰り返し主張され るとおりである。戦後の非常事態では,資本主義社会でもこれが否定されることがあり, 社会主義でも然りであるが,社会主義における政治的自由の制限と結びつけて,職業選択 の自由の制限ないし否定があたかも社会主義の常態でもあるかのような誤解がときにみ られる。J(大津 (9) 29頁)

(14)

146 香川大学経済論叢 528 手段を法律的に所有しておれば,労働力を商品として売ることもないであろうが,た とえ法律的に所有していなくても,生産に関するさまざまな決定に労働する人聞が関 わることができれば,それは経済的には生産手段を所有していることと伺じである。 したがって労働力の商品化とは,最終的には労働がいかなる形態で行われるか,賃金 がいかに決定されるかという問題にかかっているということになる。(このことを原論 的にいえば次のようになる。『資本論』では,第2篇で,労働力を説明する時,その使 用価値はどうなるか一一一労働がいかなる形態で行われるか一ーといった上で,その解 答を求める形で,第3篇に移行している。ところが価値規定については,第 2篇で, 他の商品と同様その商品の再生産に社会的に必要な労働時聞によって決まるという規 定を与えている。もちろん,これは搾取理論を与えるには必要な規定ではある。しか し,労働力の価値がどのように決まるかは,最終的には労働力の需給メカニズムのな かで決まってくるのであって,それを与えるのは第 7篇の蓄積論である。原論的にい えば,労働力の商品化という問題も,そこまで展開して初めて解決が与えられること となる)。 したがって第二に主張すべきことは,上の問題と関連することであるが,職業選択 の自由は,逆に失業の可能性を内に含んだものにならざるをえないということである。 (大津[9 )参照)。失業の中身は,たとえば産業構造の変化に伴う摩擦的失業のみな らず,産業循環的な失業も含むものとなる。(われわれは,市場経済を導入すれば,社 会主義といえども,産業循環的変動は避けがたいと考えている。もちろん,社会主義 であれば,それへの対応策が資本主義とは異なるものとなるであろうし,その点は大 きく強調されるべきではある)。しかしいずれにせよ,問題は失業があるかどうかでな く,それがいわゆる産業予備軍効果のように,働く人間への抑圧手段にならねばよい のである。抑圧手段となるということは i失業の恐怖」の下に就業者を締め付けると いうことであるから,抑圧手段となるかどうかは,労働がいかなる形態で行われるか, 賃金の決定がどのように行われるかにかかっている。かくしてこの点からも,労働力 商品化の問題は,市場での出会いのあり方(市場での処理にまかせるという点)の問 題ではなく,むしろ人間の労働する場が決まった後の労働形態ーーその労働支出の中 身と報酬の与え方の問題一ーであるということになる。以上のニつの点を前提にして,

(15)

529 市場社会主議論序説 -147-次に,労働の評価と労働の支出の問題について考えてみよう。

V

.

労働の評価 ここでは,まず,提供される労働がいかなる形で評価されるかという問題を考えて みよう。資本主義では,先にもみたように,まず,労働力の価値規定として,その再 生産に社会的に必要な労働時間(生活手段の価値)によって決まるということになる。 但し,人聞は鶏や豚ではないから,たとえ需要が供給を上回っても

i

それで増産する というわけにはいかない。これこそ,労働力商品の特殊性として強調される点である。 したがってそのままであると,賃金率の上昇=利潤率の低下を生むことになる。そこ で,資本家は蓄積率を低下させたり,機械を採用したりして,需給関係を自ら望まし い水準にもっていき,失業者の圧力で賃金を抑圧(,産業予備軍効果J)しようとする こととなる。こうして,労働力の価備規定は,蓄積論まで展開して初めて完結するこ ととなる。 では,社会主義ではこの問題はどのように扱われるべきか。ここでの問題は,社会 主義に市場経済を全面的に導入した上で,なおかつマルクス的な意味での搾取が否定 されねばならないということである。まず,搾取の否定であるから,資本家的な利潤 は否定されることになる。但し,社会的組織である以上,指揮者=経営者は,労働す るもの全体の意志が反映されるような形で選ばれねばならない。経営者が必要である 以上,それへの報酬も必要不可欠である。したがって,問題は,経営者報酬以外の付 加価備が,提供した労働に応じてどのように評価され,それ故どのように分配される かである。社会主義が働く人聞が主人公になる社会であるとすれば,この評価・分配 を決めるのは労働者自身でなければならない。ただ,この場合,いまわれわれが対象 としているのは市場社会主義であるから,この決定には自ずからさまざまな制約が加 わることとなる。即ち,まず第一に,市場社会主義では企業の商品は市場で評価され るから,商品を生産するために投下された全体の労働=付加価値全体は,市場の評価 に依存している。第二に,企業内の個別的な労働の評価も実は市場による評価となら ざるをえない。先にみたように,職業選択の自由が保障され,職業を選択する際のい くつか条件のなかに報酬も入る以上,これにも市場の評価機構が働くものとみなされ

(16)

148- 香川大学経済論叢

5

3

0

なければならない。マルクスがやっているように,市場機構は,複雑労働を単純労働 の何倍という形で評価するし,熟練労働を未熟練労働の何倍という形で評価するので あり,そうした形で労働契約が結ばれることとなる。そして,その後は実績に応じて (社会主義であるから,実績を判断するのは経営者だけでなく,労働者自らも入るべ きではあろうが),評価・査定されることとなる。更に,自らの労働に対する評価が納 得できなければ,労働する場所を変更することができるというのが職業選択の自由で あるから,こうした市場を通した評価はたえず行われることとなる。そして第三に, 市場で決まるこつの評価(←方では全体の労働=付加価値全体,他方では企業内の個 別的な労働)を前提にすると,労働者が決定するものはきわめて限定されたものにな る。即ち,個々の労働の聞の違い(たとえば,単純労働を 1とした時,ある複雑労働 はその

15

倍というように決まる)は,上にみたような市場機構の作用から決まって くるから,残された決定は,時間当たり賃金の絶対的水準(単純労働を時間当たり 1,

0

0

0

円というように決める一一そうすると,ある複雑労働は

1

5

0

0

円ということにな るー←)ということになる。そしてそれを決めるということは,実は,労働者集団の (8 ) 大津C9

1

によれば,ソ連の賃金システムは3本の柱から成り立っている。 L どのよ うな職種・技能資格に属するかを特定化する。 2. そのなかで,経験年数や技能に応じて 1~6 までの等級に分ける。 3. その 1 級賃率に 定の貨幣額をかけて,基本質率を決め る。ソ連のシステムでは,これを決定するのは国家である(国家が決めているのになぜき わめて大きな転職が発生しているのかは,大津 C9)に詳しく説明されている)が,市場 社会主義では,このうち前二者は市場機構を通して事後的に決まってくることになる。も ちろん,国家が決めようと市場が決めようと,そうして決まってくる賃金格差が,社会主 義の理念から正当化されるかどうかという問題は残る。その問題とは労働の複雑度の 差等から派生する賃金格差は社会主義の下においても必然的であるJ(岡田 (11)の(中) 28頁)が複雑労働のための修業費用の支出が公的に負担されるのに,複雑労働(カ所 有)者が相対的高賃金を享受するとすればそれは分配上の社会正義と矛盾するものでは ないかJ(31頁)というものである。この問題への解決策は容易にはみっかりそうにない が,たとえば,グランド=エスツリン編 (41 は,出発点における機会均等を強調し,単 なる教育の機会均等ではなく,知的能力に劣るものにこそ,より大きな教育が与えられる べきだと主張している。これも一つの解決策かもしれない。 (9 ) ソ連の賃金システムでは, 3番目の柱ということになる。この点からいえば,労働市場 で雇用契約が結ぼれるといっても,すべてがそこで決まるというわけにはいかないこと になる。たとえば新規学卒の雇用契約の時に,初任給をいくらと決めるであろうが,その 初任給は必ず保障されるものではない。いかなる体制でも賃金は後払いであり,それ故企 業の経営状態に左右されるし,社会主義では労働者集団全体の意志にも依存している。資 本主義的雇用でも企業の経営状態に作用されることに変わりはない。違いは,資本主義的

(17)

531 市場社会主議論序説 -149-現在の支出と将来へのフアンド形成(これが社会主義企業の利潤にあたる)との聞の 比率を自ら決めるということになる。具体的には,一方では,売上高から原料コスト や減価償却積立金を号│いた金額が確定してくる。他方で,標準的労働の時間当たり賃 金の絶対的水準を決め,そこから他の労働に対する評価が決まっていくと,全体的な 賃金支払額が自動的に決定される。その結果,賃金支払総額と企業利潤額との比率が 決まってくることとなる。そしてもし将来に残すべき企業利潤額を大きくしようとす れば,標準的労働の時間当たり賃金の絶対的水準を低下させなければならないという ことになる。市場社会主義では,この選択こそが労働者集団全体に残された決定事項 なのである。 労働力の商品化を否定するという場合,字野理論では「労働者が自らの賃金を決め る」というところにあるとする場合が多い。しかし,市場社会主義的な形態を前提す る時には,各々の単位時間当たりの賃金格差も市場機構を通して評価されることとな るから,労働者が決定するのは,実は現在の支出総量と将来への支出との選択でしか ないのである。 雇用なら資本家と労働者の対立関係によって決まってくる部分が,社会主義的雇用では, 労働者集団全体の意志として決まり,しかも全員がその決定に加わることができるとい う点である。 (10) たとえば,大内編 (10)では資本主義の本質を労働力の商品化という形で宇野弘蔵 先生がおさえたということは正しい指摘だとぼくは思っています。そうすると,社会主義 というのは労働カ商品化の廃止でなければならないことになる。 宇野先生が雑談的 にですが,労働力商品化の廃止のメルクマールは,賃金の大きさを労働者がきめる,自分 できめるということだといわれたことがありますj (11 頁 ~12 頁,日高発言)。 (11) われわれの社会主義論と宇野理論の社会主義論とは決定的に異なっている。いうまで もなく,宇野理論の立場では,社会主義に商品経済を導入することに否定的である。だか ら,そこでは独特の社会主義論が展開されることとなる。たとえば大内編(10)は,協同 組合ができても「その組合と組合の間の関係はどういうことになるのかな。なんとなく商 品経済的になって,また商品が r世界のすきま』にのこる気がするj (23頁,大内発言) と心配することとなる。また,市場関係を導入することに否定的であるとすれば,いま問 題としているく個々の労働評価を市場に任せる〉ということは一切拒否することになる。 そこから,怠けた者には「それは当面は職場内規律というか,ある一つの社会の中の自己 規律でやるしかない。具体的な形でいえば,一種の人民裁判をやるしかないでしょう。怠 けた奴はつるしあげる。それでもまだ怠けた奴はどうするかしらないけれども,処罰せざ るをえないだろうなj (35頁,大内発言)ということになる。そして,当然のように,職 業選択の自由も否定されることになる。「労働力商品化の一つのメルクマールは,職業の 自由とか就業の自由というものでしょう。それは労働力の商品化の一つの基本的な条件

(18)

-150- 香川大学経済論叢 532 VI.労働の支出 量 的 側 面 次に,労働はいかなる形で提供されることになるのか。労働がいかなる形で提供さ れるかという問題を原理的に考えるなら,資本主義では,労働力の使用価値として, 一度購入されたものは商品所有者たる資本家の自由に,それ故無限の価値増殖の支配 の下に霞かれることとなるということになろう。問題を更に分ければ,量的な側面と 質的な側面があろう。量的な側面とは,どれだけの量の労働を使用するかであり,質 的な側面とは労働をいかなる形で編成するかである。この点を『資本論」に遡って繰 り返す必要はないだろう。 では,社会主義ではこの問題はどのように扱われるべきか。ここに新たな原則が確 立されるべきである。先にみたように,労働者は現在の支出総量と将来の支出との聞 を選択できることになるが,その前に,ある期にどれだけの生産を行うかという決定 があり,そこには労働者の労働と余暇の選択の問題がある。これは,何時間労働する だから,労働力の商品化をなくすということは,じつはそういうブルジョア的『自由』を 何らかの形において制限せさるをえないという問題になるという気がするJ Cl 86~187 頁,大内発言)。 これらの社会主義論はいずれも市場経済の導入に否定的なところから発生している が,今日の変化を前提にしても,相変わらず,かかる社会主義論を展開するのだろうか。 われわれの社会主義論は,社会主義に市場経済を導入することを必然的ととらえた上で, 労働者の主体的な決定がどこまで維持できるかという形で問題を提起している。 (12) ミクロ経済学のテキストをみると,労働の供給曲線を説明しているものとそうしてい ないものとがある。それは具体的には,消費者需要理論の一つの応用として与えられる。 即ち, 1 Bの利用可能時聞は余暇と労働に分けられるが,全部を労働に使った場合の所得 を初期保有誌とすると,それは,実際に労働した分の所得と, (実際には余暇に使ったが) もし余暇の時間も労働した場合の所得とに分けられる。ここで賃金率が変化した時,所得 や余暇がどう変化するかを追跡したのが,オファー曲線であり,それを前提して,賃金率 と労働供給量との関係を描くと,後方屈折供給曲線になる。そしてこれによって,く賃金 率が十分高いと,それほど労働しなくてもよくなるので,余暇をかえって増加させる〉と いう現象が説明できることとなるというわけである。但し,この現象が,資本・賃労働関 係の下で,即ち,マルクス的にいえば産業予備軍効果が作用するような状況下で,ケイン ズ的にいえば不完全雇用が支配しているような状況下で現れるかどうかは疑問である。 テキストのなかには:古かれていないものもあるというのは,そのような事情を反映して いるのかもしれない。 われわれが問題としている市場社会主義では,まさにこうした現象が対象となる状況 が現出することとなる。ロビンソン・クルーソーは臼のうち何時間を労働し,何時間 を余暇(と睡眠)に使うかを自ら決める。また,どれだけを毎日消費し,どれだけを将来

(19)

533 市場社会主議論序説 -151-かという問題であるから,資本主義における労働力の使用価値に相当するが,いわば その量的な側面である。いま,多くの問題を含む質的な側面は次節で検討するので別 とすれば,市場社会主義での労働者トの主体的な選択は,このく労働と余暇の選択〉と 先にみたく現在の支出と将来の支出の聞の選択〉というこつの問題である。その意味 で,その範囲は制限されているが,それでトも,このこつの選択を根拠として,社会主 義とは何かを積極的に提起できるのではないだろうか。即ち,社会主義とは,まず、第 ーに資本主義的な搾取を否定した社会である。しかし,それだけで、はいわば資本主義 を裏返した消極的な規定でしかない。働く人聞が主人公になる社会としての社会主義 は,積極的に次のように与えられるべきであろう。即ち社会主義とは,労働者自身が (人聞にとって最も根源的な)自分の時間を自由に処分することができる社会であり, 更に,現在の支出と将来への支出との聞を自由に選択できる社会である,と。資本主 義では,労働者にその権利が与えられておらず,このことが資本主義と社会主義を分 かつ第ごの分岐点となる。但し,このこつの選択を基準にして体制の違いを問題にす る場合は,すぐさま次のことを付け加えておかねばならない。即ち,労働者は余暇と 労働の選択をするなかから,まず獲得しようと思う全体の成果を決める(もちろん市 場の判断があるから,その通りに成果が決まるわけではないが)。その後,その成果を 現在支出するか将来に残すかに分けることとなる。(そして最後に,現在支出するもの が,既に決まつでいる基準と実績にしたがって,各自に分配されることとなる)。そう するとこれらの決定は,将来に残す部分を決めているのだから,結局社会主義企業の 投資水準を決めることになり,更には社会主義企業聞の成長・生産性の格差を決めて に備えてスト yクとして保有しておくかも自ら決める。こうした世界は,資本主義では, 資本の論理に人聞が翻弄されるから実現しないが,市場社会主義では,本来的には再現さ れなければならない。「ミクロ経済学の古典的問題に労働か余暇か」という選択問題が ある。ハンガリーの住民のなかには,前者を選択し,ある場合には生存能力の限界あるい はそれを越えるまで働く層が,広範に存在している。度々指摘される「ハンガリーの驚異』 の秘密のひとつは,ここにあるといえるだろうJo(コルナイ C7 ) 93頁)ハンガリーにお けるこのような状況は,残念ながら,労働と余暇の本来的な選択とはいえないであろう が。 (13) いうまでもなく,ニつの決定は相互に関連している。たとえば,現在の支出も将来への 支出も同様に増加させようと考えるなら,余暇を減らして,労働を増加させなければなら ない。

(20)

152 香川大学経済論議 534 いくこととなる。したがって,もしこの決定に競争関係が全面的に持ち込まれたら, 社会主義企業聞の激しい弱肉強食の世界が展開されることとなる。そこでは,当然現 在の支出を犠牲にして競争に勝ち抜かないと自らが滅ぼされることとなる。それ故, その恐怖観念の下に,永遠の自己増殖運動を続けることを余儀なくされることとなる。 そしてこのように与えられたものは,たとえ社会主義企業の運動であるといっても, それは資本の価値増殖欲に規定されたものとなり,運動の人格的主体が資本家の代わ りに労働者集団になっただけで,労働者集団は結局物象化を克服していないことと なる。われわれは,ここに紅会主義社会形成の新たな原則,たとえば友愛とか連帯と かが提起されなければならないと考える。それは,社会主義的企業相互を結ぶ紐帯で あり,共同性である。市場社会主義が社会主義である以上,単に搾取を否定するだけ でなく,人聞が価値法則に翻弄されるという生き方そのものが明確に否定されねばな らない。これこそが,資本主義と祖会主義を分かつ第三の分岐点であり,最も究極的 な分岐点となろう。もちろんわれわれも,それが(市場社会主義の他方の要素である) 市場原理とは容易に両立しないことを理論的にも経験的にも充分知った上で,である。 但し,現実の社会はいかなる社会でも,単に経済的な原理だけで動かされるのではな く,社会に埋め込まれたさまざまな要素によって初めて動かされているのである。し たがって,こうした紐帯とか共同性とかは,すでに一定の役割を果たしているといっ てよい。それは,必ずしも経済学的な世界の問題ではないが,それを明示的に取り出 してくる必要がある。そして,それを単に盲目的に受け入れるのではなく,われわれ 自身の分析対象として設定しなおしてみることがいま要請されているのである。 現代の日本の大企業は,巨大な利潤を獲得しながらも,それを海外で摩擦を引き起 こすような形でしか使用できていない。日本資本主義の繁栄といっても,その実態が このようなものでしかないとすれば,ここにわれわれは,資本の論理の倒錯した貫徹 をみないわけにはいかない。倒錯したとは,巨大な利潤がある階級に一方的に流れ込 (14) 本稿の注 (20)も参照。 (15) 私は,拙著 (15)終草で経済の論理のもつ強靭性にやはりよほど慎重でなければな らないJ

(

1

7

6

頁)と主張した。これは,紐帯とか共向性とかいった安易な精神主義が,経 済の論理(とりわけ商品経済的な論理)に簡単に覆されてしまうことを述べた(自省した) ものである。この点はいまでも変わりはない。しかし, (簡単に裂されないような)共同 性の構築自体は追求されるべきであることに変わりはない。

(21)

535 市場社会主議論序説 -153-りというわけでもなく (もちろんそうはいっても,所得・資産の格差を否定するもの ではないが),むしろ利潤を蓄積すること自体が自己目的化してしまっているという意 味である。われわれは,ここに,上に述べたような意味での労働者のイニシアティブ が発揮されねばならないと考える。現状でも,労働者の自主管理や協同組合がその機 能を完全に発揮できる場所である。こうして初めて,社会主義の問題を,資本の論理 そのものを否定するものとして提起できることとなるのである。

V

I

I

.

労働の支出一一質的側面一一 最後に,く労働力がいかに支出されることになるのか〉という問題の質的な側面がま だ残されている。質的な側面での問題とは,経営者の下で,いかにして労働者の組織 が形成され,いかにして労働者の共同性が確立されるかである。 社会主義の歴史上は,ここにも労働者の自主管理(=労働・生産の場における労働 者の自主管理)という問題が存在する。しかし,その先駆者たるユーゴスラヴィア自 体の状況を踏まえると,それがわれわれにも納得できるところの代替案(オールタナ ティブ)を提起しているものとはいえないであろう。むしろ,中央大学社会科学研究 所編

C3

)の

r

I

V

労働者自主管理と職場小集団活動J(石川晃弘執筆)によると,生 産の場での自主管理は,最終的には日本的な小集団活動に収飲していくかのようであ る。即ち, r1970年代中葉の連合労働基礎組織の導入は,それ以前に行われていた労働 者自主管理が間接参加に基礎をおいてきたために形骸化の危険があったという反省に もとづいて,自主管理の基本単位を小さくして,重要な意志決定における直接参加の 機会を増やす目的で行われた。しかし,そのようにしても,自主管理の場のおもな機 能はく分配〉にかかわる決定をすることでbあ、って,く生産〉にかかわる執行の点ではと くに変化はなかった。連合労働基礎組織の導入は,その意味で, <分配〉の決定におけ るく民主化〉をおしすすめたが,く生産〉の執行におけるく効率化〉をとくに促すもの ではなかったとみられるJ

(

7

6

頁)。そこで,この限界を補う試みがなされ,たとえば 「北欧で実験されていた準自立的作業集団」が導入され r職場の作業集団を決定と執 行の自立的な単位として,職場レベルでの自主管理を徹底させ,テーラー主義的作業 編成を超克しよう」とした。しかし「大部分の労働者は新しい形態の自主管理を発揮

(22)

-154- 香川大学経済論叢 536 させることを必要ないと信じている」ため,結局この試みは控折した。そこから「職 場レベルにおける決定と執行のフォーマルな構造には手をつけずに, <生産〉の執行に おけるく効率化〉の文脈で労働者自身の自発性と創意の発揮の場をつくりだそうとし たJ

(

7

8

頁)。要するに,日本的な小集団活動の導入である。そしてその結果として, 「既存の労働者自主管理制度が十分には機能してこなかった領域,すなわちく生産〉 の執行におけるく効率化〉の面で,効果を生みだしている」し rさらに,非経済的な 効果ももたらしている。すなわち,それは,たんに品質向上やコスト低減という点で 寄与しているだけでなく,いやそれよりもむしろ,職場風土や労働者個々人の態度の 変容をもたらし,社会的・心理的・教育的効果を生みだしているJ(109頁)。しかし, われわれは,日本的な小集団活動の問題点を認識せざるをえないし,それ故「職場レ ベルにおける決定と執行のフォーマノレな構造」の改革にこだわらざるをえないであろ (16) もちろん,うまくいかなかったのは,単に労働者が信じなかったためではないだろう。 労働者自主管理国有の問題がそこには内包されているはず、である。それは,向者の「沼 自主管理的統合と経済危機J(笠原清忘執筆)によれば,次のようになる。自主管理制度 は,本来組織的な問題として,意思決定プロセスにおけるリーダーシップの問題,時間的 制約の問題,そして責任のあり方の問題があった。特に,競争的な市場環境の下では,そ れは「企業長を中心とした経営管理機能の確立と組織構造のヒエラルヒーイ七J(290頁)に よって解決する以外になかった。ところが1970年代の改革は自主管理計画システムに よる統合への志向を強めるとともに,自主管理協定や社会契約を媒介にした労組の統合 機能の強化J(282頁)がなされ,解決方向とは「逆行するような改革が行われたJ(288頁)。 しかも 1970年代というのは,実は石油危機が発生して,こうした解決方向が最も必要と されていた時期であった。かくして,ユーゴスラヴィアの経済危機は一段と深化していく こととなった。そうしたことになった理由にはユーゴスラヴィアの特殊事情がいくつか ある。たとえば,ユーゴスラヴィア社会に広範に受容されているラディカJレな平等主義や 集団主義は産業化の初期においては諸階層のエネルギーを解放し,社会的葛藤を最小 限におさえる機能をもっている。しかし,社会・経済システムが最大限の効率化,能率化 へ向かつて大きな転換が要求される段階になると,この志向性は経営管理機能や専門職 の確立にたいして抑制的な効果をもたらすこととなるJ(298頁)0 f民族問題や共和国間の 利害対立が複雑に影を落とすユーゴスラヴィアでは,民族主義や自由主義的『偏向』の台 頭にたいしては横断的な社会政治組織による徹底した労働者階級の利害や自主管理権の 擁護という立場以外にコンセンサスを得る余地はなかったJ(302頁)。 問題は,ユーゴスラヴィア社会の特殊事情から離れたら r企業長を中心とした経営管 理機能の確立と組織構造のヒエラルヒー化」と生産の場における労働者の自主管理 (f友 愛」精神)とが両立するかどうかである。笠原論文をみる限り,両立できる道は示されて はいない。しかしわれわれが,資本主義でなく,社会主義を考えるとすれば,かかる問題 を徹底的に追究していく以外にないであろう。

参照

関連したドキュメント

経済学類は「 経済学特別講義Ⅰ」 ( 石川 県,いしかわ学生定着推進協議会との共

「父なき世界」あるいは「父なき社会」という概念を最初に提唱したのはウィーン出身 の精神分析学者ポール・フェダーン( Paul Federn,

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

 

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

(評議員) 東邦協会 東京大学 石川県 評論家 国粋主義の立場を主張する『日

在学中に学生ITベンチャー経営者として、様々な技術を事業化。同大卒業後、社会的

  中川翔太 (経済学科 4 年生) ・昼間雅貴 (経済学科 4 年生) ・鈴木友香 (経済 学科 4 年生) ・野口佳純 (経済学科 4 年生)