馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態
の変容
著者
今冨 正巳
著者別名
IMATOMI Masami
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
23
ページ
1(206)-15(192)
発行年
1988
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010205/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja馬華文学史を通して観察される
華人社会の意識形態の変容
前 華人社会の二つの流れ 2. 清朝からの働きかけと華人の反応 3. 私会党と同郷社団の影響 4. 馬華文学の時代区分について 5. 馬華文学運動史と華人思想の変容過程 結 語 前 言 マラヤに華人が始めて移住したのは,秦代に まで湖ると言われるほか,多くの説がある。し かし,まとまった数の移住は明代以降のことで あり,現代史的な意味での華僑の南来移住は更 に下って,僅々 150年間のことである。 東南アジア諸国の近代化の状況を観察する場 合華僑の存在を無視することはできなし、。華僑 は我が国では特殊な商業民として理解される傾 向があったが,その見方には華僑を特殊化し過 ぎる嫌いがある。 しかし,実際には華僑社会に は商業の他に文化も政治もあり,従って文学も 文学運動もあり,これらを無視しては全体を理 解できない。 第二次大戦後,東南アジアの諸植民地は独立 を果したが,華僑の多くは新しい独立国の公民 になり,中国国籍を放棄した。それで彼らは華 僑の名称を捨てて,自ら華人と称したO 華僑の 華は中国を意味し,僑は在外臨時居留者を意味 するが,華人の華は民族としての所属を意味す るものである。華僑には中国人としての国家意 識を伴うが,華人は単にエスニシティを示すに 過ぎなし、。つまり, 1華人」には脱中国の意念 がこめられている。彼らの持つ文学の歴史を眺 之〉、 寸正
巳
富
めるならば,われわれは正に,華人の抱くこの ような思想意識を理解することができる。マラ ヤの華文文学を馬華文学と言うが,馬華文学は その運動過程で,現地志向的思考と中国本土志 向的思考の両極の間で,苦悩を伴う動揺をくり 返しながら発展して来た。この小論は馬華文学 の歴史を通じて華人の意識形態の変容の軌跡を 明らかにすることにつとめた。小論では煩雑を 避けるため,華{需の用語を{吏わず,すべて華人 に統ーした。 1. 華人社会のニつの流れ マラヤに華人が渡来したのは何時頃かについ ては諸説があるが,ここで検討の対象とする華 入社会は, 19世紀末から20世紀にかけて大量の 渡来が始って以後形成されたものである。従っ て,あまり古い時代の渡来のしかたの究明は避 けるが,今日の華人社会形成の直前の状況につ いて若干の考察を加え,今日の華人社会の理解 に禅益したし、。鄭良樹1)は,その著《華人文化 史論叢(巻ーn
2lで,~華人が東南アジアと接触 を持ったのは,秦始皇以前に湖る可能性がある が,歴史的に見れば,明代永楽年間を除いては, 中国朝廷は華人の海外渡航を禁止して居り, 海外に居住する華人は「本分に安んぜざる者」 或は「天朝の棄民」と君倣され,現地の植民地 政府や土着人の華人迫害虐殺には一切文句をつ けなかった。』と述べている。楊松年3lは, そ の著《新馬華文文学論集t4lの中で『中国とマ ラヤの接触は梁代に湖る。しかし,華人の移住 は記録がなく,実際に移住が始まったのは唐代 以後である。そして17世紀以降マラヤ・シンガ - 1 -(206)馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態の変容 ポールへの華人移民が顕著に増加した。 1860年 の海峡植民地当局の人口調査によれば,シンガ ポール全人口8万人の中,華人は6万人,ベナ ン全人口6万人の中,華人は3万人,マラッカ のみは華人人口はマレ一人人口よりも少なかっ た。』と述べている。同じ著の中で, 楊松年は シンガポール当局の公式の人口統計として,表 1の数字を載せているの。 表 1 年 シンガポール ベ ナ ン 島 1911 219,577 111,738 1921 317,151 135_288 1931 418_640 118,812 1941 599,659 230,679 1947 729_478 またシンガポールを含むマラヤ全体の華人人 口の増加について表2の数字を載せている6)。 表 2 1921 1931 1947 1.171.740 1,704,452 2,614,667 さらに,謝詩堅7)もその著《馬来西亙華人政 治思潮演変》の中で,華人の南来は唐代末葉か ら五代にわたる時代に始ったとし,華人が自ら を「唐人」と称したことを以てその証拠として いる8)。 ピクター・パーセル(漢訳名巴素)は その著 {TheChinese in Southeast Asia} (漢 訳名,東南亜之華僑・郭掘章訳)の中で,信ず べきマラヤの華僑史は1349年に始まり, 15世紀 の初に中国とマラッカの間に密接な接触が始ま ったと述べている9)。マラッカが1511年ポルト カツレに占領されて以降,華人ははじめてこの地 に永住する意念を持ちはじめたといわれるが, それでも 130年の後オラン夕、、がポルトガルに代 った17世紀に至っても華人人口は3-4百人に 過ぎなかったし, 18世紀中葉に至っても,全マ ラヤ華人の総人口は数千人だったといわれる10)。 この時代には華人の中には,マラヤ,シャム, パタク,パリなどの現地女性と通婚する者があ り,ここに第二代の華人が出現した。これら初 期のマラッカに居住する華人は, lFノミパ.Baba・ 峯害』と呼ばれるようになり,従ってノミパ社会 を形成するに至った。これに似た社会はその後 ベナンやシンガポールに於ても形成された。 所謂『海峡筆人公会』はこれらパパに転化し た華人が組織したものであるが,ババの定義は 『中国とのつながりを失った社会で, 生活習慣 は土着人化しつつ,依然中国の古い伝統を保存 しているものの,言語は福建的マラヤ語に変化 し,服装も変化し,特殊なコミュニティとなっ たもの』ということになる1110越戒はこれを稿 々広義に『現地生れの華人,マラヤ語のBabajJ とだけ述べている12)。 英国は1786年のペナン占領を皮切りに,逐次 マラヤに力を伸ばしたが, 1824年にペナン,マ ラッカ,シンガポールを併せて海峡植民地とす ると,華人移民はこの三地域で急増した。この 地で英国籍に帰した者を海峡華人ということも ある。 20世紀に入り,全マラヤが英国人の手に 落ちてからは,華人移民は更に増加し, 1911年 にはマレ一半島と海峡植民地の華人人口は87万 人を超えた。 このように華人移民の新来者が続き,絶えざ る華人の人口増加がもたらされたことはパパ社 会に対しでも影響乃至反作用を与えた。ノミバは 新来華人,即ち中国人本来の生活文化を身につ けた華人の数が増えれば増えるほど,自己の特 殊性を深く自覚するようになった。ノミバは基本 的に西欧化志向が強く,英国を自己の宗主国と して仰し、だので,英国人も彼らを積極的に政府 機関の職員に採用した。 18世紀から19世紀の初 めにかけて,ノミパは政治意識と政治行為におい て,全く英国と海峡植民地政府に対する忠誠心 を基礎にするに至ったO 中国はもはや忠誠や望 郷の対象ではなくなったのである。 1900年の義 和団事変のとき,ある若い海峡ノミパは現地の新 聞に投稿し,ノミバによる義勇軍を編成し,中国 に派遣して英軍と共に作戦をさせるよう訴え, 事実100人のパパが「シンガポール義勇軍」に - 2ー(205)
馬華文学史を通して観察される華入社会の意、議形態の変容 参加したと言われる。 ノミパの形成とその意識のありかたを観察する ならば, 18世紀から 19世紀にかけて華人社会に おける異物として,ノミパが派生したものと概括 することができる。中国本土を核と君!故せばノミ パの心情と行動は顕著な離心運動的な傾向を持 つものと言える。英国人は,現地での植民地的 産業開発を進める上で,華人の労働力や協力を 必要としたので,華人の移住を歓迎した。マラ ヤ内地の華人は所謂私会党によって送りこまれ 管理されたlヘ私会党系統の華人は,パパの対 極に位置する,中国本土に求心運動的な傾向を もっ集団ということができる。つまり,華人社 会には,中国本土への愛着志向を保持する集団 と,本土への愛着を失い現地への愛着,若くは 宗主国への忠誠感をより強く感ずる集団,この 二つの集団が生れたことになる。仮に前者を本 土志向派,後者を現地志向派と名づけることが できるが,後者の離心的傾向は,英本国への忠 誠心に起因するものであって,現地土着人に対 する一体感や親近感に因ったものではないが, ここではアイデンティティをめぐって華人の意 識,心情に二つの異る流れが生じたことに重要 な意味がある。 前者と後者は時代とともに内容 は変化するが,求心的か離心的かとし、う基本的 傾向は一貫して継続するのである。 2. 清朝からの働きかけと華人の反応 非常に遠い過去はともかく,華人の南洋移住 は明代にはかなり行なわれ,清代には更に増加 した。清朝は海外へ出ょうとする者の大部分が 清朝への不満を持つ反清分子で、あることを承知 して居り, ~華夏以外皆蛮夷,不屑与来往』の原 則をたてまえにして,海外渡航を厳禁した。海 外に出た中国人が,国内の不満分子と呼応して, 清朝を倒す活動に参加するのを恐れたのである。 しかし,実際には禁令は守られず,列強の圧力 の下で19世紀末に禁令も解除された。禁令時 代,中国官吏は華人の渡航を黙任すること,故 郷に残る家族に対し迫害を加えないことなどを 代償として,華僑から巨額の金銭を強要してい たといわれる14)。政府がこんな有様であるから, 海外の華人が迫害を受けても救援は勿論せず, 全く問題にしなかった。この状況にありながら, 華人の海外での活動が巨利をもたらす現実の魅 力は大きく,出国する商人も,そこから利益を 貧り盗る官吏も,結果的には官民協力していた ことになる。 19世紀末の英仏米等の列強との条 約により,中国人の海外渡航の禁は解かれ,1877 年にロンドンに最初の公使館を設置したのに続 いて,清朝は諸国に公使館や領事館を設置した。 この情勢の中で, 1877年清朝はシンガポールに 領事館を設立した。領事館の設置は,清朝政府 の現地華人の商業活動に対する関心を反映した もので,華人と清朝の関係改善にも役立った。 ところが同じ年,英国も海峡植民地政府の内部 に華民護衛司 (BritishChinese Protectorate) を設立し,華人管理の業務を始めたので,中国 領事との聞に業務上の衝突が起った。護衛可が 実行しようとしたのは私会党対策が主で,次い で労働者,娼妓,阿片,賭博の問題であったが, これには華人の保護・華人社会の秩序維持に役 立つ側面があった山。領事館は華人の商業活動 と政治の面で、保護の機能を持つが,これは,上 述の護衛司の業務と衝突を免れなかった。まず 問題となったのは『華僑
I
J
~華人』の定義であ る。清国領事は華僑を OverseasChineseとし たのに対し,護衛司は華人・Chineseを華族居 民・Chineseresidents と解した。清朝にとっ ては中国人の血統をもっ者はすべて中国人と認 める原則だから,一般の華人移民も,所謂『海 峡華人・Straits ChineseJl (パパ)もすべて, 領事の管轄を受けるべき華人に含まれる。これ に対し英国の海峡植民地政府は,英国籍華人 (Strai ts Chinese) も華人移民も英国植民地に 居住する以上,英人の支配を受けるべきで,英 国以外の勢力が治外法権を持つことはできない としたが,中国領事の実務行為は英人の眼には 治外法権的行為と映った。中国領事の活動は, 本来二国間の外交関係の中の実務行為に過ぎな いが, 19世紀末のシンガポールでは領事の業務 をめぐって,中英両国にさまざまな対立をもた - 3ー(204)馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 らした。最初に英国が特に強硬に要求した事項 の一つは誰を領事に任命するかの原則問題であ った。英国側は初代中国領事は是非とも『中国 の北京政府から来る中国人官吏ではなくて,高 尚な品格の持ち主で,且つ高い社会的地位にあ るシンガポールの華人居住者』で、なければなら ないと主張した。英国側は,北京政府の官吏が シンガポールの華人を管理する特権を持つこと を嫌ったのである。清朝政府は,政治的配慮と 経費節減の考慮から,英国の要求を受けいれた。 中国領事館の経費はすべて,現地の華人側が負 担する形式となった。初代領事は現地華人の領 袖胡亜基である。この人は中国で出生したが15 歳で南来し,父の業を助け,富商となった,シ ンガポーノレの華人の中の第一人者で,その後, ロシア・日本の領事に委任されたという16)。胡 亜基の残後,第二代領事の任命について,英中 両国の聞に紛糾があったが,結局北京の外交官 僚左乗隆が着任した。左氏は馬華旧文学史の中 に足跡を遺した文人で、もある。 次に起った紛争は, 19世紀になって後のこと であるが,中国領事が本国の災害のために救援 の募金をしたことである17)。 以上の経緯は清朝政府と現地華人とのかかわ りの一端を示したものに過ぎないが,現地華人 の支持を獲得するため,英中両国の政府がかな り激しい対立或は競合をしたことが窺われる。 中国政府と現地華人をつないだもう一つのや り方として『損官買爵制度』がある。中国では 古くから,政府に献金することにより官位が買 える制度があった。制度であるがこの制度が政 府官僚の腐敗を招いたことなどはここでは触れ ないが, 18世紀の清朝では七品から四品まで, 官位売買の価格表まであったという。本来華僑 には売官の恩典は与えられなかったが, 19世紀 の末葉,華僑政策の変更に伴って,華僑も官位 を買うことができるようになり,シンガポーノレ に領事館ができると,清朝は現地において華僑 の買官を認めるようになった。これは華人と本 立てる等の手段で,自己の安全と繁栄に役立つ 華人の育成に努めた。換言すれば,華人一一特 に上層華人一ーを中国の斜iから引き離し,自己 の体制の中に組みこむべく努力したのである。 この英国植民地体制の中に, ~華人甲必丹』があ る。この制度はポルトガル,オランダがマラッ カを支配した時代からある制度で,植民地政府 によって与えられる華人領袖としての公認と称 号で,植民者はこれにより現地の秩序法律を維 持し,華人社会はこれによって一定の福祉と安 定を確保した。 1870年ペナンで甲必丹を委任さ れた享礼歓は酒税徴税業務の代行を委されたた め,一代で巨富を築いた。 事礼歓の次子草安平は幼少時に中国に送られ, 長じて林則徐の幕僚となり,後台湾で官務に就 いたが,台湾が日本に割譲された後も貴族に封 ぜられた。また事礼歓の孫草鴻銘は英人の養子 となり,エジンパラ大学に送られ,英・仏・独 .ギリシヤ語に精通する文学修士となったが, マラヤに帰った後,彼は清朝側の影響を強く受 けた結果,弁髪を蓄え,洋服を脱ぎ,清朝式の 中国服を着用し,終には帰国して進土に及第し, 両湖総督張之洞の幕僚となるに至った。優れた 著述も多く,欧文に翻訳され,西欧で高く評価 されるものもある。革命後も清朝時代の習俗を 頑固に守り,世の主事楚を買ったといわれる18)。 これまで述べた経過からわかるように,マラ ヤ華人は中国をめぐり離心と求心の二つの流れ を生み出したが,それは彼らが主観的に利害関 係を判断した上での主体的な行為に見えるが, 同時に英国や中国の意図的な働きかけが大きく 作用していることも事実である。 マラヤ華人は清末において既に本土志向と現 地志向一一脱中国一ーの聞を,大きな振幅を以 て而も激しく揺れ動いていた。そして前者の中 に後者の要因は内包され,その逆も成立する関 係が見られる。
3
.
私会党と同郷社団の影響 土との結びつきを強めるのに役立った。 マラヤ華人の思想意識の形成に対して大きな 一方,英国側はパパを保護し,政治的にひき 影響を及ぼしたものに私会党と同郷会館がある。- 4
ー(
2
0
3
)
馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態の変容 これらの発生の由来が中国本土にあるのは言う までもないが,現地に適応した組織として発展 するうちに,現地志向的な要素も芽生えるので, 総合的な考察が必要である。 私会党は所謂秘密結社であるが,マラヤに在 ったものは天地会で,よく知られる洪門の支派 と言われる。洪門には三合会の別名がある。こ れは本来中国における一種の宗教的或は慈善的 な自助団体であったが,清朝が入関してからは 反満抗清の組織となり,マラヤでは時聞を経て 反社会的な暗黒組織になり,同種団体が縄張り を争い衝突をするようになった。英国がこれを 禁止し,合法的な公然社団を奨励したので,同 郷・同宗の組織が族生した。これは地縁・血縁 をもとに作られる団体であるが,パーセルは同 郷組織は会党をその中に秘めて内包することも あり,分別はし難いと述べている19)O これら集 団を総称して帯或は帯派ともし、う。 英国植民当局は当初,華人名望家を起用して, 華人社会を支配したのであるが,植民地経営が 進み,利益追求が重視されるようになると,私 会党の頭目を甲必丹即ち公的指導者に任用する ようになった。私会党は華人の移住と同時にマ ラヤに入ったが,本来の大義名分は消失し,地 盤と利益を争う集団に転化した20)。 私会党は不法活動と反社会性のため,英国支 配者の利益と衝突し, 1890年禁止され,以後す べての団体は再登記することになったO 前章に 述べた華民護衛司はこの時期に前後して設けら れたのであるから,華人支配の実際の権力をめ ぐって,芙人と華人は根深い争いをしていたこ とがわかる。 華人に対する教育制度も,支配の実態を考察 する上で重視すべきである。例えばぺナンでは, 18-19世紀に記 2カ所の塾,五福書院と南華義 学があったが, 1904年(光緒30年)にベナンの 中華学校,スランゴール州の尊孔学校,ベラ州 の育才学校など正規化した学校が成立し,その 後多数の学校が設立された。華人学校は英国当 局の補助もなく管理統制もなかったが, 1920年 に登記制を布き,極く限られた範囲での補助を 行なっただけで、ある。 1938年には華校の生徒は 9万人を越え,英校生徒の 3倍以上であった21)。 これら華校の経営主体は同郷会館であった。 華字新聞は1815年マラッカで創刊された《察 世俗毎月統計伝》に始まるが,これは宗教関係 のもので,普通紙としては1880年にシンガポー ルで出された《功報~ (ロー・パオ)がある。経 営者は英語教育出身のパパであった。 学校と新聞こそは民族の文化を伝播し,政治 思想を注入する手段である。これらの公共的な 事業の為に会館など華人社団の果した役割は大 きL、。社団は中国文化の持続と発展の為に,華 人社会では最大の貢献をしたわけで,本土志向 の力の源として機能した。会館は地縁・血縁の 他に業縁の団体も現れた。団体の数は,地縁団 体のみでは1801年にベナンの嘉応会館が出来て 以来, 1978年には 5,272個に達した。また呉華 は『華人移民が群居すると,まず寺廟・会館・ 学校ができるのが特徴である』と述べている22) この三本の柱は華人が本土の故郷からマラヤの 天地に持ちこんだ民族の文化であり,この三本 の柱の主体は他ならぬ同郷会自身である。彼ら はこれにより自己のアイデンティティを確保し た。今日に至るまで,会館や中華大会堂は華人 意識を具象化したものとして,華人社会の有形 の核心としての役割を果している。これに,新 聞を加えれば四本の柱ということになるが,学 校・社団,寺廟・新聞は中国式封建意識と中国 文化の宣揚に効果を挙げた。なお,時代が下っ てから,学校の問題は更に独立大学設立を目指 す華人社会全体の民族的運動にまで成長するが, 署名運動をはじめとするこの運動には凡そすべ ての社団が参加した23)。華人は政治が不得意と いわれるが,この種の運動については相当の能 力があると言わねばならなし、。その力の根底を 為すのは社団である。 社団といえば,本土志向,中国意識宣揚型の 社団が多いが, 1949年パバの領袖陳禎禄が主導 して組織した馬華公会 MalayanChinese As -sociationは,パパおよびそれに親しみを持つ 人々の政党であって,前述の中国意識発揚型の - 5一(202)
馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 社団とは大いに性格が異る。 MCAは配下にマ レーシア華人文化協会・MalaysianChinese Cultural Societyなどがあるので,やはり社団 の一種として着目しなければならなL、。このグ ループは中国文化についてのアイデンティティ はもつが,本土志向,求心的思考は持たず,現 地華人の独自性を自覚し,離心的思考を以て, マレ一人社会との協調を指向して居り,言わば 既述の社団とは相反する立場にある。 本来秘密結社である私会党が英国の禁令によ って,解散した後,それに代って公然団体たる 地縁・血縁の団体である同郷会館が多数誕生し たのであるが,本来私会党と会館にはそんなに 明確なちがいはなく,後者の中には前者が附着 物として蔭の部分に内包されていたこと,指導 層の人事構成は重覆していることなどが重なり, 結社部分は非公然部分として潜行しただけで, 全部が消滅したわけではなし、。むしろ,非公然 活動を行なうことこそ秘密結社の本領なのだか ら,偽装解散,実際は潜行の状況が起ったのは むしろ自然で,結社は自助自治の活動,自衛的 活動の部分を名実ともに会館の方に譲り,会党 として本来の生態に戻り,政治的活動,暴力団 的活動,賭博,婦女売買,販毒等の本務に専念 するようになった。その意味では会党は生き残 っただけでなく,華人社会に陰然たる力と影響 力を温存した。彼らは本土の政治・社会と深い 関連を持って居り,華人の中でも最も本土志向, 求心的意識を持つ集団であった。 清朝末期,中国の政治は頑迷派,保皇改良派 及び革命派が盛衰をくり返し,その都度マラヤ の華人の支持を獲得する為の努力をしたが,そ の場合中国政客と最も深く接触し影響を受けた のは私会党や会館系の華人上層部であり,且つ 中国政界の対立抗争はそのまま現地華人社会の 中にも反映された。 これまで、に述べたように,ノミノくを主流とする 社会の形成とそれに対立する私会党の勃興,英 国植民地政府に買収されて英国側の役職に就く 者と反対に清朝の売官制度に応じて官位を買う 者の対立に見られるように,華人社会には明ら かに異る二つの傾向が存在したが,それは華人 社会の中に二つの政治思潮の聞の対立抗争をも たらすことになった。例えば,清末の西太后ら 実権派と光緒帝・康有為らの改良派の対立,次 いで康有為・梁啓超らの保皇派と孫中山の革命 派の対立,下っては抗日戦争時代の国民党支持 と共産党支持の対立,今日の台湾支持と北京支 持等の対立があり,より細かく観察すれば対立 抗争は更に多く見出すことができる。社会思潮 の闘争は種々の面に表れる上,その内容も単純 ではないが,対立抗争の来由を理解するために は,既述した離心的意識と求心的意識の別があ ること,その結果として特定の問題に対する関 心の所在が両派で異ることをまず考えなければ ならなし、。例えば,ノミバ酵有礼が創刊した《防 報》は康有為に対して冷淡であったし,本土志 向型の華人上層部も最初孫中山よりは保皇派を 支持したのであった。孫中山は,彼自身が会党 の党員であることや西太后が死去して,中国の 大勢が決したことなどによって,その後華人の 支持を得るに至ったのである24)。 孫中山の革命が軌道に乗るや,現地華人社会 には民族主義思潮が発生し,中国本土とのつな がりを意識する様になった。そして民族一体感 をつくり出すために,先ず学校教育を通じて華 語(中国の共通語)を普及し,華人に共通の媒 介語をもたせることに努めた。またこの時期に マラヤの各地に中華総商会が成立したが,これ は各帯派の相互理解と団結にとって有益であっ た。中国の革命思想は華人社会にも新しい思想 をもたらし,旧式社会やしきたりに打撃を与え た。女子学校も設置され.男女平等が唱えられ, 愛国主義思想が生れた。革命が成功し,革命団 体と同盟会(これは会党である〉が合併して, 国民党が成立すると,マラヤにも支部が成立し たが,シンガポール支部の幹部役員8人の中, 7人までが英国籍パパであった。次いで、起った 1919年の五四運動は,マラヤの華人社会に影響 を与え,文化の面では馬華文学を発生させたO 本章に見られるように,マラヤ華人は本土か らの影響をめぐり,本土志向と現地志向,中国 6一(201)
馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態の変容 への求心傾向と離心傾向の両極の間を揺れ動き, 種々の思想意識を生み出して行った。この状況 の中で,私会党と会館が大きな役割を果した。
4
.
馬華文学史の時代区分について 清末の中国国内政情がマラヤ現地の華人社会 にさまざまな影響を与えたのと同様に,五四運 動も現地の文化・文学に大きな影響を与え,そ の結果として馬華文学を誕生させるに至った。 馬華文学が五四の影響の産物であるとし、う論説 は多数見ることができるが,方修は《馬華新文 学及其歴史輪廓》の中で『馬華新文学は中国の 五回文化運動の影響を受け,反帝反封建の精神 を持ちつつ,マレー,シンガポール(::[ヒボルネ テを含む)地域において発展した華文白話文学 である。それは1919年に誕生し,・…・・』と述べ ているお)。同氏はまた《馬華新文学史稿上巻》 の中で『馬華新文学は中国五回新文学運動の余 波を受けて発生した』と述べている26〉0 では,馬華文学とは如何なるものか,これに ついては,かなり多くの主張があるが,それら の主張の総和が馬華文学の定義と考えることも できる。方北方27)はその著《馬華文芸詑論》の 中の《馬華文芸与馬来西亜文芸》で『馬華文芸 は華文を以て表現手段とし,マレーシア華人社 会を反映した作品で、ある。マレーシア文芸とは 三大民族の文化交流を通じて,華人・マレ一人・ インド人の生活認識と思想、上の要求を反映した 創作である。……マレーシア文化の形成の過程 において,それは主要成分の一部分をなすもの である。何故ならば,馬華文芸は戦後において, 自己の独自性を獲得しているからである。j]28)と 述べ,馬華文学の独自性を強調している。呉天 才29)はその著《馬華文芸作品分類自録》におい て次のように述べている。『マラヤ文学は世界 文学の一部分であり,馬華文学はマラヤ文学の 中の一つの流れで、ある。馬華文学はマラヤ(シ ンガポール・ボルネオを含む)地区を主体とし て出現した,新思想、,新精神及び新意識を持つ 華文白話文学である。それが生れた主な原因は 二つある,その一つは中国の五四新文学運動の 直接の影響を受けたこと,もう一つは現地の華 人が自己の心情と願望を表現するために適当な 文学形式と白話文作品を求めていたことである。 文学は現実を反映するものである。馬華新文学 は中国新文学に源を発したもので,また同じ言 語を以て書かれたものではあるが,しかしそれ とは本質的なちがいもある。何故ならば,馬華 文学はマラヤ地区を主体とし,その作品の内容 の多くは現地華人の人情習俗,ローカルカラー 及び社会背景を反映し,人民の共通の願望と心 情を表現するものだからである。故にその後の 発展過程において,中国新文学と分れて別の道 をたどりはじめ,自ら一派を成したO 馬華新文 学の任務は現地の人民に奉仕することで,その 作品の内容は華人の実際生活の状況を反映し, 三大民族の団結を促進することであるが,それ はまた馬華新文学の独自性でもある。j]30)と述べ ている。馬華文学発生の経緯並びに馬華文学の 性格規定は如上の通りであるが,それが(1)中国 語で書かれる文学即ち中国新文学と多くのもの を共有すること.(2)現地華人社会の文化として の独自性をもっていること,この二つの異った 性格によって自己矛盾をひき起し,さまざまな 論争をもたらすこととなった。つまり,抗日戦 争時代は抗戦文学運動に無条件に同調すべきか, 華人としての独自の協力をすべきかの争い,ま た,戦後の僑民文学論争では,本土から来た華 人作家の本土志向的発想、と,現地生れの作家の 主張する独自性の主張との争いなどが生じ,苦 悩に満ちた思想闘争を経験せざるを得なかった。 本章ではこの二つの極の聞を動揺する馬華文学 運動の軌跡を辿り,現地華人の意識の変遷を検 討したい。 王j閏華31)は《シンガポール華文新詩の起源お よび発展の方向》において.H819年にラップ ルズがシンガポール河の河口に上陸しでから後, 新加坂は発展を続け,ついに大商港になった。 中国からの移民も時とともに増え.1819年から 1919年にかけての 100年間に,この地の華人の 社会生活と文化水準は急激に改善向上した。そ の結果文学芸術の面でも萌芽を生じはじめた。 7 -(200)馬華文学史を通して観察される筆入社会の意識形態の変容 中国から来た数多くの教師,ジャーナリスト, 外 交 官 や こ こ を 通 過 す る 旅 行 者 た ち は , こ の 地 に 居 留 す る 短 い 期 間 に も し ば し ば 新 加 坂 で 出 版 さ れ る 新 聞 の 副 刊 に , 作 品 を 発 表 し た も の で あ る 。 』 と し , ま た こ れ ら は 最 後 に 中 国 で 出 版 さ れ た の だ か ら 現 地 の 奉 文 文 学 と は 認 め ら れ な い としている32)。 馬 華 新 文 学 の 名 称 は 中 国 新 文 学 に 照 応 し た も の で あ る が , 馬 華 旧 文 学 が あ っ た か否かについては,前記王潤華の所説の如く, (1) マレーシア華文文学史料展覧紀念特輯33) 1919-1925 萌芽時代 1925-1931 拡張時代 1932-1936 低潮時代 1939-1942 繁栄時代 1941-1945 日本占領時代 1945-1948 戦後初期 1948-1953 緊急状態時代 1953-1956 反黄運動時代 1957-1963 マレーシア独立時代 1963-1965 マレーシア初期からシンガポール 分離まで 1ル
m
l
最 初 叩 年 1975-1982 現在につながる 1983年10月,スランゴール中華大会堂発行 (2) 孟沙の時代の区分34)一
1925-1931* 南第洋新高興潮文学運動時代 1回 期 ル 附l
低潮時代 1937-1942* 抗第戦2文回学高淑時代期 開 山 内 陥 時 代 1945-1948キ 第中興時代高 3回 潮 期 問m
!緊急状態時代 1953-1956* 反第黄4運回動高潮時代期 1957-1 1960-1964* 復第興時高代 5回 潮 期 問m
l
低潮時代 1975-1980* 第覚醒時高代 6回 潮 期 1982年,マレーシア留台校友会連合総会出版 《馬華文化探求))p.104, 旧 式 文 学 は 存 在 し た が , そ れ は 中 国 文 人 の 作 品 つ ま り 中 国 旧 文 学 の 範 曙 に 入 る も の で , と く に 馬 華 旧 文 学 と し て 認 め る 必 要 性 は な い よ う で あ る 。 ま た , 中 国 新 文 学 が 中 国 旧 文 学 と の 闘 争 を 経 て 成 立 し た の に 対 し て , 馬 華 新 文 学 は 馬 華 旧 文学と対立闘争をして自立をかち取ったわけで、 もない。 馬 華 文 学 の 成 長 発 展 の 過 程 に つ い て は , 次 の ようないくつかの時代区分のしかたがある。 (3) 方修の時代区分(その 1)35) 1919-1921 新文学提唱期 1921-1927 新文学発展期 1927-1930 草命文学前期 1930-1936 革命文学後期 1936-1942 抗戦文学前期 1942-1945 抗戦文学後期 1945-1949 内戦時期 1986. 香港,三聯書庖,新馬文学史論集 p.15, (4) 方修の時代区分〔その 2)36) 1920-1925A 馬主言新文学の萌芽期 1925-1931A 向上発展期 1932-1936A 同上低潮期 1937-1942A 同上繁栄期 戦 後37) 1945-1948B 戦後初期 1948-1953B 緊急状態期 1953-1956B 反黄運動期 1957-1970B 新・馬独立前後 A : 1962. シシガポール,世界書局,方修著, ((馬 華新文学史稿))p.2. B : 1978. 非売品, 方修著, ((戦後馬華文学史初 稿))p.1. (5) 楊松年の時代区分38) 1919-1924 I j議員思想濃厚時代 1925-1926I
南洋思想萌芽時代 1927-1933I
南洋色彩提唱時代 1934-1936 Iマラヤの地方性提起の時代 1937-1942 I現地意識挫折の時代 1946-1049 I 馬華文芸の独自性主張の時代 1982. シンガポール,南洋商報社・楊松年著・ 《新馬華文文学論集》 8 -(199)馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 以上五つの区分法を参考にして,今冨は次の ある。 ような区分をした。その意図は区分の簡素化に (6) 政 治 的 背 景 年 馬華文学盛衰史 馬華文学独自性の表れ方 英国ベナン占領 1786 ベナンに嘉応会館設立 1801 第 1段 階 華人大量移民開始 1850 五四運動 1919 馬華文学発生 僑民思想濃厚 満洲事変 1931 南洋新興文学発展 南洋思想萌芽期 外国人条例・ 1933 沈 滞 期 南洋色彩提唱期・マラヤの地 第 2段 階 華入社会形成期 方性提唱 日中戦争 1937 抗日文学隆盛 現地帰属感の挫折 白 白 日本撤退 1945
│
緊急事態法令 1948 活 動 期 馬華文学の独自性主張 中国と断絶 向上法令終了 1953 沈 滞 期 将来への模索 第 3段 階 マラヤ連邦成立 1957 反 黄 運 動 i 現地愛国主義 マレーシア成立 復 興 期 シンガポールと分離 1965 馬華文学と新華文学の分離 五一三流血事件 1969 沈 滞 期 1987年10月,東洋大学創立 100周年記念論集第 1巻,太田・今富《マレーシア・シンガポールの筆入社 会の変貌))p.99. 現地研究者4者の時代区分のしかたには,若 干の違いがあるが,それは馬華文学の概念規定 のちがし、に由来する。 方修氏は(3)と(4)の中で馬華文学を中国新文学 と平行する性格をもつものと看倣し,近似する 草命文学,人民文学と看倣し,その視点、から区 分している。馬華文学史を烏慨して,その様な 性質は確かにあるので,この区分のしかたにも 妥当性があり,爾後多くの研究者がこれを踏襲 或は援用している。 (1)のマレーシア華文文学史 料展覧会記念特輯は基本的に方修方式と合致す る。また(2)の孟沙は第 1固から第 6回までの高 潮期を強く主張しているのが特徴である。 上記の3人の方式と比較して,最も変って居 り,個性的な見方をしているのが(5)の楊松年で ある。この方式は,本土志向意識と現地志向意 識についての濃淡の変化のみを基準にして,時 代を区分している。そこで,前記の 3方式を革 命史観に基づく伝統的区分方式と仮称すれば, 楊氏の方は南洋色彩の濃淡,即ち現地への愛着 心の度合を『独自性』としサ語で表現し,文学 運動史を独自性の強化発展の歴史と君倣してい る。これを南洋色彩の濃淡の程度に基づく独自 性強弱区分方式と仮称することができる。この 方式は華人の意識形態の変遷の軌跡を具体的に 表現して居り,換言すれば華人意識形態の『脱 中国化』の過程を説明している。 孟i
少の(2)の表には6回にわたる高潮期が示さ れているが第1回の高潮期の南洋新興文学運動 における新興文学とは新興階級の文学を意味し, 南洋とは植民地体制下にある現実環境を意味し ている。即ち,この時代の作品は南洋群島各地 の労働大衆の思想意識,鉱山,ゴム園,工場に おける労働者の労苦の生活を,現実主義の基調 9一 (198)馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 の上に浪漫主義の色彩を加味して表現したもの が多く,その前の萌芽期よりも,質と量で、優れ ている。孟沙はここで,楊松年の指す南洋思想 や独自性を強調しているのに他ならない。次に 孟沙は第2回高潮期として,抗戦文学時代を挙 げている。抗戦とは中国本土の抗日戦争のこ とである。楊松年はこれを『現地意識挫折の時 時』としてとらえて居る。同じ時期を(1)の馬華 文学史料展特輯と (4)の方修は繁栄時代としてい る。即ち一つの時代が研究者によってさまざま な異った意味を持ってくるのであるが,それは 『繁栄時代~ 11 高潮期~ 11現地意識の挫折時代』の 如く,強い特色を持つものとする点では共通し ている。抗日文学の隆盛は,当然全体的な文学 の隆盛をもたらしたであろうし,中国の抗日戦 争に眼を向けることは,中国本土への関心や志 向を強めることになるから,結果的に現地意識 の挫折ということになるだろう。孟沙は中興時 代を第3回の高潮期とし,史料展特輯と方修は 戦後初期としているが,楊松年は『馬華文芸の 独自性主張の時代』と認めている。ここでは, 孟沙も戦後民主主義,民族運動,反植民地独立 運動の盛んな時代の空気を反映する文学として 肯定し,即ち馬華文学の独自性が唱えられた時 代としてこの時代をとらえて,それを中興時代 と称しているのである。実際この時期は,中国 から南来していた作家の書いた『僑民文芸』へ の批判と反批判が対立し,激しい論争が起った 時代であった。これらの時代区分のしかたを観 察するとき,楊松年の区分には明確な基準と原 則が一貫して居ることがわかる。孟沙は次の高 潮期に1953年 -1956年の反黄運動時代に置くが, これは(1)(3)(4)と共通する。楊松年の表はここで は現れていないが,多分独自性主張と開花の時 代になるだろう。この時代の前,即ち1948年 1953年は,英政府と現地植民地政府が,大規模 なマレーシア共産党(馬共)に対し軍事討伐を行 ない,この軍事行動を保障するために非常措置 として,緊急事態法令を施行L,言論・出版・集 会などを厳しく制限した時期で、あるが,馬共の 主体が華人であったため華人の社会的活動全体 に対する風当りが強い時代であった。従って馬 華文学活動も全く逼塞し,華人社会は香港台湾 から低俗読物を輸入するに過ぎなかった。 1953 年この非常措置が解除されると,馬華文学界に は反黄運動(黄色とは低俗色情を意味する)が 勃興した。これは低俗文学への反対運動で、ある と同時に,華人の民族的自尊心の回復運動,ア イデンティティ確立運動でもあった。市も華人 社会は,戦後の植民地独立運動の流れの中で, マラヤの独立運動に共鳴していたのであるから, 反黄運動は必然的に現地意識,独自性意識の強 調に向う趨勢にあった。この段階には中国から 南来した作家たち,即ち僑民作家の影響は全く 無くなって居り,現地生れの若い作家が多数現 れて来た。孟沙の指す第4回高潮期はそんな時 代であった。 1957年マラヤ連邦が独立し,自治 政府が生れた前後は,政治的変化のあった記憶 すべき時代であるが,馬華文学は沈滞の時代で あり,新聞や出版物も縮少し停刊が多かった。 その原因として方修は(1)華人社会が商業社会で あり,一般人は文芸に対して興味を抱かず,出 版会社も文芸書の編集出版に力をいれない, (2) 行政当局は文芸活動が一般の実用科学のように 国家の独立や建設に役に立つものと考えず,援 助も便利も与えなかった。 (3)この 12年来,錫の 生産が落ち,労働者は失業し,商業は不景気で, 一般読者の購買力が低下し,出版物の売れ行き にも悪影響があり,資力の小さい弱小出版社の 多くは閉鎖したと説明している40)。また,シン ガポール政府などは,中国大陸や香港の出版物 のシンガポールで、の販売を制限禁止する一方現 地作家が現地各民族の生活と抱負の問題を描く よう求め,出版の便宜も与えるなど,奨励をし たが,成果は余り挙らなかった41)。この時代の 文学不振の原因の探求について,前記方修の (3) の他は余り説得力はない。孟
i
少の消沈時代の次 に第5回の高潮期,復興時代が来るが,孟沙はシ ンガポールも自治邦になり,この新政府が健全 な文化の発展のために力を尽したので, 1962年 だけでも70余の本が出版されたと述べているこ れは前述したシンガポールの奨励政策と関係が - 10 -(197)馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態の変容 ある。孟沙は,第6回の高潮期として 1975年 1980年を挙げ,これを覚醒期としている。これ に先立つ1965年-1974年は,本来マラヤとシン ガポールが合体して成立させたマレーシアから シンガポーfレが分離した時に当る。この分離は 華人社会の諸分野の活動に大きな影響を与え, 華人社会は再編成に多忙であったこと, 1969年 の五一三流血事件の如き民族対立の事件があり, 少数派,無権力派の華人は衝撃を受け,諸分野 で消極化した。それの反動が第6回の高潮期で ある。マレーシア全体のマレ一人優遇政策,国 家の基本原則に見られる華人の不利,文学政策 上の差別政策をはじめ,マレーシアの強硬な民 族政策の下で,華人は危機感を深めた。その結 果華人は自己の尊厳の維持と民族のアイデンテ ィティの確保の為に,華人文化の維持と発揚を 求めて運動を始めるが,その主たる柱は,華語 の普及と確保,そのための教育権の確保,華文 文学運動の推進などのことである。馬華文学は そこで重要な役割を果した。
5
.
馬華文学運動史と華人思想の変容過程 罵華文学は中国の五四新文化運動の余波を承 けて,マラヤの華人社会に発生したもので,そ の特徴は五四運動の新しい思想に基づき,白話 文で書くことにある。しかし,現地における活 動は, 1919年よりは少し遅れて始まったと言わ れる。それは1925年という説から1931年という 説まである。仮に1925年前後として,それから 65年経た今日の馬華文学の内容と中国本土の文 学を比べるならば両者に違いがあることは,誰 にも明白なことである。本来,中国の五回文化 運動の影響の下に発生した筈の馬華文学が,こ のように中国本土の文学と異るものになったの は,それがマラヤ独特の環境条件の影響を受け たためであり,マラヤ華人が独自の思想意識を 形成したからに他ならなし、。 マラヤ華人が,中国本土に愛着心を持ったり, 本土に対して冷淡となり,現地への愛着心がよ り強くなったりする,心情の揺れ動きについて は,前章でも若干述べたが,馬華文学作家が, 僑民意識の方により強く傾いて,中国に題材を 求めるか,独自性意識の方により強く傾いて, 現地の現実に題材を求めるのかの二つの異る創 作方向の問題について,方修は『中国の政局に 巨大な変化が生じそれが東南アジアの華人全 体の前途に影響が及ぶ場合, (例,北伐戦争,中 日戦争),前者の流れが急速に強くなり,主流 となる。反対に,マラヤ・シンガポールにおい て,現地の華人が関心を持ち,対応しなければ ならないような重大問題が発生したとき(例, 経済恐慌,日本の南進,マレー陥落)は,現地 の現実を反映する作品がとりわけ増えて.圧倒 的な優位を占める。両者を比較すれば,現地の 独自性を具えた創作がやはりより大きな比重を 占める。もしもこのまま発展を続け,時間が立 てば,馬華文学の独自性が絶えず伸展し,最終 的には創作界全体を支配し,一方僑民意識は徐 々に稀薄化し,最後には消えでなくなることが 想像される。.Jj43)と述べている。方修は文学活動 について述べたわけで、あるが,文学に限らず, 華人の思想意識について考察する場合は第1章, 第2章で、述べたように,現地華人に対する中国 本土政府からの組織的な働きかけ,会党・会館 の与える影響,英国政府,植民地政府当局の働 きかけ等が大きな役割を果したことも重視すべ きである。また事鴻銘の示した劇しい中国回帰 は,一個人の内面思考の世界における変容の実 例であるが,その遠因近因はともになお不明確 の点が多い。 マラヤ華人の意識形態における独自性の考 察については, <<馬華文学在抗戦初期的ー些問 題))44)<<馬華文学の独自性をめぐる論争))45)<<マレ }シア華文文学の高潮と低潮))46) において詳し く述べているので,重覆は避けるが,小論では この論争が起った原因として,華人はマラヤに 居住する人民の立場に立てば,マラヤの独立運 動に参加する義務があり,馬華文学はこれを作 品の中に反映する必要があった。一方,同じ時 期中国国内には革命・内戦が進行していたので, 革命陣営・中共も馬華文学者の支持協力を必要 とした。そこで,同時に2つの必要を満足させ -11一(196)馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 ることができるだろうかの理論上の問題が生じ た。丁度この時期に中国からの南来作家が多数 マラヤに居住していたが,彼らは中国本土にの み関心を抱く態度を堅持し,中国優先主義を振 り廻したので,ショーピニズム,優越感の表現 として,現地独自性を意識する者によって,反 接された。その時に出されたキーワードは「僑 民意識Ji僑民文学Ji僑民作家」である。僑民 とは中国から出国して来た,中国国籍をもっ出 稼ぎ者の謂である。現地の独自派が僑民派と命 名して非難したのは甚だ当を得ている。 (7) 華人思想意識の南極間往復の運動 15世紀から今日に至る間,華人社会には,中 国本土への愛着心を基調とする心情・思想意識 と現地への愛着心・現地への土着化方向に進む 心情・思想意識の相反する二つの流れがあり, 華人はこの二極の聞の住復を繰り返している。 そして方修戸言うように,最終的に現地意識の 方に帰着してしまうのであろう。第1章からこ こまで,両極聞の揺れについて述べて来たので‘ あるが,両極を左右に置換すれば次のようにな る。 時 代 状 況 現 地 志 向 的 な こ と 中 国 志 向 的 な こ と 115世紀華人マラ什に来た 1511 … ル マラ
l
華人の永住始まる ッカを占領 17世紀以来 │華人の移住増加 18世紀以後l
華 人 と 現 一 同 … と な │ 私 会 党 活 動 始 ま る る.海峡華人(英籍華人)公会成立 1801 │ベナγ嘉応会館設立 18-19世紀l
会館活動始まる 1877l
畢朕麟,英政府の華民護衛司に就任l
清国シシガポール領事館設立 19世紀末l
清朝売官を行なう,華人買官多い 同 上 │奉安平帰国官に就く 向 上 │喜鴻銘英人の養子となり英国に留学 同 上l
事鴻銘,帰国,官に就く 1880 1890 │私会党禁止 18-19世紀 │ベナシに中国私塾 1900 義和国事変 に参加 1904 │ベナンに中華学校 1919 馬華文学発生 │僑民思想濃厚 1925-1931 │南洋思想萌芽期,南洋新興文学運動 1931 満州事変 │抗日思想 -12一(195)馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態、の変容 時 代 状 況 現 地 志 向 的 な こ と 中 国 志 向 的 な こ と 附 恐 慌 外 国 人 条 例 │ 南 洋 色 彩 提 唱 1934-1936 │マラヤの地方性提唱 1937-1942 現地意識挫折 抗戦文学 抗日戦争文学におけるス 戦時華僑救亡文学のスローガン 南洋抗戦文芸のスローガン ローガンの対立 南来作家への反援 南洋戦時文芸のスローガン 1942-1945 自 │空 白 1945-1948 馬華文学の独自性主張 1949 IMCA成立 1948-1953
l
香 港 台 一 同 輸 入 緊急事態法令 1953-1956 │反黄運動現地への愛国主義運動 1960-1964 │復興時代(孟沙〉 1975-1980 │覚隈時代(孟沙) この表は,各時代の状況と既出の諸表をまと めたものであるが, 1937年からの抗日戦争時代 には,馬華文学は挙げて抗日戦争文学に参加し たが,その中でスローガンの争いが生じた。そ れは戦地となった本国に住む中国人と全く同じ 立場で文学運動を進めようという者と,南洋は 本国と同じではな¥, "南洋は戦場ではない,華 僑は本国住民ではない,植民地政府は中国本国 政府ではないとする者の聞の論争であった47)。 この争いは徹底的な議論も解決もせずに中途半 端な妥協に終ったが,この論争の背後には明ら かに現地独自派と本土志向派のニつの異った意 識形態の立場の違いがある。また本国の戦乱を 逃れて多くの中国知識人や作家がマラヤに来て, 文筆活動をしたが,これら南来中国知識人は従 来からの現地知識人の生活のための職場一一学 校教師・作家・新聞記者・高級職員一ーを侵す 傾向があり,このことが現地派と南来派の対立 を深刻化し陰湿化させた。特に注目を惹くのは, 華僑救亡文学の主張者が,自ら主張する救亡文 学の原則として(1)馬華新啓蒙運動の任務を担い, 消極的な面では封建思想,帯派主義に反対し, 積極的な面では識字運動を提唱し,華人の文化 水準を向上させなければならない, (2)救亡の活 動の連合を促進しなければならない, (3)侵略に 反対し,世界の集団安全運動を完成し,侵略者 及び漢好の犯罪を暴露しなければならない, (4) すべての被侵略者の団結を促進し,救亡運動の 合理的な展開をかちとらなければならない,の 4項を挙げている4810この第1項は,現地派華 人でなければ着想できないもので,華人社会の 病根をよく認識した上で,深い愛情で華人社会 に対応している。 (2)以下も広い視野を以て国際 問題を考え得る海外華人らしい主張であり,今 日にもって来ても通用する考え方である。一途 に愛国抗日意識に燃える人々は,理の当然とし て中国国民と一体となって抗日文学を主張した が,前記救亡文学の主張にも根拠はあるようだ。 楊松年は《新馬華華文文学論集》で『しかしな がら,一部の作家たちは中国の現実と現地の現 実の相違を見て取り,大前提としては現地華人 には救亡の義務があることを認めながらも,中 国の問題とマラヤの問題を混同することには賛 成できないと考えた。jJ49)と述べている。あれか ら50年経た今日,この思想は更に発展している 筈で,現在の華人の意識にも影響しているもの 13一 (194)馬華文学史を通して観察される華入社会の意識形態の変容 と見られるが,抗戦第ーを主張した人々の考え 方がむしろ主流であったことを無視しではなら ない。 第二次大戦後の数年間,
f
喬民文学・{喬民作家 と現地独自派との対立があったことについては, 第4章で触れたが,当時現地作家側は中国から の南来作家に対L-,ある座談会の席上,現地の 青年が『われわれは南来作家に学ぶべきである が,南来作家も現地社会の実際に関心を持ち現 地の作家の活動に協力して欲L-¥"Jlと述べたと ころ,これを現地作家側からの差別的発言と受 け取った南来作家が反援したため,大きな論争 になり,現地作家は独自性を明確化させるため に, 南来作家を『僑民作家~, その作品を¥lfj喬 民文学』として非難した5010詳しくは前記の小 論に譲るが,この論争で現地独自派から南来作 家に投げつけられた攻撃的言辞が,f
喬民性, {,喬 民作家,f
喬民文学,f
藷民文芸,逃難作家,大国 民思想(中華思想), 大漢ショーピニズムなど であったことからも,論争の性格はうかがわれ ると思う。『倣慢な南来作家』に反捜する『弱 い立場の現地作家Jの反乱といった形のこの論 争は,要するに現地独自派の自己確認運動であ り,何よりもそれは馬華文学の自立運動であっ た。文学の自立運動は,華人社会の中国本士か らの自立を宣言する運動の反映であることは言 うまでもない。 この論争の背後にも,南来中国知識人が,現 地知識人の生活を脅かすことに対する現地側の 反躍があった。この事情は抗戦文学当時の南来 作家と現地作家の対立と似ている。 結 語 華人の思想意識は,現地独自派的思考と本土 志向的思考の両極の聞を往復運動をしながら変 容し続け,最終的には独自的な思想が支配的に なってしまうのではないかと思われる。方修の 発言はその説を支持するものである。これは換 言すれば,マラヤ華人が単なる海外在留中国人 即ち華僑の立場から徐々に脱中国の市民の方に 向っていることに他ならない。 馬華文学運動史は,華人のこのような歴史を 反映するもので,この観点に立てば,今後の華 人社会発展の未来の姿についてもある程度の見 通しが出来るかも知れなし、。この変容の過程は そのまま華人社会現代化の過程でもある。本論 はこの過程を些か明らかにできたと思う。 (文部省重点領域研究「東アジア比較研究・課題番 号6300.5015Jの費用を使用した) 注 1) 鄭良樹, 1940年ジョホールて、出生,台湾大学文 学博士,国立マラヤ大学中文系講師。 2) 鄭良樹著『馬来図亜,新加披華人文化史論叢巻 一』新加妓南洋学会, 1982年234頁の p.l. 3) 楊松年。 1941年シンガポールで出生。南洋大学 卒,香港大学哲学博士,シンガポール国立大学中 文系講師。 4) 揚松年著『新馬華文文学論集』シンガポール, 南洋商報, 266頁の p.l. 5) 同上, p. l. 6) 向上, p.2. 7) 謝詩堅。 1945年ベナンで出生,南洋大学卒,ベ ナン星積日報編集長等を歴任。 8) 謝詩堅著『馬来西亜華人政治思潮演変』ベナン, 友達企業有限公司, 1984年, 472頁の p.1 9) Victor Purcell著郭湘章訳『東南亜之華僑』台 北,正中書局, 1088頁の p.423. 10) 謝詩堅著『馬来西亜華人政治思潮演変』ベナシ, 友達企業有限公司・ 1984年, 472頁の p.l. 11) 向上, p.2. I2) 越戎著『新馬華文文芸詞典』シンガポール教育 出版社, 1979年, 457支の p.304. 13) 今富正日『マレーシア華人の言語華文文学の調 査報告』東洋大学アジア・アフリカ文化研究所年 報17号, 1983年, p.193. 14) Victor Purcell著郭湘章訳『東南亜之華僑』台 北,正中書局, 1088頁の p.47. 15) 相木林他編『新加披華族史論集』シンガポール, 南洋大学畢業生協会, 1972年, 210頁の p.16. 16) 向上, p.18. 17) 向上, p.22. 18) 謝詩堅著『馬来西亜華人政治思潮演変』ベナン, 友達企業有限公司, 1984年, 472頁の p.4. 19) Victor Purcell著郭湘章訳『東南亜之華僑』台 北,正中書局, 1088頁の p.481 20) 謝詩堅著Ii')馬来西亜華人政治思潮演変』ベナシ, 友達企業有限公司, 1984年, 472頁の p.5. - 14 -(193)馬華文学史を通して観察される華人社会の意識形態の変容 21) 向上, p.9 22) 呉華著『馬来西亜華族会館史略』シンガポール, 東南高研究所, 1980年, 160頁のp.1. 23) 太田 勇・今富正巳『マレ}シア・シンガポー ルの筆入社会の変貌』東洋大学100周年記念論集, 第1巻503頁のp.50. 24) 謝詩堅著『馬来西亜華人政治思潮演変』ベナン, 友達企業有限公司, 1984年, 472頁のp.15 25) 方修著『馬華新文学及其歴史輪廓』シンガポー ル,万里文化企業公司, 1973年, 153頁のp.1. 26) 方修著『馬華新文学史稿・上巻』シンガポ}ル, 世界書局, 1962年, 342頁のp.2. 27) 方北方著『馬華文芸泥論』クアラルンブ。ル,長 青書屋, 1981年, 203頁のp.1. 28) 同上, p.1. 29) 呉天才, 1936年クアラルンフ。ルで、出生,南洋大 学卒p マレ一語にも精通。国立マラヤ大学中文系 講師。 30) 呉天才著『馬華文芸作品分類目録』クアラルン フ。ル・マラヤ大学中文系, 1975年, 354頁の序文。 31) 王潤華著今富正巳訳『シンガポ}ル華文新詩の 起源および発展の方向』東洋大学アジア・アフリ カ文化研究所年報20号, 1986年, p.81-87. 32) 向上, p.81-87 33) W馬来西亜華文文学史料展紀念特輯』スランゴ ール中華大会堂, 1983年, 120頁のp.16-83. 34) 孟沙『馬華文芸的発展~, [f'馬華文化探討』に 所載,クアラルシブ。ル,馬来西亜留台校友連合総 会, 1982, 282頁のp.103-110. 35) 方修著『新馬文学史論集』香港・三聯書庖, 1986年, 423頁のp.15. 36) 方修著『馬華新文学史稿上巻』シンガポール, 世界書局, 1962年, 342頁のp.2. 37) 方修著『戦後馬華文学史初稿』シンガポール, 非売品, 1978年, 139頁のp.1. 38) 楊松年著『新馬華文文学論集dl266頁のp.18. 39) 太田勇・今冨正巳『マレーシア・シンガポー ルの華入社会の変貌』東洋大学100周年記念論集 第1巻503頁のp.99. 40) 方修著『新馬文学史論集』香港三聯書庖, 1986 年, 423頁のp.98. 41) 向上, p.99. 42) 孟沙『馬華文芸的発展~, [f'馬華文化探討』に 所載,グアラルシプル, J馬米西亜留台校友連合総 会, 1982, 282頁のp.108. 43) 方修著『戦後馬華文学史初稿』シンガポール, 非売品, 1978年, 139頁のp.30. 44) 今冨正巳