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真宗研究50号 016上山大峻「<記念講演>現代における真宗伝道の課題」

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現代における真宗伝道の課題

教学伝道研究センター所長

ご紹介にありましたように、私は仏教学の専攻で、 しかも敦短から出土した資料の研究をずっとしており まして、浄土真宗の教学研究には、 まるで素人であり ます。もっとも浄土真宗のお寺の住職をしており、 そ れなりに親鷺聖人を慕い、浄土真宗の教えについても 学ばせていただいておりますけれども、 とても本日の 真宗連合学会のような各派の高僧、碩学のお集まりの 中でお話しするような学識も資格もないと承知してお り ま す 。 先程のご紹介にありましたけれども、前に龍谷大学 現代における真宗伝道の課題 の学長を務めていたことや、現在では本願寺派の教学 伝道研究センターの所長をさせていただいている関係 で、この役目を務めるべきだという強い要請をうけ、 断りきれずにこの場に立っているようなことでご、ざい ま す 。

親鷺聖人大遠忌を迎えるにあたって

何をお話すべきかについても随分と悩みましたけれ ど も 、 ちょうど浄土真宗本願寺派の教学伝道研究セン 九

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現代における真宗伝道の課題 ターの所長の役目にあるということから、今、私ども が最重要課題としております﹁現代という場において 浄土真宗をいかに広めていくか﹂という問題について 思うところを申しあげたいと思います。ご批判やご教 示をいただくことができればありがたいと思います。 ﹂の真宗連合学会は、親驚聖人を宗祖と仰ぐ、同じ 浄土真宗の各派からお集まりでございます。六年先の 平成二十三年は東本願寺、西本願寺は二十四年に聖人 の七百五十回大遠忌をお迎えすることは同じでありま す。したがって、その大遠忌をどういう意義を持って お迎えするかということについても、 どの派も同じく ご思慮中であると思います。法要を盛大に行い、宗祖 のお徳を讃嘆するということが最重要な課題となるこ とは申すまでもありませんが 一方で浄土真宗の宗門 がいわば右肩さがりになり、将来への危機感が高まる なか、この法要を機縁として教勢を挽回し、真宗教団 の存在意義を高めるチャンスとして捉えたいというこ とがあります。この願いは西本願寺のみならず、各派 ともお持ちのことであろうと推測いたします。

そのためにはどうすればよいか、これからそういう 視点からお話することになると思いますが、 それに当 たりましてはじめにお断りしておきたいことがござい ま す 。 一つは先ほど申し上げましたとおり、私は真宗 学を専門とするものでございませんので、伝統的教学 の約束事に違う理解や発言をするのではないかという ことです。その時は大目に見ていただきたいと思いま す。それから本日は真宗連合学会ですから、真宗十派、 各派の方々がお出でと思いますが、他派のことは知る よしもありませんので、私の属します本願寺派の事情 を中心にしてお話しすることになるであろうかと思い ます。この点もよろしくご了承いただきたいと思いま す 。

教団の現状

蓮如上人の五百年のご法要の時もそうでしたが、こ ういう大きな法要の機会を捉えて教団の活性化と申し ますか飛躍をはかりたいということが意図されます。

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その場合、前提となりますのは、現状への危機意識と 改革への意欲ですが、同時に﹁このままでいいじゃな いか﹂という守旧の姿勢も一方ではあります。寄付金 が集まってそれなりに参詣があって法要が勤まればそ れでいいじゃないかという現状肯定の姿勢です。それ は決して投げやりの意味ではなく、今でも真宗の広が りはある。現在のやり方で努力していけば、決して衰 え る こ と は な い 、 と い う 認 識 で す 。 たとえば、本派で いえば中央仏教学院という教団の僧侶養成の教育機関 がありますが、今、 たくさんの方々が学びに来られま す。通信教育の受講も盛況です。また、龍谷大学の

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というところで仏教にかかわるテ

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マを掲げて講 義を企画いたしますとたくさん集まられます。中高年 層で、浄土真宗の教えにひかれて学びにこられる方が、 ますます増えている感じがします。そういう現象を見 ていますと、教団の将来を心配するのは杷憂ではない か、教えを忠実に学び、僧侶の本分にかえって﹁自信 教人信﹂に精進していけば、教団は安泰であるという 考え方です。この考え方は一応﹁正論﹂であり、議論 現代における真宗伝道の課題 の結論はいつもそこに行き着きますが、 はたしてそう で し ょ う か 。 私たちの周辺を見ましでも、 お寺へ参詣して聴聞す る者が年々少なくなっています。無宗教者の比率が増 ぇ、宗教への関心度が低下している社会情勢に、浄土 真宗教団の現状も例外ではありません。私たちの教学 研究所の前々の所長でありました石田慶和先生が ~『 干 '-- -れからの浄土真宗﹄︵二

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四年︶という辛口の本を 書いておられますが、﹁はじめに﹂ のところで、先生 は次のように指摘しておられます。 わたくしたち教団は布教伝道という場において、 困難な局面に立っているように思います。それは 今まで経験しなかったような大きな困難であり、 その対応を誤ると教団は伝道教団としての働きを 全く失ってしまうような深刻な事態であるように 思います。そういうことが一般に十分に理解され ていないということが、 その危機が一層深刻であ ることを表わしているといってもよいかもしれま せ ん 。 ︵ 三 頁 ︶

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現代における真宗伝道の課題 非常に深刻な危機に浄土真宗の教団はたちいたって いる。その原因は伝道の機能というものが十分に果た されていないというところにあるということをまず指 摘され、論を展開されます。伝道の機能がなぜ果たせ ていないかというと、私たちの語る浄土真宗の教えが 人々に伝わらないからです。それでは信仰者の再生産 ができません。それで成り立っている教団は当然危機 に陥ちいることになります。なぜ伝わらないのか、 のことで前の京都女子大学の学長でありました瓜生津 隆真先生が、次のような文章を﹃大乗﹄︵二

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五年 二月号︶誌に載せておられます。 ﹁浄土真宗の教えは聞いてもよく解からない﹂ ということをしばしば耳にします。これは例えば ﹁機法一体﹂という一言葉が難しいからなのか、あ るいは教えを語り伝える表現自体が理解し難いも のになっているからなのか、 それとも教えそのも のが現代の人々の感覚や意識、価値観と大きく離 れているためなのかよく反省し検討していく必要 があると思われます。

教えが伝わりにくい理由を三つ挙げておられます。 まず﹁もっと易しく言ってください、言葉が分かりま せん﹂ということがあります。それを易しく言い直し た ら 分 か る の か 、 その言葉の表す意味が分からないの か。あるいはそういうことを理解する受け皿としての 私たちの基礎的知識や価値観がかけはなれていて分か らないのか。﹁分からない﹂にしても、 そういう問題 そ があるということを指摘しておられます。どうすれば 分かってもらって、関心をもってもらえるようになる の で し ょ う か 。

本願寺派の伝道研究組織

こうした現代における真宗伝道の壁を、何とか乗り 越えなければならないということで、私どもの教団と いたしましては、それまでの﹁浄土真宗教学研究所﹂ を改めまして、平成十五年度より﹁浄土真宗教学伝道 研究センター﹂に改組して問題の解決に当たるごとに なりました。他派の方もおられると思いますので、こ

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の組織について紹介しておきたいと思います。この研 究センターには三つの研究部門があります。 一つは﹁教学伝道研究所﹂で、その中で現代の宗教 的問題に対する総合的研究、例えば政治と宗教とか、 過疎過密の問題であるとか、国家と宗教の問題である と か 、 そういうことを総合的に研究いたします。この 研究所には研究部門としまして﹁現代伝道研究﹂﹁聖 典編纂﹂﹁教学相談﹂﹁いのちと念仏 電話相談﹂を包 括 し て お り ま す 。 二つ目の研究所は、﹁仏教音楽・儀礼研究所﹂で、 仏教音楽の創作・普及、真宗儀礼のあり方に関する研 究 を 行 い ま す 。 三番目の研究所は﹁本願寺史料研究所﹂で、本願寺 が所有する多量の史料の継続的な整理・研究と、﹃本 願 寺 史 ﹄ の編纂を担当しております。 なお、今年より東京に支所を設け専従研究員を置い て、首都圏における伝道環境の把握や対策に当たるこ と に し て お り ま す 。 なかでも﹁仏教音楽・儀礼研究所﹂ですが、これを 現代における真宗伝道の課題 設置しました意味は、仏教儀礼は如来への讃嘆・帰依 の表明と同時に、参拝者に信仰感動を広め、伝道上か らも重要な役割をもつものと考えるからです。本来、 宗教儀礼は、人々を信仰へいざない、その感動を共有 し深める意味から、言葉による伝道と不離一体となっ て行われるべきものです。ところが近代になって、信 仰を知的な面からとらえようとする傾向が強くなり、 例えば礼拝であるとか、儀式というものがいわば﹁付 け足し﹂であるかのように見なされる傾向が強くなっ て き ま し た 。 し か し 、 そうではありません。歴史的に みても、仏教の伝播は常に儀礼や荘厳などを伴って行 われてきました。宗教的な帰依の感情というものは、 むしろ儀礼の中で起こる感動に起因する場合が多いよ うです。特に音楽的要素、これは善導大師の﹃往生礼 讃﹄が浄土教の広まりに大きな効果をあげた例もあり ま す よ う に 、 もともと儀礼に付帯する音楽的な要素と いうものは仏教伝道に大切な役割をもっていたのです。 それがだんだんマンネリ化して、感動が薄らいできた。 このことを私どものご門主も大変心配されまして、こ

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現代における真宗伝道の課題 の度のご消息で﹁布教や儀礼と生活との聞に隔たりが 大きくなり、寺院の活動には門信徒が参加しにくく ﹂なってきていると指摘されました。この現状を 回復し、﹁ああ、参加してよかった﹂という感動のあ る 法 要 を 創 出 し た い 。 また皆で一緒に歌える仏教讃歌 を作って広めていきたい。そういう意味から﹁仏教音 楽・儀礼研究所﹂という部門が設けられたわけです。 それからもう一つの﹁本願寺史料研究所﹂ですが、本 願寺には各時代を反映した膨大な数の文書資料がござ います。これは今、龍谷大学の図書館の地下に保管さ れておりますけれども、これを基にして、宗祖七百五 十回忌を目標に﹃本願寺史﹄を編纂中でございます。 そういう資料研究の側面を加えた三つの部門をもって ﹁教学伝道研究センター﹂が構成されております。 それまでの教学研究所にあっては いわゆる教学研 績の機会を大学院修了生などに提供して、人材をプ

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ルし養成する役割を主としていたのですが、直面して いる伝道の危機に当たりまして いかに現代に有効な 伝道を行っていくか、﹁現代に対応する伝道﹂ と い ﹀ フ 四 焦眉の課題と直接取り組むことが主要な役割となって まいりました。そういう意図が加わりまして﹁教学伝 道﹂という言葉が入ってセンターが形成されたわけで ご ざ い ま す 。 私は二年前からこのセンターの所長に就任させてい ただきましたけれども、それではどういうふうにして 現代の社会に対応していくかという問題をかかえて、 もう﹁敦煙の研究﹂どころではありません。日夜その ことばかりに頭を悩ませている状態であります。社会 の変化が激しく、猶予ができないことが多いからです。 この度、あえて伝道のことをテ

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マにして問題提起を 行 い ま す の も 、 一つには皆さま方からのご助言、ご指 導をいただきたいからであります。

伝道力低下の原因

先ほども申しましたけれども、七百五十四の宗祖の 大遠忌というのは、伝道教団としての再興を期すため には貴重な勝機であると思います。これを無為に過ご

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し、このチャンスを逃しますと、 ますます激しさを増 してくる社会の変動に対応できなくなって、教団の力 が一挙に減退していく恐れがあります。杷憂かもしれ ませんが、私はそのように思います。皆さんの多くも 同じ思いではないでしょうか。七百五十回忌をスプリ ン グ ボ

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ドにして教勢の回復をはかりたい。そして親 驚聖人の願いであるお念仏をもっともっと広めていき たい。それが大遠忌をお迎えする意義であろうと思い ま す 。 たしかに、真宗教団におきましては色々な面で伝道 機能に劣化が起こっていて、現代の社会的、思想的動 向に対応できていないように見受けられます。そのこ とについて、この一月九日に西本願寺では御門主が大 遠己むをお迎えするに当たってのご消息を発布され、法 要お待ちうけの高札が立てられました。そのご消息の 中でご門主は、こう述べておられます。 しかしながら今日、宗門を概観しますと、布教や 儀礼と生活との聞に隔たりが大きくなり、寺院の 活動には門信徒が参加しにくく、また急激な人口 現代における真宗伝道の課題 の移動や世代の交替にも対応が困難になっていま す 。 そのとおりでして、この現状認識に立って、浄土真 宗をどのように広めていくかが課題となってまいりま す。それを問題とするに当たって、現在、私たちの伝 道を困難にしているところの要因、それは何であるか がまず問われなければならないと思います。 一つは、社会的状況の変化です。私は山口県の長門 市の片田舎に自坊がありまして、その住職でもありま すが、今、法座を聞きましでも参詣者がまことに少な ぃ。この現象は全国的なことですが、 田舎では特に極 端です。あの手この手で聴聞を勧めるのですが、人が おられないのです。決して怠けているわけではありま せん。人がいないのです。特に若い人は、 田舎では職 がありませんから、皆さん都会に出てゆかれます。そ して都会でお嫁さんをもらって、家を建てたりします と、もう田舎には帰られません。 お婆ちゃんが一人と り残されます。これが過疎化の現象です。その影響を お寺もまともに受けているのです。 五

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現代における真宗伝道の課題 田舎から出て行った人たちは かつて両親が朝夕仏 さまに手を合わせていたことを見ています。文化は模 倣によって伝わるといいますが、子供たちはその姿を 見て、仏さまを礼拝することの習慣を身につけていた のです。そうして何百年もの問、今の真宗の儀礼や信 仰が伝承されてきたのですが、ところが今その伝承が 途切れつつあります。核家族化して、ご本家の伝統が 引き継がれなくなり、育てられていた信仰生活の習慣 がだんだん薄れつつあるのです。ご法事などには、今 でも皆さん無理をしても帰ってこられますので、 ま だ 完全には切れてはいないと思いますが、 し か し 、 ム 7 の うちに手当をしないと、 だんだんその意識も無くなっ てしまうでしょう。都会ではどうなっているのか、先 般、東京の僧侶に聞きましたら﹁東京も深刻です﹂と おっしゃる。全体に葬儀・法事を行う習慣がだんだん 無くなってきたというのです。 お葬式はしたけれども 法事はもうしないのだそうです。だんだん、なぜ高い お金を払ってお坊さんにお経を読んでもらわなくちゃ ならないのか、﹁偲ぶ会﹂でいいじゃないのかという ~ ノ、 ことになりましょう。 かつて田舎で家族、親戚が集ま って葬式をし、法事をしていた宗教的慣習が方向転換 をしはじめているのです。実はそのような儀礼や行事 のなかで、宗教的心情も画養され、伝承されていった の で す 。 一時期﹁葬式仏教﹂という批判の声が高まつ て、葬式などは仏教本来の目的ではないと言って、形 式的な仏教のあり方を否定しようとしましたが、決し てそうではなかったのです。法事・葬式なども大事な 仏教儀礼であって、 それが法の伝達の場として役目を 果たしていたのです。今後、真剣にとりくむべき課題 であると思われます。 次に指摘したいのは浄土真宗の教えを受け入れる精 神的土壌の変化です。近代科学思想の洗礼を受けた現 代人は、見えるもの、実験によって確かめられるもの が実在するものだと思っています。その人たちに浄土 や阿弥陀如来の存在を説いても、簡単には理解できま せん。阿弥陀さまは﹁因願酬報の報身仏﹂であるとか 言 っ て も 、 なんのことか言葉も意味も分かりません。 その仏さまのおられる﹁浄土に往生する﹂のだと言つ

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ても更に分からない。荒唐無稽になってしまいます。 このことは、僧侶にもよくは分かっていないのではな いでしょうか。だから聞く方はますます分かりません。 先ほど紹介しました石田慶和氏は﹁これからの浄土真 宗 ﹂ の な か で 、 そこのところを次のように言われてい ま す ・現在、浄土真宗の多くの僧侶は、自らのなすべ き布教伝道の内容について、迷いをもっている よ う に 思 い ま す 。 ︵ 六 頁 ︶ −何をどのように伝えればよいのか、自分が納得 できることと、伝統的に伝えなければならない とされていることとの落差に、大きなとまどい を感じているのではないでしょうか。 ム ハ

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七 頁 それから現代の人々には人間知性への信頼が基本的 にあります。私たちはまだまだ科学の進歩に期待し 私たちを苦しめているほとんどのことは人間の知性で 解決できると考えているということです。この前、講 演のなかで環境問題に触れ、その根本的解決の鍵は、 現代における真宗伝道の課題 人間中心の考え方を反省することにあるというような ﹂とを申しましたら、聴衆の中から意見が出まして 環境問題は科学的な問題であって、科学の進歩によっ て解決できるものだと言われるのです。だから環境問 題 は 、 そういう精神論と結び付ける必要はないとはつ きりおっしゃる。基本に西欧の進歩主義、人間中心主 義 が あ り ま す 。 ﹂ の 考 え 方 に よ り ま す と 、 たとえば戦争や貧困など の解決も、規則を作ったり、交渉を重ねたりして、人 間知性によって私たちの望む平和あるいは幸福も実現 できるということになり、今はそれが不完全だから、 戦争が起き、苦悩があるのだということになります。 それから死や死後への恐怖や苦悩、 いわゆる﹁老病 死﹂の苦ということは、必ず私たちにはありますから、 それを根拠とする宗教的関心は無くならないという言 い方がされますけれども、現在、その基盤も希薄にな ってきたように思います。死の恐怖も医療の進歩や福 祉の充実などで乗り切れるようになってきているよう な気がします。たとえば、 日本では寿命が延びて、起 七

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現代における真宗伝道の課題 高齢化や認知症になる人が多くなり、死を深刻に意識 することなく乗り越えることができるようになってき ています。医療の進歩もずいぶん苦しみゃ不安を解決 しています。そういうふうに宗教的関心の基となって い た ﹁ 老 病 死 ﹂ の問題さえも、以前とは受けとめ方が 変わってきているように思えるのです。 ひるがえって科学以前の中世の時代、例えば親鷺聖 人や蓮如上人の頃でしたら、自らの作る業にしたがっ て輪廻転生するという死生観の常識があり、 それに照 らして自分の作っている悪業がどういう結果を招いて いくかということが深刻な問題として認識されていま した。生死の苦悩の連鎖から逃れて極楽浄土に往生す るということ、これは切実な願いだったと思われます。 そのような中で、念仏すれば必ず往生成仏し、輪廻の 苦しみを永遠に断ち切ることができるということは、 大変大きな魅力であったに違いありません。 ところが 今ではその基盤となる﹁輪廻転生﹂、 および﹁善困楽 果、悪困苦果﹂の思想、来世にかける常楽の願いなど がほとんど消えてしまっています。それでは浄土を願 }\ 生して成仏をめざすことが切実な問題とならず、聴聞 する動機がなくなってしまいます。 そういう状況が進んでいるのに、真宗のお説教を聞 いておりますと、﹁浄土往生して成仏する﹂というこ とが常に目的でありお話の結論です。それが﹁救われ る﹂ということだとされます。その目的に至るにはど うすればよいか。その方法論として﹁自力と他力﹂の 方法があり、他力の方法がいかに勝れており、 そ れ で なければ往生は実現しないということが説かれます。 ところが浄土に往生したいという、 そのこと自体が切 実な問題になっていないところに、方法論のことばか り説かれでも一向に関心がわかない。ここで説教者と 聴衆との聞が離反するのです。これが中世のように ﹂のままでは地獄に墜ちるかもしれない。私のやって きたことは堕地獄の業であった。自分で色々努力して も、とうてい噴劫の流転から解脱できない。阿弥陀さ まのお救いしか、頼るところはないという認識のある 時には、﹁このような私でも浄土往生の道がある﹂と い う こ と は 、 どれほどか嬉しい、希望に満ちたことで

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はなかったでしょうか。しかし、ちょっと信じられな ぃ。だから、色々な経文や御文を引用して、如来の本 願の確かさをお話される中に、自分は必ず浄土往生で きるのだという確信を得て、喜ばれたのだと思います。 多くの聴衆がお説教を聴きに集った理由は、求めるも のと、与えるものとの一致があったからだと思います。 ﹂ういう聞き方をされる方は現在でもおられ、素晴ら しいことだと思います。これまでの教えの説き方がま ったく機能しないとは言い切れません。 し た が っ て 、 その伝統的方法論を強化すれば、伝道力は回復するの だという見方があります。現在起きている﹁伝統教学 回帰﹂の原理主義的現象はその認識を背景にしている と思います。それは確かに親鷺聖人や蓮如上人におい て構築された伝道教学の純粋性を保持するもので、間 違いであるとは言えません。しかし、 それが機能する 対象が、現代では非常に稀になっており、逆に浄土往 生に接点がない方々がどんどん広がっている、そのこ とが問題なのです。その人々をそのままにした形にな つては、﹁仏法ひろまれ﹂と願われた親驚聖人の意図 現代における真宗伝道の課題 とも反し、伝道教団としての存在意義を否定すること に な り ま し ょ う 。

仏教と時・機相応

仏教は、﹁時機相応﹂の伝道方式を基本とする宗教 です。絶対神を立てる啓示宗教では、神が啓示した真 理は、内容はもちろん、表現された言葉さえも変える ﹂ と は 許 さ れ ま せ ん 。 一方、仏教では、言葉はあくま でも教えを聞くもの ︵ 機 ︶ に対して法の真理を表現し 伝 え る た め の ﹁ 方 法 ﹂ ︵ 方 便 ︶ であると考えますので、 それを伝える方法や表現が異なってくることを当然の こととして認めます。目的は、相手にいかに法の内容 を 間 違 い な く 伝 え 、 その法の働きを効果的に起こさし めるかにあるのです。受けとめる側︵機︶の能力や経 験などが、色々であるからです。しかも時代によって 思想や社会環境が違ってきます。それに対応して法の 伝達がよりよく機能するためには、法の表現の仕方や 教え方が変化していかなければなりません。仏教で、 九

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現代における真宗伝道の課題 ﹁時機相応﹂が重視される理由です。 事実、仏教の歴史をふり返ってみますと、 いかに法 を よ り 正 確 に 、 より広く伝達するかについて努力の跡 がしのばれます。また、その是非をめぐって論争が展 閲されています。早くは、大乗仏教がそれまでの伝統 仏教を批判して成立したのも、龍樹が空の哲学を展開 したのも、禅宗や浄土教が誕生したのも、 みな法の時 機相応を目指してのことです。そのように法の伝達の ために形成された思想体系を﹁教学﹂と呼ぶことがで きょうかと思いますが、﹁八万四千の法門︵教学︶﹂が あ る と 一 一 百 わ れ る よ う に 、 仏 教 は 、 時 ・ 機 に 対 応 し て き わめて柔軟に変化してきました。伝道ということを考 慮 し た 場 合 、 そうした歴史のなかでの仏教の変容は ある意味で必然的な現象といえると思います。 ﹁浄土真宗﹂も、末法時代という時代認識と凡夫救 済という目的のもとに、鎌倉時代にあって親鷺聖人に よって構築された時機相応の教学の一つであると言え ると思います。そうして形成された教学のうちには、 まもなく機能を失って消滅する場合もありますが、そ 四

のまま伝統をたもって、生き続け、機能し続ける場合 もあります。浄土真宗はその最たるものだと言ってよ い か と 思 い ま す 。 し か し 、 その浄土真宗も、約七五

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年 を 経 て 、 今 、 大きな思想環境の変化に出会っています。それに対し てどのように対応すべきか それが問われているので す。浄土真宗が、時機に相応して、大きく変わること も有り得ることですが、それが﹁浄土真宗﹂の基本的 なところまでも変化させて行われるならば、 それはす でに﹁浄土真宗﹂ではなくなります。それは新らしい 仏教体系の誕生です。教団としても今の組織や教学を 継続させることはできません。それでもいい、現代に おける仏法の伝道こそが大事だ 一 度 教 学 を 解 体 し て 、 再構築すればいいという選択もありましょう。 色々の選択肢とそれを選択した場合の可能性が考え られますが、私の結論を言えば、新体系を構築するの ではなく、教学の骨格と現存の教団とを継承しながら しかし時機に対応する教学的﹁補完﹂を行って、伝道 機能の再生を志す道を選択することが、伝統教団に属

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すものとしてのとるべき道ではないかと思います。も っとも、今日の科学時代にあっての思想環境の変化は、 石田慶和氏が警告するように、決して軽視すべきもの ではなく、親鷺聖人が末法を意識されたと同じくらい 重大な変化ではないかと思います。 し か し 、 たとえそ うであっても親鷺聖人によって顕かにされた浄土真宗 は、基本的に現代に応じうる可能性をもっていると考 えるからです。その判断は私自身の浄土真宗への帰属 意識から出た願望でもあり、情緒的と言われかねませ んが、しかし、伝統教団のなかにあるものとしては その選択しかないと思います。

現代における真宗教学の課題

﹁ 補 完 ﹂ と 言 っ て も 、 はたしてそれが可能かどうか、 何をどのようにするのか、現代という時代を見据えて 検証されなければなりません。また、親鷺聖人の教え の﹁骨格﹂といいましたが、それがどのようなもので あるかということも、更めて検証されるべきでしょう。 現代における真宗伝道の課題 ところで、ここで問題になるのは、聖人の教えを、 たとえ再生のためとはいえ﹁補完﹂とか﹁検証﹂とか 言って、距離をおいて検討の対象にするという姿勢で す。浄土真宗の信何の特色は、ただ如来の本願を聞信 するところにあります。この姿勢は、親鷺聖人が師法 然上人に対してとられたものであり、﹃正信偶﹂に﹁唯 可信斯高僧説﹂と示されているところでもあります。 教えの内容を学ぶにしても、聖人の著作の文章に﹁伺 う﹂という姿勢がとられます。批判的に理解して納得 するという﹁仏教学﹂でとられる受けとめかたではあ りません。だから浄土真宗の立場をとりながら、現代 という時代のなかで浄土真宗の教えを﹁検証﹂したり、 ﹁補完﹂したりすることは、自己矛盾をおかすことに なります。不遜にも親鷺聖人の上に立って、 それを検 証しようとする姿勢そのものが、 すでに浄土真宗にふ さわしいものではないからです。 し か し 、 逆 に 言 え ば 、 ﹂こに浄土真宗の教えが、ややもすると教条的になり 時代対応を拒否する原因の一つがあると言えるかもし れません。もっとも、親鷺聖人が行ってこられた教学 四

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現代における真宗伝道の課題 構築のあり方を見るとき、 その過程においてきわめて 批判的な方法がとられていることを見逃すわけにはま いりません。ただ、聖人の信仰の確かさは、権威に追 随した﹁盲信﹂によってではなく、末法の時代を視野 に入れての批判的選択を経て、 はじめて導き出され 確立されたものです。そういう祖師の時機対応の姿勢 と真実を検証する方法論に範をとるとすれば、 よ り よ き伝道の可能性を現代に模索する作業も、あながち祖 師の意に反したものではないであろうと思います。 祖師聖人の著作にてらして、浄土真宗の教えはどの ようなものであるか、言い換えれば、如来の救いの確 かさを明らかにする学問がいわゆる﹁真宗学﹂であり ま し ょ う 。 それが基になって伝道が行われることにな りますが、しかしその結論が必ずしも祖意どおりでな く、社会的状況や解釈者の意図などによって、強調さ れる点や無視される点などが生じ、親鷺聖人のもとも との教えと違ってしまう場合があることを認めざるを えません。たとえば、戦時教学がまったく聖人の教え とは別のものになっていたことを例にあげるまでもな 四 いでしょう。また、親鷺聖人の往生成仏の目的は、仏 となって還相し、思うままに衆生救済の働きをするこ とにあったと伺えますが、従来はこの点はあまり言わ れず、﹁往生樟土﹂で完結するような説き方に終始し ていました。また、﹁信心﹂は﹁智慧﹂であると聖人 は言われ、その智慧が社会の現状を洞察して、﹁度衆 生心﹂となって救済に向かう、信心︵念仏︶ の行者の 利他行発動の構造を明らかにしておられますが、﹁信 心﹂の重要性は強調されても、 その内容が﹁智慧﹂で あ る と い う こ と は 、 ほとんど解き明かされません。こ のようなきわめて重要な教学の側面の無視あるいは看 過は、封建体制のなかで、念仏者が現実の社会の問題 に眼を聞かれ、衆生利益を目的に社会的活動を行うこ とを怖れ、度重なる﹁法度﹂をだして、制限を加えて いたことに起因すると言われます。だから、真宗教学 が﹁来世での楽﹂に焦点を合わせ、 そこに希望をもた せて現実の苦悩を忍受する方向に向くようにされてい るのだというのです。単に来世往生に現実苦からの解 放を期待するという教えは、﹁小乗仏教﹂的と言われ

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るべきもので、親骨聖人が目指された利他行を重視し た ﹁ 二 種 目 向 ﹂ の ﹁ 大 乗 至 極 ﹂ の教えとは似て非なる ものです。視線や社会的環境の違いによって、教えの 内容までも違って解釈されることはありうることです。 親鷺聖人の教学は、もともとどのようなものであっ たのか。親驚聖人が ﹁教行信証﹄を著作され、﹁本願 他 力 ﹂ の教学を構築された動機の一つは、﹁大乗仏教 の菩提心を播去する﹂として非難された法然上人の ﹁ 念 仏 往 生 ﹂ の教えを弁証することにありました。だ から、聖人は徹底して、浄土真宗が大乗仏教であり、 その原則に違うものでないことを明らかにしようとさ れています。浄土真宗の体系は、あくまでも仏教であ り、基本的にそれに還元できる内容であるはずです。 ところが浄土真宗が仏教の原則から遊離し、 ﹁別途の法門﹂と見なされ、仏教本来の教学体系に重 ならない面が強調されるようになりました。このこと いわゆる が浄土真宗を分かりにくくしている理由の一つだと思 います。聖人の原点にかえってその原意を検証しよう とすれば、仏教あるいは大乗仏教の基本に立って明か 現代における真宗伝道の課題 していく教学研究がおろそかにされてはならないと思 い ま す 。 その他にも、親驚聖人の教学にありながら 見落とされていたり、正当に理解されなかったりして そのためにせっかくの親鷺聖人のお心が現代に活きて いない場合があるように思われますが、今は時間の制 限もありますので、これ以上の詮索は省きたいと思い ま す 。 次に申し上げておきたいことは、現代において、浄 土真宗教学に新しく補っていかなければならないこと が あ る と す れ ば 、 どのようなことなのか その幾っか をあげてみたいと思います。 ︵ご象徴的表現について その一つは、特に浄土経典に多く見る﹁象徴的表 現 ﹂ を 、 どのように現代の人々に理解してもらうかの 問題です。たとえば﹁極楽世界﹂は﹁西方十万億土﹂ を過ぎたところにあるとか、﹁花さき、鳥うたう常楽﹂ の世界であるとかの表現です。そのままでは、実在性 を重視する現代人の思考習慣から拒絶されます。もち 凹

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現代における真宗伝道の課題 ろん、宗教的体験の世界は、人間の経験や知識では理 解できない場合があります。 いわゆる﹁不可称・不可 説・不思議﹂と言われる世界です。それを私たちに理 解しやすくするために、あえて象徴的言語表現をとっ ているのだと思います。仏典が﹁指方立相﹂といわれ る象徴的表現をとる所以です。しかし、これでは科学 的思考に慣らされている現代の人々には受け入れ難い。 こうした象徴的表現を、 そのまま受け入れ難いとすれ ば、どのように表現したらいいのか。親鷺聖人は、 た とえば悟りの世界を﹁無上浬繋﹂﹁無為﹂﹁法身﹂﹁法 性﹂﹁実相﹂﹁真如﹂﹁自然﹂などの抽象的概念で表さ れます。それでも分かりにくいことは確かです。仏教 的表現に慣れていない私たちに﹁いろもなく、かたち もない﹂世界をいかに分からせるかは至難のことです が、今の私たちの認識方法のなかで、 かぎりなくその 可能性を探らなければなりません。西欧では非神話化 の試みがなされましたが、浄土教においても、 その過 程を一度通す必要があるように思います。 四 四 ︵ ニ ︶ 科 学 に つ い て 次に、現代の主役をはたしている﹁科学﹂と﹁科学 技術﹂の進歩を、どのように評価し、どのように対応 していくかの問題があります。仏教の﹁如実知見﹂の 観察方法は、基本的に科学のもつ事実認識の方法と重 なるものですから、仏教は啓示宗教であるキリスト教 のように神の真理と矛盾する関係にはありません。人 聞が思いどおりにいかない点を改善して、 人々により 幸せな生き方を実現しようとする願いは、仏典のなか でもしばしば述べられ、仏の願いでもあります。医療 を含む科学技術が、 その実現に貢献していることは否 定 で き ま せ ん 。 しかし、現代の科学と科学技術の進歩 が、必ずしも人間の福祉や幸福そ招かないことに問題 が あ り ま す 。 たとえば、科学技術が殺裁のための兵器 に利用されたり、科学技術を駆使した文明社会が カ 〉 えって基本的な人間の幸せを奪ったりする例は枚挙に いとまがないほどです。それを根拠にして、科学や科 学技術が、人聞を不幸にする元凶だとする見方もあり

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ますが、科学がここまで進歩し、生活を支配している 現状では、科学を人類不幸の元凶とみなして、その根 絶をめざす方向性は、もはや空論でしかありません。 科学を真理を知りたいだけの独立した純粋な知的営為 だとみなす傾向がありますが それが﹁科学技術﹂に 展開するとき人間の問題となってきます。そこに人間 の煩悩が関与してくるからです。しかも、人聞はこの 方法を獲得して、人間知による欲望実現と自己実現に 自信をもちはじめました。人間の知性にマイナスの評 価をして、欲望に駆られた人間の暴走を防ごうとする 仏 教 の 方 向 性 と 、 どのように折り合うことができるか が問題です。親驚聖人が言っておられない問題ですが、 現代では避けて通りえない重要な課題として考えてい く必要がありましょう。 ︵ = 一 ︶ 信 心 へ の 階 梯 に つ い て 親鷺聖人の﹁安心﹂の境地は、二十年間の自力的修 行の後に到達されたものでした。しかし、聖人はそこ に到る過程を﹁自力無効﹂として捨て、結論である 現代における真宗伝道の課題 ﹁ 如 来 の 本 願 を 信 じ て 、 ただ念仏もうす﹂ことの一点 に集約して私たち凡夫に勧められました。その教えを 疑うことなく、念仏もうすことが、私たち真宗者がと るべき道と教えられています。しかし、この前段階を 省いての直接的に絶対他力を信受せよの方法は、浄土 願生の強い精神的土壌があるときならともかく、現在 ではきわめて納得し難いものです。また、当時であれ ば、対極に自力聖道門の教えがありますので、 そ れ と 比較して浄土真宗の易行の特色が分かりゃすかったと 思われます。親鷺聖人が自ら体験して、自力修行の前 段階は無用であるとされたことではありますが、実は その無用なものこそ本願他力の救いの結論に至る過程 として有用なものではないでしょうか。 親鷺聖人と同じように二十年の修行をせよとまでは 言わないにしても、人間的向上をめざす宗教的関心や 努力を、結論の立場から一方的に﹁無効﹂であると否 定するのでなく、それを位置づけ評価しながら、究極 的に親驚の体験に到らしめる方法がとられるべきでは ないでしょうか。その宗教的向上の段階を教育的に設 二四五

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現代における真宗伝道の課題 定することがもはや﹁一文不知﹂でない現代人には必 要のように思われます。すなわち﹁宗教的カリキュラ ム﹂の設定です。人間としての生き方のうちでも宗教 的生き方←宗教のなかでも仏教←仏教のなかでも大乗 仏教←大乗仏教のなかでも本願他力の教え、 という人 間精神の向上を位置づけながら歩むことのできる道を 用意する必要があるのではないでしょうか。 ︵ 四 ︶ 社 会 的 実 践 に つ い て 親鷺聖人の諸著作は いかなる凡夫であっても、本 願を信じ、念仏をもうすとき、信心をめぐまれて正定 衆の身となり、必ず成仏することの確かであることを 学問的に論証するものです。特に﹁教行信証﹄ はそう です。当時、聖人にはそれを果たさなければならない 事情があったので、納得いくことですが、それだけに 信心が生活のなかでどのように発動するのか、念仏者 がどのような心理状態になるのか、生活態度はどのよ うであるべきかなどについての具体的な指摘があまり 見あたりません。念仏者が﹁柔軟心﹂を得ること、 二 四 六 ﹁度衆生心﹂を発揮すること、﹁報思感謝﹂ の心から ﹁仏法をひろめ、世の安穏を願う﹂べきことなどに、 その実践の大体の方向性を知ることができますが、総 体的であって具体的でありません。やはり親鷺聖人に とっては﹁念仏をもうして弥陀にたすけられる﹂とい うことに関心が集中しており、現実生活のあり方は報 思感謝の﹁念仏をもうす﹂ことに集約されていたよう です。そのような教学の特徴から、真宗者は社会的実 践にあまり関心を示さず、社会的関心や倫理性が希薄 なのではないかという批判を受けることが屡々です。 そこで、現代の社会情勢を是正し、社会的活動や倫理 性に積極的に関与しようとすると、﹁自力作善﹂や﹁雑 行雑修﹂を排除しようとする﹁絶対他力﹂の教学の原 則に抵触することになりかねません。また、人間にそ ういう﹁他のためになる﹂などの行為ができるはずが ないという、機の罪悪性の原則に妨げられます。はた して浄土真宗は、社会的実践に身動きできない教えで あったのでしょうか。念仏者の﹁世の安穏﹂を目指し ての積極的行動原理は、浄土真宗の教学に基本的に含

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まれていると思います。それなのに、何か行動しよう とすると、他力の教学のあちこちに抵触して、真宗者 の行動が消極的なところに留まるのは、先に申しまし たように、念仏者の社会的行動を嫌う封建体制からの 制約のもとに、教学解釈が行われていたからではない かという疑いをもちます。親驚聖人の真の願いを伺い なおし、真宗教学のあり方を大乗仏教の原点に還って 検証する必要があるのではないかと思います。 ︵ 五 ︶ 現 代 の 教 相 判 釈 に つ い て ある宗教を選択して、わが人生の指針とするという 決断は、偶然的な場合もありましょうが、多くは諸宗 教の内容を比較検討してなされると思います。特定の 宗教への帰属意識の定っていない無宗教の人々に、浄 土真宗の勝れていることを理解し、選択してもらうに は、この教えがどのように勝れているか、 そ れ が 今 、 なぜ必要とされるのか明らかにされることが必要です。 キリスト教でなく、なぜ仏教なのか。仏教のなかでも、 なぜ浄土真宗なのか。そのような教えの特徴とその優 現代における真宗伝道の課題 劣の比較がまずあって、はじめて人にもその宗教を勧 いわゆる﹁教相判釈﹂が必 要です。親鷺聖人も﹃教行信証﹄において、﹁二双四 めることができるのです。 重の教判﹂や﹁真仮偽判﹂などの形で、浄土真宗がど のような特徴をもち、仏教内の諸教学のなかでも、す べての凡夫に﹁往生浄土﹂を可能にする勝れた教えで ある点を明らかにしておられます。それが ﹁ 教 行 信 証﹂著作の目的であると言ってもいいほどです。しか し、世界的な規模で伝道を行う時代になり、世界の宗 教を対象にしなければならなくなってきた今、 そ の ま までは適用しにくく、現実味がありません。世界の諸 宗教や諸思想、人生観などを対象とした﹁現代の実情 にあった新教相判釈﹂が構築される必要があります。 そして私が属し信じる仏教あるいは浄土真宗が、他の 諸 宗 教 の な か で 、 どのような特徴をもち、 どのように 勝れているかが人々に判別できるようにすることが必 要です。たとえばアメリカでは、上座仏教、禅仏教 チベット仏教などが広まっています。その人々から ﹁浄土真宗とそれらの仏教とはどのように違い、 ど ち 四 七

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現代における真宗伝道の課題 らが勝れているのですか﹂と質問されたとき、答えが 用意されていなければなりません。従来、日本では江 戸時代の﹁寺請制度﹂ で定着した家の宗教があって、 それぞれの宗派がいわば﹁縄張り﹂を守ってきました。 しかし、そうした家の宗教の意識も薄れ、宗教の自由 化が進もうとしています。﹁現代の教相判釈﹂は、 そ うした時代にあって欠かせないものだと言えましょう。 思いつくままに、現代において広く浄土真宗の伝道 をすすめるにあたって検討されるべき点をいくつか指 摘してきましたが、もっともっとあると思っておりま す。決して現状に合わせて、教学を変更せよというこ とではありません。単なる﹁時代迎合﹂と﹁時機相 応﹂とは違います。ブッダや親驚聖人の願いや教えは どのようなものであったかを明らかにし、 その中心軸 を ぶ ら さ ず 、 いかに現代に対応して教えが伝わるよう にしていくか。宗祖の七五

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回大遠忌を迎えるにあた つての緊要な課題としていささか問題提起させていた だきました。ちがったお考えやご批判もあろうかと思 四 }\ います。忌悼のないご意見がいただければ、今後のた めにもありがたく存じます。ご静聴ありがとうござい ま し た 。 平成十七年六月三日、龍谷大学大宮学舎本館にて

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