論文
死ぬ権利と生きる権利のあわい
ヴァンサン・ランベール事件と
植物状態の患者に対するカトリックのまなざしについて
稲葉 景
清泉女学院大学Between the Right to Die and the Right to Live
INABA Kei
Seisen Jogakuin College
0 はじめに 人工呼吸器や高カロリー輸液など生命維持治療の進歩により、延命 治療は大きく進歩をしてきた。しかしながら、一方で濃厚な治療や過 剰な延命治療も可能となり、「尊厳ある死」とは何か、わたしたちそれ ぞれが法律の範囲内で考え、選択しなければならない時代となった。 本稿では、2019 年に世界中で大きな議論となったフランス人のヴァ ンサン・ランベール(Vincent Lambert)氏(以下、敬称略、ランベー ルと記載)の事件を通して、「死」(ここではあえて、安楽死や尊厳死 という言葉は用いない)の選択・決定の難しさと、この事件ともかか わるカトリックにおける植物状態の患者への指針について紹介し、問 いを投げたいと思う。
1 ヴァンサン・ランベール氏事件 まずは、ランベール事件の概観を見ていこう。精神科の看護師であ った当時32 歳のフランス人男性、ヴァンサン・ランベール氏は、2008 年9 月 29 日、自動車での交通事故で脳に重度の損傷をし、その後、四 肢麻痺となり、人工呼吸器等の生命維持装置によって病院に長期入院 していた。 2012 年、法廷後見人でもあるランベールの妻ラシェルは、「書面に は残されていない」が、ランベールが事故前、「生前にもし万が一の 時、執拗な延命治療などは受けたくない」とはっきり意思表示してい たと主張。主治医であるカリジュ医師に対して、ランベールへの処置 が「常軌を逸した執拗な治療(obstination déraisonnable)」にあたるかの 検討を要請する。2013 年 4 月、医療チームは妻の同意の上、ランベー ルの栄養剤を中止し、水分を減らし、終末期医療(延命処置の中止)を 行なった。これを知らなかったランベールの両親は中止に反対し、シ ャロン・アン・シャンパーニュの行政裁判所等に訴え、両親への合議 手続きの不備を理由に、30 日後、通常の栄養と水分を与えられ、ラン ベールへの延命治療が再開された。その後も医療チームと、妻側、両 親側で協議を重ねたが、最後まで合意することはなかった。 2014 年 1 月、妻とランベールの姉弟 8 人中 6 人の同意に基づき、主 治医は「レオネッティ法」1を根拠として、栄養の静脈投与の停止を決 1 「レオネッティ法」とは「終末期医療の権利法」として2005 年に成立、2006 年に施行された法律で、安楽死や自殺ほう助は禁止するが、「常軌を逸した執 拗な治療」を停止することができる法である。これは、患者の意思の尊重(自 律の原則)、患者及び代理人の情報の必要性、人間の尊厳、痛みの緩和、治療 の中止や治療の拒否の際は必ず緩和ケアの確立が伴っていなければならないと いう原則、価値観に基づいている。また、医療における意思決定に関する手続 きを課している。治療を中止または制限する決定は合議制で行わねばならず、 議論での決定事項は医療ファイルに記録することが義務づけられている。
定、遂行した。両親は、再び、シャロン・アン・シャンパーニュの行 政裁判所に提訴し、判事は医師の判断を否認した。この場合の判断は 「常軌を逸した執拗な治療」の証明の有無が根拠となった。 ここから、2019 年まで、妻とランベールの義理の甥と、両親と妹夫 婦との間で、「常軌を逸した執拗な治療」の中止と「植物状態にある人 の生存権」とのあいだでの壮烈な争いが始まる。本人の意思が不明の まま、ランベールの「死ぬ権利」と「生きる権利」との闘争が起こっ たのである。 詳細は省略するが2、ランベールへの「常軌を逸した執拗な治療」が 争点となり、病院や医師も巻き込み、国務院、欧州人権裁判所での裁 判が何度も行なわれ、法的措置によって5 回に亘って生命維持機能取 り外しと差し止めを繰り返した。最終的には、2019 年 6 月 28 日破棄 院(フランス最高裁判所)で、治療停止可能の決定がなされた。そし て、同年7 月 2 日に担当医師による水分・栄養補給が停止され、7 月 11 日にランベールは死亡が確認された。 以上がランベール事件の概略となる。この延命治療の是非について の裁判では、妻側の「恒久的(回復不可能な)植物状態」との主張に 対して、両親側は「最小意識状態」で治療の継続が必要との主張とな った。また、レオネッティ法における患者の意思の尊重(自律の原 則)や、法廷後見人である妻と後見人ではない両親の「合議」も争点 2これについては、以下に詳細が記されているので参照されたい。 牧田満知子「欧州人権裁判所判決から考えるフランス「尊厳死法」―ヴァン サン・ランベール事件の検討を通して―」『医療・生命と倫理・社会』第15 号、大阪大学大学院医学系研究科・医の倫理と公共政策学教室、2016 年。 牧田満知子「欧州人権裁判所判決から考えるフランス「尊厳死法」―ヴァン サン・ランベール事件の検討を通して―(修正・加筆)」『医療・生命と倫 理・社会』第19 号、大阪大学大学院医学系研究科・医の倫理と公共政策学教 室、2019 年。
となった。本人不在のなか、その争いはまるで「彼の命がサッカーボ ールのように投げ合いにされてきた」(支援者のたとえ3)。 それぞれの主張では、妻は夫を苦しみから解放したい、両親は生き ているいのちを最期まで途絶えさせたくない。ここにはそれぞれのラ ンベールへの想い、そして死生観がある。フランスでは時を同じくし て、安楽死や代理出産についての法制改革の審議をしていたこともあ り、ランベール事件はフランス、そしてヨーロッパでは大きな議論の 嵐を起こした。 2.カトリックにおける植物状態の患者に対する指針 この事件はカトリック教会でも大きな事件であった。日本ではあま り大きく取り上げられることはないが、世界中で起こっている様ざま な事件に関して、世界でもっとも大きなキリスト教の教派であるカト リックの総本山であるバチカンは、カトリック教会としてのコメント を求められる。 例えば、安楽死に関することでは、記憶に新しいかもしれないが、 2014 年、アメリカで末期の脳腫瘍の女性ブリタニー・メイナード氏 (当時29 歳)が安楽死することを事前告知する動画を動画サイトにア ップし、世界中で大きな話題となった際にも、カトリック側からのコ メントが求められた。教皇フランシスコは直接のコメントはしていな いが、当時のバチカン生命アカデミー会長であるカラスコ・デ・パウ ラ氏は、イタリアのANSA 通信とのインタビューで「この女性は尊厳 を保って死にたいと考えたのだろうが、それは間違いだ」、「自殺は悪 いことだ。なぜなら自殺は、生命を否定し、世界や自分を取り巻く 人々に対する私たちの使命に関してすべてを否定する行為だからだ」 3記事 「冥土の戸口で引き止められるヴァンサン・ランベール」 https://ovninavi.com/
とコメントし、ブリタニ―氏の母親を巻き込み、大きな議論となっ た。特に今回のランベール事件は、両親が保守派のカトリック信徒で あったこともあり、カトリック教会の動向が注目を浴びていた。 ランベール事件に戻るが、そもそも、カトリック教会では、植物状 態の患者に対してはすでに2004 年に教皇ヨハネ・パウロ 2 世「「生命 維持措置と植物状態に関する国際会議」参加者への挨拶」、世界カトリ ック医師会/教皇庁生命アカデミー共同声明「植物状態をめぐる科学 的・倫理的問題の考察」および2007 年、教皇庁教理省「全米司教協議 会から提出された人工的栄養補給と水分補給に関する問いに対する回 答」(以降、「回答」と略)4によって、恒久的植物状態の患者に対する 水分・栄養補給に関する文書が発表されている。 2007 年の文書は、全米司教協議会が延命中止に関して提出していた 問いに対する回答である。アメリカではすでに安楽死(名称としては 「尊厳死」)に関する法律の議論がされていたし5、またこれは言うまで もなく、アメリカで起こったテリー・シャイボ事件が大きな影響を与 えているため、少し事件に関する記載も加えたい。 テリー・シャイボ事件は、1990 年、事故により脳の損傷によって植 4 文書の全文、またこの背景などに関しては、以下に詳細が記されているので 参照されたい。 岩本潤一「植物状態の患者に対する水分・栄養補給をめぐって」、『現代カトリ シズムの公共性』知泉書館、2012 年、pp.49-77。 5 アメリカでは、州ごとに法律が制定されており、1994 年にオレゴン州「尊厳
死法(Death with dignity act)」で安楽死が容認されている。また、2009 年には ワシントン州で「尊厳死法」が制定された。両州とも、医師が患者に致死薬を 処方することを認めているため、直接的な安楽死とは言えないが、自殺ほう助 が可能となる。その後も、モンタナ州「安楽死法」、2013 年バーモント州、 2014 年ニューメキシコ州、2015 年カリフォルニア州で安楽死が認められてい る。前掲のブリタニー・メイナード氏はオレゴン州に在住し、自宅で医師から 処方された薬を服用して安楽死した。
物状態になったテリー・シャイボ(Theresa Marie Schaivo)夫人(当時 26 歳)(以下、敬称略、テリー・シャイボと記載)の生命維持装置を 夫が取り外しを求めたのに対して、両親・家族が反対し、5 年以上の 裁判の結果、2005 年に夫が勝訴、2005 年 3 月に胃瘻チューブ除去後、 14 日後の 3 月 31 日に死亡した事件である6。 2004 年、教皇ヨハネ・パウロ二世は「生命維持装置と植物状態に関 する国際会議」参加者への挨拶において、人工的手段による場合にで あっても、水分と栄養の供給はつねに生命を維持するための「自然的 な手段」であり「治療措置」ではないこと、どのような状況の患者で あっても、基本的な人間の尊厳を備えた人格であることを示した。 植物状態にある病者は、回復を待っているにせよ、自然死を待って いるにせよ、基本的な健康管理(栄養補給、水分補給、衛生、保温な ど)を受け、病臥に伴う合併症を予防してもらう権利も有します。7 しばしば心理的・社会的・経済的な性格の圧力によって現実に主張 される「生活の質」への考慮が、一般原則よりも優先させてはならな りません。〔中略〕そこから、社会的関係に差別的・優生学的原則が 導入されます。8 6 これについては、以下に詳細が記されているので参照されたい。 秋葉悦子「治療行為をめぐる問題―患者の意思の尊重,先端医療技術の適正な 使用,医療の客観的限界」、ホセ・ヨンパルト,秋葉悦子『人間の尊厳と生命 倫理・生命法』成文堂、2006 年。 佐藤雄一郎「PVS 患者の治療中止と政治介入との関係をめぐって―アメリカ合 衆国・フロリダ州の一事件から」、『生命倫理』Vol.15No.1、通巻 16 号(2005 年)、pp.135−143。 7 教皇ヨハネ・パウロ2 世「「生命維持措置と植物状態に関する国際会議」参 加者への挨拶」2004 年 3 月 20 日、第 4 項。 8 同5 項。
この挨拶を受けたうえで、世界カトリック医師会/教皇庁生命アカ デミー共同声明「植物状態をめぐる科学的・倫理学的問題の考察」で は、①植物状態(Vegetative State=VS)の厳密な定義づけ、②人間の尊 厳に基づく権利、③医療従事者や家族への指針を提示している。植物 状態の患者は「人格」として人間であり、「基本的諸権利を完全に尊重 される」ため、以下の権利を持つことが示された9。 ① 起こりうる誤診を避け、最善のリハビリテーションを受けるこ とができるために、正確で徹底的な診断を受ける権利。 ② 水分補給、栄養補給、保温、衛生を含む、基本的な介護を受け る権利。 ③ 合併症を予防し、あらゆる回復の兆候を監視してもらう権利。 ④ 回復を促し、達成したあらゆる進歩を保つために、長期にわた る適切なリハビリテーションを受ける権利。 ⑤ すべての他の患者と同じような介護を受け、あたたかく扱って もらう権利。 そのうえで、栄養補給・水分補給を差し控えることは「不可避的 に、直接の結果として患者の死がもたらされる」ため「真正かつ固有 な意味での不作為による安楽死行為となる」としている。 さらに、2005 年 7 月、全米司教協議会(ウイリアム・S・スカイル スタッド会長)は教皇のメッセージとこの声明を受けて、改めて教皇 庁教理省としての説明を求め、2007 年「回答」となった(教皇は、 2005 年 4 月 19 日より教皇ベネディクト 16 世が就任している)。 この問いは、①「(自然的手段によるか、人工的手段によるかに関わ 9 世界カトリック医師会/教皇庁生命アカデミー共同声明「植物状態をめぐる 科学的・倫理学的問題の考察」第10 項。
りなく)植物状態にある患者に栄養と水分を提供することが道徳的義 務か、②資格のある医師が道徳的確実性を持って患者の意識が回復し ないと判断すれば、栄養補給を中止してよいか、との問いであった。 それに対して、教理省(当時の長官:ウィリアム・レヴェイダ枢機 卿)は、以前の教皇ヨハネ・パウロ2 世の挨拶を受け、改めて「栄養と 水分の供給は、原則として、生命を維持するための通常の、釣り合い のとれた手段である」ため「道徳的義務」があること、また「恒久的 植物状態」の患者であっても「基本的な人間の尊厳を備えた人格であ り続ける」ため、栄養と水分の補給は「中止してはならない」として いる。 3.ランベール事件に対するカトリック教会の態度 ランベール事件では、本人不在のまま、「常軌を逸した執拗な治療」 の中止と「植物状態にある人の生存権」のあいだで争われた。カトリ ック教会の指針を受ければ、両親の主張する「最小意識状態」ではな く、レオネッティ法の適用される「恒久的植物状態」の患者であって も「人間の尊厳」に基づく生きる権利があり、人工的手段だとして も、栄養補給と水分補給が道徳的義務と考えられており、常軌を逸し た執拗な治療ではないと考えられている。 もちろん、ランベール事件はフランスの法律に基づく事件であるた め、カトリックの教えは直接的には有効性はない。しかしながら、も う一つの争点ともいえる中止の決定権という意味では、妻と両親との あいだの主張には、それぞれの死生観が深くかかわってくる。死生観 には、おのおのの宗教観が問われており、両親が熱心なカトリック信 徒であれば、この指針は大きな影響力を持っているだろう。彼らの主 張は最後まで相容れることはなかった。ランベールの栄養・水分補給 が中止されて死を迎えるまでのあいだ、妻と両親はそれぞれの向かい 側に別の部屋が用意され、交互にその死までを見守ったという。母親
は最後には「あきらめ、判決を受け入れる」、「後は祈るだけ」とコメ ントしている。 2019 年 7 月、すでに担当医師による水分・栄養補給が停止された 後、教皇フランシスコはこの事件について、ツイッターなどで発信を している。7 月 10 日には、ランベールの名前は示されていないが、ラ ンベール氏を思い起こさせるような以下のツイートをしている。 見捨てられ、死ぬがままの状態に置かれた病者たちのために祈りま しょう。一つの社会は、生命が保護される時、その最初から自然の死 に至るまで、誰が生きている価値があり、誰が価値がないかを選ば ず、すべての生命が守られる時に、人間的な社会とされるのです。医 師は命のために奉仕し、命を取り去るために奉仕するのではありませ ん。10 そして、翌日、彼が亡くなった後には、ランベールの名前を挙げ、 いのりを求めている。 神なる御父が、ヴァンサン・ランベールさんを御腕の中に迎えてく ださいますように。この命は生きている価値がないと判断し、人間を 排除する文化を築いてはなりません。すべての命には、常に、価値が あるのです。11 また、バチカンのアレッサンドロ・ジソッティ暫定広報局長も、ラ ンベール事件に対しての声明を発表した。 10 @Pontifex 2019 年 7 月 10 日 11 @Pontifex 2019 年 7 月 11 日
ヴァンサン・ランベールさんの訃報をわたしたちは悲しみをもって 受け取りました。主がランベールさんを迎え入れてくださるよう祈る と共に、最後まで彼に愛と献身をもって寄り添った、家族の方々をは じめすべての人々に精神的一致を表明します。この痛ましいケースを めぐり、考えを示されてきた教皇の次の言葉をわたしたちは思い起こ し、強調したいと思います。「生命の最初から自然の死に至るまで、 命の主は神だけです。命を守るためにできる限りのことをするのは、 わたしたちの義務です。切り捨ての文化に屈してはなりません。12 教皇フランシスコは、利潤と消費という偶像によって切り捨て、「廃 棄の文化」がひろがっている危険性をたびたび指摘している。そし て、この文化は物だけではなく、人間のいのちにも適用されているこ とを警告している。 人間のいのちも、人格も、尊重し、保護すべき第一の価値とは考え られません。とくにその人が貧しかったり、障害をもっている場合で す。まだ役に立たない場合や―出生前の子どものように―、もはや 役に立たない場合も同じです―高齢者のように―。この廃棄の文化 は、浪費や食料廃棄に対してもわたしたちを無感覚にします。これは いっそう非難すべきことです。13 いのちを利潤と消費に照らして、現代では「役に立つ」か「役に立 たない」かで価値づけ、無感覚に廃棄することが当然となり、いつの 間にかその判断が「文化」にすらなっている。教皇フランシスコは、 この「廃棄の文化」へ警鐘を鳴らし、すべてのいのちを守ることを呼 12 バチカンニュース https://www.vaticannews.va/ja/vatican-city/news/2019-07/vincent-lambert-morte-ponteficia-accademia-vita-20190711.html 13 教皇フランシスコ一般謁見演説、2013 年 6 月 5 日。
びかけているのである。 ランベール裁判が終盤に差しかかった時期である2019 年 5 月、フラ ンシスコは「カトリック医療従事者協会設立40 周年記念挨拶」でも、 医療従事者に対して、何よりも医療は人間のいのちの尊厳を基盤とし ていなければならないことを主張しており、「人に対するあらゆる医療 行為は、それが人間の命と尊厳を尊重したものであるかどうかを、ま ず初めに検討する必要がある」と述べている。ランベール事件は、改 めてカトリック教会が、すべての人間のいのちの尊厳を守ること、特 に、植物状態の人間も含めたいのちの終わりに近い患者の尊厳を守る 態度を示したといえるだろう。 ランベール事件後、2019 年 9 月 22 日に教理省は書簡『サマリタヌ ス・ボヌス』14を発表した。これは、教皇フランシスコの承認のもと に重篤段階および終末期にある患者の治療をテーマとした書簡であ る。 この書簡では、①あらゆる形の安楽死および自殺ほう助に反対する こと、そのためにも、②患者の家族と医療従事者に対する支援の必要 性を説き、教皇ヨハネ・パウロ2 世も説いたように、「治らない患者 は、治療できない患者では決してない」と同書簡は繰り返し、終末期 にある患者は人間の尊厳をもって、人格として受け入れられ、ケアさ れ、愛される権利があることを強調している。 この文書の目的は、医療の原点である福音書の「善きサマリア人」 のメッセージを現場で実践するための、具体的な指針を提供すること にある。そしてその際には、患者への医療・看護的、家族的、宗教的 な寄り添いは避けることのできない義務である15と述べている。寄り
14 書簡『サマリタヌス・ボヌス』Congregation for the doctrine of the faith, Letter
“Samaritanus Bonus on the care of the persons in the critical and the terminal phases of
the life”, 2020(以下、SB と略)。
添い、耳を傾け、愛されていることを感じさせながら、最後までケア し、病者と「共にいること」で、孤独や、苦しみや死への怖れを避け ることができる。ケアにおいて、病者が自分を重荷に感じることな く、「家族の寄り添いと尊重に包まれていることは不可欠であり、この 使命のために、家族は支援とふさわしい手段を必要としている」16と している。 また、教会の教えにおいて、安楽死は「人命に対する犯罪(crime against human life)」であり、あらゆる状況において、本質的に悪の行 為だとする。そのため、安楽死に対する協力は、人命に対する重大な 犯罪とし、いかなる権威もこれを「合法的に」強要する、あるいは許 可することはできない。絶望や苦悩が安楽死を願う個人の責任を減少 させる、あるいは存在しないものにすることがあったとしても、安楽 死的行為は認容できない。 尊厳ある死を守るとは、過剰な延命治療を排除することを意味する が、しかし、患者に当然与えられるべき通常のケアが中断されること があってはならない。栄養と水分の補給は、一つの義務である。この ように緩和ケアのなかには安楽死の可能性は決して含まれてはないこ とが指摘されている。 また、植物状態および最小意識状態の患者についても項目立てら れ、ランベール事件のように、患者に意識がない状態の場合でも、病 者は「その価値を認められ、ふさわしい治療とともに看護されなけれ ばならない」と繰り返している。病者は栄養・水分補給される権利が ある。しかし、それ以上効果がない、その処置を行うための手段が過 度の負担を生むなど、「こうした処置が不均衡になりうる」場合があ る。そのため、「植物状態患者の看護の長引く負担において、家族に対 16SB, Ⅴ, 5.
するふさわしい支援の必要」を述べている17。何よりも家族を孤立さ せることをさせないという姿勢は、教皇ヨハネ・パウロ2 世のときか ら変わらないケアのポイントであるといえよう。 おわりに このランベール事件はフランスだけではなく、世界中で大きな議論 となったが、日本ではほとんど話題とはならなかったように感じる。 それは、死の決定に伴うそれぞれの決断には死生観、そして宗教観が あらわれる。この事件の場合には、特にランベールの両親のカトリッ ク的な考えかたが、日本人には理解しづらいことがあったように思 う。 日本でも生命維持治療の差し控えや中止に関する議論が長くされて いる。2006 年に起こった富山県射水市における人工呼吸器取り外し事 件18を受け、2007 年には厚生労働省によって「終末期医療の決定プロ セスに関するガイドライン」(2015 年には「人生の最終段階の決定プ ロセスに関するガイドライン」に名称変更)が策定された。これらの ガイドラインは病院・在宅医療・介護の現場での患者や家族の意思決 定についてまとめられている。また、2016 年 11 月、日本救急医学 会、日本集中治療医学会、日本循環器学会は、患者、患者家族などや 医療スタッフによるその後の対応についての判断を具体的に支援する 必要があると考え、「救急・集中治療における終末期医療に関するガイ 17SB, Ⅴ, 8. 18 富山県射水市民病院において、2000 年から 2005 年にかけて、 7 人の患者 が外科部長によって人工呼吸器を取り外されて死亡していた事件。患者は50 歳代から90 歳代の男女で、7 人いずれも意識がなく、回復の見込みがない状 態で、本人の同意が1 件、家族の同意が 6 件あった。うち、2 件は家族も立ち 会った。2008 年 7 月、取り外しを行なった元外科部長と元外科第二部長を殺 人容疑で書類送検、2009 年 12 月、不起訴となった。
ドライン」を示した。 日本では現在、人工呼吸器の取り外しに関する法律はなく、殺人罪 もしくは嘱託殺人罪にあたる可能性があるが、実際には人工呼吸器の 取り外しだけで起訴された事例はないのが現状である。そのため、法 律がないまま、「死ぬ権利」が一般化してしまうことへの懸念があるだ ろう。法律としては、国会でも超党派の議員連盟が2007 年 6 月に尊厳 死法案を公表したが、未だに審議は行われていない。これもある意味 で、死をタブー視する日本的な死の文化が浮き彫りになっているのか もしれない。 ランベール事件は、植物状態での「生きる権利」と「死ぬ権利」の あわいで、死を決定するのは誰なのか、回復不可能な状態であっても 人間のいのちをコントロールすることは道徳的に正しいことなのかと いう問いを、そして、自分の望む死を明確にしてなかったことでの悲 劇を提示している。カトリック教会では、この事件を通して、改め て、すべての人間のいのちには尊厳があることをはっきりと宣言し た。「廃棄の文化」がひろがっている現代社会のなかで、わたしたちは どのように死と向き合い、他者と「対話」し「一致」していくことが できるだろうか。この課題をタニンゴトではなく、ジブンゴトとし、 さらにワレワレゴトとして社会に問い続けていくことが必要だろう。