• 検索結果がありません。

cbj837-honbun indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "cbj837-honbun indd"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

いかに建築空間は思考されるか岡田哲史

2

回─起点としてのフランク・ロイド・ライト1聞き手=小巻哲 ─前回のイントロダクションにおいて、古典主義から脱 して現代に通じる建築空間へと導いたのはフランク・ロイ ド・ライトではないかという指摘がありました。具体的には

1910

年にベルリンのヴァスムート社から出版されたライト の作品集が、ヨーロッパにおけるモダン・ムーヴメントを加 速させた、と。  そのあたりの掘り下げから、まずは始めましょうか。 岡田─デ・スティルが理論の段階で足踏みしていた「プ レーン(平板=平面)によるコンポジション」を、ライトはすでに 住宅設計の現場で実践していたという話ですね。前回 すでに話したとおり、ライトのなかには旧来の閉じた箱を 壊そうという意識は強くあったわけですが、プレーンによ る造形操作が新しい時代の建築を切り拓く方法であると ライトが確信していたか否かはさておき、ライトが試みた 造形操作がヨーロッパのアヴァンギャルドに共鳴してし まったことに核心がある。そしてその最初の鍵を握ってい た建築家がベルラーヘであったことも前回触れました。こ こではそのあたりから少し詳しく見ていきたいと思います。  アメリカを訪れる以前のベルラーヘは、

H

H

・リチャード ソンの作品に関心を寄せていました。実際に彼の金字塔 とも言えるアムステルダム証券取引所(1896 -1903)にはそ の影響を見てとれます。ところが

1911

年に渡米してルイ ス・サリヴァンやライトの作品を実見してからというもの、そ う意味で使用していたことがわかります。他方、ユニティ・ テンプル(1904 -08)を称賛する別の箇所では、外観につ いて「この建物の造形性は、その大らかなスケールがエ ジプト神殿のそれを髣髴とさせ、印象的です」と発言して います。この場合、その表現が多少の曖昧さを残しては いますが、「大らかなスケール」の建物だからその造形性 が印象的と言っているのではなく、三次元的に豊かな表 情を見せる建物の造形性を印象的であると伝えたかっ たはずなのです。[Fig.1]  ところでケネス・フランプトンはデ・スティルの「新造形主 義」という用語について、数学者スフーンマーケルスの造 語「新しい造形」に由来するものであると説明しています [注2]。「新しい造形は直交要素によって規定される」とい う、今にしてみれば摩訶不思議な理論は、なるほどデ・ス ティルの造形性と直接的に重なるわけですが、画家のモ ンドリアンにとってみれば容易に応用のきくその理論も、 三次元を扱う建築家にとってみれば難儀な話です。理論 があまりに抽象的すぎるのです。実際にフランプトンでさえ 「スフーンマーケルスはデ・スティルの形成期に大きな影 響を及ぼしはしたが、その美学的展開に対してはなんら 直接的な役割を果たさなかった」と追記しています。こう した話をもろもろ総合すると、結局のところ、やはりライトの 建築作品がもたらした具体的な建築のイメージがデ・ス ティルの少なくとも建築デザインにおける展開を決定的な ものにしたと言えるのではないか。というか、それ以外に は考えられないのです。そのさいに強力な触媒として働 いたのが、上記のベルラーヘが使用した「造形的」ある いは「造形性」という言葉であったという読みです。デ・ス ティルの建築デザインは、数学者スフーンマーケルスによ の新奇性の虜になっただけでなく、アメリカの先進的な建 築に反射させながら、新しい時代の建築の在り方を巡る それまでの自分の考え方に過ちはなかったと自信を深 め、持論の合理化を推し進めます。帰国後も興奮冷めや らぬあいだはアメリカ旅行の土産話でもちきりだったよう ですが、今日でもその一端をうかがい知ることができます。 彼が

1912

3

月にチューリヒで講話した内容の記録が、 幸いにも、同年

9

月に刊行された『スイス建設技術ジャー ナル』[注1]に記事として掲載されていたのです。講演タイ トルは文字どおり「新しいアメリカ建築」。このなかでベル ラーヘは繰り返しライトについて讃辞を与えていました。 ちなみに、ベルラーヘのアメリカ建築に対する態度は文 面からして明らかに上から目線であって、それもボザール を同じ大陸にもつことの優越性からきていることは疑いの ないところなのでしょうが、それにしてもその優位に立って いるはずのベルラーヘがライトの作品については褒めち ぎるわけですね。ヨーロッパの建築には見られないオリジ ナリティをもっているとか、ライトによるデザインのディテール はとりわけ魅力的だとか、まさにベタ褒めです。  そのなかで私が注目しているのは、ベルラーヘが「造 形的」あるいは「造形性」という語彙を使っている点で す。以下は彼の言説からの引用です。 (ライトの建築に見られる)諸室=内部空間のオリジナリティを もっとも的確に表現するには“造形的”という言葉が相 応しく、それはヨーロッパにおける(建築の)内部空間が ペチャンコ、つまり二次元的であるのと対照的です。  このことからベルラーヘは「造形的」を「三次元的」とい

C A S A B E L L A J A P A N

レ ク チ ャ ー

Fig.1:ライト|ユニティ・テンプル、オークパーク、1905 -07 Fig.2:ライト|ゲイル邸、オークパーク、1909

(2)

る奇々怪々の理論とベルラーヘが媒介したライトの建築 作品の両者が、「造形(性)」というキーワードで交叉した 時点から始まった。私はそんなふうに見ています。  さて、そんな流れを確認したところで、ライトのゲイル邸 (1909)について、ちょっと踏み込んで考察してみたいと思 うのです。実は、私はこの住宅こそライトとヨーロッパを結 びつける最も重要な作品のひとつではなかろうかとみて いるのですが、ライトの作品のなかでも小振りで華がない とみなされているためか、はたまた「オークパーク時代=プ レーリー様式」という図式に乗らない代物と見なされてき たためか(この短絡的な図式が、ことの本質を見えなくしている可 能性は大きい)、詳細に論じられることはほとんどないです ね。ちなみにレイナー・バンハムは自著においてラーキン・ ビル、ユニティ・テンプル、クーンレイ邸、マーティン邸、そし てロビー邸の

5

作品を挙げていますが、ゲイル邸には一 言も触れていません[注3]。[Fig.2]  では、なぜその住宅に興味をそそられるのか、その理 由についてですが……。ライトがこの小さな住宅を設計 していたとき、どうやら彼のなかには「水平垂直のプレー ン」によって建築を構成しようという意識は相応にあった に違いない。そのように思わせる痕跡を観察できるから なのです。ところが一方で、ライトはそれを周到に理想形 までもっていけなかった。そしてそれが原因で、数あるライ トの秀作のなかにあってゲイル邸は、中途半端な作品と しての位置づけを余儀なくされてきたのではなかろうか、 と。事実、ゲイル邸に関する紹介記事は、外観写真や透 視図に簡潔な説明文が添えられることはあっても、内観 写真や平面図を掲載するものは皆無に等しい[注4]。こ の住宅を見る場合、前面道路側にあたる南西側のアン グルから眺めるのがベストで、ヴァスムート版ポートフォリオ で紹介された透視図もおよそその角度から描かれたも のですし、写真に記録される場合も然りです。理由は単 純で、そのアングルからの映像がゲイル邸の建築デザイ ンの特徴を最もよく伝えられるからであり、もっとわかりや すく言えば、そのアングルから見たゲイル邸が最も美しく 映えるからです。水平方向と垂直方向のプレーンがとて も明瞭に見えるし、かつそのエレメントの数もいちばんたく さん見える。  水平方向のプレーンについて、最初に眼につくのは、 軒先が薄く、軒の出が深いフラットな屋根です。ちなみに 「陸屋根」は、ライトがこの住宅で初めて挑戦した屋根形 ではなかなかわかりにくいのですが、この壁はバルコニー を挟んで左右相称の構成で配置されています。それを 構造的に解釈すると、

1

階テラスおよび

2

階バルコニーに 面する南側壁面にあたる部分がほぼ全面開口になって いるため、それによって欠損した壁量を補うための控え 壁とみることができます(この控え壁は平面図と透視図を見比 べると壁厚に齟齬があり、実物は透視図を踏襲している)。ライトは その欠損を少しでも補うための方策として、テラス開口の マリオンを柱さながらに太らせて構造的に補強していま す。デザイン要素として見た場合、その控え壁が特徴的 なのは、ライトがその壁の天端をバルコニーの天端にぴっ たり合わせて納めているところです。それと蛇足ですが、 ライトがこの控え壁の天端部分にプランターを計画して 植栽を施そうとしていたところは、別の意味で興味深い 式です。次に挙げられるのは

2

階の南側に張り出したバ ルコニーです。この部分のキャンティレヴァーは鉄骨造が 可能にしていますが、この建物の主体構造が木造である ことを考えれば、これまた極めてチャレンジングなデザイン です。ほかにも小さな張り出しは数ヶ所ありますが、ここで 問題にするほどの「プレーン」ではありません。参考まで に、このゲイル邸のバルコニーが後の落水荘(カウフマン 邸)における巨大バルコニーの先駆的試みであったこと は、ライト本人も認めているところです。[Fig.3]  次に、垂直方向の「プレーン」についてです。具体的に その要素を見ていくと、まず誰の眼にも明らかなのはバル コニーの付根部分に取り付けられた控え壁です。ヴァス ムート版ポートフォリオの図版

45

にゲイル邸の平面図が 掲載されているためそれも併せて見ると、透視図や写真 Fig.3:ライト|カウフマン邸、ミル・ラン、1935 -39

(3)

……。[Fig.4]  ここまでは問題ないとして、不可解なのはここからです。 エントランスとその脇にあるレセプション・ルームを内包す るヴォリュームの

2

階西側には小さなバルコニーが形成さ れているのですが、その中からニョキッと空に向かって垂 直方向のプレーンが顔を出しています。このプレーンは先 ほどの控え壁とは平行関係にありますが、ライトは何が何 でもその位置にこのプレーンが必要であると考えていた ようです。では、なぜそんな推察が成り立つのか?平面図 を読み込んでいくと見えてくるのですが、その大きさの「プ レーン」がその場所にある必然性が見当たらないからな のです。そもそもそのプレーンは、全体がそのかたちを維 持したまま

1

階から屋上階まで立ち上がる要素ではな い。具体的に

1

階では、リビングの暖炉を抱える要素とし て、さらにはその大空間を支える構造要素としては有用 です。ところがエントランスとレセプション・ルームのところで は、プレーンそのものが邪魔になってしまうため消去され ています(かわりに、どう考えても不純な要素としか言えない矩形 断面の柱がプレーンの軸から外れて配置されている)。次に

2

階 では、絶対に必要とされるのは

1

階の暖炉脇から屋上ス さが必要だったのです。それがその場所よりも西側に出 すぎていてもダメだし、東側に引っこみすぎていてもダメ だと判断していたに違いない(ここでいうダメとは、単純に、建 物全体のデザインをバランスという観点から判断した場合「美しくな い」という意味です)。ライトはひょっとしたらソリッドのプレー ンが首尾一貫していてほしいと思っていたかもしれない。 ところがこの小さな住宅が相手では、“空隙を抱え込む” “見せかけのソリッド”を演出して手を打つしかなかった。 そこまでして彼は外観の理想的イメージにこだわってい たと思われるのです。少し前に、ライトには「水平垂直のプ レーンによって建築を構成しようという意識は相応にあっ た」と述べましたが、そこで「意識」という表現にとどめて おいたのは、それが理念というほどのものではなかったと 考えるからです。それが証拠に

1913

年に実現したクーン レイ・プレイハウスでは、ゲイル邸で見られた垂直に突き抜 ける要素はいったん影を潜めてしまいます(そして落水荘で ふたたび現われる)。ライトにとっても、例えば陸屋根仕様の 住宅はゲイル邸が初の試みだったわけで、水平垂直のプ レーンで構成される建築のイメージを現実に定着させる ためには、まだまだ試行錯誤を重ねる必要があったという ラブまで連続する構造柱(正方形断面)とわずか

1

本の煙 突孔だけです。もっともライトはそれ以外の余計な部分も 有効に使っています。例えば、階段脇の収納やベッドルー ムの小前室がそれに該当しますが、いずれも空隙として ……です。そのプレーンを煙突そのものと見るにしても、 暖炉が

7

つも

8

つもある家ならまだしも、リビングに設置さ れたひとつの暖炉から立ち上がる

1

本の煙突孔を抱える にしては必要以上に大きすぎるのです。外観では一見ソ リッドなプレーンに見えますが、現実はいわば虫食いだら けで、不純な欠損と不必要な空隙をそこかしこに孕んで います。ヴァスムート版の透視図で描かれた薄いプレーン の理想からはほど遠い要素になってしまっているので す。ちなみに実在するゲイル邸では、その壁の小口に茶 色のラインが入っていますが、ライトはそこまでしてその壁 の存在を薄く見せたかったのでしょう。  反対に、この住宅の外観からその垂直方向のプレー ンを取り去ってしまうと途端に変化に乏しい、ベルラーヘ の言葉を借りるなら“ペチャンコ”の建物に変貌してしまい ます。ライトにしてみれば、建物の外観の見せ方として、そ の垂直方向のプレーンは、その位置にその出幅とその高

C A S A B E L L A J A P A N

レ ク チ ャ ー

Fig.4:ライト|ゲイル邸平面図、ヴァスムート版図版45をもとに千葉大学大学院岡田研究室作成 Fig.6:ヴァン・ト・ホフ|ヘニー邸、ユトレヒト郊外、1915 -19 Fig.5:ライト|クーンレイ・プレイハウス、リヴァーサイド、1912 -13

(4)

ことでしょうか。そういう意味で、それは理念というよりは、 その時にその場でライトが見せた執念だったとみてよい でしょう。[Fig.5]  でも結局のところ、そうしたライトの並々ならぬ「執念」 が、ヨーロッパの建築家たちを突き動かしていきました。彼 らはライトの造形手法を自分たちが追い求める理想に重 ねあわせながらイメージを膨らませていった。たとえ彼ら がライトから吸収したエッセンスが、彼らにとって都合のよ い部分だけだったとしても、それはそれでひとつの歴史な のです。ライトはヨーロッパに新しい建築の在り方を巡って 「ひとつの経験」を提供した。そんなふうに言えるのでは ないでしょうか。 ─それでもライトの直接的な影響は、主として平面に見 られる自由度だと一般的に思われていますよね。強く影 響を受けたとされるリートフェルトの建物すら、いわゆるラ4 イト風4 4 4には見えません。つまり形態的な影響を受けた建 築家は少なくて、

W

M

・デュドックくらいでしょうか。ヒル ヴァーシャム市庁舎(1924 -31)とか。そのあたりは? 岡田─日本ではほとんど知られていませんが、ライトの 影響を受けたとされる建築家でデ・スティルに関与した人 物としてはロバート・ファン・ト・ホフ(Robert van’t Hoff, 1887 -1979)とヤン・ウィルス(Jan Wils, 1891 -1972)がいます。ここ では、よりライトに近づいたファン・ト・ホフについて触れてお きます。この建築家は、まだ学生だった頃に父親からヴァ スムート版ポートフォリオをプレゼントされ、ライトの作品に いたく感銘を受けました。そこで

1914

年の

6

月に渡米し、 ライトに直談判して事務所で働く機会を得ます。当然なが らそのあいだにライトの作品を幾つも訪れていたはずで すから、当時のオランダ人建築家のなかではライトとその 作品について最も詳しい人物ではなかったかと思いま す。彼は短い滞在を終えて帰国したのち、ライトのデザイ ンの特徴を捉えた作品をいくつか実現させました。しかし そのどれを見ても、一見ライト風なのですがライトを超える わけでもなく二番煎じというか、出涸らしの感じを拭えま せん。造形感覚という点では優れた才能を持ちあわせ ていたのでしょうが、ライトがことあるごとに新しい何かに チャレンジしていたことを考えれば、ファン・ト・ホフにはその スピリットを感じさせるところがないのです。例えば、彼が

1915

年から

19

年にかけてユトレヒト郊外に実現させた いでしょうか。そしてそのエッセンスがシュレーダー邸に結 実したのではなかろうか……。そんなふうに想うのです。 だからシュレーダー邸にはライトっぽいところもあれば、ライ トとはまったく異次元の世界観を漂わせるところがある。 その異次元性は、当然のことながらオランダ仕込みに起 因するもので、具体的にはリートフェルトがデ・スティル展 (ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレンが中心になって、1923年 にパリの画廊で企画した展覧会)に参加した経験[注6]、さら には彼らがメゾン・パルティキュリエールの設計案で見せ た実験がそれに該当します。[Figs.7-8]  ところで、シュレーダー邸の外観でライトの影響をひと つ挙げるとすれば、

2

階東側のコーナー窓で、その開口 部の天端が軒面スレスレのところで収められているところ です。シュレーダー邸の外皮を構成するデザイン要素が 代表作ヘニー邸と、先にお話したライトのゲイル邸を比べ てみてください。ヘニー邸にはゲイル邸のモティーフが散 りばめられています。でも、ゲイル邸のようにキャンティレ ヴァーが漲らせる迫力があるわけでもなく……、凡庸な 建物に終始しています。[Fig.6]  デュドックについては、すっかり忘れていましたが、私自 身

20

年ほど前にその市庁舎を訪れていました。印象とし てエッジの効いた浅黄色の巨大な建物というイメージが 残っているくらいで、そのときはライトと関係があるとは思 いもしなかった。屋根を壁面に対して勝たせることで影の 効果が生まれ水平性を際立たせることには成功していま すが、軒の出が浅すぎるのと軒先の厚みが巨大な壁面 に比してあまりに小さすぎるのです。フランプトンは「プレー ンで構成された量塊は薄っぺらな化粧を施されているよ うにしか感じられない」[注5]と表現していますが、確かに この建物は水平垂直の薄いプレーンによって構成されて いるというよりも、プレーンという名の薄皮で小気味よくラッ プされたマッスの集合体とみるほうが自然ですね。こんな ふうに見てくると、ファン・ト・ホフが当時のヨーロッパでは最 もライトっぽい作品をつくっていたことになりますが、実際 にライトの建物を訪れるという非常に貴重な経験をしてい ながら、やはり似て非なるものに終始してしまったという感 は否めません。  このあたりの話を敷衍すると、建築家は実物を見すぎ ないほうが、かえっていい影響を持続していけるのかもし れませんね。対象のすべてを目の当たりにしないほうが 想像力の逞しさはより強度を増すということ。ホンモノの 凄みが脳裏に強くこびり付いてしまうと、本来持ちあわせ ているはずのイマジネーションまでもがフリーズを強いら れ、その残像が生煮えのまま現実に転写されてしまう。そ れがファン・ト・ホフの例ではなかったかと……。それに対 して、例えばリートフェルトの場合は、せいぜいヴァスムート 版の作品集から情報を得るので精一杯でした。ところが このポートフォリオは、ライトが数ある作品のなかから自ら 厳選し編纂したモノグラフですから、そもそもライトのコア な部分が集約されていたとみてよい。一方、リートフェルト とすでに親交のあったファン・ドゥースブルフとファン・エー ステレンは、ライトの遺伝子を内在させる造形理論を準備 していたわけですから、リートフェルトのなかでは、追い求 めるべき新しい建築のエッセンスが相互のオーバーラッ プによって自然に抽出され強度を増していったのではな Fig.8:ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレン| メゾン・パルティキュリエール、未完、1923 Fig.7:リートフェルト| ポートレイト、De Stijl vol.7 1927

(5)

激しく断片化されているのに加え、そのシルエットと開口 部におけるプロポーションが全く異なるため、一見すると その影響関係は見えにくいのですが、そこには確かにラ イトの遺伝子を見てとれます。シュレーダー邸で私がそも そも興味を引かれるのは、部分的ではありますが突き出 したフラットな屋根で、とりわけ上述の開口部の納めと併 せて軒の出を深く見せているところなどは、背後にライト の影が潜んでいるように思われます。実際に当時のオラン ダの建築を観察してみると、フラットな屋根が深い軒を形 成することじたい珍しいことに気づかされます。

J

J

P

・アウ トの作品をはじめ、どんなに急進的な前衛建築でもおよ そ屋根の先端は壁勝ちで、つまりはパラペットが立ち上が る仕様で納められています(だからこそ逆に、「ライト」に感染し てしまったファン・ト・ホフの症例は当時のオランダにあって極めて例 外的に見えるのです)。[Fig.9]  他方、シュレーダー邸でライトよりも進歩的というか冒 険的なところは、上述と同じコーナー窓の可動部の納め 方です。リートフェルトは屋根スラブを支持する隅柱を敢 7]。それを要約すると、「新しい建築は、壁を破壊し、屋内 外の区別をなくし、耐力壁を最小限にとどめ、結果として 古典的な建築とは全く異なる新しいオープンプラン(=開放 的な空間)を生みだす」となりますが、考えてみればその提 言のエッセンスは、

1912

年にベルラーヘがライトの建築に ついて興奮まじりで語ったことと同じもので、ここでまたし てもライトへと回帰します。それがたとえベルラーヘという フィルターで篩に掛けられた「ライト」だったとしても、ライト なくして果たしてシュレーダー邸は生まれていただろうか ……と。ついでに、ライトがコロンビア博覧会で鳳凰殿を 見ていなければどうだっただろうか……と。種を撒かな ければ花も咲かないし実もならないとして、そんな歴史の 奇跡に思いを馳せるのです。  さて、話をシュレーダー邸の外観に戻しますが、この建 物のファサードは

3

面ともバラバラですね。その支離滅裂 とも言える風貌は、当時のオランダ社会にあっては狂気 の沙汰以外のなにものでもなかったはずです。ですから リートフェルト本人も相当な勇気が必要だったにちがいあ りませんが、クライアントとしても個人的な付き合いとしても 一心同体であったシュレーダー夫人抜きには語れない、 そんな幸運に彼は恵まれていました。しかしだからといっ て、それだけではあの外観は生まれてこなかったはずで すね。そこでまた鍵を握ると思われるのがファン・ドゥース ブルフによる

16

の要諦です。なかでも「エレメンタリーであ ること」および「モニュメンタルではないこと」という

2

つの 提言が、ファサードのデザインに改良を加えていくプロセ スにおいてヒントになっていたとみるわけです。ところで今、 「改良を加えていく」と言いましたが、リートフェルトは設計 当初どちらかといえば箱型の建物を計画していました。 当時の模型を見れば一目瞭然で、直方体に窓を穿った だけの単純な構成です。リートフェルトはこの模型で、壁 面に白とグレーの濃淡、開口部は黒、建具は黄色、エント ランス上部の庇は赤というような塗り分けをし、次なるデ ザインの展開、すなわちエレメントとしての「プレーン」を貼 りつけるプロセスへと歩を進めていたのです。後付けだっ たのは「プレーン」だけではありません。建物に対する着 色も然りで、ホワイトとライトグレーを微妙なバランスで散り ばめ、プロポーションの観点から間抜けに見える空白は 強い色の線材で間をもたせるという周到さです。それに しても造形に対するその絶妙なバランス感覚は、デ・スティ ルの理論からも、あるいはいかなる教義からも決して生ま えて出隅の交点から外し、大小

2

枚の外開き窓だけで コーナーを形成しているのですが、驚くべきは可動サッ シュの縦枠相互の当て込みだけで納めることに成功して います。ここでは詳しく説明しませんが,隅柱が出隅の交 点から外れているために、そのコーナー窓を開け放った とき、心理的な内部空間の広がりは物理的なそれよりも 大きく感じられるわけで、そのいわば空間心理学的実験 がおこなわれています。これはさすがのライトにもなかった チャレンジングなディテールです。[Fig.10]  同じく、内部空間のデザインで、ライトの影響を受けつ つもライトを凌駕している点といえば、リジッドな構造壁で 細切れにされた旧態の空間から完全に解放したところ です。スライドする可動壁(=大きなパネル)と回転する扉(=小 さなパネル)を巧みに相互に関連づけながら、ひとつの空 間を必要に応じて小分けに分節できるようにしているとこ ろなど、日本建築の空間性をも髣髴とさせますが、直接 的にはファン・ドゥースブルフの「造形的建築にむけて」に おける

16

の要諦がヒントになっていたと思われます[注

C A S A B E L L A J A P A N

レ ク チ ャ ー

Fig.9:リートフェルト|シュレーダー邸、2階東側コーナー窓

(6)

れくるものではないことをここに再確認しておいてもよさそ うです。[Fig.11] ──今回は「起点としてのライト」の初回ということで、ベ ルラーヘを媒介としたオランダへの影響をお話していただ きましたが、そこにはライトの建築のエッセンスがオランダ の流儀にしたがって洗練され、形態表現においてはます ます抽象度を高めていくプロセスを確認してきました。次 回はライトのユーソニアン住宅あたりから話を展開してい ただければと考えています。ありがとうございました。 [2014年3月11日] [注]

1─H.P. Berlage, “Neurere Amerikanische Architektur,”

Schweizerische Bauzeitung, vol. 60 , September 1920 , pp.165

-167. 英語翻訳版としては以下に掲載されている。America Builds,

Harper & Row, 1983, pp.399-402

2─Kenneth Frampton, Modern Architecture – a critical history, Thames and Hudson, 1980 , p.143

3─Reyner Banham, Theory and Design in the First Machine

Age, MIT Press, 1980 , p.147

4─1994年にMoMAで開催されたライト回顧展の際に出版され

た『Frank Lloyd Wright Architect』は包括的にまとめられた書とし

て評価できるが,その書においてもゲイル邸については図版1枚が 掲載されているだけで、5名の硯学による論著においても全く言及さ れてはいない。 5─ケネス・フランプトン『Modern Architecture 1920 -1945』、GA DOCUMENT SP#3、エーディーエー・エディタ・トーキョー、1983年、 p.217

6─Marijke Kuper et al., Gerrit Th. Rietvelt, Pricnceton Architectural Press, 1992 , pp.98 -100

7─Theo van Doesburg, “Towards a Plastic Architecture,” De

Stijl, VI, 6/7, 1924 , pp.78-83

なお、上記以外で参考にした資料を以下に示しておく。 ─Frank Lloyd Wright Architect, MoMA, 1994

De Stijl: 1917-1931 Visions of Utopia, Abbeville Press

─ケネス・フランプトン『Modern Architecture 1851-1919』、GA DOCUMENT SP#2、エーディーエー・エディタ・トーキョー、1981年 ─「建築とは何か ─フランク・ロイド・ライト」『CASABELLA JAPAN』805-806号、2011年 [岡田哲史] 1962年、兵庫県生まれ。建築家、千葉大学大学院准教授。コロンビ ア大学大学院修了後、早稲田大学大学院博士課程修了。日本学 術振興会特別研究員、文化庁芸術家在外研修員、コロンビア大学 大学院客員研究員を経て、1995年、岡田哲史建築設計事務所設 立。デダロ・ミノッセ国際建築賞グランプリほか、受賞多数。ヴェネツィ ア建築大学(IUAV)、デルフト工科大学など、海外の主要大学でも建 築デザイン教育に携わっている。主要著書:『ピラネージと「カンプス・ マルティウス」』(桐敷真次郎/岡田哲史、本の友社、1993)、『建築巡礼32  ピラネージの世界』(丸善、1993)、『廃墟大全』(共著、トレヴィル、1997)、『ピ ラネージ建築論対話』(G・B・ピラネージ著、岡田哲史校閲、アセテート、2004) など。2009年には、ミラノのエレクタ社より作 品 集『SATOSHI OKADA』(序文:フランチェスコ・ダルコ)が刊行されている。 [図版提供] 岡田哲史建築設計事務所 Fig.10:リートフェルト|シュレーダー邸、2階平面図 Fig.11:リートフェルト|シュレーダー邸、設計初期の模型、ユトレヒト中央美術館蔵

参照

関連したドキュメント

在させていないような孤立的個人では決してない。もし、そのような存在で

てい おん しょう う こう おん た う たい へい よう がん しき き こう. ほ にゅうるい は ちゅうるい りょうせい るい こんちゅうるい

それで、最後、これはちょっと希望的観念というか、私の意見なんですけども、女性

とりひとりと同じように。 いま とお むかし みなみ うみ おお りくち いこうずい き ふか うみ そこ

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹