この小論文で論じたいことは、ハイデガの存在史から見た近代科学技術の本質には、左イテガ的解釈による ニチェの﹁力への意志﹂の根本的構造があるということである。科学技術の問題に対するハィデガの関心は決 して枝葉末節的な問題でなく、後期における核心的な問題でもある。現象学的アプロチにより、この科学技術の 本質への問いをハイデガはたてている。われわれは近代科学技術の時代の真っ只中に生きているゆえ、その科学 技術を対象化して、その本質を問えるであろうか?問いそのものの中に、科学技術的思考が忍び込んでしまい、根 源的に問いを立てることが困難なのである。このような状況に置かれているわれわれが如何に科学技術の本質への 問いを立て、フるかとい﹃フ解釈学的循環の﹁問いの構造﹂から出発せざるをえない・注︲ まさに現代の状況は全地球的規模において、この科学技術の支配のもとにあるといえる。宗教倫理学者ギブソン・ ウインタ︵のぎの。ロョ目8の指摘によれば、現代の諸問題を考える時もうすでに、この支配のもとにある。諸 問題の根本的な問いを回避し、それらを﹁技術的技能や事実的知識の事柄﹂へと還元してしまい易いのである。 はじめに
科学技術の本質としての力への意志
lがイデガ︲の存在史の視座からI
科学技術時代には倫理的論述でも科学技術的思想がすでに暗黙にときには公然と前提されている。倫理的問 題を考えるとき、問題をフォカスし、規定していく中で、分析哲学、知識社会学、現象学、諸々の社会諸理論等 に影響を受けた方法を用いらざるを得ないことも事実である。確かに、核テクノロジによる人類滅亡への危機も 軍縮専門家等による核の国際管理機構などによる技術的・政治的問題の観点から理解され、核の管理をより安全に、 より効率よく確保することにより、その危機を回避しようとしている。同様にバイオテクノロジの分野でも技術 的操作管理の問題として倫理的関心を喚起しつつある。しかし、それと同時により根源的な問い根本的な
視座も引き起こし3あゑ一子ノロジがもたらす無気味な支配に対す患不安媒発の事故等に見られる偶
発的、且つ、巨大な惨事は、人間に対して、人間の生存、科学技術時代の人間の運命、そして科学技術とは何かと つまりエ﹃一ロジの問題は環境のマネジメントのあり方へと還元される。都市の貧困に関する諸問題は中間 層の人々の一雇用を促進する官僚的なプログラムにより対処される。都市や農村地域の周辺部における暴力は﹁合 法化された﹄プログラムによって鎮圧される。科学技術の時代は技術的解決に執着し、その時代そのものを問う 問いをだめなものにしてしまう。技術的支配により、根源的な問いは回避されていく。このことは、技術的プロ ジェクトの諸目的や諸方法に関して根源的に問えば問うほど、そのよう/な無謀な学問が直面するチャレンジであ テつど﹂洋一坐ム ものを問い損な﹄﹁/・ 一根本的な問いを問うのに諸々の困難が伴う。世界を観察室に見立てることや出来事を観想することは不可能で ある。その人の置かれた時代の目的を問うこと自体のなかに問う人もすでに包み込まれてしまっている。あらゆ る問題を技術的な技能や事実的知識に関する事柄へと還元してしまい、その時代を支配している技術的思考その 230科学技術の本質としての力への意志 ハイデガが言う一存在史﹂とは存在の解釈に関する歴史︵ヒスト暇⋮!︶ではもちろんなく塔r存嫡在が自己を顕現 すると共に自己を隠すという存在の真理の出来事を言うのである。形而上学は、その名︵メタ・フュジク︶の 如く、自然的なもの︵ダス・フュジッシェ︶つまり、存在者を超えでて︵メタ︶存在を思惟することである。形 而上学は存在の自己贈与と共に自己隠蔽から生起したものであるとハイデガは考える。形而上学は単なる一学問 分野と考えるのではなく、存在自身の出来事であり、その時代を根底から規定するものであると考える。彼のエッ いうことを根底から考える機会を与える“ ある人々は、科学技術を悪の仕業と考え、それを否定することにより、素朴な自然主義への復帰を願う。この傾 向は、西洋の神秘主義者に特に見られる。またある人は、科学的合理主義に対して、否定はしないが包摂していこ うとする。そこには仏教者や東洋の神秘主義者がいる。どちらの立場であれ共通していること、﹁科学的合理主義﹂ 対﹁ロマン主義﹂という構図であり。神学的に言えば﹁理性﹂と﹁啓示﹂とい、フ下絵から見ているということであ る。そこには、行き過ぎた科学万能主義に対するロマンティシズムの復活や妥協がある。ニュ・エイジ・サイエ ンスにおける、東洋の思想による西洋思想の克服という図式は、この構図から抜け切れない。ここでも科学技術の 本質とは何か、その本質を根源的に問うあり方はあいまいさのなかに忘却されている。人間存在のあり方と深く関 わる有り様として科学技術の本質をハイデガは問うている。科学技術を存在史の出来事としてとらえ、その存在 のあり方にニチェの力への意志の構造があることをみている。
1存在史
セー世界像の時代﹂の冒頭において二存在するものの本質への反省︵ベジンヌング︶と真理の本質についての なんらかの決定がおこなわれるのは、形而上学においてです。それが存在するものに或る一定の解釈を加えたり、 真理を一定の形で捉えたりすることを通じて、ひとつの時代の本質形態の根拠を与えながら、形而上学はその時代 を基礎づけてゆくのです。そのような根拠は、その時代を特長づけているすべての現象を貫いて、支配しています。 また逆に、これらの現象を充分に反省するために、これらの現象のなかに、形而上学的根拠が認識されねばなりま 存在史の視座から存在︵性︶や真理に関するある特定の解釈を通して、形而上学は、その時代倉田冨胃己を根 拠づける。その時代における人間に、存在の解釈や存在者としての人間解釈を与える形而上学は、人間の思想や行 動を根本的なあり方において規定するのである。この意味で、ハイデガが近代︵昌吋z①目①己を主体主義︵普豆①胃目の 日巨の︶の時代と呼び、近代科学技術の時代を特微づけているのである。主体主義とは存在者の存在が主体︵普昌①胃︶ の主体性爾昌“寓目愚廷になるところにある。人間が存在す息ものの内で独自の普号蚕貫プェタトュと根 拠としてすべてをおのが上に集めてい為基体箭に横たわっているも鋤弓。昌晶・己になることである.つ まり、人間は、存在するものそのものの関与の中心となり、それらすべての基準の標準として、自らを根拠づける・注4 主体主義時代とは、存在の出来事︵自己贈与又は自己隠蔽︶によって、自己を根拠づけることを志向し、その為に 自らを確かなものとして確保しようとする思考が支配する時代である。 ハイデガは存在の自己贈与︵隠蔽︶の始源を﹁発現アウフガング︵プュシス︶および露呈エントベルグン グ︵アレティア︶として照明される﹂ところに考える。﹁そこからさらに存在は、滞在フェアヴァイレンの意味 での現前と存続性︵ウシア︶という刻印づけに至る。それをもって本来的形而上学は、始まるのである。﹂注5それ せん・﹂注3 また逆に琴 232
科 学 技 術 の 本 質 と し て の 力 へ の 意 志 以降雲存在は自己変遷していくのだだそれを簡潔に述べた箇所を段用すると
コン喜愈三統一する無比2誉としてロゴ翼すべてを保護しつつ集摂するものとしてイデア、
ウシア、エネルゲイア、実体︵、号の国具邑、現実性︵肖言島国の︶、知覚言①月①冒旨︶、モナドとして、対象性と して、また理性の、愛の、精神の、力の、意志のという意味での自己定立によって為された被定位性として、同一 物の永却回帰における意志への意志として、現前は自らを顕現する。﹂注6 形而上学はプラトンにおいて存在をイディアと見なしたところからはじまり、その後、形而上学の本質は、ニ チェに至るまで、そのことによって形成されているという。存在の自己贈与︵隠蔽︶は、特に、イディア・表象言○筋匝帝巳、 力への意志そして現代の科学技術におけ魯﹁力への意志﹂の種々”有り様作成作用国閏“蔚二”里、用延作 用a①里呂①口︶そして、最後に転回負の耳①︶の可能性を秘めた組み立て︵⑦の牌の三へと顕現されているという。 ハイデガの存在史の視座から見るならば、ニチェの哲学は、西洋形而上学の伝統の極地である。存在に優先 するものとして存在者全体を思惟する形而上学は、ギリシャのプラトン以来ニチェに至るすべての西洋的思惟で あるが、そこで、ニチェの哲学において現存︵言①の①巳としての存在が完全に忘却される出来事にたっする。そ の出来事は、存在がその本質において力への意志として、それ自身の贈り遣したことにある。﹁ニチェは力への意 志の思想において、近代の完成への形而上学的根拠を先駆的に思惟している。力への意志という思想の思索家たる ニチェは、実に西洋の最後の形而上学者である。ニチェの思想の中にその完成をはたした時代、すなわち近代 は、ひとつの時代である。つまりそれは、この終局が西洋の歴史であるか、それともひとつの他の始源への引き金 であるかの歴史的決定を、いつかなんらかの仕方で下すべき時代なのである。﹂注7いかなる意味で、力への意志が西 洋の形而上学の完成であるのか。その力への意志とはいかなる構造を持っているのか論じて見たい。更に、用立作ニチェの哲学か形而上学の終末︵極地︶であるとハイデガは結論づけているだそう論ずる根拠となるハイ デガの視点がある。それは、プラトンからニチェに到る存在史のなかを貫ぬいている視点である。 まず第一に、形而上学的思惟は存在者としての存在者を根拠づける表象e①喝冒鳥目ののぐ日牌①馬巳である。形 而上学は存在者を超え、存在者の根拠︵⑦昌目︶を問うのであるが、伝統的な形而上学は、存在そのものを問わず、 存在する者の根拠︵存在性︶を根拠づける。そして一切の存在者をそこから作因されている至高の原因とか、アル ケ、創造主によって根拠づけられたものとする思惟である。つまり、その思惟においては、特定の存在者に対す る根拠︵H胃旨、ラチオ︶を追求し、それらの存在者をその根拠によって根拠づけられたものとして表象するのであ る。この様に、この西洋の形而上学的思惟は、﹁根拠づけるもの﹂a閑の昌目2号︶と﹁根拠づけられるもの﹂盆尉 の①喝邑の房︶との関係に立つ二元論的思考である。注8 この形而上学の二元論的思考は、エグジステンスと︵事実存在︶エッセンス︵何存在︶、感性的なもの命冒昌呂の巳 と非感性的なものaロの冒昌目①己、物体的なもの弓ご巴のgg︶と非物体的なもの︵冒、茸国垣爵g①ロ︶との区別 ハイデガの思惟はこの二元論的思考かどの様にして生起してきたのか:その根源にもどり存在性起の思惟二 元的思惟﹀を追求したとも言える。存在史の川想は形而上学では慣例になっている区別づけ本質︵何存在 を設定した思考である。注9 と非感性的なものa房首 用a朋旦庁巳に代表される近代科学技術の有り様の構造は力への意志の構造を持っていることを論じたい¥ 2存在史を貫ぬく.重要な視点 234
科 学 技 術 の 本 質 と し て の 力 へ の 意 志
イデZと実在事実存琶以前の存在自体の現成を思惟する。一存在と真理はたがいにひとつに属し
あい、しかもひとつに絡み合いながら共に秘かに始原のなかへと織り込まれている。﹂その存在の真理を思惟する・注、 ハイデガはニチェの哲学において、形而上学の完成と見たが、それは、この二元論的思考の究極的到来、つ まり二元論的思考内における、﹁本質﹂と﹁実在﹂の同一性の出来事を言ったのである。 エッセンツイアエクシステンッイア ﹁ニチェの形而上学において、いかに本質と実在の区別が消滅するか。なぜそれは形而上学の終末におい て、というよりもまさに終末として始源からのもっとも遥かな隔たりが到来されるにもかかわらず、消滅せねば ならないか。だがこの消滅は、あの区別を可視的にしようとの試みがなされることによってのみ起こるのである。 すなわち本質としての力への意志、そして実在としての同一物永劫回帰。﹂注u この引用こそに、ハイデガのニチェ解釈における中心的視点があると私は思う。ニチェの根本語﹁力への 意志﹂と﹁同一物永劫回帰﹂をそれぞれ存在者の存在者︵gの唱“のロの︶として、①のの①日田と①酋の陣①具圃の意味で、 ハイデガは規定し、それが、この二つの根本語においてその区別が消滅せざるをえないと言う。これは後に論じ 第二の視点は三可能ならしめることおよび因をなすことに発する存在の本質来歴臆存在の歴史を貫いて支配 してい色ということである。睡蝿プラトンは存在をイデアとして更に﹁諸イデアのうち”最高のイデアそれ アガトン は同時にすべてのイデアの本質であるとは善厨鴨昏gごとして思惟した。言易善イデアの本質憾能力づけ ること︵固日侭胃冒眉︶、すなわち﹁存在者をひとつの存在者として可能ならしめ、こうして存在者を隠蔽されざる もののなかへと現前させることである。﹂このプラトンの解釈を通して、﹁存在が可能ならしめること、条件づける ことという性格をもって現われる。﹂この﹁可能ならしめること﹂︵即日億胃冒侭︶は表象︵ぐ○愚厨房巳や力への ナハ1V ア一﹄ご意志の特徴のなかにも生きており、主体主義の出来事で︵表象として、又、力への意志としての︶存在は可能性なら しめる、可能性の条件となって現われている・注週存在史から見るならば、ニーチェは存在者の根本的性格を力への意 志と把握し、可能ならしめるもの、能力づけるものとして、思惟している。 第三の視点は、﹁見ること命呂①巳﹂という概念が存在史のなかで重要な役割を果たしている点である。﹁存在を イデアとみなす解釈は、すぐ私たちを、存在の把捉を見ることに比較するという試みに導く﹂﹁存在が現前性と存続 性と意味するがゆえにここでとりわけ︿見ること﹀が現前し存続するものの把捉を解明するに通ずるのである﹂注M、 とんイデガは言う津 ジヒトザムカイトアウスゼエン プラトンにより、存在は﹁イデア、明視性であり、相としての現前性である﹂注賜とする解釈される。先に述べた
?:人と能力づけるも、つまり存在者を存在者へと可能にす愚ものという解釈を加え畠とイデアとし
ての存在には二義性が存在することになる。つまり、このイデアとしての存在は﹁純粋な現前性﹂と﹁可能ならし めるもの﹂の二義性を持つことになる。 イデアとしての存在が純粋な現前性であるということは、視覚によって捉えられるもの︵明視的現前性︶として 存在が考えられるようになる。イデアとしての存在は﹁見ること﹂しいては、知覚言①R①宮ご︶によって知覚され じねん たもの言①月①己冒目︶となる可能性を秘めていた。存在は本来、自然として顕われる意味での、相としての現前性で あったものが、人間の認識︵視覚、更には知覚︶によって、認識されたものへと転化するのである。﹁イデアの本質 は明視性、現前性から一変して表象者にとっての、そして表象者を通じての被表象性となる。存在性としての被 表象性が、表象されたものを存在者として可能にするのである。﹂注陥 ここで表象︵表象作用︶について簡単に言及したい。デカルトにおいては、﹁思惟する︵8四国制①︶の代わりに知 236科学技術の本質としての力への意志 覚スル︵ロ①月目口角の︶の語を用いている﹂注r表象する︵ぐoHm庁①匡呂︶とは一前に立てる﹂ということであるが 特に﹁自己の前に立てる︵く日の]g里①馬巳﹂ことである。その表象することは﹁表象されうるものを自己自 身に引き渡すこと含宮巽呂①巳である。﹂また﹁あるものを自己自身に向けて届けるS具幽g目古卦︸ぬ①巳﹂ ことが属している。﹁自己に引き渡す﹂とは、前に立てられたものをわが物にすることであり、ただ単に、一般的 かつ無規定に、前に置くことではない。そこには、ある規準を含んでいる。﹁自己の前にもたらす﹂とは、﹁可 視的に﹂することである。つまり、引き渡されたもの︵表象されたもの︶が、算定しつつ自由に処理しうるものの 圏域内で、明白に疑念をいだく余地のないもの︵又は算定されたもの︶として確保されなければならないことであ る。注肥その意味で、表象とは、ひとつの確立愈呂閏の厨房ロ︶である。 現代人は﹁ある存在者が到達されうるのは、主体としての自我がひとつの客体を表象するからであると考えてい る。﹂注凹その為にはすでに前もってひとつの開かれた開示性の圏域が現成してなければならない。ところが、ひとつ の開かれた場︵超越論的には明るみの場︶の開示性がなくても存在者が存在者として現われて見えると思っている。 ギリシャ的に経験された、﹁存在者への根本的関係に立つ人間はそのつどの自己の対して局限された隠蔽されざるも のの境域に適応する﹂し、そして、その境域に制限されつつ帰属している・注別しかし表象性の場合は、ある計算可 能な圏域を想定し、人間は現前性および非隠蔽性の尺度になってしまう。 ニチェの重要概念﹁価値﹂について述べる中で﹁視﹂の観点を重要視している。﹁価値の本質は視点たることに ある。価値とは、はじめから見留めておかれるもののことである。価値は着眼点を意味する・注幻何かを目ざし、その 為に何かを目あてに計算している視である。ハイデガは﹁見る﹂という視を表象することと同じ様にだぶらせて 語っている。﹁視点たるかぎり価値はいつも或る視によって且つこの視にとって定立されているのである。この視と
ハィデガの解釈によれば、ニチェ形而上学の五つの基本語︵|蝋力への意志﹂、ヨヒリズム﹂、﹁同一物の永劫回 帰﹂、﹁超人﹂、﹁正義﹂︶のなかで、﹁力への意志﹂は、中心的な言葉である。力への意志では﹁存在のもっとも内奥 の本質﹂である・注劉一切生あるものは力への意志であり、.存在者としての存在者が有する根本的性格である。﹂ ﹁意志﹂とは、たんなる一つの願望、努力というのではなく、主人であろうとする﹁力への﹂意志である。﹁力﹂ とは、それがどこまでも力の高揚でありうる限りにおいて力であり、それはたえず、その都度到達された力の段階 に対して主人となり、且つ超越していくという自己制覇の途上にありつづけるものである。 力と意志とは﹁同じである﹂︵sの砂のぎ①︶。しかし両者は単純にそのまま同じということではない。﹁力の本質が力 そしてそれをこのように定立しておいたからである。この前置き的な︵表象的な︶定立によってはじめて、何かを ︵何かを︶見込んでいるのは、それが見込まれたものをかかる見込みとして自己の前へ置き︵自己へ向けて表象し︶、 は、それがすでに︵何かを︶見込んでいるかぎりで︵ほかの何かを︶見るという性格をもっている。そしてそれが 目ざすために必要な、そしてこの目ざしの視線を先導する点が著眼点となる﹂注塊存在者の存在を表象することが、 力への意志では、価値設定のあり方として真の計算、評価することになる。それは﹁存在者そのものの表象が無 制約的に自立したものとなり、自己自身に発し、かつ自己自身のために存在のすべての条件を取り決めねばならな いような表象となるときのみである。﹂注魂この様に﹁見る﹂という概念で、ニチェの価値概念も貫ぬかれている ことが理解できる。 3−力への意志﹂の構造 238
志定立することである。
晴意志は更に、自己古
へ 力高揚との条件を同時﹂ の て値︾の観点とは、生睡 し 舞点である。﹂注鋤を解釈 津こと、つまり、その一 グ 姉つ、つまり自らを力ゞ 学科る如く、高揚におい
への意志なのであり、かつ意志の本質が力への意志﹂であるとい、フ意味で同一である。注記 まず、力への意志では力の維持と高揚という二重の構造を本質的に持っていることについて述べたい。それは、 力への意志において、力の高揚、それ自体が力の維持であるという一体的二重構造である・注妬力の維持だけでは、ち ょうど生における成長なき維持と同様に、下降になってしまう。力への意志は﹁より多く﹂とい、フカへの自己命令 といえる。その高揚の必要条件として、その都度より高い段階が到達されたというだけでは不充分であり、その到 達された段階がまず保持され確保されなければならない。そうでなければ常に高揚へとはならない。力への意志は その維持を、自己自身の存在確保を定立することが自然的に要求されている。 その為には、意志がまず﹁或る視界の中へ見込み、そしてこの視界をまず引き開ける﹂ことが必要である。つま り﹁意志がいつでも安んでし後盾しうるようなものの圏で自己を取りかこみ、そこからして自己の安全性をまかな いうるように取り計らうということである。﹂注説この様な恒存的慮つでも直接的に自由に役立つ︶なものの範囲を 意志は更に、自己自身を越えて意志することの条件を定立しなぐれてならない。﹁力への意志は、力の維持と力の 高揚との条件を同時に定立しなければならないのである。﹂注肥ここで、ハイデガは、ニチェの覚え言の一節、﹁︽価 。●■骨①e●● 値︾の観点とは、生成の内部で相対的な持続を有する生の複合構成体に関する、維持、高揚の諸条件についての観 点である。﹂注鋤を解釈する。力への意志が本来のあり方でありうる為には、力の維持、力の高揚の諸条件を定立する こと、つまり、その諸条件を見渡す観点が必要である。﹁価値は﹃本質的に﹂力への意志の︿見︵ゼエン︶︾がも つ、つまり自らを力として発動し計算しつつある︽見︾がもつ﹁観点﹂なのである。﹂注帥力への意志が、﹁生﹄におけ る如く、高揚において自らのより高いものの圏域へと先視的に見つめ、それ自身の可能性の諸条件を定立すること学の終駕 ●●●。 ﹁要説。 以上一力への意志はデカルトの概念、表象と構造的に連続性をもっていることが明らかである。表象も、力 への意志も、自己確立する自己根拠づける有り方を持っている。つまり、諸価値を設定する力への意志とは、それ 自身の為に、それ自身の条件︵諸価値︶を設定する。表象は、それ自身の前に、それ自身にとって確定されたもの を引き渡すのである。自己自身の存立確保を目ざす働き︵作用︶である。 では、どんな意味で、力への意志は、表象性よりも、より顕著に、主体性を持っているのであろうか。それは、 ﹁力への意志がそこから自己自身を意志するところの圏の存立の恒久化的確保︵巳①房の国且侭①目①即の冨且の旨篇目眉︶ である。﹂注別力への意志として不断に高揚し、その高揚も、やむことのない自己制覇として不断の生成としての恒久 的確保のあり方である。これはまさに、新しい価値設定の原理としての力への意志は、﹁自己自身の制覇として、実 質的に自らのなかへと回帰する﹂のであって、存在者全体の外側にはいかなる目標も持たない・注詑力への意志は無 目標的︵且農○の︶な、不断に、力の高揚のなかに閉じこめられ、ただそこへのみ回帰する力動的生成である。 ここで、前述の﹁2、存在史を貫ぬく重要な視点﹂のなかで、第一の視点に注目する必要がある。ハイデガは、 本質としての力への意志と実存としての同一物永劫回帰との区別が消滅するあり方に、プラトン以来の西洋形而上 学の終駕︵完成︶を見たのである。ニチェの覚え書を、ハイデガは解釈する。 ある・ である。このこと遊力への意志はそれ自体価値設定的であることであり、それ故、新しい価値設定の原理でも 生成に存在の性椿を刻印することそれが最高の力への意志である。 、、、、、、、 240
科 学 技 術 の 本 質 と し て の 力 へ の 意 志 ハイデガは現代︵近代︶の科学技術︵目①胃①の冒旨前の言○一○喝︶の本質とは何かを問うている↑﹄まず第一に 科学技術と科学技術の本質は同一でない・科学技術を道具的に理解することは、人間学的規定であるという。﹁技術 とは目的の為の手段である。﹂﹁技術とは人間の行為である。﹂という一つの規定をアリストテレスの四因説にもどり、 存在は現前の存続性︵固定性と持続︶を意味するものとして、理解されてきたものが、この永劫回帰において、 ﹁存続なきもの﹂の最高の︵最も根源的な意味で︶﹁存続的な存在化﹂である。ここに存在の完全は存続があり、生 成と存在、実存と存在という区別は消滅する。ここに、ニチェの哲学は西洋の形而上学の極地であり、形而上学 の終罵、つまり、あらゆる可能性がここで完全に閉じられてしまったことを意味するのである。 一切が回帰することこれが生成の世界の存在世界への極端な錐近である観察の頂点・﹂謹鵬 ハイデガのニチェ解釈によれば、存在は﹁生﹂であるかぎり本質的においては﹁生成﹂であり、その﹁生成﹂ とは自己自身への制覇として、自己自身へたえず回帰する力の制覇である。注誕 ﹁同一物の永劫回帰は、非存続的なもの︵生成するもの︶そのものが現前する仕方であり、それも力の発揮のたえ ざる可能性を確保する最高の存続化︵円環において︶としての仕方である。﹂注拓﹁回帰するところの同一物は、常に ただ相関的な存続しかもたず、したがって、実質的には存続なきものである。だがそれの回帰とは、たえず繰り返 し存続にもたらすこと、すなわち存続化を意味する。永劫回帰とは、存続なきもののもっとも存続的な存続化であ 4力への意志としての科学技術の顕現 ブタ。﹂注調
再思惟している鑑︾そこでとくに8巨の四①霞g①ロの︵作用因︶、︵一まり窪結果を作り出す因︵例えば細工師︶か全因果 関係を決定的な仕方で規定している。道具的な理解の仕方のなかに、この様な因果性が統べている。 科学技術︵弓①呂国時︶の本質を顕現の自国号①侭①ロ、露わに発く露開の︶あり方の一つとして、ギリシャ語テクネ ︵融呂制︶に由来するとハイデガはいう。注拓 第一にテクネは、出で来たらすこと︵国①ぐぐ日寓言鴨巳すなわち、ポイエシス言○制の厨︶に属している。注諏 このポイエシスは詩的な創作ということというよりも言ご巴の︵フェシス、自然︶、すなわち自ら然ら成るこ と︵目mぐ○口巴9房Hシ巨碕島の巳もまた、一つの出で来たらすことであり、ポィエシスである。﹂現代に至っ てこの吾厨肖のは対象化された自然︵物理学の対象として自然︶になってしまい、ちょうど花が自ずから咲き開くよ うな意味での自然は隠されつつある。テクネー︵扇8用︶は真の存在へともたらす顕現ap3①侭g︶の一つである という。テクネは、エピステメ︵g尉討日巴と並ぶ広義の﹁知のあり方の一つであり、﹁何かに通暁しているこ と、何かに熟達していること﹂であり、﹁自分自身で出で来たらず未だ眼前にはなきもの﹂としての工芸品なりを 出で来たらしめることである。工芸品は、工作人が考え、材料に働らきかけて作成された物というのではなく、 そこに眠っていたものが、その工作人との出会いの縁にふれ、自ずから顕わってきた存在であるというのである。 ところが、テクノロジの顕現のあり方は、前述の顕現のあり方ではなく、挑発国①国吊さa閏巳の意味におい て立たせる︵馨呂①国︶という特徴をもっている。ハイデガは次の様に述べている。 一自然は人間の前に置く作業︵表象作用ぐ日牌呂①巳によって人間の前に置かれた¥人間は世界を全体として 対象的なものとして、自らの前に置き、また自らを世界の前に置くのである。人間は世界を、人間自らにかかわ 242
科学技術の本質としての力への意志 らしめるように置き、また自然を自らの身近かに置く。このこちらに置くe9の区]①己ということを我々は その広帆な多様な本質から考えなければならない。人間は、自然が彼の表象作用︵く日里呂①ロ︶にとって手におえ ないとき、自熱を整理する言のの討斤巳。人間は新しい物が手もとにないとき、それをこしらえる言閏の厨房口︶。 人間は事物が彼を妨げるとき、その事物を置き換える︵匡日の厨房巳。人間は事物が彼を彼の計画からそらすとき、 それを調整する︵く閏の訂馬巳・人間は物を売って利益をあげようとして吹聴するとき、それを陳列する︵目のの荷馬巳。 人間は自己の業績を示したり自己の業務の宣伝をするとき、見せびらかす︵四房里①房巳・かかる多様な作成国①局里呂g︶ の営みによって世界は立て︵の蔚冨目︶られ、立場⑦3国eづけられる。開かれた世界は対象となり、かくして人 間存在にかかわるようにと転換させられる。対象としての世界にあうように、人間は己れを持ち出し、これらす べての作成︵国①吊蔚馬巳を外国的に遂行した者として、己れを据えるのである。﹂注犯 技術の本質は、︵人間、歴史、世界、自然、いずれであれ︶存在するものを対象a①鴨口の薗己︶にし、役立つもの a①の日ロeとして用立てること田①の蔚馬巳である。そして、表象することの有り方の延長線上に現代の作成︵函①耐5斤巳 が深い結びつきとして、ある。例えば、自然はエネルギとして搬出され貯蔵され、フるように立たされ、エネルギ を供給すべきもの︵役立つもの︶として要求され、挑発を受けているのである。 現代︵近代︶の科学技術には、挑発し立たせる力がグロバルなあり方で全世界を統べている。まさに、世界の
科学技術化である.人間はこ”科学技術的あり方挑発し立たせ畠力に売り嬢されている§どう意味で語
り渡され﹂てしまったかというと、一見人間があらゆる存在者の中心に位置し、無制約的支配者として立ちあがら ざるをえないことにある。人間は表象作用によって、あらゆる存在者を、対象化し、役立つものとして用立て、あ たかも、彼自ら、この種々の立たさせることを計画的に貫徹するのである。しかし、人間こそ、この挑発し立たせる力にょ︵↓て仕立てられ、その力に従属せしめられているが、そのことに気ずかずにいるのである。まさにこの 無制約的な支配をもつ力への意志によって、人間は地球の技術的支配の最も確実な道具であると同時に支配者にさ れているのである。この様に、﹁現実を役立つものとして仕立てる在り方において露わに発くように、人間を立たせ ゲシュテル る、すなわち挑発する、その立たせるということを纏めてゆくものを﹂立体組み︵の①の蔚三という。注調 科学技術の挑発の意味において﹁立たせる﹂という顕現のあり方は、力への意志の二重構造を持っていることが 暗黙の、うちに前提されている。ハイデガの、その箇所を引用してみる。 |⋮⋮毒或る地帯は石炭や鉱石の採掘のために挑発される。その地域は今や石炭鉱区として、その土壌は鉱床と して、自らの姿を露わに発いているのである。⋮⋮⋮:⋮:⋮ アップシュテッレン・アウフ すなわち最小限の消費で最大限の利用へと前進的に駆り立ててゆくように、あらかじめ目安が立てられている のである。石炭鉱区内で促進された石炭は、ただとにかく何処かに置いてあるよ、フに立たされているのではない・ ツア・シユテッレ・ザイン その石炭は在庫するのである。すなわち、その石炭のなかに貯蔵されている太陽熱を仕立てるために、用意されて待っ ているのである。この貯蔵されている太陽熱は高温へ挑発され、その高温は蒸気を供給するように仕立てられ、 その蒸気の圧力が連動機を動かし、それによって工場が運転を続けるのである。 水力発電所がラインの流れに立たされている。その発電所はその流れを水圧を提供するように立たせ、その水 へルツユテツレン 圧はタビンを廻転するように立たせ、その廻転が機械を廻し、その機械の連動機が電流を造り、、その電流の ために大発電所とその配電網が仕立てられているのである。こうした電気エネルギの絡み合ってゆく仕立過程 べシユーアツレン の領域のなかに、ラインの流れもまた何か仕立てられたもの︹監理されたもの︺として現れている。この水力発 244
科学技術の本質としての力への意志 電所は、あの数百年来岸と岸とを結んでいる昔の木の橋のごとく、ラインの流れに建てられたのではない妄むし フエアパウエン ろラインの流れが、水力発電所の中へ建て塞がれているのであろう。その流れが、今水流としてあるところのも の、すなわち水圧供給者であるのは、発電所の本性によるものである。﹂注如 まず、この挑発しつつ立たせるあり方には、制御し、確保するあり方が本来的にある。まず第一に、力への維持 には、﹁或る視界の中へ見込み、そしてこの視界をまず引き開﹂らき、到達された段階を保持し確保することが必要 である。まさしく、その石炭鉱区内で石炭やラインの流れを算定可能な役立つものとして開発、変形し貯蔵するこ とが必要である。第二、そのこと自身が、高揚へと導くのであるが、ここでは、﹁高温へ挑発され、その高温は蒸気 を供給するように仕立てられ⋮﹂とある様に、つぎから/\へと追いたてるように関連産業へと高揚していくの である。それにより、ます/、石炭や水源は確保されたエネルギ源として仕立てられていくのである。ここに果 しなき連関︵鎖︶としての力への意志での高揚︵増大︶がある。 近代科学の本質にも、テクノロジの本質である挑発し、計算可能なものとして確保するように自然を対象を立 たせることが、支配・統べている。テクノロジは﹁数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用すること﹂ と一般的に理解されているが、ハイデガは、むしろ、近代科学の基礎のテクノロジの本質展開の中にあり、逆 ではないと見ている。エッセ﹁科学と沈思﹂のなかで近代科学は﹁現実的なものa勝君芦儲冨呂の︶の理論であ る。﹂注虹と論じているが、その科学の本質は力への意志のあり方と同様の構造を持っていると見てよいと思う。ここ で﹁現実的なもの﹂とは因果の光の中で、ある諸原因によって生ぜしめられた諸結果としての対象である。﹁理論﹂ ナツハシユテレンジッヒヤシユテレン とは﹁現実的なものの観察a238国眉︶﹂として﹁現実的なものを追い立て、確立する働きかけである。﹂注蛇前 述した力への意志にも見られた様に、﹁見ること﹂、つまり、先視的見つめ、自由になる圏域を確保しようと見込み
この小論文を書くにあたり特に薗田宗人訳の、ハイデガ著ヨチェ﹂を数多く引用させて頂いた。又、 参考資料として、特に、旨冒Foの83○国巴属四目目⑦の冒○さ喝唖疹聾巨号言昏①勺巨○mgご昌冒煙昌ご国①昼①腸閏 弓篇函眉興冨胃目]尻z旨○球も弓馬篇昂届臼︶から多大な示唆を得たことを記したい。 可能なものとしての対象へと作り変えるのである. 続きが本来的な意味で﹁計墓でありそれによって現実的なものを確実な認識として認められ息ものへ測定 に入れる働きがある。﹁理論はその都度現実的なものの区域をその対象領域として確立する。﹂注偲その確立する為の手 以上、ハイデガの存在の視座から見た近代科学技術の本質には力への意志の構造があることを論じた。力への 意志としての科学技術の本質は、自己自身の存立確立︵維持︶を目ざし、不断に恒久的に確保︵高揚︶する働きで ある。それは根拠︵基礎︶づけながら、無目的につき進む働きである。ある計算可能な圏域を不断に確保し根拠づ けて進んでいく有り方には、表象作用に象徴される﹁視ること﹂と﹁可能ならしめること﹂の視点がある。その科 学技術は閉域を確保して進む、閉じられた二元論的思考であるが、しかし存在そのものは、その閉域に決して封じ 込められることはないのである。近代科学技術に支配された時代であっても、自然、人間、歴史等をその思考によ って封じ込めることはできない。力への意志としての、存在の隠蔽と存在者の顕現︵科学技術の有り方として存在 ケレ 者が統くられた︶が極地に達する時の到来が起こる。そこに転回の生起の可能性があり、それを待つ準備として、 ﹁科学技術の本質﹂への問いがあり、科学技術の思考によらない思惟が必要なのである。このエッセでは、ハイ デガにおける近代科学技術の本質と力への意志との関係をある一側面から述べてみた。 246
科 学 技 術 の 本 質 と し て の 力 へ の 意 志 注 国の口圃匡司のmopの口閉口四口天①ロの少一﹄壷:届$ の国の①冒昌己国①茸︾。シ巨酉︾岳お ぐシく○畔&ぬの匡己・醇呉出目のシ具︸︶岳麗 のく⑦①囲邑国匡侭四ず①国四国Q印四○青弓①mのP巨酉︶畠弓 Z目z耐蔚開一局︶国四目・邑障諺匡車︾ご臼 z胃z討厨門︸昂︾国色ロ・戸陣諺昌一︾弓曾 本文中匪用したみイテガの著作の略記号に次の通りである﹄
7z直話Pぞイデガ著宣Iチー︷Ⅱ﹂薗田宗人訳白水社一九七七年一六頁兵
2国冨目言目の儲巨冨儲昌侭Q①目○月胃匡且昌○易9両堅喧O5gg巴国富8z①急尽日〆Qoの輿○四房1の目∼四人イデガ著三仔在と時間﹂︵上︶細谷亀井墓船橋訳理想社一九六三年五∼八頁
勺巨匡耐[旨い○p︾﹄や蛍︸ロ〆]3のく計.ハイデガ著﹁世界像の時代﹄桑木務訳理想社一九八○年五頁
4⑦ぐ認.前掲書﹃世界像の時代﹄六七頁5z眉S吟ハイデガ著ラーチェⅢ﹄薗田宗人訳白水社一九七七年一六五∼一六六頁
6国のロヨ8参照赤松宏一解説歩イデガ哲学と言葉の問題ニチェとの関腿性﹂Hィ言一ガ著寅イデ
ガと言葉﹂赤松宏訳木鐸社一九八○年二一○頁
9前掲書二二○頁、ロ閏留目ぐ○日Q巨且め認諺のなかで、事物の事物性の伝統的本質規定を述べているが、 この二元論的思考を示している。 1 6 1 5 1 4 1 3 1 2 1 1 1 0 4−、茸一ヨ酢 z眉巴前掲書ラーチェⅢ﹂二六一頁 z置哉・前掲書ラーチェⅢ﹂二五二頁 z置邑・前掲書﹁ニチェⅢ﹂一八四頁z冒誤か前掲書﹁ニチェⅡ﹄四三四∼五頁
z旨麗・前掲書、四三二頁 z冒圏.前掲書、四三八頁 z旨暗・前掲書、四三九頁2実体︵
3支持者
〆 1基体︵§o胃督励ご○ミ 基礎﹁下に置かれた少 、王室叩 ︵m戸舌の計画国営四︶ [下に置かれたもの]いつもすでにそこに層わ せており、また一緒に出 現したもの 偶有性s信画畏暑穴身︶ 偶有性︵胃9号房︶ 諸特性 述 語 248科学技術の本質としての力への意志 2 9 2 8 2 7 チェⅢ﹂二二頁 実際にはただ一 と呼んでいる。
妬ニチェは力への意志の諸条件脂
ラーチェⅢ﹄一九頁 妬﹁力と意志とは、ひとつの本質の型z冨震﹃ニチェⅢ﹂一六頁
詔z冒壁言−チェⅡ﹂四四四頁
産の言湧前掲書、二七頁
2 1 2 0 1 9 1 8 1 7 ニ ノ、 百 一 、 ⑦ご$.一ニチェの言葉・一神は死せり﹂、.⋮:﹄前掲書.四○頁。 のぐ麗式前掲書、三七三八頁 z冒露﹁ニチェⅢ﹄二○頁、ニチェ著﹁意志﹄ のぐ画鵠言−チェの言葉・﹁神は死せり︲一、ヘゲルの﹁経験﹂の概念﹄細谷貞雄訳、理想社、昭和四十一年、 z冒龍前掲書、三四二頁 超越論的自我はその立場の典型であると私は思う。z冒雪前掲書、三四一ペジ z冒紹前掲書、三五六頁 z冒臼前掲書︾三五五頁 への意志の諸条件について﹁維持、高揚の諸条件目忌巴白眉の匹①侭①昌侭の扉g畠日侭g︶ ここで彼は維持および高揚の諸条件両号巴冒口鴨巨目陣の侭①目侭の馬島国唱侭g︶とは言わず、 つのものが別々のものの合体であるかのように取られないように配慮している。﹂z冒亀.﹁ニ 一体性に実質的に共属しているという意味で同一のものである。﹂︵z冨雪323130 詔z扇酔壱一チェⅡ﹂前掲書、二三八頁