• 検索結果がありません。

Letter

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Letter"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

From the Pulpit of the Japanese Baptist Church of North Texas

June 30, 2013

人の慰めと神の慰め

イザヤ 49:5-13 49:5 今、主は仰せられる。──主はヤコブをご自分のもとに帰 らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎 内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊 ばれ、私の神は私の力となられた。── 49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなっ て、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている 者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の 光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 49:7 イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれ ている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向 かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たち もひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなた を選んだからである。」 49:8 主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答 え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あ なたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継が せよう。 49:9 わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる 者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸 の丘の至る所が、彼らの牧場となる。 49:10 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼 らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。 49:11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路 を高くする。 49:12 見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西 から、また、ある者はシニムの地から来る。」

(2)

49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声を あげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれる からだ。  一、人の慰め  「慰め」という言葉を聞いて、皆さんはどう感じますか。 「慰めという言葉を聞くだけで、とても慰められる」という人 もあれば、「慰めなんて、甘っちょろいものはいらない。人生 は厳しい。この世の中では力のある者だけが生き残れるのだ」 という人もいます。「慰め」とは、苦しんでいる人を労り、傷 ついている人をいやし、疲れ果てている人を支えることだと思 うのですが、苦しみの極限にいる人、心がズタズタになってい る人、また生きる力を失ってしまっている人には、人間の慰め が届かないことがあります。人の言葉が、かえってその人の心 の痛みを増してしまうこともありますし、それが余計なお世話 やおせっかいになることさえあります。  少し古い話になりますが、日航機が群馬県の御巣鷹の尾根に 墜落した事故を覚えているでしょうか。1985 年 8 月 12 日午後 6 時 12 分、羽田を飛び立った JAL 123 便が、離陸から 12 分後の 午後 6 時 24 分に操縦不能となりました。垂直尾翼が壊れてし まったのです。飛行機はこのあと迷走を始め、操縦不能となっ てから 32 分後に墜落しました。一番後ろに座っていた 4 名の 乗客だけが奇跡的に一命をとりとめましたが、残りの乗員・乗 客、合わせて 520 名の命が奪われました。これは、日本国内で 最大の死者を出した航空事故となりました。  この事故でご主人を亡くしたある人は、以前から教会に通っ ていました。教会のクリスチャンが、彼女を慰めようとして、 いろいろと声をかけました。しかし、そのときの彼女にはそれ がかえって煩わしく、こんなに悲しいのに、「悲しんではいけ ない」と説教されているように感じたそうです。近所の果物屋 のおじさんがカゴに入れた果物を持ってきて、「奥さん、大変

(3)

だったね。これを食べてください」と言ってくれたことのほう が、よほど、うれしかったと言っています。慰め、励まそうと する気持ちは純粋であっても、あまりにも大きな突然の出来事 に呆然としている人に対して、時として不適切なことをしてし まうことがあります。絶望しきっている人に対しては、どんな 人間の言葉も、親切も、助けも届かないことがあります。  2011 年 3 月 11 日の東日本大震災ののち、多くのボランティ アが東北にかけつけました。ひとりのクリスチャンの女性が、 なんとかして被災地の人たちを慰めたい、励ましたいと、足湯 のボランティアとなりました。彼女は、被災地に行く前に、そ この人たちに語りかける言葉を準備していました。しかし、実 際に被災地に行って、その言葉を使うことができませんでした。 被災地の人々はただ黙って足を洗ってもらうだけで、語りかけ ることも、話を聞くこともできなかったのです。被災した人の ため息を聞き、その目からこぼれる涙を見るだけが精一杯で、 彼女もまた黙々と足を洗い続けたと話していました。彼女はこ のことを通して、被災者の人たちのあまりにも深い悲しみを、 自分は何も分かってはいなかったということに気付いたと言い、 そのとき、黙って弟子たちの足を洗ってくださったイエスのお 心が少しは分かったように思いますと、証ししていました。  苦しむ人と共に苦しむ、傷ついた人の訴えに耳を傾ける、疲 れ果てた人の気持ちを受け入れる。こうしたことは、他の人を 慰めるための大切な第一歩です。しかし、人は、それ以上のこ とはできません。苦しんでいる人をその苦しみから救い出し、 傷ついている人をいやし、打ちひしがれている人に生きる力を 与えるのは、神です。それは神だけができることなのです。  二、神の慰め  それで聖書はこう言います。 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰

(4)

せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。 わたしのほかに神はない。(イザヤ 44:6) 神はご自分を「贖う者」と言われます。「贖う」とはもともと は奴隷を、お金を払って買い戻すことを指します。イザヤ書の 預言は、バビロン補囚にあった人々に、バビロンからの解放を 告げています。バビロン補囚というのは、紀元前 597 年にバビ ロンの王ネブカドネザルがユダの国を攻め、首都エルサレムに いた優秀な若者たち三千人を捕まえてバビロンに連れていった ことを指します。その後、ネブカドネザルはさらに一万人をバ ビロンに連れて行き、ユダは国ごとバビロンに捕らわれの身、 奴隷となったのです。ネブカドネザルは紀元前 586 年、エルサ レムを神殿もろとも滅ぼし、それを廃墟としました。  イザヤ 49:24 に「奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪 のないとりこたちを助け出せようか」とあるように、いったん 滅びた国がもういちど復興するということはほとんどありえな いことです。しかし、神にはそれがお出来になります。神は、 「勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返 される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこの わたしが救う」(イザヤ 49:25)と言われ、いったんバビロン の奴隷となった人々を祖国に連れ帰ってくださいました。この 預言は紀元前 539 年、ペルシャのクロス王によって実現してい ます。  神が「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わた しはあなたを助ける。──主の御告げ。──あなたを贖う者は イスラエルの聖なる者」(イザヤ 41:14)と語りかけられた言 葉は、今から二千数百年前のユダヤの人々のためだけの言葉で はありません。神は、今日も、様々なものに縛られ、その奴隷 となっている人たちを贖い、そこから解放してくださるのです。  アメリカでは三人にひとりが、アルコール依存症かその予備 軍だと言われています。アルコール依存症というのは、心に、 おそらくその人も気付いていない深い不安があり、それを紛ら

(5)

わせるためアルコールに手を出し、アルコール無しではいられ ない生活を続けることを言います。アルコールのために身体を 壊したり、ドランク・ドライバーになって事故を起こしたり、 家庭や人間関係にトラブルを引き起こしたりすると、一時的に はすごく後悔し、罪の意識を持ち、苦しむのですが、その苦し みを紛らわせるため、またアルコールを飲み出すのです。そし て、身も心も、生活もアルコールに囚われていくのです。アル コール依存症の人の平均寿命は 52〜53 歳と言われており、そ れはまさに「死に至る病」です。アルコール依存症の人は、社 会で他の人と共に、他の人のために生きるということができな くなっており、身体の死を迎える前に、すでに社会的な死を迎 えてしまっているのかもしれません。  依存症はアルコールだけとは限りません。ニコチン、ギャン ブル、買い物依存症は昔からありましたし、最近はゲーム、携 帯、ネット依存症といったものが問題になっています。また、 「コディペンデンシィ」(共依存)という人間関係の依存症も あります。人と人とが支え合うことは必要なこと、美しいこと ですが、コディペンデンシィの人は、「自分」というものが確 立していないため、自分のよりどころを他の人に置いてしまい ます。たとえば、ご主人の出世のため献身的に働いている奥さ んや、子どもが有名大学に入学できるようにと頑張っている母 親がいたとします。自分のことを後回しにして、夫に、子ども に仕えていると自分も満足でしょうし、人からも誉められるか もしれません。しかし、自分のよりどころをご主人の出世に、 子どもの進学に賭けるというのは、いかにも危ないことであり、 ご主人が出世できなかったり、子どもが願う学校に入れなかっ たとしたら、彼女はたちまち不幸になり、その不幸を夫や子ど ものせいにして、夫や子どもを責めはじめるでしょう。彼女は、 ご主人に仕え、子どものために生きているように見えて、実は、 ご主人や子どもを自分の幸福感を達成するための手段にしてい たのです。コディペンデンシィからドメスティック・バイオレ ンスが生まれ、自立できない子どもが生まれ、聖書が教える

(6)

「愛」から程遠い歪んだ人間関係が生まれてくるのです。現代、 こういう生き方をしている人が増えてきていますが、その人た ちには、それが問題であることが気付いておらず、他の人もそ れに気付かないことが多いのです。しかし、それは知らず知ら ずのうちに、自分をも、まわりの人をも駄目にしていくのです。  聖書は、こうした特定の依存症ばかりではなく、すべて、罪 を犯す人は罪の奴隷であると教えています。そして、罪の奴隷 である限り、そこには自由がなく、解放がありません。しかし、 神は、私たちを罪の奴隷から解放してくださるお方、私たちを 「贖う」お方です。「贖う」というのは代価を払って奴隷を買 い戻すことですが、神は私たちのためにどんな代価を払ってく ださったのでしょうか。それは神の御子、イエス・キリストで す。エペソ 1:7 に「私たちは、この御子のうちにあって、御子 の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これ は神の豊かな恵みによることです」とある通りです。「御子の 血による贖い」というのはイエス・キリストが十字架の上で死 なれたことを指しています。イエス・キリストは私たちを罪の 奴隷から解放するため、その贖いの代価としてご自分の命を差 し出されたのです。イエス・キリストは、その贖いによって、 信じる者に神の子の身分を与え、神のもとに立ち返らせてくだ さるのです。  イザヤ 49:9-10 に「わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、 やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すが ら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる」とありま すが、この言葉はイエス・キリストによって実現しています。 ペテロ第一 1:18-19 と 2:24-25 にはそのことが、このように書か れています。 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生 き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよ らず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血 によったのです。…(キリストは)自分から十字架の上で、

(7)

私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を 離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえ に、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊の ようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者 であり監督者である方のもとに帰ったのです。 皆さんは、この贖いを、解放を、そして平安を体験しているこ とでしょう。もし、まだそれを体験していないなら、イエス・ キリストをあなたの心と人生に受け入れ、今日、この時から、 それを体験し始めることができますよう、心から祈ります。  三、慰めの使者  神こそがまことの慰め主です。なぜなら、神だけが人を罪か ら贖い、苦しみから救い出し、その傷をいやし、人を再び生か すことができるからです。神は、イザヤ 51:12 で「わたし、こ のわたしが、あなたがたを慰める」と言っておられます。  では、私たち人間は、決して他の人を慰めることができない のでしょうか。聖書には「互いに慰め合いなさい」(テサロニ ケ第一 4:18)とあります。私たちも、神に贖われ、神からの慰 めを受けるなら、それによって他の人を慰めることができ、神 の慰めの使者となることができるのです。苦しむ人に慰めに満 ちた贖い主イエス・キリストを指し示すことができるのです。 イザヤ 49:6 には「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果 てにまでわたしの救いをもたらす者とする」とあります。旧約 時代にイスラエルが選ばれたのは、イスラエルだけが救われる ためではありませんでした。イスラエルがその救いを全世界に 証しするためでした。ところが、イスラエルは、神の選びを間 違って理解し、自分たちだけが救いに選ばれていると考えてし まいました。それで、神は、新約時代には、イスラエルに与え ておられた使命を教会にお与えになりました。イエスが弟子た ちに「地の果てにまでわたしの証人となります」(使徒 1:8)

(8)

と言われた通りです。使徒 13:47 でパウロとバルナバは、「な ぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わた しはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てま でも救いをもたらすためである。』」と言って、教会がこの使 命を帯びていることを宣言するために、イザヤ 49:6 を引用して います。  私たちも、まず、神の慰めを受けることによって、他の人を 慰めることができるようになります。キリストを証しすること によって、神の慰めの使者となることができます。人の慰めが 届かないところにも、神の力ある慰めを届けることができるの です。私たちが救われたのは、人々に贖い主を証しするためで あり、私たちが慰めを受けたのは、他に慰めを分け与えるため であることを覚えましょう。そして、その使命を良く果たすこ とができるよう願い求め、この礼拝から派遣されていきましょ う。  (祈り)  私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは「す べての慰めの神」と呼ばれるお方です。あなたは、かつてイス ラエルに「わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る」「母に慰め られる者のように、わたしはあなたがたを慰める」と約束され、 その約束をイエス・キリストによって実現してくださいました。 今朝、おひとりびとりが、イエス・キリストの贖いによる罪か らの解放を自分のものとすることができ、そこから来る豊かな 慰めに生きることができますように。そして、ひとりびとりが 家庭で、職場で、地域で、神の慰めの使者となることができま すように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

参照

関連したドキュメント

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

個別の事情等もあり提出を断念したケースがある。また、提案書を提出はしたものの、ニ

一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと

行ない難いことを当然予想している制度であり︑

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

のニーズを伝え、そんなにたぶんこうしてほしいねんみたいな話しを具体的にしてるわけではない し、まぁそのあとは

 今年は、目標を昨年の参加率を上回る 45%以上と設定し実施 いたしました。2 年続けての勝利ということにはなりませんでし