111
は じ め に
金属でできたものに触れると,冷たく感じる.それに比べて,木製品の おもちゃや家具などは明らかにぬくもりを感じる.これはなぜであろうか.
また,熱いお湯と冷たい水を混ぜると,その中間の温かさのぬるま湯になる ことは経験的によく知っていることである 他方で,私たちの生活の必需品 になっている電気冷蔵庫やエアコンでは逆に,外との熱のやり取りによって 庫内を冷たくしたり,室内を暖かくしたり涼しくしたりして内と外との温度 差をつけている.その仕組みは原理的にはどのように理解できるのであろう か また,どんな工夫をすればより効率の良い冷蔵庫やエアコンを開発でき るのであろうか.熱力学とは,一言でいえば,このような私たちが身の周り で日常的に経験している熱的な現象を定量的に議論する科学の一分野であ る.熱現象そのものは私たちの周囲に普通に見られるので,熱力学は科学的 にも応用上でも非常に重要である.
大学の物理で最初に学ぶ力学では,主として1粒子や2粒子などごく少数 の粒子の運動が問題にされる.巨視的な物体でさえ,質量だけをもっ抽象的 な点である「質点」と見なすことが多い.そのため,カ学では物体の運動状 態やその変化はイメージしやすい. ところが,熱力学ではシリンダーの中の 空気やビーカーの中の水,鉄の塊りそのもののように, 日常的に出会う巨視 的な物体を,質点のように抽象化せずにそのままで「系」と見なす. したがっ て,熱力学で扱う系は非常に多くの原子・分子からできていることが前提と なっており,系全体としての平均的な状態やその変化を定量的に取り扱う.
そのため,力学には出て来ない新しい考え方や用語を使わなければならない 熱力学では系全体の平均的な状態を指定する量を「状態量」といい,温度 や圧力,体積がその例である.この他に重要な状態量として内部エネルギー
『物理学講義熱力学~ (松下 貢 著 / 裳 華 房 )
IV は じ め に
があるが,これは系を構成する数多くの原子・分子のエネルギーの総和であ ると思えばよい.熱力学では これらの状態量の相互の関係を議論する.
熱力学は難しいとよく言われる.その第一の理由は熱の本性に関係する.
熱も温度と同様, 日常的な経験ではよくわかっているつもりでも,科学的に はなかなか厄介である. まず,熱も温度もともに非常に多くの原子・分子が 集まった系でしか意味を成さず 力学にはこれらに相当する概念はない それで、も,問題にしている系が熱いか冷たいかを示す温度は,その系の状態 量であることは常識で、わかる.では,熱はどうか.熱とは.系の温度を上げ 下げするなど,系の状態を変えるために外からする操作,または作業に関わ るエネルギー量である. したがって,系の中に入ってしまえば,熱としての アイデンティティーを失って系の内部エネルギーの一部になるだけである.
すなわち,熱それ自体は系の状態量ではない
それでは熱に関係する系の状態量は何であろうか.確かに温度がその一つ ではあるが,それだけでは足りないことが日常経験からもすぐにわかる.冷 蔵庫からキューブアイスを取り出してコップに入れ,それに水を注ぎかき混 ぜ、て温度を測ると,やがてoocになることがわかる.そして,氷は周囲から 熱を吸収してそのうちに溶けてしまう ところが,よく知られているように,
氷がすっかり溶けて跡形もなくなるまで,温度はoocのままである.すなわ ち,コップの中の水と氷の系では熱を外から吸収して氷がどんどん溶けると いう状態変化が起きているにもかかわらず,温度は変化していない.これは 明らかに熱に関係する系の状態量は温度だけでは不十分であり,別の状態量 が必要であることを示している.そこで導入された状態量がエントロビーで ある.このエントロピーが直観的にわかりにくいことが熱力学を難しくして いる主な原因なので,エントロピーに関しては本文で詳しく説明しよう.
熱力学が難しいといわれる第二の理由は,数学的な議論があまりにも多い からであろう.系の熱力学的な状態が問題となる場合には,その状態を温度 や圧力,体積などの状態量で表すだけでは不十分で,それらを変えたときに
は じ め に V
状態がどのように変化するかまで調べなければならない.そして,それを定 量的に正確に議論するためには,系の状態量のうちのどれかがほんのわずか だけ変化したときに, 他の状態量がどれだけ微小に変化するかを, どうして も問題にしなければならない.すなわち 状態量同士の微分が必須になる. しかもほとんどの場合,偏微分を使うことになる.また,温度や圧力などを 大幅に増減して系の状態を変えたときに いろいろな状態量がどれだけ変わ るかを調べなければならないことも多い.このような場合には大抵,適当な 量を積分しなければならない.理工系の他の分野を学ぶ場合と同様に,熱力 学でも微積分は必須なのである
しかしここでひるんではならない 私たちがこれから学ぼうとしている のは熱力学であって,数学ではない この意味では数学は道具にすぎないの で,当分は詳しくわからなくても使えればよい.道具は使っているうちに慣 れてくるしとても便利なことがわかってくるものである 携帯電話の原理 もハード,ソフトも全く知らなくても,とても便利に使っているではないか.
どうしても数学のことが気になるようなら,使い慣れてからもう一度戻って 考えればいい.実を言うと,偏微分は高校のときから学び始めた微分の中で も,非常に簡単な微分であることが使っているうちにわかってくるはずであ る.ともかく,数学が必要なところではなるべく図を使って,直観的にわか る よ う に 説 明 す る し 道具としての使い方も説明する.結局,最も重要なこ とは熱力学的な考え方の本質を理解することなのである.
本書では熱力学の本質をなるべくわかりやすく説明するように心掛けたつ もりである.また,理解をより容易にするために,随所に例題と問題を散り ばめた.問題は必ずその前に書かれていることに関連しているので,それを 参考にして,まず自分で考えて解いてみることを勧める.すべての問題の解 答を巻末に記しておいたので,参考にしてほしい.
21世紀に生きる私たちの最重要課題はエネルギー問題,環境問題であろ う 実際,私たちはいつの聞にか,ごく普通の生活を続けるのでさえ結構難
VI は じ め に
しくなるのではないかと思わされるようになってきている 例えば, 日頃よ く耳にする言葉をとっても,ヒートアイランド,グリーンハウス効果,グロー パルウォーミングなどがある 私たちは聞こえの良いカタカナ語の見掛けな どにとらわれず,その本質的な意味と重要性を理解した上でこれらの問題の 解決に向けて努力しなければならない.そのためには,熱力学の基本的な考 え方の理解なくして進むことはできない.
初稿の段階で丁寧に原稿を読んでいろいろと貴重なコメントをいただいた 宗行英朗, 山崎義弘の両氏に深く感謝する.もちろん,まだ
しれない誤りなどはすベて筆者の責任でで、ありか'読者諸氏のご指摘により修正 していきたいと思う.遅筆な筆者を暖かく督促し,激励していただいた裳華 房編集部の小野達也,石黒浩之の両氏に心からのお礼を申し上げる.特に,
これからの教科書の在り方についての小野氏の熱意には常日頃感服してい る.その上に,彼のいくつもの具体的な提案で大変お世話になったことをこ こに記して謝意を表する また,乱筆の原稿をMSWord2007原稿にする面 倒な作業をしてくれた妻淑子に感謝したい
2009年 中 秋
松 下 貢
は じ め に VII
本書の流れを図に示しておく.熱力学は日頃経験する常識的な熱の振舞い からスタートするが,科学としてはすっかり体系化された分野である.その ために,初学者として熱力学を理解するためには 途中で横着しないで一歩 一歩着実に学ばなければならない.
本書の流れ