近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について
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(2) 研究ノート. に行われ,どの程度意味をなしたのだろうか。近世近代の月ヶ瀬の梅林の消 失と維持に関わって生じた事象をできる限り一次資料をもとに明らかにし, 景観の維持がどの程度図られてきたのかを検討することにより,生業によっ て成立した景観の維持継承という今日に通じる課題に対し新たな視点を与え ることが可能となる。 水谷 ( 2020 ) では,明治初期の梅林空間の広がりを示す図として,1887(明 治 20 )年調整の「梅林略図」について検討した。本稿では主として明治初期ま での梅林空間の変化について,絵図類,紀行文その他の一次資料をもとに明 らかにする。 2005(平成 17 )年に奈良市に編入される以前の月ヶ瀬村( 「旧月ヶ瀬村」と する)の範囲が本稿の主な検討対象であり旧月ヶ瀬村と周辺の旧村それぞれ の位置を図 1 に示した。旧月ヶ瀬村は 1889(明治 22 )年に添上郡尾山村,石 打村,長引村,桃香野村,月瀬村により発足するが,発足当初は「月瀬村」で. 京都府. 三重県 旧月ヶ瀬村. 奈良県. 図 1 旧月ヶ瀬村(石打,尾山,長引,嵩,月瀬,桃香野)の範囲とその周辺の集落 (地名は明治初期の村名,境界は農業集落境界データを使用,基図は地理院 地図陰影起伏図より). 46.
(3) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について. あり,1889(明治 22 年)以前の月瀬村との区別がつかない。このため,本稿 では,1889(明治 22 )年以前の月瀬村の範囲を示す場合に「月瀬」 「月瀬村」と 記し,旧月ヶ瀬村の範囲を示す場合は「月ヶ瀬」 「月ヶ瀬村」と記すこととす る。 また,検討対象の梅林を「月瀬梅林」としているが,1922(大正 11 )年 3 月 に指定された名勝の名称による。. 2.月ヶ瀬の梅林の規模とその変化 (1) 絵図からみた梅林の広がり 月ヶ瀬については,幕末から明治にかけて,数多くの版図が出版されたと される(岩田 1977 )が,確認できるものの種類は多くない。確認できるもの を表 1 に整理する。幕末期には 1850 年代に出版された松川半山の描いた『梅 渓道の栞』と『梅渓真景之図』の組物絵図がある。この組物はそれぞれ 3 種類 ( A,B,C )の版が確認され,表題や記載内容が若干変わっているが基本は 2 枚の絵図の組物である。出版年が明記されているものは『梅渓真景之図』B, 表 1 幕末から明治期に月ヶ瀬を描いた絵図 出版年. 作者. 1855 〜 57 松川半山画 (安政 2 〜 4 )頃 暁晴翁作 同上. 同上. 1858(安政 5 )か 同上 1858(安政 5 ) 同上 1859(安政 6 )か 同上 1859(安政 6 ) 同上. 題名 月瀬尾山 梅渓道の栞 A(袋・摂陽書房河内屋喜兵衛, 同清七). 月瀬尾山 梅渓真景之図 A(浪花書林 積玉圃 松雲 堂/袋・摂陽書房河内屋喜兵衛,同清七). 月瀬尾山嵩長引 梅渓道の栞 B(大坂書林 河内屋喜 兵衛,同清七,和州月ノ瀬 鍛冶屋兵蔵). 月瀬尾山嵩長引 梅渓真景之図 B(浪花書林 柳原 喜兵衛,鹿田清七,和州月ノ瀬 鍛冶屋兵蔵) 月瀬尾山嵩長引 梅渓道の栞 C(浪花書林 柳原喜兵 衛,鹿田清七,月ノ瀬 窪田兵蔵). 月瀬尾山嵩長引 梅渓真景之図 C(浪花書林 河内 屋喜兵衛,河内屋清七,和州月ノ瀬 鍛冶屋兵蔵). 1887(明治 20 ) 森琴石編緝. 新撰梅渓月瀬勝景真図. 1888(明治 21 ) 井澤久三良著. 新撰撮影月瀬八景東岸之図,西岸之図. 1893(明治 26 ) 岡本八谷編緝. 月瀬楳渓躑躅川真景. 1903(明治 36 ) 今中甚八著. 月瀬八谷十六勝一目八景図 地域創造学研究. 47.
(4) 研究ノート. C の 1858(安政 5 )年,1859(安政 6 )年版であり,これらと組物と考えられ る図は同年の版と推定される。 『梅渓道の栞』 , 『梅渓真景之図』の B,C 版で は,「月瀬尾山嵩長引 梅渓道の栞」と表題に示されているが,A 版は「月瀬 尾山 梅渓道の栞」と示されている。A 版の梅林の説明記述では「梅林の山村 凡十有五ケ村に及べり就中月瀬尾山長引・・」と,B,C 版では「梅林の山村 凡二十箇村許に及べり就中月瀬嵩尾山長引・・」と梅渓のある山村の範囲の 記述が A 版と比較して B,C 版では拡大していることから,A 版は B,C 版 より古い時期のものと考えられる。A 版は暁鍾成が晴翁と改名した安政 2 年 ( 1855 年) 以降,安政 4( 1857 ) 年頃の版と推定される。 『梅渓道の栞』 は,京都・大坂から月ヶ瀬まで含む広域図で,京都・大坂か ら月ヶ瀬に至る経路を説明し,月ヶ瀬周辺には簡易にではあるが梅林が描か れている。この図では,月瀬,尾山,長引の各村を中心に名張川左岸の高 尾,桃香野,嵩,獺瀬,中峯山,吉田,廣瀬,片平の各村,右岸の治田,田 山村,伊賀上野から尾山に至る途中の石打村にも梅樹が描かれ,名張川に 沿って梅樹が広範囲に示されている。先に述べたように図中の説明文では 「梅林の山村凡十有五ケ村に及べり就中月瀬尾山長引などもって・・」 (A) , 「梅林の山村凡二十箇村許に及べり就中月瀬嵩尾山長引などもって・・」 ( B, C )と記され, 「十五村」は,上記各村に白樫を加えた村を指すと考えられる。 これは,斎藤拙堂の『月瀬記勝』の挿図で「梅花村落」として示されている 15 村と同じであり,1852 年に出版された『月瀬記勝』を元に描いたと考えられ, 名張川両岸の広域にわたって現地をみて描かれたものではないだろう。ま た,B,C 版では,さらに村数を誇張したものであろう。 一方,組物のもう一つの図『梅渓真景之図』は,名張川を中心に右岸の尾 山,長引,左岸の嵩,月瀬,桃香野の渓谷斜面の梅樹を描いた図である(図 2 )。左岸月瀬村上空からの鳥瞰図であり,右岸の尾山,長引の状況ははっ きりするが,左岸の桃香野はほとんど描かれていない。名張川右岸は平坦部 はほとんどなく,岩が露出している部分以外は渓谷の斜面に梅樹が張り付く ように描かれている。左岸はやや平坦に見える部分に梅樹が展開し,全体と して渓谷とその両岸の梅樹の広がりが鮮やかに描かれ,月ヶ瀬梅渓を強く印 48.
(5) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について. 図 2 松川半山画「梅渓真景之図 B 」 (部分) ( 1858 )名張川の右岸(上側)尾山,長. 引,左岸(下側)嵩,月瀬の状況が描かれている。図中の白い部分が梅(奈良 県立図書情報館まほろばライブラリーより). 象づける絵図となっている。大室( 2002 )は,松川半山の習練された写実性 を評価しており,この図に描かれた梅樹の分布は,幕末の渓谷沿いの梅樹の 状況を示していると考えてよさそうである。 明治期に入ると,1887(明治 20 )年の森琴石画による『新撰梅渓月瀬勝景 真図』,1888(明治 21 )の井澤久三良による『新撰撮影月瀬八景東岸之図』, 『同西岸之図』 ,1893(明治 26 )年の岡本八谷による『月瀬楳渓躑躅川真景』が 渓谷の梅樹の状況を示した絵図類として確認できる。このうち森の図は,月 瀬村上空からの鳥瞰図という視点が松川半山の『梅渓真景之図』と共通し,描 写内容も類似しており,松川の絵図を元に描かれた可能性が高い。この図は 十分写実的であるが,半山の絵図を元に描かれていると考えると 1880 年代 後半の梅樹分布を反映しているかは疑問である。 月瀬村の井澤久三良による 『新撰撮影月瀬八景東岸之図,西岸之図』は,松 地域創造学研究. 49.
(6) 研究ノート. 図 3 井澤久三良「新撰撮影月瀬八景西岸之図」 (部分) ( 1888 )名張川の左岸・月瀬 の状況が描かれている。斜面に松や杉が列状に見られるほかはほぼ梅樹(国 会図書館デジタルコレクションより). 川,森の図が名張川右岸を中心に描いたものであるのに対し,右岸と左岸が それぞれ別葉で描かれており,左岸の月瀬の梅樹の様子が写実的に描かれた 図として注目すべきものである (図 3 ) 。月瀬の集落を中心に,八幡山(左側), 弁天山(総見山) (右側)の二つの高まりの斜面は松,杉が列状に見られる箇 所を除きほとんど梅樹で覆われ見事である。しかし,梅林の広がりが縮小し ていったとされる明治 20 年頃に梅樹がこれほど広く分布していたかは疑問 が残る。梅渓紹介図という性格上,梅樹が多かった時期の姿を描いている可 能性が高いと考えられる。 1893(明治 26 )年の『月瀬楳渓躑躅川真景』を編集した岡本八谷は,本名伍 三郎といい,尾山村の生まれで,1871(明治 4 )年には尾山村戸長となってい る(稲葉 1987 )一方,八谷という名で案内図,案内書を編緝している。岡本 の図は,松山,森,井澤の図のような写実性は少なく,遅瀬付近から桃香野 付近までの名張川の渓谷と両岸の梅樹,奇岩を描き,「尾山八谷」と「月瀬八 景」の計十六の勝地を図上に示し,またその他の古人の詩歌・俳句に登場す る 「名アル処」 を図示し案内している。岡本は測量術も学んだのか,尾山八谷 (斎藤拙堂 『月瀬記勝』 の梅谿遊記五に 「敞谷,鹿飛,搜窪,祝谷,菖蒲谷,杉 50.
(7) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について. 図 4 岡本八谷編 「月瀬楳渓躑躅川真景」 (部分) ( 1893 ) 尾山八谷,月瀬八景その他の. 名所の位置が描かれている。 (奈良県立図書情報館まほろばライブラリーより). 谷,一目千本,大谷」 として記されたもの)と,これに月瀬八景を加えた十六 勝について,実測図として測量方位と距離,高低差の数値を示し,概略の位 置関係を図示している点が特徴的である。名張川右岸の尾山,長引の渓谷斜 面の梅樹の分布は,松川半山の描く梅樹の分布に近い。この図も名所の紹介 図としての性格が強く,描写されている梅樹も最盛期の分布である可能性が 高い(図 4 ) 。 この岡本の図と安政期の松川の図は図書館での蔵書も多く,古書としても 多く流通していることから,月ヶ瀬を紹介する絵図は幕末は松川の図,明 治 20 年代には岡本の図が最も流布し,利用されていたと考えられる。これ らの図では,幕末と明治 20 年代の間に月ヶ瀬の梅樹の分布が大きく変化し たとは見受けられない。どの図も松川の描いた梅樹の広がりと同じように 渓谷の両岸に広く梅樹が広がっている様子を示している。しかし,1883(明 治 16 )年に月ヶ瀬を訪れた三蔭顕遠が「われもわれもと,梅伐り倒し,根を 掘り取りて,次々,茶の種を蒔きおろして・・」 (三蔭 1883 )など,梅樹が 地域創造学研究. 51.
(8) 研究ノート. 減少したことを記し,田山花袋の 「月瀬記遊」では,梅渓の描写とともに,茶 店(おそらく天神森あたり)の老翁の話として,頼山陽が訪れた頃( 1831(天 保 2 )年)あるいは老翁が幼かった頃には現在( 1898(明治 31 )年)とは比べも のにならないくらい「随分盛ん」であって,「嵩,長引,遅瀬など,此処より 見れば,唯々真白というより外に言葉なき程」であったと記している(田山 1899 )。このような記述からみると,明治 20 年代の森,井澤,岡本らの図 が描かれた時点では,幕末から梅林の空間的変化が生じているはずである が,これらの絵図ではその変化を確認することが困難である。いずれの図も 梅樹の分布がもっとも広範だった時期の姿を示す図として捉える必要があ り,明治期以降の梅林の空間的変化の検討資料として,これらの絵図を用い ることは難しい。 (2) 数値からみた梅林の規模とその変遷 前稿(水谷 2020 )でも示したが,幕末から明治期の月ヶ瀬の梅樹分布に関 表 2 月ヶ瀬の梅林の面積、梅樹数、烏梅生産高の推移 梅林面積 (反). 烏梅生産 梅樹数(本) (駄= 32 貫). 文献. 1855 頃安政年間. 750. 梅渓ニ係ル取調書 1 ). 1865 頃慶應年間. 750. 同上. 1868(明治元)年. 226.5. 821. 1885(明治 18 )年「梅林維 持願」2 ). 1872(明治 5 )年. 226.1. 479. 同上. 1877(明治 10 )年. 225.9. 521. 同上. 360. 大和国町村誌集 3 ). 1881(明治 14 )年 1882(明治 15 )年. 255.8. 1884(明治 17 )年. 217.0. 1895(明治 28 )年. 325.8. 1920(大正 9 )年 114.0. 1950(昭和 25 )年. 103.8. 52. 25,808 16,300. 1922(大正 11 )年. 大和国五月川梅景名勝調 書上扣 4 ). 28,100 425. 「梅林維持願」. 204. 月ヶ瀬村史編集室編 ( 1990 )980 小清水( 1943 )5 ) 名勝指定面積. 3,108. 月ヶ瀬村史編集室編 ( 1990 )984.
(9) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について. し,文献に残されている梅林の規模,梅樹の本数,烏梅の生産高の数値につ いて, 『月ヶ瀬村史』などで記されているものをあげると表 2 のとおりまとめ られる。旧月ヶ瀬村 (尾山,長引,月瀬,桃香野,嵩)の範囲での数値である が,梅林面積,梅樹数,烏梅生産量は,幕末から大正期にかけ減少する傾向 が確認される。しかし,数値は出典資料による差異が大きく,また,1895 (明治 28 )年に梅林面積は大きく増加しており,これらの数値から梅林の規 模を推定することは難しい。 一方,烏梅の生産量はその売価と直接に関係し,売価の変動によって梅 の植栽規模が変動したことは,1852(嘉永 5 )年に月ヶ瀬を訪れ, 『梅嵯峨誌』 (吉田武三編( 1985 )所収)を記した松浦武四郎が地元の老人の話として詳述 している。 『梅嵯峨誌』の記載と,それ以外の烏梅の売価を示した資料をまと 表 3 月ヶ瀬で生産された烏梅の価格に関する記述 時期. 烏梅の価格に関する内容. 文化初め頃(1805 頃)桃香野,尾山,月瀬 3 村で梅植栽 文化年間. 文献 松浦武四郎 『梅嵯峨誌』. 値段が高まり,長引,高尾,田山あ たりにも梅植栽(ただし他の品目が育 同上 たない瓦礫の地). 文政初め頃(1820 頃)値段が下がり植えなくなった. 同上. 値段高価になり梅植える( 「よろしき 文政中程( 1825 頃) 場所」にも)。1840 年代初期までは誰 同上 もが梅を植えた 1830 頃か. 1 駄 90 〜 100 銭(尾山での烏梅生産高 斎藤拙堂 『月瀬記勝』 6) 200 駄). 1840 頃. 価格がよい年には尾山で 300 金(烏梅 小 津 久 足『月 瀬 日 記』 生産高 200 駄として 1 駄 1.5 両) (山本和人編 ( 1992 ) ). 1844,45(天保 15, 値段下落(水野忠邦の倹約令)1 駄 35 『梅嵯峨誌』 弘化 2 ) 匁に 1847 頃から. 高値になり,藪を潰し畑までも梅を 同上 植える,1851 年に 1 駄 5 両 1 分. 安政年間. 1駄5両. 梅渓ニ係ル取調書 1 ). 慶應年間. 1駄7両. 同上. 1868(明治元). 1 駄 6 円 20 銭. 梅林維持願 2 ). 1872(明治 5 ). 1 駄 7 円 73 銭. 同上. 1877(明治 10 ) 1 駄 4 円 74 銭 1884(明治 17 ) 1 駄 2 円 7 銭. 同上 同上 地域創造学研究. 53.
(10) 研究ノート. 文化. 文政. 天保. 嘉永 安 政. 明治. 図 5 月ヶ瀬で生産された烏梅売価の推移 (単位:両,明治以降は円). めると表 3 のとおりである。表 3 より,幕末から明治初期の月ヶ瀬の烏梅の 売価の推移を推定したものが図 5 である。烏梅の売価を記した複数の文献を ベースに,具体的売価の数字がない期間は,『梅嵯峨誌』で記述されている文 化期以降の梅植栽に関する動向の記述からおおよその烏梅の売価を推定し図 示した。文政の初め頃と天保の終わり頃に売価が急落したとの記述があり, 後者は水野忠邦の倹約令によるものとされている。 天保の急落以降は,烏梅の売価はそれまでに比較して数倍の値となり明治 を迎える。明治初期には烏梅の売価はピークを迎え,1877(明治 10 )年にな る前に急落する。 注目すべきは 1850 年頃の売価上昇である。 『梅嵯峨誌』では,武四郎が訪 れた 1852(嘉永 5 )年の頃に,ここ 5 年ばかりで高価になり,藪を潰し畑まで も梅を植え,石打村は田畑が良好な場所であるが,そこの畑も 2,3 年前か ら梅を植えるようになったと記し, 「石打村之図」に梅樹が広く植えられてい る様子を描いている。松川半山の梅渓の図もこの頃に描かれている。 また,1850(嘉永 3 ) 年に奈良奉行・川路聖謨が月ヶ瀬を訪れているが,そ の際にも, 「年々に(梅の)数まさりゆきて」と記している(川路寛堂編 1903, 172 )ことから,1850 年頃に梅樹の植栽範囲が急速に広がり,藪となってい 54.
(11) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について. るところはもちろん,他の作物畑にも梅が植栽され,一気にその面積を増や していったと考えられる。 冒頭に紹介した『月ヶ瀬村史』では梅の最盛期を文化文政期( 1800 〜 1820 頃) としているが,幕末,明治初期の資料からは,梅樹の面積,本数ともに, より後の時期,1850 年以降に月ヶ瀬及びその周辺の梅樹数,植栽面積が最 大となったと考えられる。 冒頭に述べたように,斎藤拙堂が 1830(文政 13 )年に訪れ,1851(嘉永 4 ) 年に 『月瀬記勝』 が刊行され,月ヶ瀬の名所としての声価が高まったとされて いる。これまでの検討では,拙堂が訪れた時期に比べ,『月瀬記勝』が刊行さ れた後の方が梅樹の面積は広がっていたと考えられる。 『月瀬記勝』を手にし て月ヶ瀬を訪れた者は,期せずして梅樹の範囲が拡大した時期に訪れたこと となる。 一方で,明治 20 年代の梅渓の絵図は,梅林の広がりが最も大きかった時 期の状況を描いていると考えられ,それを手にして月ヶ瀬を訪れた者が,想 定していた梅樹の広がりを目にできたのかどうかは疑問が残る。. 3.おわりに 月ヶ瀬及びその周辺の梅樹の広がりとその変遷をみてきたが,烏梅の売価 や当時の記録からは,最も分布が拡大した時期は 1850 年から 1870 年頃と考 えられる。この時期の梅樹の分布を平面図で確認することができるだろう か。 明治初期の月ヶ瀬の梅樹の空間的広がりを示す平面図として,水谷( 2020 ) では奈良県行政文書( 『廿八年改 月瀬梅林一件 添上郡役所文書』 ,奈良県立 図書情報館蔵)にある「梅林略図」 ( 「大阪府添上郡月瀬村尾山村長引村桃香野 村・山辺郡嵩村遅瀬村 梅林略図」 )を検討した。この図は,作成年,作成目 的が示されていないが,図示された内容,同じ簿冊に綴られている他の文書 との関係から,1887(明治 20 )年の早い時期に「梅渓ニ係ル取調書」の添付図 面として作成されたと推定される。1874 〜 76(明治 7 〜 9 )年に行われた地 租改正に際し,畑として地価を算定された梅林の土地が,その後の烏梅の売 地域創造学研究. 55.
(12) 研究ノート. 価急落により,収益の実態に合わない高い地価となっているため,地租改正 時に梅林としていた土地を特定し,地価の軽減を要請する目的で作成された 図である。 地租改正の時期である 1874 〜 76(明治 7 〜 9 )年は,烏梅の価格が暴落す る直前である。前章で明らかにしたようにその時期は,近世から明治初期 までの月ヶ瀬及びその周辺での烏梅の生産が最盛期を迎えた時期にあたり, 「梅林略図」には最盛期の梅樹の空間的広がりが示されていると考えられる。 この図を地形図上に示すことで,梅林空間の変化をみる基図とし,その前後 の梅林空間の変化を確認することが容易となる。 「梅林略図」の地形図上での 図化と分析については稿を改めて検討したい。. <注>. 1 ) 「梅渓ニ係ル取調書」は奈良県立図書情報館所蔵の奈良県行政文書『廿八年改 月 瀬梅林一件 添上郡役所文書』に収められている 2 ) 当時の月瀬ほか五ヶ村戸長の脇野喜郎が大阪府知事( 1881(明治 14 )年 2 月か ら 1887(明治 20 )年 11 月まで奈良県の範囲が大阪府に含まれていた)に提出 した「梅林維持願」に記された五ヶ村梅産表による(月ヶ瀬村史編集室編 1990, 975 ) 3 ) 月ヶ瀬村史編集室編( 1990 )所収,974 4 ) 月ヶ瀬村史編集室編( 1990 )所収,430 5 ) 名勝月瀬学術調査準備委員会編( 1957 )にも同じ梅樹数があるが小清水による ものであろう 7 ) 斉藤拙堂( 1851 ) 『月瀬記勝』。尾山の生産高が 200 駄と記され,十余村全体で は 1400 〜 2000 駄ほどと記されている。松浦武四郎の『梅嵯峨誌』では尾山の 200 駄は同じ数値であるが尾山を含め 10 村の年生産高が内訳が示され合計で も 700 駄弱としている。これに対し斉藤の 1400 〜 2000 という数字の内訳数字 はなく,信頼性が高いとはいえない. <引用文献>. 稲葉長輝( 1987 ) 『歴史散歩月ヶ瀬梅林』文進堂,62 岩田豊樹( 1977 ) 『古地図の知識 100 』新人物往来社,193 大室幹雄( 2002 ) 『月瀬幻影』中央公論社,138 小野佐和子( 1999 )月瀬梅林の近代における変容について〜イギリス湖水地方と比 較して〜,奈良文化財研究所学報 58,105-120 56.
(13) 近世近代月ヶ瀬の梅林空間の変化について 川路寛堂編( 1903 ) 『川路聖謨之生涯』吉川弘文館 小清水卓二( 1943 ) 『大和名勝と天然記念物』 天理時報社 田山花袋( 1899 )月瀬紀遊, 『南船北馬』博文館,所収 月ヶ瀬村史編集室編( 1990 ) 『月ヶ瀬村史』月ヶ瀬村 梅渓史料編緝室( 1999 ) 『香世界懐古』財団法人月ヶ瀬梅渓保勝会 三蔭顕遠( 1883 ) 『花笠日記』 水谷知生( 2020 )明治期月ヶ瀬の「梅林略図」に関する考察,奈良県立大学研究季報 30( 4 ),79-100 名勝月瀬学術調査準備委員会編( 1957 ) 『名勝月ヶ瀬・学術調査報告』 ,名勝月瀬編 集委員会 山本和人編( 1992 ) 『小津久足「月瀬日記」』 吉田武三編( 1985 ) 『松浦武四郎紀行集(中) 』 冨山房. 地域創造学研究. 57.
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