(5) ま と め
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1‑,I),第 10 葦 宗 教 と 民 俗
1
社 寺 (1) は じめに現 在 .大佐町 には寺院 は1 0カ寺 あ り,庵 も含めると18であ るO席 も含めた廃寺 は19となって いる。 1 0カ寺を宗派で分けると,真言宗5カ寺 .瞳摂家dカ寺 ,日蓮宗1カ寺 となる。
r阿哲郡誌
J
によると,大佐町 に神社 は= tヒ望 め られ る。これ らは比較的規模の大 きい神社 だLけ で ,小 さな荒神杜な ども含め る と,かな りの敢 にの ぼるo例 えば ,小阪部 の大佐神社 の神主である戸 部氏 は,大佐町 の神社 の うち59杜 の神主 を兼鍔 してい る.大 佐町の社寺の主 な もの をみてみよ うO
(2) 神 社 (∋ 大佐神社 小阪部
大佐神社 の神主である戸部氏所有 の r大池神社棲起写 Jに よると
,
「人望 5 0代桓 武天皇御宇延 暦 5甲子8月九州肥後国 ヨ リ備中 国英賀郡小阪部黄山乃大悲 之ロ ト申所 二板絵 .・・・‑ (中略 )‑然後延暦 5子年阿蘇宮丑 山 二遜給 テ ヨ リ同山 二池出来 依之千束池 へ降臨之姫神 ヲ黄 山地 工率勧誠池大 神 卜銀座 ス 」とな っている。
祭神 は阿蘇輝彦命 ,阿鮮秤姫命 。
氏子は小坂部川西 の大佐神社 ,国司神社で約4 0 0,小板部川東の八幡神社 ,坦見神社 ,天神社あ わせて15 0‑ 15 0である。
現在行 なわれている神社 の祭 F)・行事 には.元旦寮 ,春季恒 例祭 ,代充祭 ,夏祭 り,秋季恒 例祭
な
どがある。秋季恒 例窮 は,大祭 として位 も盛大 であるDこの祭の時 は,大佐神社 ,国司神社 ,樹見神 社 ,天神社の5祉 み こしが でる。花火 を合図に 5杜 を出発 して,御旅所 (現在 は公民館 )までね って
写真10‑ 1‑ 1 大 佐 神 社
‑15ー1‑
さて合同祭 を行 な う。昔 は大人1 2, 15人 でみ こしをかついTさが ,この 5, 4年 は自動 車でみ こしを迎 んでい ると のこ とである。
この大 佐神社 は大佐町 の重畳 文化財 となってい る。
② 国司神社 小阪部
昭和26年 の刑部町町勢要先 に よると
,
「寛永2丑年雄徳山 よ り小板部字国司 と申す所 ‑奉勧請 宮殿建立 ,領主池田備 中守屋奉 公 の時代 である。か つまた,露文4甲辰年御地鎮水谷新右衛門勝能公 より正八幡宮放生会御供科 1石511下 され , 8月1 5日放生会祭毎年執行 した りO祭神 は,気長 定姫 命 .瞥田別称 ,玉依姫命 」とな っている。この放生会祭 は現在 も行 なわれ てい る。
また ,この神社 は ,小阪部川東の八 幡神社 に対 して,西の八幡神社 と もい われてい る.3
写共 10‑ 1‑ 2 国 司 神 社
③ 粉見神社 小板部
前 出の町動感掛 こよる と
,
「当社 は ,字宮本に前座 あれ ど も往古 は輝尾宮本一円の地 を鞍鬼 と称 し,此の地付近 に考古学 上の有名な る古墳 (火の見場 ),月の輪m多数存在 せ る聖地 に して,神社勧 請年 月 日不詳 なれ ど,本殿 の古杉 (55R
周 gB)をもってみて も千年前の御許 と推知せ られ るO池 田写真10‑ 1‑ 5 湯 鬼 神 社
備前守 ,地頭水谷新右循門勝維公崇敬 の社 といわれ る。祭 神 は天児島雌命 ,興台産田仲 ,許登能頼通姫命 . 」とな っ ている。この町勢密距 では勧訴年月 日不詳 であ るが ,弘化 4年の r永固相神社‑Lr上帳 Jによると
,
「天応元辛 酉年 に 勧翻 された とい う言 い伝 えが ある。
」とな っている。百 人一首の札 を絵馬に してあ る。
1572‑
④ 八幡神社 小阪部
町勢要魔 によると
,
「古神社 は仁和2丙年宇佐 より永富へ勧辞 した ものである。明治55年炎上 , 明治55年に再建 した ものである。 」とされている。旧8月1 5日に放生会窮が行 なわれ てお り,.み こしが この八幡神社 と小阪 部川西の国司神社か ら出て,国司神社 で合同条が行 なわれ る。
写真10‑ 1‑ 4 八 肺 神 社
⑤ 八幡神社 永 富
町勢要覧 によると
,
「当八代神社 は, (維新酌八代荒神 と称す. )その創設年月 日不詳 であるが , もと,当町字神諸 に鍛座があったが ,応永年闇現在薪座地 に遷祭す る.現在の社殿 は .文政年間地頭 水谷家の命 を受 け,庄屋金田安右 工門世話係 とな り建築 した ものである。明治1 0年12月存知頗許可 ,以後無頼社 として寮把o昭和2 1年7月宗教法人 として登記 した.
祭神 は素妄執 大 己舞曲 ,稲田姫命
O
」と され ている。また
.
F阿哲郡誌)にはこの神社 の ことが次のよ うに記 されている。 「無格社 たる も古来地万人の 崇敬厚 く,作州 ・伯著方面 より十致里 を通 しとせず して参詣す る もの多 く,神格頗箸 な りと称す。古 来神木 にノ ロヒ釘 と称 して金釘 を うつの迷信 あ t)Lが ,今や共 の郵な きは寮ぷべ きfiiな り。祭 日は陰 暦5月28日た り。 」(
砂 国司神社 EEl冶部鎚休 5年の縁起 によると
,
「大旗主食 がこの地 に田畑1を開いたことに より田沼部 となった.国司 神社 とい う名前 も大国王命にちなんでいる。かんばつが多 いので大国主命が海 にお参 りにな り,7
日 7夜お祈 りをして雨 を降 らした。郷中 を6 1郷 に分け .祭 りの当番 を決 めた。年中56回の祭礼が あ る。祭神 は,追LL)彦大神 ,大国主母 ,餌代主尊 ,少彦名瀬。 」とな っているO 氏子は大 字rB治部全域。
‑575‑
なお 「タヂベ 」とい う地名については
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備中簸. I
「西多 拾部村 」の項 に次のよ うに記 され てい る。「和名抄 に丹部多知部 と有 て古 Lへ は丹部 と昔日こるを後年英文字 の安 らか成 に便 りて今の丹治部 とは 替 しな るべ し古事記 に大鶴鈍尊軸 臣為 ミツ‑別命之御名代走姐 部 と兄へて御名代 の地 な り」
? ナへ
写君主10‑ 1‑ ム 国 司 神 社
⑦ 金良子神社 大 井町 赤松
金 屋子神社 とい うの は ,どの狼藩 に もあるとい う話 であ ったが,ここでは大 井野赤松 の金屋子神 社 を取 り上げた。
金屋子神社には ,たた らで出来 た鉄 を祭 ってある.従 って御神体 は鉄 とい うことになる. この神社
写 摂 10‑ 1‑7 金屋子神社御神体
には愛宕神社 ,荒神社 ,山神社 ,御崎 神社 ,金屋予神社 の 5社 が祭 ってあ ったO
旧占月22口と旧
9
n 22FIの春 と秋に祭 りを行 な い , 神社のお堂の中に難解FFIの人が躯 ま (),年 後2時頃か ら午 後6時頃 まで飲食す る との ことであ る.(佐藤民 政 )
‑574‑
写臭 10‑ 1‑ 8 八 幡 神 社 人井野
写共 101 1‑ 9
後醍醐神社 大井野
写英 10‑ 1‑ 10 個 人 の 荒 神 社
(5)仏 閣
①
大聖寺
大井野 田輿 由済宗応永5年(1598 )膨岩祖芳 を関山 とす る。本尊 は十一両観音。層家は大井野一円。
春秋彼岸 ,盆 ,正月には寺 に信徒 が染 まり,政治 .教育 ,社会 な どについて全体 討議 をする。
‑3751
写 真 10‑ 1‑ 11 大 雪 寺 (塾 円福寺
小阪部千谷 臨済宗
和銅2年 (7 0 9)創 建。紺山は不詳 .空海が真言宗 を日本 に伝 えた8 08年 よ り創笹 は古 い。
大同年中以降 ,応永年中に芝丘 rEJ】庵 に よって中興 されて歯済 宗になるまでが頁吉宗であったとい う説 もある。現座職三沢氏の藷 によると,天台宗 の祈祷等 の よ うな解 り方 を してあるので ,fl言宗 か ら天 台宗へ変 わ り,それか ら臨済宗にな ったのではな いか とい うこ とであ る。
戦後2回 火災に辿過 し.現 在の寺 は昭和5 9年 に再建 した ものであ る。阿弥陀 如来が本尊 .その 両脇に不舶明王 ,毘沙門が祭 られてい る。 この阿 弥陀 如来 は飛鳥時代の作 とされている。偲 家 は約 7 0軒 。千谷 ・篠原が壬 だが上等地 に5‑ 6軒 , 町内 に も1 6‑ 17軒 ある。
写実 101 1‑ 12 円 福 寺
③ 大海寺 小坂部等地 臨済宗
貞和年中的基 o当時掻 福寺 と称 す るo巌安年中大屯寺 と改称 す る。松 山商水谷膨隆公の帰依申 く, その法名大商院 を寺号 とす る。享保年焼失 により,周囲の寺 を合併 して西堂和尚が再延 。
解 数 は 9ケ寺 (宝室寺 を除 く )の うち巌 も多 く約2 00軒 。檀 家 は主に小阪部 ・上刑部。
本港 は観音。
‑576‑
写真101 1‑ 15 大 竜 寺
④ 妙玄院 小阪部寺地
目q:t'宗
「
‑・・宮原仁八文言‑初志 ヲ禁 ズル能 .、ズ白山 ヲ伐幽 キ者 永元 年春岩 手 シ続行里芋 ヲ建築 シテ苗 永山 卜命令 シク リ・・・・.・明治25年4月2 2日許可相成験 二付始 ノテ日蓮宗敏会所 之看板 ヲ隠 ケク リ‑明治5 5年4月起 工シ鵡多田難 二避退 シ俺 力之檀徒故 二殆 ノ ト中止 /不幸 二至 ラン トス。学明 院 日光上人 ‑明治5占年 5月8E]遷化 セ ラV同年4月5日長耐 圧妙 上人入山 シテ債徒 卜蘭朝 シ浄菜 ラ
継親 シテ終 二明治57年 旧10月12日本 堂新葬落成 ノ式 卜入仏 ノ会式 トヲ挙行 シ備 北 ノ地 二正法 ノ道場 ヲ見ル ‑
‑
」と妙玄 院の歴史 はな ってい るD大佐町 で展 も新 しい寺 院である。
値家教は1 7‑ 180
写夷 川 ‑ 1‑ 14 妙 玄 院
⑤ 円福寺 永 日金 谷 臭吉宗
大同2年 (8 D 7)空海 によ り開 山。山門 を町史助 として保存 してあ る。この山門 は
,
兜文4年‑577‑
水谷勝能 が刑部 を知行 す るにあた り,小阪部陣屋 を摘簸 した ときの門 である。 それか ら累代2 5 0年 を経 て明治維新 に より頗滞,知行所没収 に際 して ,大門 ・小門 のいずれかは不要 であったが ,水谷家 代 々の菩提寺円通寺に移 して山門 にか えた ものである。
檀家数 は約1 50 .小阪 部川の乗 「
永
宙 ,安藤 .金城 ‑が主 たる鹿家 とな ってい るが ,町場 に も50写itllOl 1‑ 15 円 通 寺
写顛 10‑ 1‑ 16 円 通 寺 山 門
⑥
金剛寺 小 南 臨済宗応永8咋 高額芝丘禅師 によ りBEI山。当 時は茅尾 の小院であったが逐次面目を攻 め , 明治5 1年14此出前和尚 に至 り由鎚 。以 来 今 日に及 ぶ。
本噂 は延命地織 ,願主菩薩 o (作者不明) 惣家 は門小南約8 0iIrF。
軒樫 ある。
今か ら約1 0 0年前 ,現在 の5代 前
英
増翁和 尚の噂焼失。現 在 の本堤は仮 本堂 である。本港 は聖職者の この観 音については F永翻 せ昏永 山円通寺敵背院古形言己録
見J
(段 応2丙寅年攻 )に
「世上 ,千 安之観音 と也崇 し,安産守範 の駐仏 な り。 」とある。現在 もこの‑‑f安観音 は 有名 で ,宗派 を問 わず安産0)お まい り に来 る人は多 い。また ,上記の r記録
先J
に よると「備中 記二 日。当寺山 を円通寺 山 と号 し,城田美 鵡守兼益 之古城跡 とIP伝 ふ。尤城跡変事 の 地JIlfに御座候。往 占当寺 を金歯LiJ観
音院 と 号す。 」写fi10‑ 1‑ 17 金 剛 等
‑578‑
⑦ 永福寺 田治部小原 臨済宗
応永 8年10月商苛芝丘禅師 により 開基0本尊 は釈迦如来。檀家 は東田治乱
⑧ 本管寺 田治部戸谷 臨済宗
応永年中 ,重要 によりuf・]基 され,安 永2年石峰 によ り再建 される。現在の田 治部駅前 より現住地 に移任 された もの。
本尊 は釈迦如来仏 。 碩家は西田拾部 o
⑨ 東前寺 田治部畑 共吉宗
大同2年 5月弘法大師 によ り開基。
当時 は庵 のような ものであった。法曽源 とい う所 (通称寺地 )にて州基 されたが 建久申省長 により再廻 され,現在地 とな る。高所岩山に聖観音が祭 ってある0本 尊 は大 日如来。
この東前寺 は田治部の国司神社の別当 寺であった。平安観時代 か ら国司神社へ
写真 10‑ 1‑ 18 永 福 寺
写蕪 10‑ 1‑ 日 本 音 寺
写 真 10‑ 1‑ 20 第 前 寺
寺が出入 りしていたo国司神社か らみ こしが出 る時 には:別当寺 である東前寺 のお坊 さんがみ こしに 御神体を入れた り,大切な仕事 を した りした。
1579‑
⑲ 宝掌専 布鞄千草 弟吉宗
大同2年弘法 大師 に よ り開 山 され , 祉保2年玄関老 師 に よ り再建 され る.本 軌 ま薬 師 如来 。毘沙門天 ,弘法大師 も余
ってあ る。
現 在 の位位 は5皮 目の もので あ る。本 当 の宝圭寺 は英fim郡英資 廃寺 だといわれ ている。大 山城 か ら練 りて来 て現 在地 と な った とい う。
住 職は束前寺 と兼 務 。
⑭ 金比羅院 凹治 部
災吉宗 であ るが本哲等 の偲家 で ,罪 式.とか法執 ま本笹寺 に依頓 してい る凸春 秋の祭 りにはバ スが1 0‑ 2口舌 も入 り, 大佐町 の神社 ・仏 閣 の中で は点 も志 気盛
んな ようである。願 い軸 が叶 うとして , 地元 よ りも福山 とか山口 ,島根 ,鳥取 な どの山陰地方 か らの信者が多 い ようであ る。
写其 10‑ 1‑ 21 宝 室 寺
写兵 10 ‑ 1‑ 22 金 比 羅 院
r阿哲郡誌 』には阿哲郡 の寺院に ついて
,
次のよ うに記 されあ る. 「本郡 の仏教 として最 も早 く弘 通 せ Lは ,平安朝初期 に於 け る央吉宗 に して ,足利時代 の臨済宗 ,徳目時代 の西 洞宗漸次隆盛 を見 るに至 れるな り。戦国 の頃 は各地 に割拠 せ る秦族仏法 の擁髄 に力 め ,徳IH氏 に及 びては更に寺領 を定 め , 保灘躾 拝 せ Lを以 て ,法煩輝 き渡 りLも,明治 の初 に於 て寺領 を失 ひ,且寺 院有 の山林の如 き之 を上 地 せ Lを以て各寺 院頓 に瀧廃 し,やがて放多 の廃寺 を見 るに至 れ りo然 も戦 国争乱 の時 に於 て廃頼 せ し ものは ,単 に寺名 を地
面
にの こした るあ り,或 は寺 名 まで も失 ひて寺屋敷 とか寺元 とか ,寺谷 ・御 堂川内 ・坊川内 ・寺韓 の名 をのみ残 せ るあ り。 」寺 の行串 とい って も,特 に目立 つ ものはない ようであ る。 4月8日の降誕祭 には,甘茶 を飲み に子 供が寺 へ来 るのだが ,その数 も年 々減 っている0円福寺 では現 在1 5‑ 1 6人 ほ どだ そ うで あ るO正 月4日に は どの寺 も御 祈祷 札 を配 ってい るC寺 の住
臓
U)ほ とん どは他に臓 を もっていて,務 めの合 間 をぬ って寺 の仕群 を してい るよ うで あ る。‑58〔)‑
神社では秋祭りが盛大なようである。また,各部落の荒神舞には,部落中全員が集まる。個人で荒神杜を祭っている人もいる。大佐神社は,老人クラブの憩いの場にもなっている。 (高田雅子)
参考資料F阿哲郡誌
J r
備中誌12
民俗と年中行事 (1)はじめに我々は家族や銀Ef)の中で.毎年同じ暦時に同じ様式で習慣的な行郭や儀礼を繰り返している。このような伝承的営みを,我々は年中行事と呼んでいる.年中行野は,段新生活の進行に伴って伝えられてきたものが多く,現代科学では解き明かすことのできない祭把的なものや呪術的なものがその中心的体系をなしている。それらは人間の労働と休養の過程の中で,地域独得のしきたりとして受け継がれてきたもので,人々の生宿とは切っても切れない関係にある。 しかし,こうした行事も伝承の過程や生産様式の変化などに伴って,新しい解釈を加えられ†こり,やり方が変わってきたものや,現在ではまったく姿を嫡してしまったものも少なくないOとはいってち,雑煮やおせち料甥なしでは正月の気分を味わえないように,遠い祖先の生活や信仰には,やはり現代人の心をひきつけるものがある。ここに,大佐町における年中行啓を季節を追ってとりあげ,その起こりや意味をふり返ってみたいO (2)正月行1g ①元旦
(旧暦) 打)恵方参り恵方参りとは,その年のアキノカタに当たる方位の神社仏閣に初詣することである。恵方というのは,干支の工の方位(アキノカタ)すなわち年神様のいる方向を示している。 大佐町でも,苦から元
旦
には宮参りをするところが多かっT:oLかしこの瓜万参りは,現在では新暦元旦の行事となっている。もしその年の志方に神社がない場合には氏神様に参るが,最近の傾向では好きなところに参る者が多いようである。その際,
「おひねり」と呼ばれる米を紙につつんでひねったものを持って行き,その年の無事安泰を祈るのである。 (p)若水迎え元旦の明方,一家の主人は若水迎えと称して,江連をはったたご
(手桶)を持ち,堤燈を燈して署水を汲みに行く。 そのために,二・三日前にフクラシ(クロシノ()をつけた輪飾り,江連孤を添えて,その家の水神様を祭っておくQこの水神様というのは,昔から続いている古い家では先祖が一番初めに汲みに行った川・池・措水などt新しい家ではその家の井戸に祭られているものであるo若水迎えの際,手桶・榊勺の他
に.
米・鴇豆.嘘・昆布なども持って行き,それらを落として,その沈み具合によって一年 ‑581‑の選 を占 った りす ること もあ った。
若水 を汲 んで来 ると,まず神軌 にお燈明 をあげ,お供 えを して神様 を宅IA!る。その後 ,汲 んで来 た水 で雑器 を作る時の鞄 をわかすのであるOまたある家 では,若水 で歯 をわか し,い り豆 ・くし柿 な どを 添 えて ,主人が茶 を点 てて飲 ませた り.需水 をナソテ ソの簸 てふ ってお払 いをす ることもあった。 こ のB=水迎 えは終戦 まで抗 いていT=0
←う 雑 煮
雑煮 (・こはホ ウt,ソソウ ・ノ、マダ リとい った一般的 な もの に加 えて
,
「ウップ リ」とい う岩海 苔 を入れる。 これは大 佐町 の約 8割 の家庭 に浸透 している。また餅 をゆで る時 ,巣豆 の カラで齢 をわか す とよい とされている。黒 豆に
「黒 む 」すなわち 「伐が家が いつまで も頁 っ真削こなるまで もつ よ うに」とい う願 いをこめ るわけであ る。
(⇒ その他
元旦 には ,福が逃 げ るか らとい ってほ うきを倣 わず ,三箇 日の闇 は亭主が火 をた くこととされ ていた。 そして餅 は三 日まではI煮 て もよいが ,焼 いてはいけない といわれ る。ほ うきや餅 に関す る習 慣 は,現在 も続 いているよ うである.
② 仕
即 始め旧2日は段家 の仕啓始 めで .「作 りぞめ 」として革社 ・粗 .銭 サ シ (わ らをな って,先 に一文銭 をつ り下げTこもCL))・年綱 ・引 きお (年 に物 を引 っば らせ る時 ,かせを掛 け るのに使 う)な どを作 っ た。特 に串擬 は ,一家 の主 人が大 きい ものや小 さい ものな ど片方 だけ作 り,歳徳神 (わか とし )様 に 供 えていT=。片方 だけ作 るとい うのは ,出雲の恵比須様が漁 に出 て ,フカに片足 をか み切 られた とい
う言い伝 えに由来 している。
女子 は 「縫 いそめ 」と称 して,小 さい布の娘 を二つ縫 い ,一方 には大豆 ,他方には米 を入 れて ,こ れ も歳徳神様に供 え ,上運 を祈醸 した。また この日には 「つ きぞめ 」も行 なわれ ,一定虫 の米 (平年 な ら‑升二台 ,閏年 ffら一升 三合 )を臼でついて,同様に供 えていた。
郷尾にB:む0氏 の家で は ,現在 で も毎年 これ らの珍 しい行夢 を行 なっている。
③ 恵比須参 り
旧
5日は君比須参 りとい って .毘沙門天 に参詣 していた0時 に前夜 、お旭nAをあげ ,雨戸 を細 目 にあけてわ くと,毘沙門天 の御授 けを受 け るこ とがで きる といわれ ていた。④ 山入 り
旧4日,鹿家 では‑年中 けが をしな いで山の守がで きるよ うに と願 って ,山入 りを行 なった。 そ の際 .御幣 を切 って その一番下 の大 きい ところに米 をつつんだ もの と,しの竹 を削 って酒 を入 れた も のを持 って行 き ,その年の アキ万 にある山の入 り口に祭 ってお く。この日に限 り,他人の山に入 って
もよい とされ ,薪 とすべ きアべ ・クPシバ ・薬 ・松 などの木 を切 って帰 った。たいてい一人二本ずつ
‑582‑
切 るが ,その家の男子の数 だけ切 るともいわれている。
持 って帰 った木 には.平年 な ら12,閏年 ffら15と年 によって一定の切れ 目を入れ ,そこに鏡餅 を切 った もの ・米 ・昆布 ・スルメ ・頭付 きの イ リポ ッなどをは さんで御神酒 をかけ ,家の前に位 いて お くoこの木は束 ねて,田植の 日に神様 に供 える飯 をた くのに使用 され る。この行事 は今 で も点 々と 行 なわれている。
⑤ 田 植
旧1 1日は 「百姓初 め 」で ,段家 に とっては一年 の豊 作を祈願 す る うえで大事 な田植 が行 なわれ る。この 日には,正月で実家 に帰 っている新 しい嫁fJども必ず もどって くる。この行事 は一時絶 えて いたが ,現在 また復宿 して多 く行 なわれ ている。
このために前の年 内に,次の よ うな ことを しておかねばな らない。まず茅の稗 を稲束 の よ うにそろ えて,それに小松 ・アサ ドリ・竹 ウツギを一緒 に く くってお く。 これは 「茅 のよ うな良 い穂 が出るよ うに 」
,
「松 の よ うな掛 こな るよ うに 」.「アサ ドリの よ うな大 きな実がな るよ うに 」と願 ってのことである。 そうした束 を田植の 日に卸 こいけ るのであ るが ,必ず その束 をアキ方 に向けて倒 し.囲ld
‑ 21 1の ように土 を掘 った ところに酒 ・鍵餅 を削 った もの , くし柿 な どを一緒 に埋 めてお く。 くし 柿が 「看
貫
」につなが るよ うに,こ うして豊作 を祝 うのである。図1ロー 2‑ 1
⑥ 注連おろし
∴ ̲≡:::̲̲=:十 二 三子:A̲i:.I‑i:
ニ
三言 =:‑;‑̲‑H ' の よ うに箕に入れてひ とところに寄 せてお く。 そしてお供 えを し て .お燈明 をあげ .一 日祭 ってお くのであ る。また現 在では行 なわれていないが .江連お ろしの頃 ,プ リの尻 尾 を門 の ところ‑下 げてお く風習が見 られた。 これは表向 きには 豊作を祈願す る ものであ るが,実際 には 「我が家 では ,これだけ
‑583‑
図日 ‑ 2‑ 2
大 きな プ リを食べ ま した
o
」と人に誇示す るための t)のであ った と思われ る。⑦ ホ トホ ト
これは小正月の
晩に
,,ホ トホ トと戸 をたたいて部落 の家 々を回 る行中で ,か っては厄年 に当た る 93女が行 な うべ き もの とされていTこ。 しか し実際 には.了 どもの行邸 であ っTこよ うだ 。LH 1 4E)の夜 ,銑 サ シやわ ら燭 を作 り,厄年 o)子 ど もが それ らを持 って行 く
。
他の子 ど もたちは そ の家の人 に見つか らないよ う.隠れて待 っている。そして引 き換 えに,餅やみかん,弟子/‑1どを もらうのであるO その後 ,子 ど もた ちは もらった ものを持 ち寄 って ,一緒に食べ ていた。
⑧ トソ ド
旧 15日の刷 ,前 日お ろ しておいた江連細 を‑ カ所 に典 め て.部落全体 で焼 く。この時 ,子 ど も 仁ちの:Lpさぞめ も一緒 に焼 き,その蛸 が布 く上が った ら上達 す る といわれる.また餅 を竹 には さんで
トソドの火で焼 い た ものを食べ ると,風邪 をひかない とか
,
苗 よけにな るとかいわれてい る。 そして 松の枝の焦 げた ものを粘 って仙 って,神
棚へ供 えてお く。1 4[」の攻 , トソ ドな行 /rうところ もある。
(5) 解 の行邸
① 節 分
節 分 とは立春 の前の Elの ことで,この 日の壬ナこる行事 といえば ,やは り「福 は内 ,鬼 は外 」と唱 えて行なわれ る「豆 ま き」であるO
またこの夜
,
「ヤキザ シ 」とい うもの を家のすへての出入 り口にさしてお く。 ヤキザシとは,大豆 の カラの細別 りった ものに 一イ ワシの頭 を切 り裂 いてさし,火にあぶった ものであるOこれは 「魚が 臭 いか ら鬼が釆 ない 」とい う意味 で.
魔 よけ とされ ,現在 で もや ってい るところがある.節分 とは関係 ないが ,旧2月の内に, トウ トメ (猫柳 ) で家族 の数 だけ管 を作 り,その菅 であず き飯 をこしらえる。
その後で箸 をすの このよ うに して,屋根 に投 げ上げてお く。
(lXll 0 ‑ 2‑5 )これは 「凶事が起 こ らない内に祝 いを して しま う」とい う意味 で,行 な う ものであ る。
② 雛節句
㌔
旧5月5日の雛節句 は女 の節句 で .ここで も通例通 り.雛人形 を飾 り.菱餅 ・白酒 な どで哉康長 寿 を祝 うo女子が誕生 した家 には,初雛 を祝 って親戚 などか ら雛 人形が贈 られ るが ,男子の場合 には,
「士天神 」または 「絵天神 」が贈 られ る。この士天神 は大 きい ものでは,等身大 に至 るもの まであ る が ・現在 ではほとん ど残存 していないO士天神 は不必要 になると,永rdの天神様 に納 め られ た。
‑584‑
翌4日は
「
雛荒 らし 」とい って ,親戚 や近所 の子 と もた ちがや って来 て ,前 日 のお搬 任 に供 えた抑馳走 を食 べた りして いた 。写其 10‑ 2‑ 1 士 天 神
③ 社 日
春分 に近 い戊 の 日は地 神様の鋲 ま る口 として,各部落 で 「地 神様 」を行 な い .農家 は一般 に休業 して いた.大 佐町 においては,道路ペ りや田の中 な ど数 カ所 に ,大 きな楕 円形 の石 に 「地神 」と彫 っ た ものが見 られ る。この地 神 とい う文字 は,太 く彫 り込 ま
れてお り
,
「土地 を深 く排せ 」とい うことを意 味 してい る。昔の人 々は .恐 ろ しい ものや大 きな もの .JT;思a fEもの
l J
どは何 で も.神様 に したてて崇 めていたが .これ もその一 つではfJいか と考 え られ る。 この 日,地神様 にお供 えを し, 畢 ばつや大洪水 lこ見舞 われない よ うに .押合 を聯 してお払い を して もらい ,地感 に感謝す るのである。今 で もこの行 串 を行 ってい る ところが 3)る。
また,この 日は 「金忌 (カナイ ミ)」とい って .金偏類 の出典 の使用 が焚 じ られていた。地 神様 の休養 の ロ .すな わ ち土 を動 か され ない日なのであ る。昔はこれ を破 ると.
村中 で断 わ りを していた。
写井 川 ‑ 2‑ 2 地 神 (4) 変の行1if
G) ロクカ ツヒティ
旧
6月1日を ロクカ ツヒティ とい う。 「ヒティ 」は一 日の意味 であ るか ら,お そ らく「pクガ ツ ヒ トヒ」のなま った言 い方 で あ ろうO この 日,団子 を ミョウガの薬 に包 んで焼 いた ものを食べ るO こ れ を 「肩引焼 (ケ ソビキ ヤキ )」とい う。‑585‑
② 虫送 り
田植後の水 を張 った田には ,稲 を食 い荒す昆 虫が大群 とな って発生す る。虫送 りは非科学的 では あ るが ,害 虫駆除 を目的 とす る行郡 で あ るo Lか し殺虫剤や段薬 の発還 した現在 では ,ほ とん ど行 7i われていない。土用 の入 りの 日,部落‑FF,]が太鼓 をたたいた り.ヤキザシな どを手 に して.盾の部落 境 まで虫 を送 るOその際 ,竹 の間 に土用祈念の札 (虫追放の札 )をは さんで ,その先 にわ らで傘 をつ けた もの を必ず持 って行 っていた。その札 は
,
「虫がつかないよ うに 」,
「豊 じようの実 りが で きま す よ うに 」と折節す る もの である。こうして自分の部落 か ら次の部落 まで ,虫を送 って しま うのであった。
また勘定 では,大 きな数珠 を回 して虫 よけのお祈 りを Lf:O
・'@ 雨乞 い
これは4 0 ・ 5 0年前 まであ った行tSで ,大 目限 りが続 いた時 などに行 なわれ ていた。池 か らわ ず カモで も水 を引 こ うとい う気持 で ,大佐山の竜王他で火をf:くの であるが ,その時部落 の者 が全員集 まって ,千束一遍 に燃 やす とい うのが習 わ しであ った。こうす ると気流が変 わ って,雨が降 るといわ れ た。この雨乞 いの際 には必ず先達 とな る人 も決 まってお り,持 って行 った五升 ダルに竜上様の水 を もらうと,交代 で山か ら降 ろ したC'M 陰が逃 げない ように と,水 を もらうと休むことは禁 じられ ,絶 対に眉 か ら降 ろ してはいけない とされ たo そして もらって1.riっT=水 を少 しずつ分け て,田 を油 すので
あった。
④ 愛宕の火祭
「鮫 に愛宕大権現 の名 で親 しまれ る火伏 せの神 を祭 る愛宕社 は,京都市右京区にある愛宕神社 を 総本社 として各地 に見 られ るが ,ここ大佐町 において も同様 であ る.愛宕神社 の綾 日である新 占月24
[=こは ,火寮が行 なわれ る.これは,昔 火を大切に し,火聾iを恐 れ ていた ことに由来 す る祭 で ,前 日 25日の夜 には宵祭 が行 なわれ る。大祭 当 日には,部落 ごとに一定の勘所 で火 をた く。この時 ,各家 か ら一乗か二束麦わ らを もらって来 てTこくのであるが, 1 0 8灯燈すのが習わ しとされている。 そし て その火 に当た って ,健鮎 や火雌 よけを祈願す る0)であ る。
⑤ 荒神祭 (旧6月2 8日・1 1月2 8日 )
荒神 は,日本古来 の荒 ぶる神の思想 が習合 された と考 え られる俗信仰 で ,人間 に最 も身近 な もの としては古 くか ら祭 られてきた。特 に中国地方 では ,部落神 ・氏神 ・同族神 と もな っているC
大佐町 で も各 部落 に荒神杜があ り,年 二回荒神祭が行 なわれ るOか っては ,荒神祭 の前夜 には 「満 神 ご もり」とい って.こもり堂 にこ もっていた。また荒神神楽 な ども行 なわれ てい′こ。現在 で も荒神 こ もりは行 なわれ るが ,部落 の人 々が酒 を持 って行 って飲んだ りす る程度 であ る。条 の当 Hの2 8日 には .部落中の米 を出 し合 い,一つの家 に部落 の全nか染 まって ,肺 を飲んだ り,御馳走 を食べた り して楽 しむoこの宴 を持 つ家 は当番制 で ,当番 に当たる家 を 「当家 」とい う。そのた め.この地方の
‑586‑
家 は大 きな造 りにな っている。 こうして 「家内安全 」や 「五穀塵 じ ェう 」を願 うのであるが ,現在 で は略 して旧 占月28日に一回のみ行 な うところが多 いO
また月 日はさかの ぼるが ,新5月5Ljに ,八代神社 において 「八代荒神 」が行 なわれ るoか っては 旧5月28日に行 なわれ ていたが ,祝 日で都合 が よい とい うことか ら,現在 は5月5日に変 わってい る。 この八代荒神 はかな り有名 で ,鳥取 ・作州 あた りに信者が多 く,昔 は臨時列車 まで出 た とい う。
また土地の人の話 に よれば ,牛馬 に関す る崇 としては閑西随 一だ と もい う。八代荒神当 日には ,遠 く は的西方面か らも牛馬の仲買 人である馬喰 や ,牛 を飼 っている農家 の人 々な どが大勢集 ま って来 て , よい牛馬 を授かれ るよ うにと祈願 した ものだ'った.現在 では牛馬 を飼育 してい る人々の数 も減 り,以 前の ような活気 は見 られない。
⑥ 大代満
「代滴 」は,田植が終 わった とい う悪味 である。これは各家 の田植 についての ことであるが ,部 落 や村全休の田植が終わ った場合 を 「大代簡 」とい う. この時 ,組 頭が2 I5日休みま しょうとい う 触れを出すoそこで ,田植後 の憩労 のために御馳走 を して食べ た り,嫁な どは実家 に泊 ま りに行 った りしていたO大代満は,新6月50日頃行 なかれていた とい うことであ るが ,決 まっていなか った と い う人 もいるDこの行啓 は終戦直後 まで続 いていた。
⑦ 孟 肺盛会
旧7月15日の夜 か ら18日までは孟肝盆会で,土地の人 は普通 「ポ
二
」と呼んでい る。よ く我 々は,
「盆 と正月が一緒 に来 たよ うだ。 」とい うことば を耳 にす るが ,このこ とはか らもわか るよ う に,盆 は正月 と並 ぶ年中行事 の代表格 である。各家 では曹通 り,仏壇の清掃や墓前 の掃除 を行ない ,盆 花 を供 えて先祖 の供琴 を行 な う。 また現在 ではほ とん ど行 なわれていないが ,苗は 「施餓鬼 」とい って ,庭 先に四本 の葉付 きの しの竹 を立 て, 棚 を作 って祭壇 を設 け ,無縁仏 (餓鬼仏 )の供養 を行 な っていた。これは 「楠竪棚 」と呼ばれ ,人の 沓 丈 はど もあ った。この棚 の上 には桐の菓
を敷 き,野 栄田子 (迎 え蛾子 )な どを供 え ていた。そ して怖昏棚 の前 には盆花 を供 え 石 を置いて松 (松明 )をた くのであ るが , 現在では構Et棚 を除 いた ものだけが残 って いる。 15日を 「仏迎 え 」といい ,夕方か が り火 をたいて仏様 を迎 える。 1占日は仏 様 のお帰 りの日で,か つて は舟 を作 って, これに供 え物 を減せ .川に流 していた。 と ころによれば, 15日の夜 に流す こともあ
‑Jlた。 これ を「仏送 り」とい うが .現在 で 図10‑ 2‑ 4 楕 璽 棚
‑5B7‑
はこの風習はほとん ど残 っていない。
また孟蘭盆会 を中心 として ,盆踊 りが行 なわれ る。合併前 は各村 でや っていたが ,現在 では新 8月 14 ・1 5日頃 ,町全体 で行 な う。その形式 といえば ,通例通 り広場 に矢倉 を組 み,太鼓 な どの音に 合 わせ て ,浴衣姿の老若男女 が輪 にな って踊 るとい った ものである。ここには 「ヒガシ
」 ,
「テ ソガラコ」とい った独侍 の踊 りが あるが ,昔は どの活気 はみ られない ようである.
(5) 秋 の行事
① 秋 祭
秋 の行事 といえば .まず孜 々の頭 に浮か ぶのが秋祭である。 ここの秋条 は大正時代 に .小坂部川
を境 に束 西 に分 けて統一化 され ている.それ以前 は,各部蕗 ご とに行 なわれていた.祭 の当 日は,柿 社 の境内
に
常店が多数弛 び ,夜遅 くまで参詣者 でに ぎわ う。また ,旧10月 9日に ,旧刑部全休 で合同祭が行 なわれ る。 この時 ,大佐 ・国司 ・湯児 ・鵜野 ・八 幡の各神 社 と天神様 か ら五 つの御輿が出 ,町中 を華 やかに拝 ん で練 り歩 くOその後 .それ らの御恥は 御旅所 に寄 せ られ るOこの祭 は現在 も盛んであるO
② 角 力
秋祭 の頃
,
「出世角力 」とか 「奉納角力 」・「宙角力 」などとい って ,盛んに角力が行 なわれて いた。 ここには備北 におけ る昔の本場所 があ り,ここで勝 つ と格付 を示す免許状 が もらえた。他の と ころで頻 って も免許状 は出 なか った。その免許状 は ,.h一占中・美
作 ・伯者 など一円に適ず る ものであ り.そのために ここには,世袋 の審判 や頭取 がいたOこの角力 は終戦後2 4 ・5年 まであったが ,その時 には各地 か ら大勢 の人々が1,にま って来 ていた。
(ム)冬 の行事
① 亥の子
旧 1 0月中 に亥 の日が5つあれば中 の日を, 2つな らば初 日の 日を 「
亥
o)子 」とい って,Jii̲作業 を休んで神 を祭 るOこれは春の亥の子の 日に降 りて来 られ た田 の神様 が ,秋 の富 の子の 日に山に捕 ら れるとい う伝 えによる ものである。この夜子 どもた ちは ,玉石 を数人 でつ き回 りなが ら 「亥の子 の夜 さに祝 わん ものは ,鬼 をFEめ , 蛇を生 め,角 の生 えた子 を生 め 」とはや したてて,銭 や餅 な どを もらって歩 いていた.
(参 乙 朔
旧1 2月1日は乙朔 と呼ばれ ,‑年の内で見終 の朔 日とい う意味で祝 いを したoこの 日には「倣 ぬ り団子 」で,慌 しい歳末 に何事 (こも失闇 のないように と祈 った。
③ 八 日待 ち
‑588‑
T 弓毒三 二 一 ‑ ii〜買
旧 12月8日を八 日待 ちとい い,主 に商家 では毘沙門天 を祭 り.豆腐汁 と酒 で盛んに祝 っていた.
豆腐汁 を飲む ことによって,商家の方便 として‑年の内に嘘を言 ったのが ,豆腐 の ように白 くな ると い うのであった。
④ 餅 つ き
餅つ きは各家庭 によって異 なるが ,たいてい12月20日か ら2 5日頃 にかけて行 なわれ るO食 生活 が変 わ って きた とはい って も,餅な しではやは り正月 を迎 えることはで きない ,とい うのが人々 の心情 であろう。昔 は棟 内が寄 り合 い ,江連 を回 した白の下 にわ らを放射状 に敷 き, 4人が杵 を持 っ て ,音頭 を とりなが らついていたC敷 きわ らは餅が放 るか らもったいない とい うことで必ず用 い ,そ の時穂先 を中心 に向けて笹 く。また餅 をつ く4人は.ふ ところに福が入 って くるよ うに回 りなが らつ いていた。
⑤ 大晦 日
大晦 日には,注連飾 りの飾 り付 けが行 なわれ る。今 では門松 を正 てるとい う家 はほ とん ど見 られ ない。この注連飾 りも,最近 では年 の市 で肖 ってす ます とい う家が多 くな って きてい るが. ここで作 られ るのはたいてい輪飾 りである。注連飾 り,すなわ ち江連抱 は,七五三縄 とも甘 くよ うに,新 わ ら を左 ないに し,一定 の間隔 をおい て ,わ らの垂 れを七本 ・五本 ・三本 の順 に下 げるのが普通 であるが ,
ここでは七本 だ と太 くなるか らとい って,一木 ・五本 .三本の順 に下 げ ,その間に クロシバ,昆布 , 柿 ,みかん ,シキ ビなどをはせ る。またそれまでに寺 (大佐町 ではたいてい大5'寺 )か ら
,
「 トウ プ リ」とい って 「八百余神
」,
「水 神天王 」.
「牛頭天 王」 ,
「日月雨宮 」と替 いた四つの柏 でで きた 札 を もらって来 ておいて,それ らも輪飾 りに付 けて下 げる。これ らの輪飾 りはその文字の示 す よ うに ,「水神天王 」な ら水神様 へ
,
「牛頭天王 」な ら家畜へ と決 ま った ところに下 げ られる。飾 り付 けは,家の中へ福 を追 い込むために .必ず外 か ら飾 ってきて,最後 に奥の間‑ とい う順 で行 なわれ る。 そして奥 の間の神棚 には, くし柿が10 0個 っいた図18‑ 2‑ 5の ようなお飾 りを下げ てお く。また天井の桟
には,赤 い尖のなっナ2 ロシバをは さんで,そ の間にみかんを通 して お く。
図10‑ 2‑ 5
‑589‑
最 後 に ,大佐町特 有 の祭fJi'を二 つ取 り上 げて 「民俗 と年中行
g ; i
」の締 め括 りとす る。(7) お ひっ さ様
「おひ つ き様 」は ,お 目様 とお月様 を祭神 として ,五穀整 じ 上うを折線 す る祭串 であ る。 その昔大 凶 作が あ り,豊 作物 が皆撫 とな った ことが あ ったが,これはお 目様 とお月様 のお怒 りに触れ ,末例 を 受 けたためであ ろ うと考 え られ ,そこか らこの繋留 が始ま ったといわれてい るQ従 って 日と月がなけ れば米 が作れな い とい うこ とか ら.同時 に米 に感謝 す る祭事 で もある。
この祭事 の祭主 として ,奥谷 ・小南 ・金藤 ,西の部詣民 で 「木 頭 」
, 「助 成
」が各 1 1名ず つ決 ま ってお り, 12年日ごとに当布 が回 って くる。木頭 を u天 (お 目様 ),助頭 を月失 くお月様 )にた と えるわけである。当番 に当 たる家 (当家 )の神 の闇 には,東側 に日天 ,西側 に月天 の緊 密 を作 って祭 る. そ して その部屋の回 りには注達郎 を張 るQおひつ き様 は当家 の屋根棟 に常 に薪座 され てい るので , 当家 は一年 間屋根 をつつ くことは禁 じ られ ,身内 や隣家 に不幸 が あって も.香典 を出す ことや そこで 飲食 す ることは許 されないな ど,厳 しい戒 めが あ る。祭掛 ま春 と秋 の二回 と され ,春 は旧2月初卯 の 日,秩 は1 1月初卯の 日に行 なわれる。秋寮 には
,
「お柾入れ」とい って ,わ ら細 工で もみ に似た形 の入れ もの を作 り, その中 に もみ超 を三升 入れ て神前 に供 えてお く。 そ して 翌年 の春祭 の際
,
「お種閃 き 」を行 ない, もみ跡 を各木 頭 ・助頭 に配 って豊 作 を祈 るので ある。しか し昭和2 1年 の出地改 革 に伴 って神 田が な くな り, 翌2 2年の春祭 か ら大佐神社 に合祀 されTこため ,現在 で
はおひ つき様 は行 なわれていない。 図10‑ 2‑ A
む 種 入 れ (8)大 山神祭
大佐町 EEl治部に「大 山の神
は
」と呼ばれてい る小 さな岡 が ある。大山の神 は一種の山の神 であ る。山の神 は同時 に田の神 であ るところか ら,大 山神祭 は年 の始 めに当た って ,その年の五穀 塑 じ 上うを 祈 る祭 である。この祭 は別 名 「大飯食 い祭 」と呼 ばれ ,祭柁 臥 祭 日の決 め方 ,人 の神格化 ,祭 事 の JJ'法 な どにおいて.他の祭 には見 られない特 色 を持 った ものであ るが ,祭 の詳細 な内容 は 「社会 梢造」
の分野 に まかせ ると しよ うO (本多 洋 子 )
年中行事聞 き取 り調査 に協力 していた だいた人 (敬称略 )
塚本茂夫 岡 田丸治 大江天 山 大 隅金弥 戸部静 子 近藤 商店 参考 文献 「年中行 事辞典 」 西角 井正殿編 解京常
「日本 を知 る中興 」 社会思想社
「日本民俗 事典 」 大塚 民俗学会編 弘 文堂
‑590‑
「 弓 」ニー . I‑
3 名 所 旧跡 と伝 説
春の新緑 ,秋の紅集の美 しい渓 谷 ,冬場 のスキー,山田方谷 に幽 する もの ,後醍醐天皇 にまつわる 話 など,名所
,
旧跡 .伝説 な ど有 す るIJc佐町 も,近 く中国縦ff道 のイ ソクーチェ ソソが完成 され ,節 しく観光開発が行 なわれ るであろ う。そ うした動 きのなかで,
「町 史 」繭糸が計画 され.また,
「町民パス コ‑ス説明苔 」な ども昏 かれ ている。これ らは.自分た ちのふる さとを見直 そ う,自分 た ちの 町 を再発見 しようとす るものであろ う。 この レポー トもその一端 ともなれは幸 いである。
(1) 大 佐 山
大佐山は,小坂部市街 の西 に襲え る988′〃の雄大 な山 であ る。阿哲郡誌 の名勝 の項
に
「頂上に至 れば .眼界頓 に朗 けて,小坂部平野 は脚下 に ちぢま り.遠 く作備 の諸山にのぞみ,伯背 の大 山 は手 を 連 ねんばか りに近づ きて見ゆ。実 に大鰐
/i.・り心と話 されてお り,また,.今 Flで も町 の シソポ ルとされてい る。山頂 には大蛇伝説のある簡 王地があ り,また,山碇 には ,和牛試験場 が あ り,そのス ロープを利用 しての放牧が行
な
われているっ
① LLW王 の大蛇
太古 ,人佐山の西垣 .菅生天原尻 (現 在 の新見市背哩 )にある池 に大蛇が棲 んでいた が .里 人か この他に薪 を投 げ入 れて駿 めな く しT=ので,この大蛇 は大佐山の山頂 にある噌
‑ ■・.ll■
ヽ t 。̲ ∴
二 品 蓋 蚕 ・j‑̲̲ i.̲l 野 ‑きIi 写実 10‑ 5‑ 1
小坂部 市街か ら眺めた大 佐山 王地に移 っTこといわれている.この他 のほと
りには ,八代庖王神社 があ (),干 ばつの時の雨乞 い,雨鍬 ナな どの随式 が行 なわれていた。 その時の 参道 ,先達の家 も定 まっていたが ,現在 では行 fJわれて
いない。また ,平素 この他に入 って泳 ぐと忽 ちに して大 雨が降 り,淡水 にな るといわれている。
(2)御 堂 峡
君山川 と大井野川が合流す る地 点よr)大 井野 川 に沿 っ て2キ ロくらい行 くと.左手 に柏が見え る。これが御堂 の滝である。 この附近 は御堂峡 と呼ばれ ,春 には若葉が , 晩春か ら初夏 にかけては町 の重要 文化財 に婚定 されてい
る石南花が咲 き.秋には美 しい紅頚 が見 られ る。
‑391‑
写奏 10‑5‑ 2 御堂の滝
(5)平松の松
平松 の松 は,名の とお り傘状 に広が っていて ,県道 を田治部 より小坂部 と布瀬 に向か う分岐点 にあ る丘上 にある。 この松 は町 の重要 文化財 に指定 されてお り,その指定理由にはこの松 の姿が よ く表 わ
■■f
されていると思 うので ここにあげてお く。
樹 齢三百年以上 を経過 していると思 われ る巨伎傘状 に四方 に広が り.丘上に美 しい 雄姿 を見せ てい るQ往時 より人 々はこの松 を 「平松 」と呼び親 しみ ,倍仰の対象 とし て畏敬 の念 をいだいて き.やが てそれが ,
「平松 」の地名 として人 々の中 に生 き続 け て きた ものである。口伝 えに,かっ てこ こ
に陣屋 があ り「陣屋 の松 」ともいわれ てい るが詳 らかではない 。
写真10‑ 5‑ 5 平 松 の 松 (4) 山田方谷 に関す る もの
山田方谷 は,文化2年 (1 8 0 5年 )2月 ,備中松 山滞積 だ った高梁市中井町 に生 まれ .5歳 の時 か ら新見 の九州松隈 (儒学者 )に学 んだ後 ,京都や江戸に遊学 し, 25歳の冬 に松 山藩 に帰 り,藩校 有終館の学頭 とな った。 その後同藩 の元締役 や吟味役 ,郡寒行 な どの要職 を歴任 ,この間 に赤字の漕 財政 を立 てLElL,教育 ,産菜振興 な どで耕政改 革に功績 を残 した。晩年 は小坂部に隠棲 (明治5年 よ
り).先祖 ,特 に母の霊 を祭 る一方 ,私塾 な ど も開 き, 75歳 で明治10年 占月2 6日に病没 した。
① 方谷固
方谷園 は,小坂部 の矢削橋 のほ と りにあ り.山田方谷が晩年 に私塾 を開いた場所であ るが, これ を永 く記念す るため,遺徳 を偲 んで碑 を鯉 て,その周辺 に花 を植 え,公開 とした ものである
。
園内 E・t は ,方谷の親 友,勝安房 (枢密院顧 問官従二位勲一等伯爵 )の砕群 ,弟子三島中州 (東宮侍講正五位 ) の撰 文 ,金井乏恭 (封族 院議貝錦離間伺 候正 四位取三等 )の揮屯
に よる追跡碑 ,俳人紘 原静処 の俳碑 があ り,
父忠魂碑 もある。(さ 方谷庵
方谷庵 は
,
刑部地内小南 にある金剛寺内 にあ り, 山田万石iが自 ら考案 し,明治5年に鎚 て られ た。現 在の建物 は .放IuTLされて荒廃 したため,昭和10‑1 1年 にかけて修理 された ものであ る。方谷 は,晩 年母 の実家西谷家の菩提寺 であるここ
に.
茶壷 ,仏 側の ほか一基 の小庵 を陛 てた。わずか数盤 ではあ る が ,蘇 .仏壇 ,茶壷 ,軽重 を備 えてあ り,ここで祖 先の並 を祭 り,番 を くゆ らせ ,茶 を冊す る老後を過‑592‑
写第 10‑ 5‑4 方 谷 属
「
こした。その構造配置 においては ,経世済民の学者 ,方谷 の頭脳 を如実 に示 してい る ものが ある。今 はここに ,方谷の位牌 を先祖 とともに祭 ってある。
(5)陣屋跡
小坂部市街 の北臥 矢別 には寛文4 ( 1日 4 )年 よ り慶応5 (1887)年 に至 る二百年余 の間, 水谷家の陣鮎が あったOこの地 は,寛永1占 (1 65 9 )年 よ り松山城主水谷伊勢守勝隆 の所領 であ
ったが ,斑永4年勝隆 の次男新左衛門勝能が この他 を分知L,たo勝能 は,矢別に館 を建 て ,永富 ,小 坂部 を所石良し.十代 目の信 濃守勝荷の とき明治維新 とな った.当時 の所領 は ,水谷借換守の知行 千七 百石 の うら,千石 を小坂部 .七百石 を永富 か ら,そ してほかに武 州八王子 に五百石 を所領 していた。
また,小左衛門 の知行 であ る小南 は三百石 であった。
(a)宝 室寺
丹治部の布瀬 にある宝垂寺 は,か っては上房郡北房町 との境 に近 い大 山山中 にあったQ言い伝 えで は,大同2 (8●07 )年2月に弘法大師が開基 した と言われ,それか ら数百年が過 ぎ,寺院が ひ どく 荒廃 したため,乙亥の年誹保5 ( 12 15 )年 に布施下野守忠正が大 山城 を築 いて居城 す る際 に ,敬 国紀伊か ら玄関僧都 を招 き,再興 して音程寺 としたO
(7) 押通寺
小坂 部市街 の南 ,県道の西方 にある高所 に百坪余の押通寺跡が ある。神遇寺 は,僧 月江の閲基 で, 近江国永源寺の住職 であ った月江 は晩年 この地に隠遁 し,大 いにこの地方の人士 を教化 した そ うであ るDそして,その迫徳 を偲 ばせ るような言 い伝 え も残 ってい るO神過寺 は江州永源寺 の末寺 であ った
に水 を住 いだ。それか らしば らくして永源寺 よ り使者が来 て ,火災の際神過寺の提灯が無数 にあ らわ れて消防 に努 めて くだ さったので ,早 く鉄火 した と厚 く礼 を述 べた と伝 え られてい る.この よ うな言 い伝 えが残 ることか ら考 えて ,月江和尚の人々に与 えた影響 が うかがえる.北隅 には,月江和尚の基 がある。
(8) 安元城祉
安元の城虻 は ,丹治部光吉 にあ り,県道 より2 0 0〝 く らい北方 にあったと言われている。阿哲郡 誌には,安元 の城蝕 は旧跡ではな く伝脱 の韓炉に入 っているが ,これは,文献 がな く,時代 も不明で あるためであろ うが .簡主 は東郷左金吾守 であ り.時代 は戯国時代 ではなか ったか といわれ てい るo 城虻 と相対 して,据道の南側 には馬場 ケ迫 と呼はれる所 が あ り,当時の馬場 であ った といわれ る。付 近 にはやや広い盆地 があ り,五輪迫 と呼ばれていて,その局掛 こは五輪石 が多 くある。城主の去健 と 伝 え られ る ものが2つあ り, 1つは本尊寺境 内に . もう1つは城虻 の東北小丘上 にあるといわれてい る。
‑595‑
(9)仁 井機見殿 について
仁井描見殿 については,塚本氏が 「町 民/ミス コ‑ス説明書 」のなかに ,簡潔 に,わか りやす くま と め られてあったの で ,それ をその ままここに衝 き留めてお きたい。
仁井織 見殿 は ,永蕃横 見 に生 まれ今 も積 見腐敗 ,接 見の手形石 ,械兄の墓 な どの言い伝 えがあ るO この地方屈指 の有力者 であ った らしく,秀吉大阪城築城の際 ,寄贈 した巨石 に その名が刻 まれて残 っ てい るとい う。大阪 に もい く度か出 た らしく,その時 の馴染の女 が はるば る横見殿 を慕 ってや って来 たが ,遊子峠 まで釆 7二時力尽 き倒れ ,その碑が現在並子峠に浪花源兵衛娘 b.ふい と刻 まれ て祭 られて いる。その他に大力 に幽す る言い伝 えが多 く刑部川 に大水 が出た時 ,戸 をはず して上靴に向 けて押 し て上 った とい う。同時代 ,大力 を競 いあった者 に広細川 とい う者が篠原 にいて何事 に も眼 r)合 った と い うが ,力 は接見殿 の方か強 か った とい う。ある時 ,弁天の上 の清水 の出 る所 で粍見殿 が水 を飲 ん で い ると,上 より広瀬川が大石 を落 とし殺 そ うとしたが ,積見損 は水 を飲 みなが ら.その大石 を両手 で 受け止 めた とい う.その石 とIj.:え られるものが今 もあるとい うことであるQ構見腺の最後は .留原 よ り美甘延風 に通 ず る古道 ,七殴峠 で広瀬川 に殺 され ,その峠に碑 があるとい う。 また格見殿 に関す る ものに傾城地蔵等擢 々あ る。
犠見殿 が実存 すれば,かな りの権 力者 であったろ うと思 われ ,また,広瀬川 との力較べに関 す る言 い伝 え も単 なる力暇 へでは な く,権 力争 いではなか ったか と思 われ る。
(10)後醸轍天皇 に姻す る もの
元弘2 ( 1 55 2 )年 ,元弘の役 に失敗 した後醍醐天皇 が悶肢へ流 される途中立 ち待 ったと思 われ る地方 には ,後醍斬天皇 にまつわる話 が多 く残 っているO この地 に も,地名 としてr君山
」
「大井野(王居野 )」が ,また大井野に立 ち寄 られた時 の話がい くつか残 ってい る。
① 鳴 かない蛙
天 皇 が大井野 に託 ち寄 られた時 ,蛙 が さわが しく鳴いていたので
,
「かはず鳴 く.たつ田が池 の 夕頚 に きかまはし ものは松風 の音 」と詠 まれ ると.蛙 の声 はばた りと止 ま り,それ以後 この地 では蛙 の声 は きかれな くな った とい う。② 甘蔵 (灰汁 な し蕨 )
天皇 が大井野 を通 られた時 ,わふ じ茶屋 で食事 をな されT=。その時 .急 ぐの で灰汁出 しせずに調 瑚す るようにと言 われた。 そ して ,今,蔵 を採 ってきた場所 の蕨 は,これか らは灰汁が な くな ると言 われて立 ち去 られた。それ以来.ここの戯 は灰汁出 ししな くて よい とい うことだ。この休息 きれた機 所が後醍醐神社 とな り,この原 を御所廟 とい う。また ,おふ じ茶屋のあ った所は ,御飯石 として祭 ら
れている。
これ ら後醍醐天皇 にまつわる話 について ,、'T.石氏 は
,「
J'q山の伝説 (岡山文庫 )」の中 で,次の よ うに述 べてい る. 「後醍醐天皇 が有名 であ り,特 にこの地 を辿 られた とい うこと もあ って, よ り一層 桑葉 の もの として伝 えるためには.天塵 に関連 させたのが最 もよい方法 であるとい うことで,県北 に あった多 くの伝承 が後醍醐天皇 と結 びついていたの であろ う。 」‑594‑
これ ら名所 .旧跡や伝説 な ども,I:'んだん と忘れ去 られ ようとしてい るO町史編 茶が計画 され 畠な ど,ふるさとを見直 そ うとす る動 きが あるこの横会 に, もう一度 ,ふ るさとの よい もの を見直 し,残 してい きたい ものである。
なお ,参考文献 として ,「阿哲都議 」を中心 として ,塚本氏 の番 かれた 「町民 ′ミス コ‑ 九税明
i t E」.
「後醍醐神社縁起
J
,立石態利著 なる「岡 山の伝鋭 (岡山文庫 )」,町重要文化財 の指定理由 な どを 参考 に した。そのほか ,聞 き取 り調査 には,塚本氏 .福本氏 ,池田氏 ,その他の万 にいろい ろお世話にな りま した。
(大角 百合子 )
‑595‑
第 11 章 大 佐 町 の 教 育
1 近世 の教 育
(1)寺 子 屋
① 寺 子畠の概況
寺小屋 は庶民みずか らが求 め ,みず か らが舶 撒 した自然発生 体 と しての教 育械 雌 であ っT:。寺子
屋 は ,室町時代 の末期 ,安土 ,桃山時代の頃 か らはっぱつみ え始 めてはい るが ,盛 んにな ったの は, 江戸時代の前助 .1 7位紀 も半ば をす ぎた頃 か らであ る。そ して串保糊 ( 1 7 1 8‑ 1 7 5 5年 )に なると,町人階級 のiiE此 毛筆府 (徳 IH吉宗 ),帝の支援 奨励 と ともに その教 もぐん ぐん上界 の一途 を たどった。では.その よ うな租勢 の中 で岡 山県 ,阿貿 都 は どうい う位隈にあ っfこのT='ろ うか。
岡 山掛 こおける寺 子屋数 を衷 1 1‑ 1‑ 1で見 てみ る と,近世 におけ る総数 は. 1 D 5 1カ所に な 表1 1‑ 1‑ 1 寺子屋開設年代調
年 代 全 国 岡 山 娯 阿 賀 郡 大 佐 町
文 明 (1 477 )
元 軌 (1570) 元 和 (1占15) 寛 永
承延正苧寛 宝保保応徳 (1ム75)(1711)
宝 暦 5 85 05 41 71 7 11111 1 1 明 和
安 永
天 明 1 0 15 82 9 11
寛 政 (1789) 1占 5 5
軍 保 5 8 4
文 化 (1804) 5 8 7 10
文 政 8 7 8 5 4
天 保 (1852) 1,9 8 4 15 5 41
弘 化
嘉 永 2.5 9 8 1 5 47 8
安 政 4.2 9 5 1 占 1 7 1
万 延 2 9 5
文 久 1 0 7 7 2
元 治 5 8 5
段 応 1 占 7 占
明 治 (18占7)
不 詳 1,0 5 5 9 01 4 1
(文部省 r日本教 育 史 資料 )明 治 2 5年刊 よ り作成 )
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ってい る。 これは長野 県 の1 5 4 1カ所 ,山 口県 の 15 0 7カ所 についで全 鄭笥5位 であ るO元和 以 前 の開設 が 18,時に元私 元年 (15 7 0年 )に開設 され た都 字郡 妹尼 村 (都窪都 妹尾町 )の矢 吹学 舎 は .長野県 の 文明 .大永 ,石 川県 の文明 ,福 島県 の天 文 5年 に次 ぐものであ るOこ こに も教 育 県 と
いえば ,衆 の長 野 ,西 の岡 山 といわれ る一面 が うかが え17)よ うだ。一方 ,阿賀郡 は5 5カ所 で ,岡 山 県5 2区 の うち第 5位 であ る.,
開設年 代 は表1 1‑ 1‑ 1か ら岡 山県 では光政 ,畢 保 の ころか らふ えは じめ ,天保 ,露永 ,安政 , 慶応 には飛躍 的 に増 大 してお り,阿智郡 は岡 山県 の憧 rEiJよ り少 し遅 れ て安政 ,文久 ,慶応 ごろが全 盛 朋 とな ってい る。
師匠 の身分 は農 1 1‑ 1‑ 2か ら他地 方 では師 匠 は 「医者 か ,坊 主 か ,神主 か 」といわれ てい るが , 岡 山県 は鹿業者 ,あるいは平 民が多数 を占 め る.その理 由 と して ,備 前灘 が蒐 文時代 よ りすでに手 習 所 をは じめ .以来 各務相磯 って庶 民教 育 を触 興 したこ とが考 え られ る。 しか し,阿墳郡 に ついてみ る 限 りでは ,師匠 は 「医者 か ,坊主 か ,神 主 か 」とい う他の地 方 の傾向 が その まま現 われ てい るよ うに 思 われ る。
表 1 1‑ 1‑ 2 寺子屋 師 匠 の身分調
士 蘭 平 民 医 腿 .Y神官 鯵験 浪 人 僧尼 不詳 計 岡 山県 152 55 245 87 281 145 9 21 ム9 9 1,051
(文部省 r日本教 育史 資料 」明治2 5年 fuよ り作成 )
②
大 佐町 の寺 子操次 に ,大佐町 の寺 子屋 に つい てみてみ よ う。表1 1‑ 1‑ 1か ら,大 佐町 に は4つの寺 子屋 が あ り,開 設年代 は全 国的 にみ て,寺 子虚開設 が全盛期 で あ った天 保 ,茄永 ,安政 .顔応 の頃 と一致 して い る。 まT=,表1 1‑ 1‑5よ り,設立 か ら原発 までの期 間 は永宮村 の17年前 後 が最 も長 く,残 る 5つ はいずれ も5年前後 とな ってい る。生徒総 数9 5人 . うち男 85名 ,女1 2名 で .8 7頚が男子 生徒 であ る。 これ は阿Tf郡 の寺 子屋 におけ る男 子生 徒 の割 合, 85席 と大 差 ない 。
衷 11‑ 1‑ 5 大 佐町 の寺子 畠
学 科 旧管領 所 在 地 閲 英 廃 業 教 師 生 徒 身 分
習
〟
′‑′′字 放 下領描〟〟府 大 井野村小阪 部村永 富 村〟 諒 永文 久元年万 吃元年文久 5年2年 慶 応年 間不 〟〟 明 931〟〟
〟 男男男巧 5 5占2 81 d 女女女527 個僧幾医幼 主 氏 名 英 増 愈 長 尾 俊 斎 大 峰 暁 山 節 続 出 助 (文部省 r日本教 育史資料
J
明治2 5年刊 J:り作成 )‑598‑